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秦始皇 - 维基百科,自由的百科全书

はたはじめすめらぎ

中国ちゅうごくはたちょう开国皇帝こうてい中国ちゅうごく史上しじょう首位しゅい皇帝こうてい

はたはじめすめらぎぜん259ねん2がつ18にちまえ210ねん7がつ11にち[まいり1]),嬴姓赵氏めいせい,时称赵政あるしょう赵正),多作たさくはた王政おうせいある始皇帝しこうていせき嬴城いまやま东省济南莱芜[まいり2][まいり3][まいり4][まいり5]なま赵国首都しゅと邯郸いま河北かわきた邯郸),秦庄はたのしょうじょうおう赵姬之子ゆきこ[4]しょうあさ重臣じゅうしん恶来てきだい35せい孙。出土しゅつど北京ぺきん大学だいがくぞう西にし汉竹书だいさんかん中称ちゅうしょう其为赵正とうだいつかさ马贞ざいふみ记索隐》引述《ほんしょう其为赵政[ちゅう4][まいり6]曹植ぶんみかど诔》最早もはやたたえ始皇帝しこうてい嬴政[まいり7]きさき通称つうしょう嬴政,またぼう文学ぶんがく作品さくひんしょう为“[ちゅう5]战国末期まっきはたこく君主くんしゅじゅうさん即位そくいさききさき铲除嫪毐あずか吕不韦,并重用じゅうようじょうさんじゅうきゅう岁时灭亡ろくこく建立こんりゅうはたちょう自称じしょう始皇帝しこうてい”,五十岁出巡时驾崩[まいり8]在位ざいいさんじゅうななねん

はたはじめすめらぎ
秦始皇
きさきじん想像そうぞうちゅうてきはたはじめすめらぎ肖像しょうぞう
はたちょうだい1皇帝こうてい
统治ぜん221ねん9がつ10日とおかまえ210ねん7がつ11にち[1](11ねん61てん
继任はたせいえびす
はたこく国王こくおう
统治ぜん247ねん7がつ6にち[2]まえ221ねん
前任ぜんにん秦庄はたのしょうじょうおう
出生しゅっしょうぜん259ねん2がつ18にち[ちゅう1][3]
赵国邯郸じょう
逝世ぜん210ねん7がつ11にち(49岁)[ちゅう2][1]
はたちょう钜鹿ぐんしんすなおか平台ひらだいいま河北かほくしょう邢台广宗县
やすそう

扶苏公子こうしはた公子こうしだかえびす
年号ねんごう
尊号そんごう
始皇帝しこうてい[ちゅう3]
せいはたちょう
ちち秦庄はたのしょうじょうおう
はは赵姬

はたはじめすめらぎ中国ちゅうごくうえだいいち使用しよう皇帝こうてい称号しょうごうてき君主くんしゅ[まいり9]。统一天下でんかきさきはたはじめすめらぎ继承りょうしょう鞅变ほうてきぐん制度せいど中央ちゅうおうしゅう[まいり9],统一度量衡どりょうこう,“车同轨,书同文どうぶんぎょうどう[まいり10]”及典章てんしょう法制ほうせい[まいり8],奠定りょう中国ちゅうごく政治せいじ史上しじょう两千ねん专制政治せいじかくきょく明代あきよ思想家しそうかほまれ为“千古せんこいちみかど”。ただし另一方面ほうめんはたはじめすめらぎ在位ざいい间亦进行项大がた工程こうてい包括ほうかつおさむ长城阿房あほう骊山りょうひとし施政しせいきゅう躁,れい人民じんみん徭役过重,はたちょうざいきさき3ねん迅速じんそく灭亡てき重要じゅうよう原因げんいん

始皇帝しこうてい(《说文》小篆しょうてん

称呼しょうこ

はたはじめすめらぎ统一ろくこくきさき,认为过去“すめらぎ”、“みかど”、“おうとう称号しょうごう不足ふそく以显しめせ自己じこ崇高すうこうてき地位ちいいん而创づくり皇帝こうてい”这个しん头衔授予自己じこ自称じしょう始皇帝しこうてい[まいり11]

  • はじめゆう最初さいしょくびてき意思いし[まいり1]はたはじめすめらぎ希望きぼう自己じこてききさき继者沿称“せい皇帝こうてい”、“さんせい皇帝こうてい”,以至まんせい传之无穷[5][まいり12]
  • 皇帝こうていいち词主よう引用いんようさんすめらぎみかどてきかみ话传说[まいり13],从中抽取“すめらぎみかど结合而成。はたはじめすめらぎ显然希望きぼうとおる过这个头衔,以示自己じこ逊于みかどてき地位ちいかずたけしもち[まいり14]
  • すめらぎてき意思いしゆびだい[ちゅう6]ある“辉煌”[ちゅう7]通常つうじょう古代こだい中国人ちゅうごくじん对“てんにわてきしょう[ちゅう8],如皇てんすめらぎ穹(ゆび天帝てんていとう[まいり15]
  • みかどてき意思いしゆび天帝てんてい”、“上帝じょうてい[ちゅう9]古人こじん想像そうぞうちゅう宇宙うちゅうまん物的ぶってき主宰しゅさい

自称じしょう皇帝こうてい”,为了显示其至だか无上てき地位ちい权威,上天じょうてん给予てきそく受命じゅめい于天”,反映はんえいりょう并不满足仅仅做一个人间的统治者[まいり11]

はた始皇帝しこうていかず始皇帝しこうていてきしょう谓,しゅ见于西にし汉太おおやけつかさ马迁著作ちょさくてきふとしおおやけ书》,そくふみ》,其中“はた始皇帝しこうてい出自しゅつじはたほん纪》[まいり16],而“始皇帝しこうてい”则出自しゅつじはたほん纪》及《はたはじめすめらぎほん纪》[まいり16][まいり17]よし于秦はじめすめらぎくびはたすめらぎかずみかど”两个结合おこりらい此秦はじめすめらぎてき正式せいしきしょう谓应为“はた始皇帝しこうてい[まいり18]

早年そうねん生活せいかつ

ひと质之

 
邯郸はたはじめすめらぎ雕像

嬴政ざいはたあきらおう四十八年正月生于邯郸,ちち亲是はた公子きみこ异人ゆう一说其真实生父为吕不韦),はは亲是赵姬

よしはたあきらじょうおうさいようりょう范睢远交きんおさむ[6]てき战略,はたきんおさむてき对象选定为邻こく韩国こく,而和较远てき赵国とま战。按照とう时的惯例,はた两国需要じゅよう互换ひと质子)以示诚。しんこくいた赵国てき质子はたはじめすめらぎてきちち亲异じんまた名子なごすわえそく秦庄はたのしょうじょうおう),异人とう时是はたあきらじょう王立おうりつ太子たいしてき安国やすくにくんそくはた孝文たかふみおう[7]てき其中いち个庶。异人ゆう20兄弟きょうだい[8]じょうてきはは亲夏ひめ受安こくくん宠爱[9]いん此他继承王位おういてきつくえかい很低。さら不幸ふこうてきゆかり于秦赵两こくやめ发生数次すうじてき军事冲突,いん此异じんざい赵国てき待遇たいぐう并不このみ[10][まいり19]

异人就这样成为赵国まとじん质,ただしこれ濮阳だい商人しょうにん吕不韦却改变他晚年ばんねんてきいのち[11]。吕不韦有远大てき政治せいじだき负,觉得异人“货可きょ”,很快なりりょう异人てき朋友ほうゆうとう时异人的じんてきちち安国やすくにくん储君,华阳夫人ふじん储君てき正室せいしつただし华阳夫人ふじん无子,吕不韦便亲自ゆう说华阳夫じんおとうと阳泉くん[12]ゆびしんおうねんごとやめだか也可能登のと,一登位必重用士仓,阳泉くんてき权势就会けむりしょううん[13]。阳泉くんだい惊下问计于吕,吕不韦ゆび异人才德さいとくけん备,惜没ゆうはは亲在宫中ひさし护。华阳夫人ふじんわかのう说动安国やすくにくんりつ异人为太子たいし,异人肯定こうていかいかんねん华阳夫人ふじんてきおんとく[14]

阳泉くん吕不韦说服,同意どういゆう说华阳夫じん,她便要求ようきゅう赵国はた异人かえししんこく[15]

安然あんねんかえししん

异人てきかえししんみち并非いち风顺,ゆかり于赵こくまこと异人かえしこく,吕不韦不とく亲自ゆう赵孝なりおうゆびしんこくかいいん为一个质子而放弃攻赵,ただしわかあつれいしょうおく异人かえしはたのぼるじょう王位おうい便びん以赢とく未来みらいしんおうてきとも谊,而且吕不韦更しょう现时はた孝文たかふみおうねんごとやめだか一旦いったん驾崩,赵国つきかん以异じん为质,しんこく也随时可以另りつしんおう,赵国ただかいいち所得しょとくさい终赵おう同意どうい异人かえしこく[16]

かえししんきさき,吕不韦便让异じん穿ほじちゃくすわえふくはい见王きさきおうきさきだいえつ并替异人改名かいめい为“すわえ”,しょうすわえ[17]。其后すわえざいしんおう面前めんぜんてん自己じこてきざい[18]はた孝文たかふみおうだいえつざい丞相じょうしょう面前めんぜんしょう儿子们没じんとくじょうすわえどう时在华阳おうきさき劝说将子まさこすわえりつ太子たいし[19]

はた孝文たかふみおう在位ざいい时间很短,さきふくいちねん正式せいしきしょうおうきさき仅仅さんてん便びん驾崩,享年きょうねん54岁。ずいきさき太子たいしすわえ即位そくい,也就秦庄はたのしょうじょうおう任命にんめい吕不韦为丞相じょうしょうけんふう文信ふみのぶこう,赐食邑蓝じゅう[20],并继续秉承“远交きんおさむてき国策こくさく,对さんすすむ(韩赵さんこく)开战,以确りつしんこくてききょう势地[まいり19]过庄じょうおう在位ざいい时间也不长,さんねんきさき便びん驾崩,享年きょうねん35岁,时年13岁的嬴政いん而正しきすわうえしんおうてきたから[まいり20]

すえふみ记·はたはじめすめらぎほん》记载:“はた始皇帝しこうていしゃ秦庄はたのしょうじょう王子おうじ也。しょうじょうおう为秦质子于赵,见吕韦姬,えつ而取なまはじめすめらぎ。以秦あきらおう四十八年正月生于邯郸。”,はた王政おうせい秦庄はたのしょうじょうおうすわえあずか赵姬所生しょせいただしふみ记·吕不韦列传》却记载:“吕不韦取邯郸诸姬绝好ぜんまいしゃあずかゆうすわえ从不韦饮,见而说之,いんおこり为寿,请之。吕不韦怒,ねん业已やぶいえ为子すわえよく以钓,乃遂けんじ其姬。ひめ匿有至大しだい时,生子おいごせいすわえとげたてひめ为夫じん。”,吕不韦将赵姬馈赠给子すわえ时,やめ经知どう她怀孕,またそく说嬴せい很有可能かのう吕不韦的私生子しせいじ。东汉史家しかはんかたまた引用いんよう此说ほうざいてき著作ちょさく汉书中称ちゅうしょう嬴政为吕韦之私生子しせいじ[21]

货可きょてき故事こじさく为秦はじめすめらぎ嬴政てき主要しゅよう证明,ふん别记载在《战国さく》及《ふみ记·吕不韦列传》ちゅうただしそく使つかい同一どういつ故事こじざい细节じょう仍有しょう出入でいり,现摘录下ひょう如下:

细节 ふみ记》版本はんぽん 《战国さく版本はんぽん
吕不韦的せき 阳翟じん[22] 濮阳じん[11]
吕不韦与すわえてき初次はつじかいめん はたあきらじょうおう在位ざいいきさき はた孝文たかふみおう在位ざいい
吕不韦游说对ぞう 华阳夫人ふじん[23]ひさげはた孝文たかふみおう之子ゆきこ 华阳夫人ふじんおとうと阳泉くん[12],并提及若はた孝文たかふみおう之子ゆきこ傒登,必重用じゅうよう仓,阳泉くんてき权势就会けむりしょううん[13]
すわえかえししん经过 于邯郸之围期间逃亡とうぼう赴秦[24] 吕不韦成功せいこうゆう赵孝なりおう使つかい其放すわえ回国かいこく[16]
吕不韦所ふうしょく 河南かなん雒阳じゅうまん[25] 蓝田じゅう[20]
吕不韦献ひめ一事いちじ ゆう详细记载 ぼつゆう记载

历代史家しかひとしあいしんじふみ记》しょ载,其中以清じんりょうたま为之辩论さいちからただしはり却跟很多文人ぶんじん包括ほうかつ明人あきとおう[ちゅう10]及汤聘尹[ちゅう11]いち样,质疑“韦献匿身ひめてき说法;ざい他所よそちょてきふみ记志うたぐちゅうすえからはつあな颖达春秋しゅんじゅうひだり注疏ちゅうそしょうん:“じゅうがつ而产,妇人だい”,ただしふみ记》却以じゅうがつさくだい,此外また指出さしでわか赵姬あしがつ就生嬴政,すわえ绝无不知ふちてき道理どうり,而且修史しゅうし很多时候ふく务于政治せいじ,为了证明本朝ほんちょうとく“顺天应人”,对前あさ故事こじ总有きょく笔、污蔑やめしんせい存疑そんぎゆかり于汉承しん祚、恶尽归秦,つかさ马迁总不能ふのう公然こうぜんざい书中翻案ほんあん此特记下せいはたはじめすめらぎてき年月としつきいたり一般いっぱん人相にんそうしんじ韦献匿身ひめ一事いちじ应为误读《ふみ记》てき缘故[ちゅう12]こぼし译《吕氏春秋しゅんじゅうてき外国がいこく学者がくしゃ约翰·诺伯らくかつJohn Knoblock教授きょうじゅ及杰どるみず·みず杰尔(Jeffrey Riegel教授きょうじゅ认为这种说法よう以诽谤秦はじめすめらぎ及吕[まいり21][まいり22],而按あきら现代学理がくり论,“吕不韦生ちち论”ちゅうしょ谓的赵姬“怀胎じゅう个月”,根本ねもと不可能ふかのう成立せいりつ,这是いん为人类的妊娠にんしん时间ただゆう266てん不足ふそくきゅう个月)[まいり23]

近代きんだいさきしん名家めいか马非ひゃくただし质疑“韦献匿身ひめ”,さらゆびふみ记》ちゅう货可きょてき版本はんぽん实属伪造,其中さい重要じゅうよう一点是吕不韦封邑的记载。すえ《汉书·地理ちりこころざししょげんはただい并无河南かなんこれめいしょうじょうおうもと年初ねんしょおけ三川さんかわぐんいたり高祖こうそ时,はじめ改名かいめい河南かなんぐん[26]。吕不韦之さい邑显しかかい河南かなんぐん,而是《战国さくしょ记载てき“蓝田じゅう县”。此外,马非百指司马迁在记述六国史事时,多数たすう引用いんよう《战国さく》,おもんみどく货可きょ”一事别据他说,れいじんかい[まいり24]。此外,“韦献匿身ひめ一事いちじただざいふみ记》记载,并没ゆう其他どう时代てき文献ぶんけん记录,按照郭沫若かくまつじゃくざいじゅう批判ひはんてき说法,ざい史学しがくじょうぞく于“证”,しんせいなりうたぐ[まいり19]

另一方面ほうめん郭沫若かくまつじゃくまたざいじゅう批判ひはんひさげ及其疑点ぎてん[まいり19]

  1. 韦献匿身ひめ一事いちじあずかはるさるくんはた怀有孕的これいもうとけんじ给无てきすわえこうれつおうてきじょう雷同らいどう,过于たくみごう
  2. ふみ记·吕不韦列传》またゆうすわえ夫人ふじん赵豪おんな说,显然あずか前文ぜんぶん“赵姬乃邯郸诸ひめ绝好、ぜんまいしゃあい矛盾むじゅん

即位そくい

 
ふみ记·まきろく·はたはじめすめらぎほん纪》せきこくほん

嬴政即位そくい当年とうねんすすむ发生叛乱はんらんきさきはたすすむこうむ迅速じんそく平定へいてい[27]

よし于年龄尚ようてき关系,嬴政尊称そんしょう相国しょうこく吕不韦为なかちち主持しゅうもち国政こくせい[28],以蒙骜、おう𬺈麃公とう为将军[29]

とう时各诸侯こくてき贵族为了巩固其政治せいじ地位ちい都会とかい专门招收人才じんさい。凡是とう奔到其门てきみなおさむとめらい并供养他们,这些きょう养的じん一般いっぱんしょう为“食客しょっきゃく”,きょう养食きゃく众多めい扬天てき,则以战国よん公子こうしこくしんりょうくん、赵国平原ひらはらくん、齐国はじめ尝君及楚こくはるさるくん)为首。吕不韦自地位ちい巩固きさきかん叹以はた国之くにゆききょう居然きょぜんざい养士方面ほうめん如战こくよん公子こうしいん此亦大力だいりき招揽食客しょっきゃく,并重きむあや聘许ゆうがく问的じん,其门食客しょっきゃくいちさんせんにん[30]さら授意自己じこてき食客しょっきゃく编撰《吕氏春秋しゅんじゅう》,うつしなりはち览、ろく论、じゅう纪,きょうじゅう万言まんげん[31][まいり19]

すえ日本にっぽん就实大学だいがく综合历史がくけい开元教授きょうじゅてき分析ぶんせきとう时秦こくてき国政こくせい完全かんぜん掌握しょうあくざいさんだい外戚がいせき势力手中しゅちゅうふん别是以嬴せいてき养祖はは华阳夫人ふじん代表だいひょうてきすわえけい外戚がいせき,嬴政真正しんせい祖母そぼなつひめ代表だいひょうてき韩系外戚がいせき[ちゅう13],以及嬴政生母せいぼ赵姬为代表だいひょうてき赵系外戚がいせき,这三大外戚势力的倾轧,深刻しんこくかげ响嬴せい即位そくい初期しょきてき历史[まいり25]

なり蟜叛变

なり[ちゅう14]秦庄はたのしょうじょうおう之子ゆきこ,嬴政おとうと,其生母せいぼゆう可能かのう祖母そぼなつひめ代表だいひょうてき韩国けい外戚がいせきてきぞくじん[まいり25][ちゅう15]ふう长安くん

おおやけもとまえ239ねんはた王政おうせいはちねん),嬴政いのちなり蟜率军攻赵国,なり蟜在たむろとめいま山西さんせいしょうたむろとめ)叛秦くだ赵。はた军攻うらないたむろとめきさきなり蟜的部下ぶかみないん连坐斩首处死,たむろとめてき百姓被流放到临洮(いまあま肃省岷县[32]なり投降とうこう赵国きさき赵悼じょうおうふう于饶(いま河北かほくしょう饶阳县东北)[33]

对于なり蟜叛变的原因げんいんすえ开元分析ぶんせき有可ゆか能因のういん为其主要しゅようもたれやま,韩系外戚がいせきてきなつひめ于秦王政おうせいななねん[34],嫪毐ざい赵姬授意,彻底きよしあらい韩系外戚がいせき势力,领兵在外ざいがいてきなり蟜被せり叛乱はんらん[まいり25]吴裕たれしきさんとう认为饶是なり蟜生まえしょ受封,也可さく为其どおり赵的证据,さら怀疑其系ざい叔父おじ支持しじ认为けい长秦王政おうせい亲生而投もたれ赵国意欲いよくざい叔父おじ支持しじ夺位,ただしからし德勇とくゆう结合りょう钱大昕宗彦むねひこ慈铭てき部分ぶぶん观点,ゆびなり蟜在ふか受兄长倚じゅうてきじょう况下,ぼつゆう理由りゆう为了饶这个封弃长やす这个封地ほうち并背弃家こく认为赵悼じょうおうふう以饶てき另一个长やすくんそく赵悼じょうおうてき叔父おじからし德勇とくゆう认为“たん”应作“かえしかいそくなり蟜是ざい出征しゅっせい时突しかしみびょうとくはん师,途中とちゅうざいたむろとめなり蟜死于军营中きさきいんたむろ留原ととはらぞく韩国,乐属しんたむろとめそつがま鶮”趁机さくらん并获とく一定いってい支持しじしつ败后遭清算せいさんそくなり蟜是ぼつゆう叛秦てき,这也就能かい释他为何ぼついた赵国せっ应、きさき也没有作ゆうさく为罪さきがけ戮尸。[まいり28][まいり29]

ゆう一说法指秦朝末代君主なり蟜的きさき[まいり30][ちゅう16]

嫪毐みだれ

 
はたはじめすめらぎ,绣像东周列国れっこくぜんこころざし插图

秦庄はたのしょうじょうおうほろびきさき,吕不韦跟ふとしきさき赵姬(嬴政てきはは亲)てき关系一直藕断丝连,过这だん伦关けい乎是赵姬しゅ动单方面ほうめんてん开的[ちゅう17][まいり19]ずい嬴政ねん龄渐长,吕不韦唯おそれ事情じじょう败露,灾祸降临在自己じこ头上,就暗寻求りょう一个阳具特别大的人嫪毐(làoǎi,おと涝矮,粤音みちさく门客[まいり31],并借つくえ让嫪毐在一场盛大的宴会中,ひょうえんじ阳具驱使桐木きりき车轮转动てき戏,故意こい传到ふとしきさき赵姬みみちゅう[35]

せい如吕韦所りょうふとしきさき果然かぜん对嫪毐大かん兴趣,于是吕不韦假装かそう不知ふちじょうはた嫪毐带进宫中,并找じんかりつげ发嫪毐有はんくさつみこれいや。另一方面ほうめん,吕不韦又暗中あんちゅう教唆きょうさふときさきがえ嫪毐やすはい给事ちゅうてき职务とめざい宫中。ふとしきさきふか以为しか暗中あんちゅうおさむ买行くさけいてき役人やくにん对嫪毐执ぎょうくさけいただしよう们对がいせんしょう嫪毐やめ受刑じゅけい,并将嫪毐てきえびす须拔じょ。嫪毐就这样成为服さむらいふとしきさき赵姬边的さむらい[36]

ふとしきさき完全かんぜん为嫪毐的“きょ阴”而痴きょう,其间竟意がい怀孕。为了避人耳目じもくふとしきさきあずか嫪毐捏造ねつぞうぼくゆびきょ咸阳不利ふりそうそううつりいたりしんこく旧都きゅうといま陕西しょう凤翔县みなみ[37],其间ふとしきさきあずか嫪毐诞下两子[まいり19][まいり31]

おおやけもとまえ239ねんはた王政おうせいはちねん),嫪毐获封长信こう,以やま阳郡いま河南かなんこげ作市さくいち东南)为其しょくまた河西かさいふとしはらとうぐん为其ふう[38]。嫪毐门下最多さいた时有僮数せんにん希望きぼう做官而自すなおなり为嫪毐门きゃくてき,也达到せん余人よにん[39]

过按あきらしんこくてき规矩,ふうこう相当そうとうこま难,れい如王翦在灭楚まえ,曾向嬴政ひっさげいた自己じこ为将多年たねん,仍未とくふうこう[40],而王翦当时已经有しょう灭赵こくじゅう创燕こくてき战绩。れいじん讶异てき,《ふみ记》也没ゆうひっさげいた嫪毐ふうこうてき原因げんいんゆう学者がくしゃ推断すいだん,嫪毐ふうこうそと乎军こうあるつげ奸(しょう鞅法:つげ奸者あずか杀敌どう赏),せいざい嫪毐ふうこうてきどういちねんなり蟜与がま鶮在たむろとめ发动叛乱はんらんゆう可能かのう嫪毐平定へいていなり蟜之らん有功ゆうこうざいゆうふうこうてき资格[まいり25]

おおやけもとまえ238ねんはた王政おうせいきゅうねん),22岁的嬴政按照惯例いたしんこく旧都きゅうと雍举ぎょうかんむりあや[41][まいり19],其间有人ゆうじんこう嬴政つげ发嫪毐为かり宦,并与太よたきさき赵姬淫乱いんらん,甚至还试图以其与太よたきさき所生しょせい之子ゆきこ为秦おう,嬴政れい彻查[42]。嫪毐决心ちゅういち掷,さき发制じんとげ伪造しんおう与太よたきさきしるししんじ,引导其童仆门きゃく少数しょうすう受骗军队发动せい变,おさむ击蕲ねん[43]

嬴政れい相国しょうこく吕不韦及ゆうすわえけい外戚がいせき背景はいけいてき昌平しょうへいくん昌文まさふみくん[ちゅう18]りつへいひら[44]。嫪毐军本乌合众,不堪ふかんいち击,とく人心じんしん,很快就被击溃[まいり31][まいり19]ざい悬红铜钱ひゃくまんてきじゅう赏下[45],嫪毐なまとりこおくいたり咸阳きさき,处以车裂これけい,“えびすさんぞく”,其和ふとしきさき所生しょせいてき两个儿子也被杀[まいり31],其童仆门きゃくみなながれしょくふとしきさき赵姬则被しゅうざい雍都[46]

ざいとう时,きん亲母はじめ终有もと孝道たかみち,嬴政あまりいかきえしたれい凡为ふとしきさきもとめじょうてきさきよう蒺藜责打,しかきさき杀掉,为此ゆう27进谏しゃ[47]。这时齐国じんちがやこげ劝说嬴政,指出さしでかそけきんはは亲有损嬴せい声名せいめい,难以让天下人げにん信服しんぷく;杀害进献忠言ちゅうげんてき大臣だいじんかいかんりょう天下でんか人才じんさいしん,对收买六こく人心じんしん、统一天下でんかだい不利ふり[48][49]。嬴政顿时ちがやふさが顿开,さい纳了ちがやこげてきけん议,あつそう杀的大臣だいじんまた亲自りつ领车队,ぜん往雍ふとしきさきせっかい咸阳,复居あまいずみ宫,母子ぼし关系とく以恢复[50]ちがやこげいん此事みことうえきょう[51]

过亦ゆう学者がくしゃ认为ちがやこげてき一番话未足于令嬴政改变初衷,真正しんせい让嬴せい担忧てき赵系外戚がいせき势力ざい嫪毐みだれちゅう几乎けむりしょううん,让华阳夫じん为首てきすわえけい外戚がいせき势力なり为最终的胜利しゃ于帝おう平衡へいこうてき需要じゅよう,嬴政ざい宽大对待嫪毐りゅうしょくてき门客,以及はた赵姬むかえ归咸阳,避免すわえけい外戚がいせきどく霸朝どう[まいり25]

おおやけもとまえ229ねんはた王政おうせいじゅうきゅうねん),ふとしきさき赵姬,谥号为帝ふとしきさきあずかしょうじょうおうごうそうざい茝阳[52]

吕不韦失势

嫪毐叛乱はんらんさい终牵连到相国しょうこく吕不韦,嬴政打算ださん诛杀吕不韦,ただし吕不韦毕竟令嬴政ちち亲得以登じょうしんおうくらいゆう拥立こう,而且ゆう众多吕不韦门きゃくもとめじょう,于是しょうりょうばん处吕死刑しけいてきねん[53]おおやけもとまえ237ねんはた王政おうせいじゅうねんじゅうがつ,嬴政以失职为めい罢免吕不韦的相国しょうこく职务,并把吕不韦放逐到其领[54]

いちねん过后,吕不韦仍しか名声めいせい显赫,ゆうしょうかく诸侯こくてき宾客使者ししゃ,专程はい访吕[55]。嬴政おもんみおそれ吕不韦发动叛乱はんらんざいおおやけもとまえ235ねんはた王政おうせい12ねんむかい赐下いちふうゆび责他てき敕书だい内容ないよう如下:

きみなにこう于秦,はたふうくん河南かなんしょくじゅうまん户?くんなん亲于しんごうしょうなかちち?其与ぞく徙处しょく
—《记·吕不韦列传》

吕不韦した诏,いのちあずか其族じん迁往しょく想到そうとう嬴政かい过自おのれおもんみゆう服毒ふくどくしゅ[56],遗体其食きゃく偷偷やすそうざいらくきた邙山[ちゅう19]

嬴政对于吕不韦的きゅうあずか参加さんか吕不韦葬礼そうれいてき宾客,さいしもれつ措施:[57]

  • 对于出身しゅっしんろくこく[ちゅう20]てき吕不韦门きゃく一律いちりつ驱逐さかい
  • 对于俸禄ざいろく百石以上的秦国官员,参加さんか吕不韦葬礼者れいしゃそくへず夺其官爵かんしゃくりゅういたりぼうりょう[ちゅう21]
  • 对于俸禄ざい五百石以下的秦国官员,不参加ふさんか吕不韦葬礼者れいしゃどう样流いたりぼうりょうただしへず夺其爵位しゃくい[ちゅう22]

嫪毐及吕韦相继死去しきょきさき,嬴政いか气稍敛,就让りゅういたしょくてき嫪毐门客かいいたきょうじょう咸阳[58],并警告けいこく其臣下若しもわかきも敢像吕不韦、嫪毐とうじん遵从正道せいどう处理国事こくじてき话,就会へず夺其かん职,家人かじん充当じゅうとう为奴[59]

京都大学きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ吉川よしかわ忠夫ただお推测,ざい嫪毐叛乱はんらん事件じけんとうちゅう,嬴政查出きさき跟吕韦有关,实际やめ乎嬴せいてき预料[まいり19]いたり于陈舜臣しゅんしん则推测少年しょうねん嬴政はやゆう铲除吕不韦,どく揽大权的ねん[まいり32]。另一方面ほうめん,从嬴せいざい嫪毐叛乱はんらんきさきさんねんさい对吕韦作较严厉处ぶん,以及对出席しゅっせき吕不韦葬礼そうれい宾客てき不同ふどう处分,显示嬴政ざい政治せいじじょうてき慎重しんちょう[まいり32]

いたり此,嬴政彻底扫清りょう自己じこ王位おういてきいんもとだい权独揽,なり为秦こく实权ざいてき君主くんしゅ

歼灭ろくこく

灭六こくまえてき预备

つきかん嬴政即位そくいはつ年年ねんねん龄尚ようただし其麾しん军并停止ていし扩张てきれい如秦こくはたこうむぶん别在しん王政おうせいさんねんおおやけもとまえ244ねんおさむ韩国じゅう三城みき[60],以及ざいしん王政おうせいねんおおやけもとまえ242ねんおさむこくじゅうしろ,并在该地设置东郡[61][62]

郑国みぞ

 
郑国みぞてき现今位置いち

郑国みぞざいおおやけもとまえ246ねんはた王政おうせい元年がんねん)开始建造けんぞう[63][ちゅう23]于今にち中国ちゅうごく陕西しょう泾阳县上しかむら泾出こういち带。けん议者为来韩国てき水利すいり专家郑国,其真せい份是韩国てき细作

とう时三晋之一的韩国听说秦国喜欢大兴土木,就想以建みぞ消耗しょうもうしんこくてき国力こくりょく使つかいしんこく无法こう东用へい,韩国便びん让水こう郑国找机かいゆう说秦こく,让秦こく凿通泾水,从中やま以西いせいいたひさごこうおさむ一条いちじょうすいみぞ出北いできたさんむこう流入りゅうにゅうらくすいさんひゃくあまりさとようらい灌溉农田[64]工程こうてい进行途中とちゅう,郑国てき阴谋发觉,嬴政打算ださん杀掉郑国。郑国ゆび自己じこ虽然为韩こく做细さく而来,ただしけんみぞかい为韩国延くにのぶ多少たしょうこく[ちゅう24],而渠たてしげる以后てき确会对秦国大こくだい有利ゆうり[65]

实际じょう以秦国之くにゆききょう,也免りょう受到自然しぜん灾害てき烕胁,はた王政おうせいよんねんおおやけもとまえ243ねんいなご严重导致瘟疫流行りゅうこう,甚至逼使嬴政诏鼓励老百姓ひゃくしょう纳粟受爵[66]ざいぼう程度ていどじょう说明ざい关中地区ちくけんみぞ,以抵自然しぜん灾害てき必要ひつようせいいん此嬴せいさい命令めいれい郑国继续みぞ修成しゅうせい[67]

みぞなりきさき,淤积こん浊的泾河みず引至灌溉两岸てい洼的盐碱めん积达よんまん顷,亩产达到りょうろくせきよん。从此关中なり沃野よくやさいぼつゆう饥荒ねん份,为并吞六国打下坚实基础,该渠也因此被命名めいめい为“郑国みぞ[68]

谏逐きゃく书与

虽然郑国みぞてきけん本身ほんみ对秦国利こくりだい于弊,ただし其企图疲へいしんこくてき图,郤引おこりしんこく本土ほんど大臣だいじんてき警觉,认为やま东六国出身的客卿根本不值得信任,ざい们的怂恿,嬴政颁布“逐客れい”,驱逐一切出身六国的客卿[69][まいり33]

すえふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》记载,嬴政颁布“逐客れいてき时间为秦王政おうせいじゅうねんおおやけもとまえ237ねん),せい值吕韦因嫪毐みだれ罢免てき时间,いん此“逐客れい”很有可能かのう针对てき“养士さんせんてき相国しょうこく吕不韦,以削じゃく吕不韦的势力。吕不韦的门客いち出身しゅっしんすわえこくうえてき也在逐之れつ。为了避免逐的いのち运,斯主动向嬴政じょう书,这就著名ちょめいてき谏逐きゃく”,内容ないようだい致如

しん闻吏议逐きゃく,窃以为过矣。むかしきよしおおやけもとめ西にしよしあまり于戎,东得ひゃくさと奚于あてむかいあしなえ叔于そう[まいり33]もとめ丕豹、おおやけ孙支于晋;此しゃ产于しん,而穆公用こうよう,并国じゅうとげ西戎せいじゅうこう公用こうようしょう鞅之ほううつり风易ぞくみん殷盛いんせいくに以富きょう百姓ひゃくしょう乐用,诸侯亲服,获楚、师,举地千里せんりいたり今治いまばりきょう[まいり33]めぐみおうよう张仪计,拔さんがわ西にし并巴、しょくきたおさむ上郡かみごおりみなみ汉中,つつみきゅうえびすせい鄢、郢,东据なり皋之险,わりあぶら腴之壤,とげろくこく从,使つかい西にしめんごとしんこうほどこせいたいま[まいり33]あきらおうとく范睢,废穰こう,逐华阳,つよしおおやけしつもりわたし门,蚕食さんしょく诸侯,使つかいはたしげるみかど业。此四くんしゃみな以客こう[まいり33]よし此观きゃくなん负于しん哉?こう使つかい四君却客而不内,疏士而不よう使こく无富利之としゆき实,而秦无强だいめい也。
斯·《諌逐きゃく书》节录

嬴政读了てきじょう书,就废じょりょう“逐客れい[まいり34]いのちじんおいかい斯,并恢复其かん职。

せい辟韩

韩非出身しゅっしん韩国おおやけぞく[70]ゆうこうどもてきびょう[71]あずか斯都战国著名ちょめい思想家しそうか荀子てき学生がくせい斯自觉才がく如韩[72]们都信奉しんぽうせい恶论”,认为人的じんてき思想しそう容易ようい受到环境左右さゆう[まいり33]

しょう鞅变ほうきさき使しんこく强大きょうだいきさきしんこくてき统治阶级便びん相当そうとうじゅう法家ほうか思想しそう,并用さく为治こくかた[まいり33]。另一方面ほうめん,韩非荀子处学なり归来きさきつぎじょう书韩おうただし为所よう,于是うつし》、《愤》、《显学》、《难言》とう著作ちょさく

韩非てき著作ちょさくりゅう传到しんこくきさき,嬴政相当そうとう欣赏其所阐述てき治国ちこく思想しそう,曾说:“寡人とく见此じんあずかゆう恨矣!”[73]とう从李斯口ちゅう得知とくち作者さくしゃ为韩きさきそく以战そうさくよう胁,逼韩王命おうめい韩非使しんこく[74]

おおやけもとまえ233ねんはた王政おうせい14ねん),韩非使しんこく[まいり35],受到嬴政てき欣赏,じゅん备加以重用じゅうよう斯与姚贾[ちゅう25]怕嬴せい重用じゅうよう韩非,わたし诬陷韩非,说韩韩国宗室そうしつ公子こうし必定ひつじょうかいこうちゅうしんこくすんでしか不能ふのう为嬴政所まんどころよう就是いち个祸患,劝嬴せい韩非きん锢在うん[75][ちゅう26],嬴政ふか以为しか[まいり36]过李姚两じんがい怕嬴せいはん悔,为免よる长梦,于是じん给韩おくどく药,让他[まいり36]。韩非おもえこう嬴政陈心迹,却又不能ふのう进见[76]

きさきらい嬴政きさき悔,いのちじん赦了韩非てき罪名ざいめいただし为时やめばん,韩非やめ[77]

ざい众多韩非著作ちょさくちゅう,嬴政则比较欣赏韩ざい愤》、《蠹》てき论阐じゅつれい如韩ざい中称ちゅうしょうゆうざいゆう谋的じん,一定有远见并且能明察秋毫,不能ふのう明察めいさつ,就不能ふのうあきらあきらわたしくら处的奸邪;のう执法ひと,一定性格坚毅并且为人刚劲正直,刚劲正直しょうじき,就不能ふのう矫正奸邪[78]。另一方面ほうめん,韩非またざい蠹》论述,ゆびさく为明くん,应不ようゆう关学术的文献ぶんけん典籍てんせきゆび诗经书经),而该以法れい为教ほんきん绝先おうてきげん论,而以吏为师;ひさげ倡游侠刺きゃくてききょう悍,而只以杀敌立こう勇敢ゆうかん。这样,国内こくないみん众的一切言论都必须遵循法令,—きりぎょう动都必须归于为国立こくりつこう,一切勇力都必须用到从军打仗上,才能さいのう奠定しょうおう天下てんかてき资本[79]

韩非また毫不きゃく气称学者がくしゃ儒生じゅせい)、げん议者(纵横)、带剑しゃぼく侠者あずか侠客きょうかく)、患御しゃ(怕被せい调作战的じん)、こうしょう买卖しゃとう,为扰らん君王くんのう法治ほうちてき种人(),ゆび这些じん无益于耕战,就像蛀虫有害ゆうがい于社かい[80]。这些论调也间せっかげ响嬴せいきさき作出さくしゅつ“焚书”、“あな儒”てき决定[まいり36]

歼灭ろくこく

 
はた灭六こくがた势图

郑国みぞたてしげるきさき关中变成りょう肥沃ひよくいたり此,しんこくてきさんだい粮仓——ともえしょく汉中关中就此全部ぜんぶたてしげる,嬴政いん而发动了历时十年的统一六国战争。

总方针

斯早ざい担任たんにん吕不韦门きゃくてき时候,很快就得いためん见嬴せいてきつくえかい动声しょくこう嬴政献上けんじょうしょう灭六国之くにゆきさくゆび现时せい吞并六国最好的时候,如果把握はあく这个时机てき话,一旦いったんろくこくちゅう兴,订立ごうてきめい约对こうしんこくてき时候,しんこくよう席卷せっけん中原なかはら,吞并六国就要付上相当沉重的代价[81]。另一方面ほうめん国大こくだいはりじんじょうまたゆび六国与秦国相比,六国诸侯就像郡县的首脑,ただし六国合纵对付秦国却是一桩大麻烦,为免じゅうさとしはくおっと齐湣おういん敌手联合おさむ击而ほろびてきくつがえ辙,希望きぼう嬴政不要ふようしわ惜财ぶつ,给各国かっこく权贵大臣だいじんおくれい利用りよう受贿てき大臣だいじんらん六国诸侯的合纵计划,这样虽然损失些许财物,ただし却可以消灭所有しょゆう诸侯[82]

嬴政ふか以为しか,听从りょうじょう缭的计谋,为了显示おん宠,嬴政还让じょう享受きょうじゅどう自己じこ一样的衣服饮食,每次まいじ见到,总是ひょう现得很谦卑[83],并任命にんめい斯为长史,负责暗中あんちゅう派遣はけん谋士带着きん珍宝ちんぽう各国かっこくゆう说。对各国かっこく能收よしかず买的ろくこく权贵大臣だいじん,就多おく礼物れいもつ以收买;能收よしかず买的,就把们杀掉;成功せいこう离间六国君臣关系后,嬴政ずいそくりょうはたずいきさきおさむよし于秦军战胜所づけてきだい价甚しょう嬴政任命にんめい斯为きゃくきょう[84]

嬴政ざい斯、じょう缭等人的じんてき协助制定せいていりょう“灭诸こうなりみかど业,为天いち统”てき策略さくりゃく具体ぐたいてき措施:笼络つばめ齐,稳住すわえしょう灭韩赵;远交きんおさむ,逐个击破。

ひょう:六国灭亡顺序
とし はた王政おうせい纪元 国家こっか
おおやけもとまえ230ねんまえ229ねん はた王政おうせい17ねん—18ねん 韩国
おおやけもとまえ229ねんまえ228ねん はた王政おうせい18ねん—19ねん 赵国
おおやけもとまえ226ねんまえ225ねん はた王政おうせい21ねん—22ねん こく
おおやけもとまえ224ねんまえ223ねん はた王政おうせい23ねん—24ねん すわえこく
おおやけもとまえ222ねん はた王政おうせい25ねん つばめこく
だいせい[ちゅう27]
おおやけもとまえ221ねん はた王政おうせい26ねん 齐国

そぎじゃく赵国

 
战国かたち势图(ぜん280ねん

嬴政くびさき选择てきおさむ击目标为韩国いん为韩こくてき实力ざいろくこくちゅうさいじゃくただし韩国还没ゆういた不堪ふかんいち击的地步ちほ,而且三晋唇齿相依,嬴政担心しん灭韩时,赵国仍有じょ韩的可能かのう所以ゆえんざい灭韩まえ必需ひつじゅ大幅おおはばそぎじゃく赵国。

おおやけもとまえ236ねんはた王政おうせい11ねん),赵军はた庞煖りつ领主りょく北上きたかみおさむつばめこくそう胁迫つばめこく一起进攻秦国。嬴政じょう赵国进攻つばめこくこれ际,以救援きゅうえんつばめこく为由,おう桓𬺈杨端りつ军两おさむ赵国,ひしげ开了しょう灭六こくてき序幕じょまく

とう赵军おさむりょう赵燕边境てきしゃくはりこん河北かほくしょうていしゅうきた)时,おう翦出へいおさむ赵国てきうえとうぐんとう赵军おさむりょうつばめこくてきたぬきいま河北かほくしょうにんおか东北)时,おう翦已おさむかつりょう赵国てき阏与いま山西さんせいしょうかず顺县)、橑杨今山いまやま西にししょうひだり权县とうろくじょうおう翦统りつ军队じゅうはちてん,让军ちゅう年俸ねんぽうろくひゃくせきてき小官しょうかんかいまい十人当中挑选二人留在军队。とう赵军おさむりょうつばめこくてき阳城こん河北かほくしょうてい西南せいなん)时,桓𬺈おさむかつりょう赵国てき邺城こん河北かほくしょう临漳县邺城镇やすそくしん宁中,こん河南かなんしょうやす阳市西南せいなん);とう庞煖闻讯挥师南下なんか救援きゅうえん时,はた军已经将漳水流域りゅういき全数ぜんすう吞并。はた军与赵军どう步行ほこう动,赵国ただ夺得北方ほっぽう边境てき几座じょう,却丢しつりょう南方なんぽう西方せいほうてききゅうじょう,实力だい[ちゅう28][85][86][87]

おおやけもとまえ234ねんはた王政おうせい13ねん),はた再度さいど进攻赵国てきひらこん河北かほく磁县东南)、たけしろ(磁县西南せいなん),斩首10まんだい败赵军,并杀赵将扈辄[88]。赵国经过しんこく这次おさむ击后,国力こくりょくだいおとろえ,仅能退すさもり邯郸

过秦军并ぼつゆう打算ださん罢手,同年どうねんじゅうがつはたすすむ桓𬺈またりつしん军东うえとうこしふとしあるきさん深入ふかいり赵国きさきかた大破たいは赵军,おさむうらないりょうあか丽、むべやすいま河北かほくしょう葶城西南せいなん[89]おおやけもとまえ233ねんはつはた王政おうせい14ねん),はた军进逼邯郸,赵王迁きゅういのち北部ほくぶ边防名将めいしょうまき为将军,りつ领他てき南下なんかゆび挥全赵军こう击秦军。

まきりつ边防军主りょくあずか邯郸派出はしゅつてき赵军会合かいごうきさきざいよろしやす附近ふきんあずかしん军对峙。经激烈げきれつ战斗きさきはた军大败。桓𬺈仅率少量しょうりょう亲兵冲出じゅう围,奔回しんこくしょうこえ”。赵国夺回りょうしんこくうらない领的土地とちまきいん此战受封为“武安たけやすくん[90][91]

灭韩赵两こく

つきかんまきざいこえ战挫败了しん军的へい锋,ただし赵国ただのう仅仅たもてしょうじょりょう赵国援韩てき可能かのうしんこく可算かさん达到りょう目的もくてき

赵国国力こくりょく大幅おおはばそぎじゃくきさき韩王やす逼在こうもとまえ233ねんはた王政おうせい14ねんこうしんこくしょうしん[92]おおやけもとまえ232ねんはた王政おうせい15ねん),はた军分两路进攻赵国,いち军至邺城いち军至ふとしはらおおかみはじめ[93]ただし其后ざいばんわれさいまき击败,しょうばんわれ[94]

はたこく虽然进攻赵国しつ败,ただし不能ふのう挽回ばんかい韩国危如累卵るいらん的形まとがた势。はた王政おうせい16ねん,韩国せりわりみなみ一带土地给秦国。当年とうねんきゅうがつ,嬴政うち接受せつじゅ韩国しょけんじこれゆかり代理だいりみなみ阳守くらい,并开はじめ命令めいれい所有しょゆうしんこく国内こくない男子だんしとう记年龄,以便せい发兵そつ徭役[95],为大规模てき灭国战争さくこうじゅん备。

おおやけもとまえ230ねんはた王政おうせい17ねん),嬴政借着かりぎ赵国发生だい地震じしんあずか饥荒,无力援助えんじょ韩国てきだいこうつくえかい[96]いのちない腾攻韩国,并擒获韩おうやす,韩国灭亡,はた其国设置颍川ぐん[97]たてこおりおさむ阳翟こん河南かなん禹州[ちゅう29][まいり36]ただし嬴政れいはた天下てんか轨之みん”迁于みなみ阳的举措[98],却造成ぞうせい韩国きょく势不稳,しんこく一度陷入新郑骚乱及李信之败的窘境。

嬴政いん灭韩而满あし,赵国どう时发せいだい地震じしんあずか饥荒[96][まいり38][まいり39]说是しょう灭赵こくてきだいこうつくえかい,于是だい出兵しゅっぺいいのちおう翦、杨端为将,へいぶん两路,南北なんぼくあい击赵邯郸[99]。赵国まきつかさ马尚りつへい抵御,两军しょう[100]

吸取すいとりょうばんわれ战失败的きょう训,しんこくとげ间谍贿赂赵国权臣かく[ちゅう30]ようかく开离间李まきかず赵王。かく开其きさきこう赵王迁进ごとゆびまきつかさ马尚よく谋反。赵王迁乃使赵葱及齐こく出身しゅっしんてきはた领颜聚,だいまき为将。まきこばめ受命じゅめいさら使赵王迁倍加ばいかしょうしんじまき试图谋反,いん此使じん暗中あんちゅうかかわまき并将处决,并免除めんじょ马尚てきはた军之[101][102]

おおやけもとまえ228ねんはた王政おうせいじゅうきゅうねん),はた国王こくおう翦军破赵军,杀赵ねぎ,俘颜聚,うらない邯郸,赵王迁被俘虏,赵国灭亡[103][まいり36]。赵公子こうしよしみざい邯郸おさむうらないきさきりつ领他てき宗族そうぞくひゃくにんいた代地だいちこん河北かほく蔚县东北)收拾しゅうしゅう残部ざんぶ,并自立じりつ为代おうこう东与つばめこくてき军队会合かいごう[104]いたり于秦军则暂停军事ぎょう动,驻扎ざい中山なかやま,做好おさむつばめこくてきじゅん[105]

おう翦攻うらない邯郸きさき,嬴政亲自いた邯郸,找到当初とうしょあずかざい赵国时,あずかはは亲有かたきてきじん们全部活ぶかつうめ,其后经太ばら上郡かみごおりかえしかい都城みやこのじょう咸阳[106][まいり36]

しん郑骚らん

韩国遗民并未いん为韩こく沦亡而变とくやす于现じょうはん而该せい酝酿はんしんてき余波よは

虽然韩王やす虏后,嬴政并没ゆうはた他流たりゅういたり蛮荒目的もくてき显示宽容态度,以此怀柔韩国遗民,对其国家こっかてき君王くんのうしめせ以姿态,有利ゆうり于秦こくかく个击やぶ[まいり40]ただし荆轲とげしん事件じけんきさき,嬴政对山东六国的态度大变,韩王やす也被牵连,ざいしん王政おうせい十年被迫离开韩国本土,以割だん韩国遗民间的联系[まいり41]どう时由于韩こく并没ゆう对秦国作こくさくことてき抵抗ていこう,嬴政ただこれはた韩王やす迁徙いたり附近ふきんてき郢陈いま河南かなんしょうしゅうこう淮阳县)[まいり40][まいり41]とめりょう温和おんわてき余地よち

しか事情じじょうてき发展あずか嬴政てき预料相反あいはん,就在韩王やす迁徙てきつぎねんはた王政おうせいじゅういちねん),韩国遗民愤于こくやぶおう迁,ざいしんばく发了だい规模てきはんしん骚乱[107][まいり41]。虽然这次骚乱镇压,ただし韩王やす却因しん郑骚らん受牵连而ほろび[108][まいり40][まいり41]

灭魏こく

はやざいしん王政おうせい16ねん韩国けんじみなみ阳地てき时候,さこ于秦こく强大きょうだいてき军力,こくまたしゅ动向しんこくけんじもとめしんこくざい该地设置丽邑[109]。此时嬴政せい调集主力しゅりょく全力ぜんりょくおさむ赵,そう分散ぶんさん兵力へいりょくおさむ,就接受せつじゅりょうけんじ使つかいこく苟延ざん喘。

おおやけもとまえ226ねんはた王政おうせい21ねん),嬴政くちすわえおう弃献あお阳(いま湖南こなん长沙以西いせい土地とちてきうけたまわ诺,并袭击秦こくみなみぐん理由りゆう[110]おう贲率だい军出はこたに[ちゅう31]おさむうらないりょうすわえこく北部ほくぶてきじゅう几座じょう[111]ざい保障ほしょうりょうおさむしん军侧つばさ安全あんぜんきさきおう贲旋そくかい北上ほくじょう突袭并围困じゅうこくこくだいはりこん河南かなんしょう开封西北せいほく)。だいはりきょ于睢すい颍水鸿沟てき交汇,护城かわじゅうふん辽阔,五座城门皆备吊桥,地形ちけいえきもり难攻。军依たくだいはりてきしろぼう工事こうじ死守ししゅはた强攻きょうこう毫无奏效そうこうおう贲竟引黄かわ、鸿沟(汴渠)みず灌入城内きうち[112]

おおやけもとまえ225ねんはた王政おうせい22ねん),だいはりじょうみずひたきんさん个月,しろ墙崩坏,おうかり投降とうこうこく灭亡[113][まいり36]。嬴政ざいこく地区ちく设立砀郡またけんおけ泗水しすいぐん

昌平しょうへいくん叛秦

 
はただいもりとら,陕西历史博物はくぶつ馆藏,西安しーあん南郊なんこうやま门口出土しゅつどとら古代こだい朝廷ちょうていよう于传达命令めいれい、调动军队てき一种特殊凭证。通常つうじょうさくとらがたふん左右さゆう两半,みぎはんとめ在京ざいきょう师,ひだりはん颁发给屯驻在外的がいてき军队。需调へい时,ゆかり朝廷ちょうてい使者ししゃみぎはんぜん往,军队长官はたみぎはんあずかひだりはん验合きさき,军队そく按使しゃ传达てき命令めいれいぎょう

すわえこく南方なんぽう大国たいこく,疆域辽阔,山林さんりんしげみつもの产丰とみごうしょう拥有かぶとひゃくまん过楚こくてき内政ないせいいちちょく不振ふしん,总是贵族そう权夺,这种じょう况到战国末期まっきゆう为严じゅうつきかん如此,三晋灭亡后,仅存てきすわえつばめ齐三こくとうちゅう,以楚こくさい为强だいすわえこくまたずいなり为继赵国きさき,统一战争中最大的绊脚石。

はた灭楚こくてき战争,记记载得じゅうふん简略,人的じんてき印象いんしょうあき风扫落叶一般いっぱんただし从《うん梦秦简》(またたたえねむとらしんてき《编年记》てき记载らいじょう况不完全かんぜん这样,いたりしょうしん灭楚战是相当そうとう艰难てき,而其ちゅうてき关键人物じんぶつ就是昌平しょうへいくん

昌平しょうへいくんすわえこうれつおうくまもとてき庶子しょし[ちゅう32][まいり42]めい[ちゅう33][まいり43],其父ぐまもとかえしすわえ即位そくい为楚おうきさきあずか生母せいぼ滞留たいりゅうざいしんこく[まいり43]よし于他あずか华阳夫人ふじん同属どうぞくすわえ国王こくおうぞく此成为楚けい外戚がいせきてき主力しゅりょくかつ跃于はた国政くにまさ坛,さらあずか嬴政联手平定へいてい嫪毐みだれ[44][まいり43]。吕不韦去しょうきさき昌平しょうへいくん继任为丞しょう[ちゅう34][まいり43]

とう嬴政决定しょう灭楚こくきさきずいそく召开廷议,参与さんよしゃ为秦こく主要しゅよう大臣だいじん包括ほうかつ昌平しょうへいくんしん及王翦,就攻すわえ方略ほうりゃく提供ていきょう[ちゅう35](见《ふみ记·しろおこりおう翦列传》)。过对于灭すわえしょ需兵りょくしんあずかおう翦却产生ぶん歧。しん认为需じゅうまんにん灭楚,ただしおう翦却しょう灭楚需要じゅようろくじゅうまんにん[114]。嬴政倾向さいようしんてき方略ほうりゃく,这是いん为王贲灭こくまえ,曾试さがせしきおさむ击楚こく,轻易取得しゅとくすわえこくじゅうあまりじょう[111],让嬴せいとく灭楚难的结论。おう翦的话不さいよう,就推たくしょうびょうかいいた频阳乡养ろう[115]。另一方面ほうめん昌平しょうへいくんいん对攻すわえ颇有ほろ[ちゅう36]ざいしん王政おうせい21ねん贬至郢陈[107]

郢陈はらぞく陈国くにすわえこくしょ灭后しょう陈县[まいり40]おおやけもとまえ278ねんはたあきらじょうおう29ねん),しんこく名将めいしょうしろおこりおさむおちいすわえこくこくいま湖北こほくしょう荆州),ざい该地设置みなみぐんすわえ顷襄おうせり迁都于陈县[116]此亦しょう为郢陈[まいり43]よし于郢陈以西いせいあずか韩国国境こっきょうしょう连,此郢陈一旦いったん发生纠葛,往往おうおう牵动しん韩楚さんこく[まいり40]

郢陈一地虽然最终被秦国所占,ただし其楚じん势力并没ゆうけし灭,はん而一直成为楚人反秦的温床,从秦灭楚战至陈胜吴广てきだい泽乡おこりすわえじんはんしんてき重要じゅうよう事件じけん几乎あずか郢陈ゆう[まいり40]よし此嬴せいはた昌平しょうへいくん贬至郢陈,ゆう深刻しんこくてき政治せいじ用意よういよし昌平しょうへいくん长年つかまつはた,并协じょ平定へいてい嫪毐みだれじょうぼつゆう跟故こくすわえこく联系,いん而得いた嬴政てき信任しんにん[まいり40]昌平しょうへいくん徙至郢陈てき表面ひょうめん理由りゆう负责监管韩王やす[108]ただし实际じょう,嬴政却希望きぼう利用りよう昌平しょうへいくんすわえこく公子こうしてき份,やす抚郢陈地区ちくてきすわえじん[まいり41],为灭すわえさくじゅん备。

おおやけもとまえ225ねんはた王政おうせい22ねん),嬴政しんこうむたけ[ちゅう37]とう将兵しょうへいじゅうまん讨伐すわえこくあさ东南方向ほうこう深入ふかいりすわえこくはらおさむ击平舆(こん河南かなんなんじみなみ东南)いま安徽あんきしょう阜阳临泉县),だい胜楚军,へい指向しこうすわえこく首都しゅと寿ことぶきはる[117]今安いまやす徽寿县),ただし昌平しょうへいくん却在这个时候すえ郢陈叛秦归楚,截断せつだんりょうみなみせいはた军的きさき,郢陈すわえじん纷纷响应,而颍かわぐんてき韩国遗民また闻风而叛,はた军形势危急ききゅう[まいり40]

しんてきせいすわえだい军随そく引兵こう西にしおさむうらない鄢郢(そく郢陈),しかきさきせっいた颍川ぐんちちじょう[ちゅう38]こん河南かなんしょうひら顶山たから丰县つげきゅうてき消息しょうそく[118],于是しんこうむたけしょう约会师父じょう以平いたいら韩人叛。昌平しょうへいくん叛军虽未のうもりじゅう郢陈,ただし实力损,们紧紧追击秦军,连着さんてんさん休息きゅうそく,结果ざいちちじょう附近ふきんあずか韩人叛军だい败李しん队,おさむにゅう两个军营,杀死なな个都じょうはた军大败而逃[119][まいり40]

信之のぶゆき败,主要しゅよういん为王贲灭まえ,对楚こく进行てき军事ぎょう动过于容易ようい,让他产生误判,以为郢陈地区ちく附近ふきんぐん县的はんしん力量りきりょうやめけし灭,ぼつゆうこう虑到郢陈地区ちくてきすわえじん仍有相当そうとう观的反抗はんこう力量りきりょう,虽然寿ことぶきはるすわえおう负刍てきすわえ军力りょう薄弱はくじゃく容易よういおさむただし长年ごとしんてき昌平しょうへいくんざい关键时刻叛秦,却给しん军致いのちいち击,终至いち败涂[まいり40]

おう翦灭すわえ

すわえこくおさむ复楚こく郢陈为中心ちゅうしんてき失地しっちさら趁势西にし深入ふかいりいたりげん韩国境内けいだい[120][まいり40]さいじょうしんむご败的消息しょうそくれい嬴政かんいた惊恐,さらかんだいしつ面子めんついん为启ようしん及贬斥昌平しょうへいくん京都きょうとよしさく决定[まいり41]とく亲自ぜん往频阳,とう门造访被贬斥きょう、还乡养老てきおう[121]强行きょうこうせい召王翦攻すわえおう本来ほんらい自己じこねんろう多病たびょうこばめ绝攻すわえただし见嬴せいめんしょく,担心自己じこじゅう蹈武やすくんしろおこりてきくつがえ[ちゅう39]とくやめこたえ应嬴せいてき请求,并称おさむすわえろくじゅうまんにん要求ようきゅうぜん权指挥ろくじゅうまん兵力へいりょく,嬴政いちいちとう应,并亲いたいた灞上为王翦的だい军送ぎょう[122]。为了しょうじょ嬴政てき疑心ぎしんおう翦称自己じこせい战多ねん仍未とく以封こう希望きぼう嬴政赐予数量すうりょう众多てき良田よしだよしたく、园林えんとう,为子孙挣いち份家业[40]だい出征しゅっせい间,また厌其烦地连续使者ししゃかい朝廷ちょうてい,请求赐予良田よしだ[123]

おおやけもとまえ224ねんはた王政おうせい23ねん),おうりつろくじゅう万大军沿着之前李信攻楚的行军路线,ちょく扑郢陈[124]战久おさむしたはた王政おうせい23ねん4がつあずか昌平しょうへいくん一样同为楚国公子而仕于秦的昌文まさふみくん战死[125]同年どうねん另一路秦军南至平舆,おさむおちい寿ことぶきはる,俘楚おう负刍。

はた王政おうせい24ねん约3がつおう翦军おさむやぶ郢陈[ちゅう40][まいり44][まいり45],嬴政亲自じゅん郢陈,以镇慑反しん势力[126],而昌平しょうへいくんざいおさむいたすわえおう负刍俘的消息しょうそくきさき,撤出郢陈,すわえ大将たいしょう项燕拥立为楚おう[127]ざい淮南ワイナン地区ちく继续进行はんしんごと业。おう翦和こうむたけ统领しん军消灭楚军余孽,昌平しょうへいくん战死,项燕ざい淮北てき蕲县(今安いまやす徽省宿やどしゅう蕲县镇)へい败自杀[128][129][まいり41]

おおやけもとまえ222ねんはた王政おうせい25ねん),おう翦大军平定へいていりょう长江以南いなんいち带,降服こうふくりょうえつぞくてきくび领,设置りょうかい稽郡すわえこく彻底灭亡。该年がつしんこく为庆しゅく灭掉すわえこく而下れいとく许天聚饮[130]

荆轲とげはたあずか灭燕

つばめ太子たいしつばめおう之子ゆきこ,过去曾在赵国さく质子,ゆかり于嬴せいよう时在赵国生活せいかつ与太よた相当そうとうようこのみ。其后嬴政たて为秦おう太子たいしまたいたしん国作こくさく质子,ただし嬴政苛待太子たいし太子たいし丹心たんしんせい怨恨えんこんさい终逃归燕こく[131][まいり36][まいり32]

太子たいし逃返つばめこくきさき打算ださん报复嬴政对他てき无礼,ただしつばめこく弱小じゃくしょうちから不能ふのう[132]てきふとでんきくたけしゆびしんこく国土こくど辽阔,敢战众多,且有山川やまかわかた,劝诫太子たいし要因よういん自己じこ嬴政欺侮てき怨恨えんこん,而去さわ动嬴せいてきぎゃく[133]

 
中国ちゅうごくさん东省たけほこら“荆轲とげしんおう石刻せっこくひだり边为しん王政おうせいみぎ边为荆轲,中央ちゅうおう伏在ふくざい地上ちじょうてきはたまい阳,下面かめん樊於くび

せいざい此时,はたすすむ樊於そく桓𬺈[ちゅう41]とくざいりょう嬴政,逃到つばめこく太子たいしたんおさむとめ[134]过鞠十分反对太子丹收留樊於期,ゆび嬴政肯定こうていかい此事大造たいぞう文章ぶんしょう,迁怒于燕こく,为了避免给嬴せい词攻つばめ,应该让樊於期流亡りゅうぼう匈奴きょうどひさげ倡六こくごう纵,与北よぎためんてき匈奴きょうど和好かずよしざいゆう对付しんこくてき可能かのう[135]太子たいし认为这个策略さくりゃくしょ需的时间ふとし长,而且樊於やめはしとう无路,让他とう奔匈やつそく让他おく自己じこ不能ふのう够因为害怕秦こく,而摒弃樊於期てきとう[136]いん此不せっ纳鞠てきけん议。

きくたけ认为太子たいし过于たん视,为了结交樊於而不顾国家こっかだい祸,こころはいひや下向げこう太子たいし推荐田光たこう[137],而田こうまた接受せつじゅりょうきくてきゆう说,亲自めん太子たいし[138]さいこう太子たいし推荐卫国じん荆轲[ちゅう42][139]さいきさき田光たこう戕以激励げきれい荆轲为太子たいし卖命[140]

知道ともみち田光たこう戕的太子たいしひょう现得相当そうとう悲痛ひつう[141]とう时秦军已经消灭赵こく,驻兵中山なかやまへい锋直ゆびつばめこくつばめこく君臣くんしんただおそれだい祸临头,いん而与逃至代地だいちてき赵公よしみ结盟,共同きょうどう防御ぼうぎょしんこく太子たいし认为すわえ齐燕四国合纵已经没有太大意义,打算ださん勇士ゆうしぜん往秦こくぞう曹沫こう桓公かんこう般,逼嬴せい归还おかせうらない各国かっこくてき土地とちわかこたえ应则はた嬴政杀死,使つかいしんこく国内こくないおちいにゅう混乱こんらん[142]。荆轲せい执行这件ごとてきさい佳人かじん选,いん太子たいしたんたかしたてまつ荆轲为上きょう[143]

荆轲帮助太子たいしたんかんぜんとげ杀嬴せいてき计划,知道ともみち嬴政悬赏黄金おうごんせんきんふう邑万户来购买樊於期的脑袋[144],就劝樊於[145]おおやけもとまえ227ねんはた王政おうせい20ねん),つばめこく以荆轲为正使せいしはたまい副使ふくし[146],带同樊於てき脑袋つばめこくとく亢的图,使しんこくけんじ给嬴せい[147]

 
はただいいしゆみつくえ西安しーあんきた出土しゅつどぞう陕西历史博物はくぶつ

荆轲带着价值千金せんきんてき礼物れいもつあつ赠嬴せい宠幸てき臣子しんしちゅう庶子しょしこうむよしみ[148]こうむよしみざい嬴政面前めんぜん说尽こう[149]れい嬴政だい为高兴,やすはいりょう外交がいこうじょう极为隆重たかしげてききゅう宾仪しき,亲自ざい咸阳宫接见荆轲与はたまい阳两じん[150][まいり36]。荆轲ささげ樊于てきくび级,はたまい阳捧着地ちゃくち图匣,按照ただし副使ふくしてき次序じじょぜん[151]はしいた殿しんがりまえだい阶下てきはたまい阳脸しょく突变,がい怕得发抖,大臣だいじん们都かんいたかい[152]。荆轲以“はたまい阳为蛮夷ばんいいん见过天子てんし严而しんせいおそれ惧”さくかい[153]。嬴政れい荆轲递上はたまい阳的图,荆轲てん开地图尽头,いち淬毒てき匕首ひしゅ[ちゅう43]出来でき[154]

荆轲左手ひだりてつめじゅう嬴政そで右手みぎてよう匕首ひしゅとげこう嬴政[155]。嬴政だい惊,站了おこりらい,挣断ころもそでおもえよう拔剑,却因为剑ふとし长,拔不出来でき[156]。荆轲つい赶嬴せい,嬴政绕柱奔跑[157]よし事情じじょう发生ぶと过突しか大臣だいじん们吓とく发呆,大家たいかしつつね态。而秦こくてき法律ほうりつ规定,殿上てんじょうさむらい大臣だいじんまこと许携带任なん兵器へいき武士ぶしざい殿下でんかぼつゆう诏谕不能ふのう上殿かみどの[158]。这时侍医じいなつ无且一个药囊向荆轲扔去,荆轲しんしゅ挡了いち[159]。嬴政趁这时把剑转到きさき拔出ぬけでかい头砍だん荆轲てきひだりもも。荆轲たおせはた匕首ひしゅ扔向嬴政,惜撞ざい铜柱。嬴政こう荆轲连砍はち剑,武士ぶし冲上殿どのらい,杀掉荆轲[160]こときさき嬴政评论こう过,赏赐群臣ぐんしん及处おけざいかんかくゆう别,其中以夏无且拦截荆轲有功ゆうこう,赏赐黄金おうごんひゃく[161]

嬴政だい雷霆らいてい,于公もとまえ227ねんはた王政おうせい20ねん命令めいれいおう翦、からしてき军队跨过えきすいだい败燕、だい两军于易すい西にし[162]。其后いちねんはた军攻おちいつばめこく都城みやこのじょうつばめおう太子たいしだいおうよしみとうじんりつ领全せい锐部队向东退もり辽东おう翦以しょうびょう为由归秦[163][164]はたすすむしん紧紧つい击燕おう与太よた[165]太子たいし隐藏ざい衍水河中かわなか[166]だいおうよしみ则建议燕おう杀掉太子たいし,以求嬴政てき宽恕[167]つばめおうせっ纳代おうよしみてきけん议,使者ししゃ杀了太子たいしてきじん头献给嬴せい[168]とう时秦军主りょく几乎调往みなみ线进おさむすわえこくつばめおうだいおうよしみ两人とく以在辽东苟延ざん喘。

过嬴せい并未いん而罢しゅねんきさきはた王政おうせい廿にじゅうねん),おう贲奉嬴政めいじ,扫除つばめこくざい辽东てき残余ざんよ势力,俘虏りょうつばめおう及代おうよしみ[169][170][171]つばめこく彻底灭亡[まいり36][まいり32]

灭齐こく

 
おおやけもとまえ210ねんてきしんこく疆域

おおやけもとまえ264ねん,齐王けん即位そくい在位ざいい达44ねん即位そくい初期しょきよしはは君王くんのうきさき辅佐。

齐国いん处在东部うみ滨,しんこく频频进攻さんすすむ及楚こく,这四国面对秦国的进攻只有分别谋求自救,いん此齐おうけん在位ざいい时期,齐国境内けいだい并没ゆう遭受ふとだい战祸[172]ただし这种和平わへい却是たてはじめ于其あまり四国しこくてき牺牲,いん为有这四国为田齐阻挡强秦,齐才享有きょうゆう和平わへい。另一方面ほうめん君王くんのうきさき生前せいぜん对秦こく处处にん让,对四国不施以援手,甚至赵国ざい长平战战败后,也没ゆう劝诫齐王けん及时援助えんじょ赵国,结果ずいきさきしん军轻えきつつみ围邯郸,赵国国力こくりょくだいそぎ,为六国灭亡种下远因。

君王くんのうきさき逝世きさきはた国重くにしげきむおさむ买了齐国丞相じょうしょう出身しゅっしん君王くんのうきさき家族かぞくてききさき使つかい齐国すんでごう纵抗しん,也不きょう战备,齐王けん甚至ざいおおやけもとまえ237ねんはた王政おうせいじゅうねん)亲自いたしんこく朝拜ちょうはい,嬴政ざい咸阳设酒えん款待かんたい[173]

はたこく灭五こくきさき齐王けんざい顿感しんこくてき胁,慌忙はた军队しゅう结到西部せいぶ边境[174],并断绝和しんこくてき来往らいおうただし为时やめばんおおやけもとまえ221ねんはた王政おうせい26ねん),嬴政以齐こくこばめ绝秦使者ししゃ访齐为由[175]いのちおう贲在灭燕きさきりつ军南おさむ[176],而こうむよし出身しゅっしんはた门,刚担任たんにんしんこくてきはた军,またゆう参与さんよ灭齐战事,さく战胜きさき授予ない[177]

はた军避开了齐军西部せいぶ主力しゅりょくゆかりつばめこく南部なんぶ南下なんか一路いちろ势如破竹はちく,几乎ぼつゆう抵抗ていこうだい军直抵齐临淄今山いまやま东淄はくきた),齐军措手及。齐王けん听从きさき胜的けん议,战而くだ[178][まいり36]きさき迁到どもじょう[179]はた军攻にゅう临淄きさき,百姓居然没人敢反抗[180]过事きさき齐国百姓反而埋怨齐王建不早与诸侯合纵攻秦,仅对しんこくげん听计从,以致亡国ぼうこく,讽刺どう:“まつ耶柏耶?じゅうけんどもしゃきゃく耶?”[181]

齐国てき灭亡也标こころざし战国时代てき落幕,结束500年来ねんらい诸侯长期わりすえ纷争てき局面きょくめんさい建立こんりゅうりょう中国ちゅうごく历史じょうだい一个中央集权君主统治国家——はた帝国ていこく。这一年秦王嬴政为三十九岁[まいり36]

卫君かくかいこく

おおやけもとまえ242ねんはた王政おうせいねん),はた军并吞魏じゅうしろざい该地设置东郡だいねんはた王政おうせい6ねん),韩、、赵、卫、すわえ五国组成联军进攻秦国,おさむうらないりょう寿ことぶきりょう邑。しんこく派出はしゅつ军队,五国停止了进军。しんこく继而おさむ卫国,卫君かくおもんみゆうりつ领他てき宗族そうぞく迁居いたおう,而魏こくてき河内かわちぐんいんさん势险阻而とく保全ほぜんただしちょう却被しんこくおさむうらないいたり于卫こく原本げんぽんてき首都しゅと濮阳则合并至しんこくてき东郡[182][61][183]

はた灭六こくきさき,卫国仍然嬴政保留ほりゅうちょくいたりしんせい元年がんねんさいれいはた其解こく,废卫君かく为庶じん[184],卫国从而なり为最きさき一个被秦国所灭的关东国家。よし此有学者がくしゃ认为,这可能かのう连系はたはじめすめらぎ皇后こうごう份的历史谜,也就说,嬴政てき皇后こうごうあるおうきさきゆう可能かのう出自しゅつじひめせい卫国おおやけぞく[まいり46],而公子こうし扶苏ゆう可能かのう为卫こくらいてき皇后こうごうあるおうきさきひめ所生しょせい[まいり46]ゆう另一说指扶苏生母为楚国公主[まいり47]),这也かい释了はたせいえびす即位そくいきさきりつそく废掉卫君かくてき原因げんいんそくしん二世矫诏杀死其兄扶苏后,剪除东方おこり义军利用りよう扶苏其外戚卫こくてきかげ响上てき[まいり46]

也有やゆう一说卫国早在公元前221ねんやめ经亡こく,卫国ほろび于秦二世元年是纪年方法解读分歧导致的错误。


分析ぶんせき

 
ともえしょくこうせき全景ぜんけい

历代しょう文人ぶんじん曾经さがせ讨过六国被秦国所灭的原因,其中以位れつからそうはち大家たいかてきさん父子ふし苏洵苏轼苏辙てき六国论较为著名。苏洵认为六国破灭的原因是“へいざい赂秦”[185]。苏轼则认为秦こくいん养士而轻えき灭六こく,而统一后又因视养士无用而速亡[186]大概たいがい宋朝そうちょう张元、吴昊两人いんるい试不だい而叛そうとうなつてき感慨かんがいいたり于苏辙则以地理ちり战略てき角度かくど着手ちゃくしゅゆびやま东六国必需保有韩魏两国作屏障,韩魏两国中原なかはらとう两国たもて,其余四国只能被秦国各个击破[187]

こと实上,六国之亡是主要受到内因外因等多个因素影响,三苏的论点合起来,さい接近せっきんはたのう统一ろくこくてき真相しんそうただし仍然ゆう不足ふそく处。孔子こうし曾说过“あししょくあしへいみん信之のぶゆき矣。”[188]しんじんのう做到あししょくあしへい国人くにびと信服しんぷくさんてんただよう上台うわだいてき昏君,自然しぜんのうけん并六こくれい如秦じんゆう关中沃野よくや[189]またゆうともえしょくてき盐铁[190]惧山东六国的盐铁封锁,きたゆう郑国みぞみなみゆうこうせきやめ做到“あししょくいちてん;军功授爵じゅしゃくしゅ级易こう士卒しそつ敢战,やめ做到“あしへいいちてん,而しょう徙木しめせしんじ,则做到“国人くにびと信服しんぷくいちてんいん此才对山东六国造成压倒性优势。

 
はただいいしゆみゆみようてき

じょ此之がいはた国武くにたけせいづくりてきりゅうほどあずか制度せいどじゅうふん严谨,まい一件兵器从生产工人、仓库保管ほかんこう场的责任じん,一直到中央政府的总监制者,よう实名ざい产品じょう记录。这种制度せいどしょう为“勒名こうかん”,すんで产品质量监管制度せいど,也是产品流通りゅうつう监管制度せいど以从头到つい踪每一件武器产品的行踪,いん此秦こく兵器へいき精良せいりょう无比[まいり41],1982ねん发现てきしんだい铜戈“じゅうななねん丞相じょうしょう启状ほこせい具体ぐたいれい(现收藏しゅうぞうざい天津てんしん博物はくぶつ馆)。

此外,しんこく地理ちり位置いち优越,其西南北なんぼく三个方向都没有强大,あるもの势均りょく敌的敌人,专心一致向东方扩张。そく使つかいせい东失败,ゆう崤山はこたに关之かたまたあし以自もりきゅう生息せいそくすわまちやま东六国互相攻伐。そうおこり三晋的地狭人众来说,しんこく说是广人まれ此秦こく经常招徕三晋百姓到秦国种地,并赐たくめん兵役へいえき,专事こう织,这样しんこく本土ほんど百姓就可完全投入兵役,轮番さく[191][まいり48]

ふみ书记载当时秦こく百姓ひゃくしょういさむ悍,却甚为单纯[192][まいり48],以兵えびすらい说则しん最强さいきょう悍,さんすすむ,齐人さいおびえ[まいり49]しんこく为免みん风变どく柔弱にゅうじゃくさい措施以尽りょう减少しんこく百姓与关东百姓的接触。如公もとまえ325ねんはためぐみぶんおう张仪こく陕县きさきそくはた当地とうちじんかいこく[193]しんこくそく使招徕さんすすむ百姓ひゃくしょう开垦,也只安置あんちざいしん地方ちほうあずかしんこく百姓ひゃくしょう接触せっしょく[まいり48]保持ほじきょう悍民风,またしんこくしょう灭六こくてきしゅ要因よういんもと

史家しかもりせいざい其著さく指出さしで战国时代各国かっこくみやことおる过税せい及户せき制度せいど百姓ひゃくしょう直接ちょくせつ支配しはいしょう为“编户齐民”(编入户籍てき农民),うけたまわ国家こっか赋税,さく国家こっかてき主要しゅよう经济支柱しちゅう过到りょう战国きさき,六国农民朝不保夕,经济破产,无法支持しじ战争てき开支及征召,六国的赋税基础受到破坏,いん而败ほろび[まいり50][まいり48]

六国合纵本是嬴政在统一战争最大的绊脚石,ただし六国本身各怀鬼胎,且山东六国之间亦时常发生战事,れい如赵つばめ两国やめ经因连年战争,而成为生だい敌,ざいおおやけもとまえ242ねんはた王政おうせいねん),つばめおういん赵国长期遭受しんこくおさむ击,主将しゅしょうれんまた出奔しゅっぽんこくつばめおうただしぼっゆう打算ださん援赵こうはたはん有意ゆうい趁火こう进攻赵国。出征しゅっせいぜんつばめおう曾询问剧辛关于庞煖てきじょう况,剧辛说庞煖容易ようい对付。つばめおう于是以剧からし为将おさむ赵国,赵国庞煖むかえ战。さい终赵军大胜,俘虏つばめこくまんにん,剧辛とりこ[194]。从上述じょうじゅつれい见六国合纵关系十分脆弱,终被しんこく逐一ちくいち轻易击破。

政治せいじ措施

嬴政よう武力ぶりょく统一ろくこくきさき,推行りょういち系列けいれつてき政治せいじ措施,ざい政治せいじ、经济及文化ぶんか方面ほうめんひとし对后造成ぞうせい巨大きょだいてきかげ响。

はつ并天しょう皇帝こうてい

 
はた代石たいし铠甲,陕西历史博物はくぶつぞう西安しーあん临潼はたはじめすめらぎりょう出土しゅつど

西にしあまね初年しょねんただゆうしゅう天子てんしざいしょう为“おう”,ただしひらおう东迁きさきしゅうしつおとろえ落,すわえ吴越三国分别僭越称王,而到りょう战国时代,しゅう天子てんし权威さらがた低落ていらく,其间发生“こくしょうおう事件じけん”,かく诸侯ただしかく自称じしょうおう,还互相承そうしょう认对かた君主くんしゅてき王位おういいち时间“おうてき称号しょうごうまた大幅おおはば贬值,いん此“すめらぎみかどめい开始形成けいせいとう各国かっこく诸侯为了合理ごうり自己じこてきせい权及统一てきすえ,纷纷从上古史こしちゅう找出根源こんげん,甚至为自己じこ王族おうぞく编造古代こだい帝王ていおう谱系。如战こくきさき齐湣おう及秦あきらじょうおう互称东西两帝[まいり48]

嬴政统一ろくこくきさきしたれい说:“寡人以眇すがめ,兴兵诛暴みだれ,赖宗庙之灵,六王咸服其辜,天下てんかだいじょうこん名号みょうごうさら,无以しょう成功せいこう,传后。其议みかどごう。”于是丞相じょうしょうおう大夫たいふ冯劫、及廷じょう斯等じんしょう议说,五帝的土地虽然广阔,外面がいめん还划分有ぶんゆうこうふくえびすふくとう地区ちく,诸侯觐见よし天子てんしひかえせいしょう诸侯さら听宣听调,嬴政てきこう业已经超越ちょうえつさんすめらぎみかど古代こだいゆう天皇てんのうすめらぎたいすめらぎとうしょう谓,以たいすめらぎ[ちゅう44]さいみこと贵,いん此向嬴政献上けんじょうたいすめらぎてき尊号そんごう。颁布律令りつりょうてきしょう为“せい”,诏告天下でんか事件じけんてきしょう为“诏书[ちゅう45]印章いんしょうしょう[ちゅう46]しょ说的话称“谕”,群臣ぐんしんしょう其为“陛下へいか”。天子てんしさい自称じしょう为“寡人[ちゅう47]改称かいしょう为“ちん[ちゅう48][195]ただし自称じしょうちんきゅうねんきさき自称じしょう真人まさと

嬴政接受せつじゅおう绾等人的じんてきだい多数たすうけん议,ただし对于群臣ぐんしんこう自己じこ献上けんじょうてき尊号そんごうたいすめらぎ”,则将其泰掉,さいよう上古じょうこみかどいちしょう为“皇帝こうてい”,并追みこと其父しょうじょうおうふとし上皇じょうこう,废除谥法[ちゅう3][196]自称じしょう始皇帝しこうてい”,きさきだい则称せい三世さんぜちょくいたまんせい[5]百姓ひゃくしょう则称为“黔首[197][まいり11]

另一方面ほうめん,嬴政またいのち斯将かずいち说是蓝田だますりなりたままたそくきさき世相せそう传的“传国だま[ちゅう49]たま玺大しょうよんすん方形ほうけいゆかり咸阳だまこうおう孙寿はたかず璧精けん细磨[まいり51]たま上方かみがた雕著五条ごじょう龙,うえうつしはち个虫鸟篆字てんじすえ记载现存ひらけかたゆうひろしてんめいじ皇帝こうてい寿ことぶきあきら[まいり52]”、“受命じゅめい于天,すんで寿ことぶき永昌えいしょう(见《三国志さんごくし·吴书》)”、“受命じゅめい于天,すんで寿ことぶき且康(见《应氏汉官》、《すめらぎはじめ纪》)”以及“受天めいじ皇帝こうてい寿ことぶきあきら史家しか裴松说法)”よん种说ほう

五德ごとく终始说

はたはじめすめらぎさいよう战国阴阳邹衍てき五德ごとく终始说,认为みかどぞくとくゆう龙和だい蚯蚓みみず现。なつあさとく木德きとくゆうあお龙降落在都城みやこのじょう郊外こうがい草木くさき长得格外かくがい茁壮しげもりしょうあさとくきむいさお所以ゆえんざい从山ちゅう流出りゅうしゅつ银子らいしゅうちょうぞくとく所以ゆえん现赤乌的さちはしはた继周而兴,じょうはたはじめすめらぎてき先祖せんぞはたぶんこうざい猎时ぐうじょうくろ龙,しん应属すいとく。为配合はいごうすいとくてき特性とくせい,以じゅうがつ为岁くび年初ねんしょあさ贺改いたりじゅうがついちにち进行,しょくなおくろ、终数ろくいん而规てい衣服いふく旄旌节旗みななおくろ传、ほうかんむり、舆乘(天子てんしじょうろくしゃく、车驾ろく马)とう制度せいど以“ろく”为数,并更改こうかい黄河こうがてき名称めいしょう为“とくすい”。其他すいとくてき特性とくせい包括ほうかつ方向ほうこうひさしきた”,节尚“ふゆとう[まいり1][まいり11]よし为水ぬし阴,阴代表だいひょうけい杀,はたはじめすめらぎ以此さく为其加重かじゅう严刑ひど法的ほうてきすえ[198][199]

さんおおやけきゅうきょう

よし于秦だいこく祚短暂,じょう记载残缺ざんけつ,对于しんだいてき官僚かんりょう制度せいどただのう作出さくしゅつ间接推断すいだんただし无论つかさ马迁てきふみ》,还是东汉はんかたところちょ汉书》,ゆび汉承しんせいいん此对于秦はじめすめらぎ时期てき官僚かんりょう体制たいせい主要しゅようすえ汉书·百官ひゃっかん公卿くぎょうひょうてき记载。过无论如なにはたはじめすめらぎ确立百官ひゃっかん体制たいせいしょうさんおおやけきゅうきょう”,并沿ようきさきてき说法,仍为じん广泛接受せつじゅ

关于“三公みつきみ”一词出现的时间,应在春秋しゅんじゅうすえ[まいり53]いたり于“きゅうきょう”则自しゅうはついたり战国初期しょき曾发现各国かっこくさいよう此官せいてき证据,ただし以确じょうきゅうきょう”一词出现在春秋鲁定こう鲁哀こう在位ざいい[200],且与‘三公みつきみ’连在いちおこりさきしん文献ぶんけんちゅう关于九卿之说的确切记载是《吕氏春秋しゅんじゅう[201],另外《吕氏春秋しゅんじゅう·じゅう纪》なか也有やゆう类似てき制度せいど描述,以视为‘きゅうきょう’一词的最早出处[まいり53]

はたはじめすめらぎ统一ろくこくきさき,确立百官ひゃっかん体制たいせい,以丞しょう总理国政こくせい·ふとしじょうてのひら军事;大夫たいふてのひら纠察监察工作こうさく,统称为三こう。“三公みつきみしも设“きゅうきょうてのひらひかえ宫廷ごと务,包括ほうかつろうちゅうれい(宫中保安ほあん)、あわないてのひら财政)、たてまつつねてのひらむね庙礼仪)、ふとしてのひら皇室こうしつ舆马)、廷尉てのひらけい狱)、しょうてのひら山海さんかい泽)、卫尉てのひら宫门卫兵)、てんきゃくてのひら蛮夷ばんいこと务)及そうただしてのひら宗室そうしつごと务),ただしよし文献ぶんけん记载てき缺乏けつぼうのう确定ふとしじょう及御大夫たいふ真正しんせい履行りこう实务。いたり于九卿的数目开始时只是象征式,ただ观念上之うえの官制かんせい,并未尝为“きゅう数字すうじしょかかわちょくいたり东汉ざいはた观念じょうきゅうきょうすわ实为ごと实上きゅうきょう[まいり53][まいり48]

另一方面ほうめんはた代官だいかんせいまた博士はかせななじゅうにん,以备咨询,また设将军(てのひらせい讨)、しょうさくしょう宫室),所有しょゆうかん员都よし朝廷ちょうてい委任いにんずい时调动任免にんめん,并须每年まいとしこう绩。はたはじめすめらぎ建立こんりゅうてき官僚かんりょう制度せいどなり为历あさ政治せいじ制度せいどてきてん[まいり48]

さいようぐん县制

 
はたちょう诸郡

しんこくしょう灭六こくきさきあさ堂上どうじょう对于如何いかかんろくこく究竟きゅうきょうさいよう沿用やめひさてきぐん县制,还是复行封建ほうけんてん开讨论。とう时丞しょうおう绾认为,つばめこく、齐国、すわえこく处偏远,わかはて不在ふざい此三分封ぶんぽう宗室そうしつ,此三地就无法真正被朝廷控制,いん此建议秦はじめすめらぎ分封ぶんぽう诸子,以屏はん皇室こうしつ。这个けん议尽かんいただい部分ぶぶん大臣だいじん支持しじただしとう担任たんにん廷尉てき却力はい众议[202]

斯以しゅう王室おうしつ作例さくれいゆびしゅう王室おうしつまた分封ぶんぽうしょうひめせいおおやけぞくただし们的きさきだい却因为血缘疏远,纷纷わりすえ,互视对方为寇かたきしゅう天子てんし根本こんぽん无力阻止そし诸候间的そうはし,而且诸侯根本こんぽんさいしょう王室おうしつざいないさいしゅうちょうぶんくずし离析。分封ぶんぽう诸子ただかい导致きさき诸侯わりすえへいかぶといき[まいり54]よう使つかい天下でんかやす宁,ただのう推行ぐん县制,对于皇子おうじ功臣こうしんよう公家くげてき赋税重重じゅうじゅう赏赐,这样ざい以消じょ天下でんか人的じんてき野心やしん[203]

はたはじめすめらぎ认同斯的[まいり11]ゆび诸侯おうざい扰乱天下でんかてき祸端,せいいん为他们的存在そんざい天下てんか人才じんさい于连ねん战争无止无休,渴求和平わへい。如果おもしん分封ぶんぽう诸王,ただかいじゅうえんじ春秋しゅんじゅう战国时,各国かっこく互相おさむてき况,いん此决じょう天下てんかぶんさんじゅうろくぐん[ちゅう50]ちょくいたりはたほろび为止,きょうおけじゅうよんぐん[まいり55]まいぐん设置ぐんもりてのひら民政みんせい)、ぐんじょうてのひら军政)、ぐん监(てのひら监察)[204]ゆかり中央ちゅうおう朝廷ちょうてい委任いにんとく袭,并须こう朝廷ちょうてい汇报租税そぜい、户口及治安ちあんじょう况。以下いかしんだい初期しょきさんじゅうろくぐんてき资枓:

すえ刘宋裴骃ふみ记集かい》记载,はたはつさんじゅうろくぐんぶん别是:

はたはじめすめらぎ决定ざい地方ちほうじょうさいよう三级行政区划制度,构建中央ちゅうおうぐん—县—乡—ていさと—什——户的纵向金字塔きんじとうしきてきひかえせい体系たいけい,以加きょう地方ちほうてきひかえせい主要しゅようざいぐんこおりまもるぐん设县,县设县令ただししんだいてき国家こっか行政ぎょうせいつくえ构只设到县级[まいり56]。县之实行“乡亭せい”(またたたえ乡里制度せいど),设“乡”,具体ぐたい办法ざい“乡”级设“さんろうてのひら教化きょうか,“啬夫”听讼せいぜい,“ゆう徼”侦缉ぬすめ贼。此外,乡级以下いか利用りようみん间力りょうらい[まいり56]いち乡辖じゅうちん,设ちんいちちんじゅう,设“さとさきがけ”(またたたえさとただし);いちさと辖百いえ为伍,じゅういえ为什。这种制度せいど为秦あさ带来りょう巨大きょだいてき动员能力のうりょく[まいり57][まいり48]そく使つかいさんひゃく多年たねんまえてきなみきょ鲁士大帝たいてい创建帝国ていこく时,おもねちぎりあまとく王朝おうちょうただゆうしょう萨特ひしげひさしかず县作为行政ぎょうせい划机构[まいり58]。。

じょ此之がい,历来盘踞ざい淮河流域りゅういきてき淮夷、泗夷はややめ变为みん[205],而秦はじめすめらぎ统一天下でんかきさきざいいま福建ふっけんしょういち地方ちほう设置闽中ぐんよし于秦はじめすめらぎ认为闽中ぐん远离中原なかはらあらふくくに”,处偏远,山高やまたか险,而且越人えつじんきょう悍,难以统治,实际じょう并未派遣はけん官吏かんり往闽ちゅうただ废去当地とうち酋长无诸驺摇てきおうごう改称かいしょう们为“きみ”,并让其继续统该地[206]

ぐん县制ざい全国ぜんこく推行きさき,标志六国故地不会再有拥兵割据,官吏かんり,财政独立どくりつてき诸侯[まいり59]。此外,百姓的籍贯不再用以前所属的诸侯国,れい如楚国人くにびと、齐国じんとうさく为识别,而是よう其所处的ぐんめい以咨识别[まいり57]

过自しん灭汉兴后,汉高祖こうそ刘邦认为しん王室おうしつ推行ぐん县制きさきいん缺乏けつぼう宗室そうしつへいはん,过于孤立こりつ而亡;またがい怕诸こうおうふとしきょうもり造成ぞうせい皇室こうしつてき衰弱すいじゃく,于是推行ぐんこく并行せい施行しこうぐん县制,ただし也封刘氏宗室そうしつ子弟していざいかくだい要地ようち为王,さく折衷せっちゅう。刘邦てきさく为,导致きさきてき吴楚ななこくみだれよし此历だい统治しゃ试图ざいぐん县制いたり分封ぶんぽうせい间,取得しゅとく一定いっていてき平衡へいこう,以维持国もちくに祚。

销毁兵器へいき

为了防止ぼうしろくこく遗民さくみだれはたはじめすめらぎれい收集しゅうしゅう天下でんかてき兵器へいき,聚集いた咸阳熔化,铸成だい钟及じゅう个铜じんまい个铜じん个重达じゅうよんまんきん[ちゅう51]放置ほうちざい宫廷さと[207]

险阻,坠城廓じょうかく

おおやけもとまえ215ねんはたはじめすめらぎ32ねん),はたはじめすめらぎ进行だいじゅんゆう经碣せき宣布せんぷ拆除げん关东六国建造的城廓及堤防,しょう为“坠城廓じょうかく、决堤防ていぼうえびす险阻”,并在碣石山いしやま门刻石立いしたて碑文ひぶん内容ないよう如下:

とげ兴师たび,诛戮无道,为逆灭息。たけ殄暴ぎゃくぶん复无ざい,庶心咸服。めぐみ论功劳,赏及うし马,おん肥土ひどいき皇帝こうてい奋威,とく幷诸こうはついち泰平たいへい。堕坏城郭じょうかく,决通かわぼうえびす险阻。既定きていはじむ庶无繇,天下てんか咸抚。おとこ乐其畴,じょおさむ其业,ことかくゆうじょめぐみ诸产,ひさ并来,莫不安ふあんしょ群臣ぐんしん诵烈,请刻此石,たれちょ仪矩。

译文:皇帝こうてい兴师用兵ようへい,诛灭无道きみようはん叛平いき武力ぶりょくしょう暴徒ぼうとほうひらたはん良民りょうみん民心みんしんぜん归服。论功ぎょう赏众しんめぐみ泽施及牛马,すめらぎおんへんぬの全国ぜんこく皇帝こうてい神威しんい,以德けん并诸こう天下てんか统一太平たいへい。拆除关东きゅうしろ,挖通河川かせん堤防ていぼうえびすひらたかく处险阻。势既やめ平坦へいたん,众民不服ふふく徭役,天下あもりとくやす抚。男子だんし欣喜きんき耕作こうさく女子じょし修治しゅうじじょ红,事事ことごと井然せいぜんゆうじょすめらぎおんくつがえひゃく业,合力ごうりょく勤勉きんべん耕田こうだ,无不乐业安居あんきょ群臣ぐんしんけい颂伟业,けい请镌こく此石,永留ながどめてん范规のり
—《记·はたはじめすめらぎほん纪》

いたり于拆じょげん关东ろくこくしょ建造けんぞう堤防ていぼう原因げんいん为了しょうじょ地方ちほうわりすえ,这是よし各国かっこく堤防ていぼうてき设计不合理ふごうりすえ孟子もうこ·つげへんてき记载,こく著名ちょめい水利すいり专家及商じんはくけい曾向孟子もうしゆび自己じこすい患的水平すいへい胜过だいただし孟子もうし却不以为しかゆび责白けいただこれはた邻国とうさく蓄水てき沟壑,そくこれはた洪水こうずい引向别国,れい百姓ひゃくしょう厌恶[208]

此外,すえ《汉书·沟洫こころざしてき记载,とう时齐こく赵魏两国以黄かわ为界,赵魏两国处黄河上かわかみゆう势较だか,齐国てき低下ていか黄河こうが泛滥时齐こくしょ遭受てき灾害就较严重,いん而齐こくくびさき沿着黄河こうがけん筑了いちじょう离河じゅうさとてき堤防ていぼう,以防どめ黄河こうがてき泛滥。从齐こく沿黄かわ筑了堤防ていぼうれい黄河こうが泛滥てき水流すいりゅう冲向赵魏两国,于是赵魏两国也沿黄河こうがけん筑了いちじょう离河じゅうさとてき堤防ていぼう[209]。从以じょう记载见,战国诸侯ゆう利用りよう水利すいり设施,さく为削じゃく敌国てき手段しゅだんいん此秦はじめすめらぎざいきょう调采“决通かわぼうてき措施。

“坠城廓じょうかく、决堤防ていぼうえびす险阻”とう措施,じょりょう防止ぼうし六国遗民据险作乱外,还有方便ほうべん交通こうつう,促进贸易てき作用さよう

徙置富豪ふごう

はたはじめすめらぎけし灭六こくきさき便びんれい迁徙关东六国富豪十二万户入咸阳[210],其中以齐すわえ两地出身しゅっしんてき富豪ふごう为主[まいり40][ちゅう52]。齐鲁儒生じゅせいまたゆう讥讽はたはじめすめらぎふうぜん[まいり40]过相おこり齐国らい说,はたはじめすめらぎさら为担こころすわえこく[ちゅう53]れい如他往楚こくじゅん视期间,史籍しせき见其在江あるえきむりょうきょくおもね等地とうち天子てんし气的记载[まいり40],而且“ほろびはた必楚いち说,また反映はんえいすわえじん强烈きょうれつてき复仇欲望よくぼうよし此徙みん以齐すわえ为主,也就变得しょ当然とうぜん

另一方面ほうめん,迁徙富豪ふごう还有其他政治せいじ用意よういじょりょうしげる首都しゅとがいさら避免富豪ふごうあずか六国贵族互相勾结。此外,富豪ふごう们在本地ほんじけん并土高利こうり造成ぞうせい地方ちほう不安定ふあんていいんもとはた们迁徙至咸阳,またゆうじょけしじょ地方ちほう势力[まいり48]

统一文字もじ

 
はたしょう篆刻てんこくせき

はたはじめすめらぎ为统いちにん们的思想しそう大造たいぞう天神てんじん,统一文字もじ强行きょうこう教化きょうか使つかい小篆しょうてん隶书为全国ぜんこく通行つうこうてき字体じたい,对中国ちゅうごく文化ぶんか政治せいじ发展产生りょうふか远的かげ响。

はたはじめすめらぎ统一天下でんかきさきとく悉六国文字各不相同,决定推行“同文どうぶん政策せいさく,按照とう时任廷尉てき斯所そう,废除关东ろく国原くにはらゆう文字もじ[まいり57][まいり11]はたふみ大篆だいてんえんじ而来てき小篆しょうてんまたたたえはた篆)さく全国ぜんこく通用つうよう字体じたい[まいり60],于是れい斯作《仓颉》ななしょう赵高さく《爰历》ろくしょうふとしれいえびす毋敬さく博学はくがく》七章作为全国规范字帖,みな取材しゅざいしゅうせんおう时期てき大篆だいてんふみ籀》じゅうへん[211][212]ただし现时世人せじんみなたたえ斯为小篆しょうてんてき鼻祖びそ[まいり61],其相传书迹有《泰山たいざんこくせき》、《琅琊だいこくせき》、《峄山こくせきかずかい稽刻せきとう

西にし时期,闾里书师しょう三篇以六十字为一章合并为《苍颉へん》,きょうじゅうしょう[213]西にし汉时またたたえ《仓颉》、《爰历》、《博学はくがく》为さん[まいり62]ただしいん原因げんいん,《苍颉へん文字もじだいしつ传。

另一方面ほうめんすえからあさ张怀瓘ところちょ《书断》记载,はたちょう邽(いま陕西しょう渭南にんほどもと岑)ざい狱中はなりょうじゅうねん时间,创造隶书[まいり63]いたはたはじめすめらぎ赏识,任命にんめい为御よし小篆しょうてん难以ざいそうごと繁多はんたてき环境使用しよう此程邈发あかりてき字体じたい颇受欢迎,而因为程邈字体じたいおこりはつ专供隶役应用,所以ゆえん这一书体称之为隶书[214]ただし正史せいしぼつゆう关于ほど邈的生平おいだいら记载。

经济措施

统一度量衡どりょうこう

度量衡どりょうこう传统じょう计量长度、からだ积、重量じゅうりょう单位てき统称。ようらい计算长短,りょうようらい测量たい积,衡则ようらい计算物件ぶっけん重量じゅうりょう战国时代各国かっこくさいよう不同ふどうてき度量衡どりょうこう标准,致令ざい换算过程ちゅう显得じゅうふん混乱こんらん

以计さん物件ぶっけんたい积的“りょうらい说,各国かっこくゆう计算“りょうてき标准,れいこくまとりょうせい以益、、斛为单位,齐国まとりょうせい以升、まめがま、钟为单位。すえひだり》记载,きょうてきじょうせいよんしょう为一まめよんまめいちよん为一がま,十釜为一钟[215]国田くにた门阀为了夺取きょうてき国政こくせい权,おさむ买民しんあらため变量せい,以しょう为豆,まめ为区,为釜,じゅうがま为钟。另一方面ほうめん,以量物件ぶっけん重量じゅうりょうてき“衡”らい说,赵国てき衡制以𬬱、镒为单位。すわえこく以铢、两、きん为单すえすわえはか出土しゅつどてき砝码测量,すわえせいいちきん平均へいきん值是260.798かつ[まいり64]

各地かくち度量衡どりょうこう制度せいどてき不同ふどう,显然不利ふり统一,此秦はじめすめらぎざいおおやけもとまえ221ねんはたはじめすめらぎ26ねんしたれい统一全国ぜんこくてき度量衡どりょうこう,以しょう鞅变ほう制定せいていてきしん度量衡どりょうこうさく为标なぞらえ,规定标准度量衡どりょうこう器具きぐ须由かん负责监制,みん间不どくわたし铸,また规定ろくしゃく为步,ひゃくよんじゅう为一亩[まいり65]しんだい度量衡どりょうこう器具きぐてき测算标准为:いちしゃく为23.1りんまいいちしょう为201毫升,いち为2010毫升,いちきん为256.25かついちせき(120きん)为30.75おおやけきん[まいり64]まいけん标准度量衡どりょうこう器具きぐひとしこくじょう以小篆写なりてき铭文[まいり60]

廿にじゅうろくねん皇帝こうていつき并兼天下でんか诸侯,黔首大安たいあんだてごう皇帝こうてい。乃诏丞相じょうしょうじょう、绾:法度はっとりょう则不いち,歉疑しゃみなあきら壹之いちの

かい说:诏书ちゅうてき廿にじゅうろくねんそくはたはじめすめらぎ26ねんおおやけもとまえ221ねん)。“皇帝こうていゆびはたはじめすめらぎ。“黔首”ゆび百姓ひゃくしょう。“丞相じょうしょうじょう、绾”ゆびみぎ丞相じょうしょう隗状かずひだり丞相じょうしょうおう。“法度はっとりょう则,いち、歉疑しゃみなあきら壹之いちの”,意思いしゆび度量衡どりょうこう统一或者有问题的话,ようろう清楚せいそ,并统いちおこりらい[まいり66]
—《あお铜诏ばん[まいり67]

过秦はじめすめらぎ也明しろようざいたん时间ない推广单一てき度量衡どりょうこう标准,说是相当そうとうこま难,甚至ゆう可能かのう引起いち场大混乱こんらんよし一般いっぱん推断すいだんはたはじめすめらぎかいざい统一度量衡的诏书下达前,さき设立いち个过わたり,暂时承认各てき度量衡どりょうこう标准,并制定せいてい严格てき换算りつさく为折衷办ほう[まいり68]

相似そうじてき铁权ざい全国ぜんこく各地かくちゆう发现,其上うつし廿にじゅうろくねん皇帝こうていつき并兼天下でんか诸侯,黔首大安たいあんだてごう皇帝こうてい。乃诏丞相じょうしょうじょう法度はっとりょう则不いち,歉疑しゃみなあきら壹之いちの
やま东威うみぶんとう出土しゅつど,现存于けむりだい博物はくぶつ
あま肃天すいはたしろ出土しゅつど

货币

统一货币可说是秦始皇在经济领域方面的重大举措。はたはじめすめらぎさんじゅうななねんじゅうしん发行钱币,ばららいてき圆形かたあな钱推广全国ぜんこく,废除はららい全国ぜんこくかく地相ちそう异的货币,克服こくふく过去商品しょうひん流通りゅうつう使用しよう换算てきこま难,使つかい货币ざい全国ぜんこく范围ないゆうさらてき流通りゅうつうささえづけ储蓄てき价值作用さよう

战国时期各国かっこく使用しようてき货币,无论ざい形状けいじょう、价值不尽ふじんしょうどうとう通行つうこうてき货币主要しゅようゆうよん种形态,ぬの三晋地区主要的流通货币,形状けいじょうぞう农具ちゅうてき镈(bó,ひろし);此外,齐燕赵三国亦流行使用呈小刀状的“かたな”,ゆう些刀币更长达じゅうろくおおやけぶんしん西にしあまね东周、赵魏沿河(もたれきんしんこくこれ流行りゅうこう“圆钱”;いたり于郢爰与铜贝,则只ざいすわえこく流通りゅうつうとう时货币经济仍确立,各国かっこく铸货币,甚至私人しじん铸币,货币价值则取决于其中てき含铜りょう,含铜りょういよいよこう,货币てき价值いよいよたか[まいり64][まいり68]

はたはじめすめらぎいん各地かくち币制紊乱びんらんとげ废止关东ろく国原くにはらほん通行つうこうてき珠玉しゅぎょく、龟贝、银锡とう货币[216]あらため以黄きん为上币,以镒[ちゅう54]じゅう[ちゅう55])为单,圆形かたあなてき铜钱为下币,ぶん曰“はん[217]直径ちょっけいいちすんふんじゅうじゅう[まいり69]

需要じゅよう注意ちゅういてき,“はん两钱”ただ对秦こく铜钱てき统称,ゆび铜钱てき实际重量じゅうりょうすえふみ记·ひらじゅん》记载,はた钱既じゅうまた轻重不一ふいつ[218]此难以使用しよう,并非一种理想的货币。另一方面ほうめん,“はん两钱”圆形かたあなてき设计,またはたはじめすめらぎくび创,はんかた汉书·しょく货志》记载しん钱“质如しゅう[ちゅう56]”,见在はたはじめすめらぎ统一ろくこくまえやめ经有类似てき货币设计。过无论如なに,圆形かたあなてき铜钱设计以用绳索捆绑なりくし,携带方便ほうべんとげなり为东亚各国かっこく货币てき原形げんけい

じゅう农抑しょう

はたはじめすめらぎざい统一ろくこくきさき大力だいりき推行じゅう农抑しょうてき措施,ざい琅琊だいこくせき明白めいはくうつし:“皇帝こうていこう,劝劳ほんごとうえ农除まつ,黔首とみ。”[まいり17],其具体ぐたい措施これ商人しょうにんざいはんやつ隶作为首さき“谪戍”(たかしてき对象,让他们长出外ではずれ远征,并到しん征服せいふくてきあら地方ちほう开垦,如かわ套地かつらりん南海なんかい等地とうち使つかい边地いた开发[まいり65]とう时秦徭役ほう规定,しゅさきせい召有ざい吏、赘婿[ちゅう57]及贾じんそく商人しょうにん);其次せい召曾为商贾的じんさい其次せい召祖父母ちちははある父母ちちはは曾为しょう贾的じん。此外,とみじん也得さきふく徭役,しょう发闾みぎ”,さいきさきざいせい召贫じゃく人家じんかしょう发闾ひだり[219][まいり65]

过秦はじめすめらぎ并非ひな视商じん本身ほんみ相反あいはん对某些富しょうだい贾,仍给一定いっていてき尊重そんちょうれい如当时有个经营畜まき业的だいとおる乌氏倮,牲畜いた山谷さんや为单らい计算数量すうりょうはたはじめすめらぎ诏令乌氏倮位あずかふうくん同列どうれつ,按规てい时间どう大臣だいじん进宫朝拜ちょうはい。另一方面ほうめんともえしょくゆう个名さけべきよしてき寡妇,其先祖せんぞ自得じとくいたしゅすなきさき,竟独揽其达好几代じんいえ产也いた计其すうさら以弱女子じょしもりじゅうさき人的じんてき业。はたはじめすめらぎ认为寡妇きよし个贞妇,じょりょう对她以客れいしょうまちがい,为了ひょう扬她还为她修筑了“おんな怀清だい[220]

使つかい黔首实田

すえ刘宋裴驷《ふみ记集かい》引东すすむじょ广叙述じょじゅつゆびざいおおやけもとまえ216ねんはたはじめすめらぎ31ねん),はたはじめすめらぎ诏“使つかい黔首实田”,ただし对于此诏れいてき真正しんせい意思いし史学しがくかい众说纷芸。ゆう学者がくしゃざい著作ちょさくたたえ,此诏れいゆび国家こっか规定すう额,让黔くび自己じこ设法占有せんゆうあし额土さい证按规定ある阶级授田,并认为这战国授田せいてきくずし[まいり70],此外さらゆび西にし汉初ねんてき名田なたせいせい使つかい黔首实田”政策せいさくてきのべ续。

じょ此以がいはたはじめすめらぎ31ねん时的粮价だかとく离奇,べい价每せき为一せんろくひゃく[221]平常へいじょうねん份粮价为ごとせき30钱[ちゅう58]),ただし该年却没ゆうにんなん大型おおがた自然しぜん灾害てき记载。よし于史りょう缺乏けつぼう无从得知とくち粮价だかのぼるあずか使つかい黔首实田”てき因果いんが关系。

一方いっぽう见则ゆびはたはじめすめらぎふと可能かのう让百姓自行占有土地[ちゅう59]いん为自しょう鞅变ほう以来いらいしんこく一直以授田制把农民束缚在土地上,证官对农みんてき人身じんしんひかえせい,而土地原ちはら则上国有こくゆうてきゆかり国家こっか授田给百姓ひゃくしょうこう[まいり71]。从控せい百姓的角度来说,给予百姓自行占有土地的自由,そくとう于削じゃく自身じしん百姓ひゃくしょうてきひかえせいりょく,而控せいりょく一旦いったんそぎじゃく国家こっか就会引发动乱,这恰恰是はたはじめすめらぎしょすなおいたてき[まいり71]

いん此,“使つかい黔首实田”一句未必指废弃秦国原有的土地制度(国家こっか授田せい),土地とち国有こくゆうてき政策せいさく并未根本こんぽんあらため变,该诏れい可能かのう要求ようきゅうしんきんいた授田てき百姓ひゃくしょうたかし实”从国家こっか领到てき土地とち努力どりょく垦荒,专心农耕,不要ふよう弃农经商[まいり71]

军事けん

はたはじめすめらぎ在位ざいい间大兴土木どぼく主要しゅよう为了国家こっかてき安全あんぜんかずけん设,ただし也给とう时百姓带来繁重的徭役负担。

おさむ筑长じょう

 
はただい长城,しょうてん关东ろくこく建造けんぞうてき长城,だいてん则是はたはじめすめらぎ时期建造けんぞうてきいち部分ぶぶん长城,历代朝廷ちょうてい以秦长城为蓝ほん定期ていき对之进行おさむ复及のべ长。

おおやけもとまえ214ねんはたはじめすめらぎ33ねん),はたはじめすめらぎはたこうむりつさんじゅうまんにんおさむ匈奴きょうどうらないすえかわ。为了抵御北方ほっぽうゆうまき民族みんぞくてき侵略しんりゃくはたはじめすめらぎれいはたはた赵燕三国修筑的旧城墙连接起来,从临洮いた辽东绵延まんなり为“万里ばんり长城”てき前身ぜんしん[222]ざいおさむ北方ほっぽう长城てきどう时,はら诸侯こくよう以“互防”てきしろ墙被拆毁[223]

はた长城だい致分为西だんきただん西段にしだんおこり于今あま肃省岷县,循洮河きたいたる临洮县,经定西にし县向东北いたり宁夏かたげんあま环县陕西やすし横山よこやま榆林神木しんぼくしかきさきこうきたおりいたりいまうちこうむふるたくかつたくみなみ,抵黄河こうが南岸なんがんきただんそく黄河こうが以北いほくてき长城沿阴山西段にしだんてきおおかみやまこう东至だい青山あおやまきたふもとさいこう东经いまないこうむしゅう兴和いたり河北かほくなおさいこう东北经今河北かわきた张北、围场,さいこう东经抚顺もとけいきさきこう东南,终点在てんざい汉乐なみぐんとげじょう[224]いまあさ清川きよかわこう入海いりうみ处)。あずか现代とめそんてきあかり长城しょうはた长城てき工程こうてい规模远远及。现时もたれちかきゅうはらてきうちこうむ自治じちかた阳县うち便びん残存ざんそんはたちょう建造けんぞうてき长城遗迹[まいり68]

过后しょうひと质疑はたはじめすめらぎおさむ长城てき义。こうむ恬死きさきぼつ多久たく匈奴きょうど便びん轻松またが过秦长城,ただしおさむ复了ばららいてき失地しっち,并且侵入しんにゅういたりつばめぐんだいぐん[225]见长じょう本身ほんみざい抵御匈奴きょうどてき作用さよう并不わかそうぞう中大ちゅうだい

筑驰どうあずか车同轨

はたはじめすめらぎ从公もとまえ220ねんはたはじめすめらぎ27ねん[226]开始,大幅おおはばおさむ筑以きょう师咸阳为中心ちゅうしんこう四面八方延伸出去的驰道,类似现代てき高速こうそくおおやけはたはたばら六国境内的旧道连接起来,并加以扩けん斯正其中一名负责驰道修筑工程的大臣[227]

驰道本来ほんらい天子てんし专用てき道路どうろ[ちゅう60]おさむ筑驰どう最初さいしょただ为了方便ほうべんはじめすめらぎじゅんゆう,军事用途ようと过是带的こうのうすえ汉书·贾山传》记载,はた驰道宽50ごういま6.9まい),约隔さんたけごういま7まい)载一颗树,ようらい计算道路どうろてき里程りてい[228]。驰道两边すえ当地とうちじょう况,种植杨,やなぎえんじゅ,榆等树。驰道てきもとあつてい“龟背がた”,形成けいせいいち个缓坡,有利ゆうり排水はいすい著名ちょめいてき驰道包括ほうかつ上郡かみごおりどう、临晋どう、东方どうたけ关道、西方にしかたみちはた栈道及秦直道なおみち[まいり72]

ざい众多驰道ちゅう,以はた直道なおみちさい为著めいすえふみ记》记述,はたはじめすめらぎれいおさむはた直道なおみちてき主要しゅよう目的もくてき为了じゅんゆう天下てんかざいはたはじめすめらぎ35ねんおおやけもとまえ212ねん任命にんめいこうむ恬兴たてゆかりあまいずみ宫(于云阳,いま陕西しょう咸阳じゅん西北せいほくちょく达大ばくふか处的きゅうはらこおり直道なおみち,达一せんはちひゃく工程こうてい相当そうとうひろしだいこらえしょう两千多年前的军用高速公路,ただしようそぎひら高山こうざん,还需よう劈山はまたに,而且しょ经之处地势险恶、ひと迹罕いたり,甚至えつ海拔かいばつ1800まいてきうま岭而回避かいひしか而这じょう直道なおみちぼつのう完成かんせい[229][230]ただしざいこんてん陕西しょう北部ほくぶてき大山おおやまちゅう直道なおみちてき遗迹きゅうきよし晰可见[まいり46]

すえこう证,はた直道なおみち完全かんぜん人工じんこうづくり,以每ろくいたりななりんまい为单はた黄土おうど固定こていかたきさきさい铺上一层相同厚度的黄土,しかきさき将之まさゆきまたかた,这种けん筑方ほうしょう为“はん筑法”,以版筑法かた过的土壤どじょうかい变得非常ひじょう坚实,植物しょくぶつ无法ざい这种土壤どじょうじょう发芽せい[まいり68]。以每六至七厘米打硬黄土,从而なり为一せんはちひゃくさとてき直道なおみち以想ぞう耗用てき人力じんりき及钱粮必然ひつぜんじゅうふん惊人。

はただい道路どうろ并不ぞうきさきてき水泥みどろ般坚实,した时道そくなりいちへんどろ泞,战车かいざいどろ泞地めんとめ车辙てきあと迹,てんはれきさき路面ろめん就会とめ坚硬てき车轮沟痕。车轮しょう距(そく车轨)不同ふどうてき战车,かいいんあずか道路どうろじょうとめてき沟痕不同ふどう,而有ぎょう进困难的じょう况,这正はたはじめすめらぎ推行“车同轨[ちゅう61](统一车距)てき背景はいけい[まいり68]

开凿灵渠

 
现代残存ざんそんてき灵渠

はたはじめすめらぎ为方便びん运送せい岭南ところ需的军队和物あえもの资,したれい开凿みなみどおりひゃくえつてき运河[231]。经过实地检查,发现りゅう往东きた注入ちゅうにゅう长江水系すいけいてき湘江,及由かつらりん往南注入ちゅうにゅう南海なんかいてき漓江,二条河川之间距离很短,以现时单计算ただゆう约四じゅう公里くり。如果はたじょう河川かせん凿通,长江水系すいけい便びんあずか南海なんかいしょうどおり[まいり68]

しか而,湘江あずか漓江间的水位すいい距甚だい工程こうていせっ连失败,ちょくいたはたはじめすめらぎいのち使监“ろく”(ふみ书称ふみろく)开凿运河[231],终于ざいおおやけもとまえ214ねん[まいり68]はたはじめすめらぎ33ねん)以さんじゅう六道ろくどうすい门,完成かんせい沟通长江水系すいけいあずか珠江たまえ水系すいけいてき工程こうていしょう为秦凿渠,きさきいん漓江てきじょうゆう为零すいまたしょうれいみぞみおみぞとうだい以后,ぽう改名かいめい灵渠俗称ぞくしょう陡河。

 
灵渠结构图

灵渠广西たけしぞく自治じちかつらりん兴安县境内けいだいぜん长36.4公里くり,宽十まい[まいり68]ゆかり铧嘴、大小だいしょう天平てんぺい、泄水天平てんぺいみなみみぞきたみぞはたつつみかず陡门とう工程こうてい组成。铧嘴灵渠さい主要しゅようてき分水ぶんすい设施,于兴やす县城东南2.5公里くりてき湘江なか建造けんぞう时以长石叠砌よんしゅうちゅう间用すなたまごせきかいはま而成,こう约6めーとる,宽23めーとる,长90めーとるぜん锐后钝,じょう犁铧。铧嘴はた湘江水分すいぶん为两また,其中七分水被分水坝所阻,いん而沿だい天平てんぺい,经北みぞりゅういた湘江,三分水经小天平和南渠注入漓江,そくしょ谓的“なな漓三[まいり73]贯通きさきせん多年たねんらい,一直是岭南与中原なかはら地区ちく间的水路すいろ交通こうつうようみち[まいり74],此项工程こうていざい1988ねんてい全国ぜんこく重点じゅうてん文物ぶんぶつ护单これいち[まいり75]

近代きんだい以来いらいずい粤汉铁路湘桂铁路まとどおり车,灵渠内的ないてきこう运逐渐停止ていしただしちょくいたり现在,灵渠仍被当地とうちきょみん用作ようさく生活せいかつ用水ようすい及灌溉用途ようと。另一方面ほうめん,现时さい以水门,而以さくせきてき方式ほうしきひさげだか湘江てき水位すいい,以解决漓あずか湘江间水高低こうていてき问题[まいり68]

だい土木どぼく

はたはじめすめらぎ时期建造けんぞうてき宫殿

はやざいはたはじめすめらぎ统一ろくこく间,便びんやめ开始为自己じこてき宫室だい土木どぼくまい逢灭掉一个诸こうざい咸阳北面ほくめんてきやま坡上,仿造该诸こうこくてき宫室,范围从雍门往东直いた泾、渭二水交会处,殿どの间有てん桥和环行长廊互相连接おこりらい,并把虏来てき美人びじん钟鼓乐器ざいさとめん[232]

すえふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》记载,ざい建造けんぞう阿房あほう间,はたはじめすめらぎやめ打算ださんざい关中建造けんぞうさんひゃく宫殿,关外けんよんひゃく宫殿[233]。另一方面ほうめん记亦记载ざいはたはじめすめらぎ35ねんおおやけもとまえ212ねん)时,咸阳じょうかた百里内已经有二百七十座宫观,以天桥、甬道相互そうご连接おこりらい,并把とばり帐、钟鼓美人びじん安置あんちざいさと[234]

以下いかはたはじめすめらぎ时期建造けんぞうてき宫殿[まいり24]

宫殿名称めいしょう 史籍しせき记载 备注
やなさん さん辅黄图 くらいみぎ扶风こう畤县[235]こん陕西しょう咸阳いぬい
きょくだい 《汉书·贾邹まいみち传》 东汉应劭曰:“始皇帝しこうていしょ处也,わか汉家未央みお宫。”[236]
长乐宫 みず经注·まき19·渭水 くらい于渭すい以南いなん,其北为咸阳宫,两宫间以渭桥しょう[237]
兰池宫 元和げんなぐん县图こころざし くらい于唐あさ咸阳县东じゅう[238]おおやけもとまえ216ねんはたはじめすめらぎ31ねんいち个晚じょうはたはじめすめらぎあずか四名武士正是在兰池宫附近,ぐうじょう强盗ごうとう袭击[239]
むべはる さん辅黄图》 ほんはたはじめすめらぎてき其中いち个离宫,于长安城あき东南,もり县东,きんしたもり[240]
もちえびす さん辅黄图》 くらい泾阳县界,きた泾水こうきたもち夷狄いてき处,以此为宫めい[241]しんせいえびす则在もちえびす赵高胁逼杀。
钟宫 さん辅黄图》 くらい鄠县东北じゅう,应为はたはじめすめらぎおさむ天下でんか兵戈へいか销为钟鐻きさき,钟鐻とまこれ[242]
咸阳宫 さん辅黄图》
ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》
咸阳宫本为秦はじめすめらぎ召见荆轲[150]
おおやけもとまえ213ねんはたはじめすめらぎ34ねん),はたはじめすめらぎあずか群臣ぐんしんおけしゅ咸阳宫[243]
おおやけもとまえ212ねんはたはじめすめらぎ35ねんきさきはたはじめすめらぎはた咸阳宫用さく处理日常にちじょうごと务,以及群臣ぐんしん接受せつじゅ诏令てき地方ちほう[244]
しん ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》 おおやけもとまえ220ねんはたはじめすめらぎ27ねん),はたはじめすめらぎれいざい渭水南面なんめん建造けんぞうしん宫,ひさまたしんじ改名かいめいさけべ极庙,以象せい处于てん极的きた极星。从极庙开どおり道路どうろちょく骊山またおさむたてりょうあまいずみぜん殿しんがり,并修造しゅうぞう两旁筑墙てき甬道,从咸阳一直连接到骊山[245]
兴乐宫 さん辅黄图》 はたはじめすめらぎ时期建造けんぞう西にし汉时经多ばんおさむ缮,しゅうじゅうあまりさと[246]

阿房あほう

 
きよし·袁耀《阿房あほう宫图》

阿房あほう宫亦たたえおもねしろ于渭すい南岸なんがん,雍州长安县(こん西安しーあん西北せいほくじゅうよん[ちゅう62]本来ほんらいざいはためぐみぶんおう统治建造けんぞうただしめぐみぶんおう逝世却令宫殿てき建造けんぞう搁置[247]

はたはじめすめらぎ统一天下でんかきさき,认为现时しょきょてき宫殿狭小きょうしょう符合ふごう自己じこ皇帝こうていてき份,而且于渭すい北岸ほくがんてき咸阳じんけむり稠密ちゅうみつ,扩展宫殿规模受到げんせいとうとくしゅうぶんおうしゅうたけしおうぶん建都けんとてき两城,みやこただし于渭すい南岸なんがんきさき,认为该地ざいしょ谓的帝王ていおう打算ださんざい渭水南岸なんがんてき上林うえばやしえんちゅう建造けんぞうあさ宫”,しゅさき建造けんぞうぜん殿しんがりしょう为“阿房あほう[248],这正阿房あほう宫”てき名称めいしょう由来ゆらい

过以じょうただ阿房あほう名称めいしょう由来ゆらいてき其中いち种说ほうからあさ颜师いにしえ为汉书作ちゅう时,ゆび阿房あほうゆび宫殿四阿あずまやみなしょう为“ぼう”。另有说法ゆび阿房あほう宫”落在势高たかしてき丘陵きゅうりょうじょう,“だいりょうわかおもね”,また阿房あほう名称めいしょうてき由来ゆらいじょ此之がい,“おもねゆうこんてき意思いし,“ぼうあずかつくりしょうどおり,“阿房あほうそくきんつくりいん该宫もたれきん咸阳,所以ゆえんしょう阿房あほう[249]。另有じんゆび阿房あほう”一词乃秦始皇宠妾的名字[まいり76]つかさ马迁ざいふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》记载,ゆびとう时秦はじめすめらぎ对这个名称めいしょう并不满意,じゅん备等阿房あほう修成しゅうせいきさきあらため为更このみてき名称めいしょう,结果のう如愿,阿房あほう宫这个名称めいしょう便びんいちちょく沿用らい[250]

对于阿房あほう宫开はじめ建造けんぞうてき时间,《ふみ记》却有两个不同ふどうてき记载。《ふみ记·ろくこく年表ねんぴょう》记载开始建造けんぞう阿房あほう宫的时间为秦はじめすめらぎ28ねんおおやけもとまえ219ねん[251]ただしどう书的《ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》却记载为はたはじめすめらぎさんじゅうねんおおやけもとまえ212ねん),多数たすうじんきさきしゃとうさく阿房あほう宫的はじめけん时间,较合理ごうりてきかい释是,はたはじめすめらぎ28ねん嬴政意欲いよく新建しんたけあさ宫”てき时间,其间酝酿规划もちい几年时间,いたはたはじめすめらぎ35ねんざいれい动工。

阿房あほう宫的建造けんぞう规模相当そうとう宏大こうだい,虽然阿房あほう宫实际上ただ渭南“あさ宫”てき其中いち个部ぶんそくぜん殿しんがり),ただしすえふみ记》しょじゅつ,其面积达东西ひゃく(693まい),南北なんぼくじゅうたけ(116.5まい),こうすうじゅう[252](约11.65まい),上面うわつら以坐じょうまんにんしたけん为五たけはた[253]ざいさとめん运送しゅさい要用ようよう车和马才ぎょう[252][254];四周架有天桥可供驰走,从宫殿どのしたいち直通ちょくつういた南山なんざんざい南山なんざんてき顶峰おさむけん门阙さく为标こころざし。此外また修造しゅうぞうてん桥,从阿房あほうまたが过渭すいあずか咸阳连接おこりらい,以象せい天上てんじょうてききた极星、阁道ぼしまたが银河抵达营室ぼし[255]。另据《さん辅旧ごとしょじゅつ阿房あほう宫的宫门以磁石じしゃくせいづくりまたたたえ却胡门”,四夷朝拜时若有兵刃藏身,必然ひつぜん发现[256]

为了完成かんせい如此宏大こうだいてき工程こうていはたはじめすめらぎれいせいしゅう隐官[ちゅう63]けい70あまりまんにん,并从渭北山岳さんがく开采山石やまいし,从蜀、荆地运来りょうふん别修けん骊山りょう阿房あほう[257],为此迁徙さん万家到骊邑,五万家到云阳(こん陕西しょう咸阳じゅん县西きた),免除めんじょじゅうねんてき赋税徭役[258]。两年きさきはたはじめすめらぎざい东巡途中とちゅうびょう逝,九月くがつ埋葬まいそうざい骊山よし于覆骊山てき需要じゅようとげはた阿房あほう宫建设工地上ちじょうてき劳力せい调到骊山りょう[259]だい二年即四月复建阿房宫[260]ただし当年とうねんふゆてんおおやけもとまえ209ねん),すうじゅう万起义军汹涌而至,おさむけん队伍せり停止ていし[261]除去じょきょいん覆土ふくど骊山暂停てき7个月,きょう施工しこうりょう2ねん7个月。

ゆかり中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがくいん考古こうこ研究所けんきゅうじょ西安しーあん文物ぶんぶつ护考古所ふるところ联合组成てき阿房あほう考古こうこ队,对阿房あほう宫遗进行てき考古こうこ工作こうさく发现,阿房あほう宫从らい就没ゆうたてしげる,仅是完成かんせいもと而已[まいり77][まいり78][まいり79],而项羽にゅう关中きさき,焚烧てき于渭すい北岸ほくがんてきはた咸阳宫,并不一般认为的阿房宫(于渭すい南岸なんがん),考古学こうこがくざい发掘げん咸阳宫遗时,发现りょう大量たいりょうてきはい烬和红焦,证明项羽确实曾纵焚烧过咸阳宫[まいり80]

骊山りょう

はたはじめすめらぎてき另一个宏大工程就是花了三十余年时间,おさむけん自己じこてき陵墓りょうぼきさきしょう为秦はじめすめらぎりょうまたたたえ骊山りょう),あずか阿房あほう宫等大型おおがた工程こうていいちおこりきょう动员りょうきんななじゅうまんにん[257]陵墓りょうぼだかじゅうあまりたけ周回しゅうかい[262],从渭すい北岸ほくがんてき山岳さんがく运取せきりょう[263][257]よし于骊やま一带盛产黄金,南面なんめんてき蓝田以盛产美だま闻名,此被はたはじめすめらぎ视为风水宝地ほうちいん而定此为自己じこてき长眠[264]

 
陕西西安しーあんはたはじめすめらぎりょう

しん以后,はたはじめすめらぎりょうそくひと认识到其特异性,东汉蔡邕ざい著作ちょさく独断どくだんいち书中,ゆび时并ぼつゆうさいはい坟墓てき风俗,いん为当时人们相しんじ人死ひとじにきさき灵魂仍永远存在そんざい宇宙うちゅう间,所以ゆえん并不はた灵魂だつ离后てき遗体视为さいはいてき对象。对死しゃてきさいはいざいそうない举行,ちょくいたはたはじめすめらぎはた”从宗庙脱离,あらためおけざい陵墓りょうぼつくりせい人才じんさいゆうざい陵墓りょうぼがいさいはいてき风俗。汉承しんせい,也在陵墓りょうぼつくり安置あんち寝殿しんでん,还准备了让死しゃ生活せいかつ舒适てきかくしきかく样设备[265][まいり68]

すえふみ记·はたはじめすめらぎほん》记载,はたはじめすめらぎ嬴政从登もと为王开始,便びんやめ着手ちゃくしゅざい骊山营造陵墓りょうぼ,统一天下でんかきさきそくせい召天ざいはん为他营造みかどりょう。凿穿さんいずみ,以铜せいがい椁(かん),はかない设计ゆう如宫ちゅういち样,おもて现出百官就位的模样,いたり于绝ひんさら及珍禽异兽等也从宫中うつりいたりはかしつ[266]はか室内しつないてんもえちょ以人鱼油あぶら[ちゅう64]せいなりてき蜡烛,いのりすなお其永远明あきら[267]

为了防止ぼうしぬすめはかしゃ进入,はたはじめすめらぎれい工匠こうしょうざいはかしつちゅうそう设可动发射的しゃてきいしゆみゆみ,并以みずかたぎ拟天河川かせん大海たいかい,以机关使ながれ动,如真实世界一せかいいち[268]すえ推断すいだんゆかり于水银易挥发てき特性とくせいざいはかしつないちゅう入水じゅすい银,弥漫びまんてきみず银蒸气不ただしれいいれそうてきしかばねたいずいそうひん保持ほじ长久くさ烂,而且すい银蒸气具剧毒,大量たいりょう吸入きゅうにゅう导致死亡しぼういん此地宫中てきみず银还毒死どくしぬすめはかしゃ

じょ此以がい,《ふみ记·はたはじめすめらぎほんまた记载しん二世命人在秦始皇墓外栽种草木,从外边看じょうこうぞう一座いちざさん,并下れい凡没ゆう子女しじょてき先帝せんていはたはじめすめらぎきさき宫妃嫔,よう殉葬;为了防止ぼうし工匠こうしょうぬすめはか,贪取はかしつ财宝,所有しょゆう参与さんよ修造しゅうぞうはかしつてき工匠こうしょうまち出来でき,就封闭墓门,かつうめざい陵墓りょうぼさと[269]すえこう证,はたりょう西にし侧发现大りょう暴露ばくろ在外ざいがいてきおさむはかじん骸骨がいこつ[まいり81]

 
はたはじめすめらぎへい马俑博物はくぶつ馆的镇馆たから——“铜马车”,出土しゅつど时间为1980ねん11月,发现地点ちてん为陕西にししょう临潼县秦はじめすめらぎりょう西にし侧通往地宫的甬道ちゅうよしすうせんけんれいけん组成,虽只ゆうへい马俑实际大小だいしょうてきふんいちただし考古学こうこがく要用ようようきんじゅうさんねん时间(1980ねんいたり1993ねんおさむ复两辆“铜马车”,见秦あさ时期てきこう水平すいへいやめ经达到相当そうとうだかてきみずじゅん[まいり68]

古今ここん图书集成しゅうせい·ひつじさる舆典》引述史料しりょう《汉旧仪》ゆび斯是はたはじめすめらぎりょう工程こうていてき主持しゅうもちしゃ曾向はたはじめすめらぎ报告,しょう其带りょう72万人修筑骊山陵墓,やめ经挖とく很深りょうこうぞういたりょう地底ちていいち样。はたはじめすめらぎ听后,したれいさいつくりぎょうさんひゃくたけ乃至ないし[270]。关于“つくりぎょうさんひゃくたけてき意思いし,专家作出さくしゅつかい释,ゆびおさむりょうじん从地宫向みなみ挖巡ゆうとおるどう时,ぐういたりょうだい砾石,さいきさきとく顺着砾石层改こう挖掘,そくしょ谓的“つくりぎょうさんひゃくたけ[まいり81]

2006ねんはたりょう考古こうこ队队长だんきよしなみりつ领一众考古学こがくようはるかかん和物あえものさがせてき方法ほうほうぶん别对はたはじめすめらぎりょう进行さがせ测,查明宫就ざい封土ほうどうずたか,距离地平ちへいめん35めーとるふか,东西长170めーとる南北なんぼく宽145めーとるあずかはかしつひとしてい矩形くけいじょういたり于墓しつ则位于地宫中央ちゅうおうこう15めーとる大小だいしょう相当そうとう于一个标准足球场,しゅう围建りょう一圈很厚的细夯土墙,そくしょ谓的宫墙,东西长约168めーとる南北なんぼく长约141めーとるみなみ墙宽16めーとるきた墙宽22めーとる[まいり82]

此外,考古学こうこがくまた发现はたはじめすめらぎりょうしゅう围地存在そんざい规模巨大きょだいてき排水はいすいみぞ底部ていぶよしあつ达17まいてき防水ぼうすいせい强的ごうてききよしあぶらどろ夯成,上部うわべゆかり84めーとる宽的黄土おうど夯成,规模だいいた难以そうぞうはたはじめすめらぎりょう考古こうこ队队长段きよしなみゆび,《ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》ちゅう记载てき穿ほじさんいずみちゅう,“さん”其实个概すう,其实应该ゆびざい施工しこう过程间遇いたみず淹,所以ゆえんざいおさむけん排水はいすいみぞせいこう挡住りょう地下水ちかすいよし高向たこうてい渗透,有效ゆうこう护墓しつ遭水ひた[まいり82]

从商周到しゅうとう汉代,帝王ていおうてきはかどう通常つうじょう为4じょうふん别贯穿东南西北せいほく4个方向ほうこう,这是みこと贵身份和地位ちいてきぞうせい,而普どおりかん员和百姓的墓道为一条或两条,ただし考古学こうこがく发现,はたはじめすめらぎりょうただゆう东、西にし两条はかどう,这出乎考古学こがくてきりょうそと[まいり82]

 
へい马俑いちごうあな

じょ此以がいはたはじめすめらぎりょうてき封土ほうどうずたかからだ积庞だいこらえしょう国内こくないさいただし封土ほうど从何而来则尚无定论。つきかんゆう文献ぶんけん记载ゆび封土ほうどうずたか鱼池[271]ただししんりょう考古こうこ队队长段きよしなみ质疑这个说法,ゆび封土ほうどうずたかてき土壤どじょう样本含杂大量たいりょうすなせきただし鱼池さとてき却是纯净てき黄土おうど,且粘せい甚强,极少含有がんゆうすなせき,而且认为しんりょうりょう势南だかきたてい,且落很大,从山てき鱼池显然よう费力てきよし此,于鱼一说值得商榷[まいり81]

另有专家すえふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》“复土骊山[ちゅう65]てき说法,ゆび封土ほうどうずたか其实从墓あなちゅう挖来,ただし经秦りょうりょう高光たかみつ谱遥かんさがせ测,ざいしんりょう南部なんぶてき骊山脚下きゃっか发现りょう一处南北走向串珠状的巨型凹陷[まいり81]。经实かん查,这个ふか达30まいてききょがた凹陷有明ありあけ人工じんこう挖掘てき迹象,而凹陷てき质也与封土ほうどしょうどう,这也封土ほうどうずたか由来ゆらいてきしん推断すいだん[まいり81]

另一方面ほうめん中国ちゅうごく质调查研究けんきゅういん研究けんきゅう员刘あつしゆびはたはじめすめらぎ宫内すい银含量的りょうてき存在そんざい异常,如果以水银的分布ぶんぷ代表だいひょうこううみてき话,せいこうあずか渤海黄海こうかいてき分布ぶんぷ位置いちしょうわか查明ぞく实,せいこう说明はたちょう时期やめ经有对中国ちゅうごく地理ちり作出さくしゅつ调查研究けんきゅう说是しんてき历史发现[まいり82]

目前もくぜん中国ちゅうごく政府せいふ并没ゆう对秦はじめすめらぎりょう动土发掘てき计划,主要しゅようこう虑到着手ちゃくしゅ发掘きさき,极有可能かのう出土しゅつど庞大数量すうりょうてき历史文物ぶんぶつ,而在ひさし完全かんぜん确立妥善てき保存ほぞん方法ほうほう,实在むべ发掘[まいり83][まいり84][まいり68]

へい马俑

 
はたはじめすめらぎへい马俑博物はくぶつ

はたへい马俑あな于秦はじめすめらぎりょう封土ほうど以东约1.5公里くり处,ゆう戍卫りょうてき含义,はたはじめすめらぎりょう其中いち部分ぶぶん

へい马俑ざい1974ねん3がつ29にち陕西しょう临潼县村民そんみん杨志发、杨彦しんじ、杨泉义等じん发现,とう时考古学こがく一致认为此遗迹规不会太大,ただし很快发现へい马俑てき规模そうぞうちゅうようだいとくおお[まいり85]。专家推测へい马俑遗址てい长方形状けいじょう,东西长ひゃくさんじゅうめーとる南北なんぼくろくじゅうめーとる,约埋藏まいぞうなな千多座与实物等身的兵马俑[まいり68]过超乎预てき发掘成果せいか,却引らい保存ほぞんへい马俑文物ぶんぶつ方面ほうめんてきこま难。

とう时的中国ちゅうごくこく务院ふく总理さきねんとく悉发现兵马俑あなてき消息しょうそくそく指示しじ国家こっか文物ぶんぶつきょくあずか陕西しょう政府せいふ合作がっさく迅速じんそくさいあい关措ほどこせ护文ぶつよし此挖掘工程こうてい暂时中止ちゅうしざい损及遗迹てき前提ぜんてい,耗费きん两年时间ざい遗迹うえのぶだて一座椭圆形的巨蛋建筑,并在1979ねん10がつ正式せいしき对公众开放,命名めいめい为“はたはじめすめらぎへい马俑博物はくぶつ[まいり68]

按照中国ちゅうごく古代こだいけん筑讲もとめてき对称げん则,ざいりょう园的西にし门、きた门和みなみ门应也有やゆうへい马俑あなただし考古こうこじん员多ばん实地かん查,いち无所获,对于へい马俑あなおけ于陵园东侧的原因げんいん目前もくぜんゆう种说ほう,现摘录如[まいり68]ただし以下いか说法目前もくぜんなお无定论。

  1. はたじんそうぞくすわ西向にしむき东,へい马俑おけ于陵园东侧是顾及しん人的じんてきそうぞく
  2. へい马俑おけ于东侧是表示ひょうじはたすわ西向にしむき东消灭六こく,纪念战争胜利てき意思いし
  3. へい马俑めん东,せいはじめすめらぎりょうせい门在东的原因げんいん
  4. へい马俑おけ于东侧,せい符合ふごう古代こだい阴阳战术ちゅうてきみぎ高山こうざん左前ひだりまえすい泽”,以防止ぼうし敌军两侧突击,りょう园其三个方向的地形都无法符合此战术。

开疆つぶせ

はたはじめすめらぎ在位ざいい间还扩大りょう国家こっかてき疆土,疆域异常辽阔,きたいたるかわ套和阴山みなみいたる南越なんごしそく日南にちなんぐんこんえつ南中なんちゅう),西にしいたる陇西临洮,东则延伸えんしんいたりょう辽东あさ[272]

きた匈奴きょうど

 
匈奴きょうどじん盘踞てきかわ地区ちくはただい时被しょう为“河南かなん

正当せいとう战国七雄相互攻伐的时候,北方ほっぽう草原そうげんてき匈奴きょうど东胡つきまた相互そうご牵制,のう全力ぜんりょく南下なんか干涉かんしょう中原ちゅうげんきょく[まいり32]ちょくいたはたはじめすめらぎ统一ろくこくきさき居住きょじゅうざい中国ちゅうごく北方ほっぽうあずか西北せいほく草原そうげんてきゆうまき民族みんぞくずいそくなり为新せいしん帝国ていこくてき最大さいだい敌人。

おおやけもとまえ215ねんはたはじめすめらぎ32ねん),つばめ国人くにびと卢生むかいはたはじめすめらぎ献上けんじょういち本名ほんみょう为《录图书てき预言书,上面うわつらうつしほろびしんしゃえびす”。すえ这个“预言”,はたはじめすめらぎ认为さい终灭ほろび大秦たいしん帝国ていこくてき北方ほっぽうてきえびすじん[273]とう北方ほっぽう草原そうげんてきえびすじんとうなかがつ东胡匈奴きょうど强大きょうだい[274]ただしよし匈奴きょうど人的じんてき聚居かわ地区ちく,对定咸阳てきしん帝国ていこくらい说是最大さいだいてき胁,いん此秦はじめすめらぎ决定へい征伐せいばつ匈奴きょうど

过李斯却指出さしで匈奴きょうどじん逐水くさ而居,きょ无定しょ,也从储蓄粮食,极难征服せいふく。如果派兵はへい轻装ぜん进,容易ようい导致军粮だん绝而ぜん军覆ぼつ;如果携带大量たいりょう粮食进军,もの资沉じゅう难运,也是无济于事。对秦こく而言,そく使つかいいた匈奴きょうどてき土地とち也无图,ただかいれい中原なかはら百姓ひゃくしょうつかれ惫。ぐういた匈奴きょうど百姓ひゃくしょうまたいん担心们的ちゅう诚而敢役使们。如果杀掉全部ぜんぶ匈奴きょうど百姓ひゃくしょう,这又あずか君父くんぷ许的“君王くんのうさく为相もと表明ひょうめいはん征伐せいばつ匈奴きょうど[275]

はたはじめすめらぎぼつゆうせっ纳李斯的[276]したれいはたこうむ[ちゅう66]りつへいさんじゅうまんにん,沿着今日きょう兰州いたり鄂尔斯市一段いちだんてき黄河こうがきた匈奴きょうどくわだて图夺取黄河こうがかわ以南いなん[277]つぎねんこうむ恬攻うらないかわ以南いなん地区ちく,从榆ちゅういまあま肃省兰州)沿黄かわ往东一直连接到阴山,划分なりよんじゅうよん个县,并设おけきゅうげんぐん,沿着黄河こうがおさむ筑长じょう,于险阻设おけ要塞ようさい[278][279]

其后,はたはじめすめらぎまたこうむ恬渡过黄かわ夺取だか阙、阳山(そく阴山)、きたかりいち地方ちほう,筑起堡垒,逐次ちくじこうきた推进势力[280][281]とう时的匈奴きょうどたん头曼せりきた[282]はた军在がい奔波达じゅうねん,并屯驻在上郡かみごおりいちこうむ恬之めいふるえ匈奴きょうど[283]

すえこう证,はた军迅そく胜的最大さいだい原因げんいん,就是普遍ふへん使用しよういしゆみゆみさく远程武器ぶきもちいしゆみてきしん骑兵しゃ击的じゅん确度匈奴きょうど人的じんてきゆみ无法拟的,匈奴きょうど人的じんてきがわかぶと也抵挡不じゅういしゆみ强大きょうだいてき穿ほじとおるりょく。对马じょうてき匈奴きょうど骑手而言,いしゆみさい致命ちめいてき武器ぶき中国ちゅうごく著名ちょめいてきへい书经てんたけなな指出さしでいしゆみ对付古代こだいゆうまき民族みんぞくてきさい有效ゆうこう武器ぶきよし于弩てき结构过于复杂,对匈やつじんらい说,们很难装はいある仿制[まいり86]

为了たかし实河套以南新みなみしん设郡县的人口じんこうはたはじめすめらぎれいはたつみはん迁移いたりしんぐん[284]当地とうちしょう为“しんしん[285]当年とうねんはたはじめすめらぎ33ねん半年はんとしざい西方せいほう彗星すいせい,为不吉ふきつちょう此秦はじめすめらぎさいしたれい贬谪执法公的こうてき狱吏往新辟之,以修筑长じょう及戌もり南越なんごし地区ちく[286]

すえしゅちちざい《諌伐匈奴きょうど书》しょげんこうむ恬所戍之势低洼,而且无法种植五谷ごたにてき盐碱[287],实在のうきょうさんじゅう万戍卒的兵粮,此必须仰赖内てき补给。为了从黄腄(今山いまやま东省けむりうてな琅琊とう沿海えんかい运送粮食いたり北方ほっぽうてき黄河こうが原本げんぽんいちせきてき东西,必须はなさんじゅう锺(192せき[288]正因まさより如此,はたあさ百姓迫不得已肩负着沉重的负担。そく使つかい男子だんし拼命こう种,也生产不及军役所やくしょ需的しょく粮;女子じょし以继よる纺织,也无ほう满足军用帐幕しょ需。百姓ひゃくしょうつかれ惫,儿寡妇及老弱ろうじゃくびょうざんしゃ无法生活せいかつたおせざい道路どうろ两旁死去しきょてきじんしばしば见不鲜[289]ちょくいたこうむ恬死きさきざいかわ以南いなん戍边てき劳役いん陈胜おこり义,关东大乱たいらん而军こころ稳,很快,从而はさま使しん帝国ていこく弃河套以南いなん[290][291]

みなみせいひゃくえつ

现存史料しりょうひさげ及有关秦こくみなみせいひゃくえつてき历史,说是相当そうとう简略。对于しん军南せいひゃくえつてき经过,军事部署ぶしょさく战环さかい以及しん军面对的军事こま难,《ふみ记》てき记载甚至以用“いち鳞半つめらい形容けいよう[ちゅう67]ただし肯定こうていみなみせいひゃくえつてき时间,实际じょう远比きた匈奴きょうどようはや

すえ汉文みかど元年がんねんおおやけもとまえ179ねん南越なんごしおう赵佗ところじゅつやめ经在岭南地区ちく生活せいかつりょう49ねん[292]よし于《ふみ记》记载赵佗せきじょう[ちゅう68],并非岭南当地とうちじん此可以参考さんこうざい岭南生活せいかつてき时间,从而推算すいさんはたはじめすめらぎなん时开はじめみなみせいひゃくえつぶんみかど元年がんねん往上推朔49ねん,为秦王政おうせい20ねんおおやけもとまえ227ねん),せい值赵こくけし灭的ねん见在赵国灭亡きさきひさ,赵佗したがえそくいん为赵人的じんてき份而せい召入なり为征こしだい军的其中いち名士めいしへいよし此可以肯定こうていはたはじめすめらぎざいけし灭六こくてきどう时,便びん开始进行征服せいふく以南いなんてき军事ぎょう动,而且さら续了じゅう多年たねんひさし[293]

岭南ぞく于“瘴疠”,またたたえひゃくえつ”,ゆび当地とうち生活せいかつ众多部落ぶらく。汉初文学ぶんがく贾谊贬为长沙おうふとしでんきさきまた听闻长沙气候しお湿しめ多雨たう,以为自己じこかい早死はやじに[294]。汉人かしこ长沙如此,长沙更南こうなんてき岭南,其环さかい恶劣そう而知。そく使つかい驰骋疆场半生はんせい尝言てきふくはた马援受命じゅめい讨伐ざい交阯地区ちく发动叛乱はんらんてきただしあねいもうと以来いらいざい平定へいてい叛乱はんらんきさきまたげんきさき悔未ゆう听从おとうとおとうとしょうゆうてき话,做个平民へいみん百姓ひゃくしょうはん而从军平こし[295]とう时汉あさやめ统治岭南地区ちくひゃくねん土地とちはん垦,道路どうろあらどおりぐん、县、乡、さとよん级政权已建立こんりゅうやめゆうしょう越人えつじん汉化,其自然しぜん环境人文じんぶん环境やめゆうきょだい变化。马援ざいひさげ及征えつ战时,仍犹有余ゆうよ悸,おそれ怕客异乡,以想ぞういたはたちょう时期,岭南地区ちくてき自然しぜん人文じんぶん环境,较百年后的马援时代恶劣十倍,而现そんてき史料しりょうひとしゆびはたはじめすめらぎ对号しょう“瘴疠てき岭南さい军事ぎょう动的最大さいだい目的もくてきちゅう当地とうち产的さいかく象牙ぞうげ翡翠かわせみ及珠玑等ぶつ[296],以及扬威海外かいがい[297]

はたせいひゃくえつてき经过,综合现存史料しりょう可分かぶん为四个阶だん[まいり87]

深入ふかいり岭南

约公もとまえ227ねんはた王政おうせい20ねん),はたはじめすめらぎれい使じょうほふみなみぐん为后つとむじゅうざい当地とうちせい发“吏卒”、“しん黔首”、“かぶとへい”及各种军输物资等しょ谓“ろうせん[297][まいり87],沿湘江水道すいどう[ちゅう69]为主よう补给线,深入ふかいりひゃくえつこれみなみせいはた军一势如破竹はちく越人えつじん纷纷逃入深山みやま密林みつりん[298]逃避とうひしん人的じんてき统治[299]

えつじん反攻はんこう

はたせいひゃくえつまえゆかり于百越地区的部落们已经矛盾重重,甚至多数たすう相互そうごおさむ[300],难以共同きょうどう抵御しん军的おさむ势,ただし问题ひゃくえつ地区ちく部族ぶぞく众多,つきかん各自かくじ为战,ただし越人えつじん逃入深山みやま丛林てき举措,れいしん军难以彻そこしょう灭其有生ゆうせい力量りきりょうじょうしん军水不服ふふく当地とうち瘴疠横行おうこう,致使军中だい疫,战斗减员じょう况日えき严重,战事おちいにゅう长期せい如《淮南ワイナン》记载てき“三年不解甲弛弩”。

ざい战事中期ちゅうきはた军击杀了当地とうち最大さいだい部落ぶらくてきくび[301]西にし瓯国くび领译吁宋[302]ただし越人えつじん并未屈服くっぷくはん而推举桀骏为しんてきくび领,这个しん推举てきくび领在一次夜袭中大破秦人,并击杀征えつしん军最だか统帅ほふ[303]

战事僵持

はた灭六こくひゃくひゃく胜,ただしざい百越地区的征战居然令秦军“ふくしかばね流血りゅうけつすうじゅうまん”(《淮南ワイナンにん间训》语),甚至连主帅也击毙。はたはじめすめらぎだいいか,为了迅速じんそく结束战争,おもんみゆうれい对百えつ增兵ぞうへい,而楚こくほろびまた让秦军兵りょくいた释放,はたはじめすめらぎ乃“发卒じゅうまん[ちゅう70]ふん为五军:いち军塞镡城(いま湖南こなんやすししゅうさかい岭,いち军守きゅう嶷(いま湖南こなん宁远みなみふさが,一军处番禺(こん广东广州これいち军守南野みなみの今江いまえ西にしみなみやすしさかい),いち军结あまり今江いまえ西にしさかいみず[304]并进,くわだて图一举攻下百越全境。

过兵りょくてき增加ぞうかさい上越じょうえつじん反抗はんこう利用りようじゅく悉地がたてき优势,不断ふだん袭扰しん勉强べんきょう维持てき补给线,れいしん军几乎陷于崩溃[305][306]いん此秦はじめすめらぎれい使监禄(そくろく)负责转运粮饷。

为了支持しじ长期战争てきぶつ消耗しょうもうろく决定派遣はけんへい,开凿连接湘江あずか漓江间的运河,きさきしょう为灵みぞ[307][308]使つかい中原なかはらかず以北いほく地区ちくへい员和粮草,のうどおり过水运进いれひゃくえつ地区ちくよし于开凿灵みぞぞく于庞大工だいくほど,按当时技术条件じょうけんいたりしょう也得さんいたりねん时间才能さいのう完成かんせい此战ごとおちいにゅう僵持。

移民いみん戍边

“灵渠”てきたてしげるただ为战そう提供ていきょう较好てききさきつとむ保障ほしょう,并不能ふのう证最きさきてき胜利。はたただし南越なんごし统帅じょうほふ睢战きさき,继任统帅じょうにんおこりはつまた无良さく对付えつじん丛林战,さいきさきざいそうりょう军队たむろ[309]かず“以谪徙民,あずかえつ杂处”持久じきゅう战和移民いみん同化どうかてき策略さくりゃく

たむろ垦和移民いみん战术ひかえせいひゃくえつ地区ちくさい有效ゆうこうてき方法ほうほうただし见效慢,いたりしょう须五六年时间才能初见成效。よし于当时秦はじめすめらぎやめしょう灭六こくゆう充分じゅうぶん条件じょうけん迁移关东ろくこくてきしん黔首”(そくしょ谓“ちゅう县之みん”)往百越地こえち移民いみん戍边”[310]。对于这些“しん黔首”,はたはじめすめらぎ及秦こく官吏かんり根本こんぽん们当じん们留ざいひゃくえつ地区ちくあずか越人えつじん杂居”,对秦はじめすめらぎ说有そう重好しげよし处:一是消灭了六国“らんみんある“惰民”;二是稳定了百越地区[まいり87]

おおやけもとまえ214ねんはたはじめすめらぎ33ねん),した诏征发尝逋亡じん、赘婿及贾じんとう大概たいがい商人しょうにんしゅうはんとうじんきん10万加上原先剩下的20万秦军部队,はた军再集中しゅうちゅうりょう30万大军向西瓯军发动了最后的总攻往百越地区后[まいり88]はたはじめすめらぎ认为岭南“じょう”,ざい当地とうち设置かつらりん南海なんかいぞうぐんさんぐん[311][312]つぎねんはたはじめすめらぎ34ねんはじめすめらぎまたしたれい贬谪执法公的こうてき狱吏いぬもりひゃくえつ地区ちく[286]しん王政おうせい20ねんれいほふ睢攻ひゃくえついたりはたはじめすめらぎ33ねん岭南“じょう”,对百越地区的战事共进行了十三年。

つきかんひゃくえつ地区ちくじょうれい岭南地区ちく此纳いれしんこくばん图,ただししんこく却为此付极其沉重だい价,长期てきせいえつ战事导致百姓ひゃくしょう靡敝,みん聊生[313],而时にん南海なんかいじょうてきにん[ちゅう71]とく悉朝廷因对越战事てき缘故,中原なかはらつかれ敝已极,就留きょ南越なんごししょうおう归,并派じんじょう书,要求ようきゅう朝廷ちょうていせいしゅう无婆てき妇女さんまんにんらいがえへい缝补衣裳いしょうはたはじめすめらぎただ同意どうい给他いちまんせんにん。于是百姓ひゃくしょう人心じんしん离散、くずし瓦解がかいみつ造反ぞうはんてきじゅういえゆうなな[314]

另一方面ほうめん移民いみん“戍越”てき黔首,多数たすう出身しゅっしんろくこく们为りょう逃避とうひ“戍越”,纷纷逃入深山みやま密林みつりん,沦为ぬすめ贼,从而なり为始すめらぎくずしきさき,六国故地相继叛乱的导火线[315]

天下てんかじゅんゆう

 
はたはじめすめらぎ东巡雕塑,现藏于烟だい博物はくぶつ

はたはじめすめらぎいち统天,十年期间六次巡游近全土三分之一[ちゅう72],以示きょう威服いふく海内かいだい[316]ただしまたさい怀柔手段しゅだん舒缓むかし六国反抗未平之情绪;如袭これれいぎょうふうぜん齐人八神信仰登成山祭日主。《峄山こくせき》曰:“とう于绎さん群臣ぐんしん从者,咸思攸长。ついねん乱世らんせいふん土建どけんくに,以开そうこう战日さく流血りゅうけつ于野。やすしはじめ无万すう,陀及みかど,莫能禁止きんし。廼今皇帝こうていいち天下でんかへい复起。”

追求ついきゅう长生

はたはじめすめらぎほん纪第ろく记载“...维じゅうはちねん皇帝こうていさくはじめ。....齐人じょとうじょう书,げん海中かいちゅうゆうさん神山かみやまめい蓬莱ほうらい方丈ほうじょう、瀛洲,仙人せんにんきょ。请得斋戒,あずかわらわ男女だんじょもとめこれ。于是じょ发童男女だんじょすうせんにん入海いりうみもとめ仙人せんにん。”

ずいきさきてき记载“...さんじゅうねん,....いん使韩终、ほうこう石生いしゅうもとめ仙人せんにん不死ふし药”,显示はたはじめすめらぎふかしんじうたぐ且陆续遣じん寻求不死ふし药。さんじゅうさんねん焚书"しょしゃ卜筮ぼくぜい种树书。

はたはじめすめらぎまえいちねんてき记载“さんじゅうななねんじゅうがつみずのとうしはじめすめらぎゆう。....还过吴,从江じょうわたり。并海じょうきたいたる琅邪。かたじょとう入海いりうみもとめしん药,すう岁不,费多,おそれ谴,乃诈曰:“蓬莱ほうらい药可しかつね为大鲛鱼しょとくいたり....”,表明ひょうめい确方じょ寻求长生不老ふろう药,而且无功归返。つぎいちねんなながつへいとらはじめすめらぎくずし于沙おか平台ひらだい。”

遭遇そうぐうくら事件じけん

はたはじめすめらぎけし灭六こくきさき,引起无数人的じんてきかたき视,遭到くら杀并罕见,じょりょう荆轲とげしん较为じんしょじゅく悉外,《ふみ记》还记载三宗针对秦始皇的暗杀事件。

こう渐离くら未遂みすい

战国まつつばめ国人くにびとこう渐离,擅长击古代こだいてき一种击弦乐器,颈细かた圆,中空なかぞらじゅうさんげん),荆轲こうとも。荆轲きさきはたはじめすめらぎれいどおり太子たいしたんかず荆轲てき门客,门客们都せん逃了。こう渐离とげ改名かいめい换姓给人とう酒保しゅほ,隐藏ざいそう这个地方ちほうさくこう。过了ひさこう渐离こう虑到长久隐姓うめめい,担惊受怕躲藏こわ怕没ゆうつき头,就不さい隐藏自己じこてき份,应邀往宋じょう里人さとびと轮流さくきゃくおもてえんじ击筑,听众赞不绝口,并向だか渐离赐酒以示赞赏。きさきらいいんだか渐离击筑わざ艺高ちょうはたはじめすめらぎ传进宫中ひょうえんじはたはじめすめらぎてきぼう臣子しんしつげ发后,はたはじめすめらぎ虽然特赦とくしゃてき死罪しざいただし让人さきろう瞎他てき双眼そうがん以防其行とげ[まいり89]そうだか渐离そう虽瞎,却灌于筑ちゅうざいはじめすめらぎ听其击筑迷不留意りゅうい时,奋起用きよう灌铅てき筑击はじめすめらぎこう渐离くら杀秦はじめすめらぎさい终失败,并以[まいり90]此秦はじめすめらぎさい也不敢接近せっきん以前いぜん曾为东方ろくこくてき百姓ひゃくしょう[317][まいり91]

ひろしなみすなぎょうとげ事件じけん

 
ひろしなみすなぎょうとげ事件じけんぬし谋,家族かぞくせいつかまつ韩的张良きさきなり为汉はつさん

おおやけもとまえ218ねんはたはじめすめらぎ29ねん),はたはじめすめらぎざいだい3じゅんゆう中途ちゅうとひろしなみすなこん河南かなんしょうしん乡市はら阳县),随行ずいこう车队突然とつぜん遭到いち个120きん相当そうとう于现ざいてき30おおやけきんじゅうてきだい铁椎撞击,ただしだい铁椎砸在りょう另一辆车じょうぎょうとげしつ败,はたはじめすめらぎぼつゆう受伤[まいり92]

张良これひろしなみすなぎょうとげ事件じけんてきしゅ谋,てき家族かぞくだいつかまつ韩,于灭韩之恨,几乎散つき财寻もとめ勇士ゆうし谋划とげ杀秦はじめすめらぎ[318]きさきらい找到いち个大力士りきし[まいり92],以大铁椎撞击はたはじめすめらぎてき车驾,惜误ちゅうふく车,はたはじめすめらぎ为此だいさくじゅうにちつい甚急[319]。张良おもんみゆう改名かいめい换姓,逃到しも躲藏おこりらい[320][まいり31][まいり91]

咸阳くら事件じけん

おおやけもとまえ216ねんはたはじめすめらぎ31ねんいち个晚じょうはたはじめすめらぎあずかよんめい武士ぶしいちおこりざい咸阳いち带微ふくぎょうただしざい兰池宫附近ふきんぐうじょう一众强盗袭击,じょう危急ききゅうこう而最终击毙企图袭击秦はじめすめらぎてき强盗ごうとうよし于怀疑事件じけん另有ぬし谋,ざい关中地区ちくだいさくじゅうてん[239][まいり91]

焚书あな

はたはじめすめらぎ以秦国原くにはらゆうてき法律ほうりつれい为基础,吸收きゅうしゅう六国法律的某些条文,制定せいてい颁行全国ぜんこく统一てき法律ほうりつはたちょう对于官吏かんりてき管理かんり很严かくてき制定せいていりょう很多处罚官吏かんりてき方法ほうほう

はたはじめすめらぎてき严酷法律ほうりつ引起りょう士人しじんてき满,かく种指责纷纷而らい不同ふどう于秦はじめすめらぎ法家ほうかてき种种がく说不绝于みみよし于当时社かいじょうひゃくいえそう鸣,严重てき阻碍そがいりょうはたはじめすめらぎ征服せいふくてきはら六国民众思想的统一。丞相じょうしょう认为这威胁到りょうはたちょうてき统治,しゅ张严厉镇压这些士じんはたはじめすめらぎ支持しじ斯的ほう,并发动了焚书あな事件じけん

  • ところ谓“焚书”,就是こうもとまえ213ねんはたはじめすめらぎ为了统一ばらろくこく人民じんみんてき思想しそう巩固はたちょうてき统治,开始销毁じょはた记》外的がいてき其他ろくこくてき书,保留ほりゅう关于农业、わざ术、卜筮ぼくぜい药的书籍。じょりょう博士はかせかんしょ职,天下てんか私藏しぞう诗、书、百家はっけ语的じん命令めいれいもりじょうはた其藏书烧掉。ゆう敢聚论《诗》《书》しゃ弃市,以古いましゃぞく。如果官吏かんりじょう隐瞒报,也和ぞう书的じん同等どうとうざい(《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》)。这一政策せいさく从前213ねん一直执行到前191ねん汉惠みかどじょはさみ书律ただし也有やゆうじん认为,一些禁书保存于秦皇家图书馆,ちょくいた项羽おさむやぶ咸阳きさき纵火,这些书籍ざい彻底消失しょうしつ
  • はじめすめらぎさんじゅうねんぜん212ねん),ざい焚书开始きさきてきだいねんそくおおやけもとまえ212ねん,两名为始すめらぎ炼制长生不老ふろう药的术士こうせい、卢生炼药はてすえ说后らいさら散布さんぷ许多对始すめらぎ不利ふり、甚至毁谤てきげん论,はじめすめらぎだいいかしたれい逮捕たいほ严办。わたるあんしゃざい审理时则こうそとゆびひかえ毁谤はじめすめらぎげん论的らいげんぜんきさきゆびひかえよんひゃくろくじゅう余人よにんはたはじめすめらぎれいはたわたるあんしゃよんひゃくろく十余名坑杀在咸阳。[321]

ふみ记·儒林れつ传》ちゅう说秦はじめすめらぎ焚书あな儒之きさきろく从此かけしつ[322]过,如博士はかせ廷议制度せいどある前述ぜんじゅつぎょうふうぜんこれれいそく召鲁儒士议之。

龙之

 
清人きよひとしょ绘秦はじめすめらぎ肖像しょうぞう

凶兆きょうちょう

すえふみ记》记载,おおやけもとまえ211ねんはたはじめすめらぎ36ねんてきいちねんこれない,连续发生さんけんかいごと

くびさき当年とうねん现“荧惑もりしんてき天文てんもん现象,古人こじん火星かせいしょうさく“荧惑”,二十八宿にじゅうはっしゅくなかてきこころ宿やど”简称为“しん”,“こころ宿やど”就是现代天文学てんもんがくてきてん蝎座”,而荧惑守心的しんてき现则しょう大凶だいきょうちょう,轻者天子てんしようしつ,严重てきじょう况就皇帝こうてい驾崩[まいり93]

同年どうねんゆういち陨石ざい东郡地区ちくこん河南かなんしょう濮阳)坠落,其间有人ゆうじんざい陨石上刻じょうこくじょう始皇帝しこうてい而地ぶんなな[まいり94],传入はたはじめすめらぎみみちゅうはたはじめすめらぎだいいかしたれいまえ挨家查问,ただしぼっ有人ゆうじん认罪,于是居住きょじゅうざい块石头周围的じん全部ぜんぶつめらい杀了,并焚毁了块陨せき。这次事件じけん让秦はじめすめらぎ心情しんじょう不快ふかい此他让博士はかせさくりょういちしゅせん真人しんじん诗》,とういた巡行じゅんこう天下でんか时,はしいた一处就传令乐师弹奏唱歌[323]

同年どうねんあきたかしゆう一位使者从关东走夜路经过华阴ひら舒道,其间有人ゆうじん手持てもちだま璧拦じゅう使者ししゃ要求ようきゅう使者ししゃしょうおう璧送いたり滈池くん,并称“今年ことし龙死”[まいり95]使者ししゃ问他缘由,じんしたがえそくしつ踪影,并留だま璧,使者ししゃおもんみゆうささげかいだま璧,むかいはたはじめすめらぎ叙述じょじゅつ自己じこてき奇遇きぐうはたはじめすめらぎ沉默りょうこういちかいしょうやまおに最多さいたただのう预知いちねんてきこと,并轻描淡うつしゆび现时やめ秋季しゅうき,这话未必みひつのう应验。ざい退ずさ使者ししゃきさきまたたたえ龙”てき意思いし人的じんてき祖先そせん”,(ゆび龙死”あずか无关)[324]

其后,はたはじめすめらぎ让御察看块玉璧,竟发现该だま璧是はじめすめらぎじゅう八年出外巡视渡江时,沉入水中すいちゅうさいはい水神すいじんてき块,为此うらないぼくうらないぼくてき结果迁徙ざい吉利よしとしふみ记记载的ぼくしょうゆう徙吉”),いん而下れい迁移さん万户人家到北河、榆中地区ちくまい户授给じゅうとういち[325],而秦はじめすめらぎ则在こうもとまえ210ねんはたはじめすめらぎ37ねん)进行だいじゅんゆうまた有生ゆうせいとしさいきさきいちじゅんゆう[まいり91]

さいきさきてきじゅんゆう

おおやけもとまえ210ねん年初ねんしょはたはじめすめらぎさんじゅうななねんじゅうがつ),はたはじめすめらぎ踏上だい四次全国巡游之旅,随行ずいこうてき包括ほうかつてき幼子おさなごえびすひだり丞相じょうしょう斯及执掌ちゅう车府れいてき赵高みぎ丞相じょうしょう冯去やまし则负责留守るすきょう[326],其具体ぐたい巡行じゅんこう线如

咸阳 うん梦(いま湖北こほくしょううん梦县 うみなぎさいま安徽あんきしょうきり城市じょうし
たん阳(いまこう苏省南京なんきん → 钱塘(こん浙江せっこうしょう杭州こうしゅう
かい稽(いま浙江せっこうしょう绍兴 → 吴(今江いまえ苏省苏州 → 琅琊
→ 荣成さんいまやま东省荣成 これ罘(今山いまやま东省けむりうてなしば罘区
平原ひらはら今山いまやま东省とくしゅう平原ひらはら
すなおかいま河北かほくしょう邢台广宗县
ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》

はたはじめすめらぎ一行在该年十一月到达云梦,ざいきゅううたぐやまはるかさいおそれしゅんしかきさき乘船じょうせん沿长こう而下,观览せき柯,わたり过海なぎさ[まいり96],经丹阳到达钱塘。いた浙江せっこう边上てき时候,みずきょう险,就向西にしはしりょういちひゃくじゅう,从江めん狭窄きょうさくてき地方ちほうわたり过,さいきさきとうじょうかい稽山祭祀さいしだいはるかのぞむ南海なんかいざいさとこく石立いしたて[327]碑文ひぶんじょりょう颂扬はたちょうてき功德くどくがい,还有せい顿吴えつこれ风俗てき用意よういすえあきら末清すえきよ初学しょがくしゃ顾炎たけしてき著作ちょさくにち》载,春秋しゅんじゅうえつおう勾践为反击吴こくつづみ生育せいいく增加ぞうか人口じんこういん此养なり吴越地区ちく百姓ひゃくしょうじゅう贞节てき风气[まいり48]いのちじんざい碑文ひぶん刻下こっか“饰省せん义,有子ゆうこ而嫁,ばい贞。ぼうへだた内外ないがい禁止きんしいん泆,男女だんじょ絜诚。おっと为寄豭,杀之无罪,おとこ秉义ほどつま为逃よめとくはは,咸化れんきよし一段いちだん碑文ひぶんぜんへん如下:

皇帝こうていきゅうれつひらいち宇内うだい德惠とくえおさむ长。さんじゅうゆうななねん,亲巡天下でんかしゅう览远かたとげとうかい稽,せんしょう习俗,黔首斋庄。
群臣ぐんしん诵功,本原もとはらこと迹,ついくび高明こうめいはた圣临こくはじめていけいめい,显陈きゅうしょうはつひら法式ほうしき,审别职任,以立恒常こうじょう
ろくおう专倍,贪戾傲猛,りつ自彊じきょう暴虐ぼうぎゃくほしいままぎょう,负力而骄,すう动甲へい。阴通闲使,以事あい从,ぎょう为辟かた
うち饰诈谋,外来がいらいおかせ边,とげおこり祸殃。义威诛之,殄熄暴悖,らん贼灭ほろび。圣德广密,ろくごうなか泽无疆。
皇帝こうてい并宇,けん万事ばんじ,远近毕清。运理ぐんぶつこう验事实,かく载其めい。贵贱并通,いや陈前,靡有隐情。
饰省せん义,有子ゆうこ而嫁,ばい贞。ぼうへだた内外ないがい禁止きんしいん泆,男女だんじょ絜诚。おっと为寄豭,杀之无罪,おとこ秉义ほど
つま为逃よめとくはは,咸化れんきよし大治おおはる濯俗,天下てんかうけたまわ风,こうむきゅう经。みな遵度轨,かずあんあつしつとむ,莫不顺令。
黔首おさむ絜,にん乐同则,よしみ太平たいへいきさきけいたてまつほう常治つねじ无极,舆舟倾。从臣诵烈,请刻此石,ひかりたれきゅう铭。
ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》

はたはじめすめらぎきさき从会稽山おりかい经吴こえ势浩だい,避居当地とうちてき项梁项籍そく项羽)叔侄也看いた,项籍さらたたえわれ而代”。つきかん项梁担心项籍祸从こう,惹来ぞくこれ祸,たてそくさけべ项籍噤声,ただし此项はり对项せき开始另眼しょう[328]

横渡よこわたし长江きさきはたはじめすめらぎ沿海えんかいがん北上ほくじょういた达琅琊台[329]。这是はたはじめすめらぎだい三次到达琅琊台,并在当地とうち召见かたじょ巿あるさくじょぶく),距离初会しょかいじょ巿的时间,やめ经有きゅうねんてき时光[まいり68]

すえふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》てき描述,じょ巿当时仍渡海とかいこう东求せん药,推断すいだんあずかはたはじめすめらぎかいめんきさきじょ巿随そく东渡大海たいかいよし于徐巿在寻找仙丹せんたんてき过程中花なかはな费大りょう钱财,がい怕面对秦はじめすめらぎてき雷霆らいていいかたくしょう蓬莱ほうらいせん药虽可能かのう取得しゅとく,却总だい鲛鱼阻挡,いん此无ほう抵达仙人せんにん岛,要求ようきゅう增派ぞうはしんしゅ及装备连弩对付鲛鱼。ひさはたはじめすめらぎざいばんじょう梦见与海神わたつみ交战,海神わたつみてき形状けいじょうこうぞうじんだい惑不かい邀请ぼう博士はかせかい梦,博士はかせゆび海神わたつみ一向以大鱼蛟龙作斥侯,一般人是不会梦见海神的,过秦はじめすめらぎざい祭祀さいし方面ほうめん对神灵恭けい周到しゅうとう,却出现这种恶しん,应当じょ掉它,しかきさき真正しんせいてきぜんしんざいかいむかえらい[330]

いん此秦はじめすめらぎ应允じょ巿的要求ようきゅう派遣はけん射手しゃしゅ杀鲛鱼。从琅琊向きたちょくいた荣成さんいまやま东省荣成),曾遇见鲛鱼,ちょくいたいた达之罘(今山いまやま东省けむりうてなしば罘区てき时候,さい杀了いち头大鱼[まいり91]接着せっちゃくまた沿海えんかいこう西にし进发[331]

沿着やま东半岛沿岸えんがん绕行,はたはじめすめらぎざい抵逹黄河こうがゆうてき平原へいげん今山いまやま东省とくしゅう平原ひらはら)时,突发重病じゅうびょうたおせ[ちゅう73]群臣ぐんしん知道ともみちはたはじめすめらぎ讳“いちいん此不敢将挂在くちばし边,ただしはたはじめすめらぎてきびょうじょう仍没ゆうこう[332]

はたはじめすめらぎ知道ともみち自己じこ时日无多,うつしりょう一封盖上御印的信,给当时正ざい上郡かみごおりこん陕西榆林附近ふきん监督こうむ队的长子扶苏[まいり97]いのち扶苏かい咸阳参与さんよ丧事,ただし这封遗书却存在中ざいちゅう车府れいけんてのひらしるし玺事务赵だかてき办公处[まいり91]ぼつゆうおく达扶苏手じょう[333]おおやけもとまえ210ねんはたはじめすめらぎさんじゅうななねんなながつ),はたはじめすめらぎざいすなおか平台ひらだいこん河北かほくしょう邢台广宗县[まいり98])逝世[1][まいり91]たくみごうてきはたはじめすめらぎてき出生しゅっしょう地点ちてんあずか逝世地点ちてん,仅相距一ひゃく公里くり[まいり68]

ふみ记·はたほん纪》载:“始皇帝しこうていりつじゅういちねん而崩。”ただしよしきさきらい版本はんぽん传抄はただて”错写“”,造成ぞうせいきさき以为はたはじめすめらぎかついたじゅういち[まいり99]しんだい史学しがく钱大昕指出さしで错误,ただしぼっゆう找到しょう关证すえちょくいた南京なんきん师范大学だいがく团队ざい日本にっぽん高山寺こうざんじ所藏しょぞうしょう本中ほんなか找到版本はんぽんすえさいじょうつくり证材りょうさいはた错误あらため[まいり100]

きさき

すなおか

はたはじめすめらぎ统一ろくこくきさきさききさき进行5だい规模てきじゅんゆうざい名山めいざん胜地こくせき记功,炫耀ごえはじめすめらぎさんじゅうななねんぜん210ねん),はたはじめすめらぎ开始さいきさきいちじゅんゆうかえしいたり平原へいげんとくびょうくだりいたりすなおか平台ひらだいはたはじめすめらぎ驾崩。而秦はじめすめらぎくずしゆうじょう文献ぶんけん记录,如下:

  • ふみ记》まきろくはたはじめすめらぎほん纪〉:“〔さんじゅうななねんなながつへいとらはじめすめらぎくずし于沙おか平台ひらだい。”此年なながつへいついたち,无丙とら
  • 《开元うらない经》まき90引伏せいひろしぎょう传》:“はじめすめらぎ以〔さんじゅうななねんろくがつおつうし于沙おか。”此年ろくがつちょうついたちおつうしじゅうきゅうにち(儒历7がつ11にち)。わかふみ记》“なながつへいとらなな”为“ろく误,则丙とらじゅうにち(儒历7がつ12にち)。

另有いち说“なながつへいとらいん历日记载,换算なりしん历实际是はちがつへいとらはちがつ丙午ひのえうまついたちへいとらじゅういちにち(儒历9がつ10日とおか)。[まいり101]中国ちゅうごく学者がくしゃからし德勇とくゆう则认为,がつ份无误而ゆう误。[まいり102]世人せじんただへいとら为发丧日,却不知ふちはたはじめすめらぎ具体ぐたいよし于秦まつ战火,はただい史料しりょうほろび佚,つかさ马迁おおかた寻访,得知とくちはたはじめすめらぎなながつへいとらはた其写いれふみ》。

丞相じょうしょうおそれ天下でんかゆう变,乃秘发丧,かん载辒凉车ちゅうところいたる百官ひゃっかんそうごと如故,宦者辄从车中其奏ごとどくえびす赵高及宦しゃろく人知じんち。诈为丞相じょうしょう斯受はじめすめらぎ遗诏于沙おか立子たつこえびす为太さら为书赐公子こうし扶苏、こうむ恬,赐死。すなおか。该年秋季しゅうき,从直どういたり咸阳,发丧。太子たいしえびす袭位,为せい皇帝こうてい天下てんかはじめはたはじめすめらぎ驾崩。九月くがつそう始皇帝しこうてい郦山

はたはじめすめらぎほんさく书命ざい上郡かみごおりいま陕西榆林附近ふきん监军てき扶苏おくそう,并继嗣帝ただし赵高勾结はじめすめらぎ少子しょうしえびす及丞しょうざいはたはじめすめらぎきさき,伪造りょう遗诏りつえびす皇帝こうていはたせい,并赐死扶苏

はたはじめすめらぎさんじゅうななねんがつゆう彗星すいせいゆう大角おおずみほしてき位置いち现,长度视大约ななしゃくぎょう上空じょうくう东北,さいきさき消失しょうしつ于女ほし古代こだい天文学てんもんがく书《ほしうらないかい释出现此とくせいはた天下てんか大乱たいらん国家こっかあらためあさ换代,时间たん则3ねん则7ねん[334][335]

はたちょう灭亡

はたせい即位そくいきさきひさぜん209ねんなながつ庶民しょみん陈胜吴广りつ领戍そつざいだい泽乡おこりごとはんしん并迅そく壮大そうだいずいきさき天下てんか大乱たいらんつきかん陈胜、吴广おさむ关中しつしん军反扑击败,ただしげん东方ろくこくしょう继复こくはたあさはしこうくずし溃。ぜん207ねんはたはじめすめらぎ驾崩きさきさんねんすわえはた项燕项羽ざいきょ鹿しかちゅう歼灭はたすすむあきら统帅てきしん军主りょく同年どうねんきゅうがつ,赵高杀秦せいよく自立じりつ为帝,ただし遭到大臣だいじんはん对,とげ立子たつこ婴为しんおう即位そくい当日とうじつ婴即设计诛杀赵高,ただし对秦あさ灭亡于事无补。じゅうがつしんおうざい灞上こうすわえしょう刘邦投降とうこうはたちょう灭亡。ずいきさき项羽あずか刘邦そう夺天ばく发了ねんてきすわえ汉战そう,以刘くに胜利建立こんりゅう汉朝而告终。

赵佗独立どくりつ

 
くらい于广东省かわみなもとてき赵佗雕像

陈胜、吴广おこり义后ひさ南海なんかいじょうにんやまいじゅう,临终まえ时任龙川れいてきつねやまぐんていこん河北かほくしょうせいていにん赵佗[336]召来,こう赵佗ゆび南海なんがいぐん虽位处偏へき,远离中原なかはらただしうらないすう千里せんりはたやまもたれうみゆう险可すえ以凭此成为いちしゅうおも,并提いた自己じこゆう切断せつだんどおり中原なかはら道路どうろてき打算ださん,以抵こう中原ちゅうげんりゅう寇的侵犯しんぱんよし信任しんにん赵佗てき能力のうりょくじょりょう赵佗がいにん嚣并ぼつゆうはたてき打算ださんつげ他人たにん,其后さらはた任命にんめいぶん书交给赵佗,让他代行だいこう南海なんかいこおりぐんじょうてき职务[337]

にん嚣不ひさびょうほろび,继任为南海なんかいじょうてき赵佗こう岭南てき横浦よこうら关(いま广东しょうみなみ雄市ゆういちきた)、阳山关(こん广东しょう阳山县きた)、湟溪关(こん广东しょう英德ひでのり境内けいだい连江入北にゅうほくこう处)とうかく关口てき军队传达りょうすえ险防もりてき指令しれい防止ぼうし中原ちゅうげんてきおこり义军进犯,并借つくえ杀了はたちょう安置あんちざい南海なんがいぐんてき官吏かんり们,换上自己じこてき亲信[まいり103][338][まいり104]

おおやけもとまえ206ねんはたちょう灭亡,此时かつらりんぞう两郡てき越人えつじん也趁つくえ纷纷独立どくりつしょく王族おうぞくきさきしょくざいぞうぐん击败其它骆越ぞくてき部落ぶらくくび领,以螺じょういまこしみなみ河内かわち东英县内)为都城みやこのじょう建立こんりゅうりょう瓯骆こく自称じしょうやす阳王”[339]ずいきさき赵佗出兵しゅっぺいおさむやす阳王并将其赶はし接着せっちゃく还兼并了かつらりんぐんかずぞうぐん[340][まいり104]。赵佗こう虑到ぞうこおり越人えつじん部落ぶらく势力过大,はたぞうぐんぶん拆为交趾きゅうしん两郡,仅派两使しゃ管理かんりおも大事だいじ务,日常にちじょうごと务仍よし各部かくぶ落首らくしゅ自己じこ管理かんり[まいり105][まいり104]。约公もとまえ203ねん(汉高祖こうそさんねん),赵佗以ばん都城みやこのじょうざい岭南地区ちく建立こんりゅう南越なんごしこく自称じしょう南越なんごしたけおう[341][まいり104]

轶事

 
于兵马俑あなぜん建造けんぞうてき始皇帝しこうてい雕像

はたはじめすめらぎてきだか

すえふみ记·刺客しかくれつ传》记载,つばめこく使者ししゃ荆轲くわだて图行とげ嬴政时,嬴政よし不能ふのう及时拔出ぬけで其佩剑,结果ろういたよう绕柱奔逃,十分じゅうぶんおおかみ[156][157]

ざい一般いっぱんてき认知ちゅう,嬴政佩带てき应属あお剑,而青铜剑容易よういおりだん此一般青铜剑都是短剑,さい负盛めいてきあお铜剑——えつおう勾践剑ぜん长仅55.6りんまい,这种长度てき剑随しゅ就可以拔。对于马迁这段记载,历史がく一直都显得很困惑[まいり86]

1974ねん考古学こうこがく发现いち接近せっきん1まいてきあお铜长剑,现收藏しゅうぞうざいはたはじめすめらぎへい马俑博物はくぶつ馆,这次考古こうこ发现推翻りょう以往いおうあお铜剑不能ふのう铸得ふとし长”てき认知。推断すいだん当年とうねん嬴政就是佩带这种长版てきあお铜剑,所以ゆえんざいくだりとげ时因剑身过长,而不能ふのう及时拔出ぬけで佩剑,也是理解りかいてき[まいり86]

此外,历史がく发现拔剑困难还ゆう另一个原因げんいん,盖因战国时期,帝王ていおう及官员都习惯はた佩剑“负”ざいきさき们做过实验:だかざい1.90めーとる以上いじょうてきじん才能さいのうぎょう拔出ぬけでざいきさき达1まいてきあお铜剑。すえ这个实验,はたはじめすめらぎてきだか应该てい于1.90めーとるいん此秦はじめすめらぎざい无法及时拔出ぬけできさきてき佩剑[まいり86]

はたはじめすめらぎてき佩剑

すえ《复活てき军团:はた军秘いち书所じゅつ随身ずいじん佩剑亲政てき重要じゅうよう标志,いん此有说法ゆびはたはじめすめらぎざい亲政きさき曾经让人づくり两柄あお铜剑,并在剑上こくりょう两个ていはた”。いち随身ずいじん携带,一柄埋在观台下。はたはじめすめらぎきさき随身ずいじん佩剑很有可能かのうあずか主人しゅじんいちどういれそう[まいり86]

はたはじめすめらぎ讨论ぜん

此外,西にし刘向ところちょてき说苑·いたりこうまた记载,はたはじめすめらぎ曾经与博士はかせ们讨论“ぜん让”てき问题:

こと缘六国破灭之后,はたはじめすめらぎざいぼう召开廷议,以三おうそくなつしょうしゅうたけしおうぎょう袭制,而五みかどぎょうぜん让制,询问群臣ぐんしん何者なにもの为优,しかきさき择而从之。よし于这わたる及皇继承てき敏感びんかん议题,博士はかせ们都对此保持ほじ缄默,ただゆう博士はかせ鲍白れいたたえみかど让贤,视天为官天下でんかさんおう袭,视天为家天下でんか[342]

はたはじめすめらぎ认为自己じこ德行とっこう继承みかどほっかん天下でんか”,はた天下てんかとめ给贤德之のりゆきじん,并反问鲍しろれい何人なんにんのううけたまわ自己じこてきこと业。鲍白れいとうどうこうはたはじめすめらぎ浇了冷水れいすいゆびはたはじめすめらぎぎょう“桀纣みち”,在任ざいにん间推ぎょう项工ほど,滥用民力みんりょく过甚,あずか五帝的德行相比差得远。めん对鲍しろれいこれてきいちばん话,はたはじめすめらぎ沉默りょうこういちかいめん惭色,さい终打けしりょうぜん让”てきねん[343]

こと实上,ゆかり于战こく时早ゆうつばめおうぜん让”王位おういてき前科ぜんか,而且はたはじめすめらぎまた认为“こうさんすめらぎとくけんみかど[まいり48]ゆうぜん让”てきねん头也不足ふそく为奇。ただ过《ふみ记》研究けんきゅうはたはじめすめらぎ生平おいだいらてきさい权威资料,《ふみ记》ぼつゆう记载该事,意味いみはたはじめすめらぎ谈禅让”一事只能作为轶事参考。

 
じょぶく东渡图,こう户时浮世うきよ绘画歌川うたがわ国芳くによしさく

じょぶく东渡

为了寻求长生不老ふろうこれ药,はたはじめすめらぎ派遣はけんかたじょぶくりつわらわ男女だんじょ6,000にんわたり东海もとめ神仙しんせん。《すわえろくじょう》记载,じょぶくわらわ男女だんじょ们在いた目的もくてき瀛洲即今そっこん日本にっぽんきさきいちかえし日本にっぽんはた为其きさきだいただしゆうきさきだい学者がくしゃ对此提出ていしゅつりょう怀疑。

评价

はたはじめすめらぎ中国ちゅうごく历史うえ一位极富传奇色彩、ざい大略たいりゃくてき划时だい人物じんぶつ历史じょうだいいち中国ちゅうごく皇帝こうてい皇帝こうてい尊号そんごうてき创立しゃ中国ちゅうごく皇帝こうてい制度せいど创立しゃ,也是使中国ちゅうごく进入りょう中央ちゅうおうしゅうみかどせい时代てきだい一人ひとり一生いっしょう并天しょう皇帝こうてい、废分封ぶんぽうおけぐん县、せいひゃくえつ、逐匈奴きょうどおさむ长城、つう沟渠、销兵、迁富豪ふごう、车同轨、书同文どうぶん、钱同币、币同がたどうしゃく、权同衡、こうどう伦、いち法度はっと、以法治国ほうちこく焚书あな,对于中国ちゅうごくだいいち统、对于ちゅう国政こくせいせい创建、对于中国ちゅうごくばん图之确立、对于中国ちゅうごく民族みんぞく传承,おこりいたりょう不可ふかすり灭的关键作用さよう,对后てき中国ちゅうごく世界せかい产生りょう不可ふか估量てきふか远影响。另一方面ほうめんはたはじめすめらぎいん实施しげるじゅうてき徭役かず赋税制度せいど,也是导致はたちょう迅速じんそく灭亡てき根本こんぽんいんもとただしいにしえ以来いらいはたはじめすめらぎ一直是一个备受争议的人物,ほまれこれしゃしょう其为くび创统いち局面きょくめんてき千古せんこいちみかど”,毁之しゃ则称其为专制独裁どくさいてきいちだい暴君ぼうくん”。

纪年

はたおう 元年がんねん 2ねん 3ねん 4ねん 5ねん 6ねん 7ねん 8ねん 9ねん 10ねん
西元にしもと ぜん246ねん ぜん245ねん ぜん244ねん ぜん243ねん ぜん242ねん ぜん241ねん ぜん240ねん ぜん239ねん ぜん238ねん ぜん237ねん
干支えと おつ へいたつ ちょう つちのえうま おのれ 庚申こうしん からしとり みずのえいぬ みずのと 甲子きのえね
はたおう 11ねん 12ねん 13ねん 14ねん 15ねん 16ねん 17ねん 18ねん 19ねん 20ねん
西元にしもと ぜん236ねん ぜん235ねん ぜん234ねん ぜん233ねん ぜん232ねん ぜん231ねん ぜん230ねん ぜん229ねん ぜん228ねん ぜん227ねん
干支えと おつうし へいとら ちょうしげる つちのえたつ おのれ 庚午こうご からしひつじ みずのえさる みずのととり きのえいぬ
はたおう 21ねん 22ねん 23ねん 24ねん 25ねん
西元にしもと ぜん226ねん ぜん225ねん ぜん224ねん ぜん223ねん ぜん222ねん
干支えと おつ へい ちょううし つちのえとら おのれ
はた始皇帝しこうてい 26ねん 27ねん 28ねん 29ねん 30ねん
西元にしもと ぜん221ねん ぜん220ねん ぜん219ねん ぜん218ねん ぜん217ねん
干支えと かのえたつ からし みずのえうま みずのとひつじ きのえさる
はた始皇帝しこうてい 31ねん 32ねん 33ねん 34ねん 35ねん 36ねん 37ねん
西元にしもと ぜん216ねん ぜん215ねん ぜん214ねん ぜん213ねん ぜん212ねん ぜん211ねん ぜん210ねん
干支えと おつとり へいいぬ ちょう 戊子ぼし おのれうし かのえとら からし

家庭かてい

父母ちちはは

叔伯

おとうとおとうと

  • 异母おとうと:长安くんなり(韩姬所生しょせい
  • 异父おとうとふとしきさき所生しょせいみかどふとしきさきあずか嫪毐所生しょせい

后妃こうひ

きさき宫列おんなまん余人よにん[ちゅう74]

  • おうきさき详,开元认为可能かのうすわえこくてき宗室そうしつ女子じょし[ちゅう75]
  • つづみきんひめじんめい详)[344]
  • ずいじゅん美人びじんめい详)[345]
  • えびすひめ野史やししょ载)

子女しじょ

公子こうし

はたはじめすめらぎ诸子すえ查者じゅうよんにんただしただゆう五人名字流传至今

公主こうしゅ

じゅうめいおんな儿,みなしょう公主こうしゅただしふうごうあずか姓名せいめい出生しゅっしょう顺序とう详(みな矺死于杜)。すえ一处女性墓穴发现一枚戒指,其中一名公主的名字被认为叫“阳滋”。[ちゅう77]

斯诸ゆかりとうみなめとはたはじめ皇女おうじょ

かげ作品さくひん

电视剧

名称めいしょう 出演しゅつえん
ろく壮士そうし - えきすいかん》(1990台湾たいわん电视剧) 龙隆
刺客しかくれつ传 - 荆轲》(1990台湾たいわん电视剧) 晓杰
いちだい暴君ぼうくん》(1974台湾たいわん电视剧) ろうゆう
东周列国れっこく战国へん かく
阿房あほう おう卫国
みちきゃくあずかかたなきゃく 杨嘉诺
乱世らんせい英雄えいゆう吕不韦 吴军まこと
寻秦记 はやしみね
はた》(电视剧) 寇世勋
だいはた直道なおみち
はたはじめすめらぎてき情人じょうにん》(台湾たいわん电视剧) 刘德凯
はたはじめすめらぎ 张丰あつし
てん剑群侠
はたはじめすめらぎ》(香港ほんこん电视剧) 刘永
かみ话》 臧金せい
だい汉风 かみなり
汉刘くに ただし怀玉
すわえ汉骄ゆう おうはじめしん
すわえ汉传 于和伟
こうたきぎぞくすわえ汉志 いさお
せん岁情じん なりそう
古今ここんだい战秦俑情 罗嘉りょう
だい刺客しかく 罗乐りん
はた时明がつ あやか荣生
はた时丽じん明月めいげつこころ 张彬あきら
寻秦记(网络剧) 牛子うしこはん
あきら镧传 佟梦实
大秦たいしん 张鲁いち
しんしん长公记~どうはん同学どうがく战国武将ぶしょう ほう

电影

名称めいしょう 主演しゅえん
はた始皇帝しこうていにちはた始皇帝しこうてい》(1962ねん日本にっぽん电影 新太郎しんたろう
はた》(1989ねん中国ちゅうごく电影 陆树铭
しかばね家重いえしげ》(1990ねん香港ほんこん电影 陈硕
西にしすわえ霸王》(1994ねん香港ほんこん电影 じょてん
はた》(1996ねん中国ちゅうごく电影 きょうあや
荆轲とげしんおう》(1998ねん中国ちゅうごく电影 ゆきけん
英雄えいゆう》(2002ねん中国ちゅうごく电影 陈道あきら
木乃伊みいら3:龙帝はか》(2008ねん美国びくに电影 连杰
时空とく战队》(2017ねん中国ちゅうごく电影 じょしょうつよ
王者おうじゃ天下でんか》(2019ねん日本にっぽん电影 吉沢よしざわあきら

纪录へん

名称めいしょう とし 国家こっか/くび播频どう 制作せいさくかた 主演しゅえん
はたはじめすめらぎ帝国ていこく开创しゃ
The First Emperor: The Man Who Made China
(1しょう时50ふん电视电影しき纪录へん
2006ねん2がつ16にちくび 英国えいこく探索たんさく频道/だいよんだい Nic Young导演けん编剧 白石しろいしせん
(James Pax)
《China's First Emperor》
(3しょう时电视电かげしき纪录へん
2008ねん 美国びくに/中国ちゅうごく历史频道 Andreas Gutzeit导演,Laurie K.Miller编剧 じょ鹏凯
(Xu Peng Kai)
《东方帝王ていおうだに
Dong Fang Di Wang Gu
(45ふん20しゅう纪录へん
2015ねん6月23にちくび 中国ちゅうごくひさし视科きょう频道/中国ちゅうごく网络电视だい(CNTV)ざい线播おく 出品しゅっぴんじん聂辰せきけいしゅんうみ,陈方ひらた导演 しゅうえみへい
はたはじめすめらぎりょうてき惊天秘密ひみつ
China's Megatomb Revealed
(电视电影しき纪录へん
2016ねん10月16にち 英国えいこく国家こっか地理ちり频道 Hugh Ballantyne/陈凯导演,Nic Young编剧 孙蛟龙
(Jiaolong Sun)
《从秦はじめすめらぎいた汉武みかど
QIN AND HAN EMPIRE
(50ふん6しゅう纪录へん
2016ねん5月28にちくび 中国ちゅうごくひさし视纪录频どうざい线播おく きむ铁木导演 しゅうえみへい

うた

名称めいしょう 主演しゅえん
はたはじめすめらぎ (うた剧) ひろしひしげ西にし·あかりくびえんじ

ゆう

ぶん作品さくひん

书籍

书名 作者さくしゃ
东周列国れっこくこころざし 邵鱼冯梦龙
寻秦记 えき
はた时明がつ ゆたかひとし
大秦たいしん帝国ていこく 孙皓晖
はたくずし 开元
はた
抽丝剥茧解读秦はじめすめらぎ
はたはじめすめらぎ おう小方おがた

うた

名称めいしょう 主演しゅえん
はたはじめすめらぎ (うた剧) ひろしひしげ西にし·あかりくびえんじ

漫画まんが

王者おうじゃ天下でんか漫画まんが作者さくしゃはら泰久やすひさ,2012ねんゆかりNHKせい播动 福山ふくやまはいおん

注解ちゅうかい

    ちゅう:

  1. ^ すえはたはじめすめらぎほん纪》记载,はたはじめ皇生きみお于秦あきらおうよんじゅうはちねん正月しょうがつせい邯郸,换算なり儒略历在1がつ27にちいたり2がつ25にち间。
  2. ^ すえはたはじめすめらぎほん纪》记载,はたはじめすめらぎ于秦はじめすめらぎさんじゅうななねんなながつへいとらせいすえ颛顼历,该年なながつへいついたち,无丙とらふくせいひろしぎょう传》记载,はじめすめらぎろくがつおつうし,该年ろくがつちょうついたちおつうしろくがつじゅうきゅうにち,换算なり儒略历为7がつ11にち。此处死亡しぼう从后しゃ
  3. ^ 3.0 3.1 はた王政おうせい认为谥号乃是“论父,しん论君”,だい为不妥而废除,而改よう计数方式ほうしきてきすう尊号そんごう
  4. ^ とうだいふみ记索隐》引《ほん》谓“なま于赵,曰赵せい”。
  5. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:さんじゅうろくねん……あき使者ししゃ从关东夜过华阴平舒道,有人ゆうじん璧遮使者ししゃ曰:“为吾遗滈いけくん。”いんごと曰:“今年ことし。”刘宋裴骃(裴松之子ゆきこ)《ふみ记集かい》引苏りん曰:“はじめ也;龙,にんくんぞう;谓始すめらぎ也。”
  6. ^ 东汉许慎《说文かい》:すめらぎだい也。从自。はじめ也。はじめ王者おうじゃさんすめらぎ大君おおきみ也。
  7. ^ なお书》:验皇しゃ煌煌こうこう也。
  8. ^ すわえ·きゅううた·东皇太一たいち》:吉日きちじつ兮辰りょうきよしはた愉兮上皇じょうこう
  9. ^ 汇》:みかど上帝じょうていてんかみ也。
  10. ^ おう贞《读史きさき辩》うん:“毋亦韦故为之说,而泄はたすめらぎ使つかい其为ちち,长保とみ贵耶?そもそも其客感恩かんおんしゃ为是以骂はじめすめらぎ,而六こくほろびじん,侈张其事,よく使天下でんかこれにん,谓秦さきろくこくほろび也。しか韦不敢言,ふとしきさき复不敢言,而大之子ゆきこ,鸟知其非嬴出也?”
  11. ^ 汤聘いんふみひえうん:“异人请妇,至大しだい而诞未必みひつ请之时,遽有娠也。虽有娠,韦岂肯轻泄之?而亦孰从知之ともゆきはてゆう娠而きさきけんじとうはじめすめらぎざい赵,母子ぼし俱匿,其妪どく不能ふのう语子以吕たね?如齐东昏于萧缵耶?如语はじめすめらぎ必不にんいちほんこれけいなにいたり忿然曰:‘きみなに亲于しんごう曰仲ちち?’以奉先王せんおうこう,且躬其后,而俾迁蜀以死,虽宾きゃくゆうまんはし,而莫阻,また嬴非吕矣。则吕えき嬴之说,战国好事こうじしゃ为之。”
  12. ^ りょうたま绳云:“《ひだり》僖じゅうなな孕过,《疏》うんじゅうがつ而产,妇人だい,则大じゅうがつこれ不作ふさくじゅうがつ鲜。そく如《ふみちゅうじゅうがつ曰大おっと及期うたぐ也,过期なおなにうたぐわか谓始すめらぎなまほん及期,隐之至大しだい,而乃以生つげ,则子すわえ决无不知ふち,岂非よく盖弥あきら乎?ただ缘秦はん众怒,恶尽归之,とげゆう吕政讥。おおやけほん纪,とく书生はじめすめらぎ年月としつき,而于此更书之,犹云みな传不韦献匿身ひめ,其实はたまさしだいはじめなま也。别嫌あかりうたぐごう春秋しゅんじゅう书子どうせい义,にん误读《ふみ记》みみ。”,まいり见马もとざい(马非ひゃくちょ:《はた始皇帝しこうてい传》だい59页。
  13. ^ なつひめてきひめ”,妇人てきしょう谓;ひめまえてきなつ”,あるもの姓氏せいしあるものあずか出生しゅっしょうこくしょう关的ぼう种称谓。よし于夏あさてきかつ区域くいき,以山西南せいなんてきやす邑(こん山西さんせいなつ县)河南かなん西部せいぶてき阳城(こん河南かなんらく阳)为中心ちゅうしん,战国时代ぞく于韩こくてき领土,于这种地域ちいき观念而言,しょう韩为なつしょう韩国出身しゅっしんてき韩夫じんうつしさくなつひめ,应当あい情理じょうりてき
  14. ^ なり蟜的原名げんめい应作“もり桥”あるなり桥”,“蟜”乃恶谥,按秦汉时惯例,叛臣みなかんむり以恶めい、恶谥,《ふみ记.はるさるくんれつ》及《战国さく·しんさくよん》记载てきもり桥”、“もりそりそくなり蟜”[まいり26]
  15. ^ なり生母せいぼじょりょう韩系がい烕一说,另有说法ゆびなり生母せいぼ乃吕韦家ひめ史学しがくかいいちちょくゆびふみ记·吕不韦列传》对秦はじめすめらぎ生母せいぼてき出身しゅっしん记载自しょう矛盾むじゅんいん而衍せい“赵豪おんなあずか为“吕不韦家まいおんな”并非一人ひとりてき说法。すえ以上いじょう说法,はたはじめすめらぎ生母せいぼ实为赵豪おんな[まいり27]过在ほん栏中,なり生母せいぼ则采よう韩系がい烕一说。
  16. ^ 关于婴的ゆうよん种说ほう,一说为扶苏之子,一说为秦始皇之弟,一说为胡亥之兄,一说为长安君成蟜之子,四种说法学术界尚无定论。
  17. ^ ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》原文げんぶん为“ふとしきさきいんとめ”。
  18. ^ からつかさ马贞《ふみ记索隐》ゆび昌平しょうへいくん为楚公子こうしたて以为しょうきさき徙于郢,项燕りつ为荆おうしつ其名。昌文まさふみくんめいまた知也ともや过学しゃえびす正明まさあき认为,昌平しょうへいくんりつへいひら叛时,なお为秦しょう马贞てき理解りかい对史记文字もじてき读有误。
  19. ^ からあさつかさ马贞ふみ记索隐》按:韦饮鸩死,其宾客数きゃくすう千人窃共葬于洛阳北芒山。
  20. ^ ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》记载てきしょ谓“すすむじん,逐出”,并非单纯ゆび韩赵さんすすむまとじん,而是广义ゆび外国がいこくじんそくしんじん。见《ふみ记疑あん》.ぜん华著.湖南こなん大学だいがく出版しゅっぱんしゃだい1はん(2010ねん7がつ1にち).ISBN 9787811138405だい1.10しょう 斯浮沉谜あん
  21. ^ からあさ张守节ふみ记正义》:わかしんじん哭临しゃ,夺其官爵かんしゃく,迁移于房りょう
  22. ^ からあさ张守节《ふみ记正义》:わかしんじん哭临韦者,官爵かんしゃくまた迁移于房りょう
  23. ^ 东汉はんかた《汉书·沟洫こころざし记载:郑国みぞおこりいたりもとかなえろくねんひゃくさんじゅうろく岁,あずか记所记年份完全かんぜんしょういん此郑こくみぞ建造けんぞうてきとし份应为秦王政おうせい元年がんねん
  24. ^ から朝司あさじ马贞《ふみ记索隐·まきじゅうきゅう·かわみぞ书第なな》:郑国うん:“しん为韩のべすう岁之いのち,为秦けんまんだいこう是也これや
  25. ^ 战国さく·しんさく·四国为一将以攻秦》记载韩非こう嬴政进谗ごと指出さしで使关东さんねんやぶ坏四国合纵的姚贾实际上只是借嬴政之势,ようしんこくてき珍宝ちんぽうわたし结交诸侯。つきかん姚贾さい终消じょりょう嬴政てき疑心ぎしんただし此与韩非结仇。
  26. ^ からあさ张守节《ふみ记正义》くくこころざしうん:“うん阳城ざい雍州うん阳县西にしはちじゅうはたはじめすめらぎあまいずみ宫在焉。”
  27. ^ 赵国公子こうしよしみざい邯郸おさむうらないきさきりつ领他てき宗族そうぞく几百人到代地收拾残部,并自立じりつ为代おう,联燕こうしん
  28. ^ 此战《ふみ记》てき记载ゆう错杂不明ふめい处,さい纳杨宽所ちょ《战国史料しりょう编年辑证》てき观点,见杨しょちょ《战国史料しりょう编年辑证》だい1103页。[まいり37]
  29. ^ 中国ちゅうごく历史图集(The Historical Atlas of China)中国ちゅうごく出版しゅっぱんしゃ出版しゅっぱんしゅ编:おう全国ぜんこく), ISBN 978-7-980013-01-5/K‧01
  30. ^ 战国さく·しんさく·文信ふみのぶこう出走しゅっそう》一文记载当时向赵王进谗言陷害李牧的人,赵国大臣だいじん韩仓。
  31. ^ つかさ马迁ふみ记·ろくこく年表ねんぴょう:(はた王政おうせい21ねんおう贲击すわえ
  32. ^ からつかさ马贞《ふみ记索隐》ざいふみ记·はるさるくんれつ传》ちゅう按:すわえ捍(そくすわえかそけおうゆうははおとうと犹(そくすわえあいおう),犹有庶兄负刍及昌平しょうへいくんすわえくんかん无子,而上ぶんうんこうれつおう无子,误也。
  33. ^ 1982ねん中国ちゅうごく考古学こうこがく发现一个秦代铸造的铜戈,しょう为“じゅうななねん丞相じょうしょう启状ほこ”,现收藏しゅうぞうざい天津てんしん博物はくぶつ馆,铜戈こくゆうじゅうなな文字もじ:“じゅうななねん丞相じょうしょう启、じょうづくり,郃阳。よしみすすむけん,库𫊸,こうよこしま”。学者がくしゃゆび丞相じょうしょう启”应为昌平しょうへいくんぐま启,“丞相じょうしょうじょう”应为隗状
  34. ^ からつかさ马贞《ふみ记索隐》记载:“昌平しょうへいくんすわえ公子こうしたて以为しょうきさき徙于郢”,すえ可知かち昌平しょうへいくん曾任しんこく丞相じょうしょう。以秦汉官职任免にんめんてき正常せいじょうほどじょ而论,丞相じょうしょうめん职后,一般由御史大夫递补升任。とう吕不韦、昌平しょうへいくん接受せつじゅ诏令平定へいてい嫪毐みだれ时,昌平しょうへいくんてきはいめい仅次于吕韦,推测吕不韦被罢相きさき,应由时任大夫たいふてき昌平しょうへいくんせっにん丞相じょうしょう,这亦あい乎秦汉官职升迁的制度せいどほどじょまたさん见注33。
  35. ^ おさむすわえ方略ほうりゃくぞく国家こっか大事だいじ推断すいだん嬴政かい为此召开廷议,はた汉廷议主よう大臣だいじんみな出席しゅっせき昌平しょうへいくん为右丞相じょうしょう自然しぜん参与さんよ廷议てき主要しゅよう人物じんぶつ
  36. ^ ふみ书没ゆう记载昌平しょうへいくん对攻すわえてき见及ほう过根すえざいおう翦被贬斥きょうきさき,继而贬至郢陈,可能かのうおう翦的见,对攻すわえ慎重しんちょう态度,いん而得ざい嬴政。
  37. ^ ふみ记·こうむ恬列传》记载,こうむ恬在しん王政おうせい26ねんざいなり为秦こくはた军,此率へい灭楚てき,应为蒙恬之ちちこうむたけ,《ふみ记·しろおこりおう翦列传》及《ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》てき记载ゆう误。
  38. ^ からあさ张守节的《ふみ记正义》ゆびしろちちとうさくちちじょうざいからなんじしゅう郏城县东,于秦あさぞく颍川ぐんしろちち于郢陈为东,ただしちちじょう于郢陈以西いせいちちじょうしろちち两城めいきゅうせきゆう误写(见田馀庆ちょ《说张すわえ:关于“ほろびはた必楚”问题てきさがせ讨》一文いちぶん)。
  39. ^ 武安たけやすくんしろ起因きいん为拒绝秦あきらじょうおうてきせい召,つつみ围赵こくこく邯郸,はたあきらおう认为他心たしん怀怨もち,赐下たから剑迫自尽じじん
  40. ^ すえ馀庆“说张すわえ:关于ほろびはた必楚问题てきさがせ讨”一文いちぶんざいうん梦睡とら四号秦墓出土木牍,うつし有安ありやす陆(即今そっこんうん梦)戍卒めい为黑おっと惊二人的两封家书。ぜんいちふうゆうくろおっととうちょくおか淮阳,おさむはん城久ぐすく,伤未さとし)也”语,きさきいちふうゆう“以惊はん城中じょうちゅうゆえ语。ぜん一封据黄盛璋先生参考汪曰桢《历代长术概要がいようかず日本国にっぽんこく新城しんじょう新藏しんくら《战国长汉长历图》,估计うつしがつからしきさきいちふう应写于さんがつそくはた王政おうせい24ねん3がつ
  41. ^ みんこく初年しょねん史家しか杨宽ざい著作ちょさく《战国ゆび,樊於就是ざいしん赵“こえ战”ちゅう战败,仅以めんてき桓𬺈。
  42. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:荆轲しゃ,卫人也。其先乃齐じん,徙于卫,卫人谓之庆卿。
  43. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》太子たいしもとめ天下でんか匕首ひしゅとく赵人じょ夫人ふじん匕首ひしゅこれひゃくきん使つかいこう以药焠之,以试じん濡缕,にん无不たて死者ししゃ
  44. ^ からつかさ马贞《ふみ记索隐》按:天皇てんのうすめらぎしもそくうんたいすめらぎとう人皇じんのう也。而封ぜん书云“むかししゃふとしみかど使もとおんな瑟而悲”,盖三皇已前称泰皇。いちうんたいすめらぎふとしひろし也。
  45. ^ 刘宋裴骃《ふみ记集かい引用いんよう蔡邕てき叙述じょじゅつゆびせい书,みかどしゃ制度せいどいのち也,其文曰“せい”。诏,诏书。诏,つげ也。
  46. ^ 刘宋裴骃《ふみ记集かい》引述卫宏てき叙述じょじゅつゆびしん以前いぜんみんみな以金だま为印,龙虎钮,ただ其所このみはた以来いらい天子あまこどく以印しょう玺,またどく以玉,群臣ぐんしん莫敢よう
  47. ^ 寡人为“寡德ひと”,ざいはたはじめすめらぎまえてき君主くんしゅ自称じしょう春秋しゅんじゅう战国时期常用じょうようすえ说是表示ひょうじ谦之またあるものゆう无上てき权力而有だか处不胜寒これかん
  48. ^ からつかさ马贞《ふみ记索隐》引述东汉蔡邕对“ちんいち词的叙述じょじゅつゆびちんゆうてき意思いしいにしえしゃ上下じょうげどもしょう,贵贱いや,则可以同ごう义也。皋陶あずかしゅんげんちんごとめぐみそこぎょう”。こごめはら曰“ちん皇考こうこう”。いたりしんしかきさき天子あまこどく以为しょう。汉因而不あらため
  49. ^ から张守节《ふみ记正义》引用いんようきたちぇひろしてき叙述じょじゅつゆび斯磨璧作,汉诸みかど传服,谓“传国玺”。
  50. ^ はただい初年しょねんさんじゅうろくぐんきさきらいきた匈奴きょうどみなみせいひゃくえつきさきさい增加ぞうかぐんきょうよんじゅういちぐんちょくいたりはたほろび为止,きょうおけじゅうよんぐん[まいり55]
  51. ^ から·张守节《ふみ记正义》按さん辅旧ごとうん:“聚天兵器へいき,铸铜じんじゅうかくじゅうじゅうよんまんきん。汉世ざい长乐宫门。”
  52. ^ つかさ马迁《ふみ记·刘敬叔孙どおりれつ》:(陈胜おこり义期间)おっと诸侯はつおこり时,齐诸すわえあきらこごめけい莫能兴。
  53. ^ つかさ马迁《ふみ记·高祖こうそほん》:はた始皇帝しこうていつね曰“东南ゆう天子てんし气”,于是いん东游以厌
  54. ^ からつかさ马贞《ふみ记索隐》按:またしん瓒下ちゅううんはた以一溢为いちきん,汉以いちきん为一きん”,其义也。
  55. ^ 刘宋裴驷《ふみ记集かい》引孟やすし曰:“じゅう两为溢。”
  56. ^ から颜师注解ちゅうかい引臣瓒曰:“げん钱之がた质如しゅう钱,ただぶん异耳。”
  57. ^ ところ谓赘婿むこ包括ほうかつ两个じょう况,だい一种指男子赘入女家者;だい二种指贫民典身给富人,过期赎,ぼつ为奴隶者。
  58. ^ うん梦秦简《つかさそらりつ》曰:𫊸(けいしろだんはるおおやけしょくとう责者,せき卅钱。さん见睡とらしんはかちく整理せいりしょう组:《ねむとらしんはかちく简》,文物ぶんぶつ出版しゅっぱんしゃ,1978年版ねんばんだい88页。
  59. ^ はたただし严禁百姓私自迁移田界,さら遑论自由じゆううらない,《ねむとらうん梦秦简》ちゅうてき法律ほうりつこたえ问》记载:“ぬすめ徙封,赎耐。なに如为ふうふうじそく阡陌。顷半ふうじなぐ,且非?而盗徙之,赎耐,重也しげやじゅう。”さん见睡とらしんはかちく整理せいりしょう组编:《ねむとらしんはかちく简》,文物ぶんぶつ出版しゅっぱんしゃ,1978年版ねんばん,178页
  60. ^ 刘宋裴骃《ふみ记集かい》引东汉学しゃ应劭ゆび“驰道,天子てんし道也みちやみちわかいま中道ちゅうどうしか。”
  61. ^ ふみ记》ただ记载はたはじめすめらぎれい“车同轨”,并没ゆう规定车轨(车轮しょう距)长度てき记载,ただしはたしょうすいとくすうなおろく推断すいだんはたはじめすめらぎ规定てき车轨为ろくしゃく长。
  62. ^ から·张守节《ふみ记正义》引述くくこころざしうん:“はた阿房あほう宫亦曰阿じょうざい雍州长安县西きたいちじゅうよんさと。”。
  63. ^ 隐官はたちょうかん设立てき工作こうさくぼう收容しゅうようけい满释放きさき身体しんたいゆう残缺ざんけつてき受刑じゅけいしゃさくこう,见“马非ひゃく.《しんしゅう人物じんぶつ传十.ちゅう华书きょく. 1982ねん8がつ.”。
  64. ^ 关于しょ谓的じん鱼是なんぶつ,历代文献ぶんけんかくゆう不同ふどうかい释,《ふみ记集かいしょうじん鱼似鲇,よんきゃく。《ふみ记正义》ぶん别引じゅつ《广志》及《异物こころざし》,《广志》版本はんぽんゆびしょ谓人鱼其实是娃娃鱼。いたり于《异物こころざし版本はんぽんゆびじん鱼似人形にんぎょう,长尺あまり不堪ふかんしょく出没しゅつぼつざいこん浙江せっこううてなしゅういち带。《太平たいへい览·まき803》引述《さんはた记》ゆびにん鱼其实是鲸鱼。
  65. ^ から张守节《ふみ记正义》曰:“谓出土しゅつど为陵,そくなり,还复其土,げん复土。”
  66. ^ じょりょうこうむ恬外,《淮南ワイナン·じん间训》还记载秦はじめすめらぎ任命にんめい杨翁为北匈奴きょうどてきはた领,原文げんぶん如下:“はたすめらぎはさみ录图,见其传曰:‘ほろびしんしゃえびす也。’いん发卒じゅうまん使つかいこうむおおやけ、杨翁はた,筑脩じょう西にしぞくりゅうすなきた击辽すい,东结あさ鲜,中国ちゅうごく内郡うちこおり挽车而饷。”,ただし正史せいしぼつゆう杨翁其人てき记载。
  67. ^ ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》ただ记载はたはじめすめらぎ33ねんおけかつらりん南海なんかい及象ぐん,以谪遣戍”,ただしゆびはたおさむ百越战争始于秦始皇33ねん,盖因しんじん纪事,惯于记始ごと年月としつき,而把はじめごと事件じけん经过,みなけい于终ごととし。如《ふみ记》はたほん纪说はたあきらおうななねん,拔新じょう”。而出土しゅつどねむとらしんはかちく简》“编年记”说:“ろくねんおさむ新城しんじょうななねん新城しんじょうおちいはちねん新城しんじょう归。”证明しんこくかんかた书《はた记》からだれいはじめごと事件じけん经过みなけい于终ごとこれねん,而不记始ごととしまいり见《ふみ记疑あん》,ぜん华著,湖南こなん大学だいがく出版しゅっぱんしゃだい1はん(2010ねん7がつ1にち),ISBN:9787811138405,1.9发现はたただし南越なんごし历史
  68. ^ ふみ记·韩信卢绾れつ传》记载:“(汉高祖こうそじゅういちねんじゅうがつうえこうみかど击东かき,东垣したそつ骂上。东垣くだそつ骂者斩之,骂者黥之。さらめい东垣曰真じょう。”じょう,战国时属赵国,めい东垣,汉高祖こうそじゅういちねんおおやけもとまえ197ねんさらめいじょう
  69. ^ 从秦はじめすめらぎいのち使监禄开凿灵渠一事いちじらい见当时南せいはた军已识到利用りよう湘江水道すいどうさく深入ふかいり岭南てき主要しゅよう线路。
  70. ^ はた灭楚战,嬴政さい终动ようりょうろくじゅうまん兵力へいりょく灭楚,やめ经是动用りょうはた国境こっきょうない全部ぜんぶ可用かようへい,而且对统帅王翦已りゃくゆううたぐはたおさむ百越之战远不能跟秦灭楚之战相提并论,此“じゅうまんいち说,实属严重夸大,ゆう可能かのう连往ひゃくこし“谪戍”てき百姓ひゃくしょう包括ほうかつざいない
  71. ^ ふみ记·淮南ワイナン衡山れつ传》记载为尉佗,ただし赵佗出身しゅっしんろくこくてきしん黔首”,じょうほふ睢已ほろび,难以想像そうぞう赵佗かいはたはじめすめらぎ信任しんにんなり为征えつしん军的最高さいこう军事长官,而且《ふみ记.南越なんごしれつ传》记载,陈胜おこり义时,赵佗せい担任たんにん龙川れい见当时伍しょうはたはじめすめらぎいのちじょう佗征えつ,实属张冠戴之
  72. ^ NHKスペシャル:アジアきょだい遺跡いせき だいしゅう 地下ちかねむ皇帝こうてい野望やぼう中国ちゅうごく 始皇帝しこうていりょう兵馬へいば俑~ [NHK特集とくしゅう:亚洲巨大きょだい遗迹 だい3しゅう 长眠地底ちていてき皇帝こうてい野心やしん中国ちゅうごくはたはじめすめらぎ陵墓りょうぼあずかへい马俑~]. NHK. 2015-11-07 [2015-11-14]. (原始げんし内容ないようそん于2015-11-17) にち语). 
  73. ^ 中国ちゅうごく古代こだい文献ぶんけんちゅうてきやまいあずか现代汉语ちゅうてきやまい概念がいねんいち样。一般いっぱん较轻てきびょうざい古代こだい文献ぶんけんちゅうただたたえやまし”,ただゆう重病じゅうびょうざいしょうやまい[まいり93]
  74. ^ きさき宫之谜:はたはじめ皇后こうごう为何书无にんなん记载,摘自开元《はたはじめすめらぎてき秘密ひみつ
  75. ^ 开元,《はた谜:はたはじめすめらぎてき秘密ひみつ》,台北たいぺい:联经(2010),页219-222。
  76. ^ 1976ねん10がつざい发掘ちゅう发现りょういちまい私印しいんいちまい“荣禄”,“荣禄”推断すいだんはたはじめすめらぎ儿子てき名字みょうじ
  77. ^ 1976ねん10がつざい发掘ちゅう发现りょういちまい私印しいんいちまいしるしぶん为“阳滋”,出土しゅつど于女せいちゅう。“阳滋”推断すいだんはたはじめ皇女おうじょ儿的名字みょうじ

参考さんこう文献ぶんけん

引用いんようせき

    いにしえ:

  1. ^ 1.0 1.1 1.2 つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:なながつへいとらはじめすめらぎくずし于沙おか平台ひらだい。 ふくせいひろしぎょう》:はじめすめらぎ以六月乙丑死于沙丘。
  2. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたほん》:五月ごがつ丙午ひのえうましょうじょうおうそつせいりつ为秦始皇帝しこうてい
  3. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:以秦あきらおう四十八年正月生于邯郸。及生,めい为政,せい赵氏。
  4. ^ ふみ记索隐】しょうじょう王者おうじゃ孝文たかふみおう中子なかごあきらじょうおう孙也,名子なごすわえ。按:战国さくほん名子なご异,きさき为华阳夫じん嗣,夫人ふじんすわえじんいん改名かいめいすわえ也。
  5. ^ 5.0 5.1 つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:“ちん为始皇帝こうていきさき以计すう二世にせいさんせいいたりまんせい,传之无穷。”
  6. ^ つかさ马迁《ふみ记·范睢蔡泽れつ》进(范睢)曰:“おう远交而近おさむとくすん则王すん也,とくじゃくまたおうしゃく也。こん释此而远おさむまた缪乎!且昔しゃ中山ちゅうざんこれこく地方ちほうひゃく,赵独吞之,こうなり名立なだち而利焉,天下てんか莫之のうがい也。こんおっと韩、中国ちゅうごく处而天下でんかくるる也,おう其欲霸,必亲中国ちゅうごく以为天下でんかくるる,以威すわえ、赵。すわえつよし则附赵,赵彊则附すわえすわえ、赵皆,齐必惧矣。齐惧,必卑じゅう币以ごとしん。齐附而韩、いん虏也。”
  7. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたほん》:“(はたあきらじょうおうよんじゅうねん,悼太たかし……よんじゅうねん安国やすくにくん为太。”
  8. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:“はたあきらおうよんじゅうねん太子たいし。其四じゅうねん,以其次子じし安国やすくにくん为太安国やすくにくん有子ゆうこじゅう余人よにん。”
  9. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:“安国やすくにくんちゅうおとこ名子なごすわえすわえはは曰夏ひめ,毋爱。”
  10. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:“しんすうおさむ赵,赵不甚礼すわえ。”
  11. ^ 11.0 11.1 战国さく·しんさく》:濮阳じん吕不韦贾于邯郸
  12. ^ 12.0 12.1 战国さく·しんさく》:乃说しんおうきさきおとうと阳泉くん
  13. ^ 13.0 13.1 战国さく·しんさく》:韦曰:‘おうねんだか矣,おうきさき无子,傒有うけたまわ国之くにゆき业,仓又辅之。おういちにち山陵さんりょうくずし傒立,用事ようじおうきさき门,必生よもぎ蒿。
  14. ^ 《战国さく·しんさく》:“异人贤材也,弃于ざい赵,无母于内,引领西にしもち,而愿いちとく归。おうきさき诚请而立じりつ异人无国而有こくおうきさき无子而有也。”
  15. ^ 《战国さく·しんさく》:“阳泉くん曰:‘しか。’にゅう说王きさきおうきさき乃请赵而归之。”
  16. ^ 16.0 16.1 战国さく·しんさく》:赵未韦说赵曰:‘异人,はた宠子也,无母于中,おうきさきほし而子使つかいしん而欲ほふ赵,いち以留计,だきそら质也。わか使つかいじん归而とくりつ,赵厚おくこれ敢倍とくほとりほどこせ为德讲。はたおうろう矣,以日晏驾,虽有异人,不足ふそく以结しん。’赵乃遣
  17. ^ 战国さくしんさく》:异人いたり韦使すわえふく而见。おうきさきえつ其状,こう其知,曰:‘われすわえじん也。’而自,乃变其名曰楚。
  18. ^ 战国さくしんさく》:“(すわえ)间曰:‘陛下へいか尝轫车于赵矣,赵之ごう桀,とく知名ちめいしゃしょうこん大王だいおうはんくにみな西にしめん而望。大王だいおう无一介之使以存之,しんおそれ其皆ゆう怨心,使つかい边境闭晚开。’おう以为しか其计。”
  19. ^ 战国さく·しんさく》:おうきさき劝立おう乃召しょうれい曰:‘寡人莫若すわえ。’たて以为太子たいし
  20. ^ 20.0 20.1 战国さく·しんさく》:すわえりつ,以不韦为しょうごう曰文しんこうしょく蓝田じゅう县。
  21. ^ 东汉はんかた汉书·ぎょうこころざしだいななうえ》:曰,诸畜せい其类,孙必ゆう其姓しゃいたり于始すめらぎはて吕不韦子。きょうぼうえき传曰:“ほうはくぶん,厥妖おす马生ほろび天子てんし,诸侯しょう,厥妖马生じん。”
  22. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:吕不韦者,阳翟だい贾人也。往来おうらい贩贱卖贵,いえるい千金せんきん
  23. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:吕不韦乃以五百金与子楚,为进よう,结宾きゃく;而复以五百金买奇物玩好,たてまつ而西ゆうはたもとめ见华阳夫じん姊,而皆以其ぶつけんじ华阳夫人ふじんよしげんすわえ贤智,结诸こう宾客へん天下でんかつね曰“すわえ也以夫人ふじん为天,にち夜泣よなきおもえ太子たいし及夫じん”。夫人ふじん大喜だいぎ韦因使其姊说夫じん曰:“われ闻之,以色事いろごとじんしゃしょくおとろえ而爱たゆこんおっと人事じんじ太子たいし,甚爱而无以此时蚤结于诸子ちゅう贤孝しゃ,举立以为适而おっとざい尊重そんちょうおっとひゃく岁之きさき所子ところごしゃ为王,终不しつ势,此所谓一言而万世之利也。以繁华时树本,そくしょくおとろえ爱弛きさき,虽欲开一言いちげんなおとく乎?今子いまこすわえ贤,而自ちゅうおとこ也,とく为适,其母またとくこう夫人ふじん夫人ふじん诚以此时拔以为适,夫人ふじん则竟ゆう宠于しん矣。”华阳夫人ふじん以为しかうけたまわ太子たいし间,从容げんすわえ质于赵者绝贤,来往らいおうしゃみなたたえほまれ。乃因涕泣ていきゅう曰:“わらわこうとくたかしきさき宫,不幸ふこう无子,はら得子とくこすわえりつ以为适嗣,以托わらわ。”安国やすくにくん许之,乃与夫人ふじんこくだま,约以为适嗣。
  24. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:すわえあずか吕不韦谋,行金こうきんろくひゃくきんもりしゃ吏,とくぬげほろび赴秦军,とげ以得归。
  25. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:しょうじょうおう元年がんねん,以吕韦为丞相じょうしょうふう为文しんこうしょく河南かなん雒阳じゅうまん户。
  26. ^ はんかた汉书·地理ちりこころざし》:河南かなんぐんはた三川さんせんぐんこうみかどさらめい
  27. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:“すすむ阳反,元年がんねんはた军蒙骜击定之さだゆき。”
  28. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:“太子たいしせいりつ为王,みこと吕不韦为相国しょうこくごうしょうなかちち’”。
  29. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:“こうむ骜、おう𬺈、麃公とう为将军。”
  30. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:とう时,有信ありのぶりょうくんすわえ有春ありはるさるくん,赵有平原ひらはらくん,齐有はじめ尝君,みな下士かし宾客以相倾。吕不韦以しんつよし,羞不如,また招致しょうち厚遇こうぐういたり食客しょっきゃくさんせんにん
  31. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:时诸こう辩士,如荀きょうちょ书布天下でんか。吕不韦乃使其客人人ひとびとちょしょ闻,しゅう论以为八览、ろく论、じゅう纪,じゅうあまり万言まんげん。以为备天万物ばんぶつ古今ここんことごう曰吕春秋しゅんじゅう
  32. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はた王政おうせいはちねんおうおとうと长安くんなり蟜将军击赵,はん(应无たむろとめ,军吏みな斩死,迁其みん于临洮。
  33. ^ つかさ马迁. ちょう. 史記しき. [-61]. (赵悼じょうおうろくねんふう长安くん以饶。 
  34. ^ ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいななねんがつじゅうろくにちなつふとしきさき
  35. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:吕不韦恐觉祸及己,乃私もとめだい阴人嫪毐以为舍人とねり,时纵倡乐,使つかい毐以其阴关桐轮而ぎょうれいふとしきさき闻之。
  36. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:吕不韦乃进嫪毐,诈令じん以腐ざいつげ韦又阴谓ふとしきさき曰:“こと诈腐,则得给事ちゅう。”ふとしきさき乃阴あつ赐主くさしゃ吏,诈论,拔其须眉为宦しゃとげさむらいふとしきさき
  37. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:ふとしきさきわたしあずかどおり,绝爱ゆうふとしきさきおそれ人知じんち,诈卜とう避时,徙宫きょ雍。
  38. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:嫪毐ふう为长しんこうやま阳地,れい毐居。宫室车马衣服いふくえん囿驰猎恣毐。こと无小だいみな决于毐。また河西かさいふとしはらぐんさら为毐こく
  39. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:嫪毐僮数せんにん,诸客もとめ宦为嫪毐舍人とねりせん余人よにん
  40. ^ 40.0 40.1 つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》おう翦行,请美田びでんたく园池甚众。はじめすめらぎ曰:“はた军行矣,なに忧贫乎?”おう翦曰:“为大王将おうしょう有功ゆうこう终不とくふうこう及大おう乡臣,しんまた及时以请园池为子孙业みみ。”はじめすめらぎだいわらい
  41. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:よんがつ上宿かみじゅく雍。おのれとり王冠おうかん,带剑。
  42. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:はじめすめらぎきゅうねんゆうつげ嫪毐实非宦者,つね与太よたきさきわたしみだれ生子おいごにんみな匿之。与太よたきさき谋曰“おうそく薨,以子为后”。
  43. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:长信こう毐作らん而觉,矫王玺。及太きさき玺以发县そつ。及卫そつかん骑、えびす君公くんこう舍人とねりはたよくおさむ蕲年宫为らん
  44. ^ 44.0 44.1 つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》おう知之ともゆきれい相国しょうこく昌平しょうへいくん昌文まさふみくん发卒おさむ毐。
  45. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:毐等败走。そくれいこくちゅう有生ゆうせいとく毐,赐钱ひゃくまん;杀之,じゅうまんつき毐等。
  46. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:きゅうがつえびす嫪毐さんぞく,杀太きさき所生しょせい两子,而遂迁太きさき于雍。诸嫪毐舍じんみなぼつ其家而迁しょく
  47. ^ 西にし汉刘むかい说苑·せい》:(しんおうしたれい曰:“敢以ふとしきさきごと谏者,戮而杀之!”从蒺あかざ其脊にく四肢而积之阙下,谏而死者ししゃじゅうななにん矣。
  48. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:齐人ちがやこげ说秦おう曰:“しんかた以天为事,而大おうゆう迁母ふとしきさきおそれ诸侯闻之,ゆかり此倍しん也。”
  49. ^ 西にし汉刘むかい说苑·せい》:ちがやこげ对曰:“陛下へいか车裂かりちちゆう嫉妒しん;囊扑两弟,ゆう慈之めい;迁母萯阳宫,ゆう不孝ふこうこれぎょう;从蒺あかざ于谏ゆう桀纣こん天下てんか闻之,つき瓦解がかい无向しんしゃしん窃恐はたほろび为陛危之,しょげんやめ毕,乞行就质。”
  50. ^ 西にし汉刘むかい说苑·せい》:皇帝こうていりつ驾,せんじょうまん骑,そらひだりかたぎょうむかいふとしきさき萯阳宫,归于咸阳。复居あまいずみ宫。
  51. ^ 西にし汉刘むかい说苑·せい》:乃立(ちがやこげ为仲ちち,爵之じょうきょう
  52. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:はじめすめらぎじゅうきゅうねんふとしきさき薨,谥为みかどふとしきさきあずかしょうじょうおう会葬かいそう茝阳。
  53. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:おうよく诛相こく,为其奉先王せんおうこうだい,及宾きゃく辩士为游说者众,おうにん致法。
  54. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:しんおうじゅうねんじゅうがつめん相国しょうこく吕不韦……而出文信ふみのぶこう就国河南かなん
  55. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:岁余,诸侯宾客使者ししゃしょうもち于道,请文しんこう
  56. ^ つかさ马迁《ふみ记·吕不韦列传》:吕不韦自ややおかせおそれ诛,乃饮鸩而
  57. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎじゅうねん文信ふみのぶこう韦死,窃葬。其舍じん临者,すすむじん也,逐出しんじんろくひゃくせき以上いじょう,夺爵,迁;ひゃくせき以下いか临,迁,勿夺爵。
  58. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はたおうしょいか吕不韦、嫪毐みなやめ,乃皆复归嫪毐舍人とねり迁蜀しゃ
  59. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:自今じこん以来いらいみさお国事こくじみち如嫪毐、韦者せき其门,视此。
  60. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:“(はた王政おうせいさんねんこうむ骜攻韩,じゅう三城みき。”
  61. ^ 61.0 61.1 つかさ马迁ふみ记·:(たかしけい湣王元年がんねんはた拔我じゅうしろ,以为しん东郡。ねんはた拔我あさうた。卫徙おう
  62. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:“(はた王政おうせいねんはた军骜おさむていさん枣、つばめきょ、长平、雍丘、やま阳城,みな拔之,じゅうしろはつおけ东郡。”
  63. ^ つかさ马迁ふみ记·ろくこく年表ねんぴょう始皇帝しこうてい元年がんねん,击取すすむ阳,さく郑国みぞ
  64. ^ つかさ马迁ふみ记·かわみぞ书》:韩闻しんこう兴事,よく罢之,毋令东伐,乃使すいこう郑国间说しんれい凿泾すい中山西なかやまにしていひさごこう为渠,并北山きたやま东注らくさんひゃくあまりさとよく以溉でん
  65. ^ つかさ马迁ふみ记·かわみぞ书》ちゅうさく而觉,はたよく杀郑こく。郑国曰:“はじめしん为间,しかみぞなりまたはた利也としや。”
  66. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:“(はた王政おうせいよんねんじゅうがつかのえとら蝗虫ばった从东かたらい,蔽天。天下てんか疫。百姓ひゃくしょうないあわせんせきはい爵一级。”
  67. ^ つかさ马迁ふみ记·かわみぞ书》はた以为しかそつ使就渠。
  68. ^ つかさ马迁ふみ记·かわみぞ书》みぞ就,ようちゅうはま阏之すい,溉泽卤之よんまんあまり顷,おさむみな亩一钟。于是关中为沃野よくや,无凶ねんはた以富つよしそつ并诸こういんいのち曰郑こくみぞ
  69. ^ つかさ马迁《ふみ记·斯列传》:かい韩人郑国らい间秦,以作ちゅう溉渠,やめ而觉。はた宗室そうしつ大臣だいじんみなごとしんおう曰:“诸侯じんらいことしんしゃ大抵たいてい为其ぬしゆう间于しんみみ,请一切いっさい逐客。”斯议またざい逐中。
  70. ^ つかさ马迁ふみ记·老子ろうし韩非れつ传》:韩非しゃ,韩之诸公子こうし也。
  71. ^ つかさ马迁ふみ记·老子ろうし韩非れつ传》人口じんこうども不能ふのうどう说,而善ちょ书。
  72. ^ つかさ马迁ふみ记·老子ろうし韩非れつ传》あずか斯俱ごと荀卿,斯自以为如非。
  73. ^ つかさ马迁ふみ记·老子ろうし韩非れつ传》ひとある传其书至しんしんおう见孤愤、蠹之书,曰:“嗟乎,寡人とく见此じんあずかゆう恨矣!”
  74. ^ つかさ马迁ふみ记·老子ろうし韩非れつ传》斯曰:“此韩これしょちょ书也。”はたいんきゅうおさむ韩。韩王はじめ不用ふよう,及急,乃遣使つかいしん
  75. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:韩非使しんしんよう斯谋,とめうん阳。
  76. ^ つかさ马迁ふみ记·老子ろうし韩非れつ传》斯、姚贾がい,毁之曰:“韩非,韩之诸公子こうし也。こんおうよく并诸こう终为韩不为秦,此人じょう也。こんおう不用ふよう久留くる而归,此自遗患也,如以过法诛之。”はたおう以为しかしも吏治斯使じん遗非药,使つかい杀。
  77. ^ つかさ马迁ふみ记·老子ろうし韩非れつ传》しんおうきさき悔之,使つかいじん赦之,やめ矣。
  78. ^ 韩非·》:さとし术之,必远见而明察めいさつ明察めいさつ不能ふのう烛私;のうほう,必强あつし而劲じき劲直不能ふのう矫奸。
  79. ^ 韩非·》:明主めいしゅくに,无书简之ぶん,以法为教;无先おう语,以吏为师;无私剑之捍,以斩くび为勇。境内けいだいみん,其言谈者必轨于法,动作しゃ归之于功,为勇しゃつき于军。无事则国富こくふ有事ゆうじ则兵きょう,此之谓王资。
  80. ^ 韩非·》:らんこくぞく,其学しゃ则称先王せんおうみち,以籍じん义,もりひろしふく而饰辩说,以疑当世とうせいほう,而贰じんぬししん。其言谈者,为设诈称,于外りょく,以成其私,而遗社稷しゃしょく。其带剑者,聚徒ぞくたて节操,以显其名,而犯五官ごかんきん。其患御者ぎょしゃ,积于わたし门,つき货赂,而用重人しげと谒,退すさあせ马之劳。其商こうみん修治しゅうじ窳之,聚弗靡之财,蓄积まち时,而侔农夫。此五しゃ邦之くにゆき蠹也。
  81. ^ つかさ马迁ふみ记·斯列传》いまだる而不きゅう就,诸侯复彊,そう聚约从,虽有みかど贤,不能ふのう并也。
  82. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》だいはりじんじょう缭来,说秦おう曰:“以秦つよし,诸侯たとえ如郡县之くんしんただしおそれ诸侯あい从,翕而不意ふい,此乃さとしはくおっと、湣王所以ゆえんほろび也。すなお大王だいおう毋爱财物,赂其ごうしん,以乱其谋,过亡さんじゅうまんきん,则诸こうつき。”
  83. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》しんおう从其计,见尉缭亢れい衣服いふくしょく饮与缭同。
  84. ^ つかさ马迁ふみ记·斯列传》しんおう乃拜斯为长史,听其计,阴遣谋士赍持金玉きんぎょく以游说诸こう。诸侯名士めいし以财しゃあつ遗结肯者,剑刺。离其君臣くんしん计,はたおう乃使其良はたずい其后。しんおうはい斯为きゃくきょう
  85. ^ つかさ马迁ふみ记·赵世:(赵悼じょうおうきゅうねん,赵攻つばめたぬき、阳城。へい罢,はたおさむ邺,拔之。
  86. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》おう翦攻阏与、橑杨。翦将じゅうはちにち,军归しょく以下いか,什推にん从军。邺安阳,桓𬺈しょう
  87. ^ 《韩非·饰邪》:凿龟すう䇲,ちょう曰“大吉だいきち”,而以おさむつばめしゃ,赵也。凿龟すう䇲,ちょう曰“大吉だいきち”,而以おさむ赵者,つばめ也。剧辛ことつばめ,无功而社稷しゃしょく危;邹衍ことつばめ,无功而国どう绝。赵代さき得意とくい于燕,きさき得意とくい于齐,くにらん节高。以为与しんつつみ衡,赵龟しん而燕龟欺也。赵又尝凿龟数䇲而きたつばめはたこうつばめ以逆しんちょう曰“大吉だいきち”。はじめおさむだいはり(应为しゃくはり)而秦出上いでかみとう矣,へいいたりりんそくたぬき)而六じょう拔矣;いたり阳城,はた拔邺矣;庞援揄兵而南,则鄣(应为漳)つき矣。しん曰:赵龟虽无远见于燕,且宜きん见于しんはた以其“大吉だいきち”,辟地ゆう实,すくいつばめゆう有名ゆうめい。赵以其“大吉だいきち”,そぎへいはずかしめしゅ不得意ふとくい而死。
  88. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうさんねん,桓𬺈おさむ赵平阳,杀赵はた扈辄,斩首じゅうまん
  89. ^ つかさ马迁ふみ记·赵世:(赵王迁)さんねんはたおさむあか丽、むべやす
  90. ^ つかさ马迁ふみ记·赵世まきりつ师与战肥,却之。ふうまき为武やすくん
  91. ^ つかさ马迁ふみ记·かど颇蔺しょう如列传》:赵乃以李まき大将たいしょう军,击秦军于よろしやす大破たいははた军,はしはたすすむ桓𬺈。ふうまき为武やすくん
  92. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(じゅうよんねん)韩王请为しん
  93. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうねんだい兴兵,いち军至邺,いち军至ふとはらおおかみはじめ
  94. ^ つかさ马迁ふみ记·赵世(赵王迁)よんねんはたおさむばんわれまきあずかこれ战,却之。
  95. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうろくねんきゅうがつ,发卒受地韩南阳假もり腾。はつれい男子だんし书年。
  96. ^ 96.0 96.1 つかさ马迁ふみ记·赵世(赵王迁)ねん代地だいちだい动,乐徐以西いせいきたいたるひら阴,だい墙垣ふとはん坏,坼东西にしひゃくさんじゅうろくねんだい饥,みん讹言曰:“赵为ごうはた为笑。以为不信ふしん,视地なま。”
  97. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうななねんない腾攻韩,とく韩王やすつき纳其,以其为郡,いのち曰颍かわ
  98. ^ はんかた汉书·地理ちりこころざし》:“はたすんで灭韩,徙天轨之みん于南阳,其俗夸奢,うえ气力,こうしょう贾渔猎,藏匿ぞうとく难制也。”
  99. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうはちねんだい兴兵おさむ赵,おう翦将上地じょうち下井しもい陉,はしかずすすむ河内かわうち,羌瘣伐赵,はし围邯郸城。
  100. ^ つかさ马迁ふみ记·赵世(赵王迁)ななねんしんじんおさむ赵,赵大将たいしょうまきはた军司马尚はた,击之
  101. ^ つかさ马迁ふみ记·かど颇蔺しょう如列传·まきはたあずか赵王宠臣かく开金,为反间,ことまきつかさ马尚ほしはん。赵王乃使赵葱及齐はた颜聚だいまきまき受命じゅめい,赵使じんほろまき,斩之。废司马尚。
  102. ^ 战国さく まきじゅういち 赵策よん》:はた使つかいおう翦攻赵,赵使まきつかさ马尚これまきすうやぶはししん军,杀秦はた桓𬺈。おう翦恶,乃多あずか赵王宠臣かく开等きん使つかい为反间,曰:“まきつかさ马尚ほしあずかはたはん赵,以多ふう于秦。”赵王うたぐこれ使つかい赵葱及颜为代将だいしょう,斩李まき,废司马尚。
  103. ^ つかさ马迁ふみ记·かど颇蔺しょう如列传·まききさきさんがつおう翦因きゅう击赵,大破たいは杀赵ねぎ,虏赵おう迁及其将颜聚,とげ灭赵。
  104. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:赵公よしみりつ其宗すうひゃくにんだい自立じりつ为代おう,东与つばめごうへい,军上だに
  105. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:引兵よくおさむつばめたむろ中山ちゅうざん
  106. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》しんおう邯郸,诸尝与おうせい赵时ははゆう仇怨きゅうえんみなあなしんおう还,从太ばら上郡かみごおり归。
  107. ^ 107.0 107.1 つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせい廿にじゅういちねんしん郑反。昌平しょうへいくん徙于郢。
  108. ^ 108.0 108.1 ねむとらしん简·编年纪》:韩王昌平しょうへいくん其处,ゆう𫊸ぞくはた王政おうせい21ねん)。
  109. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうろくねんたかしけんじ于秦。はたおけ丽邑。
  110. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:荆王けんじあお以西いせいやめ而畔约,击我みなみぐん发兵诛,とく其王,とげてい其荆
  111. ^ 111.0 111.1 つかさ马迁ふみ记·すわえ:(すわえおう负刍)ねんしん使はた军伐すわえ大破たいはすわえ军,ほろびじゅうあまりじょう
  112. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうねんおう贲攻,引河沟灌だいはりだいはりじょう坏,其王请降,つき其地。
  113. ^ つかさ马迁ふみ记·たいおおやけ曰:われ适故だいはり墟,墟中じん曰:“はたやぶはり,引河沟而灌大はりさんがつじょう坏,おう请降,とげ灭魏。”
  114. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》:于是はじめすめらぎしん:“われよくおさむ荆,于将军度よう何人なんにん而足?”しん曰:“过用じゅうまんにん。”はじめすめらぎ问王翦,おう翦曰:“ろくじゅうまんにん不可ふか。”
  115. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》おう翦言不用ふよういん谢病,归老于频阳。
  116. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》:(はたあきらじょうおう29ねんおさむすわえ,拔郢,烧夷りょうとげ东至竟陵。すわえおうほろび郢,东走徙陈。はた以郢为南ぐん
  117. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》とげ使しん及蒙恬(これちちしょうじゅう万南伐荆……しんおさむひらめあずかこうむ恬(これちちおさむ大破たいは荆军。
  118. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》しんじまたおさむ鄢郢,やぶこれ,于是引兵而西,あずかこうむ恬(これちちかいじょうちちとうさくちちじょう)。
  119. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》:荆人いんずい三日みっかさん顿舍,大破たいはしん军,にゅう两壁,杀ななじょうはた军走。
  120. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》こん闻荆へい进而西にし
  121. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》はじめすめらぎ闻之,だいいか驰如频阳,见谢おう翦…
  122. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》おう翦谢曰:“老臣ろうしん罢病もとみだれただ大王だいおうさら择贤しょう。”はじめすめらぎ谢曰:“やめ矣,はた军勿复言!”おう翦曰:“大王だいおう必不とくやめようしんろくじゅうまんにん不可ふか。”はじめすめらぎ曰:“为听はた军计みみ。”于是おう翦将へいろくじゅうまんにんはじめすめらぎおくいたり灞上。
  123. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》おう翦既いたり关,使つかい使还请善田よしだしゃ辈。
  124. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうさんねんはたおう复召おう翦,つよしおこり使つかいはた击荆。以南いなんいたりひら舆。虏荆おう
  125. ^ ねむとらしん简·编年记》:(はた王政おうせい廿にじゅうさんねん,兴,おさむ荆,□□まもり阳□よんがつ昌文まさふみくん
  126. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》はたおうゆういたり郢陈。
  127. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:荆将项燕りつ昌平しょうへいくん为荆おうはんしん于淮みなみ
  128. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうよんねんおう翦、こうむたけおさむ荆,やぶ荆军,昌平しょうへいくん,项燕とげ杀。
  129. ^ つかさ马迁ふみ记·しろおこりおう翦列传》いたり蕲南,杀其はた军项つばめ
  130. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》おう翦遂てい荆江みなみくだこしくんおけかい稽郡。五月ごがつ天下てんかだい酺。
  131. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》つばめ太子たいししゃ尝质于赵,而秦王政おうせいせい于赵,其少时与驩。及政りつ为秦おう,而丹质于しんしんおうぐうつばめ太子たいし不善ふぜん怨而ほろび归。
  132. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:归而もとめ为报しん王者おうじゃくにしょうちから不能ふのう
  133. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》太子たいし患之,问其でんきくたけ对曰:“しんへん天下でんか胁韩、、赵氏,きたゆうあまいずみ谷口たにぐちかたみなみゆう泾、渭之沃,擅巴、汉之饶,みぎ陇、しょくやまひだり关、殽之险,みん众而厉,兵革へいかく有余ゆうよゆう所出しょしゅつ,则长じょうみなみえきすい以北いほくゆう所定しょてい也。奈何いかん以见りょう怨,よく批其ぎゃく鳞哉!”
  134. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》はたすすむ樊於とくざい于秦おうほろびつばめ太子たいし受而しゃ
  135. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》きくたけ谏曰:“不可ふかおっと以秦おう暴而积怒于燕,そく为寒しんまた况闻樊将军之所在しょざい乎?谓‘ゆだねにくとう饿虎蹊’也,祸必不振ふしん矣!虽有かん、晏,不能ふのう为之谋也。はら太子たいしやまし樊将军入匈奴きょうど以灭こう。请西约三すすむみなみ连齐、すわえきた购于单于,其后乃可图也。”
  136. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》太子たいし)曰:“ふとしでん计,旷日わたるひさこころ惛然,こわ不能ふのう须臾。且非どく于此也,おっと樊将军穷困于天,归身于丹,终不以迫于彊しん而弃しょあいれい交,おけ匈奴きょうどかたいのちそつ时也。はらふとしでんさら虑之。”
  137. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》きくたけ曰:“おっとぎょう欲求よっきゅうやすみやつこ祸而もとめぶく,计浅而怨ふか,连结いちにんきさき交,国家こっかだいがい,此所谓‘资怨而助祸’矣……つばめ有田ありたひかり先生せんせい,其为人智じんちふか而勇沈,あずか谋。”
  138. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》见田先生せんせいみち太子たいしげん国事こくじ先生せんせい也”。田光たこう曰:“けいたてまつきょう。”乃造焉。
  139. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》田光たこう曰:“しん闻骐骥盛たけし时,いちにち而驰千里せんりいたり其衰おい,驽马さきこん太子たいし闻光もりたけし时,不知ふちしんせいやめしょうほろび矣。虽然,ひかり敢以图国事こくじしょぜん荆卿使也。”太子たいし曰:“原因げんいんさき生得しょうとく结交于荆きょう乎?”田光たこう曰:“けい诺。”
  140. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:(田光たこうよく杀以げき荆卿,曰:“はら足下あしもときゅう太子たいしげんこうやめあきら不言ふげん也。”いんとげ自刎じふん而死。
  141. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:荆轲とげ太子たいしげん田光たこうやめ,致光げん太子たいし再拜さいはい而跪,膝行しっこう流涕りゅうていゆう顷而きさきげん曰:“所以ゆえん诫田先生せんせい毋言しゃよく以成大事だいじ谋也。今田いまだ先生せんせい以死あかり不言ふげん,岂丹こころ哉!”
  142. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》こん计举こく不足ふそく以当しん。诸侯ふくしん,莫敢あい从。わたし计愚,以为诚得天下でんか勇士ゆうし使于秦,窥以重利しげとししんおう贪,其势必得所原ところはら矣。诚得こうしんおう使つかい悉反诸侯おかせわか曹沫あずか齐桓こう,则大ぜん矣;则不可ふかいん而刺杀之。かれはた大将たいしょう擅兵于外而内ゆうみだれ,则君臣くんしんしょううたぐ,以其间诸こうとくあい从,其破しん必矣。此丹上原うえはら,而不知ふちしょいのちただ荆卿留意りゅうい焉。
  143. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》太子たいしぜん顿首,かた请毋让,しかきさき许诺。于是みこと荆卿为上きょうしゃじょうしゃ
  144. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》おっと樊将军,はたおう购之きんせんきん,邑万
  145. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:荆轲太子たいしにん,乃遂わたし见樊於期曰:“はたぐうはた军可谓深矣,父母ちちはは宗族そうぞくみな为戮ぼつこん闻购はた军首きんせんきん,邑万はた奈何いかん?”于期仰天ぎょうてんふといきりゅう涕曰:“于期ごとねんつねつう骨髓こつづい,顾计不知ふち所出しょしゅつみみ!”荆轲曰:“こんゆう一言可以解燕国之患,报将军之かたきしゃなに如?”于期乃前曰:“为之奈何いかん?”荆轲曰:“はらとくはた军之くび以献しんおうはたおう必喜而见しんしん左手ひだりて其袖,右手みぎて揕其匈,しか则将军之かたき报而つばめ见陵愧除矣。はた军岂有意ゆうい乎?”樊於へん袒扼捥而进曰:“此臣日夜にちやきり齿腐こころ也,乃今とく闻教!”とげ刭。
  146. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》つばめ国有こくゆう勇士ゆうしはたまい阳,ねんじゅうさん,杀人,にん敢忤视。乃令はたまい阳为ふく
  147. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:诚得樊将军首あずかつばめただし亢之图,奉献ほうけんしんおうはたおう必说见臣,しん乃得ゆう以报。
  148. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》とげいたりしんもち千金せんきん资币ぶつあつ遗秦おう宠臣ちゅう庶子しょしこうむよしみ
  149. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》よしみ为先げん于秦おう曰:“つばめおう诚振こわ大王だいおう敢举へい以逆军吏,はら举国为内しん诸侯れつ,给贡职如ぐん县,而得たてまつもり先王せんおうそう庙。おそれ惧不敢自陈,谨斩樊於头,及献つばめただし亢之图,はこふうじつばめおうはいおく于庭,使つかい使以闻大王だいおうただだい王命おうめい。”
  150. ^ 150.0 150.1 つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》しんおう闻之,大喜だいぎ,乃朝ふく,设九宾,见燕使者ししゃ咸阳宫。
  151. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:荆轲奉樊於头函,而秦まい阳奉图柙,以次进。
  152. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》いたり陛,はたまい阳色变振おそれ群臣ぐんしんかい
  153. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:荆轲顾笑まい阳,ぜん谢曰:“きたしげる蛮夷ばんいひなびじん尝见天子てんし慑。はら大王だいおうしょう假借かしゃく使つかいとく毕使于前。”
  154. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》しんおう谓轲曰:“まい阳所持地もちじ图。”轲既图奏はたおう发图,图穷而匕首ひしゅ见。
  155. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》いん左手ひだりてはたおうそで,而右手持てもち匕首ひしゅ揕之。
  156. ^ 156.0 156.1 つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》しんおう惊,引而おこりそで绝。拔剑,剑长,みさお其室。时惶きゅう,剑坚,不可ふかりつ拔。
  157. ^ 157.0 157.1 つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:荆轲逐秦おうはたおう环柱而走。
  158. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》群臣ぐんしんみな愕,そつおこり不意ふいつきしつ其度。而秦ほう群臣ぐんしんさむらい殿上てんじょうしゃとく尺寸しゃくすんへい;诸郎ちゅう执兵みな陈殿ゆう诏召とくじょう
  159. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》时侍なつ无且以其しょたてまつ药囊ひさげ荆轲也。
  160. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:负剑,とげ拔以击荆轲,だん其左また。荆轲废,乃引其匕首ひしゅ以擿しんおうなか中桐なかぎりはしらしんおう复击轲,轲被はち创。
  161. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》はたおう怡者良久よしひさやめ而论こう,赏群臣ぐんしん及当すわしゃかくゆう,而赐なつ无且黄金おうごんひゃく溢,曰:“无且爱我,乃以药囊ひさげ荆轲也。”
  162. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:而使おう翦、からし胜攻つばめつばめだい发兵击秦军,はた军破つばめえきすい西にし
  163. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅういちねん,乃益发卒诣王翦军,とげやぶつばめ太子たいし军,つばめ蓟城,とく太子たいしくびつばめおう东收辽东而王おう翦谢びょうろう归。
  164. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》つばめおう太子たいしとうつきりつ其精へい东保于辽东。
  165. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》はたすすむしんつい击燕おうきゅう
  166. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》:其后しんつい匿衍水中すいちゅう
  167. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》だいおうよしみ乃遗つばめおう书曰:“はた所以ゆえんゆうついつばめきゅうしゃ,以太子たいし也。こんおう诚杀けんじしんおうはたおう必解,而社稷しゃしょくこうとくしょく。”
  168. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》つばめおう乃使使太子たいしよくけんじはた
  169. ^ つかさ马迁ふみ记·刺客しかくれつ传》きさきねんしんそつ灭燕,虏燕おう
  170. ^ つかさ马迁ふみ记·つばめ召公:(つばめおうさんじゅうさんねんはた拔辽东,虏燕おうそつ灭燕。岁,はたすすむおう贲亦虏代おうよしみ
  171. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうねんだい兴兵,使つかいおう贲将,おさむつばめ辽东,とくつばめおう。还攻だい,虏代おうよしみ
  172. ^ つかさ马迁ふみ记·けいなかかん:齐亦东边海上かいじょうはたにちおさむさんすすむつばめすわえ,五国各自救于秦,以故おう建立こんりゅうよんじゅうねん受兵。
  173. ^ つかさ马迁ふみ记·けいなかかん:(齐王けんじゅうはちねんおう入朝にゅうちょうはたはた王政おうせいおけしゅ咸阳。
  174. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいじゅうろくねん,齐王けんあずか其相きさき胜发へいもり其西かい不通ふつうしん
  175. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:齐王ようきさきしょう计,绝秦使よく为乱,へい吏诛,虏其おうひら齐地。
  176. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》しん使はた军王贲从つばめみなみおさむ
  177. ^ つかさ马迁ふみ记·こうむ恬列传》こうむ恬因とく为秦はたおさむ齐,大破たいははい为内
  178. ^ つかさ马迁ふみ记·けいなかかん:(齐王けんよんじゅうよんねんしんへい击齐。齐王听相きさき胜计,战,以兵くだしん
  179. ^ つかさ马迁ふみ记·けいなかかんはた虏王けん,迁之ども
  180. ^ つかさ马迁ふみ记·けいなかかんこくやめほろびはた兵卒へいそつにゅう临淄,みん莫敢かくしゃ
  181. ^ つかさ马迁ふみ记·けいなかかん齐人怨王けんのみあずか诸侯あい从攻しん,听奸臣かんしん宾客以亡其国,うた曰:“まつ耶柏耶?じゅうけんどもしゃきゃく耶?”
  182. ^ つかさ马迁ふみ记·卫康叔世:(卫)げんくんじゅうよんねんはた拔魏东地,はたはつおけ东郡,さら徙卫おう县,而并濮阳为东ぐん
  183. ^ つかさ马迁ふみ记·はたはじめすめらぎほん纪》:(はた王政おうせいろくねん,韩、、赵、卫、すわえども击秦,寿ことぶきりょうはた出兵しゅっぺいこくへい罢。拔卫,さこ东郡,其君かくりつ其支ぞく徙居おう,阻其やま以保河内かわうち
  184. ^ つかさ马迁ふみ记·卫康叔世:(卫君かくじゅういちねん,二世废君角为庶人,卫绝祀。
  185. ^ 苏洵·ろくこく》:六国破灭,へい不利ふり,战不善ふぜんへいざい赂秦。
  186. ^ 苏轼·ろくこく》:六国之君虐用其民,减始すめらぎせいしかとう时百姓无一人叛者,以凡みんしゅう杰者以客养之,しつ职也。其力こう以奉じょうみなしい鲁无のう为者,虽欲怨叛,而莫为之さき,此其所以ゆえんしょうやす而不そくほろび也。はじめすめらぎはつよく逐客,よし斯之げん而止。すんで并天,则以きゃく为无よう,于是にんほう而不にんじん,谓民以恃ほう而治,谓吏才取さいとりのうもりわれほう而已。堕名じょう,杀豪杰,みんしゅう异者而归亩。
  187. ^ 苏辙·ろくこく》:おっとしん所与しょよ诸侯そう天下でんかしゃ不在ふざい齐、すわえつばめ、赵也,而在韩、郊;诸侯所与しょよしんそう天下でんかしゃ不在ふざい齐、すわえつばめ、赵也,而在韩、はたゆう韩、たとえ如人ゆう腹心ふくしんやまし也。韩、たかしふさがしん冲,而蔽やま东之诸侯,おっと天下でんかところしげるしゃ,莫如韩、也。
  188. ^ 论语·颜渊だいじゅうなな贡问せい曰:“あししょくあしへいみん信之のぶゆき矣。”贡曰:“必不とくやめ而去,于斯さんしゃなんさき?”曰:“へい。”贡曰:“必不とくやめ而去,于斯しゃなんさき?”曰:“しょくみなゆうみん无信だて。”
  189. ^ つかさ马迁《ふみ记·货殖れつ》:(关中)西にしゆう羌中きたゆうえびす翟之畜,畜牧为天饶。しかまた穷险,ただきょう师要其道。关中,于天さんふんいち,而人众不过什さんしかりょう其富,什居其六。
  190. ^ つかさ马迁《ふみ记·货殖れつ》:ともえしょくまた沃野よくや饶卮、きょうすないし、铜、铁、たけうつわみなみ滇僰,僰僮。西にしきん邛笮,笮马、旄牛。しかよんふさが,栈道千里せんり,无所不通ふつうただ褒斜绾毂其口,以所えきしょ鲜。
  191. ^ から·もりたすくつうてん·しょく货典いち·田制たせいのぼる》:はたたかしおおやけにんしょう鞅,鞅以三晋地狭人贫,さんすすむ,韩赵さんきょうこんかわ东道しん广人寡,くさ不尽ふじん垦,不尽ふじん。于是诱三すすむこれにん其田そのだたく,复さんだい无知兵事へいじ,而务ほん于内,而使しんじん应敌于外。废井せい阡陌,にん其所たがやせきり多少たしょうこうこうじゅうねんこれせいすうねん闲,国富こくふへいきょう天下てんか无敌。
  192. ^ 西にし汉·刘安《淮南ワイナン·要略ようりゃくはた国之くにゆきぞく,贪狼强力きょうりょく,寡义而趋以刑,而不可ふか以善;劝以赏,而不可ふか厉以めい
  193. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたほん》:(はためぐみぶんくん13ねん使つかい张仪陕,其人あずか
  194. ^ つかさ马迁《ふみ记·つばめ召公》:剧辛きょ赵,あずか庞煖ぜんやめ而亡はしつばめつばめ见赵すうこま于秦,而廉颇去,れい庞煖はた也,よくいん赵弊おさむこれ。问剧からしからし曰:“庞煖えきあずかみみ。”つばめ使剧辛はた击赵,赵使庞煖击之,つばめまん,杀剧からし
  195. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:丞相じょうしょう绾、大夫たいふこう、廷尉斯等みな曰:“むかししゃみかど地方ちほう千里せんり,其外こうふくえびすふく诸侯あるあさあるいや天子てんし不能ふのうせいこん陛下へいか兴义へい,诛残贼,平定へいてい天下でんか海内かいだい为郡县,法令ほうれいよしいち统,上古じょうこ以来いらい尝有,みかどしょ及。しんとう谨与博士はかせ议曰:‘ゆう天皇てんのうゆうすめらぎゆうたいすめらぎしんとう昧死じょう尊号そんごうおう为‘たいすめらぎ’。いのち为‘せい’,れい为‘诏’,天子てんし自称じしょう曰‘ちん’。”
  196. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:おう曰:“やすし’,ちょすめらぎ’,さい上古じょうこみかどごうごう曰‘皇帝こうてい’。如议。”せい曰:“。”ついみことしょうじょうおう为太上皇じょうこう
  197. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:さらめいみん曰“黔首”。
  198. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はじめすめらぎ推终はじめ五德ごとく传,以为しゅうとくとくしんだいしゅういさお,从所胜。方今ほうこんみず德之のりゆきはじめあらため年始ねんしあさ贺皆じゅうがつついたち衣服いふく旄旌节旗みなじょうくろかずろく为纪,ほうかんむりみなろくすん,而舆ろくしゃくろくしゃく为步,じょうろく马。さらめいかわ曰德すい,以为すい德之のりゆきはじめ。刚毅もどふかことみな决于ほうこくそぎ毋仁おん义,しかきさきあい德之のりゆきすう。于是きゅうほうひさしゃ赦。
  199. ^ つかさ马迁《ふみ记·ふうぜん》:はたはじめすめらぎすんで并天而帝,ある曰:“みかどとくとく龙地螾见。なつとく木德きとくあお龙止于郊,草木くさき畅茂。いんとくきむいさお,银自やま溢。しゅうとくとくゆうあか乌之こんしん变周,みず德之のりゆき时。むかしはたぶんおおやけ猎,获黑龙,此其すい德之のりゆきみず。”于是しんさらいのちかわ曰“とくすい”,以冬じゅうがつ为年くびしょくじょうくろろく为名,おと上大かみおお吕,こと统上ほう
  200. ^ くに语·鲁语》记载:“天子てんしだいさい朝日あさひ与三よそうこうきゅうきょう识地とく
  201. ^ 《吕氏春秋しゅんじゅう·孟春もうしゅん纪》うん:“立春りっしゅんにち天子てんし亲率三公九卿诸侯大夫,以迎春げいしゅん于东郊”
  202. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:丞相じょうしょう绾等ごと:“诸侯はつやぶつばめ、齐、荆地远,为置おう,毋以塡之。请立诸子,ただうえみゆき许。”はじめすめらぎ其议于群臣ぐんしん群臣ぐんしんみな以为便びん
  203. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:廷尉斯议曰:“しゅう文武ふみたけしょふう子弟してい同姓どうせい甚众,しかきさきぞく疏远,そうおさむ击如かたき雠,诸侯さらしょう诛伐,しゅう天子てんしどるのう禁止きんしこん海内かいだい赖陛下神しもつわ灵一统,みな为郡县,诸子功臣こうしん以公赋税じゅう赏赐,甚足えきせい天下てんか无异,则安宁之术也。おけ诸侯不便ふべん。”
  204. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はじめすめらぎ曰:“天下てんかども战鬬不休ふきゅう,以有こうおう。赖宗庙,天下てんかはつじょうまた复立こく树兵也,而求其宁いき,岂不难哉!廷尉议是。”ぶん天下でんか以为さんじゅうろくぐんぐんおけもりじょう、监。
  205. ^ 范晔《きさき汉书·东夷れつ》:はた并六こく,其淮﹑泗夷みな为民户。
  206. ^ つかさ马迁《ふみ记·东越れつ》:闽越おう无诸及越东海おう摇者,其先皆越みなごえおう践之きさき也,せい驺氏。はたやめ并天みな废为くん长,以其为闽中郡なかぐん
  207. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:おさむ天下てんかへい,聚之咸阳,销以为锺鐻,かねじんじゅうじゅうかくせんせきおけ廷宫ちゅう
  208. ^ 孟子もうし·つげへん》引白けい曰:“治水ちすい也愈于禹。”孟子もうし曰:“过矣。禹之治水ちすいみず道也みちや禹以四海しかい为壑。こん吾子あご以邻こく为壑。みず逆行ぎゃっこう,谓之洚水;洚水しゃ洪水こうずい也,じんじんこれしょ恶也。吾子あご过矣。”
  209. ^ はんかた汉书·沟洫こころざし》:盖堤防ていぼうさくきんおこり战国,雍防ひゃくがわかく自利じり。齐与赵、,以河为竟。赵、濒山,齐地卑下ひげさくつつみかわじゅうさと河水こうすい东抵齐堤,则西泛赵、,赵、また为堤かわじゅうさと
  210. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:徙天ごうとみ于咸阳じゅうまん户。
  211. ^ 东汉はんかた汉书·艺文こころざし》:《ふみ籀》じゅうへんしゅうせんおうふとしさく大篆だいてんじゅうへんたてたけし时亡ろくへん矣……《苍颉》いちへんうえななしょうはた丞相じょうしょう斯作;《爰历》ろくしょう,车府れい赵高さく;《博学はくがくななしょうふとしれいえびす毋敬さく
  212. ^ 东汉许慎《说文かい·じょ》:はた始皇帝しこうていはつけん天下てんか丞相じょうしょう斯乃そうどうこれ,罢其あずかしんぶんごうしゃ。斯作仓颉へんちゅう车府れい赵高さく爰历へんだいれいえびす毋敬さく博学はくがくへんみな大篆だいてんある颇省あらためしょ谓小篆也。
  213. ^ 东汉はんかた汉书·艺文こころざし》:汉兴,闾里书师あい《苍颉》、《爰历》、《博学はくがくさんへんだんろくじゅう以为いちしょう,凡五じゅうしょう,并为《苍颉へん》。
  214. ^ から·张怀瓘《书断·まきじょう》:あん隶书しゃしん邽人ほど邈所さく也。邈字もと岑,はじめ为衙县狱吏,とくざいはじめすめらぎかそけけいうん阳狱ちゅう,覃思じゅうねんえき小篆しょうてんかた圆而为隶书さんせんそうはじめすめらぎ善之よしゆきよう为御。以奏ごと繁多はんた篆字てんじ难成,乃用隶字。以为隶人书,曰隶书。
  215. ^ ひだり传·あきらおおやけさんねん》:よんしょう为豆,各自かくじ其四,以登于釜,がまじゅう则钟。
  216. ^ つかさ马迁《ふみ记·ひらじゅん》:而珠だま、龟贝、银锡ぞく为器饰宝藏ほうぞう为币。
  217. ^ つかさ马迁《ふみ记·ひらじゅん》:及至しんちゅういちこく币为とう黄金おうごん以溢めい,为上币;铜钱识曰はん两,じゅう如其ぶん,为下币。
  218. ^ つかさ马迁《ふみ记·ひらじゅん》:しかかくずい时而轻重无常。
  219. ^ はんかた汉书·爰盎あきら错传》:しんみん见行,如往弃市,いん以谪发之,めい曰“谪戍”。さき发吏ゆう谪及赘婿、贾人,きさき以尝有市ありいちせきしゃまたきさき以大父母ちちはは父母ちちはは尝有せきしゃきさきにゅう闾,其左。
  220. ^ つかさ马迁《ふみ记·货殖れつ》:乌氏倮畜まき,及众,斥卖,もとめ缯物,间献遗戎おうえびすおう什倍其偿,あずかこれ畜,畜至ようたにりょう马牛。はた始皇帝しこうていれい倮比ふうくん,以时与れつしんあさ请。而巴寡妇きよし,其先とくあな,而擅其利すうせいいえまた訾。きよし,寡妇也,のうもり其业,よう财自卫,侵犯しんぱんはた皇帝こうてい以为贞妇而客,为筑おんな怀清だい
  221. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(始皇帝しこうてい31ねんべいせきせんろくひゃく
  222. ^ つかさ马迁《ふみ记·こうむ恬列传》:はたやめ并天,乃使こうむ恬将さんじゅう万众北逐戎狄,おさむ河南かなん。筑长じょういん地形ちけいようせい险塞,おこり临洮,いたり辽东,のべ袤万あまりさと
  223. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎ32ねんこく碣石门。坏城郭じょうかく,决通堤防ていぼう
  224. ^ ぼうげん龄《すすむ书·地理ちりこころざしじょう》:乐浪ぐん汉置…あさ鲜周ふうたむろゆう浑弥とげじょうはた筑长じょうこれしょおこり
  225. ^ はんかた汉书·匈奴きょうど》:及冒顿以へいいたり大破たいは灭东えびすおう,虏其みん众、畜产。すんで归,西にし击走がつみなみ并楼烦、しろひつじ河南かなんおう,悉复おさむしんしょ使こうむ恬所夺匈やつしゃあずか汉关えびす河南かなんふさがいたりあさ、肤施,とげおかせつばめだい
  226. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎ27ねん驰道。
  227. ^ つかさ马迁《ふみ记·斯列传》:驰道,兴游观,以见ぬし得意とくい
  228. ^ はんかた汉书·贾邹まいみち》:为驰どう于天,东穷つばめ、齐,みなみ极吴、すわえ江湖こうこうえ,濒海观毕いたりみち广五じゅうさんたけ而树,あつ筑其がい,隐以きんしい,树以あおまつ。为驰どう丽至于此,使つかい其后曾不どくよこしまみち而托あし焉。
  229. ^ つかさ马迁《ふみ记·こうむ恬列传》:はじめすめらぎよくゆう天下でんかみちきゅうはらちょく抵甘いずみ,乃使こうむ恬通どうきゅうげん抵甘いずみ,巉山堙谷,せんはちひゃくさとみち就。
  230. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎさんじゅうねんじょどうみちきゅうばら。抵云阳,堑山堙谷,直通ちょくつう
  231. ^ 231.0 231.1 つかさ马迁《ふみ记·平津ひらつこうしゅちちれつ》:また使つかいじょうほふ睢将ろうせんみなみおさむひゃくえつ使つかい监禄凿渠运粮,深入ふかいりえつ越人えつじん遁逃。
  232. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はたまいやぶ诸侯,うつし其宫しつさく咸阳北阪きたさかじょうみなみ临渭,雍门以东いたり泾、渭,殿しんがり复道しゅう阁相ぞく所得しょとく诸侯美人びじん钟鼓,以充いれ
  233. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:关中计宫さんひゃく,关外よんひゃくあまり
  234. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎ35ねん)乃令咸阳つくりひゃくさとない宫观ひゃくななじゅう,复道甬道しょう连,とばり帐钟美人びじんたかしこれ
  235. ^ さん辅黄图》:やなさん宫,はじめすめらぎこうやなさんざいこう畤。
  236. ^ 东汉はんかた汉书·邹阳传》:しん闻秦倚曲だい宫,悬衡天下でんかかく而不はん
  237. ^ きたたかし郦道もとみず经注·渭水》:はたはじめすめらぎさく离宫于渭すい南北なんぼく,以象てん宫。さん辅黄图》曰:渭水贯都,以象てん汉,よこ桥南,以法牵牛。みなみゆう长乐宫,きたゆう咸阳宫,よくどおり宫之间,みやつこ此桥。
  238. ^ から·よしはじめ元和げんなぐん县图こころざし·まきいち·关内どう》:はた兰池宫,ざい县东じゅうさと
  239. ^ 239.0 239.1 つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はじめすめらぎ微行びこう咸阳,あずか武士ぶしよんにん俱,よる逢盗兰池,见窘,武士ぶし击杀ぬすめ,关中だいさくじゅうにち
  240. ^ さん辅黄图》:むべはる宫,ほんはた离宫,ざい长安じょう东南,もり县东,きんしたもり
  241. ^ さん辅黄图》:もちえびす宫,ざい泾阳县界长平观道东,きた临泾すい,以望きたえびす,以为宫名。
  242. ^ さん辅黄图》:钟宫,ざい鄠县东北じゅうはじめすめらぎおさむ天下てんかへい销为钟鐻,此或其处也。
  243. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎ34ねんはじめすめらぎおけしゅ咸阳宫,博士はかせななじゅう人前にんまえ为寿。
  244. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:听事,群臣ぐんしん受决ごと,悉于咸阳宫。
  245. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:焉作しん宫渭みなみやめさらいのちしん宫为极庙,ぞうてん极。极庙どうどおり郦山,さくあまいずみぜん殿しんがり。筑甬どう咸阳ぞく
  246. ^ さん辅黄图》:はたはじめすめらぎづくり,汉修饰之,周回しゅうかいじゅうあまりさと
  247. ^ さん辅黄图》:阿房あほう宫,また曰阿じょうめぐみぶんおうづくり,宫未成みせい而亡。はじめすめらぎ广其宫,规恢さんひゃくあまりさと
  248. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はじめすめらぎ以为咸阳じん先王せんおう宫廷しょうわれ闻周ぶんおう丰,たけおうみやこ镐,丰镐间,帝王ていおう也。乃营さくあさ宫”渭南上林うえばやしえんちゅうさきさくぜん殿しんがり阿房あほう
  249. ^ はんかた《汉书·贾山传·颜师ちゅう》:阿房あほうしゃげん殿どの四阿皆为房也。一说大陵曰阿,こと其殿だかわか于阿じょう为房也。ぼうあるさくつくり,说云はじめすめらぎさく此殿,有名ゆうめい,以其去咸阳ちか,且号阿房あほうおもねきん也。
  250. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:阿房あほう未成みせいなりほしさら择令めいめいさく阿房あほう天下てんか谓之阿房あほう宫。
  251. ^ つかさ马迁《ふみ记·ろくこく年表ねんぴょう》:(はたはじめすめらぎじゅうはち,为阿房あほう宫。
  252. ^ 252.0 252.1 はんかた汉书·贾山传》:また阿房あほう殿しんがり殿しんがりだかすうじゅう仞,东西南北なんぼくせん,从车罗骑,よん马鹜驰,旌旗せいき桡。
  253. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:东西ひゃく南北なんぼくじゅうたけうえ以坐まんにんした以建たけ
  254. ^ さん辅旧ごと》:车行しゅ,骑行あぶ
  255. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:しゅう驰为阁道,殿下でんかちょく抵南やまひょう南山なんざん颠以为阙。为复どう阿房あほうわたり渭,ぞく咸阳,以象てん极阁どう绝汉抵营しつ也。
  256. ^ きたたかし郦道もとみず经注·まき19·渭水》:また迳磁せき门西。门在阿房あほうまえ,悉以磁石じしゃく为之,专其れいよんえびすあさしゃゆう隐甲怀刃にゅう门而胁之以示しんまた曰却えびす门也。
  257. ^ 257.0 257.1 257.2 つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:徒刑とけいしゃななじゅうあまりまんにん,乃分さく阿房あほう宫,あるさく丽山。发北山石やまいし椁,乃写しょく、荆地ざいみないたり
  258. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:いんさんまんいえ丽邑,まんいえうん阳,みな复不ごとじゅう岁。
  259. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたせい元年がんねんよんがつせい还至咸阳,曰:“先帝せんてい为咸阳朝廷ちょうていしょう阿房あほう宫为室堂むろどう就,かいじょうくずれ,罢其作者さくしゃ,复土郦山。”
  260. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたせい元年がんねんよんがつ)复作阿房あほう宫。そと抚四えびす,如始すめらぎ计。
  261. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたせいねんふゆ,陈涉しょ周章しゅうしょうとうはた西にしいたり戏,へいすうじゅうまん二世にせいだい惊,あずか群臣ぐんしん谋曰:“柰何?”しょうあきら邯曰:“ぬすめやめいたり,众彊,こん发近县不及矣。郦山,请赦,授兵以击。”せい大赦たいしゃ天下でんか使つかいあきら邯将,击破周章しゅうしょう军而はしとげ杀章曹阳。
  262. ^ はんかた汉书·刘向传》:其高じゅうあまりたけ周回しゅうかいさと有余ゆうよ
  263. ^ 太平たいへい览》引《关中记》:郦山无此大石おおいし,运取于渭きた诸山,其歌曰:“运石あまいずみこう,渭水为不りゅう。”せんにんいち唱,まん人相にんそう钩。
  264. ^ 古今ここん图书集成しゅうせい·ひつじさる舆典》引《汉旧仪》:骊山其阴かね,其南多美たみだま,曰蓝でんはじめすめらぎ贪而そう焉。
  265. ^ 东汉蔡邕独断どくだん》:はかさいいたりはたはじめすめらぎおこり于墓侧,汉因而不あらためこんりょうじょうしょう寝殿しんでんゆう起居ききょ衣冠いかんぞうせい备,みな也。
  266. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はじめすめらぎはつ即位そくい穿ほじ郦山,及幷天下でんか天下てんかおくななじゅうあまりまんにん穿ほじさんいずみしも铜而致椁,宫观百官奇器珍怪徙臧满之。
  267. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:以人鱼膏为烛,灭者久之ひさゆき
  268. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:れいたくみさくつくえいしゆみゆうしょ穿ほじちかしゃ辄射。以水银为百川ももがわ江河こうが大海たいかいつくえしょう灌输,うえ天文てんもんした地理ちり
  269. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》,せい曰:“先帝せんていきさき宫非有子ゆうこしゃ焉不よろし。”みなれい从死,死者ししゃ甚众。そうすんでやめあるげん工匠こうしょう为机,臧皆知之ともゆき,臧重そく泄。大事だいじ毕,やめ臧,闭中羡。したがい羡门,つき工匠こうしょう臧者,无复しゃ。树草木くさき以象やま
  270. ^ 古今ここん图书集成しゅうせい·ひつじさる舆典》引《汉旧仪》:“丞相じょうしょうしん斯昧げんしんしょはた隶徒ななじゅうまんにん骊山しゃやめふかいたり极,凿之不入ふにゅう,烧之しか,叩之空空くうくう,如下てんじょうせい曰:凿之不入ふにゅう,烧之しか,其旁ぎょうさんひゃくたけ乃至ないし。”
  271. ^ 郦道もとみず经注·渭水ちゅう》:“はじめすめらぎづくりりょう,其地污深,みず积成,谓之鱼池。いけざいはたはじめすめらぎりょう东北しゅう围四さと。”
  272. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:东至うみ暨朝鲜,西にしいたる临洮、羌中,みなみいたる北向きたむき户,きたすえかわ为塞,并阴やまいたり辽东。
  273. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:つばめじん卢生使入海いりうみ还,以鬼神事しんじいんそう录图书,曰“ほろびしんしゃえびす也”。
  274. ^ はんかた汉书·匈奴きょうど传上》:とう时,东胡きょう而月もり
  275. ^ つかさ马迁《ふみ记·平津ひらつこうしゅちちれつ》:むかしはた皇帝こうていにん战胜蚕食さんしょく天下でんか,并吞战国,海内かいだい为一,こうさんだい。务胜不休ふきゅうよくおさむ匈奴きょうど斯谏曰:“不可ふかおっと匈奴きょうど城郭じょうかくゆだね积之もり,迁徙鸟举,难得而制也。轻兵深入ふかいり,粮食必绝;かかと粮以ぎょうじゅう及事。とく其地不足ふそく以为利也としやぐう其民不可ふかやく守也もりや。胜必杀之,みん父母ちちはは也。靡弊中国ちゅうごくかいしん匈奴きょうど长策也。”
  276. ^ つかさ马迁《ふみ记·平津ひらつこうしゅちちれつ》:はた皇帝こうてい听,とげ使こうむ恬将へいおさむえびす,辟地千里せんり,以河为境。
  277. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はじめすめらぎ乃使はた军蒙恬发へいさんじゅうまんにんきた击胡,略取りゃくしゅ河南かなん
  278. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:西北せいほく斥逐匈奴きょうど榆中并河以东,ぞく阴山,以为(さん)〔よんじゅうよん县,じょう河上かわかみ为塞。
  279. ^ つかさ马迁《ふみ记·こうむ恬列传》:はたやめ并天,乃使こうむ恬将さんじゅう万众北逐戎狄,おさむ河南かなん。筑长じょういん地形ちけいようせい险塞,おこり临洮,いたり辽东,のべ袤万あまりさと
  280. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:また使つかいこうむ渡河とか取高とりだか阙、(すえ)〔阳〕やまきたかりちゅう,筑亭さわ以逐えびすじん
  281. ^ つかさ马迁《ふみ记·こうむ恬列传》:于是渡河とかすえ阳山,逶蛇而北。
  282. ^ はんかた汉书·匈奴きょうど传上》:匈奴きょうど单于曰头曼,头曼胜素,きた徙。
  283. ^ つかさ马迁《ふみ记·こうむ恬列传》:暴师于外じゅうねんきょ上郡かみごおり时蒙恬威匈奴きょうど
  284. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎ33ねん)徙谪,实之はつ县。
  285. ^ きたたかし郦道もとみず经注·河水こうすいちゅう》引东すすむ薛瓒曰:はた逐匈やつおさむ河南かなん,徙民以实,谓之しんしん也。
  286. ^ 286.0 286.1 つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:“明星みょうじょう西方せいほう。(はたはじめすめらぎさんじゅうよんねん,适治狱吏じきしゃ,筑长じょう及南越地こえち。”
  287. ^ つかさ马迁《ふみ记·平津ひらつこうしゅちちれつ》:かた泽卤,なま五谷ごたに
  288. ^ つかさ马迁《ふみ记·平津ひらつこうしゅちちれつ》:また使つかい天下でんか蜚刍挽粟,おこり于黄、腄、琅邪负海ぐん,转输北河きたがわりつさんじゅう锺而致いちせき
  289. ^ つかさ马迁《ふみ记·平津ひらつこうしゅちちれつ》:男子だんしやましこう不足ふそく于粮饟,女子じょし纺绩不足ふそく帷幕いばく百姓ひゃくしょう靡敝,寡老じゃく不能ふのうしょう养,道路どうろ死者ししゃしょうもち
  290. ^ はんかた汉书·匈奴きょうど传上》:十有余年而蒙恬死,诸侯ほとりしん中国ちゅうごく扰乱,诸秦しょ徙适边者みな复去。
  291. ^ つかさ马迁《ふみ记·平津ひらつこうしゅちちれつ》引公孙弘曰:“はた时常发さんじゅうまん众筑北河きたがわ,终不可ふか就,やめ而弃。”
  292. ^ はんかた汉书.西南せいなんえびすれつ》:“ろうおっと处粤よんじゅうきゅうねん,于今だき孙焉。”(南越なんごしおう赵佗《うえぶんみかど书》摘录)
  293. ^ はんかた汉书·严安传》:“はた祸北构于えびすみなみ挂于えつ宿やどへい于无よう,进而退ずさぎょうじゅう馀年。”
  294. ^ つかさ马迁《ふみ记·こごめげん贾生れつ》:“贾生すんで以谪きょ长沙,长沙卑湿,以寿とく长,伤悼。”
  295. ^ 范晔《きさき汉书·马援れつ》:“虏未灭时,しも瘴上雾,どく气重熏,おおせ视飞鸟跕跕堕水中すいちゅう,卧念しょうゆう平生ひらお时语,なにとく也。”
  296. ^ 刘安《淮南ワイナン·じん间训》:“はたすめらぎ中略ちゅうりゃくまたとぎえつさいかくぞう齿、翡翠かわせみたま玑…”
  297. ^ 297.0 297.1 はんかた汉书·严安传》:“(はたよくたけし海外かいがいまた使つかいじょうほふ睢将ろうせんおさむえつ…”
  298. ^ はんかた汉书·严助传》:“越人えつじん逃入深山ふかやまりん丛,不可ふかとくおさむ。”
  299. ^ 刘安《淮南ワイナン·じん间训》:“而越じんみなにゅう丛薄ちゅうあずか禽兽处,莫肯为秦虏。”
  300. ^ はんかた汉书·高祖こうそほん纪·高祖こうそじゅう一年封尉佗为南越王诏》:“粤人ぞくこのみしょうおさむ击。”
  301. ^ はんかた汉书·西南せいなんえびす两粤あさ鲜传》:“且南かた卑湿,蛮夷ばんい中西なかにしゆう西にし瓯,其众はん羸,南面なんめんしょうおう。”(赵佗じょうぶんみかど书摘录)
  302. ^ 刘安《淮南ワイナン·じん间训》:“杀西呕君译吁そう。”
  303. ^ 刘安《淮南ワイナンにん间训》:“あいおけ桀骏以为はた,而夜おさむしんじん大破たいは,杀尉ほふ睢。”
  304. ^ 刘安《淮南ワイナン·じん间训》:“乃使じょうほふ睢发そつじゅうまん,为五军,一军塞镡城之岭,一军守九疑之塞,一军处番禺之都,一军守南野之界,一军结余干之水。”
  305. ^ はんかた汉书·严助传》:“とめ军屯もり空地くうち,旷日引久,士卒しそつ劳倦,こしいずる击之。”
  306. ^ はんかた汉书·严安传》:“旷日持久じきゅう,粮食とぼし绝,越人えつじん击之,しんへいだい败。”
  307. ^ 刘安《淮南ワイナンにん间训》:“使つかい监禄无以转饷,また以卒凿渠而通粮道,以与越人えつじん战。”
  308. ^ はんかた汉书·严安传》:“使つかい监禄凿渠运粮,深入ふかいりえつ。”
  309. ^ 刘安《淮南ワイナン·じん间训》:“乃发适戍以备。”
  310. ^ はんかた汉书·高祖こうそほん纪·高祖こうそじゅう一年封尉佗为南越王诏》:“ぜん时秦徙中县之みん南方なんぽうさんぐん使つかいあずかひゃく粤杂处。”
  311. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:“(はたはじめすめらぎさんじゅうさんねん,发诸尝逋ほろびじん、赘婿、贾人略取りゃくしゅ陆梁,为桂りんぞうぐん南海なんかい,以适遣戍。”
  312. ^ つかさ马迁《ふみ记·南越なんごしれつ》:“はた时已并天ほぼてい杨越,おけかつらりん南海なんかいぞうぐん,以谪徙民。”
  313. ^ 刘安《淮南ワイナン·じん间训》:“男子だんしとくおさむ农亩,妇人とく剡麻こう缕,羸弱るいじゃくふくかく于道,大夫たいふかい于衢。病者びょうしゃとく养,死者ししゃとくそう。”
  314. ^ つかさ马迁《ふみ记·淮南ワイナン衡山れつ》:“また使つかいじょう佗逾岭攻ひゃくえつじょう佗知中国ちゅうごく劳极,とめおう使つかいじんじょう书,もとめおんな无夫しゃさんまんにん,以为士卒しそつころも补。はた皇帝こうていまんせんにん。于是百姓ひゃくしょう离心瓦解がかいよく为乱しゃじゅういえ而七。”
  315. ^ はんかた汉书·严助传》:“とう此之时,そとない骚动,百姓ひゃくしょう靡敝,ぎょうしゃ还,往者おうしゃ莫反,みな聊生,ほろび逃相从,ぐん为盗贼,于是やま东之难始兴。”
  316. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:二世与赵高谋曰:“ちん年少ねんしょうはつ即位そくい,黔首しゅう先帝せんてい巡行じゅんこうぐん县,以示つよし威服いふく海内かいだいこん晏然巡行じゅんこうそく见弱,毋以しん畜天。”
  317. ^ つかさ马迁《ふみ记·刺客しかくれつ》:于是しん太子たいし、荆轲きゃくみなほろびこう渐离变名せい为人いさおたもて,匿作于宋久之ひさゆきさく,闻其堂上どうじょうきゃく击筑,はた不能ふのうまいげん曰:“かれゆうぜんゆう不善ふぜん。”从者以告其主,曰:“かれいさお乃知おん,窃言是非ぜひ。”丈人たけと召使めしつかいぜん击筑,一坐称善,赐酒。而高渐离ねんひさ隐畏约无穷时,乃退,其装くしげちゅう筑与其善ころもさら容貌ようぼう而前。举坐きゃくみな惊,したあずかこうれい,以为上客じょうきゃく使つかい击筑而歌,きゃく无不流涕りゅうてい而去しゃそう传客,闻于はたはじめすめらぎはたはじめすめらぎ召见,にんゆう识者,乃曰:“こう渐离也。”はた皇帝こうてい惜其ぜん击筑,じゅう赦之,乃矐其目。使つかい击筑,尝不しょうぜんややえきちかこれこう渐离乃以铅置筑中,复进とくちか,举筑ほおしん皇帝こうていなか。于是とげ诛高渐离,终身复近诸侯ひと
  318. ^ つかさ马迁《ふみ记·とめこう》:悉以财求きゃくとげしんおう,为韩报仇,以大ちちちち世相せそう韩故。
  319. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎ)29ねんはじめすめらぎ东游。いたり阳武はくおおかみすなちゅう,为盗しょ惊。もとめどる,乃令天下でんかだいさくじゅうにち
  320. ^ つかさ马迁《ふみ记·とめこう》:とく力士りきし,为铁しいじゅうひゃく20きんはた皇帝こうてい东游,りょうあずかきゃくねらえ击秦皇帝こうていはくなみすなちゅう,误中ふく车。はた皇帝こうていだいいかだいさく天下でんかもとめ贼甚きゅう,为张りょう也。りょう乃更めいせいほろび匿下邳。
  321. ^ ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:はじめすめらぎ闻亡,乃大いか曰:“われぜんおさむ天下でんか书不ちゅうようしゃつきこれ。悉召文学ぶんがくかた术士甚众,よく以兴太平たいへいぽうよく练以もとめ药。こん闻韩众去报,じょ巿等费以きょまん计,终不とく药,奸利しょうつげ闻。卢生とうわれみこと赐之甚厚,こん乃诽谤我,以重われ德也とくや。诸生ざい咸阳しゃわれ使じんれん问,ある为訞げん以乱黔首。”于是使悉案问诸せい,诸生传相つげ引,乃自じょはんきんしゃよんひゃくろくじゅう余人よにんみなあな咸阳,使つかい天下でんか知之ともゆき,以惩きさきえき发谪徙边。
  322. ^ ふみ记·儒林れつ》:及至しん,焚诗书,あな术士,六艺从此缺焉。
  323. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎ36ねんゆう坠星东郡,いたり为石,黔首あるこく其石曰“始皇帝しこうてい而地ぶん”。はじめすめらぎ闻之,逐问,莫服,つき取石とりいしつくりきょじん诛之,いん燔销其石。はじめすめらぎ乐,使つかい博士はかせ为仙真人しんじん诗,及行しょゆう天下てんか,传令乐人つる
  324. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎ36ねんあき使者ししゃ从关东夜过华阴平舒道,有人ゆうじん璧遮使者ししゃ曰:“为吾遗滈いけくん。”いんごと曰:“今年ことし龙死。”使者ししゃ问其いんゆるがせ见,おけ其璧去。使者ししゃたてまつ璧具以闻。はじめすめらぎ默然もくぜん良久よしひさ,曰:“やまおにかた过知いち岁事也。”退すさげん曰:“龙者,にんせん也。”
  325. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:使つかい视璧,乃じゅう八年行渡江所沉璧也。于是はじめすめらぎぼくとくゆう徙吉。迁北かわ榆中さんまんいえはい爵一级。
  326. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎさんじゅうななねんじゅうがつみずのとうしはじめすめらぎゆうひだり丞相じょうしょう斯从,みぎ丞相じょうしょうやましもり少子しょうしえびす爱慕请从,うえ许之。
  327. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:(はたはじめすめらぎさんじゅうななねんじゅういちがつぎょういたりうん梦,もちまつおそれしゅん于九うたぐやま。浮江,观籍柯,渡海とかいなぎさ。过丹阳,いたり钱唐。临浙こうみず恶,乃西ひゃくじゅうさと从狭中渡なかわたうえかい稽,まつりだい禹,もち南海なんかい
  328. ^ つかさ马迁《ふみ记·项羽ほん》:はた始皇帝しこうていゆうかい稽,わたし浙江せっこうはりあずかせき俱观。せき曰:“かれ而代也。”りょう掩其こう,曰:“毋妄言ぼうげんぞく矣!”りょう以此せき
  329. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:还过吴,从江じょうわたり。并海じょうきたいたる琅琊。
  330. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:かたじょ巿等入海いりうみもとめしん药,すう岁不,费多,おそれ谴,乃诈曰:“蓬莱ほうらい药可しかつね为大鲛鱼しょとくいたりすなお请善あずか俱,见则以连いしゆみしゃ。”はじめすめらぎ梦与海神わたつみ战,如人じょう。问占梦,博士はかせ曰:“水神すいじん不可ふか见,以大鱼蛟龙为こう今上きんじょういのりほこら备谨,而有此恶しんとう除去じょきょ,而善しん致。”
  331. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:乃令入海いりうみしゃ赍捕きょ鱼具,而自以连いしゆみこうだい出射しゅっしゃ琅邪きたいたり荣成さんどる见。いたり罘,见巨鱼,しゃ杀一鱼。とげ并海西にし
  332. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:いたり平原へいげん而病。はじめすめらぎ恶言群臣ぐんしん莫敢げんごと
  333. ^ つかさ马迁《ふみ记·はたはじめすめらぎほん》:うえびょうえき甚,乃为玺书赐公子こうし扶苏曰:“あずか丧会咸阳而葬。”书已ふうじ在中ざいちゅう车府れい赵高ぎょう玺事しょ授使しゃ
  334. ^ 《齐伯ほしうらない》:彗孛大角おおずみはたろくななたけ天下てんか大乱たいらんへい大起だいきくにえきせいさんねんちゅうねん,远ななねん
  335. ^ ふくせいひろしぎょう传》:はた始皇帝しこうていさんじゅうななねんがつ彗星すいせい于大かく,其长ななしゃく,以东きたにゅう女御にょうごゆう一大星与星斗于宫中。三月さんがつがつ彗星すいせいつき大星おおぼし乃亡,はじめすめらぎ以六月乙丑死于沙丘,及西南せいなんぎょういたり咸阳,乃祸诸子おんなかん及九きょうみな以兵,天下てんか大乱たいらんおこり而攻,はたとげほろび
  336. ^ つかさ马迁《ふみ记·南越なんごしれつ》:南越なんごしおうじょう佗者,じょうじん也,せい赵氏。
  337. ^ つかさ马迁《ふみ记·南越なんごしれつ》:南海なんかいじょうにん嚣病且死,召龙かわれい赵佗语曰:“闻陈胜等さくみだれはた为无どう天下てんか,项羽、刘季、陈胜、吴广とうしゅうぐんかくきょう兴军聚众,とらそう天下でんか中国ちゅうごく扰乱,未知みちしょやすごう杰畔しんしょうりつ南海なんかいへき远,われおそれぬすめへいおかせいたり此,われよく兴兵绝新どう备,まち诸侯变,かいびょう甚。且番禺负やま险,阻南海なんかい,东西すう千里せんり,颇有中国人ちゅうごくじんしょう辅,此亦いちしゅうしゅ也,以立こく郡中ぐんちゅう长吏无足あずかげんしゃ公告こうこく。”そく佗书,ぎょう南海なんかいじょうごと
  338. ^ つかさ马迁《ふみ记·南越なんごしれつ》:嚣死,佗即うつりげきつげ横浦よこうら、阳山、湟谿关曰:“ぬすめへい且至,きゅう绝道聚兵もり!”いんやや以法诛秦しょおけ长吏,以其とう为假もり
  339. ^ 吴士连大越おおこしふみ记全书》そと纪卷いちしょく纪》:“在位ざいいじゅうねんせいしょく,讳泮。ともえしょくじん也。ふうけいこんにしじょう是也これや。”
  340. ^ きたたかし郦道もとみず经注·まきさんじゅうなな》引《交州がいいき记》曰:“交阯むかしゆうぐん县之时,土地とちゆう雒田。其田そのだ从潮水上すいじょうみん垦食其田そのだいんめい为雒みん。设雒おう、雒侯,しゅ诸郡县。县多为雒はた,雒将铜印あお绶。きさきしょく王子おうじ将兵しょうへいさんまんらい讨雒おう、雒侯,ふく诸雒はたしょく王子おうじいんしょう为安阳王。きさき南越なんごしおうじょう佗举众攻やす阳王。やす阳王ゆう神人しんじんめい皋通,しも辅佐,为安阳王しんいしゆみいち张,いち发杀さんひゃくにん南越なんごしおう不可ふか战,却军じゅうたけ宁县。按晋《ふとしかん记》县属交趾。えつ太子たいしめいはじめ降服こうふくやす阳王,しょう臣事しんじやす阳王不知ふちどおり神人しんじんぐう无道,つう便びん,语王曰:のう此弩おう天下でんか不能ふのう此弩しゃほろび天下でんかつうやす阳王ゆうおんなめい曰媚たま,见始端正たんせいたまあずかはじめ交通こうつうはじめ问珠,れいちちいしゆみ视之。はじめ见弩,便びんぬすめ以锯截弩讫,便びん逃归报南えつおう南越なんごし进兵おさむやす阳王发弩,いしゆみおりとげ败。やす阳王下船げせん,迳出于海。”
  341. ^ つかさ马迁《ふみ记·南越なんごしれつ》:はたやめやぶ灭,佗即击并かつらりんぞうぐん自立じりつ为南こしたけしおう
  342. ^ 刘向《说苑·いたりこう》:はた始皇帝しこうていすんで吞天,乃召群臣ぐんしん而议曰:“いにしえしゃ五帝禅贤,さんおう继,孰是,はた为之。”博士はかせななじゅうにん对,鲍白れい对曰:“天下てんかかん,则让贤是也これや天下でんか,则世继是也これや五帝以天下为官,三王以天下为家。”
  343. ^ 刘向《说苑·いたりこう》:はた始皇帝しこうてい仰天ぎょうてん而叹曰:“われとく于五みかどわれ将官しょうかん天下でんか。谁可使だいわがきさきしゃ?”鲍白れい对曰:“陛下へいかぎょう桀纣みちよく为五みかどぜん陛下へいかしょ能行よしゆき也。”はた始皇帝しこうていだいいか曰:“れいまえわかなん以言わがくだり桀纣道也みちやおもむき说之,かい则死。”れい对曰:“しん请说陛下へいか筑台うん,宫殿けんせんせき钟,まんせき虡。妇女连百,倡优るいせん。兴作骊山,宫室いたり雍,そう继不绝,所以ゆえんたてまつしゃ。殚天,竭民りょくへん驳自わたし不能ふのう以及じん陛下へいかしょ谓自营仅そんしゅ也,なにひまとくみかどよくかん天下でんか哉?”はじめすめらぎ黯然あんぜん无以应之,めんゆう惭色,久之ひさゆき曰:“れいこれげん,乃令众丑。”とげ罢谋,无禅也。
  344. ^ つばめまことまきしんおう...召姬じんきんきんごえ曰:“罗縠单衣,掣而绝。はちしゃくへい风,ちょう而越。鹿しか卢之剑,负而拔。”轲不晓音。しんおう从言,掣之绝,ちょうへい风,负剑而走。
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 ふみ记·まきろく·はたはじめすめらぎほん》,出自しゅつじつかさ马迁ふみ
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外部がいぶ链接

あい关条

はたはじめすめらぎ
出生しゅっしょう于:ぜん259ねん逝世于:ぜん210ねん
统治しゃ头衔
前任ぜんにん
秦庄はたのしょうじょうおう
嬴异じん
はたこく君主くんしゅ
ぜん246ねんまえ221ねん
そらかけ
した一位持有相同头衔者:
しん头衔 はたちょう皇帝こうてい
ぜん221ねんまえ210ねん
继任:
はたせい皇帝こうてい
嬴胡
前任ぜんにん
秦庄はたのしょうじょうおう
韩王やす
赵王迁
だいおうよしみ
おうかり
すわえおう负刍
つばめおう
齐王けん
中国ちゅうごく君主くんしゅ
ぜん221ねんまえ210ねん