あい

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ははへのあいを「母性ぼせいあい」という。
ちちへのあいを「父性ふせいあい」という。
人類じんるいあいフィランソロピーたとえ民族みんぞくことなろうが、文化ぶんかことなろうが、どの人間にんげんのこともしんから大切たいせつおもうこと。ふか共感きょうかんし、いちんで、実際じっさいにそのひとのために具体ぐたいてき行動こうどう開始かいしするしん精神せいしん。キリストきょうではしばしば「隣人りんじんあい」とう。民族みんぞくでも隣人りんじんである。イエスが「きサマリアじんのたとえ」で弟子でしたちにおしえたあい。こうした人類じんるいあいが、赤十字せきじゅうじUNICEF国境こっきょうなき医師いしだん等々とうとう組織そしき設立せつりつやそのしょ活動かつどうとなってあらわれており、実際じっさいに、くるしむ人々ひとびとたすけ、やみちた世界せかいひかりを、絶望ぜつぼうしている人々ひとびと希望きぼうをもたらしている。(うえ絵画かいがは『きサマリアじんジョージ・フレデリック・ワッツ
プシューケーあいウィリアム・アドルフ・ブグロー、1889ねん

あい(あい、えい: loveふつ: amour)について解説かいせつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

最初さいしょ辞書じしょにおける語義ごぎ説明せつめいかるれ、つぎに、伝統でんとうてき用法ようほうかく宗教しゅうきょうにおける説明せつめい人々ひとびとあいだ定着ていちゃくしている意味いみ解説かいせつし、あいとはなにかをその現代げんだい多様たよう用法ようほう使つかい、歴史れきし沿って解説かいせつする。

辞典じてんとう主要しゅよう語義ごぎ解説かいせつ[編集へんしゅう]

広辞苑こうじえんでは、つぎのような語義ごぎをあげている。

  • しん兄弟きょうだいのいつくしみあうしん。ひろく、人間にんげん生物せいぶつへのおもいやり[1]
  • 男女だんじょあいだ愛情あいじょう恋愛れんあい[1]
  • 大切たいせつにすること。かわいがること。めでること[1]
  • キリスト教きりすときょうかみが、すべての人間にんげんをあまねくかぎりなく いつくしんでいること。アガペー隣人りんじんあい[1]
  • 仏教ぶっきょう〕 渇愛、愛着あいちゃく(あいじゃく)、愛欲あいよく。「じゅう因縁いんねん」の説明せつめいではだいはちささえ位置いちづけられ、まよいの根源こんげんとして否定ひていてきられる[1]

日本語にほんごの「あい」の意味いみ変遷へんせん[編集へんしゅう]

日本にっぽん古語こごにおいては、「かなし」というおとに「あい」の文字もじて、「あい(かな)し」ともき、相手あいてをいとおしい、かわいい[2]、とおも気持きもち、まもりたいおもいをいだくさま[2]、を意味いみしたという概念がいねんあらわすかたりとしては「じょう[3]恋愛れんあいかんしては「いろ」や「こい」というかたりもちいられることがおおく、その概念がいねんそのものも欧米おうべいのそれとはおおきくことなっていた[4]

近代きんだいはいり、西洋せいようでの語義ごぎ、すなわち英語えいごの「love」やフランス語ふらんすごの「amour」などの語義ごぎ導入どうにゅうされた。そのさいに、「1. キリスト教きりすときょうあい概念がいねん、2.ギリシアてきあい概念がいねん、3. ロマン主義しゅぎ小説しょうせつ恋愛れんあい至上しじょう主義しゅぎでのあい概念がいねん」などのことなる概念がいねん同時どうじながみ、現在げんざい多様たよう用法ようほうつくられてきた[5]

伝統でんとうてき説明せつめい宗教しゅうきょうてき説明せつめい[編集へんしゅう]

古代こだいギリシア・キリスト教きりすときょうでのあい[編集へんしゅう]

キリスト教きりすときょうにおいて最大さいだいのテーマとなっているあいえば、まずなによりもアガペーである。 そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質とくしつ説明せつめいするにあたって、キリストきょう関連かんれん書物しょもつ西欧せいおう文化ぶんかけん書物しょもつでは、あえて4種類しゅるい感情かんじょう(すでに古代こだいギリシア時代じだいからかんがえられていた4種類しゅるいの"あい"、いずれもギリシア表現ひょうげん。)について説明せつめいしている[6]ことがおおい。それらは以下いかのとおり。

  • ストルゲーστοργή storgē
    • キリスト教きりすときょうでは家族かぞくあい。(古代こだいギリシアではふうみず結合けつごうさせるあい、であった。)
  • エロスέρως érōs
    • キリスト教きりすときょうでは性愛せいあい。(古代こだいギリシアでは自己じこ充実じゅうじつさせるあい、であった。)
  • フィーリアφιλία philía
  • アガペーαγάπη agápē
    • キリスト教きりすときょうではしんあい。(古代こだいギリシアではあるものをよりも優遇ゆうぐうするあい、であった。)新約しんやく聖書せいしょにおいては「かみあいです」(ヨハネの手紙てがみいち 4:8, 16)に代表だいひょうされるように、かみ本質ほんしつあいであり、とくイエス・キリストとおしてあいしめされている。「アガペー」および「フィーリア」は聖書せいしょもちいられているが、「エロス」はもちいられていない[7]

イエスはった「されどわれなんじらにぐ、なんじらのてきあいし、なんじらを迫害はくがいするひとのためにいのれ」(マタイ 5:44)と。ここに自分じぶん中傷ちゅうしょう敵対てきたいする相手あいてであれ、かみ子供こどもとして、また、つみあがなわれたものとして、隣人りんじんとみなしてゆるうべきであるという、人類じんるいあい宣言せんげんがある。

パウロたい神徳しんとくとして信仰しんこう希望きぼうあいかかげたが、「そのうちもっとおおいなるはあいなり」(1コリント 13:13)とい、「やまうつすほどのおおいなる信仰しんこうありとも、あいなくばかずうるにらず」(どう13:2)、「あいもとめよ」(どう14:1)としるし、すべてのとくとキリストきょうにおけるあい優位ゆういせい確立かくりつした。またかれは、かみ永続えいぞくてき無償むしょうあい恩寵おんちょうcharisロマ 1:5、ほか)とび、これはのちにgratiaラテン語らてんごやくされて、キリストきょう神学しんがく原理げんりてき概念がいねんとしておもんぜられたのである。

西欧せいおう伝統でんとう、キリストきょう信仰しんこうにおいては、あい非常ひじょうおおきなテーマである。キリストきょうにおいては、「かみあいである」としばしば表現ひょうげんされる。また、「無条件むじょうけんあい」もたびたび言及げんきゅうされている。

ユダヤきょう「ヘブライ聖書せいしょ」におけるあい[編集へんしゅう]

ユダヤ聖書せいしょとされるヘブライ聖書せいしょにおいてはあい相当そうとうするかたりとして、ヘブライの「אהב」(エハヴ)(エハヴァ)(エハヴァー)が使つかわれているが、日常にちじょうでももちいられる。

また、キリスト教きりすときょう英語えいご旧約きゅうやく聖書せいしょで「lovingkindness」「kindness」「kindly」「mercy」「in goodness」とやくされる「慈悲じひ」の意味いみの「חסד」(ヘセド)[8]は、に「favor」「Loyalty」「disgrace[9]」などとやくされて「えこひいき」「忠誠ちゅうせいしん」「はじ」の意味いみにも使つかわれているが、「Loyalty(はじ)」とやくされた「חסד」(ヘセド)をヘブライ聖書せいしょレビ20しょう17せつると「なぐさみ」の意味合いみあいもふくまれていることがわかる。かみあいはしばしば歴史れきし記述きじゅつとおして具体ぐたいてきかたられる。概要がいようとしては、あいけるに相応ふさわしくないものに、かみ自由じゆう一方いっぽうてき選択せんたくによってあいあたえられ、そのものが、たといかみからはなれようとも、かみ見捨みすてない、という内容ないようである[7]

仏教ぶっきょうでのあい慈悲じひ[編集へんしゅう]

仏教ぶっきょうにおける、いわゆる"あい"(英語えいごでloveに相当そうとうするような概念がいねん)について説明せつめいするには、「あい」と翻訳ほんやくされている概念がいねんと、「慈」や「悲」と翻訳ほんやくされている概念がいねんについて説明せつめいする必要ひつようがある。

あい」に相当そうとうする、概念がいねんには サンスクリットではtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4しゅがある。

あい
tRSNaa (トリシュナー
人間にんげんもっと根源こんげんてき欲望よくぼうであり、原義げんぎは「かわき」であり、ひとのどかわいているときに、みずまないではいられないというような衝動しょうどうをいう[19]。それにたとえられる根源こんげんてき衝動しょうどう人間にんげん存在そんざい奥底おくそこ潜在せんざいしており、そこでこれを「あい」とか「渇愛」とやくし、ときには「恩愛おんあい」ともやくす。
広義こうぎには煩悩ぼんのう意味いみし、狭義きょうぎには貪欲どんよくおな意味いみである。
また、この「あい」はじゅう因縁いんねんれられ、だいはちささえとなる。まえの受(感受かんじゅ)により、苦痛くつうけるものにたいしてはにくしみけようというつよ欲求よっきゅうしょうじ、らくあたえるものにたいしてはこれをもとめようと熱望ねつぼうする。苦楽くらくの受にたいして愛憎あいぞうねんしょうずる段階だんかいである。
kaama (カーマ)
kaamaはふつう「性愛せいあい」「性的せいてき本能ほんのう衝動しょうどう」「あいようしてはなれがたくおも男女だんじょあい」「愛欲あいよく」の意味いみもちいられる。これを「いん」と表現ひょうげんすることがおおい。
仏教ぶっきょうでは、性愛せいあいについては抑制よくせいいたが、後代こうだい真言しんごん密教みっきょうになると、男女だんじょ性的せいてき結合けつごう絶対ぜったいするタントラきょう影響えいきょうけて、仏教ぶっきょう教理きょうり男女だんじょせいむすびつけて傾向けいこうあらわれ、男女だんじょの交会を涅槃ねはんそのもの、あるいは仏道ぶつどう成就じょうじゅとみなす傾向けいこうさえもられた。
密教みっきょう空海くうかいによって日本にっぽん導入どうにゅうされたときは、この傾向けいこう払拭ふっしょくされたが、平安へいあん末期まっきかれほう集団しゅうだんぞく立川たちかわりゅう混同こんどうされる)があらわれ、男女だんじょの交会を理智りち不二ふじてはめた。
性愛せいあいあらわ愛染あいぞめというかたりも、このながれであり、しばしばもちいられる。
慈悲じひ
preman, sneha
preman, snehaは、他人たにんたいする、へだてのない愛情あいじょう強調きょうちょうする。
たいするおやあい純粋じゅんすいであるように、一切衆生いっさいしゅじょうたいしてそのような愛情あいじょうてとおしえる。この慈愛じあいしんもっひとはなしかけるのがあいであり、愛情あいじょうのこもった言葉ことばをかけてひとしんゆたかにし、はげます。このあいしんをもってすべての人々ひとびとたすけるようにはたらきかけるのが、菩薩ぼさつ理想りそうである。

仏教ぶっきょうでもひとのことをふかくおもい大切たいせつにする、という概念がいねんはある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国ちゅうごくでの翻訳ほんやくとして「あい」のてたため、べつ翻訳ほんやくとしててることになったのである。ふつ菩薩ぼさつが、人々ひとびとのことをおもたのしみをあたえることを「maitrī」とうが、その翻訳ほんやくとしては中国ちゅうごくでは「慈」のを、ひとくるしみをのぞくことkaruṇāには「悲」のもちい、それらをあわせて「慈悲じひ」という表現ひょうげんんだ。

とく大乗だいじょう仏教ぶっきょうでは、慈悲じひ智慧ちえならんで重要じゅうようなテーマであり、初期しょき仏教ぶっきょう段階だんかいですでにかれていた。最古さいこ仏典ぶってんのひとつとされる『スッタニパータ』にも慈悲じひしょうがある。

あたかもははおのれひとをば身命しんめいけてまもように、一切いっさいきとしいけるものたいしても、無量むりょういつくしみのこころこすべし。ぜん世界せかいたいして無量むりょういつくしみのしんこすべし(『スッタニパータ[20][21]

一切いっさい衆生しゅじょうたいする純化じゅんかされたおもい(しん)を慈悲じひという。それはほとけだけでなく、普通ふつう人々ひとびとしんなかにもあるものだと大乗だいじょう仏教ぶっきょうではく。

観音かんのん菩薩ぼさつ(や聖母せいぼマリア)は、慈悲じひ象徴しょうちょうともされ、慈悲じひかんじることができるように表現ひょうげんされている。

儒教じゅきょうでのあい[編集へんしゅう]

ひとしは、ひとがふたりるときの完成かんせいしたあいであるが、孔子こうしは、その実現じつげん困難こんなんせいについて「じんじんころしてもっじんすことあり」といい、あいきるならば生命せいめいささげる覚悟かくご必要ひつようだとした。じん対人たいじん関係かんけいにおいて自由じゆう決断けつだんにより成立せいりつするとくである。孔子こうしじん根源こんげん血縁けつえんあいであるとした(「孝弟こうていなるものはそれじんほんをなすか」)。そしてこの自己じこ犠牲ぎせいとしてのあいと、血縁けつえんあいとしての自己じこ保存ほぞんよくとのあいだに、きょうみちたいするうやうやしさ)、ひろし他者たしゃたいするゆるしとしての寛大かんだい)、しんじ他者たしゃ誠実せいじついつわりをわぬしん)、さとし仕事しごとたいするあい)、めぐみあわれなひとたいするほどこし)などが錯綜さくそうし、じん形成けいせいされるとした。

一方いっぽう孔子こうしは「われいまとくこのむこといろこのむがごとくするものざるなり」とべた。

孟子もうしじん対等たいとう価値かちをみとめ、相反あいはんするものとしたが、ぼくよしそくとみて、孟子もうこ対立たいりつした。[22]

じんをただちにあいとしないのはあいじょう作用さよう)とみ、じんせい本体ほんたい)とみているからである。[22]

理論りろん[編集へんしゅう]

あいめぐっては、心理しんりがく生物せいぶつがく分野ぶんやにおいてさまざまな理論りろん提唱ていしょうされている。

心理しんり学者がくしゃロバート・スターンバーグ英語えいごばんは1986ねんあい三角さんかく理論りろん提唱ていしょうし、あい相手あいてたいする敬意けいい好意こういしたしみをしめす「親密しんみつさ」、性的せいてき欲求よっきゅう相手あいてへの熱烈ねつれつ感情かんじょうしめす「情熱じょうねつ」、そして相手あいてあいそう、相手あいてとの関係かんけい維持いじしようという決意けついあらわす「関与かんよ」の3つの成分せいぶん整理せいりできるとして、かく成分せいぶん有無うむによって、3成分せいぶんすべてが存在そんざいしないあいのない関係かんけいから3成分せいぶんすべてをそなえた完全かんぜんあいいたるまで、あいを8種類しゅるい分類ぶんるいした[23]

あい好意こうい関係かんけいについては、本質ほんしつてきおなじものと立場たちばから、質的しつてきまったことなるものとみなす立場たちばまで、さまざまなせつ存在そんざいする[24]

対象たいしょう[編集へんしゅう]

自己じこあい[編集へんしゅう]

ナルシシズムの語源ごげんとなった、ナルキッソスカラヴァッジオ

社会しゃかいてき人間にんげんにとって根源こんげんてきあい形態けいたいひとつ。自分じぶん自身じしんささえる基本きほんてきちからとなる。 ( 英語えいごでself-love とも。 narcissism の訳語やくごとしてもちいられることもある。)

まれてきたばかりのあかぼうは、保護ほごしゃせっしながら自己じこ他者たしゃ認識にんしき形成けいせいする。その過程かていで(成人せいじんするまでに)自身じしん無条件むじょうけんれられていると実感じっかんすることが、自己じこあい形成けいせいおおきく関与かんよしている。「自分じぶんのぞまれている」こと前提ぜんてい生活せいかつできることは、自身じしん大切たいせつにし自己じこ実現じつげんかって前進ぜんしんする土台どだいとなりる。また、自己じこたいする信頼しんらい安定あんていすること、自分じぶんという身近みぢか存在そんざいあいせることは、その経験けいけんから他者たしゃ尊重そんちょうすることにもつながる。

心理しんり学者がくしゃらからは、自己じこあいそだってはじめて他人たにん本当ほんとうあいすることができるようになる、としばしば指摘してきされている。自分じぶんあいするように、ひとあいすることができるというわけである。自分じぶんあいせないあいだは、ひとあいするのはむずかしいとわれる。

しかし子供こどもによっては、虐待ぎゃくたいされたり、自身じしん尊厳そんげんおかされたりするような環境かんきょうかれることがある。この場合ばあい、その子供こども努力どりょく次第しだい逆境ぎゃっきょうち、人格じんかくしゃ成長せいちょうする可能かのうせいもあるし、自己じこあい希薄きはく自虐じぎゃくてき性格せいかくになるなどの可能かのうせいもある。もし後者こうしゃ自己じこあいもどすには、自身じしん無条件むじょうけんれられていると強烈きょうれつ実感じっかんする体験たいけんがかぎのひとつとなる。

周囲しゅういから精神せいしんてき未熟みじゅくものが、恋愛れんあい最中さいちゅうに「こいしている自分じぶんこいしている」とひょうされることがある。これは、対象たいしょうあいして(気分きぶんがりなどして)いる自己じこっている、また、パートナーがいるという優越ゆうえつかんひたっている状態じょうたい揶揄やゆするものである。しかし、本人ほんにん認識にんしきも、他者たしゃも、恋愛れんあい対象たいしょうも、全面ぜんめんてきしん相互そうごてき恋愛れんあい感情かんじょういていると誤認ごにんしやすい。

家族かぞくあい[編集へんしゅう]

親子おやこ兄弟きょうだい姉妹しまい祖父母そふぼまごなどにたいするあい家族かぞくあい根拠こんきょのつながりにもとめられることがおおいが[25]家族かぞくという言葉ことばひろ範囲はんいしているものがあり、血縁けつえんがあるかないかは関係かんけいない。養子ようし大切たいせつ家族かぞくである。ヨーロッパやアメリカでは、アフリカなどでじょううしなった子供こどもなどを養子ようしにし自分じぶん家族かぞく一員いちいんとしてむか大切たいせつそだてるひとえてきている。

ははいだあいちちいだあいをそれぞれ「母性ぼせいあい」や「父性ふせいあい」などとう。母性ぼせいあい父性ふせいあい質的しつてきことなり、それぞれの役割やくわり社会しゃかいてき機能きのうがあるとかんがえられている(これについては母性ぼせい父性ふせいこう参照さんしょう)。愛情あいじょう表現ひょうげんには多々たたあるが、コミュニケーションのなかやパートナーのはなしみみかたむけたり、きしめて相手あいてれていることをしめ方法ほうほう、またそれらをおこなうための大切たいせつ時間じかんあたえるなどの方法ほうほうがある。

なお近年きんねんではペット家族かぞくとしてとらえることが一般いっぱんてきになってきている(日本にっぽんでもペットをはじめることを「○○(ちゃん)を家族かぞくとしてむかれた」と表現ひょうげんすることがある。とくいぬねこなど、感情かんじょう交流こうりゅうができる動物どうぶつ場合ばあいにしばしばそういう表現ひょうげんがされている)。

こうした家族かぞくあい成立せいりつは、かなりあたらしいものであるとかんがえられている。エドワード・ショーターは中世ちゅうせいヨーロッパには家族かぞくあい存在そんざいせず、性愛せいあい母性ぼせいあい家族かぞくあい近代きんだいになってはじめて家族かぞくまれたとした[26]。この3つの概念がいねんまれたことで、19世紀せいきには「せいあい生殖せいしょく」の一致いっち基本きほんとする近代きんだい家族かぞく成立せいりつし、以後いご家族かぞくかん基礎きそとなった[27]。また、同時どうじ家族かぞく夫婦ふうふ親子おやこあいによって相互そうごむすばれるものというイデオロギーが成立せいりつした[28]。この概念がいねん明治めいじ時代じだい日本にっぽんにもまれ、大正たいしょう時代じだいには都市とし新中しんなかさん階級かいきゅう普及ふきゅうした[29]一方いっぽう家族かぞくあいなかでの比重ひじゅう日本にっぽん欧米おうべいちがいがられ、一般いっぱんてき欧米おうべい夫婦ふうふあいもっと重要じゅうようであるのにたいし、日本にっぽん家族かぞくあい母性ぼせいあいのイメージがおおかたられる[30]。また、あい家族かぞく関係かんけい中心ちゅうしんてき概念がいねんとなった結果けっかぎゃく愛情あいじょううすれた場合ばあい離婚りこんなどで家族かぞく関係かんけい解消かいしょうすることもおおくなった[31]

人類じんるいあい[編集へんしゅう]

ぜん人類じんるいたいするあい人類じんるいあいという。血縁けつえん関係かんけい民族みんぞく人種じんしゅなどでひと差別さべつするなどという下劣げれつなことをしないあいである。

あいこいちが[編集へんしゅう]

たとえば日本語にほんごでは「あい」という概念がいねんと「こい」という概念がいねんが、言葉ことばとして区別くべつされる。たとえばおもちち大切たいせつおもい、まもり、そだてようとする気持きもちは「あい」であるが、(基本きほんてきには)「こい」とはことなる。そのため、一方いっぽうてきこいをしていても、ただのこいにすぎず、相手あいてのことをじつ本当ほんとうにはあいしていない、というようこともこりうる。とう百科ひゃっか事典じてんでも、あいこい区別くべつし、こいのほうは恋愛れんあいというべつ記事きじ説明せつめいする。ただし、「こい」を包括ほうかつする概念がいねんとして「あい」がもちいられることもあるので、単純たんじゅん二元論にげんろんとして看做みなすのも不適切ふてきせつである。

ロミオとジュリエットフォード・マドックス・ブラウンによる絵画かいが (1867ねん

こいというものは「ただのこい」でわってしまうことはおおい。あいにまではそだたないことがおおいのである。ただし、それぞれの人間にんげんせい人間にんげんてき成熟せいじゅくにもよるが、最初さいしょこいはじまった未熟みじゅく人間にんげん関係かんけいでも、交流こうりゅうかさねるうちに、どちらかのうちに本物ほんものあい芽生めばえ、そだってゆくことはある。[よう出典しゅってん]

異性いせいへのこいというのはじつは、当人とうにんづいていなくても、まず最初さいしょ子孫しそんのこすという動物どうぶつてき衝動しょうどうがあって、それが異性いせいへのつよ関心かんしんへとつながり、そのつよ関心かんしん当人とうにんにとっては「こい」とかんじられていることがある。古代こだい以来いらい哲学てつがくしゃたちがそれをどのように理解りかい説明せつめいしてきたか、つぎげる。

プラトンによるとあい erōsはきものの永久えいきゅう所有しょゆうけられたものであり、肉体にくたいてきにもこころ霊的れいてきにもうつくしいもののなかに、生殖せいしょく生産せいさんすることをめざす。ほろぶべきものの本性ほんしょう可能かのうかぎ無窮むきゅう不死ふしであることをねがうが、それはただ生殖せいしょくによってふるいものからあたらしいものをのこしていくことによって可能かのうである。このあいひとつのうつくしい肉体にくたいからあらゆる肉体にくたいへ、心霊しんれいじょうへ、職業しょくぎょう活動かつどう制度せいどへ、さらに学問がくもんてき認識にんしきじょうへのあい昇華しょうかさせ、ついによしそのものであるイデアのくに認識にんしきにいたることがあい奥義おうぎである。プラトニック・ラブはもとこのような善美ぜんび実在じつざいとしてのイデアの世界せかいへの無限むげん憧憬どうけい追求ついきゅうであり、真理しんり認識にんしきへの哲学てつがくてき衝動しょうどうである。しかしプラトンはうつくしい肉体にくたいへのあい排除はいじょするものでなく、イデアにたいするあい肉体にくたいてきなものへのあいりはなしてかんがえるものでもない[22]

プラトンは、エロスはかみ々と人間にんげんとのなかあいだしゃであり、つねに欠乏けつぼうし、うつくしいものをうかがい、智慧ちえ欲求よっきゅうする偉大いだい精霊せいれい(ダイモン)であるという。生殖せいしょくこいあいさとしとしてのこいも、ともに不死ふしなるものの欲求よっきゅうである。こい奥義おうぎ地上ちじょううつくしいものどものこいから出発しゅっぱつして、しだいに地上ちじょうてきなるものをはなれ、ついに永遠えいえんにして絶対ぜったいてきそのものを認識にんしきするにいたることにある[22]

あいせい関係かんけい[編集へんしゅう]

明治めいじ春画しゅんが(1880ねん
接吻せっぷん (The Kiss) - グスタフ・クリムト (Gustav Klimt)

愛情あいじょう性的せいてき感情かんじょうがごちゃまぜになった状態じょうたいは「性愛せいあい」とう。

ショーペンハウアーは、あらゆる形式けいしきあいせいへの盲目的もうもくてき意志いし人間にんげん繋縛けいばくするものであるとの理由りゆうあい断罪だんざいする。しかし、その主著しゅちょには独自どくじの「性愛せいあい形而上学けいじじょうがく」の考察こうさつふくまれている。それによれば、あいはすべての性欲せいよくざしているのであり、将来しょうらい世代せだい生存せいぞんはそれを満足まんぞくさせることにかかっている。けれども、この性的せいてき本能ほんのうは、たとえば「客観きゃっかんてき賛美さんびねん」といった、さまざまなかたち姿すがたえて発現はつげんすることができる。性的せいてき結合けつごう個人こじんのためではなく、たねのためのものであり、結婚けっこんあいのためにではなく、便宜べんぎのためになされるものにほかならない[22]。 フロイトは性欲せいよくのエネルギーをリビドーとづけ、無意識むいしき世界せかいのダイナミズムの解明かいめいにつとめたが、とくに幼児ようじ性欲せいよく問題もんだい従来じゅうらい常識じょうしきてき通念つうねんおおきな衝撃しょうげきあたえ、性愛せいあい問題もんだい現代げんだいてき意味いみ追求ついきゅうへのみちひらいた。たとえばD.Hロレンスの文学ぶんがくは、性愛せいあいのいわば現代げんだい文明ぶんめいろんてき意味いみ探求たんきゅうひとつの中心ちゅうしん課題かだいとしているものといってよい。サルトル、ボーヴォワールらの実存じつぞん主義しゅぎしゃたちにも、人間にんげんろん中心ちゅうしん問題もんだいとしてのあい性欲せいよく問題もんだいへのった究明きゅうめいこころみがみられる[22]。(生殖せいしょくとは、生物せいぶつ個体こたい自己じこからだ一部いちぶもととして自己じこおな種類しゅるいべつ個体こたいしょうじる現象げんしょうをいう。個体こたいにはそれぞれだいたい一定いってい寿命じゅみょうがあって死滅しめつするが、生殖せいしょくによってたねぞく絶滅ぜつめつがふせげる。生物せいぶつには個体こたい維持いじ本能ほんのうとともに生殖せいしょくまっとうしようとするたねぞく保存ほぞん本能ほんのうがあり、両者りょうしゃ生物せいぶつだい本能ほんのうという。しょうじた個体こたいはそのもととなった個体こたいとかならずしもどうではないが、一定いってい世代せだいすうをへてどうのものにもどる。[22]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 古代こだいギリシアでは「φふぁいιいおたλらむだεいぷしろんιいおたνにゅー(philein フィレイン、あいする)」という動詞どうしがあり、それに対応たいおうする名詞めいしが「フィーリア」である。 この動詞どうしφふぁいιいおたλらむだεいぷしろんιいおたνにゅー phileinは、その語幹ごかん phil-と様々さまざまかたりとのわせでもちいられている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 広辞苑こうじえん
  2. ^ a b 旺文社おうぶんしゃ古語こご辞典じてん
  3. ^ 純潔じゅんけつ近代きんだい 近代きんだい家族かぞく親密しんみつせい比較ひかく社会しゃかいがく」p10 デビッド・ノッター 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい 2007ねん11がつ10日とおか初版しょはんだい1さつ発行はっこう
  4. ^ 純潔じゅんけつ近代きんだい 近代きんだい家族かぞく親密しんみつせい比較ひかく社会しゃかいがく」p1-2 デビッド・ノッター 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい 2007ねん11がつ10日とおか初版しょはんだい1さつ発行はっこう
  5. ^ 純潔じゅんけつ近代きんだい 近代きんだい家族かぞく親密しんみつせい比較ひかく社会しゃかいがく」p2-3 デビッド・ノッター 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい 2007ねん11がつ10日とおか初版しょはんだい1さつ発行はっこう
  6. ^ スコット・ペック『あい心理しんり療法りょうほうそうもとしゃ, 1987ねん, ISBN 4422110837 など
  7. ^ a b しん聖書せいしょ辞典じてん』いのちのことばしゃ、3-4ぺーじ 
  8. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ 「חסד」(he-sed)
  9. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Leviticus 20:17
  10. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Deuteronomy 7:8
  11. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Deuteronomy 4:37
  12. ^ a b ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ 2 Samel 1:26
  13. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Genesis 22:2
  14. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Deuteronomy 6:5
  15. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Leviticus 19:18
  16. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Deuteronomy 10:9
  17. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Exodus 20:6
  18. ^ ヘブライ対訳たいやく英語えいご聖書せいしょ Deuteronomy 5:10
  19. ^ ひろさちや『完全かんぜん図解ずかい 仏教ぶっきょうはやわかり百科ひゃっか』1999ねん12月1にち、38ぺーじISBN 978-4391123951 
  20. ^ 並川なみかわこう『スッタニパータ ―仏教ぶっきょう最古さいこ世界せかい岩波書店いわなみしょてんISBN 4000282859
  21. ^ 中村なかむらはじめ『ブッダのことば―スッタニパータ』岩波いわなみ文庫ぶんこ、1958、ISBN 4003330110
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  26. ^ 文化ぶんか人類じんるいがくのレッスン フィールドからの出発しゅっぱつ」p56-57 奥野おくの克巳かつみ花渕はなぶちかおる也共へん 学陽書房がくようしょぼう 2005ねん4がつ11にち初版しょはん発行はっこう
  27. ^ 文化ぶんか人類じんるいがくのレッスン フィールドからの出発しゅっぱつ」p57 奥野おくの克巳かつみ花渕はなぶちかおる也共へん 学陽書房がくようしょぼう 2005ねん4がつ11にち初版しょはん発行はっこう
  28. ^ 「ライフコースとジェンダーで家族かぞく だい3はん」p69-71 岩上いわかみ真珠まじゅ 有斐閣ゆうひかく 2013ねん12月15にちだい3はんだい1さつ
  29. ^ 純潔じゅんけつ近代きんだい 近代きんだい家族かぞく親密しんみつせい比較ひかく社会しゃかいがく」p4-5 デビッド・ノッター 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい 2007ねん11がつ10日とおか初版しょはんだい1さつ発行はっこう
  30. ^ 純潔じゅんけつ近代きんだい 近代きんだい家族かぞく親密しんみつせい比較ひかく社会しゃかいがく」p155 デビッド・ノッター 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい 2007ねん11がつ10日とおか初版しょはんだい1さつ発行はっこう
  31. ^ 「ライフコースとジェンダーで家族かぞく だい3はん」p72 岩上いわかみ真珠まじゅ 有斐閣ゆうひかく 2013ねん12月15にちだい3はんだい1さつ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

障害しょうがい

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]