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碓氷峠うすいとうげ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
碓氷峠うすいとうげ
碓氷峠うすいとうげ国道こくどう18ごう
所在地しょざいち

群馬ぐんまけん安中あんなか松井田まついだまち坂本さかもと  長野ながのけん北佐久きたさくぐん軽井沢かるいざわまち
座標ざひょう
碓氷峠の位置(日本内)
碓氷峠
北緯ほくい3620ふん41.6びょう 東経とうけい13839ふん3.8びょう / 北緯ほくい36.344889 東経とうけい138.651056 / 36.344889; 138.651056座標ざひょう: 北緯ほくい3620ふん41.6びょう 東経とうけい13839ふん3.8びょう / 北緯ほくい36.344889 東経とうけい138.651056 / 36.344889; 138.651056
標高ひょうこう 956[1] m
山系さんけい 関東山地かんとうさんち
通過つうか
地図
碓氷峠うすいとうげ位置いち東側ひがしがわ急峻きゅうしゅん西側にしがわがほぼ平坦へいたんのいわゆる「かたとうげ」になっている。
プロジェクト 地形ちけい
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碓氷峠うすいとうげ(うすいとうげ)は、群馬ぐんまけん安中あんなか松井田まついだまち坂本さかもと長野ながのけん北佐久きたさくぐん軽井沢かるいざわまち境界きょうかいにあるとうげである。標高ひょうこうは956メートル (m) [1]信濃川しなのがわ水系すいけい利根川とねがわ水系すいけいとをける中央ちゅうおう分水嶺ぶんすいれいである。とうげ長野ながのけんがわったあめ日本海にほんかいへ、群馬ぐんまけんがわったあめ太平洋たいへいようながれる。

古代こだいには碓氷うすいざか(うすひのさか)、宇須うずざかうすざかなどといい、中世ちゅうせいには臼井うすいとうげうすきょとうげとも表記ひょうきされた。近世きんせい以降いこう碓氷峠うすいとうげ統一とういつされている。「碓井うすいとうげ」「碓水うすいとうげ」はあやま表記ひょうき

地理ちり

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1200まんねんほどまえには現在げんざい碓氷峠うすいとうげ海中かいちゅうにあり、クジラサメなどが生息せいそくしていた。700まんねんまえ - 200まんねんまえには碓氷川うすいがわ上流じょうりゅう地域ちいき噴火ふんか活動かつどうがあり、110まんねんまえ - 65まんねんまえ溶岩ようがん噴出ふんしゅつ碓氷峠うすいとうげ付近ふきん平地ひらちとなった。その、30まんねんまえ - 20まんねんまえきり積川つがわによって東部とうぶ侵食しんしょくがあり、きゅうがけ形成けいせいされた。以上いじょうのような経緯けいいから、地層ちそう下部かぶだい三紀みき中期ちゅうきうみせい堆積岩たいせきがんるい上部じょうぶ後期こうき中新ちゅうしんから前期ぜんき更新こうしん火山岩かざんがんるい構成こうせいされている[2]下部かぶ堆積岩たいせきがんそうどろがん砂岩さがん凝灰岩ぎょうかいがんなどで侵食しんしょくされやすい。また、上部じょうぶ火山岩かざんがんそうあつみはすうひゃくメートルにたっする。

東部とうぶはげしく侵食しんしょくされた結果けっか現在げんざい碓氷峠うすいとうげ直線ちょくせん距離きょりやく 10キロメートル (km) のあいだ標高ひょうこうが500m以上いじょうたっする急峻きゅうしゅん東側ひがしがわのみのかた勾配こうばいとなっていて、群馬ぐんまけんがわふもと横川よこがわ標高ひょうこう387mにたいし、長野ながのけんがわ軽井沢かるいざわ標高ひょうこう939mととうげ (956m) との標高ひょうこうがほとんどない。とくに、中山道なかせんどうれいると坂本さかもと宿やどから石山いしやままでの水平すいへい距離きょり700mのあいだ標高ひょうこうが300mもある[3]。そのため一般いっぱんてきな、山脈さんみゃくトンネルけることでとうげえの高低こうてい解消かいしょうできるりょう勾配こうばいとうげことなり、通行つうこうには近代きんだいいたるまですうおおくの困難こんなんかかえた。

箱根峠はこねとうげ太平洋たいへいようがわ)やしん不知ふち日本海にほんかいがわ)とともに、東日本ひがしにっぽんちゅう日本にっぽんかつとうげであり、気象きしょうがくまとにも、碓氷峠うすいとうげ関東かんとう地方ちほう中部ちゅうぶ地方ちほう境界きょうかいにあたる。にちちゅう関東かんとう地方ちほう南岸なんがんではだい規模きぼ海風かいふう太平洋たいへいよう海風かいふう)がしょうじて、およそ5m/sで大気たいき内陸ないりくかってすすむ。一方いっぽう中部ちゅうぶ地方ちほう内陸ないりくでは上空じょうくう低圧ていあつあらわれ、たにから山頂さんちょうかうかぜまれる。午前ごぜんちゅう碓氷峠うすいとうげにこれらふたつのながれが両側りょうがわからかってきて、とうげではふう真上まうえかって平衡へいこう状態じょうたいとなる。午後ごごになると地表ちひょうめん温度おんどたかくなって双方そうほういきおいがすが、関東かんとう地方ちほうからのながれがよりつよくなるため南東なんとうふうき、関東かんとう地方ちほう大気たいき中部ちゅうぶ地方ちほう流入りゅうにゅうする経路けいろとなる。なお夜間やかんには海風かいふう支配しはいてきとなって南東なんとうふうつづ[4]。また、やまのぼ空気くうき気圧きあつひくくなるとともに膨張ぼうちょうして温度おんどがり、飽和ほうわした水蒸気すいじょうききりとなるため、関東平野かんとうへいやから碓氷峠うすいとうげのぼってなが南東なんとうふう原因げんいんとなって軽井沢かるいざわでは年間ねんかん130にち以上いじょうきり発生はっせいしている[5]

自然しぜん環境かんきょう

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植生しょくせい付近ふきんにあって標高ひょうこうちか浅間山あさまやま山麓さんろく部分ぶぶんており、ブナコナラなどの落葉樹らくようじゅ、およびモミカラマツといった針葉樹しんようじゅえている。下草したくさとしてはゼンマイススキリンドウニッコウザサなどがある。浅間あさまさんとのちがいとしては、ムラサキシモツケソウモウセンゴケおおいことがげられる[6]

一帯いったいにはふるくからニホンザル生息せいそくしているが、1980年代ねんだいから人里ひとざとりてきて農作物のうさくもつなどに被害ひがいるようになり、1984ねんには碓氷うすいぐん松井田まついだまち当時とうじ)など3まちけい2000まんえん以上いじょうもの被害ひがいがあった。その原因げんいんとしては

などが指摘してきされている[7]上信越じょうしんえつ自動車じどうしゃどう開通かいつう交通こうつうりょうった国道こくどう18ごうへの出没しゅつぼつ[8]1990年代ねんだいすえ以降いこう碓氷峠うすいとうげ拠点きょてん軽井沢かるいざわ中心ちゅうしんにも出現しゅつげんしている[9]

2010年代ねんだいになるとツキノワグマ目撃もくげき情報じょうほう相次あいついでおり、旧道きゅうどうでの目撃もくげきれい[10]、めがねばし碓氷うすいだいさん橋梁きょうりょう)のちかくでの目撃もくげきれいがある[11]

石山いしやま付近ふきんには柱状ちゅうじょう節理せつり風穴かざあななどがみられる。

歴史れきし

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碓氷峠うすいとうげ変遷へんせん
中仙道なかせんどう中仙道なかせんどう和宮かずのみやどう国道こくどう18ごう信越本線しんえつほんせん碓氷うすいバイパス・上信越じょうしんえつ自動車じどうしゃどう北陸ほくりく新幹線しんかんせん

古代こだい

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古来こらいから坂東ばんどう信濃しなのこくをつなぐみちとして使つかわれてきたが、難所なんしょとしても有名ゆうめいであった。この碓氷うすいざかおよび駿河するが相模さがみ国境こっきょう足柄あしがらざかよりひがし地域ちいき坂東ばんどうんだ。『日本書紀にほんしょきけいぎょうには、日本にっぽんたけたかし(ヤマトタケル)が坂東ばんどう平定へいていから帰還きかんするさい碓氷うすいざかうすざか)にて、安房あわおき入水じゅすいしたつまおとうとたちばなひめをしのんで「吾妻あづま(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記こじき』ではこれが足柄あしがらざかだったとされ、どちらがただしいかという論争ろんそう存在そんざいする[12]現在げんざいでも碓氷峠うすいとうげさかいにして、東側ひがしがわ関東かんとう文化ぶんかけん関東かんとう方言ほうげんに、西側にしがわ中央ちゅうおう高地こうち文化ぶんかけん東海とうかい東山ひがしやま方言ほうげんかれている。

碓氷峠うすいとうげ範囲はんい南北なんぼくひろいが、その南端なんたんたる入山にゅうざんとうげからは古墳こふん時代じだい祭祀さいし遺跡いせき発見はっけんされており(入山にゅうざん遺跡いせき)、古墳こふん時代じだい当時とうじ東山ひがしやまどう入山にゅうざんとうげとおったと推定すいていされている。7世紀せいき後葉こうようから8世紀せいきぜん飛鳥あすか時代ときよ後期こうき - 奈良なら時代じだい初期しょき)にかけて、全国ぜんこくてき幹線かんせん道路どうろ駅路えきろ)が整備せいびされると、碓氷うすいざかにも東山ひがしやまみち駅路えきろ建設けんせつされた。入山にゅうざん遺跡いせきはこの時期じきまでに廃絶はいぜつしており、碓氷うすいざかにおける東山ひがしやまみち駅路えきろ近世きんせい中仙道なかせんどうにほぼちかいルートだったとするせつ有力ゆうりょくされている。なお、万葉集まんようしゅうにみえるように防人さきもりたちにとっては故郷こきょうとの別離べつりとなっていた[13]

平安へいあん時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきごろ坂東ばんどうでは、武装ぶそうした富豪ふごう百姓ひゃくしょうそう僦馬のとう)が国家こっか支配しはい抵抗ていこうし、国家こっかへのすすむおさめぶつ横領おうりょうしたり略奪りゃくだつするうごきが活発かっぱつした。これら富豪ふごう百姓ひゃくしょうそうを「群盗ぐんとう」となした国家こっかは、その取締とりしまりのためあきらやすし2ねん899ねん)に碓氷うすいざか足柄あしがらざか関所せきしょ設置せっちした。これが碓氷うすいせきはつである。碓氷うすいせきてんけい3ねん940ねん)に廃止はいしされ、中世ちゅうせいなん復活ふっかつした[14]

古代こだい駅路えきろ全国ぜんこくてき11世紀せいき初頭しょとうごろまでに廃絶はいぜつしており、碓氷うすいざかにおける東山ひがしやまみち駅路えきろどう時期じき荒廃こうはいしたとされている。その碓氷峠うすいとうげにおける主要しゅよう交通こうつうは、きゅう碓氷峠うすいとうげルートのほか、入山にゅうざんとうげルート・わにざかとうげルートなどを通過つうかしたとかんがえられているが、どのルートがしゅたるものであったかは確定かくていいたっていない。

中世ちゅうせい

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中世ちゅうせいには碓氷峠うすいとうげ付近ふきん主要しゅようどう現在げんざい大字だいじとうげ地図ちずちゅうきゅう碓氷峠うすいとうげ)をとおるようになった。このとうげには熊野くまのすめらぎだい神社じんじゃ碓氷峠うすいとうげ熊野くまの神社じんじゃ)があり、どう神社じんじゃせいおう5ねん4がつ8にち1292ねん5月3にちかねめいから、このころまでには大字だいじとうげみち開設かいせつされていたといわれる。入山にゅうざんとうげとお古道ふるみちよりも坂本さかもと付近ふきんなどが峻険しゅんけんとおりにくかったが、そのため防備ぼうびすぐれていたとされる[15]

おうひさし30ねん1423ねん)の国人くにびと一揆いっきえいとおる12ねん1440ねん)の結城ゆうき合戦かっせんでは、碓氷峠うすいとうげ信州しんしゅうからの侵攻しんこうふせ要衝ようしょうとなっていた。えいろく4ねん1561ねん)に長尾ながお景虎かげとら小田原おだわらじょうこう北条ほうじょうめたさい武田たけだ信玄しんげん笛吹峠ふえふきとうげ出陣しゅつじんし、信玄しんげん碓氷峠うすいとうげからの進出しんしゅつをそのすうかいにわたっておこない、えいろく9ねん1566ねん)には箕輪みのわしろ攻略こうりゃく成功せいこうして上野うえのこく進出しんしゅつした。天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつさい豊臣とよとみ秀吉ひでよし前田まえだ利家としいえらの北国きたぐにぜい碓氷峠うすいとうげから進軍しんぐんさせている[15]

きゅう碓氷峠うすいとうげ長野ながのけん北佐久きたさくぐん軽井沢かるいざわまち大字だいじとうげまち

近世きんせい

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江戸えど時代じだいには中山道なかせんどう街道かいどうのひとつとして整備せいびされ、きゅう碓氷峠うすいとうげルートが本道ほんどうとされた。碓氷峠うすいとうげは、関東かんとう信濃しなのこく北陸ほくりくとをむす要衝ようしょう位置いちづけられ、とうげ江戸えどがわ関所せきしょ坂本さかもとせき)がかれてきびしい取締とりしまりがおこなわれた[16]とうげ前後ぜんごには坂本さかもと宿やど軽井沢かるいざわ宿やどかれ、りょう宿場しゅくばあいだ距離きょりは2さと26まちやく10キロメートル〈km〉あまり)であったが、とうげいただき熊野くまの神社じんじゃ標高ひょうこうが1200m、坂本さかもと宿やど京都きょうとこう標高ひょうこう460mであるから、その標高ひょうこうは740mもあり通行つうこうしゃおおきな負担ふたんになっている[16]とくに刎石(はねいし)はつづら急坂きゅうざかのうえ落石らくせきおおく、とうげみち最大さいだい難所なんしょである[16]。なお、坂本さかもとから熊野くまの神社じんじゃまでのきゅう中山道なかせんどうルートの現在げんざいは、きゅう建設省けんせつしょうと「みち実行じっこう委員いいんかいにより制定せいていされた日本にっぽんみち100せんのひとつとして1986ねん昭和しょうわ61ねん)に選定せんていけている[17]

ただし、古道ふるみちはその活用かつようされており、たとえば難所なんしょ碓氷峠うすいとうげけることができるわにざかとうげルートは「ひめ街道かいどう」「おんな街道かいどう」とばれていた。このみち本庄ほんじょう中山道なかせんどう本道ほんどうからかれて藤岡ふじおか富岡とみおか下仁田しもにた経由けいゆし、わにざかとうげ和美峠わみとうげ付近ふきん)を信州しんしゅうはいり、つい分宿ぶんしゅく付近ふきん本道ほんどう合流ごうりゅうしていた。しかし、こちらも難所なんしょであることにはなかったといい、本道ほんどう同様どうよう西牧にしまき関所せきしょかれていた。

天明てんめい3ねん1783ねん)の浅間山あさまやま噴火ふんかでは3しゃく (90センチメートル) 以上いじょうすなつもり、碓氷峠うすいとうげ往還おうかんは8日間にちかんにわたって通行つうこう不可能ふかのうになっている[15]碓氷峠うすいとうげ中山道なかせんどう有数ゆうすう難所なんしょであったため、幕末ばくまつ文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)に和宮かずのみや徳川とくがわ家茂いえもちとつぐために中山道なかせんどうとおることがまったさい一部いちぶ区間くかんだい工事こうじおこなわれ、和宮かずのみやどうばれる多少たしょう平易へいいべつルートが開拓かいたくされた。なお、やく3まんにん和宮かずのみやいちぎょう同年どうねん11がつ9にち(1861ねん12月10にち)に軽井沢かるいざわって碓氷峠うすいとうげえ、よく10日とおか(1861ねん12月11にち)に横川よこがわ宿泊しゅくはくしている[18]

道路どうろ

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道路どうろ建設けんせつ

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明治めいじはいっても交通こうつう要所ようしょとしての重要じゅうようせいわらず、人々ひとびと物資ぶっし往来おうらいつづいた。1878ねん9月11にち明治天皇めいじてんのう北陸ほくりくどう東海道とうかいどう巡幸じゅんこうでは、天皇てんのう徒歩とほにてとうげ通過つうかしている。明治天皇めいじてんのうおさむによれば、「とうげ険難けんなんうますらもつうはず・・・」とあり[19]、この時期じきにおいても難所なんしょであることにはわらなかった。1882ねん従来じゅうらい南側みなみがわ新道しんどうつくられ、1886ねんにはうまくるまでの通行つうこう可能かのうとなった。「碓氷うすい新道しんどう」とばれたこの新道しんどう国道こくどう18ごう(の旧道きゅうどう)にあたり、坂本さかもと宿やどからその碓氷うすいつくられたあたりまではおおむね和宮かずのみやどうまさしくは、(明治天皇めいじてんのう巡幸じゅんこう道路どうろであり、和宮かずのみやどうは、熊野くまの神社じんじゃ北側きたがわから子持山こもちやま南西なんせいあたりまでをいう)を踏襲とうしゅうし、そこから西側にしがわ中尾なかおがわ沿ってまったあたらしいルートとされ、軽井沢かるいざわ宿やど沓掛くつかけ宿やどあいだ旧道きゅうどう合流ごうりゅうするものであった。新道しんどう碓氷峠うすいとうげは、中山道なかせんどう旧道きゅうどう碓氷峠うすいとうげ新道しんどう開通かいつうきゅう碓氷峠うすいとうげばれている)からみなみに3kmほどの場所ばしょ移動いどうした。この結果けっか碓氷峠うすいとうげえのみちは3kmながくなったものの平均へいきん勾配こうばい半分はんぶん以下いか低減ていげんされた[20]。そのきゅう軽井沢かるいざわ」とばれるようになった地区ちく中山道なかせんどう旧道きゅうどう沿った場所ばしょで、軽井沢かるいざわえき周辺しゅうへん明治めいじ時代じだい開発かいはつされた新道しんどう沿いにあたる。

大正たいしょう以降いこうトラックなどの往来おうらいさかんになり、失業しつぎょう対策たいさくねた公共こうきょう事業じぎょう一環いっかんとして1932ねんから翌年よくねんにかけて拡幅かくふくおよび一部いちぶ舗装ほそう工事こうじおこなわれ、これを記念きねんした石碑せきひ県境けんきょうのこっている[20]。なお、だい世界せかい大戦たいせんなかにはうしうまとうげえによる物資ぶっし輸送ゆそうおこなわれた[21]国道こくどう18ごう碓氷峠うすいとうげ区間くかんは、1956ねん昭和しょうわ31ねん)から拡幅かくふく改良かいりょう舗装ほそう工事こうじすすめられていたが、カーブが184もあることなどから限界げんかいがあり、交通こうつう需要じゅようたかまりにこたえるため1971ねん国道こくどう18ごうのバイパスである有料ゆうりょう道路どうろ碓氷うすいバイパス入山にゅうざんとうげとおる、かつての東山ひがしやまどうのルート)が開通かいつうした。碓氷うすいバイパスは2001ねん11月11にちから無料むりょうされ、かつての中山道なかせんどうハイキングコースとして整備せいびされた。1993ねんには上信越じょうしんえつ自動車じどうしゃどう開通かいつうしたことから、1979ねんには交通こうつうりょうが2,000だい/にちあった明治めいじ時代じだい新道しんどうも、その重要じゅうようせいうすれつつある。なお上信越じょうしんえつ自動車じどうしゃどう建設けんせつたっては、どう道路どうろない最長さいちょうとなる全長ぜんちょう1,267メートルの碓氷うすいきょうが、碓氷川うすいがわなどをまたぐように架橋かきょうされた。

ドライブスポット

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国道こくどう18ごう旧道きゅうどうは、全長ぜんちょうやく11キロの区間くかんぜん184の大小だいしょう様々さまざまなカーブがタイトにつづかたとうげ独特どくとく道路どうろであるため、ドライブツーリングスポットとしてふるくからられる。ちなみに過酷かこくなサーキットとしてられるドイツニュルブルクリンクは、全長ぜんちょうやく20キロでカーブすうは172である。

はしからの知名度ちめいどたかく、人気にんき漫画まんが頭文字かしらもじD』に登場とうじょうするとうげどうとしてもられる。この道路どうろ愛好あいこうしていた人物じんぶつとして、土屋つちやけいなな三木みき敏幸としゆきなどがいる。土屋つちやけいによれば、碓氷峠うすいとうげでメーカーのタイヤテストもおこなっていたという[22]

これまですうおおくのラリーイベントで碓氷峠うすいとうげがルートとして設定せっていされてきたが、はじめて設定せっていされたのは、1959ねんから開催かいさいされた伝説でんせつてき日本にっぽんはつ山岳さんがくラリー「日本にっぽんアルペンラリー」のだい1かい大会たいかいである。

1971ねん碓氷うすいバイパス、1993ねん上信越じょうしんえつ自動車じどうしゃどう開通かいつうまで、東京とうきょう方面ほうめんから軽井沢かるいざわ自動車じどうしゃかうためにはこのみちとおるほかなかったため、ドライブきではない一般いっぱん別荘べっそうきゃく観光かんこうきゃくにはこのまれるようなみちではなかったという。細川ほそかわ護煕もりひろは、幼少ようしょう祖父そふである近衛このえ文麿ふみまろ運転うんてん軽井沢かるいざわかうために当時とうじ路面ろめんわる碓氷峠うすいとうげはしったとき、いたりして散々さんざんにあったと、のちにわらってはなしている[23]ブリヂストン会長かいちょう石橋いしばしみき一郎いちろうは、軽井沢かるいざわかうために愛車あいしゃ碓氷峠うすいとうげを「ブンブンまわしてよくのぼりました」とかたっている[24]

現在げんざい交通こうつうりょう

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2005ねん上信越じょうしんえつ自動車じどうしゃどう碓氷峠うすいとうげ付近ふきん群馬ぐんま長野ながの県境けんきょう)の交通こうつうりょう以下いかとおりである[25]

碓氷峠うすいとうげ付近ふきんの1にちたりの平均へいきん交通こうつうりょう(2005ねん
乗用車じょうようしゃだい/にち 貨物かもつ自動車じどうしゃだい/にち 合計ごうけいだい/にち
平日へいじつ 8,669 10,065 18,734
休日きゅうじつ 17,538 4,177 21,715

なお、2005ねん国道こくどう18ごう碓氷峠うすいとうげ付近ふきん安中あんなか松井田まついだ町原まちばらかぶと)の交通こうつうりょう平日へいじつが2,016だい/にち休日きゅうじつが4,129だい/にち[26]2001ねん碓氷うすいバイパスの1にちたりの平均へいきん交通こうつうりょうは10,235だい/だった[27]1993ねん予測よそくでは上信越じょうしんえつ自動車じどうしゃどう碓氷うすいバイパスの交通こうつうりょうはそれぞれ8,000だい/にち、7,000だい/にちになると見込みこまれており[28]実際じっさいはともにこれを上回うわまわっている。とく碓氷うすいバイパスは1993ねん交通こうつうりょうおよそ15,000だい/にちからの半減はんげん予想よそうされたが、利用りよう台数だいすうはそれほどっていない。

鉄道てつどう

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鉄道てつどう建設けんせつ

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線路せんろ一部いちぶだった碓氷うすいだいさん橋梁きょうりょうおくえる橋梁きょうりょうは1997ねん廃止はいしされたしんせん
最初さいしょ投入とうにゅうされたラックしきの3900かたち蒸気じょうき機関きかんしゃ
碓氷峠うすいとうげのトンネルにはい列車れっしゃ(1950年代ねんだい
1891ねん碓氷うすいせん着工ちゃっこうするさいの、碓氷峠うすいとうげあん和美峠わみとうげあん入山にゅうざんとうげあん比較ひかくした地図ちず

鉄道てつどうにおいても碓氷峠うすいとうげえることははやくから重要じゅうようされ、1885ねん明治めいじ18ねん10月15にち官設かんせつ鉄道てつどう横川よこがわせんとして高崎たかさきえき - 横川よこがわえきあいだが、さらに1886ねん明治めいじ19ねん8がつ15にちから1888ねん明治めいじ21ねん12月1にちにかけて軽井沢かるいざわえき - 直江津なおえつえきあいだ官設かんせつ鉄道てつどう直江津線なおえつせんとして順次じゅんじ開通かいつうすると、とう区間くかん輸送ゆそうボトルネックとなり、東京とうきょう新潟にいがたあいだ鉄道てつどう全線ぜんせん開通かいつうさせることがつよのぞまれた[20]。なお、1888ねん明治めいじ21ねん9月5にちから1893ねん明治めいじ26ねん4がつ1にちにかけては碓氷うすい馬車ばしゃ鉄道てつどうという馬車ばしゃ鉄道てつどう国道こくどう18ごううえ敷設ふせつされていたが、輸送ゆそう可能かのうりょうすくないうえとうげえに2あいだはんもかかっていた[29]当初とうしょ機関きかんしゃ能力のうりょくでは粘着ねんちゃくしき鉄道てつどうにて通過つうか困難こんなん勾配こうばいがあり、スイッチバックループせんなどをもうける方法ほうほうでは対処たいしょできなかったためラックしき鉄道てつどう模索もさくし、視察しさつしたドイツハルツさん鉄道てつどう参考さんこうにしてアプトしき(アブトしき)をもちいることを提案ていあんした仙石せんごくみつぐ吉川よしかわ三次みつじろうのプランが採用さいようされた。このあんでは中山道なかせんどう沿いに線路せんろ敷設ふせつするため資材しざい人員じんいん運搬うんぱんコストを低減ていげんできる一方いっぽうで、大半たいはん区間くかんが66.7(= 115やく 3.8 )というきゅう勾配こうばいになる[ちゅう 1]。なお、このさい鉄道てつどう建築けんちくちょうポーナル和美峠わみとうげ入山にゅうざんとうげとおる25‰(=140程度ていど勾配こうばいあん提示ていじしている[30]

1891ねん明治めいじ24ねん3月24にち起工きこうしたが、きゅう勾配こうばいでラックしき鉄道てつどうもちいるには列車れっしゃ推進すいしんりょくける道床どうしょう十分じゅうぶん配慮はいりょする必要ひつようがあった。ボーナルはその対策たいさくとして、おおきなスパン[31]従来じゅうらいよく使つかわれていたはがねけたではなくレンガせいアーチもちいている。また、工事こうじちゅうの1891ねん明治めいじ24ねん10月28にち発生はっせいした地震じしんでレンガづくりの建造けんぞうぶつ倒壊とうかいしたことをけ、橋脚きょうきゃく石柱せきちゅうわせたりレンガをたてむなどの地震じしん対策たいさくれられた[30]。このような技術ぎじゅつ評価ひょうかされ、碓氷うすいだいさん橋梁きょうりょうなどの一連いちれん橋梁きょうりょう隧道すいどうなどは1993ねん平成へいせい5ねん)から1994ねん平成へいせい6ねん)にかけて近代きんだい遺産いさんとしてくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[32]。ただしアーチ部分ぶぶん耐震たいしんせいについては効果こうか限定げんていされ、完成かんせい1894ねん明治めいじ27ねん6がつ20日はつか明治めいじ東京とうきょう地震じしんマグニチュード=7.0)ではアーチにひびがはいり、同年どうねんから1896ねん明治めいじ29ねん)にかけてレンガをてる補強ほきょうおこなわれた[33]

ラックしき鉄道てつどう時代じだい

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アプト方式ほうしきラックしきの10000かたち電気でんき機関きかんしゃ

このような経緯けいいて、延長えんちょう11.2kmのあいだに18の橋梁きょうりょうと26のトンネル建設けんせつされ、着工ちゃっこうから1ねん9かげつ1892ねん明治めいじ25ねん12月22にち工事こうじ完了かんりょうし、よく1893ねん明治めいじ26ねん4がつ1にち官営かんえい鉄道てつどう中山道なかせんどうせんとして横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだ開通かいつうした。当初とうしょぜん区間くかん単線たんせん電化でんかであり、中間ちゅうかん開設かいせつされた熊ノ平くまのたいら給水きゅうすいきゅう炭所すみしょ列車れっしゃ交換こうかんおこなっていた。碓氷峠うすいとうげえることから「碓氷うすいせん」、また横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだむすぶことから「よこかる(よこかる)」ともばれる。

1900ねん明治めいじ33ねん10月15にち大和田おおわだ建樹たけきによって作成さくせいされた「鉄道てつどう唱歌しょうか」のだい4しゅう北陸ほくりくへん)では、碓氷峠うすいとうげ区間くかん以下いかのようにうたわれている。

  1. これよりおとにききいたる 碓氷峠うすいとうげのアブトしき 歯車はぐるまつけておりのぼる 仕掛しかけそとにたぐいなし
  2. くぐるトンネルじゅうろく ともしうすくひるくらし いずれは天地てんちうちはれて かおふくふう心地ここちよさ
— 鉄道てつどう唱歌しょうか/北陸ほくりくへん

さらに『鉄道てつどう唱歌しょうか』とおなねん作成さくせいされた、現在げんざい長野ながのけんである『信濃しなのくに』も、6ばんにおいて以下いかのように碓氷峠うすいとうげうたっている。

吾妻あづまはやとし 日本にっぽんたけ(やまとたけ) なげたまいしうす氷山ひょうざん 穿ほじ(うが)つ隧道すいどう(トンネル)じゅうろく ゆめにもこゆる汽車きしゃみち みち一筋ひとすじまなびなば むかしひとにやおとるべき 古来こらい山河さんがひいでたる くに偉人いじんのあるなら — 信濃しなのくに

なお、「アブ(BU)ト」という表現ひょうげん当時とうじられたものだが、語源ごげんはドイツなので現在げんざいの「アプト」のほう原語げんごちかい。

1901ねん明治めいじ34ねん)7がつには丸山まるやま信号しんごうしょさき信号しんごうしょ開業かいぎょうし、横川よこがわえき - 丸山まるやま信号しんごうしょあいださき信号しんごうしょ - 軽井沢かるいざわえきあいだ複線ふくせんされた。1906ねん明治めいじ39ねん10月1にちには熊ノ平くまのたいら給水きゅうすいきゅうすみしょ熊ノ平くまのたいらえき変更へんこう1909ねん明治めいじ42ねん10月12にちには国有こくゆう鉄道てつどう線路せんろ名称めいしょう制定せいていともない、中山道なかせんどうせんふく高崎たかさきえき - 新潟にいがたえきあいだ信越線しんえつせん(しんえつせん)と命名めいめいされた。

しかし、横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだはトンネルの連続れんぞくによる煤煙ばいえん問題もんだいから、乗務じょうむいんなかには吐血とけつ窒息ちっそくするものあらわれた[20]。そこで、1911ねん明治めいじ44ねん)に横川よこがわえき付近ふきん火力かりょく発電はつでんしょ設置せっちされ、1912ねん明治めいじ45ねん5月11にちどう区間くかん直流ちょくりゅう電化でんかされた。これは日本にっぽん国鉄こくてつ幹線かんせんとしては最初さいしょ電化でんかおこなわれた区間くかんであり、当初とうしょ電圧でんあつ直流ちょくりゅう600Vで、あつまりでん方式ほうしきだいさん軌条きじょう方式ほうしき採用さいようされた。

この電化でんかにより碓氷うすいせん所要しょよう時間じかんは80ふんから40ふん半減はんげんし、輸送ゆそうりょく若干じゃっかん増強ぞうきょうされた[29]が、輸送ゆそう隘路あいろであることはわらず、「ひがし碓氷うすい」は「きた板谷いたや」、「西にし瀬野せのはち」などとならび、だたる鉄道てつどう難所なんしょとしてしょうされた。

1914ねん大正たいしょう3ねん6月1にちには信越しんえつせん信越本線しんえつほんせん(しんえつほんせん)に改称かいしょうされた。

1918ねん大正たいしょう7ねん3月7にちには熊ノ平くまのたいらえき - 軽井沢かるいざわえきあいだ列車れっしゃのぼ勾配こうばい退行たいこう暴走ぼうそうし、熊ノ平くまのたいらえき構内こうない脱線だっせんする事故じこ発生はっせいした(信越本線しんえつほんせん熊ノ平くまのたいらえき列車れっしゃ脱線だっせん事故じこ)。

1922ねん大正たいしょう11ねん)4がつ1にちには丸山まるやま信号しんごうしょさき信号しんごうしょがそれぞれ丸山まるやま信号しんごうじょうさき信号しんごうじょう変更へんこうされた。

1950ねん昭和しょうわ25ねん6月8にちから6月12にちには、熊ノ平くまのたいらえき構内こうない土砂どしゃすうわた崩落ほうらく線路せんろ宿舎しゅくしゃなどが埋没まいぼつし、死者ししゃ50めい重軽傷じゅうけいしょうしゃ21めいした。その不通ふつうとなった横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだ6がつ20日はつか開通かいつうし、6月23にち完全かんぜん復旧ふっきゅうした(熊ノ平くまのたいらえき#だい規模きぼ崩落ほうらく事故じこ(1950ねん参照さんしょう)。

粘着ねんちゃくしき時代じだい

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EF63を連結れんけつして碓氷峠うすいとうげかう特急とっきゅう白山はくさん

太平洋戦争たいへいようせんそうこう輸送ゆそう隘路あいろ解消かいしょうのためさいきゅう勾配こうばいを25‰とする迂回うかいルートも検討けんとうされたが、最大さいだい66.7‰のきゅう勾配こうばい回避かいひせず一般いっぱんてき車輪しゃりんによる粘着ねんちゃくしき登降とうこうざかすることになった。1961ねん昭和しょうわ36ねん)に着工ちゃっこうし、1963ねん昭和しょうわ38ねん7がつ15にちきゅうせんのやや北側きたがわをほぼ並行へいこうするルートでしんせん単線たんせん開通かいつうした。粘着ねんちゃくしきしんせんは、電圧でんあつあつまりでん方式ほうしき区間くかんおな直流ちょくりゅう1500V・架空かくう電車でんしゃせん方式ほうしき変更へんこうした。

当初とうしょしんせん粘着ねんちゃくしき)ときゅうせん(ラックしき)が併用へいようされていたが、9月30にちきゅうせん(ラックしき)は廃止はいし1966ねん昭和しょうわ41ねん2がつ1にちには熊ノ平くまのたいらえき熊ノ平くまのたいら信号しんごうじょう格下かくさげされたほか7がつ2にちには、きゅうせん一部いちぶ改修かいしゅう工事こうじするかたち最大さいだい66.4‰のしんせんがもう1せん開通かいつう。これによって丸山まるやま信号しんごうじょう - さき信号しんごうじょうあいだ複線ふくせんされたことで、横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだぜん区間くかんしんせん粘着ねんちゃくしき)による複線ふくせんとなり、丸山まるやま信号しんごうじょうさき信号しんごうじょう廃止はいしとなった。とう区間くかん所要しょよう時間じかん旅客りょかく列車れっしゃで40ふんから、勾配こうばいのぼくだ列車れっしゃは17ふん勾配こうばいくだのぼ列車れっしゃは24ふん短縮たんしゅくされた[34]

しかし、旅客りょかく列車れっしゃ電車でんしゃ客車きゃくしゃ)・貨物かもつ列車れっしゃ貨車かしゃ)をわず単独たんどくでの運転うんてん勾配こうばい対応たいおうできず、補助ほじょ機関きかんしゃとして2りょうを1くみとしたEF63つね連結れんけつすることとなった。勾配こうばいのぼくだ列車れっしゃ横川よこがわえき軽井沢かるいざわえき)をげ、勾配こうばいくだのぼ列車れっしゃ軽井沢かるいざわえき横川よこがわえき)は発電はつでんブレーキによるそもそもそくブレーキとなるという機能きのうであった。そのため、かなら勾配こうばいふもとがわにあたる横川よこがわがわに2りょう連結れんけつされた。

客車きゃくしゃ貨車かしゃ場合ばあい(EF62単機たんき回送かいそうふくむ)
信越本線しんえつほんせんない本務ほんむ機関きかんしゃとしてEF63とどう時期じき製造せいぞうされたEF62牽引けんいんする列車れっしゃではEF63を連結れんけつしてとう区間くかん走行そうこうするさい輸送ゆそう定数ていすう客車きゃくしゃが360トン (t)、貨車かしゃで400tに制限せいげんされたほか、ラック時代じだい一部いちぶ列車れっしゃ実施じっしされていた客車きゃくしゃ貨車かしゃこんゆいした状態じょうたいはし混合こんごう列車れっしゃ運転うんてん保安ほあんじょう禁止きんしされた。
くだ列車れっしゃ場合ばあい軽井沢かるいざわ)EF62+客車きゃくしゃもしくは貨車かしゃ+EF63(横川よこがわ)の編成へんせいとなり、無線むせん通信つうしんによって最前さいぜんのEF62が牽引けんいん後部こうぶのEF63の2りょうげるプッシュプル方式ほうしきでの運転うんてん操作そうさおこなわれた。のぼ列車れっしゃ場合ばあい、(軽井沢かるいざわ客車きゃくしゃ+EF62+EF63(横川よこがわ)と勾配こうばいふもとがわに3りょう機関きかんしゃつらなり、最前さいぜんのEF63から3りょう総括そうかつ制御せいぎょおこなう。
EF62+EF63の三重みえれんによる牽引けんいんりょくD51の5じゅうれん相当そうとうする[35]
電車でんしゃ場合ばあい
EF62・EF63量産りょうさんしゃによる三重みえれん以上いじょうもちいた試験しけん結果けっか、EF63が動力どうりょく電車でんしゃ気動車きどうしゃ牽引けんいんする場合ばあい編成へんせいりょうかず電車でんしゃ最大さいだい8りょう気動車きどうしゃ最大さいだい7りょう制限せいげんされた[36]。この問題もんだいについてはさまざまな解決かいけつさく検討けんとうされたが、最終さいしゅうてきにEF63ととう区間くかん通過つうかする電車でんしゃ協調きょうちょう運転うんてんすることで、増結ぞうけつもとめられていた4両分りょうぶん荷重かじゅう電車でんしゃ負担ふたんするあん採用さいようされることになった。こうして1968ねん以降いこう、EF63との協調きょうちょう運転うんてんにより最大さいだい12りょう編成へんせいでの通過つうか可能かのうとした169けい489けい189けいかく形式けいしき電車でんしゃ投入とうにゅうされたが、協調きょうちょう協調きょうちょうわずとう区間くかん運転うんてんはすべてEF63に乗務じょうむする機関きかん担当たんとうし、とうげのぼ列車れっしゃではEF63の機関きかんうしきに運転うんてんおこなうため、電車でんしゃによる列車れっしゃでは先頭せんとう乗務じょうむしている運転うんてん信号しんごうげんしめせ進路しんろ確認かくにんおこない車内しゃない電話でんわとおしてEF63乗務じょうむ機関きかん伝達でんたつ相互そうご喚呼していた。また協調きょうちょう運転うんてん総括そうかつ制御せいぎょ牽引けんいん推進すいしん運転うんてん電車でんしゃがわマスター・コントローラーとブレーキべんあつかうと制御せいぎょ回路かいろ破損はそんしてしまうため、電車でんしゃがわのマスター・コントローラーはハンドル「きり位置いちにしてかぎり、ブレーキべんハンドルもるよう規程きていされていた。
1985ねん昭和しょうわ60ねんごろには余剰よじょうのサロ183かたち改造かいぞうした自力じりき登坂とさか可能かのうな187けいだい2あん)も計画けいかくされたが、諸般しょはん事情じじょうから白紙はくし撤回てっかいされている。詳細しょうさいは「国鉄こくてつ187けい電車でんしゃ特急とっきゅうよう直流ちょくりゅう電車でんしゃ開発かいはつ計画けいかく」も参照さんしょうのこと。

1975ねん昭和しょうわ50ねん10月28にちには、横川よこがわえき - 熊ノ平くまのたいら信号しんごうじょうあいだのぼせん機関きかんしゃ単機たんき回送かいそう列車れっしゃ(EF63・EF62)が暴走ぼうそう脱線だっせん転落てんらくする事故じこ発生はっせいした(信越しんえつせん軽井沢かるいざわ - 横川よこかわあいだ回送かいそう機関きかんしゃ脱線だっせん転落てんらく事故じこ)。

1987ねん昭和しょうわ62ねん)4がつ1にち国鉄こくてつ分割ぶんかつ民営みんえいともない、信越本線しんえつほんせんぜん区間くかん東日本旅客鉄道ひがしにほんりょかくてつどう(JR東日本ひがしにっぽん)がだい一種いっしゅ鉄道てつどう事業じぎょうしゃとして承継しょうけいしたが、日本にっぽん貨物かもつ鉄道てつどう(JR貨物かもつ)は横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだふく安中あんなかえき - 田中たなかえきあいだだいしゅ鉄道てつどう事業じぎょうしゃとして承継しょうけいしなかったため、横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだ貨物かもつ営業えいぎょう廃止はいしとなった。

1993ねん平成へいせい5ねん8がつ17にち前述ぜんじゅつとおこく信越本線しんえつほんせん横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだ鉄道てつどう施設しせつ一部いちぶを「碓氷峠うすいとうげ鉄道てつどう施設しせつ」として重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していした[37]

よこけい対策たいさく

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車両しゃりょう番号ばんごう(クロ157-1)の先頭せんとうされたよこけい対策たいさく識別しきべつマーク

最大さいだい66.7‰のきゅう勾配こうばいという条件じょうけんとうげしたがわからほん形式けいしきによるげ・牽引けんいん運転うんてん実施じっしするため、非常ひじょうブレーキ動作どうさなどに過大かだいなみがた連結れんけつ作用さようりょくなみれんりょく)が発生はっせいし、連結れんけつ破損はそん列車れっしゃこごめによる車両しゃりょう車体しゃたい台車だいしゃ分離ぶんりがり脱線だっせん予防よぼう車両しゃりょう逸走いっそうといった事故じこ発生はっせいするのを防止ぼうしする目的もくてきで、とう区間くかん通過つうかする車両しゃりょうには以下いか対策たいさく通称つうしょう:「よこけい対策たいさく」)が必須ひっすとされた。また、指定していされた形式けいしき以外いがい車両しゃりょう大物おおものしゃはがねごうづくり客車きゃくしゃ通過つうか禁止きんしされている。

  • たいわく連結れんけつ強化きょうか[38]
  • 緩衝かんしょう容量ようりょう増大ぞうだい[36]
  • 車掌しゃしょうべん車掌しゃしょうよう非常ひじょうブレーキ装置そうち)へのしぼ追加ついか[39]
  • 台車だいしゃよこ制限せいげん装置そうち追加ついか[40]
  • 一部いちぶのぞき、空気くうきばね台車だいしゃ装着そうちゃくしゃたいするパンク機能きのう付加ふか(ただしパンクをさせるのは粘着ねんちゃくしき移行いこうとした。これはパンクしてくるまだかひくくなると床下ゆかした機器ききがラックレールに接触せっしょくするおそれがあったからである)[36][41]

対策たいさく施工しこう車両しゃりょうには識別しきべつのため車両しゃりょう番号ばんごう先頭せんとう直径ちょっけい40ミリメートルの「●(Gマーク)」をした。

これらの制約せいやくは、とう区間くかん粘着ねんちゃく運転うんてんへの直前ちょくぜん実施じっしされた165けい9りょう編成へんせいとEF63によるくだ勾配こうばいでの試験しけん運転うんてんで、非常ひじょうブレーキを作動さどうさせたところ、機関きかんしゃ次位じいのクハ165がた軽井沢かるいざわかたにあたる車体しゃたい後部こうぶ垂直すいちょくこごめ浮上ふじょうし、車体しゃたい台車だいしゃ分離ぶんりするという現象げんしょうのぼ勾配こうばいでの客車きゃくしゃ牽引けんいんたて勾配こうばいへんきょくてん軽井沢かるいざわかた台車だいしゃ脱線だっせんする現象げんしょう発生はっせいした[36][42]ことに由来ゆらいする。

この結果けっか機関きかんしゃ車両しゃりょうとのあいだ発生はっせいするなみれんりょく過大かだいがもたらす悪影響あくえいきょう認識にんしきされ、とう区間くかんでの牽引けんいん対象たいしょう列車れっしゃたいする最大さいだい8りょう(80けいと185けいは7りょう)までの連結れんけつりょうすう制限せいげんと、電車でんしゃかぎりではあるが、車種しゃしゅわずこころさら脱出だっしゅつ防止ぼうしのため、空気くうきばね台車だいしゃ装着そうちゃくしゃたいするパンクの義務ぎむ決定けっていされた[36]。なお、気動車きどうしゃ客車きゃくしゃでは台車だいしゃ構造こうぞうちがいからパンクさせることができず、また気動車きどうしゃ場合ばあいかり空気くうきばねをパンクさせることができても、今度こんどはエンジンなどの機器ききがラックレールと接触せっしょくするおそれがあることから、パンクをさせずにそのまま走行そうこうさせていた。

前述ぜんじゅつ専用せんよう車両しゃりょうによるEF63との協調きょうちょう運転うんてんシステムの開発かいはつは、前者ぜんしゃ制限せいげん解消かいしょう輸送ゆそうりょく不足ふそくおぎな手段しゅだんとして開発かいはつされたものである。後者こうしゃ対策たいさく空気くうきばね台車だいしゃ限界げんかいれんりょく金属きんぞくばね台車だいしゃくらべていちじるしくちいさいため垂直すいちょくこごめよわ一方いっぽうで、空気くうきばねをパンクさせてストッパゴムだけで車体しゃたい支持しじする状態じょうたいにすると、空気くうきばね有効ゆうこう比較ひかくしてやく6ばい限界げんかいれんりょくられることから実施じっしされたもの[43]で、同様どうよう貨物かもつ列車れっしゃ車掌しゃしょうしゃ緩急かんきゅうしゃ)についても、粘着ねんちゃく運転うんてんまもない1963ねん昭和しょうわ38ねん)11月に後部こうぶ緩急かんきゅうしゃワフ35045、2だんリンクしき)の軽井沢かるいざわがわ車軸しゃじくひだり脱線だっせんする事故じこ発生はっせいし、比較的ひかくてき軽量けいりょう緩急かんきゅうしゃEF63による運転うんてんげられた(こごめ)という推定すいていがなされたが、さらに1かげつ再発さいはつきたため1だんリンクしきあしまわりをもつヨ3500専用せんよう充当じゅうとうしたところ以後いごこらなくなった[44]

なお、碓氷峠うすいとうげ貨物かもつ列車れっしゃ速度そくど制限せいげんくだ勾配こうばい25 km/h、のぼりも30 km/h程度ていどきわめて低速ていそくである[45]ため、2だんリンクしきでなくても速度そくど向上こうじょうには関係かんけいない。

電車でんしゃでは協調きょうちょう協調きょうちょうわず、こごめによるがり脱線だっせん予防よぼうさくとして、車両しゃりょう重量じゅうりょうのある電動でんどうしゃユニットをとうげしたがわ組成そせいすることになり、新前橋しんまえばし電車でんしゃ現在げんざい高崎たかさき車両しゃりょうセンター)・長野ながの運転うんてんしょきた長野ながの運転うんてんしょ長野ながの総合そうごう車両しゃりょうしょ長野ながの総合そうごう車両しゃりょうセンター配置はいちの165けい・169けい車両しゃりょう基地きち配置はいちしゃぎゃくきの編成へんせい組成そせいされていたほか、のち松本まつもと運転うんてんしょ現在げんざい松本まつもと車両しゃりょうセンター配置はいち115けい1000番台ばんだいのち長野ながの移管いかん)・新前橋しんまえばし電車でんしゃ配置はいち185けい200番台ばんだい電動でんどうしゃユニットのきが本来ほんらいぎゃくきにされた。

北陸ほくりく新幹線しんかんせん開業かいぎょうともな信越本線しんえつほんせん廃止はいし

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碓氷峠うすいとうげ抜本ばっぽんてき輸送ゆそう改善かいぜんは、1997ねん平成へいせい9ねん)10がつ1にち北陸ほくりく新幹線しんかんせん高崎たかさきえき - 長野ながのえきあいだ(この区間くかん2015ねん平成へいせい27ねん3月13にちまで長野ながの新幹線しんかんせんとして営業えいぎょう)の開通かいつうによってなされた。そのさい信越本線しんえつほんせん碓氷峠うすいとうげ区間くかん横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだ)は、長距離ちょうきょり旅客りょかく新幹線しんかんせん移行いこうする反面はんめんで、県境けんきょうえるすなわ住環境じゅうかんきょうまたぐローカル旅客りょかくすう見込みこめないことや、とうげのぼくだりに設置せっちする設備せつび維持いじ多額たがく費用ひようがかかるとして、だいさんセクター鉄道てつどうなどに転換てんかんされることなく廃止はいしされた。

代替だいたい交通こうつう機関きかんとして横川よこがわえき - 軽井沢かるいざわえきあいだ片道かたみち34ふんむすジェイアールバス関東かんとう小諸こもろ支店してんによる碓氷うすいせんバスが1にち7往復おうふく運行うんこうされている[46]北陸ほくりく新幹線しんかんせん碓氷峠うすいとうげ北方ほっぽうにある碓氷峠うすいとうげトンネルを通過つうかする。この区間くかんは30‰の勾配こうばい連続れんぞくしているため、日常にちじょうてき運行うんこうされるE2けい基本きほん番台ばんだいE7けい・W7けい以外いがいでは勾配こうばい対策たいさく別途べっと施工しこうした車両しゃりょう存在そんざいした[ちゅう 2]新幹線しんかんせん開業かいぎょうの1997ねん平成へいせい9ねん)10がつ高崎たかさき - 軽井沢かるいざわあいだの1にち平均へいきん乗車じょうしゃ人員じんいん上下じょうげ方向ほうこう合計ごうけいおよそ3まんにん乗車じょうしゃりつ 68%前年ぜんねん同期どうきどう区間くかん運行うんこうしていた信越本線しんえつほんせん特急とっきゅうあさま」とくらべてやく1まん2000にん増加ぞうかした[47]廃止はいし方針ほうしんについて、群馬ぐんまけん安中あんなか新島にいじま学園がくえん高等こうとう学校がっこう長野ながのけんから通学つうがくする生徒せいと保護ほごしゃ中心ちゅうしん廃止はいし許可きょか取消とりけしもとめる行政ぎょうせい訴訟そしょう取消とりけし訴訟そしょう)が前橋まえばし地方裁判所ちほうさいばんしょこされたが、裁判所さいばんしょは「(廃止はいし手続てつづきをさだめた)鉄道てつどう事業じぎょうほう利用りようしゃ個々ここ利益りえき直接ちょくせつ保護ほごするものではない」として原告げんこく適格てきかくみとめず、訴訟そしょう却下きゃっかした[48]東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ控訴こうそしん最高裁判所さいこうさいばんしょ上告じょうこくしん前橋まえばし地方裁判所ちほうさいばんしょ決定けってい支持しじし、却下きゃっか確定かくていした。

車両しゃりょう

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ラックしき時代じだい

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蒸気じょうき機関きかんしゃ
電気でんき機関きかんしゃ
気動車きどうしゃ

粘着ねんちゃくしき時代じだい

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電気でんき機関きかんしゃ
協調きょうちょう運転うんてん対応たいおうしゃ
電車でんしゃ
よこけい通過つうか対策たいさくしゃ
電車でんしゃ
気動車きどうしゃ
客車きゃくしゃ
貨車かしゃ

なお、EF55 2空転くうてん試験しけん列車れっしゃ[49]C11 91日立ひたちポンパごう[50]碓氷峠うすいとうげ走行そうこうしたことがある。

はいせんあと活用かつよう

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近代きんだい以降いこう事故じこ

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1918ねん大正たいしょう7ねん)3がつ7にち発生はっせいした熊ノ平くまのたいらえき列車れっしゃ脱線だっせん事故じこ現場げんば

碓氷峠うすいとうげでは明治めいじ以降いこうだけでもおおくの事故じこきている。1891ねんから1893ねん線路せんろ建設けんせつたっては、完成かんせいいそいだことなどから500めい以上いじょうもの殉職じゅんしょくしゃしょうじている[20][ちゅう 7]。1901ねんには日本にっぽん鉄道てつどうふく社長しゃちょう毛利もうりしげる偶然ぐうぜんまれ死亡しぼうした碓氷峠うすいとうげ蒸気じょうき列車れっしゃぎゃくはし事故じここった[52]。また、1950ねんには熊ノ平くまのたいらえきすうかいにわたる土砂崩どしゃくずれがきて50めいくなった。

勾配こうばいきわめてきゅうなことから列車れっしゃ脱線だっせん事故じこもしばしばあり、たとえば1918ねん3月7にちには貨物かもつ列車れっしゃ碓氷峠うすいとうげきゅう勾配こうばいぎゃくそうし、熊ノ平くまのたいらえき側線そくせん突入とつにゅう脱線だっせん大破たいはする熊ノ平くまのたいらえき列車れっしゃ脱線だっせん事故じこ発生はっせいした。また1963ねん10月16にちトンネルうち貨車かしゃ[53]1975ねん10月28にちには電気でんき機関きかんしゃ脱線だっせんしている(信越しんえつせん軽井沢かるいざわ - 横川よこかわあいだ回送かいそう機関きかんしゃ脱線だっせん転落てんらく事故じこ[54]とくに1975ねん事故じこでは機関きかんしゃ4りょうが10mした県道けんどう斜面しゃめんまで転落てんらくし、乗員じょういん3めい重傷じゅうしょうった。また、被災ひさいした機関きかんしゃ4りょう復旧ふっきゅう不能ふのうぜん廃車はいしゃとなった。

夏季かき豪雨ごうう国道こくどう18ごう崩落ほうらくすることもおおく、1979ねん8がつ12にちには雷雨らいうのためながさ15m、はば2.5mにわたって崩落ほうらくして通行止つうこうどめとなり[55]1992ねん8がつ29にちにはながさ150m、はば6mにわたって道路どうろ北側きたがわ土砂どしゃくずれたうえ地盤じばんゆるみ、復旧ふっきゅうに2かげつようしている[56]。このほか1969ねんにはやま火事かじ国道こくどう18ごうの3kmの区間くかん通行止つうこうどめとなったこともある[57]

伝承でんしょう詩歌しか作品さくひんなど

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碓氷峠うすいとうげには、とうげなどと同様どうよう豪傑ごうけつ伝承でんしょうなどがある。古代こだいでは頼光よりみつ四天王してんのう1人ひとり碓井貞光うすいのさだみつ有名ゆうめいであり、先祖せんぞ勅勘ちょっかんによって配流はいるされ碓氷峠うすいとうげ隠棲いんせいしていたといわれる[58]中世ちゅうせいから近世きんせいにかけては「なだでんひだり太夫たゆう」(なだたのさだゆう)のはなしつたわっている。実在じつざいした土豪どごう佐藤さとうひだり太夫たゆうのモデルになったとされ、具体ぐたいてき内容ないようとしては

  • あし非常ひじょうはやく、茶飲ちゃのばなしをしているあいだ信濃しなのこくまでってソバってきた[59]
  • 怪力かいりきぬしで、加賀かが藩主はんしゅかご1人ひとりでかつぎ、反対はんたいがわには巨石きょせきをぶらげたままやすまずにとうげのぼりきった[60]
  • ちから利用りようして悪事あくじはたらいたためとうげわれ、うら妙義みょうぎかくんでくなった[60]

などがある。

近代きんだいはいるとおおくの文学ぶんがくしゃとうげおとずれ、正岡子規まさおかしき1891ねんの『かけはしの[61]なかで、碓氷峠うすいとうげ馬車ばしゃ鉄道てつどうえたとき様子ようすえがいている。高野たかの辰之たつゆきは、東京とうきょうから帰省きせいするさい利用りようした信越本線しんえつほんせん熊ノ平くまのたいらえきからえる紅葉こうよううつくしさに触発しょくはつされ、1911ねん発表はっぴょう文部省もんぶしょう唱歌しょうかもみじ』の歌詞かしんだ。

大正たいしょう時代じだいには、北原きたはら白秋はくしゅうが『碓氷うすいはる』という一連いちれん和歌わかんでおり、そのいちしゅきざんだ歌碑かひ横川よこがわえきしたのドライブインにある[13]。また、頂上ちょうじょう熊野くまの神社じんじゃ境内けいだいには山口やまぐち誓子せいこ杉浦すぎうら翠子すいこ碓氷峠うすいとうげんだ俳句はいく句碑くひがある[62]西條さいじょう八十やそ『ぼくの帽子ぼうし』の冒頭ぼうとうには碓氷峠うすいとうげ登場とうじょうし、森村もりむら誠一せいいちの『人間にんげん証明しょうめい』はそれを引用いんようしている。うえかるたの「う」のさつは「碓氷峠うすいとうげの 関所せきしょあと」である。

観光かんこう名所めいしょ

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詳細しょうさいについてはかく項目こうもく参照さんしょうされたい。

  • きゅう中山道なかせんどう坂本さかもと宿やど
  • 碓氷うすいだいさん橋梁きょうりょう(めがねばし
  • 碓氷うすい
    • 碓氷川うすいがわ建設けんせつされた坂本さかもとダムによってできたダムみずうみであるが、周辺しゅうへん整備せいびされ新緑しんりょく紅葉こうよう名所めいしょである。
  • アプトのみち遊歩道ゆうほどう
    • 信越本線しんえつほんせん横川よこかわ基点きてんとして、のぼしんせんきゅうせん経由けいゆし、丸山まるやま変電へんでんしょとうげ碓氷うすいだいさん橋梁きょうりょう通称つうしょうめがねばし)をて、熊ノ平くまのたいら信号しんごうじょうまで通行つうこうできる。なお、横川よこがわからとうげまではきゅうのぼ本線ほんせんアスファルト舗装ほそうしているが、きゅう勾配こうばいのレールのおもさによるずれにより、所々ところどころにアスファルトにひびがはいっている(現在げんざい年間ねんかんすうミリのレールのずれがきている)。2005ねん平成へいせい17ねん)に開通かいつうしたシェルパくんが走行そうこうするくだせんとはしがらみ分離ぶんりされており、立入たちいりできないようになっている。
  • 丸山まるやま変電へんでんしょ
    • ラック方式ほうしき鉄道てつどう電化でんかさい軽井沢かるいざわさき変電へんでんしょとともに建設けんせつされた施設しせつで、蓄電池ちくでんちしつ機械きかいしつの2むねからなる。レンガづくりで丸山まるやまにあるもの用途ようと廃止はいしもそのまま放置ほうちされるかたちとなりのこったが、さきもの解体かいたいされた。信越本線しんえつほんせん廃止はいし遊歩道ゆうほどう整備せいびにあわせて復元ふくげん工事こうじおこなわれ、2002ねん平成へいせい14ねん)に完成かんせいした。この工事こうじにあわせ、建物たてもの内部ないぶ一部いちぶのものが撤去てっきょされている。トロッコ開通かいつうにより、まるやまえきとしてホームが新設しんせつされたが、ラック方式ほうしき時代じだいには丸山まるやま信号しんごうじょうとしていた場所ばしょとなる。なお、はいせんまえからあきコスモスになるとして有名ゆうめいである。
  • 熊ノ平くまのたいら信号しんごうじょう
    • ラック方式ほうしき時代じだいにはえきとして開業かいぎょうしたもので、1968ねん昭和しょうわ38ねん)の粘着ねんちゃくしき運転うんてん開始かいしにより、そのえき廃止はいしされ信号しんごうじょうとなる。えきとしての機能きのうがあるときには玉屋たまや現在げんざい坂本さかもとにある玉屋たまやドライブイン)が、とうげちからもち販売はんばいしていた。1950ねん昭和しょうわ25ねん)に発生はっせいした土砂どしゃ災害さいがいによっておおくの犠牲ぎせいしゃ発生はっせいし、殉難じゅんなんいしぶみ建立こんりゅうされ、現在げんざい毎年まいとし慰霊いれいさいおこなわれている。慰霊いれい隣接りんせつして、熊ノ平くまのたいら神社じんじゃもある。熊ノ平くまのたいら現在げんざい遊歩道ゆうほどう以外いがい立入禁止たちいりきんしとなっている。
    • トンネルが軽井沢かるいざわかたに3ほん横川よこがわかたに4ほんあるが、ラック方式ほうしき時代じだいつくられたくだり突込せんトンネルの1ほん国道こくどう18ごう旧道きゅうどう)につづいており、業務ぎょうむよう出入でいぐちとして使用しようされていた。現在げんざい工事こうじ車両しゃりょう出入でいぐちとなっており、入口いりくちもん施錠せじょうされている。場内じょうないには変電へんでんしょ放置ほうちされたままのこっており、そこにあらたに気象きしょう観測かんそく機器きき設置せっちされている。このアプトのいしぶみやホームあとのこっており、はいせん当時とうじ状態じょうたいわっていない。
  • ラック方式ほうしき時代じだいのトンネル・橋梁きょうりょう
    • 国道こくどう18ごう旧道きゅうどう沿いで、いたところることができる。トンネル・カルバート・橋梁きょうりょうかんして、熊ノ平くまのたいら以東いとうには案内あんない看板かんばん設置せっちされているが、熊ノ平くまのたいら以西いせいとく案内あんないばんなどは設置せっちされていない。きゅう本線ほんせんかんしても案内あんないばんなどの設置せっちはない。
  • ゴルフじょう付近ふきん
    • きりせき温泉おんせんつうじる道路どうろきゅう本線ほんせん観察かんさつできる。1975ねん昭和しょうわ50ねん)に発生はっせいした脱線だっせん転覆てんぷく事故じこさい出来できたトンネル壁面へきめんきずが、のぼせんだいいちトンネル出口でぐちのこされている。事故じこ現場げんば付近ふきん植生しょくせいちがっているが、きゅう本線ほんせんからないとわからない状態じょうたいとなっている。なお、遊歩道ゆうほどうされていない部分ぶぶんのぼせん草木くさきしげり、かなりれている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 実際じっさいにはたん区間くかんだけ68‰が存在そんざいした。
  2. ^ 200けいF80編成へんせいE4けいP51・P52・P81・P82編成へんせい。このうちF80・P81・P82編成へんせいは60Hzへるつ対応たいおうしているため、長野ながのまで入線にゅうせん可能かのう
  3. ^ 走行そうこうれきはない。
  4. ^ 走行そうこうれきはない。
  5. ^ 1000番台ばんだい協調きょうちょう運転うんてん装置そうち準備じゅんび施工しこう
  6. ^ 営業えいぎょう運転うんてんはいったことはない。
  7. ^ 歴史れきし作家さっか清水しみずのぼるは、碓氷うすい関所せきしょあとにある「招魂しょうこん」(1892ねん明治めいじ25ねん〉3がつ建立こんりゅう)にきざまれている500にんという犠牲ぎせいしゃすうについて、「1年間ねんかんに500にんもの作業さぎょういん犠牲ぎせいになるだろうか」と疑問ぎもんていしたうえで、この招魂しょうこん碓氷峠うすいとうげ工事こうじのみならず日本にっぽんにおける鉄道てつどう建設けんせつ開始かいし(1870ねん明治めいじ3ねん〉3がつ)から1891ねん明治めいじ24ねん)までの全体ぜんたいてき犠牲ぎせいしゃとむらったのではないかとべている[51]

出典しゅってん

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  2. ^ 野村のむらあきら 1996, pp. 5–6.
  3. ^ 野村のむらあきら 1996, p. 6.
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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