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イタリア植民しょくみん帝国ていこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
イタリア帝国ていこくから転送てんそう
イタリア植民しょくみん帝国ていこく
Impero coloniale italiano (イタリア)
イタリア王国 1882ねん - 1960ねん イタリア
イタリアの国旗 イタリアの国章
国旗こっきくにあきら
イタリアの位置
  イタリア本国ほんごく
  植民しょくみん
  保護ほごりょうおよびだい大戦たいせんちゅう占領せんりょう地域ちいき
公用こうよう イタリア
首都しゅと ローマ
ファシストとうすべりょう
1922ねん - 1943ねん ベニート・ムッソリーニ
面積めんせき
1938ねん[1]3,798,000km²
変遷へんせん
アッサブわん購入こうにゅう 1869ねん
イタリアりょうエリトリア1882ねん - 1947ねん
エリトリア戦争せんそう1887ねん - 1889ねん
イタリアりょうソマリランド1889ねん - 1941ねん
義和よしかずだんらん1900ねん
戦争せんそう1911ねん - 1912ねん
リビア平定へいてい英語えいごばん1923ねん - 1932ねん
だいエチオピア戦争せんそう1935ねん - 1936ねん
たい講和こうわ条約じょうやく1947ねん
イタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリア1950ねん - 1960ねん
現在げんざいイタリアの旗 イタリア
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
ソマリアの旗 ソマリア
リビアの旗 リビア
エチオピアの旗 エチオピア
エリトリアの旗 エリトリア
アルバニアの旗 アルバニア
フランスの旗 フランス
クロアチアの旗 クロアチア
チュニジアの旗 チュニジア
モンテネグロの旗 モンテネグロ
スロベニアの旗 スロベニア
コソボの旗 コソボ
 エジプト
ギリシャの旗 ギリシャ
北マケドニア共和国の旗 きたマケドニア
モナコの旗 モナコ
イタリア歴史れきし

この記事きじシリーズ一部いちぶです。

イタリア ポータル

イタリア植民しょくみん帝国ていこく(イタリアしょくみんちていこく、イタリア: Impero coloniale italiano / colonialismo italiano英語えいご: Italian colonial empire)とは、1936ねんから1943ねんあいだイタリア帝国ていこく(Impero italiano)としてられ、イタリア王国おうこく1946ねん以降いこうイタリア共和きょうわこく)の植民しょくみん租借そしゃく保護ほごこくおよび信託しんたく統治とうちりょうから構成こうせいされていた植民しょくみん帝国ていこくである。

概要がいよう

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その起源きげんは、1869ねんスエズ運河うんが航行こうこう可能かのうになったさい石炭せきたん基地きち設立せつりつ目的もくてきとしたイタリアの海運かいうん会社かいしゃによる紅海こうかいアッサブわん購入こうにゅうにさかのぼる[2]。これは1882ねんのイタリア政府せいふがれ、同国どうこくはつ海外かいがい領土りょうどとなった[3]

そのの20年間ねんかんアフリカでのヨーロッパ諸国しょこくによる買収ばいしゅうペースが増加ぞうかし、いわゆる「アフリカ分割ぶんかつ」をこした。1914ねんからのだいいち世界せかい大戦たいせんまでには、イタリアはアフリカの紅海こうかい沿岸えんがんにあるエリトリアイタリアりょうエリトリア)、 保護ほごりょう植民しょくみんとなったソマリアイタリアりょうソマリランド)、そしてのちリビアとして統一とういつされるもとオスマン帝国ていこくりょうトリポリタニアイタリアりょうトリポリタニア)とキレナイカイタリアりょうキレナイカ戦争せんそうのち獲得かくとく)へと版図はんとひろげた。

アフリカ以外いがいでは、トルコおきドデカネス諸島しょとうイタリアりょうゲ海げかい諸島しょとう戦争せんそう獲得かくとく)ときよし王朝おうちょう天津てんしん租界そかいイタリアの天津てんしん租界そかい英語えいごばん義和よしかずだん事件じけんのち獲得かくとく)を領有りょうゆうしていた。だいいち世界せかい大戦たいせんなかのイタリアはアルバニア南部なんぶ占領せんりょうしてオーストリア=ハンガリー帝国ていこくわたることをふせぎ、1917ねんからヴロラ戦争せんそう英語えいごばん1920ねんきるまでのあいだにはそこへイタリア保護ほごりょうアルバニア (1917-1920)英語えいごばん成立せいりつさせた[4]1922ねんベニート・ムッソリーニとともに政権せいけんにぎったファシストとうは、帝国ていこく規模きぼ拡大かくだいして領土りょうど回復かいふく主義しゅぎしゃ要求ようきゅう回収かいしゅうのイタリア)をたそうとした。

1935ねんからのだいエチオピア戦争せんそうにおいてもイタリアは勝利しょうりし、あらたに征服せいふくしたイタリアりょうエチオピア英語えいごばん旧東きゅうとうアフリカ植民しょくみん併合へいごうされてイタリアりょうひがしアフリカとなった。1939ねんにはアルバニアへ侵攻しんこうして帝国ていこくないみ、その5ヵ月かげつ勃発ぼっぱつしただい世界せかい大戦たいせんなかにはイギリスりょうソマリランドフランス南部なんぶエジプト王国おうこく西部せいぶ、そしてギリシャ王国おうこくだい部分ぶぶん獲得かくとくした。しかし1943ねんまでには、これらの征服せいふくとエチオピアをふくむアフリカの植民しょくみん侵攻しんこうしてきた連合れんごうぐん奪回だっかいされ、1947ねんたい講和こうわ条約じょうやくにて、イタリアはすべての植民しょくみんにおける主権しゅけん放棄ほうきさせられた。1950ねんになると、国際こくさい連合れんごう監視かんしイタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリア管理かんり許諾きょだくされ、その1960ねん統治とうちりょうソマリア連邦れんぽう共和きょうわこくとして独立どくりつしたことで、イタリアのやく80年間ねんかんにわたる植民しょくみん帝国ていこくとしての歴史れきしまくじた。

歴史れきし

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帝国ていこく形成けいせいへの始動しどう

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19世紀せいきから20世紀せいきにかけてのイタリアはのヨーロッパ列強れっきょう植民しょくみん拡大かくだいきそい、われらがうみ(Mare Nostrum)の概念がいねん再興さいこうさせてファシズム帝国ていこく繁栄はんえいするために最適さいてき空間くうかんした[5]。しかし、イタリアが植民しょくみん競争きょうそうおくれをとっていたことや、国際こくさい情勢じょうせいにおける相対そうたいてきよわさのため、その帝国ていこく建設けんせつはイタリアにたいするイギリス、フランス、ドイツなど他国たこく黙認もくにん依存いぞんしていた[6]

イタリアはながあいだイタリアけいチュニジアじん英語えいごばんおおきなコミュニティがあったオスマン帝国ていこく属領ぞくりょうチュニジア自国じこく経済けいざいてき影響えいきょうけんであるとかんがえていたが、イギリスとドイツがチュニジアをきたアフリカの植民しょくみんくわえるようフランスにはたらきかけたことがあきらかとなった1879ねんまで、それを併合へいごうすることは検討けんとうしていなかった[7]土壇場どたんばでチュニジアをイタリアとフランスで共有きょうゆうするという提案ていあんをするも拒否きょひされ、ドイツからの支持しじ自信じしんのあったフランスはフランスりょうアルジェリアから派兵はへいし、1881ねん5月のバルドー条約じょうやく英語えいごばんによりフランス保護ほごりょうチュニジア樹立じゅりつした[8]。イタリアの報道ほうどう機関きかん言及げんきゅうした「チュニジアのばくだん」の衝撃しょうげきと、ヨーロッパないにおける孤立こりつかんから、イタリアは1882ねんドイツ帝国ていこくおよびオーストリア=ハンガリー帝国ていこくとのさんこく同盟どうめい署名しょめいするにいたった[9]

イタリアによる植民しょくみん追求ついきゅう1886ねん2がつまでつづき、イギリスとの秘密ひみつ協定きょうていによって、崩壊ほうかいしつつあったエジプトふくおうりょう(Khedivate of Egypt)から紅海こうかいめんしたエリトリアのマッサワこう奪取だっしゅ併合へいごうした。マッサワ併合へいごうエチオピア帝国ていこくうみへの出口でぐちふさ[10]フランスりょうソマリランド拡大かくだい阻止そしした[11]同時どうじに、イタリアはアフリカのかく南部なんぶ地域ちいき占領せんりょうしてイタリアりょうソマリランドを形成けいせいした[12]。しかし、イタリアはエチオピアそのものを切望せつぼうしており、当時とうじイタリア首相しゅしょうアゴスティーノ・デプレティス英語えいごばん1887ねん侵攻しんこうめいじてエリトリア戦争せんそうこすも、ドガリのたたか英語えいごばんにて500にん戦死せんししゃしたのち中断ちゅうだんされた[13]。デプレティスの後継こうけいしゃとなったフランチェスコ・クリスピ英語えいごばんは、即位そくいしたばかりの皇帝こうていメネリク2せいとのあいだ1889ねんウッチャリ条約じょうやく調印ちょういんした。この条約じょうやくは、イタリアりょうエリトリア植民しょくみん形成けいせいするためにマッサワ周辺しゅうへんのエチオピアりょうをイタリアに割譲かつじょうすることをさだめており、すくなくとも条約じょうやくぶんのイタリアばんによると、エチオピアはイタリアの保護ほごこくとされた[14]。その両国りょうこく関係かんけい悪化あっかし、クリスピが侵攻しんこうめいじた1895ねんだいいちエチオピア戦争せんそう勃発ぼっぱつしたが、イタリアがわ多勢たぜい無勢ぶぜいであり装備そうび貧弱ひんじゃくだった[15] 結果けっか1896ねんアドワのたたかにてエチオピアぐんたいする決定的けっていてき敗北はいぼくきっした[16]。このときのエチオピアがわロシア帝国ていこく顧問こもんだん装備そうび、およびロシアじん義勇ぎゆうへい部隊ぶたいによって支援しえんされていた[17]戦死せんししゃはイタリアじん4,133にんふくむ6,889にんだった一方いっぽう、エチオピアぐんすくなくとも4,000にん死者ししゃと10,000にん負傷ふしょうしゃかぞえた[17]。イタリアじん、エリトリアじん、ソマリアじん死者ししゃすうは、疾患しっかんによるものもふくめておよそ9,000にん推定すいていされた[17]

1898ねん初頭しょとうきよし王朝おうちょうにおいて列強れっきょう威海衛いかいえい租借そしゃくえい)、広州こうしゅうわん租借そしゃくふつ)、にかわしゅうわん租借そしゃくどく)などを獲得かくとくしたことをけ、イタリア政府せいふ国威こくい発揚はつよう列強れっきょうとしての地位ちい主張しゅちょうするうえで石炭せきたん補給ほきゅう基地きちとするために三門さんもんわん割譲かつじょうもとめた。しかしきよし政府せいふは、イタリアの海軍かいぐんりょくアジア海域かいいきでの需要じゅよう充分じゅうぶんささえられていないことを認識にんしきしており、最後さいご通牒つうちょうをはじめとする一連いちれん要請ようせい拒否きょひし、イタリアには中国ちゅうごくでの政治せいじてき経済けいざいてき実益じつえきがないと主張しゅちょうした。イタリアの主要しゅよう各紙かくし自国じこくを「三流さんりゅうあるいはよんりゅうこくのように」おもわせたこの国民こくみんてき屈辱くつじょくは、イタリア政府せいふ失墜しっついさせた。その義和よしかずだんらんさい北京ぺきんでの外征がいせいにイタリアがはちカ国かこく連合れんごうぐんとして参加さんかし、アジアで唯一ゆいいつ前哨ぜんしょうとなった天津てんしんにおいて1901ねん租界そかい獲得かくとくしたことによって、この失態しったいはある程度ていど緩和かんわされた[18]租界そかい天津てんしんのイタリア領事りょうじにより管理かんりされた。

20世紀せいき初頭しょとうにイタリアを席巻せっけんしたナショナリズム高揚こうようは、帝国ていこく拡大かくだい圧力あつりょくをかけたイタリア・ナショナリスト協会きょうかい設立せつりつにつながった。新聞紙しんぶんしのトピックは、ぜん世紀せいきまつにエチオピアでけた屈辱くつじょくへの復讐ふくしゅうマ帝国まていこく時代じだいへのノスタルジアくされており、リビアについてはきゅうローマのぞくしゅうとして、みなみイタリア人口じんこう増加ぞうか問題もんだい解決かいけつさくをもたらすために「もどされる」べきだと提案ていあんされた。えいふつによりきたアフリカから完全かんぜん排除はいじょされることをおそれ、世論せろん配慮はいりょしたジョヴァンニ・ジョリッティ首相しゅしょうは、1911ねん10月に当時とうじのリビアを内包ないほうしていたオスマン帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこくし、戦争せんそう勃発ぼっぱつした[19]。これに勝利しょうりしたイタリアはリビア[ちゅう 1] とドデカネス諸島しょとう獲得かくとくする結果けっかとなった。1911〜12ねんのこの砂漠さばく戦争せんそう際立きわだった特徴とくちょうは、軍事ぐんじにおける装甲そうこう戦闘せんとう車両しゃりょうだい規模きぼ空軍くうぐんりょく最初さいしょ運用うんようされたことであった[20]。また、この戦争せんそうちゅうには9のイタリア戦闘せんとう任務にんむ支援しえん任務にんむ両方りょうほう参加さんかし、史上しじょうはつパイロット戦死せんし偵察ていさつちゅう搭乗とうじょう墜落ついらくしたことできた[20]

だいいち世界せかい大戦たいせんとその

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1915ねん、イタリアはだいいち世界せかい大戦たいせんにおいて協商きょうしょうこくとしての参戦さんせん同意どういした。その見返みかえりとして、ロンドン秘密ひみつ協定きょうていにてヨーロッパでの領土りょうど保証ほしょうされ、えいふつがドイツのアフリカりょう獲得かくとくした場合ばあいにはアフリカでの領土りょうど保証ほしょうされた[21]

大戦たいせん直接ちょくせつ介入かいにゅうするまえの1914ねん12月、イタリアはアルバニア公国こうこくヴロラこうを、 1916ねんあきにはみなみアルバニアを占領せんりょうした[4]。1916ねんのイタリアぐんはアルバニアの正規せいきへい徴用ちょうようしてイタリアへい合同ごうどう任務にんむあたえており、同年どうねん8がつ23にちには連合れんごうぐん司令しれい許可きょかきたエピルス英語えいごばん占拠せんきょし、中立ちゅうりつ立場たちばだったギリシャの占領せんりょうぐんをそこから撤退てったいさせた[4]。1917ねん6がつ、イタリアは中央ちゅうおうおよびみなみアルバニアを保護ほごこくとする宣言せんげん一方いっぽう北部ほくぶセルビア王国おうこくモンテネグロ王国おうこくしゅうとしててられた[4]1918ねん10月31にちまでには、イタリアとフランスはアルバニアからのオーストリア・ハンガリーぐん駆逐くちく成功せいこうした[4]。しかし1920ねん、イタリアの支配しはい反発はんぱつしたヴロラ戦争せんそうによって、イタリアはサザンとう英語えいごばんのぞ占領せんりょうをアルバニアに返還へんかんすることに同意どういした。

ダルマチア大戦たいせんちゅう、イタリア・セルビア両国りょうこくがオーストリア=ハンガリー帝国ていこくから獲得かくとくしようとした戦略せんりゃくてき地域ちいきであり、ロンドン秘密ひみつ協定きょうていは、イタリアが連合れんごうこくがわ参加さんかするのとえに、ダルマチアのだい部分ぶぶん併合へいごうする権利けんりをイタリアに保証ほしょうしたものであった。 1918ねん11月5にちから6にちには、イタリアぐんヴィスとうシベニクラストヴォ英語えいごばんなどそののダルマチア沿岸えんがん到達とうたつしたと報告ほうこくされた[22]。11月ちゅう終戦しゅうせんまでに、イタリアぐんはロンドン秘密ひみつ協定きょうていによって保証ほしょうされていたダルマチアの地域ちいき支配しはいれ、11月17にちにはリエカ占領せんりょうした[23]。このとしにはエンリコ・ミロ英語えいごばん提督ていとくがイタリアのダルマチアしゅう知事ちじみずか宣言せんげんした[23]

しかし、1919ねん締結ていけつされたヴェルサイユ条約じょうやくにおいて、イタリアはロンドン秘密ひみつ協定きょうていにて約束やくそくされた領土りょうど以外いがいなに獲得かくとくできなかった。1920ねん4がつ、イタリアとイギリスの外相がいしょうあいだジュバランドをイタリアの補償ほしょうとすることが合意ごういされたが、イギリスはすう年間ねんかんこのめを留保りゅうほし、イタリアにドデカネス諸島しょとうをギリシャへ割譲かつじょうさせるための影響えいきょうりょくとして利用りようしようとした[24]

ファシズムとイタリア帝国ていこく

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イタリア植民しょくみん帝国ていこく最大さいだい版図はんと赤色あかいろ本国ほんごく植民しょくみんおよび保護ほごこく桃色ももいろ戦時せんじちゅう奪取だっしゅした地域ちいき

1922ねんイタリアのファシズム運動うんどう指導しどうしゃであったベニート・ムッソリーニローマ進軍しんぐんのち首相しゅしょう就任しゅうにんし、1923ねんローザンヌ条約じょうやくにてドデカネスの主権しゅけん問題もんだい解決かいけつした。この条約じょうやくは、オスマン帝国ていこく後継こうけい国家こっかであるトルコへの支払しはらいの見返みかえりに、もとオスマン帝国ていこくりょうであったリビアとドデカネス諸島しょとうたいするイタリア統治とうち正式せいしきなものとしたが、イギリス委任いにん統治とうちりょうメソポタミア現在げんざいイラク)をイギリスからすことには失敗しっぱいした。

ローザンヌ条約じょうやく批准ひじゅんした翌月よくげつ、ムッソリーニはコルフ島こるふとう事件じけんけてギリシャ王国おうこくコルフ島こるふとう侵攻しんこうめいじたが、イタリアメディアはかつてコルフ島こるふとうが400年間ねんかんヴェネツィア共和きょうわこく領土りょうどであったこと(ヴェネツィア共和きょうわ国領こくりょうイオニア諸島しょとう英語えいごばん)を指摘してきして、このうごきを支持しじした。この問題もんだいはギリシャによって国際こくさい連盟れんめいまれ、そこでムッソリーニはギリシャからの賠償金ばいしょうきんえにイタリアぐん撤退てったいさせるようイギリスの説得せっとくけた。この対立たいりつ結果けっか、イタリアとイギリスは1924ねんにジュバランド問題もんだい解決かいけつするにいたり、のちにイタリアりょうソマリランドへ合併がっぺいされた[25]

1920年代ねんだい後半こうはんには、ムッソリーニの演説えんぜつにおいて帝国ていこく拡大かくだいがますますこのまれるテーマとなった[26]。ムッソリーニの目的もくてきは、イタリアが地中海ちちゅうかい支配しはいてき勢力せいりょくとなり、えいふつりょう大国たいこく挑戦ちょうせんして大西おおにしひろしインド洋いんどよう進出しんしゅつすることであった[26]かれは、イタリアが国家こっか主権しゅけん確保かくほするためには、世界せかい海洋かいよう航路こうろへのあらそいのない自由じゆうなアクセスが必要ひつようだと主張しゅちょうした[27]。これにかんしては、1939ねん作成さくせいされた文書ぶんしょ海洋かいようへの行軍こうぐん(The March to the Oceans)』に詳述しょうじゅつされており、ファシズムだい評議ひょうぎかい議事ぎじろくにもしるされている[27]。この文書ぶんしょでは、海洋かいよう位置いち国家こっか独立どくりつ決定けっていづけ、公海こうかい自由じゆうにアクセスできる国々くにぐに独立どくりつしている一方いっぽう、アクセスせい国家こっか独立どくりつこくではないと断言だんげんされている。えいふつ黙認もくにんなしに内海うつみ地中海ちちゅうかい)にしかアクセスできなかったイタリアは「はん独立どくりつ国家こっか」にすぎず、「地中海ちちゅうかい囚人しゅうじん」であると表現ひょうげんされていた[27]

"コルシカとう、チュニジア、マルタ、そしてキプロスとうはこの監獄かんごく鉄格子てつごうしであり、番兵ばんぺいジブラルタルスエズだ。コルシカとうはイタリアの心臓しんぞうに、チュニジアはシチリアとうけられたじゅうである。マルタとキプロスとう地中海ちちゅうかい東部とうぶ西部せいぶにおける、我々われわれのすべての立場たちばたいする脅威きょうい構成こうせいする。ギリシャ、トルコ、エジプトはだいえい帝国ていこくとのくさりむすび、イタリアの政治せいじてき軍事ぐんじてき包囲ほういもうをいつでも完成かんせいできる。ゆえに、その3ヵ国かこくはイタリアの拡大かくだいにとって死活しかつてきてきなされねばならない... アルバニアをのぞくヨーロッパの領土りょうど性質せいしつ大陸たいりく目標もくひょうてず、そしてたぬイタリアの政策せいさく方針ほうしんは、なによりもまずこの監獄かんごくしがらみやぶることにある... ひとたびそれをこわせば、イタリアの政策せいさくはただひとつのモットーをちうる ──うみへの行軍こうぐんだ。"
ベニート・ムッソリーニ、The March to the Oceans[27]

1932ねん1935ねんには、イタリアはもとドイツ保護ほごりょうカメルーン委任いにん統治とうちと、イタリアのドイツにたいする支援しえん見返みかえりにフランスからエチオピアへの自由じゆう介入かいにゅう要求ようきゅうした(ストレーザ戦線せんせん[28]。これについてはフランス首相しゅしょうエドゥアール・エリオにより拒否きょひされたが、かれはドイツ復活ふっかつ可能かのうせいたいして憂慮ゆうりょしていなかった[28]。1935ねんアビシニア危機きき英語えいごばん対応たいおう失敗しっぱいしたことでだいエチオピア戦争せんそう勃発ぼっぱつし、イタリアじん2,313にん、エリトリアじん1,086にん、ソマリアじんとリビアじん507にん、そしてイタリアじん労働ろうどうしゃ453にんけい4,359にんえにイタリアはエチオピアを併合へいごう[29]、エリトリアならびにソマリランドとあわせてイタリアりょうひがしアフリカが成立せいりつした。エチオピアがわ軍人ぐんじんおよび民間みんかんじん犠牲ぎせいしゃおおくはイタリアのばくだんマスタードガスによるものであり、そう死者ししゃやく275,000にんのぼると推定すいていされた[29]敗戦はいせん、エチオピア皇帝こうていハイレ・セラシエ1せい一時いちじロンドン亡命ぼうめいした[30]

1920年代ねんだいから1930年代ねんだいにかけては、スペインにたいするイタリアの姿勢しせい変化へんかしていった。1920年代ねんだいは、当時とうじボルボンちょうスペイン支配しはいしていたミゲル・プリモ・デ・リベラしんふつ外交がいこう原因げんいんで、イタリアとスペインはふか敵対てきたい関係かんけいにあった。1926ねんになると、ムッソリーニはフランセスク・マシア英語えいごばん主導しゅどうしたスペイン政府せいふたいするカタルーニャしゅう分離ぶんり独立どくりつ運動うんどう支援しえんはじめた[31]。スペインは1931ねんだい共和きょうわせい移行いこうしたが、王政おうせいわる左派さは共和きょうわ政権せいけん伸長しんちょうともない、スペインでは共和きょうわ政府せいふ打倒だとう目指めざ王政おうせいとファシストによるイタリアへのはたらきかけがかえされ、しん政権せいけん樹立じゅりつのためにイタリアがわかれらの支援しえん同意どういした[31]一方いっぽう1936ねん7がつスペイン内戦ないせんどきにおけるナショナリスト英語えいごばんフランシスコ・フランコは、与党よとう共和党きょうわとうたいするイタリアの支援しえんもとめ、イタリアが支援しえんした場合ばあいには「将来しょうらい西にし関係かんけい友好ゆうこうてき以上いじょうのもの」になり、「将来しょうらいのスペイン政治せいじにおいて、イタリア政府せいふ影響えいきょうりょくがドイツ政府せいふのそれにつのを可能かのうにするだろう」と保証ほしょうした[32]。イタリアは、スペイン東部とうぶおきかぶバレアレス諸島しょとう占拠せんきょしスペインに従属じゅうぞくこく成立せいりつさせる意図いと内戦ないせん介入かいにゅうした[33]。イタリアがどう諸島しょとう支配しはいもとめたのは、フランスとそのきたアフリカ植民しょくみんとのあいだ、およびえいりょうジブラルタルとマルタとのあいだ連絡れんらくもう分断ぶんだん可能かのうにした、その戦略せんりゃくてき位置いちにあった[34]。フランコとナショナリスト勝利しょうりしたのちには、イタリアがスペインへ圧力あつりょくをかけてバレアレス諸島しょとう占領せんりょうみとめさせようとしていることが連合れんごうぐん情報じょうほう機関きかんつたえられた[35]

イギリスが1938ねんえい中立ちゅうりつ条約じょうやく英語えいごばん署名しょめいしたのち、ムッソリーニと外相がいしょうガレアッツォ・チャーノは、とくにジブチ、チュニジアおよびフランスが運営うんえいするスエズ運河うんがについて、フランスがわによる地中海ちちゅうかいでの譲歩じょうほかんする要求ようきゅう発表はっぴょうした[36]。その3週間しゅうかんには、ムッソリーニはチャーノにたいアルバニア王国おうこく買収ばいしゅう要求ようきゅうする用意よういがあるとかたった[36]かれは、イタリアが大西洋たいせいようからインド洋いんどようまでアフリカの連続れんぞくした植民しょくみん獲得かくとくし、1000まんにんのイタリアじんがそこに定住ていじゅうしていなければ「らく呼吸こきゅうする」ことはできないとも公言こうげんした[26]。イタリアは同年どうねんにスエズ運河うんがでの勢力せいりょくけん要求ようきゅうし、とくにフランスが所有しょゆうするスエズ運河うんが会社かいしゃたいしてその取締役とりしまりやくかいへイタリア代表だいひょうれをもとめた[37]。フランスのスエズ運河うんが独占どくせん反対はんたいしていたのは、フランスがゆうする運河うんが会社かいしゃしたでは、イタリアりょうひがしアフリカへ往来おうらいするイタリア業者ぎょうしゃ運河うんがはいさいかなら通航つうこうりょう支払しはらわなければならなかったためである[37]

1939ねん4がつ、イタリアはアルバニアへ侵攻しんこうおよび占領せんりょうしてその植民しょくみん帝国ていこく一部いちぶとし、サヴォイアした同君どうくん連合れんごうとした。今日きょうアルバニア初期しょきマ帝国まていこく一部いちぶであり、きたイタリアがローマに占領せんりょうされるまえから存在そんざいしていたが、イタリアはアルバニア指導しどうしゃとのつよむすきを維持いじし、みずからの勢力せいりょく圏内けんないにあるというつよ認識にんしきっていたにもかかわらず、そこにはながあいだアルバニアじん居住きょじゅうしていた[38]。ムッソリーニはたんに、ドイツによるだいいち共和きょうわせいオーストリアへのアンシュルスチェコスロバキア解体かいたい相当そうとうするような、よりちいさな隣国りんごくたいする華々はなばなしい成功せいこうのぞんでいたとされる[38]。イタリア国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいはアルバニア王位おうい継承けいしょうし、イタリア保護ほごりょうアルバニア (1939-1943)英語えいごばんにてシェフケト・ベイ・ヴェルラツィ英語えいごばん政権せいけんのファシスト政府せいふ樹立じゅりつされた。

5月22にちになるとナチス・ドイツとのあいだ鋼鉄こうてつ協約きょうやくむすばれて両国りょうこくあいだ正式せいしき軍事ぐんじ同盟どうめい発足ほっそくし、おくれて翌年よくねんの9がつ大日本帝国だいにっぽんていこくくわわることでにちどくさんこく同盟どうめい成立せいりつした。

だい世界せかい大戦たいせん

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アオスタこうアメデーオアンバ・アラギのたたか英語えいごばんにてイタリアぐん指揮しきした[39]

ムッソリーニはイタリアの領土りょうど拡大かくだい計画けいかくじょうアドルフ・ヒトラーとも枢軸すうじくこくとしてだい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんした。かれはその計画けいかくにて西にしユーゴスラビア、みなみフランス、コルシカとう、マルタ、チュニジア、アルジェリアの一部いちぶ、モロッコの大西洋たいせいようみなとふつりょうソマリランド、えいりょうエジプトとスーダンなどを構想こうそうしていた[40]

1940ねん6がつ10日とおか前年ぜんねんの9がつからドイツと交戦こうせんしていたえいふつたいし、ムッソリーニひきいるイタリアは宣戦せんせん布告ふこくした。1940ねん7がつにはチャーノ外相がいしょうが、コルシカとうニースマルタ併合へいごう、チュニジアの保護ほごりょうとアルジェリアの緩衝かんしょう地帯ちたい、イタリアの軍事ぐんじプレゼンスによる独立どくりつとレバノン・パレスチナ・シリア・トランスヨルダン基地きちならびにそれらの地域ちいきにおける石油せきゆ会社かいしゃ収用しゅうようアデンペリムとうソコトラとう軍事ぐんじ占領せんりょう、イタリアにあたえられたコルフ島こるふとう・チャメリアとえにギリシャにあたえられたキプロスとうふくむ、イタリアの要求ようきゅうかんする文書ぶんしょをヒトラーに提示ていじした。また、えいりょうソマリランド、ジブチ、チャドまでのフランスりょう赤道せきどうアフリカなどの領土りょうどふくまれていたほか、チャーノは会談かいだんにてイタリアがケニアとウガンダものぞんでいるとくわえた[41]。ヒトラーはとくにコメントすることもなくその文書ぶんしょ承認しょうにんした[41]

バルカン半島ばるかんはんとうにおいては、イタリアはダルマチアでの権利けんり主張しゅちょうし、アルバニア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴァルダル・マケドニアそしてギリシャにたいし、これらの地域ちいきにおける古代こだいローマ支配しはい先例せんれいもとづいて野心やしんいた[42]。ダルマチアとスロベニアはイタリアへ直接ちょくせつ併合へいごうされた一方いっぽう、そののバルカン諸国しょこく従属じゅうぞくこくとなった[43]

1940ねん10がつ、ムッソリーニはアルバニアからの進軍しんぐんめいギリシャ・イタリア戦争せんそう勃発ぼっぱつしたが、この作戦さくせん当初とうしょ成功せいこうせずに膠着こうちゃくしていた[44]1941ねん4がつになると、ドイツ国防こくぼうぐんユーゴスラビア侵攻しんこう開始かいしとほぼ同時どうじギリシャのたたか参戦さんせんし、イタリアとのドイツの同盟どうめいこくりょう作戦さくせん支援しえんした。ドイツぐんとイタリアぐんやく2週間しゅうかんでユーゴスラビアを侵略しんりゃくし、イギリスがわ支援しえんがあったにもかかわらず、ギリシャも4がつまつまでに制圧せいあつされた。イタリアは両国りょうこく一部いちぶ支配しはいするようになり、あらたに成立せいりつしたクロアチアどく立国りっこくおうにはサヴォイアトミスラヴ2せい選任せんにんされた。

バトル・オブ・ブリテン熾烈しれつきわめた1940ねん9がつになると、スエズ運河うんが確保かくほ目論もくろんだイタリアはリビアからエジプト侵攻しんこう開始かいしした。イタリアぐん9月16にちまでに国境こっきょうえて60マイル進撃しんげきしたが、イギリスぐんが12月にコンパス作戦さくせん発動はつどうし、翌年よくねん2がつまでにイタリアだい10旅団りょだん英語えいごばん分離ぶんりさせてらえ、リビア奥深おくふかくへ侵入しんにゅうした[45]。リビア陥落かんらくはドイツのゾネンブルーメ作戦さくせんにより阻止そしされ、枢軸すうじくぐん攻勢こうせいによりイギリスがわはエジプトへ後退こうたいエル・アラメインのたたかきる1942ねん7がつまでとどまっていた。同年どうねん11がつヴィシー・フランス支配しはいにあったモロッコとアルジェリアにたいする連合れんごうぐんトーチ作戦さくせん正面しょうめん戦線せんせんした。これをけてイタリア・ドイツりょうぐんはチュニジアへかったが、エジプト方面ほうめん部隊ぶたいもなくリビアへの大幅おおはば後退こうたいいられ、1943ねん5がつにチュニジアの枢軸すうじくぐんはついに降伏ごうぶく余儀よぎなくされた。

一方いっぽうひがしアフリカ戦線せんせんえいりょうケニア・ソマリランド・スーダンにイタリアが侵攻しんこうしたことではじまった。イタリアぐんは1940ねん8がつソマリランドのたたかにて勝利しょうりおさめたが[46]翌年よくねんはるにイギリスぐん反撃はんげきけてイタリアりょうひがしアフリカまでかえされた。1941ねん5月5にちには、ハイレ・セラシエ1せいみずからの王位おういもどすために亡命ぼうめいさきからアディスアベバもどり、11月にはイタリア最後さいご組織そしきてき抵抗ていこうゴンダールのたたか英語えいごばんにてついえた[47]。しかしひがしアフリカでの降伏ごうぶくも、一部いちぶのイタリアじんは1943ねん10がつまでつづいたゲリラせん従事じゅうじしていた(詳細しょうさいエチオピアにおけるイタリアのゲリラせん英語えいごばん)。

植民しょくみん帝国ていこく終焉しゅうえん

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エリトリアのケレンにあるイタリアの戦没せんぼつしゃ墓地ぼち

1943ねんあきまでには、イタリア帝国ていこくとそのファシストの幻想げんそうはすべて、事実じじつじょうわっていた。チュニジア戦役せんえき英語えいごばんでの枢軸すうじくぐん降伏ごうぶくとその近隣きんりん戦線せんせんにおける一連いちれん逆転ぎゃくてん敗北はいぼくけ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3せい5月7にちにムッソリーニの解任かいにん企図きとした。ハスキー作戦さくせんのちにはムッソリーニへの支持しじはほとんど消失しょうしつしており、7がつ24にちひらかれたファシズムだい評議ひょうぎかいではかれ不信任ふしんにんあんきつけるグランディ決議けつぎくだされた。「ドゥーチェ」は退任たいにんさせられ、翌日よくじつ午後ごご国王こくおう指示しじにより逮捕たいほされた[48]。そのムッソリーニは、ヒトラーの命令めいれいでドイツぐん落下傘らっかさん部隊ぶたい救出きゅうしゅつされ(9月12にちグラン・サッソ襲撃しゅうげき)、そのあらたに樹立じゅりつされたイタリア社会しゃかい共和きょうわこく指導しどうしゃとなった[49]

7がつ25にち以降いこう国王こくおうピエトロ・バドリオ元帥げんすいのイタリアしん政府せいふは、対外たいがいてきには枢軸すうじくこくがわにとどまったが、秘密裏ひみつり連合れんごうこくとの交渉こうしょうはじめた。連合れんごうこくイタリア侵攻しんこう開始かいしするサレルノ上陸じょうりく前夜ぜんや、イタリアと連合れんごうこく秘密裏ひみつりカッシビレ休戦きゅうせん協定きょうていむす[50]9月8にち協定きょうてい公表こうひょうされたことで枢軸すうじくこくとしてのイタリア王国おうこく降伏ごうぶくした[ちゅう 2]。これをけてドイツぐんは、アルバニアやユーゴスラビア、ドデカネス諸島しょとうなど、依然いぜんイタリアが領有りょうゆうしていた地域ちいきたいして攻撃こうげきし、そのイタリア支配しはいわらせた。一方いっぽうドデカネス諸島しょとう戦役せんえきにおいてイタリアぐん協力きょうりょくてドデカネスを奪還だっかんする連合れんごうぐんこころみは失敗しっぱいし、ドイツがわ完全かんぜん勝利しょうりわった。中国ちゅうごく方面ほうめんでは、休戦きゅうせんほうけた大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん天津てんしんにあるイタリアの租界そかい占領せんりょうし、その1944ねん7がつに、イタリア社会しゃかい共和きょうわこく日本にっぽん傀儡かいらい政権せいけんであるひろしちょうめい政権せいけんたいして租界そかい支配しはいけん公式こうしき返還へんかんし、ぐん駐留ちゅうりゅうけん放棄ほうきした[51]

ムッソリーニはきたイタリア国民こくみん解放かいほう委員いいんかい英語えいごばん(CLNAI)による1945ねん4がつ25にち死刑しけい宣告せんこくけてスイスへの逃亡とうぼうはかったが、途中とちゅうコモみずうみにてパルチザンらえられ、4がつ28にち銃殺じゅうさつされた[52]終戦しゅうせん1946ねん6月2にちには、王政おうせい廃止はいしかんする国民こくみん投票とうひょうおよび制憲せいけん議会ぎかい選挙せんきょによって今日きょうのイタリア共和きょうわこく成立せいりつ[53]新生しんせいイタリア共和きょうわこく1947ねん講和こうわ条約じょうやく結果けっかとして、正式せいしきにその海外かいがい植民しょくみんをすべて放棄ほうきした。最後さいごのイタリア植民しょくみんとしてのトリポリタニア(イタリアりょうリビア)を維持いじするための議論ぎろんもあったものの、これは最終さいしゅうてき失敗しっぱいした。しかし1949ねん11月、イギリス軍政ぐんせいにあったきゅうソマリランドはイタリア統治とうちで10年間ねんかん信託しんたく統治とうちりょうとなることが国連こくれん総会そうかいにて決定けっていされ、その1960ねん7がつ1にちにソマリアはえいりょうソマリランドと合併がっぺいし、独立どくりつしたソマリア連邦れんぽう共和きょうわこくとなった[54][55]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ トリポリタニアとキレナイカ。りょう地域ちいきは1934ねんイタリアりょうリビアとして統合とうごうされる。
  2. ^ これ以降いこうのイタリア王国おうこく連合れんごうこくとして参戦さんせんし、ナチスの傀儡かいらい政府せいふであるイタリア社会しゃかい共和きょうわこくとは対立たいりつしていく。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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