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きゅうしき野砲やほう

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きゅうしき野砲やほう

機動きどうきゅうしき野砲やほう
制式せいしき名称めいしょう きゅうしき野砲やほう/機動きどうきゅうしき野砲やほう
重量じゅうりょう きゅうしき野砲やほう 1,400kg
機動きどうきゅうしき野砲やほう 1,600kg[1]
砲身ほうしん重量じゅうりょう 387㎏[2]
口径こうけい 75mm
砲身ほうしんなが 2,883mm
ほうこう初速しょそく 683m/s
最大さいだい射程しゃてい 14,000m[3][4]
高低こうていしゃかいたび -8°〜+43°
方向ほうこうしゃ角度かくど 左右さゆう25°
こう座長ざちょう 980mm
995mm(ほうくちせい退すさうつわなし)
756mm(がわ後方こうほう噴気ふんきしき)
901mm(がわ方式ほうしき噴気ふんきしき)
使用しようだんしゅ きゅうしき尖鋭せんえいだん
きゅうしき榴弾りゅうだん
きゅうよんしき榴弾りゅうだん
きゅうよんしきこうせいずく榴弾りゅうだん
きゅうしきやぶかぶと榴弾りゅうだん
さんはちしき榴霰だん
きゅうしき榴霰だん
きゅうしき焼夷弾しょういだん
きゅうしき照明しょうめいだん
きゅうしき発煙はつえんだん
一式いっしきとおるきのえだん

よんしきとおるきのえだん[5]

使用しよう勢力せいりょく  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
運行うんこう方式ほうしき 6うま挽馬[6]自動じどう貨車かしゃきゅうはちしきよんたむろ牽引けんいんしゃ
そう生産せいさんすう きゅうしき野砲やほう やく200もん
機動きどうきゅうしき野砲やほう やく600もん[7]

きゅうしき野砲やほう(きゅうまるしきやほう)は、1920年代ねんだい後期こうきから1930年代ねんだい初期しょきにかけて開発かいはつ採用さいようされた大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん野砲やほうほんこうでは機械きかい牽引けんいん目的もくてきとした派生はせいがた機動きどうきゅうしき野砲やほう(きどうきゅうまるしきやほう)についても詳述しょうじゅつする。

だい世界せかい大戦たいせんでは改造かいぞうさんはちしき野砲やほうきゅうしき野砲やほうとともに帝国ていこく陸軍りくぐん主力しゅりょく野砲やほうとして運用うんようされた。

概要がいよう

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きゅうしき野砲やほう開発かいはつ以前いぜんにち戦争せんそうこう)、帝国ていこく陸軍りくぐん主力しゅりょく野砲やほう1907ねん明治めいじ40ねん)に制式せいしき採用さいようされたさんはちしき野砲やほうであったが、1910年代ねんだいだいいち世界せかい大戦たいせん火砲かほう性能せいのう格段かくだん上昇じょうしょうげると、ちゅう退すさふく導入どうにゅうともな過渡かと産物さんぶつであったさんはちしき野砲やほう陳腐ちんぷしてしまった。

陸軍りくぐんはこの事態じたいさいし、1920年代ねんだいにコストと時間じかん関係かんけいからさんはちしき野砲やほう改良かいりょうして最大さいだい射程しゃていばした改造かいぞうさんはちしき野砲やほう開発かいはつ量産りょうさんする一方いっぽうで、新型しんがた野砲やほう導入どうにゅうけたうごきを1920ねん大正たいしょう9ねん)からすすめていた。しかし当時とうじ日本にっぽんには列強れっきょう各国かっこく新型しんがた火砲かほう同等どうとうのものを自力じりき開発かいはつできる技術ぎじゅつがなかったため、新型しんがた野砲やほう開発かいはつ必然ひつぜんてき外国がいこく技術ぎじゅつたよることとなり、陸軍りくぐん外国がいこく視察しさつだん派遣はけんしその設計せっけい依頼いらいすることにした。この過程かてい注目ちゅうもくあつめたのが、火砲かほう先進せんしんこくであるフランスシュナイダーしゃ提案ていあんした75mm野砲やほうであった。シュナイダーせいのこの75mm野砲やほうは、世界せかいはじめて砲身ほうしん座方ざかたしき採用さいようした、フランス国営こくえい兵器へいき工廠こうしょうせい75mm野砲やほう Mle 1897影響えいきょう発展はってんさせたもので(開発かいはつ組織そしきことなるMle 1897の派生はせいがたではない)、ひらきあししきほうなどいくつかのしん技術ぎじゅつれられていた。陸軍りくぐんはシュナイダーしゃ交渉こうしょうかさね、最終さいしゅうてきにこの新型しんがた野砲やほう購入こうにゅうとそれにともなしん技術ぎじゅつ取得しゅとく合意ごういした。

陸軍りくぐん当初とうしょシュナイダーほう購入こうにゅうられたしん技術ぎじゅつもと新型しんがた野砲やほう開発かいはつする予定よていであったが、コストめん技術ぎじゅつてき観点かんてんおよび購入こうにゅうほう自体じたいすぐれていたことなどから、最終さいしゅうてきにシュナイダー野砲やほう改良かいりょうくわえたものを新型しんがた野砲やほうとして導入どうにゅうすることにした。改良かいりょうおもなポイントは、ヨーロッパ大陸たいりくでの運用うんよう前提ぜんていにしているシュナイダー野砲やほう中国ちゅうごく大陸たいりくでの運用うんようてきしたものにすることであった。ほんほう設計せっけい1928ねん昭和しょうわ3ねん)に開始かいしされ、すう改正かいせい1930ねん昭和しょうわ5ねん)に試製しせいほう完成かんせい1931ねん昭和しょうわ6ねん)にかり制式せいしき制定せいてい1932ねん昭和しょうわ7ねん)にきゅうしき野砲やほうとして制式せいしき制定せいていされた。

技術ぎじゅつてき特徴とくちょう採用さいようまでの経緯けいい

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ほんほう技術ぎじゅつてき特徴とくちょうとして以下いかてんおもげられる[8]

  1. 水圧すいあつによる自己じこ緊縮きんしゅく方式ほうしき(オートフレッタージュ)の採用さいようによる砲身ほうしんこうこらえりょく向上こうじょう[9]
  2. ほうくちせい退すさうつわ採用さいようによる、射撃しゃげきほうへの反動はんどう低減ていげん
  3. ちゅう退すさふく空気くうきしき採用さいようすることで、反動はんどう吸収きゅうしゅう容易ようい
  4. ひらきあししきほうしきちゅうすき採用さいようによる、かく方向ほうこう限界げんかい増大ぞうだい射撃しゃげき操作そうさ容易ようい

しかし、重量じゅうりょう過大かだいであったため参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん担当たんとうしゃ(だい課長かちょう 鈴木すずきりつどう砲兵ほうへい中佐ちゅうさ)はこのてん問題もんだいとし、機動きどうせい重点じゅうてんいたさらなる新型しんがた野砲やほう開発かいはつ主張しゅちょうした結果けっか開発かいはつ生産せいさんされたのがきゅうしき野砲やほうである。他方たほう実用じつようがわ部隊ぶたいからは、ちょう射程しゃていきゅうしき野砲やほう主力しゅりょく野砲やほうとすべきと主張しゅちょう両者りょうしゃ意見いけん対立たいりつした。結果けっか関東軍かんとうぐんだい2師団しだんきゅうしき野砲やほう部隊ぶたい実験じっけんおこなった結果けっかちょう射程しゃてい重量じゅうりょう過大かだいおぎなってあまりある価値かちがあることを証明しょうめいしたため、以降いこうきゅうしき野砲やほう整備せいびすすめられていった[10]

ほんほう射撃しゃげき速度そくどは2ふん以内いないならばまいぶん10~12はつ、5ふん以内いないならばまいぶん6~8はつ数時間すうじかん持続じぞく射撃しゃげきならばまいぶん2はつであった[11]

貫徹かんてつ能力のうりょく

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さんしきちゅう戦車せんしゃ チヌ(チヌしゃ

ほんほう硫黄いおうとう戦闘せんとう報告ほうこくしょなどにて「M4ちゅう戦車せんしゃたいしてきわめて有効ゆうこうなり」と評価ひょうかされており[12]、その性能せいのうかして対戦たいせんしゃほうとしても使用しようされ、一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうしのぐそのだい火力かりょく発揮はっきした。

装甲そうこう貫徹かんてつ能力のうりょく数値すうち射撃しゃげき対象たいしょう装甲そうこうばん実施じっしした年代ねんだいなど試験しけん条件じょうけんによりことなるが、通常つうじょう一式いっしきとおるきのえだん使用しようした場合ばあい射距離しゃきょり1,000m/やく70mm、500m/やく80mm、タングステン・クロムこうだんの「とくかぶと」を使用しようした場合ばあいは1,000m/やく85mm、500m/やく100mmであった[13]一式いっしきてっかぶとだん希少きしょう金属きんぞく配給はいきゅうじょう問題もんだいにより、クロム1%・モリブデン0.2%・少量しょうりょうニッケル含有がんゆうしたこう炭素たんそこう使用しようしたアメリカ陸軍りくぐんてっかぶとだんことなり、炭素たんそ0.5~0.75%をふくはがねしぼして成形せいけい・蛋形へ加工かこう熱処理ねつしょり硬化こうかして炸薬さくやく充填じゅうてんしたものもちいていた。

また、1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく戦争せんそうしょう情報じょうほう資料しりょうにおいては、鹵獲ろかくしたきゅうしき野砲やほう装甲そうこう貫徹かんてつ能力のうりょく数値すうち一式いっしきてっかぶとだんとおるかぶと榴弾りゅうだん相当そうとう)を使用しようし、衝撃しょうげき角度かくど90命中めいちゅうした場合ばあい射距離しゃきょり1,500ydやく1371.6m)/2.4in(やく61mm)、1,000yd(やく914.4m)/2.8in(やく71mm)、750yd(やく685.8m)/3.0in(やく76mm)、500yd(やく457.2m)/3.3in(やく84mm)、250yd(やく228.6m)/2.4in(やく89mm)となっている。[14]

戦車せんしゃほう

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なお、ほんほう戦車せんしゃほうとして一式七糎半自走砲/一式いっしきほう戦車せんしゃ ホニI備砲びほうとして転用てんようされ、さらに改修かいしゅうがたであるさんしきななせんちめーとるはん戦車せんしゃほう(IIがた)がさんしきちゅう戦車せんしゃ チヌさんしきほう戦車せんしゃ ホニIII搭載とうさいされている。

チヌしゃとホニIIIしゃ量産りょうさんされたものの本土ほんど決戦けっせんのため内地ないち温存おんぞんされ終戦しゅうせんむかえたが、ホニIしゃはフィリピン防衛ぼうえいせんビルマ戦線せんせんなどに少数しょうすう投入とうにゅうされた。フィリピンではサラクサクとうげたたかにて上述じょうじゅつ機動きどう砲兵ほうへいだい2連隊れんたいのホニIくるま4りょうが、どう連隊れんたい機動きどうきゅうしき野砲やほうとともに活躍かつやくしている。

欠点けってん後継こうけい開発かいはつ

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自己じこ緊縮きんしゅく方式ほうしき採用さいようした砲身ほうしんだが、連続れんぞく射撃しゃげきおこなうとほう腔内めんやきしょくたまにばらつきがしょうじる問題もんだいがあった。制式せいしき審査しんさにおいておこなわれたこうこらえ射撃しゃげき試験しけん実戦じっせん想定そうていして10日とおかないし14にちで5000はつ砲弾ほうだん発射はっしゃしたが、3000はつ前後ぜんこう弾丸だんがん旋回せんかい途切とぎれてたまじく直角ちょっかくとなり、いちじるしい近距離きんきょりへの砲弾ほうだん落下らっかこった。試験しけん終期しゅうきにはこの現象げんしょうが50~90パーセントで発生はっせいし、発射はっしゃされた弾頭だんとう検分けんぶんするとライフリングの痕跡こんせきがないものが多数たすう発見はっけんされた(はら乙未おとみせいによる報告ほうこく[15]

この試験しけん結果けっかけてきゅうしき野砲やほう師団しだん砲兵ほうへい主体しゅたい火砲かほうではなく機動きどう野砲やほうおよび戦車せんしゃほうとして利用りようすることとなり、あらたにきゅうしき野砲やほう研究けんきゅう開発かいはつはじまることになった[15]

機動きどう

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機動きどうきゅうしき野砲やほう

1931ねん3がつ同年どうねんかり制式せいしき制定せいていとなるきゅうしき野砲やほう臨時りんじ機械きかい牽引けんいんする目的もくてきをもってサスペンションづけ台車だいしゃ研究けんきゅうすることになり、翌年よくねん5がつ設計せっけい着手ちゃくしゅ1934ねん昭和しょうわ9ねん)に完成かんせい[16] し、1935ねん昭和しょうわ10ねん)8がつきゅうしき野砲やほう機動きどう台車だいしゃとして制定せいていされた。制定せいてい後述こうじゅつ機動きどうきゅうしき野砲やほうとほぼどう時期じきになったが、既存きそんきゅうしき野砲やほう装備そうび部隊ぶたい自動車じどうしゃのためにさき生産せいさんはいり、牽引けんいんしゃわりに自動じどう貨車かしゃ牽引けんいんさせた[17]

これとはべつ本格ほんかくてき機械きかい砲兵ほうへいよう火砲かほう機動きどうほう研究けんきゅうのため、1931ねん3がつきゅうしき野砲やほう機動きどう台車だいしゃ研究けんきゅう開始かいし同日どうじつづけきゅうしき野砲やほう改修かいしゅうした機械きかい野砲やほう研究けんきゅうまり、1933ねん昭和しょうわ8ねん)6がつ設計せっけい着手ちゃくしゅ[18]改修かいしゅう車軸しゃじくをサスペンション方式ほうしきとし、車輪しゃりん直径ちょっけい830mm[19]のパンクレスゴムタイヤ採用さいよう、その細部さいぶ改修かいしゅう実施じっしされた。わた試験しけん結果けっか射撃しゃげき精度せいど通常つうじょうきゅうしき野砲やほうとほぼ同等どうとうであることが証明しょうめいされ、1935ねん3がつ23にち制式せいしき上申じょうしんされ、同年どうねん8がつ9にち機動きどうきゅうしき野砲やほうとして制定せいていされた[1]

機動きどうきゅうしき野砲やほう1939ねん昭和しょうわ14ねん)には実戦じっせん投入とうにゅうされているが、本格ほんかくてき配備はいび1942ねん昭和しょうわ17ねん)に戦車せんしゃ師団しだん軍隊ぐんたい符号ふごう1TKD2TKD3TKD)およびその隷下れいかとなる機動きどう砲兵ほうへい連隊れんたい編成へんせいされて以後いごのことになる[20] 。なお、製造せいぞうされた機動きどうきゅうしき野砲やほうには、きゅうしき野砲やほうから改造かいぞうされたほうもあった[21]牽引けんいんしゃにはおもきゅうはちしきよんたむろ牽引けんいんしゃ使用しようされた。

実戦じっせん

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1945ねん4がつビルマ戦線せんせんイギリス陸軍りくぐん鹵獲ろかくされた機動きどうきゅうしき野砲やほう

きゅうしき野砲やほう初陣ういじんは1931ねん満州まんしゅう事変じへんであり、そのちょう射程しゃてい多少たしょう重量じゅうりょう過大かだいめんおぎなってあまりあることを証明しょうめいした[6]。このため、以後いごきゅうしき野砲やほう整備せいびすすむこととなる[10]。しかしながら、帝国ていこく陸軍りくぐんドイツ陸軍りくぐんおよびアメリカ陸軍りくぐん運用うんよう方式ほうしきならい、師団しだん砲兵ほうへい野砲やほうへい連隊れんたいとう)の火力かりょく向上こうじょうのため1930年代ねんだいまつごろから(師団しだん砲兵ほうへいの)主力しゅりょく火砲かほう従来じゅうらいの75mm野砲やほう2~3大隊だいたい・10cmけい榴弾りゅうだんほうきゅう一式いっしきじゅうせんちめーとる榴弾りゅうだんほう1個いっこ大隊だいたい編制へんせいから、野砲やほう1個いっこ中隊ちゅうたいおよびけい榴弾りゅうだんほう2中隊ちゅうたいからる3大隊だいたい・15cmじゅう榴弾りゅうだんほうよんねんしきじゅうせんちめーとる榴弾りゅうだんほう1個いっこ大隊だいたいぜん大隊だいたい輓馬ばんば編制へんせい)に改編かいへんする計画けいかく[22]て、野砲やほう山砲さんぽう生産せいさん緊縮きんしゅくきゅう一式いっしきじゅう榴等の量産りょうさんつとめていたため、きゅうしき野砲やほう自体じたい少数しょうすうしか生産せいさんされなかった(なお、機動きどうほうである機動きどうきゅうしき野砲やほう量産りょうさんすすめられている)。

機動きどうきゅうしき野砲やほう初陣ういじん1939ねん昭和しょうわ14ねん)のノモンハン事件じけんで、8もんようする独立どくりつ野砲やほうへいだい1連隊れんたい(1As)の2中隊ちゅうたいだい23師団しだん隷下れいかとして投入とうにゅうされた[23][7]ほんほう当初とうしょ安岡やすおか支隊したいじききょうすべく配備はいびされたが、7がつ1にちよりのりょうきし攻撃こうげきでは野砲やほうへいだい13連隊れんたい(13A)のだい2大隊だいたい交代こうたいさせられ、左岸さがん小林こばやしたいじききょうした[24]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)に太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)が勃発ぼっぱつすると、きゅうしき野砲やほう機動きどうきゅうしき野砲やほうもまた連合れんごうぐんとのたたかいに投入とうにゅうされた。1944ねん昭和しょうわ19ねん)のフィリピン防衛ぼうえいせんでは機動きどうきゅうしき野砲やほうようする戦車せんしゃだい2師団しだん(2TKD)隷下れいか機動きどう砲兵ほうへいだい2連隊れんたいの2中隊ちゅうたい投入とうにゅうされた。その硫黄いおうとうたたか戦車せんしゃだい26連隊れんたい(26TK、連隊れんたいちょう西にし竹一たけいち陸軍りくぐん中佐ちゅうさ)の8もん[25]沖縄おきなわせん戦車せんしゃだい27連隊れんたい (27TK) の4もんなどが使用しようされている。とく沖縄おきなわせんでは2もん機動きどうきゅうしき野砲やほう海岸かいがんほうとしてアメリカ海軍かいぐん艦艇かんてい砲撃ほうげきし、海岸かいがんせん防御ぼうぎょゆうどう砲兵ほうへいとしてたたかった[26]

生産せいさん

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大阪おおさか造兵ぞうへいしょうだいいち製作所せいさくしょが1942ねん(昭和しょうわ17ねん)10がつまつ調査ちょうさした火砲かほう製造せいぞう完成かんせいすうは、きゅうしき野砲やほう82もん[27]機動きどうきゅうしき野砲やほう274もん[28]であった。昭和しょうわ18ねん3がつまつ整備せいびじょうきょう調査ちょうさでは機動きどうきゅうしき野砲やほう昭和しょうわ17年度ねんどに110もん製造せいぞうしている[29]。また、戦略せんりゃくばくげき調査ちょうさだん要請ようせいにより作成さくせいされた兵器へいき生産せいさんじょうきょう調査ちょうさひょうによると、機動きどうきゅうしき野砲やほう大阪おおさか造兵ぞうへいしょうだいさん製作所せいさくしょにおいて昭和しょうわ18年度ねんどに50もん製造せいぞうしたとされる[30]そう生産せいさんすうについては、きゅうしき野砲やほうやく200もん機動きどうきゅうしき野砲やほうやく600もんとするせつ[7]がある。


現存げんそんほう

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中国ちゅうごく人民じんみん革命かくめい軍事ぐんじ博物館はくぶつかん機動きどうきゅうしき野砲やほうみぎはしみぎはしから3ZiS-3 76mm野砲やほう

機動きどうきゅうしき野砲やほうおも現存げんそんほうとしては、アメリカオクラホマしゅうフォート・シルのアメリカ陸軍りくぐん野戦やせん砲兵ほうへい博物館はくぶつかんほんこうじょう写真しゃしん)および、中国ちゅうごく北京ぺきん中国ちゅうごく人民じんみん革命かくめい軍事ぐんじ博物館はくぶつかんよんしきじゅうよんせんちめーとる榴弾りゅうだんほうきゅうしき野砲やほうなど大量たいりょう火砲かほうふく日本にっぽんぐん兵器へいきとともに)に、原型げんけいたもった比較的ひかくてき良好りょうこう状態じょうたい収蔵しゅうぞう展示てんじされている。

また戦車せんしゃほうとしては、ホニIしゃメリーランドしゅうアバディーンアメリカ陸軍りくぐん兵器へいき博物館はくぶつかんに、チヌしゃ茨城いばらきけん土浦つちうら陸上りくじょう自衛隊じえいたい武器ぶき学校がっこう収蔵しゅうぞう展示てんじされている。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽん兵器へいき工業こうぎょうへん陸戦りくせん兵器へいき総覧そうらん図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1977ねん
  • 竹内たけうちあきら佐山さやま二郎じろう日本にっぽん大砲たいほう出版しゅっぱん協同きょうどうしゃ、1986ねんISBN 4-87970-042-8
  • 佐山さやま二郎じろう大砲たいほう入門にゅうもん 陸軍りくぐん兵器へいき徹底てってい研究けんきゅう光人みつひとしゃ、1999ねんISBN 4-7698-2245-6
  • 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 歩兵ほへいほう たい戦車せんしゃほう ISBN 978-4-7698-2697-2 光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2011ねん
  • 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 野砲やほう 山砲さんぽう光人みつひとしゃ、2012ねん
  • 『GROUND POWER AUG.2008(No171)』 ガリレオ出版しゅっぱん、2008ねん
  • 「90しき野砲やほうと95しき野砲やほう」『砲兵ほうへい沿革えんかく だい3かん (兵器へいき器材きざい)』偕行社かいこうしゃ、1962ねん、7-11ぺーじNDLJP:9542019/19 

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ a b 竹内たけうちあきら佐山さやま二郎じろう日本にっぽん大砲たいほう』 p.45-47
  2. ^ 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 野砲やほう山砲さんぽう光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、201ページ。
  3. ^ 日本にっぽん兵器へいき工業こうぎょう へん陸戦りくせん兵器へいき総覧そうらん』 p.78。
  4. ^ 尖鋭せんえいだん使用しよう最大さいだい射程しゃてい13,890mとするせつもある。『GROUND POWER AUG.2008(No171)』 ガリレオ出版しゅっぱん、2008ねん、p.103。竹内たけうちあきら佐山さやま二郎じろう日本にっぽん大砲たいほう』 p.45とう文献ぶんけん参照さんしょう
  5. ^ 陸軍りくぐんしょう『1941ねん~1945ねん 地上ちじょう弾薬だんやく』アジア歴史れきし資料しりょうセンター、Ref.C14010826900
  6. ^ a b 日本にっぽん兵器へいき工業こうぎょう へん陸戦りくせん兵器へいき総覧そうらん』p.76。
  7. ^ a b c 佐山さやま二郎じろう大砲たいほう入門にゅうもん 陸軍りくぐん兵器へいき徹底てってい研究けんきゅう 』 p.296
  8. ^ 『GROUND POWER AUG.2008(No171)』 pp.98-100
  9. ^ 砲兵ほうへい沿革えんかく3 1962, p. 7.
  10. ^ a b 佐山さやま二郎じろう大砲たいほう入門にゅうもん 陸軍りくぐん兵器へいき徹底てってい研究けんきゅう 』 pp.287-288
  11. ^ 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん大砲たいほう』 p.176-177
  12. ^ 白井しらい明雄あきお日本にっぽん陸軍りくぐんせんくん」の研究けんきゅう』88ページ、276ページ。
  13. ^ 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 歩兵ほへいほう たい戦車せんしゃほう 」p489。
  14. ^ "Japanese Tank and AntiTank Warfare" http://usacac.army.mil/cac2/cgsc/carl/wwIIspec/number34.pdf
  15. ^ a b 砲兵ほうへい沿革えんかく3 1962, p. 9-10.
  16. ^ きゅうしき野砲やほう機動きどう台車だいしゃかり制式せいしき制定せいていけんアジア歴史れきし資料しりょうセンター、Ref:C01001356200
  17. ^ 『GROUND POWER AUG.2008(No171)』 pp.115-116
  18. ^ 機動きどうきゅうしき野砲やほう及同弾薬だんやくしゃかり制式せいしき制定せいていけん』アジア歴史れきし資料しりょうセンター、Ref:C01001405200
  19. ^ 機動きどうきゅうしき野砲やほうちゅう改正かいせいけんアジア歴史れきし資料しりょうセンター、Ref:C01001514600
  20. ^ 別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん 日本にっぽん陸軍りくぐん機械きかい部隊ぶたい総覧そうらん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1991ねん、p.218
  21. ^ きゅうしき野砲やほうさんはちしき野砲やほう交換こうかんけん』 アジア歴史れきし資料しりょうセンター、Ref:C01003629100
  22. ^ 佐山さやま二郎じろう大砲たいほう入門にゅうもん 陸軍りくぐん兵器へいき徹底てってい研究けんきゅう 』 p.147
  23. ^ 玉田たまだ美郎よしろう『ノモンハンの真相しんそう 戦車せんしゃ連隊れんたいちょう手記しゅき加登かとがわ幸太郎こうたろう へんはら書房しょぼう、2001ねんISBN 4-562-01182-3、pp.46-47
  24. ^ アルヴィン・D・クックス『ノモンハン―草原そうげんせん 1939 (うえ)(した)』岩崎いわさき俊夫としお吉本よしもと晋一郎しんいちろうやく朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
  25. ^ 『GROUND POWER MARCH 2001(No082)』 デルタ出版しゅっぱん、2001ねん、p.84
  26. ^ 『GROUND POWER APRIL 2001(No083)』、デルタ出版しゅっぱん、2001ねん、pp.9-10。
  27. ^ 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 野砲やほう 山砲さんぽう」p.201
  28. ^ 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 野砲やほう 山砲さんぽう」p.204
  29. ^ 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 野砲やほう 山砲さんぽう」p.204-205
  30. ^ 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 野砲やほう 山砲さんぽう」p.205

関連かんれん項目こうもく

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