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宝相寺たからあいじ (北京ぺきん)

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宝相寺たからあいじ
基本きほんしんいき
国家こっか中国ちゅうごく
位置いち 中国ちゅうごく北京ぺきんうみよど香山かやまみなみ南河みなみかわ滩西まんやすやま东麓
宗教しゅうきょうぞうでん佛教ぶっきょう
宗派しゅうはかく鲁派
けん筑详じょう
建立こんりゅうしゃいぬいたかしみかど
开山时间1762ねん

宝相寺たからあいじ北京ぺきんうみよど香山かやまみなみ南河みなみかわ滩西まんやすやま东麓てきぞう佛教ぶっきょうかく鲁派寺院じいん

历史

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宝相寺たからあいじたから谛寺西にし侧,清朝せいちょういぬいたかしじゅうななねん(1762ねんいぬいたかしみかど仿照五台山ごだいさんことぞうてら而建。

《钦定日下くさかきゅう闻考·まきいちひゃくさん·郊垧西にしじゅうさん》载:[1]

ぞうたから谛寺西にし宝相寺たからあいじ(《五城ごじょう寺院じいんさつ》)。しんとう谨按:宝相寺たからあいじいぬいたかしじゅうななねんけんさき,岁在からしやめ,驾幸だいかい銮后うつしことしょうてらこれ文殊もんじゅぞう,而系以赞,并命于宝谛寺つくりけん兹寺,肖像しょうぞう其中。殿しんがりせい外方そっぽない圆,みなしきがわら甓而なりほどこせ木植きうえ四面しめん设瓮门,殿しんがりぜんきょう悬皇じょう书额曰:“あさひ华之阁”。殿内とのうちいしぶみひだりきょう镌御うつし文殊もんじゅぞう并赞,いしぶみ阴恭勒乾隆三りゅうぞうじゅうねんせい诗,みぎ为乾たかしじゅうななねんせい宝相寺たからあいじ碑文ひぶん》。殿しんがりきさきせい额曰:“梵光ろう”。てらきさき西行さいぎょう约数じゅう精舍しょうじゃ楹,檐额曰:“香林こうばやししつ”,うち额曰:“かそけ赏亦异”,联曰:“红篆けむり气直,绿苞にわちく爱心きょ”。きさき厦亭额曰:“としあきらてい”,轩额曰:“みょう达轩”。ぱいぼういち,东额曰:“圣涯どうみょう”,西にし额曰:“こううみたまりん”,またみなすめらぎじょう书。ぼう有泉ありいずみ涌出ゆうしゅつ香林こうばやししつやや西にしゆう圆庙、ほう庙,其制みなひらめ,顶有堞如碉房しきなかけんふつろうまたいぬいたかしじゅうななねんけん

ぞう:《せい宝相寺たからあいじ碑文ひぶん》:

岁辛值圣はは皇太后こうたいごうななしゅんだい庆,爰奉安ほうあん舆诣だい所以ゆえんしゅくりん也。ことぞうてらざいやまふもと,为瞻礼文れぶんことはつみょうしょうはし严,光耀こうようかいだま识以归。すんで归,则心追手おって摹,けい以赞而勒いしぶみ香山かやまみなみふもと曩所规菩萨顶これたから谛寺ざい焉,乃于てらみぎすきない府金ふがね钱饬庀材,营构兰若,视碑摹而ぞう设之,金色きんいろしょう严,おもんみおもんみあやかてらこれせいしきがわら甓幕围,ほどこせ杗廇桴棁,而崇广闳丽,则视ことぞう有加ゆか。经始于乾たかしみずのえうまはるこしこんひのとはる蒇工すんでけい致瓣而庆落之所司しょし砻石以俟,いん记之曰:文殊もんじゅ师利,久住ひさずみ娑婆しゃば世界せかい,而应现说ほう则独ざいきよし凉山かた华严ひんしょ谓东かた世界中せかいじゅう菩萨しゃ也。おっときよし凉在畿辅西にし,而香さんまた在京ざいきょうじょう西にししか以清凉视香山こうざん,则香山こうざん为东,わか以竺视震だん则清凉、香山かやままたみな东也。やましゃ不可ふかげんどうなん况云异。はぎ陆元畅これとうせんりつ师曰:文殊もんじゅずい缘利见,应变穷 ,いちざい文殊もんじゅほんせいぶん别见,倘必执清凉为どう场,而不知ふち香山こうざんまた为道场,则何异凿とくいずみ,而谓すいせんざい哉?且昔だい礼文れぶんこと所以ゆえんしゅくりん也,而清凉距畿辅せんあまりさとわき辇行庆向おもんみさんいたり焉。わか香山かやま,则去きょうじょうさんじゅう,而近岁可いちさいいたり,继自こん亿万年延洪演乘兹惟其恒是,则余けんてら香山こうざん初志しょし也。てらなりめい曰“たからしょう”,缀以曰:曼殊まんしゅしつ七佛之师经历人间,至福しふくじょう东,东方世界せかいめい曰金しょくつねざい其中,而演说法竭陁こく,其东めい雪山ゆきやまおもんみきよし凉境きん刚窟聚北だいしゅうだいしめせ现妙しょうしょう严,大法たいほう轮,すわ狮子,狮子奋迅具足ぐそく神威しんい中台ちゅうたい现身,てら曰“ことぞう”。わがむかし瞻礼发大ひろしすなおけん诚祝りんひろし诸福缘,相好そうごうしるししん如月きさらぎざいみずそくまぼろしそくしん,证真まぼろししょう,以此まぼろし,还印きんよう香山かやま净域祇树园,たから谛之西にし营是たからしょうしょうこう七宝しっぽうあきら耀大せんにちめん月面げつめんりょう无分别。わが闻如文殊もんじゅ应缘,缘即ずい缘,なにゆう彼此ひしはぎ东西かたいん见生めい见即かかわめいまた不着ふちゃくきよし凉、香山かやまいち。复念文殊もんじゅ菩萨久住ひさずみ,而此世界せかい实曰“常喜つねき”,以常以久,のべしゅく慈禧,おもんみすなお自今じこん岁万又万宝算盈积如つねかわすな,护妙吉祥きっしょうせいだい欢喜,以是いん缘,寿ことぶき复无りょう

ぞういぬいたかしじゅうろくねんせいうつし五台殊像寺文殊像成并赞》

五峰ごほうかなえ峙,さかい实清凉。日面ひおも月面げつめん,灵鹫中央ちゅうおう。曰有祇园,巍然ぎぜんぜんふもとことぞうめいほうこう赫昱。狮子奋迅,だいはし严。ひとしふつせいさとし,稽首和南わなみしゅくりん蒇庆,载经はな宫。相好そうごうだま识,如印しるしそらぞうそくぞうまめ诚真。ほん无同异,なに云云うんぬんうつししゃ为能,应复ゆうしょ乖曼こと义咄哉,于未ちゅう此满がつ常住じょうじゅうしょう严利济无竭。

ぞういぬい隆三りゅうぞうじゅうねんせい宝相寺たからあいじ落成らくせい赡礼いんようからし五台殊像寺韵二首》:

圣母ななしゅん庆,だいれい曼殊まんしゅ梵语曼殊まんしゅ锡利,华言文殊もんじゅ师利)。ほうこう钦意しべたからしょうしるしこころたまことぞうてら瞻礼时,こころ相好そうごう,于行营即摹为しょう图。すんで归,またくるわなりだい图,けん宝相寺たからあいじ于香やまみなみいのちこうぞうそう塑,いまはじめ落成らくせいてん谒云帑非民力みんりょく鸠工落成らくせい,兹卜きち)。瞻礼过山衢,东西宁彼此ひしだいざい京都きょうと西にし),相好そうごうどうこと。总祝无疆寿ことぶき,应符如意にょいたま。灵踪纪竺牒,胜刹おこり图。はな从空落,缤纷じょうけい衢。

ぞういぬい隆三りゅうぞうじゅうねんせい香林こうばやししつ诗》:

祇园瞻礼罢,别室いこい临初。总在香林こうばやしかい,况于きよしひまあまり。呗声おこり般若はんにゃみねかげ落芙蕖。朅尔题なにことろく

しんとう谨按:宝相寺たからあいじ香林こうばやししつせい诗,俱恭载首见之へん备录。

あさひ华之阁及まつどう
北京ぺきん文物ぶんぶつ护单
北京ぺきんうみよど
ぶんけん
时代きよし
编号3-36
认定时间1984ねん5がつ24にち

清朝せいちょう时,以宝谛寺为中心ちゅうしん形成けいせいりょういち满族ぞう佛教寺ぶつきょうじ庙群。这组てら包括ほうかつたから谛寺宝相寺たからあいじ长龄てらほう圆庙梵香てら实胜てら。这组てら庙群距离团城演武えんぶ很近。这组てら庙群きさき毁于はちこく联军これしゅ[2][3]其中宝相寺たからあいじ仅旭华之阁幸そん。1984ねんあさひ华之阁及まつどう北京ぺきん人民じんみん政府せいふ公布こうふ北京ぺきん文物ぶんぶつ护单[4]

けん

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宝相寺たからあいじすわ西にしあさ东,もたれまんやすやま。该寺てき主体しゅたいけん筑为あさひ华之阁,此阁为北京ぺきん地区ちく仅存てき无梁殿どのいち。《钦定日下くさかきゅう闻考·まきいちひゃくさん·郊垧西にしじゅうさん》载:“殿しんがりせい外方そっぽない圆,みなしきがわら甓而なりほどこせ木植きうえ四面しめん设瓮门,殿しんがりぜんきょう悬皇じょう书额曰‘あさひ华之阁’。”阁顶かんむり有三ゆうぞうとう,阁四面各设三个门。殿しんがり檐嵌ゆういぬいたかしみかどところ题“あさひ华之阁”てき汉文满文こうむ古文こぶんぞうぶんよんたい书题匾。阁内中空なかぞら如瓮,たていしぶみひだり阳刻:“きょう镌御うつし文殊もんじゅぞう并赞”,いしぶみ阴是いぬい隆三りゅうぞうじゅうねん(1767ねんせい诗;みぎ阳刻いぬいたかしじゅうななねん(1762ねん)《せい宝相寺たからあいじ碑文ひぶん》,いしぶみ阴是满文こうむ古文こぶんぞうぶん三体书写的该碑文。阁内正中せいちゅう供奉ぐぶ文殊もんじゅ菩萨ぞう[4]

あさひ华之阁后,はららいゆう香林こうばやししつ、圆庙、ほう庙、ぱいぼうとう许多けん筑,ひとし毁于はちこく联军[4]

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ [きよし] 于敏ちゅう とう編纂へんさん日下くさか舊聞きゅうぶんかんがえ北京ぺきんせき出版しゅっぱんしゃ,2001ねん
  2. ^ おもね旺平措,しんだいぞう佛教ぶっきょうざい内地ないちてき传播与かげ响,ほうおん2012ねん06
  3. ^ あさひ华之阁及まつどう北京ぺきんかいよど,于2013-02-10查阅. [2013-02-11]. (原始げんし内容ないようそん档于2013-04-22). 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 あさひ华之阁及まつどう北京ぺきんかいよど,于2013-02-10查阅. [2013-02-11]. (原始げんし内容ないようそん档于2013-04-22).