はまどお

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はまどお
はまどおり
くに 日章旗 日本にっぽん
地方ちほう 東北とうほく地方ちほう
都道府県とどうふけん 福島ふくしまけん
面積めんせき
2,969.11km²
そう人口じんこう
427,872ひと
推計すいけい人口じんこう、2024ねん4がつ1にち
人口じんこう密度みつど
144.11ひと/km²
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はまどお(はまどおり)は、福島ふくしまけん東部とうぶにあたり、太平洋たいへいようがわ沿岸えんがん地域ちいきである。ひがし太平洋たいへいようと、西にし阿武隈高地あぶくまこうちはさまれている。

みどり部分ぶぶんはまどお地区ちく

福島ふくしまけんは2つの山地さんち阿武隈高地あぶくまこうち奥羽山脈おううさんみゃく)によって3地域ちいき区分くぶんされており、ひがしからじゅんはまどおり、中通なかどお会津あいづとなる。県内けんないテレビ局てれびきょくはこの3地域ちいきけて天気てんき予報よほうつたえることがおおい。

地域ちいき最大さいだい都市とし南部なんぶにあるいわきで、人口じんこうやく75 %がらしており、面積めんせきやく40 %をめる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

古代こだいには、当時とうじ日本にっぽん中心ちゅうしんだった畿内きないから陸奥みちのくこくつうじるみちとして「海道かいどう」が当地とうちつらぬき、これが律令制りつりょうせい以後いご東海道とうかいどうばれた。「海道かいどう」がそのみち沿いにある地方ちほうとしてももちいられたのにたいし、東海道とうかいどう多賀城たがじょうまでのみち名前なまえとしては使つかわれたが、地方ちほうめいとしては常陸ひたちこく北限ほくげんとし、当地とうち東山ひがしやまみちふくまれた。中世ちゅうせいには、とりわけ当地とうちのみをして海道かいどうあるいは東海道とうかいどうれいられる。

現在げんざいでは、これらの律令りつりょう時代じだいからのみち経路けいろで、東京とうきょう始点してんとして鉄道てつどう常磐線じょうばんせん)と幹線かんせん道路どうろ国道こくどう6ごう常磐ときわ自動車じどうしゃどう)がはまどおりを南北なんぼく縦断じゅうだんしている。なお、中通なかどおりとの東西とうざい連絡れんらくせんとしては、南部なんぶいわきひらたから鉄道てつどう磐越東線ばんえつとうせん)と道路どうろ国道こくどう49ごういわおえつ自動車じどうしゃどう)がとおり、中部ちゅうぶ双葉ふたばまち新山しんやまから国道こくどう288ごうとおり、北部ほくぶ相馬そうま中村なかむらから国道こくどう115ごうむすんでいる。

また、よるもりさかいにして、みなみ岩城いわきりょう磐城いわきひらはんりょう)ときた相馬そうまりょう中村なかむらはんりょう)にける場合ばあいもある。なお、福島ふくしま県庁けんちょうによるエリア区分くぶんでは、みなみいわき(いわき)ときたあいそう[1]相馬そうまりょう岩城いわきりょうのうちきゅう楢葉ならはぐん)にける場合ばあいもある。福島ふくしまけん東部とうぶは、戊辰戦争ぼしんせんそう結果けっか陸奥みちのくこく分割ぶんかつされて磐城いわきこく命名めいめいされた。この磐城いわきこくには、戦国せんごく時代じだい白河しらかわ結城ゆうきおさめた白河しらかわぐんや、伊達だて家臣かしん亘理わたりおさめた宮城みやぎけん亘理わたりぐん地域ちいきふくまれている。

おおくの原子げんし福島ふくしまだいいち原子力げんしりょく発電はつでんしょ福島第二原子力発電所ふくしまだいにげんしりょくはつでんしょ建設けんせつされたため、かつては「原発げんぱつ銀座ぎんざ」ともばれた。2011平成へいせい23ねん)の東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい誘発ゆうはつされた福島ふくしまだいいち原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこに、はい作業さぎょうすすめられている。並行へいこうして除染じょせん住民じゅうみん帰還きかん産業さんぎょう再生さいせいロボット関連かんれん研究けんきゅう機関きかん企業きぎょう誘致ゆうち[2]といった復興ふっこうすすめられている[3]

福島ふくしまけんうみめんする唯一ゆいいつ地域ちいきであり、福島ふくしまだいいち原発げんぱつ事故じこ海洋かいよう流出りゅうしゅつした放射ほうしゃせい物質ぶっしつ海産物かいさんぶつへの残留ざんりゅうりょう検査けんさしながら、漁業ぎょぎょう再開さいかいされている。2019ねん平成へいせい31ねん/れい元年がんねん)には養殖ようしょく振興しんこうなどの拠点きょてんとなる福島ふくしま県立けんりつ水産すいさん資源しげん研究所けんきゅうじょ相馬そうま新地しんじまちにまたがるエリアに開所かいしょした(震災しんさいともな津波つなみ全壊ぜんかいした大熊おおくままち水産すいさん種苗しゅびょう研究所けんきゅうじょ後継こうけい施設しせつ[4]

著名ちょめい施設しせつとして、サッカーのナショナルトレーニングセンターであるJヴィレッジ楢葉ならはまち広野こうのまち)や、テレビ番組ばんぐみザ!鉄腕てつわん!DASH!!』の企画きかくとしてもうけられたDASHむら浪江なみえまち)がある。

地理ちり[編集へんしゅう]

夏井川なついがわ渓谷けいこく
松川浦まつかわうら

はまどおりは、1876ねん以前いぜんいわぜんけん(いわさきけん)という独立どくりつしたけんであり、中通なかどおり(1876ねん以前いぜん福島ふくしまけん)や会津あいづ地方ちほう(1876ねん以前いぜん若松わかまつけん)とはべつけんであった。

日本海にほんかいからの季節風きせつふう奥羽おうう山脈さんみゃく阿武隈高地あぶくまこうちなどにさえぎられるので、太平洋たいへいようがわ気候きこうぞくし、ふゆでもゆきすくなく、温暖おんだん気候きこうていしている。阿武隈高地あぶくまこうち西にしつらなっており、せま細長ほそなが平野へいや縦断じゅうだんしている。

海岸かいがん沿いには松川浦まつかわうらをはじめ、かつては井田川いだがわうら八沢はつさわうらなどのかたおおく、水運すいうん漁業ぎょぎょう製塩せいえんごうなどにもちいられたが、おおくは近代きんだいはい干拓かんたく縮小しゅくしょうした。

はまどお海岸かいがん地域ちいき地形ちけい地質ちしつ[編集へんしゅう]

はまどお地方ちほう西側にしがわめる阿武隈高地あぶくまこうち地形ちけい説明せつめいはその項目こうもくしるす。東側ひがしがわ山地さんち海岸かいがんはさまれた南北なんぼく細長ほそなが地域ちいき地形ちけいはついていない。本節ほんぶしではここをはまどお海岸かいがん地域ちいき、あるいはたん海岸かいがん地域ちいきんで説明せつめいする[5]きた北西ほくせい - 南南東なんなんとう方向ほうこう直線ちょくせんてきびる双葉ふたば断層だんそう西にし境界きょうかいとし、きたでは宮城みやぎけん亘理わたりまちから、みなみでは福島ふくしまけんいわき北東ほくとう久之浜ひさのはま付近ふきん)までがここでいう海岸かいがん地域ちいきである。阿武隈あぶくま山地さんち海岸かいがんせん南北なんぼく方向ほうこうびているので、ななめにはし双葉ふたば断層だんそうられる海岸かいがん地域ちいきはばきたひろく、みなみにいくほどせまい。南北なんぼく細長ほそなが三角形さんかっけいである。地域ちいきないくわしくると、高度こうど200メートル以下いかひく丘陵きゅうりょうと、なんだんにもかれる河岸かわぎし段丘だんきゅうかわ沿いにひろがる沖積ちゅうせき低地ていちというしょう地形ちけい多数たすう、それぞれ東西とうざい方向ほうこうびている[6]

はまどお海岸かいがん地域ちいき基盤きばんとなるのは、比較的ひかくてきあたらしいしんだい三紀みき堆積岩たいせきがんで、古生代こせいだい中生代ちゅうせいだいふる地層ちそう基盤きばんとする阿武隈高地あぶくまこうちとは対照たいしょうてきである[7]河岸かわぎし段丘だんきゅうめる面積めんせき割合わりあいみなみほうおおく、段丘だんきゅうめんかずみなみほうおおい。これは地形ちけい隆起りゅうき速度そくどみなみはやく、きたではおそいためである。海岸かいがん地域ちいき西にし接続せつぞくする阿武隈高地あぶくまこうち隆起りゅうききずられて、ゆっくり隆起りゅうきしている。その速度そくど北部ほくぶで1ねんに0.2ミリメートル、南部なんぶで0.5ミリメートルと推定すいていされている[8]

海岸かいがんせん砂浜すなはまがけ、あるいはがけまえ砂浜すなはまひろがる地形ちけいとなっている。隆起りゅうきともな海岸かいがん段丘だんきゅうつくられており、海岸かいがん侵食しんしょくつよく、みなみ相馬そうま富岡とみおかまちではとし平均へいきん0.4メートルほど海岸かいがんせん後退こうたいしている。けずられた陸地りくちにより、うみがわにははばやく2.5キロメートルの海食かいしょくだいができており、これがやく7000ねんまえ海面かいめん水準すいじゅん現在げんざいのものになったとき海岸かいがんせん対応たいおうしているとかんがえられる[9]。7000ねんまえ海岸かいがんは2.5キロメートルさきだったということである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい[編集へんしゅう]

7世紀せいき前半ぜんはんはまどおりには、きく国造くにのみやつこ石城せきじょう国造くにのみやつこ染羽そめば国造くにのみやつこ浮田うきた国造くにのみやつこなどが割拠かっきょしていた。7世紀せいき中葉ちゅうようには、こう国造くにのみやつこきく国造くにのみやつこ石城せきじょう国造くにのみやつこの3つが統合とうごうされて珂国となり、その南限なんげんが「助川すけかわ」こと日立ひたちで、北限ほくげんが「あさ」のむらばれた大熊おおくまであった[10]。この珂国では、助川すけかわは「道前みちまえみちくち)」、あさむらは「みちみちしり)」ともばれていた。

7世紀せいき後半こうはんになると、律令制りつりょうせい浸透しんとうして中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか形成けいせいされ、あさ以南いなんである珂国は常陸ひたちこく編入へんにゅうされ、長塚ながつか以北いほく陸奥みちのくこく編入へんにゅうされた。そして、奈良なら時代じだい当初とうしょ718ねんには、現在げんざい平潟ひらかたトンネルさかい北側きたがわ分離ぶんりされ、現在げんざい関田せきたから亘理わたりまでは石城せきじょうこくとして分立ぶんりつした。そして、この平潟ひらかたトンネルのがけのすぐきたには、「勿来なこそせき」とばれるきくせき設置せっちされた。しかし、720年代ねんだいになると、石城せきじょうこく陸奥みちのくこくさい編入へんにゅうされた。

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

白水しろみず阿弥陀堂あみだどう
中村なかむらしろほり

11世紀せいき中期ちゅうきにはこうさんねんやく結果けっかとして飯野いいの八幡宮はちまんぐう建立こんりゅうされ、常陸ひたち平家へいけ岩城いわき常陸ひたち府中ふちゅうから飯野いいのたいら転入てんにゅうし、平泉ひらいずみ藤原ふじわら姻戚いんせき関係かんけいって勢力せいりょくばし、白水しろみず阿弥陀堂あみだどうててはまどお南部なんぶきくおおぐん岩城いわきぐんいわぜんぐん楢葉ならはぐん標葉しねはぐん)を領土りょうどおさめた。

文治ぶんじ5ねん1189ねん)の奥州おうしゅう合戦かっせん功績こうせきがあった千葉ちば常胤つねたねは、陸奥みちのくこく恩賞おんしょうあたえた。その一人ひとり相馬そうまつねで、宇多うだぐん行方ゆくえぐん地頭じとうとなった。

南北なんぼくあさ時代じだいになると、相馬そうま小高おだか本拠地ほんきょちとして北朝ほくちょうかたにつき、岩城いわきはじめのうち南朝なんちょうかたについたが、のちきた朝方あさがたについた。南北なんぼくあさ時代じだい室町むろまち時代ときよには、海道かいどう仙道せんどう山道さんどう)、会津あいづというのちはまどおり、中通なかどおり、会津あいづ対応たいおうする地域ちいき区分くぶんあらわれた。海道かいどう東海道とうかいどうともばれ、岩崎いわさきぐんいわまえぐん)、岩城いわきぐん楢葉ならはぐん標葉しねはぐん行方ゆくえぐんの5ぐん該当がいとうした[11]福島ふくしま県内けんないでも宇多うだぐんはいらない。北朝ほくちょう勝利しょうり確定かくていしたのちも、陸奥みちのくこくでは奥州おうしゅう管領かんりょう奥州おうしゅう探題たんだい鎌倉かまくら公方くぼう対立たいりつのせいで上位じょうい権力けんりょく分裂ぶんれつする時代じだいつづいた。そこで相馬そうま岩城いわきふく海道かいどう5ぐんの10は、おうひさし17ねん1410ねん)にぐん一揆いっきむすんで相互そうご協力きょうりょくによる紛争ふんそう解決かいけつやくした[12]

戦国せんごく時代じだいになると、相馬そうま本拠地ほんきょち小高おだか中村なかむら)が標葉しねは本拠地ほんきょち請戸うけど権現堂ごんげんどう)をほろぼし、標葉しねはぐん領土りょうどおさめて勢力せいりょく拡張かくちょうし、岩城いわき本拠地ほんきょち飯野いいのたいら長友ながとも白土しらつち飯野いいのたいら)と境界きょうかいせっした。この相馬そうまりょう岩城いわきりょう境界きょうかいが、熊川くまかわの2kmみなみ位置いちするよるもりであった。

西にしには現在げんざい福島ふくしまけん中通なかどお中部ちゅうぶ領土りょうどとする田村たむら本拠地ほんきょち船引ふねひき三春みはる)やあしめい本拠地ほんきょち会津若松あいづわかまつ岩瀬いわせ須賀川すかがわ)が、みなみには現在げんざい茨城いばらきけん北部ほくぶ本拠地ほんきょち常陸太田ひたちおおた水戸みと)を領土りょうどとする佐竹さたけが、きたには現在げんざい福島ふくしまけん中通なかどお北部ほくぶから山形やまがたけん南東なんとう本拠地ほんきょち信夫しのぶ伊達だて米沢よねざわ)を領土りょうどとした伊達だてが、それぞれ勢力せいりょく拡大かくだいした。伊達だて現在げんざい宮城みやぎけん本拠地ほんきょちうつしたのは、豊臣とよとみ政権せいけん政策せいさくによるものである(本拠地ほんきょち米沢よねざわ岩出山いわでやま仙台せんだい)。

この戦国せんごく時代じだいにおいて、はまどおりは佐竹さたけ伊達だて田村たむらあしめいの4勢力せいりょく緩衝かんしょう地帯ちたいとく熊川くまかわ富岡とみおか相馬そうま岩城いわきくわえた6勢力せいりょく緩衝かんしょう地帯ちたいとなった。そして、相馬そうまりょう伊達だてりょう境界きょうかいが、相馬そうま本拠地ほんきょちだった中村なかむらちか駒ヶ嶺こまがみねであった。一方いっぽう岩城いわきりょう佐竹さたけりょう境界きょうかいは、律令りつりょう時代じだいおなじく勿来なこそであった。

近世きんせい[編集へんしゅう]

豊臣とよとみ秀吉ひでよし関白かんぱく任官にんかんすると、領土りょうどあらそいをつづけていた岩城いわき相馬そうま和睦わぼくし、ともあしめい領土りょうど侵攻しんこうする伊達だてまさしむねには常陸太田ひたちおおた本拠地ほんきょちとする佐竹さたけ連合れんごうぐん形成けいせいして対抗たいこうした。ひとはしたたかはその事端じたんといえる。その田村たむらぐん伊達だて属領ぞくりょうとなったため、岩城いわき相馬そうま現在げんざい国道こくどう288ごう経由けいゆして田村たむら領内りょうないはいるなどした。友軍ゆうぐんであったあしめい二階堂にかいどう滅亡めつぼう岩城いわき伊達だて和睦わぼくしたが、小田原おだわら征伐せいばつ直後ちょくご当主とうしゅ岩城いわきつねたかし死去しきょしたため佐竹さたけ義重よししげ三男さんなんさだたかし岩城いわき名跡みょうせきいでいる。これはつねたかしはは義重よししげいもうとであったこと豊臣とよとみ政権せいけん政策せいさくによるものという見方みかたつよい。小田原おだわら征伐せいばつ豊臣とよとみ政権せいけんにおいて伊達だてあしめいりょう没収ぼっしゅうされ岩出山いわでやま本拠ほんきょうつされたが、岩城いわき相馬そうまはそのままりょう統治とうちみとめられた。佐竹さたけとの同盟どうめいてき立場たちばにもわりはなかったといえる。1600ねん関ヶ原せきがはらたたかで、岩城いわき相馬そうまは、佐竹さたけ義宣よしのぶとも西にしぐんりとみなされ、結果けっか両氏りょうしともに徳川とくがわ家康いえやすによって領土りょうど没収ぼっしゅうされた。

相馬そうま関ヶ原せきがはらのちには相馬そうまさんたね江戸えど幕府ばくふ訴訟そしょうこし奔走ほんそうした。徳川とくがわ家康いえやすちょくしん本多ほんだ正信まさのぶ説得せっとくたことで、旧領きゅうりょうであるはまどお北部ほくぶ復帰ふっきたし、はまどお北部ほくぶつづ相馬そうまおさめる中村なかむらはん領地りょうちとなった。浪江なみえ大堀おおほり相馬そうましょう中村なかむらしろした相馬そうまこましょうなどの陶磁器とうじき産業さんぎょうは、この徳川とくがわ藩政はんせい時代じだいはじまったものである。

その一方いっぽうで、岩城いわき飯野いいのたいらから追放ついほうされ、亀田かめだ由利ゆり本荘ほんじょう北部ほくぶ)にばされた。これにわって、はまどお南部なんぶには徳川とくがわ家康いえやす重臣じゅうしんである鳥居とりい忠政ただまさはいり、飯野いいのたいら磐城いわきひらた改名かいめいされた。こうして、徳川とくがわ藩政はんせい時代じだいはまどお南部なんぶは、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ友人ゆうじん譜代ふだい)がおさめる磐城いわきひらはん領土りょうどとなり、内藤ないとう安藤あんどうなど藩主はんしゅなんわったが、もっと安定あんていした時期じき安藤あんどう治世ちせいであった。

また、江戸えど時代じだい藩校はんこうとして、磐城いわき平城ひらじろした施政しせいどう中村なかむらしろした育英いくえいかんがあった。これらが戊辰戦争ぼしんせんそう磐城いわき中学校ちゅうがっこう磐城いわき高校こうこう磐城いわき平城ひらじろあとちかく)や相馬そうま中学校ちゅうがっこう相馬そうま高校こうこう中村なかむら城跡じょうせきちかく)の源流げんりゅうにもなった。

きん現代げんだい[編集へんしゅう]

はまどおりの戊辰戦争ぼしんせんそうのルート

1868ねん勃発ぼっぱつした戊辰戦争ぼしんせんそうでは、磐城いわきひらはん中村なかむらはんは、仙台せんだいはんなどととも奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいくわわり、薩長さっちょうぐん明治めいじ政府せいふぐん)にやぶれた。この戊辰戦争ぼしんせんそう結果けっか磐城いわきたいらには明治めいじ政府せいふ占領せんりょう政府せいふである「民政みんせいきょく」が設置せっちされ、安藤あんどう城下町じょうかまちであった「磐城いわきたいら」はたんなる「たいら」に改名かいめいされた。また、1869ねん1がつ19にち陸奥みちのくこく分割ぶんかつされ、阿武隈川あぶくまがわ以東いとう地域ちいき磐城いわきこくとされた。

1871ねん8がつ29にち廃藩置県はいはんちけんによって、はまどお南部なんぶたいらけんはまどお北部ほくぶ中村なかむらけんとなり、これら2けん1872ねん1がつ9にち合併がっぺいされていわぜんけんとなった。1876ねん4がつ22にちには、亘理わたりぐん伊具いぐぐん刈田かりたぐん宮城みやぎけんからいわぜんけんえられた。しかし、1876ねん8がつ21にちには、亘理わたり伊具いぐ刈田かりたの3ぐん宮城みやぎけん復帰ふっきし、いわぜんけん福島ふくしまけん1876ねん以前いぜん県域けんいき中通なかどおり)や若松わかまつけん会津あいづ地方ちほう)と合併がっぺいされ、福島ふくしまけん一部いちぶとなって現在げんざいいたっている。

縮小しゅくしょう復元ふくげんされた原町はらまち無線むせんとう
スパリゾート・ハワイアンズ
福島ふくしまだいいち原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこ

20世紀せいき前半ぜんはんすなわ殖産しょくさん興業こうぎょうから高度こうど経済けいざい成長せいちょうまでは、久慈川くじがわよるもりあいだ(7世紀せいき中葉ちゅうよう珂国の範囲はんい)の一帯いったいには、長州ちょうしゅうばつ久原くはら房之助ふさのすけ創業そうぎょうした常磐ときわ炭田たんでんいとな炭鉱たんこうまち点在てんざいした。また、常磐ときわ炭田たんでん石炭せきたん東京とうきょう輸送ゆそうする鉄道てつどうとして常磐線じょうばんせん敷設ふせつされた。おなじく、よるもり以北いほく江戸えど時代じだい中村なかむらはん領土りょうど)では森林しんりん開発かいはつおこなわれて森林しんりん鉄道てつどう敷設ふせつされ、浪江なみえ原町はるまち発着はっちゃくてんとして、きゅう中村なかむらはんない木材もくざい東京とうきょう輸送ゆそうされていた[13][14]。また、エネルギーげん以外いがいでの著名ちょめい歴史れきし遺産いさんとして、1923ねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい世界中せかいじゅうほうじた原町はらまち無線むせんとう有名ゆうめいである。

ところが、20世紀せいき後半こうはん高度こうど経済けいざい成長せいちょうになると、常磐ときわ炭田たんでん森林しんりん鉄道てつどう閉鎖へいさされ、はまどおりは「炭鉱たんこう地帯ちたい」「木材もくざい地帯ちたい」から「電源でんげん地帯ちたい」に転換てんかんされ、原子力げんしりょく発電はつでんしょ火力かりょく発電はつでんしょ多数たすう建設けんせつされた。小名浜おなはま臨海りんかい工業こうぎょう地域ちいきや、「あさ」こと大熊おおくま建設けんせつされて2011ねん事故じここした福島ふくしまだいいち原発げんぱつ1967ねん着工ちゃっこう)は、この高度こうど経済けいざい成長せいちょう建設けんせつされた施設しせつである。炭鉱たんこう閉鎖へいさされる過程かてい創作そうさくされた地域ちいき振興しんこうさくが、常磐ときわハワイアンセンター(現在げんざいスパリゾート・ハワイアンズ)のフラガールである。

そして、「電源でんげん地帯ちたい」にわったのちはまどおりでは、発電はつでんしょ特例とくれい財源ざいげん利用りようして整備せいびされたJヴィレッジや、ぎゃく発電はつでんしょたよらない地域ちいきづくりであるDASHむらなど様々さまざま地域ちいき振興しんこうみが実践じっせんされた。

2011ねん3月11にち発生はっせいした東北とうほく地方ちほう太平洋たいへいようおき地震じしん(14:46女川おながわおきM9、15:15鹿嶋かしまおきM7)では、はまどおりのだい部分ぶぶん地域ちいき震度しんど6きょう観測かんそくし、沿岸えんがん大津おおつなみおそわれ、だい震動しんどうによるインフラや建造けんぞうぶつ倒壊とうかい相次あいついだ。そして、この地震じしん誘発ゆうはつされた福島ふくしまだいいち原発げんぱつ事故じこは、ぜん世界せかい衝撃しょうげきあたえた。

2018ねん時点じてん事故じこ直後ちょくごくらべて避難ひなん地域ちいき縮小しゅくしょうしているものの[15]福島ふくしまだいいち原発げんぱつ事故じこ処理しょり福島第二原子力発電所ふくしまだいにげんしりょくはつでんしょはい作業さぎょう今後こんごながつづ見通みとおしである。農水のうすい産業さんぎょう観光かんこうへの風評ふうひょう被害ひがい震災しんさい以前いぜんからの傾向けいこうであった人口じんこう減少げんしょう加速かそくといった課題かだい山積さんせきしている。

福島ふくしまけんあらたなはまどお振興しんこうさくとして、はい関連かんれんのほか、はい作業さぎょうにも寄与きよするロボット、再生さいせい可能かのうエネルギー産業さんぎょう集積しゅうせきはかる「福島ふくしま国際こくさい研究けんきゅう産業さんぎょう都市とし(イノベーション・コースト)構想こうそう」をすすめている[16]

地域ちいき[編集へんしゅう]

南北なんぼくあいだちが[編集へんしゅう]

はまどおりの交流こうりゅうけん歴史れきしてき風土ふうどは、よるもりさかいにしてことなる。「よるもり」という地名ちめい由来ゆらいは、戦国せんごく時代じだい岩城いわき相馬そうま領有りょうゆうけんあらそって「(=)のもり」を主張しゅちょうし、その境界きょうかいせんとなったことに由来ゆらいするとわれている。同様どうよう由来ゆらいから、富岡とみおかには「しょうりょうはま」(おらがはま)、大熊おおくまには「小良浜おらはま」(おらはま)という地名ちめい存在そんざいする。

よるもり以南いなん
よるもり以北いほく

(※ 相馬そうまりょう伊達だてりょうさかい駒ヶ嶺こまがみねじょうであり、新地しんじまちいき1591ねんから1868ねんまで仙台せんだいはんしゅ伊達だて領土りょうどであった。)

(※ 標葉しねはぐん1492ねん相馬そうまりょうとなったため相馬そうまおさめた期間きかんやく370ねん平安へいあん時代じだい末期まっきから相馬そうまほろぼされるまでは標葉しねはやく340ねんにわたりおさめた。)

交流こうりゅうけん[編集へんしゅう]

はまどおりは太平洋たいへいよう阿武隈高地あぶくまこうちはさまれているためおな海沿うみぞいにたる常磐線じょうばんせん沿いの市町村しちょうそんとの交流こうりゅうおおく、よるもり以南いなん水戸みととの、よるもり以北いほく仙台せんだいとの関係かんけいふかい。このため、福島ふくしま県庁けんちょう所在地しょざいち)や郡山こおりやま経済けいざい中心ちゅうしん)をかかえる中通なかどおりからは独立どくりつした地域ちいきけん形成けいせいしている。よるもり以南いなんは、東北とうほくほか地域ちいきよりも、日立ひたち水戸みとなど茨城いばらきけん北部ほくぶとの関係かんけいふかく、方言ほうげんである岩城いわきべん水戸みとべん茨城いばらきけんきた方言ほうげん)にちかい。おなじく、よるもり以北いほくは、福島ふくしまけんほか地域ちいきよりも、亘理わたり仙台せんだいなど宮城みやぎけん南部なんぶとの関係かんけいふかく、方言ほうげんである相馬そうまべん仙台せんだいべんちかい。また、常磐ときわせん常磐ときわ自動車じどうしゃどうなど南北なんぼく交通こうつう便びんさから空港くうこう福島ふくしま空港くうこうより北部ほくぶ仙台せんだい空港くうこう南部なんぶ茨城いばらき空港くうこう県庁けんちょう福島ふくしま県庁けんちょう(福島ふくしまけん福島ふくしま)より北部ほくぶ宮城みやぎ県庁けんちょう(宮城みやぎけん仙台せんだい)を南部なんぶ茨城いばらき県庁けんちょう(茨城いばらきけん水戸みと)のほう利用りようしやすい。

観光かんこう宣伝せんでんても、茨城いばらきけん北部ほくぶ中郷なかごうSA日立ひたちえきなどでは、いわき物産ぶっさん販売はんばいされている。また、みちえきそうま駐車ちゅうしゃじょうのスピーカーからは、エフエム仙台えふえむせんだい (Date FM)BGMわりにながされている。タウン情報じょうほうでも、「タウンマガジンいわき」は、東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい福島ふくしまだいいち原発げんぱつ事故じこ)の発生はっせいまえには、水戸みとから新地さらちまでを取材しゅざいエリアにおさめていた(原発げんぱつ事故じこは、取材しゅざいエリアは広野こうや以南いなんのみ)。

参考さんこう水戸みと - 仙台せんだい距離きょり
水戸みと - (66km) - 勿来なこそ - (29km) - ひらた - (24km) - 広野ひろの - (20km) - よるもり - (31km) - 原町はるまち - (20km) - 中村なかむら - (7km) - 駒ヶ嶺こまがみね (49km) - 仙台せんだい

広域こういき行政ぎょうせいけん[編集へんしゅう]

福島ふくしまけん地域ちいき区分くぶん
あいそう地方ちほう振興しんこうきょく管内かんない
人口じんこう:195,938にん2010ねん国勢調査こくせいちょうさ[17]
いわき地方ちほう振興しんこうきょく管内かんない
人口じんこう:342,198にん(2010ねん国勢調査こくせいちょうさ[17]

都市としけん[編集へんしゅう]

一般いっぱんてき都市としけん定義ていぎについては「都市としけん」を参照さんしょう
都市とし雇用こようけん(10% 通勤つうきんけん)の変遷へんせん
自治体じちたい
('80)
1980ねん 1990ねん 1995ねん 2000ねん 2005ねん 2010ねん 2015ねん 自治体じちたい
現在げんざい
広域こういきけん
相馬そうま - - - - - みなみ相馬そうま 都市としけん
11まん6919にん
みなみ相馬そうま 都市としけん
9まん6353にん
相馬そうま 相馬そうま
広域こういき行政ぎょうせいけん
原町はらまち 原町はらまち 都市としけん
7まん4296にん
原町はらまち 都市としけん
7まん7162にん
原町はらまち 都市としけん
7まん7860にん
原町はらまち 都市としけん
7まん5020にん
原町はらまち 都市としけん
7まん2837にん
みなみ相馬そうま
鹿島かしままち
小高おたかまち
新地しんじまち - - - - - - 新地しんじまち
飯舘いいたてむら - - - - - - - 飯舘いいたてむら
楢葉ならはまち - - - - - - - 楢葉ならはまち 双葉ふたば
広域こういき行政ぎょうせいけん
富岡とみおかまち - - - - - - - 富岡とみおかまち
川内せんだいむら - - - - - - - 川内せんだいむら
大熊おおくままち - - - - - - - 大熊おおくままち
双葉ふたばまち - - - - - - - 双葉ふたばまち
浪江なみえまち - - - - - - - 浪江なみえまち
葛尾かつらおむら - - - - - - - 葛尾かつらおむら
広野こうのまち いわき 都市としけん
34まん7408にん
いわき 都市としけん
36まん1286にん
いわき 都市としけん
36まん6207にん
いわき 都市としけん
36まん5864にん
いわき 都市としけん
36まん0025にん
いわき 都市としけん
34まん7667にん
いわき 都市としけん
35まん4556にん
広野こうのまち
いわき いわき -

発電はつでんしょ[編集へんしゅう]

原町はらまち火力かりょく発電はつでんしょ

原子力げんしりょく発電はつでんしょ[編集へんしゅう]

  • 福島ふくしまだいいち原子力げんしりょく発電はつでんしょ大熊おおくままち双葉ふたばまち
  • 福島第二原子力発電所ふくしまだいにげんしりょくはつでんしょ富岡とみおかまち楢葉ならはまち

火力かりょく発電はつでんしょ[編集へんしゅう]

芸能げいのう[編集へんしゅう]

相馬そうま馬追うまおい

郷土きょうど芸能げいのう祭事さいじ[編集へんしゅう]

歌謡かよう[編集へんしゅう]

テレビ番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

TOKIO出演しゅつえんする日本にほんテレビ番組ばんぐみザ!鉄腕てつわん!DASH!!』は、はまどおりとの関係かんけいふかい。浪江なみえまち津島つしまの「DASHむら」をはじめ、いわき四倉よつくらフタバスズキリュウ化石かせきあと紹介しょうかいされた。また、震災しんさいまえには、はまどおりの菓子かしメーカーが、DASHむら出向でむくことがあった。

はまどおりを舞台ぶたいにした作品さくひん[編集へんしゅう]

交通こうつう[編集へんしゅう]

鉄道てつどう[編集へんしゅう]

バス[編集へんしゅう]

道路どうろ[編集へんしゅう]

高速こうそく道路どうろ[編集へんしゅう]

いわおえつ自動車じどうしゃどう

国道こくどう主要しゅよう県道けんどう[編集へんしゅう]

きゅう国道こくどう6ごう国道こくどう399ごう交点こうてん
(いわきたいらじゅうまち交差点こうさてん
南北なんぼくじく
東西とうざいじく

みちえき[編集へんしゅう]

みちえきよつくらみなと

港湾こうわん[編集へんしゅう]

メディア[編集へんしゅう]

このほか正式せいしき放送ほうそうエリアではないもののいわき一部いちぶ地域ちいきでは在京ざいきょう民放みんぽう(キーきょく)とNHKEテレ東京とうきょうNHK水戸放送局みとほうそうきょく相馬そうま新地しんじまちみなみ相馬そうま一部いちぶ地域ちいきではざいせん民放みんぽうNHK仙台放送局せんだいほうそうきょく視聴しちょうすることが可能かのう[よう出典しゅってん]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 伊藤いとう喜良きよし国人くにびと連合れんごう角逐かくちく時代じだい」、小林こばやし清治きよじ大石おおいし直正なおまさへん中世ちゅうせい奥羽おうう時代じだい』、東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1978ねん
  • 田村たむら俊和としかず鎮西ちんぜい清高きよたか宮城みやぎ豊彦とよひこへん日本にっぽん地形ちけいだい3かん東北とうほく)、東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、2005ねんほん項目こうもくかかわる箇所かしょ執筆しっぴつ鈴木すずき毅彦たけひこによる。
  • 柳原やなぎはら敏昭としあき中世ちゅうせい陸奥みちのくこく地域ちいき区分くぶん」、柳原やなぎはら敏昭としあき飯村いいむらひとしへん鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい奥州おうしゅう』、高志こうし書院しょいん、2002ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ あいそう地域ちいき概要がいよう”. 福島ふくしまけん (2022ねん8がつ1にち). 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  2. ^ 福島ふくしまはまどおり、ロボ関連かんれんつど誘致ゆうち奏功そうこう、50しゃえへ」日本経済新聞にほんけいざいしんぶん電子でんしばん2020ねん5がつ25にちおよび『日経にっけい産業さんぎょう新聞しんぶん自動車じどうしゃ機械きかいめん2020ねん6がつ5にち(2020ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ ふくしま復興ふっこうステーション 福島ふくしま県庁けんちょう(2020ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  4. ^ 福島ふくしま栽培さいばい漁業ぎょぎょう拠点きょてん 稚魚ちぎょ放流ほうりゅう養殖ようしょく研究けんきゅう 復興ふっこう後押あとお」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん夕刊ゆうかん2019bねb2がつ1にち社会しゃかい・スポーツめん掲載けいさい共同通信きょうどうつうしん記事きじ(2022ねん10がつ11にち閲覧えつらん
  5. ^ 日本にっぽん地形ちけいだい3かん74ぺーじ同書どうしょ巻頭かんとう5は、いわき主要しゅようまでふくめたほぼおな地域ちいき磐城いわき海岸かいがんしるしている。
  6. ^ 日本にっぽん地形ちけいだい3かん74ぺーじ
  7. ^ 日本にっぽん地形ちけいだい3かん78ぺーじ
  8. ^ 日本にっぽん地形ちけいだい3かん74-5ぺーじ
  9. ^ 日本にっぽん地形ちけいだい3かん76-77ぺーじ
  10. ^ 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 福島ふくしまけん地名ちめい』205ぺーじ
  11. ^ 柳原やなぎはら敏昭としあき中世ちゅうせい陸奥みちのくこく地域ちいき区分くぶん」、柳原やなぎはら敏昭としあき飯村いいむらひとしへん鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい奥州おうしゅう』(高志こうし書院しょいん、2002ねん)15ぺーじ
  12. ^ 伊藤いとう喜良きよし国人くにびと連合れんごう角逐かくちく時代じだい」、『中世ちゅうせい奥羽おうう時代じだい』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1978ねん)126-127ぺーじ
  13. ^ 街道かいどうWeb 原町はらまち森林しんりん鉄道てつどう 新田川にいだがわせん (1)
  14. ^ 浪江なみえ森林しんりん鉄道てつどういにしえ鉄道てつどうたずねて~
  15. ^ 避難ひなん区域くいき変遷へんせんについて-解説かいせつ福島ふくしまけん・ふくしま復興ふっこうステーション(2018ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  16. ^ 福島ふくしま国際こくさい研究けんきゅう産業さんぎょう都市とし(イノベーション・コースト)構想こうそう福島ふくしまけん・ふくしま復興ふっこうステーション(2018ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  17. ^ a b 平成へいせい22ねん国勢調査こくせいちょうさ速報そくほう福島ふくしまけん人口じんこう世帯せたいすう福島ふくしまけん
  18. ^ 映画えいが『あいときぼうのまち』公式こうしきサイト”. www.u-picc.com. 2022ねん1がつ25にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]