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バーミヤン渓谷けいこく文化ぶんかてき景観けいかん古代こだい遺跡いせきぐん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界遺産 バーミヤン渓谷けいこく
文化ぶんかてき景観けいかん古代こだい遺跡いせきぐん
アフガニスタン
バーミヤン渓谷の石仏と石窟(1976年)
バーミヤン渓谷けいこく石仏いしぼとけ石窟せっくつ(1976ねん
英名えいめい Cultural Landscape and Archaeological Remains of the Bamiyan Valley
ふつめい Paysage culturel et vestiges archéologiques de la vallée de Bamiyan
面積めんせき 158.926498 ha
緩衝かんしょう地域ちいき 341.950012 ha)
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (1), (2), (3), (4), (6)
登録とうろくねん 2003ねん
座標ざひょう 北緯ほくい3449ふん55びょう 東経とうけい6749ふん36びょう / 北緯ほくい34.832041666667 東経とうけい67.826802777778 / 34.832041666667; 67.826802777778座標ざひょう: 北緯ほくい3449ふん55びょう 東経とうけい6749ふん36びょう / 北緯ほくい34.832041666667 東経とうけい67.826802777778 / 34.832041666667; 67.826802777778
備考びこう 危機きき遺産いさん(2003ねん -)
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
地図ちず
バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の位置
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ
破壊はかい前後ぜんこう石仏いしぼとけ
破壊はかい石仏いしぼとけ

バーミヤン渓谷けいこく文化ぶんかてき景観けいかん古代こだい遺跡いせきぐん(バーミヤンけいこくのぶんかてきけいかんとこだいいせきぐん)は、アフガニスタン首都しゅとカーブル北西ほくせい230kmの山岳さんがく地帯ちたい位置いちするバーミヤン渓谷けいこく(バーミヤーン渓谷けいこく)に設定せっていされたユネスコ世界せかい文化ぶんか遺産いさん危機きき遺産いさん指定していちゅう)。

歴史れきし

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バーミヤン渓谷けいこく古代こだい以来いらい都市としであるバーミヤーン(バーミヤン)のまち中心ちゅうしんとするヒンドゥークシュ山脈さんみゃく山中さんちゅう渓谷けいこく地帯ちたいで、標高ひょうこう2500mほどの高地こうち位置いちする。

古代こだいから存続そんぞくする都市としバーミヤーンの近郊きんこうには、1世紀せいきからバクトリアによって石窟せっくつ仏教ぶっきょう寺院じいん開削かいさくされはじめた。石窟せっくつかずは1000以上いじょうにものぼり、グレコ・バクトリア様式ようしきながれを仏教ぶっきょう美術びじゅつすぐれた遺産いさんである。

5世紀せいきから6世紀せいきころにはたかさ55m(西にし大仏だいぶつ)と38m(東大とうだいほとけ)の2たい大仏だいぶつをはじめとするおおくの巨大きょだい仏像ぶつぞうられ、石窟せっくつないにはグプタあさのインド美術びじゅつサーサーンあさペルシア美術びじゅつ影響えいきょうけた壁画へきがえがかれた。バーミヤーンの仏教ぶっきょう文化ぶんか繁栄はんえいをきわめ、630ねんとうふつそうげんがこのおとずれたときにも依然いぜんとして大仏だいぶつうつくしく装飾そうしょくされて金色きんいろひかかがやき、僧院そういんにはすうせんにんそう居住きょじゅうしていたという。

19世紀せいき以降いこう、アフガニスタンが国際こくさい社会しゃかいまれ、西洋せいようじん日本人にっぽんじん山岳さんがく地帯ちたい奥深おくふかくまで探検たんけんおとずれるようになると、バーミヤーン遺跡いせき大仏だいぶつはじおおくの仏教ぶっきょう美術びじゅつのこされていたことから俄然がぜん注目ちゅうもくあつめることとなった。20世紀せいきにはおおくの学術がくじゅつ調査ちょうさ実施じっしされてその価値かちたか評価ひょうかされ、一躍いちやくアフガニスタンのほこ世界せかいてき文化ぶんか遺産いさんとみなされるにいたる。

しかし、1979ねんソビエト連邦れんぽうのアフガニスタン侵攻しんこう以来いらいアフガニスタンでつづいてきたアフガン紛争ふんそうによっておおきな被害ひがいけた。2001ねんには当時とうじのアフガニスタンを支配しはいしていたターリバーン政権せいけんにより爆破ばくはされ、遺跡いせき壊滅かいめつてき被害ひがいけた。紛争ふんそう終結しゅうけつ調査ちょうさにより、一連いちれん混乱こんらん破壊はかいにより大仏だいぶつのみならず、石窟せっくつ壁面へきめんえがかれた仏教ぶっきょうのおよそ8わりうしなわれたと報告ほうこくされている。

日本にっぽんでは当時とうじユネスコ親善しんぜん大使たいしだった平山ひらやま郁夫いくおはこれに抗議こうぎして危機ききひんする文化財ぶんかざい文化ぶんか難民なんみんとして保護ほごすることを提案ていあんし、流出りゅうしゅつ文化財ぶんかざい保護ほご日本にっぽん委員いいんかい創設そうせつした。2002ねん以来いらい日本にっぽんが181まんドルを拠出きょしゅつするふつがん修復しゅうふく事業じぎょうをはじめ、国際こくさい支援しえんによる修復しゅうふくすすめられている。

2015ねん6月15にちには中国ちゅうごく研究けんきゅうチームが3Dでの大仏だいぶつ復元ふくげんおこなった[1]

2021ねん8がつ、ターリバーンがアフガニスタン全土ぜんどふたた制圧せいあつ、バーミヤンの古代こだい遺跡いせきふたたびターリバーンの管理かんりかれた[2]

ターリバーンによる破壊はかい

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1979ねんソビエト連邦れんぽうによるアフガニスタン侵攻しんこう以後いごは、アフガニスタンへの外国がいこくじんりはむずかしくなり、外国がいこく学術がくじゅつ機関きかんによる調査ちょうさおよび保存ほぞん事業じぎょう中断ちゅうだんした。1980年代ねんだい以降いこう発生はっせいした内戦ないせんにおいてバーミヤーンハザーラじん勢力せいりょく拠点きょてんとなり、90年代ねんだいには内戦ないせん激化げきかにともない遺跡いせき周囲しゅういにもおおくの地雷じらい埋設まいせつされるなど状況じょうきょう悪化あっか遺跡いせき破壊はかい憂慮ゆうりょされていた。

バーミヤーンはターリバーンによって1998ねん占領せんりょうされた。ターリバーン政権せいけんがアフガニスタンのだい部分ぶぶん平定へいていしたことにより内戦ないせん終結しゅうけつ期待きたいされたが、その一方いっぽうでターリバーンはイスラム教いすらむきょう戒律かいりつしたパシュトゥーンじんふる慣習かんしゅう国民こくみん強制きょうせい人権じんけん侵害しんがいとの非難ひなんけ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくたいする国際こくさいテロの指導しどうしゃとみなされていたウサーマ・ビン・ラーディン庇護ひごするなど国際こくさい社会しゃかいにおいて孤立こりつしつつあった。

2001ねん2がつ26にちにターリバーンはイスラムの偶像ぐうぞう崇拝すうはい禁止きんし規定きていはんしているとしてバーミヤンの大仏だいぶつ磨崖仏まがいぶつ)を破壊はかいすると宣言せんげんした。この声明せいめいたいして世界中せかいじゅう政府せいふおよ国際こくさい機関きかんくわえ、しょ外国がいこくのイスラム指導しどうしゃたちからも批判ひはんせられた。国際こくさい連合れんごう総会そうかいは、全会ぜんかい一致いっち破壊はかい中止ちゅうしする決議けつぎA/RES/55/243を採択さいたくした。

ターリバーンの高官こうかんだったアブドゥル・サラム・ザイーフによると、中国ちゅうごく、スリランカ、日本にっぽん代表だいひょうだん破壊はかい中止ちゅうしもとめておとずれており[3]とく日本国にっぽんこく政府せいふ積極せっきょくてきかつ具体ぐたいてき大仏だいぶつ国外こくがいへの移転いてん視認しにんできないようにかくすことを提案ていあんしていたとされる[4]。しかしターリバーンはこれら国際こくさい社会しゃかいのイスラム世界せかいからの批判ひはん無視むしし、3月2にちに2たい大仏だいぶつ破壊はかいはじめた。

破壊はかい様子ようす映像えいぞう撮影さつえいされており、撮影さつえいしゃもしくは人物じんぶつが「アッラーフ・アクバル」ととなえているなか爆破ばくはされる大仏だいぶつ映像えいぞうは、世界中せかいじゅう配信はいしんされた。

2012ねん5月16にち、ターリバーン政権せいけん勧善懲悪かんぜんちょうあくしょうのカラムディンもと長官ちょうかん単独たんどく記者きしゃ会見かいけんおこない、この破壊はかいについて「大仏だいぶつ破壊はかいただしい決断けつだんではなかったといまだからえる」「当時とうじ政権せいけん幹部かんぶのぞんでいなかったが、外国がいこくから兵士へいしたちが政権せいけんよりちからっており、かれらがめた」とべた[5]

ターリバーンの文化財ぶんかざい保護ほごたいする意識いしき欠如けつじょつよ批判ひはんされる一方いっぽうで、内戦ないせんちゅうおおくの餓死がししゃていたアフガニスタンにたいして国際こくさい社会しゃかい関心かんしんであったことを批判ひはんするものもいる。イラン映画えいが監督かんとくであるモフセン・マフマルバフ作品さくひんアフガニスタンの仏像ぶつぞう破壊はかいされたのではない恥辱ちじょくのあまりくずちたのだ[6]においてマフマルバフは、100まんにん餓死がしものよりも、ひとつの仏像ぶつぞう破壊はかいが、世界せかい注目ちゅうもくされたことへの苛立いらだちを表明ひょうめいしている。

わたしは、ヘラートまちはずれで、2まんにんもの男女だんじょ子供こどもが、えでんでいくのをたりにした。かれらはもはやある気力きりょくもなく、みな地面じめんたおれて、ただつだけだった。この大量たいりょう原因げんいんは、アフガニスタンの最近さいきん旱魃かんばつである。おなに、国連こくれん難民なんみん高等こうとう弁務べんむかんである日本人にっぽんじん女性じょせい緒方おがた貞子さだこ)もこの2まんにんのもとをおとずれ、世界せかいかれらのためくすと約束やくそくした。3ヵ月かげつ、この女性じょせいがアフガニスタンで餓死がし直面ちょくめんしている人々ひとびとかずは、100まんにんだとうのをわたしいた。
 ついにわたしは、仏像ぶつぞうは、だれ破壊はかいしたのでもないという結論けつろんたっした。仏像ぶつぞうは、恥辱ちじょくためくずちたのだ。アフガニスタンのしいたげられた人々ひとびとたいし、世界せかいがここまで関心かんしんであることをじ、みずからの偉大いだいさなどなんしにもならないとってくだけたのだ。 — モフセン・マフマルバフ

またターリバーンが強硬きょうこう姿勢しせいをとった背景はいけいとして、ムハンマド・オマルなどターリバーンの指導しどうしゃたいして、庇護ひごにあったウサーマ・ビンラーディンの影響えいきょうりょくつよまったことが原因げんいんであるとも指摘してきされている。

破壊はかい保護ほご活動かつどう

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ドイツの調査ちょうさチームが破壊はかい瓦礫がれきから発掘はっくつした木片もくへんわらなどを放射ほうしゃせい炭素たんそ年代ねんだい測定そくていほうもちいて分析ぶんせきしたところ、大仏だいぶつ築造ちくぞうねんは507ねん±12ねん西にし大仏だいぶつは551ねん±15ねんであるとの結果けっかられた。

登録とうろく経緯けいい

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遺跡いせきは「バーミヤン渓谷けいこく建造けんぞうぶつぐん」のにより文化ぶんか遺産いさん推薦すいせんされたが戦争せんそうのため保存ほぞん事業じぎょうすすまず、1983ねん審議しんぎ延期えんき決定けっていされた。

2001ねんまつアメリカのアフガニスタン侵攻しんこうをきっかけにターリバーン政権せいけん崩壊ほうかいし、アフガニスタン内戦ないせん一応いちおう終結しゅうけつをみると、遺跡いせき修復しゅうふく保全ほぜんたいして世界せかいてき支援しえん機運きうんたかまった。まず2002ねんはる日本にっぽん政府せいふが70まんドルを拠出きょしゅつしてユネスコ日本にっぽん信託しんたく基金ききん設立せつりつし、ユネスコ共同きょうどう修復しゅうふく保存ほぞんし、2003ねんには危機ききにさらされている世界せかい遺産いさんとして世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。

登録とうろく基準きじゅん

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この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • 1983ねん審議しんぎ延期えんき推薦すいせんされていた登録とうろく基準きじゅんは(ii)(iv)の2てんである。
  • 2003ねん登録とうろくには以下いかのような理由りゆうである。
  • (i) 人類じんるい創造そうぞうてき天才てんさい傑作けっさく表現ひょうげんするもの。
  • (ii) ある期間きかんつうじて、または、ある文化ぶんかけんにおいて、建築けんちく技術ぎじゅつ記念きねんてき芸術げいじゅつ町並まちな計画けいかく景観けいかんデザインの発展はってんかんし、人類じんるい価値かち重要じゅうよう交流こうりゅうしめすもの。
  • (iii) 現存げんそんする、または、消滅しょうめつした文化ぶんかてき伝統でんとう、または、文明ぶんめいの、唯一ゆいいつの、またはすくなくともまれ証拠しょうことなるもの。
  • (iv) 人類じんるい歴史れきしじょう重要じゅうよう時代じだい例証れいしょうする、ある形式けいしき建造けんぞうぶつ建築けんちくぶつぐん技術ぎじゅつ集積しゅうせき、または景観けいかん顕著けんちょれい
  • (vi) 顕著けんちょ普遍ふへんてき意義いぎゆうする出来事できごと現存げんそんする伝統でんとう思想しそう信仰しんこう、または、芸術げいじゅつてき文学ぶんがくてき作品さくひんと、直接ちょくせつに、または、明白めいはく関連かんれんするもの。

詳細しょうさいは、バーミヤン渓谷けいこく石仏いしぼとけ壁画へきが中央ちゅうおうアジアにおけるガンダーラ仏教ぶっきょう美術びじゅつ傑作けっさくであること(i)、シルクロード仏教ぶっきょうセンターであったバーミヤン渓谷けいこく遺跡いせき美術びじゅつてき建築けんちくてきにガンダーラ文化ぶんか基礎きそとしてインドヘレニズムローマサーサーンあさイランの文化ぶんか融合ゆうごうし、さらに後世こうせいにはイスラムの影響えいきょうくわわった文化ぶんかさかえたこと(ii)、中央ちゅうおうアジアではすでうしなわれた仏教ぶっきょう文化ぶんか遺跡いせきであること(iii)、バーミヤン渓谷けいこく仏教ぶっきょう文化ぶんか繁栄はんえいした時代じだい様子ようすつたえるすぐれた文化ぶんかてき景観けいかんをもつこと(iv)、バーミヤン渓谷けいこく西方せいほうにおける仏教ぶっきょう記念きねんてき存在そんざいであること(vi)である。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ “タリバンに破壊はかいされたバーミヤン大仏だいぶつ中国ちゅうごく専門せんもんが3D投影とうえい技術ぎじゅつ復元ふくげん中国ちゅうごく. Record China. (2015ねん6がつ17にち). https://www.recordchina.co.jp/b111695-s0-c30-d0052.html 2019ねん7がつ8にち閲覧えつらん 
  2. ^ 20ねんまえ破壊はかいした大仏だいぶつ跡地あとち警備けいびするタリバン”. AFP (2021ねん10がつ4にち). 2021ねん10がつ6にち閲覧えつらん
  3. ^ Abdul Salam Zaeef (7 January 2011). My Life with the Taliban. Oxford University Press. pp. 127–. ISBN 978-1-84904-152-2. https://books.google.com/books?id=yXf1AQAAQBAJ&pg=PA127&ved=0CB4Q6AEwAGoVChMI9PSV4KTUxwIVRBk-Ch2rCAd6&q=Another%20suggestion%20they%20had%20was%20that%20they%20cover%20the%20statues%20from%20head%20to%20toe%20in%20a%20way%20that%20no%20one%20would%20recognize%20they%20had%20ever%20been%20there%2C%20while%20preserving%20them%20underneath 
  4. ^ “バーミヤン石仏いしぼとけ海外かいがい移設いせつ日本にっぽん提案ていあん」、タリバン政権せいけん当時とうじの「かお」がかす”. AFPBB. (2010ねん2がつ26にち). https://www.afpbb.com/articles/-/2702141 2019ねん7がつ8にち閲覧えつらん 
  5. ^ 遺跡いせき大仏だいぶつ破壊はかいあやまちだった」タリバン最強さいきょう硬派こうはもと幹部かんぶ琉球新報りゅうきゅうしんぽう、2012ねん5がつ16にち)※ウェブアーカイブ
  6. ^ モフセン・マフマルバフ 『アフガニスタンの仏像ぶつぞう破壊はかいされたのではない恥辱ちじょくのあまりくずちたのだ現代げんだい企画きかくしつ 2001ねん11月30にち ISBN 4-7738-0112-3

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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