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アメリカ施政権下の小笠原諸島 - Wikipedia

アメリカ施政しせいけん小笠原諸島おがさわらしょとう

1945ねんのアメリカぐんによる占領せんりょうから、1968ねん6がつ26にち本土ほんど復帰ふっきいたるまでの23年間ねんかんおよアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる統治とうち時代じだい
小笠原諸島おがさわらしょとう
Bonin islands
大日本帝国 1945ねん - 1968ねん 日本
小笠原諸島の国旗
国旗こっき
小笠原諸島の位置
公用こうよう 英語えいご
首都しゅと 父島ちちじま大村おおむら
小笠原諸島おがさわらしょとう米国べいこくぐん政府せいふ長官ちょうかん
(アメリカ海軍かいぐん太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれいかん兼務けんむ
1945 - 1945 チェスター・ニミッツ
1967 - 1968ジョン・ハイランド英語えいごばん
小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかい議長ぎちょう[1]
1945 - xxxxねんクラーク・ゴンザレス(Clark Gonzales)[1]
面積めんせき
1960ねん昭和しょうわ35ねん[2]106.14km²
人口じんこう
1940ねん昭和しょうわ15ねん[3]7,361にん
1946ねん昭和しょうわ21ねん[4]129にん
1967ねん昭和しょうわ42ねん[5]409にん
1970ねん昭和しょうわ45ねん[3]781にん
変遷へんせん
硫黄いおうとうたたか終結しゅうけつ 1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ26にち
日本にっぽんぐん降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういん1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつ3にち
SCAPIN-677による日本にっぽん施政しせいけん停止ていし1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ29にち
サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく発効はっこう1952ねん昭和しょうわ27ねん)4がつ28にち
本土ほんど復帰ふっき1968ねん昭和しょうわ43ねん)6がつ26にち
通貨つうかUSドル(1945ねん - 1968ねん
時間じかんたいUTC +11[6]DST: なし)

アメリカ施政しせいけん小笠原諸島おがさわらしょとう(アメリカしせいけんかのおがさわらしょとう)では、1945ねん昭和しょうわ20ねん)のアメリカぐんによる小笠原諸島おがさわらしょとう南方みなかた諸島しょとう占領せんりょうから、1968ねん昭和しょうわ43ねん6月26にち小笠原おがさわら本土ほんど復帰ふっきいたるまでの、23年間ねんかんおよアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる統治とうち時代じだいについて解説かいせつする。

 
20世紀せいき前半ぜんはん欧米おうべいけい島民とうみん

小笠原諸島おがさわらしょとうは、寛文ひろふみ10ねん2がつ1670ねん4がつ)にちょうみぎ衛門えもんら7めい母島ははじま漂着ひょうちゃくして以来いらい日本にっぽんではその存在そんざいられていたが、幕府ばくふのべたから3ねん1675ねん)5がつ調査ちょうさせん派遣はけんしたのみで、実効じっこう支配しはいおこなっていなかった[7]19世紀せいきはいり、欧米おうべい捕鯨ほげいせん日本にっぽん近海きんかい出漁しゅつぎょするようになると、小笠原諸島おがさわらしょとう寄港きこうするふね増加ぞうかし、文政ぶんせい10ねん1827ねん)6がつにはイギリス軍艦ぐんかんブロッサムごう英語えいごばん(HMS Blossom)が父島ちちじま来航らいこうし、艦長かんちょうフレデリック・ウィリアム・ビーチー(Frederick William Beechey)は父島ちちじまをはじめとする小笠原おがさわら群島ぐんとう領有りょうゆう宣言せんげんおこなっている[8]。しかし、この領有りょうゆう宣言せんげんはイギリス政府せいふから正式せいしき承認しょうにんされず[9]文政ぶんせい13ねん5がつ10日とおか1830ねん6月26にち) にアメリカじんナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら欧米おうべいじん男性だんせい5にん太平洋たいへいよう諸島しょとう出身しゅっしん男女だんじょ20にんハワイ王国おうこくから父島ちちじま入植にゅうしょくし、小笠原諸島おがさわらしょとうには欧米おうべいけい島民とうみんらすようになった[10][ちゅう 1]

幕末ばくまつには日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリスの3こく小笠原諸島おがさわらしょとう領有りょうゆうけんあらそわれた。幕府ばくふは17世紀せいきった調査ちょうさをもとに先占せんせんけんうったえ、文久ぶんきゅう元年がんねん12がつ1862ねん1がつ)に外国がいこく奉行ぶぎょう水野みずの忠徳ただのり小笠原おがさわらとう開拓かいたく御用ごようしょう花作はなづくりすけらを父島ちちじま派遣はけんし、欧米おうべいけい島民とうみん会談かいだんした。その結果けっか欧米おうべいけい島民とうみんによる既得きとく権益けんえきみとめられ、わりに日本にっぽんによる小笠原諸島おがさわらしょとう領有りょうゆう了承りょうしょうさせた[11]幕府ばくふよく文久ぶんきゅう2ねん8がつ1863ねん9がつ)に八丈島はちじょうじまから移住いじゅうしゃ30めい父島ちちじまおくった[12]が、同月どうげつ生麦なまむぎ事件じけん発生はっせいしてにちえい関係かんけい悪化あっかしたため、文久ぶんきゅう3ねん5がつ1864ねん6がつ)に父島ちちじまから撤収てっしゅうすることになった[13]最終さいしゅうてき小笠原諸島おがさわらしょとう領有りょうゆうけん決定けっていするのは、1875ねん明治めいじ8ねん)11月に明治めいじ政府せいふ明治めいじまる父島ちちじま派遣はけんし、欧米おうべいけい島民とうみん代表だいひょうしゃ13めい小花おばなさくすけ小笠原おがさわら回収かいしゅう委員いいん会談かいだんおこなってからであった。欧米おうべいけい島民とうみん日本にっぽんによる小笠原諸島おがさわらしょとう領有りょうゆうみとめ、よく1876ねん明治めいじ9ねん)9がつ明治めいじ政府せいふしょ外国がいこくたいして小笠原諸島おがさわらしょとう領有りょうゆう宣言せんげんした[14]

その1882ねん明治めいじ15ねん)までに欧米おうべいけい島民とうみん全員ぜんいん日本にっぽん帰化きかした[15]。また1881ねん明治めいじ14ねん)には、小笠原諸島おがさわらしょとうへの渡航とこう禁止きんしれい解除かいじょされ、横浜よこはまからの定期ていきせん増便ぞうびんされた結果けっか日本にっぽん本土ほんど八丈島はちじょうじまからの移民いみん入植にゅうしょくするようになった[15]1891ねん明治めいじ24ねん)に硫黄いおうとうふく火山列島かざんれっとう[16]1898ねん明治めいじ31ねん)に南鳥島みなみとりしま日本にっぽんりょうとなり、それらの島々しまじまにも移民いみん入植にゅうしょくした[17]。さらにだいいち世界せかい大戦たいせん結果けっか日本にっぽんは1920ねん大正たいしょう9ねん)にきたマリアナ諸島しょとうパラオ諸島しょとうカロリン諸島しょとうマーシャル諸島しょとうなどの島々しまじま委任いにん統治とうちりょうとして獲得かくとくすると、小笠原諸島おがさわらしょとうはそれらミクロネシア島々しまじま日本にっぽん本土ほんどむす中継ちゅうけい地点ちてんとして繁栄はんえいした[18]

太平洋戦争たいへいようせんそう

編集へんしゅう

1941ねん昭和しょうわ16ねん12月8にち太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつした。最初さいしょの2ねんはんあいだ平静へいせいたもったが、日本にっぽんぐん1944ねん昭和しょうわ19ねん)5がつ栗林くりばやしただしどう中将ちゅうじょう指揮しきした父島ちちじま要塞ようさい守備しゅびたい主力しゅりょくとした小笠原おがさわら兵団へいだん編成へんせいし、小笠原諸島おがさわらしょとう防衛ぼうえいにあたった。6月15にち父島ちちじま硫黄いおうとうがアメリカぐんによる空襲くうしゅうけたため、7がつ硫黄いおうとう島民とうみんやく1,000にんふく島民とうみん6,886にん日本にっぽん本土ほんど強制きょうせいてき疎開そかいすることになったが、825にん島民とうみん軍属ぐんぞくとして残留ざんりゅうした[19][20][4]

1945ねん昭和しょうわ20ねん2がつ19にちから硫黄いおうとうたたかおこなわれ、島民とうみん82にんふくむ21,900にん日本にっぽんぐん将兵しょうへい戦死せんしした。3月26にち日本にっぽんぐん組織そしき抵抗ていこう終結しゅうけつともない、硫黄いおうとうはアメリカぐん占領せんりょうはいった。なお、小笠原諸島おがさわらしょとうのそのしまへはアメリカぐん上陸じょうりく作戦さくせんおこなわれず、終戦しゅうせんまで日本にっぽんぐん保持ほじした。しかしアメリカぐんによって補給ほきゅうせんたれたために食料しょくりょう欠乏けつぼうし、軍属ぐんぞく1にんあたり1にちかんパン3米飯べいはん味噌汁みそしる1はいしか支給しきゅうされず、父島ちちじま母島ははじまわせて200めいあまりが餓死がしした[21]

8がつ15にち玉音ぎょくおん放送ほうそうののち、9月3にちマハンきゅう駆逐くちくかんダンラップ英語えいごばん(USS Dunlap (DD-384))が父島ちちじま入港にゅうこうした。ダンラップ艦上かんじょう降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんおこなわれた結果けっか小笠原諸島おがさわらしょとう日本にっぽんぐん連合れんごう国軍こくぐん降伏ごうぶくし、小笠原諸島おがさわらしょとう全域ぜんいき事実じじつじょうアメリカ海軍かいぐん占領せんりょうはいることになった[22]

欧米おうべいけい島民とうみんとう

編集へんしゅう
 
SCAPIN-677によってめられた日本にっぽん施政しせいけんおよ範囲はんい

1946ねん昭和しょうわ21ねん1がつ29にち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)よりSCAPIN-677指令しれいされた。このSCAPIN-677によって小笠原諸島おがさわらしょとう全域ぜんいきにおける日本にっぽん施政しせいけん停止ていしされ、正式せいしき連合れんごう国軍こくぐんの1こくであったアメリカぐん占領せんりょう担当たんとう地域ちいきになり軍政ぐんせいはじまった[23]

日本にっぽん本土ほんど疎開そかいした欧米おうべいけい島民とうみんおおくは、戦時せんじちゅう東京とうきょう練馬ねりま工場こうじょう薬莢やっきょうつくりに従事じゅうじした[24]のち、終戦しゅうせん横須賀よこすか田浦たうら周辺しゅうへんしゅうじゅうしていた[25]。1945ねん昭和しょうわ20ねん後半こうはん、アメリカ領事りょうじのアレクシス・ジョンソン(Alexis Johnson)に欧米おうべいけい島民とうみん代表だいひょうのフレッド・セイヴァリー(Fred Savory)が接触せっしょくし、とう許可きょかもとめる請願せいがんしょ手渡てわたした[26]。これをけて、アメリカぐんよく1946ねん昭和しょうわ21ねん3月19にちに、欧米おうべいけい島民とうみんおよびその配偶はいぐうしゃ(Families of American-European Origin)にかぎ父島ちちじまへのとう許可きょかした。一方いっぽう、4がつには欧米おうべいけい島民とうみん以外いがいきゅう島民とうみん代表だいひょうがGHQに陳情ちんじょうし、とう促進そくしんもとめる請願せいがんしょ提出ていしゅつしたがとう許可きょかりなかった[27]

アメリカぐんによるとう許可きょかけて、10月17にち欧米おうべいけい島民とうみんのうち129にん駆逐くちくかんけやき父島ちちじまとうした[26]とう当初とうしょ父島ちちじま戦前せんぜんからのこっていた建物たてものは2けんのみであった[28]ため、欧米おうべいけい島民とうみんたちは父島ちちじまのアメリカぐん兵舎へいしゃで1,2家族かぞくごとに共同きょうどうらし、食料しょくりょう日本にっぽんぐん貯蔵庫ちょぞうこにあったものを利用りようしていた[29]10月19にちには住民じゅうみん自治じち組織そしきである小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかい(Bonin island council にん委員いいんかいとも)[ちゅう 2]設立せつりつされた[1]

12月21にち昭和しょうわ南海なんかい地震じしん原因げんいんとした津波つなみ父島ちちじませ、島民とうみんたちの住宅じゅうたく環境かんきょうはさらに劣悪れつあくとなった[1]。そのため、べいぐんサイパン日本にっぽんぐん捕虜ほりょ収容しゅうようしょから物資ぶっし輸送ゆそうし、べいぐんから住宅じゅうたく資材しざい提供ていきょうけた島民とうみんたちは、大村おおむら地区ちく戦前せんぜん土地とち区割くわりと関係かんけいなく住宅じゅうたくてて移住いじゅうした[30]。これは電気でんき上下水道じょうげすいどう安価あんか利用りようするためにおこなわれた措置そちであった[30]が、返還へんかん土地とち所有しょゆうけんをめぐって民事みんじ訴訟そしょうあらそわれたケースもある[31]

初期しょき日米にちべい交渉こうしょう

編集へんしゅう
 
サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく署名しょめいする吉田よしだしげる日本にっぽん全権ぜんけん委員いいんだん

アメリカ政府せいふないでは、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅうから小笠原諸島おがさわらしょとう戦後せんご処理しょりについてはないをおこなっており、1943ねん5がつおこなわれたアメリカ国務省こくむしょう政治せいじしょう委員いいんかい(Political Subcommittee)では、小笠原諸島おがさわらしょとう戦後せんご日本にっぽん主権しゅけんのこすべきか議論ぎろんおこなわれている[32]。そのため、1946ねん11月にアメリカ国務省こくむしょう起草きそうされたたいにち平和へいわ条約じょうやく草案そうあんでは、伊豆諸島いずしょとう武装ぶそう小笠原諸島おがさわらしょとう主権しゅけん放棄ほうきおよ信託しんたく統治とうちりょう記載きさいされた[33]。これはアメリカ国防総省こくぼうそうしょうつよ意向いこうがあったためで、その1ねん起草きそうされた草案そうあんにおいても、沖縄おきなわ日本にっぽん主権しゅけんのこされることが検討けんとうされたのにたいし、小笠原諸島おがさわらしょとうについてはつづ信託しんたく統治とうちりょうさだめられた[33]。これにたいしアメリカ国務省こくむしょうないからは、小笠原諸島おがさわらしょとうおよ沖縄おきなわ信託しんたく統治とうちりょう日本にっぽん世論せろん過度かど刺激しげきするという反対はんたい意見いけんがっていた[34]

1950ねん昭和しょうわ25ねん)12月、外務省がいむしょう顧問こもん白洲しらす次郎じろうは、アメリカ国務省こくむしょうのロバート・フィアリー(Robert A.Fearey)と、東京とうきょう平和へいわ条約じょうやくについて会談かいだんした[35]。その会談かいだん白洲しらすは、小笠原諸島おがさわらしょとうおよ沖縄おきなわ信託しんたく統治とうちりょう反対はんたいしたが、りょう地域ちいきにおけるアメリカの軍事ぐんじてき利益りえきたいしては譲歩じょうほする用意よういがあることをつたえた[35]。こののち白洲しらす首相しゅしょう吉田よしだしげる協議きょうぎし、もしアメリカが小笠原諸島おがさわらしょとうおよ沖縄おきなわ信託しんたく統治とうちりょう固執こしつした場合ばあい信託しんたく統治とうち期限きげんもうけるか、日本にっぽん信託しんたく統治とうちりょう共同きょうどう施政しせいしゃとなること、そして日本にっぽん本土ほんどりょう地域ちいき往来おうらい自由じゆう小笠原諸島おがさわらしょとうみんとうをアメリカに提案ていあんすることで方針ほうしんかためた[35]

1951ねん昭和しょうわ26ねん)1がつアメリカ国務こくむ長官ちょうかん政治せいじ顧問こもんジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)が来日らいにちし、吉田よしだと2かいにわたり会談かいだんおこなった[36]。この会談かいだんでダレスは小笠原諸島おがさわらしょとうおよ沖縄おきなわ返還へんかんつよ反対はんたいしたが、この会談かいだん以降いこう日本にっぽん国内こくないでは返還へんかん世論せろんたかまり、平和へいわ条約じょうやく批准ひじゅん反対はんたいこえがった[36]。そのため、ダレスはアメリカ国防総省こくぼうそうしょうイギリス折衝せっしょうおこない、あらたな草案そうあんでは日本にっぽんによる主権しゅけん放棄ほうきさだめられなくなった[36]一方いっぽう吉田よしだは、6がつ来日らいにちしたアメリカ国務省こくむしょう北東ほくとうアジア部長ぶちょうジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison)とも会談かいだんし、住民じゅうみん日本にっぽん国籍こくせき維持いじ小笠原諸島おがさわらしょとうみんとうなどを要請ようせいした[37]

1952ねん昭和しょうわ27ねん4がつ28にちサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうともない、アメリカが小笠原諸島おがさわらしょとう信託しんたく統治とうちしたくことを国際こくさい連合れんごう提案ていあんし、その提案ていあん国際こくさい連合れんごう可決かけつされるまでの期間きかん、アメリカが小笠原諸島おがさわらしょとう行政ぎょうせい立法りっぽう司法しほうのすべての権限けんげん行使こうしすること規定きていされた[38]。サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくだい2しょうだい3じょう規定きていされたのは、信託しんたく統治とうち可決かけつまでアメリカが小笠原諸島おがさわらしょとう行政ぎょうせい立法りっぽう司法しほうのすべての権限けんげん行使こうしすることであり、小笠原諸島おがさわらしょとうたいする主権しゅけん放棄ほうき規定きていされていない[ちゅう 3]ため、日本にっぽん小笠原諸島おがさわらしょとうたいする潜在せんざいてき主権しゅけん残存ざんそん主権しゅけん返還へんかんまでつづけることができ、住民じゅうみん日本にっぽん国籍こくせき維持いじすることが可能かのうとなった[39][40]。しかし一方いっぽうで、条約じょうやく発効はっこうともな日本にっぽん施政しせいけん完全かんぜんおよばなくなったため、東京とうきょう小笠原おがさわら支庁しちょうおよびかくむら役場やくば廃止はいしされた[4][ちゅう 4]

とう運動うんどう

編集へんしゅう

欧米おうべいけい島民とうみん以外いがいおおくのきゅう島民とうみんは、小笠原諸島おがさわらしょとうへすぐにとうすることができなかった。きゅう島民とうみんおおくは疎開そかいによって身着みきのままやってきたものおおく、またとう希望きぼうするがゆえ日本にっぽん本土ほんど生活せいかつ基盤きばんきずかなかったものおおかったため、生活せいかつ困窮こんきゅうした[41]とう希望きぼうするきゅう島民とうみんたちは1947ねん昭和しょうわ22ねん)7がつ小笠原おがさわらとう硫黄いおうとう帰郷ききょう促進そくしん連盟れんめい設立せつりつして、GHQや日本にっぽん、アメリカりょう政府せいふたいして陳情ちんじょうかえした[41]

1952ねん昭和しょうわ27ねん)9がつには、帰郷ききょう促進そくしん連盟れんめい陳情ちんじょうけた岡崎おかざき勝男かつお外務がいむ大臣だいじんちゅうにち大使たいしロバート・ダニエル・マーフィー(Robert Daniel Murphy)と会談かいだんし、よく10がつおこなわれる父島ちちじま現地げんち調査ちょうさ日本にっぽんがわ代表だいひょうしゃ同行どうこうさせることを了承りょうしょうさせた[42]。これをけて、帰郷ききょう促進そくしん連盟れんめいから1めい父島ちちじま派遣はけんされることがまったが、アメリカ国防総省こくぼうそうしょう反対はんたいにより、現地げんち調査ちょうさはアメリカ政府せいふ関係かんけいしゃのみでおこなわれた[42]。なお、1955ねん昭和しょうわ30ねん当時とうじとう希望きぼうするきゅう島民とうみんかずきゅう島民とうみん全体ぜんたいの37%にあたる2,600めいであり[43]帰郷ききょう促進そくしん連盟れんめいがアメリカ政府せいふおくった陳情ちんじょうしょかずは、1947ねん昭和しょうわ22ねん)から1962ねん昭和しょうわ37ねん)の16年間ねんかんで86つうおよんだ[44]

この運動うんどうたいして、小笠原諸島おがさわらしょとう米国べいこくぐん政府せいふ長官ちょうかんであったアーサー・W・ラドフォード(Arthur William Radford)は、1951ねん昭和しょうわ26ねん)に父島ちちじま視察しさつしたのちたいソ連それん戦略せんりゃくにおいて、父島ちちじま潜水せんすいかん基地きちおよ硫黄いおうとう空軍くうぐん基地きち補助ほじょ基地きちとして必要ひつよう不可欠ふかけつであるとかんがえた[45]。そのため、欧米おうべいけい島民とうみんアメリカ市民しみんけん獲得かくとく支援しえんした反面はんめん日本にっぽんへの返還へんかんきゅう島民とうみんとうつよ反対はんたいした[45]。またラドフォードは、きゅう島民とうみんとうによってはん基地きち運動うんどうこることにも懸念けねんしめした[46]くわえて、1956ねん昭和しょうわ31ねん)6がつから父島ちちじま硫黄いおうとう核兵器かくへいき保管ほかんされはじめたため、アメリカ国防総省こくぼうそうしょう住民じゅうみんとうにより一層いっそう難色なんしょくしめすようになった[47][48]一方いっぽうちゅうにち大使たいしのロバート・ダニエル・マーフィーからは、1952ねん昭和しょうわ27ねん)にべいぐん基地きちのない母島ははじまへのとうみとめる妥協だきょうあんされたが、このあんはラドフォードによって却下きゃっかされた[49]

また、欧米おうべいけい島民とうみんなかにはきゅう島民とうみんとう反対はんたいするこえもあった。1955ねん昭和しょうわ30ねん)11月に訪米ほうべいした小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかい代表だいひょうだんは、国防総省こくぼうそうしょうおよ国務省こくむしょう関係かんけいしゃ面会めんかいし、82にんぶん署名しょめいとともに意見いけんしょ手渡てわたした[50][51]意見いけんしょ内容ないようは、きゅう島民とうみんのほとんどが1930年代ねんだい以降いこう移住いじゅうしゃであること、きゅう島民とうみん7000にん全員ぜんいんれは不可能ふかのうであることについてかれていた[50][51]

とう運動うんどう並行へいこうして、帰郷ききょう促進そくしん連盟れんめい日米にちべいりょう政府せいふたいして生活せいかつ補償ほしょうきん支払しはらいをもとつづけた。当初とうしょ日米にちべいりょう政府せいふ補償ほしょうきん支払しはらいを拒否きょひしていたが、日本にっぽん政府せいふからは1955ねん昭和しょうわ30ねん)に1おくえんよく1956ねん昭和しょうわ31ねん)に4000まんえん見舞みまいきん支給しきゅうされ[52]、アメリカ政府せいふからは1959ねん昭和しょうわ34ねん)に請求せいきゅうがく半額はんがくにあたる600まんドルが支給しきゅうされた[52]。しかし、補償ほしょうきん配分はいぶんめぐって帰郷ききょう促進そくしん連盟れんめいは4つの派閥はばつかれて対立たいりつし、補償ほしょうきん配分はいぶん完了かんりょうするのは1963ねん昭和しょうわ38ねん)になってからであった[52]

アメリカ統治とうち終了しゅうりょう

編集へんしゅう

小笠原諸島おがさわらしょとうをめぐる日米にちべいあいだ返還へんかん交渉こうしょう1950年代ねんだいからおこなわれており、アメリカ国務省こくむしょう条件じょうけんきながらも小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかん前向まえむきであった[44]1956ねん昭和しょうわ31ねん)、ちゅうにち大使たいしとなったジョン・ムーア・アリソンは国務こくむ長官ちょうかん就任しゅうにんしたダレスにたいし、「個人こじんてきには、日本にっぽん十分じゅうぶん海軍かいぐんりょくととのえれば、ぐに小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかんすることが日本にっぽんとのパートナーシップの構築こうちく貢献こうけんできるとおもう」とべている[53]。またおなねん、アメリカ国務省こくむしょう日本にっぽん担当たんとうかんであったジェームズ・マーティンJr(James V.Martin Jr)は「米国べいこく琉球りゅうきゅう小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかん積極せっきょくてきでないのは、日本にっぽん中立ちゅうりつ主義しゅぎかたむ可能かのうせいへの恐怖きょうふである」と外務省がいむしょう駐米ちゅうべい一等いっとう書記官しょきかんはなしている[54]。しかし、アメリカ国防総省こくぼうそうしょう反対はんたいによって小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかん交渉こうしょう遅々ちちとしてすすまなかった[44]

1967ねん昭和しょうわ42ねん5月23にち三木みき武夫たけお外務がいむ大臣だいじん参議院さんぎいん予算よさん委員いいんかいだい2分科ぶんかかい答弁とうべんにおいて、「小笠原おがさわら返還へんかん、この問題もんだいについてはいろいろ軍事ぐんじてき施設しせつもあるとはおもうけれども、沖縄おきなわとは多少たしょう軍事ぐんじ施設しせつについてもがあることは事実じじつだろうから、今後こんごとも小笠原おがさわら返還へんかんについては、政府せいふとして努力どりょくしていきたいとかんがえている」と発言はつげん[55]し、翌日よくじつ記者きしゃ会見かいけんでも日本にっぽん政府せいふとしては小笠原おがさわら沖縄おきなわ問題もんだいけてかんがえることはわるかんがえではないという見解けんかいしめした[56]。これをけて、アメリカ政府せいふちゅうにち大使たいしウラル・アレクシス・ジョンソン(Ural Alexis Johnson)をとおして秘密ひみつ協議きょうぎもうけることをめ、7がつ三木みきとジョンソンは東京とうきょうホテルニューオータニ秘密ひみつ協議きょうぎおこなった[57]。この秘密ひみつ協議きょうぎで、沖縄おきなわ比較ひかくして小笠原諸島おがさわらしょとう軍事ぐんじてき価値かち微々びびたるものであることについては両者りょうしゃ合意ごういしたが、小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかんによって沖縄おきなわ返還へんかんへの圧力あつりょくたかまる可能かのうせいがあるとして、ジョンソンは小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかん慎重しんちょう立場たちばをとった[58]。11月の佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょう訪米ほうべいまえに、日本にっぽんでは小笠原諸島おがさわらしょとう沖縄おきなわ返還へんかんについて関心かんしんたかまるなか、9月に訪米ほうべいした三木みきロバート・マクナマラ(Robert Strange McNamara)国防総省こくぼうそうしょう長官ちょうかん会談かいだんし、マクナマラは小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかん沖縄おきなわ返還へんかんよりも容易よういであることをみとめた[59]

共同きょうどう宣言せんげん起草きそうけた日米にちべい協議きょうぎ10月11にちからはじまった。この時点じてんでアメリカ政府せいふは、小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかんについての最終さいしゅう決定けっていくだしていなかったが、硫黄いおうとう小笠原諸島おがさわらしょとうからはな提案ていあんをした[60]日本にっぽんがわはこれをみとめず、代替だいたいあんとして基地きち継続けいぞく使用しよう自衛隊じえいたいシーレーン防衛ぼうえい支援しえん投入とうにゅうすることを提案ていあんした[60]。これをけて、アメリカ政府せいふ11月3にちに、小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかんかんする日本にっぽんとの協議きょうぎすみやかに開始かいしすることを決定けってい[61]し、返還へんかん軍事ぐんじ基地きち使用しよう継続けいぞく沖縄おきなわ即時そくじ返還へんかん要求ようきゅうたいする圧力あつりょく緩和かんわなどが返還へんかん条件じょうけんとされた[62]

1967ねん昭和しょうわ42ねん11月15にち佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょうリンドン・ジョンソン大統領だいとうりょう会談かいだんした結果けっか日米にちべいあいだ南方みなかた諸島しょとうおよびその諸島しょとうかんする日本にっぽんこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとのあいだ協定きょうてい米国べいこくとの小笠原おがさわら返還へんかん協定きょうてい締結ていけつされた。よく1968ねん昭和しょうわ43ねん4がつ5にちには日米にちべいあいだほん協定きょうてい締結ていけつ調印ちょういんされ、5月22にち採決さいけつ棄権きけんした日本にっぽん共産党きょうさんとうのぞき、全会ぜんかい一致いっち国会こっかい承認しょうにんけた[63]

返還へんかん先立さきだって、1967ねん昭和しょうわ42ねん12月8にちに「小笠原おがさわら復帰ふっき対策たいさく本部ほんぶ」が設置せっちされた[64]よく1968ねん昭和しょうわ43ねん1がつ18にちには、海上かいじょう自衛隊じえいたい護衛ごえいかんたかつき海上保安庁かいじょうほあんちょう巡視じゅんしせんいず父島ちちじま派遣はけんされ、30にんあまりの代表だいひょうだんが10日間にちかんにわたって島民とうみんへのききとりなどの現地げんち調査ちょうさおこなった[64]。また反対はんたいに、小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかいから代表だいひょう3めい東京とうきょう招待しょうたいされた[64]

このころには復帰ふっき既定きてい路線ろせんになり、監視かんしゆるくなることを見越みこして日本にっぽん漁船ぎょせんさかんに小笠原諸島おがさわらしょとう近海きんかい出漁しゅつぎょ。アメリカ海軍かいぐん領海りょうかい侵犯しんぱん拿捕だほされるケースが続発ぞくはつした。返還へんかん4かげつまえの1968ねん2がつ28にちにも西島にししま付近ふきん漁船ぎょせん拿捕だほされ、外務省がいむしょうちゅうにちアメリカ大使館たいしかんに「好意こういてき処理しょり」をしてもらえるようもうれをおこな出来事できごともあった[65]

   
小笠原諸島おがさわらしょとう復帰ふっき50周年しゅうねん記念きねん1000えん銀貨ぎんかぬさ(2018ねん発行はっこう

同年どうねん6月26にち正午しょうご日本にっぽん標準時ひょうじゅんじ)、父島ちちじまのアメリカ海軍かいぐん司令しれいまえ返還へんかん式典しきてんおこなわれ、小笠原諸島おがさわらしょとう日本にっぽん復帰ふっきした。返還へんかん欧米おうべいけい島民とうみんには3年間ねんかん国籍こくせき猶予ゆうよ期間きかんあたえられたため、アメリカ国籍こくせき選択せんたくしてアメリカに移住いじゅうしたものすくなくない[66]。また、小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかん日米にちべい安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく範囲はんいふくまれたため[67]つづ硫黄いおうとう南鳥島みなみとりしまには硫黄いおうとうロランCおもきょく南鳥島みなみとりしまロランCきょく管理かんり目的もくてきとして、アメリカ沿岸えんがん警備けいびたい駐留ちゅうりゅうした。その硫黄いおうとうロランCおもきょく1994ねん平成へいせい6ねん)にはいきょくとなり、南鳥島みなみとりしまロランCきょく1993ねん平成へいせい5ねん)に海上保安庁かいじょうほあんちょうわたされたため、小笠原諸島おがさわらしょとうからべいぐん撤収てっしゅうした[17]

また返還へんかん欧米おうべいけい島民とうみん以外いがいきゅう島民とうみん父島ちちじま母島ははじまへのとう自由じゆうとなったが、実際じっさい小笠原諸島おがさわらしょとうかえりとうしたきゅう島民とうみんかずは、1982ねん昭和しょうわ57ねん)の時点じてんで649めいであった[43]

関連かんれん年表ねんぴょう

編集へんしゅう
1941ねん昭和しょうわ16ねん
  • 12月8にち - 太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんする。
1944ねん昭和しょうわ19ねん
  • 7がつ - 硫黄いおうとう島民とうみんやく1,000にんふく島民とうみん6,886にん日本にっぽん本土ほんど強制きょうせい疎開そかいされる[4]
1945ねん昭和しょうわ20ねん
  • 2がつ19にち - べいぐん硫黄いおうとう上陸じょうりくし、硫黄いおうとうたたかいがはじまる。
  • 3月26にち - 日本にっぽんぐん組織そしき抵抗ていこう終結しゅうけつともない、硫黄いおうとうべいぐん軍政ぐんせいはいる。
  • 8がつ15にち - 太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつする。
  • 9月3にち - 降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんおこなわれ、小笠原諸島おがさわらしょとう日本にっぽんぐんべいぐん降伏ごうぶくしたため、小笠原諸島おがさわらしょとう全域ぜんいき事実じじつじょうべい海軍かいぐん軍政ぐんせいはい[22]
1946ねん昭和しょうわ21ねん
  • 1がつ29にち - SCAPIN-677が指令しれいされ、小笠原諸島おがさわらしょとう全域ぜんいきにおける日本にっぽん施政しせいけん停止ていしされる。
  • 3月19にち - べいぐん欧米おうべいけい島民とうみんおよびその配偶はいぐうしゃかぎ父島ちちじまへのとう許可きょかする[27]
  • 10月17にち - 欧米おうべいけい島民とうみんのうち129にん駆逐くちくかんけやき父島ちちじまとうする[26]
  • 10月19にち - 小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかいにん委員いいんかい)が設立せつりつされる[1]
1947ねん昭和しょうわ22ねん
  • 7がつ - 欧米おうべいけい島民とうみん以外いがいきゅう島民とうみんによって小笠原おがさわらとう硫黄いおうとう帰郷ききょう促進そくしん連盟れんめい設立せつりつされる[41]
1948ねん昭和しょうわ23ねん
1951ねん昭和しょうわ26ねん
  • 日本にっぽん気象庁きしょうちょうがアメリカ政府せいふ委託いたくけ、南鳥島みなみとりしま気象きしょう観測かんそく業務ぎょうむおこな[17]
  • 小笠原諸島おがさわらしょとう裁判所さいばんしょ(Bonin island court)が設置せっちされる[68]
1952ねん昭和しょうわ27ねん
  • 4がつ28にち - サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうともない、アメリカが小笠原諸島おがさわらしょとう行政ぎょうせい立法りっぽう司法しほうのすべての権限けんげん行使こうしすることが規定きていされる。そのため東京とうきょう小笠原おがさわら支庁しちょうおよびかくむら役場やくば廃止はいしされる[4]
  • 10月 - アメリカ政府せいふ関係かんけいしゃによる父島ちちじま現地げんち調査ちょうさおこなわれる[42]
1955ねん昭和しょうわ30ねん
  • 11月 - 小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかい代表だいひょうだん訪米ほうべいし、アメリカ国防総省こくぼうそうしょうおよびアメリカ国務省こくむしょう関係かんけいしゃ面会めんかいする[50]
1956ねん昭和しょうわ31ねん
1963ねん昭和しょうわ38ねん
  • 南鳥島みなみとりしまロランCきょく完成かんせいしたことをけ、日本にっぽん気象庁きしょうちょう職員しょくいん南鳥島みなみとりしまから撤収てっしゅうする[17]
1965ねん昭和しょうわ40ねん
  • 5月 - だい1かい墓参ぼさんだん父島ちちじま硫黄いおうとう訪問ほうもんする[4]
1967ねん昭和しょうわ42ねん
  • 5月23にち - 三木みき武夫たけお外務がいむ大臣だいじん参議院さんぎいん予算よさん委員いいんかいだい2分科ぶんかかい答弁とうべんにおいて、小笠原おがさわら沖縄おきなわ問題もんだいけてかんがえることはわるかんがえではないという見解けんかいしめ[56]
  • 10月 - 共同きょうどう宣言せんげん起草きそうけた日米にちべい協議きょうぎはじまる[60]
  • 11月15にち - 佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょうとリンドン・ジョンソン大統領だいとうりょう会談かいだんした結果けっか日米にちべいあいだ南方なんぽう諸島しょとうおよびその諸島しょとうかんする日本にっぽんこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとのあいだ協定きょうてい米国べいこくとの小笠原おがさわら返還へんかん協定きょうてい)が締結ていけつされる。
  • 12月8にち - 「小笠原おがさわら復帰ふっき対策たいさく本部ほんぶ」が設置せっちされる[64]
1968ねん昭和しょうわ43ねん
  • 1がつ18にち - 海上かいじょう自衛隊じえいたい護衛ごえいかんたかつきと海上保安庁かいじょうほあんちょう巡視じゅんしせんいずが父島ちちじま派遣はけんされ、30にんあまりの代表だいひょうだんが10日間にちかんにわたって現地げんち調査ちょうさおこな[64]
  • 4がつ5にち - 日米にちべいあいだ米国べいこくとの小笠原おがさわら返還へんかん協定きょうていほん協定きょうてい締結ていけつ調印ちょういんされる。
  • 5月22にち - 米国べいこくとの小笠原おがさわら返還へんかん協定きょうていが、採決さいけつ棄権きけんした日本にっぽん共産党きょうさんとうのぞ全会ぜんかい一致いっち国会こっかい承認しょうにんける[63]
  • 6月26にち - 小笠原諸島おがさわらしょとう日本にっぽん復帰ふっきする。
 
1987ねん昭和しょうわ62ねん)の南鳥島みなみとりしま滑走かっそう右側みぎがわにあるとう南鳥島みなみとりしまロランCきょくである。

サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく南方みなかた諸島しょとうおよびその諸島しょとうかんする日本にっぽんこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとのあいだ協定きょうていによると、ここで定義ていぎされている南方なんぽう諸島しょとうおよびその諸島しょとうとは、孀婦岩そうふがんみなみ南方なんぽう諸島しょとう小笠原おがさわら群島ぐんとう西之島にしのしまおよ火山列島かざんれっとうふくむ。)ならびに沖ノ鳥島おきのとりしまおよ南鳥島みなみとりしまとなっている[38]。なお、SCAPIN-677にはこのほかなか鳥島とりしまがあるが、これは実在じつざいしないしまである[23]

また、返還へんかんまで一般いっぱん住民じゅうみんのいるしま父島ちちじまのみで、ほかに父島ちちじま硫黄いおうとう南鳥島みなみとりしまべいぐん駐留ちゅうりゅうしていた。南鳥島みなみとりしまは1945ねん昭和しょうわ20ねん)からべいぐん駐留ちゅうりゅうしていたが、1947ねん昭和しょうわ22ねん)の台風たいふう発生はっせいともな高潮こうちょう被害ひがいけたために撤退てったいし、一時いちじ無人島むじんとうとなっていた。その1951ねん昭和しょうわ26ねん)から日本にっぽん気象庁きしょうちょうがアメリカ政府せいふ委託いたくけて気象きしょう観測かんそく業務ぎょうむおこなったが、1963ねん昭和しょうわ38ねん)に南鳥島みなみとりしまロランCきょく完成かんせいしたことをけて撤収てっしゅうし、以後いご返還へんかんいたるまでアメリカ沿岸えんがん警備けいびたい駐留ちゅうりゅうした[17]。ほかは母島ははじまふくめてすべ無人島むじんとうであった。

小笠原諸島おがさわらしょとうは、サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくだい2しょうだい3じょうによって、沖縄おきなわ同様どうよう日本にっぽん潜在せんざいてき主権しゅけん確認かくにんされていた[70]。しかし、サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくだい2しょうだい3じょうには、アメリカを小笠原諸島おがさわらしょとうたいする唯一ゆいいつ施政しせいけんしゃとすることも規定きていされていたため、小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかんまでアメリカ海軍かいぐん軍政ぐんせいかれた[4]

アメリカによる小笠原諸島おがさわらしょとう統治とうち最高さいこう責任せきにんしゃ小笠原諸島おがさわらしょとう米国べいこくぐん政府せいふ(United States Military Government of the Bonin islands)長官ちょうかんであり、アメリカ海軍かいぐん太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれいかん兼務けんむした[71]。また、小笠原諸島おがさわらしょとう米国べいこくぐん政府せいふふく長官ちょうかんグアム駐在ちゅうざいするマリアナ地域ちいき司令しれいかん(Commander Marianas)が兼務けんむ[71]、そのした小笠原諸島おがさわらしょとうたいする実務じつむ担当たんとうする、小笠原おがさわら・マリアナ諸島しょとうぐん政府せいふ主任しゅにん将校しょうこう(Cheif Military Government officer Bonins-Marianas islands group)実際じっさい父島ちちじま駐在ちゅうざいした小笠原諸島おがさわらしょとうぐん政府せいふ代表だいひょう(Military Government Representative of the Bonin islands)かれた[71]。この体制たいせいは1947ねん昭和しょうわ22ねん)7がつ太平洋たいへいよう諸島しょとう信託しんたく統治とうちりょう発足ほっそくし、サイパンをふくきたマリアナ諸島しょとうがその一部いちぶとなったのち変化へんかはなかった[71]。そのため小笠原諸島おがさわらしょとうは、日本にっぽん潜在せんざいてき主権しゅけんつのにもかかわらず、行政ぎょうせいじょう太平洋たいへいよう諸島しょとう信託しんたく統治とうちりょう一括いっかつ管理かんりされることになった[71]

住民じゅうみん自治じち小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかいにん委員いいんかい)がおこなった。小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかいは18さい以上いじょう島民とうみんから選挙せんきょによって選出せんしゅつされた5にんつきに1かいあつまり、住宅じゅうたく農業のうぎょう漁業ぎょぎょうについてはな機関きかんであった[29]選挙せんきょ毎年まいとし6がつおこなわれ、もっと投票とうひょうすうおおかった候補者こうほしゃ議長ぎちょう、2番目ばんめおおかった候補者こうほしゃ財政ざいせい担当たんとうしゃとなり、3~5番目ばんめおおかった候補者こうほしゃ委員いいん選出せんしゅつされた[68]。またぐん政府せいふ代表だいひょう委員いいんかい顧問こもんつとめた[68]

1951ねん昭和しょうわ26ねん)に小笠原諸島おがさわらしょとう裁判所さいばんしょ(Bonin island court)が設置せっちされ、裁判官さいばんかんには小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかい任命にんめいしたもの任期にんき1ねん就任しゅうにんした[68]小笠原諸島おがさわらしょとう代表だいひょう委員いいんかい委員いいんたちは裁判所さいばんしょ補助ほじょメンバーとなり、またぐん政府せいふ代表だいひょう裁判所さいばんしょ顧問こもんつとめた[68]

住民じゅうみん

編集へんしゅう

欧米おうべいけい島民とうみんおよびその配偶はいぐうしゃべいぐん関係かんけいしゃ在住ざいじゅうしており、島民とうみんはアメリカ施政しせいけんでも日本にっぽん国籍こくせき保持ほじしていた[39]。また、島民とうみん男性だんせいなかにはべいぐんから許可きょかをもらい、日本にっぽん本土ほんど見合みあをするものもいた[72]。なお、1967ねん昭和しょうわ42ねん時点じてんでの人口じんこう以下いかとおりである[5]

1967ねん昭和しょうわ42ねん時点じてんでの人口じんこう
しま 民間みんかんじん 海軍かいぐん軍人ぐんじん 空軍くうぐん軍人ぐんじん 沿岸えんがん警備けいび隊員たいいん 軍属ぐんぞく べいぐん関係かんけいしゃけい けい
父島ちちじま 205
(34世帯せたい
31 0 0 60
うち日本にっぽん国籍こくせきしゃ57)
91
うち日本にっぽん国籍こくせきしゃ57)
296
硫黄いおうとう 0 0 39 35 0 74 74
南鳥島みなみとりしま 0 0 0 34 5
アメリカ国立こくりつ気象きしょうきょく職員しょくいん
39 39
けい 205 31 39 69 65 204 409

公用こうよう英語えいごであったが、島民とうみんたちはにちえい混合こんごう小笠原おがさわら方言ほうげんはなしており、家庭かていによって日本語にほんご英語えいご理解りかいことなっていた[73]。そのため、島民とうみんなかには日本語にほんごきや敬語けいご上手じょうず使つかえず、返還へんかん来島らいとうした東京とうきょう職員しょくいんなどとトラブルになるケースもあった[74]

産業さんぎょう

編集へんしゅう

とう当初とうしょ島民とうみんたちは農業のうぎょう漁業ぎょぎょう共同きょうどうおこない、食料しょくりょうすべ世帯せたいあたりの人数にんずうおうじて分配ぶんぱいしていた[29]1948ねん昭和しょうわ23ねん)に島民とうみん積立つみたてきんべいぐんからの借入金かりいれきんもと小笠原諸島おがさわらしょとう貿易ぼうえき会社かいしゃ(Bonin Islands Trading Company 略称りゃくしょう:BITC)設立せつりつされる[30]と、かく家庭かていものができるようになり[29]しまはいらない食料しょくりょうひんにち用品ようひん衣類いるい玩具おもちゃなどのものについてはシアーズ(Sears)百貨店ひゃっかてんカタログ販売はんばい利用りようされた[75][76]

島民とうみん産業さんぎょう農業のうぎょう漁業ぎょぎょうおもであり、島民とうみんたちのおおくは小笠原諸島おがさわらしょとう貿易ぼうえき会社かいしゃかいして農産のうさんひん海産物かいさんぶつをグアムやサイパンへ輸出ゆしゅつし、現金げんきん収入しゅうにゅうていた[29]農業のうぎょうバナナオレンジパパイヤなどの果物くだものるいトマトブロッコリー大根だいこんゴボウニンジンなどの野菜やさいるい栽培さいばい[77]されたほか、製塩せいえん養蜂ようほうおこなわれた[31]漁業ぎょぎょうサワラマグロイスズミなどの魚類ぎょるいウミガメられ、島内とうない干物ひもの加工かこうされたのち輸出ゆしゅつされた[29]。これらの産品さんぴんによって、小笠原諸島おがさわらしょとう貿易ぼうえき会社かいしゃ設立せつりつ1ねん時点じてんで10,000ドルあまりの利益りえきていた[30]

このほか屑鉄くずてつひろいもおこなわれ、遺棄いきされた武器ぶき弾薬だんやくやまひろい、そのなかから真鍮しんちゅうてつどうあつめてグアムへ輸出ゆしゅつしていた[78]。またべいぐん関係かんけい仕事しごとものもおり、べいぐん基地きちないバーバーテンダーとしてはたらものやアメリカ海軍かいぐん掃海そうかいていものもいた[79]

 
小笠原おがさわらきよしジョージ教会きょうかい

アメリカ文化ぶんか影響えいきょう

編集へんしゅう

島民とうみんプロテスタントせい公会こうかい[80])がおおかったため、クリスマスいわったり[81]復活ふっかつさいイースター・エッグつくるといった宗教しゅうきょう行事ぎょうじおこなわれた[82]。また、ハロウィン[83]アメリカ独立記念日どくりつきねんび[81]にはパーティがおこなわれた。

じゅう所持しょじ自由じゆうであったため、ハンティングさかんにおこなわれた[84]。ハンティングではおも野生やせいしたヤギブタねらい、父島ちちじま島内とうないだけでなく弟島おとうとじま聟島列島むこじまれっとうまでふねすこともあった[85]。しかし、返還へんかん日本にっぽん法律ほうりつ適用てきようされたことにより、自由じゆうじゅうあつかえなくなったうえ狩猟しゅりょうじょうにおけるヤギの屠殺とさつ禁止きんしされた[ちゅう 5]結果けっか弟島おとうとじま聟島列島むこじまれっとうではヤギが異常いじょう繁殖はんしょくして植生しょくせい破壊はかいこした[84]

日本にっぽん文化ぶんか影響えいきょう

編集へんしゅう

しょく文化ぶんかかんしては、パンダンプリングのほか、沖縄おきなわ同様どうようスパムコンビーフチリコンカーン缶詰かんづめべられた[86]。しかしながら、米食べいしょくをはじめ日本にっぽん影響えいきょうつよく、鉄火味噌てっかみそ糠漬ぬかづべられた[87]ちゃ味噌みそ醤油じょうゆなどはしまでは稀少きしょうであったため、台風たいふうさい父島ちちじま湾内わんない避難ひなんしてきた日本にっぽんせん船員せんいんから、果物くだもの物々交換ぶつぶつこうかん入手にゅうしゅすることもあった[77]

交通こうつう

編集へんしゅう
 
HU-16がた飛行ひこうてい

アメリカ海軍かいぐん輸送ゆそうせん揚陸ようりくかん不定期ふていき就航しゅうこうしたほか、つきに1かい、グアムとのあいだに3HU-16Dかた飛行ひこうてい就航しゅうこうしていた。これらのHU-16Dがた飛行ひこうていには「チチ・バード」の愛称あいしょうがつけられ、父島ちちじま~グアムあいだを5あいだむすんだ[88]。また、しまには1952ねん昭和しょうわ27ねん)5がつから軍医ぐんい常駐じょうちゅうした[89]が、重病じゅうびょう場合ばあいはグアムで治療ちりょうけた[90]。しかし、日本にっぽん本土ほんどとの特別とくべつ許可きょかがないかぎ禁止きんしされており、前述ぜんじゅつのお見合みあいをのぞくと歯科しか治療ちりょう場合ばあいのみ渡航とこう許可きょかりることがあった[77]島民とうみん特定とくていくにパスポート所持しょじしておらず、アメリカ海軍かいぐん発給はっきゅうした渡航とこう証明しょうめいしょでグアムや日本にっぽん本土ほんど渡航とこうした[91]

また、日本人にっぽんじん小笠原諸島おがさわらしょとうへの渡航とこう1965ねん昭和しょうわ40ねん)5がつ墓参ぼさんだん[4][92][ちゅう 6]など特別とくべつ場合ばあいのぞいて許可きょかりなかった[93]台風たいふう接近せっきんさいに、日本にっぽん漁船ぎょせん父島ちちじま湾内わんない仮泊かはくすることはみとめられたが、船員せんいん上陸じょうりく許可きょかされなかった[77]

教育きょういく

編集へんしゅう

島民とうみん子弟していへの教育きょういくは、とう当初とうしょべいぐん兵舎へいしゃ一角いっかくおこなわれ、イギリスの商社しょうしゃで40年間ねんかんはたらいていた欧米おうべいけい島民とうみんのフランク・ゴンザレス(Frank Gonzales)が英語えいご授業じゅぎょうおこなった[94]。その1956ねん昭和しょうわ31ねん)にラドフォード提督ていとく初等しょとう学校がっこう(Admiral Radford Elementary School)が設立せつりつされ、ハワイから日系にっけいじん教師きょうし2めいふくむ4めい着任ちゃくにんし、島民とうみんおよびべいぐん子弟してい教育きょういくにあたった[69]生徒せいとすうは1968ねん昭和しょうわ43ねん当時とうじ69めいで、そのうち島民とうみんは60めいべいぐん子弟していは9めいであった[95]

教育きょういく制度せいどアメリカと同様どうようであり、幼稚園ようちえんから7年生ねんせい(1966ねん昭和しょうわ41ねん)より9年生ねんせい[96])まではラドフォード提督ていとく初等しょとう学校がっこう教育きょういくおこなわれ、卒業そつぎょうグアムの高校こうこう進学しんがくした[97]。またそのあいだ学費がくひ無料むりょうであった[97]授業じゅぎょうすべ英語えいごおこなわれ、日本語にほんごはなすとしかられることもあった[98]生徒せいとたちはおおきな部屋へやぜん学年がくねん一緒いっしょ勉強べんきょうし、あさ登校とうこうして星条旗せいじょうき掲揚けいようしたのちひる一旦いったんいえかえって昼食ちゅうしょくり、午後ごごふたた登校とうこうした[97]野外やがい映画えいがキャンプなどの課外かがい授業じゅぎょう頻繁ひんぱんおこなわれ、潜水せんすいかんべいぐん基地きち見学けんがくくこともあった[99]。また、小笠原諸島おがさわらしょとう日本にっぽん返還へんかんまると、日本語にほんごきなど返還へんかんけた準備じゅんび教育きょういくおこなわれた[100]

グアムに進学しんがくした生徒せいとたちは、アメリカ海軍かいぐん関係かんけいしゃの「スポンサー」のいえホームステイし、そこから通学つうがくした。スポンサーとそりがわない場合ばあいは、1ねんごとにスポンサーをえることもできた[101]。そのまま大学だいがく進学しんがくするものもいたが、返還へんかん日本にっぽん高校生こうこうせい年齢ねんれいであった生徒せいとは、新設しんせつされた東京とうきょう都立とりつ小笠原おがさわら高等こうとう学校がっこう編入へんにゅうがくした[102]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 最初さいしょ入植にゅうしょくしゃである25にん出身しゅっしんは、欧米おうべいじんはアメリカじん2めい、イギリスじん2めいデンマークじん1めいで、太平洋たいへいよう諸島しょとう出身しゅっしんしゃハワイ諸島しょとう出身しゅっしんしゃ7めいをはじめ、マリアナ諸島しょとうカロリン諸島しょとうポンペイとうギルバート諸島しょとうマルキーズ諸島しょとうタヒチなど、ポリネシアミクロネシア各地かくちからの出身しゅっしんしゃ構成こうせいされていた。田中たなか pp41-42, p62
  2. ^ ボニン諸島しょとう(Bonin island)とは小笠原諸島おがさわらしょとう別名べつめいで、江戸えど時代じだい日本人にっぽんじん小笠原諸島おがさわらしょとう無人島むじんとう(ぶにんじま)とんでいたのが語源ごげんである。はやし子平しへいの『さんこく通覧つうらん図説ずせつ』にも無人島むじんとうしるされており、それがヨーロッパつたわった。
  3. ^ 最終さいしゅうてきに、アメリカは小笠原諸島おがさわらしょとう信託しんたく統治とうち提案ていあん国際こくさい連合れんごうたいしてしなかったため、日本にっぽん小笠原諸島おがさわらしょとう放棄ほうきせずにんだ。
  4. ^ 返還へんかん小笠原おがさわら支庁しちょうさい設置せっちされた。
  5. ^ 日本にっぽん法律ほうりつでは屠畜場とちくじょうほうにより、うしうまぶた、ヒツジ、ヤギの5種類しゅるい家畜かちく屠畜場とちくじょう以外いがい場所ばしょ屠殺とさつすることは禁止きんしされている。
  6. ^ 1965ねん昭和しょうわ40ねん)5がつ墓参ぼさんは、硫黄いおうとうはん25めい父島ちちじま母島ははじまはん37めいかれ、硫黄いおうとうはん日本航空にほんこうくうチャちゃ便びん利用りようし、父島ちちじま母島ははじまはん海上保安庁かいじょうほあんちょう巡視じゅんしせん宗谷そうや利用りようした。その1966ねん昭和しょうわ41ねん)にだい2かい、1967ねん昭和しょうわ42ねん)にだい3かい墓参ぼさんおこなわれた。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e エルドリッヂ p210
  2. ^ 総務そうむしょう統計とうけいきょく 統計とうけいデータ だい1しょう 国土こくど気象きしょう - 2しょう 統計とうけい対象たいしょうおもてあきら項目こうもく 国土こくど変遷へんせん
  3. ^ a b 国勢調査こくせいちょうさ概要がいよう(PDF)”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく. https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/nihon/pdf/02-01.pdf 2016ねん5がつ22にち閲覧えつらん 
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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