一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとる速射そくしゃほう

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制式せいしきめい 一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう
砲身ほうしんちょう 2.526.5m(53.7口径こうけい
放列ほうれつ砲車ほうしゃ重量じゅうりょう 800kg
口径こうけい 47mm
初速しょそく 830m/びょう
最大さいだい射程しゃてい 6,900m
俯仰ふぎょうかく -11~+18
みず平射へいしゃかく 58
くすりしつ 自動じどう開閉かいへい水平すいへいくさりせんしき
こう座長ざちょう 470~500mm
使用しようだんしゅ とおるきのえだん
榴弾りゅうだん
使用しよう勢力せいりょく  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
生産せいさんすう やく2,300もん

一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう(いっしききどうよんじゅうななみりほう)は、1940ねん昭和しょうわ15ねん前後ぜんこう大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん開発かいはつ採用さいようした対戦たいせんしゃほうである。きゅうよんしきさんじゅうななみりめーとるほう後継こうけいたい戦車せんしゃほうとして、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう後期こうき使用しようされた。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐんでは対戦たいせんしゃほうのことを速射そくしゃほう通称つうしょうしていたので一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとる速射そくしゃほうともばれる。名前なまえの「機動きどう」はほんほう空気くうきしきのタイヤを装備そうびし、そのまま車両しゃりょう牽引けんいん高速こうそく移動いどうできることからきている。車輪しゃりんのタイヤがてつないしソリッドゴムせいである従来じゅうらい火砲かほうは、「機動きどう台車だいしゃ」とばれる空気くうきしきタイヤを装備そうびした台車だいしゃせないと、車両しゃりょう牽引けんいんによる高速こうそく移動いどうにはえられなかった。

概要がいよう[編集へんしゅう]

一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうきゅうよんしきさんじゅうななみりめーとるほう後継こうけいとして、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう後期こうきにおいて使用しようされた大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん主力しゅりょくたい戦車せんしゃほうである。初速しょそく精度せいどなど全般ぜんぱんてき性能せいのう列強れっきょう各国かっこくの45mmきゅうたい戦車せんしゃほう比較ひかくして遜色そんしょくのないものだったが、75mmきゅう以上いじょう主流しゅりゅうであった大戦たいせん後期こうき各国かっこくたい戦車せんしゃほうしてしょう口径こうけいぎるなど、威力いりょく不足ふそくからアメリカぐんだい世界せかい大戦たいせん中半なかば以降いこうから投入とうにゅうしたM4ちゅう戦車せんしゃ正面しょうめんから撃破げきはすることはむずかしく苦戦くせんいられた。

さらなる後継こうけいたい戦車せんしゃほうである試製しせい機動きどうじゅうななみりめーとるほう新規しんき採用さいようする装備そうびとして要求ようきゅうされる能力のうりょくたさないと判断はんだんされて開発かいはつ中止ちゅうしに、本命ほんめいである試製しせいななせんちめーとるはんたい戦車せんしゃほうIがたおよび、105mmだい口径こうけい試製しせいじゅうせんちめーとるたい戦車せんしゃほうともはしほう)は生産せいさんちゅう敗戦はいせんむかえたため、ほんほう事実じじつじょう最後さいご制式せいしきたい戦車せんしゃほうとなった。

生産せいさんりょく不足ふそくしていた日本にっぽんにおいては75mmきゅうだか初速しょそくほう生産せいさんがはかどらず、野砲やほう高射こうしゃほう需要じゅようこたえるのが精一杯せいいっぱいであった。そのため、これより攻撃こうげきりょくたかたい戦車せんしゃほう配備はいびおこなわれず、野砲やほうへい山砲さんぽうへい野砲やほうけい榴弾りゅうだんほうじゅう榴弾りゅうだんほう山砲さんぽう高射こうしゃ砲兵ほうへい高射こうしゃほう野戦やせん重砲じゅうほうへい重砲じゅうほうへいじゅう榴弾りゅうだんほうのう、また歩兵ほへいほうたいよん一式いっしき山砲さんぽう歩兵ほへいよう対戦たいせんしゃ戦闘せんとう転用てんようされたにとどまる。火砲かほうによる対戦たいせんしゃ能力のうりょく不足ふそくきゅうさんしき戦車せんしゃ地雷じらい九九式破甲爆雷梱包こんぽう爆薬ばくやくひとし使用しようした歩兵ほへい工兵こうへいによる対戦たいせんしゃにくせり攻撃こうげきにくおさむ)でおぎなわれるかたちとなり、歩兵ほへい損害そんがい増大ぞうだいすることとなった。

前史ぜんし[編集へんしゅう]

ハワイのアメリカ陸軍りくぐん博物館はくぶつかん展示てんじされる一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう。ゴムタイヤを保護ほごするため、ジャッキでささえられている。

1930年代ねんだいはつ中期ちゅうき開発かいはつ採用さいようされたきゅうよんしきさんじゅうななみりめーとるほう実質じっしつてき日本にっぽんはつ本格ほんかくてき対戦たいせんしゃほうであったが、装甲そうこう貫徹かんてつ能力のうりょくかんしてはやくから列強れっきょう各国かっこくの37mmきゅうたい戦車せんしゃほうくらべて威力いりょく不足ふそくであること指摘してきされていた。しかし、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)における国民こくみん革命かくめいぐんやゲリラ相手あいて戦闘せんとうでは深刻しんこく脅威きょうい遭遇そうぐうすることがかったため、より強力きょうりょく対戦たいせんしゃほう必要ひつようせいたいする認識にんしきうすかった。

とはいえ、陸軍りくぐんきゅうよんしきさんじゅうななみりめーとるほう貫徹かんてつりょく向上こうじょうさせるため薬莢やっきょう容積ようせきやした新型しんがたてっかぶとだん開発かいはつすすめるとともに、より口径こうけいおおきな対戦たいせんしゃほう開発かいはつすすめ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)に試製しせいきゅうななしきよんじゅうななみりめーとるほう試作しさくはじめた。これは口径こうけい47mm、砲身ほうしんちょう2515mm、初速しょそく730m/s、放列ほうれつ重量じゅうりょう567kgというものであった。1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつ試作しさく完成かんせい、10月に人力じんりき輓馬ばんばによる牽引けんいん試験しけん、11月に弾道だんどう試験しけんなど各種かくしゅ審査しんさ実施じっしされ、1939ねん昭和しょうわ14ねん)3がつには輓馬ばんば牽引けんいんから機械きかい牽引けんいん設計せっけい変更へんこう、10月実用じつよう試験しけんおこな機械きかい牽引けんいん資料しりょう次期じき速射そくしゃほう設計せっけい基礎きそとなった。

このようななか1939ねん昭和しょうわ14ねん)にノモンハン事件じけん勃発ぼっぱつした。当時とうじソ連それん赤軍せきぐん投入とうにゅうしたBT戦車せんしゃT-26けい戦車せんしゃ装甲そうこううすく、きゅうよんしきさんじゅうななみりめーとるほうでも十分じゅうぶん貫通かんつうすることができた。このことは日本にっぽんがわ資料しりょう戦史せんし叢書そうしょひとし)だけではなく、ソ連それんがわ資料しりょうソ連それん崩壊ほうかい情報じょうほう公開こうかいされた)[1]からも確認かくにんでき、ソ連それんぐん戦車せんしゃ損害そんがいほとんどは対戦たいせんしゃほうによるものと認識にんしきされていた。それにたいして、歩兵ほへい火炎瓶かえんびんなどをもちいておこな肉薄にくはく攻撃こうげきは、陣形じんけいんで機動きどうする戦車せんしゃたいして実行じっこうするのがむずかしく、たい戦車せんしゃほう擱座かくざした戦車せんしゃめをかたち多用たようされた。

開発かいはつ[編集へんしゅう]

ノモンハン事件じけんけて新型しんがたたい戦車せんしゃほう必要ひつようせいをある程度ていど認識にんしきした陸軍りくぐんは、前述ぜんじゅつ試製しせいきゅうななしきよんじゅうななみりめーとるほうもと開発かいはつすすめることとして1939ねん9がつ設計せっけい開始かいしし、1941ねん昭和しょうわ16ねん)7がつ応急おうきゅう整備せいび着手ちゃくしゅ準備じゅんび施行しこうして(試製しせい一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう)、1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ制式せいしき上申じょうしんとなった。なお、制式せいしき名称めいしょうたん一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうであり、「速射そくしゃほう」のかたりふくまない。

ほんほう最大さいだい特徴とくちょうは、これまでのきゅうよんしき試製しせいきゅうななしき輓馬ばんば牽引けんいんだったのにたい[2]自動車じどうしゃ牽引けんいん前提ぜんていにしていることである。名称めいしょうの「機動きどう」とは、金属きんぞくせい木製もくせい車輪しゃりんではなくゴムタイヤ(パンクレスタイヤ)およびサスペンションを装備そうびすることで、牽引けんいんしゃ装甲そうこう運搬うんぱんしゃきゅうはちしき装甲そうこう運搬うんぱんしゃ)・自動じどう貨車かしゃきゅうよんしきろくりん自動じどう貨車かしゃひとし)による高速こうそく牽引けんいん可能かのう火砲かほう意味いみする。なお、ほんほう以外いがいに「機動きどう」の名称めいしょうかん機械きかい牽引けんいん目的もくてきとした帝国ていこく陸軍りくぐん火砲かほうとしては、機動きどうきゅうしき野砲やほう機動きどうきゅう一式いっしきじゅうせんちめーとる榴弾りゅうだんほうなどが存在そんざいする。

きゅうよんしき同様どうよう榴弾りゅうだん配備はいびされ、装甲そうこう目標もくひょうたいして攻撃こうげきすることもできた。

派生はせいがた[編集へんしゅう]

一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほう搭載とうさいしたきゅうななしきちゅう戦車せんしゃしん砲塔ほうとう

一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほう[編集へんしゅう]

きゅうななしきちゅう戦車せんしゃあらため一式いっしきちゅう戦車せんしゃ搭載とうさいされた一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほうほんほうどう時期じき開発かいはつされた戦車せんしゃほうであり、おな弾薬だんやくとう使用しようした。こまかな要目ようもくには相違そういがあり、砲身ほうしん若干じゃっかんみじかく、砲身ほうしん座長ざちょうみじかくまとめられている。

  • 一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほう
砲身ほうしんちょう2284.5mm(48.6口径こうけい)、初速しょそく818m/びょう標準ひょうじゅん退却たいきゃくちょう砲身ほうしん座長ざちょう)280~300mm[3]

試製しせい機動きどうじゅうななみりめーとるほう[編集へんしゅう]

試製しせい機動きどうじゅうななみりめーとるほう

試製しせい機動きどうじゅうななみりめーとるほう一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう拡大かくだいばんともいえるもので、1941ねん3がつ開発かいはつはじまり、試作しさくさいしてちゅう退すさなど一部いちぶ部品ぶひん一式いっしきのものが流用りゅうようされた。開戦かいせんにより開発かいはつ遅延ちえんしたものの1942ねん7がつ試作しさくほう完成かんせい試験しけん開始かいしされ、1943ねん昭和しょうわ18ねん)2がつには射撃しゃげき試験しけん実施じっしされた。しかしながら、重量じゅうりょうわりには威力いりょくひくいとされ、また連合れんごうぐんじゅう装甲そうこう新型しんがた戦車せんしゃ次々つぎつぎ出現しゅつげんしたことから1943ねん6がつ開発かいはつ中止ちゅうしされ採用さいようされることはかった。

  • 試製しせい機動きどうじゅうななみりめーとるほう
砲身ほうしんちょう3,255mm(57口径こうけい)、初速しょそく870m/びょう最大さいだい射程しゃてい8,000m、重量じゅうりょう1,080kg(牽引けんいん重量じゅうりょう1,540kg)

実戦じっせん[編集へんしゅう]

沖縄おきなわせん安里あさと高地こうち(シュガーローフ・ヒル)に配置はいちされた一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうぼうたてかけ)。がわ背面はいめん暴露ばくろして擱座かくざしているのはM4ちゅう戦車せんしゃとLVT

一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう実戦じっせん投入とうにゅう太平洋戦争たいへいようせんそう中期ちゅうき以降いこう開始かいしされ、おも独立どくりつ称呼しょうこかんするぐん直属ちょくぞく部隊ぶたいである独立どくりつ速射そくしゃほう大隊だいたい配備はいびされた。1ヶ大隊だいたい大隊だいたい本部ほんぶだんれつ、3ヶ中隊ちゅうたいからり、かく中隊ちゅうたいには4から6もん配備はいびされた。なお、一部いちぶ部隊ぶたいほんほう配備はいびおくれによりきゅうよんしきさんじゅうななみりめーとるほう併用へいようしていた。

インパール作戦さくせんにおけるビシェンプール攻防こうぼうせんで、だい213連隊れんたいだい2大隊だいたい配備はいびされていた3もんほんほう活躍かつやくせている。1944ねん4がつ20日はつかから25にちにかけてビシェンプール西方せいほうのニントウコン集落しゅうらくめこんだ日本にっぽんぐんたいして、だい20インド歩兵ほへい師団しだん英語えいごばんはんげきおこなったが、10すうりょうM3ちゅう戦車せんしゃ支援しえんきであった。そこで3もんほんほう正確せいかく砲撃ほうげき次々つぎつぎ命中めいちゅうだんびせ、たちまち5りょうのM3ちゅう戦車せんしゃ撃破げきはもしくは擱座かくざさせている。しかし、その損害そんがいりた戦車せんしゃたい距離きょりをとって戦車せんしゃほうをつるべちし、また野砲やほうによる支援しえんほうげきもあって、ほんほうは3もんとも撃破げきはされてしまった。戦闘せんとうはそのつづいたが、速射そくしゃほううしなっただい2大隊だいたい擲弾筒てきだんとう手榴弾しゅりゅうだん対抗たいこうし、ついにはイギリスぐん反撃はんげき撃退げきたいしている[4]

ルソンのたたかでも活躍かつやくし、アメリカぐん戦闘せんとう報告ほうこくによれば、「ほんほうはM4ちゅう戦車せんしゃたい至近しきん距離きょり効果こうかあり、がわ背面はいめんかんしてはいかなる部位ぶい貫通つらぬきとおす」と記述きじゅつされている(具体ぐたいてき距離きょり不明ふめい)[5]

硫黄いおうとうたたかではトーチカなどに配置はいちされたほんほうがあらゆる局面きょくめんでアメリカぐんくるしめている。1945ねん2がつ19にち硫黄いおうとうアメリカ海兵かいへいたい上陸じょうりくした上陸じょうりく真正面ましょうめんにぶつかった速射そくしゃほうだい8大隊だいたいは、アムトラック海岸かいがん到達とうたつするやほんほう砲撃ほうげき開始かいしし、どう大隊だいたいだい2中隊ちゅうたい中隊ちゅうたいちょう中村なかむら貞雄さだお少尉しょうい砲撃ほうげき技術ぎじゅつ神業かみわざちかく、「はつたま悉ク必殺ひっさつ命中めいちゅう射撃しゃげき」で[6]次々つぎつぎとアムトラックに命中めいちゅうだんあたえ、じつに20りょうのアムトラックを撃破げきはし、戦車せんしゃ揚陸ようりくするため海岸かいがん接岸せつがんしたLCT を3せき撃破げきはした[7]。その上陸じょうりく地点ちてん足場あしばかためようと上陸じょうりくしてきたブルドーザー1りょう撃破げきはしたが、アメリカぐん集中しゅうちゅう砲火ほうかびトーチカが撃破げきはされて中村なかむら戦死せんしした。司令しれいかん栗林くりばやしただしどう中将ちゅうじょう中村なかむら活躍かつやくくと「武功ぶこう抜群ばつぐんニシテかつ皇軍こうぐん速射そくしゃほう部隊ぶたい真髄しんずい発揮はっきシタ」とぜんぐん布告ふこくかいきゅう特進とくしん申請しんせいおこない、その活躍かつやく昭和しょうわ天皇てんのう上聞じょうぶんにもたっした[8]

苦戦くせんしたアメリカ海兵かいへいたいLSM-1きゅう中型ちゅうがた揚陸ようりくかんでM4ちゅう戦車せんしゃ海岸かいがん揚陸ようりくさせようとこころみたが、砂浜すなはま角度かくどきゅう揚陸ようりく手間取てまどり、またようやく上陸じょうりくできたM4戦車せんしゃ硫黄いおうとう特有とくゆうやわらかい砂地すなじによって移動いどうもままならず、なかにはキャタピラすなまってスタックして後続こうぞく上陸じょうりく妨害ぼうがいしてしまうM4戦車せんしゃもあった。ようやく前進ぜんしんできても海岸かいがん多数たすう埋設まいせつされている対戦たいせんしゃ地雷じらい擱座かくざし、その混乱こんらんのさなかにほんほう正確せいかく射撃しゃげきびせ、だい1上陸じょうりくしたM4戦車せんしゃ56りょうのうち28りょう撃破げきはされた。この戦車せんしゃだい損害そんがいてアメリカ海兵かいへいたい公式こうしき報告ほうこくしょで「Dデイ(上陸じょうりく)における海兵かいへいたいのM4ちゅう戦車せんしゃ地獄じごくあじわった」とひょうしている[9]。その元山もとやま飛行場ひこうじょう攻防こうぼうせんで、ほんほうふくめた日本にっぽんぐん攻撃こうげきで33りょうのM4ちゅう戦車せんしゃ撃破げきはされるなど[10]硫黄いおうとうたたかいにおけるM4ちゅう戦車せんしゃ損失そんしつは137りょうにものぼった[11]

沖縄おきなわせんける嘉数かかずたたか独立どくりつ速射そくしゃほうだい22大隊だいたいは、1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ5-7にちにかけてはち高地こうち付近ふきん真正面ましょうめんからアメリカぐんのM4ちゅう戦車せんしゃむかった結果けっか、5りょう撃破げきはするも12もんちゅう10もんほううしなってしまった。そのため大隊だいたいちょう武田たけだ少尉しょうい残存ざんそん2もん道路どうろはさんで配置はいちし、ほうこう嘉数かかずけた。これは嘉数かかずかうてき戦車せんしゃうしろからつためであり、ほう貫徹かんてつ力不足ちからぶそくから苦肉くにくさくであった。また戦車せんしゃちかづくと恐怖きょうふのためはやちする傾向けいこうにあるため2つの陣地じんち有線ゆうせん電話でんわむすび、隊長たいちょう指示しじ発砲はっぽうすることにした。さらに独立どくりつ歩兵ほへいだい272大隊だいたいは、てき随伴ずいはん歩兵ほへいちかづけさせないことを徹底てっていさせた。このさく成功せいこうし、4がつ19にち午前ごぜんちゅうのいわゆる嘉数かかずたい戦車せんしゃせんにおいて、日本にっぽんがわどくそく22だい一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうのほか、独歩どっぽ272だい肉薄にくはく攻撃こうげき高射こうしゃほうよん一式いっしき山砲さんぽう連隊れんたいほう)、きゅうさんしき戦車せんしゃ地雷じらいなどで米国べいこくぐんだい193戦車せんしゃ大隊だいたいA中隊ちゅうたいの30りょう以上いじょうのM4ちゅう戦車せんしゃむかち、22りょう(うち火炎かえん放射ほうしゃがた4りょう)を撃破げきはした。同年どうねん5がつおこなわれたシュガーローフのたたかにおいても独立どくりつ速射そくしゃほうだい7大隊だいたいとうがM4ちゅう戦車せんしゃ装甲車そうこうしゃ(LVT)を多数たすう撃破げきは沖縄おきなわせん終結しゅうけつまでに、アメリカぐん戦車せんしゃ272りょう(陸軍りくぐん221りょう[12]海兵かいへいたい51りょう[13])をうしなった。

また、沖縄おきなわ攻略こうりゃく部隊ぶたいだい10ぐん最高さいこう司令しれいかん サイモン・B・バックナー中将ちゅうじょう戦死せんしさせたのもほんほうであるとされる。アメリカぐん海兵かいへいたい公式こうしき戦史せんし『History of U.S. Marine Corps Operations in World War II Volume V: Victory and Occupation』の記述きじゅつによれば、珊瑚さんごがんあいだ前線ぜんせん視察しさつしていたバックナーにかって合計ごうけい6はつほんほう砲弾ほうだん発射はっしゃされて、はつたま砲弾ほうだん破片はへんもしくは砲弾ほうだん命中めいちゅうげられた珊瑚さんごがん欠片かけらがバックナーのむね命中めいちゅうし、もなく大量たいりょう出血しゅっけつにより戦死せんしした。とされている[14]。しかし、バックナーをたおした砲弾ほうだんきゅうろくしきじゅうせんちめーとる榴弾りゅうだんほうから発射はっしゃされたものという証言しょうげんもある[15]

貫徹かんてつ能力のうりょく[編集へんしゅう]

アメリカぐん資料しりょう掲載けいさいされた榴弾りゅうだんひだり)とてっかぶとだんみぎとおるかぶと榴弾りゅうだん分類ぶんるいされている)

装甲そうこう貫徹かんてつ能力のうりょく数値すうち射撃しゃげき対象たいしょう装甲そうこうばん実施じっしした年代ねんだいなど試験しけん条件じょうけんによりことなる。

上申じょうしんさい資料しりょう(1942ねん5がつ)によれば、一式いっしきてっかぶとだんとおるかぶと榴弾りゅうだん相当そうとう)を使用しようした場合ばあいたまかく90以下いか装甲そうこうばん貫通かんつう出来できた。

  • 1,500mで45mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/20mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 1,000mで50mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/30mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 500mで65mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/40mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 200mで65mm[16]だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/50mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん

試製しせいてっかぶとだんであるタングステンこうのみがただん後述こうじゅつする「とくかぶとだんもとになったとおもわれる試製しせいてっかぶとだん)を使用しようした場合ばあいたまかく90以下いか装甲そうこうばん貫徹かんてつ出来でき[17]

  • 1,500mで45mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/25mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 1,000mで55mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/30mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 500mで70mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/45mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 200mで80mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/55mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん

べつの1942ねん5がつ資料しりょうによれば、試製しせいよんじゅうななみりめーとるほう鋼板こうはん貫通かんつうあつについて以下いかのようになっている。

試製しせいてっかぶとだんであるタングステンこうのみがただん使用しようした場合ばあい以下いか装甲そうこうばん貫通かんつうするとしている[18]

  • 1,500mで45mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/23mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 1,000mで56mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/31mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 500mで70mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/45mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 200mで79mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/55mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 0mでやく85mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/やく65mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん) となっている[19]

試製しせいてっかぶとだんである弾丸だんがんこうだい一種丙製蚤形徹甲弾(一式いっしきてっかぶとだん相当そうとう)を使用しようした場合ばあい以下いか装甲そうこうばん貫通かんつうするとしている[18]

  • 1,500mで43mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/20mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 1,000mで52mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/28mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 500mで65mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/39mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 200mで72mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/48mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん

弾丸だんがんこうだい一種丙製蚤形徹甲弾のぬき鋼板こうはんあつ以下いかのようになっている[20]

  • 1,000mで62mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/37mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 500mで76mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/52mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん
  • 200mで85mm(だい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん)/62mm(だいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん

1945ねん8がつのアメリカ陸軍りくぐんしょう情報じょうほう資料しりょうによれば一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう装甲そうこう貫通かんつうについては以下いかのように記載きさいされている。

一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう装甲そうこう貫通かんつう(一式いっしきAP-HE) [21]
射距離しゃきょり 垂直すいちょくした装甲そうこうばんたいする貫通かんつう 垂直すいちょくから30傾斜けいしゃした装甲そうこうばんたいする貫通かんつう
250yd(やく228.6m) 3.0in(やく76mm)   2.25in(やく57mm)
500yd(やく457.2m) 2.75in(やく70mm)   2.0in(やく51mm)
1,000yd(やく914.4m) 2.0in(やく51mm) 1.4in(やく36mm)
1,500yd(やく1371.6m) 1.6in(やく41mm) 1.2in(やく30mm)

なおどう情報じょうほう資料しりょうでは、貫通かんつう威力いりょく近似きんじするとおもわれる(弾薬だんやくとう共用きょうようであり初速しょそくやく20m/びょう程度ていど鹵獲ろかくされた一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほう射撃しゃげき試験しけんにおいて射距離しゃきょり500yd(やく457.2m)において3.25in(やく82mm)の垂直すいちょく装甲そうこう貫通かんつうした事例じれい記載きさいされている[22]

また1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつ発行はっこうされたアメリカぐん情報じょうほう報告ほうこくしょには、一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほうによりM4A3の装甲そうこう射距離しゃきょり500yd(やく457.2m)以上いじょうから貫通かんつうすることが可能かのう貫通かんつう可能かのう装甲そうこう箇所かしょ記述きじゅつされておらず不明ふめい)と記述きじゅつされ、実戦じっせんでは一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほうによるやく30角度かくどからの射撃しゃげき射距離しゃきょり150~200yd:やく137.1~182.8m)によりM4ちゅう戦車せんしゃ装甲そうこうは6はつちゅう5はつ貫通かんつう命中めいちゅう箇所かしょ不明ふめい)したとの報告ほうこく記述きじゅつがある。またどう報告ほうこくしょには、最近さいきん戦闘せんとう報告ほうこくから47mm砲弾ほうだん品質ひんしつ以前いぜんより改善かいぜんされたことをしめしている、との記述きじゅつがある[23]

1945ねん3がつアメリカ陸軍りくぐん武器ぶき情報じょうほう資料しりょうによれば、ほんほう貫通かんつう威力いりょく近似きんじするとおもわれる一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほう射距離しゃきょり500ヤード(やく457.2m)において、垂直すいちょくした圧延あつえん装甲そうこう2.7インチ(やく69mm)貫通かんつう垂直すいちょくから30傾斜けいしゃした圧延あつえん装甲そうこう2.2インチ(やく56mm)貫通かんつう記載きさいされており、一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうは、射距離しゃきょり1050ヤード(やく960.1m)において、垂直すいちょくした圧延あつえん装甲そうこう2.5インチ(やく63.5mm)を貫通かんつうすると記載きさいされている[24]

1945ねん12月のアメリカ陸軍りくぐんだい6ぐん情報じょうほう資料しりょうによれば、一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう至近しきん距離きょり射撃しゃげき試験しけんにおいて、装甲そうこうたいして垂直すいちょく命中めいちゅうした場合ばあい、4.5インチ(やく114.3mm)貫通かんつうした事例じれいがあったとしている(射撃しゃげき対象たいしょう装甲そうこうばん種類しゅるいてっかぶとだんたましゅ記載きさいされず不明ふめい[25]

陸上りくじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこう戦史せんし教官きょうかんしつ所蔵しょぞう資料しりょうである近衛このえだい3師団しだん調整ちょうせい資料しりょう現有げんゆう対戦たいせんしゃ兵器へいき資材しざい効力こうりょくがいひょう」によるとよんななTA(47mm速射そくしゃほう)のてっかぶとだんは、射距離しゃきょり500m/貫通かんつう鋼板こうはんあつ75mmとなっており(射撃しゃげき対象たいしょう防弾ぼうだん鋼板こうはん種類しゅるいてっかぶとだんたましゅ記載きさいされず不明ふめい)、M4ちゅう戦車せんしゃ車体しゃたい側面そくめん射距離しゃきょり1500m、砲塔ほうとう側面そくめん射距離しゃきょり800m、車体しゃたい前面ぜんめん射距離しゃきょり400mで貫通かんつう、となっている[26]

また、1944~1945ねん調製ちょうせいおもわれる陸軍りくぐんだい学校がっこう研究けんきゅう資料しりょうによると、「1しき47みりめーとる速射そくしゃほう(原文げんぶんそのまま)」は、1しゅ射距離しゃきょり300m/貫通かんつう威力いりょく84mm、1しゅ射距離しゃきょり400m/貫通かんつう威力いりょく81mm、1しゅ射距離しゃきょり500m/貫通かんつう威力いりょく78mm。2しゅ射距離しゃきょり300m/貫通かんつう威力いりょく57mm、2しゅ射距離しゃきょり400m/貫通かんつう威力いりょく54mm、2しゅ射距離しゃきょり500m/貫通かんつう威力いりょく51mm、となっている[27]

一式いっしき47mmほう[28]によるM4A3ちゅう戦車せんしゃ車体しゃたい側面そくめん貫通かんつうあな

日本にっぽんがわ射撃しゃげき試験しけんでは開戦かいせん以来いらい苦戦くせんしていたM3けい戦車せんしゃ前面ぜんめん装甲そうこうを1,000mの距離きょり貫徹かんてつし、おおいに士気しきがったという。ただしほんほう前線ぜんせんとどころには新鋭しんえいのM4ちゅう戦車せんしゃ投入とうにゅうされており、このあらたなてき苦戦くせんすることとなった(一説いっせつによると、アメリカぐんどうほう存在そんざいによってM3けい戦車せんしゃ戦線せんせん投入とうにゅうするのは無駄むだ損失そんしつやすだけと判断はんだんし、M4ちゅう戦車せんしゃ配備はいびいそいだという)。しかし一方いっぽう日本にっぽんぐん対戦たいせんしゃほう速射そくしゃほう)を徹底的てっていてき偽装ぎそうした半地はんじ陣地じんち洞窟どうくつかくし、せててき戦車せんしゃ側面そくめんねらつなど弱点じゃくてん射撃しゃげきてっしたため、上記じょうきのように意外いがいおおくのM4ちゅう戦車せんしゃうしなわれている。タラワのたたか以来いらい日本にっぽんぐんたい戦車せんしゃほう肉薄にくはく攻撃こうげきにさらされつづけた海兵かいへいたいのM4ちゅう戦車せんしゃは、硫黄いおうとうたたか沖縄おきなわせんころにはくつたい砲塔ほうとうけたり、車体しゃたい側面そくめん磁気じき吸着きゅうちゃく地雷じらいけの板材いたざいや、車体しゃたいとのあいだにコンクリートをながんで増加ぞうか装甲そうこうにするひとし防御ぼうぎょりょく強化きょうか対策たいさくをとっていた。反面はんめんフィリピンのたたかから本格ほんかくてき投入とうにゅうされた陸軍りくぐんのM4ちゅう戦車せんしゃではこういった対策たいさく不十分ふじゅうぶんで、上記じょうきのような損害そんがいすこととなった。

なお、ほんほうかぎらず日本にっぽん陸軍りくぐんたい戦車せんしゃほう戦車せんしゃほう全般ぜんぱんたいし、貫徹かんてつ能力のうりょくひくさについて「当時とうじ日本にっぽん冶金やきん技術ぎじゅつひくさゆえに弾頭だんとう強度きょうどひくてっかぶとだん貫徹かんてつ能力のうりょくおとっていた」との指摘してきがある。弾頭だんとう強度きょうどひくかったのは事実じじつであるが、きゅうしきせんちめーとるなな戦車せんしゃほうきゅうななしきせんちめーとるなな戦車せんしゃほうきゅうしきとおるかぶとだんや、きゅうよんしきさんじゅうななみりめーとるほうきゅうよんしきとおるかぶとだんなど、これらにおも使用しようされたとおるかぶとだん場合ばあいは、たまからうすくし、内部ないぶ比較的ひかくてき大量たいりょう炸薬さくやくゆうするとおるかぶと榴弾りゅうだん(AP-HE)であり、あつ装甲そうこうばんたいしては構造こうぞうてき強度きょうど不足ふそくしょうじていたことが原因げんいんとしてげられる[29]。とはいえ、これらも制式せいしき制定せいてい当時とうじ想定そうていてき目標もくひょう)にたいしては充分じゅうぶん貫通かんつう性能せいのうっていた。のち開発かいはつされた一式いっしきてっかぶとだんでは貫徹かんてつりょく改善かいぜんのためにたまからあつくなっている。

ほんほうなどで主用しゅようされた一式いっしきてっかぶとだんにおける貫徹かんてつ性能せいのう不足ふそく主因しゅいん弾頭だんとう使用しようしているはがね金属きんぞく成分せいぶんにあった。いちれいとして日本にっぽん陸軍りくぐん一般いっぱんてきてっかぶとだんはほとんどクロム含有がんゆうしていない弾丸だんがんこう製造せいぞうされている(0.006-0.015%、ドイツとアメリカのてっかぶとだんは1%クロームこうであった[30])。弾丸だんがんこう製造せいぞうされた弾頭だんとうきむただししょ外国がいこくせいてっかぶとだんたいしておとることは陸軍りくぐんでも把握はあくしており[31]同時どうじ試験しけんようにW-Crこう(タングステンクロームこう)で作成さくせいされた弾丸だんがんきむただしおよ貫徹かんてつりょくにおいて他国たこくせい弾丸だんがん同等どうとう判断はんだんされている[32]

一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうようのW-Crこうせいてっかぶとだんは「とくかぶと」と呼称こしょうされ、大戦たいせん後半こうはん少数しょうすう製造せいぞうされた[33]。なお、ニッケルクロームこうせい弾丸だんがんを「とくおつ」とんだが、こちらは実際じっさい製造せいぞうされたかどうか不明ふめいである[34]。なお、一式いっしきてっかぶとだんより新型しんがたであるよんしきとおるかぶとだんは、終戦しゅうせん完成かんせいひんやく5,000はつ半途はんとひんやく30,000はつ存在そんざいしていた[33]

結果けっかとして、日本にっぽん陸軍りくぐんたい戦車せんしゃほうは、実戦じっせんにおいて弾頭だんとう強度きょうどおと弾丸だんがんこうせいてっかぶとだん主用しゅようすることとなり、他国たこく同種どうしゅほうよりも貫徹かんてつ性能せいのうにおいてややおとることとなった。

ほんほう実用じつよう発射はっしゃ速度そくど移動いどう目標もくひょうたいし1ふん10はつ内外ないがいであった。

現存げんそんほう[編集へんしゅう]

主力しゅりょくたい戦車せんしゃほうであったため、比較的ひかくてき多数たすう現存げんそんしており各地かくち軍事ぐんじ博物館はくぶつかん基地きちとう収蔵しゅうぞう展示てんじされている。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

漫画まんが[編集へんしゅう]

独立どくりつ戦車せんしゃたい
べに墓標ぼひょう」にて日本にっぽんぐんたい戦車せんしゃほうとして1もん登場とうじょうする。作中さくちゅうでは固守こしゅ命令めいれいけて街道かいどう沿いのパゴダ布陣ふじんし、歩兵ほへいともなって攻撃こうげきしてくるイギリスぐんM4ちゅう戦車せんしゃ相手あいて近距離きんきょりから射撃しゃげきおこなってりょう撃破げきはするが、りょう相討あいうちになるかたち破壊はかいされ、ほういんたちも死傷ししょうする。

ゲーム[編集へんしゅう]

R.U.S.E.
日本にっぽんぐんたい戦車せんしゃほうとして登場とうじょう
コール オブ デューティ ワールド・アット・ウォー
日本にっぽんぐんたい戦車せんしゃほうとして、一部いちぶマップにいてある。

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 邦訳ほうやくではマクシム・コロミーエツちょ「ノモンハン戦車せんしゃせん」などでうかがいることができる
  2. ^ それまでの火砲かほうおも軍馬ぐんば牽引けんいん輓馬ばんば)していた(じゅう榴弾りゅうだんほうのうといった重砲じゅうほうのぞく。重砲じゅうほう比較的ひかくてきはやくから機械きかいされていた)。
  3. ^ 陸戦りくせん兵器へいき要目ようもくひょう館山たてやま海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう研究所けんきゅうじょ、66ぺーじ。なお「試製しせい一式いっしきよんじゅうななみりめーとるほう研究けんきゅう報告ほうこく」によれば、一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうのち座長ざちょうは475~500mmである。
  4. ^ 久山ひさやましのぶ 2018, p. 122
  5. ^ 白井しらい明雄あきお日本にっぽん陸軍りくぐんせんくん」の研究けんきゅう芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、91ぺーじ
  6. ^ 小谷おたに秀二しゅうじろう 1978, p. 111
  7. ^ 佐藤さとう和正かずまさ 2004, p. 237
  8. ^ 小谷おたに秀二しゅうじろう 1978, p. 112
  9. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021ねん11月25にち閲覧えつらん
  10. ^ 証言しょうげん 硫黄いおうとうたたか
  11. ^ Coox & Naisawald 1954, Table 1.
  12. ^ 米国べいこく陸軍りくぐんしょう(1997ねん、420ぺーじ
  13. ^ Alexander (1996) , p. 34.
  14. ^ History of the US Marine Corps in WWII Vol V - Victory , p. 353.
  15. ^ 沖縄おきなわかよつづ慰霊いれいおさむこつつづける/もと砲撃ほうげき隊長たいちょう石原いしはらさん(東京とうきょう在住ざいじゅう)”. 2002ねん6がつ18にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん6がつ17にち閲覧えつらん
  16. ^ どう条件じょうけんだいしゅたいしてはおかせてっちょうびていることやどう時期じきべつ資料しりょう(下記かき)ではどういち距離きょりで72mm貫通かんつうとなっておりもと資料しりょう誤記ごき可能かのうせいもある
  17. ^ 試製しせい一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう研究けんきゅう報告ほうこく」による
  18. ^ a b だい1かい陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究けんきゅうかい兵器へいき分科ぶんか講演こうえん記録きろくだい1かん)」24ぺーじ
  19. ^ だい1かい陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究けんきゅうかい兵器へいき分科ぶんか講演こうえん記録きろくだい1かん)」 附図ふずだいなな貫通かんつう曲線きょくせんより。
  20. ^ だい1かい陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究けんきゅうかい兵器へいき分科ぶんか講演こうえん記録きろくだい1かん)」22ぺーじ
  21. ^ "Japanese Tank and AntiTank Warfare"の記載きさいしょもとより
  22. ^ "Japanese Tank and AntiTank Warfare" http://usacac.army.mil/cac2/cgsc/carl/wwIIspec/number34.pdf
  23. ^ 「"The Most Effective Jap Tank" from Intelligence Bulletin, July 1945」 http://www.lonesentry.com/articles/jp_type97_tank/index.html
  24. ^ Catalog Of Enemy Ordnance Materiel - U.S. Army Office Chief of Ordnance, 1 March, 1945 https://archive.org/details/CatalogOfEnemyOrdnanceMateriel/page/n0/?view=theater
  25. ^ 『Enemy on Luzon: An Intelligence Summary』 p194, U.S. Sixth Army, 1 December 1945 - Part1: http://cgsc.cdmhost.com/utils/getdownloaditem/collection/p4013coll8/id/3185/filename/3199.pdf/mapsto/pdf Part2: http://cgsc.cdmhost.com/utils/getdownloaditem/collection/p4013coll8/id/3186/filename/3200.pdf/mapsto/pdf - U.S. Army Command and General Staff College (CGSC), Combined Arms Research Library (CARL) Digital Library.
  26. ^ 白井しらい明雄あきお日本にっぽん陸軍りくぐんせんくん」の研究けんきゅう』 94ぺーじ、107ぺーじ
  27. ^ 陸戦りくせん学会がっかい近代きんだい戦争せんそう概説がいせつ 資料集しりょうしゅう」 p93。 とおるかぶとだんたましゅ記載きさいされず不明ふめい射撃しゃげき対象たいしょう防弾ぼうだん鋼板こうはんは、陸軍りくぐんほか対戦たいせんしゃ火砲かほう試験しけん資料しりょう表記ひょうきしたがえば、「1しゅ」はだい一種いっしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはん、「2しゅ」はだいしゅ防弾ぼうだん鋼板こうはんのことをすとおもわれる。また、「近代きんだい戦争せんそう概説がいせつ 資料集しりょうしゅう」 p92のべつ資料しりょう記述きじゅつから、「1しゅ」は弾頭だんとうぼうのある試製しせいAPCであり、「2しゅ」は通常つうじょう弾頭だんとうのAPであるとして、「1しゅ・2しゅ」はてっかぶとだんたましゅす、とする推測すいそくもある。
  28. ^ 一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほうもしくは一式いっしきよんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほうのどちらの射撃しゃげきによるものなのかは画像がぞう出典しゅってんには記載きさいされず不明ふめい
  29. ^ だい1かい陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究けんきゅうかい兵器へいき分科ぶんか講演こうえん記録きろくだい1かん)」21ぺーじ
  30. ^ 「グランドパワー2010ねん12がつごうだい33かんだい12ごう、ガリレオ出版しゅっぱん、30ぺーじ
  31. ^ だい1かい陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究けんきゅうかい兵器へいき分科ぶんか講演こうえん記録きろくだい1かん)」23ぺーじでは、弾丸だんがんみちの1/2以上いじょうあつばんたいしてはそく着弾ちゃくだん速度そくど換算かんさんやく1わりおとると見積みつもられている。
  32. ^ だい1かい陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究けんきゅうかい兵器へいき分科ぶんか講演こうえん記録きろく(だい1かん)」23ぺーじでは押収おうしゅうされたしき37mmたい戦車せんしゃほうの1937ねんせい弾丸だんがんおおむ同等どうとうとされており、どう資料しりょうにおいては「タングステンだん他国たこく同種どうしゅ弾丸だんがん同等どうとうのものとして各種かくしゅ計算けいさんおこなっている。
  33. ^ a b 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 歩兵ほへいほう たい戦車せんしゃほう 」169ぺーじ
  34. ^ 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 歩兵ほへいほう たい戦車せんしゃほう 」169ぺーじ。ニッケルクロームこうせい弾丸だんがんとくおつ呼称こしょうするむね記載きさいされているが、とくかぶと製造せいぞう配備はいびされたとべられているのにたいして、とくおつについて製造せいぞうされたかどうかの言及げんきゅうはない。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 松井まついふみまもる帝国ていこく陸軍りくぐん一式いっしき47mm速射そくしゃほう
アルゴノートしゃ『PANZER』2003ねん11がつごう No.378 p112~p115
  • 佐山さやま二郎じろう「“一式いっしき機動きどう47ミリほう”Q&Aしゅう
しお書房しょぼうまる』2003ねん7がつごう No.687 p168~p169
  • 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 歩兵ほへいほう たい戦車せんしゃほう ISBN 978-4-7698-2697-2 光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2011ねん
  • 白井しらい明雄あきお日本にっぽん陸軍りくぐんせんくん」の研究けんきゅう芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん 2003ねん
  • 陸戦りくせん学会がっかい戦史せんし部会ぶかい 編著へんちょ近代きんだい戦争せんそう概説がいせつ 資料集しりょうしゅう陸戦りくせん学会がっかい 1984ねん
  • 試製しせい一式いっしき機動きどう47みりめーとるほうかり制式せいしき上申じょうしんしょ
  • 試製しせい一式いっしき機動きどうよんじゅうななみりめーとるほう研究けんきゅう報告ほうこくアジア歴史れきし資料しりょうセンター(JACAR) Ref.A03032093000
  • 陸軍りくぐんしょう技術ぎじゅつ本部ほんぶだいだい1かい陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究けんきゅうかい兵器へいき分科ぶんか講演こうえん記録きろく(だい1かん)」アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A03032065000
  • 陸戦りくせん兵器へいき要目ようもくひょう」アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A03032103400
  • 和訳わやくしょ米国べいこく陸軍りくぐんしょうへん)『沖縄おきなわ日米にちべい最後さいご戦闘せんとう外間ほかませいよんろうわけ)、光人みつひとしゃ、1997ねんISBN 4769821522 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう陸軍りくぐん作戦さくせん(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄いおうとうだい13かんあさくも新聞しんぶんしゃ〈CITEREF戦史せんし叢書そうしょ・131968〉、1968ねん 
  • 佐藤さとう和正かずまさ玉砕ぎょくさいしま太平洋戦争たいへいようせんそう激闘げきとう秘録ひろく光人みつひとしゃ、2004ねんISBN 978-4769822721 
  • 小谷おたにしげる二郎じろう硫黄いおうとう死闘しとう恐怖きょうふ洞窟どうくつせん産経新聞さんけいしんぶんしゃ、1978ねんASIN B000J8NFIC 
  • 久山ひさやましのぶ『インパール作戦さくせん 悲劇ひげき構図こうず 日本にっぽん陸軍りくぐん史上しじょうもっと無謀むぼうたたかい』光人みつひとしゃ、2018ねんISBN 978-4769816614 
  • Coox, Alvin D.; Naisawald, L. Van Loan (1954). Survey of Allied Tank Casualties of World War II (Report). Baltimore: Johns Hopkins University Operations Research Office. OCLC 21347186. Technical Memorandum ORO-T-117. 2021ねん11月25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]