(Translated by https://www.hiragana.jp/)
廣仁宮 - 維基百科,自由的百科全書 とべいたり內容

こうじんみや

座標ざひょう39°57′32″N 116°17′02″E / 39.95881°N 116.28385°E / 39.95881; 116.28385
維基百科ひゃっか自由じゆうてき百科全書ひゃっかぜんしょ
こうじんみや西にしいただき
北京ぺきん文物ぶんぶつ保護ほご單位たんい
うみよど
すわしるべ39°57′32″N 116°17′02″E / 39.95881°N 116.28385°E / 39.95881; 116.28385
分類ぶんるい建築けんちく
時代じだいあきらいたりきよし
へんごう6-22
認定にんてい時間じかん2001ねん7がつ12にち

こうじんみや俗稱ぞくしょう西にしいただきむすめむすめびょう」,北京ぺきんうみよど曙光しょこう街道かいどう西にしいただき北側きたがわきむはじめ時代じだい購物中心ちゅうしん以北いほく北京ぺきんいただきこれいち道教どうきょうみやかんげん作為さくいたびゆうけいてん開放かいほう[1][2]

歷史れきし

[編輯へんしゅう]

西にしいただきこうじんみや所在地しょざいち過去かここれうみよど四季青鄉藍靛廠長春橋畔。[3]こうじんみや舊址きゅうしため明朝みょうちょう正德まさのり年間ねんかん創建そうけんてきよしみさちかん」。まんれきじゅうねん(1582ねんじゅうけんまんれきじゅうはちねん(1590ねんたてしげるたまものがく護國ごこくひろし慈宮」。[1][2]あかりまつりゅうわかしゃくちゅうこころざしのりたたえ,「まんれきさんじゅうろくねん(1608ねん),はじめけん西にしいただきむすめむすめびょう於此。」[3]明朝みょうちょう天啟てんけいよんねん(1624ねんじゅうおさむ。《きょうじょう古蹟こせきこう》、《日下くさか舊聞きゅうぶんこう記載きさい清朝せいちょうかんよんじゅうななねん(1708ねんじゅうおさむかん熙四じゅうはちねん(1709ねん竣工しゅんこうかん熙五じゅういちねん(1712ねんさらめいためこうじんみや」。[1][2][3]

西にしいただき每年まいとし四月初一到十五舉辦廟會。したがえ明朝みょうちょうおこり北京ぺきんじん便びんゆういた西にしいただきしんてき習俗しゅうぞくあかりまつりゅうわかしゃくちゅうこころざし記載きさい,「(西にしいただき)其地もとくぼ中有ちゅうう狂人きょうじん倡為しんせつ。凡男女だんじょろん賤,かたみ擔車うんある囊盛馱,からま繹如織。甚而しつおんなつや,藉此機會きかい以恣ゆうかんすわにんしょう轎,而懷中かいちゅうだきいちふくろずいしんこう以徼ぶく焉。」[3]

清朝せいちょうあさ廷很重視じゅうし西にしいただきびょうかい,「まいひらきびょう特派とくは大臣だいじんひねこうあずか丫髻やまどうしょこれ。」[3]

中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつこうじん宮長みやながうらないようさい作為さくい道教どうきょう活動かつどう場所ばしょ。2001ねんこうじんみや公布こうふため北京ぺきん文物ぶんぶつ保護ほご單位たんい。2007ねんこうじんみや開始かいしじゅうおさむ,2008ねん舉行りょう竣工しゅんこう典禮てんれいなみ對外たいがい開放かいほう,此次修繕しゅうぜんりょうこうじんみやてきだい部分ぶぶん建築けんちくただし山門さんもんとう建築けんちくのう修繕しゅうぜんこうじんみや也並恢復かいふくため宗教しゅうきょう活動かつどう場所ばしょ,而是なりためおさむもんひょうてきたびゆうけいてん[1][2]

2009ねんこうじんみや特大とくだいたびゆういつわりかたあんやぶ全部ぜんぶ11めいいつわりかただん伙成いん全部ぜんぶつめけい北京ぺきんうみよど人民じんみん檢察けんさついん批准ひじゅん逮捕たいほ。該詐かただん伙租ようしん修復しゅうふくてきこうじんみや作為さくい窩點,どうけいほどしゃつかさ勾結,はた外地がいちらい北京ぺきんてき遊客ゆうかくかたいた該處,請該だん伙的所謂いわゆる大師だいしさんいのち,趁機いつわりかた遊客ゆうかくぜにざい[4][5]

2010ねんこうじんみや開始かいし接待せったいたびゆうだんこうじんみやてき管理かんりかたたたえ們以私人しじん名義めいぎうけたまわつつみりょうこうじんみやこうたびゆうだん銷售商品しょうひんずい北京ぺきん文物ぶんぶつきょくうみよど文化ぶんか委員いいんかいあかしこうじんみやため北京ぺきん文物ぶんぶつ保護ほご單位たんい目前もくぜん委託いたくきんげん時代じだい購物中心ちゅうしん管理かんり北京ぺきん文物ぶんぶつきょくてき工作こうさく人員じんいんしょうしたがえ2008ねんいた2010ねん,該局したがえたいこうじんみや進行しんこう租審批,如果ゆう行為こういひとしぞくほう[1]

したがえ西にしいただきこうじんみやこう西にしやく三里さんりしょゆうまとい腳灣むらむら內曾ゆうきゅう西にしいただき。如今ただそん地名ちめいびょうこう[3]

建築けんちく

[編輯へんしゅう]
こうじん宮山みややまもんあずかきむはじめ時代じだい購物中心ちゅうしんちゅう左側ひだりがわ見廣みひろじん宮山みややまもんてきはち

日下くさか舊聞きゅうぶんこう記載きさい,該廟正殿せいでんかかかけかん熙帝しょきむ闕宣慈」匾額。正殿せいでんぜんだて有清ありきよせいやすし熙帝御製ぎょせい碑文ひぶん記述きじゅつじゅうおさむ西にしいただき經過けいか及祀あおかすみもとくん以廣其仁。「宮門きゅうもんぼうくさび內額曰泰だけどう瞻。そとがく曰坤さだひろしいく左右さゆうぼうくさびかくいちひだりぼう內額曰安さだ福地ふくちそとがく曰弘そだてせんみぎぼう內額曰資もとさかいそとがく曰懷春台しゅんだいみなせいしょ。」いぬい隆年たかとしあいだ正殿せいでん內增かけいぬいたかしみかどしょひつじさるもとこう毓」匾額以及たいれんしげるしげるへんすず寰區ぶくちょうようひろしじき雨露うろおん」,なみ且立いちつうため「欽賜かんせい內官がく教習きょうしゅうじょせん」。びょう內還有明ありあけだい石碑せきひつう,「いち敕諭;一護國洪慈宮碑,だい學士がくししゅのべせん。」[3]

きょうじょう古蹟こせきこう記載きさい,該廟收藏しゅうぞうゆうたまものたまかんむりさんいただき,以及ほうはたひとしぶつ,另有しょけいいちかんよしべんへい輪番りんばん守護しゅご[3]

つばめきょう歲時記さいじき記載きさい,該廟「山門さんもんちゅうよんだい天王てんのうぞう神氣しんき如生,猙獰かしこ座下ざか八鬼怪尤覺駭人,凡攜小兒しょうにしゃ掩其而過びょうゆうななじゅうつかさしんみな繪畫かいが塑像そぞう也。」[3]

いちよんななかくほう》1946ねん5がつ14日刊にっかんのぼりりょう署名しょめい痴呆ちほうてき西にしいただきびょう一文いちぶん記載きさいこうじんみや[3]

びょう內重もんためちょうあつしりゅうよんかみすすむかくみことしん頂上ちょうじょう檐間みな以小がたりつがくうえ鐫尊神聖しんせいごう,此為ほんびょう特色とくしょく也。內則ため墀月だいうえため正殿せいでんちゅうまつ擾攘きゅう聖母せいぼむすめむすめ正中せいちゅうため天仙てんせん子孫しそん眼光がんこうひだりがんため催生、おくなま乳母うばみぎがんそく癍疹,痘疹とうしんほんびょう大殿おおいどのまたためこうがた,而前殿どのみやちゅう以長ろうれん繫之,おもんみ規模きぼのりとおへりくだみやこれぶんはな武英たけひで,且本びょうむすめむすめぞう悉為青銅せいどうしょ當年とうねんほんびょうとみ庶可以想見そうけん。而殿中前ちゅうぜんゆうほう較小むすめむすめぞういちみこと,其面內向,而鏽蝕斑剝,其蒼みどりよくしずく較其かくかみためゆう甚。かみかこえへい,髹漆また剝落過半かはんしか此究ためしん知也ともや正殿せいでん四周群房綿亙,のりため冥府めいふななじゅうつかさ,其一切いっさい較諸東嶽あずまだけびょうのり及遠甚。其各みことしんおに使だい坍塌倒壞とうかい東西とうざいはいていはい壞尤甚。其庭いん雖廣,蔓草つるくさあらけむりのりほんびょうじょびょうかいがい人跡じんせき罕至,可知かち也矣。至極しごくきたゆう大殿おおいどのさん楹,建築けんちく雖宏,しかそうおさむみなちゅうまつふとおつすくいてんみこと東嶽あずまだけ大帝たいていじん聖天しょうてんひとしさいためしょうおさむもんいちもん內兩つくりため護法ごほうきんかぶとしんきむ甲冑かっちゅうふんもち斧鉞ふえつちょうやり,其法較山もん內尊しんゆうため高大こうだいおもんみもんいただき滲漏甚,致神ため雨水あまみずしょおきしょく落泥りゅう,而毀はいこと甚。內有しょういん落,たてたかしかくためかくぞうけいろううえまつたま宇金てんひろし穹玉すめらぎ上帝じょうていろうため護國ごこくたすくみん忠義ちゅうぎじんいさみふくきょうてんせききよし大帝たいてい。而院ゆうだいてつ花瓶かびんいちついこうろくしゃく上貼うわばりじょうしょ婦女ふじょざいみぎかた』。詢諸當地とうちじんはじめ冬季とうき嘗為かゆしょうくも。」

こうじんみやてき建築けんちくばら有東うとうなか西三にしさんげん僅存中路なかじ部分ぶぶん建築けんちく如下:[6]

  • おどけだいくらい於中じく線上せんじょう最南端さいなんたんやめ
  • ぱいろうくらい於山門外もんがいためさんめんぱいろうこう殿どのまえしょりつやすし熙帝御製ぎょせいたたえ,「宮門きゅうもんぼうくさび內額曰『たいだけどう瞻』,そとがく曰『ひつじさるさだひろしいく』。左右さゆうぼうくさびかくいちひだりぼう內額曰『安貞やすさだ福地ふくち』,そとがく曰『ひろしいくせん』;みぎぼう內額曰『もとさかい』,そとがく曰『ふところ春台しゅんだい』。みなせいしょ。」やめ
  • 山門さんもんめんさんあいだしんふかいちあいだためたんそうかたやま歇山いただき山門やまかどゆう三個青石拱券門洞,ちゅうあいだもんほらてきぜん檐石匾上鐫刻ちょ「敕建こうじんみや」。山門さんもん兩側りょうがわためはち牆。2008ねんのう修復しゅうふく
  • 山門やまかど殿どのめんさんあいだしんふかあいだ殿しんがりぜんゆうがつだい殿しんがり兩側りょうがわかくゆうじゅん脊房あいだ殿しんがり內設ななじゅうつかさ。2008ねんのう修復しゅうふく
  • こう殿どの殿どのもん上方かみがたかか複製ふくせい出來できてきかん熙帝ふできむ闕宣慈」匾額。
    • ひがしはい殿どのめんさんあいだ
    • 西にしはい殿どのめんさんあいだ
  • しょ真殿まとの殿しんがり內中まつりょほらまろうど左右さゆう分別ふんべつまつくすりおうまごおもえざいしんちょう公明こうめい殿しんがり內兩かべゆう2008ねん修復しゅうふくてき古代こだい道教どうきょう壁畫へきが,以及しんてき道教どうきょう壁畫へきが
    • ひがしはいぼうじゅうあいだやめ
    • 西にしはいぼうきゅうあいだやめ
  • たれはなもんくらい於諸真殿まとの以北いほくやめ
  • ぞうけいろうそう樓閣ろうかくめん闊五あいだしんふかあいだみどり琉璃かわら剪邊,二層硬山調大脊。下層かそうげんため甲子きのえね殿どの,內祀姆元くんろくじゅう甲子きのえねかみ上層じょうそうげんためもとくん殿どの,內祀あおかすみもとくん

參考さんこう文獻ぶんけん

[編輯へんしゅう]
  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 きゃくなんにゅうこうじんみやゆびほう租,しんきょうほう,2010ねん04がつ10日とおか あみぎわもう檔案かんてきそんそん檔日2014ねん1がつ3にち,.
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 北京ぺきん西にし顶”广仁宫重しん开放,中国ちゅうごく民族みんぞく报,2008ねん2がつ19にち. [2012ねん9がつ22にち]. (原始げんし內容そん檔於2014ねん1がつ4にち). 
  3. ^ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 うみあきらあおかすみもとくん信仰しんこうあずか北京ぺきんてきいただき」,中國ちゅうごく道教どうきょう2006ねんだい3
  4. ^ 检察かん详析北京ぺきん广仁宫特だいたびゆう诈骗あん成因せいいん人民じんみん网,2009ねん08がつ28にち. [2012ねん9がつ22にち]. (原始げんし內容そん於2009ねん9がつ2にち). 
  5. ^ 广仁宫"だい师"さんいのちこうむ钱数ひゃくまん 记者ふん夫妻ふさいくら访,人民じんみん网,2009ねん07がつ03にち. [2012ねん9がつ22にち]. (原始げんし內容そん於2012ねん6がつ5にち). 
  6. ^ いただきひろ蹤,北京ぺきん觀察かんさつ,2008-03[永久えいきゅう失效しっこう連結れんけつ]