日本 にっぽん の自動車 じどうしゃ メーカーとしては古 ふる い歴史 れきし を持 も ち、国内 こくない 規模 きぼ は小 ちい さいながらもレガシィ シリーズ、フォレスター 、インプレッサ シリーズなどで世界 せかい 的 てき 人気 にんき ・知名度 ちめいど の高 たか い自動車 じどうしゃ メーカーの一 ひと つである。特 とく に同社 どうしゃ のアイデンティティである4輪 りん 独立 どくりつ 懸架 けんか や水平 すいへい 対向 たいこう エンジン の技術 ぎじゅつ は北米 ほくべい を始 はじ めとする海外 かいがい で高 たか く評価 ひょうか されており、中古 ちゅうこ 車 しゃ の輸出 ゆしゅつ も盛 さか んに行 おこな われている。なお、愛媛 えひめ 県 けん 四国 しこく 中央 ちゅうおう 市 し に本社 ほんしゃ を置 お く紙 かみ 加工 かこう メーカーのスバル株式会社 かぶしきがいしゃ とは社名 しゃめい が似 に ているが無関係 むかんけい である。
1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )5月 がつ 、中島 なかじま 知久平 ちくへい (元 もと 海軍 かいぐん 機関 きかん 大尉 たいい )によって群馬 ぐんま 県 けん 新田 にった 郡 ぐん 尾島 おじま 町 まち (現 げん 太田 おおた 市 し )に設立 せつりつ された[ 5] 民営 みんえい の[ 6] 飛行機 ひこうき 研究所 けんきゅうじょ を前身 ぜんしん とする[ 7] 。太平洋戦争 たいへいようせんそう (第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん )終戦 しゅうせん 後 ご 、GHQ により財閥 ざいばつ 解体 かいたい の対象 たいしょう となった中島 なかじま 飛行機 ひこうき (1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )に富士産業 ふじさんぎょう と改称 かいしょう )がプリンス自動車 じどうしゃ 工業 こうぎょう と共 とも に解体 かいたい されたのが 、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう のルーツである。
軍需 ぐんじゅ から非 ひ 軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう への転換 てんかん 、スクーター やバス などの輸送 ゆそう 用 よう 機器 きき 開発 かいはつ 、企業 きぎょう 分割 ぶんかつ などを経 へ て、旧 きゅう 中島 なかじま 系 けい の主要 しゅよう 企業 きぎょう の共同 きょうどう により1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )に富士重工業 ふじじゅうこうぎょう を設立 せつりつ 。1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )に参画 さんかく 各社 かくしゃ が富士重工業 ふじじゅうこうぎょう に合併 がっぺい されることで企業 きぎょう としての再 さい 合同 ごうどう を果 は たした。
1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )発売 はつばい の軽 けい 乗用車 じょうようしゃ 「スバル・360 」と、その派生 はせい 型 がた である1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )発売 はつばい の軽 けい 商用 しょうよう 車 しゃ 「スバル・サンバー 」が技術 ぎじゅつ 的 てき ・商業 しょうぎょう 的 てき に大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めたことで、以後 いご 「スバル 」ブランドの自動車 じどうしゃ メーカーとしての地位 ちい を確立 かくりつ 。その他 た の分野 ぶんや にも多角 たかく 的 てき に進出 しんしゅつ しながら現在 げんざい に至 いた っている。
四 よん 式 しき 戦 せん 「疾風 しっぷう 」
中島 なかじま 飛行機 ひこうき は、主 しゅ として太平洋戦争 たいへいようせんそう 敗戦 はいせん まで陸海 りくかい 軍 ぐん の需要 じゅよう に応 こた え、軍用 ぐんよう 機 き および航空 こうくう 用 よう エンジン開発 かいはつ ・製造 せいぞう に取 と り組 く んだメーカーである。三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう 、川崎 かわさき 航空機 こうくうき と並 なら ぶ、日本 にっぽん 最大 さいだい 規模 きぼ の航空機 こうくうき 製造 せいぞう 会社 かいしゃ であった。
特 とく に技師 ぎし 長 ちょう 小山 こやま 悌 の指揮 しき 下 か 、陸軍 りくぐん (陸軍 りくぐん 航空 こうくう 部隊 ぶたい )の歴代 れきだい 主力 しゅりょく 戦闘 せんとう 機 き ・九 きゅう 七 なな 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 、一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 「隼 はやぶさ 」 、二 に 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「鍾馗 しょうき 」 、四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「疾風 しっぷう 」[ 注釈 ちゅうしゃく 1] など、多数 たすう の著名 ちょめい な軍用 ぐんよう 機 き を送 おく り出 だ した。実戦 じっせん 投入 とうにゅう は成 な らなかったが、日本 にっぽん 初 はつ のジェットエンジン 搭載 とうさい 機 き 「橘 たちばな 花 はな 」の機体 きたい 製造 せいぞう も中島 なかじま の手 て に依 よ っている。
航空 こうくう 発動 はつどう 機 き 部門 ぶもん では、軍用 ぐんよう ゆえの生産 せいさん 性 せい や戦闘 せんとう における生存 せいぞん 性 せい 、前線 ぜんせん での整備 せいび 性 せい などから空冷 くうれい 星 ほし 型 がた エンジンにほぼ特 とく 化 か しており、一式 いっしき 戦 せん 「隼 はやぶさ 」や零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き (零 れい 戦 せん ) に搭載 とうさい された「榮 さかえ (ハ25) 」、四 よん 式 しき 戦 せん 「疾風 しっぷう 」や「紫電 しでん 改 あらため 」に搭載 とうさい された「誉 ほまれ (ハ45) 」などを開発 かいはつ した。
企業 きぎょう 解体 かいたい と非 ひ 軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう への転進 てんしん
編集 へんしゅう
日本 にっぽん の敗戦 はいせん とともに、GHQより航空機 こうくうき の研究 けんきゅう ・製造 せいぞう の一切 いっさい が禁止 きんし され、中島 なかじま 飛行機 ひこうき は新 あら たに富士産業 ふじさんぎょう [ 注釈 ちゅうしゃく 2] と改称 かいしょう された。戦時 せんじ 中 ちゅう 、最先端 さいせんたん の航空機 こうくうき 開発 かいはつ に取 と り組 く んだ技術 ぎじゅつ 者 しゃ たちの生活 せいかつ は、各 かく 工場 こうじょう 毎 ごと に、自転車 じてんしゃ 、リヤカー 、自動車 じどうしゃ 修理 しゅうり 、果 は ては鍋 なべ や釜 がま 、衣類 いるい 箱 ばこ 、乳母車 うばぐるま などの金属 きんぞく 製品 せいひん を作 つく って糊口 ここう を凌 しの ぐ日々 ひび へと一変 いっぺん した。
このような状況 じょうきょう の中 なか 、太田 おおた と三鷹 みたか 工場 こうじょう の技術 ぎじゅつ 者 しゃ たちは、進駐軍 しんちゅうぐん の兵士 へいし たちが当時 とうじ 移動 いどう に利用 りよう していたアメリカ製 せい のスクーター 「パウエル 」に着目 ちゃくもく する。軽便 けいべん な移動 いどう 手段 しゅだん としての販路 はんろ を見込 みこ めると考 かんが えられたことからスクーターの国産 こくさん 化 か が計画 けいかく され、早速 さっそく 、敗戦 はいせん 後 ご も残 のこ っていた陸上 りくじょう 爆撃 ばくげき 機 き 「銀河 ぎんが 」の尾 お 輪 わ をタイヤに利用 りよう して試作 しさく 、1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )に「ラビットスクーター 」として発売 はつばい した。ラビットは運転 うんてん が簡易 かんい で扱 あつか いやすかったことから、戦後 せんご 日本 にっぽん の混乱 こんらん 期 き において市場 いちば の人気 にんき を博 はく し、会社 かいしゃ の基盤 きばん を支 ささ える重要 じゅうよう な商品 しょうひん となった。ラビットシリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰 く り返 かえ しつつ富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 成立 せいりつ 後 ご の1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )まで生産 せいさん された。
また航空機 こうくうき 製造 せいぞう で培 つちか った板金 ばんきん ・木工 もっこう 技術 ぎじゅつ を活用 かつよう し、1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )からバス ボディ架 か 装 そう にも進出 しんしゅつ 、特 とく に従前 じゅうぜん のボンネットバス より床 ゆか 面積 めんせき を大 おお きく取 と れるキャブオーバー型 がた ボディの架 か 装 そう で、輸送 ゆそう 力不足 ちからぶそく に悩 なや むバス会社 かいしゃ から人気 にんき を得 え た。さらに1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )にはアメリカ製 せい リアエンジン バスにならい、得意 とくい の航空機 こうくうき 製造 せいぞう 技術 ぎじゅつ を生 い かした、日本 にっぽん 初 はつ のモノコック ボディ・リアエンジンバス「ふじ号 ごう 」が完成 かんせい 。フロントエンジン型 がた キャブオーバーバスより更 さら にスペース効率 こうりつ に優 すぐ れることから成功 せいこう を収 おさ め、以降 いこう 、日本 にっぽん のバスボディ・シャーシ の主流 しゅりゅう はリアエンジン へ移行 いこう していった。
このようにして非 ひ 軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう へ転進 てんしん した富士産業 ふじさんぎょう であったが、1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )8月 がつ 、当時 とうじ の政策 せいさく によって財閥 ざいばつ 解体 かいたい の対象 たいしょう となり、工場 こうじょう 毎 ごと に15社 しゃ 以上 いじょう に分割 ぶんかつ されてしまった。
富士工業 ふじこうぎょう 三鷹 みたか 工場 こうじょう における労働 ろうどう 運動 うんどう (1950年 ねん 秋 あき )
1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )6月 がつ に勃発 ぼっぱつ した朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう は、戦後 せんご 不況 ふきょう にあえぐ日本 にっぽん に「朝鮮 ちょうせん 特需 とくじゅ 」をもたらしただけでなく、GHQの日本 にっぽん の占領 せんりょう 政策 せいさく を一変 いっぺん させた。1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ 、サンフランシスコ講和 こうわ 条約 じょうやく が発効 はっこう すると、旧 きゅう ・財閥 ざいばつ から民間 みんかん 賠償 ばいしょう 用 よう としてGHQに接収 せっしゅう されていた土地 とち ・建物 たてもの の所有 しょゆう 者 しゃ に返還 へんかん が始 はじ まった。富士工業 ふじこうぎょう (太田 おおた 、三鷹 みたか 工場 こうじょう )、富士 ふじ 自動車 じどうしゃ 工業 こうぎょう (伊勢崎 いせさき 工場 こうじょう )を中心 ちゅうしん とした旧 きゅう ・中島 なかじま 飛行機 ひこうき グループ内 ない での再 さい 合同 ごうどう の動 うご きがにわかに活発 かっぱつ 化 か 、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )12月、大宮 おおみや 富士工業 ふじこうぎょう (大宮 おおみや 工場 こうじょう )、東京 とうきょう 富士産業 ふじさんぎょう (旧 きゅう ・中島 なかじま 飛行機 ひこうき ・本社 ほんしゃ )を加 くわ えた4社 しゃ が合併 がっぺい 同意 どうい 文書 ぶんしょ に調印 ちょういん した。
同 おな じ頃 ごろ 、1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )の保安庁 ほあんちょう (現 げん 防衛 ぼうえい 省 しょう )予算 よさん に練習 れんしゅう 機 き 調達 ちょうたつ 予算 よさん が計上 けいじょう され、航空機 こうくうき 生産 せいさん 再開 さいかい に向 む けて、ビーチ・エアクラフト T-34 メンター の製造 せいぞう ライセンス獲得 かくとく に国内 こくない 航空機 こうくうき メーカー各社 かくしゃ は一斉 いっせい に動 うご き出 だ した。当時 とうじ 、再 さい 合同 ごうどう の途上 とじょう にあった旧 きゅう ・中島 なかじま 飛行機 ひこうき グループも再 さい 合同 ごうどう の動 うご きを加速 かそく させた。1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )5月 がつ には、鉄道 てつどう 車両 しゃりょう メーカーとなっていた宇都宮 うつのみや 車輛 しゃりょう (宇都宮 うつのみや 工場 こうじょう )が新 あら たに再 さい 合同 ごうどう に参加 さんか することが決 き まり、1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )7月 がつ 15日 にち 、5社 しゃ 出資 しゅっし による航空機 こうくうき 生産 せいさん を事業 じぎょう 目的 もくてき とする新 しん 会社 かいしゃ 富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ が発足 ほっそく した[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。因 ちな みに丸 まる の中 なか に6つの星 ほし が描 えが かれたSUBARUのロゴマークは、この「5社 しゃ が集 あつ まって1つの大 おお きな会社 かいしゃ になった」ことを示 しめ している。
1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )9月 がつ 、6社 しゃ が合併 がっぺい 契約 けいやく 書 しょ に調印 ちょういん 。1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )4月 がつ 1日 にち 、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう は、富士工業 ふじこうぎょう 、富士 ふじ 自動車 じどうしゃ 工業 こうぎょう 、大宮 おおみや 富士工業 ふじこうぎょう 、宇都宮 うつのみや 車輛 しゃりょう 、東京 とうきょう 富士産業 ふじさんぎょう の5社 しゃ を吸収 きゅうしゅう し、正式 せいしき に富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ としてスタートした(当時 とうじ の資本 しほん 金 きん :8億 おく 3050万 まん 円 えん 、従業 じゅうぎょう 員 いん :5,643名 めい )。ロゴは「富士重工 ふじじゅうこう 」で、「重 じゅう 」の1画 かく 目 め がない形 かたち になっており、長 なが らく使用 しよう された。これは、富士重工 ふじじゅうこう の文字 もじ が全 すべ て線 せん 対称 たいしょう であることも兼 か ねている。
旧 きゅう ・中島 なかじま 飛行機 ひこうき の発動 はつどう 機 き 開発 かいはつ の拠点 きょてん で、荻窪 おぎくぼ 工場 こうじょう と浜松 はままつ 工場 こうじょう を引 ひ き継 つ いだ富士 ふじ 精密 せいみつ 工業 こうぎょう は、中島 なかじま 飛行機 ひこうき 再 さい 合同 ごうどう の動 うご きが本格 ほんかく 化 か した1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )には、事実 じじつ 上 じょう 、既 すで にタイヤメーカーのブリヂストン の資本 しほん 下 か に入 はい っており[ 注釈 ちゅうしゃく 4] 、再 さい 合同 ごうどう には参加 さんか しなかった[ 注釈 ちゅうしゃく 5] 。また、この時 とき 再 さい 合同 ごうどう に加 くわ わらなかった、富士機械 ふじきかい 工業 こうぎょう [ 注釈 ちゅうしゃく 6] など3社 しゃ は、後 のち に富士重工業 ふじじゅうこうぎょう の関連 かんれん 会社 かいしゃ として加 くわ わっている。
富士重工業 ふじじゅうこうぎょう は、1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )に東邦 とうほう 化学 かがく 株式会社 かぶしきがいしゃ と合併 がっぺい し、存続 そんぞく 会社 かいしゃ を東邦 とうほう 化学 かがく 株式会社 かぶしきがいしゃ とした。この存続 そんぞく 会社 かいしゃ の東邦 とうほう 化学 かがく 株式会社 かぶしきがいしゃ は1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )に商号 しょうごう を富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ と改 あらた めた上 うえ で合併 がっぺい しているため、一貫 いっかん して継続 けいぞく した同 どう 一 いち 名称 めいしょう ではあるが、法律 ほうりつ 的 てき には従来 じゅうらい の富士重工業 ふじじゅうこうぎょう は1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )に一旦 いったん 消滅 しょうめつ している。これは株式 かぶしき 額面 がくめん 金額 きんがく 変更 へんこう が目的 もくてき の事務 じむ 的 てき なものである。
1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )、それまで東京 とうきょう ・丸 まる の内 うち の内外 ないがい ビルディング に所在 しょざい していた本社 ほんしゃ 機能 きのう が新宿 しんじゅく 駅 えき 西口 にしぐち (新宿 しんじゅく 区 く 西新宿 にししんじゅく )に自社 じしゃ 建設 けんせつ した「新宿 しんじゅく スバルビル 」に移転 いてん した。
この節 ふし では自動車 じどうしゃ 部門 ぶもん について述 の べる。
レオーネ を発売 はつばい した1970年代 ねんだい 初頭 しょとう から、本格 ほんかく 的 てき なアメリカ 市場 いちば への進出 しんしゅつ を開始 かいし した。オイルショック や排気 はいき ガス規制 きせい などの消費 しょうひ 者 しゃ の自動車 じどうしゃ に対 たい する要求 ようきゅう の変化 へんか や、当時 とうじ の円 えん 安 やす を背景 はいけい とした廉価 れんか 性 せい を武器 ぶき に、国産 こくさん 他 た メーカーと同 おな じくアメリカ市場 いちば での販売 はんばい 台数 だいすう を飛躍 ひやく 的 てき に伸 の ばすことに成功 せいこう した。
1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )から1999年 ねん (平成 へいせい 11年 ねん )まではメインバンク(日本興業銀行 にほんこうぎょうぎんこう /現 げん : みずほ銀行 ぎんこう )が同 おな じ日産自動車 にっさんじどうしゃ と提携 ていけい し、日産 にっさん ・チェリー 、パルサー 、サニー などの委託 いたく 生産 せいさん を請負 うけお い、工場 こうじょう 稼働 かどう 率 りつ の上昇 じょうしょう を図 はか っていた。しかし、これら横 よこ 置 お きエンジンの受託 じゅたく 車両 しゃりょう とスバル車 しゃ とはボディ骨格 こっかく からが大 おお きく異 こと なるため、設計 せっけい や部品 ぶひん の共用 きょうよう 化 か などが本格 ほんかく 的 てき に行 おこな われることはなかった[ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。一方 いっぽう 、水面 すいめん 下 か では、インプレッサの企画 きかく 段階 だんかい において直列 ちょくれつ 4気筒 きとう を横 よこ 置 お きした試作 しさく 車 しゃ が作 つく られ、水平 すいへい 対向 たいこう の制約 せいやく から逃 のが れて「広 ひろ い意味 いみ での汎用 はんよう 性 せい 」に重 おも きを置 お く商品 しょうひん 政策 せいさく に舵 かじ を切 き る動 うご きもあった。しかし、スイッチ類 るい やキーシリンダーなどは日産自動車 にっさんじどうしゃ の一部 いちぶ 車種 しゃしゅ と共通 きょうつう の部品 ぶひん であった。
1968年 ねん 2月 がつ にスバルオブアメリカ (Subaru of America, Inc., SOA)設立 せつりつ 、同年 どうねん イスラエル 進出 しんしゅつ を皮切 かわき りに(エピソード 欄 らん も参照 さんしょう )、1970年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん から、南米 なんべい 、オーストラリア を中心 ちゅうしん としたアジア ・オセアニア 地方 ちほう 、中東 ちゅうとう 、ヨーロッパ などにも進出 しんしゅつ した。1970年代 ねんだい 以前 いぜん には年産 ねんさん 10万 まん 台 だい にも満 み たなかった生産 せいさん 台数 だいすう を、1970年代 ねんだい 後半 こうはん には20万 まん 台 だい 規模 きぼ にまで増 ふ やし、順調 じゅんちょう に企業 きぎょう 規模 きぼ を拡大 かくだい した。
1985年 ねん (昭和 しょうわ 60年 ねん )9月 がつ のプラザ合意 ごうい 以降 いこう の急激 きゅうげき な円 えん 高 だか とアメリカ市場 いちば との「共生 きょうせい 」が求 もと められるようになった時代 じだい 背景 はいけい の中 なか で、北米 ほくべい 市場 いちば での深刻 しんこく な販売 はんばい 不振 ふしん に直面 ちょくめん した。1987年 ねん (昭和 しょうわ 62年 ねん )、いすゞ自動車 ずじどうしゃ との共同 きょうどう 出資 しゅっし で、スバル・イスズ・オートモーティブ (SIA)を設立 せつりつ して現地 げんち 生産 せいさん も開始 かいし した[ 注釈 ちゅうしゃく 8] が、主 おも に魅力 みりょく 的 てき な車種 しゃしゅ 展開 てんかい が図 はか れなかったことや、企業 きぎょう 規模 きぼ から他 た 国産 こくさん メーカーと比 くら べ製造 せいぞう 経費 けいひ を劇的 げきてき に下 さ げることができなかったことなどから、1989年 ねん には300億 おく 円 えん もの営業 えいぎょう 赤字 あかじ に転落 てんらく し、深刻 しんこく な経営 けいえい 危機 きき が報 ほう じられるまでになった。
しかし、折 おり からの「バブル景気 けいき 」によって資金 しきん 調達 ちょうたつ のめどが順調 じゅんちょう に立 た ったことや、1989年 ねん 1月 がつ 、レガシィ の発売 はつばい 以来 いらい 、順調 じゅんちょう に国内 こくない 市場 いちば 、北米 ほくべい 市場 いちば での販売 はんばい を回復 かいふく することに成功 せいこう した。1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん )には日産ディ にっさんでぃ ーゼル工業 ぜるこうぎょう (現 げん UDトラックス)の経営 けいえい 再建 さいけん に手腕 しゅわん を発揮 はっき した川合 かわい 勇 いさむ の下 した で地道 じみち な経費 けいひ 削減 さくげん 努力 どりょく が続 つづ けられた。世界 せかい ラリー選手権 せんしゅけん (WRC)への出場 しゅつじょう など、コーポレーテッド・イメージ(CI)の積極 せっきょく 的 てき な訴求 そきゅう 効果 こうか とあわせ、年産 ねんさん 100万 まん 台 だい 規模 きぼ の世界 せかい 的 てき に見 み て比較的 ひかくてき 小規模 しょうきぼ な量産 りょうさん 品 ひん メーカーとして現在 げんざい に至 いた っている。
バブル崩壊 ほうかい 後 ご 、日産自動車 にっさんじどうしゃ が経営 けいえい 不振 ふしん に陥 おちい り、経営 けいえい 再建 さいけん の一環 いっかん として日産自動車 にっさんじどうしゃ 保有 ほゆう の富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 株 かぶ の売却 ばいきゃく を決 き め、2000年 ねん (平成 へいせい 12年 ねん )に放出 ほうしゅつ 株 かぶ 全 すべ てがゼネラルモーターズ (GM)に売却 ばいきゃく された[ 注釈 ちゅうしゃく 9] 。
2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )10月 がつ 5日 にち にはGMの業績 ぎょうせき 悪化 あっか に伴 ともな い、GMが保有 ほゆう する富士重工 ふじじゅうこう 株 かぶ 20%を全 すべ て放出 ほうしゅつ した。放出 ほうしゅつ 株 かぶ のうち8.7%をトヨタ自動車 とよたじどうしゃ が引 ひ き受 う けて筆頭 ひっとう 株主 かぶぬし となり、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう とトヨタ自動車 とよたじどうしゃ が提携 ていけい することで合意 ごうい した。トヨタとの資本 しほん 提携 ていけい によるスバルの恩恵 おんけい は大 おお きく、稼働 かどう 率 りつ の下 さ がっていたスバルの北米 ほくべい 工場 こうじょう で「トヨタ・カムリ 」の生産 せいさん を請 う け負 お ったり、品質 ひんしつ 管理 かんり や経費 けいひ 削減 さくげん の方法 ほうほう を学 まな んだりするなどして利益 りえき 率 りつ を高 たか めた。また北米 ほくべい 特 とく 化 か の車 くるま 作 づく りに転換 てんかん する一方 いっぽう で、風力 ふうりょく 発電 はつでん 事業 じぎょう や軽自動車 けいじどうしゃ 生産 せいさん から撤退 てったい するなどの「選択 せんたく と集中 しゅうちゅう 」を進 すす めた。軽自動車 けいじどうしゃ 保有 ほゆう 層 そう の受 う け皿 ざら としてダイハツ工業 だいはつこうぎょう 車 くるま のOEM を受 う け、販売 はんばい を継続 けいぞく することとした[ 8] 。こうした努力 どりょく が2015年 ねん の利益 りえき 率 りつ 業界 ぎょうかい 1位 い に繋 つな がっている。また2012年 ねん の86 /BRZ の生産 せいさん ・販売 はんばい も、トヨタとの提携 ていけい を生 い かそうと模索 もさく していたことがきっかけであった。
2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )8月 がつ 、東京 とうきょう 都 と 新宿 しんじゅく 区 く の本社 ほんしゃ ビル(新宿 しんじゅく スバルビル)が老朽 ろうきゅう 化 か したことなどに伴 ともな い、建物 たてもの を小田急電鉄 おだきゅうでんてつ に売却 ばいきゃく した上 うえ で、本社 ほんしゃ 機能 きのう を東京 とうきょう 都 と 渋谷 しぶや 区 く 恵比寿 えびす の東京 とうきょう スバル の本社 ほんしゃ が入 はい っていた「エビススバルビル(旧 きゅう )」の跡地 あとち に新 あら たに建 た て替 か える「エビススバルビル(新 しん )」へ移転 いてん させることを発表 はっぴょう 。2014年 ねん (平成 へいせい 26年 ねん )8月 がつ 18日 にち 、本社 ほんしゃ 移転 いてん が完了 かんりょう した。なお、エビススバルビル(新 しん )の一角 いっかく はスバル恵比寿 えびす ショールーム(スバル スター スクエア)および東京 とうきょう スバル恵比寿 えびす 店 てん として機能 きのう する。
2013年 ねん (平成 へいせい 23年 ねん )1月 がつ 、ロボット開発 かいはつ で国 くに からの補助 ほじょ 金 きん を不正 ふせい 受給 じゅきゅう していたことが判明 はんめい し、経済 けいざい 産業 さんぎょう 省 しょう と新 しん エネルギー・産業 さんぎょう 技術 ぎじゅつ 総合 そうごう 開発 かいはつ 機構 きこう (NEDO)から計 けい 8億 おく 250万 まん 円 えん の返還 へんかん 処分 しょぶん および補助 ほじょ 金 きん 交付 こうふ 停止 ていし 処分 しょぶん を受 う けた[ 9] 。
2016年 ねん (平成 へいせい 28年 ねん )5月 がつ 、2017年 ねん (平成 へいせい 29年 ねん )4月 がつ 1日 にち 付 づけ で商号 しょうごう を「富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ 」から「株式会社 かぶしきがいしゃ SUBARU 」に変更 へんこう することを臨時 りんじ 取締役 とりしまりやく 会 かい で決議 けつぎ した[ 10] 。
2016年 ねん 10月 がつ 1日 にち 、産業 さんぎょう 機器 きき 部門 ぶもん が自動車 じどうしゃ 部門 ぶもん に統合 とうごう された。その後 ご 、12月7日 にち に「2017年 ねん 9月 がつ 30日 にち をもって事業 じぎょう を終息 しゅうそく し、一部 いちぶ 技術 ぎじゅつ 資産 しさん と米国 べいこく 販売 はんばい 子会社 こがいしゃ 10月 がつ 1日 にち 付 づ けでヤマハ発動機 やまははつどうき へ譲渡 じょうと する契約 けいやく を締結 ていけつ した」と正式 せいしき に発表 はっぴょう した[ 11] 。これにより、SUBARUは以後 いご 自動車 じどうしゃ 生産 せいさん と航空 こうくう 関連 かんれん に特 とく 化 か した企業 きぎょう となり、商号 しょうごう 変更 へんこう とともに新 しん 時代 じだい を迎 むか えることとなった。
米 べい 紙 し 『シカゴ・トリビューン 』では、スバルの北米 ほくべい 市場 いちば での成功 せいこう は、四 よん 輪 りん 駆動 くどう と安全 あんぜん 性 せい が裏付 うらづ ける確 たし かな商品 しょうひん 群 ぐん を、適正 てきせい 価格 かかく で販売 はんばい できるからだと指摘 してき している[ 12] 。『東洋 とうよう 経済 けいざい 』によると、米国 べいこく における在庫 ざいこ 回転 かいてん 期間 きかん は、他社 たしゃ が概 がい して2か月 げつ のところスバルは半月 はんつき 程度 ていど に過 す ぎず、販売 はんばい 奨励 しょうれい 金 きん は570ドルであり、1,000ドル以下 いか は異例 いれい と報 ほう じている[ 13] 。
2019年 ねん にはトヨタが出資 しゅっし 比率 ひりつ を20.00%に増加 ぞうか させて持分 もちぶん 法 ほう 適用 てきよう 会社 かいしゃ (=関連 かんれん 会社 かいしゃ )となり、同時 どうじ にスバルもトヨタの株 かぶ を持 も ち合 あ って連携 れんけい を強化 きょうか した。また、EVのSUV のプラットフォームをトヨタと共同 きょうどう 開発 かいはつ することも発表 はっぴょう された[ 14] 。
T-34 メンター
富士 ふじ T-1
1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )9月 がつ 、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう はビーチ・エアクラフト 社 しゃ と「T-34 メンター 」の製造 せいぞう ライセンス契約 けいやく に調印 ちょういん 。1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )10月 がつ 、国産 こくさん 1号機 ごうき を完成 かんせい させ、防衛庁 ぼうえいちょう (現 げん 防衛 ぼうえい 省 しょう )への納入 のうにゅう を開始 かいし した。さらに1957年 ねん (昭和 しょうわ 32年 ねん )11月、戦後 せんご 初 はつ の国産 こくさん ジェット機 じぇっとき 「T-1(練習 れんしゅう 機 き ) (初 はつ 鷹 たか )」の開発 かいはつ に成功 せいこう 。中等 ちゅうとう 練習 れんしゅう 機 き として1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )までに66機 き を防衛庁 ぼうえいちょう に納入 のうにゅう した。
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )8月 がつ 、民間 みんかん 向 む け軽 けい 飛行機 ひこうき FA-200「エアロスバル」 の初 はつ 飛行 ひこう に成功 せいこう 。翌 よく 1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )10月 がつ から販売 はんばい を開始 かいし 。低 てい 翼 つばさ 式 しき の機体 きたい を採用 さいよう したFA-200は低速 ていそく 時 じ の安定 あんてい 性 せい に優 すぐ れ、アクロバット飛行 ひこう なども可能 かのう な万能 ばんのう 機 き として好評 こうひょう を博 はく し、298機 き を生産 せいさん した。
戦後 せんご 初 はつ の国産 こくさん 旅客機 りょかくき 「YS-11 」の開発 かいはつ にも参加 さんか 。主翼 しゅよく 桁 けた と尾翼 びよく を担当 たんとう 。この経験 けいけん はのちに、1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )12月、アメリカ・ボーイング社 しゃ とボーイング747 の生産 せいさん 分担 ぶんたん 契約 けいやく に結実 けつじつ し、1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )には新 しん 世代 せだい 旅客機 りょかくき ボーイング767 の国際 こくさい 共同 きょうどう 開発 かいはつ プロジェクトに参加 さんか 。国際 こくさい 分業 ぶんぎょう に大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。
一方 いっぽう で1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう は米国 べいこく のロックウェル・インターナショナル 社 しゃ と双発 そうはつ ビジネス機 き FA-300 の共同 きょうどう 開発 かいはつ を開始 かいし 。1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )11月に初 はつ 飛行 ひこう に成功 せいこう 、1977年 ねん (昭和 しょうわ 52年 ねん )から販売 はんばい を開始 かいし した。しかし、オイルショック の打撃 だげき によりロックウェル社 しゃ が軽 けい 飛行機 ひこうき 事業 じぎょう から撤退 てったい し計画 けいかく は頓挫 とんざ 。FA-300は僅 わず か42機 き で生産 せいさん を打 う ち切 き り、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう も小型 こがた 機 き の自社 じしゃ 開発 かいはつ を断念 だんねん する結果 けっか となった。
以上 いじょう のように民需 みんじゅ (民間 みんかん 機 き )については限定 げんてい された実績 じっせき にとどまるが、官需 かんじゅ (もっぱら陸海空 りくかいくう の各 かく 自衛隊 じえいたい 機 き )については「T-34」や「T-1」の後 のち も順調 じゅんちょう に実績 じっせき を重 かさ ねてきた。詳細 しょうさい は#航空 こうくう 宇宙 うちゅう 部門 ぶもん の節 ふし を参照 さんしょう 。民間 みんかん 機 き についても、1990年代 ねんだい 以後 いご の潮流 ちょうりゅう として増 ふ えてきている国際 こくさい ・複数 ふくすう 企業 きぎょう による共同 きょうどう 開発 かいはつ にいくつか関与 かんよ している。
UH-2
日本航空 にほんこうくう 業界 ぎょうかい の草分 くさわ けである中島 なかじま 飛行機 ひこうき の後身 こうしん で、現在 げんざい も日本 にっぽん の航空 こうくう 宇宙 うちゅう 業界 ぎょうかい で第 だい 三 さん 位 い であり、防衛 ぼうえい 省 しょう 向 む け航空機 こうくうき の製造 せいぞう ・開発 かいはつ 及 およ び定期 ていき 整備 せいび やボーイング 社 しゃ 向 む け分担 ぶんたん 生産 せいさん を中心 ちゅうしん とし、その他 た 海上保安庁 かいじょうほあんちょう 、消防 しょうぼう や警察 けいさつ 向 む けのヘリコプター の生産 せいさん ・整備 せいび も広 ひろ く行 い っている。中 なか でも固定 こてい 翼 つばさ 機 き の主翼 しゅよく 製造 せいぞう には業界 ぎょうかい 屈指 くっし の技術 ぎじゅつ と品質 ひんしつ を誇 ほこ り、ボーイング からボーイング787 の開発 かいはつ に関 かか わる企業 きぎょう の中 なか で特 とく に高度 こうど な能力 のうりょく を持 も つサプライヤーとして高 たか く評価 ひょうか する表彰 ひょうしょう を受 う けているほか、対 たい 潜 せん 哨戒 しょうかい 機 き P-1 や輸送 ゆそう 機 き C-2 など(主 おも に主翼 しゅよく を製造 せいぞう )の国内 こくない 開発 かいはつ でも大 おお きく貢献 こうけん している。
40m超 ちょう の主翼 しゅよく 製造 せいぞう 能力 のうりょく ・設備 せつび は世界 せかい でもボーイングやエアバス に次 つ ぐレベルである。
複 ふく 合 ごう 材 ざい 製品 せいひん についても、世界 せかい 屈指 くっし の技術 ぎじゅつ 力 りょく を持 も つ。複 ふく 合 あい 材料 ざいりょう の実機 じっき 適用 てきよう は国内 こくない メーカーの先駆 せんく 的 てき 役割 やくわり を果 は たしている。
民間 みんかん 分野 ぶんや ではYS-11 開発 かいはつ 参加 さんか やFA-200 販売 はんばい で国産 こくさん 機 き の実績 じっせき を積 つ んでいる。
無人 むじん 航空機 こうくうき の開発 かいはつ にも積極 せっきょく 的 てき であり、標的 ひょうてき 機 き や無人 むじん 偵察 ていさつ 機 き など自衛隊 じえいたい 向 む けの機体 きたい を主 おも とし、将来 しょうらい の無人 むじん 機 き の活躍 かつやく を見据 みす えた複数 ふくすう の新型 しんがた 無人 むじん 機 き 開発 かいはつ に関 かか わっている。任務 にんむ 多様 たよう 化 か 、機能 きのう 高度 こうど 化 か に向 む け、様々 さまざま な技術 ぎじゅつ を研究 けんきゅう ・開発 かいはつ 中 ちゅう である。
さらには宇宙 うちゅう 航空 こうくう 研究 けんきゅう 開発 かいはつ 機構 きこう (JAXA)の超 ちょう 音速 おんそく 実験 じっけん 機 き D-SEND の製造 せいぞう ・開発 かいはつ や航空 こうくう 自衛隊 じえいたい の先進 せんしん 技術 ぎじゅつ 実証 じっしょう 機 き (後 ご のX-2 )の主翼 しゅよく ・尾翼 びよく 製造 せいぞう ・開発 かいはつ など日本 にっぽん の航空 こうくう 宇宙 うちゅう 産業 さんぎょう 発展 はってん のための高度 こうど な先進 せんしん 技術 ぎじゅつ の研究 けんきゅう 開発 かいはつ にも数多 かずおお く参加 さんか し、実績 じっせき を残 のこ している。
1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )1月 がつ 16日 にち - 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後日 ごじつ 本初 ほんしょ のジェット機 じぇっとき T-1練習 れんしゅう 機 き を開発 かいはつ し初 はつ 飛行 ひこう に成功 せいこう する。
1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )1月 がつ 17日 にち - T-3練習 れんしゅう 機 き が初 はつ 飛行 ひこう 。3月から量産 りょうさん 機 き が納入 のうにゅう された。生産 せいさん 機 き 数 すう は50機 き 。
1987年 ねん (昭和 しょうわ 62年 ねん )4月 がつ 27日 にち - T-5練習 れんしゅう 機 き が初 はつ 飛行 ひこう 。
主力 しゅりょく であった固定 こてい 翼 つばさ 機 き 製造 せいぞう からベルエアクラフト とのライセンス 契約 けいやく によるヘリコプタ 製造 せいぞう (UH-1 とAH-1 )へと製造 せいぞう の主軸 しゅじく を移 うつ してから固定 こてい 翼 つばさ 機 き 製造 せいぞう への積極 せっきょく 的 てき な参加 さんか をしていなかったが、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 初 はつ の生 は え抜 ぬ き社長 しゃちょう であった竹中 たけなか 恭二 きょうじ (前 ぜん 社長 しゃちょう )体制 たいせい 時 じ の中期 ちゅうき 経営 けいえい 計画 けいかく FDR-1により固定 こてい 翼 つばさ 機 き 製造 せいぞう を中心 ちゅうしん とした製造 せいぞう 体制 たいせい を再 ふたた び本格 ほんかく 化 か し JIS-Q-9100 制定 せいてい にあたり中心 ちゅうしん 的 てき 役割 やくわり を果 は たした。
1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )4月 がつ 9日 にち - ボーイング777 の1号機 ごうき がロールアウト。「世界 せかい 最大 さいだい の双発 そうはつ 旅客機 りょかくき 」の開発 かいはつ ・製造 せいぞう に参加 さんか し中央 ちゅうおう 翼 つばさ を分担 ぶんたん する。
2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )7月 がつ 9日 にち - T-3改 あらため が初 はつ 飛行 ひこう 。2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )4月 がつ にT-7練習 れんしゅう 機 き として制式 せいしき 採用 さいよう された。
2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )6月 がつ - エアバスA380 に参加 さんか 。垂直 すいちょく 尾翼 びよく 前 ぜん 縁 えん ・翼 つばさ 端 はし 、フェアリングを分担 ぶんたん する。
2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )に開発 かいはつ が決定 けってい したボーイング787 の開発 かいはつ にも参加 さんか している(詳 くわ しくはYX 共同 きょうどう 開発 かいはつ を参照 さんしょう )。
2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )から、MRJ(三菱 みつびし リージョナルジェット)(現 げん Mitsubishi SpaceJet )の設計 せっけい のために技術 ぎじゅつ 者 しゃ が出向 しゅっこう していた。
2015年 ねん (平成 へいせい 27年 ねん )
204B 中型 ちゅうがた 物 ぶつ 輸ヘリコプタ(ベルエアクラフト )
205B 中型 ちゅうがた 物 ぶつ 輸ヘリコプタ(ライセンスを受 う けて独自 どくじ 改良 かいりょう )
現在 げんざい は各種 かくしゅ 環境 かんきょう 用 よう プラント設備 せつび のみを生産 せいさん している。それ以外 いがい の製品 せいひん については後述 こうじゅつ 。
「ふじ号 ごう 」(富士 ふじ TR014X-2)
17E型 がた (日野 ひの シャーシへ架 か 装 そう )
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )に小泉 こいずみ ボデー製作所 せいさくしょ (当初 とうしょ 別 べつ 会社 かいしゃ )で始 はじ まり、日本 にっぽん で初 はじ めてのフレームレスモノコック 構造 こうぞう によるリヤエンジン バス「ふじ号 ごう 」(1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん ))の開発 かいはつ に成功 せいこう した。後 のち に富士 ふじ 自動車 じどうしゃ 工業 こうぎょう となり、「スバル360」等 とう の開発 かいはつ を行 おこ ない、現在 げんざい の主力 しゅりょく であるスバルブランドの乗用車 じょうようしゃ にも発展 はってん した事業 じぎょう である。この分野 ぶんや では「スバル」ブランドを使 つか っておらず、エンブレムとしてもプレアデス星団 せいだん をあしらったスバルのエンブレムではなく、カタカナの「フ」の字 じ をあしらったエンブレムを使用 しよう している(右 みぎ の写真 しゃしん を参照 さんしょう )。
バス車体 しゃたい のメーカーズプレート[ 21] 一時期 いちじき は民生 みんせい デイゼル →日産 にっさん ディーゼル(現 げん ・UDトラックス) を中心 ちゅうしん に大型 おおがた 自動車 じどうしゃ メーカー5社 しゃ [ 注釈 ちゅうしゃく 10] のバス 車体 しゃたい を架 か 装 そう し、バス車体 しゃたい シェア1位 い を誇 ほこ っていたが、シャーシメーカーのバス車体 しゃたい メーカーの系列 けいれつ 化 か (子会社 こがいしゃ での生産 せいさん )で生産 せいさん 台数 だいすう が減少 げんしょう した。
ピークとなる1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん )には1日 にち 12台 だい を製造 せいぞう 、年間 ねんかん では2,393台 だい を生産 せいさん したが[ 22] 、バス事業 じぎょう の環境 かんきょう 変化 へんか から1993年 ねん (平成 へいせい 5年 ねん )以降 いこう は赤字 あかじ 状態 じょうたい となっていた[ 22] 。1998年 ねん (平成 へいせい 10年 ねん )に三菱 みつびし ふそう と日野自動車 ひのじどうしゃ の架 か 装 そう から撤退 てったい 、2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )1月 がつ に日産 にっさん ディーゼルがバス車体 しゃたい の架 か 装 そう を西日本 にしにほん 車体 しゃたい 工業 こうぎょう (西 にし 工 こう 、福岡 ふくおか 県 けん 北九州 きたきゅうしゅう 市 し 小倉北 こくらきた 区 く )に集約 しゅうやく することを決定 けってい したため[ 23] 、同年 どうねん 5月 に事業 じぎょう 存続 そんぞく は困難 こんなん と判断 はんだん し、伊勢崎 いせざき 製作所 せいさくしょ で行 おこ なっていたバス車体 しゃたい 架 か 装 そう 事業 じぎょう を終了 しゅうりょう する決定 けってい をした[ 24] [ 注釈 ちゅうしゃく 11] 。
このため、バス車体 しゃたい 架 か 装 そう 事業 じぎょう は日産 にっさん ディーゼルとごく少数 しょうすう のいすゞ自動車 ずじどうしゃ を最後 さいご に2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )3月 がつ 31日 にち で生産 せいさん を終 お えた[ 22] 。3月28日 にち には「バス最終 さいしゅう 生産 せいさん 車 しゃ 出荷 しゅっか 式 しき 」が執 と り行 おこな われ、東 ひがし 濃 こ 鉄道 てつどう 納入 のうにゅう の日産 にっさん ディーゼル大型 おおがた 観光 かんこう バス を送 おく り出 だ し、バス車体 しゃたい 事業 じぎょう 部門 ぶもん の解散 かいさん 式 しき となった[ 22] 。1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )以来 いらい 、57年間 ねんかん 続 つづ いたバス車体 しゃたい 事業 じぎょう は累計 るいけい 生産 せいさん 数 すう 8万 まん 1,292台 だい もって終止符 しゅうしふ を打 う った[ 22] 。国内 こくない 向 む けだけではなく、海外 かいがい 向 む けにも6,000台 だい 以上 いじょう が出荷 しゅっか された[ 22] 。
またABボルボ のシャシを輸入 ゆにゅう し、アステローペ シリーズと連 れん 節 ぶし バス を製造 せいぞう していたが、これらも2000年 ねん (平成 へいせい 12年 ねん )に生産 せいさん が終了 しゅうりょう している。
なお、伊勢崎 いせざき 製作所 せいさくしょ はその後 ご スバルカスタマイズ工房 こうぼう (現 げん 桐生 きりゅう 工業 こうぎょう 伊勢崎 いせさき 工場 こうじょう )となり、販売 はんばい 済 ず みの車両 しゃりょう に対 たい するアフターサービスを行 おこ なっていたが、バス用 よう 補修 ほしゅう 品 ひん 事業 じぎょう の終了 しゅうりょう に伴 ともな い、2022年 ねん (令 れい 和 わ 4年 ねん )3月 がつ をもってアフターサービスも終了 しゅうりょう となった。
東武 とうぶ 9000系 けい 電車 でんしゃ の車内 しゃない 銘板 めいばん [ 21]
1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )頃 ごろ から主 おも に客車 きゃくしゃ と気動車 きどうしゃ を日本 にっぽん 国有 こくゆう 鉄道 てつどう (国鉄 こくてつ )やJR 、私鉄 してつ 、第 だい 三 さん セクター向 む けに、また、群馬 ぐんま ・栃木 とちぎ 県内 けんない に路線 ろせん を持 も つ東武鉄道 とうぶてつどう 向 む けには電車 でんしゃ を生産 せいさん していた。生産 せいさん 両 りょう 数 かず の減少 げんしょう により2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )5月 がつ に事業 じぎょう 存続 そんぞく は困難 こんなん と判断 はんだん し、宇都宮 うつのみや 車両 しゃりょう 工場 こうじょう (現在 げんざい のエコ宇都宮 うつのみや 工場 こうじょう )で行 おこな っていた鉄道 てつどう 車両 しゃりょう 事業 じぎょう を終 お える決定 けってい をした[ 24] 。2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )2月 がつ に新潟 にいがた トランシス新潟 にいがた 事業 じぎょう 所 しょ (新潟 にいがた 県 けん 北蒲原 きたかんばら 郡 ぐん 聖 せい 籠町 かごまち )へ事業 じぎょう 譲渡 じょうと [ 25] 。JR四国 しこく 2000系 けい 気動車 きどうしゃ などの振 ふ り子 こ 式 しき 気動車 きどうしゃ は大半 たいはん が富士重工 ふじじゅうこう 製 せい 。
鉄道 てつどう 車両 しゃりょう 事業 じぎょう の最終 さいしゅう 製造 せいぞう 車 しゃ は甘木 あまぎ 鉄道 てつどう AR300形 かたち 気動車 きどうしゃ AR303号車 ごうしゃ となった[ 26] 。最後 さいご に製造 せいぞう された電車 でんしゃ は東武 とうぶ 30000系 けい 電車 でんしゃ (31406Fの4両 りょう )。
なお、先述 せんじゅつ の伊勢崎 いせざき 事業 じぎょう 所 しょ でも、東京 とうきょう 都 と 交通 こうつう 局 きょく 2500形 かたち 電車 でんしゃ 8両 りょう のうち昭和 しょうわ 34年 ねん 製造 せいぞう 分 ぶん の6両 りょう を製造 せいぞう していた。
鉄道 てつどう 車両 しゃりょう 事業 じぎょう の製造 せいぞう 実績 じっせき (総計 そうけい 11,118両 りょう )[ 27]
国鉄 こくてつ →JR各社 かくしゃ 向 む け気動車 きどうしゃ 1,834両 りょう [ 27]
国鉄 こくてつ →JR各社 かくしゃ 向 む け客車 きゃくしゃ 1,132両 りょう [ 27]
私鉄 してつ 各社 かくしゃ 向 む け電車 でんしゃ 341両 りょう [ 27]
第 だい 3セクター向 む け車両 しゃりょう 270両 りょう [ 27]
私有 しゆう 貨車 かしゃ 4,381両 りょう [ 27]
保守 ほしゅ 用 よう 車両 しゃりょう 3,160両 りょう [ 27]
四国旅客鉄道 しこくりょかくてつどう (JR四国 しこく )キハ185系 けい 気動車 きどうしゃ
気動車 きどうしゃ
他 た 、Category:富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 製 せい の気動車 きどうしゃ も参照 さんしょう 。
東武 とうぶ 30000系 けい 電車 でんしゃ
電車 でんしゃ
(国鉄 こくてつ 形 がた 特急 とっきゅう 車両 しゃりょう の製造 せいぞう 歴 れき もあり) [要 よう 出典 しゅってん ]
国鉄 こくてつ (電車 でんしゃ 車両 しゃりょう は改造 かいぞう だけであった)
72系 けい 電車 でんしゃ から72系 けい 970番台 ばんだい (後 ご の103系 けい 3000番 ばん 台車 だいしゃ )への更新 こうしん 。モハ72形 がた からクモユニ82形 かたち 、クモニ83形 がた への国鉄 こくてつ 工場 こうじょう 扱 あつか いによる受託 じゅたく 更新 こうしん 工事 こうじ もあった。
非 ひ 冷房 れいぼう 車 しゃ から冷房 れいぼう 装置 そうち 新設 しんせつ 改造 かいぞう (AU えーゆー 75系 けい ・AU えーゆー 712系 けい も同社 どうしゃ 製 せい )工事 こうじ も請 う け負 お った。
他 た 、Category:富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 製 せい の電車 でんしゃ も参照 さんしょう 。
客車 きゃくしゃ
ほか
Category:富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 製 せい の客車 きゃくしゃ も参照 さんしょう 。
貨車 かしゃ
他 た 、Category:富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 製 せい の貨車 かしゃ も参照 さんしょう 。
軌道 きどう モーターカー
「ロビン」ブランドの小型 こがた 汎用 はんよう エンジンを開発 かいはつ ・生産 せいさん し、汎用 はんよう エンジン業界 ぎょうかい ではシェア世界 せかい 第 だい 4位 い 。富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 内 ない では唯一 ゆいいつ 、米国 べいこく と中国 ちゅうごく に生産 せいさん 拠点 きょてん を持 も っていた。これらのエンジンは取 と り扱 あつか いの容易 たやす さと抜群 ばつぐん の耐久 たいきゅう 性 せい などで、主 おも に土木 どぼく 工事 こうじ 現場 げんば で使 つか われるランマー や発電 はつでん 機 き 、コンクリートカッター、灌漑 かんがい 用 よう のポンプ 、構内 こうない 作業 さぎょう 車 しゃ (モートラック )などに動力 どうりょく 源 げん として搭載 とうさい された。また、ゴルフカート 、スノーモービル 、ATV (バギー車 しゃ )などに搭載 とうさい されるエンジンも開発 かいはつ 、生産 せいさん していた。これらのエンジンのほとんどはOEM供給 きょうきゅう されているため、一般人 いっぱんじん の目 め に触 ふ れる機会 きかい はほとんど無 な いものの、スバル車 しゃ ディーラーで頒布 はんぷ される情報 じょうほう 誌 し 『Cartopia』で時折 ときおり 紹介 しょうかい され、相応 そうおう に認知 にんち された存在 そんざい だった。
なお、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう は、2016年 ねん 10月 がつ 1日 にち をもって自動車 じどうしゃ 部門 ぶもん の競争 きょうそう 力 りょく 強化 きょうか のため、産業 さんぎょう 機器 きき カンパニーをスバル自動車 じどうしゃ 部門 ぶもん に統合 とうごう し、既存 きそん 商品 しょうひん の製造 せいぞう 、販売 はんばい 、サービスに特 とく 化 か した上 うえ で、開発 かいはつ 案件 あんけん の停止 ていし による人員 じんいん の自動車 じどうしゃ 部門 ぶもん への配置 はいち 転換 てんかん など、将来 しょうらい 的 てき には事業 じぎょう 縮小 しゅくしょう ・撤退 てったい の意向 いこう であると発表 はっぴょう した[ 31] 。
そして2016年 ねん 12月7日 にち 、「2017年 ねん 9月 がつ 30日 にち 付 づ けで事業 じぎょう 終了 しゅうりょう とし、一部 いちぶ 技術 ぎじゅつ 資産 しさん と米国 べいこく 販売 はんばい 子会社 こがいしゃ を10月1日 にち 付 づ けでヤマハ発動機 やまははつどうき へ譲渡 じょうと する契約 けいやく を締結 ていけつ した」旨 むね を正式 せいしき に発表 はっぴょう した[ 11] 。
ロビンエンジン
EY15(汎用 はんよう )
EY20(汎用 はんよう )
EX17(汎用 はんよう )
EX30(汎用 はんよう )
EH29(ゴルフカート用 よう )
EH50(ATV用 よう )
ES50(ATV用 よう )
EC55(スノーモービル用 よう )
ロビンジェネレーター
スバル・ナイター(投 とう 光 こう 機 き )
電動 でんどう 刈 かり 払 ばら い機 き
スノーモービル
SUBARUでは、建設 けんせつ 現場 げんば 向 む けの仮設 かせつ ユニットハウス、小型 こがた のプレハブ住宅 じゅうたく を製造 せいぞう していた。以前 いぜん は通信 つうしん 販売 はんばい で名高 なだか いセシール でも扱 あつか っていたことがある。
2004年 ねん に富士 ふじ ハウレン株式会社 かぶしきがいしゃ へ分社 ぶんしゃ 化 か し、2011年 ねん に社名 しゃめい を富士重工 ふじじゅうこう ハウス株式会社 かぶしきがいしゃ に変更 へんこう されたが、2020年 ねん 3月 がつ 2日 にち 付 づけ で子会社 こがいしゃ のスバルファイナンス保有 ほゆう 分 ぶん も含 ふく めた全 ぜん 株式 かぶしき がユアサ商事 ゆあさしょうじ へ譲渡 ゆずりわた されたと同時 どうじ に、富士 ふじ クオリティハウス株式会社 かぶしきがいしゃ へ商号 しょうごう 変更 へんこう された[ 32] [ 33] 。
1998年 ねん (平成 へいせい 10年 ねん )に、宇宙 うちゅう 関連 かんれん 機器 きき および航空機 こうくうき 部門 ぶもん の技術 ぎじゅつ を転用 てんよう し、中空 なかぞら 桁 けた 構造 こうぞう オールドライカーボンのスノーボード 「VTOL」を50枚 まい 限定 げんてい でインターネット経由 けいゆ のみで販売 はんばい した。スバルとは異 こと なるブランド名 めい で販売 はんばい した。2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )12月に、99台 だい 限定 げんてい でクロスタイプの自転車 じてんしゃ 「SUBARU XB」を36万 まん 円 えん で発売 はつばい した。マウンテンバイクに軽量 けいりょう 大 だい 口径 こうけい ホイールを装着 そうちゃく して、オンロードでの走行 そうこう 性能 せいのう を向上 こうじょう させた自転車 じてんしゃ で、レガシィなどと同様 どうよう 、オンロードとオフロード双方 そうほう の走破 そうは 性 せい を合 あ わせもつ自転車 じてんしゃ として「クロスバイク」と称 しょう した。2013年 ねん (平成 へいせい 25年 ねん )1月 がつ に、ブリヂストンサイクル と協業 きょうぎょう によるクロスバイクを、SUBARU Online Shop で販売 はんばい した。仕様 しよう は全 まった く異 こと なる[ 34] 。
2009年 ねん (平成 へいせい 21年 ねん )12月に、屈折 くっせつ 式 しき 天体 てんたい 望遠鏡 ぼうえんきょう 「SUBARUメローペ80A」を発売 はつばい した[ 35] 。外部 がいぶ の専門 せんもん メーカーと富士重 ふじじゅう 内部 ないぶ の開発 かいはつ チームの共 とも 作 さく で、スバルブランドを想起 そうき させる青色 あおいろ で塗装 とそう されているが、車体 しゃたい 色 しょく とはやや異 こと なり車両 しゃりょう のボディに比 くら べて曲 きょく 率 りつ が大 おお きい望遠鏡 ぼうえんきょう の鏡 かがみ 筒 とう を仕上 しあ げるために専用 せんよう 塗料 とりょう を採用 さいよう している。現在 げんざい このクラスの望遠鏡 ぼうえんきょう は大 だい 部分 ぶぶん が中国 ちゅうごく 製 せい だが、本 ほん 品 ひん は光学 こうがく 系 けい の製作 せいさく や検査 けんさ を全 すべ て日本 にっぽん のメーカーが施 ほどこ している。「メローペ 」はプレアデス星団 せいだん の最 もっと も下 した にある星 ほし の名称 めいしょう である。
1998年 ねん に、富士重工 ふじじゅうこう 会長 かいちょう 兼 けん 社長 しゃちょう の川合 かわい 勇 いさむ と専務 せんむ 取締役 とりしまりやく の小暮 こぐれ 泰之 やすゆき が、海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい の救難 きゅうなん 飛行 ひこう 艇 てい 開発 かいはつ をめぐり賄賂 わいろ を提供 ていきょう したとして逮捕 たいほ され、辞任 じにん した[ 36] [ 37] 。賄賂 わいろ を受 う け取 と った国会 こっかい 議員 ぎいん は、富士重工 ふじじゅうこう の前身 ぜんしん 「中島 なかじま 飛行機 ひこうき 」の創業 そうぎょう 者 しゃ 一族 いちぞく である中島 なかじま 洋次郎 ようじろう 元 もと 衆院 しゅういん 議員 ぎいん で、2000年 ねん 9月 がつ に懲役 ちょうえき 2年 ねん の実刑 じっけい 判決 はんけつ を受 う け、2001年 ねん に自 じ 死 し した[ 38] 。富士重工 ふじじゅうこう の2人 ふたり は2006年 ねん に執行 しっこう 猶予 ゆうよ つき懲役 ちょうえき 刑 けい となった。
1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん )に滋賀 しが 県 けん で「レガシィ 」がブレーキ の故障 こしょう に起因 きいん して正面 しょうめん 衝突 しょうとつ する事故 じこ が発生 はっせい した。捜査 そうさ の結果 けっか 、同様 どうよう のトラブルが1994年 ねん 1月 がつ に岡山 おかやま 県 けん と千葉 ちば 県 けん で発生 はっせい し、本社 ほんしゃ に苦情 くじょう が寄 よ せられたが内密 ないみつ に処理 しょり されていたことが判明 はんめい した。1997年 ねん (平成 へいせい 9年 ねん )にブレーキ以外 いがい にも多岐 たき にわたる不具合 ふぐあい が発覚 はっかく し、警察 けいさつ から警告 けいこく を受 う けたスバルは11車種 しゃしゅ 147万 まん 台 だい についてリコール を届 とど け出 で た[ 注釈 ちゅうしゃく 15] 。1998年 ねん (平成 へいせい 10年 ねん )に東京 とうきょう 地方裁判所 ちほうさいばんしょ は、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう に7件 けん 分 ぶん の過料 かりょう 140万 まん 円 えん の支払 しはら いを命 めい じた。事故 じこ 発生 はっせい の危険 きけん 性 せい を十分 じゅうぶん 認識 にんしき しながら運輸省 うんゆしょう へリコールを届 とど けなかったために事故 じこ が発生 はっせい したとして、警察 けいさつ は富士重工業 ふじじゅうこうぎょう の品質 ひんしつ 保証 ほしょう 本部 ほんぶ 幹部 かんぶ 2人 にん を業務 ぎょうむ 上 じょう 過失 かしつ 傷害 しょうがい 容疑 ようぎ で大津 おおつ 地方 ちほう 検察庁 けんさつちょう へ書類 しょるい 送検 そうけん した。2000年 ねん (平成 へいせい 12年 ねん )に大津 おおつ 地検 ちけん は、業務 ぎょうむ 上 じょう 過失 かしつ 傷害 しょうがい 罪 ざい で同社 どうしゃ の品質 ひんしつ 管理 かんり 責任 せきにん 者 しゃ だった2人 ふたり を略式 りゃくしき 起訴 きそ し、一 いち 週間 しゅうかん 後 ご に罰金 ばっきん 各 かく 50万 まん 円 えん の略式 りゃくしき 命令 めいれい が下 くだ った[ 39] [ 40] [ 41] 。
2017年 ねん (平成 へいせい 29年 ねん )9月 がつ に「サンバー 」62万 まん 台 だい がリコールとなった[ 42] [ 43] が、リコール対象 たいしょう は1999年 ねん - 2012年 ねん 生産 せいさん (6代目 だいめ )と古 ふる くに及 およ ぶことに加 くわ え、多数 たすう の不具合 ふぐあい 報告 ほうこく と2013年 ねん (平成 へいせい 25年 ねん )、2015年 ねん (平成 へいせい 27年 ねん )と2度 ど の行政 ぎょうせい 指導 しどう があったにもかかわらず大幅 おおはば に遅滞 ちたい したリコールとなり、サンバー所有 しょゆう 者 しゃ の不信 ふしん を招 まね いた[ 44] 。これについてスバルは「プーリーが外側 そとがわ に出 で ない構造 こうぞう であった」「対応 たいおう に時間 じかん がかかった」としている[ 45] 。
2012年 ねん 、クリーンロボット事業 じぎょう 部 ぶ において不正 ふせい 経理 けいり が行 おこな われていたと共 とも に、経済 けいざい 産業 さんぎょう 省 しょう や行政 ぎょうせい 法人 ほうじん からの委託 いたく 事業 じぎょう ・補助 ほじょ 金 きん 事業 じぎょう について不正 ふせい が行 おこな われていたと発表 はっぴょう した。不正 ふせい 経理 けいり は2004年 ねん から2011年 ねん の間 あいだ に行 おこな われ、架空 かくう 発注 はっちゅう の元 もと に2億 おく 円 えん 以上 いじょう の資金 しきん を不当 ふとう にスバルから引 ひ き出 だ し、主 おも にクリーンロボット部 ぶ 部長 ぶちょう が私的 してき に流用 りゅうよう していた。スバルは元 もと クリーンロボット部 ぶ 部長 ぶちょう を栃木 とちぎ 県 けん に刑事 けいじ 告訴 こくそ した[ 46] 。
1984年 ねん に運輸省 うんゆしょう で「レオーネ 」の型式 けいしき 認定 にんてい 試験 しけん の際 さい 、試作 しさく 車両 しゃりょう 重量 じゅうりょう が事前 じぜん 提出 ていしゅつ の数値 すうち よりも軽量 けいりょう となり鉛 なまり を搭載 とうさい して審査 しんさ を通過 つうか したことが後日 ごじつ 判明 はんめい し、発売 はつばい が遅 おく れて混乱 こんらん した[ 47] 。
2017年 ねん 9月 がつ に日産自動車 にっさんじどうしゃ の無 む 資格 しかく 検査 けんさ 問題 もんだい に伴 ともな い、自動車 じどうしゃ 製造 せいぞう 各社 かくしゃ が調査 ちょうさ した。スバルは群馬 ぐんま 工場 こうじょう で30年 ねん 以上 いじょう にわたって無 む 資格 しかく 者 しゃ が検査 けんさ をしていたことが判明 はんめい した[ 48] 。「BRZ 」の兄弟 きょうだい 車 しゃ でスバルが生産 せいさん を担当 たんとう する「トヨタ・86 」を含 ふく めて直近 ちょっきん 3年間 ねんかん の25.5万 まん 台 だい がリコールとなった[ 49] 。
問題 もんだい になった完成 かんせい 検査 けんさ は日本 にっぽん 国内 こくない 車 しゃ のみに適用 てきよう されるもので、大別 たいべつ して①保安 ほあん 基準 きじゅん 検査 けんさ と②型式 けいしき 検査 けんさ に分 わ かれる。②型式 けいしき 検査 けんさ の方法 ほうほう は各 かく 企業 きぎょう で異 こと なるものの、国土 こくど 交通省 こうつうしょう に申請 しんせい し認可 にんか を受 う けた方法 ほうほう である必要 ひつよう があり、また①保安 ほあん 基準 きじゅん 検査 けんさ の基準 きじゅん と手法 しゅほう は全社 ぜんしゃ 共通 きょうつう である。完成 かんせい 検査 けんさ 員 いん は、各 かく 企業 きぎょう 内 ない で「当該 とうがい 検査 けんさ に必要 ひつよう な知識 ちしき 及 およ び技能 ぎのう を有 ゆう する者 もの のうちからあらかじめ指名 しめい された者 もの (=資格 しかく 取得 しゅとく 者 しゃ )」が行 おこな う必要 ひつよう があった[ 50] 。スバルでは、まず有 ゆう 資格 しかく 者 しゃ の監督 かんとく 下 か で無 む 資格 しかく 者 しゃ が検査 けんさ を行 おこな い、次 つぎ に独 ひと り立 だ ちして一定 いってい 期間 きかん 業務 ぎょうむ を担当 たんとう し、のちに筆記 ひっき 試験 しけん に合格 ごうかく して検査 けんさ 員 いん 資格 しかく を取得 しゅとく する流 なが れであったが、「独 ひと り立 だ ち」の時点 じてん では誰 だれ も監督 かんとく していなかったことが問題 もんだい とされた。独 ひと り立 だ ち期間 きかん 中 ちゅう に完成 かんせい 検査 けんさ 員 いん の印章 いんしょう を無断 むだん で押印 おういん することも常態 じょうたい 的 てき していた[ 49] 。2017年 ねん 12月に国土 こくど 交通省 こうつうしょう に提出 ていしゅつ された調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ によると、研修 けんしゅう 自体 じたい が十分 じゅうぶん な時間 じかん に満 み たなかったことや、筆記 ひっき 試験 しけん で試験 しけん 官 かん が答 こた えを教 おし えるなど不正 ふせい していたことも判明 はんめい した。国土 こくど 交通省 こうつうしょう の立 た ち入 い り検査 けんさ の際 さい は、無 む 資格 しかく 者 しゃ を意図 いと 的 てき に現場 げんば から外 はず すなどの隠蔽 いんぺい 工作 こうさく も慢性 まんせい 化 か していた[ 51] 。
燃費 ねんぴ ・排 はい ガス・ブレーキ検査 けんさ のデータ書 か き換 か え
編集 へんしゅう
上述 じょうじゅつ の無 む 資格 しかく 員 いん 検査 けんさ が発覚 はっかく した際 さい に燃費 ねんぴ データの不正 ふせい も報告 ほうこく を受 う けて外部 がいぶ 弁護士 べんごし に調査 ちょうさ を依頼 いらい したところ、検査 けんさ の一部 いちぶ である抜 ぬ き取 と りによる燃費 ねんぴ 検査 けんさ と排 はい ガス検査 けんさ でデータ書 か き換 か えが行 おこな われていたことが2018年 ねん 3月 がつ に判明 はんめい した。燃費 ねんぴ 検査 けんさ は道路 どうろ 運送 うんそう 車両 しゃりょう 法 ほう の保安 ほあん 基準 きじゅん の対象 たいしょう 外 がい で自主 じしゅ 的 てき 検査 けんさ 項目 こうもく だが、排 はい ガス検査 けんさ は対象 たいしょう 内 ない であるため同 どう 法 ほう に抵触 ていしょく する。検査 けんさ 結果 けっか はいずれも基準 きじゅん 値 ち の範囲 はんい 内 ない であるとしてリコールは行 おこな わない見込 みこ みだが、一連 いちれん の問題 もんだい を受 う けて吉永 よしなが 社長 しゃちょう は会長 かいちょう 職 しょく へ退 しりぞ いた[ 52] 。
2018年 ねん 4月 がつ に提出 ていしゅつ された報告 ほうこく 書 しょ によると、2012年 ねん 12月から2017年 ねん 11月 がつ までに903台 だい で検査 けんさ 員 いん および班長 はんちょう によるデータの書 か き換 か えがあった。同期 どうき 間 あいだ 以前 いぜん のデータは既 すで に無 な いが「2002年 ねん から不正 ふせい が行 おこな われていた」とする証言 しょうげん もあり、報告 ほうこく 書 しょ はその可能 かのう 性 せい は否定 ひてい できないとした[ 53] 。
2018年 ねん 9月 がつ に、ブレーキ検査 けんさ のデータ改 かい ざんも判明 はんめい した。不正 ふせい の一部 いちぶ は1990年代 ねんだい 前半 ぜんはん から行 おこな われていた[ 54] 。2018年 ねん 11月に、これらの検査 けんさ 不正 ふせい は発覚 はっかく 後 ご も2018年 ねん 10月 がつ まで行 おこな われていたことが判明 はんめい した。追加 ついか で10万 まん 台 だい のリコールが発表 はっぴょう され、一連 いちれん の不正 ふせい によるリコールは53万 まん 台 だい [ 55] となった。
軽自動車 けいじどうしゃ 用 よう を除 のぞ くエンジン不具合 ふぐあい に伴 ともな う大 だい 規模 きぼ リコール
編集 へんしゅう
2018年 ねん 10月 がつ 25日 にち に、エンジンの部品 ぶひん が壊 こわ れる恐 おそ れがあるとして複数 ふくすう の車種 しゃしゅ について大 だい 規模 きぼ なリコール(回収 かいしゅう ・無償 むしょう 修理 しゅうり )を近 ちか く国土 こくど 交通省 こうつうしょう に届 とど け出 で ることが明 あき らかとなる。国内外 こくないがい で販売 はんばい した車種 しゃしゅ に影響 えいきょう して対象 たいしょう は少 すく なくとも数 すう 十 じゅう 万 まん 台 だい となる。エンジン部品 ぶひん のバルブスプリングが不具合 ふぐあい を起 お こしてエンジン動作 どうさ に影響 えいきょう する恐 おそ れがあり、「BRZ」と「トヨタ・86」もリコール対象 たいしょう となる[ 56] 。
2019年 ねん 1月 がつ 16日 にち から国内 こくない 唯一 ゆいいつ の完成 かんせい 車 しゃ 工場 こうじょう である群馬 ぐんま 製作所 せいさくしょ の操業 そうぎょう を全 ぜん 車種 しゃしゅ で停止 ていし した。部品 ぶひん メーカーから調達 ちょうたつ している電動 でんどう パワーステアリング (EPS) で不具合 ふぐあい を発見 はっけん して原因 げんいん の究明 きゅうめい を優先 ゆうせん した。1月28日 にち から操業 そうぎょう 再開 さいかい を準備 じゅんび しているが納車 のうしゃ の遅 おく れや新 あら たなリコール対策 たいさく などの影響 えいきょう が懸念 けねん される[ 57] [ 58] 。
2019年 ねん 1月 がつ 28日 にち から、不具合 ふぐあい の恐 おそ れがあるEPSについて対策 たいさく を施 ほどこ したEPSの調達 ちょうたつ が一定 いってい 度 ど 可能 かのう となり工場 こうじょう を再 さい 稼働 かどう した。当面 とうめん は1日 にち の生産 せいさん 台数 だいすう を減 へ らして品質 ひんしつ 優先 ゆうせん で操業 そうぎょう する。出荷 しゅっか 済 ず み車両 しゃりょう は、リコールの有無 うむ などを検討 けんとう する[ 59] 。
2019年 ねん 1月 がつ 31日 にち に、生産 せいさん 停止 ていし の原因 げんいん となった電動 でんどう パワーステアリングの不具合 ふぐあい で3車種 しゃしゅ 「フォレスター」「SUBARU XV」「インプレッサ」計 けい 約 やく 780台 だい のリコールを国土 こくど 交通省 こうつうしょう に届 とど け出 で た。2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )12月28日 にち - 2019年 ねん (平成 へいせい 31年 ねん )1月 がつ 16日 にち 製作 せいさく 分 ぶん [ 60] [ 61] が対象 たいしょう となる。国内 こくない 向 む け約 やく 780台 だい のリコールに加 くわ え、海外 かいがい 向 む けに生産 せいさん した計 けい 約 やく 1万 まん 4,000台 だい もリコールや部品 ぶひん 交換 こうかん を検討 けんとう する[ 62] 。
2019年 ねん 1月 がつ 24日 にち に、2016年 ねん に過労 かろう 自殺 じさつ した男性 だんせい 社員 しゃいん の代理人 だいりにん が会見 かいけん し、2015年 ねん から2017年 ねん にかけて社員 しゃいん 3,421人 にん に計 けい 7億 おく 7,000万 まん 円 えん の残業 ざんぎょう 代 だい を払 はら っていなかったことが判明 はんめい した。過労 かろう 自殺 じさつ の社内 しゃない 調査 ちょうさ で2018年 ねん 1月 がつ までには判明 はんめい していたが、本社 ほんしゃ 広報 こうほう は「(調査 ちょうさ 結果 けっか を)隠 かく すような意図 いと はなく、公表 こうひょう すべきだとは認識 にんしき していなかった」としている。[ 63] 。
2024年 ねん 2月 がつ 13日 にち 、崩 くず れた金 かね 型 がた の下敷 したじ きになった従業 じゅうぎょう 員 いん が死亡 しぼう する事故 じこ が矢島 やじま 工場 こうじょう 内 ない で発生 はっせい し、その影響 えいきょう では群馬 ぐんま 製作所 せいさくしょ の本 ほん 工場 こうじょう 、矢島 やじま 工場 こうじょう 、大泉 おおいずみ 工場 こうじょう の3工場 こうじょう が稼働 かどう 停止 ていし になっている事 こと が同月 どうげつ 16日 にち 分 わ かった[ 64] 。
作詞 さくし は富士重工業 ふじじゅうこうぎょう の元 もと 社員 しゃいん が手掛 てが けた。作曲 さっきょく は團 だん 伊玖磨 いくま 。富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 時代 じだい に創立 そうりつ 10周年 しゅうねん 記念 きねん として制定 せいてい された社 しゃ 歌 か である。
SUBARUへの社名 しゃめい 変更 へんこう に際 さい して「社 しゃ 歌 か を変 か えないでほしい」という従業 じゅうぎょう 員 いん の声 こえ を受 う けて、社名 しゃめい 変更 へんこう 後 ご も社 しゃ 歌 か として使 つか われることとなったが、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 時代 じだい の歌詞 かし には「富士重工 ふじじゅうこう 」を連呼 れんこ するパートがあるため、その部分 ぶぶん は作詞 さくし 者 しゃ の了承 りょうしょう を得 え た上 うえ で「わがスバル」に置 お き換 か えられた。[ 65]
トヨタとの資本 しほん 提携 ていけい が決 き まった時 とき 、トヨタの豊田 とよだ 章一郎 しょういちろう や渡辺 わたなべ 捷 とし 昭 あきら から言 い われた言葉 ことば である[ 66] 。また「これ以上 いじょう 、(トヨタの得意 とくい ゾーンの)円 えん に入 はい ってくれば即座 そくざ にたたきつぶしますから、そのつもりで」[ 67] とも言 い われたという。
軽自動車 けいじどうしゃ 生産 せいさん からの撤退 てったい についてスバルの吉永 よしなが は「ウチの規模 きぼ で軽 けい に開発 かいはつ リソースを割 さ くよりも、世界 せかい で売 う れる車 くるま に特 とく 化 か する。勇気 ゆうき ある決断 けつだん でも何 なん でも無 な い。合理 ごうり 的 てき に考 かんが えれば軽 けい は撤退 てったい しかなかった」と語 かた っている[ 68] 。
1967年 ねん に勃発 ぼっぱつ した第三次中東戦争 だいさんじちゅうとうせんそう を受 う け、国連 こくれん 安保理 あんぽり はイスラエル に対 たい し占領 せんりょう 地区 ちく の開放 かいほう を勧告 かんこく する決議 けつぎ を採択 さいたく した。世界中 せかいじゅう の企業 きぎょう がこれに呼応 こおう して貿易 ぼうえき ボイコット を開始 かいし 、翌 よく 1968年 ねん にはトヨタ・日産 にっさん ・本田技研 ほんだぎけん が出荷 しゅっか 停止 ていし するなど日 にち 欧 おう の自動車 じどうしゃ メーカーも追随 ついずい した。一方 いっぽう 、時 とき を同 おな じくしてラビットスクーター が生産 せいさん 終了 しゅうりょう することとなり、以前 いぜん からラビットをイスラエルへ輸入 ゆにゅう していた業者 ぎょうしゃ はこれを受 う けてスバル360 に着目 ちゃくもく 、1968年 ねん より[ 69] 同車 どうしゃ の取扱 とりあつか いを開始 かいし した。その後 ご 、翌 よく 1969年 ねん には現地 げんち 企業 きぎょう ジャパンオート・イスラエル (ヘブライ語 ご 版 ばん ) (英 えい )"Japanauto Israel Auto Corporating Ltd."[ 70] を設立 せつりつ しスバルff-1 の販売 はんばい を開始 かいし 。後 のち にレオーネ が主力 しゅりょく 商品 しょうひん となった。こうした経緯 けいい から、非公式 ひこうしき にではあるが[ 注釈 ちゅうしゃく 16] 富士重工業 ふじじゅうこうぎょう は海外 かいがい 初 はつ 進出 しんしゅつ 国 こく として[ 69]
イスラエルへの輸出 ゆしゅつ を開始 かいし することとなった[ 注釈 ちゅうしゃく 17] 。加 くわ えて、当時 とうじ は輸入 ゆにゅう 車 しゃ の多 おお くが排気 はいき 量 りょう やボディ形状 けいじょう の関係 かんけい で高額 こうがく な関税 かんぜい が課 か せられており、庶民 しょみん 向 む けの選択肢 せんたくし が小型車 こがたしゃ に限 かぎ られていた中 なか 、小 しょう 排気 はいき 量 りょう ながら比較的 ひかくてき 大 おお きな車体 しゃたい を備 そな えたスバル車 しゃ は同 どう 国民 こくみん の需要 じゅよう にも合致 がっち した[ 69] 。この結果 けっか 、ダイハツ工業 だいはつこうぎょう が1983年 ねん に輸出 ゆしゅつ を解禁 かいきん するまでの10年 ねん 以上 いじょう にわたり[ 71] 、同国 どうこく の乗用車 じょうようしゃ 市場 いちば において大 おお きなシェアを獲得 かくとく する結果 けっか となった。1988年 ねん 、三菱自動車工業 みつびしじどうしゃこうぎょう が現地 げんち 法人 ほうじん を設立 せつりつ したのを皮切 かわき りに輸出 ゆしゅつ 再開 さいかい が相次 あいつ いだのに加 くわ え、90年代 ねんだい には韓国 かんこく 車 しゃ の輸出 ゆしゅつ 攻勢 こうせい も始 はじ まった結果 けっか 、富士重工業 ふじじゅうこうぎょう のシェアは非常 ひじょう に小 ちい さいものとなっている。なお、本 ほん エピソードを下敷 したじ きとして、映画 えいが 「ピンク・スバル 」が2010年 ねん に製作 せいさく された。
スバリストは自動車 じどうしゃ メーカーSUBARUが製造 せいぞう する自動車 じどうしゃ のエンスージアスト (熱狂 ねっきょう 的 てき ファン)のこと。詳細 しょうさい はSUBARU (自動車 じどうしゃ ) の項 こう を参照 さんしょう 。
^ 終戦 しゅうせん 後 ご 、アメリカ に接収 せっしゅう されて、140オクタン の高 こう 品質 ひんしつ な燃料 ねんりょう を使用 しよう しての綿密 めんみつ なテストの結果 けっか 、アメリカをして「第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん の日本 にっぽん 戦闘 せんとう 機 き のベストワン」と絶賛 ぜっさん させた。
^ 「富士 ふじ 」は「富士山 ふじさん 」に由来 ゆらい する。中島 なかじま 飛行機 ひこうき の創立 そうりつ 者 しゃ である中島 なかじま 知久平 ちくへい は、日本 にっぽん を代表 だいひょう する名山 めいざん である富士山 ふじさん をこよなく愛 あい した。
^ 本社 ほんしゃ は東京 とうきょう 都 と 新宿 しんじゅく 区 く 角 かく 筈 はず (新宿 しんじゅく スバルビル所在地 しょざいち )である
^ 当時 とうじ 、ブリヂストン会長 かいちょう でもあった石橋 いしばし 正二郎 しょうじろう 個人 こじん が筆頭 ひっとう 株主 かぶぬし の会社 かいしゃ (つまり、厳密 げんみつ にはブリヂストンの資本 しほん 系列 けいれつ ではなかったが、銀行 ぎんこう は事実 じじつ 上 じょう のブリヂストン支配 しはい の会社 かいしゃ と認定 にんてい していた)となっていた。
^ 1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )、戦前 せんぜん の立川 たちかわ 飛行機 ひこうき の転進 てんしん で、同 おな じくブリヂストン傘下 さんか にあったプリンス自動車 じどうしゃ 工業 こうぎょう と合併 がっぺい 、富士 ふじ 精密 せいみつ 工業 こうぎょう として開始 かいし した後 のち 、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )、プリンス自動車 じどうしゃ 工業 こうぎょう と名称 めいしょう を変更 へんこう 、スカイライン ・グロリア ・皇室 こうしつ 御料 ごりょう 車 しゃ プリンスロイヤル などを開発 かいはつ 。1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )、日産自動車 にっさんじどうしゃ に吸収 きゅうしゅう 合併 がっぺい された。
^ のちの富士 ふじ ロビン。2007年 ねん に富士重工 ふじじゅうこう 系列 けいれつ を離 はな れマキタ沼津 ぬまづ を経 へ てマキタ に吸収 きゅうしゅう 合併 がっぺい 。
^ 共用 きょうよう 化 か が全 まった く行 おこな われなかったわけではなく、3代目 だいめ レオーネ及 およ び初代 しょだい アルシオーネと7代目 だいめ および8代目 だいめ ブルーバードの一部 いちぶ 部品 ぶひん は互換 ごかん 性 せい があった。
^ 本田技研工業 ほんだぎけんこうぎょう (以下 いか 、ホンダ )向 む け を含 ふく むOEM による完成 かんせい 車 しゃ の相互 そうご 供給 きょうきゅう も行 おこ なわれたが、2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )いすゞのSIA撤退 てったい をもって関係 かんけい を解消 かいしょう している。
^ GM傘下 さんか 在籍 ざいせき 中 ちゅう には、同 どう 傘下 さんか のSAAB にインプレッサ・スポーツワゴンのOEM 車種 しゃしゅ サーブ9-2X を提供 ていきょう したり、GMのタイ工場 こうじょう からオペル 車 くるま のOEMであるトラヴィック などの供給 きょうきゅう を受 う けたりしていた。また2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )から開発 かいはつ を開始 かいし した「B9トライベッカ」ではSAAB版 ばん を最初 さいしょ からサーブ側 がわ と共同 きょうどう 開発 かいはつ する計画 けいかく だった。
^ 大型 おおがた 専業 せんぎょう 4社 しゃ のほかにトヨタ自動車 とよたじどうしゃ を含 ふく む。
^ 西日本 にしにほん 車体 しゃたい 工業 こうぎょう も2010年 ねん をもってバス車体 しゃたい 生産 せいさん から撤退 てったい し解散 かいさん 。UDトラックスも日本 にっぽん 国内 こくない でのバス製造 せいぞう 事業 じぎょう を終了 しゅうりょう している。
^ のちにブラジルの国鉄 こくてつ に相当 そうとう するブラジル連邦 れんぽう 鉄道 てつどう (ポルトガル語 ご 版 ばん ) へ併合 へいごう 。
^ ほぼ同型 どうけい の車両 しゃりょう が現地 げんち のサンタ・マチルジ工業 こうぎょう (ポルトガル語 ご 版 ばん ) ほかでも製造 せいぞう された。
^ 1978年 ねん に2等 とう 車 しゃ 、1980年 ねん から1983年 ねん にかけて3等 とう 車 しゃ を製造 せいぞう ・納入 のうにゅう 。後者 こうしゃ は日本車両製造 にっぽんしゃりょうせいぞう と住友商事 すみともしょうじ の手 て により、のちに現地 げんち のインダストリ・クレタ・アピ 社 しゃ でノックダウン生産 せいさん 。
^ いすゞ自動車 ずじどうしゃ にOEM供給 きょうきゅう されていた製品 せいひん がリコールに該当 がいとう するかどうかは不明 ふめい だった。
^ 社 しゃ 史 し 『富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 50年 ねん 史 し 1953-2003』年表 ねんぴょう には、対 たい イスラエル輸出 ゆしゅつ に関 かん する記述 きじゅつ がない。
^ イスラエルとの取引 とりひき を継続 けいぞく すると中東 ちゅうとう 諸国 しょこく でボイコットを受 う ける恐 おそ れがあったが、長年 ながねん 国内 こくない 市場 いちば のみで販売 はんばい されたスバル車 しゃ にはこのリスクが無 な いという側面 そくめん があった。
ウィキメディア・コモンズには、
SUBARU に
関連 かんれん するカテゴリがあります。