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宇都宮うつのみや頼綱よりつな

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宇都宮うつのみや歌壇かだんから転送てんそう
 
宇都宮うつのみや頼綱よりつな
英雄えいゆうひゃくしゅ』(歌川うたがわ貞秀さだひで
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん うけたまわ2ねん(1178ねん
死没しぼつ せいもと元年がんねん11月12にち1259ねん12月26にち
改名かいめい 頼綱よりつな入道にゅうどうはちすせい
別名べつめい 彌三郎やさぶろう弥三郎やさぶろう
墓所はかしょ 京都きょうと京都きょうと西京にしぎょう さん鈷寺
官位かんい 掃部すけしたがえ検非違使けびいし守護しゅご
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん みなもと頼朝よりともよりゆきじつあさ藤原ふじわらよりゆきけいよりゆき宗尊親王むねかたしんのう
氏族しぞく 藤原ふじわら下野しもの宇都宮うつのみや
父母ちちはは ちち宇都宮うつのみやぎょうつなははたいらちょうもりむすめ
養父ようふ小山こやま政光まさみつ
兄弟きょうだい 頼綱よりつなごうつなえいつな塩谷しおやちょうぎょう
義兄弟ぎきょうだい小山こやま朝政ともまさ長沼ながぬまそうまさし結城ゆうき朝光ともみつ吉見よしみちょうしん
つま 稲毛いなげ重成しげなりむすめ先妻せんさい
北条ほうじょう時政ときまさむすめ梶原かじはら景時かげときむすめ
どきつな秋元あきもとやすしぎょう横田よこたよりゆきぎょうたいつな
益子ましこ政綱せいこう多功たこうむねあさ藤原為家ふじわらのためいえしつ
三条さんじょうみのるぼうしつみなもととおるなりしつ
養子ようし笠間かさまあさ塩谷しおやちょうぎょう次男じなん
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宇都宮うつのみや 頼綱よりつな(うつのみや よりつな)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんきにかけての武士ぶし御家人ごけにん歌人かじん藤原ふじわらせい宇都宮うつのみや5だい当主とうしゅ伊予いよこく守護しゅご歴任れきにん歌人かじんとしても著名ちょめい藤原ふじわら定家さだいえとの親交しんこうあつ京都きょうと歌壇かだん鎌倉かまくら歌壇かだんなら宇都宮うつのみや歌壇かだんきずいた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

うけたまわ2ねん1178ねんごろ宇都宮うつのみやぎょうつなとして誕生たんじょう。そのみなもと頼朝よりとも乳母うばであった寒河そうごあまあづけられ、そのおっと小山こやま政光まさみつ猶子ゆうしとなった。文治ぶんじ5ねん1189ねん)の奥州おうしゅう合戦かっせんきのきよしりょうとうしたがえて従軍じゅうぐん功績こうせきてる。たてひさ5ねん1194ねん)2がつには北条ほうじょうよしとき嫡男ちゃくなん金剛こんごうやすしとき)の元服げんぷく参列さんれつする。

公田くでんかすめりょう騒動そうどう[編集へんしゅう]

たてひさ5ねん1194ねん)5がつ祖父そふ宇都宮うつのみやちょうつな下野しもの国司くにじ野呂のろこうぼうより公田くでんかすめりょうひゃくまち)をうったえられ、朝廷ちょうていによって豊後ぶんごこく国府こくふあずかりの裁定さいていされてしまう。これは、征夷大将軍せいいたいしょうぐんでもなかったみなもと頼朝よりともが、名目めいもくじょうでは自身じしんのみの采配さいはいでは配下はいかへの扶持ふちひとし決裁けっさいできなかった時期じきに、朝廷ちょうてい決裁けっさいあおがず頼朝よりとも単独たんどく部下ぶか所領しょりょう配分はいぶんおこなってしまったためにきた騒動そうどうであり、頼朝よりともはこのけん大変たいへん憂慮ゆうりょしたとわれている。鎌倉かまくら勢力せいりょく行動こうどうともにしていた頼綱よりつな関東かんとう武人ぶじんたちは、名目めいもくじょう朝廷ちょうてい直接ちょくせつつかえるであったとはいえ、実際じっさいにはみなもと頼朝よりともぜい意向いこうしたがって行動こうどうしており、実質じっしつ朝廷ちょうてい命令めいれいであってもそれにじつ効力こうりょくあたえていたのはみなもと頼朝よりともであったことから、一説いっせつによると頼綱よりつならは頼朝よりとも意向いこうしたが配流はいるにはおもむかなかったともわれている。

いずれにせよ、頼朝よりともはたらきかけにより頼綱よりつな早々そうそう赦免しゃめんされ、おなじく赦免しゃめんされた祖父そふあさつな出家しゅっけして下野げや尾羽おは[1]にて隠居いんきょ生活せいかつおくることとなり、このとき頼綱よりつな宇都宮うつのみやいだものとかんがえられる。頼朝よりとも死後しご頼綱よりつな正治しょうじ元年がんねん1199ねん)6がつ夭逝ようせいした頼朝よりとも次女じじょ乙姫おとひめ葬儀そうぎ供奉ぐぶし、その10月には有力ゆうりょく御家人ごけにんとも梶原かじはら景時かげときへん景時かげとき弾劾だんがい参加さんかしている。その元久もとひさ元年がんねん1204ねん)ころ、伊予いよこく守護しゅごしょくあたえられた。

まきへん[編集へんしゅう]

元久もとひさ2ねん1205ねん6月22にち畠山はたけやま重忠しげただらん畠山はたけやま事件じけん)がきる。このさい頼綱よりつな北条ほうじょうがわくみしてこうげた。しかし同年どうねんうるう7がつ頼綱よりつなしゅうとにあたるまきほう北条ほうじょう時政ときまさが3だい将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねとも殺害さつがいはかったまきへん発生はっせいし、よく8がつには頼綱よりつな自身じしん謀反むほん嫌疑けんぎをかけられる。8月7にち頼綱よりつな一族いちぞくろうしたがえひきいて鎌倉かまくら参上さんじょう謀反ぼうほんくわだてているとの風聞ふうぶんがあり、北条ほうじょうよしとき大江広元おおえのひろもと安達あだち景盛かげもりらが北条ほうじょう政子まさこやしきあわし、小山こやま朝政ともまさして評議ひょうぎおこなわれた。そのせき大江広元おおえのひろもと頼綱よりつな非道ひどう将軍家しょうぐんけたいする不忠ふちゅうについて指摘してきし、小山こやま朝政ともまさ頼綱よりつな追討ついとうするよう主張しゅちょうしたが、朝政ちょうせい頼綱よりつな義理ぎり兄弟きょうだいであること理由りゆうにその追討ついとうことわったため、頼綱よりつな鎌倉かまくら政庁せいちょうによる追討ついとうからはのがれられた。8月11にち頼綱よりつな朝政ちょうせいかいして鎌倉かまくら政庁せいちょう書状しょじょうおく謀反むほんいことを陳述ちんじゅつ、そのの8がつ16にちには下野げやにおいて出家しゅっけするにいたった。このおり一族いちぞくろうしたがえ60余人よにん出家しゅっけしたとつたえられている。8月17にち頼綱よりつな宇都宮うつのみやって鎌倉かまくらかい、8がつ19にち鎌倉かまくら到着とうちゃく北条ほうじょうとくむねいえ面会めんかいもとめるがいち拒絶きょぜつされる。そこで一族いちぞく結城ゆうき朝光ともみつかいしてけんじかみ陳謝ちんしゃあらわしてじつ信房のぶふさはちすせい(じっしんぼうれんじょう)とごうし、きょう嵯峨野さがの小倉こくら山麓さんろくあんもうけて隠遁いんとんしたとわれる。頼綱よりつな出家しゅっけのち頼綱よりつなとうすべ幼少ようしょうであったため、おとうと宇都宮うつのみやちょうぎょう宇都宮うつのみや代表だいひょうして幕府ばくふ出仕しゅっしすることとなる。

出家しゅっけ[編集へんしゅう]

頼綱よりつなはその法然ほうねん弟子でしあかしむなし師事しじしたが、たてたもつ2ねん1214ねんごろまでには鎌倉かまくら政庁せいちょうゆるしを、5月には園城寺おんじょうじ改修かいしゅう拝命はいめい山王さんのうしゃおよ拝殿はいでん修復しゅうふくつとめている。浄土宗じょうどしゅう帰依きえしたころよりその潤沢じゅんたく財力ざいりょくをもってきょう常盤ときわ宇都宮うつのみや桐生きりゅうなどに念仏ねんぶつどうあん)をて、その由緒ゆいしょ現在げんざいもそれぞれ光明寺こうみょうじりゅう西方寺せいほうじ」、宇都宮うつのみや清巌寺せいがんじ」、桐生きりゅう西方寺せいほうじ」としてがれているとわれる。けん4ねん1216ねん)、頼綱よりつな伊賀いがこく壬生みぶしょう地頭じとうしょう春日大社かすがたいしゃりょうを押領していると、興福寺こうふくじそうしんけん朝廷ちょうていかいして鎌倉かまくら政庁せいちょううったえてたが、幕府ばくふ訴訟そしょう範疇はんちゅうでないため記録きろくしょ示談じだんされた。

うけたまわひさし3ねん1221ねん)6がつ承久じょうきゅうらんきたが、頼綱よりつな鎌倉かまくら留守居るすいつとめた。また、よしみろく2ねん1226ねん)には北条ほうじょうやすしとき要請ようせいによって、たいまご北条ほうじょう経時きょうじだい4だい執権しっけん)と頼綱よりつな孫娘まごむすめ婚約こんやく実現じつげんするが、婚姻こんいん実現じつげんからあいだもないひろしもと3ねん1245ねん)に孫娘まごむすめ子供こどもいまま15さい早世そうせいし、翌年よくねんには経時きょうじ病死びょうししてしまった[2]けんちょう2ねん1250ねん)3がつきょう閑院殿どの改築かいちくさいし、その造営ぞうえいざつてのひら西にしふう当番とうばんとなる。

よしみろく3ねん1227ねん)に発生はっせいしたよしみろく法難ほうなんさいには、延暦寺えんりゃくじ僧兵そうへいから法然ほうねん遺骸いがいまもるために、はちすせい頼綱よりつな)のほかおとうとである信生のぶお塩谷しおやちょうぎょう)、ほうおもねひがしたねよりゆき)、みちべん渋谷しぶや七郎しちろう)などの出家しゅっけしゃろく探題たんだい武士ぶしだんらとともに、東山ひがしやま法然ほうねん廟所びょうしょから二尊院にそんいんまでの遺骸いがい移送いそう護衛ごえいにあたった。

また、同族どうぞくである藤原ふじわら定家さだいえ親交しんこうあつく、むすめをその嫡男ちゃくなんであるためとつがせている。ため安貞やすさだ元年がんねん1227ねん信濃しなのこく知行ちぎょう国主こくしゅになると、東国とうごく事情じじょうあかるい頼綱よりつな定家さだいえため親子おやこ相談役そうだんやくとして信濃しなのこく統治とうちかんする助言じょげんおこなっている[3]。また、定家さだいえ鎌倉かまくらにいた頼綱よりつなつま時政ときまさむすめ)から異母いぼあねである北条ほうじょう政子まさこ死去しきょほうろく探題たんだいよりもさきけて、西園寺さいおんじこうけい対応たいおう協議きょうぎしている(『明月めいげつよしみろく元年がんねん7がつ17にち20日はつかじょう[2]

せいもと元年がんねん1259ねん11月12にちきょうにて死去しきょ享年きょうねん82。その遺言ゆいごんによりきょう西山にしやまさん鈷寺あかしむなしはかがわほうむられたとされる。現在げんざい、このぜんみねてらのほか、栃木とちぎけん宇都宮うつのみや清巌寺せいがんじどう芳賀はがぐん益子ましこまち地蔵じぞういんにも墓碑ぼひがある。

歌人かじん[編集へんしゅう]

頼綱よりつなちちはは祖母そぼゆずりで歌人かじんとしてもすぐれており、同族どうぞくである藤原ふじわら定家さだいえ親交しんこうふかめ、宇都宮うつのみや歌壇かだん京都きょうと歌壇かだん鎌倉かまくら歌壇かだん比肩ひけんするほどの地位ちいげ、これらをわせて日本にっぽんさんだい歌壇かだんわしめるいしずえきずいた。『明月めいげつ』のよしみただし元年がんねん1235ねんうるう6がつ20日はつか記事きじには、京都きょうと宇都宮うつのみやてい位置いち記録きろくされており、現在げんざい四条しじょうどおりの一筋ひとすじきたにしき小路こうじ新京極しんきょうごくとおりのやや西にし富小路とみこうじまじわったあたりであることが判明はんめいしている。そして藤原ふじわら定家さだいえ京極きょうごくていはその北東ほくとうやく1.5kmきろめーとるじゃくじょう寺町てらまちにあったため、頼綱よりつな定家さだいえ関係かんけい親密しんみつさをし、ていいえ藤原為家ふじわらのためいえ頼綱よりつなむすめとついだ。2人ふたりあいだには御子みこひだり嫡流ちゃくりゅう二条にじょう為氏ためうじ京極きょうごくためきょうまれており、ためさだおう元年がんねん1222ねんまれのため、婚姻こんいんとしはそれ以前いぜんかんがえられる[4]

ひろし元年がんねん1229ねん)には、藤原ふじわら定家さだいえ藤原家隆ふじわらのいえたか2人ふたり歌人かじんが、宇都宮大うつのみやだい明神みょうじん二荒ふたあらさん神社じんじゃ)で神宮寺じんぐうじつくったときにふすまかざ障子しょうじとして、大和やまとこく名所めいしょじゅうしゅ色紙いろがみいておくっている[4]

よしみただし元年がんねん1235ねん)のなつに、定家さだいえ頼綱よりつな依頼いらいされて、京都きょうと西にし郊外こうがい嵯峨さが中院なかのいん頼綱よりつなてた山荘さんそう障子しょうじ色紙いろがみいておくっている。百人一首ひゃくにんいっしゅは、このさい定家さだいえ選定せんていしてもらった和歌わか98しゅをそのふすまとしてかざったことにはじまるといわれている[4]

じゅうさんだいしゅう宇都宮うつのみや歌壇かだん歌集かしゅうである『しん和歌集わかしゅう(しんまるわかしゅう)』には頼綱よりつなやその子孫しそん作品さくひん多数たすうおさめられている[4]

また、個人こじん歌集かしゅうにおいても、頼綱よりつなおとうと塩谷しおやちょうぎょう信生のぶお)の『信生のぶお法師ほうししゅう』、ちょうぎょう笠間かさまあさの『ぜん長門ながと守時もりときちょう入京にゅうきょう田舎いなか聞集(さきのながとのかみときともにゅうきょういなかうちぎきしゅう)』、頼綱よりつなまご宇都宮うつのみや景綱かげつなはちす瑜)の『沙弥さやはちす瑜集(しゃみれんゆしゅう)』がのこされているほか、横田よこたよりゆきぎょう頼綱よりつな二男じなん)、八田はった頼綱よりつな祖父そふあさつなおとうと八田はったとも)、たけしげるたいむね景綱かげつな三男さんなん)が勅撰ちょくせんしゅうなどにのこしている。こうした人々ひとびと中心ちゅうしん歌会うたかい宇都宮うつのみやかさあいだなどでもよおされ、宇都宮うつのみや歌壇かだんしょうされる鎌倉かまくら地方ちほう歌壇かだん盛況せいきょうせた[4]

頼綱よりつな自身じしん和歌わかは、『しん和歌集わかしゅう』に59しゅおさめられているのをはじめ、『しん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう』(3しゅ)、『つづけせん和歌集わかしゅう』(6しゅ)、『ぞく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』(6しゅ)、『しんせん和歌集わかしゅう』(6しゅ)などの勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうには39しゅえらばれており、重複じゅうふくのぞくとやく90しゅほど現存げんそんする[4]

しん和歌集わかしゅう[編集へんしゅう]

宇都宮うつのみや一族いちぞくなかには、頼綱よりつな定家さだいえとの親交しんこうのように、文化ぶんかじんとの交流こうりゅうもあり、おおくの歌人かじんまれた。そうした宇都宮うつのみや一族いちぞく和歌わか中心ちゅうしんにまとめられたのが『しん和歌集わかしゅう(しんまるわかしゅう)』である。名前なまえ由来ゆらいは、二荒ふたあら山神さんじんしゃつたわる寛文ひろふみ12ねん1672ねん)の写本しゃほん奥書おくがきに、二条にじょう為氏ためうじ宇都宮うつのみや下向げこうして、そのさい編纂へんさんされた和歌集わかしゅうもとは『新式しんしき和歌集わかしゅう』とったが、ある事情じじょうがあっていちのぞかれ「しん和歌集わかしゅう」となったとしるされている[4]

しん和歌集わかしゅう』は藤原ふじわら定家さだいえ頼綱よりつなまごにあたる二条にじょう為氏ためうじせんによるとされ、186にんの875しゅおさめられています。頼綱よりつなせいもと元年がんねん1259ねん)11月12にち)の直前ちょくぜんせいもと元年がんねん(1259ねん)9がつごろに完成かんせいされたとかんがえられ、はちすせいの59しゅをはじめ、信生のぶお塩谷しおやちょうぎょう)、はちす瑜(宇都宮うつのみや景綱かげつな)などの宇都宮うつのみや一族いちぞくくわえ、源実朝みなもとのさねとも定家さだいえため親子おやこなど、京都きょうと鎌倉かまくら代表だいひょうする歌人かじんつらねており、宇都宮うつのみや一族いちぞく文化ぶんかレベルのたかさや人脈じんみゃくひろさをしめしている[4]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ げん栃木とちぎけん芳賀はがぐん益子ましこまち尾羽おは
  2. ^ a b 田渕たぶち美子よしこ ちょ「『百人一首ひゃくにんいっしゅ』の成立せいりつをめぐって」、江田えだ郁夫いくお へん中世ちゅうせい宇都宮うつのみや 一族いちぞく展開てんかい信仰しんこう文芸ぶんげいえびすひかりさち出版しゅっぱんえびすひかりさち中世ちゅうせい論集ろんしゅう だい9かん〉、2020ねん1がつISBN 978-4-86403-334-3 
  3. ^ 山本やまもと隆志たかし関東かんとう武士ぶし在京ざいきょう活動かつどう-宇都宮うつのみや頼綱よりつな-を中心ちゅうしんに」『ふみしおしん40ごう歴史れきし学会がっかい、2006ねん。/改題かいだい所収しょしゅう:関東かんとう武士ぶし都鄙とひ活動かつどう-宇都宮うつのみや頼綱よりつな-」『東国とうごくにおける武士ぶし勢力せいりょく成立せいりつ発展はってん思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねんISBN 9784784216017 
  4. ^ a b c d e f g h 宇都宮うつのみや宇都宮うつのみや歴史れきし文化財ぶんかざい 歴史れきし文化財ぶんかざい 資料しりょうアーカイブ 宇都宮うつのみや人物じんぶつでん 百人一首ひゃくにんいっしゅゆかりの武将ぶしょう 宇都宮うつのみや頼綱よりつなはちすせい)(うつのみや よりつな/れんしょう)[1]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]