20世紀 せいき 前半 ぜんはん の欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん
小笠原諸島 おがさわらしょとう は、寛文 ひろふみ 10年 ねん 2月 がつ (1670年 ねん 4月 がつ )に長 ちょう 右 みぎ 衛門 えもん ら7名 めい が母島 ははじま に漂着 ひょうちゃく して以来 いらい 、日本 にっぽん ではその存在 そんざい を知 し られていたが、幕府 ばくふ は延 のべ 宝 たから 3年 ねん (1675年 ねん )5月 がつ に調査 ちょうさ 船 せん を派遣 はけん したのみで、実効 じっこう 支配 しはい を行 おこな っていなかった[7] 。19世紀 せいき に入 はい り、欧米 おうべい の捕鯨 ほげい 船 せん が日本 にっぽん 近海 きんかい に出漁 しゅつぎょ するようになると、小笠原諸島 おがさわらしょとう に寄港 きこう する船 ふね が増加 ぞうか し、文政 ぶんせい 10年 ねん (1827年 ねん )6月 がつ にはイギリス 軍艦 ぐんかん のブロッサム号 ごう (英語 えいご 版 ばん ) (HMS Blossom)が父島 ちちじま に来航 らいこう し、艦長 かんちょう のフレデリック・ウィリアム・ビーチー (Frederick William Beechey)は父島 ちちじま をはじめとする小笠原 おがさわら 群島 ぐんとう の領有 りょうゆう 宣言 せんげん を行 おこな っている[8] 。しかし、この領有 りょうゆう 宣言 せんげん はイギリス政府 せいふ から正式 せいしき に承認 しょうにん されず[9] 、文政 ぶんせい 13年 ねん 5月 がつ 10日 とおか (1830年 ねん 6月26日 にち ) にアメリカ人 じん ナサニエル・セイヴァリー (Nathaniel Savory)ら欧米 おうべい 人 じん 男性 だんせい 5人 にん と太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう 出身 しゅっしん の男女 だんじょ 20人 にん がハワイ王国 おうこく から父島 ちちじま に入植 にゅうしょく し、小笠原諸島 おがさわらしょとう には欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん が暮 く らすようになった[10] [注 ちゅう 1] 。
幕末 ばくまつ には日本 にっぽん 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、イギリス の3国 こく で小笠原諸島 おがさわらしょとう の領有 りょうゆう 権 けん が争 あらそ われた。幕府 ばくふ は17世紀 せいき に行 い った調査 ちょうさ をもとに先占 せんせん 権 けん を訴 うった え、文久 ぶんきゅう 元年 がんねん 12月 がつ (1862年 ねん 1月 がつ )に外国 がいこく 奉行 ぶぎょう 水野 みずの 忠徳 ただのり 、小笠原 おがさわら 島 とう 開拓 かいたく 御用 ごよう 小 しょう 花作 はなづくり 助 すけ らを父島 ちちじま へ派遣 はけん し、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん と会談 かいだん した。その結果 けっか 、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん による既得 きとく 権益 けんえき が認 みと められ、代 か わりに日本 にっぽん による小笠原諸島 おがさわらしょとう 領有 りょうゆう を了承 りょうしょう させた[11] 。幕府 ばくふ は翌 よく 文久 ぶんきゅう 2年 ねん 8月 がつ (1863年 ねん 9月 がつ )に八丈島 はちじょうじま から移住 いじゅう 者 しゃ 30名 めい を父島 ちちじま へ送 おく った[12] が、同月 どうげつ に生麦 なまむぎ 事件 じけん が発生 はっせい して日 にち 英 えい 関係 かんけい が悪化 あっか したため、文久 ぶんきゅう 3年 ねん 5月 がつ (1864年 ねん 6月 がつ )に父島 ちちじま から撤収 てっしゅう することになった[13] 。最終 さいしゅう 的 てき に小笠原諸島 おがさわらしょとう の領有 りょうゆう 権 けん が決定 けってい するのは、1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )11月に明治 めいじ 政府 せいふ が明治 めいじ 丸 まる を父島 ちちじま へ派遣 はけん し、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん の代表 だいひょう 者 しゃ 13名 めい と小花 おばな 作 さく 助 すけ ら小笠原 おがさわら 回収 かいしゅう 委員 いいん が会談 かいだん を行 おこな ってからであった。欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん は日本 にっぽん による小笠原諸島 おがさわらしょとう 領有 りょうゆう を認 みと め、翌 よく 1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )9月 がつ に明治 めいじ 政府 せいふ は諸 しょ 外国 がいこく に対 たい して小笠原諸島 おがさわらしょとう 領有 りょうゆう を宣言 せんげん した[14] 。
その後 ご 、1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )までに欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん は全員 ぜんいん 日本 にっぽん に帰化 きか した[15] 。また1881年 ねん (明治 めいじ 14年 ねん )には、小笠原諸島 おがさわらしょとう への渡航 とこう 禁止 きんし 令 れい が解除 かいじょ され、横浜 よこはま からの定期 ていき 船 せん が増便 ぞうびん された結果 けっか 、日本 にっぽん 本土 ほんど や八丈島 はちじょうじま からの移民 いみん が入植 にゅうしょく するようになった[15] 。1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )に硫黄 いおう 島 とう を含 ふく む火山列島 かざんれっとう [16] 、1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )に南鳥島 みなみとりしま が日本 にっぽん 領 りょう となり、それらの島々 しまじま にも移民 いみん が入植 にゅうしょく した[17] 。さらに第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の結果 けっか 、日本 にっぽん は1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )に北 きた マリアナ諸島 しょとう 、パラオ諸島 しょとう 、カロリン諸島 しょとう 、マーシャル諸島 しょとう などの島々 しまじま を委任 いにん 統治 とうち 領 りょう として獲得 かくとく すると、小笠原諸島 おがさわらしょとう はそれらミクロネシア の島々 しまじま と日本 にっぽん 本土 ほんど を結 むす ぶ中継 ちゅうけい 地点 ちてん として繁栄 はんえい した[18] 。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月8日 にち に太平洋戦争 たいへいようせんそう が勃発 ぼっぱつ した。最初 さいしょ の2年 ねん 半 はん の間 あいだ は平静 へいせい を保 たも ったが、日本 にっぽん 軍 ぐん は1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )5月 がつ に栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう 中将 ちゅうじょう 指揮 しき の下 した 、父島 ちちじま 要塞 ようさい 守備 しゅび 隊 たい を主力 しゅりょく とした小笠原 おがさわら 兵団 へいだん を編成 へんせい し、小笠原諸島 おがさわらしょとう の防衛 ぼうえい にあたった。6月15日 にち 、父島 ちちじま や硫黄 いおう 島 とう がアメリカ軍 ぐん による空襲 くうしゅう を受 う けたため、7月 がつ に硫黄 いおう 島 とう 島民 とうみん 約 やく 1,000人 にん を含 ふく む島民 とうみん 6,886人 にん が日本 にっぽん 本土 ほんど へ強制 きょうせい 的 てき に疎開 そかい することになったが、825人 にん の島民 とうみん は軍属 ぐんぞく として残留 ざんりゅう した[19] [20] [4] 。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )2月 がつ 19日 にち から硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い が行 おこな われ、島民 とうみん 82人 にん を含 ふく む21,900人 にん の日本 にっぽん 軍 ぐん 将兵 しょうへい が戦死 せんし した。3月26日 にち の日本 にっぽん 軍 ぐん の組織 そしき 抵抗 ていこう の終結 しゅうけつ に伴 ともな い、硫黄 いおう 島 とう はアメリカ軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か に入 はい った。なお、小笠原諸島 おがさわらしょとう のその他 た の島 しま へはアメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく 作戦 さくせん は行 おこな われず、終戦 しゅうせん まで日本 にっぽん 軍 ぐん が保持 ほじ した。しかしアメリカ軍 ぐん によって補給 ほきゅう 線 せん が断 た たれたために食料 しょくりょう は欠乏 けつぼう し、軍属 ぐんぞく 1人 にん あたり1日 にち に乾 かん パン 3個 こ 、米飯 べいはん と味噌汁 みそしる 1杯 はい しか支給 しきゅう されず、父島 ちちじま と母島 ははじま を合 あ わせて200名 めい あまりが餓死 がし した[21] 。
8月 がつ 15日 にち の玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう ののち、9月3日 にち にマハン級 きゅう 駆逐 くちく 艦 かん ダンラップ (英語 えいご 版 ばん ) (USS Dunlap (DD-384))が父島 ちちじま に入港 にゅうこう した。ダンラップ艦上 かんじょう で降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ の調印 ちょういん が行 おこな われた結果 けっか 、小笠原諸島 おがさわらしょとう の日本 にっぽん 軍 ぐん は連合 れんごう 国軍 こくぐん に降伏 ごうぶく し、小笠原諸島 おがさわらしょとう 全域 ぜんいき が事実 じじつ 上 じょう アメリカ海軍 かいぐん の占領 せんりょう 下 か に入 はい ることになった[22]
。
SCAPIN-677によって決 き められた日本 にっぽん の施政 しせい 権 けん が及 およ ぶ範囲 はんい
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )1月 がつ 29日 にち 、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ)よりSCAPIN-677 が指令 しれい された。このSCAPIN-677によって小笠原諸島 おがさわらしょとう 全域 ぜんいき における日本 にっぽん の施政 しせい 権 けん が停止 ていし され、正式 せいしき に連合 れんごう 国軍 こくぐん の1国 こく であったアメリカ軍 ぐん の占領 せんりょう 担当 たんとう 地域 ちいき になり軍政 ぐんせい が始 はじ まった[23] 。
日本 にっぽん 本土 ほんど に疎開 そかい した欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん の多 おお くは、戦時 せんじ 中 ちゅう は東京 とうきょう 都 と 練馬 ねりま 区 く の工場 こうじょう で薬莢 やっきょう 作 つく りに従事 じゅうじ した[24] のち、終戦 しゅうせん 後 ご は横須賀 よこすか 市 し 田浦 たうら 周辺 しゅうへん に集 しゅう 住 じゅう していた[25] 。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )後半 こうはん 、アメリカ領事 りょうじ のアレクシス・ジョンソン(Alexis Johnson)に欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん 代表 だいひょう のフレッド・セイヴァリー(Fred Savory)が接触 せっしょく し、帰 き 島 とう 許可 きょか を求 もと める請願 せいがん 書 しょ を手渡 てわた した[26] 。これを受 う けて、アメリカ軍 ぐん は翌 よく 1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )3月19日 にち に、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん およびその配偶 はいぐう 者 しゃ (Families of American-European Origin)に限 かぎ り父島 ちちじま への帰 き 島 とう を許可 きょか した。一方 いっぽう 、4月 がつ には欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん 以外 いがい の旧 きゅう 島民 とうみん 代表 だいひょう がGHQに陳情 ちんじょう し、帰 き 島 とう 促進 そくしん を求 もと める請願 せいがん 書 しょ を提出 ていしゅつ したが帰 き 島 とう 許可 きょか は下 お りなかった[27] 。
アメリカ軍 ぐん による帰 き 島 とう 許可 きょか を受 う けて、10月17日 にち に欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん のうち129人 にん が駆逐 くちく 艦 かん 欅 けやき で父島 ちちじま に帰 き 島 とう した[26] 。帰 き 島 とう 当初 とうしょ 、父島 ちちじま に戦前 せんぜん から残 のこ っていた建物 たてもの は2軒 けん のみであった[28] ため、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん たちは父島 ちちじま のアメリカ軍 ぐん 兵舎 へいしゃ で1,2家族 かぞく ごとに共同 きょうどう で暮 く らし、食料 しょくりょう は日本 にっぽん 軍 ぐん の貯蔵庫 ちょぞうこ にあったものを利用 りよう していた[29] 。10月19日 にち には住民 じゅうみん 自治 じち 組織 そしき である小笠原諸島 おがさわらしょとう 代表 だいひょう 委員 いいん 会 かい (Bonin island council 五 ご 人 にん 委員 いいん 会 かい とも)[注 ちゅう 2] が設立 せつりつ された[1] 。
12月21日 にち 、昭和 しょうわ 南海 なんかい 地震 じしん を原因 げんいん とした津波 つなみ が父島 ちちじま に押 お し寄 よ せ、島民 とうみん たちの住宅 じゅうたく 環境 かんきょう はさらに劣悪 れつあく となった[1] 。そのため、米 べい 軍 ぐん はサイパン の日本 にっぽん 軍 ぐん 捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ から物資 ぶっし を輸送 ゆそう し、米 べい 軍 ぐん から住宅 じゅうたく 資材 しざい の提供 ていきょう を受 う けた島民 とうみん たちは、大村 おおむら 地区 ちく に戦前 せんぜん の土地 とち の区割 くわ りと関係 かんけい なく住宅 じゅうたく を建 た てて移住 いじゅう した[30] 。これは電気 でんき や上下水道 じょうげすいどう を安価 あんか に利用 りよう するために行 おこな われた措置 そち であった[30] が、返還 へんかん 後 ご に土地 とち の所有 しょゆう 権 けん をめぐって民事 みんじ 訴訟 そしょう で争 あらそ われたケースもある[31] 。
サンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく に署名 しょめい する吉田 よしだ 茂 しげる と日本 にっぽん 全権 ぜんけん 委員 いいん 団 だん
アメリカ政府 せいふ 内 ない では、太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう から小笠原諸島 おがさわらしょとう の戦後 せんご 処理 しょり について話 はな し合 あ いを行 おこな っており、1943年 ねん 5月 がつ に行 おこな われたアメリカ国務省 こくむしょう 政治 せいじ 小 しょう 委員 いいん 会 かい (Political Subcommittee)では、小笠原諸島 おがさわらしょとう を戦後 せんご も日本 にっぽん の主権 しゅけん 下 か に残 のこ すべきか議論 ぎろん が行 おこな われている[32] 。そのため、1946年 ねん 11月にアメリカ国務省 こくむしょう で起草 きそう された対 たい 日 にち 平和 へいわ 条約 じょうやく 草案 そうあん では、伊豆諸島 いずしょとう の非 ひ 武装 ぶそう 化 か と小笠原諸島 おがさわらしょとう の主権 しゅけん の放棄 ほうき 及 およ び信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう 化 か が記載 きさい された[33] 。これはアメリカ国防総省 こくぼうそうしょう の強 つよ い意向 いこう があったためで、その1年 ねん 後 ご に起草 きそう された草案 そうあん においても、沖縄 おきなわ は日本 にっぽん の主権 しゅけん 下 か に残 のこ されることが検討 けんとう されたのに対 たい し、小笠原諸島 おがさわらしょとう については引 ひ き続 つづ き信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう 化 か が定 さだ められた[33] 。これに対 たい しアメリカ国務省 こくむしょう 内 ない からは、小笠原諸島 おがさわらしょとう 及 およ び沖縄 おきなわ の信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう 化 か は日本 にっぽん の世論 せろん を過度 かど に刺激 しげき するという反対 はんたい 意見 いけん も挙 あ がっていた[34] 。
1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )12月、外務省 がいむしょう 顧問 こもん の白洲 しらす 次郎 じろう は、アメリカ国務省 こくむしょう のロバート・フィアリー(Robert A.Fearey)と、東京 とうきょう で平和 へいわ 条約 じょうやく について会談 かいだん した[35] 。その会談 かいだん で白洲 しらす は、小笠原諸島 おがさわらしょとう 及 およ び沖縄 おきなわ の信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう 化 か に反対 はんたい したが、両 りょう 地域 ちいき におけるアメリカの軍事 ぐんじ 的 てき 利益 りえき に対 たい しては譲歩 じょうほ する用意 ようい があることを伝 つた えた[35] 。この後 のち 白洲 しらす は首相 しゅしょう の吉田 よしだ 茂 しげる と協議 きょうぎ し、もしアメリカが小笠原諸島 おがさわらしょとう 及 およ び沖縄 おきなわ の信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう 化 か に固執 こしつ した場合 ばあい 、信託 しんたく 統治 とうち に期限 きげん を設 もう けるか、日本 にっぽん が信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう の共同 きょうどう 施政 しせい 者 しゃ となること、そして日本 にっぽん 本土 ほんど と両 りょう 地域 ちいき の往来 おうらい の自由 じゆう や小笠原諸島 おがさわらしょとう 民 みん の帰 き 島 とう をアメリカに提案 ていあん することで方針 ほうしん を固 かた めた[35] 。
1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )1月 がつ 、アメリカ国務 こくむ 長官 ちょうかん 政治 せいじ 顧問 こもん のジョン・フォスター・ダレス (John Foster Dulles)が来日 らいにち し、吉田 よしだ と2回 かい にわたり会談 かいだん を行 おこな った[36] 。この会談 かいだん でダレスは小笠原諸島 おがさわらしょとう 及 およ び沖縄 おきなわ の返還 へんかん に強 つよ く反対 はんたい したが、この会談 かいだん 以降 いこう 日本 にっぽん 国内 こくない では返還 へんかん の世論 せろん が高 たか まり、平和 へいわ 条約 じょうやく 批准 ひじゅん 反対 はんたい の声 こえ も上 あ がった[36] 。そのため、ダレスはアメリカ国防総省 こくぼうそうしょう やイギリス と折衝 せっしょう を行 おこな い、新 あら たな草案 そうあん では日本 にっぽん による主権 しゅけん の放棄 ほうき が定 さだ められなくなった[36] 。一方 いっぽう 吉田 よしだ は、6月 がつ に来日 らいにち したアメリカ国務省 こくむしょう 北東 ほくとう アジア部長 ぶちょう のジョン・ムーア・アリソン (John Moore Allison)とも会談 かいだん し、住民 じゅうみん の日本 にっぽん 国籍 こくせき 維持 いじ や小笠原諸島 おがさわらしょとう 民 みん の帰 き 島 とう などを要請 ようせい した[37] 。
1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ 28日 にち 、サンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく の発効 はっこう に伴 ともな い、アメリカが小笠原諸島 おがさわらしょとう を信託 しんたく 統治 とうち 下 した に置 お くことを国際 こくさい 連合 れんごう に提案 ていあん し、その提案 ていあん が国際 こくさい 連合 れんごう で可決 かけつ されるまでの期間 きかん 、アメリカが小笠原諸島 おがさわらしょとう の行政 ぎょうせい 、立法 りっぽう 、司法 しほう のすべての権限 けんげん を行使 こうし すること が規定 きてい された[38] 。サンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく 第 だい 2章 しょう 第 だい 3条 じょう で規定 きてい されたのは、信託 しんたく 統治 とうち 可決 かけつ までアメリカが小笠原諸島 おがさわらしょとう の行政 ぎょうせい 、立法 りっぽう 、司法 しほう のすべての権限 けんげん を行使 こうし することであり、小笠原諸島 おがさわらしょとう に対 たい する主権 しゅけん の放棄 ほうき は規定 きてい されていない[注 ちゅう 3] ため、日本 にっぽん は小笠原諸島 おがさわらしょとう に対 たい する潜在 せんざい 的 てき 主権 しゅけん (残存 ざんそん 主権 しゅけん ) を返還 へんかん まで持 も ち続 つづ けることができ、住民 じゅうみん も日本 にっぽん 国籍 こくせき を維持 いじ することが可能 かのう となった[39] [40] 。しかし一方 いっぽう で、条約 じょうやく 発効 はっこう に伴 ともな い日本 にっぽん の施政 しせい 権 けん が完全 かんぜん に及 およ ばなくなったため、東京 とうきょう 都 と 小笠原 おがさわら 支庁 しちょう および各 かく 村 むら の役場 やくば が廃止 はいし された[4] [注 ちゅう 4] 。
欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん 以外 いがい の多 おお くの旧 きゅう 島民 とうみん は、小笠原諸島 おがさわらしょとう へすぐに帰 き 島 とう することができなかった。旧 きゅう 島民 とうみん の多 おお くは疎開 そかい によって着 き の身着 みき のままやってきた者 もの が多 おお く、また帰 き 島 とう を希望 きぼう するが故 ゆえ に日本 にっぽん 本土 ほんど に生活 せいかつ 基盤 きばん を築 きず かなかった者 もの も多 おお かったため、生活 せいかつ に困窮 こんきゅう した[41] 。帰 き 島 とう を希望 きぼう する旧 きゅう 島民 とうみん たちは1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )7月 がつ に小笠原 おがさわら 島 とう ・硫黄 いおう 島 とう 帰郷 ききょう 促進 そくしん 連盟 れんめい を設立 せつりつ して、GHQや日本 にっぽん 、アメリカ両 りょう 政府 せいふ に対 たい して陳情 ちんじょう を繰 く り返 かえ した[41] 。
1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )9月 がつ には、帰郷 ききょう 促進 そくしん 連盟 れんめい の陳情 ちんじょう を受 う けた岡崎 おかざき 勝男 かつお 外務 がいむ 大臣 だいじん が駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし のロバート・ダニエル・マーフィー (Robert Daniel Murphy)と会談 かいだん し、翌 よく 10月 がつ に行 おこな われる父島 ちちじま の現地 げんち 調査 ちょうさ に日本 にっぽん 側 がわ 代表 だいひょう 者 しゃ を同行 どうこう させることを了承 りょうしょう させた[42] 。これを受 う けて、帰郷 ききょう 促進 そくしん 連盟 れんめい から1名 めい が父島 ちちじま に派遣 はけん されることが決 き まったが、アメリカ国防総省 こくぼうそうしょう の反対 はんたい により、現地 げんち 調査 ちょうさ はアメリカ政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ のみで行 おこな われた[42] 。なお、1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )当時 とうじ 、帰 き 島 とう を希望 きぼう する旧 きゅう 島民 とうみん の数 かず は旧 きゅう 島民 とうみん 全体 ぜんたい の37%にあたる2,600名 めい であり[43] 、帰郷 ききょう 促進 そくしん 連盟 れんめい がアメリカ政府 せいふ に送 おく った陳情 ちんじょう 書 しょ の数 かず は、1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )から1962年 ねん (昭和 しょうわ 37年 ねん )の16年間 ねんかん で86通 つう に及 およ んだ[44] 。
この運動 うんどう に対 たい して、小笠原諸島 おがさわらしょとう 米国 べいこく 軍 ぐん 政府 せいふ 長官 ちょうかん であったアーサー・W・ラドフォード (Arthur William Radford)は、1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )に父島 ちちじま を視察 しさつ した後 のち 、対 たい ソ連 それん 戦略 せんりゃく において、父島 ちちじま の潜水 せんすい 艦 かん 基地 きち 及 およ び硫黄 いおう 島 とう の空軍 くうぐん 基地 きち は補助 ほじょ 基地 きち として必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ であると考 かんが えた[45] 。そのため、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん のアメリカ市民 しみん 権 けん 獲得 かくとく を支援 しえん した反面 はんめん 、日本 にっぽん への返還 へんかん や旧 きゅう 島民 とうみん の帰 き 島 とう に強 つよ く反対 はんたい した[45] 。またラドフォードは、旧 きゅう 島民 とうみん の帰 き 島 とう によって反 はん 基地 きち 運動 うんどう が起 お こることにも懸念 けねん を示 しめ した[46] 。加 くわ えて、1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )6月 がつ から父島 ちちじま と硫黄 いおう 島 とう に核兵器 かくへいき が保管 ほかん され始 はじ めたため、アメリカ国防総省 こくぼうそうしょう は住民 じゅうみん の帰 き 島 とう により一層 いっそう 難色 なんしょく を示 しめ すようになった[47] [48] 。一方 いっぽう 、駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし のロバート・ダニエル・マーフィーからは、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )に米 べい 軍 ぐん 基地 きち のない母島 ははじま への帰 き 島 とう を認 みと める妥協 だきょう 案 あん が出 だ されたが、この案 あん はラドフォードによって却下 きゃっか された[49] 。
また、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん の中 なか には旧 きゅう 島民 とうみん の帰 き 島 とう に反対 はんたい する声 こえ もあった。1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )11月に訪米 ほうべい した小笠原諸島 おがさわらしょとう 代表 だいひょう 委員 いいん 会 かい の代表 だいひょう 団 だん は、国防総省 こくぼうそうしょう 及 およ び国務省 こくむしょう の関係 かんけい 者 しゃ と面会 めんかい し、82人 にん 分 ぶん の署名 しょめい とともに意見 いけん 書 しょ を手渡 てわた した[50] [51] 。意見 いけん 書 しょ の内容 ないよう は、旧 きゅう 島民 とうみん のほとんどが1930年代 ねんだい 以降 いこう の移住 いじゅう 者 しゃ であること、旧 きゅう 島民 とうみん 7000人 にん 全員 ぜんいん の受 う け入 い れは不可能 ふかのう であることについて書 か かれていた[50] [51] 。
帰 き 島 とう 運動 うんどう と並行 へいこう して、帰郷 ききょう 促進 そくしん 連盟 れんめい は日米 にちべい 両 りょう 政府 せいふ に対 たい して生活 せいかつ 補償 ほしょう 金 きん の支払 しはら いを求 もと め続 つづ けた。当初 とうしょ 、日米 にちべい 両 りょう 政府 せいふ は補償 ほしょう 金 きん の支払 しはら いを拒否 きょひ していたが、日本 にっぽん 政府 せいふ からは1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )に1億 おく 円 えん 、翌 よく 1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )に4000万 まん 円 えん の見舞 みまい 金 きん が支給 しきゅう され[52] 、アメリカ政府 せいふ からは1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )に請求 せいきゅう 額 がく の半額 はんがく にあたる600万 まん ドルが支給 しきゅう された[52] 。しかし、補償 ほしょう 金 きん の配分 はいぶん を巡 めぐ って帰郷 ききょう 促進 そくしん 連盟 れんめい は4つの派閥 はばつ に分 わ かれて対立 たいりつ し、補償 ほしょう 金 きん の配分 はいぶん が完了 かんりょう するのは1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )になってからであった[52] 。
小笠原諸島 おがさわらしょとう をめぐる日米 にちべい 間 あいだ の返還 へんかん 交渉 こうしょう は1950年代 ねんだい から行 おこな われており、アメリカ国務省 こくむしょう は条件 じょうけん 付 つ きながらも小笠原諸島 おがさわらしょとう 返還 へんかん に前向 まえむ きであった[44] 。1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )、駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし となったジョン・ムーア・アリソンは国務 こくむ 長官 ちょうかん に就任 しゅうにん したダレスに対 たい し、「個人 こじん 的 てき には、日本 にっぽん が十分 じゅうぶん な海軍 かいぐん 力 りょく を整 ととの えれば、直 す ぐに小笠原諸島 おがさわらしょとう を返還 へんかん することが日本 にっぽん とのパートナーシップの構築 こうちく へ貢献 こうけん できると思 おも う」と述 の べている[53] 。また同 おな じ年 ねん 、アメリカ国務省 こくむしょう 日本 にっぽん 担当 たんとう 官 かん であったジェームズ・マーティンJr(James V.Martin Jr)は「米国 べいこく が琉球 りゅうきゅう と小笠原諸島 おがさわらしょとう の返還 へんかん に積極 せっきょく 的 てき でないのは、日本 にっぽん が中立 ちゅうりつ 主義 しゅぎ に傾 かたむ く可能 かのう 性 せい への恐怖 きょうふ である」と外務省 がいむしょう の駐米 ちゅうべい 一等 いっとう 書記官 しょきかん に話 はな している[54] 。しかし、アメリカ国防総省 こくぼうそうしょう の反対 はんたい によって小笠原諸島 おがさわらしょとう 返還 へんかん 交渉 こうしょう は遅々 ちち として進 すす まなかった[44] 。
1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )5月23日 にち 、三木 みき 武夫 たけお 外務 がいむ 大臣 だいじん は参議院 さんぎいん 予算 よさん 委員 いいん 会 かい 第 だい 2分科 ぶんか 会 かい の答弁 とうべん において、「小笠原 おがさわら の返還 へんかん 、この問題 もんだい についてはいろいろ軍事 ぐんじ 的 てき な施設 しせつ もあるとは思 おも うけれども、沖縄 おきなわ とは多少 たしょう 軍事 ぐんじ 施設 しせつ についても差 さ があることは事実 じじつ だろうから、今後 こんご とも小笠原 おがさわら の返還 へんかん については、政府 せいふ として努力 どりょく していきたいと考 かんが えている」と発言 はつげん [55] し、翌日 よくじつ の記者 きしゃ 会見 かいけん でも日本 にっぽん 政府 せいふ としては小笠原 おがさわら と沖縄 おきなわ の問題 もんだい を分 わ けて考 かんが えることは悪 わる い考 かんが えではないという見解 けんかい を示 しめ した[56] 。これを受 う けて、アメリカ政府 せいふ は駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし のウラル・アレクシス・ジョンソン (Ural Alexis Johnson)を通 とお して秘密 ひみつ 協議 きょうぎ の場 ば を設 もう けることを決 き め、7月 がつ に三木 みき とジョンソンは東京 とうきょう のホテルニューオータニ で秘密 ひみつ 協議 きょうぎ を行 おこな った[57] 。この秘密 ひみつ 協議 きょうぎ で、沖縄 おきなわ と比較 ひかく して小笠原諸島 おがさわらしょとう の軍事 ぐんじ 的 てき 価値 かち が微々 びび たるものであることについては両者 りょうしゃ 合意 ごうい したが、小笠原諸島 おがさわらしょとう 返還 へんかん によって沖縄 おきなわ 返還 へんかん への圧力 あつりょく が高 たか まる可能 かのう 性 せい があるとして、ジョンソンは小笠原諸島 おがさわらしょとう 返還 へんかん に慎重 しんちょう な立場 たちば をとった[58] 。11月の佐藤 さとう 栄作 えいさく 首相 しゅしょう 訪米 ほうべい を前 まえ に、日本 にっぽん では小笠原諸島 おがさわらしょとう と沖縄 おきなわ 返還 へんかん について関心 かんしん が高 たか まる中 なか 、9月に訪米 ほうべい した三木 みき はロバート・マクナマラ (Robert Strange McNamara)国防総省 こくぼうそうしょう 長官 ちょうかん と会談 かいだん し、マクナマラは小笠原諸島 おがさわらしょとう の返還 へんかん は沖縄 おきなわ 返還 へんかん よりも容易 ようい であることを認 みと めた[59] 。
共同 きょうどう 宣言 せんげん 起草 きそう に向 む けた日米 にちべい 協議 きょうぎ は10月11日 にち から始 はじ まった。この時点 じてん でアメリカ政府 せいふ は、小笠原諸島 おがさわらしょとう 返還 へんかん についての最終 さいしゅう 決定 けってい を下 くだ していなかったが、硫黄 いおう 島 とう を小笠原諸島 おがさわらしょとう から切 き り離 はな す提案 ていあん をした[60] 。日本 にっぽん 側 がわ はこれを認 みと めず、代替 だいたい 案 あん として基地 きち の継続 けいぞく 使用 しよう と自衛隊 じえいたい をシーレーン 防衛 ぼうえい の支援 しえん に投入 とうにゅう することを提案 ていあん した[60] 。これを受 う けて、アメリカ政府 せいふ は11月3日 にち に、小笠原諸島 おがさわらしょとう 返還 へんかん に関 かん する日本 にっぽん との協議 きょうぎ を速 すみ やかに開始 かいし することを決定 けってい [61] し、返還 へんかん 後 ご の軍事 ぐんじ 基地 きち 使用 しよう 継続 けいぞく や沖縄 おきなわ の即時 そくじ 返還 へんかん 要求 ようきゅう に対 たい する圧力 あつりょく の緩和 かんわ などが返還 へんかん の条件 じょうけん とされた[62] 。
1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )11月15日 にち 、佐藤 さとう 栄作 えいさく 首相 しゅしょう とリンドン・ジョンソン 大統領 だいとうりょう が会談 かいだん した結果 けっか 、日米 にちべい 間 あいだ で南方 みなかた 諸島 しょとう 及 およ びその他 た の諸島 しょとう に関 かん する日本 にっぽん 国 こく とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との間 あいだ の協定 きょうてい (米国 べいこく との小笠原 おがさわら 返還 へんかん 協定 きょうてい ) が締結 ていけつ された。翌 よく 1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )4月 がつ 5日 にち には日米 にちべい 間 あいだ で本 ほん 協定 きょうてい が締結 ていけつ ・調印 ちょういん され、5月22日 にち 、採決 さいけつ を棄権 きけん した日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう を除 のぞ き、全会 ぜんかい 一致 いっち で国会 こっかい の承認 しょうにん を受 う けた[63] 。
返還 へんかん に先立 さきだ って、1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )12月8日 にち に「小笠原 おがさわら 復帰 ふっき 対策 たいさく 本部 ほんぶ 」が設置 せっち された[64] 。翌 よく 1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )1月 がつ 18日 にち には、海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい の護衛 ごえい 艦 かん たかつき と海上保安庁 かいじょうほあんちょう の巡視 じゅんし 船 せん いず が父島 ちちじま に派遣 はけん され、30人 にん あまりの代表 だいひょう 団 だん が10日間 にちかん にわたって島民 とうみん へのき取 きと りなどの現地 げんち 調査 ちょうさ を行 おこな った[64] 。また反対 はんたい に、小笠原諸島 おがさわらしょとう 代表 だいひょう 委員 いいん 会 かい から代表 だいひょう 3名 めい が東京 とうきょう に招待 しょうたい された[64] 。
この頃 ころ には復帰 ふっき が既定 きてい 路線 ろせん になり、監視 かんし が緩 ゆる くなることを見越 みこ して日本 にっぽん の漁船 ぎょせん が盛 さか んに小笠原諸島 おがさわらしょとう 近海 きんかい に出漁 しゅつぎょ 。アメリカ海軍 かいぐん に領海 りょうかい 侵犯 しんぱん で拿捕 だほ されるケースが続発 ぞくはつ した。返還 へんかん 4か月 げつ 前 まえ の1968年 ねん 2月 がつ 28日 にち にも西島 にししま 付近 ふきん で漁船 ぎょせん が拿捕 だほ され、外務省 がいむしょう が駐 ちゅう 日 にち アメリカ大使館 たいしかん に「好意 こうい 的 てき な処理 しょり 」をしてもらえるよう申 もう し入 い れを行 おこな う出来事 できごと もあった[65] 。
小笠原諸島 おがさわらしょとう 復帰 ふっき 50周年 しゅうねん 記念 きねん 1000円 えん 銀貨 ぎんか 幣 ぬさ (2018年 ねん 発行 はっこう )
同年 どうねん 6月26日 にち 正午 しょうご (日本 にっぽん 標準時 ひょうじゅんじ )、父島 ちちじま のアメリカ海軍 かいぐん 司令 しれい 部 ぶ 前 まえ で返還 へんかん 式典 しきてん が行 おこな われ、小笠原諸島 おがさわらしょとう は日本 にっぽん に復帰 ふっき した。返還 へんかん 後 ご 、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん には3年間 ねんかん の国籍 こくせき 猶予 ゆうよ 期間 きかん が与 あた えられたため、アメリカ国籍 こくせき を選択 せんたく してアメリカに移住 いじゅう した者 もの も少 すく なくない[66] 。また、小笠原諸島 おがさわらしょとう は返還 へんかん 後 ご 日米 にちべい 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく の範囲 はんい に含 ふく まれたため[67] 、引 ひ き続 つづ き硫黄 いおう 島 とう と南鳥島 みなみとりしま には硫黄 いおう 島 とう ロランC主 おも 局 きょく と南鳥島 みなみとりしま ロランC局 きょく の管理 かんり を目的 もくてき として、アメリカ沿岸 えんがん 警備 けいび 隊 たい が駐留 ちゅうりゅう した。その後 ご 、硫黄 いおう 島 とう ロランC主 おも 局 きょく は1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )に廃 はい 局 きょく となり、南鳥島 みなみとりしま ロランC局 きょく は1993年 ねん (平成 へいせい 5年 ねん )に海上保安庁 かいじょうほあんちょう に引 ひ き渡 わた されたため、小笠原諸島 おがさわらしょとう から米 べい 軍 ぐん は撤収 てっしゅう した[17] 。
また返還 へんかん 後 ご 、欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん 以外 いがい の旧 きゅう 島民 とうみん の父島 ちちじま 、母島 ははじま への帰 き 島 とう も自由 じゆう となったが、実際 じっさい に小笠原諸島 おがさわらしょとう へ帰 かえり 島 とう した旧 きゅう 島民 とうみん の数 かず は、1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )の時点 じてん で649名 めい であった[43] 。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )
12月8日 にち - 太平洋戦争 たいへいようせんそう が開戦 かいせん する。
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )
7月 がつ - 硫黄 いおう 島 とう 島民 とうみん 約 やく 1,000人 にん を含 ふく む島民 とうみん 6,886人 にん が日本 にっぽん 本土 ほんど に強制 きょうせい 疎開 そかい される[4] 。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )
2月 がつ 19日 にち - 米 べい 軍 ぐん が硫黄 いおう 島 とう に上陸 じょうりく し、硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いが始 はじ まる。
3月26日 にち - 日本 にっぽん 軍 ぐん の組織 そしき 抵抗 ていこう の終結 しゅうけつ に伴 ともな い、硫黄 いおう 島 とう が米 べい 軍 ぐん の軍政 ぐんせい 下 か に入 はい る。
8月 がつ 15日 にち - 太平洋戦争 たいへいようせんそう が終結 しゅうけつ する。
9月3日 にち - 降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ の調印 ちょういん が行 おこな われ、小笠原諸島 おがさわらしょとう の日本 にっぽん 軍 ぐん は米 べい 軍 ぐん に降伏 ごうぶく したため、小笠原諸島 おがさわらしょとう 全域 ぜんいき が事実 じじつ 上 じょう 米 べい 海軍 かいぐん の軍政 ぐんせい 下 か に入 はい る[22] 。
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )
1月 がつ 29日 にち - SCAPIN-677が指令 しれい され、小笠原諸島 おがさわらしょとう 全域 ぜんいき における日本 にっぽん の施政 しせい 権 けん が停止 ていし される。
3月19日 にち - 米 べい 軍 ぐん が欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん およびその配偶 はいぐう 者 しゃ に限 かぎ り父島 ちちじま への帰 き 島 とう を許可 きょか する[27] 。
10月17日 にち - 欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん のうち129人 にん が駆逐 くちく 艦 かん 欅 けやき で父島 ちちじま に帰 き 島 とう する[26] 。
10月19日 にち - 小笠原諸島 おがさわらしょとう 代表 だいひょう 委員 いいん 会 かい (五 ご 人 にん 委員 いいん 会 かい )が設立 せつりつ される[1] 。
1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )
7月 がつ - 欧米 おうべい 系 けい 島民 とうみん 以外 いがい の旧 きゅう 島民 とうみん によって小笠原 おがさわら 島 とう ・硫黄 いおう 島 とう 帰郷 ききょう 促進 そくしん 連盟 れんめい が設立 せつりつ される[41] 。
1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )
1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )
日本 にっぽん の気象庁 きしょうちょう がアメリカ政府 せいふ の委託 いたく を受 う け、南鳥島 みなみとりしま で気象 きしょう 観測 かんそく 業務 ぎょうむ を行 おこな う[17] 。
小笠原諸島 おがさわらしょとう 裁判所 さいばんしょ (Bonin island court)が設置 せっち される[68] 。
1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )
4月 がつ 28日 にち - サンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく の発効 はっこう に伴 ともな い、アメリカが小笠原諸島 おがさわらしょとう の行政 ぎょうせい 、立法 りっぽう 、司法 しほう のすべての権限 けんげん を行使 こうし することが規定 きてい される。そのため東京 とうきょう 都 と 小笠原 おがさわら 支庁 しちょう および各 かく 村 むら の役場 やくば が廃止 はいし される[4] 。
10月 - アメリカ政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ による父島 ちちじま の現地 げんち 調査 ちょうさ が行 おこな われる[42] 。
1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )
11月 - 小笠原諸島 おがさわらしょとう 代表 だいひょう 委員 いいん 会 かい の代表 だいひょう 団 だん が訪米 ほうべい し、アメリカ国防総省 こくぼうそうしょう 及 およ びアメリカ国務省 こくむしょう の関係 かんけい 者 しゃ と面会 めんかい する[50] 。
1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )
1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )
南鳥島 みなみとりしま ロランC局 きょく が完成 かんせい したことを受 う け、日本 にっぽん の気象庁 きしょうちょう 職員 しょくいん が南鳥島 みなみとりしま から撤収 てっしゅう する[17] 。
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )
5月 - 第 だい 1回 かい 墓参 ぼさん 団 だん が父島 ちちじま と硫黄 いおう 島 とう を訪問 ほうもん する[4] 。
1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )
5月23日 にち - 三木 みき 武夫 たけお 外務 がいむ 大臣 だいじん が参議院 さんぎいん 予算 よさん 委員 いいん 会 かい 第 だい 2分科 ぶんか 会 かい の答弁 とうべん において、小笠原 おがさわら と沖縄 おきなわ の問題 もんだい を分 わ けて考 かんが えることは悪 わる い考 かんが えではないという見解 けんかい を示 しめ す[56] 。
10月 - 共同 きょうどう 宣言 せんげん 起草 きそう に向 む けた日米 にちべい 協議 きょうぎ が始 はじ まる[60] 。
11月15日 にち - 佐藤 さとう 栄作 えいさく 首相 しゅしょう とリンドン・ジョンソン大統領 だいとうりょう が会談 かいだん した結果 けっか 、日米 にちべい 間 あいだ で南方 なんぽう 諸島 しょとう 及 およ びその他 た の諸島 しょとう に関 かん する日本 にっぽん 国 こく とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との間 あいだ の協定 きょうてい (米国 べいこく との小笠原 おがさわら 返還 へんかん 協定 きょうてい )が締結 ていけつ される。
12月8日 にち - 「小笠原 おがさわら 復帰 ふっき 対策 たいさく 本部 ほんぶ 」が設置 せっち される[64] 。
1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )
1月 がつ 18日 にち - 海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい の護衛 ごえい 艦 かん たかつきと海上保安庁 かいじょうほあんちょう の巡視 じゅんし 船 せん いずが父島 ちちじま に派遣 はけん され、30人 にん あまりの代表 だいひょう 団 だん が10日間 にちかん にわたって現地 げんち 調査 ちょうさ を行 おこな う[64] 。
4月 がつ 5日 にち - 日米 にちべい 間 あいだ で米国 べいこく との小笠原 おがさわら 返還 へんかん 協定 きょうてい の本 ほん 協定 きょうてい が締結 ていけつ ・調印 ちょういん される。
5月22日 にち - 米国 べいこく との小笠原 おがさわら 返還 へんかん 協定 きょうてい が、採決 さいけつ を棄権 きけん した日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう を除 のぞ き全会 ぜんかい 一致 いっち で国会 こっかい の承認 しょうにん を受 う ける[63] 。
6月26日 にち - 小笠原諸島 おがさわらしょとう が日本 にっぽん に復帰 ふっき する。