この項目 こうもく では、種 たね Grus japonensis について説明 せつめい しています。金魚 きんぎょ の品種 ひんしゅ については「タンチョウ (キンギョ) 」を、錦鯉 にしきごい の品種 ひんしゅ については「錦鯉 にしきごい 」をご覧 らん ください。
タンチョウ (丹頂 たんちょう [ 4] 、Grus japonensis )は、鳥 とり 綱 つな ツル目 め ツル科 か ツル属 ぞく に分類 ぶんるい される鳥類 ちょうるい 。日本 にっぽん で鶴 づる と総称 そうしょう される鳥類 ちょうるい のうちでは大型 おおがた で、代表 だいひょう 的 てき な種 たね とされ、タンチョウヅル とも呼 よ ばれる[ 9] 。
大韓民国 だいかんみんこく 北部 ほくぶ 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 、朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく 、日本 にっぽん (北海道 ほっかいどう 東部 とうぶ )、ロシア 南東 なんとう 部 ぶ [ 1] 。
種 たね 小名 しょうみょう japonensis は「日本 にっぽん 産 さん の」の意 い 。日本 にっぽん では明治 めいじ 期 き に乱獲 らんかく により絶滅 ぜつめつ したと思 おも われていた。北海道 ほっかいどう 東部 とうぶ で繁殖 はんしょく する個体 こたい 群 ぐん と、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 北東 ほくとう 部 ぶ やロシア極東 きょくとう 部 ぶ で繁殖 はんしょく する個体 こたい 群 ぐん に分 わ かれる[ 10] 。アムール川 がわ 流域 りゅういき で繁殖 はんしょく し、冬季 とうき になると江蘇 ちぁんすー 省 しょう 沿岸 えんがん 部 ぶ や朝鮮半島 ちょうせんはんとう ヘ南下 なんか して越冬 えっとう する[ 3] 。
日本 にっぽん では北海道 ほっかいどう 東部 とうぶ (道東 どうとう )に周 しゅう 年 ねん 生息 せいそく (留鳥 りゅうちょう )し、襟裳岬 えりもみさき 以東 いとう の太平洋 たいへいよう 岸 きし や根室海峡 ねむろかいきょう 沿岸 えんがん 部 ぶ 、オホーツク地区 ちく 、1982年 ねん 以降 いこう は国後島 くなしりとう [ 11] や歯舞諸島 はぼまいしょとう 、2004年 ねん 以降 いこう は宗谷 そうや 地区 ちく でも繁殖 はんしょく している[ 3] 。越冬 えっとう 地 ち は主 おも に釧路 くしろ 湿原 しつげん 周辺 しゅうへん だったが、近年 きんねん は十勝平野 とかちへいや 西部 せいぶ や根室 ねむろ 地区 ちく での越冬 えっとう 例 れい が確認 かくにん ・増加 ぞうか している[ 3] 。日本 にっぽん 野鳥 やちょう の会 かい の観察 かんさつ によると、繁殖 はんしょく 地 ち は道東 どうとう から、かつて棲息 せいそく していた北海道 ほっかいどう 他 た 地区 ちく へ広 ひろ がりつつあり、2020年 ねん には明治 めいじ 時代 じだい 以来 いらい となるウトナイ湖 こ 周辺 しゅうへん での繁殖 はんしょく 確認 かくにん を公表 こうひょう した[ 12] 。道北 みちきた のサロベツ原野 げんや でも2018年 ねん に営巣 えいそう 跡 あと が発見 はっけん されており、採取 さいしゅ された羽 はね のミトコンドリアDNA 解析 かいせき により、ユーラシア大陸 たいりく から飛来 ひらい した個体 こたい と北海道 ほっかいどう 内 ない に生息 せいそく する個体 こたい がつがい をなした可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている[ 13] [ 14] 。
日本 にっぽん で最 もっと も有名 ゆうめい な生息 せいそく 地 ち は釧路 くしろ 湿原 しつげん 一帯 いったい であるが極 ごく 稀 まれ に石狩平野 いしかりへいや の上空 じょうくう を飛来 ひらい することがあり、鳴 な き声 ごえ が聞 き かれる。2015年 ねん 5月 がつ 31日 にち に札幌 さっぽろ 上空 じょうくう で飛来 ひらい が確認 かくにん された[要 よう 出典 しゅってん ] 。
全長 ぜんちょう 102 - 147センチメートル[ 3] 。翼 つばさ 長 ちょう 64 - 67センチメートル[ 4] 。翼 つばさ 開 ひらき 長 ちょう 240センチメートル[ 4] 。体重 たいじゅう 4 - 10.5キログラム[ 3] 。全身 ぜんしん は白 しろ い[ 3] [ 7] [ 8] 。眼 め 先 さき から喉 のど ・頸部にかけては黒 くろ い[ 3] [ 5] [ 6] [ 7] [ 8] 。眼 め 後部 こうぶ から頸部にかけて、白 しろ い斑紋 はんもん が入 はい る[ 7] 。次 つぎ 列 れつ 風切 かざきり や三 さん 列 れつ 風切 かざきり は黒 くろ い[ 3] [ 5] [ 6] [ 8] 。
頭頂 とうちょう にはほぼ羽毛 うもう がなく黒 くろ い剛毛 ごうもう がまばらに生 は え、赤 あか い皮膚 ひふ が裸出 らしゅつ する[ 10] 。タン(丹 に )は「赤 あか い」の意 い で、頭頂 とうちょう に裸出 らしゅつ した皮膚 ひふ に由来 ゆらい する[ 10] 。虹彩 こうさい は暗 くら 褐色 かっしょく [ 6] 。嘴 くちばし は長 なが く、色彩 しきさい は黄色 おうしょく や黄 き 褐色 かっしょく 。後肢 あとあし は黒 くろ い[ 6] 。気管 きかん は胸骨 きょうこつ (竜骨 りゅうこつ 突起 とっき )の間 あいだ を曲 ま がりくねる[ 6] 。
湿原 しつげん 、湖沼 こしょう 、河川 かせん などに生息 せいそく する[ 6] 。大陸 たいりく 部 ぶ の個体 こたい 群 ぐん は、700 - 2,300キロメートルの距離 きょり を移動 いどう する[ 7] 。北海道 ほっかいどう の個体 こたい 群 ぐん は繁殖 はんしょく 地 ち と越冬 えっとう 地 ち の距離 きょり が主 おも に150キロメートル以内 いない だが、ごく一部 いちぶ が300キロメートルを移動 いどう することもある[ 3] 。冬季 とうき には家族 かぞく 群 ぐん もしくは家族 かぞく 群 ぐん が合流 ごうりゅう した群 む れを形成 けいせい する[ 5] [ 8] 。日本 にっぽん の個体 こたい 群 ぐん と大陸 たいりく 産 さん の個体 こたい 群 ぐん は鳴 な き交 か わしに差異 さい がある[ 8] 。
食 しょく 性 せい は雑食 ざっしょく で、昆虫 こんちゅう やその幼虫 ようちゅう 、エビ類 るい やカニ類 るい などの甲殻 こうかく 類 るい 、カタツムリ 類 るい やタニシ 類 るい などの貝類 かいるい 、魚類 ぎょるい (ドジョウ 類 るい やコイ 、ヤチウグイ 、ヌマガレイ など)、エゾアカガエル などのカエル 、鳥類 ちょうるい (アオジ やコヨシキリ など)の雛 ひな 、ヤチネズミ 類 るい などの哺乳類 ほにゅうるい 、セリ やハコベ などの葉 は 、アシ やスゲ 、フキ などの芽 め 、スギナ の茎 くき 、フトモモ やミズナラ などの果実 かじつ などを食 た べる[ 10] 。
繁殖 はんしょく 様式 ようしき は卵生 らんせい 。繁殖 はんしょく 期 き に1 - 7平方 へいほう キロメートル の縄張 なわば り を形成 けいせい する[ 8] 。湿原 しつげん (北海道 ほっかいどう の個体 こたい 群 ぐん は塩性 えんせい 湿原 しつげん で繁殖 はんしょく した例 れい もあり)や浅瀬 あさせ に草 くさ や木 き の枝 えだ などを積 つ み上 あ げた直径 ちょっけい 150センチメートル、高 たか さ30センチメートルに達 たっ する皿 さら 状 じょう の巣 す を作 つく り、日本 にっぽん では2月 がつ 下旬 げじゅん から4月 がつ 下旬 げじゅん に1 - 2個 こ の卵 たまご を産 う む[ 3] [ 5] [ 8] 。日本 にっぽん では大 だい 規模 きぼ な湿原 しつげん の減少 げんしょう に伴 ともな い、河川 かせん 改修 かいしゅう によってできた三日月 みかづき 湖 こ や河川 かせん 上 じょう 流域 りゅういき にある小規模 しょうきぼ な湿地 しっち での繁殖 はんしょく 例 れい が増加 ぞうか している[ 3] 。雌雄 しゆう 交代 こうたい で抱 だき 卵 らん し[ 8] 、抱 だき 卵 たまご 期間 きかん は31 - 36日 にち [ 4] 。雛 ひな は孵化 ふか してから約 やく 100日 にち で飛翔 ひしょう できるようになる[ 7] [ 8] 。
日本 にっぽん では1133年 ねん の『詩 し 序 じょ 集 しゅう 』が「丹頂 たんちょう 」という名称 めいしょう の初出 しょしゅつ と推定 すいてい されている[ 15] 。
奈良 なら 時代 じだい 以降 いこう は他 た 種 たね と区別 くべつ されず単 たん に「たづ」「つる」とされ、主 おも に「しらたづ」「しろつる」といえば本 ほん 種 しゅ を差 さ していたがソデグロヅル も含 ふく んでいたと推定 すいてい されている[ 15] 。江戸 えど 時代 じだい には白 しろ 鶴 づる は主 おも にソデグロヅルを指 さ すようになったが、本 ほん 種 しゅ が白 しろ 鶴 づる とされる例 れい もあった[ 15] 。
江戸 えど 時代 じだい の本草学 ほんぞうがく でも、現代 げんだい と同様 どうよう に鶴 づる といえば本 ほん 種 しゅ を指 さ す例 れい が多 おお かった[ 15] 。1666年 ねん の『訓蒙 くんもう 図 ず 彙 』では鶴 づる (くわく)の別名 べつめい として「つる、たづ、仙 せん 禽」が挙 あ げられ仙 せん 禽は本 ほん 種 しゅ の漢 かん 名 めい であること、不審 ふしん な点 てん はあるものの図 ず から鶴 づる といえば主 おも に本 ほん 種 たね を差 さ していたと推定 すいてい されている[ 15] 。一方 いっぽう で1695年 ねん の『頭書 とうしょ 増補 ぞうほ 訓蒙 くんもう 図 ず 彙』では図 ず は変 か わらないものの、本 ほん 種 しゅ ではなくソデグロヅルかマナヅル を差 さ したと思 おも われる本草 ほんぞう 網 もう 目 め からの引用 いんよう ・訳文 やくぶん と推定 すいてい される解説 かいせつ (頬 ほお や後肢 あとあし が赤 あか い)が付 つ け加 くわ えられている[ 15] 。1789年 ねん の『頭書 とうしょ 増補 ぞうほ 訓蒙 くんもう 図 ず 彙大成 たいせい 』では解説 かいせつ は変 か わらないものの図 ず が新 あら たに描 えが きおこされ、「たんてう(丹頂 たんちょう )」の別名 べつめい も追加 ついか された[ 15] 。『本 ほん 朝食 ちょうしょく 鑑 かん 』では「鶴 づる は『和名 わみょう 類聚 るいじゅう 抄 しょう 』にある葦 あし 鶴 づる (あしたづ)で、俗称 ぞくしょう は丹頂 たんちょう である」旨 むね を紹介 しょうかい している[ 15] 。古 ふる くはより広域 こういき に分布 ぶんぷ し一般 いっぱん 的 てき であったか、後述 こうじゅつ するように縁起物 えんぎもの や芸術 げいじゅつ 作品 さくひん といった造形 ぞうけい 物 ぶつ を目 め にする機会 きかい が多 おお かったことから鶴 づる といえば本 ほん 種 しゅ という認識 にんしき が定着 ていちゃく していったと考 かんが えられている[ 15] 。一方 いっぽう で古 ふる くは現代 げんだい よりも広域 こういき に分布 ぶんぷ していたとはいえ日本 にっぽん 全体 ぜんたい では本 ほん 種 たね を見 み ることはまれであり、実際 じっさい には鶴 づる はマナヅルを差 さ していたという反論 はんろん もある[ 15] 。地域 ちいき 差 さ もあり、現代 げんだい の中国 ちゅうごく 地方 ちほう に属 ぞく する備後 びんご 国 こく (『福山 ふくやま 志 こころざし 料 りょう 』1809年 ねん )や周防 すおう 国 こく (『周防 すおう 産物 さんぶつ 名寄 なよせ 』1737年 ねん )、長門 ながと 国 こく (『舟木 ふなき 産物 さんぶつ 名寄 なよせ 帳 ちょう 』1739年 ねん )の文献 ぶんけん では鶴 づる の別名 べつめい を「マナツル」としており、これらの地域 ちいき では鶴 づる はマナヅルを指 さ していたと推定 すいてい されている[ 15] 。現代 げんだい の和歌山 わかやま 県 けん にあたる紀伊 きい 国 こく の『紀伊 きい 国 こく 続 ぞく 風土記 ふどき 』(1839年 ねん )では、頭頂 とうちょう が白 しろ く頬 ほお が赤 あか いという特徴 とくちょう から鶴 つる (白 しろ 鶴 づる )はソデグロヅルを指 さ していたと推定 すいてい され、『紀 き 産 さん 禽類尋問 じんもん 誌 し 』(年代 ねんだい 不明 ふめい )では丹頂 たんちょう は飛来 ひらい しないとする記述 きじゅつ がある[ 15] 。
1708年 ねん の『大和 やまと 本草 ほんぞう 』には頭頂 とうちょう が赤 あか く後肢 あとあし が黒 くろ い松前 まさき (北海道 ほっかいどう )に分布 ぶんぷ する「丹 に 鳥 とり 」という鳥類 ちょうるい の記述 きじゅつ があるが、色 いろ は黒 くろ いとされている[ 15] 。小野 おの 蘭山 あららぎやま による1801年 ねん の『大和 やまと 本草 ほんぞう 批正 ひせい 』では「丹頂 たんちょう 」と「丹 に 鳥 とり 」を区別 くべつ し、「丹 に 鳥 とり 」は「玄 げん 鶴 づる 」であるとしている[ 15] 。「玄 げん 鶴 づる 」に関 かん しては定義 ていぎ が不明瞭 ふめいりょう なため同定 どうてい は困難 こんなん で、オグロヅル 、カナダヅル 、クロヅル 、ナベヅル 、ナベコウ 、セイケイ (玄 げん 鶴 づる の別名 べつめい を青 あお 鶏 にわとり とする文献 ぶんけん があるため)を指 さ すなど複数 ふくすう の説 せつ がある[ 15] 。「丹 に 鳥 とり 」を本 ほん 種 しゅ とする考 かんが えもあり「丹 に 鳥 とり 」を「丹頂 たんちょう 」に書 か き換 か える例 れい も多 おお く見 み られるが、古 ふる くは「丹 に 鳥 とり 」は複数 ふくすう の定義 ていぎ をもつ語 かたり であったと考 かんが えられ、『大 だい 戴礼記 き 』『あい嚢鈔』『和爾 わに 雅 みやび 』ではホタル の別名 べつめい 、『本草 ほんぞう 網 もう 目 め 目録 もくろく 啓蒙 けいもう 』ではキンケイ を指 さ す語 かたり であったと推定 すいてい されている[ 15] 。『観 かん 文 ぶん 禽譜』では本 ほん 種 しゅ に朝鮮 ちょうせん 鶴 づる の名称 めいしょう をあてた例 れい もあるが、これは単 たん に「朝鮮半島 ちょうせんはんとう に由来 ゆらい する鶴 づる 」の意 い と推定 すいてい されている[ 15] 。
食用 しょくよう とされることもあった。一方 いっぽう で日本 にっぽん では縁起物 えんぎもの として主 おも に食用 しょくよう とされたのはクロヅルやマナヅルで、本 ほん 種 しゅ に関 かん しては江戸 えど 時代 じだい には「食 た べる人 ひと は少 すく ない」「肉 にく が堅 かた く不味 まず い」という記述 きじゅつ がある文献 ぶんけん もあり、飼育 しいく 用 よう や観賞 かんしょう 用 よう の需要 じゅよう が高 たか かったと考 かんが えられている[ 16] 。アイヌ語 ご では「サロルンカムイ」と呼 よ ばれ、これは「葦原 よしわら の神 かみ 」の意 い がある[ 10] 。縁起物 えんぎもの や、芸術 げいじゅつ 作品 さくひん のモチーフとされることもある[ 15] 。縁起物 えんぎもの の組 く み合 あ わせとして「松上 まつがみ の鶴 づる 」があり、実際 じっさい には樹 き 上 じょう にはとまらないツル類 るい とコウノトリ を混同 こんどう していたとする説 せつ もある[ 16] 。一方 いっぽう で文献 ぶんけん 調査 ちょうさ では少 すく なくとも江戸 えど 時代 じだい の博物 はくぶつ 誌 し ではツル類 るい および本 ほん 種 たね とコウノトリ類 るい に共通 きょうつう する名称 めいしょう はなく、分布 ぶんぷ や形態 けいたい ・生態 せいたい 、食用 しょくよう や薬用 やくよう としての利用 りよう 法 ほう の相違 そうい 点 てん が既 すで に記述 きじゅつ されていることから、「形態 けいたい は類似 るいじ している」という記述 きじゅつ は当時 とうじ からあったものの区別 くべつ されていたとする説 せつ もある[ 16] 。一 いち 例 れい として当時 とうじ ツル類 るい には既 すで に「樹 き 上 じょう にとまらない」とする記述 きじゅつ もあり、『飼籠鳥 とり 』や『庶物 しょぶつ 類纂 るいさん 』などのように「松上 まつがみ の鶴 づる 」の構図 こうず を実際 じっさい にはありえないと否定 ひてい したり疑問 ぎもん 視 し した文献 ぶんけん もある[ 16] 。
少 すく なくとも日本 にっぽん ではソバ やトウモロコシ などを食害 しょくがい する害鳥 がいちょう とみなされることもある[ 17] 。牛舎 ぎゅうしゃ に侵入 しんにゅう して家畜 かちく を驚 おどろ かせて怪我 けが をさせたり牛乳 ぎゅうにゅう の生産 せいさん 量 りょう に影響 えいきょう を与 あた えたりするほか、飼料 しりょう を発酵 はっこう させるためのラップサイロやバンカーサイロを嘴 くちばし で破 やぶ るなどの被害 ひがい も報告 ほうこく されている[ 17] 。後述 こうじゅつ するように高 こう 病原 びょうげん 性 せい インフルエンザ や口蹄疫 こうていえき などの感染 かんせん 症 しょう が流行 りゅうこう した場合 ばあい に、家畜 かちく へ感染 かんせん 症 しょう を伝搬 でんぱん させることも危惧 きぐ されている[ 17] 。
アムール川 がわ 流域 りゅういき では野火 のび による植生 しょくせい 変化 へんか や巣 す 材 ざい の減少 げんしょう により、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく では農地 のうち 開発 かいはつ による繁殖 はんしょく 地 ち の破壊 はかい などにより生息 せいそく 数 すう は減少 げんしょう している[ 5] 。1975年 ねん の絶滅 ぜつめつ のおそれのある野生 やせい 動植物 どうしょくぶつ の種 たね の国際 こくさい 取引 とりひき に関 かん する条約 じょうやく (ワシントン条約 じょうやく )発効 はっこう 時 じ から、ワシントン条約 じょうやく 附属 ふぞく 書 しょ Iに掲載 けいさい されている[ 2] 。
日本 にっぽん では1924年 ねん に釧路 くしろ 湿原 しつげん で再 さい 発見 はっけん されるまでは絶滅 ぜつめつ したと考 かんが えられていた[ 18] 。後述 こうじゅつ する冬季 とうき の餌付 えづ けが成功 せいこう したことで1960年代 ねんだい までは増加 ぞうか 傾向 けいこう にあったが、1960年代 ねんだい 前半 ぜんはん 以降 いこう は主 おも に電線 でんせん との衝突 しょうとつ による事故死 じこし (1964・1965・1972・1973年 ねん は生息 せいそく 数 すう の約 やく 10 %が事故死 じこし し、以降 いこう は年 とし あたり約 やく 10羽 わ が事故死 じこし )により生息 せいそく 数 すう が減少 げんしょう した[ 18] 。伊藤 いとう 良孝 よしたか 氏 し が給餌 きゅうじ をはじめその後 ご 日本 にっぽん 野鳥 やちょう の会 かい が参加 さんか して大 だい 規模 きぼ な給餌 きゅうじ を開始 かいし したことから1970年代 ねんだい 後半 こうはん から再 ふたた び生息 せいそく 数 すう が増加 ぞうか した[ 18] 。生息 せいそく 数 すう が増加 ぞうか する一方 いっぽう で人間 にんげん への依存 いぞん 度 ど が高 たか くなり、生息 せいそく 数 すう 増加 ぞうか に伴 ともな う繁殖 はんしょく 地 ち の不足 ふそく が問題 もんだい となっている[ 3] [ 5] [ 10] [ 18] 。車両 しゃりょう や列車 れっしゃ との交通 こうつう 事故 じこ 、牛 うし 用 よう の屎尿 しにょう 溜 た めへの落下 らっか 事故 じこ の増加 ぞうか などの問題 もんだい も発生 はっせい し、餌付 えづ け時 じ にカモ 類 るい やカラス 類 るい のような他 た 種 たね の鳥類 ちょうるい も含 ふく めて過密 かみつ 化 か することから感染 かんせん 症 しょう の蔓延 まんえん も懸念 けねん されている[ 3] [ 17] 。餌 えさ づけの餌 えさ 目当 めあ てに集 あつ まるキツネ類 るい 、シカ類 るい 、オジロワシ やオオワシ などと接 せっ する機会 きかい が増 ふ えるが、これらのうち捕食 ほしょく 者 しゃ となりうる生物 せいぶつ に対 たい しては餌付 えづ け場 じょう で捕食 ほしょく されることはないものの見慣 みな れることで警戒 けいかい 心 しん がなくなってしまうことが懸念 けねん されている[ 10] 。イヌ やシカが湿原 しつげん の内部 ないぶ まで侵入 しんにゅう しており、繁殖 はんしょく への影響 えいきょう も懸念 けねん されている[ 10] 。
北海道 ほっかいどう での1952 - 1953年 ねん における生息 せいそく 数 すう は33羽 わ [ 5] [ 18] 。1962年 ねん における生息 せいそく 数 すう は172羽 わ 、1988年 ねん における生息 せいそく 数 すう は424羽 わ [ 6] 。2004年 ねん における生息 せいそく 数 すう は1,000羽 わ 以上 いじょう 、2012年 ねん における確認 かくにん 数 すう は1,470羽 わ で生息 せいそく 数 すう は1,500羽 わ 以上 いじょう と推定 すいてい されている[ 3] 。2008年 ねん の繁殖 はんしょく ペア数 すう は285ペア、2010年 ねん の繁殖 はんしょく ペア数 すう は345ペアが確認 かくにん されている[ 3] 。北海道庁 ほっかいどうちょう は1952年度 ねんど から個体 こたい 数 すう 把握 はあく 調査 ちょうさ を続 つづ けており(調査 ちょうさ 地点 ちてん は2021年 ねん 12月調査 ちょうさ では40市町村 しちょうそん の約 やく 300カ所 かしょ )、2021年 ねん 1月 がつ 時点 じてん では飼育 しいく 下 か を含 ふく めて1516羽 わ と調査 ちょうさ 開始 かいし 以来 いらい の過去 かこ 最多 さいた であった[ 19] 。
絶滅 ぜつめつ 危惧 きぐ II類 るい (VU) (環境省 かんきょうしょう レッドリスト )[ 3]
日本 にっぽん では北海道庁 ほっかいどうちょう により1889年 ねん に狩猟 しゅりょう が禁止 きんし され、1890年 ねん に現在 げんざい の千歳 ちとせ 市 し 周辺 しゅうへん が禁猟 きんりょう 区 く に指定 してい されたのに続 つづ き、1892年 ねん に日本 にっぽん 国内 こくない でのツル類 るい の狩猟 しゅりょう が禁止 きんし 、1925年 ねん に再 さい 発見 はっけん された地域 ちいき が禁猟 きんりょう 区 く に指定 してい された[ 18] 。1935年 ねん に繁殖 はんしょく 地 ち も含 ふく めて国 くに の天然記念物 てんねんきねんぶつ 、1952年 ねん に「釧路 くしろ のタンチョウ」として繁殖 はんしょく 地 ち も含 ふく めて特別 とくべつ 天然記念物 てんねんきねんぶつ 、1967年 ねん に地域 ちいき を定 さだ めず種 たね として特別 とくべつ 天然記念物 てんねんきねんぶつ に指定 してい されている[ 18] 。1993年 ねん に種 しゅ の保存法 ほぞんほう 施行 しこう に伴 ともな い、国内 こくない 希少 きしょう 野生 やせい 動植物 どうしょくぶつ 種 しゅ に指定 してい されている[ 20] 。北海道 ほっかいどう では自然 しぜん 保護 ほご 団体 だんたい などによる繁殖 はんしょく 地 ち の買 か い上 あ げ(ナショナルトラスト運動 うんどう )や、冬季 とうき に穀物 こくもつ を給餌 きゅうじ している[ 3] [ 17] 。初期 しょき にもセリの移植 いしょく 、ドジョウの放流 ほうりゅう やソバの散布 さんぷ 、1940年 ねん には餌 えさ を奪 うば う他 ほか の鳥類 ちょうるい の駆除 くじょ などの保護 ほご 対策 たいさく が行 おこな われたが、冬季 とうき の食糧 しょくりょう 不足 ふそく から生息 せいそく 数 すう はほとんど上昇 じょうしょう しなかった[ 18] 。2015年度 ねんど には環境省 かんきょうしょう により、冬季 とうき の給餌 きゅうじ 量 りょう を段階 だんかい 的 てき に減少 げんしょう させる方針 ほうしん が打 う ち出 だ されている[ 7] 。1952年 ねん に大雪 おおゆき に伴 ともな い人里 ひとざと に近 ちか づいた個体 こたい に対 たい し、阿寒 あかん 村 むら と鶴居 つるい 村 むら で餌付 えづ けに成功 せいこう した[ 18] 。日本 にっぽん 野鳥 やちょう の会 かい でも啓蒙 けいもう 活動 かつどう やナショナルトラスト運動 うんどう が進 すす められ、1987年 ねん には鶴居 つるい ・伊藤 いとう タンチョウサンクチュアリを開設 かいせつ している[ 17] 。主 おも に釧路 くしろ 市 し 動物 どうぶつ 園 えん などでは野生 やせい で怪我 けが を負 お ったり病気 びょうき になった個体 こたい を収容 しゅうよう し、野生 やせい に復帰 ふっき させる試 こころ みが進 すす められている[ 17] 。死亡 しぼう してしまう個体 こたい や、救命 きゅうめい できても野生 やせい への復帰 ふっき が困難 こんなん で義足 ぎそく をつけて釧路 くしろ 市 し 動物 どうぶつ 園 えん で飼育 しいく ・展示 てんじ される個体 こたい もある[ 21] 。
日本 にっぽん では江戸 えど 時代 じだい には寺院 じいん などで飼育 しいく されることもあり、明治 めいじ ・大正 たいしょう 時代 じだい の第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 以前 いぜん にも既 すで に多 おお く飼育 しいく され、飼育 しいく 下 か 繁殖 はんしょく にも成功 せいこう していたとされる[ 22] 。具体 ぐたい 例 れい として恩賜 おんし 上野動物園 うえのどうぶつえん (上野動物園 うえのどうぶつえん )では1875年 ねん に飼育 しいく され、1913年 ねん には京都 きょうと 市 し 動物 どうぶつ 園 えん で10羽 わ 、1923年 ねん には上野動物園 うえのどうぶつえん で11羽 わ が飼育 しいく されていたという記録 きろく がある[ 22] 。遅 おそ くとも1895年 ねん には、上野 うえの 動物 どうぶつ 園 えん や新宿 しんじゅく 御苑 ぎょえん では飼育 しいく 下 か 繁殖 はんしょく に成功 せいこう していたとされる[ 22] 。戦前 せんぜん は朝鮮半島 ちょうせんはんとう から輸入 ゆにゅう された個体 こたい が、主 おも に飼育 しいく されていた[ 22] 。1950年代 ねんだい には上野動物園 うえのどうぶつえん などで人工 じんこう 孵化 ふか や人工 じんこう 育 そだて 雛 ひな などの試 こころ みが進 すす められるようになった[ 17] 。戦後 せんご は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく から輸入 ゆにゅう された個体 こたい に由来 ゆらい する個体 こたい が、主 おも に飼育 しいく されている[ 23] 。
岡山 おかやま 県 けん では岡山 おかやま 後楽園 こうらくえん で宝永 ほうえい 元年 がんねん (1704年 ねん )頃 ごろ に飼 か われるなど江戸 えど 時代 じだい から飼育 しいく されており、2022年 ねん 3月 がつ 末 まつ 時点 じてん 、4施設 しせつ に合計 ごうけい 57羽 わ がいる[ 24] 。同 どう 県 けん は「タンチョウ将来 しょうらい 構想 こうそう 」で自然 しぜん との共生 きょうせい のシンボルと位置付 いちづ けており、岡山 おかやま 県 けん 自然 しぜん 保護 ほご センター (和気 わき 町 まち )は、飛翔 ひしょう 可能 かのう な状態 じょうたい で飼育 しいく しているのは北海道 ほっかいどう 以外 いがい では岡山 おかやま 県 けん のみと説明 せつめい している[ 24] 。昭和 しょうわ 初期 しょき には皇居 こうきょ のつがいを贈 おく られたことがあり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で飼育 しいく が一時 いちじ 途絶 とだ えたものの、1955年 ねん 12月に、当時 とうじ の中国科学院 ちゅうごくかがくいん 院長 いんちょう で岡山 おかやま の旧制 きゅうせい 第 だい 六 ろく 高等 こうとう 学校 がっこう で学 まな んだことのある郭沫若 かくまつじゃく より後楽園 こうらくえん へ2羽 わ が寄贈 きぞう されて飼育 しいく を再開 さいかい した[ 24] [ 25] 。
飛翔 ひしょう
頭部 とうぶ
雛 ひな
群 む れ
鳴 な き声 ごえ を上 あ げている個体 こたい
採 と 食 しょく
広重 ひろしげ は『名所 めいしょ 江戸 えど 百 ひゃく 景 けい 』の中 なか で江戸 えど に飛来 ひらい していたタンチョウを描 えが いている。葉 は 題 だい 「蓑輪 みのわ 金杉 かなすぎ 三河 そうご 島 とう 」。
江戸 えど 時代 じだい には、江戸 えど 近郊 きんこう の三 さん 河島 かわしま 村 むら (現在 げんざい の荒川 あらかわ 区 く 荒川 あらかわ 近辺 きんぺん )にタンチョウの飛来 ひらい 地 ち があり、手厚 てあつ く保護 ほご されていた[ 26] 。
タンチョウは毎年 まいとし 10月 がつ から3月 がつ にかけて見 み られたという[ 26] 。江戸 えど 幕府 ばくふ は一帯 いったい を竹矢来 たけやらい で囲 かこ み、「鳥見 とりみ 名主 なぬし 」のほか給餌 きゅうじ 係 がかり 、野犬 やけん を見張 みは る「犬 いぬ 番 ばん 」を置 お いた[ 26] 。給餌 きゅうじ の際 さい はささら を鳴 な らしてタンチョウを呼 よ んだが、タンチョウが来 こ ないときは荒川 あらかわ の向 む こうや西新井 にしあらい 方面 ほうめん にまで探 さが しに行 い ったという[ 26] 。タンチョウは午後 ごご 6時 じ 頃 ごろ から朝 あさ 6時 じ 頃 ごろ まではどこかへ飛 と び去 さ るので、その間 あいだ は矢来 やらい 内 ない に入 はい ることを許 ゆる された[ 26] 。近郷 きんごう の根岸 ねぎし 、金杉 かなすぎ あたりではタンチョウを驚 おどろ かさないように凧 たこ 揚 あ げも禁止 きんし されていたという[ 26] 。
こうした“鶴 つる 御 ご 飼附場 じょう ”では将軍 しょうぐん が鷹狩 たかがり によって鶴 づる を捕 と らえる「鶴 つる 御成 おなり 」も行 おこな われた。
東 ひがし アジア においては古 ふる くから、タンチョウはその清楚 せいそ な体 からだ 色 しょく と気品 きひん のある体 からだ つきにより特 とく に神聖 しんせい 視 し され、瑞 みず 鳥 とり とされ[ 27] 、ひいては縁起 えんぎ の良 よ い意匠 いしょう として、文学 ぶんがく や美術 びじゅつ のモチーフに多用 たよう されてきた[ 27] 。また、「皇太子 こうたいし の乗 の る車 くるま 」を指 さ して「鶴 づる 駕 が (かくが)」と呼 よ ぶ[ 28] ように、高貴 こうき の象徴 しょうちょう ともされた。
道教 どうきょう 的 てき 世界 せかい 観 かん の中 なか では特 とく に仙人 せんにん 、仙道 せんどう と結 むす びつけられ、タンチョウ自体 じたい が大変 たいへん な長寿 ちょうじゅ であると考 かんが えられた[ 注釈 ちゅうしゃく 1] ほか、寿 ことぶき 星 ほし 老人 ろうじん が仙 せん 鶴 づる に乗 の って飛来 ひらい するとか[ 30] 、周 しゅう の霊 れい 王 おう の太子 たいし 晋 すすむ が仙人 せんにん となって白 しろ 鶴 づる に乗 の って去 さ った[ 28] といった説話 せつわ が伝 つた えられている。
なお、古来 こらい の日本 にっぽん で「花 はな 」といえば梅 うめ を指 さ したのと同 おな じように、伝統 でんとう 的 てき には、中国 ちゅうごく や日本 にっぽん で単 たん に「鶴 づる 」と言 い えばタンチョウを指 さ しているのが通常 つうじょう である[ 27] [ 31] 。
また古 ふる くは鶴 づる を指 さ して「たづ」とも呼 よ んだ。
8世紀 せいき の皇族 こうぞく ・長屋王 ながやおう の邸宅 ていたく 跡地 あとち からはタンチョウらしき鶴 づる の描 えが かれた土器 どき が出土 しゅつど しており、これが現在 げんざい 知 し られている中 なか で最古 さいこ のタンチョウを描 えが いた文物 ぶんぶつ である[ 32] 。平安 へいあん 時代 じだい から室町 むろまち 時代 ときよ にかけては鏡 かがみ の装飾 そうしょく に鶴 づる 文 ぶん (つるもん)が多 おお く使 つか われた[ 30] 。
鶴 づる ほど広範囲 こうはんい に様々 さまざま な意匠 いしょう に用 もち いられているモチーフ は他 た に例 れい がない[ 30] 。鎌倉 かまくら 時代 ときよ の太刀 たち や笈 きゅう (おい)、平安 へいあん 貴族 きぞく で歌人 かじん の紀貫之 きのつらゆき の用 もち いた和歌 わか 料紙 りょうし 、厳島 いつくしま 神社 じんじゃ の蒔絵 まきえ 小 しょう 唐櫃 からびつ 、日光 にっこう 東照宮 とうしょうぐう 陽明 ようめい 門 もん の丸柱 まるばしら 、仁阿弥 にんあみ の陶器 とうき 、海 うみ の長者 ちょうじゃ の大漁 たいりょう 祝 いわ い着 ぎ 、沖縄 おきなわ の紅型 びんがた 染 そ め、久留 くる 米 べい の絵 え 絣 かすり 、修学院 しゅうがくいん 離宮 りきゅう の茶室 ちゃしつ に見 み られる羽子板 はごいた 形 かたち の七宝 しっぽう 引手 ひきて 、光琳 こうりん の群 ぐん 鶴 づる 文 ぶん 蒔絵 まきえ 硯 すずり 箱 はこ 、江戸 えど の釜 がま 師 し ・名越 なごや 善正 よしまさ が鋳 い た鶴 づる に亀甲 きっこう 菊 きく 文 ぶん 蓋 ぶた の茶釜 ちゃがま など、その実例 じつれい を挙 あ げるに及 およ んでは枚挙 まいきょ に暇 ひま がない[ 30] 。
室町 むろまち 時代 ときよ に入 はい る前後 ぜんご から宋 そう ・元 もと 時代 じだい の中国 ちゅうごく から花鳥 かちょう 画 が の習俗 しゅうぞく が日本 にっぽん へ入 はい ってくると、優美 ゆうび な姿 すがた のタンチョウは好 この んで描 えが かれるモチーフの一 ひと つとなった。江戸 えど 時代 じだい の絵師 えし ・伊藤 いとう 若冲 じゃくちゅう のような画風 がふう の異 こと なるものも含 ふく め、多 おお くの画家 がか によって現在 げんざい まで多数 たすう の作品 さくひん が描 えが かれている。
通俗 つうぞく 的 てき には、「亀 かめ は万 まん 年 ねん の齢 よわい を経 へ 、鶴 づる は千代 ちよ をや重 おも ぬらん」と能 のう 曲 きょく 『鶴 つる 亀 ひさし 』や地唄 じうた にも謡 うた われるように、鶴 づる と亀 かめ はいずれも長寿 ちょうじゅ のシンボルとされ、往々 おうおう にしてセットで描 えが かれてきた。また花鳥 かちょう 画 が 以来 いらい の伝統 でんとう として松竹梅 しょうちくばい などと併 あわ せて描 えが かれることも多 おお い。花札 はなふだ の役 やく 札 さつ 「松 まつ に鶴 づる 」などもこうした流 なが れのものであるということができる。
アイヌ 民族 みんぞく の間 あいだ にはタンチョウの舞 まい をモチーフにした舞踊 ぶよう なども伝 つた えられている[ 33] 。
近年 きんねん の文化 ぶんか 上 じょう の事例 じれい としては、1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )、北海道 ほっかいどう の道 みち 鳥 とり に指定 してい されている[ 34] ほか、1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )に発行 はっこう された千 せん 円 えん 紙幣 しへい は裏面 りめん にタンチョウの意匠 いしょう を用 もち いている。
日本航空 にほんこうくう のシンボルマークはいわゆる「鶴丸 つるまる 」だが、これはタンチョウのイメージに乗 の せて用 もち いられている[ 35] 。
中国 ちゅうごく で最 もっと も初期 しょき の鶴 づる を象 かたど った文物 ぶんぶつ といえば春秋 しゅんじゅう 戦国 せんごく 時代 じだい の青銅器 せいどうき 「蓮 はちす 鶴 づる 方 かた 壺 つぼ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 」がよく知 し られているが、さらに古 ふる い殷 いん 商 しょう 時代 じだい にも墳墓 ふんぼ から鶴 づる を象 かたど った彫刻 ちょうこく が出土 しゅつど しているという[要 よう 出典 しゅってん ] 。
『史記 しき 』や『左 ひだり 氏 し 春秋 しゅんじゅう 』によると衛 まもる の懿公 は鶴 づる を愛好 あいこう し、大夫 たいふ の車 くるま に乗 の せ俸禄まで与 あた えたことがある。
道教 どうきょう では、前述 ぜんじゅつ のとおり、タンチョウは仙人 せんにん や不老 ふろう 長寿 ちょうじゅ の象徴 しょうちょう とされ珍重 ちんちょう された[ 27] 。
一方 いっぽう で俗信 ぞくしん としては、タンチョウの頭頂 とうちょう 部 ぶ からは猛毒 もうどく の物質 ぶっしつ が採 と れるとされ、「鶴 づる 頂 いただき 紅 べに 」「丹毒 たんどく 」などと呼 よ ばれることがあった[ 36] [ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。
2007年 ねん に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 国家 こっか 林業 りんぎょう 局 きょく が、同国 どうこく の国鳥 こくちょう にタンチョウの選定 せんてい を提案 ていあん し、国務 こくむ 院 いん も受 う け入 い れたが、タンチョウの学名 がくめい 、英名 えいめい ともに「日本 にっぽん の鶴 づる 」を意味 いみ することから、後 のち に議論 ぎろん を呼 よ ぶこととなった[ 37] 。
中国 ちゅうごく では先述 せんじゅつ のとおり、古 ふる くからタンチョウが親 した しまれ愛 あい されてきた経緯 けいい がある。選定 せんてい の際 さい にはインターネットでのアンケートを参考 さんこう にしており、全 ぜん 510万 まん 票 ひょう のうち65%を獲得 かくとく するという圧倒的 あっとうてき な得票 とくひょう 率 りつ であったという[ 37] 。
鶴 づる と
蓮 はちす をモチーフに
象 かたど った“
蓮 はちす 鶴 づる 方 かた 壺 つぼ ”(
春秋 しゅんじゅう 戦国 せんごく 時代 じだい )。
河南 かなん 博物 はくぶつ 院 いん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 蔵 ぞう 。
故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん にも
同様 どうよう のものがある。
北 きた 宋 そう 時代 じだい の1112
年 ねん (
政和 まさかず 2
年 ねん )のある
日 ひ 、
皇宮 こうぐう の
上 うえ に
忽然 こつぜん と
祥 さち 雲 くも 生 しょう じ、
群 ぐん 鶴 づる が
舞 ま い、
衆人 しゅうじん みなこれを
目撃 もくげき したという。この
作品 さくひん は、
文人 ぶんじん として
知 し られる
皇帝 こうてい ・
徽宗 が、これを
記念 きねん して
描 えが き、
詩 し を
添 そ えたもの。
辺 あたり 景 けい 昭 あきら (英語 えいご 版 ばん ) 『
竹 たけ 鶴 づる 図 ず 』(15
世紀 せいき )
沈銓 『
松 まつ 梅 うめ 双 そう 鶴 づる 図 ず 』(18
世紀 せいき )
虚 きょ 谷 だに 『
松 まつ 鶴 づる 延 のべ 年 ねん 図 ず 』(19
世紀 せいき )。頸の
折 お り
曲 ま がり
具合 ぐあい などやや
実際 じっさい と
異 こと なるようにも
見 み える。
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