『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 傳 でん 集 しゅう 解 かい 』 - 国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん デジタルコレクション 『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 傳 でん 集 しゅう 解 かい 』の安永 やすなが 6年 ねん (1777年 ねん )の和 わ 刻 こく 本 ほん 。画像 がぞう は本書 ほんしょ の本文 ほんぶん の冒頭 ぼうとう 。
『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』(しゅんじゅうけいでんしっかい、旧 きゅう 字体 じたい :春秋 しゅんじゅう 經傳 けいでん 集 しゅう 解 かい 、拼音 : Chūnqiū jīngzhuàn jíjǐe )は、経書 けいしょ の一 ひと つである『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 』(以下 いか 『左 ひだり 伝 でん 』と呼称 こしょう )に対 たい する注釈 ちゅうしゃく 書 しょ 。西 にし 晋 すすむ の学者 がくしゃ である杜 もり 預 あずか の著作 ちょさく で、単 たん に「左 ひだり 伝 でん 注 ちゅう 」「杜 もり 注 ちゅう 」とも呼 よ ばれる。完全 かんぜん な形 かたち で現存 げんそん する最古 さいこ の『左 ひだり 伝 でん 』の注釈 ちゅうしゃく 書 しょ であり、現代 げんだい 『左 ひだり 伝 でん 』を読解 どっかい する際 さい にもよく用 もち いられる書 しょ である。
本書 ほんしょ は現代 げんだい に伝 つた わる本 ほん では『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』と題 だい されているが、『晋 すすむ 書 しょ 』杜 もり 預 あずか 伝 つて では『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』と伝 つた えている。「経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 」と題 だい される由来 ゆらい について、唐 とう の学者 がくしゃ の陸 りく 徳明 のりあき は以下 いか のように説明 せつめい している。
もとは
孔子 こうし が
修 おさむ 定 じょう した
経 けい と、
左 ひだり 丘 おか 明 あきら が
作 つく った
伝 つて とは、それぞれ
別 べつ の
書物 しょもつ として
行 おこな われていたのを、
杜 もり 預 あずか が
合 あ わせて(
集 しゅう めて)
注 ちゅう 解 かい したからである。
— 陸 りく 徳明 のりあき 、『経典 きょうてん 釈 しゃく 文 あや 』
実際 じっさい 、『春秋 しゅんじゅう 』の経文 きょうもん とその伝 つて である『左 ひだり 伝 でん 』とを一 いち 年 ねん ごとに分割 ぶんかつ し、両者 りょうしゃ を年 とし ごとに整理 せいり する形式 けいしき を取 と ったのは、『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』が最初 さいしょ である。
経書 けいしょ の一 ひと つで、孔子 こうし が編纂 へんさん したとされる魯国 の歴史 れきし 書 しょ である『春秋 しゅんじゅう 』には、主 おも に『公 おおやけ 羊 ひつじ 伝 でん 』『穀 こく 梁 りょう 伝 つたえ 』『左 ひだり 氏 し 伝 でん 』の三 さん 種類 しゅるい の解説 かいせつ 書 しょ が存在 そんざい していた。『公 おおやけ 羊 ひつじ 』『穀 こく 梁 はり 』は前漢 ぜんかん から公認 こうにん の官学 かんがく の地位 ちい にあったが、左 ひだり 丘 おか 明 あきら の解釈 かいしゃく とされる『左 ひだり 伝 でん 』が重視 じゅうし されるのは前漢 ぜんかん 末 まつ の劉 りゅう 歆以来 いらい である。後 こう 漢 かん に入 はい り、三伝 さんでん の解釈 かいしゃく の相違 そうい 、今 こん 文 ぶん ・古文 こぶん の争 あらそ いをめぐって様々 さまざま な論争 ろんそう が交 か わされた。
『左 ひだり 伝 でん 』研究 けんきゅう は後 こう 漢 かん の頃 ころ に大 おお きく進展 しんてん し、劉 りゅう 歆の弟子 でし の賈徽 の『左 ひだり 氏 し 条例 じょうれい 』、その子 こ の賈逵 の『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 解 かい 詁』などが作 つく られ、他 た に許 もと 淑 よし ・穎容といった学者 がくしゃ が出 で た。こうした諸家 しょか の注釈 ちゅうしゃく を集大成 しゅうたいせい したのが服 ふく 虔 けん の『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 解 かい 誼 よしみ 』であり、この著作 ちょさく は早 はや くから名声 めいせい を集 あつ めた[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。
さらに魏 たかし の時代 じだい には、王 おう 粛 の『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 注 ちゅう 』や董 ただし 遇 ぐう の『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 章句 しょうく 』が作 つく られた。ただ、杜 もり 預 あずか 以前 いぜん の『左 ひだり 伝 でん 』の注釈 ちゅうしゃく はいずれも現代 げんだい に至 いた るまでに散佚 さんいつ している。
『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』の作者 さくしゃ の杜 もり 預 あずか (222年 ねん - 284年 ねん )は、字 じ は元 もと 凱、諡 おくりな は成 なり 。京 きょう 兆 ちょう 尹 いん 杜 もり 陵 りょう 県 けん の人 ひと 。魏 たかし ・西 にし 晋 すすむ に仕 つか えた学者 がくしゃ で、司馬 しば 昭 あきら の妹 いもうと 婿 むこ である。その親族 しんぞく には『左 ひだり 伝 でん 』に見識 けんしき のある者 もの が多 おお く、祖父 そふ の杜 もり 畿 は楽 らく 詳 しょう という『左 ひだり 伝 でん 』学者 がくしゃ を育 そだ て、叔父 おじ の杜 もり 寛 ひろし は政界 せいかい に出 で ずに学問 がくもん に励 はげ み『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 解 かい 』を制作 せいさく した。杜 もり 預 あずか は楽 らく 詳 しょう から『左 ひだり 伝 でん 』の学 がく を受 う けたとする説 せつ がある。こうした環境 かんきょう で育 そだ った杜 もり 預 あずか は、「左 ひだり 伝 でん 癖 へき 」を自称 じしょう するほどの『左 ひだり 伝 でん 』愛好 あいこう 家 か となり、『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』を執筆 しっぴつ した。『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』が完成 かんせい したのは杜 もり 預 あずか の生涯 しょうがい の晩年 ばんねん に当 あ たり、太 ふと 康 やすし 5年 ねん (284年 ねん )の杜 もり 預 あずか の死 し に近 ちか い頃 ころ であると考 かんが えられている。
杜 もり 預 あずか の作 つく った『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』は、先行 せんこう の注釈 ちゅうしゃく の訓詁 くんこ を集大成 しゅうたいせい しつつ、『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん と『左 ひだり 伝 でん 』を対応 たいおう させて両者 りょうしゃ を一体化 いったいか させるとともに、春秋 しゅんじゅう 義 ぎ 例 れい 説 せつ を確立 かくりつ して「春秋 しゅんじゅう 学 がく 」としての『左 ひだり 伝 でん 』学 がく を樹立 じゅりつ した。杜 もり 預 あずか によって『左 ひだり 伝 でん 』が表 おもて 章 あきら され、特 とく に唐 とう 代 だい 以降 いこう は『春秋 しゅんじゅう 』といえば『左 ひだり 伝 でん 』、『左 ひだり 伝 でん 』といえば杜 もり 預 あずか 注 ちゅう という地位 ちい を獲得 かくとく した。
281年 ねん 、戦国 せんごく 時代 じだい の墓 はか から古代 こだい 文字 もじ の竹 たけ 簡 が出土 しゅつど し、束 たば 晳らによって整理 せいり された。これを汲冢書 しょ と呼 よ ぶ。汲冢書 しょ の発見 はっけん について、杜 もり 預 あずか は以下 いか のように述 の べている。
太 ふとし 康 かん 元年 がんねん の三 さん 月 がつ 、呉 ご の侵攻 しんこう が初 はじ めて平定 へいてい された。…そこでかねてからの考 かんが えを発揮 はっき して『春秋 しゅんじゅう 釈 しゃく 例 れい 』と『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』を書 か きあげた。その仕事 しごと が終 お わった頃 ころ 、たまたま汲郡汲県で旧 きゅう 墓 はか を発掘 はっくつ した者 もの がおり、古書 こしょ が大量 たいりょう に見 み つかった。すべて竹 たけ 簡を編 へん 綴 つづり して科 か 斗 と 文字 もじ で記 しる されていた。…最初 さいしょ は秘 ひ 府 ふ に蔵 ぞう され、私 わたし は晩年 ばんねん にそれを目 め にする機会 きかい に恵 めぐ まれた。 — 杜 もり 預 あずか 、『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』後 ご 序 じょ
杜 もり 預 あずか は、汲冢書 しょ のうち『竹 たけ 書 しょ 紀年 きねん 』などを調査 ちょうさ し、『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん と突 つ き合 あ わせて、以下 いか の結論 けつろん を導 みちび いた。
一 いち 国 こく の歴史 れきし 書 しょ は諸国 しょこく からの報告 ほうこく に基 もと づいて事実 じじつ をありのままに記載 きさい したものであり、孔子 こうし がこれに修 おさむ 改 あらため する際 さい に義 ぎ によって異 い 文 ぶん を制作 せいさく した。
『竹 たけ 書 しょ 紀年 きねん 』の内容 ないよう は『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 』と符合 ふごう する場合 ばあい が多 おお く、これは『左 ひだり 伝 でん 』が『春秋 しゅんじゅう 公 こう 羊 ひつじ 伝 でん 』『春秋 しゅんじゅう 穀 こく 梁 りょう 伝 つたえ 』より優 すぐ れたものであることを示 しめ している。
ただ、杜 もり 預 あずか が汲冢書 しょ を見 み たときにはすでに『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』と『春秋 しゅんじゅう 釈 しゃく 例 れい 』は完成 かんせい しており、その具体 ぐたい 的 てき な内容 ないよう を取 と り込 こ めたわけではない。
杜 もり 預 あずか は、本書 ほんしょ の序文 じょぶん で杜 もり 預 あずか 以前 いぜん の諸家 しょか の解釈 かいしゃく を以下 いか のように評価 ひょうか している。
古 ふる から今 いま まで、左 ひだり 氏 し 春秋 しゅんじゅう の義理 ぎり を説 と くものは多 おお い。今 いま かれらの残 のこ した文献 ぶんけん のうち、見 み ることのできるものは十 じゅう 余人 よにん の著作 ちょさく があるが、大体 だいたい をいうと、たがいに祖述 そじゅつ するのみで、経文 きょうもん の前後 ぜんご の表現 ひょうげん の相違 そうい を比較 ひかく 検討 けんとう し、その変 か わり具合 ぐあい を見極 みきわ めることをなさず、かといって左 ひだり 丘 おか 明 あきら の解説 かいせつ (『左 ひだり 伝 でん 』)を守 まも ることもない。……しかもまた、かわりに『公 おおやけ 羊 ひつじ 』『穀 こく 梁 はり 』の義 ぎ 説 せつ を皮相 ひそう に引用 いんよう し、『左 ひだり 伝 でん 』で通 つう じないところを説明 せつめい する。これでは自分 じぶん から混乱 こんらん させていると言 い ってよい。 — 杜 もり 預 あずか 、『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』序 じょ
次 つぎ に、杜 もり 預 あずか は自分 じぶん が新 あら たに注釈 ちゅうしゃく を作 つく る意図 いと とその方法 ほうほう について、以下 いか のように述 の べている。
私 わたし がいま、
先 さき 儒と
異 こと なる
説 せつ を
立 た てる
理由 りゆう は、『
左 ひだり 伝 でん 』を
専 せん 一 いち に
研究 けんきゅう し、それに
基 もと づいて
経文 きょうもん を
解釈 かいしゃく する
立場 たちば を
取 と るからである。
経文 きょうもん を
貫 つらぬ くすじみちは、
必 かなら ず『
左 ひだり 伝 でん 』から
導 みちび き
出 だ す。そして『
左 ひだり 伝 でん 』に
示 しめ される
義 ぎ 例 れい は、
総 そう じて「
凡例 はんれい 」に
帰結 きけつ させ、「
変 へん 例 れい 」を
推 お し
及 およ ぼして
是非 ぜひ 善悪 ぜんあく の
評価 ひょうか を
正 ただ しく
下 くだ す。『
公 おおやけ 羊 ひつじ 』と『
穀 こく 梁 はり 』の
二 に 伝 でん には
選択 せんたく を
加 くわ え、
正統 せいとう でない
説 せつ は
採 と らない。
思 おも うにこれが
左 ひだり 丘 おか 明 あきら の
志 こころざし であろう。
[ 注釈 ちゅうしゃく 2] — 杜 もり 預 あずか 、『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』序 じょ
杜 もり 預 あずか は従来 じゅうらい の『左 ひだり 伝 でん 』の注釈 ちゅうしゃく に対 たい して不満 ふまん を覚 おぼ えており、自 みずか らの手 て で一貫 いっかん して『左 ひだり 伝 でん 』に拠 よ った新 あたら しい『春秋 しゅんじゅう 』解釈 かいしゃく を作成 さくせい しようと考 かんが え、本書 ほんしょ を執筆 しっぴつ した。ただ、実際 じっさい には杜 もり 預 あずか は賈逵・服 ふく 虔 けん らの以前 いぜん の注釈 ちゅうしゃく や、『爾 しか 雅 みやび 』『説 せつ 文 ぶん 解 かい 字 じ 』などの古来 こらい の訓詁 くんこ を利用 りよう する箇所 かしょ も非常 ひじょう に多 おお く、従来 じゅうらい の研究 けんきゅう の蓄積 ちくせき を完全 かんぜん に無視 むし したわけではない[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。
本書 ほんしょ を執筆 しっぴつ する際 さい に杜 もり 預 あずか が用 もち いた『左 ひだり 伝 でん 』のテキストは、従来 じゅうらい の賈逵注 ちゅう ・服 ふく 虔 けん 注 ちゅう ・王 おう 粛注・董 ただし 遇 ぐう 注 ちゅう に用 もち いられたテキストとは異 こと なっている点 てん が多 おお い。加賀 かが (1964 , p. 316)は、これは荊州 において劉 りゅう 表 ひょう が作成 さくせい した『後 ご 定 てい 章句 しょうく 本 ほん 』を杜 もり 預 あずか が利用 りよう したためではないか、と推測 すいそく している。
執筆 しっぴつ に当 あ たって、杜 もり 預 あずか は以下 いか の基礎 きそ 作業 さぎょう を行 おこな った上 うえ で、『左 ひだり 伝 でん 』を研究 けんきゅう し、注釈 ちゅうしゃく を完成 かんせい させた。
『左 ひだり 伝 でん 』に見 み える古代 こだい の地名 ちめい が現在 げんざい ではどこに当 あ たるのか比定 ひてい し、対照 たいしょう 地図 ちず を作成 さくせい する。
人名 じんめい は姓 せい によってまとめて、系図 けいず を作成 さくせい する。
日食 にっしょく ・月食 げっしょく などの自然 しぜん 現象 げんしょう を含 ふく めた暦日 れきじつ の一覧 いちらん を作成 さくせい する。
そして杜 もり 預 あずか は、こうした検討 けんとう に基 もと づいて、『春秋 しゅんじゅう 』と『左 ひだり 伝 でん 』がどのような規則 きそく で書 か かれているかを示 しめ す「春秋 しゅんじゅう の筆法 ひっぽう 」の原則 げんそく を抽出 ちゅうしゅつ し、そしてその原則 げんそく に基 もと づき一 いち 書 しょ 全体 ぜんたい へと適用 てきよう し、解釈 かいしゃく を施 ほどこ した。川勝 かわかつ (1973 , pp. 90–91)は、こうした杜 もり 預 あずか の研究 けんきゅう 法 ほう は当時 とうじ としては驚 おどろ くべき精密 せいみつ さを備 そな え、現代 げんだい でも歴史 れきし 研究 けんきゅう に欠 か かせない手続 てつづ きを備 そな えていると評価 ひょうか する。
『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 』(所蔵 しょぞう :大阪大学 おおさかだいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 懐 ふところ 徳 とく 堂 どう 文庫 ぶんこ デジタル) - 新 しん 日本 にっぽん 古典 こてん 籍 せき 総合 そうごう データベース荘 そう 公 こう 5年 ねん 、6年 ねん の頁 ぺーじ 。荘 そう 公 こう 5年 ねん の『左 ひだり 伝 でん 』、荘 そう 公 こう 6年 ねん の『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん 、荘 そう 公 こう 6年 ねん の『左 ひだり 伝 でん 』と並 なら んでいることが分 わ かる。経文 きょうもん ・伝 つて 文 ぶん の間 あいだ に小 ちい さい字 じ で書 か かれているのが杜 もり 預 あずか 注 ちゅう 。
『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』の体裁 ていさい の特徴 とくちょう として、経 けい と伝 つて を対応 たいおう させて示 しめ す点 てん 、経伝 けいでん と杜 もり 預 あずか 注 ちゅう を密着 みっちゃく させて示 しめ す点 てん 、冒頭 ぼうとう に序文 じょぶん を附 ふ す点 てん の三 さん 点 てん が挙 あ げられる。
『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん と『左 ひだり 伝 でん 』の配置 はいち [ 編集 へんしゅう ]
従来 じゅうらい 、『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん と『左 ひだり 伝 でん 』はそれぞれ別 べつ の単行本 たんこうぼん として存在 そんざい していた。しかし本書 ほんしょ では、「経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 」の名 な が示 しめ す通 とお り、『春秋 しゅんじゅう 』の経文 きょうもん と『左 ひだり 伝 でん 』の伝 つて 文 ぶん を一 いち 年 ねん ごとに分 わ け、年次 ねんじ ごとにまとめて掲示 けいじ されている(「経伝 けいでん 相 しょう 付 づけ 」型 がた )。つまり、以下 いか のような形式 けいしき である。
隠 かくれ 公 こう 元年 がんねん の『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん
隠 かくれ 公 こう 元年 がんねん の『左 ひだり 伝 でん 』
隠 かくれ 公 こう 2年 ねん の『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん
隠 かくれ 公 こう 2年 ねん の『左 ひだり 伝 でん 』(以下 いか 同様 どうよう )
服 ふく 虔 けん 注 ちゅう の段階 だんかい では、『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん は『左 ひだり 伝 でん 』に対 たい する服 ふく 虔 けん 注 ちゅう の中 なか に引用 いんよう されて示 しめ される形式 けいしき を取 と っており、経 けい ・伝 つて が年次 ねんじ ごとに対応 たいおう して示 しめ されているわけではなかった。これに比 くら べて、杜 もり 預 あずか の「経伝 けいでん 相 しょう 付 づけ 」型 がた では、経文 きょうもん の通読 つうどく が容易 ようい になるとともに、経 けい と伝 つて を対応 たいおう して示 しめ すことで『左 ひだり 伝 でん 』によって経文 きょうもん を読解 どっかい する立場 たちば がより鮮明 せんめい にされた。こうした「経伝 けいでん 相 しょう 付 づけ 」型 がた のテキストは、もともと魏 ぎ の王 おう 弼 が『易 えき 経 けい 』の経 けい ・伝 つて において試 こころ みており、これを発展 はってん させて確立 かくりつ したのが『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』であった。現行 げんこう 本 ほん の『左 ひだり 伝 でん 』は「経伝 けいでん 相 しょう 付 づけ 」型 がた の形式 けいしき を取 と っているが、これは杜 もり 預 あずか がこの形式 けいしき を採用 さいよう して以来 いらい のものである。
経 けい ・伝 つて に対 たい する杜 もり 預 あずか 注 ちゅう の配置 はいち [ 編集 へんしゅう ]
『春秋 しゅんじゅう 』の経文 きょうもん と『左 ひだり 伝 でん 』の伝 つて 文 ぶん に対 たい する杜 もり 預 あずか 自身 じしん の注釈 ちゅうしゃく は、経文 きょうもん ・伝 つて 文 ぶん のテキストに密着 みっちゃく する形 かたち で施 ほどこ された。具体 ぐたい 例 れい として、『左 ひだり 伝 でん 』成 なり 公 こう 10年 ねん の例 れい を示 しめ す。地 ち の文 ぶん が『左 ひだり 伝 でん 』の本文 ほんぶん で、括弧 かっこ の中 なか が杜 もり 預 あずか 注 ちゅう である。
公 おおやけ 曰、
何 なに 如。曰、
不 ふ 食 しょく 新 しん 矣。(
言 げん 公 こう 不 ふ 得 とく 及食
新 しん 麥 むぎ 。)
公 おおやけ 疾病 しっぺい 、
求 もとめ 醫 い 于秦。
秦 はた 伯 はく 使 し 醫 い 緩 なる 為 ため 之 の 。(
緩 なる 、
醫 い 名 めい 。
為 ため 猶 なお 治 ち 也。)
未 み 至 いたり 、
公 おおやけ 夢 ゆめ 疾 やまし 為 ため 二 に 豎子 じゅし 、曰、
彼 かれ 良 りょう 醫 い 也、懼傷
我 わが 、焉逃
之 の 。其一曰、
居 きょ 肓之
上 じょう 、
膏 あぶら 之 の 下 した 、
若 わか 我 わが 何 なに 。(肓、鬲也。
心 しん 下 か 為 ため 膏 あぶら 。)
[ 注釈 ちゅうしゃく 4] — 杜 もり 預 あずか 、『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』成 なり 公 こう 10年 ねん
このように、経 けい と注 ちゅう が一 ひと つの本 ほん に合 あ わせて書 か かれるようになったのは、後 こう 漢 かん の馬 うま 融 とおる からとされ、他 た に王 おう 逸 いつ 『楚 すわえ 辞 じ 』注 ちゅう 、趙 ちょう 岐 『孟子 もうし 』注 ちゅう 、高 こう 誘 さそえ 『淮南 ワイナン 子 こ 』注 ちゅう などの例 れい がある。
『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』の冒頭 ぼうとう には、杜 もり 預 あずか による序文 じょぶん が附 ふ されている。ここには原著 げんちょ (『春秋 しゅんじゅう 』と『左 ひだり 伝 でん 』)が記 しる された経緯 けいい 、その書名 しょめい に関 かん する説明 せつめい 、伝承 でんしょう や注釈 ちゅうしゃく の歴史 れきし への言及 げんきゅう 、自身 じしん による文献 ぶんけん 整理 せいり の記録 きろく 、自身 じしん が注釈 ちゅうしゃく を記 しる す動機 どうき 、といった事柄 ことがら が記 しる されている。
これらの要素 ようそ を備 そな えた杜 もり 預 あずか の序文 じょぶん の体裁 ていさい は、後 こう 漢 かん から東 あずま 晋 すすむ にかけて成立 せいりつ した注釈 ちゅうしゃく 書 しょ の序文 じょぶん (『古文 こぶん 尚書 しょうしょ 』孔 あな 安国 やすくに 序 じょ 、『国語 こくご 』韋昭 序 じょ 、『孟子 もうし 』趙 ちょう 岐序 じょ 、『呂 りょ 氏 し 春秋 しゅんじゅう 』高 こう 誘 さそえ 序 じょ など)の多 おお くと共通 きょうつう する形式 けいしき である。
古 こ 勝 かち (2006 , p. 48)は、このような形式 けいしき を取 と る注釈 ちゅうしゃく 書 しょ が生 う まれた背景 はいけい として、『詩経 しきょう 』や『書 しょ 経 けい 』の序文 じょぶん 、『史記 しき 』太 ふとし 史 し 公 おおやけ 自序 じじょ の影響 えいきょう が考 かんが えられるほか、劉 りゅう 向 むかい ・劉 りゅう 歆 の書物 しょもつ 整理 せいり によって作 つく られた「叙 じょ 録 ろく 」の影響 えいきょう が考 かんが えられると述 の べている。
杜 もり 預 あずか は以上 いじょう のように本書 ほんしょ の体裁 ていさい に工夫 くふう を加 くわ えた上 うえ で、同時 どうじ に『春秋 しゅんじゅう 釈 しゃく 例 れい 』という書 しょ を著 あらわ し、本書 ほんしょ の補 おぎな いとした。この書 しょ について、杜 もり 預 あずか は以下 いか のように述 の べている。
また別 べつ に、経 けい ・伝 つて の中 なか に見 み える多種 たしゅ の義 ぎ 例 れい 、及 およ び地名 ちめい や氏族 しぞく の系譜 けいふ 、暦 こよみ を集 あつ めて、それを問題 もんだい ごとにまとめて分類 ぶんるい し、全部 ぜんぶ で四 よん 十 じゅう 部 ぶ ・十 じゅう 五 ご 巻 かん の書物 しょもつ にした。……この書物 しょもつ に『釈 しゃく 例 れい 』という題 だい をつける。『春秋 しゅんじゅう 』の経 けい ・伝 つて を学 まな ぶ人 ひと が、ここに集 あつ められた問題 もんだい とそれらの異同 いどう についての説明 せつめい とを、見 み やすいようにしたものであって、「釈 しゃく 例 れい に曰 いわ く」の見出 みだ しをつけたところでその説明 せつめい を詳 くわ しく述 の べた。 — 杜 もり 預 あずか 、『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』序 じょ
『春秋 しゅんじゅう 釈 しゃく 例 れい 』は、『左 ひだり 伝 でん 』から『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん の解釈 かいしゃく に関係 かんけい している部分 ぶぶん を抜 ぬ き出 だ し、それらから帰納 きのう して『春秋 しゅんじゅう 』解釈 かいしゃく の原理 げんり を定 さだ め、その原理 げんり について説明 せつめい を加 くわ えたものである。そしてこの原理 げんり に従 したが って『春秋 しゅんじゅう 』および『左 ひだり 伝 でん 』を統一 とういつ 的 てき に解釈 かいしゃく したのが『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』である。『春秋 しゅんじゅう 釈 しゃく 例 れい 』の前半 ぜんはん は『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん と『左 ひだり 伝 でん 』に見 み える義 よし 例 れい を具体 ぐたい 例 れい に即 そく して論述 ろんじゅつ したもので、後半 こうはん は土地 とち 名 めい ・世 よ 族 ぞく の系譜 けいふ ・暦日 れきじつ の考証 こうしょう ・図解 ずかい である。本書 ほんしょ は明代 あきよ に亡 ほろび 佚しており、現存 げんそん するものは輯佚書 しょ である。
杜 もり 預 あずか 注 ちゅう の最大 さいだい の特徴 とくちょう は、『左 ひだり 伝 でん 』によって『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん を解 げ するという伝 つて 文 ぶん 主義 しゅぎ を取 と ったことにある。従来 じゅうらい の注釈 ちゅうしゃく においては、『公 おおやけ 羊 ひつじ 』や『穀 こく 梁 はり 』の春秋 しゅんじゅう 義 ぎ 例 れい 説 せつ (『春秋 しゅんじゅう 』を解 げ する法則 ほうそく )を借 か りており、『左 ひだり 伝 でん 』に拠 よ った義 よし 例 れい 説 せつ を立 た てなかった。杜 もり 預 あずか は『春秋 しゅんじゅう 釈 しゃく 例 れい 』を著 あらわ して『左 ひだり 伝 でん 』に基 もと づいた義 よし 例 れい 説 せつ を明 あき らかにし、そしてその説 せつ に基 もと づいて『左 ひだり 伝 でん 』の全体 ぜんたい を解釈 かいしゃく した。その結果 けっか 、従来 じゅうらい の解釈 かいしゃく とは異 こと なる新 あら たな学説 がくせつ が生 う み出 だ された。
杜 もり 預 あずか は『左 ひだり 伝 でん 』の研究 けんきゅう を通 とお して、『左 ひだり 伝 でん 』が『春秋 しゅんじゅう 』の経文 きょうもん に対 たい して解説 かいせつ を立 た てる基本 きほん 原則 げんそく は、以下 いか の三 みっ つの場合 ばあい があることを見出 みいだ した。
凡例 はんれい
「凡 およ そ…」という書 か き出 だ しによって義 よし 例 れい を示 しめ すもので、周 しゅう 公 こう が制定 せいてい して以来 いらい の基本 きほん 的 てき な礼法 れいほう を表 あらわ している。孔子 こうし はまずこの「旧例 きゅうれい 」に従 したが って『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん を修訂 しゅうてい した。合計 ごうけい で50例 れい あるため、「五 ご 十 じゅう 凡」と総称 そうしょう される。
変 へん 例 れい
「凡 およ そ…」ではなく、「書 しょ す」「書 しょ せず」といった用語 ようご で義 ぎ 例 れい を示 しめ すもの。これは孔子 こうし が『春秋 しゅんじゅう 』経文 きょうもん を修訂 しゅうてい する際 さい に新 あら たに立 た てた義 よし 例 れい であり、孔子 こうし の「新 しん 意 い 」を示 しめ している。
非 ひ 例 れい
義 ぎ 例 れい ではなく、ただの事柄 ことがら の帰結 きけつ を説明 せつめい したもの。つまり周 しゅう 公 こう や孔子 こうし による是非 ぜひ 善悪 ぜんあく の判断 はんだん や毀誉 きよ 褒貶 ほうへん を含 ふく まない、客観 きゃっかん 的 てき な歴史 れきし 的 てき 説明 せつめい のこと。
この義 ぎ 例 れい 説 せつ によって、杜 もり 預 あずか は従来 じゅうらい の『春秋 しゅんじゅう 』研究 けんきゅう とは異 こと なる見解 けんかい に到達 とうたつ した。その特徴 とくちょう として以下 いか の三 さん 点 てん が挙 あ げられる。
『春秋 しゅんじゅう 』の経文 きょうもん は、実 じつ は「非 ひ 例 れい 」つまり毀誉 きよ 褒貶 ほうへん の義 ぎ を含 ふく まない部分 ぶぶん が最 もっと も多 おお い。この考 かんが えにより、「春秋 しゅんじゅう の義 ぎ 」が存 そん するとされる部分 ぶぶん が減少 げんしょう し、その分 ぶん 『春秋 しゅんじゅう 』は「史実 しじつ を記 しる した書 しょ 」としての比重 ひじゅう が大 おお きくなる。
『春秋 しゅんじゅう 』の義 ぎ 例 れい を周 しゅう 公 こう 以来 いらい の「凡例 はんれい 」と孔子 こうし の新 しん 意 い による「変 へん 例 れい 」の新旧 しんきゅう 二 に 層 そう に分 わ けて捉 とら え、周 しゅう 公 こう ・孔子 こうし という歴史 れきし を隔 へだ てた二人 ふたり の聖人 せいじん の意図 いと を把握 はあく することが必要 ひつよう とする。
さらに、「凡例 はんれい 」と「変 へん 例 れい 」を解釈 かいしゃく する場合 ばあい も、杜 もり 預 あずか は史官 しかん が記録 きろく する際 さい のきまりとして解釈 かいしゃく する傾向 けいこう が強 つよ く、「春秋 しゅんじゅう の義 ぎ 」を事実 じじつ の上 うえ で示 しめ そうとする態度 たいど を見 み せる。
「孔子 こうし 素 もと 王 おう 説 せつ 」とは、孔子 こうし は現実 げんじつ には王者 おうじゃ の地位 ちい を得 え ることはなかったが、実 じつ は「素 もと 王 おう (位 い なき王者 おうじゃ )」の地位 ちい を得 え ていたとする学説 がくせつ である。これに従 したが えば、『春秋 しゅんじゅう 』は孔子 こうし が真 しん の帝王 ていおう として王道 おうどう 政治 せいじ の基準 きじゅん を示 しめ したものであるということになる。加 くわ えて、『春秋 しゅんじゅう 』の最後 さいご が獲 え 麟 の話 はなし で終 お わっていることについては、王者 おうじゃ の象徴 しょうちょう である麟が、真 しん なる王者 おうじゃ である孔子 こうし による『春秋 しゅんじゅう 』の完成 かんせい に対 たい する瑞祥 ずいしょう として出現 しゅつげん したという解釈 かいしゃく がなされる。この孔子 こうし 素 もと 王 おう 説 せつ は、公 おおやけ 羊 ひつじ 学者 がくしゃ によって唱 とな えられて以来 いらい 通説 つうせつ となっており、『左 ひだり 伝 でん 』の解釈 かいしゃく もこの考 かんが え方 かた に沿 そ って行 おこな われていた。
杜 もり 預 あずか はこうした孔子 こうし 素 もと 王 おう 説 せつ を否定 ひてい した。杜 もり 預 あずか は、孔子 こうし は王者 おうじゃ ではなく、失 うしな われた周 しゅう 代 だい の制度 せいど ・文化 ぶんか を復興 ふっこう し後世 こうせい に伝 つた えるを意図 いと した人物 じんぶつ であると考 かんが え、『春秋 しゅんじゅう 』もその意図 いと から書 か かれた書 しょ であるとする。そして、『春秋 しゅんじゅう 』の最後 さいご の獲 え 麟については、瑞祥 ずいしょう であるはずの麟が太平 たいへい の世 よ ではないにも拘 かか わらず出現 しゅつげん したことに孔子 こうし は慨嘆 がいたん し、『春秋 しゅんじゅう 』を執筆 しっぴつ したと解釈 かいしゃく する。
川勝 かわかつ (1973 , p. 146)は、杜 もり 預 あずか の孔子 こうし 素 もと 王 おう 説 せつ の否定 ひてい は、孔子 こうし に対 たい する神秘 しんぴ 的 てき な権威 けんい 付 づ けを否定 ひてい し、『春秋 しゅんじゅう 』に付与 ふよ された不合理 ふごうり な権威 けんい の剥奪 はくだつ を意味 いみ するものであったとし、これによって孔子 こうし と『春秋 しゅんじゅう 』は人間 にんげん の文化 ぶんか の維持 いじ 者 しゃ ・復興 ふっこう 者 しゃ としてとらえなおされたと評価 ひょうか する。
諒闇 りょうあん 心 こころ 喪 も とは、天子 てんし の父母 ちちはは が死去 しきょ した際 さい 、天子 てんし は喪 も に服 ふく するが、葬送 そうそう した後 のち には喪 も に服 ふく するのを止 と めて、心 しん だけの喪 も に服 ふく することを指 さ す。本来 ほんらい 的 てき な儒教 じゅきょう の制度 せいど においては、父母 ちちはは の喪 も には三 さん 年間 ねんかん 服 ふく するのが規則 きそく であるが、特 とく に皇帝 こうてい の死 し の場合 ばあい には皇太子 こうたいし だけでなく全 すべ ての官僚 かんりょう にも三 さん 年 ねん 喪 も が要求 ようきゅう された。ただし、これでは政務 せいむ が滞 とどこお ってしまうため、前漢 ぜんかん の文 ぶん 帝 みかど によって喪 も の期間 きかん が短縮 たんしゅく され、その後 ご は実質 じっしつ 的 てき には短 たん 喪 も が行 おこな われていた。
西 にし 晋 すすむ の頃 ころ 、武 たけ 帝 みかど によって三 さん 年 ねん 喪 も を実際 じっさい に実施 じっし すべきとする議論 ぎろん が提起 ていき され、これ以後 いご 再度 さいど 三 さん 年 ねん 喪 も に関 かん する議論 ぎろん が行 おこな われるようになった。杜 もり 預 あずか は、喪 も の期間 きかん そのものを短 みじか くする文 ぶん 帝 みかど の方法 ほうほう は古制 こせい に則 のっと っていないと批判 ひはん し、経書 けいしょ 由来 ゆらい の正 ただ しい制度 せいど に従 したが うべきであると主張 しゅちょう した。そして、『左 ひだり 伝 でん 』の記述 きじゅつ や『尚書 しょうしょ 』の新 あら たな解釈 かいしゃく に基 もと づいて、諒闇 りょうあん 心 こころ 喪 も 説 せつ を唱 とな えた。これにより、実質 じっしつ 的 てき な服喪 ふくも は葬儀 そうぎ までとし皇太子 こうたいし や官僚 かんりょう がすぐに政務 せいむ も取 と れるようにしつつも、「心 しん の喪 も 」という形 かたち で古来 こらい の三 さん 年 ねん 喪 も を継続 けいぞく し、古典 こてん に基 もと づきながら調和 ちょうわ の取 と れた解釈 かいしゃく を実現 じつげん した。
諒闇 りょうあん 心 こころ 喪 も の制度 せいど は、中国 ちゅうごく の南北 なんぼく 朝 あさ で実際 じっさい に用 もち いられたほか、吐谷渾 や日本 にっぽん の醍醐天皇 だいごてんのう ・冷泉 れいせん 天皇 てんのう のもとでも用 もち いられた。
『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』に更 さら に注釈 ちゅうしゃく を加 くわ えて作 つく られた『左 ひだり 伝 でん 正義 まさよし 』(『五経 ごきょう 正義 まさよし 』の一 ひと つ)の冒頭 ぼうとう 。
『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』の完成 かんせい によって、長 なが い間 あいだ 繰 く り広 ひろ げられた『春秋 しゅんじゅう 』三伝 さんでん の争 あらそ いに終止符 しゅうしふ が打 う たれ、『左 ひだり 伝 でん 』が優位 ゆうい に立 た つこととなった。『左 ひだり 伝 でん 』の表 おもて 章 しょう に最 もっと も功績 こうせき があったのは『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』であったと言 い える。
唐 とう 代 だい に至 いた るまでの間 あいだ 、『左 ひだり 伝 でん 』の注釈 ちゅうしゃく としては服 ふく 虔 けん 注 ちゅう と杜 もり 預 あずか 注 ちゅう がともに重 おも んじられ、東 あずま 晋 すすむ や南朝 なんちょう 斉 ひとし では服 ふく 注 ちゅう ・杜 もり 注 ちゅう は並 なら んで学 がく 官 かん に立 た てられていた。服 ふく 注 ちゅう ・杜 もり 注 ちゅう の解釈 かいしゃく の相違 そうい について議論 ぎろん が交 か わされることもあり、北 きた 魏 たかし から南朝 なんちょう 梁 はり に移 うつ った崔 ちぇ 霊 れい 恩 おん と南 みなみ 人 じん の虞 おそれ 僧 そう 誕(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の論争 ろんそう はその一 いち 例 れい である。南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい には、北朝 ほくちょう では服 ふく 虔 けん 、南朝 なんちょう では杜 もり 預 あずか の注釈 ちゅうしゃく が用 もち いられる傾向 けいこう にあった。
この頃 ころ には、経書 けいしょ それ自体 じたい よりも注釈 ちゅうしゃく の権威 けんい が上回 うわまわ る本末転倒 ほんまつてんとう の現象 げんしょう も見 み られ、劉 りゅう 知 とも 幾 いく 『史 ふみ 通 どおり 』は以下 いか のように述 の べている。
経 けい を談 だん ずる者 もの は服 ふく 杜 もり の嗤い(服 ふく 虔 けん ・杜 もり 預 あずか を嘲笑 ちょうしょう すること)を聴 き くことを悪 あく む。 — 劉 りゅう 知 とも 幾 いく 、『史 し 通 どおり 』
南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい には、注釈 ちゅうしゃく をさらに敷衍 ふえん する義 ぎ 疏 と呼 よ ばれる二 に 次 じ 的 てき な注釈 ちゅうしゃく も大量 たいりょう に作 つく られた。唐 とう の太 ふとし 宗 むね の時期 じき になると、『五経 ごきょう 正義 まさよし 』が編 あ まれ、五経 ごきょう それぞれ一 ひと つの注釈 ちゅうしゃく に従 したが いつつ、旧来 きゅうらい の義 ぎ 疏を取捨選択 しゅしゃせんたく しながら公認 こうにん の統一 とういつ 見解 けんかい を示 しめ した。この『五経 ごきょう 正義 まさよし 』では、『春秋 しゅんじゅう 』三伝 さんでん からは『左 ひだり 伝 でん 』が選 えら ばれ、『左 ひだり 伝 でん 』の注釈 ちゅうしゃく の中 なか からは杜 もり 預 あずか 注 ちゅう が選 えら ばれた。その後 ご 約 やく 千 せん 年 ねん ほどは、杜 もり 預 あずか を通 とお して『左 ひだり 伝 でん 』そして『春秋 しゅんじゅう 』を理解 りかい するのが常識 じょうしき となった。
日本 にっぽん においては、大宝 たいほう 律令 りつりょう によって『春秋 しゅんじゅう 』は『左 ひだり 伝 でん 』に拠 よ り、その際 さい に用 もち いられる注釈 ちゅうしゃく は服 ふく 注 ちゅう または杜 もり 注 ちゅう と定 さだ められた。江戸 えど 時代 じだい に入 はい ると、秦 はた 鼎 かなえ 『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 校本 こうほん 』や、安井 やすい 息軒 そくけん 『左 ひだり 氏 し 輯釈』など、杜 もり 注 ちゅう を基本 きほん としながら補正 ほせい を図 はか った『左 ひだり 伝 でん 』研究 けんきゅう 書 しょ が作 つく られるようになった。
旧 きゅう 抄本 しょうほん 巻子本 かんすぼん 『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』
宮内庁 くないちょう 書 しょ 陵 りょう 部 ぶ に所蔵 しょぞう される本 ほん で、現代 げんだい に完本 かんぽん として伝 つた わる『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 伝 でん 集 しゅう 解 かい 』の本 ほん のなかで最古 さいこ のもの。もと金沢 かなざわ 文庫 ぶんこ の蔵書 ぞうしょ で、その創設 そうせつ 者 しゃ である北条 ほうじょう 実 みのる 時 とき が清原 きよはら 教 きょう 隆 たかし から『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 伝 でん 集 しゅう 解 かい 』の解釈 かいしゃく を秘伝 ひでん される際 さい に清原 きよはら 家 か 由来 ゆらい の本 ほん を校正 こうせい したものを、実 み 時 じ の子 こ の北条 ほうじょう 篤 あつし 時 とき が教 きょう 隆 たかし の子 こ の清原 きよはら 直隆 なおたか ・清原 きよはら 俊隆 としたか から伝授 でんじゅ される際 さい に書写 しょしゃ した本 ほん である。本書 ほんしょ は遣唐使 けんとうし によって将来 しょうらい した唐 から 写本 しゃほん に基 もと づいており、善本 ぜんぽん として知 し られている。書 しょ 陵 りょう 部 ぶ 所蔵 しょぞう 資料 しりょう 目録 もくろく ・画像 がぞう 公開 こうかい システムにて画像 がぞう が公開 こうかい されている。
興国 こうこく 軍学 ぐんがく 本 ほん 『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』
宮内庁 くないちょう 書 しょ 陵 りょう 部 ぶ に所蔵 しょぞう される本 ほん で、もと金沢 かなざわ 文庫 ぶんこ の蔵書 ぞうしょ 。南 みなみ 宋 そう の嘉 よしみ 定 じょう 9年 ねん に、興国 こうこく 軍学 ぐんがく (湖北 こほく 省 しょう 武 たけ 昌 あきら )にて刊行 かんこう された木版 もくはん 本 ほん だが、一部 いちぶ は近世 きんせい の写本 しゃほん で修補 しゅうほ されている。興国 こうこく 軍学 ぐんがく では紹興 しょうこう 年間 ねんかん から嘉 よしみ 定年 ていねん 間 あいだ に五経 ごきょう が刊行 かんこう されたが、『春秋 しゅんじゅう 』以外 いがい は残存 ざんそん していない。日本 にっぽん の南北 なんぼく 朝刊 ちょうかん 『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』は本 ほん 版 ばん の覆刻 ふっこく 本 ほん とされる。書 しょ 陵 りょう 部 ぶ 所蔵 しょぞう 資料 しりょう 目録 もくろく ・画像 がぞう 公開 こうかい システムにて画像 がぞう が公開 こうかい されている。
清原 きよはら 宣 せん 賢 けん 手 しゅ 点 てん 『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』
京都 きょうと 大学 だいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん の清家 きよいえ 文庫 ぶんこ 所蔵 しょぞう 。首 くび 十 じゅう 巻 かん を欠 か くが、一部 いちぶ は清原 きよはら 宣 せん 賢 けん の自筆 じひつ にかかり、他 た は日本 にっぽん の南北 なんぼく 朝 あさ 刊本 かんぽん である。『春秋 しゅんじゅう 経伝 けいでん 集 しゅう 解 かい 』 と清原 きよはら 宣 せん 賢 けん の『春秋 しゅんじゅう 抄 しょう 』とを交互 こうご に配 はい し閲覧 えつらん の便宜 べんぎ を与 あた えた本 ほん であり、各巻 かくかん の表紙 ひょうし の裏 うら 張 ば りとして、『荘 そう 子 こ 抄 しょう 』や『春秋 しゅんじゅう 抄 しょう 』など清原 きよはら 宣 せん 賢 けん 自筆 じひつ の抄物 しょうもの が用 もち いられている[ 48] 。京都 きょうと 大学 だいがく 貴重 きちょう 資料 しりょう デジタルアーカイブにて画像 がぞう が公開 こうかい されている。
『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 伝 でん 正義 まさよし 』
唐 とう の太 ふとし 宗 むね の詔勅 しょうちょく によって孔 あな 穎達 らが編纂 へんさん した『五経 ごきょう 正義 まさよし 』の一 ひと つ。杜 もり 預 あずか 注 ちゅう を原注 げんちゅう とし、杜 もり 預 あずか 注 ちゅう を固守 こしゅ しながらその敷衍 ふえん に務 つと めて解釈 かいしゃく を施 ほどこ している。この書 しょ はもともと隋 ずい の劉 りゅう 炫 の『春秋 しゅんじゅう 述 じゅつ 議 ぎ 』に依拠 いきょ して作 つく られたものではあるが、こちらには服 ふく 虔 けん 注 ちゅう に基 もと づいて杜 もり 預 あずか 注 ちゅう を補正 ほせい する箇所 かしょ なども見受 みう けられる。
『左 ひだり 伝 でん 附 ふ 注 ちゅう 』
明 あきら の陸 りく 粲 つばら の撰 せん で、杜 もり 預 あずか 注 ちゅう の補正 ほせい を試 こころ みている。
『左 ひだり 伝 でん 杜 もり 解 かい 補正 ほせい 』
清 きよし の顧炎武 たけし の撰 せん で、杜 もり 預 あずか 注 ちゅう の補正 ほせい を試 こころ みている。
『左 ひだり 伝 でん 旧 きゅう 注疏 ちゅうそ 証 しょう 』
清 きよし の劉 りゅう 文 ぶん 淇 とその子孫 しそん の撰 せん で、清朝 せいちょう 諸 しょ 学者 がくしゃ の注釈 ちゅうしゃく から優 すぐ れたものを選 えら んだ注釈 ちゅうしゃく 。
『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 校本 こうほん 』
江戸 えど 時代 じだい の学者 がくしゃ である秦 はた 鼎 かなえ の著 しる 。杜 もり 預 あずか 注 ちゅう と『経典 きょうてん 釈 しゃく 文 あや 』を附 ふ した上 うえ で、標注 ひょうちゅう として先人 せんじん の優 すぐ れた解釈 かいしゃく を掲 かか げている。のち、豊島 としま 毅 あつし による増 ぞう 訂 てい 本 ほん が出 だ され、こちらには『公 おおやけ 羊 ひつじ 』『穀 こく 梁 はり 』の伝 つて も合 あ わせて掲示 けいじ されている。
『左 ひだり 氏 し 輯釈』
江戸 えど 時代 じだい から明治 めいじ 時代 じだい の学者 がくしゃ である安井 やすい 息軒 そくけん の著 しる 。杜 もり 預 あずか 注 ちゅう を原注 げんちゅう として掲 かか げた上 うえ で、漢 かん 唐 とう から清 きよし 儒に至 いた るまでの諸説 しょせつ を集 あつ め、更 さら に独自 どくじ の見解 けんかい によって杜 もり 預 あずか 注 ちゅう を補正 ほせい する部分 ぶぶん が多 おお い。
『左 ひだり 氏 し 会 かい 箋』
明治 めいじ 時代 じだい の学者 がくしゃ である竹添 たけぞえ 進一郎 しんいちろう の著 しる 。先 さき 儒の解釈 かいしゃく をくまなく収集 しゅうしゅう し。杜 もり 預 あずか 注 ちゅう を補正 ほせい する箇所 かしょ が多 おお い。『左 ひだり 伝 でん 』注解 ちゅうかい の集大成 しゅうたいせい と称 しょう するに足 た るものである。書 しょ 陵 りょう 部 ぶ 所蔵 しょぞう の旧 きゅう 抄本 しょうほん 巻子本 かんすぼん を底本 ていほん としている。
吉川 よしかわ 忠夫 ただお 著 ちょ 「思想 しそう 史 し 2」、島田 しまだ 虔 けん 次 じ 編 へん 『アジア歴史 れきし 研究 けんきゅう 入門 にゅうもん 』 3巻 かん 、同朋 どうほう 舎 しゃ 出版 しゅっぱん 、1983年 ねん 、219-247頁 ぺーじ 。ISBN 4810403688 。
日原 ひのはら 利国 としくに 編 へん 『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』研 けん 文 ぶん 出版 しゅっぱん 、1984年 ねん 。ISBN 487636043X 。
藤川 ふじかわ 正 ただし 数 すう 著 ちょ 「諒闇 りょうあん 心 こころ 喪 も 」、日原 ひのはら 利国 としくに 編 へん 『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 。
森 もり 秀樹 ひでき 著 ちょ 「春秋 しゅんじゅう 釈 しゃく 例 れい 」、日原 ひのはら 利国 としくに 編 へん 『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 。
安本 やすもと 博 ひろし 著 ちょ 「杜 もり 預 あずか 」、日原 ひのはら 利国 としくに 編 へん 『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 。