イタリア植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく
Impero coloniale italiano (イタリア語 ご )
イタリア本国 ほんごく
植民 しょくみん 地 ち
保護 ほご 領 りょう および第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 中 ちゅう の占領 せんりょう 地域 ちいき
イタリア植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく (イタリアしょくみんちていこく、イタリア語 ご : Impero coloniale italiano / colonialismo italiano 、英語 えいご : Italian colonial empire )とは、1936年 ねん から1943年 ねん の間 あいだ にイタリア帝国 ていこく (Impero italiano)として知 し られ、イタリア王国 おうこく (1946年 ねん 以降 いこう はイタリア共和 きょうわ 国 こく )の植民 しょくみん 地 ち 、租借 そしゃく 地 ち 、保護 ほご 国 こく および信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう から構成 こうせい されていた植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく である。
その起源 きげん は、1869年 ねん にスエズ運河 うんが の航行 こうこう が可能 かのう になった際 さい 、石炭 せきたん 基地 きち の設立 せつりつ を目的 もくてき としたイタリアの海運 かいうん 会社 かいしゃ による紅海 こうかい のアッサブ湾 わん 購入 こうにゅう にさかのぼる[2] 。これは1882年 ねん のイタリア政府 せいふ に引 ひ き継 つ がれ、同国 どうこく 初 はつ の海外 かいがい 領土 りょうど となった[3] 。
その後 ご の20年間 ねんかん でアフリカ でのヨーロッパ 諸国 しょこく による買収 ばいしゅう ペースが増加 ぞうか し、いわゆる「アフリカ分割 ぶんかつ 」を引 ひ き起 お こした。1914年 ねん からの第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん までには、イタリアはアフリカの紅海 こうかい 沿岸 えんがん にあるエリトリア (イタリア領 りょう エリトリア )、 保護 ほご 領 りょう を経 へ て植民 しょくみん 地 ち となったソマリア (イタリア領 りょう ソマリランド )、そして後 のち にリビア として統一 とういつ される元 もと オスマン帝国 ていこく 領 りょう のトリポリタニア (イタリア領 りょう トリポリタニア )とキレナイカ (イタリア領 りょう キレナイカ 、伊 い 土 ど 戦争 せんそう 後 のち に獲得 かくとく )へと版図 はんと を広 ひろ げた。
アフリカ以外 いがい では、トルコ 沖 おき のドデカネス諸島 しょとう (イタリア領 りょう エ え ーゲ海 げかい 諸島 しょとう 、伊 い 土 ど 戦争 せんそう 後 ご に獲得 かくとく )と清 きよし 王朝 おうちょう の天津 てんしん 租界 そかい (イタリアの天津 てんしん 租界 そかい (英語 えいご 版 ばん ) 、義和 よしかず 団 だん 事件 じけん 後 のち に獲得 かくとく )を領有 りょうゆう していた。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか のイタリアはアルバニア 南部 なんぶ を占領 せんりょう してオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく の手 て に渡 わた ることを防 ふせ ぎ、1917年 ねん からヴロラ戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) が1920年 ねん に起 お きるまでの間 あいだ にはそこへイタリア保護 ほご 領 りょう アルバニア (1917-1920) (英語 えいご 版 ばん ) を成立 せいりつ させた[4] 。1922年 ねん にベニート・ムッソリーニ とともに政権 せいけん を握 にぎ ったファシスト党 とう は、帝国 ていこく の規模 きぼ を拡大 かくだい して領土 りょうど 回復 かいふく 主義 しゅぎ 者 しゃ の要求 ようきゅう (未 み 回収 かいしゅう のイタリア )を満 み たそうとした。
1935年 ねん からの第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう においてもイタリアは勝利 しょうり し、新 あら たに征服 せいふく したイタリア領 りょう エチオピア (英語 えいご 版 ばん ) は旧東 きゅうとう アフリカ植民 しょくみん 地 ち と併合 へいごう されてイタリア領 りょう 東 ひがし アフリカ となった。1939年 ねん にはアルバニアへ侵攻 しんこう して帝国 ていこく 内 ない に組 く み込 こ み、その5ヵ月 かげつ 後 ご に勃発 ぼっぱつ した第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか にはイギリス領 りょう ソマリランド 、フランス南部 なんぶ 、エジプト王国 おうこく 西部 せいぶ 、そしてギリシャ王国 おうこく の大 だい 部分 ぶぶん を獲得 かくとく した。しかし1943年 ねん までには、これらの征服 せいふく 地 ち とエチオピアを含 ふく むアフリカの植民 しょくみん 地 ち は侵攻 しんこう してきた連合 れんごう 軍 ぐん に奪回 だっかい され、1947年 ねん の対 たい 伊 い 講和 こうわ 条約 じょうやく にて、イタリアはすべての植民 しょくみん 地 ち における主権 しゅけん を放棄 ほうき させられた。1950年 ねん になると、国際 こくさい 連合 れんごう の監視 かんし 下 か でイタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリア の管理 かんり が許諾 きょだく され、その後 ご 1960年 ねん に統治 とうち 領 りょう がソマリア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ したことで、イタリアの約 やく 80年間 ねんかん にわたる植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく としての歴史 れきし に幕 まく を閉 と じた。
19世紀 せいき から20世紀 せいき にかけてのイタリアは他 た のヨーロッパ列強 れっきょう と植民 しょくみん 地 ち 拡大 かくだい を競 きそ い、我 われ らが海 うみ (Mare Nostrum)の概念 がいねん を再興 さいこう させてファシズム帝国 ていこく が繁栄 はんえい するために最適 さいてき な空間 くうかん を生 う み出 だ した[5] 。しかし、イタリアが植民 しょくみん 地 ち 競争 きょうそう に遅 おく れをとっていたことや、国際 こくさい 情勢 じょうせい における相対 そうたい 的 てき な弱 よわ さのため、その帝国 ていこく 建設 けんせつ はイタリアに対 たい するイギリス、フランス、ドイツなど他国 たこく の黙認 もくにん に依存 いぞん していた[6] 。
イタリアは長 なが い間 あいだ 、イタリア系 けい チュニジア人 じん (英語 えいご 版 ばん ) の大 おお きなコミュニティがあったオスマン帝国 ていこく の属領 ぞくりょう チュニジア を自国 じこく の経済 けいざい 的 てき 影響 えいきょう 圏 けん であると考 かんが えていたが、イギリスとドイツがチュニジアを北 きた アフリカの植民 しょくみん 地 ち に加 くわ えるようフランスに働 はたら きかけたことが明 あき らかとなった1879年 ねん まで、それを併合 へいごう することは検討 けんとう していなかった[7] 。土壇場 どたんば でチュニジアをイタリアとフランスで共有 きょうゆう するという提案 ていあん をするも拒否 きょひ され、ドイツからの支持 しじ に自信 じしん のあったフランスはフランス領 りょう アルジェリア から派兵 はへい し、1881年 ねん 5月のバルドー条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) によりフランス保護 ほご 領 りょう チュニジア を樹立 じゅりつ した[8] 。イタリアの報道 ほうどう 機関 きかん が言及 げんきゅう した「チュニジアの爆 ばく 弾 だん 」の衝撃 しょうげき と、ヨーロッパ内 ない における孤立 こりつ 感 かん から、イタリアは1882年 ねん にドイツ帝国 ていこく およびオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく との三 さん 国 こく 同盟 どうめい に署名 しょめい するに至 いた った[9] 。
イタリアによる植民 しょくみん 地 ち の追求 ついきゅう は1886年 ねん 2月 がつ まで続 つづ き、イギリスとの秘密 ひみつ 協定 きょうてい によって、崩壊 ほうかい しつつあったエジプト副 ふく 王 おう 領 りょう (Khedivate of Egypt)から紅海 こうかい に面 めん したエリトリアのマッサワ港 こう を奪取 だっしゅ し併合 へいごう した。マッサワ併合 へいごう がエチオピア帝国 ていこく の海 うみ への出口 でぐち を塞 ふさ ぎ[10] 、フランス領 りょう ソマリランド の拡大 かくだい を阻止 そし した[11] と同時 どうじ に、イタリアはアフリカの角 かく の南部 なんぶ 地域 ちいき を占領 せんりょう してイタリア領 りょう ソマリランドを形成 けいせい した[12] 。しかし、イタリアはエチオピアそのものを切望 せつぼう しており、当時 とうじ のイタリア首相 しゅしょう アゴスティーノ・デプレティス (英語 えいご 版 ばん ) は1887年 ねん に侵攻 しんこう を命 めい じてエリトリア戦争 せんそう を引 ひ き起 お こすも、ドガリの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) にて500人 にん の戦死 せんし 者 しゃ を出 だ した後 のち に中断 ちゅうだん された[13] 。デプレティスの後継 こうけい 者 しゃ となったフランチェスコ・クリスピ (英語 えいご 版 ばん ) は、即位 そくい したばかりの皇帝 こうてい メネリク2世 せい との間 あいだ で1889年 ねん のウッチャリ条約 じょうやく に調印 ちょういん した。この条約 じょうやく は、イタリア領 りょう エリトリア植民 しょくみん 地 ち を形成 けいせい するためにマッサワ周辺 しゅうへん のエチオピア領 りょう をイタリアに割譲 かつじょう することを定 さだ めており、少 すく なくとも条約 じょうやく 文 ぶん のイタリア語 ご 版 ばん によると、エチオピアはイタリアの保護 ほご 国 こく とされた[14] 。その後 ご 両国 りょうこく 関係 かんけい は悪化 あっか し、クリスピが侵攻 しんこう を命 めい じた1895年 ねん に第 だい 一 いち 次 じ エチオピア戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ したが、イタリア側 がわ は多勢 たぜい に無勢 ぶぜい であり装備 そうび も貧弱 ひんじゃく だった[15] 結果 けっか 、1896年 ねん のアドワの戦 たたか い にてエチオピア軍 ぐん に対 たい する決定的 けっていてき 敗北 はいぼく を喫 きっ した[16] 。この時 とき のエチオピア側 がわ はロシア帝国 ていこく の顧問 こもん 団 だん と装備 そうび 、およびロシア人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい 部隊 ぶたい によって支援 しえん されていた。戦死 せんし 者 しゃ はイタリア人 じん 4,133人 にん を含 ふく む6,889人 にん だった一方 いっぽう 、エチオピア軍 ぐん は少 すく なくとも4,000人 にん の死者 ししゃ と10,000人 にん の負傷 ふしょう 者 しゃ を数 かぞ えた。イタリア人 じん 、エリトリア人 じん 、ソマリア人 じん の死者 ししゃ 数 すう は、疾患 しっかん によるものも含 ふく めておよそ9,000人 にん と推定 すいてい された。
1898年 ねん 初頭 しょとう 、清 きよし 王朝 おうちょう において列強 れっきょう が威海衛 いかいえい 租借 そしゃく 地 ち (英 えい )、広州 こうしゅう 湾 わん 租借 そしゃく 地 ち (仏 ふつ )、膠 にかわ 州 しゅう 湾 わん 租借 そしゃく 地 ち (独 どく )などを獲得 かくとく したことを受 う け、イタリア政府 せいふ は国威 こくい 発揚 はつよう と列強 れっきょう としての地位 ちい を主張 しゅちょう するうえで石炭 せきたん 補給 ほきゅう 基地 きち とするために三門 さんもん 湾 わん の割譲 かつじょう を求 もと めた。しかし清 きよし 政府 せいふ は、イタリアの海軍 かいぐん 力 りょく がアジア 海域 かいいき での需要 じゅよう を充分 じゅうぶん に支 ささ えられていないことを認識 にんしき しており、最後 さいご 通牒 つうちょう をはじめとする一連 いちれん の要請 ようせい を拒否 きょひ し、イタリアには中国 ちゅうごく での政治 せいじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき 実益 じつえき がないと主張 しゅちょう した。イタリアの主要 しゅよう 各紙 かくし が自国 じこく を「三流 さんりゅう あるいは四 よん 流 りゅう 国 こく のように」思 おも わせたこの国民 こくみん 的 てき 屈辱 くつじょく は、イタリア政府 せいふ を失墜 しっつい させた。その後 ご 義和 よしかず 団 だん の乱 らん の際 さい 、北京 ぺきん での外征 がいせい にイタリアが八 はち カ国 かこく 連合 れんごう 軍 ぐん として参加 さんか し、アジアで唯一 ゆいいつ の前哨 ぜんしょう 地 ち となった天津 てんしん において1901年 ねん に租界 そかい を獲得 かくとく したことによって、この失態 しったい はある程度 ていど 緩和 かんわ された[18] 。租界 そかい は天津 てんしん のイタリア領事 りょうじ により管理 かんり された。
20世紀 せいき 初頭 しょとう にイタリアを席巻 せっけん したナショナリズム の高揚 こうよう は、帝国 ていこく の拡大 かくだい に圧力 あつりょく をかけたイタリア・ナショナリスト協会 きょうかい の設立 せつりつ につながった。新聞紙 しんぶんし のトピックは、前 ぜん 世紀 せいき 末 まつ にエチオピアで受 う けた屈辱 くつじょく への復讐 ふくしゅう やロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい へのノスタルジア で埋 う め尽 つ くされており、リビアについては旧 きゅう ローマの属 ぞく 州 しゅう として、南 みなみ イタリア の人口 じんこう 増加 ぞうか 問題 もんだい の解決 かいけつ 策 さく をもたらすために「取 と り戻 もど される」べきだと提案 ていあん された。英 えい 仏 ふつ により北 きた アフリカから完全 かんぜん に排除 はいじょ されることを恐 おそ れ、世論 せろん に配慮 はいりょ したジョヴァンニ・ジョリッティ 首相 しゅしょう は、1911年 ねん 10月に当時 とうじ のリビアを内包 ないほう していたオスマン帝国 ていこく へ宣戦 せんせん 布告 ふこく し、伊 い 土 ど 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した[19] 。これに勝利 しょうり したイタリアはリビア[注 ちゅう 1] とドデカネス諸島 しょとう を獲得 かくとく する結果 けっか となった。1911〜12年 ねん のこの砂漠 さばく 戦争 せんそう の際立 きわだ った特徴 とくちょう は、軍事 ぐんじ 史 し における装甲 そうこう 戦闘 せんとう 車両 しゃりょう と大 だい 規模 きぼ な空軍 くうぐん 力 りょく が最初 さいしょ に運用 うんよう されたことであった。また、この戦争 せんそう 中 ちゅう には9機 き のイタリア機 き が戦闘 せんとう 任務 にんむ と支援 しえん 任務 にんむ の両方 りょうほう に参加 さんか し、史上 しじょう 初 はつ のパイロット の戦死 せんし は偵察 ていさつ 中 ちゅう に搭乗 とうじょう 機 き が墜落 ついらく したことで起 お きた。
1915年 ねん 、イタリアは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん において協商 きょうしょう 国 こく としての参戦 さんせん に同意 どうい した。その見返 みかえ りとして、ロンドン秘密 ひみつ 協定 きょうてい にてヨーロッパでの領土 りょうど が保証 ほしょう され、英 えい 仏 ふつ がドイツのアフリカ領 りょう を獲得 かくとく した場合 ばあい にはアフリカでの領土 りょうど が保証 ほしょう された[21] 。
大戦 たいせん に直接 ちょくせつ 介入 かいにゅう する前 まえ の1914年 ねん 12月、イタリアはアルバニア公国 こうこく のヴロラ港 こう を、 1916年 ねん の秋 あき には南 みなみ アルバニアを占領 せんりょう した[4] 。1916年 ねん のイタリア軍 ぐん はアルバニアの非 ひ 正規 せいき 兵 へい を徴用 ちょうよう してイタリア兵 へい と合同 ごうどう で任務 にんむ を与 あた えており、同年 どうねん 8月 がつ 23日 にち には連合 れんごう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ の許可 きょか を得 え て北 きた エピルス(英語 えいご 版 ばん ) を占拠 せんきょ し、中立 ちゅうりつ の立場 たちば だったギリシャの占領 せんりょう 軍 ぐん をそこから撤退 てったい させた[4] 。1917年 ねん 6月 がつ 、イタリアは中央 ちゅうおう および南 みなみ アルバニアを保護 ほご 国 こく とする宣言 せんげん を出 だ す一方 いっぽう 、北部 ほくぶ はセルビア王国 おうこく とモンテネグロ王国 おうこく の州 しゅう として割 わ り当 あ てられた[4] 。1918年 ねん 10月31日 にち までには、イタリアとフランスはアルバニアからのオーストリア・ハンガリー軍 ぐん の駆逐 くちく に成功 せいこう した[4] 。しかし1920年 ねん 、イタリアの支配 しはい に反発 はんぱつ したヴロラ戦争 せんそう によって、イタリアはサザン島 とう (英語 えいご 版 ばん ) を除 のぞ く占領 せんりょう 地 ち をアルバニアに返還 へんかん することに同意 どうい した。
ダルマチア は大戦 たいせん 中 ちゅう 、イタリア・セルビア両国 りょうこく がオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく から獲得 かくとく しようとした戦略 せんりゃく 的 てき 地域 ちいき であり、ロンドン秘密 ひみつ 協定 きょうてい は、イタリアが連合 れんごう 国 こく 側 がわ に参加 さんか するのと引 ひ き換 か えに、ダルマチアの大 だい 部分 ぶぶん を併合 へいごう する権利 けんり をイタリアに保証 ほしょう したものであった。 1918年 ねん の11月5日 にち から6日 にち には、イタリア軍 ぐん がヴィス島 とう やシベニク 、ラストヴォ (英語 えいご 版 ばん ) などその他 た のダルマチア沿岸 えんがん に到達 とうたつ したと報告 ほうこく された[22] 。11月中 ちゅう の終戦 しゅうせん までに、イタリア軍 ぐん はロンドン秘密 ひみつ 協定 きょうてい によって保証 ほしょう されていたダルマチアの地域 ちいき を支配 しはい 下 か に入 い れ、11月17日 にち にはリエカ も占領 せんりょう した[23] 。この年 とし にはエンリコ・ミロ (英語 えいご 版 ばん ) 提督 ていとく がイタリアのダルマチア州 しゅう 知事 ちじ を自 みずか ら宣言 せんげん した[23] 。
しかし、1919年 ねん に締結 ていけつ されたヴェルサイユ条約 じょうやく において、イタリアはロンドン秘密 ひみつ 協定 きょうてい にて約束 やくそく された領土 りょうど 以外 いがい は何 なに も獲得 かくとく できなかった。1920年 ねん 4月 がつ 、イタリアとイギリスの外相 がいしょう 間 あいだ でジュバランド をイタリアの補償 ほしょう 地 ち とすることが合意 ごうい されたが、イギリスは数 すう 年間 ねんかん この取 と り決 き めを留保 りゅうほ し、イタリアにドデカネス諸島 しょとう をギリシャへ割譲 かつじょう させるための影響 えいきょう 力 りょく として利用 りよう しようとした[24] 。
イタリア植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく の最大 さいだい 版図 はんと 。赤色 あかいろ は本国 ほんごく と植民 しょくみん 地 ち および保護 ほご 国 こく 、桃色 ももいろ は戦時 せんじ 中 ちゅう に奪取 だっしゅ した地域 ちいき 。
1922年 ねん 、イタリアのファシズム 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ であったベニート・ムッソリーニ がローマ進軍 しんぐん の後 のち に首相 しゅしょう に就任 しゅうにん し、1923年 ねん のローザンヌ条約 じょうやく にてドデカネスの主権 しゅけん 問題 もんだい を解決 かいけつ した。この条約 じょうやく は、オスマン帝国 ていこく の後継 こうけい 国家 こっか であるトルコ への支払 しはら いの見返 みかえ りに、元 もと オスマン帝国 ていこく 領 りょう であったリビアとドデカネス諸島 しょとう に対 たい するイタリア統治 とうち を正式 せいしき なものとしたが、イギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう メソポタミア (現在 げんざい のイラク )をイギリスから引 ひ き出 だ すことには失敗 しっぱい した。
ローザンヌ条約 じょうやく を批准 ひじゅん した翌月 よくげつ 、ムッソリーニはコルフ島 こるふとう 事件 じけん を受 う けてギリシャ王国 おうこく のコルフ島 こるふとう 侵攻 しんこう を命 めい じたが、イタリアメディアはかつてコルフ島 こるふとう が400年間 ねんかん ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の領土 りょうど であったこと(ヴェネツィア共和 きょうわ 国領 こくりょう イオニア諸島 しょとう (英語 えいご 版 ばん ) )を指摘 してき して、この動 うご きを支持 しじ した。この問題 もんだい はギリシャによって国際 こくさい 連盟 れんめい に持 も ち込 こ まれ、そこでムッソリーニはギリシャからの賠償金 ばいしょうきん と引 ひ き換 か えにイタリア軍 ぐん を撤退 てったい させるようイギリスの説得 せっとく を受 う けた。この対立 たいりつ の結果 けっか 、イタリアとイギリスは1924年 ねん にジュバランド問題 もんだい を解決 かいけつ するに至 いた り、後 のち にイタリア領 りょう ソマリランドへ合併 がっぺい された[25] 。
1920年代 ねんだい 後半 こうはん には、ムッソリーニの演説 えんぜつ において帝国 ていこく の拡大 かくだい がますます好 この まれるテーマとなった[26] 。ムッソリーニの目的 もくてき は、イタリアが地中海 ちちゅうかい の支配 しはい 的 てき 勢力 せいりょく となり、英 えい 仏 ふつ 両 りょう 大国 たいこく に挑戦 ちょうせん して大西 おおにし 洋 ひろし やインド洋 いんどよう に進出 しんしゅつ することであった[26] 。彼 かれ は、イタリアが国家 こっか 主権 しゅけん を確保 かくほ するためには、世界 せかい の海洋 かいよう と航路 こうろ への争 あらそ いのない自由 じゆう なアクセスが必要 ひつよう だと主張 しゅちょう した[27] 。これに関 かん しては、1939年 ねん に作成 さくせい された文書 ぶんしょ 『海洋 かいよう への行軍 こうぐん (The March to the Oceans)』に詳述 しょうじゅつ されており、ファシズム大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい の議事 ぎじ 録 ろく にも記 しる されている[27] 。この文書 ぶんしょ では、海洋 かいよう の位置 いち が国家 こっか の独立 どくりつ を決定 けってい づけ、公海 こうかい へ自由 じゆう にアクセスできる国々 くにぐに は独立 どくりつ している一方 いっぽう 、アクセス性 せい を欠 か く国家 こっか は独立 どくりつ 国 こく ではないと断言 だんげん されている。英 えい 仏 ふつ の黙認 もくにん なしに内海 うつみ (地中海 ちちゅうかい )にしかアクセスできなかったイタリアは「半 はん 独立 どくりつ 国家 こっか 」にすぎず、「地中海 ちちゅうかい の囚人 しゅうじん 」であると表現 ひょうげん されていた[27] 。
"
コルシカ島 とう 、チュニジア、マルタ、そして
キプロス島 とう はこの
監獄 かんごく の
鉄格子 てつごうし であり、
番兵 ばんぺい は
ジブラルタル と
スエズ だ。コルシカ
島 とう はイタリアの
心臓 しんぞう 部 ぶ に、チュニジアは
シチリア島 とう に
向 む けられた
銃 じゅう である。マルタとキプロス
島 とう は
地中海 ちちゅうかい の
東部 とうぶ と
西部 せいぶ における、
我々 われわれ のすべての
立場 たちば に
対 たい する
脅威 きょうい を
構成 こうせい する。ギリシャ、トルコ、エジプトは
大 だい 英 えい 帝国 ていこく との
鎖 くさり を
結 むす び、イタリアの
政治 せいじ 的 てき ・
軍事 ぐんじ 的 てき 包囲 ほうい 網 もう をいつでも
完成 かんせい できる。ゆえに、その3
ヵ国 かこく はイタリアの
拡大 かくだい にとって
死活 しかつ 的 てき な
敵 てき と
見 み なされねばならない... アルバニアを
除 のぞ くヨーロッパの
領土 りょうど 性質 せいしつ の
大陸 たいりく 目標 もくひょう を
持 も てず、そして
持 も たぬイタリアの
政策 せいさく 方針 ほうしん は、
何 なに よりもまずこの
監獄 かんごく の
柵 しがらみ を
破 やぶ ることにある... ひとたびそれを
壊 こわ せば、イタリアの
政策 せいさく はただひとつのモットーを
持 も ちうる ──
海 うみ への
行軍 こうぐん だ。"
—
ベニート・ムッソリーニ、The March to the Oceans[27]
1932年 ねん と1935年 ねん には、イタリアは元 もと ドイツ保護 ほご 領 りょう カメルーン の委任 いにん 統治 とうち と、イタリアのドイツに対 たい する支援 しえん の見返 みかえ りにフランスからエチオピアへの自由 じゆう な介入 かいにゅう を要求 ようきゅう した(ストレーザ戦線 せんせん )[28] 。これについてはフランス首相 しゅしょう エドゥアール・エリオ により拒否 きょひ されたが、彼 かれ はドイツ復活 ふっかつ の可能 かのう 性 せい を大 たい して憂慮 ゆうりょ していなかった[28] 。1935年 ねん 、アビシニア危機 きき (英語 えいご 版 ばん ) の対応 たいおう に失敗 しっぱい したことで第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ し、イタリア人 じん 2,313人 にん 、エリトリア人 じん 1,086人 にん 、ソマリア人 じん とリビア人 じん 507人 にん 、そしてイタリア人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ 453人 にん 、計 けい 4,359人 にん と引 ひ き換 か えにイタリアはエチオピアを併合 へいごう し、エリトリアならびにソマリランドと併 あわ せてイタリア領 りょう 東 ひがし アフリカが成立 せいりつ した。エチオピア側 がわ の軍人 ぐんじん および民間 みんかん 人 じん 犠牲 ぎせい 者 しゃ の多 おお くはイタリアの爆 ばく 弾 だん やマスタードガス によるものであり、総 そう 死者 ししゃ は約 やく 275,000人 にん に上 のぼ ると推定 すいてい された。敗戦 はいせん 後 ご 、エチオピア皇帝 こうてい のハイレ・セラシエ1世 せい は一時 いちじ ロンドン へ亡命 ぼうめい した[30] 。
1920年代 ねんだい から1930年代 ねんだい にかけては、スペインに対 たい するイタリアの姿勢 しせい が変化 へんか していった。1920年代 ねんだい は、当時 とうじ のボルボン朝 ちょう スペイン を支配 しはい していたミゲル・プリモ・デ・リベラ の親 しん 仏 ふつ 外交 がいこう が原因 げんいん で、イタリアとスペインは深 ふか い敵対 てきたい 関係 かんけい にあった。1926年 ねん になると、ムッソリーニはフランセスク・マシア (英語 えいご 版 ばん ) が主導 しゅどう したスペイン政府 せいふ に対 たい するカタルーニャ州 しゅう 分離 ぶんり 独立 どくりつ 運動 うんどう を支援 しえん し始 はじ めた[31] 。スペインは1931年 ねん に第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい へ移行 いこう したが、王政 おうせい に代 か わる左派 さは 共和 きょうわ 政権 せいけん の伸長 しんちょう に伴 ともな い、スペインでは共和 きょうわ 政府 せいふ 打倒 だとう を目指 めざ す王政 おうせい 派 は とファシストによるイタリアへの働 はたら きかけが繰 く り返 かえ され、親 しん 伊 い 政権 せいけん 樹立 じゅりつ のためにイタリア側 がわ は彼 かれ らの支援 しえん に同意 どうい した[31] 。一方 いっぽう 1936年 ねん 7月 がつ 、スペイン内戦 ないせん 時 どき におけるナショナリスト派 は (英語 えいご 版 ばん ) のフランシスコ・フランコ は、与党 よとう 共和党 きょうわとう 派 は に対 たい するイタリアの支援 しえん を求 もと め、イタリアが支援 しえん した場合 ばあい には「将来 しょうらい の西 にし 伊 い 関係 かんけい は友好 ゆうこう 的 てき 以上 いじょう のもの」になり、「将来 しょうらい のスペイン政治 せいじ において、イタリア政府 せいふ の影響 えいきょう 力 りょく がドイツ政府 せいふ のそれに打 う ち勝 か つのを可能 かのう にするだろう」と保証 ほしょう した[32] 。イタリアは、スペイン東部 とうぶ 沖 おき に浮 う かぶバレアレス諸島 しょとう を占拠 せんきょ しスペインに従属 じゅうぞく 国 こく を成立 せいりつ させる意図 いと で内戦 ないせん に介入 かいにゅう した[33] 。イタリアが同 どう 諸島 しょとう の支配 しはい を求 もと めたのは、フランスとその北 きた アフリカ植民 しょくみん 地 ち との間 あいだ 、および英 えい 領 りょう ジブラルタルとマルタとの間 あいだ の連絡 れんらく 網 もう 分断 ぶんだん を可能 かのう にした、その戦略 せんりゃく 的 てき 位置 いち にあった[34] 。フランコとナショナリスト派 は が勝利 しょうり した後 のち には、イタリアがスペインへ圧力 あつりょく をかけてバレアレス諸島 しょとう 占領 せんりょう を認 みと めさせようとしていることが連合 れんごう 軍 ぐん の情報 じょうほう 機関 きかん に伝 つた えられた[35] 。
イギリスが1938年 ねん に英 えい 伊 い 中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) に署名 しょめい した後 のち 、ムッソリーニと外相 がいしょう のガレアッツォ・チャーノ は、特 とく にジブチ、チュニジアおよびフランスが運営 うんえい するスエズ運河 うんが について、フランス側 がわ による地中海 ちちゅうかい での譲歩 じょうほ に関 かん する要求 ようきゅう を発表 はっぴょう した[36] 。その3週間 しゅうかん 後 ご には、ムッソリーニはチャーノに対 たい しアルバニア王国 おうこく 買収 ばいしゅう を要求 ようきゅう する用意 ようい があると語 かた った[36] 。彼 かれ は、イタリアが大西洋 たいせいよう からインド洋 いんどよう までアフリカの連続 れんぞく した植民 しょくみん 地 ち を獲得 かくとく し、1000万 まん 人 にん のイタリア人 じん がそこに定住 ていじゅう していなければ「楽 らく に呼吸 こきゅう する」ことはできないとも公言 こうげん した[26] 。イタリアは同年 どうねん にスエズ運河 うんが での勢力 せいりょく 圏 けん を要求 ようきゅう し、特 とく にフランスが所有 しょゆう するスエズ運河 うんが 会社 かいしゃ に対 たい してその取締役 とりしまりやく 会 かい へイタリア代表 だいひょう の受 う け入 い れを求 もと めた[37] 。フランスのスエズ運河 うんが 独占 どくせん に反対 はんたい していたのは、フランスが有 ゆう する運河 うんが 会社 かいしゃ の下 した では、イタリア領 りょう 東 ひがし アフリカへ往来 おうらい するイタリア業者 ぎょうしゃ が運河 うんが へ入 はい る際 さい に必 かなら ず通航 つうこう 料 りょう を支払 しはら わなければならなかったためである[37] 。
1939年 ねん 4月 がつ 、イタリアはアルバニアへ侵攻 しんこう および占領 せんりょう してその植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく の一部 いちぶ とし、サヴォイア家 か の下 した の同君 どうくん 連合 れんごう とした。今日 きょう のアルバニア は初期 しょき ロ ろ ーマ帝国 まていこく の一部 いちぶ であり、北 きた イタリア がローマに占領 せんりょう される前 まえ から存在 そんざい していたが、イタリアはアルバニア指導 しどう 者 しゃ との強 つよ い結 むす び付 つ きを維持 いじ し、自 みずか らの勢力 せいりょく 圏内 けんない にあるという強 つよ い認識 にんしき を持 も っていたにもかかわらず、そこには長 なが い間 あいだ アルバニア人 じん が居住 きょじゅう していた[38] 。ムッソリーニは単 たん に、ドイツによる第 だい 一 いち 共和 きょうわ 政 せい オーストリア へのアンシュルス やチェコスロバキア解体 かいたい に相当 そうとう するような、より小 ちい さな隣国 りんごく に対 たい する華々 はなばな しい成功 せいこう を望 のぞ んでいたとされる[38] 。イタリア国王 こくおう ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい はアルバニア王位 おうい を継承 けいしょう し、イタリア保護 ほご 領 りょう アルバニア (1939-1943) (英語 えいご 版 ばん ) にてシェフケト・ベイ・ヴェルラツィ (英語 えいご 版 ばん ) 政権 せいけん 下 か のファシスト政府 せいふ が樹立 じゅりつ された。
5月22日 にち になるとナチス・ドイツ との間 あいだ で鋼鉄 こうてつ 協約 きょうやく が結 むす ばれて両国 りょうこく 間 あいだ に正式 せいしき な軍事 ぐんじ 同盟 どうめい が発足 ほっそく し、遅 おく れて翌年 よくねん の9月 がつ に大日本帝国 だいにっぽんていこく が加 くわ わることで日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい が成立 せいりつ した。
アオスタ公 こう アメデーオ はアンバ・アラギの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) にてイタリア軍 ぐん を指揮 しき した[39] 。
ムッソリーニはイタリアの領土 りょうど 拡大 かくだい 計画 けいかく 上 じょう 、アドルフ・ヒトラー と共 とも に枢軸 すうじく 国 こく として第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に参戦 さんせん した。彼 かれ はその計画 けいかく にて西 にし ユーゴスラビア、南 みなみ フランス、コルシカ島 とう 、マルタ、チュニジア、アルジェリアの一部 いちぶ 、モロッコの大西洋 たいせいよう の港 みなと 、仏 ふつ 領 りょう ソマリランド、英 えい 領 りょう エジプトとスーダンなどを構想 こうそう していた[40] 。
1940年 ねん 6月 がつ 10日 とおか 、前年 ぜんねん の9月 がつ からドイツと交戦 こうせん していた英 えい 仏 ふつ に対 たい し、ムッソリーニ率 ひき いるイタリアは宣戦 せんせん 布告 ふこく した。1940年 ねん 7月 がつ にはチャーノ外相 がいしょう が、コルシカ島 とう ・ニース ・マルタ の併合 へいごう 、チュニジアの保護 ほご 領 りょう とアルジェリアの緩衝 かんしょう 地帯 ちたい 、イタリアの軍事 ぐんじ プレゼンスによる独立 どくりつ とレバノン・パレスチナ・シリア・トランスヨルダン の基地 きち ならびにそれらの地域 ちいき における石油 せきゆ 会社 かいしゃ の収用 しゅうよう 、アデン ・ペリム島 とう ・ソコトラ島 とう の軍事 ぐんじ 占領 せんりょう 、イタリアに与 あた えられたコルフ島 こるふとう ・チャメリアと引 ひ き換 か えにギリシャに与 あた えられたキプロス島 とう を含 ふく む、イタリアの要求 ようきゅう に関 かん する文書 ぶんしょ をヒトラーに提示 ていじ した。また、英 えい 領 りょう ソマリランド、ジブチ、チャドまでのフランス領 りょう 赤道 せきどう アフリカ などの領土 りょうど も含 ふく まれていたほか、チャーノは会談 かいだん にてイタリアがケニアとウガンダも望 のぞ んでいると付 つ け加 くわ えた[41] 。ヒトラーは特 とく にコメントすることもなくその文書 ぶんしょ を承認 しょうにん した[41] 。
バルカン半島 ばるかんはんとう においては、イタリアはダルマチアでの権利 けんり を主張 しゅちょう し、アルバニア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴァルダル・マケドニアそしてギリシャに対 たい し、これらの地域 ちいき における古代 こだい ローマ支配 しはい の先例 せんれい に基 もと づいて野心 やしん を抱 だ いた[42] 。ダルマチアとスロベニアはイタリアへ直接 ちょくせつ 併合 へいごう された一方 いっぽう 、その他 た のバルカン諸国 しょこく は従属 じゅうぞく 国 こく となった[43] 。
1940年 ねん 10月 がつ 、ムッソリーニはアルバニアからの進軍 しんぐん を命 めい じギリシャ・イタリア戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ したが、この作戦 さくせん は当初 とうしょ 成功 せいこう せずに膠着 こうちゃく していた[44] 。1941年 ねん 4月 がつ になると、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん がユーゴスラビア侵攻 しんこう の開始 かいし とほぼ同時 どうじ にギリシャの戦 たたか い に参戦 さんせん し、イタリアと他 た のドイツの同盟 どうめい 国 こく は両 りょう 作戦 さくせん を支援 しえん した。ドイツ軍 ぐん とイタリア軍 ぐん は約 やく 2週間 しゅうかん でユーゴスラビアを侵略 しんりゃく し、イギリス側 がわ の支援 しえん があったにもかかわらず、ギリシャも4月 がつ 末 まつ までに制圧 せいあつ された。イタリアは両国 りょうこく の一部 いちぶ を支配 しはい するようになり、新 あら たに成立 せいりつ したクロアチア独 どく 立国 りっこく の王 おう にはサヴォイア家 か のトミスラヴ2世 せい が選任 せんにん された。
バトル・オブ・ブリテン が熾烈 しれつ を極 きわ めた1940年 ねん 9月 がつ になると、スエズ運河 うんが の確保 かくほ を目論 もくろ んだイタリアはリビアからエジプト侵攻 しんこう を開始 かいし した。イタリア軍 ぐん は9月16日 にち までに国境 こっきょう を越 こ えて60マイル進撃 しんげき したが、イギリス軍 ぐん が12月にコンパス作戦 さくせん を発動 はつどう し、翌年 よくねん 2月 がつ までにイタリア第 だい 10旅団 りょだん (英語 えいご 版 ばん ) を分離 ぶんり させて捕 と らえ、リビア奥深 おくふか くへ侵入 しんにゅう した[45] 。リビア陥落 かんらく はドイツのゾネンブルーメ作戦 さくせん により阻止 そし され、枢軸 すうじく 軍 ぐん の攻勢 こうせい によりイギリス側 がわ はエジプトへ後退 こうたい しエル・アラメインの戦 たたか い が起 お きる1942年 ねん 7月 がつ まで留 とど まっていた。同年 どうねん 11月 がつ 、ヴィシー・フランス 支配 しはい 下 か にあったモロッコとアルジェリアに対 たい する連合 れんごう 軍 ぐん のトーチ作戦 さくせん は二 に 正面 しょうめん 戦線 せんせん を生 う み出 だ した。これを受 う けてイタリア・ドイツ両 りょう 軍 ぐん はチュニジアへ向 む かったが、エジプト方面 ほうめん の部隊 ぶたい は間 ま もなくリビアへの大幅 おおはば な後退 こうたい を強 し いられ、1943年 ねん 5月 がつ にチュニジアの枢軸 すうじく 軍 ぐん はついに降伏 ごうぶく を余儀 よぎ なくされた。
一方 いっぽう 、東 ひがし アフリカ戦線 せんせん は英 えい 領 りょう ケニア・ソマリランド・スーダンにイタリアが侵攻 しんこう したことで始 はじ まった。イタリア軍 ぐん は1940年 ねん 8月 がつ のソマリランドの戦 たたか い にて勝利 しょうり を収 おさ めたが[46] 、翌年 よくねん の春 はる にイギリス軍 ぐん の反撃 はんげき を受 う けてイタリア領 りょう 東 ひがし アフリカまで押 お し返 かえ された。1941年 ねん 5月5日 にち には、ハイレ・セラシエ1世 せい が自 みずか らの王位 おうい を取 と り戻 もど すために亡命 ぼうめい 先 さき からアディスアベバ へ戻 もど り、11月にはイタリア最後 さいご の組織 そしき 的 てき 抵抗 ていこう がゴンダールの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) にて潰 つい えた[47] 。しかし東 ひがし アフリカでの降伏 ごうぶく 後 ご も、一部 いちぶ のイタリア人 じん は1943年 ねん 10月 がつ まで続 つづ いたゲリラ戦 せん に従事 じゅうじ していた(詳細 しょうさい はエチオピアにおけるイタリアのゲリラ戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) )。
エリトリアのケレン にあるイタリアの戦没 せんぼつ 者 しゃ 墓地 ぼち
1943年 ねん の秋 あき までには、イタリア帝国 ていこく とそのファシストの幻想 げんそう はすべて、事実 じじつ 上 じょう 終 お わっていた。チュニジア戦役 せんえき (英語 えいご 版 ばん ) での枢軸 すうじく 軍 ぐん の降伏 ごうぶく とその近隣 きんりん の他 た 戦線 せんせん における一連 いちれん の逆転 ぎゃくてん 敗北 はいぼく を受 う け、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい は5月7日 にち にムッソリーニの解任 かいにん を企図 きと した。ハスキー作戦 さくせん の後 のち にはムッソリーニへの支持 しじ はほとんど消失 しょうしつ しており、7月 がつ 24日 にち に開 ひら かれたファシズム大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい では彼 かれ に不信任 ふしんにん 案 あん を突 つ きつけるグランディ決議 けつぎ が下 くだ された。「ドゥーチェ 」は退任 たいにん させられ、翌日 よくじつ の午後 ごご に国王 こくおう の指示 しじ により逮捕 たいほ された[48] 。その後 ご ムッソリーニは、ヒトラーの命令 めいれい でドイツ軍 ぐん の落下傘 らっかさん 部隊 ぶたい に救出 きゅうしゅつ され(9月12日 にち のグラン・サッソ襲撃 しゅうげき )、その後 ご 新 あら たに樹立 じゅりつ されたイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく の指導 しどう 者 しゃ となった[49] 。
7月 がつ 25日 にち 以降 いこう 、国王 こくおう とピエトロ・バドリオ 元帥 げんすい 下 か のイタリア新 しん 政府 せいふ は、対外 たいがい 的 てき には枢軸 すうじく 国 こく 側 がわ にとどまったが、秘密裏 ひみつり に連合 れんごう 国 こく との交渉 こうしょう を始 はじ めた。連合 れんごう 国 こく がイタリア侵攻 しんこう を開始 かいし するサレルノ 上陸 じょうりく 前夜 ぜんや 、イタリアと連合 れんごう 国 こく は秘密裏 ひみつり にカッシビレ休戦 きゅうせん 協定 きょうてい を結 むす び[50] 、9月8日 にち に協定 きょうてい が公表 こうひょう されたことで枢軸 すうじく 国 こく としてのイタリア王国 おうこく は降伏 ごうぶく した[注 ちゅう 2] 。これを受 う けてドイツ軍 ぐん は、アルバニアやユーゴスラビア、ドデカネス諸島 しょとう など、依然 いぜん イタリアが領有 りょうゆう していた地域 ちいき に対 たい して攻撃 こうげき し、そのイタリア支配 しはい を終 お わらせた。一方 いっぽう 、ドデカネス諸島 しょとう 戦役 せんえき においてイタリア軍 ぐん の協力 きょうりょく を得 え てドデカネスを奪還 だっかん する連合 れんごう 軍 ぐん の試 こころ みは失敗 しっぱい し、ドイツ側 がわ の完全 かんぜん な勝利 しょうり に終 お わった。中国 ちゅうごく 方面 ほうめん では、休戦 きゅうせん の報 ほう を受 う けた大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん が天津 てんしん にあるイタリアの租界 そかい を占領 せんりょう し、その後 ご 1944年 ねん 7月 がつ に、イタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく が日本 にっぽん の傀儡 かいらい 政権 せいけん である汪 ひろし 兆 ちょう 銘 めい 政権 せいけん に対 たい して租界 そかい の支配 しはい 権 けん を公式 こうしき に返還 へんかん し、軍 ぐん の駐留 ちゅうりゅう 権 けん も放棄 ほうき した[51] 。
ムッソリーニは北 きた イタリア国民 こくみん 解放 かいほう 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) (CLNAI)による1945年 ねん 4月 がつ 25日 にち の死刑 しけい 宣告 せんこく を受 う けてスイス への逃亡 とうぼう を図 はか ったが、途中 とちゅう のコモ湖 みずうみ にてパルチザン に捕 と らえられ、4月 がつ 28日 にち に銃殺 じゅうさつ された[52] 。終戦 しゅうせん 後 ご の1946年 ねん 6月2日 にち には、王政 おうせい 廃止 はいし に関 かん する国民 こくみん 投票 とうひょう および制憲 せいけん 議会 ぎかい の選挙 せんきょ によって今日 きょう のイタリア共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ し[53] 、新生 しんせい イタリア共和 きょうわ 国 こく は1947年 ねん の講和 こうわ 条約 じょうやく の結果 けっか として、正式 せいしき にその海外 かいがい 植民 しょくみん 地 ち をすべて放棄 ほうき した。最後 さいご のイタリア植民 しょくみん 地 ち としてのトリポリタニア(イタリア領 りょう リビア )を維持 いじ するための議論 ぎろん もあったものの、これは最終 さいしゅう 的 てき に失敗 しっぱい した。しかし1949年 ねん 11月、イギリス軍政 ぐんせい 下 か にあった旧 きゅう ソマリランドはイタリア統治 とうち 下 か で10年間 ねんかん の信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう となることが国連 こくれん 総会 そうかい にて決定 けってい され、その後 ご 1960年 ねん 7月 がつ 1日 にち にソマリアは英 えい 領 りょう ソマリランドと合併 がっぺい し、独立 どくりつ したソマリア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく となった[54] [55] 。
^ トリポリタニアとキレナイカ。両 りょう 地域 ちいき は1934年 ねん にイタリア領 りょう リビア として統合 とうごう される。
^ これ以降 いこう のイタリア王国 おうこく は連合 れんごう 国 こく として参戦 さんせん し、ナチスの傀儡 かいらい 政府 せいふ であるイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく とは対立 たいりつ していく。
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北原 きたはら 敦 あつし 『イタリア現代 げんだい 史 し 研究 けんきゅう 』岩波書店 いわなみしょてん 、2002年 ねん 。
森田 もりた 鉄郎 てつお / 重岡 しげおか 保 たもつ 郎 ろう 『イタリア現代 げんだい 史 し 』山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1977年 ねん 。
吉田 よしだ 昌夫 まさお 『アフリカ現代 げんだい 史 し Ⅱ 東 ひがし アフリカ』山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1978年 ねん 。