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辽朝 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

辽朝

典范条目
维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
重定しげさだこうりょうあさ
だいりょう
契丹文大寫「契丹國」
ちぎりぶんだいうつしちぎりこく
916ねん—1125ねん
きょうしろ上京じょうきょう臨潢
くにくん姓氏せいし耶律
君主くんしゅきょう9
• 907ねん-926ねん
りょうふとし耶律阿保あぼくびにん
• 1101ねん-1125ねん
りょうてん祚帝耶律のべまつにん
常用じょうようちぎり中古ちゅうこ漢語かんごおんなしん
兴衰
• 916ねん3がつ7にち
耶律阿保あぼしょう大聖たいせいだい明天めいてん皇帝こうてい」,たてはじめかみさつ建立こんりゅうだいちぎりこく
• 947ねん2がつ24にち
耶律德光とくみつ建國けんこくごうだいりょう」。
• 1005ねん
澶淵めい
• 1115ねん
かんがおおもねほね建立こんりゅうきんあさ進攻しんこうりょうあさ
• 1124ねん
耶律大石おおいし自立じりつためりょうおう建立こんりゅう西にしりょう
• 1125ねん3がつ26にち
耶律のべ禧於あまりたにため金將きんしょうかんがお婁室ところ俘,りょうちょう滅亡めつぼう
めんやく4,890,000平方ひらかた公里くり(1111ねん
前身ぜんしん
继承
とう
黠戛斯汗こく
こうすすむ
渤海こく
阻卜
かずら邏祿
大金たいきん
きたりょう
西にしなつ
西にしりょう
こうむ兀國
こうあきらかい
こんぞく ちゅう人民じんみん共和きょうわこく
 にわか
 あさ
 こうむふる

りょうあさ(916ねん3がつ17にち-1125ねん3がつ26にち),國號こくごうだいりょうちぎりぶんまたしょうだいちぎりこくちぎりこくちぎり大字だいじちぎり小字こあざ:𘱿𘱤 𘱚𘮒)[註 1]中國ちゅうごく歷史れきしうえゆかりちぎりじんざい中國ちゅうごく北方ほっぽう建立こんりゅうてき王朝おうちょうくに祚210ねん[3]のちこうむもちいちぎりいち泛稱中國ちゅうごく北方ほっぽう,时至今日きょういち些語ごと(如俄なおたたえ中國ちゅうごくためちぎり[4]

ちぎりぞくためひがしえびす後裔こうえいため鮮卑これいちあずか宇文うぶんくら莫奚どうみなもと歷代れきだい隸屬れいぞく於匈やつ慕容つぶせばつあずかからあさこれからあさ設置せっちまつばくとく羁縻方式ほうしき管理かんりただしちぎりなみ完全かんぜん臣服しんぷく於唐あさざいとうだかむねあずかからげんむねどき曾分べつ發動はつどうすう叛亂はんらんからげん宗時むねときゆかりやす祿ろくやませめ征討せいとうあずか管理かんりちぎりやすみだれちぎり慢慢恢復かいふくため獨立どくりつ部落ぶらく政權せいけんからあさまつねん首領しゅりょう耶律阿保あぼ吞併りょうちぎり各個かっこ部落ぶらく,於916ねんたたえみかど建國けんこく。918ねんじょう臨潢こん內蒙ともえりんひだりはたみなみ)。ちぎり屢次南下なんか中原なかはら,946ねん阿保あほ之子ゆきこ耶律德光とくみつおさむめつこうすすむこう確定かくてい國號こくごうためだいりょう[註 2],983ねんあらためためちぎり”,1066ねんあらためためだいりょう[5]ちょくいた1125ねん3がつ26にちためかねあさところめつためどめ。1122ねんてん祚帝きた逃夾さん耶律あつし於遼南京なんきんたてためみかどためきたりょう[6][5]りょうちょう滅亡めつぼう耶律大石おおいし西にし遷到ちゅうすわえかわ流域りゅういき,于1132ねんじゅうけんだい辽”,ため西にしりょう[註 3]。1211ねん西にしりょうこごめりつ篡位,并于1218ねんかむこうむ帝國ていこくところめつ。雖然中國ちゅうごく歷史れきしがくおうおさむらいみとめため於今ろう地區ちくてきかつなんじ曼王あさ西にしりょうてきのべぞく並稱へいしょう其為「西にしりょう」,ただし此觀てんかえいた主流しゅりゅう歷史れきしがくてきみとめどう

史學しがくかいたいちぎり」含義さいこうため接受せつじゅてき說法せっぽう鑌鐵ある刀劍とうけん後來こうらいあらため國名こくめいためりょう”也是“てつてき意思いし同時どうじりょう”也是ちぎりじん發祥はっしょうりょうすいてき名字みょうじ,以示忘本またいんあずか南方なんぽうてき中原なかはら政權せいけん長期ちょうき對峙たいじ,而稱“北朝ほくちょう”,而稱中原なかはら王朝おうちょうため南朝なんちょう[7]りょうあさ926ねんめつ渤海こく,938ねんよりどころつばめくもじゅうろくしゅうこうめつこうすすむきょため繼承けいしょうこうすすむ的中てきちゅうばら正統せいとうそく使つかい後退こうたいかい北方ほっぽう依據いきょぎょうとくうんせつてきぎょう相生あいおい規律きりつすすむてき德之のりゆきためみずとくいん此遼あさ以水ためとくうんなみ相應そうおう以黑しょくためせいしょく[8]

りょうちょう全盛ぜんせい時期じき疆域ひがしいた日本海にほんかい西にしいたるおもねしか泰山たいざんきたいたがくしかおさめかわだいきょうやすみね一帶いったいみなみいた河北かほくしょう南部なんぶてきしろみぞかわちぎりぞくほん遊牧ゆうぼく民族みんぞくりょうちょう皇帝こうてい使のうまきぎょう共同きょうどう發展はってん繁榮はんえいかくとく其所,建立こんりゅう獨特どくとくてき比較ひかくかんせいてき管理かんり體制たいせいりょうあさはた重心じゅうしんざい民族みんぞく發祥はっしょうためりょう保持ほじ民族みんぞくせいはた遊牧民ゆうぼくみんぞくちぎりじんあずか農業のうぎょう民族みんぞく漢人かんどぶんひらき統治とうち主張しゅちょういんぞく而治,ひらき創出そうしゅつ兩院りょういんせいてき政治せいじ體制たいせいきたいんちぎり族制ぞくせいみなみいんかんせい採用さいようかんぞく文化ぶんかなみ根據こんきょ漢字かんじ創造そうぞうちぎり文字もじ保存ほぞん自己じこてき文化ぶんか。此外,吸收きゅうしゅうきたそう渤海こくだい西にしなつ西域せいいき各國かっこくてき文化ぶんか促進そくしんりょうちょう政治せいじ經濟けいざい和文わぶん各個かっこ方面ほうめん發展はってんりょうちょうてき軍事ぐんじ力量りきりょうあずか影響えいきょうりょく涵蓋西域せいいき地區ちくいん此在とうあさ滅亡めつぼうちゅう西にしあずか東歐とうおうとう地區ちくいたりこんつねしょうりょうあさちぎり英語えいごさくCathayあるKhitan)とう做中こくにわかがらすかつらんさくКитай)[9]

歷史れきし[编辑]

中國歷史
中国ちゅうごく历史系列けいれつ條目じょうもく
ふみぜん時代じだい
舊石器時代きゅうせっきじだい
ちゅう石器せっき時代じだい
しん石器せっき時代じだい
いにしえこく時代じだい
さんすめらぎみかど
どうせきなみよう時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい长江文明ぶんめい辽河文明ぶんめい珠江たまえ文明ぶんめい
なつ
ぜん21世紀せいきまえ17せい
しょう
ぜん17世紀せいきまえ11世紀せいき
しゅう
ぜん11世紀せいき

ぜん256ねん
西にしあまね ぜん11世紀せいきまえ771ねん
东周
ぜん770ねんまえ256ねん
春秋しゅんじゅう ぜん770ねんまえ476ねん
戰國せんごく ぜん475ねんまえ221ねん
はた
ぜん221ねんまえ207ねん

ぜん202ねん

220ねん
西にしすわえ まえ206ねんまえ202ねん
西にしぜん202ねん—9ねん
しん 9ねん—23ねん
更始こうし政權せいけん 23ねん—25ねん
东汉 25ねん—220ねん
さんこく
220ねん—280ねん
たかし
220ねん—266ねん
しょくかん
221ねん—263ねん

229ねん—280ねん
すすむ
266ねん—420ねん
西にしすすむ 266ねん—316ねん
东晋
317ねん—420ねん
えびすじゅうろくこく
304ねん—439ねん
みなみ
きた
あさ

420ねん

589ねん
そう 420ねん—479ねん きたたかし
386ねん—534ねん
479ねん—502ねん
りょう 502ねん—557ねん 西にしたかし
535ねん—557ねん
东魏
534ねん—550ねん
ひね 557ねん—589ねん きたあまね
557ねん—581ねん
きた
550ねん—577ねん
ずい 581ねん—619ねん
とう 618ねん—907ねん
武周ぶしゅう 690ねん—705ねん

だい
じゅう
くに

907ねん

979ねん
こうはり
907ねん—923ねん
じゅうこく
みなみとう
えつ
ぜんしょくこうしょく
荆南すわえ
みなみきた
907ねん—979ねん

ちぎり

916ねん—1125ねん

西にし
1124ねん—1218ねん
こうとう
923ねん—937ねん
こうすすむ
936ねん—947ねん
こうかん
947ねん—951ねん
こうしゅう
951ねん—960ねん
そう
960ねん

1279ねん
きたそう
960ねん—1127ねん
西にしなつ
1038ねん—1227ねん
みなみそう
1127ねん—1279ねん
きむ
1115ねん—1234ねん
だいこうむくに 1206ねん—1368ねん
もと 1271ねん—1368ねん
北元きたもと 1368ねん—1388ねん
あきら 1368ねん—1644ねん
南明なんめい 1644ねん—1662ねん
後金あときん 1616ねん—1636ねん
きよし 1636ねん/1644ねん—1912ねん
中華民國ちゅうかみんこく
だい陆时 1912ねん—1949ねん
中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく
1949ねんいたりいま
中華民國ちゅうかみんこく
臺灣たいわん時期じき 1949ねんいたりいま
あい关条
中国ちゅうごく历史年表ねんぴょう

まつばく建國けんこく[编辑]

りょうちょうえびす瓌描てきちぎりじん出獵しゅつりょう》,國立こくりつみや博物はくぶついんたてぞう

ちぎりみなもと鮮卑そくためひがしえびす後裔こうえいきたどうたけみかど出現しゅつげん當時とうじ聚居于遼水上みずかみゆう一帶いったい自稱じしょうあおうし白馬はくばのち[10][11]からさだかんじゅうねん(648ねん),からふとしむねざいちぎりじん領地りょうち設置せっちまつばくとく酋長しゅうちょうにんとくなみたまものせいちぎりざいとうあらわけいねん(660ねん),とうだかむねどきはん自立じりつなみあずかからだつはなれ關係かんけい[12]ひらき元年がんねんあいだ再度さいどやすみだれだいから國力こくりょく衰微すいびちぎり而复叛,まつばくとく逐漸空殼あきがら[13]ばんとうちぎり迭剌てき首領しゅりょう耶律阿保あぼ崛起なみ征服せいふく各部かくぶがわあととくあせ於遼ふとし元年がんねん(907ねんそくあせくらい先後せんご鎮壓ちんあつりょうちぎりたん貴族きぞくてき叛亂はんらん征服せいふくしつ黠戛斯阻卜とう部落ぶらくなみ且握ゆうこうむ地區ちくてきさんしおざい軍事ぐんじあずか經濟けいざい方面かたもじゅうふんきょうもり[14]りょうふとしきゅうねん(915ねん),耶律阿保あぼ出征しゅっせいしつとくしょう回國かいこくただしせり交出あせひさざい灤河あたり建設けんせつりょう一座仿幽州的城敦。かみさつ元年がんねんがつじゅういちにち(916ねん3がつ17にち),耶律阿保あぼ建立こんりゅうちぎりこくそくりょうふとし[15]

りょうふとし掠奪りゃくだつ中原ちゅうげんてき人口じんこうおさむとめよし河北かほく戰爭せんそうてき流民りゅうみんざい草原そうげんじょう按照中原なかはら風格ふうかく建立こんりゅうじょうあつし安置あんち們。なみ任用にんようかんのべかん知古ちこかんだまあずかぶんすすむとうかん人為じんいいのち功臣こうしん。918ねんりょうふとしけんすめらぎ臨潢こん內蒙ともえりんひだりはたみなみ)。兩年りょうねん創建そうけんちぎり大字だいじなみ推行[16]ざい軍事ぐんじ方面ほうめん於925ねん東征とうせい渤海こく,於舊建立こんりゅうひがしこく統治とうち渤海のこみん冊立さくりつ皇太子こうたいし耶律ばいためひがしおうりょうふとし一直有南征中原的意圖[17]しか而於おさむめつ渤海てき隔年かくねんざいかい途中とちゅうびょうたおせ最後さいご逝世。其妻じゅつりつひらたせん攝政せっしょう,以次子じし耶律德光とくみつ總攬そうらん朝政ちょうせい屠殺とさつ政敵せいてきすうひゃくにん以穩てい政權せいけん。927ねん,耶律德光とくみつざいじゅつりつたいらてき支持しじ即位そくいそくりょうふとしむね。930ねんひがしおう耶律ばいみなみこうとうりょうふとしむね統一とういつちぎり[18][19]

南下なんか中原なかはら[编辑]

りょうふとしむねだいこうすすむ取得しゅとくつばめくもじゅうろくしゅうまとぶん佈圖,後來こうらいだいてきこうしゅう奪回だっかい莫州、瀛州

りょうあさあずかのちから分別ふんべつよりどころゆう中國ちゅうごく北方領土ほっぽうりょうどてき一部いちぶ份,勢力せいりょくざい當時とうじてきつばめくもじゅうろくしゅう交會。936ねんから發生はっせい內亂,河東かわとう節度せつど使いしけい自稱じしょう皇帝こうてい割讓かつじょうつばめくもじゅうろくしゅうため條件じょうけん請求せいきゅうりょうふとしむね支援しえんおさむとうりょうふとしむねとげおやりつ5まん騎兵きへい,於すすむ洛陽らくよう等地とうちげきはいとうぐん最後さいごきょうじょいしけい塘攻滅後めつごとうせきけい塘得以建國けんこくこうすすむちぎりこく獲得かくとくつばめくもじゅうろくしゅうはたつばめくもじゅう六州建設成為進一步南下的基地。ためりょう統治とうち當地とうちかんぞくりょうふとしむね採取さいしゅいんぞく而治」てき統治とうち方式ほうしき實行じっこう通過つうか南北なんぼく兩面りょうめんかんぶん漢人かんどかずちぎり人的じんてき兩院りょういんせいじょうかそけしゅうため南京なんきんくもしゅうため西京にしぎょう[20]

944ねんこうすすむみかど即位そくいねがいこうちぎり臣服しんぷく上表じょうひょうしょうまごしょうしんりょうふとしそう趁機りつぐん南下なんか。947ねんちぎりぐんおさむかつすすむ首都しゅと開封かいふうこうすすむほろびりょうふとしそうあらため國號こくごうためだいりょう[21](另一說指契丹早於會同かいどう元年がんねんおおやけもと938ねんあらため國號こくごうためだいりょう[22]。雖然りょうふとしそうゆう長久ちょうきゅう經營けいえい中原ちゅうげんてき意圖いとしか而因たてへい掠奪りゃくだつみんざい,以及ゆずるしょ節度せつど使かえしかい鎮地,招來しょうらい中原なかはら人民じんみんてき反抗はんこうよんがつりょうふとしそうせり引軍きたかえし最後さいござい河北かほく欒城やまい逝。947ねん中原なかはらてき耶律ほえとう將領しょうりょう擁立ようりつ耶律阮ためみかどためりょうむねざい上京じょうきょう臨潢てきふとしきさきじゅつりつひらそうゆずる其子耶律えびす繼承けいしょう帝位ていい同意どうい耶律阮稱みかどふとしきさき耶律えびすあずか耶律阮在りょう南京なんきん北部ほくぶてき泰德やすのりいずみ交戰こうせん最後さいごよし耶律阮打贏這じょう戰爭せんそうざい經過けいか大臣だいじん耶律しつてきすすむ阻之ふとしきさきざいみとめどう耶律阮的帝位ていい[20]

りょうむね任用にんようけんしん耶律しつ進行しんこういち系列けいれつ改革かいかくはたりょうふとし宗時むねときてき南面なんめんかん北面ほくめんかん合併がっぺい成立せいりつ南北なんぼく樞密院すうみついんはいみなみ北大ほくだいおうさい其後南北なんぼく樞密院すうみついん合併がっぺい形成けいせいいち樞密院すうみついんりょうむねてき官制かんせい改革かいかく使りょうあさしたがえ部落ぶらく聯盟れんめいえんじすすむため中央ちゅうおう集權しゅうけんりょうむね在位ざいい期間きかん,一直不忘佔領中原的期望,つぎたい中原なかはら用兵ようへいしか而遼そうこう酒色しゅしょくあいりょう晚年ばんねんさら任用にんよう奸佞かんねいだいきょうふうしょうくだころせしるべ朝政ちょうせいおさむ政治せいじ腐敗ふはい。951ねんりょうむねきょうすけきたかんおさむこうしゅう行軍こうぐんいたり歸化きかこん內蒙よび和浩かずひろとくてきさち古山ふるさんゆかり於其部隊ぶたい未到みとう先行せんこうちゅう紮在かみよどみこん河北かほくせん)。其間かつしゅじんりょう,眾將很是不滿ふまん最後さいご耶律察割ころせ於夢きょうちゅうしんよどみみだれ[20]

衰退すいたいあずか穩固[编辑]

りょうちょう彩繪さえ觀音かんのんぞう

951ねん耶律察割ざいしんよどみ發動はつどう政變せいへんころせりょうむねなみくだりしょうみかどりょうふとし宗之むねゆき長子ちょうし耶律璟かず耶律しつとうりつへいころせ耶律察割,耶律璟被りつためみかどそくりょうきよしむねりょうきよしそう雖討いや女色じょしょく,而無所出しょしゅつただし卻經つね酗酒,てんあきらざいねむ中午なかうまかた醒,いん此長時期じき朝政ちょうせいくに人稱にんしょうためねむおう」。りょうきよしむね前期ぜんき朝廷ちょうてい內部不穩ふおんはなれしんはなれとく大臣だいじん經常けいじょう發生はっせい叛亂はんらんあるみなみ中原なかはらてき事件じけん:952ねんろくがつしょうまゆとくよく叛遼みなみ奔後しゅう陰謀いんぼうはいころせなながつ政事せいじれい耶律婁國はやしきば耶律てきれつとうはかりごとみだれ,耶律婁國のちふく誅。953ねんじゅうがつ,耶律えびす之子ゆきこ耶律あてとうひと謀反ぼうほん事情じじょう察覺。960ねんなながつ政事せいじれい耶律ことぶきとおふとしすわえおもね不等ふとうじん謀反ぼうほんことはいふく誅。じゅうがつ,耶律えびす之子ゆきこ耶律かくれ謀反むほんことはいいんきょう牽涉耶律えびす,耶律えびす入獄にゅうごく而死[23]

よし於政きょくどう不安ふあんさこ使つかいりょうきよしむね停止ていしりょうりょうふとしそうりょうむね一貫執行的南伐中原政策,以恢復かいふくいん長期ちょうきせんごと而消そんてき國力こくりょくあずかみなみとうきたかん聯合れんごう對抗たいこうとげややつよもりてきしゅう。959ねんしゅう發動はつどうきたりょうあさやすししゅうこん河北かほくあおけん刺史ししおうひろし舉城投降とうこうしゅうぐんずいおさむかつ益津ましづせきこん河北かほく霸州)、かわらきょうせき,莫州、瀛州刺史ししりゅうすわえしんじこう彥暉也舉じょう投降とうこう當時とうじこう周世すせむねよくいちさくちょくかそけしゅうりょうきよしそう甚至有意ゆうい放棄ほうきつばめくもじゅうろくしゅう[24]最後さいご周世すせ宗因そういん為重ためしげびょう而南かえし,莫州、瀛州しゅう領有りょうゆう,而遼ぐんきょう防禦ぼうぎょ南下なんかよし於遼きよしそう本人ほんにん喜好きよし殺戮さつりく經常けいじょうおやしゅ殺人さつじんどう時又ときまた愛好あいこうりょういた「竟月あさ」,最後さいご於969ねん二月被侍人所弒。耶律けん推舉ためみかどそくりょうけいむね改元かいげんためやすし[23]

りょうけいそうつとむ政事せいじ重用じゅうようけんしんしつかくかさね使つかいりょうちょう出現しゅつげんいちじん清明せいめいよし於遼けいむねからだじゃく多病たびょうゆう無法むほうじょうあさ軍國ぐんこく大事だいじよし皇后こうごうしょうきょうじょ處理しょりりょうけいむねたいりょうきよし宗時むねとき謀反むほんてき皇族こうぞく較寬てき政策せいさくいん而謀らんしゃしょう朝廷ちょうてい比較ひかく穩定。りょうけいむね對外たいがい政策せいさく仍採主動しゅどうみなみ中原なかはら,而是僅扶持ふち支援しえんきたかんてき方針ほうしんりょうけいむね前期ぜんきりょうあさあずか宋朝そうちょう聘史往還おうかん,互賀ぶしそうふとしむねちょう光義みつよし統一とういつ江南こうなん,於979ねんおやせいきたかんりょうちょうすう萬兵まんひょう支援しえんきたかん三月さんがつりょうぐんざい白馬はくばみねこん山西さんせい盂縣)あずかそうぐん交戰こうせん戰敗せんぱいりょうはた耶律てきれつとうじん戰死せんし六月ろくがつきたかん君主くんしゅりゅうつぎもとくだそうりょうちょうただのう全力ぜんりょく固守こしゅかそけしゅうそうふとしむねじょうしょうかこえおさむかそけしゅうりょうちょう宰相さいしょう耶律すな耶律きゅう耶律はすとうりつぐんあずかそうぐん會戰かいせん高梁たかはしかわ今北いまきたきょう西にし直門じきもんがい),しょう高梁たかはしかわたたかえりょうぐん最後さいごげきつぶせそうぐんそうふとしそう僅以まぬかれ,此後そうりょう兩國りょうこく進入しんにゅうりょうしょう狀態じょうたい[23]

ひじりはじめもり[编辑]

耶律りゅうけいこれおんな陈国公主こうしゅいれそう时头戴的鎏金だか翅银かんむりかん顶为道教どうきょう元始げんしてんみことぞう

982ねんりょうけいむねびょう逝,長子ちょうし耶律たかしいとぐちつぎそくりょうひじりはじめみことしょう綽為皇太后こうたいごうなみよししょうふとしきさき攝政せっしょう當時とうじしょうふとしきさき30さいりょうせいむね12さい,而蕭ふとしきさきちちしょうおもえぬる於970ねん被害ひがい嗣,使つかいとくしょうふとしきさき也沒ゆう外戚がいせき以依もたれ。而諸おう宗室そうしつひゃく餘人よにんようへい自重じちょうひかえせい朝廷ちょうていたいしょうふとしきさき及遼ひじりはじめ構成こうせいりょう莫大ばくだいてきおびえしょうふとしきさきさき重用じゅうよう大臣だいじん耶律はす軫、かんいさおゆずるまいりけつ大政たいせい南面なんめん軍事ぐんじきゅう耶律きゅう,撤換いち大臣だいじんなみれい諸王しょおうとく相互そうごえん請,要求ようきゅう無事ぶじ不出ふしゅつもんなみしつらえほう解除かいじょ們的兵權へいけんざい這些行動こうどうりょうせいそうかずしょうふとしきさきてき地位ちいざい穩定らいしょうふとしきさき攝政せっしょうじゅうななねん傳聞でんぶん曾改よめきゅうかんいさおゆずるざい執政しっせい期間きかん進行しんこう改革かいかくなみ且勵せいちゅうじゅうのうくわきょうおさむ水利すいり減少げんしょうぜい整頓せいとん吏治,訓練くんれん軍隊ぐんたい使つかいりょうちょう百姓ひゃくしょう富裕ふゆう國勢こくせいきょうもり。1009ねんりょうひじりはじめ親政しんせいりょうあさやめ進入しんにゅうかなえもり基本きほん上延うわのぶぞくしょうふとしきさき執政しっせいてきりょうちょう風貌ふうぼう反對はんたい嚴刑げんけいたかしほうなみ防止ぼうしむさぼ事件じけんざい文教ぶんきょう方面ほうめんりょうせいむね實行じっこう舉,編修へんしゅう佛經ぶっきょう佛教ぶっきょうごくため盛行せいこう在位ざいい其間四方しほう征戰せいせんたいそう戰爭せんそう屢屢かち,俘獲ごうしょう楊無てきてき宋朝そうちょう名將めいしょう楊繼ぎょう[25][23]

きたそう立國りっこくはつそく有意ゆういようおさむふくつばめくもじゅうろくしゅう先後せんご於979ねん、986ねん兩度りょうどきたみなためりょうぐんしょげきはいりょうひじりはじめためりょう防止ぼうしこううららあずか宋朝そうちょう結盟けつめいしん而威おびえりょうちょう東部とうぶ,於993ねん發動はつどう高麗こうらいちぎり戰爭せんそう以降いこうふく高麗こうらい,於1009ねんてき東征とうせいさいとおおさむにゅう高麗こうらい開城かいじょうこれため解決かいけつりょうそうあいだてき長期ちょうき對抗たいこう,以及避免ちぎりたん貴族きぞくおびえすめらぎけんしょうふとしきさきあずかりょうひじりはじめ於1004ねんおやりつ大軍たいぐん深入ふかいりそうさかいそう真宗しんしゅうかしこてきよく遷都せんとみなみ逃,いん宰相さいしょう寇準堅持けんじ而親いたり澶州こん河南かなん濮陽)督戰とくせんそうぐん士氣しきだいげきはいりょうぐんぜんほこさきりょうしょうしょう撻凜戰死せんしりょうぐんおそれ腹背ふくはい受敵,提出ていしゅつやくしゅてきそう真宗しんしゅう於次年初ねんしょあずかりょうていりつやく協定きょうていそう每年まいとしみつぎりょうとしぬさぎんじゅうまんりょうきぬじゅうまんひき雙方そうほうかくもり疆界,互不騷擾そうじょうなりため兄弟きょうだいくに,此即澶淵めいしたがえ此兩あさ和好かずよしたちいちひゃくじゅうねんひさこれりょうひじりはじめゆいこのみ西にしなつ,而西なつ也搖擺於そうりょうあいだ以圖そん形成けいせいりょうそう西にしなつさんこく鼎立ていりつてききょくぜい[26][23]

さんこく鼎立ていりつ[编辑]

りょうあさきたそう西にしなつさんこく疆域

1031ねんりょうひじりはじめ長子ちょうし耶律そうしん即位そくいそくりょうきょうむねりょうきょうむね生母せいぼしょう耨斤そくほうてんふとしきさき自立じりつため皇太后こうたいごうなみ攝政せっしょうなみじんころせりょうきょうむねてき養母ようぼひとし天皇てんのうきさきしょう菩薩ぼさつほうてんふとしきさき重用じゅうようざいりょうひじりはじめ時代じだいたっしめせながろくようてきむさぼかん污吏以及其娘てきじんりょうきょう宗因そういんけん不能ふのうすくえ母子ぼしいん此結怨。ほうてんふとしきさきたいりょうきょうむねなみ不信任ふしんにん打算ださんあらためりつ次子じし耶律そうはじめそく耶律重元しげもとためみかど。耶律そうもと這一事告訴遼興宗。りょうきょうむねいか不可ふか遏,於1034ねんよう武力ぶりょく廢除はいじょほうてんふとしきさきさこほうてんふとしきさき“躬守けいりょう”,だいころせほうてんふとしきさきおやしんなながつりょうきょうむね親政しんせいおさむけんりょうえんやすそうひとし天皇てんのうきさき。而後,ほうてんふとしきさきせっかいらいなみあずか保持ほじじゅうさとてき距離きょり,以防不測ふそくりょうきょうむね母子ぼしてき感情かんじょうきれこん始終しじゅうぼつゆうはまひらた[27]

りょうきょうむね在位ざいいりょうちょう國勢こくせいやめえきおとろえ落。而有りょうきょうむね一朝いっちょう奸佞かんねいとうけん政治せいじ腐敗ふはい百姓ひゃくしょう困苦こんく軍隊ぐんたい衰弱すいじゃくめんたいにちえきおとろえ落的國勢こくせいりょうきょうむね連年れんねん征戰せいせんつぎ征伐せいばつ西にしなつ逼迫ひっぱくきたそう交納としぬさただし這些はん而使りょうあさ百姓怨聲載道,みん聊生。りょうきょうむねかえ迷信めいしん佛教ぶっきょう,穷奢极欲。りょうきょうむね曾與其弟耶律そうもと賭博とばく,一連輸了幾個城池。たい自己じこてきおとうとおとうと耶律そうもと非常ひじょう感激かんげき,一次酒醉時答應百年之後傳位給耶律宗元。其子耶律ひろしもとそくため後來こうらいてきりょうどうむね),也未曾封ため皇太子こうたいしただふうため天下でんか兵馬へいば大元帥だいげんすい而已。這種りょうりょうどうむねつぎ,耶律そうもと父子ふし企圖きとはかりごとだつ帝位ていいてきあくはて[28]

そうなつ戰爭せんそうのちきたそう內外交困さい使つかいとくりょうちょう趁機おかせそうざい徵求ちょうきゅうちょうてき意見いけん,一面派其弟耶律宗元和しょうめぐみざい邊境へんきょう製造せいぞうよくおさむそうてききょちょうこえぜいいちめんしょうとくまつりゅうろく於1042ねん正月しょうがつ宋朝そうちょうさくようかわらきょう關南せきなみじゅうけん宋朝そうちょうとみあずかりょうかた使節しせつ談判だんぱん,此即じゅう熙增ぬさ雙方そうほうきゅうがつ達成たっせい協議きょうぎざい澶淵めい規定きていおくりょうとしぬさ基礎きそちゅうさい增加ぞうかぞうとしぬさぎんじゅうまんりょうきぬじゅう萬匹以了結這次索地之爭。りょうきょうむねかえ耶律じんさきかずりゅう六符再次使宋爭得一個“おさめそくとしぬさそうかたおさめきゅうりょうかたてきおくおくてきそうひとしむね也委きょくもとめぜん以應まこと,而條件じょうけんりょうちょう須逼西にしなつあずか宋朝そうちょう和談わだんよし此,ざいりょうそう和好かずよしこれためこたえおう宋朝そうちょう要求ようきゅうりょうなつ關係かんけい惡化あっかなみ發生はっせいりょうなつ戰爭せんそうりょうきょうむね兩次りょうじおやせい西にしなつひとし失敗しっぱい,而西なつ最後さいご願意がんい分別ふんべつむかいりょうそうしょうしん進貢しんこう[29]

みちむねちゅうおとろえあずかじょおびえ[编辑]

りょうどうむねちぎりぶんあいさつ并盖,辽宁しょう博物はくぶつたてぞう

りょうどうむねつぎ,1063ねん七月耶律宗元聽從兒子的勸說,發動はつどう叛亂はんらん自立じりつためみかどひさりょうどうむねしょひらめ,耶律そうもと自盡じじんしょう灤河みだれりょうどうむね在位ざいい期間きかんりょう政治せいじ腐敗ふはい國勢こくせい逐漸おとろえ落。りょうどうむねなみぼつゆう進行しんこう改革かいかくしん,而且本人ほんにん腐朽ふきゅう奢侈しゃし,這時地主じぬし官僚かんりょうきゅうげき兼併けんぺい土地とち百姓ひゃくしょう痛苦つうく不堪ふかん,怨聲みちりょうどうむね重用じゅうよう耶律おつからしひとし奸佞かんねい自己じこ朝政ちょうせいなみ聽信耶律おつからしてき讒言ざんげんそうしんじ皇后こうごうしょう觀音かんのんあずか伶官ちょうおもんみいちつうかん而賜皇后こうごう。而同耶律おつつらためぼう太子たいしのぼりはじめたい自己じこ不利ふりおちいがい皇太子こうたいし耶律濬なみはた殺害さつがいたたえじゅうこう冤案。後來こうらい,一位姓李的婦女向遼道宗進「はさみこくりょうどうむねざい皇太子こうたいしてき兒女じじょせっしんみや。1079ねんなながつ,耶律おつからしじょうりょうどうむね遊獵ゆうりょうてき時候じこう意圖いとはかりごとがい皇孫こうそん耶律のべりょうどうむねせっおさめ大臣だいじんてきすすむ諫,いのち皇孫こうそんいちどうあきりょうさいかい耶律おつからしてき陰謀いんぼう。1083ねんりょうどうそうついふう太子たいしためあきらふところ太子たいし,以天子てんしれい改葬かいそう同年どうねんじゅうがつ,耶律おつからし企圖きとたい私藏しぞう武器ぶきいた宋朝そうちょう避難ひなんことはい誅。1101ねん正月しょうがつりょうどうむね皇孫こうそん耶律のべつぎそくてん祚帝(海濱かいひんおう)。當時とうじ西にしなつたかしむねいん受到きたそう攻擊こうげき一再向遼求援,なみもとめてん祚帝おんななお公主こうしゅためつまさい後天こうてん祚帝於1105ねんしょういちぞくおんな耶律みなみせんひさげますため公主こうしゅよめきゅうなつたかしそうなみ使者ししゃ赴宋,すすむきたそうたい西にしなつ和談わだん[30]

1112ねんがつ十日天祚帝赴はるしゅう召集しょうしゅう附近ふきんおんなしんぞくてき酋長しゅうちょう來朝らいちょう宴席えんせきちゅうよいしゅれいしょ酋長しゅうちょうためとべまいただゆうかんがおおもねほね肯。てん祚帝以為ただししたがえ此完がおおもねほねあずかりょうあさあいだ不和ふわ九月くがつかんがおおもねほねさいたてまつみことのりなみ開始かいしたい其他服從ふくじゅうてきおんな部落ぶらく用兵ようへい。1114ねんはるかんがおおもねほね正式せいしきおこりへいはんりょう。一開始天祚帝並未將完顏阿骨打當作一個重大威脅,ただし所有しょゆう他派たは鎮壓ちんあつかんがおおもねほねてき軍隊ぐんたい全部ぜんぶ戰敗せんぱい。1115ねんてん祚帝ためりょう解決かいけつおんなしんてきおびえしたれいおやせいただしりょうぐんいたしょおんなしんぐんげきはいかんがおおもねほね自稱じしょう皇帝こうてい建立こんりゅうかねあさそく金太きんたりょうちょう同年どうねん發生はっせい內亂,耶律あきらやつざいりょう上京じょうきょう叛亂はんらん,雖然這場叛亂はんらん很快就被平定へいていただし分裂ぶんれつりょうりょうちょう內部。此後於原渤海こくまと東京とうきょう發生はっせいこう永昌えいしょう叛亂はんらん自立じりつ,這場叛亂はんらんいちちょくいた1116ねんよんがつざい平定へいてい。五月女真藉機佔領了りょう東京とうきょう瀋州。1117ねんおんなおさむはるしゅうりょうぐん不戰ふせんはい[31]

分裂ぶんれつあずか滅亡めつぼう[编辑]

かねあさめつりょうあさあずかきたそう形勢けいせい

1120年金ねんきんぐんおさむかつりょう上京じょうきょう守將しゅしょうしょう撻不也投降とうこういた1121ねんりょうあさやめけいしつ一半いっぱんてき領土りょうどりょうはたみつる伊都いととうじんいた咸州(こん遼寧りょうねい開原かいはら)請降,てん祚帝逃到鴛鴦えんおう濼(こん河北かわきた赤城せきじょう),奔向りょう西京にしぎょうかねぐん追擊ついげきてん祚帝また逃到。而內また發生はっせいいんため皇位こうい繼承けいしょう問題もんだい爆發ばくはつてき內亂,さい後天こうてん祚帝ころせてき長子ちょうし耶律敖魯斡結束けっそくただし這使どくさらてきりょうへい投降とうこうきんあさ。1122ねん正月しょうがつかねぐんおさむかつりょう中京ちゅうきょうてん祚帝かねへいしょはさま流亡りゅうぼう夾山[32][33]

よし於位於りょう南京なんきんてき耶律大石おおいしあずかところゆたかとうじん不知ふちてん祚帝こう擁立ようりつ耶律あつしためみかどそくてんすずみかどためきたりょう[6]てんすずみかどくだてん祚帝ため湘陰おうなみ大使たいしたてまつおもてかねあさ,乞為いさおごと完成かんせい就病つまりょうとくしょうせいあらため年號ねんごうためとくきょう。此時りょうしんところゆたか父子ふしさとしとく前景ぜんけいみょう打算ださんこうみなみ私通しつうきたそうてきわらわぬきよくこうもちりょうとくおさめ於宋。こうきた私通しつうきんじんさく金的きんてき內應。こう發現はつげん們罪ぎょう而賜當年とうねんじゅういちがつりょうとく上表じょうひょう給金きゅうきんあさただよう允許いんきょりつ耶律じょうためりょうみかど,其他條件じょうけんひとしこたえおうかねじんもと,她只こう派兵はへい死守ししゅきょいさおせき十一月じゅういちがつきょいさおせきしつもりじゅう二月遼南京被攻破。りょうとくたいちょ隨從ずいじゅうてき官員かんいんとうもたれてん祚帝,てん祚帝誅殺ちゅうさつ[34][33]

1123ねん正月しょうがつざい上京じょうきょうてきかいはなれしょうみき自立じりつごう奚國皇帝こうていはちがつ平定へいてい同年どうねんがつ耶律みやびさとざいすなみね自立じりつため皇帝こうてい改元かいげんかみれきためきたりょう[6]。1124ねんてん祚帝やめけいしつりょうりょうちょうてきだい部分ぶぶん土地とちてきぞくだい多數たすうころせある俘,てん祚帝退出たいしゅつばくがい準備じゅんびとう奔西なつ。1125ねん3がつ26にちてん祚帝ざいおうしゅうためきんじんかんがお婁室ひとしところ俘,りょうあさほろび。八月天祚帝被解送きむ上京じょうきょうこん黑龍江こくりゅうこうおもねしろ),金太きんたむねふうため海濱かいひんおう。1128ねんてん祚帝びょう遺臣いしんしょううけらしゃたい故主こしゅぎょう人臣じんしんれい[32][33]

西にしりょうぞくくに[编辑]

1142ねん西にし辽、きむみなみそう西にしなつばん图。图中あさ绿部ぶん包括ほうかつきょ线部分ぶぶん)为西辽

此後,りょうちょう宗室そうしつ重臣じゅうしん耶律大石おおいしざい西北せいほく召集しょうしゅう殘部ざんぶひかえせいりょうこうむ高原こうげんしん東部とうぶ一帶いったい。1130ねんゆかり於受到きんへいてき壓迫あっぱく,耶律大石おおいし決定けってい放棄ほうきこうむ高原こうげんりつ西にしせい。1132ねん,耶律だい石在いしざいみつりついましんがくさとしょうみかど國號こくごう仍為“だいりょう”,しょう西にしりょうきよし斯林西方せいほうしょうため哈剌ちぎり),ずいきさき征服せいふく河中かわなか地区ちく并定とらおもえ斡魯朵いまよし尔吉斯斯ひろしたくかつ马克附近ふきん[35]西にしりょういち擴張かくちょういたなみなりためちゅう強國きょうこく。1143ねん,耶律大石おおいしびょうごうとくむねこれ西にしりょうれきけいかん天皇てんのうきさきしょうとうけむりしょうせい)、ひとしむね耶律えびすれつうけたまわてんふとしきさき耶律そくかんしょうせいまつぬし耶律ちょく魯古てき統治とうち。1211ねん突厥乃蛮貴族きぞくこごめりつ篡位しょうみかどただし仍以“だい辽”为国ごう最終さいしゅう西にしりょう於1218ねんかむ成吉せいきちおもえあせてきこうむふる軍隊ぐんたいしょほろび立國りっこく凡87ねん[36]西にし辽的灭亡,视为辽朝正式せいしき结束てき象徵しょうちょう[37]

东辽あまり[编辑]

1212ねんちぎりじん耶律とめざい辽朝たかしやすいまよしりんのうやす)、かんしゅう今吉いまよしりんなしじゅ一帶いったいおこりぐん反抗はんこうかねあさなみ且受到成吉せいきちおもえあせてき庇護ひご隔年かくねんさんがつ,耶律とめ哥稱おう國號こくごうりょうふみしょうあずまりょう。1216年初ねんしょ,耶律とめ哥之おとうと耶律廝不叛變,ざいきよししゅうしょうみかど。耶律廝不ひさ部下ぶかしょころせ,眾推耶律乞奴ためかんこく同年どうねんあきはなはじむりつこうむぐん東下ひがししも,耶律乞奴とう不敵ふてきりつ九萬契丹族越過かもみどりこう進入しんにゅうだかうららさかい內。ひさちぎりしょ貴族きぞくあいざんころせ,耶律とめ哥最於1220ねん恢復かいふくきゅう耶律とめふくこく依然いぜんこうむ帝國ていこくなりため其藩ぞく,1270ねんもと撤藩,あずまりょう正式せいしき滅亡めつぼう[38]

疆域あずか行政ぎょうせい區劃くかく[编辑]

りょう上京じょうきょうみなみとうとうはまゆうふつ飛天ひてん菩薩ぼさつしょうとうとう浮雕,很有ちぎりぞく文化ぶんかてき特色とくしょく

りょうちょう初期しょきてき疆域ざいいまりょうかわ流域りゅういきじょうゆう一帶いったいざいりょうふとし及遼ふとそう時期じき不斷ふだん對外たいがい擴張かくちょうりょうふとし征服せいふくこん河北かほく北部ほくぶ)、がらすいにしえくろしゃしつこん內蒙東部とうぶよびりん湖東ことうみなみ)、韃靼だったんかいあずか渤海こく。938ねんりょうふとし宗時むねとき取得しゅとくつばめくもじゅうろくしゅうなみいち佔有中原なかはら。1005ねんりょうひじりはじめ與北よぎたそう簽定澶淵めい最後さいご確定かくていりょうあずかそうてきあたりかいりょうちょう全盛ぜんせい,疆域東北とうほくいたりいまくらぺーじとうきたいたるこうむくに中部ちゅうぶてきいろ楞格かわいし勒喀かわ一帶いったい西にしいたおもねしか泰山たいざん南部なんぶいたりいま天津てんしんてきうみかわ河北かほくしょう霸縣山西さんせいしょうかりもんせき一線いっせんあずかきたそう交界,あずか當時とうじ統治とうち中原ちゅうげんてき宋朝そうちょうあい對峙たいじ形成けいせい南北なんぼくあさ對峙たいじいきおい[39]

りょうちょう於契こく時期じき領有りょうゆうはち[40]建立こんりゅうりょう國後くなしりてき行政ぎょうせい區劃くかくためみちしゅう)、けんさんきゅう共有きょうゆう5きょう、6,156しゅうぐんしろ),309けんみちゆうまいどうゆういち政治せいじ中心ちゅうしんしょうためきょうなみ以京てき名稱めいしょうらい命名めいめいどう道下みちしたしつらえしゅうぐんしろ4しゅせいためどういちきゅうべつ[41]

りょうちょう政治せいじてき核心かくしんいんぞく而治,以該文化ぶんかてき典章てんしょう制度せいど統治とうち該族人民じんみん,這個特色とくしょくざい行政ぎょうせい區劃くかく也看とく出來できざいちぎり部落ぶらく時期じき征服せいふく鄰近てき奚族,於當きゅうたて奚王,建立こんりゅう自己じこてき政府せいふ機構きこう[42]ちぎりこく時期じきおさむめつ渤海こくためりょう便びん統治とうち渤海人民じんみん,於當建立こんりゅうひがしこく,沿襲渤海こく行政ぎょうせい體制たいせいひがしこく最後さいごはいあらためため中臺ちゅうたいしょうざい佔領つばめくもじゅうろくしゅう,也在當地とうち也沿かさねこうとう行政ぎょうせい體制たいせい以便於統治とうち當地とうち漢人かんど[43]

あたまぐんしゅうりょうちょう一種いっしゅ特殊とくしゅけんおけちぎりたん貴族きぞくしょうしょ俘掠てき人口じんこう建立こんりゅうしゅうぐん安置あんちとくせり其為主人しゅじん勞作ろうさくりょう諸王しょおう外戚がいせき大臣だいじんしょ領有りょうゆうてきあたまぐんしゅうけん城郭じょうかく,其餘ただのうゆう自己じこてきあたま寨堡。あたまぐんしゅうしつらえざい潢河流域りゅういきちぎりじゅう。俘戶主要しゅよう河北かわきた山西さんせいてき漢人かんどかず東北とうほく地區ちくてき渤海じんあたましゅうけん名稱めいしょうつね採用さいよう俘戶原籍げんせきしゅうけん名稱めいしょう,如俘まもる州民しゅうみんけんまもるしゅう;俘三河そうご縣民けんみんけん三河そうごけん;俘密くもみんけん密雲みつうんけんひとしあたまぐんしゅうてき制度せいどいたりょうひじりはじめ時期じき逐漸廢除はいじょ[44]

五京制度與捺缽制度[编辑]

りょうちょう如同宋朝そうちょう也有やゆうきょう制度せいど主要しゅようためひかえせいいん戰爭せんそうてき土地とち設置せっちてきあるいんため爭奪そうだつ一地而設置的前進基地[45]。這些先後せんご成立せいりつてききょうため上京じょうきょう臨潢こん內蒙古林ふるばやしひがし)、いんひかえせい奚領設置せっちてき中京ちゅうきょうだい定府じょうふこん內蒙やすしじょう)、いんため渤海のこみん設置せっちてき東京とうきょうりょうこん遼寧りょうねいりょう)、いんためつばめくもじゅう六州而設置控制漢地的南京なんきん析津今北いまきたきょうあずか監視かんし西にしなつてき西京にしぎょう大同だいどう今山いまやま西にし大同だいどう)。きょうちゅうただゆう上京じょうきょう首都しゅと,其他ひとしこれ陪都しか而遼中京ちゅうきょういたり澶淵めい,其政治せいじ作用さようきょう地位ちいちょく上京じょうきょうてき首都しゅと地位ちい[46]

捺缽そくくだりざい」、「營盤」,ためりょうみかどてき行宮あんぐう[47][48]りょうちょう雖以上京じょうきょう臨潢作為さくい首都しゅとただし政治せいじ核心かくしんざい捺缽。這是いんためちぎりぞくうたて不定ふてい車馬しゃばためてき特性とくせい決定けっていりょう皇帝こうていてきじゅんかりせい。一切重大政治問題均在捺缽隨時決定,處理しょり政務せいむてき行政ぎょうせい中心ちゅうしん每年まいとしまたよんじゅんもり」,「四時各有行在之所,いい捺缽」[49]皇帝こうていざい遊獵ゆうりょう地區ちくしつらえてきぎょうちょう,以區べつ於皇てきみやちょう[50]よし氣候きこう自然しぜん條件じょうけんてき制約せいやく,四時各有捺缽之地[51]

りょうふとし宗時むねときつばめくもじゅうろくしゅう,其國土こくど包括ほうかつ長城ちょうじょう以南いなんてき廣大こうだい地區ちくため保持ほじちぎりぞくてき騎射きしゃ善戰ぜんせん傳統でんとうてき經濟けいざい生活せいかつ,仍然ちょてん徙隨車馬しゃばためてき生活せいかつせい如《りょうちゅう記載きさいてきりょうこくつきゆうだいばくひたつつみ長城ちょうじょうさかいよしよろしため秋冬あきふゆたがえかんはるなつ避暑ひしょずい水草みずくさ就畋りょうさい以為つね」,四時各有行在之所,ざい這種特殊とくしゅ經濟けいざい政治せいじ文化ぶんか背景はいけいざいちぎりてき管理かんり體制たいせいじょう,逐漸形成けいせいりょう一套縣有鮮明遊牧契丹民族獨特特點的四時捺缽制度。ちぎり皇帝こうていよん巡行じゅんこうてきみやちょう(也稱きばちょう),そくはる捺缽なつ捺缽、あき捺缽、ふゆ捺缽[51]

たく歇图》,つてためりょうちょうえびす壤繪。すえ中大ちゅうだい多数たすう人物じんぶつ髡顶、脑后たれそう辫的发式かた顶黑はばとうとくてんとうぞくきんだいおんな真人しんじんてき风俗,可能かのう出自しゅつじ金代かなだい汉族画家がかてき

政治せいじ體制たいせい[编辑]

りょう南京なんきん析津てき天寧寺てんねいじとう,1100ねんいたり1120ねんりょうちょう末期まっききょうけん

よし於遼あさぞく於多民族みんぞく國家こっか,其政治せいじ體制たいせい融合ゆうごうちぎり體制たいせいあずかからそう體制たいせい形成けいせい南北なんぼくいんせい南北なんぼくいんせいぶんなり北面ほくめん官制かんせい南面なんめん官制かんせい,以「ほんぞく制治せいじちぎり,以漢せいまち漢人かんど」,保護ほごちぎり固有こゆう文化ぶんかあずか政治せいじ體制たいせい北面ほくめんかんみやちょう部族ぶぞく屬國ぞっこくせい南面なんめんかんかんじんしゅうけん、租賦、軍馬ぐんばこといんぞく而治[52]

北面ほくめん官制かんせいちゅうきたみなみ樞密院すうみついんりょうちょう最高さいこう官制かんせいきた樞密院すうみついんてのひらかん全國ぜんこく軍政ぐんせい類似るいじからあさてき兵部ひょうぶみなみ樞密院すうみついんてのひらかん銓選、ちょうとうせいきた樞密院すうみついん管轄かんかつちぎりぞくざい內的少數しょうすう民族みんぞくみなみ樞密院すうみついん管轄かんかつかんぞく以及しゅうぐんけん樞密院すうみついんかえしつらえきたみなみ宰相さいしょうきたみなみ宰相さいしょうみやこゆかり皇族こうぞく耶律きさきぞくしょうしょ把持はじ。此外かえゆう管理かんりちぎりあるかんぞく軍民ぐんみんことてききた南大王みなみだいおういん管理かんりきたみなみいん御前ごぜん祗應てききたみなみせん徽院、管理かんり皇室こうしつ教育きょういくてきだい內惕かくれ管理かんりけいごくてきえびすはなれ畢院管理かんりぶん翰之ごとてき大林おおばやしきばいんあずか管理かんり禮儀れいぎてきてきれつつかさとう[53][54]

南面なんめん官制かんせいてきかんめい職掌しょくしょう沿襲からあさ制度せいどなみ參照さんしょうだい宋朝そうちょうてき官制かんせい。以太じょうつかさつかさそらためさんおおやけふとしふとしでんふとしためさんざい其下しつらえゆう中書ちゅうしょしょう門下もんかしょう尚書しょうしょしょうとうさんしょう。其下ゆうろくあずかだいてらかえゆうだい翰林院かんりんいんまたたたえ南面なんめんりんきば)、國史こくしいんふとしつねてら以及しょかんまもるとう官有かんゆうじつ授、はるか授之ぶんしょくごとかんあずかかん及階、くんけん銜、ふう爵、しょく邑戶數等すうとうはい套。りょう代官だいかんめいゆうちぎりかんめい,如林きばそく翰林かんりん惕隱てのひらかん皇族こうぞく政教せいきょうえびすはなれてのひらかんけいごくおつうらめんため誥命夫人ふじんひとし[54]。而朝廷ちょうてい重要じゅうよう職位しょくい掌握しょうあくざいちぎり人手ひとでちゅうゆう其是みかどけい外戚がいせき手中しゅちゅう[55]

りょうちょうてき法律ほうりついんぞく而治,使用しようそう制度せいど基本きほん原則げんそく以國制治せいじちぎり,以漢せいまちかんじんちぎりじん屬人ぞくじん主義しゅぎ漢人かんど屬地ぞくち主義しゅぎりょうちょう早期そうきぼう制度せいど具有ぐゆう種族しゅぞく歧視なり[56]ちぎり制度せいど較為ひろし,而漢よし繼承けいしょう歷代れきだい法律ほうりつ法條ほうじょう較為綿密めんみつりょうひじり宗時むねときちぎりじんほう也用かんりつらいだん,這反映はんえい漢人かんど地位ちいてきひさげます。而皇帝こうてい往往おうおう隨意ずいい殺人さつじん無法むほうてんりょうきよしむねゆう[57]後期こうき漢人かんど附屬ふぞくかん漸增ぜんぞう,如遼ほろびぜんおうかい儒說:「南朝なんちょうまいいいみなみじんおもえかんことおもえわりぞくちぎりやめきんひゃくねんあに君臣くんしん父子ふしじょう?」「ことわざゆう一馬かずま不備ふびくら一女いちじょよめおっとため人臣じんしんあにことぬしつばめちゅう大夫たいふあに不念ぶねん此!」

そと交與對外たいがい關係かんけい[编辑]

ちぎりぞくげん臣服しんぷくからあさとうあさ設立せつりつためまつばくとく。於晚とうだいどき建立こんりゅうちぎりこく獨立どくりつなみ且屢いれおかせ河北かほく地區ちくだいとうまつねんりょうふとしむね接受せつじゅいしけいてき請求せいきゅうきょうじょ建立こんりゅうすすむだいとう,以獲得かくとくつばめくもじゅうろくしゅうあずかこうすすむてき臣服しんぷくひさまたみなみせい中原なかはら滅後めつごすすむ建立こんりゅうりょうあさいたり此遼あさあずか中原なかはらてき外交がいこう關係かんけいくびうたてためりょうちょうきょじょう中原なかはら臣服しんぷくてき狀態じょうたいこれりょうちょう衰退すいたいこうしゅうあずかきたそうためりょうつばめくもじゅう六州又相繼北伐,雙方そうほう恢復かいふく對峙たいじてき局面きょくめんりょうちょう採取さいしゅ防禦ぼうぎょ策略さくりゃくなみ扶持ふちきたかん對抗たいこう中原ちゅうげんてききた,屢次抵禦中原なかはらてき進攻しんこうちょくいたりょうひじりはじめとき經過けいか充分じゅうぶん準備じゅんびこれ再度さいど發動はつどうみなみせいりつりょうぐんちょく逼北そうてき澶州最後さいご雙方そうほうていりつ澶淵めいりょうちょう與北よぎたそう建立こんりゅうだい致上平等びょうどうてき外交がいこう關係かんけいちょうたち120ねん條約じょうやく劃定かくていりょう雙方そうほうてき國境こっきょうせん宋朝そうちょうためりょう鞏固きょうこぼう,一直在邊境線上種植榆柳造林。[58]條約じょうやく約定やくじょうりょう宋朝そうちょう每年まいとしむかいりょうささえづけさんじゅうまんりょうひきてきとしぬさ同時どうじ開放かいほう一些邊境榷場,雙方そうほうなみ且加きょう經濟けいざい貿易ぼうえき往來おうらい[59]

1042ねんりょうきょうむねそうなつ戰爭せんそうのちきたそう內外交困さいりつじゅうへい陳列ちんれつりょうそうかいなみしょうとくまつかんめいしょうえいりゅうろく宋朝そうちょうさくようかわらきょう關南せきなみじゅうけん宋朝そうちょうとみあずかりょうかた使節しせつ談判だんぱん雙方そうほうきゅうがつ達成たっせい協議きょうぎ,此即じゅう熙增ぬさ最後さいご增加ぞうかぞうとしぬさぎんじゅうまんりょうきぬじゅう萬匹以了結這次索地之爭。りょうきょうむねかえ耶律じんさきかずりゅう六符再次使宋爭得一個「おさめそくとしぬさそうかたおさめきゅうりょうかたてきおくおくてきそうしんとみ建議けんぎそうひとしむねこたえおう要求ようきゅうなみ要求ようきゅうりょうちょう約束やくそく西にしなつ作為さくい條件じょうけん以破壞遼あずか西にしなつてき關係かんけい最後さいご使りょうきょうむね兩次りょうじおやせい西にしなつろうみんきずわざわい[29]りょうちょう晚期ばんきいん受女しんぞく建立こんりゅうてきかねあさにゅうおかせじょう朝廷ちょうてい內部分裂ぶんれつあずか內鬥,使つかいりょうちょう有意ゆうい與北よぎたそう和談わだんただしきたそうやめけいあずかきむちょう建立こんりゅう海上かいじょうめい共同きょうどうりょう所以ゆえん拒絕きょぜつ和談わだん最後さいごりょうあさほろび於金あさ[32]

现藏于韩こく国立こくりつ中央ちゅうおう博物はくぶつてき渤海こく咸和よんねん铭佛龛

りょうちょう於926ねんめつ渤海こくあずかこううらら接觸せっしょく。942ねんおくきゅうだかうらら50ひき駱駝らくだただし高麗こうらいたい拒絕きょぜつりょう使放逐ほうちくいた孤島ことうしょおく駱駝らくだ也都餓死がしいたり此遼あさつぎかさね擾高うららかい,993ねんりょうひじりはじめりつ大軍たいぐんこしかもみどりこうにゅうおかせだかうらら最後さいご雙方そうほう和談わだん在高ありだかうらら同意どうい斷絕だんぜつあずかそうてき聯盟れんめいりょうせいむねりつぐんきたかえし雙方そうほう建立こんりゅう友好ゆうこうてきむつみ關係かんけい。1009ねんだかうらら發生はっせいぐんへんりょうひじりはじめ趁機にゅうおかせ高麗こうらい最後さいございおさむ開城かいじょうこうきたかえし。1018ねんりょうちょうりつ大軍たいぐん再度さいど東征とうせいだかうららただし不敵ふてき高麗こうらい軍隊ぐんたい雙方そうほうこうだん以後いごりょうちょうさい也沒ゆうにゅうおかせ高麗こうらい[60]

りょうあさあずか西北せいほく諸國しょこく保持ほじちょ較為友好ゆうこう和睦わぼくてき往來おうらいりょうちょう西境にしさかいてき主要しゅよう鄰國西にしなつ長期ちょうき以來いらい,一直與遼朝保有朝貢和聯姻關係。一度いちどためりょうはんぞくしょうためおいしゅうとくにりょうあさあずか西域せいいき諸國しょこくてき關係かんけい也源遠流おんるちょうざいりょうふとし耶律阿保あぼ,就曾けいりつぐん西にしせい使つかい西域せいいき諸國しょこくしょうつぎ臣服しんぷく[61]みつる和年かずとしあいだおうふとし出師すいし西域せいいき,1003ねんけんあつしじょう[註 4]作為さくい西北せいほくてきあたりぼう重鎮じゅうちん經過けいか多年たねんてき經營けいえい使つかいりょうちょうてき勢力せいりょく範圍はんい涵蓋ばくみなみばくきたあずか西域せいいきりょうちょう政府せいふたい這些降てき部落ぶらく屬國ぞっこくひとし採取さいしゅいん遷種落,內置さんてき羈縻政策せいさく[65]使つかいてき這些國家こっか互相監督かんとくみなねがい背叛はいはんりょうあさ[66]。這些使蔥嶺以東いとうてきあましゅうかい西にししゅうかいあずか蔥嶺以西いせいてき喀喇あせこく基本きほんうえおやりょうあさ,其與きたそうてき關係かんけい較疏。此外,西にしてきなみあずか大食たいしょく(茲尼王朝おうちょう)ざいりょうはつ也相つぎどう使らいどおりこのみてんさんねんなみ斯使らい,其明ねん大食たいしょく使らい大食たいしょく國王こくおう使つかいため王子おうじ請婚,まことつぎねんふく使つかい請婚,りょうひじりはじめ以宗しつじょよめ[67]

いん此,ざいとうあさ滅亡めつぼうこれ西域せいいき西にしあずか東歐とうおう地區ちくみなはたりょうあさちぎり作為さくい中國ちゅうごくてき代表だいひょうしょういいちゅう西にしてき斯蘭兵書へいしょちゅうかえはた中國ちゅうごくでん過去かこてき火藥かやくあずか火器かきしょうためちぎり丹花たんか」、「ちぎり火箭かせんとうちょくいた今日きょうにわか斯民ぞくてきげん文字もじとうちゅう,也依きゅう以契作為さくい中國ちゅうごくてき稱呼しょうこ[68]

軍事ぐんじ制度せいど[编辑]

耶律ばいところ騎射きしゃ》,國立こくりつみや博物はくぶついんたてぞう

りょうちょうてき軍隊ぐんたい平時へいじやくざいじゅうまんいたりさんじゅうまん左右さゆうちぎり遊牧ゆうぼく民族みんぞくぜん騎射きしゃ平時へいじ放牧ほうぼく漁獵ぎょりょうすんで生產せいさん經濟けいざい活動かつどう,也是軍事ぐんじ練習れんしゅうゆう戰爭せんそう很快そくしゅう合成ごうせいぐんよし於全みん皆兵かいへいりょうちょうしょ能動のうどういんてき兵力へいりょくざいそう人口じんこうとうちゅう比例ひれい很高,ため164まん2800にん[69]よし保留ほりゅうちょ原始げんし部族ぶぞくてき痕跡こんせきなみしょ於由奴隸どれいせいこう封建ほうけんせい迅速じんそく轉化てんかてき歷史れきし階段かいだん軍事ぐんじ制度せいど初期しょき與本よもと民族みんぞく社會しゃかい制度せいどあいためいちたい進入しんにゅう長城ちょうじょう以南いなん地區ちくすんで保有ほゆうほん民族みんぞく特色とくしょくまた逐步接受せつじゅかんぞく影響えいきょう具有ぐゆう民族みんぞく融合ゆうごうてきとくてんりょうちょう皇帝こうていおやてのひら最高さいこう兵權へいけんしたしつらえきたみなみ樞密院すうみついんきた樞密院すうみついんため最高さいこう軍事ぐんじ行政ぎょうせい機構きこう,一般由契丹人主管﹔みなみ樞密院すうみついんまたたたえ漢人かんど樞密院すうみついんてのひら漢人かんど兵馬へいばせいいん出現しゅつげん一個朝廷兩種軍事體制並存的局面[70]。  

りょうちょう兵制へいせいぶんためみやちょうぐん部族ぶぞくぐんきょうしゅうぐん屬國ぞっこくぐんみやちょうぐんそくかわしつぐん徵集ちょうしゅう直屬ちょくぞく皇帝こうていてきちょちょう壯丁そうてい組成そせいちぎりぞくおやぐんきょう宿衛しゅくえい征戰せいせん,「以行營為えいいみやせんしょごうけんせんにんおけ腹心ふくしん[71]部族ぶぞくぐん主要しゅようよしちぎり以外いがいてき部族ぶぞく壯丁そうてい組成そせいきょう守衛しゅえいよんへん以上いじょうりょうたね部隊ぶたいりょうぐんてき主力しゅりょくきょうしゅうぐんまたたたえしゅうさとぐん徵集ちょうしゅう五京道各州縣的かんぞく渤海ぞくひとしてき壯丁そうてい組成そせい屬國ぞっこくぐんゆかりしん屬國ぞっこく壯丁そうてい組成そせいこうりょうたね部隊ぶたいため輔助兵力へいりょく[70]りょうはつ貴族きぞく男子だんし人人ひとびとふく兵役へいえき年齡ねんれいざい15~50さいあいだてきれつせきせいぐん兵器へいきせん[72]なみ且時つね派遣はけん掠奪りゃくだつ周邊しゅうへん物資ぶっしたたえくさこく[73]りょうぐん以騎へいためぬし主要しゅよう武器ぶき弓箭きゅうせんがたなやり後期こうきしたがえ宋朝そうちょうつていれ拋石へんゆう炮手ぐん[70]

りょうちょう軍制ぐんせい十分重要的一點便是所謂的斡魯朵制度,そくみやまもる制度せいど。斡魯朵意ためみやちょうある宮殿きゅうでん,這是直屬ちょくぞく於遼こく皇帝こうてい及太きさきてき禁衛きんえい[74],另外皇室こうしつ貴族きぞくある皇帝こうてい特別とくべつ恩寵おんちょうてき大臣だいじん也有やゆう自己じこてき斡魯朵。斡魯朵制度せいどたいきょうすめらぎけん,維護耶律てき統治とうちゆう相當そうとう重要じゅうようてき作用さようとう主人しゅじん,斡魯朵的人員じんいん變成へんせい主人しゅじん陵墓りょうぼてき守衛しゅえいしゃりょうちょうどもけいゆう十二宮じゅうにきゅういち。而當だい皇帝こうていてき斡魯朵出じゅん所有しょゆうぜんあさてき斡魯朵守衛しゅえいよう隨行ずいこう出動しゅつどうとう守衛しゅえいしゃ所以ゆえん越後えちごだい皇帝こうていてきじゅん規模きぼ就越だい[75]

經濟けいざい[编辑]

ちぎりぞくほん遊牧ゆうぼく民族みんぞく原本げんぽん「畋漁以食、かわ以衣、うま逐水そうひとおおせ湩酩」[76][77]遊牧民ゆうぼくみんぞく經濟けいざいじょうてき弱點じゃくてんざいちぎり立國りっこくぜんだい致上解決かいけつ。以人ため方式ほうしきざい遊牧ゆうぼく地區ちく營造えいぞうみどりしゅうさいしょう農耕のうこう民族みんぞくうつりきょ其中。ちぎりじん從事じゅうじ農業のうぎょう手工業しゅこうぎょうみやこただしゆかりりょうふとしてき祖父そふ父親ちちおや以及伯父おじとうでんにゅうちぎりまた傳授でんじゅ紡織ぼうしょくりょうざい各地かくちひとししつらえぐんまき使管理かんり官有かんゆうてき牲畜。りょうちょう皇帝こうてい使のうまきぎょう共同きょうどう發展はってん繁榮はんえいかくとく其所,建立こんりゅう獨特どくとくてき比較ひかくかんせいてき管理かんり體制たいせい[78]

農業のうぎょう[编辑]

辽朝ちぎり渔猎木立こだち俑,首都しゅと博物はくぶつ馆藏

りょうちょうさかい內農作物さくもつ品種ひんしゅひとしぜんすんでゆうあわむぎいねとう糧食りょうしょく作物さくもつ也有やゆう蔬菜そさいふりはて們借鑒和學習がくしゅう中原ちゅうげんてき農業のうぎょう技術ぎじゅつ,引進作物さくもつ品種ひんしゅかえしたがえかい引進りょう西瓜すいかかい鶻豆とうふりはて品種ひんしゅ結合けつごう北方ほっぽう氣候きこうとくてん形成けいせいりょう一套獨特的作物栽培技術。りょうちょうてき土地とちゆうこう田和たわわたしりょうるいざい沿邊設置せっちてき屯田とんでん自然しぜん公田くでんつのみんこうしゅてき在官ざいかん閒田まだ也是公田くでん百姓ひゃくしょうりょうしゅじゅうねん以後いごようたい朝廷ちょうてい繳納租賦。いたり於所せつてきうらないおけぎょうにゅうぜいのりわたしりょう[79]。估計屯田とんでん集中しゅうちゅうざい北部ほくぶ沿邊,わたしそくざいりょうこく南境みなみざかいざいちぎりてき漢人かんど依然いぜん以男こうおんなてき方法ほうほう維持いじ家庭かてい收入しゅうにゅう同時どうじちぎりたんすすむ戰爭せんそうちゅう俘掠てき漢人かんど安置あんちざいちぎり腹心ふくしん地區ちく建立こんりゅう許多きょたあたまぐんしゅうじょしょう部分ぶぶん需上繳,其餘收入しゅうにゅうみなあたましゅ所有しょゆうりょう廷為りょう人民じんみん開闢かいびゃく荒地あれちたてれいわか成功せいこう開闢かいびゃく農地のうち免租めんそじゅうねん形成けいせいちぎり特有とくゆうてきのうまき混合こんごう經濟けいざい[80]ぐういたへいあらとしひだるこれねん,也要げんめんぜい,991ねん1がつりょうひじりはじめ時期じき,「みことのりめん三京さんきょう諸道しょどう租稅そぜい,仍罷くく[81]。1075ねん9がつりょうどうむね時期じき,「以南いなんきょうひだる免租めんそぜいいちねん,仍出ぜにあわこれ[82]りょうちょう從事じゅうじ農業のうぎょう生產せいさんてききょみん編入へんにゅうしゅうけん包括ほうかつようゆう少量しょうりょう土地とちてきこうのうもたれ租種地主じぬし土地とちためせいてきつくだ們無ろん經濟けいざい地位ちい如何いかみやこただし具有ぐゆう自由じゆうみん身分みぶんてき國家こっか編戶あみどなみうけたまわ擔著國家こっかてき賦役ふえき負擔ふたんてらびょうてきつくだ貴族きぞく官僚かんりょうしたがえどう土地とち一起轉贈的,すんでこう國家こっか納稅のうぜいまた向寺むかいでらびょう交租てきいちしゅ形式けいしきてきぜい[78]

畜牧ぎょう[编辑]

辽朝壁画へきが备猎图,敖汉はた博物はくぶつ馆藏

りょうちょうてき畜牧ぎょうじゅうふん發達はったつちぎり人的じんてきまきぎょう經濟けいざいいたりょう較大發展はってん[83]まきぎょうちぎりとう部落ぶらくみんてき生活せいかつらいげん,也是りょうちょう所以ゆえん武力ぶりょくきょうもりところむかいかつとしてき物質ぶっしつ條件じょうけん[84]當時とうじかげやま以北いほくいたり臚朐かわかわ潢水いたり撻魯かわがくしかおさめかわ流域りゅういきれきらいゆう優良ゆうりょうてき牧場ぼくじょうちぎり各部かくぶぞくちゅうてき阻卜がらすいにしえてきれつかいとうこうひとし主要しゅよう從事じゅうじ遊牧ゆうぼくぎょうひつじうまただしちぎりとう遊牧民ゆうぼくみんてき主要しゅよう生活せいかつ資料しりょうちちにく食品しょくひんかわためころもうま駱駝らくだのり重要じゅうようてき交通こうつう工具こうぐ戰爭せんそうしゃりょう活動かつどうちゅう馬匹ばひつまた不可缺ふかけつすくなてき裝備そうびよし此,“しげる漢人かんどまた以牧やしなえ多少たしょうため高下こうげ”。阿保あぼつまじゅつただし曾自ごうせつ:“わがゆう西にしろうひつじとみ,其樂不可ふかかちきゅう也”[85]ひつじうま也是りょうちょうこうちぎりしょ西北せいほく東北とうほく屬國ぞっこくぞく徵收ちょうしゅうてきぜいかずみつぐひんりょうちょうてき重要じゅうよう經濟けいざいらいげんいん而受到統治とうち集團しゅうだんてき重視じゅうし遊牧ゆうぼくてきちぎりじん編入へんにゅう相應そうおうてき部落ぶらくせきれつざい部落ぶらく首領しゅりょうてき管理かんりざい部落ぶらくてき分地ぶんちじょう從事じゅうじまきぎょう生產せいさんうけたまわ擔著部落ぶらく國家こっかてき賦役ふえき負擔ふたんぼつゆう朝廷ちょうてい部落ぶらく首領しゅりょうてき允許いんきょ不能ふのう隨意ずいいだつはなれ本部ほんぶ們是まぎてきろうどうしゃまきぎょう生產せいさんてき主要しゅよううけたまわ擔者,部落ぶらく貴族きぞくてきぞくみん[78]

手工業しゅこうぎょう[编辑]

りょうだいてき冶鐵ぎょう發達はったつ[86][87]發掘はっくつ出土しゅつどてつせいてき農業のうぎょう工具こうぐ、炊具、馬具ばぐ手工しゅこう工具こうぐあずか中原なかはらてき產品さんぴんしょう媲美。遼東りゃおとんりょうあささんてつ要地ようち促進そくしんりょうちょう冶鐵ぎょうてき發展はってん初期しょき,曾以よこちょう和大かずひろぞくやつ隸置曷術せきれつ從事じゅうじ冶煉。“曷術”,そくちぎりてつ”。曷術せきれつざいひじり宗時むねときよし戶口とぐちしげるいき生產せいさん關係かんけいてき變化へんか改編かいへんため,仍以てつためりょうざいさん、三黜古斯和柳濕河分置三冶。其中手なかてさんためいま遼寧りょうねいしょう鞍山あんざんてきくびさん,這裡てき礦冶さいばんとうおこりりょうだい[78]

りょうだい陶藝とうげい受唐だい影響えいきょうはかそう出土しゅつど文物ぶんぶつそく顯示けんじ部分ぶぶんそうだいさら及其うつわさら自國じこくがい輸入ゆにゅうただしかね銀器ぎんき製作せいさくまた採用さいようとうそうてき金屬きんぞくせい鍍金めっき技術ぎじゅつりょう瓷在中國ちゅうごくすえ發展はってん史上しじょう佔有重要じゅうよう地位ちい,瓷器てき造型ぞうけい可分かぶんため中原なかはらしきちぎりしきりょうるい中原なかはらしき仿造中原なかはらてき風格ふうかくしょうづくりゆうわんばんはい、盂、つぼびんひとしちぎりしきそく仿造本ぞうほんぞく習慣しゅうかん使用しようてきかわせいせいとう容器ようき樣式ようしきしょうづくりうつわるいゆうびんつぼばん、碟,造型ぞうけいどくいちかく。缸瓦かまむらかま一處目前所知遼代最大的古瓷窯遺址,生產せいさんしろ釉、たん釉和三彩釉瓷以及宮廷所用的官窯器物[88]りょうだいてき鎏金、鎏銀、染織せんしょくみやつこ馬具ばぐせい瓷以及造とう手工業しゅこうぎょうもんるいひとしぜん工藝こうげいせいたたえちぎりくらあずかはしすずり蜀錦しょっきんてい瓷更きたそうそでちゅう锦》ひょうため天下てんかだいいち[89]ひねこく公主こうしゅあずか駙馬、耶律はかとう貴族きぞくはかそう出土しゅつどてき精美せいびきん銀器ぎんき反映はんえいちぎり獨特どくとくてき民族みんぞく特色とくしょく高度こうどてき工藝こうげい技術ぎじゅつ水準すいじゅん。如在內蒙いにしえおううしとくはた廣德ひろのり公鄉くごうりょうはか出土しゅつどてきそう猴綠釉雞かんむりつぼかずりゅうくびみどり釉雞かんむりつぼ就是仿契ぞくかわ囊容てきしきざいつぼ體側たいそく作出さくしゅつ仿皮革ひかく縫製ほうせいてき痕跡こんせき,此類つぼちぎり民族みんぞく特有とくゆうてき生活せいかつさら[88]

りょうちょう瓷盤,拿大すめらぎやす大略たいりゃく博物館はくぶつかんかんぞう
辽朝とげ繡蓮塘雙かり中國ちゅうごくいと博物館はくぶつかんぞう
辽朝绿彩がわ囊壶,みなみそうかん窑博ぶつ馆藏
りょうちょうりょう三彩さんさい羅漢らかん雕像,美國びくにだい都會とかい藝術げいじゅつ博物館はくぶつかん馆藏
辽朝ひねこく公主こうしゅきんめんりょうだいひねこく公主こうしゅあずか駙馬ごうそうはか出土しゅつど

商業しょうぎょう[编辑]

辽代はち角形かくがた三彩さんさい砚,为契人的じんてきぶんぼうよんたからこれいち
辽代三彩さんさい套盒

ずいちょのうまき手工業しゅこうぎょうてき發展はってん交換こうかん逐漸頻繁ひんぱん商業しょうぎょう活動かつどう也日えき活躍かつやく早期そうきりょうふとしざいすみ山北やまきたけんひつじじょう,“おこり榷務以通諸道しょどうえき”。こう版圖はんと擴大かくだいけんおけかんぜん經濟けいざい成分せいぶん增加ぞうか範圍はんい擴大かくだい商業しょうぎょう也有やゆうりょう進一しんいちてき發展はってんりょう五京相繼建成後,なるりょうりょうちょうてき重要じゅうよう商業しょうぎょう城市じょうし[78]りょうあさあずか周邊しゅうへんかく政權せいけんかく民族みんぞく國家こっかてき經濟けいざい往來おうらい朝貢ちょうこう互市ごしてき方式ほうしき進行しんこうよし於商ぎょうてき發展はってんりょうちょうさかい內也出現しゅつげんりょう富有ふゆうてき商人しょうにん階層かいそう們或けいしょう於五きょうしゅうけんある來往らいおう於遼、だい諸國しょこくある宋朝そうちょうゆうてき甚至なりため代表だいひょうりょうちょう辦理交涉こうしょうてき使臣ししん,如りょうふとしむねどきてきかい使たかしさかえけいしょうこうすすむまたためりょうちょう商業しょうぎょう貿易ぼうえきてき代表だいひょうなみ作為さくい使臣ししんあずかのちすすむ交涉こうしょう政務せいむ西京にしぎょう歸化きかしゅうてきかんくん也是とみかぶと一方いっぽうてき商人しょうにん[78]

りょうだい物價ぶっか甚低,雖有しおしゅぜいただし各地かくち稅率ぜいりつなみ不一致ふいっち商業しょうぎょう貿易ぼうえきてき繁榮はんえい促進そくしんりょう貨幣かへい經濟けいざいてき發展はってんよりどころ文獻ぶんけん記載きさい,耶律阿保あぼちち撒剌てきやめ開始かいし鑄造ちゅうぞう貨幣かへいしか貨幣かへい使用しようりょうりょう宗時むねとき上京じょうきょうかえしょざい交易こうえきぜに而用ぬのてき狀態じょうたい各地かくちよう不同ふどう貨幣かへい,如聖むね以前いぜんしょてきりょうぜに極少きょくしょうひじり宗之むねゆきややほろりょういち些,ただしざい流通りゅうつう貨幣かへいちゅうしょ數量すうりょう仍甚しょうひゃくふん主要しゅようてきそうぜに,其次から及五代及其他朝代的錢;ざい對外たいがい交易こうえき方面ほうめんりょう主要しゅようあずかそう西にしなつとう通過つうか邊境へんきょうじょうてき榷場進行しんこう互補性的せいてき交易こうえき。另外あずか日本にっぽんこううららおもね拔斯王朝おうちょうもと輔公こく喀喇あせこく也有やゆう貿易ぼうえき往來おうらい[90]

文化ぶんか[编辑]

りょうちょう吸收きゅうしゅう許多きょた漢文かんぶんあずか渤海こく文化ぶんかめつ渤海,渤海のこみん大量たいりょう聚居于りょう上京じょうきょうりょう東京とうきょう一帶いったいてきしゅうけん,較先進せんしんてき渤海文化ぶんかたいりょう文化ぶんかゆう較為こう泛的影響えいきょうよりどころかんかそけくもじゅうろくしゅういた後來こうらい宋朝そうちょうてき頻繁ひんぱん交往,無論むろん戰爭せんそうかえ和平わへい時期じきてき榷場貿易ぼうえきかん文化ぶんかたい於遼あさてき影響えいきょう巨大きょだいてきよし於大おだいりょう漢文かんぶん書籍しょせきてき翻譯ほんやくはた中原なかはら人民じんみんてき科學かがく技術ぎじゅつ文學ぶんがく史學しがく成就じょうじゅとうかい紹到りょう草原そうげん地區ちくおびどう促進そくしんりょう遊牧ゆうぼく民族みんぞく草原そうげん文化ぶんかてき發展はってんりょうちょう皇室こうしつちぎりたん貴族きぞくおおせ慕漢文化ぶんか,如遼てき開國かいこく皇帝こうていりょうふとし崇拜すうはい孔子こうし先後せんご上京じょうきょうけん國子くにこかんしゅうけんしつらえがく,以傳授でんじゅ儒家じゅか學說がくせつまた建立こんりゅう孔子こうしびょうりょうひじりはじめつね閱讀《さだかんせいよう》、みちむねあい論語ろんごとうりょうどうむねときちぎり以“しょなつ自稱じしょうみちそうまたせつわれおさむ文物ぶんぶつあきらあきら中華ちゅうか。”[91]教育きょういく方面ほうめん實行じっこうしつらえがくやしなえ舉取[92]

文學ぶんがくあずか文字もじ[编辑]

くらい於銅きょうじょうてきちぎり文字もじ

りょうちょう文人ぶんじんすんでようちぎりげん文字もじ創作そうさく,也大量たいりょうよう漢語かんごぶんうつしさく們的作品さくひんゆううたぶんあきらかなで書簡しょかんとう各種かくしゅ體裁ていさいゆう述懷じゅっかい、戒喻、諷諫、敘事とう各種かくしゅ題材だいざい作者さくしゃ包括ほうかつみかどきさき宗室そうしつ群臣ぐんしんしょじんかずちょちょうろうくん子弟していちぎりてきすんでゆう氣勢きせい磅礴也有やゆう清新せいしん優美ゆうびりょうきょうむね也善ため詩文しぶん,1050ねんそう使ちょうがいいたりりょうりょうきょうむね于席じょう請概しんちかい山河さんが》。ざいりょうちょうしょみかどちゅうりょうどうむね文學ぶんがく修養しゅうよう最高さいこうぜん詩賦しふ作品さくひん清新せいしんまさうららさかい深遠しんえんゆうだいげんきく》。宗室そうしつひがしおう耶律ばいゆうらく田園でんえん》、《海上かいじょう》。耶律國留くにどめ、耶律むね耶律あきら兄弟きょうだいさんにんみなぜんぞくぶんこうあきら,耶律國留くにどめゆううさぎ》、《寤寐》;耶律そういずる使こううららとめ期間きかん,“まいふところくんおや,輒有著述ちょじゅつ”,後編こうへんため西にしていしゅう》;耶律あきらいんごとながれ西北せいほく,致書招討使しょう撻凜ひねやすあたりさくむねみなしょうりょうどうむねてき皇后こうごうしょう觀音かんのん《諫獵疏》、《回心かいしんいんかずおうせい君臣くんしん同志どうしはなえびすどうかぜひょうたち關心かんしん社稷しゃしょく安危あんき、致主澤民たくみんてき政治せいじ理想りそう流傳りゅうでんいたりいまてきりょうじん作品さくひんじょおうかなえてき《焚椒ろくそとかえゆうてらこう大師だいしてきよい》。《よい使用しようちぎり創作そうさくゆうかねあさ耶律くつてき譯文やくぶんただちぎりぶん原作げんさく耶律くつ譯文やくぶんやめけいしつでんこんゆう耶律くつてき耶律すわえざいまとかん譯本やくほんでん[93]

ちぎり小字こあざ銅鏡どうきょうわけためことぶきちょう福德ふくとく

ざい書目しょもく方面ほうめんりょうしつらえ國史こくしいんせん修整しゅうせい歷史れきししつらえかん監修かんしゅう國士こくしふみかん學士がくしおさむ國史こくしとう,曾撰うつし起居ききょちゅうにちれき實錄じつろくじゅうかん國史こくしまたしょう漢人かんど書籍しょせき翻譯ほんやくためりょうちょう文字もじ,如《五代ごだいふみとうとうなかりょうだいしょうつしてき實錄じつろくなりため元朝がんちょうだつだっとうところへんうつしてきりょう主要しゅよう材料ざいりょういち[94]

かたりげん文字もじ方面ほうめん漢語かんごあずかちぎりみやこただし通行つうこうてきしょう文書ぶんしょ以這りょうたねげんうつし就。りょうだいかえ出現しゅつげんりょうため佛教ぶっきょうしん學習がくしゅう佛經ぶっきょう編纂へんさんてき漢字かんじ字典じてんりゅうがん手鏡てかがみ》。ちぎりぶんりょうだいため記錄きろくちぎり參照さんしょう漢字かんじ創製そうせいてき文字もじふんちぎり大字だいじちぎり小字こあざりょうたね形式けいしきただし現時げんじやめかけしょう類似るいじてき文獻ぶんけんちぎり大字だいじ相傳そうでん於920ねんゆかりりょうふとししたれい耶律突呂耶律魯不いにしえ參照さんしょう漢字かんじそうせいおうゆうさんせんちぎり小字こあざよしりょうふとしおとうと耶律迭剌參考さんこうかい鶻文たい大字だいじ改變かいへん而成。小字こあざため拼音文字もじやくひゃく發音はつおん符號ふごうちぎり小字こあざ大字だいじ簡便かんべんはら雖少,卻能ちぎり全部ぜんぶ貫通かんつうちぎりぞくそう表現ひょうげん強烈きょうれつてき民族みんぞく自覺じかくたい其他民族みんぞく也有やゆうしょう影響えいきょうれい西にしなつ創造そうぞうとうこう文字もじかねあさ創造そうぞうおんな文字もじ元朝がんちょう創造そうぞうはちおもえともえ文字もじ[95]ちぎりてき通行つうこうちょくいた1191ねんきんあさきむあきらむね廢除はいじょためとめ[96]ゆう观点认为ちぎり人受ひとうけ印章いんしょう雕刻启发,参照さんしょう雕版印刷いんさつ术优缺点けってん发明りょうちぎり大字だいじせき活字かつじ印刷いんさつ毕昇てきどろ活字かつじはや150ねん[97]

宗教しゅうきょう[编辑]

应县とうふつ宫寺释迦とう),けん於1056ねん目前もくぜん世界せかい现存最高さいこうさい古老ころうてき层木结构けん

りょうちょうてき宗教しゅうきょう佛教ぶっきょう薩滿きょうためぬし,此外也崇拜すうはいちぎり祖先そせん和民かずたみあいだ信仰しんこう[98]民族みんぞく信仰しんこう有木ありき葉山はやま崇拜すうはい天地てんち崇拜すうはいあずかはいしん[99]はい山神さんじん[100]ひとし木葉山このはやま崇拜すうはいげんちぎり始祖しそ出現しゅつげんあずかちぎりはち興起こうきてき傳說でんせつおびゆう薩滿きょうてき文化ぶんか背景はいけい[101]ちぎりぞく於木葉山はやまこん內蒙古西こにしひしげりんかわあずかろう哈河合流ごうりゅうしょきょうけんちぎり祖廟そびょう以祭はい始祖しそ[102]最後さいご發展はってんなりりょうちょう皇室こうしつてきしばさつ[98]

りょうあさ佛教ぶっきょう基本きほんじょう繼承けいしょうもりとうてき教學きょうがく佛教ぶっきょう[28]ざいからあさからたけはじめ發動はつどうめつふつ事件じけんいんため河北かほくしょはん鎮不聽從ちょうじゅう大量たいりょうそう侶與佛教ぶっきょう文物ぶんぶつりゅうこう河北かほく地區ちく使つかいとく當地とうち佛教ぶっきょう文化ぶんかよもぎ發展はってん[98]。902ねんりゅうしゅうたてひらくきょうてらため佛教ぶっきょうきたでんちぎりてきおこり始點してん。918ねんりょう上京じょうきょうまたけん佛寺ぶつじ佛教ぶっきょう逐漸ためちぎりじんしょ信仰しんこうかずたかしなお。926ねんりょうちょうめつ渤海こく,俘渤うみそうじんたかしぶんとう57にんいたり上京じょうきょうまたたてたかしてら。此後,しょきょうかず各州かくしゅうけん也相まましおさむけんてらびょう。938ねんりょうちょう領有りょうゆうつばめくもじゅうろくしゅう,此地逐漸發展はってん成佛じょうぶつきょう文化ぶんか重心じゅうしんいたりょうちょう晚期ばんき僧侶そうりょ佛寺ぶつじすうかん北方ほっぽう」。りょうふとしむねとうりょうちょう皇帝こうてい採取さいしゅ保護ほご佛教ぶっきょう政策せいさく尊崇そんすう佛教ぶっきょう佛教ぶっきょう大盛おおもりりょうきょう宗時むねときさとしはなとう海雲寺かいうんじそうじん海山みやまろうおもえこうあずかりょうきょうむね關係かんけい甚好[103]りょうどうむね曾以さんほまれほうひとし:“行高ゆきたかほういただきまつせんしゃく,戒凈天心てんしんがついちりん。”ずいちょ佛教ぶっきょうてき傳播でんぱゆかり皇帝こうていれいてらびょう校勘こうかん、雕印佛經ぶっきょう個人こじん寫經しゃきょうしゅうこくけいしるしけいとう活動かつどうじゅうふん活躍かつやくしたがえ山西さんせいおうけんとう佛像ぶつぞうちゅう發現はつげんてきぞう佛經ぶっきょう及佛河北かわきた豐潤ほうじゅん天寶てんぽうてらとう發現はつげんてき佛經ぶっきょう內蒙いにしえともえりんみぎはた釋迦しゃか佛舍利ぶっしゃりとうちゅう發現はつげんてき佛經ぶっきょうこらえしょう佛教ぶっきょう藝術げいじゅつ瑰寶[98]りょうちょう完成かんせい以《だい般若はんにゃけいためくびてき主要しゅよう佛教ぶっきょう石刻せっこく,於遼きょうむね時期じき出版しゅっぱんてきちぎり大藏經だいぞうきょう》,其地僅次於宋あさそうふとし時期じきひらきばんしょくばん大藏經だいぞうきょう》,ざい佛典ぶってん史上しじょう佔有重要じゅうよう地位ちい[27]

りょうちょう斯蘭きょうてき重心じゅうしんうしがい禮拜れいはいてら禮拜れいはい殿でんだいいちしん內景

道教どうきょうかず道家どうか思想しそうたいちぎりじん也產せいりょう一定いってい影響えいきょうりょうはつ,以各種かくしゅ方式ほうしき進入しんにゅう草原そうげんてきかん人中ひとなか,就有いち些道きょう信仰しんこうしゃ如上じょじょうきょうゆうてんちょうかん中京ちゅうきょうゆうどおりてんかん,一些州城也多有道士和道觀。ぼう些契上層じょうそうちぎり部民ぶみん信仰しんこう道教どうきょうりょうひじりはじめたいみちしゃくきょうみなほら其旨”[104],其弟耶律隆裕たかひろさらこれけんまことてき道教どうきょう信徒しんと[105]ぼう些上そう道士どうしどう佛教ぶっきょう上層じょうそういちよう受到皇帝こうていてき禮遇れいぐうりょうひじりはじめ曾予道士どうし馮若たにかん太子たいしちゅうまこと道教どうきょうてき傳播でんぱ也帶どうりょう道家どうか經典きょうてんてき研究けんきゅうりょうはつ道士どうしりゅううみしるゆうかえやぶ迷歌》かずかえかねへん》,耶律ばいわけゆうかげけい》,りょうひじりはじめとき于闐ちょうぶんたから曾進《內丹しょ》,てらこう大師だいしてきよい中也ちゅうやざつゆう道教どうきょう思想しそう[98]

りょうちょう也有やゆう通行つうこう斯蘭きょう主要しゅよう經由けいゆ西域せいいきやめけい斯蘭てき喀喇あせこくひがしでん而來。996ねんいれつかまつりょう廷的おもねひしげはく學者がくしゃおさめ魯丁そくざいりょう南京なんきん今北いまきたきょうきょうけんうしがい禮拜れいはいてら後來こうらいてき西にしりょうりょうみかどたい斯蘭きょう採取さいしゅてき寬容かんようふくまち政策せいさく使つかい斯蘭きょう持續じぞくざい西域せいいき發展はってん[106]

藝術げいじゅつ[编辑]

たんかえで呦鹿》(ひだりあずかあきりんぐん鹿しか》(みぎみなやくせい於1031いたり1048年間ねんかんもめあいなみ斯細密畫みつが風格ふうかく國立こくりつみや博物はくぶついんたてぞう

りょうちょう繪畫かいが作品さくひん具有ぐゆう很高てき藝術げいじゅつ值,ちぎりじんぜん草原そうげんふう光和こうわ騎射きしゃ人物じんぶつりょうちょうゆう現出げんしゅつしょうたくゆう成就じょうじゅてき畫家がか創作そうさくりょう大量たいりょう優秀ゆうしゅうてき繪畫かいが作品さくひん耶律ばいかずちょ名畫めいがえびす瑰、えびすけん父子ふししょいれきたそう內府,ほまれため神品しんぴん”。耶律ばいてき》、えびすたまきてき出獵しゅつりょう》、無名氏むめいしてきたんかえで呦鹿》、《あきりんぐん鹿しかとう名畫めいがひとしため曠世こうせい珍寶ちんぽう。此外比較ひかく有名ゆうめいてきなおゆう:耶律ぼう曾兩使そうそうひとしむね,“陛辭,僅一見いっけん,”そく臨摹如真ようしょう瀜據《ごと備考びこうくも:“こう讀書どくしょおや翰墨かんぼくゆうぜん丹青たんせい……”。おそれなかぶんよりどころ圖繪ずえたから鑒》記載きさいぜん人馬じんばぼくちくがくぶんみずうみしゅうぶんどう)。其它かえゆうちぎりぞく耶律だいはたすすむこくしょう,以及かんぞくちんますつねおもえげんあずかくれ九州等人也皆以善畫稱[107]

雕塑作品さくひんがたなほう遒勁,栩栩如生。建築けんちく藝術げいじゅつ主要しゅよう體現たいげんざい佛塔ぶっとう佛寺ぶつじ山西さんせいしょうれいおかさとし山寺やまでら西にしとういんちゅうてきさとし山寺やまでらとう北京ぺきん天寧寺てんねいじとう遼寧りょうねいしょうりょうしろとううみじょう析木じょうきんとう造型ぞうけい美觀びかんりょうだいさい流行りゅうこうてきみつ簷塔ちゅうてき傑出けっしゅつ代表だいひょう作品さくひん天津てんしんあざみけん獨樂こまてらてき觀音かんのんかくけんとうだい宋朝そうちょうちょうしょけん壯麗そうれい[108]

きた大王だいおう墓誌ぼし

りょうちょうようちぎり文字もじこくせいてき石刻せっこくちぎりぶん石刻せっこくようちぎり大字だいじ小字こあざこくせい一般いっぱんぶんためきのいさおけんびょうあいさつぶん墓誌ぼしめいじだいとうるいちぎり大字だいじ石刻せっこく如:《りょうふとしきのいさお》(ざん)、《だいりょう大橫おおよこちょうらんりょうぐん夫人ふじんたてしず安寺あてら》、《耶律のべやすし墓誌ぼし》、《しょうこうちゅう墓誌ぼしめい》、《ふとしめいせきあずか北大ほくだいおう墓誌ぼしとう。其中《きた大王だいおう墓誌ぼし》(またさく《耶律まんからし墓誌ぼし》)ちぎり大字だいじ石刻せっこくちゅう字體じたいさいこうせいてきいちけん講述こうじゅつ耶律まんからしてき事蹟じせきほん墓誌ぼし使用しようりょうだいちぎり大字だいじ漢字かんじ刻印こくいんよし刻字こくじこうせい字數じすう較多,有利ゆうりちぎり大字だいじてき解讀かいどく[107]

りょうちょう散樂さるがくからあさだいこうすすむ影響えいきょうごくふかざい基礎きそじょうあずかちぎりぞく民間みんかん藝術げいじゅつしょう融合ゆうごう建立こんりゅうおこりてき一種いっしゅ類似るいじ宮廷きゅうてい音樂おんがくてき形式けいしき。《りょう中有ちゅうう記載きさい,其演奏樂そうがくゆう觱篥しょうふえしょう琵琶びわげん箜篌くごそうほうひびきえだだいだいさんこしだいあずか拍板びんざさらひとし散樂さるがくよし12にん組成そせい一支完整的表演隊伍。樂隊がくたいていりょうはいぜんはいだいさんにんゆう一低矮的舞蹈者,ずいちょぶしはく翩翩おこりまい[107]

科技かぎ[编辑]

りょうちょうざい科學かがく技術ぎじゅつ方面ほうめん取得しゅとくいち成就じょうじゅりょうちょうてき醫藥いやくひさし盛名せいめいりょうちょうせいちょく魯古せんゆうみゃく訣》あずかはりやいとしょ》,其中てき治療ちりょう方法ほうほういたりこん應用おうようざい臨床りんしょう實踐じっせんちゅう當時とうじ具有ぐゆう屍體したい防腐ぼうふ保存ほぞんてき技術ぎじゅつぶんおもんみ簡所ちょてきとりこ事實じじつ》、《しんだい·よんえびす附錄ふろくとう文獻ぶんけん記載きさいちぎりじんようこうやくしお、礬等保存ほぞん屍體したいてき方法ほうほう。1981ねんざい內蒙いにしえ察右ぜんはたごうかけ營遼ちゅうはつ現有げんゆう保存ほぞん比較ひかくかんせいてきいぬいかばね[108]

りょうちょうてき天文てんもん曆法れきほう繼承けいしょうだい曆法れきほうなみりゃくゆうあらためしんりょう朝原あさはら使用しようこうすすむうま重元しげもとてき調しらべもとこよみ,995ねん行用ぎょうようりょう刺史しし賈俊てき大明だいめいれきりょうちょう皇帝こうていじゅうふん重視じゅうし天象てんしょう觀測かんそく人並ひとなみはた天象てんしょうあずか政事せいじしょうれん繫。1971ねんざい河北かほくしょうせんりょうはか發現はつげんてき彩繪さえほし圖繪ずえゆう二十八宿にじゅうはっしゅく黃道こうどう十二宮じゅうにきゅう。1989ねんざいせんりょうはかまた發現はつげんりょうはば星圖せいずじょあずかぜんりゃくどうそとなみゆうじゅうなまあやかひとしさく人形にんぎょうしたがえちゅう以得りょうちょう天文學てんもんがくやめたちいた很高てき水準すいじゅん[108]

社會しゃかい[编辑]

たからやまりょうはか壁畫へきがよせにしき

ちぎり民族みんぞくてき社會しゃかいあずか風俗ふうぞくほん不同ふどう於漢じんりょうちょうざい統治とうちかん人的じんてきつばめくもじゅうろくしゅう地區ちくのりどう中原なかはらざい北方ほっぽうてきちぎりじんのりきゅうぞく生活せいかつかい混雜こんざつ地區ちく,就呈げんりょうたね混合こんごうがたたいちぎり人的じんてきぞく很多,如拜しばさつ再生さいせいまつりやまおにとう特別とくべつてき生活せいかつ方式ほうしき就是よんてき捺缽」,りょうちょう皇帝こうていたいりょう百官ひゃっかんてき中央ちゅうおう政權せいけんずいちょいちねんよんいた各地かくちじゅんかり,其宮ちょうてき所在地しょざいち就是「捺缽」。其他かえゆうあたまぎょえん」、「あたま鵝宴」とう生活せいかつ習慣しゅうかんちぎり飲食いんしょく文化ぶんかいんせいむべゆうみつはなむけはて脯等,ようみつ蠟浸づけすいはて而成,以利保存ほぞん清朝せいちょう東北とうほく仍有以歐はて)“づけ以餳みつぞく今日きょう北京ぺきん特產とくさんはて脯,也是あずかちぎり人的じんてきみつづけやまはて”“みつ曬山はてこれるい一脈いちみゃく相承そうしょう[109]

ざい日常にちじょう生活せいかつじょうちぎりじん具有ぐゆうきた民族みんぞく傳統でんとう,以羊きつねがわころもきょ。而貴ぞく官吏かんりそく以貂裘為ぬしなみ且穿いときぬ服飾ふくしょくしょはい戴的裝飾そうしょく也比較多。飲酒いんしゅ食肉しょくにくため普遍ふへん現象げんしょう居住きょじゅう以帳まくためぬし也有やゆう居住きょじゅうざい宮室きゅうしつ摔跤げききく(踢球)、やなぎうさぎぶししたかこえそうりくとうひとしりょう人的じんてきぎょうあまり活動かつどうせき於節れい風俗ふうぞくりょうかんみなゆう,仍以ちぎりきゅうぞくためぬしれい元旦がんたん,以弱まい和白わじろひつじずいためもち正月しょうがつななにちためじんしょく煎餅せんべいしょうためかおるたかしもち」。其他ひさしゆう中和ちゅうわ上巳じょうし端午たんご夏至げし中元ちゅうげん中秋ちゅうしゅうじゅうきゅう冬至とうじとう直接ちょくせつある間接かんせつしたがえ中原なかはらつたえいれてきせつ風俗ふうぞく大體だいたいしょうどうしか而也ゆういち些節れい名稱めいしょう雖同,卻保留ほりゅうりょうちぎり固有こゆうてき風俗ふうぞく儀式ぎしき[109]

君主くんしゅ[编辑]

年表ねんぴょう[编辑]

ちぎりあずかりょう 916ねん-1125ねん
庙号 谥号 かんめい ちぎりめい 常用じょうよう名稱めいしょう 在位ざいい時間じかん 年号ねんごう
ふとし 大聖たいせい大明神だいみょうじんれつてん皇帝こうてい おく 阿保あほ 耶律阿保あぼつくえ 916ねん-926ねんなながつ かみさつ 916ねんがつ-922ねん正月しょうがつ
てん 922ねんがつ-926ねんがつ

てんあらわ 926ねんがつ

義宗よしむね
そうついたかし
ゆずるこく皇帝こうてい
そうついたかし
文獻ぶんけん欽義皇帝こうてい
そうついたかし
ばい ほし 耶律ばい
じゅん皇后こうごう ひらた つきさと じゅつりつひらた 926ねんなながつ-927ねんじゅういちがつ てんあらわ 926ねん-927ねん
ふとしむね こうたけめぐみぶん皇帝こうてい 德光とくみつ 堯骨 耶律德光とくみつ 926ねん十一月じゅういちがつ-947ねんよんがつ てんあらわ 927ねん-938ねんじゅういちがつ
會同かいどう 938ねん-947ねん正月しょうがつ
大同だいどう 947ねんがつきゅうがつ
むね 孝和こうわそうけん皇帝こうてい 兀欲 耶律阮 947ねんよんがつ-951ねんきゅうがつ てん祿ろく 947ねんきゅうがつ-951ねんきゅうがつ
きよしむね 孝安たかやすけいせい皇帝こうてい 璟/あきら じゅつりつ 耶律璟 951ねんきゅうがつ-969ねんがつ おうれき 951ねんきゅうがつ-969ねんがつ
けいむね こう成康なりやすやすし皇帝こうてい けん あかり 耶律けん 969ねんがつ-982ねんきゅうがつ やすし 969ねんがつ-979ねんじゅういちがつ
いぬいとおる 979ねん十一月じゅういちがつ-983ねんろくがつ
ひじりはじめ 文武ぶんぶだいこうせん皇帝こうてい りゅういとぐち 文殊もんじゅやつ 耶律たかしいとぐち 982ねんきゅうがつ-1031ねんろくがつ すべ 983ねんろくがつ-1012ねんうるうじゅうがつ
ひらけやすし 1012ねん十一月じゅういちがつ-1021ねんじゅういちがつ
太平たいへい 1021ねん十一月じゅういちがつ-1031ねんろくがつ
きょうむね 神聖しんせい孝章たかあき皇帝こうてい そうしん ただほね 耶律そうしん 1031ねん六月ろくがつ1055ねんはちがつ けいぶく 1031ねんろくがつ-1032ねんじゅういちがつ
じゅう 1032ねん十一月じゅういちがつ-1055ねんはちがつ
みちむね じんきよしだい孝文たかふみ皇帝こうてい ひろしもと/ひろもと 查剌 耶律ひろしもと 1055ねんはちがつ-1101ねん正月しょうがつ きよし 1055ねんはちがつ-1064ねん
咸雍 1065ねん-1074ねん
だいやすし 1075ねん-1084ねん
大安たいあん 1085ねん-1094ねん
ことぶきあきら 1095ねん-1101ねん正月しょうがつ
のべ おもねはて 耶律のべ 1101ねんがつ-1125ねんがつ いぬいみつる 1101ねんがつ-1110ねん
てんけい 1111ねん-1120ねん
だい 1121ねん-1125ねん
きたりょう 1122
びょうごう 諡號しごう かんめい ちぎりめい 常用じょうよう名稱めいしょう 在位ざいい時間じかん 年號ねんごう
せんむね 孝章たかあき皇帝こうてい あつし 涅里 耶律あつし 1122ねんさんがつろくがつ けんぶく 1122ねんさんがつろくがつ
ひろし賢女けんじょ しょうひろし賢女けんじょ 1122ねんろくがつじゅうがつ とくきょう 1122ねんろくがつじゅうがつ
耶律みやびさとせい 1123ねん
びょうごう 諡號しごう かんめい ちぎりめい 常用じょうよう名稱めいしょう 在位ざいい時間じかん 年號ねんごう
まささと 耶律みやびさと 1123ねんがつじゅうがつ かみれき 1123ねんがつじゅうがつ
うけられつ 耶律うけられつ 1123ねんじゅうがつじゅういちがつ
西にし 1132ねん-1218ねん
びょうごう 諡號しごう あせごう ちぎりめい 常用じょうよう名稱めいしょう 在位ざいい時間じかん 年號ねんごう
とくむね 天祐てんゆうたけれつ皇帝こうてい きく儿汗 大石おおいし 耶律大石おおいし 1132ねんがつ-1143ねん のべけい 1132ねんがつ-1134ねん
かんこく 1134ねん-1143ねん
かん天皇てんのうきさきしょうせい とうけむり しょうとうけむり 1144ねん-1150ねん 咸清 1144ねん-1150ねん
じんむね きく儿汗 えびすれつ 耶律えびすれつ 1151ねん-1163ねん 续兴 1151ねん-1163ねん
うけたまわてんふとしきさきしょうせい そくかん 耶律そくかん 1164ねん-1178ねん たかしぶく 1164ねん-1178ねん
きく儿汗 ちょく魯古 耶律ちょく魯古 1179ねん-1211ねん てん 1179ねん-1211ねん
きく儿汗 こごめりつ 1211ねん-1218ねん

時間じかんじく[编辑]

屈出律耶律直魯古耶律普速完耶律夷烈蕭塔不煙耶律大石耶律朮烈耶律雅里蕭普賢女耶律淳耶律延禧耶律洪基耶律宗真耶律隆緒耶律賢耶律璟耶律阮耶律德光述律平耶律阿保機

れい

まいり[编辑]

注釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ せき於遼朝國あさくにごう現代げんだい學者がくしゃ研究けんきゅうちぎり大字だいじあずか小字こあざてき墓碑ぼひなみ且發現有げんゆう多種たしゅ組合くみあい[1]
    1. だいざい前面ぜんめんじょうだいあるだい中央ちゅうおう[1]
    2. ゆうえびすさとただ」、「ちぎりあずかくにとうさんくみ混合こんごう組合くみあいれい如「えびすさとただちぎりこく」、「えびすさとただこく」、「ちぎりえびすさとただこくあずかちぎりこくとうとう....,其中「えびすさとただゆびじん眾,「ちぎりゆびてんぞく[1]
    3. 而「哈剌ちぎり」一詞作为国号的使用存在争议,がらすひしげ熙春认为斯人あずかこうむ古人こじんたい西にしりょうてき稱呼しょうこちぎり人的じんてき自稱じしょう[1];刘凤翥则从契大字だいじ《耶律祺墓こころざし铭》ちゅうこう证出おん译的“哈喇”就是译的“辽”,“哈喇ちぎり”就是“辽契,证明辽朝曾实ぎょうそう国号こくごう制度せいどざい983-1066ねん间,かん大字だいじ还是小字こあざうつしさくちぎり辽国”,はたちぎりおけ于“辽”まえ。1066ねんきさきかん大字だいじ还是小字こあざうつしさく“辽契こく”,はた“辽”おけ于“ちぎりまえ[2]
  2. ^ ちぎりくびあらため國號こくごうためだいりょうてき時間じかんかく史書ししょ記載きさい不一ふいつ
    1. しんだい·よんえびす附錄ふろくためてんあらわじゅういちねん(936ねん)。
    2. どおり·まきひゃくはちじゅういちためすすむ天福てんぷくねん(937ねん),《ちぎりこくこころざししたがえこれ
    3. 東都とうとことりゃく·まきいちひゃくじゅうさんため天福てんぷくさんねん(938ねん
    4. りょう·ふとそうおさむため大同だいどう元年がんねん(947ねん)。
  3. ^ 耶律大石原おおいしはらこうちゅう于天祚帝,ざい辽朝そくはた灭亡出奔しゅっぽん。1124ねん,耶律大石おおいしざい辽朝西部せいぶ边陲あつしじょういまこうむくにぬの尔干しょうあおたく罗盖かい鹘城)しょうおう建立こんりゅうこうかねすえ认为西にし辽政权的开始。しか而,此时以天祚帝为首てき辽朝朝廷ちょうていひさしきむちょうしょ灭。1132ねん,耶律だい石在いしざいかのうひそかりついましん疆维われ尔自额敏县のぼりはじめしょうみかど西にし辽正しき建立こんりゅう
  4. ^ あつしじょうてき位置いち根據こんきょりょう·地理ちりこころざしゆう三種さんしゅ說法せっぽう
    1. くも內州「ゆういにしえあつしじょう」,いま內蒙いにしえがらすひしげとくちゅうはた西北せいほくかげ山北やまきたふもと[62]
    2. 鎮州「ほんいにしえあつしじょう」,いまこうむくにぬのしかしょうあおたくぶた古城こじょう[63]
    3. かわただしじょう」,ほんかい鶻可あつしじょう」,なまりためかわただしじょういまこうむくに東方とうほうしょうたかしともえさん西にし[64]

參考さんこう文獻ぶんけん[编辑]

  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 あいしんさとしがらすひしげ熙春〈りょう朝國あさくにごう「哈喇ちぎり(りょうちぎり)」こう页面そん档备份そん互联网档あん)〉. あいしんさとしがらすひしげ熙春おんなちぎりがく研究けんきゅう》. 京都きょうとまつどう出版しゅっぱんしゃ. 2009ねん2がつ.
  2. ^ 刘凤翥. つう过解读契ぶん证明辽朝曾实ぎょうそう国号こくごう制度せいど. 澎湃ほうはいしん闻. [2016-06-21]. (原始げんし内容ないようそん于2023-09-05). 
  3. ^ りゅうまなぶ銚著(2012ねん):《だいりょう王朝おうちょうあおうし白馬しろうまくろちぎり》〈だいりょう王朝おうちょう大事だいじ年表ねんぴょう〉,だい212ぺーじ-だい214ぺーじ
  4. ^ [[s:en:Cathay|]]. 1911 Encyclopædia Britannica 5. 
  5. ^ 5.0 5.1 ちょう正明まさあき(1979ねん):《ちぎりりゃく》,225ぺーじ
  6. ^ 6.0 6.1 6.2 かずらはな廷、高雅こうがてる《耶律じゅん政權せいけんごうためきたりょうこれせつ質疑しつぎ》,《りょうきん歷史れきしあずか考古こうこだいよん輯,遼寧りょうねい教育きょういく出版しゅっぱんしゃ,2013ねん5がつだい117-118ぺーじ
  7. ^ じょしゅん(2000ねん):《中國ちゅうごく古代こだい王朝おうちょう政權せいけん名號みょうごうさがせげん》,225ぺーじ–261ぺーじ
  8. ^ Chen, Yuan Julian. ちんはじめ-臺北たいぺいみやぞうそう元明もとあき帝王ていおう畫像がぞうあずか其隱喻的王朝おうちょう正統せいとうせい, Zhongguo wenhua 中國ちゅうごく文化ぶんか [Chinese Culture] 44 (2016): 137-53. [2018-05-16]. (原始げんし内容ないようそん于2017-10-10) えい语). 
  9. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい3ぺーじ
  10. ^ まんなわくすのき(1994ねん):《すすむ南北なんぼくあさ史論しろん稿こうだいじゅうよんしょう南北なんぼく其他民族みんぞく問題もんだい〉,だい378ぺーじ
  11. ^ しょ·ちぎりたんつたえ》:「ちぎりこく在庫ざいこ莫奚ひがし異種いしゅ同類どうるい,俱竄於松ばくあいだとうこくちゅう國軍こくぐん大破たいはとげ逃迸,あずかくら莫奚ぶんけいすうじゅうねんややしげるづるゆう部落ぶらく,於和りゅうきたすうひゃくため寇盜。」
  12. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい4ぺーじ
  13. ^ しんとうしょまき219
  14. ^ 竺沙まさあきら(1998ねん):《征服せいふく王朝おうちょうてき時代じだいだいしょう分裂ぶんれつてき時代じだい〉,44ぺーじ
  15. ^ りゅうまなぶ銚著(2012ねん):《だいりょう王朝おうちょうあおうし白馬しろうまくろちぎりだいさんしょうだいりょう王朝おうちょうだれ創立そうりつ英雄えいゆうとうかず阿保あぼ〉,だい36ぺーじ-だい55ぺーじ
  16. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい5ぺーじ
  17. ^ どおりかん·まきだいひゃくななじゅう·からよん》:「(からあかりむねみかど供奉ぐぶかん姚坤つげあい於契。……(りょうふとしまた曰:『われあずかわが雖世きゅうしか屢與せんきゅう,於今天子てんしそく怨,そく修好しゅうこうわかあずかわが大河たいがきたわれふく南侵なんしん矣。』ひつじさる曰:『此非使臣ししん所得しょとくせん也。』ちぎりおもいかしゅう旬餘じゅんよふく召之,曰:『河北かわきたおそれがたとく鎮、じょうかそけしゅうまた可也かなり。』きゅうひつおもむきれいためじょうひつじさる不可ふかよくころせこれかんのべ徽諫,乃復しゅう。」
  18. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい7ぺーじ
  19. ^ りゅうまなぶ銚著(2012ねん):《だいりょう王朝おうちょうあおうし白馬しろうまくろちぎりだいよんしょうだいりょうおさむめつ渤海こく太子たいしふうひがしおう〉,だい56ぺーじ-だい69ぺーじ
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  23. ^ 23.0 23.1 23.2 23.3 23.4 りゅうまなぶ銚著(2012ねん):《だいりょう王朝おうちょうあおうし白馬しろうまくろちぎりだいろくしょうちぎりたんけんきさきしょうつばめつばめはば幗豈肯讓ひげまゆ〉,だい82ぺーじ-だい99ぺーじ
  24. ^ しんだい·よんえびす附錄ふろくだい》:「じゅつりつりょうきよしむね)聞之,いい其國じん曰:『此本かんこん以還かんまたなに惜耶?』
  25. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい9ぺーじ
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  35. ^ 竺沙まさあきら(1998ねん):《征服せいふく王朝おうちょうてき時代じだいだいしょうかねあずかみなみそう〉,120ぺーじ
  36. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい13ぺーじ
  37. ^ 《辽史·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:“ひとしそう次子つぎこちょく魯古即位そくい改元かいげんてん禧,在位ざいいさんじゅうよんねんときあき出獵しゅつりょう,乃蠻おうこごめりつ以伏へいはちせんとりこ,而據其位。とげかさねりょう衣冠いかんとうとちょく魯古ためふとし上皇じょうこう皇后こうごうため皇太后こうたいごう朝夕ちょうせきとい起居ききょ,以侍終焉しゅうえんちょく魯古りょうぜっ。”
  38. ^ りゅうまなぶ銚著(2012ねん):《だいりょう王朝おうちょうあおうし白馬しろうまくろちぎりだいじゅうろくしょうちぎり丹後たんごじんいまなんざいなお東北とうほくたち斡爾〉,だい208ぺーじ-だい210ぺーじ
  39. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい38ぺーじ
  40. ^ りょう·地理ちりこころざし》:「はるか輦氏さら八部曰鳷利皆部、おつしつかつじつかつおさめしきぼつ、內會雞部、しゅうかい、奚嗢ぞくけんよんじゅうゆういちまいしつらえ刺史ししけんおけれい。」
  41. ^ りょう·地理ちりこころざし》:「ふとしそう以皇ため上京じょうきょうますかそけしゅうため南京なんきんあらため南京なんきんため東京とうきょうひじり宗城むねなり中京ちゅうきょうきょうむねますくもしゅうため西京にしぎょう,於是きょう備焉。また征伐せいばつ戶建こだてしゅうえりようこれいん舊居きゅうきょめい以私やつおけ投下とうかしゅうそうきょうろくしゅうぐんしろひゃくじゅうゆうろくけんひゃくゆうきゅう部族ぶぞくじゅうゆう屬國ぞっこくろくじゅう。」
  42. ^ 楊若ぜんまい(1992ねん):《ちぎり王朝おうちょう政治せいじ軍事ぐんじ制度せいど研究けんきゅうだいへん官制かんせい行政ぎょうせい制度せいど〉,166ぺーじ
  43. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい37ぺーじ
  44. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい33ぺーじ
  45. ^ 楊若ぜんまい(1992ねん):《ちぎり王朝おうちょう政治せいじ軍事ぐんじ制度せいど研究けんきゅうだいへん官制かんせい行政ぎょうせい制度せいど〉,171ぺーじ
  46. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい45ぺーじ
  47. ^ じゅうへんつばめきたろく》:「所謂いわゆる捺鉢しゃえびすぬししょいたりしょ也。」
  48. ^ ぶんあきら雜錄ざつろく·まきろく》:「きたじんいいじゅうすわしょ曰捺ばち……ちぎりなお言行げんこうざい也。」
  49. ^ りょう·營衛こころざしちゅう》:「りょうこくつきゆうだいばくひたつつみ長城ちょうじょうさかいよしよろしため秋冬あきふゆたがえかんはるなつ避暑ひしょずい水草みずくさ,就畋りょう,嵗以ためつね,四時各有行在之所,いい捺鉢。」
  50. ^ りょうごと·懿德皇后こうごう》引《回心かいしんいんちゅう:「君臣くんしんなおりょうゆうよん捺鉢。」
  51. ^ 51.0 51.1 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい14ぺーじ
  52. ^ 楊若ぜんまい(1992ねん):《ちぎり王朝おうちょう政治せいじ軍事ぐんじ制度せいど研究けんきゅうだいへん官制かんせい行政ぎょうせい制度せいど〉,85ぺーじ
  53. ^ りょう·百官ひゃっかんいち》:「凡遼あさかんきた樞密すうみつ兵部ひょうぶみなみ樞密すうみつ吏部,きたみなみ二王におう戶部とべえびすはなれ畢視刑部おさかべせん徽視こうてきれつれいきたみなみ宰相さいしょうそうこれ。惕隱宗族そうぞくはやしきばおさむぶんつげ,於越すわ論議ろんぎ,以象おおやけ朝廷ちょうていうえこと簡職せん,此遼所以ゆえんきょう也。」
  54. ^ 54.0 54.1 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい34ぺーじ-だい35ぺーじ
  55. ^ りょう·ぎゃく臣下しんか》:「りょう秉國ひとしにぎへいがら節制せっせいしょちょう宗室そうしつ外戚がいせき使つかい。」
  56. ^ まつばく聞》:「りょうせいちぎりじんころせかんしゃけい。」
  57. ^ 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいいちしょう〈「いんぞく而治」てき政治せいじ制度せいど〉,だい43ぺーじ
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  61. ^ りょう·文學ぶんがくじょう·しょうかんやつ澣》:「及太西にしせいいたり於流すな,阻蔔もちふう悉降,西域せいいき諸國しょこくみなねがい入貢にゅうこう。」
  62. ^ りょう·地理ちりこころざし·西京にしぎょうどう》:「くも內州,ひらけとおぐんした節度せつど本中ほんなか受降じょうりょうはつおけだいきたくもついたち招討あらためくも內州。……ゆうふさがぐんあつしじょう
  63. ^ りょう·地理ちりこころざしいち·上京じょうきょうどう》:「鎮州,けんやすぐん節度せつどほんいにしえあつしじょう。」
  64. ^ りょう·地理ちりこころざしいち·上京じょうきょうどう》:「ぼうしゅう刺史ししかわただしじょうほんかい鶻可あつしじょうなまりためかわただしじょう。」
  65. ^ りょう·文學ぶんがくじょう·しょうかんやつ澣》:「いん遷種落,內置さん,以益われこく營城邑,おけえびすへい。」
  66. ^ りょう·文學ぶんがくじょう·しょうかんやつ澣》:「一部いちぶある叛,鄰部討之,使つかいどうちからしょうせいせいとく馭遠じんみち。」
  67. ^ りょう·せいむねなな》:「これがつ大食たいしょく國王こくおうふく使つかい請婚,ふう王子おうじはんろうくんえびすおもえうらおんなろうため公主こうしゅよめ。」
  68. ^ 楊若ぜんまい(1992ねん):《ちぎり王朝おうちょう政治せいじ軍事ぐんじ制度せいど研究けんきゅう》〈序言じょげん〉,1ぺーじ
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  70. ^ 70.0 70.1 70.2 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいしょうどく特色とくしょくてき法律ほうりつあずか軍事ぐんじ制度せいど〉,だい51ぺーじ-だい55ぺーじ
  71. ^ りょう·百官ひゃっかんこころざし·北面ほくめんぐんかん記載きさい:「かわしつぐんふとしやめゆうそく腹心ふくしん是也これや……ふとし以行營為えいいみやせんしょごうけん千餘人置為腹心部」
  72. ^ りょう·兵制へいせい》:「まいせいぐんいちめいうまさんひきくさこくまもり營鋪ちょうかく一人ひとり。」
  73. ^ りょう·兵制へいせい》:「人馬じんばきゅうかてくさにちくさこく四齣抄掠以供之。」
  74. ^ りょう·營衛誌上しじょう》:「きょゆうみやまもるいい斡魯朵。」「ちょちょうほんしょ斡魯朵析出せきしゅつ,及諸ざい沒入ぼつにゅうしゃ。凡承おうしょうそこつかさぞうたかぼうやくなおいんたらい漱、なおぜんなおころもたっづくりとうやく,及宮ちゅう親王しんのう祗從,伶官ぞくみなたかしこれ。」
  75. ^ りゅうまなぶ銚著(2012ねん):《だいりょう王朝おうちょうあおうし白馬しろうまくろちぎりだいさんしょうだいりょう帝國ていこくだれ創立そうりつ英雄えいゆうとうかず阿保あぼ〉,だい48ぺーじ-だい50ぺーじ
  76. ^ りょう·營衛こころざしちゅう》:「だいばくあいだかんおおふう,畜牧畋漁以食,かわ以衣,てん隨時ずいじ車馬しゃばため。」
  77. ^ りょう·しょく貨志じょう》:「ちぎりきゅうぞく,其富以馬,其強以兵。たて於野,たゆへい於民。有事ゆうじ而戰,彉騎かいおっといのちたつしゅううま逐水くさにんおおせ湩酪。」
  78. ^ 78.0 78.1 78.2 78.3 78.4 78.5 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきりょうだい だいさんしょう多元的たげんてきりょうだい經濟けいざい〉,だい64ぺーじ-だい76ぺーじ
  79. ^ りょう·しょく貨志じょう》:「またみことのりやま前後ぜんこう納稅のうぜいなみ於密くも燕樂えんらくりょうけんうらないおけぎょうにゅうぜい,此私田制たせい也。」
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  81. ^ りょう·せいそうおさむ》:「からしみことのりめん三京さんきょう諸道しょどう租賦,仍罷くく。 」
  82. ^ りょう·どうそうおさむ》:「おのれ以南いなんきょうひだる免租めんそぜいいちねん,仍出ぜにあわこれ。」
  83. ^ りょう·しょく貨志じょう》:「ちぎりきゅうぞく,其富以馬,其強以兵。たて於野,たゆへい於民。有事ゆうじ而戰,彍騎かいおっといのちたつしゅううま逐水くさにんおおせ湩酪,挽強しゃせい,以給日用にちよう,糗糧芻茭,みちざい矣」
  84. ^ たかしおおやけしゅうまき13《こう使つかいりょう·きたじん牧羊ぼくよう》、《ちぎり及序:《ちぎり:「あたりじょうやしなえ逐萊蒿,棧阜出入でいりろうようりょくやめ東野とうのきびそうがたまちきゅうぽう皋。人知じんちりょう禦鄉ひょういえゆうざいこまごとりょくごうりゃくとい滋養じようゆうなんじゅつふうかん霜雪そうせつにん蹄毛。」《きたじん牧羊ぼくよう:「牧羊ぼくよう山下やましたどうなりぐん,嚙草ねむりすな淺水あさみずはまめんさわはん羸角こまおうなではさみさく讀書どくしょじん。氈裘ふゆりょうせんかわとみ,湩酷かくあさちゅうひゃくひんめずらし生計せいけい贏衣しょくあしふうなお茹毛じゅん。」
  85. ^ ちぎりこくこころざし·ふと大聖たいせい皇帝こうてい》:「じゅつりつ曰:『われゆう西にしろうひつじとみ,其樂不可ふかかちきゅう也,なに必勞遠出とおで,以乘危徼乎?われ聞晉おう用兵ようへい天下てんか莫敵,しつらえゆう危敗,悔之なん及!』ふとし聽。」
  86. ^ ちぎりこくこころざし·おう沂公行程こうていろく》:「ななじゅううらいたり柳河やなかわかんかわざいかんつくり西北せいほくゆうてつ冶,渤海じんしょ,就河漉沙せきねりとくなりてつ。」
  87. ^ ちょんりょうぶん·まき11》:「旋出為景ためかげしゅう龍池たついけ冶監。其冶てつ歲出さいしゅつすうきょうらいため殿どのばつしゃ殆且じゅうすうにんみないいおおやけせい疏放,きょうのう庀於耶。ぞくためるい,其兆於此。おおやけとまりいたるとくやくつとむこうおやねり所收しょしゅうばい于常績。ふくさらせいしょう榷酒とうつとむはんげきみな辦,しょ蒞稱さい。」
  88. ^ 88.0 88.1 龔書鐸,りゅういさお麟/おもへん(2015ねん):《圖說ずせつりょう西にしなつきんりょうあさせんだいりょうだいしゅ工藝こうげいひん〉,だい62ぺーじ-だい64ぺーじ
  89. ^ そでちゅう锦》:「はしすずり、……蜀錦しょっきんてい磁……ちぎりくらなつこくけん高麗こうらいしょく……みなため天下でんかだいいちしょ雖效おわり及。」
  90. ^ ふくだん大學だいがく(1982ねん):《中國ちゅうごく古代こだい經濟けいざい簡史》だいしょう封建ほうけん社會しゃかいとう後期こうきそうりょう金元かねもとてき經濟けいざい〉,だい150ぺーじ
  91. ^ まつばく聞·まきじょう》:「だいりょうどうむねあさ有漢うかんじんこう論語ろんご》,……いたり夷狄いてきゆうくん』,やまし讀不敢講。のり曰:『上世じょうせい獯鬻、獫狁,とろけ禮法れいほういいえびすわれおさむ文物ぶんぶつあきらあきら中華ちゅうかなにいやゆう!』そつれいこう。」
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  99. ^ 文獻ぶんけんどおりこう·まき345·ちぎり》:「ちぎりじんこうおに而貴每月まいつき朔日さくじつ向東むかいひがし而拜,其會聚、國事こくじみな以東いとうこうためみことよん樓門ろうもんみな向東むかいひがし
  100. ^ りょう·れい》:「冬至とうじくにぞくほふしろひつじ白馬しろうましろかりかく血合ちあいしゅ天子てんしはいもち黑山くろやま黑山くろやまざいさかいきたぞくいい國人くにびと魂魄こんぱく,其神なお中國ちゅうごく岱宗くも每歲まいさい,五京進人馬紙萬餘事,さいやま而焚ぞく甚嚴,まつり敢進やま。」
  101. ^ ちぎりたんあやぞくこうろん》:「くだりしばさつれいかえよう祭日さいじつまつりかわしん山神さんじん祖神そしん實際じっさいじょう,這又いち綜合そうごうせい很強てき祭祀さいし活動かつどう。」
  102. ^ りょう·地理ちりこころざしいち·上京じょうきょうどう》》:「有木ありき葉山はやまうえけんちぎりたんはじめ祖廟そびょうくびあせざいみなみびょうあつしざいきたびょうせいなみはち神像しんぞう……まい行軍こうぐん春秋しゅんじゅうさい必用ひつよう白馬はくばあおうししめせ忘本うん。」
  103. ^ 遼東りゃおとん行部ゆくべこころざし》:「りょうきょうむねごとまんひまあずかたい榻,以師作詩さくし,以詩挑之」
  104. ^ ちぎりこくこころざし·せいそうたかし皇帝こうてい》:「遊獵ゆうりょう,曾遇とらかたはぐれみかどさく馬馳まばせはつれん殪其とらまた曾一ぬきさん鹿しかいたり於道しゃくきょうみなほら其旨。」
  105. ^ ちぎりこくこころざし·ひとし國王こくおう隆裕たかひろ》:「少時しょうじ慕道,道士どうしそくこうため東京とうきょう留守るすたかしたてみやかん,備極てるうらら……また別置べっちどういんのべせっどうりゅう誦經じゅきょうせん醮,ようもと饌薦けんじ中京ちゅうきょう往往おうおう
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  109. ^ 109.0 109.1 編輯へんしゅう編輯へんしゅう(1992ねん):《中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じきだいななしょうそうりょう金元かねもとてき制度せいどあずか社會しゃかい〉,だい161ぺーじ-だい162ぺーじ

參考さんこう書目しょもく[编辑]

  • だいりょう王朝おうちょうあおうし白馬しろうまくろちぎり》,りゅうまなぶ銚著,風格ふうかく藝術げいじゅつ創作そうさくぼうISBN 978-986-633-033-9
  • 中國ちゅうごく通史つうし そうりょう金元かねもと》,おうあきら蓀著,眾文圖書としょ公司こうしISBN 978-957-532-034-8
  • 征服せいふく王朝おうちょうてき時代じだいそうもと》,竺沙まさあきらちょ稻鄉とうごう出版しゅっぱんしゃISBN 978-957-962-831-0
  • 中國ちゅうごく文明ぶんめい だいろくかん 中國ちゅうごく文明ぶんめい そうりょうきん時期じき》,地球ちきゅうしゃ編輯へんしゅうちょ地球ちきゅう出版しゅっぱんしゃISBN 978-957-714-048-7
  • 中國ちゅうごく古代こだい經濟けいざい簡史》,ふくだん大學だいがくちょ上海しゃんはい人民じんみん出版しゅっぱんしゃISBN 7-208-00332-7
  • そうりょう關係かんけい研究けんきゅう》,とうすすむせいちょれんけい出版しゅっぱん公司こうしISBN 978-957-08-0472-0
  • ちぎり王朝おうちょう政治せいじ軍事ぐんじ制度せいど研究けんきゅう》,楊若ぜんまいちょ文津ふみつ出版しゅっぱんしゃISBN 957-940-057-1
  • おうみんしんじりょう研究けんきゅうろん文集ぶんしゅう》,おうみんしんちょだいだい出版しゅっぱん中心ちゅうしんISBN 978-986-02-4495-3
  • とくおっと:〈辽朝しょう研究けんきゅう页面そん档备份そん互联网档あん)〉。
  • とくおっと:〈辽朝てき货币与信よしん页面そん档备份そん互联网档あん)〉。

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]


中国ちゅうごくちょうだい和政かずまさ
ぜんあさ
とう
まつばくとくちぎり诸部
ちぎりこく \ だい
916ねん3がつ17にち-1125ねん3がつ26にち
947ねん2がつ24にちはじめしょうだい
西にし
1124ねん-1218ねん
きさきあさ
大金たいきん
だいこうむくに