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東久邇宮稔彦王 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう

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ひがし久邇くに稔彦としひこから転送てんそう
ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう
ひがし久邇くにみや
ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう肖像しょうぞう写真しゃしん
続柄つづきがら

みやごう ひがし久邇くにみや
ぜん 稔彦としひこ(なるひこ)
称号しょうごう 陸軍りくぐん大将たいしょう
したがえ
だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう
こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
おう→(すめらぎせき離脱りだつ
敬称けいしょう 殿下でんか→(すめらぎせき離脱りだつ
出生しゅっしょう (1887-12-03) 1887ねん12月3にち[注釈ちゅうしゃく 1]
日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん京都きょうと上京かみぎょう京都きょうと御苑ぎょえん
死去しきょ (1990-01-20) 1990ねん1がつ20日はつか(102さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう渋谷しぶや広尾ひろお日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ医療いりょうセンター
埋葬まいそう 1990ねん1がつ26にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう文京ぶんきょう大塚おおつか豊島としまおか墓地ぼち
配偶はいぐうしゃ 稔彦としひこ王妃おうひ聡子さとこ内親王ないしんのうやすしみや聡子さとこ内親王ないしんのう
子女しじょ もりあつしおう
せいおう
あきらつねおう
俊彦としひこおう
父親ちちおや 久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのう
母親ははおや 寺尾てらお宇多子うたこ
宗教しゅうきょう 神道しんとう⇒ひがしくにきょう神道しんとう
サイン
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ひがし久邇くにみや 稔彦としひこおう
ひがしくにのみや なるひこおう
歴代れきだい首相しゅしょうとう写真しゃしん』より
出身しゅっしんこう 陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう
陸軍りくぐんだい学校がっこう
サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう
エコール・ポリテクニーク
ぜんしょく 防衛ぼうえいそう司令しれいかん
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
陸軍りくぐん大臣だいじん
貴族きぞくいん議員ぎいん
親族しんぞく 久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうちち
賀陽かようみやくにけんおう異母いぼけい
久邇くにみや邦彦くにひこおう異母いぼけい
梨本なしもと宮守みやもりただしおう異母いぼけい
多嘉たかおう異母いぼけい
朝香あさかみやばと彦王異母いぼけい[注釈ちゅうしゃく 1]

内閣ないかく ひがし久邇くに宮内くないかく
在任ざいにん期間きかん 1945ねん8がつ17にち - 1945ねん10月9にち
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

日本の旗 だい32だい 陸軍りくぐん大臣だいじん内閣ないかく総理そうり大臣だいじん兼任けんにん
内閣ないかく ひがし久邇くに宮内くないかく
在任ざいにん期間きかん 1945ねん8がつ17にち - 1945ねん8がつ23にち

選挙せんきょ 皇族こうぞく議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1907ねん12月3にち - 1946ねん5月23にち
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称号しょうごうおう

ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう(ひがしくにのみや なるひこおう、1887ねん明治めいじ20ねん12月3にち[注釈ちゅうしゃく 1] - 1990ねん平成へいせい2ねん1がつ20日はつか)、のちひがし久邇くに 稔彦としひこ(ひがしくに なるひこ)は、日本にっぽんきゅう皇族こうぞく政治せいじ陸軍りくぐん軍人ぐんじんひがし久邇くにみや初代しょだい当主とうしゅ

陸士りくし20りくまさる26最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん大将たいしょう位階いかい勲等くんとうこうきゅうしたがえだいくんこういちきゅう

だい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせん処理しょりないかくとして内閣ないかく総理そうり大臣だいじん在職ざいしょく1945ねん8がつ17にち-1945ねん10月9にち)に就任しゅうにん[2][3]憲政けんせい史上しじょう唯一ゆいいつ皇族こうぞく内閣ないかく組閣そかく

内閣ないかく総理そうり大臣だいじんとして、連合れんごうこくたいする降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういん[4][5]ぐん解体かいたい[5]復員ふくいん[4]行政ぎょうせい機構きこう平時へいじ[5]占領せんりょうぐん[5]などを実施じっしした。しかし、自由じゆう政策せいさく[注釈ちゅうしゃく 2]めぐGHQ内務省ないむしょうによる対立たいりつやGHQによる内政ないせい干渉かんしょうたいし、抵抗ていこう意志いししめすためそう辞職じしょくした[注釈ちゅうしゃく 3]在任ざいにん日数にっすう54日間にちかんは、ながらく内閣ないかく制度せいど史上しじょう最短さいたん記録きろくであった[注釈ちゅうしゃく 4]

内閣ないかく総理そうり大臣だいじん退任たいにん1946ねん昭和しょうわ21ねん)に公職こうしょく追放ついほうとなり[6]1947ねん昭和しょうわ22ねん)に臣籍しんせき降下こうかした[6]1950ねん昭和しょうわ25ねん)には新興しんこう宗教しゅうきょうひがしくにきょう」をげて一時いちじ教祖きょうそとなった[6][3]。しかしがけた事業じぎょうはことごとく失敗しっぱいした[7]

歴代れきだいないかく総理そうり大臣だいじんなかさい長寿ちょうじゅしゃ(102さい48にち=37303にち死去しきょ)。千葉工業大学ちばこうぎょうだいがく創設そうせつたってはその発案はつあんしゃとなった人物じんぶつ

こうじゅん皇后こうごうめいだい125だい天皇てんのう明仁あきひと上皇じょうこう)はしたがえまごたる。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

1887ねん明治めいじ20ねん)、久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうだいきゅう王子おうじとして誕生たんじょう[7]当初とうしょらくきた農家のうか里子さとごされた[1]学習がくしゅういん初等しょとう同期生どうきせいには異母いぼけいばと彦王[注釈ちゅうしゃく 1]有栖川ありすがわみやたけしじん親王しんのうだいいち王子おうじ栽仁おう北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうだいさん王子おうじ成久なりひさおうどうだいよん王子おうじ輝久てるひさおうなどのほか、里見さとみもおり親友しんゆうとなる。

宮家みやけ末子まっしとして本来ほんらいならば成人せいじんのち臣籍しんせき降下こうかして伯爵はくしゃくとなるところだったが、明治天皇めいじてんのうだいきゅう皇女おうじょである聡子さとこ内親王ないしんのう婿むこ確保かくほするための特例とくれいとして、1906ねん明治めいじ39ねん)11月に19さいひがし久邇くにみやみやごうたまわ一家いっかてた[1]陸軍りくぐんはいり、1908ねん明治めいじ41ねん)12月、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(20)を卒業そつぎょう。1914ねん大正たいしょう3ねん)11月、陸軍りくぐんだい学校がっこう(26)を卒業そつぎょう[7]

留学りゅうがく[編集へんしゅう]

1915ねん大正たいしょう4ねん)5がつ予定よていどお聡子さとこ内親王ないしんのう結婚けっこん1920ねん大正たいしょう9ねん)4がつから1926ねん大正たいしょう15ねん)まで、フランス留学りゅうがくした。サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうまなび、卒業そつぎょうエコール・ポリテクニークで、政治せいじ外交がいこうをはじめ幅広はばひろ修学しゅうがくした。フランス陸軍りくぐんだい学校がっこう42[8]。そして後述こうじゅつするように、この留学りゅうがく時代じだいにフランスの自由じゆう気風きふう馴染なじみ、画家がかクロード・モネもと首相しゅしょうジョルジュ・クレマンソー、そしてだいいち世界せかい大戦たいせん英雄えいゆうとしてられたジョゼフ・ジョフル元帥げんすいフィリップ・ペタン元帥げんすい親交しんこうむすんだり、自動車じどうしゃ運転うんてん現地げんち恋人こいびととの生活せいかつたのしんだ。この留学りゅうがく時代じだい影響えいきょうから、皇室こうしつ随一ずいいち自由じゆう主義しゅぎてき思想しそうぬしとしてられるようになる。なおひがし久邇くにみやは、フランスへの長期ちょうきわた滞在たいざいいたった理由りゆうについて①山縣やまがた有朋ありとも元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう上原うえはら勇作ゆうさく元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう陸軍りくぐん上層じょうそうから「なるべくなが外国がいこく滞在たいざいし、こうの知名ちめいひとしたしくなるように」言明げんめいされたこと、②滞在たいざいフランスで、「はじめて自由じゆうあじわい、また人間にんげんとしての個人こじんてき自覚じかく獲得かくとくした」ことをげている。

フランス留学りゅうがく経験けいけんから、欧米おうべい日本にっぽんをはじめとするアジア諸国しょこく科学かがく技術ぎじゅつりょく格差かくさやアイデンティティーのちがいをかんじたひがし久邇くにみやは、海軍かいぐん元帥げんすい永野ながの修身しゅうしん教育きょういく学者がくしゃ小原おはら國芳くによし、そして哲学てつがくしゃ西田にしだ幾多郎きたろうらとともに、①日本にっぽんをはじめとする各国かっこく国家こっか枢要すうよう人材じんざい養成ようせい、②アジア諸国しょこく科学かがく技術ぎじゅつ教育きょういく発展はってん向上こうじょう、③アジアを背負せお世界せかい文化ぶんか貢献こうけんするため拠点きょてん創成そうせいなどを目指めざして(詳細しょうさい関連かんれん項目こうもくのウィキソース「興亞こうあ工業こうぎょう大學だいがく設立せつりつ趣意しゅいしょ」を参照さんしょうのこと)1942ねん昭和しょうわ17ねん)、興亜こうあ工業こうぎょう大学だいがく千葉工業大学ちばこうぎょうだいがく)の創設そうせつ尽力じんりょくしている。

大正天皇たいしょうてんのう容態ようだいおもわしくないとのほう遊学ゆうがくちゅうひがし久邇くにみやはいっていたが、息苦いきぐるしい日本にっぽんもどるのをきらって滞在たいざいつづけていたひがし久邇くにみや一向いっこう帰国きこく素振そぶりをせず問題もんだいとなった。日本にっぽん留守るすたくまもっていた聡子さとこ内親王ないしんのうが「わたし面目めんぼくまるつぶれである」とひがし久邇くにみや従者じゅうしゃ手紙てがみおくりつけるほどだった。ひがし久邇くにみや権威けんい主義しゅぎ形式けいしき主義しゅぎおもんじる大正天皇たいしょうてんのうとはうまわず、不仲ふなかだったともいわれる。結局けっきょくひがし久邇くにみや帰国きこく大正天皇たいしょうてんのう崩御ほうぎょ1927ねん昭和しょうわ2ねん)1がつとなり、フランス滞在たいざいは7年間ねんかんにもおよんだ[7][9]

だが実際じっさいには、稔彦としひこおうのフランス留学りゅうがくりくだい卒業そつぎょうまでは予定よていどおりだったが、そのままにえがくなどの生活せいかつおくり、社交しゃこうかい上流じょうりゅう階級かいきゅうのマナーをまなぶこともなかったという。外国がいこく滞在たいざいとして年額ねんがく20まんえん現在げんざい価値かちで8おくえん)をもらいながらのお気軽きがる生活せいかつであった。また稔彦としひこおうざいふつ当時とうじからすめらぎせき離脱りだつ希望きぼうしていた。帰国きこく直後ちょくご宮家みやけ顧問こもん倉富くらとみ勇三郎ゆうさぶろう枢密院すうみついん議長ぎちょうに「自分じぶんらのように皇室こうしつとの『続柄つづきがら疎遠そえん』なるもの皇族こうぞくとしているのは条理じょうりにおいても、実際じっさいにおいてもくない」(『倉富くらとみ日記にっき1927ねん4がつ1にちじょう)とはなしている[1]

さらに問題もんだいになったのは現地げんちつまかくうたがいである。あにばと彦王はどう時期じきにパリにいたが、稔彦としひこおういえりるさい行動こうどうから「懇親こんしんなる婦人ふじん」の存在そんざい察知さっちした(『倉富くらとみ日記にっき』1926ねん3がつ15にちじょう)。疑惑ぎわくはフランスに随従ずいじゅうした属官ぞっかん池田いけだ亀雄かめお結婚けっこんでもふかまる。独身どくしんだった池田いけだとどこおふつちゅうの1926ねん大正たいしょう15ねんあき現地げんち女性じょせい結婚けっこんした。女性じょせい1928ねん昭和しょうわ3ねん)2がつ乳児にゅうじ性別せいべつ不明ふめい)をれて来日らいにちする。みや内省ないせい幹部かんぶはこの母子ぼし稔彦としひこ現地げんちつまかくではないかとうたがった。たしかに、フランス語ふらんすご勉強べんきょうしたとはおもえない下級かきゅう属官ぞっかん現地げんち外国がいこく人妻ひとづまをつくるのは不自然ふしぜんで、名目めいもく上池田うえいけだつまとして来日らいにちさせたとかんがえてもおかしくない。ただ、母子ぼし1930ねん昭和しょうわ5ねん初頭しょとう、パリにかえってしまい、真相しんそうからない[1]

軍人ぐんじん生活せいかつ[編集へんしゅう]

帰国きこくは、近衛このえあゆみへいだい3連隊れんたいちょうだい師団しだんちょうだいよん師団しだんちょう陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶちょう歴任れきにんした[7]。フランス留学りゅうがく経験けいけんから陸軍りくぐん近代きんだいあん提唱ていしょうするようになった。

にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)ではだいぐん司令しれいかんとして華北かほく駐留ちゅうりゅうし、武漢ぶかん攻略こうりゃく作戦さくせん参加さんかした[7]自身じしん自由じゆう主義しゅぎてき思想しそうもとづいて、たいちゅう戦争せんそう開戦かいせんおよびその長期ちょうきたいべい戦争せんそう突入とつにゅうにはきわめて批判ひはんてきであった。そのような思想しそうぬしでありながら、皇族こうぞく陸軍りくぐん幹部かんぶという位置いちにもいたひがし久邇くにみやは、和平わへいからはたびたび首班しゅはん候補こうほにあげられるようになる。1939ねん昭和しょうわ14ねん)に陸軍りくぐん大将たいしょう昇進しょうしん[7]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)8がつ5にち昭和しょうわ天皇てんのう謁見えっけんしたさい天皇てんのうは「軍部ぐんぶ統帥とうすいけん独立どくりつということをいって、勝手かってなことをいってこまる。ことに南部なんぶふつしるしフランスりょうインドシナ現在げんざいベトナム南部なんぶ進駐しんちゅうたって、自分じぶん各国かっこくおよぼす影響えいきょうおおきいとおもって反対はんたいであったから、杉山すぎやま参謀さんぼう総長そうちょうに、国際こくさい関係かんけい悪化あっかしないかときいたところ、杉山すぎやまは、なん各国かっこく影響えいきょうすることはない、作戦さくせんじょう必要ひつようだから進駐しんちゅういたしますというので、仕方しかたなく許可きょかしたが、進駐しんちゅうえいべい資産しさん凍結とうけつれいし、国際こくさい関係かんけい杉山すぎやまはなしとは反対はんたいに、非常ひじょう日本にっぽん不利ふりになった。陸軍りくぐん作戦さくせん作戦さくせんとばかりって、どうも本当ほんとうのことを自分じぶんにいわないのでこまる」とみやべた。これにたいし、みやは「現在げんざい制度せいど大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう)では、陛下へいか大元帥だいげんすい陸海りくかいぐん統帥とうすいしているのだから、このたびのふつしるし進駐しんちゅうについて、陛下へいかがいけないとおかんがえになったのなら、おゆるしにならなければいいとおもいます。たとえ参謀さんぼう総長そうちょうとか陸軍りくぐん大臣だいじん作戦さくせんじょう必要ひつようといっても、陛下へいか全般ぜんぱん関係かんけいじょうよくないとおかんがえになったら、おゆるしにならないほうがよい」と、立憲りっけん君主くんしゅわくえる危険きけんおかしてでも天皇てんのう大権たいけんによって陸軍りくぐんめたほういと助言じょげんしたという。しかし、イギリス訪問ほうもん感銘かんめいけた昭和しょうわ天皇てんのう立憲りっけん君主くんしゅせいへのかかわりはつよく、ひがし久邇くにみや助言じょげんとどかなかったという。

日米にちべい開戦かいせん直前ちょくぜん1941ねん昭和しょうわ16ねん)10がつだい3近衛このえないかくそう辞職じしょくけ、後継こうけい首相しゅしょうがった。たいべい戦争せんそう回避かいひ主張しゅちょうするリベラル皇族こうぞくであるひがし久邇くにみや首相しゅしょうにして内外ないがい危機ききさえようとする構想こうそうであったが、日米にちべい交渉こうしょう妥結だけつ志向しこうする近衛このえ文麿ふみまろ広田ひろた弘毅こうき海軍かいぐん穏健おんけん以外いがいのみならず、強硬きょうこう東条とうじょう英機ひできひがし久邇くにみや陸軍りくぐん軍人ぐんじんであることから賛成さんせいした。しかし木戸きど幸一こういち内大臣ないだいじんの、皇室こうしつるいおよぼさぬようにという反対はんたいによりこの構想こうそうつぶれ、東条とうじょう首相しゅしょう抜擢ばってきされた。

にちはな和平わへいき、太平洋戦争たいへいようせんそう前夜ぜんやには悪化あっかする日本にっぽん外交がいこう関係かんけい改善かいぜんさせるため、政治せいじ外交がいこう報道ほうどうぐんなど、かく方面ほうめん有力ゆうりょくしゃまねれ、戦争せんそう回避かいひ糸口いとぐち模索もさくするも結局けっきょく開戦かいせんいたった[10]。1941ねん昭和しょうわ16ねん)9がつには頭山とうやまみつる蒋介石しょうかいせきとの和平わへい会談かいだんこころみるよう依頼いらいし、蒋介石しょうかいせきからも前向まえむきな返事へんじるが、あたらしく首相しゅしょう就任しゅうにんした東條とうじょうに「勝手かってなことをしてもらってはこまる」と拒絶きょぜつされ、会談かいだんまぼろしとなった(自著じちょわたし記録きろく』)。

1941ねん12月に防衛ぼうえいそう司令しれいかん就任しゅうにん[7]

1942ねん昭和しょうわ17ねん元日がんじつ参内さんだいして祝賀しゅくが挨拶あいさつをしたさい昭和しょうわ天皇てんのうから開戦かいせん直前ちょくぜんの1941ねん昭和しょうわ16ねん)11月30にち高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのうとのあいだきた出来事できごとけられ、海軍かいぐん実情じつじょうはじめてることになる。これをけ、日本にっぽん先行さきゆきにたい一層いっそう不安ふあんおぼえたとしている。

大戦たいせんちゅう海軍かいぐん高松宮たかまつのみやとも大戦たいせん終結しゅうけつのために奔走ほんそうした。

1945ねん昭和しょうわ20ねん4がつ16にち東京とうきょうだい空襲くうしゅう遭遇そうぐうみなと麻布まふにあった麻布あざぶ御殿ごてんことひがし久邇くにみや御殿ごてん本邸ほんていげんみなと六本木ろっぽんぎ1丁目ちょうめアークヒルズ仙石せんごく山森やまもりタワーのある一角いっかく)が全焼ぜんしょうしたが、東京とうきょうにとどまり敷地しきち防空壕ぼうくうごうちかくにいちあいだかりきょてて終戦しゅうせんまでらした[11]。またこののち皇族こうぞく共用きょうよう御殿ごてんとして利用りようされていた高輪たかなわ南町みなみまち御用邸ごようていげんみなと高輪たかなわ3丁目ちょうめ高輪たかなわもり公園こうえん品川しながわ税務署ぜいむしょSHINAGAWA GOOS(シナガワ グース)があった場所ばしょ)に転居てんきょしたともいう[12]

もっとも大戦たいせん末期まっききた宮城みやぎ事件じけんでは、鈴木すずき貫太郎かんたろう首相しゅしょうらと同様どうよう断固だんこ交戦こうせんとなえる佐々木ささき武雄たけおひきいる「国民こくみん神風かみかぜたい」によって私邸していちされるという被害ひがいっている。

内閣ないかく総理そうり大臣だいじん[編集へんしゅう]

就任しゅうにん[編集へんしゅう]

ひがし久邇くにみや稔彦としひこおうさい前列ぜんれつ)と内閣ないかく閣僚かくりょう

ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく降伏ごうぶく決定けってい発表はっぴょうの3にち1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ17にちひがし久邇くにみや内閣ないかく総理そうり大臣だいじん任命にんめいされた。日本にっぽん降伏ごうぶく予告よこく納得なっとくしない陸軍りくぐん武装ぶそうき、ポツダム宣言せんげんもとづく終戦しゅうせんにともなう手続てつづき円滑えんかつすすめるためには、皇族こうぞくであり陸軍りくぐん大将たいしょうでもあったひがし久邇くにみやがふさわしいとかんがえられたためであり、昭和しょうわ天皇てんのうもこれを了承りょうしょうした。ひがし久邇くにみや最初さいしょ総理そうり拝命はいめい固辞こじしようとかんがえていたが、敗戦はいせんにやつれた天皇てんのう懇願こんがんされて意思いしえたという。このことについてひがし久邇くにみやは「この未曾有みぞう危機きき突破とっぱするため、死力しりょくをつくすことは日本にっぽん国民こくみん一人ひとりとして、また、つねに優遇ゆうぐうけてきた皇族こうぞくとして、最高さいこう責任せきにんであるとかんがえた」としている。

ふく総理そうりかく国務大臣こくむだいじん無任所むにんしょ)には国民こくみんてき人気にんきたかかった近衛このえ文麿ふみまろ外務がいむ大臣だいじんには重光しげみつまもる大蔵おおくら大臣だいじんには津島つしま寿一ひさいち内閣ないかく書記官しょきかんちょうけん情報じょうほうきょく総裁そうさいには緒方おがた竹虎たけとら任命にんめいされた。また海軍かいぐん大臣だいじんにはもと首相しゅしょう米内よない光政みつまさ留任りゅうにんした。なお重光しげみつ占領せんりょうぐん対立たいりつして外相がいしょう辞職じしょくした9がつなかばに、後任こうにん外相がいしょうとして吉田よしだしげる任命にんめいしている。吉田よしだにとってひがし久邇くに宮内くないかく外相がいしょう政治せいじとしての正式せいしきなデビューであった。陸軍りくぐん大臣だいじん任命にんめい内定ないていしていた下村しもむらじょう陸軍りくぐん大将たいしょう帰国きこくするまでのあいだ(8がつ17にち - 23にち)、ひがし久邇くにみや兼任けんにんした。

新聞しんぶんやニュース映画えいがでは、この皇族こうぞく出身しゅっしん首相しゅしょうを「ひがし久邇くに總理そうり大臣だいじんみや(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「ひがし久邇くに首相しゅしょうみや(ひがしくにしゅしょうのみや)」とんだ[注釈ちゅうしゃく 5]

降伏ごうぶく武装ぶそう解除かいじょ[編集へんしゅう]

日本にっぽんがわ全権ぜんけん代表だいひょうだん

日本にっぽん降伏ごうぶく告知こくちされたものの、依然いぜんとして陸海りくかいぐん内外ないがい展開てんかいしており、ひがし久邇くに宮内くないかくだいいち仕事しごと連合れんごうこく要求ようきゅうする「日本にっぽんぐん武装ぶそう解除かいじょ」であった。なお、ひがし久邇くに宮内くないかくさい重要じゅうよう課題かだいは「無血むけつ進駐しんちゅう」だったが、ダグラス・マッカーサーひきいる連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ/SCAP)から、一発いっぱつでも発砲はっぽうされれば連合れんごう国軍こくぐんは「武力ぶりょく進駐しんちゅうえる」と通達つうたつされていた[13]。この目的もくてきのため、ひがし久邇くにみやきゅう日本にっぽんりょう戦争せんそうによる一時いちじ占領せんりょう皇族こうぞく勅使ちょくしとして派遣はけんし、現地げんち部隊ぶたい説得せっとくたらせている。

また、連合れんごうこくによる占領せんりょう統治とうち開始かいしとどこおりなく開始かいしされるように、準備じゅんび万全ばんぜんすことも重要じゅうよう任務にんむとしてこれを達成たっせいした。玉音ぎょくおん放送ほうそうおこなわれて18にち9月2にちには、東京とうきょうわんおきミズーリごううえ日本国にっぽんこく政府せいふならびに日本にっぽんぐん統帥とうすい全権ぜんけん代表だいひょう外務がいむ大臣だいじん重光しげみつまもる参謀さんぼう総長そうちょう梅津うめづ美治よしはるろう)により日本にっぽん降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんがされ(日本にっぽん降伏ごうぶく)、正式せいしき太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)は終結しゅうけつした。

賀川かがわ豊彦とよひこいちおくそう懺悔ざんげ運動うんどう[編集へんしゅう]

ひがし久邇くにみやは、平和へいわ運動うんどう第一人者だいいちにんしゃだった賀川かがわ豊彦とよひこ首相しゅしょう官邸かんていまねき「いま日本にっぽん道徳どうとくち、人心じんしんはすさみ、だれもこれをすくちからがありません。外国がいこくじんへの敵対心てきたいしんにくしみをのぞかないとポツダム宣言せんげん発表はっぴょうができないのです。世界せかい平和へいわ目指めざしてしょ外国がいこく日本にっぽんむすぶために活動かつどうする資格しかくのあるものは、あなたをおいてにないようにおもわれます。そこで人心じんしんあらたにするために、内閣ないかく参与さんよ制度せいどつくることにしました。ぜひあなたも参与さんよになってください。そして、どうしたらいいか、意見いけんかせてください」と相談そうだんした。

これをけ、賀川かがわ今後こんご日本にっぽん国家こっかてき方針ほうしんについて日本にっぽん基督教きりすときょうだん団員だんいんたちに相談そうだんすると、教団きょうだん主事しゅじ木俣きまたさとしが「早急そうきゅう国民こくみんけて、キリスト教徒きりすときょうともそうでないものひとつになって、過去かこにおけるかたかんがかた反省はんせいし、懺悔ざんげをする運動うんどうこしたらどうでしょうか」と提案ていあんしたという、賀川かがわ教団きょうだん役員やくいんたちはこの意見いけん賛成さんせい表明ひょうめいし、ひがし久邇くにみやそう懺悔ざんげ運動うんどうについて提案ていあんをした。この意見いけんいたひがし久邇くにみや最初さいしょおどろいたかおをしたという。

賀川かがわつづけて「そうです。まだ戦争せんそうはじまらないころ、ある有名ゆうめい議員ぎいんほうられて、日本にっぽん軍隊ぐんたい世界せかい最強さいきょうだとわれました。わたしはそのとき日本にっぽんがあたかも聖書せいしょかたられている放蕩ほうとう息子むすこのようながしたのです」

日本にっぽんほどめぐまれたくにはありません。ゆたかな作物さくもつ温順おんじゅん気候きこう他国たこく侵略しんりゃくけにくい地形ちけい。それなのに、いつのにか日本にっぽん平和へいわれきって、ぜいたくになり、めるものまずしいもの搾取さくしゅし、資本しほんむすびついて一大いちだい工業こうぎょうこくとなりました。しかも軍備ぐんびほこり、なん抵抗ていこうもしない他国たこく侵略しんりゃくし、残虐ざんぎゃく行為こういかえした」

わたしはこの放蕩ほうとう息子むすこがいつかまり、破滅はめつしないわけはないとおもいました。たして、日本にっぽん敗戦はいせんによってくだかれました。こん日本にっぽんがなすべきことは、放蕩ほうとう息子むすこ本心ほんしんかえり、ちちゆるしをもとめてそのもとにかえったように、国民こくみんひとつとなり、いままでのかたかんがかた反省はんせいし、懺悔ざんげをしてあたらしく出直でなお以外いがいにありません」とべた。

これをいたひがし久邇くにみやうなずき「ラジオをとおしてあらゆるひと懺悔ざんげけましょう。いもわかきも、おとこおんなも、職業しょくぎょうのいかんをわず、こぞって過去かこおもがりをあらため、平和へいわ国家こっかきるみんとしてのいちはじめるように」とべたとされる[14]

いちおくそう懺悔ざんげのラジオ放送ほうそう[編集へんしゅう]

玉音ぎょくおん放送ほうそうおこなわれて翌々日よくよくじつ1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ17にちひらかれた日本人にっぽんじん記者きしゃだんとのはつ記者きしゃ会見かいけんにおいて、ひがし久邇くにみや国体こくたい護持ごじ方針ほうしん敗戦はいせん原因げんいんろんれるとともに、「国民こくみん道義どうぎのすたれたのも原因げんいんのひとつ」であり、「ぐんかんみん国民こくみん全体ぜんたい徹底的てっていてき反省はんせい懺悔ざんげし」なければならず「ぜん国民こくみんそう懺悔ざんげをすることがわがくに再建さいけん第一歩だいいっぽ」であるとべた。9月5にち帝国ていこく議会ぎかいおこなわれた施政しせい方針ほうしん演説えんぜつにおいてもつぎのように発言はつげんした。

ことここにいたったのは勿論もちろん政府せいふ政策せいさくがよくなかったからであるが、また国民こくみん道義どうぎのすたれたのもこの原因げんいんひとつである。このさいわたしぐん官民かんみん国民こくみん全体ぜんたい徹底的てっていてき反省はんせい懺悔ざんげしなければならぬとおもう。ぜん国民こくみんそう懺悔ざんげすることがわがくに再建さいけん第一歩だいいっぽであり、わが国内こくない団結だんけつ第一歩だいいっぽしんずる。(中略ちゅうりゃく敗戦はいせんってところもとよりいちにしてまりませぬ、前線ぜんせん銃後じゅうごも、ぐんかんみんすべて、国民こくみんことごとしずかに反省はんせいするところがなければなりませぬ、我々われわれいまこそそう懺悔ざんげかみ御前ごぜん一切いっさい邪心じゃしんあらきよしめ、過去かこもっ将来しょうらいの誡めとなし、しんあらたにして、たたかいのにもしたる挙国きょこく一家いっかあい援けしょうたずさえて各々おのおの本分ほんぶん最善さいぜんを竭し、きたるべき苦難くなんえて、帝国ていこく将来しょうらい進運しんうんひらくべきであります

このいわゆる「いちおくそう懺悔ざんげろん発言はつげんは、政治せいじ官吏かんり軍人ぐんじんによる「国家こっか政策せいさくあやまり」をみとめると同時どうじに、戦争せんそうのぞあおった「国民こくみん道義どうぎてき責任せきにん」についても言及げんきゅうするものだった。その発言はつげんは、日本にっぽん戦争せんそう責任せきにん所在しょざい曖昧あいまいにし、ひいては昭和しょうわ天皇てんのうへの問責もんせき回避かいひするための理論りろんだとして国民こくみんあいだ反発はんぱつまね一方いっぽうで、問題もんだいへの関心かんしんたかめた。

すでに敗戦はいせん直前ちょくぜん時期じき内閣ないかく情報じょうほうきょくからかくマスコミにたいして「終戦しゅうせんも、開戦かいせんおよ戦争せんそう責任せきにん追及ついきゅうなどはまった不毛ふもう生産せいさんてきであるので、ゆるさない」との通達つうたつがなされていた。また、敗戦はいせんかく省庁しょうちょうは、占領せんりょうぐんにより戦争せんそう責任せきにん追及ついきゅう証拠しょうことして押収おうしゅうされるのを回避かいひするため、積極せっきょくてき組織そしきてき関係かんけい書類しょるい焼却しょうきゃく廃棄はいきおこなっている。9月12にち終戦しゅうせん処理しょり会議かいぎにおいては、戦争せんそう犯罪はんざいかんしてあくまでも日本にっぽんによる自主じしゅてき裁判さいばん開廷かいていすることが決定けっていされた。

一方いっぽうでGHQは、指導しどう命令めいれい新聞しんぶん発行はっこう停止ていし命令めいれいなどをもちいて「いちおくそう懺悔ざんげろん」の伸張しんちょうおさ[15]日本にっぽん戦争せんそう犯罪はんざい当時とうじ政府せいふぐんのトップにわせることを明確めいかくにすべく極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)の準備じゅんびにとりかかっている。

昭和しょうわ天皇てんのう退位たいいについて[編集へんしゅう]

外務がいむ官僚かんりょう田尻たじりあいよしが、「日本にっぽん再建さいけんのためには、昭和しょうわ天皇てんのう退位たいい皇室こうしつ財産ざいさんわたしが必要ひつようだ」と主張しゅちょうしたのにたいし、ひがし久邇くにみや首相しゅしょうも「そうおもう」と賛同さんどうしたうえで「天皇てんのうどうじお気持きもちだと推察すいさつされる」とのかんがえをしめした[16]

実際じっさい昭和しょうわ天皇てんのう自身じしん玉音ぎょくおん放送ほうそう放送ほうそうされた週間しゅうかんに「戦争せんそう責任せきにんしゃ連合れんごうこくわたすのはしん苦痛くつうにしてしのがたきところであるが、自分じぶん一人ひとりけて、退位たいいでもして、おさめるわけにはいかないだろうかとのおぼししあり」とべており[17]国民こくみんだけでなく、とき首相しゅしょうをはじめ、高松宮たかまつのみやをはじめとする皇族こうぞく一部いちぶ高級こうきゅう官僚かんりょう、さらには昭和しょうわ天皇てんのう自身じしんまでもが退位たいいろんかたむいていた。

しかし、占領せんりょう政策せいさくすすめていたダグラス・マッカーサーひきいる連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれいは、昭和しょうわ天皇てんのう戦争せんそう犯罪はんざい裁判さいばんせられれば日本にっぽん各地かくち反乱はんらんきる可能かのうせいがあり、占領せんりょう政策せいさくがうまくいかないのではないかと危惧きぐしていたことにくわえ、昭和しょうわ天皇てんのう自身じしん占領せんりょう政策せいさく全面ぜんめんてき協力きょうりょくする姿勢しせいしめしたため、GHQの占領せんりょう政策せいさく優先ゆうせんされ、天皇てんのう退位たいいろんえとなった。

戦後せんご日本にっぽん国家こっか方針ほうしん策定さくてい[編集へんしゅう]

ひがし久邇くに宮内くないかくでは大戦たいせん日本にっぽんすすむべき国家こっか方針ほうしんについてはなわれ「平和へいわてき新日本しんにほん建設けんせつシテ人類じんるい文化ぶんか貢献こうけんセムコトヲよく」という国家こっか目標もくひょうさだめられたが、この一文いちぶんは「首相しゅしょうみや訂正ていせい」と明記めいきされていることから、ひがし久邇くにみやみずからがんだものとされる。

そう辞職じしょく[編集へんしゅう]

ひがし久邇くにみやは、しん日本にっぽん建設けんせつけて活発かっぱつ言論げんろん公正こうせい世論せろん期待きたいするとし、政治せいじはん釈放しゃくほう言論げんろん集会しゅうかい結社けっしゃ自由じゆう容認ようにん方針ほうしん組閣そかく直後ちょくごあきらかにし、選挙せんきょほう改正かいせいそう選挙せんきょ実施じっし展望てんぼうしめした。しかしながら、政治せいじはん釈放しゃくほう戦後せんご混乱こんらんあえなかにあって共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめい勃興ぼっこう憂慮ゆうりょした内務省ないむしょう司法省しほうしょう反対はんたいにより実現じつげんしなかった。

内務省ないむしょうは、モーニングコート着用ちゃくよう直立ちょくりつする「現人神あらひとがみ」の昭和しょうわ天皇てんのうが、略装りゃくそう軍服ぐんぷく着用ちゃくようこし両手りょうてててややからだかたむける姿勢しせいダグラス・マッカーサーならっている会見かいけん写真しゃしん公表こうひょう阻止そしするために、山崎やまざきいわお内務ないむ大臣だいじん権限けんげん記事きじ掲載けいさい制限せいげんおよ差止さしと措置そち発禁はっきん処分しょぶん)を実施じっし[18]し、ひがし久邇くにみや同意どういしたが、GHQは日本にっぽん政府せいふたいして会見かいけん写真しゃしん公表こうひょうせまり、これにしたがわない場合ばあい山崎やまざき逮捕たいほして軍事ぐんじ裁判さいばんにかけ、内閣ないかくにはそう辞職じしょくめいじるとの通告つうこくおこなった。これをけて、山崎やまざき内相ないしょう発禁はっきん処分しょぶん撤回てっかいした。

GHQは10月4にちに「政治せいじてき公民こうみんてきおよ宗教しゅうきょうてき自由じゆうたいする制限せいげん除去じょきょけん覚書おぼえがき)」(人権じんけん指令しれい)を指令しれいし、治安ちあん維持いじほうなどの国体こくたいおよ日本にっぽん政府せいふたいする自由じゆう討議とうぎ阻害そがいする法律ほうりつ撤廃てっぱい特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ廃止はいし内務ないむ大臣だいじん以下いか警保局長きょくちょう警視総監けいしそうかん道府県どうふけん警察けいさつ部長ぶちょう特高とっこう課長かちょうなどの一斉いっせい罷免ひめんもとめた。なお、この時点じてんでは共産きょうさん主義しゅぎしゃ釈放しゃくほうおこなわれていなかった(徳田とくた球一きゅういちひがし久邇くにみやそう辞職じしょく5にち10がつ10日とおか府中ふちゅう刑務所けいむしょおとずれたフランスじんジャーナリストロベール・ギランによって発見はっけんされ出獄しゅつごく)が、ひがし久邇くにみや緒方おがた対応たいおう協議きょうぎし、GHQの指令しれい合理ごうりたいする抗議こうぎ意思いしあきらかにするために辞職じしょくするとの結論けつろんいたり、翌日よくじつ内閣ないかくそう辞職じしょくした[19]。なお、当時とうじ新聞しんぶんは、そう辞職じしょく直接ちょくせつ契機けいき皇室こうしつかんする自由じゆう論議ろんぎ問題もんだいにあったということにれている[20]

首相しゅしょう辞任じにん[編集へんしゅう]

すめらぎせき離脱りだつ[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月11にちひがし久邇くにみや皇室こうしつの「敗戦はいせん責任せきにんるため」として、皇族こうぞく身分みぶん離脱りだつする意向いこうであることを表明ひょうめい賀陽かようみやつねけんおうなどがこれに同調どうちょうした。

1946ねん昭和しょうわ21ねん)2がつひがし久邇くにみやは、「宮内庁くないちょうぼう高官こうかん」として、昭和しょうわ天皇てんのう自身じしん戦争せんそう責任せきにん(「昭和しょうわ天皇てんのう戦争せんそう責任せきにんろん」)をるため退位たいいする意思いしがあること、これへの賛同さんどうしゃ昭和しょうわ天皇てんのうに「道徳どうとくてき精神せいしんてき責任せきにん」をゆうするとかんがえていることをAP通信つうしん記者きしゃべている。ひがし久邇くにみや早期そうきから天皇てんのう退位たいい必要ひつようであるとかんがえていたとみられる。すで戦争せんそう犯罪はんざいじん裁判さいばんにおける昭和しょうわ天皇てんのう罪状ざいじょう免責めんせき決定けっていしていたGHQでは、「退位たいいろん」(当時とうじ皇位こうい継承けいしょうしゃであった皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのうへの譲位じょうい、また未成年みせいねんであった皇太子こうたいし成人せいじんするまでのあいだは、さんにんいたすめらぎおとうと一人ひとり高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう摂政せっしょうつとめるというあん)の進展しんてん天皇てんのう責任せきにん問題もんだいにつながりかねないとして警戒けいかいし、日本にっぽん政府せいふおよび皇室こうしつ関係かんけいしゃをはじめ宮中きゅうちゅう連絡れんらくしてこれに対応たいおうした。

1946ねん昭和しょうわ21ねん)5がつ23にち貴族きぞくいん皇族こうぞく議員ぎいん辞職じしょく[21]おなねん公職こうしょく追放ついほうけている[7][22](1952ねん解除かいじょ[23])。1947ねん昭和しょうわ22ねん10月14にち稔彦としひこおうも11宮家みやけ51めい皇族こうぞく一人ひとりとしてすめらぎせき離脱りだつし、以後いごひがし久邇くに 稔彦としひこ(ひがしくに なるひこ)と名乗なのった。同年どうねん11がつ28にち公職こうしょく追放ついほうかり指定していけた[24]

臣籍しんせき降下こうか[編集へんしゅう]

その生涯しょうがい波乱はらんちたものであった。最初さいしょ新宿しんじゅく西口にしぐち闇市やみいちの「ひがし久邇くに商店しょうてん」という乾物かんぶつ商店しょうてん開店かいてんしたが売上うりあげまったびず[12]、その喫茶店きっさてん営業えいぎょうひがし久邇くに所蔵しょぞう骨董こっとうひん販売はんばいおこなったがいずれも長続ながつづきしなかった。その理由りゆうひがし久邇くに本人ほんにんがったことが大嫌だいきらいで、闇市やみいち商売しょうばいをしているにもかかわらず、商店しょうてんとはことなり、正規せいきひん正規せいきのままの価格かかくあつかい、一切いっさい不正ふせいをしなかったことが原因げんいんだった。回想かいそうろくによるとひがし久邇くには、まずしかったが国民こくみんとも必死ひっしはたらいたことではじめて国民こくみん生活せいかつり、充実じゅうじつした人生じんせいおくれたとかたっている。

1948ねん昭和しょうわ23ねん)には、尾崎おざき行雄ゆきお賀川かがわ豊彦とよひこ下中しもなか弥三郎やさぶろう湯川ゆかわ秀樹ひできともに「世界せかい連邦れんぽう建設けんせつ同盟どうめい」(現在げんざい世界せかい連邦れんぽう運動うんどう協会きょうかい)を創設そうせつした。同年どうねん10がつ兵器へいき処理しょり問題もんだいかんし、衆議院しゅうぎいん不当ふとう財産ざいさん取引とりひき調査ちょうさ特別とくべつ委員いいんかい津島つしま寿一ひさいち渋沢しぶさわ敬三けいぞうだい三郎さぶろうらとともに証人しょうにん喚問かんもんされた[25]

高輪たかなわ南町みなみまち御用邸ごようていはすでに国有こくゆうとなっていたにもかかわらず、ひがし久邇くにはそこにつづけていた。そんななか1949ねん昭和しょうわ24ねん)8がつおなじく国有こくゆうとなっていたかつてのみずからの邸宅ていたくであるきゅう麻布まふ御殿ごてんたいし、ひがし久邇くには「麻布まふ御殿ごてん自分じぶん土地とちである」と主張しゅちょうし、くに相手取あいてどって訴訟そしょうこす。しかし、緒方おがた竹虎たけとらあいだはいって大蔵省おおくらしょうはたらきかけ、特別とくべつきゅう麻布まふ御殿ごてんのうち1まん平方へいほうメートルあまりを「縁故えんこしゃ払下はらいさげ」という名目めいもくひがし久邇くにることになり、訴訟そしょうげた。ひがし久邇くに1950ねん昭和しょうわ25ねん)11月に426まんえんでこの土地とち入手にゅうしゅしたが、のち長野ながのけん諏訪すわのバルブ会社かいしゃ転売てんばいしている[12]

また、ひがし久邇くに依然いぜんとして国有こくゆうである高輪たかなわ南町みなみまち御用邸ごようていつづけていたが、これについても宮内みやうち大臣だいじん松平まつだいらけいみんから「いずれ下賜かしする」とつたえられたと強弁きょうべんし、「宮内庁くないちょうから下賜かしされた」と主張しゅちょうはじめている[12]

1950ねん昭和しょうわ25ねん)4がつ15にち禅宗ぜんしゅうけいしん宗教しゅうきょう団体だんたい「ひがしくにきょう」をひらけきょうしたが、同年どうねん6がつもと皇族こうぞく宗教しゅうきょう団体だんたいおこすことには問題もんだいがあるとして法務ほうむから「ひがしくにきょう」のきょうめい使用しよう禁止きんし通告つうこくされた。「ひがしくにきょう」はもともと「平和へいわきょう」という名称めいしょうで、仏教ぶっきょう各派かくはをはじめ、キリストきょうなど世界せかい各地かくち宗教しゅうきょう宗派しゅうは垣根かきねえて平和へいわ大切たいせつさをひろめるためのものであったが、GHQの指導しどうによって「ひがしくにきょう」となってしまった。このいちけんについてひがし久邇くには「一部いちぶひとに、わたし不用意ふようい利用りようされたのはいけなかったが、わたし晩年ばんねんを、この世界せかい平和へいわ運動うんどうにささげたいと念願ねんがんしています」とかたり、みずからにも利用りようされてしまった責任せきにんがあるとして自身じしん軽率けいそつ態度たいどについて反省はんせいしたとされる[26]。また、東京とうきょうからも宗教しゅうきょう法人ほうじんとして認可にんかされなかった。このため、任意にんい団体だんたいのまま実質じっしつ解散かいさんとなった。

また、ひがし久邇くに戦前せんぜん使用人しようにんをそのまま使つかつづけたため人件じんけん必要ひつようであり、宗教しゅうきょう法人ほうじんなら税金ぜいきんがかからないという発想はっそうで「ひがしくにきょう」が創設そうせつされたともいう[12]

同年どうねんフリーメイソン入会にゅうかい[27]1957ねん昭和しょうわ32ねん6がつ東京とうきょう友愛ゆうあいロッジにて「メイソン」になる[注釈ちゅうしゃく 6]1960ねん昭和しょうわ35ねん)、ろくじゅうねん安保あんぽ闘争とうそうをめぐる騒動そうどうで、石橋いしばし湛山たんざん片山かたやまあきらとともにさんにん首相しゅしょう経験けいけんしゃ連名れんめいとき首相しゅしょうきし信介しんすけ退陣たいじん勧告かんこく

1962ねん昭和しょうわ37)6がつひがし久邇くに高輪たかなわ南町みなみまち御用邸ごようてい所有しょゆうけん確認かくにん訴訟そしょうこす。しかし、よく1963ねん昭和しょうわ38ねん)10がつひがし久邇くに大蔵おおくら大臣だいじん田中たなか角栄かくえい児玉こだまほまれおっと暗躍あんやくもあって訴訟そしょうげ、京浜急行電鉄けいひんきゅうこうでんてつ京急けいきゅう)から4おく5000まんえんもらって高輪たかなわ南町みなみまち御用邸ごようていから退いた。当時とうじ大卒だいそつ初任しょにんきゅうは2まんえん前後ぜんこうであり、2024ねんれい6ねん現在げんざいは20まんえん程度ていどであることを参考さんこうにすれば、価値かちやく10ばいとなり、現在げんざい価格かかくで45おくえん大金たいきんとなる[12]

高輪たかなわ南町みなみまち御用邸ごようていひがし久邇くに退いたのち皇室こうしつよう財産ざいさん解除かいじょされて東側ひがしがわ京急けいきゅう取得しゅとくした。西側にしがわ国有こくゆうとしてのこり、現在げんざいみなと高輪たかなわもり公園こうえん品川しながわ税務署ぜいむしょとなっている[12]

国有こくゆう居座いすわったあげく、巨額きょがく退りょうったひがし久邇くにつま聡子さとこは、京急けいきゅう所有しょゆうする目黒めぐろ家屋かおく転居てんきょした。そして、ひがし久邇くにくなるまで毎月まいつき50まんえん生活せいかつ京急けいきゅうから提供ていきょうされつづけた[12]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)4がつ29にちきくもん銀杯ぎんぱいいちくみたまわる。1971ねん昭和しょうわ46ねん)には桟勝ただし創設そうせつした日本にっぽん文化ぶんか振興しんこうかい初代しょだい総裁そうさいになる。1978ねん昭和しょうわ53ねん)、聡子さとこ夫人ふじん死別しべつ

死去しきょ[編集へんしゅう]

1990ねん平成へいせい2ねん1がつ20日はつかに102さい死去しきょ間際まぎわ、うわごとで「ラ・マルセイエーズ La Marseillaise」をフランス語ふらんすごうたったという。

死後しごしたがえじょされ、特例とくれいとして豊島としまおか墓地ぼちほうむられた。

さい長寿ちょうじゅしゃ[編集へんしゅう]

ひがし久邇くには、世界せかい首相しゅしょう経験けいけんしゃなかでのさい長寿ちょうじゅしゃであり、ギネスブック登録とうろくされていた[28]世界せかい首相しゅしょう経験けいけんしゃ長寿ちょうじゅだったのは、もっと長寿ちょうじゅほうからじゅんチャウ・セン・コクサル・チュム1905ねん - 2009ねん。103さい4かげつぼつだい40だいカンボジア王国おうこく首相しゅしょう)、アントワーヌ・ピネー1891ねん - 1994ねん。102さい11かげつぼつフランスだい123だい閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう)、ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう(102さい1かげつぼつ)、ウィレム・ドレース(101さい11かげつぼつ1988ねん死去しきょオランダ王国おうこく首相しゅしょう[注釈ちゅうしゃく 7])、中曽根なかそね康弘やすひろ(101さい6かげつぼつ2019ねん死去しきょ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん)、村山むらやま富市とみいち存命ぞんめいちゅう2024ねん3月3にちに100さい誕生たんじょうむかえた、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん)となる。

ひがし久邇くに記録きろくたしかな日本にっぽん皇族こうぞくすめらぎせき離脱りだつしたしゃふくむ)のなかでのさい長寿ちょうじゅしゃ(102さい48にち=37303にち)であったが、2014ねん平成へいせい26ねん)に遷化せんげした東伏見ひがしふしみ慈洽(103さい7かげつ16にち=37851にちこうじゅん皇后こうごうおとうとひがし久邇くにおい)によって更新こうしんされた。

ひがし久邇くに死去しきょした当時とうじかれ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん経験けいけんしゃさい古参こさん(1953ねん阿部あべ信行のぶゆきぼつ自身じしん死去しきょするまで)でもあり、19世紀せいきまれの首相しゅしょう経験けいけんしゃ最後さいご存命ぞんめいしゃであった(1978ねん片山かたやまあきらぼつ最年長さいねんちょうにもなっていた)。また、もと陸海りくかいぐん大将たいしょうでは最後さいご存命ぞんめいしゃでもあった。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

エピソード[編集へんしゅう]

フランス留学りゅうがく時代じだいひがし久邇くにみや
関西大学かんさいだいがく予科よかせい教練きょうれん視察しさつするひがし久邇くにみや(1935ねん11月)
  • 陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう在校ざいこうちゅう、1じょうである山中やまなか峯太郎みねたろう(のちに作家さっか)の影響えいきょうで、レフ・トルストイ復活ふっかつ』(内田魯庵うちだろあんわけ)をんだことが発覚はっかくし、物議ぶつぎかもした。これが明治天皇めいじてんのうみみたっしたためいち臣籍しんせき降下こうかまで検討けんとうされたが、一方いっぽう明治天皇めいじてんのうは、稔彦としひこおうのこれらわったいを、知的ちてき好奇心こうきしんあらわれだとして評価ひょうかしていたとされる。
  • 陸軍りくぐんだい学校がっこう在校ざいこうちゅう明治天皇めいじてんのう陪食ばいしょく食事しょくじをともにすること)をめいじられたが、下痢げり理由りゆうにこれをことわり、皇太子こうたいしよしみじん親王しんのう大正天皇たいしょうてんのう)に叱責しっせきされた。そこで明治天皇めいじてんのう臣籍しんせき降下こうかねがたが、天皇てんのうは「年寄としよりをこまらせるものではない」とわなかった。
  • フランス留学りゅうがくまえ自動車じどうしゃ運転うんてんおぼえていた。そのフランス留学りゅうがくちゅうおなじく留学りゅうがくちゅうだった北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおうからドライブにさそわれたが、「ロンドンようがある」という理由りゆうことわった。わりに朝香あさかみやばと彦王さそったが、北白川きたしらかわみや運転うんてんするくるまはスピードのぎで激突げきとつし、北白川きたしらかわみや即死そくし朝香あさかみや重傷じゅうしょうった。
  • パリ留学りゅうがくちゅう愛人あいじんとの生活せいかつ耽溺たんでき[36]、たびたびの帰国きこく命令めいれいこばつづけた。結局けっきょく大正天皇たいしょうてんのう崩御ほうぎょ大葬たいそう契機けいきに、おりからロンドンに留学りゅうがくちゅうだった小松こまつ輝久てるひさ侯爵こうしゃくパリんで直談判じかだんぱん[37]、ようやく帰国きこくした。帰国きこくしたときには皇族こうぞくなかでも自由じゆう主義しゅぎしゃとしてられるようになっていた。
  • 近衛このえ文麿ふみまろからだい世界せかい大戦たいせんけ、日米にちべい交渉こうしょう継続けいぞくするため次期じき首相しゅしょうにと打診だしんけた。当時とうじ日本にっぽん国内こくないぐん中堅ちゅうけん幹部かんぶはじめ、報道ほうどう機関きかん日本にっぽん国民こくみん開戦かいせんのぞ風潮ふうちょうで、このながれにこととなえたならば逆賊ぎゃくぞくとしてテロをくわえられるようななかだったが、みやは「わたしころされてしまうかもしれないが、頑張がんばって半年はんとしちこたえてせよう」とまでべたという。しかし、木戸きど幸一こういち内大臣ないだいじん判断はんだんにより、この時点じてんではひがし久邇くに宮内くないかく成立せいりつすることはなかった。
  • フランス留学りゅうがくちゅうに、画家がかクロード・モネについて絵筆えふでをとった。モネに親友しんゆうジョルジュ・クレマンソー紹介しょうかいされ親交しんこうふかめた。フィリップ・ペタン元帥げんすいやクレマンソーと会見かいけんしたときに、両人りょうにんより「アメリカが日本にっぽん用意よういをしている(オレンジ計画けいかく参照さんしょう)」との忠言ちゅうげんけ、帰国きこくかく方面ほうめん日米にちべい戦争せんそうはすべきでないといてまわったが、西園寺さいおんじ公望きんもち以外いがいだれみみかたむけるものはいなかった。日米にちべい交渉こうしょう大詰おおづめをむかえた1941ねん昭和しょうわ16ねん)、近衛このえ内閣ないかく陸相りくしょう地位ちいにあった東条とうじょう英機ひできに、稔彦としひこおうはクレマンソーのこの忠言ちゅうげん披露ひろうし、陸軍りくぐん日米にちべい交渉こうしょう協力きょうりょくすべきといたが、東条とうじょうは「自分じぶん陸軍りくぐん大臣だいじんとして、責任せきにんじょうアメリカのあんむわけにはゆかない」と応答おうとうした[38]
  • フランス留学りゅうがくちゅうひがし久邇くにみやは「自分じぶん画家がかである」と老婆ろうば手相てそうったが、手相てそうは「あなたは日本にっぽん首相しゅしょうになる」とった。ひがし久邇くにみや身分みぶんかして「わたし日本にっぽん皇族こうぞくでしかも軍人ぐんじんである。日本にっぽんでは皇族こうぞく軍人ぐんじん政治せいじをやることはきんじられているから、首相しゅしょうにはなれない」と反論はんろんしたが、「いや、日本にっぽんだい革命かくめいだい動乱どうらんきる。そのときかならずあなたは首相しゅしょうになる」とった。実際じっさい首相しゅしょう就任しゅうにんしてからこのはなしおもし、「老婆ろうば予言よげんたったので、薄気味悪うすきみわるかんじた。わたし迷信めいしん大嫌だいきらいだったが、うらないも馬鹿ばかにならぬとおもった」と、日記にっきいた[39]
  • 武装ぶそう解除かいじょさい小園こぞのやすしめい海軍かいぐん大佐たいさひきいるだいさん〇二海軍航空隊神奈川かながわけん厚木あつぎ飛行場ひこうじょう駐留ちゅうりゅう)は、よく15にち玉音ぎょくおん放送ほうそうのち降伏ごうぶくれず祖国そこく防衛ぼうえい目的もくてきとして徹底てってい抗戦こうせん主張しゅちょうわか隊員たいいんたちも数日すうじつにわたって戦闘せんとうからビラきをするなどの反乱はんらん状態じょうたいおちいった(厚木あつぎ航空こうくうたい事件じけん)。8月16にちべい内海うちうみしょういのちにより寺岡てらおか謹平海軍かいぐん中将ちゅうじょう海軍かいぐん大佐たいさ高松宮たかまつのみやだいさん航空こうくう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうやまきよし忠三郎ちゅうざぶろう海軍かいぐん大佐たいさなどが説得せっとくにあたったが、小園こぞの大佐たいさ厚木あつぎ飛行場ひこうじょう将兵しょうへいたちは首肯しゅこうしなかった。ひがし久邇くに宮内くないかく小園こぞの大佐たいさ拘束こうそくし、野比のび海軍かいぐん病院びょういん精神せいしん強制きょうせいてき収容しゅうようした。このときのことをみやは「もし、べいぐん先遣せんけんたい厚木あつぎ飛行場ひこうじょう進駐しんちゅうしたとき、わがほうがこれを攻撃こうげきでもしたら、将来しょうらいアメリカに行動こうどう自由じゆうゆる口実こうじつあたえることになる。厚木あつぎ飛行ひこうたいもっと優秀ゆうしゅう防空ぼうくう飛行ひこうたいわたしどう飛行ひこうたい将校しょうこう同情どうじょうをしたが大局たいきょくからゆるすことができなかった。こうして24にちゆうまでに完全かんぜんにわが飛行機ひこうきべないことになった。まったく、毎日まいにち毎日まいにちけん刃渡はわたりをしている気持きもちである」と日記にっきしるしている。
  • ひがし久邇くにみやだい世界せかい大戦たいせんちゅう日本にっぽんについて「戦時せんじちゅう日本にっぽんちいさなことにこせこせしたが、おおきなことにはぬかっていた。全体ぜんたい部分ぶぶんとの混同こんどうが、いたるところにられた。部分ぶぶんてきにはじつ立派りっぱなものであるが、全体ぜんたいてき総合そうごうすると、てんでんばらばらのものばかりでやくにはたたなかった」と評価ひょうかしている。
  • 連合れんごうぐん占領せんりょう直後ちょくごには「終戦しゅうせん」という語句ごくもちいて敗戦はいせん現実げんじつ有耶無耶うやむやにしようとするながれを批判ひはんし、敗戦はいせん現実げんじつ認識にんしきしてはじめて国土こくど再建さいけんると閣僚かくりょういたが、下村しもむら陸相りくしょう国民こくみん混乱こんらんふせぎ、時局じきょく収拾しゅうしゅう円滑えんかつにするため「終戦しゅうせん」という言葉ことば使つかってほしいと説得せっとくされおうじたという。
  • ひがし久邇くにみや国民こくみん意見いけん国政こくせい反映はんえいしたいとかんがえ、「わたしみなさんから直接ちょくせつ手紙てがみをいただきたい。うれしいこと、かなしいこと、不平ふへいでも不満ふまんでもよろしい。参考さんこうとしたい」とびかけたという。するとまい日数にっすうひゃくつうのぼ国民こくみんからの手紙てがみんできたという。
  • ダグラス・マッカーサー元帥げんすい面会めんかいしたさい「アメリカは封建ほうけんてき遺物いぶつ打倒だとうさけぶが、わたしはその封建ほうけんてき遺物いぶつ皇族こうぞくだ。もし元帥げんすい適当てきとうとみるなら、わたし明日あしたにも首相しゅしょうめる」 とべた。これにたいし、マッカーサー元帥げんすいは「皇族こうぞく封建ほうけんてき遺物いぶつではあるが、米国べいこくじん封建ほうけんてき遺物いぶつとか、民主みんしゅ主義しゅぎうのは、そのひとまれた家柄いえがらうので、あなたの思想しそう行動こうどう民主みんしゅ主義しゅぎとはおもわない」と対応たいおうした。
  • だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん状況じょうきょうひがし久邇くにみやは、内閣ないかく組織そしきしたことについてかえり「あのさいわたしなかったほうがよかったとおもう。だれわか革新かくしん政党せいとうひとて、日本にっぽん政治せいじ経済けいざい社会しゃかいかく方面ほうめんにわたり大改革だいかいかくをやっていたら、あの当時とうじ多少たしょう混乱こんらんたかもしれないが、現在げんざい日本にっぽんがもっと 若々わかわかしい、あたらしい日本にっぽんとなっていたことであろう」ともきしている。

発言はつげん[編集へんしゅう]

現在げんざい千葉工業大学ちばこうぎょうだいがく興亜こうあ工業こうぎょう大學だいがく後身こうしん
まえちいさな現象げんしょううばわれて、とお目標もくひょう見失みうしなってはならない

家族かぞく[編集へんしゅう]

系図けいず[編集へんしゅう]

 
(20/23)伏見ふしみみや邦家ほうか親王しんのう
 
(1)山階やましなみやあきら親王しんのう
 
(2)山階やましなみやきく麿まろおう[40]
 
(3)山階やましなみや武彦たけひこおう
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)梨本なしもと宮守みやもりおさむ親王しんのう
 
 
(1)久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのう
 
(1)賀陽かようみやくにけんおう
 
(2)賀陽かようみやつねけんおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(2)久邇くにみや邦彦くにひこおう
 
(3)久邇くにみやちょうとおるおう
 
 
 
 
 
 
 
(3)梨本なしもと宮守みやもりただしおう
 
 
こうじゅん皇后こうごう
 
 
 
 
 
 
 
 
上皇じょうこう明仁あきひと
 
天皇てんのうとくひとし
 
 
 
 
(21)伏見ふしみみやさだきょう親王しんのう
 
 
(1)朝香あさかみやばと彦王昭和しょうわ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
(1)ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう
 
 
 
 
 
(1)竹田たけだみや恒久こうきゅうおう
 
(2)竹田たけだみやつね徳王とくおう
 
 
 
 
 
(2)北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう
 
 
(3)北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおう
 
(4)北白川きたしらかわみや永久えいきゅうおう
 
(5)北白川きたしらかわみや道久みちひさおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小松こまつ輝久てるひさ
 
 
 
(1)北白川きたしらかわみやさとしなり親王しんのう
 
 
(25)伏見ふしみみやひろしきょうおう
 
博義ひろよしおう
 
(26)伏見ふしみみやひろし明王みょうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
(22/24)伏見ふしみみやさだあい親王しんのう
 
 
邦芳くによしおう
 
 
(4)はないただきみやひろしちゅうおう
 
 
 
 
 
(6)閑院みやじん親王しんのう
 
(7)閑院みやはる仁王におう
 
 
 
 
(1)東伏見ひがしふしみみやじん親王しんのう
 
 
 
じん親王しんのう周子かねこ

数字すうじだい橙色だいだいいろ背景はいけいすめらぎせき離脱りだつしたときの11宮家みやけ当主とうしゅ。※東伏見ひがしふしみみやじん親王しんのう離脱りだつまえ薨去こうきょ


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明治天皇めいじてんのう
(1852-1912)
在位ざいい
1867-1912
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正天皇たいしょうてんのう
(1879-1926)
在位ざいい
1912-1926
竹田たけだみや恒久こうきゅうおう
(1882-1919)
 
昌子しょうじ内親王ないしんのう
(1888-1940)
北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおう
(1887-1923)
 
房子ふさこ内親王ないしんのう
(1890-1974)
朝香あさかみやばと彦王
(1887-1981)
 
允子のぶこ内親王ないしんのう
(1891-1933)
ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう
(1887-1990)
 
聡子さとこ内親王ないしんのう
(1896-1978)
昭和しょうわ天皇てんのう
(1901-1989)
在位ざいい
1926-1989
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和しょうわ天皇てんのう
(1901-1989)
在位ざいい
1926-1989
竹田たけだひさしとく
(1909-1992)
永久えいきゅうおう
(1910-1940)
朝香あさかまこと
(1912-1994)
もりあつしおう
(1916-1969)
 
成子なるこ内親王ないしんのう
(1925-1961)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上皇じょうこう
明仁あきひと

(1933-)
在位ざいい
1989-2019
 
竹田たけだ恒正つねまさ
(1940-)
 
 
 
 
 
きた白川しらかわ道久みちひさ
(1937-2018)
 
 
 
朝香あさかまこと
(1943-)
ひがし久邇くに信彦のぶひこ
(1945-2019)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今上きんじょう天皇てんのう
とくひとし

(1960-)
在位ざいい
2019-
 
 
竹田たけだ
 
 
 
 
(男系だんけい断絶だんぜつ)
 
 
 
 
朝香あさかひがし久邇くに


関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
テレビドラマ

著作ちょさく伝記でんき[編集へんしゅう]

  • ひがし久邇くにみや稔彦としひこわたし記録きろく東方とうほう書房しょぼう、1947ねん3がつ25にちNDLJP:1041942 
    • ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう 皇族こうぞく軍人ぐんじん伝記でんき集成しゅうせい11』佐藤さとうもとえい監修かんしゅう解説かいせつゆまに書房しょぼう、2012 -「ひがし久邇くに日記にっき」「やんちゃ孤独こどく」の復刻ふっこく
  • ひがし久邇くに稔彦としひこ『やんちゃ孤独こどく読売新聞よみうりしんぶんしゃ読売よみうり文庫ぶんこ〉、1955ねん6がつ25にちNDLJP:3036271 
  • ひがし久邇くに稔彦としひこいち皇族こうぞく戦争せんそう日記にっき日本にっぽん週報しゅうほうしゃ、1957ねん12月9にちNDLJP:2988038 
  • ひがし久邇くに稔彦としひこひがし久邇くに日記にっき : 日本にっぽん激動期げきどうき秘録ひろく徳間書店とくましょてん、1968ねん3がつ10日とおかNDLJP:2991775 
  • 浅見あさみ雅男まさお不思議ふしぎみやさまーひがし久邇くにみや稔彦としひこおう昭和しょうわ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2011、文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2014
  • 伊藤いとうゆうもっと期待きたいされた皇族こうぞく ひがし久邇くにみや 虚像きょぞう実像じつぞう千倉ちくら書房しょぼう、2021。ぜん半生はんせい伝記でんき
  • 伊藤いとうゆうひがし久邇くにみや太平洋戦争たいへいようせんそう戦後せんご 陸軍りくぐん大将たいしょう首相しゅしょう虚実きょじつ いちきゅうさんきゅうねんミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2021。後半こうはんせい伝記でんき

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 実際じっさい誕生たんじょうは9がつ下旬げじゅんだったが、10月2にち誕生たんじょうした朝香あさかみやばと彦王のはは角田つのだ須賀すか稔彦としひこおうはは寺尾てらお宇多子うたこより身分みぶんうえだったため、宮家みやけ身分みぶんじょう懸隔けんかくからさきまれた稔彦としひこおうばと彦王ののちまれたことにした[1]
  2. ^ 内相ないしょうおよ内務ないむ警察けいさつ官僚かんりょう4000めい罷免ひめん治安ちあん維持いじほう撤廃てっぱい特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ廃止はいし
  3. ^ ひがし久邇くにみや首相しゅしょうは、ふく総理そうりかく緒方おがた竹虎たけとら意見いけんもとめると「占領せんりょうされている以上いじょう拒否きょひはできないが、承服しょうふくしたのでは政府せいふ威信いしんがなくなる。承服しょうふくできないという消極しょうきょくてき意思いし表示ひょうじ意味いみ内閣ないかくそう辞職じしょくしよう」とべ、これに首相しゅしょう同意どういし、内閣ないかくそう辞職じしょくした(産経新聞さんけいしんぶん 2002ねん6がつ10日とおか掲載けいさい
  4. ^ 2021ねんれい3ねん)にだい1岸田きしだ内閣ないかくが38にちそう辞職じしょくしたため、内閣ないかく在任ざいにん記録きろくはこちらが最短さいたんとなった(ただし、そう辞職じしょく特別とくべつ国会こっかいで、岸田きしだ文雄ふみおふたた首相しゅしょう選出せんしゅつされている)。
  5. ^ 宮家みやけ皇族こうぞく名前なまえ公式こうしき表記ひょうきする場合ばあいみやごうかんさず「+」とするのが正式せいしきなものであり、官報かんぽうにおいては「内閣ないかく総理そうり大臣だいじん 稔彦としひこおう」と表記ひょうきされていた。
  6. ^ ななにん有名ゆうめい日本人にっぽんじんメィーソン”. 東京とうきょうメソニックセンター. 2009ねん6がつ7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん3がつ30にち閲覧えつらん。 “1957ねん6がつひがし久邇くに東京とうきょう友愛ゆうあいロッジでメイソンになった。”
    このサイトにおける「メイソン」とはだい3かいきゅうの「マスターメイソン」をっている。
  7. ^ 「オランダ王国おうこく首相しゅしょう」は、外務省がいむしょう公式こうしきサイトの「オランダ王国おうこく - 基礎きそデータ」の記載きさいならった[29]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i 週刊しゅうかんエコノミスト Online 「落胤らくいん」をのこしたひがし久邇くに皇族こうぞくにならない可能かのうせいもあった! 社会しゃかいがくてき皇室こうしつウォッチング!/100 成城大せいじょうだい教授きょうじゅもりとおるたいら 週刊しゅうかんエコノミスト、2024ねん1がつ25にち
  2. ^ 官報かんぽう号外ごうがい昭和しょうわ20ねん8がつ17にち
  3. ^ a b 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) ひがし久邇くに稔彦としひこ (コトバンク)
  4. ^ a b 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん ひがし久邇くに稔彦としひこ (コトバンク)
  5. ^ a b c d 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん ひがし久邇くに稔彦としひこ (コトバンク)
  6. ^ a b c ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん ひがし久邇くに稔彦としひこ (コトバンク)
  7. ^ a b c d e f g h i 鳥海とりうみやすし, ed. 歴代れきだいないかく首相しゅしょう事典じてん. 吉川弘文館よしかわこうぶんかん 
  8. ^ Promotions l'ESG - de 1 à 107”. www.ecole-superieure-de-guerre.fr. 2023ねん5がつ26にち閲覧えつらん
  9. ^ 宮家みやけ時代じだいISBN 4022502266
  10. ^ 『やんちゃ孤独こどく』155ぺーじ
  11. ^ あと簡素かんそ生活せいかつひがし久邇くにみや昭和しょうわ20ねん8がつ17にち 毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p698 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  12. ^ a b c d e f g h 週刊しゅうかんエコノミスト Online 発掘はっくつスクープ 皇族こうぞく首相しゅしょうひがし久邇くにみや御用邸ごようてい居座いすわりで「45おくえん」をにした! 社会しゃかいがくてき皇室こうしつウォッチング! /99 成城大せいじょうだい教授きょうじゅもりとおるたいら
  13. ^ 神奈川かながわ県警けんけい
  14. ^ 社会しゃかいてき弱者じゃくしゃともとして―賀川かがわ豊彦とよひこ生涯しょうがい(13)国民こくみんそうざんげ運動うんどう栗栖くりすひろみひつ
  15. ^ 朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん連載れんさい新聞しんぶん戦争せんそう』「写真しゃしん処分しょぶんせよ」シリーズ、とくに2007ねん6がつ26にちづけだい8かい
  16. ^ 田尻たじりあい回想かいそうろく半生はんせいけた中国ちゅうごく外交がいこう記録きろくはら書房しょぼう、1977ねん
  17. ^ 1966ねん木戸きど日記にっき木戸きど幸一こういちちょ
  18. ^ 粟屋あわや憲太郎けんたろう敗戦はいせん直後ちょくご政治せいじ社会しゃかい だい2かん大月書店おおつきしょてん p.453
  19. ^ 今西いまにし光男みつお占領せんりょう朝日新聞あさひしんぶん戦争せんそう責任せきにん 村山むらやまちょうきょ緒方おがた竹虎たけとら朝日新聞社あさひしんぶんしゃ p.84 - 85
  20. ^ ぬさはら喜重郎きじゅうろう組閣そかく大命たいめい昭和しょうわ20ねん10がつ7にち 朝日新聞あさひしんぶん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p239
  21. ^ 官報かんぽうだい5822ごう昭和しょうわ21ねん6がつ13にち
  22. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1947ねん10がつ17にちめん
  23. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1952ねん4がつ22にち夕刊ゆうかんいちめん
  24. ^ 総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさへん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん、「昭和しょうわじゅうねんじゅういちがつじゅうはちにち かり指定していしゃ」106ぺーじ
  25. ^ だい3かい国会こっかい 衆議院しゅうぎいん 不当ふとう財産ざいさん取引とりひき調査ちょうさ特別とくべつ委員いいんかい だい7ごう 昭和しょうわ23ねん10がつ20日はつか
  26. ^ 結局けっきょく「ひがしくにきょう」ってなに?
  27. ^ Professor Andrew Prescott(Kings College, London). “International Conference on the History of Freemasonry 2011”. Paper 4a: General MacArthur and the Grand Lodge of Japan(Pauline Chakmakjian, UK.). Scribd. 2014ねん10がつ31にち閲覧えつらん
  28. ^ 前坂まえさか俊之としゆき. “知的ちてき巨人きょじんたちのひゃくさいがく(143)世界せかい総理そうり大臣だいじん首相しゅしょう経験けいけんしゃさい長寿ちょうじゅしゃとしてギネスブック登録とうろくされた昭和しょうわ天皇てんのう叔父おじひがし久邇くに稔彦としひこ(102さい)”. 前坂まえさか俊之としゆきオフィシャルウェブサイト. 2019ねん11月29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん11月29にち閲覧えつらん
  29. ^ オランダ王国おうこく(Kingdom of the Netherlands)基礎きそデータ”. 外務省がいむしょう. 外務省がいむしょう. 2019ねん11月30にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん11月30にち閲覧えつらん
  30. ^ 官報かんぽうだい7446ごう、「叙任じょにん及辞れい」1908ねん04がつ25にち。p.591
  31. ^ 官報かんぽうだい1575ごう、「叙任じょにん及辞れい」1917ねん11月01にち。p.6
  32. ^ 官報かんぽうだい2612ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん4がつ19にち
  33. ^ 官報かんぽうだい1499ごう、「叙任じょにん及辞れい」1931ねん12月28にち。p.742
  34. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち
  35. ^ 官報かんぽうだい4570ごう、「宮廷きゅうていろくごと 勲章くんしょう親授しんじゅしき」1942ねん04がつ07にち。p.213
  36. ^ 佐野さの眞一しんいち枢密院すうみついん議長ぎちょう日記にっき講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょp.184,2007。
  37. ^ 浅見あさみ雅男まさお伏見ふしみみや―もうひとつの天皇てんのう講談社こうだんしゃp.289,2012。
  38. ^ 『やんちゃ孤独こどく』101-108ぺーじ、159-162ぺーじ
  39. ^ 広岡ひろおかひろし皇族こうぞく読売新聞社よみうりしんぶんしゃ281-282ぺーじ
  40. ^ なし本宮ほんぐう2代目だいめ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ひがし久邇くに稔彦としひこ『やんちゃ孤独こどく
  • 長谷川はせがわたかし編著へんちょ終戦しゅうせんないかく ひがし久邇くに政権せいけんじゅうにちぎょうけん出版しゅっぱんきょく、1987
  • 外務省がいむしょうへん終戦しゅうせんろく』、解説かいせつ江藤えとうあつし北洋ほくようしゃぜん6かん)、1978
  • 外務省がいむしょうへん日本にっぽん選択せんたく だい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせんろく山手やまて書房しょぼうしんしゃ上中かみなか)、1990
  • 江藤えとうあつしへん占領せんりょうろく波多野はたの澄雄すみお解題かいだい講談社こうだんしゃ ぜん4かん、1982
講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ ぜん4かん、1989、どう文庫ぶんこ新版しんぱん ぜん2かん、1995
うえした <明治めいじひゃくねん叢書そうしょ> はら書房しょぼう 2002
大久おおひさ保利ほりけん監修かんしゅう社団しゃだん法人ほうじんかすみ会館かいかん後援こうえん毎日新聞まいにちしんぶんしゃ、1991

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
鈴木すずき貫太郎かんたろう
大日本帝国の旗 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だい43だい:1945ねん
次代じだい
ぬさはら喜重郎きじゅうろう
先代せんだい
阿南あなみ惟幾これちか
大日本帝国の旗 陸軍りくぐん大臣だいじん
だい34だい:1945ねん
次代じだい
下村しもむらじょう
ぐんしょく
先代せんだい
山田やまだおつさん
大日本帝国の旗 防衛ぼうえいそう司令しれいかん
だい2だい:1941ねん - 1945ねん
次代じだい
廃止はいし
先代せんだい
そう幹郎みきお
大日本帝国の旗 陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶなが
だい10代:1937ねん - 1938ねん
次代じだい
寺本てらもとくま
先代せんだい
寺内てらうち寿一ひさいち
大日本帝国の旗 だいよん師団しだんなが
1934ねん - 1935ねん
次代じだい
建川たてかわ
先代せんだい
かど二郎じろう
大日本帝国の旗 だい師団しだんなが
1933ねん - 1934ねん
次代じだい
はたしん