キエフ (ウクライナ語 ご : Київ [ˈkɪjiw] ( 音声 おんせい ファイル ) キーイウ [4] 、ロシア語 ご : Киев [ˈkʲiɪf] )は、ウクライナ の首都 しゅと 。ドニプロ川 がわ の中流 ちゅうりゅう に位置 いち する。同国 どうこく 最大 さいだい の都市 とし で、政治 せいじ ・経済 けいざい ・社会 しゃかい ・学術 がくじゅつ ・交通 こうつう の中心 ちゅうしん 地 ち である。特別 とくべつ 自治 じち 都市 とし 。5世紀 せいき 後半 こうはん に建設 けんせつ されたポリャーネ族 ぞく の集落 しゅうらく から発展 はってん した。中世 ちゅうせい にはキエフ・ルーシ の都 と であったが、近世 きんせい にはコサック のキエフ連隊 れんたい の中心 ちゅうしん となった。20世紀 せいき 中 なか にウクライナ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 、ウクライナ国 こく とウクライナ・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと であり続 つづ けた。キエフ市内 しない の人口 じんこう はおよそ279万 まん 人 にん であるが、キエフ首都 しゅと 圏 けん の人口 じんこう はおよそ400万 まん 人 にん となっている。東 ひがし ヨーロッパ における最古 さいこ の都市 とし で、キリスト教 きりすときょう の聖地 せいち の一 ひと つである。都内 とない にある聖 せい ソフィア大 だい 聖堂 せいどう とキエフ洞窟 どうくつ 大 だい 修道院 しゅうどういん は世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく されている。
名称 めいしょう
キエフという名称 めいしょう は「キーイの都市 とし 」を意味 いみ し、キエフを創建 そうけん した伝説 でんせつ の公爵 こうしゃく キーイ の名前 なまえ に由来 ゆらい する。キエフは他国 たこく の支配 しはい を受 う けた歴史 れきし があるため、文献 ぶんけん によってその名称 めいしょう が異 こと なっている。
ウクライナ語 ご :Київ で、発音 はつおん は[ˈkɪjiu̯] (クィーイウ )に近 ちか い。古 こ ルーシ語 ご の Къıѣвъ に由来 ゆらい する。ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ としては簡略 かんりゃく なKyiv が正式 せいしき な表記 ひょうき とされているが、政府 せいふ の発表 はっぴょう により表記 ひょうき が統一 とういつ されるまでは各 かく 文字 もじ を機械 きかい 的 てき に転写 てんしゃ したKyijv 、Kyjiv などが用 もち いられていた。
ロシア語 ご :Киев で、発音 はつおん は[ˈkʲiɪf] ( キーイフ )に近 ちか い。ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ としては、最 もっと も多 おお いKiev の他 ほか 、Kijev 、Kiyev などが用 もち いられる。
ポーランド語 ご :Kijów で、発音 はつおん は[ˈcijuf ] (キーユフ )に近 ちか い。日本語 にほんご 転写 てんしゃ としては「キユフ」と書 か かれる。日本語 にほんご 文献 ぶんけん では、ポーランド支配 しはい 時代 じだい に関 かん する記述 きじゅつ 等 とう でこの名称 めいしょう が使 つか われることがある。
英語 えいご :Kyiv またはKiev 。独立 どくりつ 以前 いぜん はKievが公式 こうしき のラテン文字 もじ 表記 ひょうき であったが、独立 どくりつ 以降 いこう は唯一 ゆいいつ の公用 こうよう 語 ご (国家 こっか 語 ご )のウクライナ語 ご の名前 なまえ であるКиїв から、Kyiv との表記 ひょうき がウクライナ政府 せいふ によって決 き められた。これに従 したが い国内 こくない の道路 どうろ 標識 ひょうしき や空港 くうこう や駅 えき 等 とう の表記 ひょうき は「Kyiv」で統一 とういつ されている。ウクライナ国外 こくがい では新聞 しんぶん や雑誌 ざっし 等 とう のメディアは慣例 かんれい からKiev の表記 ひょうき を使 つか う方 ほう が現状 げんじょう もっぱら一般 いっぱん 的 てき である一方 いっぽう 、学術 がくじゅつ 的 てき な専門 せんもん 書 しょ ではKyivが使 つか われることが多 おお い[5] 。
日本語 にほんご :ウクライナ語 ご 名 めい に沿 そ った「キイウ 」、「キーウ 」、「キーイウ 」、「キーイヴ 」等 とう の表記 ひょうき がされる場合 ばあい はあるが、現時点 げんじてん ではまだ使用 しよう 頻度 ひんど は少 すく ない[6] 。在日 ざいにち ウクライナ大使館 たいしかん は一 いち 度 ど 「クィィヴ」表記 ひょうき を主張 しゅちょう したものの[7] 、その後 ご の2019年 ねん 9月 がつ 、同 どう 大使館 たいしかん 代表 だいひょう 者 しゃ の参加 さんか の下 した で開催 かいさい されたウクライナ研究 けんきゅう 会 かい 主催 しゅさい の「ウクライナの地名 ちめい のカタカナ表記 ひょうき に関 かん する有識者 ゆうしきしゃ 会議 かいぎ 」にて、首都 しゅと 名 めい は「『キーウ』、『キイフ』、『キエフ』の3例 れい の併用 へいよう を可 か とする」との結論 けつろん が出 だ され、同 どう 大使館 たいしかん 案 あん は採用 さいよう されなかった[8] 。ただし、現状 げんじょう 、日本 にっぽん 外務省 がいむしょう も各 かく メディアもロシア語 ご 名 めい に沿 そ った「キエフ」と表記 ひょうき が用 もち いられることが一般 いっぱん 的 てき である。アクセントを表 あらわ す長音符 ちょうおんぷ を保持 ほじ して「キーエフ」と書 か かれることもある。また、「キイフ」、「キーフ」と書 か かれる場合 ばあい もあるが、これらはウクライナ語 ご の表記 ひょうき をロシア語 ご 等 とう の読 よ み方 かた に沿 そ って誤 あやま って転写 てんしゃ したものである。また、漢字 かんじ 表記 ひょうき は「計 けい 由 よし 」である[9] 。ウクライナ語 ご に沿 そ った「キイウ 」という日本語 にほんご の名称 めいしょう は、はじめて新 しん 訂 てい 万国 ばんこく 全 ぜん 図 ず に見 み られる。この地図 ちず は、1807年 ねん に江戸 えど 幕府 ばくふ の命 いのち により高橋 たかはし 景 けい 保 ほ 、間 あいだ 重富 しげとみ 、馬場 ばば 佐十郎 さじゅうろう が作成 さくせい した世界 せかい 地図 ちず である[10] 。
ウクライナの独立 どくりつ 後 ご 、本国 ほんごく では公式 こうしき な名称 めいしょう をロシア語 ご 名 めい からウクライナ語 ご 名 めい に変更 へんこう された。現地 げんち では政策 せいさく としてロシア語 ご の使用 しよう は制限 せいげん されている。また、上記 じょうき にあるようにロシア語 ご に沿 そ ったラテン文字 もじ 表記 ひょうき である Kiev (Kiyev ) も同様 どうよう の扱 あつか いである。近年 きんねん 英語 えいご 圏 けん における出版 しゅっぱん 物 ぶつ では、政府 せいふ 発表 はっぴょう の正式 せいしき ラテン文字 もじ 表記 ひょうき であるKyiv と書 か かれる場合 ばあい が増 ふ えている。日本 にっぽん でも、その傾向 けいこう を受 う けて学者 がくしゃ 等 とう から「キーウ」等 とう とウクライナ語 ご に準 じゅん ずる表記 ひょうき が推奨 すいしょう される機会 きかい が増 ふ えつつある。しかし、現状 げんじょう では、日本 にっぽん やロシアにおけるウクライナ語 ご の知識 ちしき をもつ人口 じんこう が少 すく ないことや、以前 いぜん は学会 がっかい 等 とう でもウクライナに言及 げんきゅう する場合 ばあい 、歴史 れきし 的 てき にロシア語 ご 文献 ぶんけん を参照 さんしょう した研究 けんきゅう が多 おお かった経緯 けいい もあり、まだまだ慣例 かんれい として「キエフ」と呼 よ ばれる事例 じれい が圧倒的 あっとうてき に多 おお い。
ウクライナ語 ご の認知 にんち 度 ど が相対 そうたい 的 てき に低 ひく いため、政府 せいふ や各 かく メディア等々 とうとう でもロシア語 ご に沿 そ った従来 じゅうらい の「キエフ」という表記 ひょうき を用 もち いている。しかし、上 うえ の問題 もんだい を受 う けて、今後 こんご ウクライナ語 ご 名 めい に沿 そ った表記 ひょうき 「キーウ」を用 もち いることが必要 ひつよう との意見 いけん もある。
概要 がいよう
ソフィア広場 ひろば 、キエフの中心地 ちゅうしんち
東 ひがし ヨーロッパ有数 ゆうすう の世界 せかい 都市 とし である。週末 しゅうまつ になると、歩行 ほこう 者 しゃ 天国 てんごく になる市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ を通 とお るフレシチャーティク 通 とお りや、2001年 ねん の独立 どくりつ 10周年 しゅうねん を記念 きねん して整備 せいび され、地下 ちか ショッピングセンターなどを備 そな えた独立 どくりつ 広場 ひろば (マイダン・ネザレージュノスチ)などで人々 ひとびと が賑 にぎ わっている。
市内 しない にはキエフ大公 たいこう 国 こく 時代 じだい の建築 けんちく 物 ぶつ が多数 たすう 残 のこ されているが、戦火 せんか や共産党 きょうさんとう 政権 せいけん などによって破壊 はかい されたものも少 すく なくない。その上 うえ で、黄金 おうごん の門 もん のように復元 ふくげん されたものも少 すく なくない。ウクライナは両 りょう 大戦 たいせん において主戦 しゅせん 場 じょう となったためそれにまつわる多 おお くの記念 きねん 碑 ひ が建 た てられているが、キエフ市内 しない 及 およ び郊外 こうがい にも数 すう 多 おお くの記念 きねん 碑 ひ が見 み られる。それ以外 いがい には、現在 げんざい のキエフに戦火 せんか の傷跡 きずあと を見 み つけることは難 むずか しい。
町 まち は年々 ねんねん 発展 はってん しており、他 た の主要 しゅよう 都市 とし などと比 くら べても外観 がいかん ・内容 ないよう ともに豊 ゆた かである。
5月には春 はる の祭 まつ り が行 おこな われる。
地理 ちり
キエフとドニプロ川 がわ 、ランドサット 7による衛星 えいせい 写真 しゃしん
キエフの旧 きゅう 市街 しがい は、ドニプロ川 がわ を見下 みお ろす小高 こだか い丘 おか の上 うえ にある。
市 し はドニプロ川 がわ を挟 はさ んで広 ひろ がっているが、その内 うち 丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい の西岸 せいがん 側 がわ が古 ふる い建物 たてもの の残 のこ る従来 じゅうらい の市街地 しがいち で、それに対 たい し低地 ていち である東岸 とうがん 側 がわ は、高層 こうそう 建築 けんちく 物 ぶつ の目立 めだ つ新 しん 市街 しがい となっている。川 かわ の中州 なかす にはかつてドイツ軍 ぐん に破壊 はかい された村 むら の跡 あと にヒドロパールク がつくられている。
1986年 ねん 4月 がつ 26日 にち 、キエフの北 きた 130kmにあるチェルノブイリ原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ で原子力 げんしりょく 事故 じこ が発生 はっせい した(チェルノブイリ原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 事故 じこ )。直後 ちょくご にソビエト連邦 れんぽう 上層 じょうそう 部 ぶ によって全 ぜん 住民 じゅうみん 350万 まん 人 にん の疎開 そかい が検討 けんとう されたが、風向 かざむ きの関係 かんけい で健康 けんこう への影響 えいきょう は無 な いと判断 はんだん され、疎開 そかい は中止 ちゅうし された。現在 げんざい はキエフを起点 きてん としたチェルノブイリの観光 かんこう ツアーが存在 そんざい し、事故 じこ を起 お こした4号 ごう 炉 ろ を間近 まぢか に見 み ることも可能 かのう である。
気候 きこう
大陸 たいりく 性 せい 気候 きこう であり、ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん では湿潤 しつじゅん 大陸 たいりく 性 せい 気候 きこう (Dfb) に属 ぞく する。最 もっと も暑 あつ い7月 がつ の平均 へいきん 気温 きおん は20.5°Cで、時 とき に30°Cを超 こ えることも少 すく なくない。最 もっと も寒 さむ い1月 がつ の平均 へいきん 気温 きおん は−3.5°Cで急速 きゅうそく に平年 へいねん 値 ち は上昇 じょうしょう したものの、近年 きんねん は寒 かん 冬 ふゆ になることも多 おお く、時 とき に零下 れいか 20度 ど を下回 したまわ ることも珍 めずら しくない。過去 かこ 最高 さいこう 気温 きおん は1936年 ねん 7月 がつ 31日 にち 観測 かんそく された39.4 °C、過去 かこ 最低 さいてい 気温 きおん は1929年 ねん 2月 がつ 7日 にち と9日 にち に観測 かんそく された−32.2 °Cである。年間 ねんかん 降雪 こうせつ 量 りょう は355cmと欧州 おうしゅう の大都市 だいとし の中 なか ではかなり多 おお い方 ほう である。
キエフの気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
最高 さいこう 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
11.1 (52)
17.3 (63.1)
22.4 (72.3)
30.2 (86.4)
33.6 (92.5)
35.0 (95)
39.4 (102.9)
39.9 (103.8)
33.8 (92.8)
27.9 (82.2)
23.2 (73.8)
14.7 (58.5)
39.9 (103.8)
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
−0.9 (30.4)
0.0 (32)
5.6 (42.1)
14.0 (57.2)
20.7 (69.3)
23.5 (74.3)
25.6 (78.1)
24.9 (76.8)
19.0 (66.2)
12.5 (54.5)
4.9 (40.8)
0.0 (32)
12.5 (54.5)
日 にち 平均 へいきん 気温 きおん °C (°F )
−3.5 (25.7)
−3 (27)
1.8 (35.2)
9.3 (48.7)
15.5 (59.9)
18.5 (65.3)
20.5 (68.9)
19.7 (67.5)
14.2 (57.6)
8.4 (47.1)
1.9 (35.4)
−2.3 (27.9)
8.4 (47.1)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
−5.8 (21.6)
−5.7 (21.7)
−1.4 (29.5)
5.1 (41.2)
10.8 (51.4)
14.2 (57.6)
16.1 (61)
15.2 (59.4)
10.2 (50.4)
4.9 (40.8)
0.0 (32)
−4.6 (23.7)
4.9 (40.8)
最低 さいてい 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
−31.1 (−24)
−32.2 (−26)
−24.9 (−12.8)
−10.4 (13.3)
−2.4 (27.7)
2.4 (36.3)
5.8 (42.4)
3.3 (37.9)
−2.9 (26.8)
−17.8 (0)
−21.9 (−7.4)
−30.0 (−22)
−32.2 (−26)
降水 こうすい 量 りょう mm (inch)
36 (1.42)
39 (1.54)
36 (1.42)
46 (1.81)
57 (2.24)
82 (3.23)
72 (2.83)
61 (2.4)
58 (2.28)
40 (1.57)
48 (1.89)
44 (1.73)
619 (24.37)
平均 へいきん 降水 こうすい 日数 にっすう
8
7
9
13
14
15
14
11
14
12
12
9
138
% 湿度 しつど
83
80
74
64
62
67
68
67
74
77
85
86
74
平均 へいきん 月間 げっかん 日照 ひでり 時間 じかん
31.0
56.5
124.0
180.0
279.0
270.0
310.0
248.0
210.0
155.0
60.0
31.0
1,954.5
出典 しゅってん 1:Pogoda.ru.net[11]
出典 しゅってん 2:BBC weather (sun values).[12]
歴史 れきし
中世 ちゅうせい 前期 ぜんき
中世 ちゅうせい 期 き のキエフの象徴 しょうちょう 。聖 せい ミハイール黄金 おうごん ドーム修道院 しゅうどういん
ウクライナの最古 さいこ 記録 きろく 『ルーシ年代 ねんだい 記 き 』の伝説 でんせつ によれば、キエフはポリャーネ族 ぞく の公爵 こうしゃく キーイ 、ならびに彼 かれ の兄弟 きょうだい シュテーク 、ホリーウ とリービジ によって創建 そうけん されたという[13] 。しかし、年代 ねんだい 記 き には創建 そうけん の年代 ねんだい は記載 きさい されていない。考古学 こうこがく の資料 しりょう によると、キエフは5世紀 せいき 末 すえ から6世紀 せいき 初頭 しょとう に形成 けいせい した集落 しゅうらく として発展 はってん してきたという[13] 。当時 とうじ の集落 しゅうらく の中心 ちゅうしん 地 ち はドニプロ川 がわ の右岸 うがん に位置 いち する城山 しろやま にあったとされる[13] 。6世紀 せいき から7世紀 せいき にかけて集落 しゅうらく は城山 しろやま から周 まわ りの丘陵 きゅうりょう への拡大 かくだい したのである[13] 。キエフはドニプロ川 がわ の貿易 ぼうえき ルート、森林 しんりん と草原 そうげん が接 せっ する地帯 ちたい 、そして多 おお 民族 みんぞく が交 まじ わる境界 きょうかい 地 ち に位置 いち していたため、ドニプロ川 がわ の中流 ちゅうりゅう における政治 せいじ ・経済 けいざい ・文化 ぶんか 的 てき 拠点 きょてん として成長 せいちょう した[13] 。6世紀 せいき のゴート人 じん の歴史 れきし 家 か ヨルダネス は、「ドニプロ川 がわ の町 まち 」という意味 いみ のダナピルスタディル (Danapirstadir) という名 な で記録 きろく している。
8世紀 せいき 末 すえ にキエフは、「ルーシの地 ち 」と呼 よ ばれる南方 なんぽう の東 ひがし スラヴ人 じん の共同 きょうどう 体 たい の中核 ちゅうかく 的 てき 都市 とし であった[13] 。882年 ねん に北欧 ほくおう のヴァリャーグ (ヴァイキング )がその都市 とし を征服 せいふく すると、キエフは「ルーシ 」という国家 こっか の首都 しゅと 、いわゆる「ルーシの都市 とし の母 はは 」[14] となった[13] 。8世紀 せいき から9世紀 せいき にかけてキエフでは、古 こ キエフ山 さん にある山 やま の手 て (古 こ キエフ )と山麓 さんろく にある下町 したまち (ポジール )というの2つの区域 くいき が形成 けいせい された。前者 ぜんしゃ では貴族 きぞく と聖職 せいしょく 者 しゃ 、後者 こうしゃ では庶民 しょみん が暮 く らしていた[13] 。当時 とうじ のキエフは、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、北欧 ほくおう 、西欧 せいおう 、イスラム 系 けい 諸国 しょこく と貿易 ぼうえき をし、国際 こくさい 都市 とし として発展 はってん した。10世紀 せいき 前半 ぜんはん にキエフでは初 はじ めてのキリスト教 きりすときょう の聖堂 せいどう が建立 こんりゅう された[13] 。
ヴォロディーミル聖 ひじり 公 こう の代 だい (980年 ねん –1015年 ねん )には、キエフの山 やま の手 て の範囲 はんい が拡大 かくだい され、防衛 ぼうえい が強化 きょうか された。研究 けんきゅう 史 し では改善 かいぜん された山 やま の手 て は「ヴォロディーミルの町 まち 」と呼 よ ぶ[13] [15] 。山 やま の手 て は高 たか い土 ど 塁 るい によって囲 かこ まれて、土 ど 塁 るい には3つの大門 おおもん が設 もう けられた。正門 せいもん であるソフィア門 もん は町 まち の南方 なんぽう に置 お かれた[15] 。988年 ねん にルーシがキリスト教 きりすときょう を国教 こっきょう にすると、キエフはコンスタンディヌーポリ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう のキエフ府 ふ 主教 しゅきょう 区 く の中心 ちゅうしん となった。キエフの最大 さいだい の教会 きょうかい は、「像 ぞう の市 し 」と呼 よ ばれる市場 いちば と大公 たいこう の宮殿 きゅうでん の隣 となり に建立 こんりゅう された什一聖堂 せいどう であった[15] 。ヴォロディーミル聖 せい 公 おおやけ の子息 しそく 、ヤロスラーウ賢 けん 公 こう (1019年 ねん –1054年 ねん )は、さらに山 やま の手 て をおよそ80ヘクタール まで拡大 かくだい させ、いわゆる「ヤロスラーウの町 まち 」を建設 けんせつ した[15] 。本城 ほんじょう を囲 かこ む土 ど の城壁 じょうへき の長 なが さは3.5キロメートまで達 たっ した[15] 。これによってキエフは東欧 とうおう の最大 さいだい の都市 とし となった[15] 。ヤロスラーウ賢 けん 公 こう はキエフの正門 せいもん を黄金 おうごん の門 もん に改 あらた め、キエフ府 ふ 主教 しゅきょう の座 ざ として聖 せい ソフィア大 だい 聖堂 せいどう を建立 こんりゅう した。ヤロスラーウ賢 けん 公 こう の子孫 しそん イジャスラーウ (1054年 ねん –1068年 ねん , 1069年 ねん –1073年 ねん )とスヴャトポールク (1093年 ねん –1113年 ねん )は新 あら たな「イジャスラーウ・スヴャトポールクの町 まち 」を建設 けんせつ した。この町 まち における中心 ちゅうしん 的 てき な建造 けんぞう 物 ぶつ になったのは聖 せい ミハイール黄金 おうごん ドーム大 だい 聖堂 せいどう であった[15] 。
キエフの最大 さいだい の地区 ちく は下町 したまち ポジールであった。12世紀 せいき から13世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけてポジールの面積 めんせき は約 やく 200ヘクタールに及 およ んでおり、土 ど 塁 るい と柵 しがらみ によって囲 かこ まれていた[15] 。ポジールの中 ちゅう 欧 おう にはキエフ最大 さいだい の市場 いちば 「市 し の場 ば 」(トルホーヴィシュチェ)が位置 いち しており、その周 まわ りにプィロホーシュチャ聖堂 せいどう 、ボリス・フリブ聖堂 せいどう 、ミハイール聖堂 せいどう などが並 なら んでいた[15] 。古 こ キエフの西部 せいぶ ではコープィル隅 すみ という地区 ちく があり、スヴャトスラーウ2世 せい の代 だい (1073年 ねん -1076年 ねん )にはそこで聖 せい シメオン修道院 しゅうどういん が建立 こんりゅう された[15] 。キエフ郊外 こうがい ではキリーロ修道院 しゅうどういん 、クローウ修道院 しゅうどういん 、洞窟 どうくつ 修道院 しゅうどういん (1598年 ねん 以降 いこう はキエフ洞窟 どうくつ 大 だい 修道院 しゅうどういん )、ヴィードゥビチ修道院 しゅうどういん などの正教会 せいきょうかい の修道院 しゅうどういん が置 お かれた[15] 。キエフの周 まわ りにプレドスラーヴィネ 村 むら 、ベレストーヴェ 村 むら 、公爵 こうしゃく と貴族 きぞく の別荘 べっそう 、ドロホージチ谷 だに とハンガリー谷 だに があった[15] 。
12世紀 せいき 半 なか ばにキエフは約 やく 5万 まん 人 にん の人口 じんこう 、400の教会 きょうかい と8つの市場 いちば を有 ゆう していた。キエフの総合 そうごう 面積 めんせき はおよそ400ヘクタールであった[15] 。
中世 ちゅうせい 後期 こうき
12世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう 、キエフはルーシの聖地 せいち の役割 やくわり を保 たも ちながら、政治 せいじ 的 てき な中心 ちゅうしん として衰退 すいたい した。ムスチスラーウ大公 たいこう (1125年 ねん - 1132年 ねん )の後 のち 、キエフを治 おさ める有能 ゆうのう な統治 とうち 者 しゃ がなく、ルーシというキエフ大公 たいこう 国 こく を構成 こうせい して諸 しょ 公国 こうこく は独立 どくりつ しはじめた。1169年 ねん にウラジーミル・スーズダリ公国 こうこく の公爵 こうしゃく アンドレイ は武力 ぶりょく でキエフを占領 せんりょう して掠奪 りゃくだつ し、キエフ大公 たいこう に即位 そくい せず帰国 きこく した。さらに、1203年 ねん にチェルニーヒウ公国 こうこく の公爵 こうしゃく リューリク2世 せい はキエフを攻略 こうりゃく して同様 どうよう な掠奪 りゃくだつ を行 おこな った。このような事件 じけん によってキエフ大公 たいこう の地位 ちい と威厳 いげん は大 おお きく損 そこ なわれた。また、1223年 ねん にキエフの軍勢 ぐんぜい はカルカ川 がわ でモンゴル軍 ぐん に敗北 はいぼく し 、1235年 ねん にチェルニーヒウの公爵 こうしゃく ミハイール2世 せい はキプチャク を連 つ れてキエフを陥落 かんらく させた。1239年 ねん にハリーチ公国 こうこく の公爵 こうしゃく ダニーロ はキエフを獲得 かくとく し、最後 さいご のキエフ大公 たいこう となった。
1240年 ねん にモンゴル帝国 ていこく の軍勢 ぐんぜい キエフを包囲 ほうい して破壊 はかい させた 。決定的 けっていてき な打撃 だげき を受 う けた古 こ キエフは全滅 ぜんめつ され、ルーシというキエフ大公 たいこう 国 こく は名実 めいじつ と共 とも に亡国 ぼうこく となった。キエフの中心 ちゅうしん 地 ち は下町 したまち ポジールへ移 うつ った。
支配 しはい する勢力 せいりょく は、1264年 ねん までのハールィチ・ヴォルィーニ大公 たいこう 国 こく から非 ひ スラヴ系 けい 国家 こっか のリトアニア大公 たいこう 国 こく に移 うつ り、1569年 ねん にリトアニアが同君 どうくん 連合 れんごう を結 むす んでいたポーランド王国 おうこく とルブリン合同 ごうどう を結 むす んでポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく を形成 けいせい すると、ウクライナ貴族 きぞく はシュラフタ として共和 きょうわ 国 こく のうちのポーランド王国 おうこく への帰属 きぞく 移動 いどう を求 もと め、キエフ県 けん としてポーランド王国 おうこく に加盟 かめい した。その後 ご 、ドニエプル川 がわ の中流 ちゅうりゅう に興 おこ ったザポロージャ・コサック の統治 とうち 地域 ちいき に加 くわ わった。コサックたちはポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の中央 ちゅうおう 政界 せいかい (セイム )との対立 たいりつ を深 ふか め、1648年 ねん には県 けん 全体 ぜんたい がヘーチマン国家 こっか (コサック国家 こっか )の一部 いちぶ としてポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく からの自治 じち 権 けん を得 え た。キエフはヘーチマン国家 こっか の文化 ぶんか 的 てき 中心 ちゅうしん として再 ふたた び栄 さか え、ウクライナ・バロック 文化 ぶんか が養 やしな われた。
近世 きんせい ・近代 きんだい
コサックの頭領 とうりょう によって復元 ふくげん されたキエフ洞窟 どうくつ 大 だい 修道院 しゅうどういん における至 いたり 聖 ひじり 三 さん 者 しゃ 大門 おおもん 教会 きょうかい
1654年 ねん 、ヘーチマン国家 こっか はモスクワ大公 たいこう 国 こく ・ロシア帝国 ていこく に対 たい する政治 せいじ 的 てき な闘争 とうそう に敗 やぶ れ、その宗主 そうしゅ 権 けん 下 か に入 はい ることとなった。1667年 ねん 、ウクライナ・コサックを巡 めぐ るポーランドとロシアの戦争 せんそう が講和 こうわ を迎 むか え、キエフを含 ふく むヘーチマン国家 こっか は正式 せいしき にロシア帝国 ていこく の版図 はんと と定 さだ められた。
その後 ご 、キエフは徐々 じょじょ にロシアの一 いち 地方 ちほう に地位 ちい を落 お としていったが、それでもやはりウクライナ文化 ぶんか や政治 せいじ 運動 うんどう の中心 ちゅうしん 地 ち のひとつとしての機能 きのう を担 にな っていた。そのため、モスクワ政府 せいふ はキエフを強力 きょうりょく な監視 かんし 下 か に置 お くようになり、時期 じき により差異 さい はあるとはいえ、ウクライナの文化 ぶんか 的 てき あるいは政治 せいじ 的 てき 運動 うんどう は「マゼッパ主義 しゅぎ 」や「裏切 うらぎ り独立 どくりつ 主義 しゅぎ 」などと呼 よ ばれ弾圧 だんあつ を加 くわ えられた。
現代 げんだい
キエフにおけるウクライナ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく の士官 しかん
1917年 ねん のロシア革命 かくめい 後 ご の同年 どうねん 秋 あき 、キエフのウクライナ中央 ちゅうおう ラーダ がウクライナ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく の事実 じじつ 上 じょう の独立 どくりつ 宣言 せんげん をするとロシアのボリシェヴィキ はウクライナに侵攻 しんこう を始 はじ め、ウクライナ・ソビエト戦争 せんそう が開始 かいし された。共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと となったキエフは赤軍 せきぐん による攻撃 こうげき を受 う けた。1918年 ねん 1月 がつ 29日 にち 、ウクライナ人民 じんみん 共和 きょうわ 国軍 こくぐん はキエフ郊外 こうがい のクルトィ駅 えき の戦 たたか い で赤軍 せきぐん に敗 やぶ れ、ウクライナ勢力 せいりょく の劣勢 れっせい が決定的 けっていてき になった。その後 ご 、1918年 ねん 2月 がつ 8日 にち にロシアの占領 せんりょう 軍 ぐん によってキエフの住民 じゅうみん の虐殺 ぎゃくさつ が行 おこな われた。
この戦闘 せんとう で、ウクライナの古都 こと キエフはウクライナ民族 みんぞく 主義 しゅぎ の拠点 きょてん となった。一方 いっぽう 、赤軍 せきぐん に協力 きょうりょく するウクライナ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく (ウクライナ・ソビエト共和 きょうわ 国 こく )の首府 しゅふ は、ロシア人 じん やユダヤ人 じん の多 おお いハルキウ に置 お かれた。
1918年 ねん 4月 がつ 29日 にち にはドイツ帝国 ていこく の軍事 ぐんじ 力 りょく と農民 のうみん 層 そう の支持 しじ を後 うし ろ盾 たて とするヘーチマンの政変 せいへん がキエフ・サーカス場 じょう にて発生 はっせい し、キエフを首都 しゅと とするウクライナ国 こく が建設 けんせつ された。だが、12月にはドイツ軍 ぐん の撤退 てったい により同国 どうこく はディレクトーリヤ に倒 たお され、ディレクトーリヤはウクライナ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく を再建 さいけん した。
1918年 ねん にウクライナからの要請 ようせい によって始 はじ められたポーランド・ソビエト戦争 せんそう でも、キエフは主戦 しゅせん 場 じょう の一 ひと つとなった。1920年 ねん には、ポーランド軍 ぐん と合同 ごうどう したディレクトーリヤ軍 ぐん によるキエフ攻勢 こうせい が実行 じっこう され一時 いちじ はキエフを奪還 だっかん したが、最終 さいしゅう 的 てき には赤軍 せきぐん に敗 やぶ れた。
結局 けっきょく 、ウクライナの独立 どくりつ 各派 かくは は相互 そうご の協力 きょうりょく に失敗 しっぱい し、またイギリス やフランス 、そしてポーランド などのような外国 がいこく 勢力 せいりょく も非 ひ 協力 きょうりょく 的 てき であったことからソビエト 政府 せいふ に対 たい して敗北 はいぼく を喫 きっ し、ウクライナの独立 どくりつ は潰 つい えた。それに伴 ともな い、ソ連 それん 時代 じだい 初期 しょき のウクライナ社会 しゃかい 主義 しゅぎ ソビエト共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと は民族 みんぞく 主義 しゅぎ 熱 ねつ の高 たか かったキエフを避 さ け、1934年 ねん 6月24日 にち にキエフに戻 もど るまでハリコフに置 お かれた[16] 。1937年 ねん 、国号 こくごう は「ウクライナ・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 」に改称 かいしょう されたが、キエフはその首都 しゅと であり続 つづ けた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の1941年 ねん 9月19日 にち 、侵攻 しんこう して来 き たナチス・ドイツ 軍 ぐん がバルバロッサ作戦 さくせん の一環 いっかん としてキエフを占領 せんりょう した。同年 どうねん の9月29日 にち と30日 にち に、キエフ近郊 きんこう のバビ・ヤール で、ナチス親衛隊 しんえいたい の特別 とくべつ 殺戮 さつりく 部隊 ぶたい が、33771人 にん のユダヤ人 じん を虐殺 ぎゃくさつ した。
キエフ市 し は1943年 ねん 11月6日 にち に赤軍 せきぐん によって奪還 だっかん されるまでドイツの占領 せんりょう 下 か にあった。市街 しがい や郊外 こうがい はドイツ軍 ぐん による激 はげ しい破壊 はかい を受 う けたが、戦後 せんご 復興 ふっこう に力 ちから が入 い れられ、比較的 ひかくてき 早 はや い時期 じき に復興 ふっこう を果 は たした。1941年 ねん の激 はげ しい戦 たたか いを記念 きねん し、キエフは戦後 せんご 「英雄 えいゆう 都市 とし 」の称号 しょうごう を贈 おく られた。
現在 げんざい
1991年 ねん にウクライナが独立 どくりつ してソ連 それん が崩壊 ほうかい すると、キエフは新 あら たな独立 どくりつ ウクライナの首都 しゅと となった。
言語 げんご
独立 どくりつ 後 ご は、それまでのロシア語 ご 優遇 ゆうぐう 政策 せいさく が改 あらた められ、市内 しない の表記 ひょうき も広告 こうこく 等 とう ふくめ全 すべ てウクライナ語 ご に制限 せいげん されるようになった。テレビ放送 ほうそう は放送 ほうそう 法 ほう により、外国 がいこく 語 ご の放映 ほうえい に関 かん してはウクライナ語 ご 字幕 じまく をかぶせなければならなくなった。そのためロシアで製作 せいさく されたロシア語 ご 番組 ばんぐみ はウクライナ語 ご 字幕 じまく つきロシア語 ご 放送 ほうそう となっている。 地下鉄 ちかてつ もウクライナ語 ご のみのアナウンスとなっている。
ただ、母語 ぼご 調査 ちょうさ ではロシア語 ご ではなくウクライナ語 ご が7割 わり と大半 たいはん を占 し めているものの、キエフ市民 しみん の間 あいだ では日常 にちじょう 的 てき な会話 かいわ には公用 こうよう 語 ご ではないロシア語 ご が主 おも に用 もち いられている。2003年 ねん の調査 ちょうさ によると、日常 にちじょう 生活 せいかつ でロシア語 ご を主 おも に使 つか う人 ひと が52%、ロシア語 ご とウクライナ語 ご の両方 りょうほう が32%、主 おも にウクライナ語 ご が14%、大半 たいはん がウクライナ語 ご は4.3%に過 す ぎなず、ウクライナ語 ご のみで生活 せいかつ している人 ひと はむしろ圧倒的 あっとうてき に少数 しょうすう 派 は である[17] 。そのため、街 まち 中 ちゅう で見 み られる表記 ひょうき はウクライナ語 ご であるものの、聞 き こえる言語 げんご はむしろロシア語 ご の方 ほう が多 おお くなっている。
行政 ぎょうせい 区分 くぶん
区 く
面積 めんせき (km²)
人口 じんこう (人 ひと )
ドニプロ川 がわ の右岸 うがん (西部 せいぶ ):
ホロシーイウ区 く Голосіївський район
156
232.800
オボローニ区 く Оболонський район
110
314.900
ペチェールシク区 く Печерський район
27
139.800
ポジル区 く Подільський район
34
190.300
スヴァトシネ区 く Святошинський район
101
334.300
ソロミャンカ区 く Солом'янський район
40
342.500
シェウチェーンコ区 く Шевченківський район
25
231.100
ドニプロ川 がわ の左岸 さがん (東部 とうぶ ):
ダルヌィツャ区 く Дарницький район
134
312.000
デスナ区 く Деснянський район
148
356.700
ドニプロ区 く Дніпровський район
67
345.800
人口 じんこう
2001年 ねん ウクライナ国勢調査 こくせいちょうさ によるデータ。
交通 こうつう
トロリーバス
キエフ市電 しでん
市内 しない 交通 こうつう
キエフ市内 しない には、いくつかの公共 こうきょう 交通 こうつう 手段 しゅだん と半 はん 公共 こうきょう 交通 こうつう 手段 しゅだん が存在 そんざい する。
公共 こうきょう 機関 きかん としては、まず地下鉄 ちかてつ が、3路線 ろせん が走 はし っている。これらは現在 げんざい も建設 けんせつ 中 ちゅう であり、今後 こんご 路線 ろせん 数 すう と総 そう 延長 えんちょう 共 ども に伸 の びる予定 よてい である。旧 きゅう 市街 しがい と新 しん 市街 しがい にはそれぞれキエフ市電 しでん が、また旧 きゅう 市街 しがい と南西 なんせい の郊外 こうがい を結 むす ぶライトレール も運行 うんこう されている。この他 ほか 、トロリーバス と路線 ろせん バス が走 はし っている。公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん は充実 じゅうじつ しており、また料金 りょうきん も乗車 じょうしゃ 1回 かい に付 つ き一 いち 律 りつ 4フリヴニャ という低 てい 価格 かかく に抑 おさ えられている。
これらに加 くわ え、半 はん 公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん といえる営業 えいぎょう 免許 めんきょ 制 せい のマルシュルートカ (ワゴン車 しゃ ・マイクロバス 等 ひとし を利用 りよう した個人 こじん 経営 けいえい のバス・乗 の り合 あ いタクシー)が無数 むすう に運行 うんこう されている。これは、料金 りょうきん は乗車 じょうしゃ 距離 きょり に応 おう じた運賃 うんちん 制度 せいど で公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん よりかなり割高 わりだか であるとは言 い え、低速 ていそく の路線 ろせん バスなどに比 くら べ所要 しょよう 時間 じかん や運用 うんよう 本数 ほんすう ・路線 ろせん 数 すう で大 おお きなメリットがあり、やはり市民 しみん にとっては欠 か かせない交通 こうつう 手段 しゅだん である。しかし、路線 ろせん 網 もう が複雑 ふくざつ なので外国 がいこく 人 じん が利用 りよう する際 さい には注意 ちゅうい を要 よう する。
地下鉄 ちかてつ 車両 しゃりょう や路面 ろめん 電車 でんしゃ 、バスやトロリーバスには、ソ連 それん 時代 じだい に製造 せいぞう されたソ連 それん 製 せい やチェコスロヴァキア 製 せい 、ハンガリー 製 せい の車両 しゃりょう の他 ほか 、新型 しんがた のウクライナ製 せい やドイツ 製 せい のものも多 おお く見 み られる。しかし、一般 いっぱん に設備 せつび の悪 わる い古 ふる い車両 しゃりょう が多 おお いというイメージは利用 りよう 者 しゃ の間 あいだ で根強 ねづよ い。
郊外 こうがい ・国際 こくさい 交通 こうつう
郊外 こうがい に向 む かって運行 うんこう される交通 こうつう 機関 きかん には、キエフ旅客 りょかく 駅 えき などから発着 はっちゃく するウクライナ鉄道 てつどう がある。鉄道 てつどう には近距離 きんきょり の「エレクトルィーチュカ」と長距離 ちょうきょり の「ポーイズド」があり、夜行 やこう 列車 れっしゃ や国際 こくさい 列車 れっしゃ も運行 うんこう されている。この他 ほか 、鉄道 てつどう のない地域 ちいき を補 おぎな うための長距離 ちょうきょり バスが地下鉄 ちかてつ スヴャトーシン駅 えき 前 ぜん ターミナルなどから発着 はっちゃく している。
この他 ほか の交通 こうつう 機関 きかん としては、ドニエプル川 がわ を航行 こうこう する遊覧 ゆうらん 船 せん などの発着 はっちゃく する船着場 ふなつきば キエフ河川 かせん 港 みなと がある。また、旧 きゅう 市街 しがい の低地 ていち から高台 たかだい を結 むす ぶキエフ・ケーブルカー も運行 うんこう されている。
空港 くうこう
キエフには、周辺 しゅうへん 都市 とし を含 ふく めいくつかの空港 くうこう が所在 しょざい する。
市内 しない に所在 しょざい するキエフ・ジュリャーヌィ国際 こくさい 空港 くうこう は、かつてはウクライナの空 そら の玄関 げんかん 口 こう として機能 きのう した空港 くうこう であるがその後 ご 衰退 すいたい し、現在 げんざい では主 おも に国内線 こくないせん と近距離 きんきょり の国際線 こくさいせん が乗 の り入 い れている。この他 ほか 、個人 こじん の所有 しょゆう するビジネスジェットなども数多 かずおお くこの空港 くうこう を利用 りよう している。これについては、空港 くうこう の私物 しぶつ 化 か との批判 ひはん がある。この他 ほか 、空港 くうこう にはウクライナ空軍 くうぐん の使用 しよう 機 き 等 とう を展示 てんじ する国立 こくりつ 航空 こうくう 博物館 はくぶつかん も併設 へいせつ されている。この空港 くうこう は、市内 しない にあり利用 りよう の便 びん は非常 ひじょう によいが、安全 あんぜん 面 めん と土地 とち の問題 もんだい から本格 ほんかく 的 てき な国際 こくさい 空港 くうこう への拡張 かくちょう は困難 こんなん である。
スヴャトーシン 地区 ちく に所在 しょざい するキエフ・スヴャトーシノ空港 くうこう は、ウクライナの航空 こうくう 産業 さんぎょう 初期 しょき から存在 そんざい する空港 くうこう であるが規模 きぼ が小 ちい さく、また町 まち に隣接 りんせつ しているため拡張 かくちょう できない。現在 げんざい では、O・K・アントーノウ記念 きねん 航空 こうくう 科学 かがく 技術 ぎじゅつ 複 ふく 合体 がったい やアヴィアーント・キエフ航空機 こうくうき 工場 こうじょう の使用 しよう する小規模 しょうきぼ な飛行場 ひこうじょう となっている。
キエフ市外 しがい に隣接 りんせつ するキエフ・チャイカ空港 くうこう は、民間 みんかん のスポーツ用 よう の小規模 しょうきぼ な空港 くうこう である。
ボルィースピリ国際 こくさい 空港 くうこう は、厳密 げんみつ にはキエフ市 し ではなく東 ひがし 隣 となり のボルィースピリ市 し に所在 しょざい するが、「キエフ空港 くうこう 」と呼 よ ばれる空港 くうこう のひとつとなっている。主 おも に国際線 こくさいせん が乗 の り入 い れる国際 こくさい 空港 くうこう である。長 なが らく鉄道 てつどう や地下鉄 ちかてつ のアクセスがなく、バスやタクシーが必要 ひつよう になるなどキエフ市内 しない からのアクセスは不便 ふべん であったが、近年 きんねん はキエフ旅客 りょかく 駅 えき から定期 ていき 的 てき にシャトルバスが運行 うんこう されて利便 りべん 性 せい が向上 こうじょう した。所要 しょよう 時間 じかん は1時 じ 間 あいだ ほど。また2018年 ねん 11月にキエフ旅客 りょかく 駅 えき との間 あいだ を結 むす ぶ空港 くうこう 連絡 れんらく 鉄道 てつどう が開業 かいぎょう した。こちらの所要 しょよう 時間 じかん は40分 ふん ほどで、深夜 しんや 帯 たい も運行 うんこう されている。
ホストーメリ空港 くうこう もキエフ市 し に所在 しょざい する空港 くうこう ではなく、隣 となり のホストーメリ市 し に所在 しょざい する。小規模 しょうきぼ な空港 くうこう で、別名 べつめい アントーノフ空港 くうこう と呼 よ ばれるとおり、アントーノフの機体 きたい の試験 しけん に使用 しよう されている。
教育 きょういく
キエフの風景 ふうけい
建物 たてもの
キエフの聖 せい ソフィア大 だい 聖堂 せいどう は、キリスト教 きょう を広 ひろ めようとする東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の協力 きょうりょく の下 した 、ビザンティン様式 ようしき の華麗 かれい な教会 きょうかい を模 も して、1037年 ねん に建 た てられた。コンスタンティノープルにあるハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう と同 おな じように、「聖 せい なる知恵 ちえ 」に捧 ささ げたものであったが、建物 たてもの の姿 すがた 形 がた は全 まった く異 こと なるものである。四角 しかく い建物 たてもの の上 うえ に一 ひと つの半球 はんきゅう 状 じょう のドームがあるコンスタンティノープルの大 だい 聖堂 せいどう に対 たい して、キエフのハギア・ソフィアは、円柱 えんちゅう 状 じょう の建物 たてもの の上 うえ に13のハート 状 じょう のドームがある。この教会 きょうかい は過去 かこ に幾 いく 度 ど か損傷 そんしょう を受 う け、最近 さいきん の修復 しゅうふく 作業 さぎょう により装飾 そうしょく しなおされている。
外務省 がいむしょう
キエフ芸術 げいじゅつ 学校 がっこう
聖母 せいぼ マリア教会 きょうかい
キエフ大公 たいこう オーリハ像 ぞう
スポーツ
出身 しゅっしん の人物 じんぶつ
Category:キエフ出身 しゅっしん の人物 じんぶつ を参照 さんしょう 。
姉妹 しまい 都市 とし
注 ちゅう
^ 『ルーシ年代 ねんだい 記 き 』の882年 ねん の条 じょう に、ルーシ族 ぞく の公 おおやけ オレーグ がルーシ の都 と をキエフに定 さだ めた時 とき 、キエフを「ルーシの町 まち 々の母 はは 」と名 な づけた(Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб. , 1908. — c. 17. )。
^ キエフは東欧 とうおう のキリスト教 きりすときょう の発祥 はっしょう 地 ち で、1453年 ねん のコンスタンティノープルの陥落 かんらく 後 ご 、エルサレム に次 つ ぐ正教会 せいきょうかい の聖地 せいち であると主張 しゅちょう したウクライナの聖職 せいしょく 者 しゃ の概念 がいねん 。1622年 ねん にキエフ、ハールィチ および全 ぜん ルーシ の府 ふ 主教 しゅきょう イオウ・ボレーツィクィイ による書状 しょじょう 、1633年 ねん に彼 かれ の後継 こうけい 者 しゃ となったペトロー・モヒーラ による『洞窟 どうくつ 大 だい 修道院 しゅうどういん のアテナイオス』、またキエフ・モヒラ・アカデミー の校長 こうちょう およびロシア正教会 せいきょうかい 会議 かいぎ の会長 かいちょう を務 つと めたフェオファン・プロコポーヴィチ をマサーパ 時代 じだい の聖職 せいしょく 者 しゃ ・文人 ぶんじん の著作 ちょさく などにおいてにしばしば見 み られる(Рибалка І. К. Історія України (частина перша) — К.,1994 — 7. Культура в Україні у XVIII ст. )。
^ kyivpost.com/ Kyiv’s 1,530th birthday marked with fun, protes (May 31, 2012)
^ 公用 こうよう 語 ご のウクライナ語 ご に沿 そ った表記 ひょうき では「キーウ 」などと転写 てんしゃ されるが、本 ほん 項 こう ではロシア語 ご 名 な に沿 そ った表記 ひょうき で、日本語 にほんご 名 な として公式 こうしき に用 もち いられている「キエフ」で記述 きじゅつ する。
^ 2011年 ねん 現在 げんざい 確認 かくにん 。補足 ほそく だが、主要 しゅよう メディアに対 たい してKievからKyivへと表記 ひょうき を変 か えるようにウェブ署名 しょめい を行 おこな う等 とう の活動 かつどう が散見 さんけん される。また、英語 えいご 版 ばん ウィキペディアのノートでもこの表記 ひょうき に関 かん して長年 ながねん 議論 ぎろん が繰 く り返 かえ されている。
^ 使用 しよう 例 れい は以下 いか の通 とお りである。
キーウ
『ニューエクスプレス ウクライナ語 ご 』中澤 なかざわ 英彦 ひでひこ 著 ちょ . 白水 しろみず 社 しゃ , 2009
BBCやウクルインフォルム通信 つうしん の日本語 にほんご ニュース・サイト
キーイウ
『ポーランド・ウクライナ・バルト史 し 』 伊東 いとう 孝之 たかゆき , 井内 いうち 敏夫 としお , 中井 なかい 和夫 かずお 共著 きょうちょ . 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ , 1998(巻末 かんまつ の地図 ちず のみ)
キーイヴ
『ウクライナ語 ご のための日本語 にほんご 学習 がくしゅう 辞典 じてん Українсько-Японський Японсько-Український Словник Навчальний Словник Японських Ієрогліфів 』ボンダレンコ I.・日野 ひの 貴夫 たかお 共著 きょうちょ . アリテルナティーヴィ出版 しゅっぱん 所 しょ , 1998
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関連 かんれん 項目 こうもく
参考 さんこう 文献 ぶんけん
外部 がいぶ リンク
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