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{{Otheruseslist|[[ナチス・ドイツ]]時代 じだい (1935年 ねん —1945年 ねん )のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん (Wehrmacht)|[[ヴァイマル共和 きょうわ 政 せい ]]時代 じだい (1919年 ねん —1935年 ねん )のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん (Reichswehr)|ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん |現代 げんだい のドイツ軍 ぐん |ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん }}
{{Otheruseslist|[[ナチス・ドイツ]]時代 じだい (1935年 ねん —1945年 ねん )のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん (Wehrmacht)|[[ヴァイマル共和 きょうわ 政 せい ]]時代 じだい (1919年 ねん —1935年 ねん )のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん (Reichswehr)|ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん |現代 げんだい のドイツ軍 ぐん |ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん }}
{{複数 ふくすう の問題 もんだい |出典 しゅってん の明記 めいき =2017年 ねん 5月 がつ |参照 さんしょう 方法 ほうほう =2017年 ねん 5月 がつ }}
{{Infobox Military Unit
{{Infobox military unit
|unit_name= ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん
|unit_name = ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん
|native_name= '''Wehrmacht'''
|native_name = '''Wehrmacht'''
|image=[[Image:Balkenkreuz.svg|190px]]
|image = Balkenkreuz upperwing .svg
|caption= 国防 こくぼう 軍 ぐん の紋章 もんしょう である[[バルケンクロイツ]]
|caption = [[バルケンクロイツ]]
|dates= 1935年 ねん -1945年 ねん
|start_date = 1935年 ねん 3月16日 にち (再 さい 軍備 ぐんび )
|country= [[ドイツ国 こく ]]
|end_date = 1945年 ねん 5月 がつ 8日 にち ( ドイツ国 こく 防 ぼう 軍 ぐん の[[無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく ]])
|disbanded = 1946年 ねん 8月 がつ 20日 はつか (連合 れんごう 国 こく 管理 かんり 理事 りじ 会 かい 命令 めいれい 34号 ごう によって解体 かいたい )
|branch = [[ドイツ陸軍 りくぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|陸軍 りくぐん ]](Heer)<br />[[ドイツ海軍 かいぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|海軍 かいぐん ]](Kriegsmarine)<br />[[ドイツ空軍 くうぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|空軍 くうぐん ]](Luftwaffe)
|country = {{flagcountry|Nazi Germany|name=ナチス・ドイツ}}
⚫
|
allegiance=[[アドルフ・ヒトラー
]][[総統 そうとう ]]<br>[[カール・デーニッツ
]][[ドイツ国 こく 大統領 だいとうりょう |大統領 だいとうりょう ]]
|所属 しょぞく =
⚫
|size= 318万 まん 人 にん (1939年 ねん )<br
/>
1,820万 まん 人 にん (1935
年 ねん -1945
年 ねん まで
合計 ごうけい )
|branch = [[File:Heer - decal for helmet 1942.svg|20px]] [[ドイツ陸軍 りくぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|陸軍 りくぐん ]]<br/>
|patron= [[アドルフ・ヒトラー]]
[[File:Kriegsmarine insignia casco.svg|20px]] [[ドイツ海軍 かいぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|海軍 かいぐん ]]<br/>[[File:COA Luftwaffe eagle gold (looking left).svg|20px]] [[ドイツ空軍 くうぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|空軍 くうぐん ]]
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⚫
1820 万 まん 人 にん <br/>(1935
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年 ねん まで
合計 ごうけい )
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|battles= [[スペイン
内戦 ないせん ]]<br />
[[
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ]]
|garrison = [[File:Chef des Oberkommandos der Wehrmacht als Generalfeldmarschall.svg|25px]] [[国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ ]]
|notable_commanders= [[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]<br/>[[ヴィルヘルム・カイテル]]<br>[[カール・デーニッツ]]
|garrison_label = 本部 ほんぶ
⚫
|nickname =
|patron =
|motto = [[File:WW II German GOTT MIT UNS Buckle (Wehrmacht).jpg|100px]]「[[神 かみ は我 われ らと共 とも に (プロイセン)|神 かみ は我 われ らと共 とも に]]」<br/>„Gott mit uns“
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|equipment = ''[[:en:List of German military equipment of World War II|詳細 しょうさい はリストを参照 さんしょう ]]''
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|battles
= [[スペイン
内戦 ないせん ]]<br />[[
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ]]
⚫
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|battle_honours =
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<!-- Senior Leaders -->
⚫
|
commander1 =
・ [[アドルフ・ヒトラー]]<br
/ >
・ [[カール・デーニッツ]]
|commander1_label = [[File:Standarte Adolf Hitlers.svg|border|20px]] 国防 こくぼう 軍 ぐん [[:en:Wehrmacht#Command structure|最高 さいこう 司令 しれい 官 かん ]]
|commander2 = ・[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]<br/>・[[アドルフ・ヒトラー]]
|commander2_label = [[File:Wehrmacht Commander-in-Chief flag.svg|20px]] 国防 こくぼう 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん
|commander3 = ・[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]<br/>・[[カール・デーニッツ]]
|commander3_label = [[File:Wehrmacht Commander-in-Chief flag.svg|20px]] 国防 こくぼう 大臣 だいじん
|commander4=・ [[ヴィルヘルム・カイテル]]
|commander4_label= [[File:Chef des Oberkommandos der Wehrmacht als Generalfeldmarschall.svg|25px]] [[国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ |国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総長 そうちょう ]]
|notable_commanders=
<!-- Insignia -->
<!-- Insignia -->
|identification_symbol=[[File:War Ensign of Germany 1935-1938.svg|150px|border]]
|identification_symbol=
|identification_symbol_label=軍旗 ぐんき (1935年 ねん -1938年 ねん )
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|identification_symbol_2=[[File:War Ensign of Germany 1938-1945.svg|150px|border]]
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|identification_symbol_2_label=軍旗 ぐんき (1938年 とし -1945年 とし )
|identification_symbol_2_label=軍旗 ぐんき (1935 年 とし -1938 年 とし )
|identification_symbol_3=[[File:War Ensign of Germany 1938-1945.svg|150px|border]]
|identification_symbol_3= [[File:Insignias casco.svg|120px]]<br>(陸軍 りくぐん )<br><br>[[File:Insignias casco Kriegsmarine.svg|120px]]<br>(海軍 かいぐん )<br><br>[[File:Luftwaffe Stahlhelm decals.svg|200px]]<br>(空軍 くうぐん )
|identification_symbol_3_label= 主権 しゅけん 紋章 もんしょう
|identification_symbol_3_label=軍旗 ぐんき (1938年 ねん -1945年 ねん )
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|identification_symbol_4_label=
|identification_symbol_5=[[File:Balkenkreuz.svg|150px]]<br>{{left|[[黒 くろ 十 じゅう 字 じ ]]。[[ヴェーザー演習 えんしゅう 作戦 さくせん ]]以後 いご から陸軍 りくぐん 車両 しゃりょう に使用 しよう された。}}
|identification_symbol_5_label=[[国籍 こくせき 標識 ひょうしき ]]<br>(1940年 ねん -1945年 ねん )
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|identification_symbol_6_label=
}}
}}
'''ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん '''(ドイツこくぼうぐん、{{lang-de|'''Wehrmacht'''}}<!--固有名詞 こゆうめいし としては Wehrmacht のみ、Deutsche は不要 ふよう -->、{{IPA-de|ˈveːɐ̯maxt|-|De-Wehrmacht-pronunciation.ogg}}、{{Literal translation|「国 くに 防 ぼう 軍 ぐん 」|lk=yes}})は、[[1935年 ねん ]]から[[1945年 ねん ]]にかけて存在 そんざい した[[ドイツ国 くに ]]の武力 ぶりょく 組織 そしき である[[ドイツ陸軍 りくぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|陸軍 りくぐん ]]、[[ドイツ海軍 かいぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|海軍 かいぐん ]]、[[ドイツ空軍 くうぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|空軍 くうぐん ]]の三軍 さんぐん の総体 そうたい を指 さ す。国家 こっか 唯一 ゆいいつ の武装 ぶそう 者 しゃ (Waffenträger der Nation)と定 じょう 義 よし される存在 そんざい である。
'''ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん '''(ドイツこくぼうぐん、{{lang-de|'''Wehrmacht''':ヴェーアマハト }}<!--固有名詞 こゆうめいし としては Wehrmacht のみ、Deutsche は不要 ふよう -->、{{IPA-de|ˈveːɐ̯maxt|-|De-Wehrmacht-pronunciation.ogg}}、{{Literal translation|「防 ぼう 衛 まもる 軍 ぐん 隊 たい 」|lk=yes}})は、[[1935年 ねん ]]から[[1945年 ねん ]]にかけて存在 そんざい した[[ナチス・ ドイツ]]の武力 ぶりょく 組織 そしき である[[ドイツ陸軍 りくぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|陸軍 りくぐん ]]、[[ドイツ海軍 かいぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|海軍 かいぐん ]]、[[ドイツ空軍 くうぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|空軍 くうぐん ]]の三軍 さんぐん の総体 そうたい を指 さ す。[[ナチス・ドイツ]]体制 たいせい 下 か において、 国家 こっか 唯一 ゆいいつ の武装 ぶそう 者 しゃ (Waffenträger der Nation)と規 ぶんまわし 定 じょう された 存在 そんざい である。(実際 じっさい には[[武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい ]]などの他 ほか の軍事 ぐんじ 組織 そしき が存在 そんざい している)
== 概要 がいよう ==
== 概要 がいよう ==
1935年 ねん 3月 がつ 16日 にち 、[[ドイツ再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん ]]による[[徴兵 ちょうへい 制度 せいど |徴兵 ちょうへい 制 せい ]]の再 さい 施行 しこう とともに発令 はつれい された「国防 こくぼう 軍 ぐん 建設 けんせつ に関 かん する法律 ほうりつ ({{lang-de|Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht}})」<ref>[http://www.documentarchiv.de/ns/1935/wehrmacht_ges.html documentArchiv.de - Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht (16.03.1935)]</ref>により、旧来 きゅうらい の[[ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん |国軍 こくぐん ]]({{lang-de|Reichswehr }})は、国防 こくぼう 軍 ぐん に改称 かいしょう された。総 そう 兵力 へいりょく は50万 まん 人 にん となり、その後 ご も多額 たがく の軍事 ぐんじ 費 ひ が投 とう じられ、拡張 かくちょう と近代 きんだい 化 か が進 すす められた。[[1939年 ねん ]]の[[ポーランド侵攻 しんこう ]]直前 ちょくぜん の兵力 へいりょく は318万 まん 人 にん と世界 せかい でも屈指 くっし の規模 きぼ であった<ref>【歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 】欧州 おうしゅう 戦史 せんし シリーズvol.ポーランド電撃 でんげき 戦 せん </ref>。[[第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ]]においては[[連合 れんごう 国 こく (第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん )|連合 れんごう 国 こく ]]と戦 たたか い、当初 とうしょ は大 おお きな勝利 しょうり を収 おさ めたが1942年 ねん ごろから徐々 じょじょ に退潮 たいちょう し、[[1945年 ねん ]]5月 がつ には[[無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく ]]を行 おこな い、[[1946年 ねん ]][[8月 がつ 20日 はつか ]]に正式 せいしき に解体 かいたい された。
1935年 ねん 3月 がつ 16日 にち 、[[ドイツ再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん ]]による[[徴兵 ちょうへい 制度 せいど |徴兵 ちょうへい 制 せい ]]の再 さい 施行 しこう とともに発令 はつれい された「国防 こくぼう 軍 ぐん 建設 けんせつ に関 かん する法律 ほうりつ ({{lang-de|Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht}})」<ref>[http://www.documentarchiv.de/ns/1935/wehrmacht_ges.html documentArchiv.de - Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht (16.03.1935)]</ref> により、旧来 きゅうらい の[[ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん |国軍 こくぐん ]]({{lang-de|Reichswehr }})は、国防 こくぼう 軍 ぐん に改称 かいしょう された<ref>[http://www.documentarchiv.de/ns/1935/allgemein-wehrpflicht-einfuehrung_prokl.html ''Proklamation der Reichsregierung an das deutsche Volk bezüglich der Einführung der allgemeinen Wehrpflicht'' vom 16. März 1935]</ref><ref name="gaw">[http://alex.onb.ac.at/cgi-content/alex?aid=dra&datum=1935&size=45&page=517 Österreichische Nationalbibliothek (ÖNB): ''Deutsches Reichsgesetzblatt Teil I 1867–1945'', S. 375]</ref> 。総 そう 兵力 へいりょく は50万 まん 人 にん となり、その後 ご も多額 たがく の軍事 ぐんじ 費 ひ が投 とう じられ、拡張 かくちょう と近代 きんだい 化 か が進 すす められた。[[1939年 ねん ]]の[[ポーランド侵攻 しんこう ]]直前 ちょくぜん の兵力 へいりょく は318万 まん 人 にん と世界 せかい でも屈指 くっし の規模 きぼ であった<ref>【歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 】欧州 おうしゅう 戦史 せんし シリーズvol.ポーランド電撃 でんげき 戦 せん </ref><ref>Karl-Heinz Janßen: ''Politische und militärische Zielvorstellungen.'' In: R.-D. Müller, H.-E. Volkmann (Hrsg. im Auftrag des [[Militärgeschichtliches Forschungsamt|MGFA]]): ''Die Wehrmacht: Mythos und Realität.'' Oldenbourg, München 1999, ISBN 3-486-56383-1, S. 76 f. </ref>。[[第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ]]においては[[連合 れんごう 国 こく (第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん )|連合 れんごう 国 こく ]]と戦 たたか い、当初 とうしょ は大 おお きな勝利 しょうり を収 おさ めたが1942年 ねん ごろから徐々 じょじょ に退潮 たいちょう し、[[1945年 ねん ]]5月 がつ には[[無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく ]]を行 おこな い、[[1946年 ねん ]][[8月 がつ 20日 はつか ]]に正式 せいしき に解体 かいたい された。
== 歴史 れきし ==
== 歴史 れきし ==
=== 前史 ぜんし ===
=== 前史 ぜんし ===
==== 国軍 こくぐん 時代 じだい の秘密 ひみつ 再 さい 武装 ぶそう ====
==== 国軍 こくぐん 時代 じだい の秘密 ひみつ 再 さい 武装 ぶそう ====
{{see also|ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん |{{仮 かり リンク|第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のドイツ再 さい 武装 ぶそう |de|Aufrüstung der Wehrmacht}}}}
{{see also|ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん |ドイツ再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん }}
[[第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ]]に敗北 はいぼく したドイツでは帝政 ていせい が崩壊 ほうかい したが([[ドイツ革命 かくめい ]])、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう の[[ヴィルヘルム・グレーナー]]は[[ドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう ]]の[[フリードリヒ・エーベルト]]と密約 みつやく を結 むす び({{仮 かり リンク|エーベルト・グレーナー協定 きょうてい |de|Ebert-Groener-Pakt}})、[[ヴァイマル共 ども 和政 かずまさ |共和 きょうわ 国 こく ]]への支持 しじ の代 か わりに、陸海 りくかい 軍 ぐん の存続 そんぞく 保証 ほしょう を得 え た。1919年 ねん 3月 がつ 6日 にち に軍 ぐん は'''vorläufigen Reichswehr'''(暫定 ざんてい 国軍 こくぐん )として再建 さいけん された。1921年 ねん 1月 がつ 1日 にち には'''Reichswehr'''と改称 かいしょう している。日本語 にほんご では[[ヴァイマル共 ども 和政 かずまさ |ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく ]]時代 じだい の軍隊 ぐんたい である点 てん を強調 きょうちょう して「[[ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん ]]」と訳 やく し分 わ けることもあるが、Reichswehr時代 じだい も「国防 こくぼう 軍 ぐん 」と訳出 やくしゅつ されることがある{{efn|共和 きょうわ 国軍 こくぐん が秘密裏 ひみつり に温存 おんぞん していた非合法 ひごうほう 戦力 せんりょく である'''Schwarze Reichswehr'''は「[[黒 くろ い国防 こくぼう 軍 ぐん ]]」や「闇 やみ の国防 こくぼう 軍 ぐん 」などと呼 よ ばれる。}}<ref>竹本 たけもと 真希子 まきこ 「[http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hiroshima-cu/file/7400/20170118130431/senshushigaku45_1.pdf ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 末期 まっき の平和 へいわ 運動 うんどう の諸 しょ 問題 もんだい ]」(2008年 ねん )など。</ref>。グレーナーの協定 きょうてい があったにもかかわらず、軍 ぐん 内 ない には[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥 げんすい を始 はじ めとする帝政 ていせい 支持 しじ 派 は が多 おお く、共和 きょうわ 制 せい とは一線 いっせん を画 かく した存在 そんざい であった。1920年 ねん に[[陸軍 りくぐん 統帥 とうすい 部 ぶ 長官 ちょうかん ]] (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任 しゅうにん した[[ハンス・フォン・ゼークト]]は軍 ぐん の政治 せいじ 的 てき 中立 ちゅうりつ に重点 じゅうてん を置 お き、装備 そうび の充実 じゅうじつ を図 はか った。この政党 せいとう から超然 ちょうぜん とした軍 ぐん は「[[国家 こっか の内部 ないぶ における国家 こっか |国家 こっか 内 ない 国家 こっか ]]」と呼 よ ばれることになる。
[[第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ]]に敗北 はいぼく したドイツでは帝政 ていせい が崩壊 ほうかい したが([[ドイツ革命 かくめい ]])、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう の[[ヴィルヘルム・グレーナー]]は[[ドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう ]]の[[フリードリヒ・エーベルト]]と密約 みつやく を結 むす び({{仮 かり リンク|エーベルト・グレーナー協定 きょうてい |de|Ebert-Groener-Pakt}})、[[ヴァイマル共 ども 和政 かずまさ |共和 きょうわ 国 こく ]]への支持 しじ の見返 みかえし りに、陸海 りくかい 軍 ぐん の存続 そんぞく 保証 ほしょう を得 え た。1919年 ねん 3月 がつ 6日 にち に軍 ぐん は'''vorläufige Reichswehr'''(暫定 ざんてい 国軍 こくぐん )として再建 さいけん された。1921年 ねん 1月 がつ 1日 にち には'''Reichswehr'''と改称 かいしょう している。日本語 にほんご では[[ヴァイマル共 ども 和政 かずまさ |ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく ]]時代 じだい の軍隊 ぐんたい である点 てん を強調 きょうちょう して「[[ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん ]]」と訳 やく し分 わ けることもあるが、Reichswehr時代 じだい も「国防 こくぼう 軍 ぐん 」と訳出 やくしゅつ されることがある{{efn|共和 きょうわ 国軍 こくぐん は 非合法 ひごうほう 戦力 せんりょく 「[[黒 くろ い国防 こくぼう 軍 ぐん ]]」「闇 やみ の国防 こくぼう 軍 ぐん 」('''Schwarze Reichswehr''')をも秘密裏 ひみつり に温存 おんぞん していた }}<ref>{{Cite journal|和書 わしょ |author= 竹本 たけもと 真希子 まきこ |date=2008-11 |url=https ://hiroshima-cu.repo.nii .ac.jp/records /1113 |title= ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 末期 まっき の平和 へいわ 運動 うんどう の諸 しょ 問題 もんだい : オシエツキーと『ヴェルトビューネ』をめぐる裁判 さいばん から |journal=専修 せんしゅう 史学 しがく |ISSN=0386-8958 |publisher=専修大学 せんしゅうだいがく 歴史 れきし 学会 がっかい |issue=45 |pages=1-19 |CRID=1050578061483447808}} など。</ref>。グレーナーの協定 きょうてい があったにもかかわらず、軍 ぐん 内 ない には[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥 げんすい を始 はじ めとする帝政 ていせい 支持 しじ 派 は が多 おお く、共和 きょうわ 制 せい とは一線 いっせん を画 かく した存在 そんざい であった。1920年 ねん に[[陸軍 りくぐん 統帥 とうすい 部 ぶ 長官 ちょうかん ]] (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任 しゅうにん した[[ハンス・フォン・ゼークト]]は軍 ぐん の政治 せいじ 的 てき 中立 ちゅうりつ に重点 じゅうてん を置 お き、装備 そうび の充実 じゅうじつ を図 はか った。この政党 せいとう から超然 ちょうぜん とした軍 ぐん は「[[国家 こっか の内部 ないぶ における国家 こっか |国家 こっか 内 ない 国家 こっか ]]」と呼 よ ばれることになる。
[[ヴェルサイユ条約 じょうやく ]]の軍備 ぐんび 制限 せいげん 条項 じょうこう によりドイツの軍隊 ぐんたい は陸軍 りくぐん 兵力 へいりょく を10万 まん 人 にん に限定 げんてい され、[[徴兵 ちょうへい 制 せい |義務 ぎむ 兵役 へいえき 制度 せいど ]]も廃止 はいし された。機構 きこう 面 めん でも[[プロイセン参謀 さんぼう 本部 ほんぶ |参謀 さんぼう 本部 ほんぶ ]]、[[陸軍 りくぐん 大 だい 学校 がっこう ]]、[[陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう ]]は禁止 きんし され、軍備 ぐんび でも[[戦車 せんしゃ ]]部隊 ぶたい 、重火器 じゅうかき は禁止 きんし された。海軍 かいぐん 兵力 へいりょく は1万 まん 5000人 にん 、[[戦艦 せんかん ]]6隻 せき 、[[巡洋艦 じゅんようかん ]]6隻 せき および[[駆逐 くちく 艦 かん ]]12隻 せき の保有 ほゆう のみが認 みと められた。また、航空 こうくう 戦力 せんりょく の保持 ほじ は禁止 きんし された。軍 ぐん を離 はな れねばならなかった旧 きゅう 軍人 ぐんじん は巷 ちまた に溢 あふ れ、社会 しゃかい 的 てき に不安定 ふあんてい な要素 ようそ となった。軍 ぐん はヴェルサイユ条約 じょうやく の規制 きせい をかいくぐって軍備 ぐんび の維持 いじ 、向上 こうじょう を目論 もくろ んだ。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は「[[兵務 へいむ 局 きょく (ドイツ陸軍 りくぐん )|兵務 へいむ 局 きょく ]]」に偽装 ぎそう して存続 そんぞく させ、将来 しょうらい の拡充 かくじゅう を見越 みこ して、[[下士官 かしかん ]]に[[将校 しょうこう ]]レベルの教育 きょういく を行 おこな った。また[[ドイツ義勇軍 ぎゆうぐん ]]などに偽装 ぎそう した形 かたち で人員 じんいん の確保 かくほ を行 おこな った([[黒 くろ い国防 こくぼう 軍 ぐん ]])。また[[赤軍 せきぐん ]]の協力 きょうりょく を得 え て[[ソビエト連邦 れんぽう |ソ連 それん ]]国内 こくない で秘密裏 ひみつり に[[航空機 こうくうき ]]、[[戦車 せんしゃ ]]、[[化学 かがく 兵器 へいき |化学 かがく 戦 せん ]]等 とう の訓練 くんれん 施設 しせつ を設 もう け、将来 しょうらい の再 さい 軍備 ぐんび への準備 じゅんび を怠 おこた らなかった。戦闘 せんとう 機 き を旅客機 りょかくき 、戦車 せんしゃ を農業 のうぎょう 用 よう トラクターと称 しょう し、郵便 ゆうびん 配達 はいたつ 人 じん の自衛 じえい 用 よう との名目 めいもく で小銃 しょうじゅう を開発 かいはつ するなど、あの手 て この手 て で軍備 ぐんび を整 ととの え技術 ぎじゅつ を高 たか めていった。この結果 けっか 世界 せかい 初 はつ のジェット戦闘 せんとう 機 き [[メッサーシュミット Me262]]、アサルトライフルの始祖 しそ [[StG44 (突撃 とつげき 銃 じゅう )]]、初 はつ のミサイル兵器 へいき [[V2ロケット]]など当時 とうじ としては画期的 かっきてき な兵器 へいき が数多 かずおお く生 う み出 だ されることとなる。
[[ヴェルサイユ条約 じょうやく ]]の軍備 ぐんび 制限 せいげん 条項 じょうこう によりドイツの軍隊 ぐんたい は陸軍 りくぐん 兵力 へいりょく を10万 まん 人 にん に限定 げんてい され、[[徴兵 ちょうへい 制 せい |義務 ぎむ 兵役 へいえき 制度 せいど ]]も廃止 はいし された。機構 きこう 面 めん でも[[プロイセン参謀 さんぼう 本部 ほんぶ |参謀 さんぼう 本部 ほんぶ ]]、[[陸軍 りくぐん 大 だい 学校 がっこう ]]、[[陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう ]]は禁止 きんし され、軍備 ぐんび でも[[戦車 せんしゃ ]]部隊 ぶたい 、重火器 じゅうかき は禁止 きんし された。海軍 かいぐん 兵力 へいりょく は1万 まん 5000人 にん 、[[前 ぜん 弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん |戦艦 せんかん ]]6隻 せき 、[[巡洋艦 じゅんようかん ]]6隻 せき および[[駆逐 くちく 艦 かん ]]12隻 せき の保有 ほゆう のみが認 みと められた。また、航空 こうくう 戦力 せんりょく の保持 ほじ は禁止 きんし された。軍 ぐん を離 はな れねばならなかった旧 きゅう 軍人 ぐんじん は巷 ちまた に溢 あふ れ、社会 しゃかい 的 てき に不安定 ふあんてい な要素 ようそ となった。軍 ぐん はヴェルサイユ条約 じょうやく の規制 きせい をかいくぐって軍備 ぐんび の維持 いじ 、向上 こうじょう を目論 もくろ んだ。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は「[[兵務 へいむ 局 きょく (ドイツ陸軍 りくぐん )|兵務 へいむ 局 きょく ]]」に偽装 ぎそう して存続 そんぞく させ、将来 しょうらい の拡充 かくじゅう を見越 みこ して、[[下士官 かしかん ]]に[[将校 しょうこう ]]レベルの教育 きょういく を行 おこな った。[[ドイツ義勇軍 ぎゆうぐん ]]などに偽装 ぎそう した形 かたち で人員 じんいん の確保 かくほ を行 おこな った([[黒 くろ い国防 こくぼう 軍 ぐん ]])。また[[赤軍 せきぐん ]]の協力 きょうりょく を得 え て[[ソビエト連邦 れんぽう |ソ連 それん ]]国内 こくない で秘密裏 ひみつり に[[航空機 こうくうき ]]、[[戦車 せんしゃ ]]、[[化学 かがく 兵器 へいき |化学 かがく 戦 せん ]]等 とう の訓練 くんれん 施設 しせつ を設 もう け、将来 しょうらい の再 さい 軍備 ぐんび への準備 じゅんび を怠 おこた らなかった<ref>{{cite book|author=Groehler, Olaf |title=Selbstmörderische Allianz : deutsch-russische Militärbeziehungen 1920-1941 |publisher=Vision Verlag |year=1992 |pages=44- |url=https://lccn.loc.gov/92211822 |quote=Includes bibliographical references (p. 196-208)}}</ref> 。戦闘 せんとう 機 き を旅客機 りょかくき ・ 戦車 せんしゃ を農業 のうぎょう 用 よう トラクターと称 しょう し、郵便 ゆうびん 配達 はいたつ 人 じん の自衛 じえい 用 よう との名目 めいもく で小銃 しょうじゅう を開発 かいはつ 、新型 しんがた の機関 きかん 銃 じゅう や火砲 かほう に敗戦 はいせん 前 まえ の年 とし 式 しき を付 つ けて開発 かいはつ 時期 じき を偽装 ぎそう するなど、軍備 ぐんび を整 ととの え技術 ぎじゅつ を高 たか めていった。この結果 けっか 世界 せかい 初 はつ のジェット戦闘 せんとう 機 き [[メッサーシュミット Me262]]、アサルトライフルの始祖 しそ [[StG44 (突撃 とつげき 銃 じゅう )]]、初 はつ のミサイル兵器 へいき [[V2ロケット]]など当時 とうじ としては画期的 かっきてき な兵器 へいき が数多 かずおお く生 う み出 だ されることとなる。
==== ヒトラー政権 せいけん 下 か の軍拡 ぐんかく ====
==== ヒトラー政権 せいけん 下 か の軍拡 ぐんかく ====
{{see also|ナチス・ドイツの経済 けいざい }}
{{see also|ナチス・ドイツの経済 けいざい }}
1933年 ねん 、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した。ヒトラーは[[生存 せいぞん 圏 けん ]]の確保 かくほ を唱 とな え、軍事 ぐんじ を極 きわ めて重視 じゅうし していた。2月3日 にち には[[クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト|ハンマーシュタイン=エクヴォルト]][[兵務 へいむ 局 きょく (ドイツ陸軍 りくぐん )|兵務 へいむ 局 きょく ]]長 ちょう 宅 たく で開 ひら かれた会談 かいだん ([[:de:Liebmann-Aufzeichnung]])において、軍 ぐん 首脳 しゅのう に再 さい 軍備 ぐんび を約束 やくそく している。また2月 がつ 8日 にち の閣議 かくぎ では「あらゆる公的 こうてき な雇用 こよう 創出 そうしゅつ 措置 そち 助成 じょせい は、ドイツ民族 みんぞく の再 さい 武装 ぶそう 化 か にとって必要 ひつよう か否 ひ かという観点 かんてん から判断 はんだん されるべきであり、この考 かんが えが、何 なん 時 じ でも何処 どこ でも、中心 ちゅうしん にされねばならない」「すべてを国防 こくぼう 軍 ぐん へということが、今後 こんご 4~5年間 ねんかん の至上 しじょう 原則 げんそく であるべきだ」と言明 げんめい するなど、ナチス時代 じだい の経済 けいざい 政策 せいさく はすべて軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう を念頭 ねんとう に置 お かれたものであった{{sfn|川瀬 かわせ 泰史 やすし |2005|p=30}}。新 あら たに設置 せっち された[[ドイツ航空 こうくう 省 しょう |航空 こうくう 省 しょう ]]は[[ヘルマン・ゲーリング]]をトップとし、空軍 くうぐん の再建 さいけん が進行 しんこう していった。国家 こっか 予算 よさん における国防 こくぼう 費 ひ も、1932年 ねん には6億 おく 3000万 まん [[ライヒスマルク]]であったが、1933年 ねん には7億 おく 4600万 まん ライヒスマルク、1934年 ねん には19億 おく 5200万 まん ライヒスマルクと急増 きゅうぞう している{{sfn|村上 むらかみ 和光 かずみつ |2007|p=79}}。さらに[[メフォ手形 てがた ]]などの秘密 ひみつ 手段 しゅだん によっても資金 しきん が調達 ちょうたつ され、1934年 ねん だけでも40億 おく 9700ライヒスマルクが軍事 ぐんじ 費 ひ として投 とう じられている{{sfn|村上 むらかみ 和光 かずみつ |2007|p=79}}。1941年 ねん に海軍 かいぐん 財政 ざいせい 局 きょく は1933年 ねん 以降 いこう の状態 じょうたい を回顧 かいこ して、困難 こんなん がなかったわけではないが、「(資金 しきん は)常 つね にほとんど無制限 むせいげん に提供 ていきょう された」としている{{sfn|大島 おおしま 通義 みちよし |1986|pp=68}}。
1933年 ねん 、[[アドルフ・ヒトラー]]が首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した。ヒトラーは[[生存 せいぞん 圏 けん ]]の確保 かくほ を唱 とな え、軍事 ぐんじ を極 きわ めて重視 じゅうし していた。2月3日 にち には[[クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト|ハンマーシュタイン=エクヴォルト]][[兵務 へいむ 局 きょく (ドイツ陸軍 りくぐん )|兵務 へいむ 局 きょく ]]長 ちょう 宅 たく で開 ひら かれた会談 かいだん ([[:de:Liebmann-Aufzeichnung]])において、軍 ぐん 首脳 しゅのう に再 さい 軍備 ぐんび を約束 やくそく している。また2月 がつ 8日 にち の閣議 かくぎ では「あらゆる公的 こうてき な雇用 こよう 創出 そうしゅつ 措置 そち 助成 じょせい は、ドイツ民族 みんぞく の再 さい 武装 ぶそう 化 か にとって必要 ひつよう か否 ひ かという観点 かんてん から判断 はんだん されるべきであり、この考 かんが えが、何 なん 時 じ でも何処 どこ でも、中心 ちゅうしん にされねばならない」「すべてを国防 こくぼう 軍 ぐん へということが、今後 こんご 4~5年間 ねんかん の至上 しじょう 原則 げんそく であるべきだ」と言明 げんめい するなど、ナチス時代 じだい の経済 けいざい 政策 せいさく はすべて軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう を念頭 ねんとう に置 お かれたものであった{{sfn|川瀬 かわせ 泰史 やすし |2005|p=30}}。新 あら たに設置 せっち された[[ドイツ航空 こうくう 省 しょう |航空 こうくう 省 しょう ]]は[[ヘルマン・ゲーリング]]をトップとし、空軍 くうぐん の再建 さいけん が進行 しんこう していった。国家 こっか 予算 よさん における国防 こくぼう 費 ひ も、1932年 ねん には6億 おく 3000万 まん [[ライヒスマルク]]であったが、1933年 ねん には7億 おく 4600万 まん ライヒスマルク、1934年 ねん には19億 おく 5200万 まん ライヒスマルクと急増 きゅうぞう している{{sfn|村上 むらかみ 和光 かずみつ |2007|p=79}}。さらに[[メフォ手形 てがた ]]などの秘密 ひみつ 手段 しゅだん によっても資金 しきん が調達 ちょうたつ され、1934年 ねん だけでも40億 おく 9700ライヒスマルクが軍事 ぐんじ 費 ひ として投 とう じられている{{sfn|村上 むらかみ 和光 かずみつ |2007|p=79}}。1941年 ねん に海軍 かいぐん 財政 ざいせい 局 きょく は1933年 ねん 以降 いこう の状態 じょうたい を回顧 かいこ して、困難 こんなん がなかったわけではないが、「(資金 しきん は)常 つね にほとんど無制限 むせいげん に提供 ていきょう された」としている{{sfn|大島 おおしま 通義 みちよし |1986|pp=68}}。
=== 国防 こくぼう 軍 ぐん の発足 ほっそく ===
=== 国防 こくぼう 軍 ぐん の発足 ほっそく ===
[[1935年 ねん ]]3月 がつ 16日 にち にヴェルサイユ条約 じょうやく 軍備 ぐんび 制限 せいげん 条項 じょうこう の破棄 はき (再 さい 軍備 ぐんび )が宣言 せんげん されると、軍 ぐん は'''Reichswehr'''(ライヒスヴェア)から'''Wehrmacht'''(ヴェアマハト)へと改名 かいめい される。陸軍 りくぐん 、海軍 かいぐん の名称 めいしょう も下記 かき のように改名 かいめい され、空軍 くうぐん の存在 そんざい も公式 こうしき に定 さだ められた。
[[1935年 ねん ]]3月 がつ 16日 にち に[[ドイツ再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん | ヴェルサイユ条約 じょうやく 軍備 ぐんび 制限 せいげん 条項 じょうこう の破棄 はき (再 さい 軍備 ぐんび )が宣言 せんげん される]] と、軍 ぐん は'''Reichswehr'''(ライヒスヴェア)から'''Wehrmacht'''(ヴェアマハト)へと改名 かいめい される。陸軍 りくぐん 、海軍 かいぐん の名称 めいしょう も下記 かき のように改名 かいめい され、空軍 くうぐん の存在 そんざい も公式 こうしき に定 さだ められた。
* [[ドイツ陸軍 りくぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|陸軍 りくぐん ]] - '''Reichsheer'''(ライヒスヘーア)から '''Heer'''(ヘーア)
* [[ドイツ陸軍 りくぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|陸軍 りくぐん ]] - '''Heer '''(ヘーア) 旧名 きゅうめい '''Reichsheer '''(ライヒス ヘーア)
* [[ドイツ海軍 かいぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|海軍 かいぐん ]] - '''Reichsmarine'''(ライヒスマリーネ)から '''Kriegsmarine'''(クリークスマリーネ)
* [[ドイツ海軍 かいぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|海軍 かいぐん ]] - '''Kriegsmarine '''(クリーク スマリーネ) 旧名 きゅうめい '''Reichsmarine '''(ライヒ スマリーネ)
* [[ドイツ空軍 くうぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|空軍 くうぐん ]] - '''Luftwaffe'''(ルフトヴァッフェ)
* [[ドイツ空軍 くうぐん (国防 こくぼう 軍 ぐん )|空軍 くうぐん ]] - '''Luftwaffe'''(ルフトヴァッフェ)
三軍 さんぐん の最高 さいこう 機関 きかん としては[[陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (ドイツ)|陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ ]](OKH)、{{仮 かり リンク|海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (ドイツ)|de|Oberkommando der Marine|label=海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ }}(OKM)、{{仮 かり リンク|空軍 くうぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (ドイツ)|de|Oberkommando der Luftwaffe|label=空軍 くうぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ }}(OKL)が設置 せっち され、それぞれに総 そう 司令 しれい 官 かん が置 お かれた。また陸軍 りくぐん の[[プロイセン参謀 さんぼう 本部 ほんぶ |参謀 さんぼう 本部 ほんぶ ]]も兵務 へいむ 局 きょく から改称 かいしょう して復活 ふっかつ した。さらに5月21日 にち には、所轄 しょかつ 官庁 かんちょう である{{仮 かり リンク|国防省 こくぼうしょう (ドイツ国 こく )|de|Reichswehrministerium|label=国防省 こくぼうしょう }}('''Reichswehrministerium''')は戦争 せんそう 省 しょう ('''Reichskriegsministerium''')へと改称 かいしょう されている。
三軍 さんぐん の最高 さいこう 機関 きかん としては[[陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (ドイツ)|陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ ]](OKH)、[[ 海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (ドイツ)|海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ ]] (OKM)、[[ 空軍 くうぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (ドイツ)|空軍 くうぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ ]] (OKL)が設置 せっち され、それぞれに総 そう 司令 しれい 官 かん が置 お かれた。また陸軍 りくぐん の[[プロイセン参謀 さんぼう 本部 ほんぶ |参謀 さんぼう 本部 ほんぶ ]]も兵務 へいむ 局 きょく から改称 かいしょう して復活 ふっかつ した。さらに5月21日 にち には、所轄 しょかつ 官庁 かんちょう である{{仮 かり リンク|国防省 こくぼうしょう (ドイツ国 こく )|de|Reichswehrministerium|label=国防省 こくぼうしょう }}('''Reichswehrministerium''')は戦争 せんそう 省 しょう ('''Reichskriegsministerium''')へと改称 かいしょう されている。
=== 国防 こくぼう 軍 ぐん 再 さい 編成 へんせい ===
=== 国防 こくぼう 軍 ぐん 再 さい 編成 へんせい ===
1935年 ねん 5月 がつ 21日 にち に、全 ぜん 38条 じょう からなる兵役 へいえき 法 ほう が施行 しこう される<ref>[http://www.documentarchiv.de/ns/1935/wehrgesetz.html ドイツ兵役 へいえき 法 ほう (ドイツ語 ご 原文 げんぶん )]documentarchiv.de</ref>。
1935年 ねん 5月 がつ 21日 にち に、全 ぜん 38条 じょう からなる兵役 へいえき 法 ほう が施行 しこう される<ref>[http://www.documentarchiv.de/ns/1935/wehrgesetz.html ドイツ兵役 へいえき 法 ほう (ドイツ語 ご 原文 げんぶん )] documentarchiv.de</ref>。
*第 だい 一 いち 条 じょう
*第 だい 一 いち 条 じょう
67行 ぎょう 目 め :
97行 ぎょう 目 め :
=== ヒトラーによる掌握 しょうあく ===
=== ヒトラーによる掌握 しょうあく ===
ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい から軍隊 ぐんたい の最高 さいこう 指揮 しき 権 けん は[[国家 こっか 元首 げんしゅ ]]の[[ドイツの大統領 だいとうりょう (ヴァイマル共和 きょうわ 政 せい )|大統領 だいとうりょう ]]に所在 しょざい し、[[国防 こくぼう 大臣 だいじん ]]に権限 けんげん を委託 いたく する形式 けいしき であった。[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク大統領 だいとうりょう ]]が死去 しきょ した後 のち 、ヒトラーはその権限 けんげん を受 う け継 つ いでいた。1938年 ねん 、ヒトラーの外交 がいこう 政策 せいさく ([[ホスバッハ覚書 おぼえがき ]])に反対 はんたい する国防 こくぼう 大臣 だいじん [[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク|ブロンベルク]][[元帥 げんすい _(ドイツ)|元帥 げんすい ]]と陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん [[ヴェルナー・フォン・フリッチュ|フリッチュ]][[上級 じょうきゅう 大将 たいしょう ]]にスキャンダルをでっちあげ、失脚 しっきゃく させた([[ブロンベルク罷免 ひめん 事件 じけん ]])。ヒトラーは後継 こうけい の大臣 だいじん を指名 しめい せず、新 あら たに[[ヴィルヘルム・カイテル]]を総長 そうちょう とする'''[[国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ ]]'''を設 もう け、自 みずか らはその最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん することで国防 こくぼう 軍 ぐん 三軍 さんぐん を直接 ちょくせつ 指揮 しき する仕組 しく みを作 つく った。その後 ご の国防 こくぼう 軍 ぐん の多 おお くはヒトラーの政策 せいさく に表立 おもてだ って反対 はんたい することはなく、1939年 ねん の[[ポーランド侵攻 しんこう ]]までの外交 がいこう 政策 せいさく はおおむね国防 こくぼう 軍 ぐん も同意 どうい していた。
ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい から軍隊 ぐんたい の最高 さいこう 指揮 しき 権 けん は[[国家 こっか 元首 げんしゅ ]]の[[ドイツの大統領 だいとうりょう (ヴァイマル共和 きょうわ 政 せい )|大統領 だいとうりょう ]]に所在 しょざい し、[[国防 こくぼう 大臣 だいじん ]]に権限 けんげん を委託 いたく する形式 けいしき であった。[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク大統領 だいとうりょう ]]が死去 しきょ した後 のち 、ヒトラーはその権限 けんげん を受 う け継 つ いでいた。1938年 ねん 、ヒトラーの外交 がいこう 政策 せいさく ([[ホスバッハ覚書 おぼえがき ]])に反対 はんたい する国防 こくぼう 大臣 だいじん [[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク|ブロンベルク]][[元帥 げんすい (ドイツ)|元帥 げんすい ]]と陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん [[ヴェルナー・フォン・フリッチュ|フリッチュ]][[上級 じょうきゅう 大将 たいしょう ]]にスキャンダルをでっちあげ、失脚 しっきゃく させた([[ブロンベルク罷免 ひめん 事件 じけん ]])。ヒトラーは後継 こうけい の大臣 だいじん を指名 しめい せず、新 あら たに[[ヴィルヘルム・カイテル]]を総長 そうちょう とする'''[[国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ ]]'''を設 もう け、自 みずか らはその最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん することで国防 こくぼう 軍 ぐん 三軍 さんぐん を直接 ちょくせつ 指揮 しき する仕組 しく みを作 つく った。その後 ご の国防 こくぼう 軍 ぐん の多 おお くはヒトラーの政策 せいさく に表立 おもてだ って反対 はんたい することはなく、1939年 ねん の[[ポーランド侵攻 しんこう ]]までの外交 がいこう 政策 せいさく はおおむね国防 こくぼう 軍 ぐん も同意 どうい していた。
=== 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ===
=== 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ===
80行 ぎょう 目 め :
110行 ぎょう 目 め :
1945年 ねん 5月 がつ 7日 にち には国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 作戦 さくせん 部長 ぶちょう [[アルフレート・ヨードル]]が降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい し、5月8日 にち には国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総長 そうちょう カイテルが降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい 、[[批准 ひじゅん ]]を行 おこな った。6月5日 にち の[[ベルリン宣言 せんげん (1945年 ねん )|ベルリン宣言 せんげん ]]ではこの国防 こくぼう 軍 ぐん の降伏 ごうぶく をもって、ドイツが降伏 ごうぶく したと規定 きてい されている。
1945年 ねん 5月 がつ 7日 にち には国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 作戦 さくせん 部長 ぶちょう [[アルフレート・ヨードル]]が降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい し、5月8日 にち には国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総長 そうちょう カイテルが降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい 、[[批准 ひじゅん ]]を行 おこな った。6月5日 にち の[[ベルリン宣言 せんげん (1945年 ねん )|ベルリン宣言 せんげん ]]ではこの国防 こくぼう 軍 ぐん の降伏 ごうぶく をもって、ドイツが降伏 ごうぶく したと規定 きてい されている。
[[ニュルンベルク裁判 さいばん ]]ではナチ党 とう 指導 しどう 部 ぶ 、親衛隊 しんえいたい 等 とう とは異 こと なり、犯罪 はんざい 組織 そしき としての認定 にんてい は行 おこな われなかった。1946年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 、{{仮 かり リンク|連合 れんごう 国 こく 管理 かんり 理事 りじ 会 かい |en|Allied Control Council}}が発出 はっしゅつ した{{仮 かり リンク|連合 れんごう 国 こく 管理 かんり 理事 りじ 会 かい 命令 めいれい |de|Kontrollratsgesetz}}34号 ごう によってドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん は正式 せいしき に解体 かいたい された。
[[ニュルンベルク裁判 さいばん ]]ではナチ党 とう 指導 しどう 部 ぶ 、親衛隊 しんえいたい 等 とう とは異 こと なり、犯罪 はんざい 組織 そしき としての認定 にんてい は行 おこな われなかった。1946年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 、{{仮 かり リンク|連合 れんごう 国 こく 管理 かんり 理事 りじ 会 かい |en|Allied Control Council}}が発出 はっしゅつ した{{仮 かり リンク|連合 れんごう 国 こく 管理 かんり 理事 りじ 会 かい 命令 めいれい |de|Kontrollratsgesetz}}34号 ごう によってドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん は正式 せいしき に解体 かいたい された。[[ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん ]]が再 さい 編成 へんせい されるのは9年 ねん 後 ご である 。
==兵力 へいりょく ==
[[1939年 ねん ]]には、38個 こ [[師団 しだん ]]、58万 まん 人 にん の兵力 へいりょく を持 も つ12[[軍団 ぐんだん ]]の編成 へんせい がヒトラーから要求 ようきゅう されていた。予備 よび 役 やく の動員 どういん は1939年 ねん 7月 がつ と8月 がつ に行 おこな われた。1939年 ねん 末 まつ に国防 こくぼう 軍 ぐん は470万 まん 人 にん を召集 しょうしゅう していたが、[[1940年 ねん ]]には、ほぼ同数 どうすう の410万 まん 人 にん が再 ふたた び召集 しょうしゅう された。人的 じんてき 資源 しげん が枯渇 こかつ していたこともあり、その後 ご 、数 すう 年 ねん で半減 はんげん し[[1944年 ねん ]]には130万 まん 人 にん に達 たっ した。1939年 ねん から[[1945年 ねん ]]の間 あいだ に合計 ごうけい 、約 やく 1,700万 まん 人 にん 以上 いじょう の男性 だんせい が召集 しょうしゅう された<ref>Rüdiger Overmans: ''Deutsche militärische Verluste im Zweiten Weltkrieg.'' Oldenbourg, München 2004, ISBN 3-486-20028-3, S. 223 ff.</ref>。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう には、ドイツ人 じん 以外 いがい の兵士 へいし 、特 とく に東欧 とうおう 人 じん の多 おお くが国防 こくぼう 軍 ぐん に参加 さんか していた。彼 かれ らが志願 しがん した理由 りゆう は、その多 おお くがソビエトの[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]体制 たいせい に反発 はんぱつ する者 もの が大半 たいはん で、他 た には、[[ユダヤ人 じん ]]、[[ボルシェヴィキ]]による[[東 ひがし ヨーロッパ]]の支配 しはい を恐 おそ れていたからである([[反 はん ユダヤ主義 しゅぎ ]]が蔓延 まんえん していたため、ユダヤ人 じん とボルシェヴィキは同義 どうぎ として捉 とら えられていた)しかし、中 なか には強制 きょうせい 的 てき に動員 どういん された場合 ばあい もあった。ソ連 それん 領内 りょうない だけでも約 やく 60万 まん 人 にん の男性 だんせい が補助 ほじょ 部隊 ぶたい に志願 しがん していた。義勇 ぎゆう 部隊 ぶたい には、[[エストニア]]人 にん 、[[ラトビア]]人 にん 、[[ベラルーシ]]人 にん 、[[ウクライナ]]人 にん 、[[ロシア]]人 にん 、[[コーカサス]]人 にん などがいた。ロシア以外 いがい の部隊 ぶたい は「{{仮 かり リンク|東方 とうほう 義勇 ぎゆう 部隊 ぶたい |de|Ostlegionen}}(Ostlegionen)」と呼 よ ばれ、ロシア人 じん 部隊 ぶたい の多 おお くは[[アンドレイ・ウラソフ]]率 ひき いる「[[ロシア解放 かいほう 軍 ぐん ]]」に参加 さんか していた。国防 こくぼう 軍 ぐん 内 ない における外人 がいじん 部隊 ぶたい の兵士 へいし は全体 ぜんたい の約 やく 5%を占 し めていたという。
[[1938年 ねん ]]3月 がつ に[[アンシュルス|オーストリアが併合 へいごう ]]された後 のち 、{{仮 かり リンク|オーストリア第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国軍 こくぐん |de|Bundesheer (1. Republik)|label=オーストリア軍 ぐん }}将兵 しょうへい はドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん へ編入 へんにゅう されたうえで[[オーストリア]]にも徴兵 ちょうへい 制 せい が敷 し かれ、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん に召集 しょうしゅう された。[[枢軸 すうじく 国 こく |同盟 どうめい 国 こく ]]のドイツ系 けい 民族 みんぞく は何 なん 万 まん 人 にん も国防 こくぼう 軍 ぐん に志願 しがん したが、それ以上 いじょう に多 おお かったのが[[武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい ]](Waffen-SS)であった。また、11,600人 にん の[[ルクセンブルク]]人 ひと 強制 きょうせい 徴用 ちょうよう 者 しゃ 、約 やく 10万 まん 人 にん の[[アルザス]]人 にん 、3万 まん 人 にん の[[ロレーヌ]]人 にん も動員 どういん された。外国 がいこく 人 じん 志願 しがん 者 しゃ は、[[インド国民 こくみん 軍 ぐん #ドイツ軍 ぐん インド人 じん 義勇 ぎゆう 部隊 ぶたい との違 ちが い|インド軍団 ぐんだん ]]や{{仮 かり リンク|自由 じゆう アラビア軍団 ぐんだん |de|Legion Freies Arabien}}などの部隊 ぶたい でドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん に参加 さんか していた。
また、これら義勇軍 ぎゆうぐん は、ドイツと同盟 どうめい 関係 かんけい にあった東欧 とうおう 諸国 しょこく ([[ルーマニア]]、[[スロバキア]]、[[クロアチア]]、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]])の軍隊 ぐんたい と混同 こんどう してはいけない。[[独 どく ソ戦 せん ]]における作戦 さくせん ではドイツ軍 ぐん の最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ の指揮 しき 下 か に置 お かれていたが、法的 ほうてき には独立 どくりつ していた。
== 忠誠 ちゅうせい 宣誓 せんせい ==
== 忠誠 ちゅうせい 宣誓 せんせい ==
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しかし、1970年 ねん 頃 ごろ から国防 こくぼう 軍 ぐん の戦争 せんそう 犯罪 はんざい に対 たい する研究 けんきゅう が盛 さか んとなり、また[[ナチズム]]イデオロギーとの関係 かんけい も研究 けんきゅう されるようになった{{sfn|庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |p=51}}。[[ドイツ再 さい 統一 とういつ ]]後 ご の[[1995年 ねん ]]から1999年 ねん にかけて、{{仮 かり リンク|ハンブルク社会 しゃかい 問題 もんだい 研究所 けんきゅうじょ |de|Hamburger Institut für Sozialforschung}}が「絶滅 ぜつめつ 戦争 せんそう 国防 こくぼう 軍 ぐん の犯罪 はんざい 1941~1944」と題 だい したパネル展 てん ({{仮 かり リンク|ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 展示 てんじ 会 かい |de|Wehrmachtsausstellung}})を開催 かいさい した。このパネル展 てん で国防 こくぼう 軍 ぐん が[[独 どく ソ戦 せん |東部 とうぶ 戦線 せんせん ]]において[[ユダヤ人 じん ]]の組織 そしき 虐殺 ぎゃくさつ を行 おこな っていた事 こと 、国防 こくぼう 軍 ぐん が[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の道具 どうぐ ではなくパートナーであった事 こと などが主張 しゅちょう され、[[ドイツ]]を二分 にぶん する激 はげ しい論争 ろんそう を引 ひ き起 お こした。連邦 れんぽう 軍 ぐん および[[連邦 れんぽう 国防省 こくぼうしょう ]]はこうした問題 もんだい に態度 たいど を表明 ひょうめい する必要 ひつよう に迫 せま られ、1995年 ねん 6月 がつ 5日 にち に国防 こくぼう 軍 ぐん 展示 てんじ 会 かい について「内容 ないよう はややラディカルなものの、軍事 ぐんじ 史 し 研究所 けんきゅうじょ (国防省 こくぼうしょう の管轄 かんかつ 組織 そしき )の研究 けんきゅう 成果 せいか をふまえている」という評価 ひょうか を行 おこな っている{{sfn|中田 なかた 潤 じゅん |2001|p=2}}。また11月には[[フォルカー・リューエ]]国防 こくぼう 相 しょう が、「国防 こくぼう 軍 ぐん は第 だい 三 さん 帝国 ていこく の組織 そしき として、その頂点 ちょうてん において、部隊 ぶたい ・兵士 へいし とともにナチズムの犯罪 はんざい に巻 ま き込 こ まれた。それゆえに国防 こくぼう 軍 ぐん は、国家 こっか 機関 きかん として、いかなる伝統 でんとう も形作 かたちづく ることはできない」と国防 こくぼう 軍 ぐん について批判 ひはん 的 てき な姿勢 しせい を示 しめ した{{sfn|中田 なかた 潤 じゅん |2001|p=2}}。
しかし、1970年 ねん 頃 ごろ から国防 こくぼう 軍 ぐん の戦争 せんそう 犯罪 はんざい に対 たい する研究 けんきゅう が盛 さか んとなり、また[[ナチズム]]イデオロギーとの関係 かんけい も研究 けんきゅう されるようになった{{sfn|庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |p=51}}。[[ドイツ再 さい 統一 とういつ ]]後 ご の[[1995年 ねん ]]から1999年 ねん にかけて、{{仮 かり リンク|ハンブルク社会 しゃかい 問題 もんだい 研究所 けんきゅうじょ |de|Hamburger Institut für Sozialforschung}}が「絶滅 ぜつめつ 戦争 せんそう 国防 こくぼう 軍 ぐん の犯罪 はんざい 1941~1944」と題 だい したパネル展 てん ({{仮 かり リンク|ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 展示 てんじ 会 かい |de|Wehrmachtsausstellung}})を開催 かいさい した。このパネル展 てん で国防 こくぼう 軍 ぐん が[[独 どく ソ戦 せん |東部 とうぶ 戦線 せんせん ]]において[[ユダヤ人 じん ]]の組織 そしき 虐殺 ぎゃくさつ を行 おこな っていた事 こと 、国防 こくぼう 軍 ぐん が[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の道具 どうぐ ではなくパートナーであった事 こと などが主張 しゅちょう され、[[ドイツ]]を二分 にぶん する激 はげ しい論争 ろんそう を引 ひ き起 お こした。連邦 れんぽう 軍 ぐん および[[連邦 れんぽう 国防省 こくぼうしょう ]]はこうした問題 もんだい に態度 たいど を表明 ひょうめい する必要 ひつよう に迫 せま られ、1995年 ねん 6月 がつ 5日 にち に国防 こくぼう 軍 ぐん 展示 てんじ 会 かい について「内容 ないよう はややラディカルなものの、軍事 ぐんじ 史 し 研究所 けんきゅうじょ (国防省 こくぼうしょう の管轄 かんかつ 組織 そしき )の研究 けんきゅう 成果 せいか をふまえている」という評価 ひょうか を行 おこな っている{{sfn|中田 なかた 潤 じゅん |2001|p=2}}。また11月には[[フォルカー・リューエ]]国防 こくぼう 相 しょう が、「国防 こくぼう 軍 ぐん は第 だい 三 さん 帝国 ていこく の組織 そしき として、その頂点 ちょうてん において、部隊 ぶたい ・兵士 へいし とともにナチズムの犯罪 はんざい に巻 ま き込 こ まれた。それゆえに国防 こくぼう 軍 ぐん は、国家 こっか 機関 きかん として、いかなる伝統 でんとう も形作 かたちづく ることはできない」と国防 こくぼう 軍 ぐん について批判 ひはん 的 てき な姿勢 しせい を示 しめ した{{sfn|中田 なかた 潤 じゅん |2001|p=2}}。
またパネル展 てん の論調 ろんちょう が国防 こくぼう 軍 ぐん 全体 ぜんたい が犯罪 はんざい 行為 こうい に関与 かんよ しているようになっていたことは批判 ひはん を生 う んだ。[[ヘルムート・シュミット]]元 もと 首相 しゅしょう は、「私 わたし は、事実 じじつ が明 あき らかにされ、道徳 どうとく 的 てき な観点 かんてん から判断 はんだん がなされることには賛成 さんせい である。しかし、始 はじ めから1900万 まん 人 にん <ref>当時 とうじ の国防 こくぼう 軍 ぐん 従事 じゅうじ 者 しゃ </ref>すべてを一括 いっかつ して中傷 ちゅうしょう 、さもなくば彼等 かれら の子供 こども 達 たち にあなた方 かた の親 おや には罪 つみ があると信 しん じさせるやり方 かた では、展示 てんじ の当初 とうしょ の目的 もくてき を果 は たすことは全 まった く出来 でき ない」と批判 ひはん している{{sfn|庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |p=53-54}}。[[1997年 ねん ]]4月 がつ にはドイツ[[連邦 れんぽう 議会 ぎかい (ドイツ)|連邦 れんぽう 議会 ぎかい ]]において国防 こくぼう 軍 ぐん 問題 もんだい に関 かん する決議 けつぎ を行 おこな う動 うご きがあった。[[同盟 どうめい 90/緑 みどり の党 とう ]]は「国防 こくぼう 軍 ぐん は国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ システムの支柱 しちゅう の一 ひと つであった。国防 こくぼう 軍 ぐん は組織 そしき として国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の犯罪 はんざい に関与 かんよ した」という決議 けつぎ 案 あん を提出 ていしゅつ し、[[ドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう ]]や[[民主 みんしゅ 社会党 しゃかいとう (ドイツ)|民主 みんしゅ 社会党 しゃかいとう ]]の賛成 さんせい を得 え たものの、ドイツキリスト教 きりすときょう 民主 みんしゅ 同盟 どうめい の提出 ていしゅつ による「ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん への従事 じゅうじ 者 しゃ に対 たい するあらゆる一方 いっぽう 的 てき ・総括 そうかつ 的 てき な非難 ひなん に対 たい して断固 だんこ として反対 はんたい する」という決議 けつぎ 案 あん が賛成 さんせい 多数 たすう で採択 さいたく された<ref>熊野 くまの (2006:67)</ref>{{sfn|中田 なかた 潤 じゅん |2001|p=3}}。1995年 ねん 8月 がつ に『[[デア・シュピーゲル]]』が行 おこな った世論 せろん 調査 ちょうさ では、46%が「国防 こくぼう 軍 ぐん はナチスの虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい に関与 かんよ していた」と回答 かいとう している{{sfn|庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |p=56}}。
またパネル展 てん の論調 ろんちょう が国防 こくぼう 軍 ぐん 全体 ぜんたい が犯罪 はんざい 行為 こうい に関与 かんよ しているようになっていたことは批判 ひはん を生 う んだ。[[ヘルムート・シュミット]]元 もと 首相 しゅしょう は、「私 わたし は、事実 じじつ が明 あき らかにされ、道徳 どうとく 的 てき な観点 かんてん から判断 はんだん がなされることには賛成 さんせい である。しかし、始 はじ めから1900万 まん 人 にん <ref>当時 とうじ の国防 こくぼう 軍 ぐん 従事 じゅうじ 者 しゃ </ref> すべてを一括 いっかつ して中傷 ちゅうしょう 、さもなくば彼等 かれら の子供 こども 達 たち にあなた方 かた の親 おや には罪 つみ があると信 しん じさせるやり方 かた では、展示 てんじ の当初 とうしょ の目的 もくてき を果 は たすことは全 まった く出来 でき ない」と批判 ひはん している{{sfn|庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |p=53-54}}。[[1997年 ねん ]]4月 がつ にはドイツ[[連邦 れんぽう 議会 ぎかい (ドイツ)|連邦 れんぽう 議会 ぎかい ]]において国防 こくぼう 軍 ぐん 問題 もんだい に関 かん する決議 けつぎ を行 おこな う動 うご きがあった。[[同盟 どうめい 90/緑 みどり の党 とう ]]は「国防 こくぼう 軍 ぐん は国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ システムの支柱 しちゅう の一 ひと つであった。国防 こくぼう 軍 ぐん は組織 そしき として国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の犯罪 はんざい に関与 かんよ した」という決議 けつぎ 案 あん を提出 ていしゅつ し、[[ドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう ]]や[[民主 みんしゅ 社会党 しゃかいとう (ドイツ)|民主 みんしゅ 社会党 しゃかいとう ]]の賛成 さんせい を得 え たものの、ドイツキリスト教 きりすときょう 民主 みんしゅ 同盟 どうめい の提出 ていしゅつ による「ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん への従事 じゅうじ 者 しゃ に対 たい するあらゆる一方 いっぽう 的 てき ・総括 そうかつ 的 てき な非難 ひなん に対 たい して断固 だんこ として反対 はんたい する」という決議 けつぎ 案 あん が賛成 さんせい 多数 たすう で採択 さいたく された{{sfn| 熊野 くまの | 2006|p= 67}} {{sfn|中田 なかた 潤 じゅん |2001|p=3}}。1995年 ねん 8月 がつ に『[[デア・シュピーゲル]]』が行 おこな った世論 せろん 調査 ちょうさ では、46% が「国防 こくぼう 軍 ぐん はナチスの虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい に関与 かんよ していた」と回答 かいとう している{{sfn|庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |p=56}}。
2000年 ねん ごろの研究 けんきゅう では[[ホロコースト]]においても国防 こくぼう 軍 ぐん が何 なん らかの形 かたち で関与 かんよ していたことは明 あき らかになってきているが、「純粋 じゅんすい に組織 そしき 的 てき な犯罪 はんざい 集団 しゅうだん 」であるかどうかについては議論 ぎろん が存在 そんざい する{{sfn|庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |p=51}}。2009年 ねん 、ドイツの歴史 れきし 家 か {{仮 かり リンク|クリスティアン・ハルトマン|de|Christian Hartmann (Historiker)}} は、「いわゆる『清廉 せいれん 潔白 けっぱく な』国防 こくぼう 軍 ぐん という神話 しんわ について、これ以上 いじょう 正体 しょうたい を暴 あば く必要 ひつよう はなくなった。国防 こくぼう 軍 ぐん の罪 つみ はあまりにも圧倒的 あっとうてき であるために、これ以上 いじょう の議論 ぎろん はもはや不要 ふよう である」と述 の べている<ref>Christian Hartmann: ''Wehrmacht im Ostkrieg. Front und militärisches Hinterland 1941/42.'' (= ''Quellen und Darstellungen zur Zeitgeschichte'', Band 75) Oldenbourg, München 2009, ISBN 978-3-486-58064-8, S. 790.</ref>。
2000年 ねん ごろの研究 けんきゅう では[[ホロコースト]]においても国防 こくぼう 軍 ぐん が何 なん らかの形 かたち で関与 かんよ していたことは明 あき らかになってきているが、「純粋 じゅんすい に組織 そしき 的 てき な犯罪 はんざい 集団 しゅうだん 」であるかどうかについては議論 ぎろん が存在 そんざい する{{sfn|庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |p=51}}。2009年 ねん 、ドイツの歴史 れきし 家 か {{仮 かり リンク|クリスティアン・ハルトマン|de|Christian Hartmann (Historiker)}} は、「いわゆる『清廉 せいれん 潔白 けっぱく な』国防 こくぼう 軍 ぐん という神話 しんわ について、これ以上 いじょう 正体 しょうたい を暴 あば く必要 ひつよう はなくなった。国防 こくぼう 軍 ぐん の罪 つみ はあまりにも圧倒的 あっとうてき であるために、これ以上 いじょう の議論 ぎろん はもはや不要 ふよう である」と述 の べている<ref>Christian Hartmann: ''Wehrmacht im Ostkrieg. Front und militärisches Hinterland 1941/42.'' (= ''Quellen und Darstellungen zur Zeitgeschichte'', Band 75) Oldenbourg, München 2009, ISBN 978-3-486-58064-8, S. 790.</ref>。
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=== 出典 しゅってん ===
=== 出典 しゅってん ===
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== 参考 さんこう 文献 ぶんけん ==
== 参考 さんこう 文献 ぶんけん ==
* [[中田 なかた 潤 じゅん ]] [https://ci.nii.ac.jp/naid/110000079068 「国防 こくぼう 軍 ぐん の犯罪 はんざい と戦後 せんご ドイツの歴史 れきし 認識 にんしき 」]茨城大学 いばらきだいがく 人文学部 じんぶんがくぶ 紀要 きよう . 社会 しゃかい 科学 かがく 論集 ろんしゅう 35, 1-18, 2001-09
* {{Cite journal|和書 わしょ |author= 中田 なかた 潤 じゅん |date=2001-09 |url= https://rose-ibadai.repo .nii.ac.jp/records /10722 |title= 国防 こくぼう 軍 ぐん の犯罪 はんざい と戦後 せんご ドイツの歴史 れきし 認識 にんしき |journal= 茨城大学 いばらきだいがく 人文学部 じんぶんがくぶ 紀要 きよう . 社会 しゃかい 科学 かがく 論集 ろんしゅう |ISSN=13440160 |publisher=茨城大学 いばらきだいがく 人文学部 じんぶんがくぶ |issue= 35 |pages= 1-18 |hdl=10109/2146 |doi=10.34405/00010716 |CRID=1390010292637764224 |ref=harv}}
* [[熊野 くまの 直樹 なおき ]] [https://ci.nii.ac.jp/naid/110006607022 「戦後 せんご ドイツにおける戦争 せんそう の記憶 きおく と現在 げんざい 」] 法政 ほうせい 研究 けんきゅう 73(2), 51-77, 2006-10 九州大学 きゅうしゅうだいがく
* {{Cite journal|和書 わしょ |author= 熊野 くまの 直樹 なおき |date=2006-10 |url= https://doi .org /10.15017 /10709 |title= 戦後 せんご ドイツにおける戦争 せんそう の記憶 きおく と現在 げんざい |journal= 法政 ほうせい 研究 けんきゅう |ISSN=03872882 |publisher=九州大学 きゅうしゅうだいがく 法政 ほうせい 学会 がっかい |volume= 73 |issue= 2 |pages= 51-77 |hdl=2324/10709 |doi= 10.15017/10709 |CRID=1390290699731903488 |ref={{harvid|熊野 くまの |2006}}}}
* {{Cite journal|和書 わしょ |author=庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |authorlink=庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |title=統一 とういつ ドイツにおける「過去 かこ 」の展示 てんじ と歴史 れきし 認識 にんしき --ホロコーストを中心 ちゅうしん として|journal=防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ 紀要 きよう |publisher=防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ |issue= 3(2)|naid=40005217718|year=2000|pages=pp.42-66|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書 わしょ |author=庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう |title=統一 とういつ ドイツにおける「過去 かこ 」の展示 てんじ と歴史 れきし 認識 にんしき --ホロコーストを中心 ちゅうしん として|journal=防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ 紀要 きよう |publisher=防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ |volume =3 |issue= 2 |naid=40005217718|year=2000|pages=pp.42-66|url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I5967566 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書 わしょ |author=川瀬 かわせ 泰史 やすし |authorlink=川瀬 かわせ 泰史 やすし |title=ナチスドイツの経済 けいざい 回復 かいふく |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110001139452|format=PDF|journal=立教 りっきょう 経済 けいざい 学 がく 研究 けんきゅう |publisher=立教大学 りっきょうだいがく |issue=58(4)|naid=110001139452|year=2005|pages=pp.23-43|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書 わしょ |author=川瀬 かわせ 泰史 やすし |title=ナチスドイツの経済 けいざい 回復 かいふく |url=https://rikkyo.repo .nii.ac.jp/records /2915 |journal=立教 りっきょう 経済 けいざい 学 がく 研究 けんきゅう |publisher=立教大学 りっきょうだいがく |volume =58|issue= 4|doi=10.14992/00002913|CRID=1390009224784654720 |naid=110001139452|year=2005|pages=pp.23-43|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書 わしょ |author=大島 おおしま 通義 みちよし |authorlink=大島 おおしま 通義 みちよし |title=第 だい 三 さん 帝国 ていこく における軍事 ぐんじ 費 ひ の手形 てがた 金融 きんゆう |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120005354257|format=PDF|journal=三田 みた 学会 がっかい 雑誌 ざっし |publisher=慶應義塾 けいおうぎじゅく 経済 けいざい 学会 がっかい |issue=79(1)|naid=120005354257|date=1986|pages=58-90|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書 わしょ |author=大島 おおしま 通義 みちよし |authorlink=大島 おおしま 通義 みちよし |title=第 だい 三 さん 帝国 ていこく における軍事 ぐんじ 費 ひ の手形 てがた 金融 きんゆう |url=https://koara .lib.keio .ac.jp/xoonips /modules/xoonips/detail.php?koara_id =AN00234610-19860401-0058 |journal=三田 みた 学会 がっかい 雑誌 ざっし |publisher=慶應義塾 けいおうぎじゅく 経済 けいざい 学会 がっかい |ISSN =0026-6760 |date=1986-04|volume=79|issue=1 |pages=58-90|doi=10.14991/001.19860401-0058|CRID=1390572244905196544 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書 わしょ |author=村上 むらかみ 和光 かずみつ |authorlink=村上 むらかみ 和光 かずみつ |title=ナチス経済 けいざい の展開 てんかい と景気 けいき 変動 へんどう 過程 かてい (下 した )現代 げんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ 論 ろん の体系 たいけい 化 か (10)|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120001342298|format=PDF|journal=金沢 かなざわ 大学 だいがく 経済学部 けいざいがくぶ 論集 ろんしゅう |publisher=金沢 かなざわ 大学 だいがく 経済学部 けいざいがくぶ |issue=27(1)|naid=120001342298|year=2007|pages=pp.67-102|ref=sfn}}
* {{Cite journal|和書 わしょ |author=村上 むらかみ 和光 かずみつ |title=ナチス経済 けいざい の展開 てんかい と景気 けいき 変動 へんどう 過程 かてい (下 した )現代 げんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ 論 ろん の体系 たいけい 化 か (10)|url=https://kanazawa-u.repo .nii.ac.jp/records /2881 |journal=金沢 かなざわ 大学 だいがく 経済学部 けいざいがくぶ 論集 ろんしゅう |publisher=金沢 かなざわ 大学 だいがく 経済学部 けいざいがくぶ |date =2007-01 |volume =27 |issue =1 |pages=67-102|hdl=2297/17601|CRID=1050001335926221568|ISSN=0285-4368 |ref=harv }}
== 文献 ぶんけん ==
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* [[ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん ]](Bundeswehr) - [[ドイツ|ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく ]](旧 きゅう [[西 にし ドイツ]]及 およ び統一 とういつ ドイツ)の軍隊 ぐんたい
* [[ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん ]](Bundeswehr) - [[ドイツ|ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく ]](旧 きゅう [[西 にし ドイツ]]及 およ び統一 とういつ ドイツ)の軍隊 ぐんたい
* [[国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん ]](Nationale Volksarmee) - [[ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく ]](旧東 きゅうとう ドイツ)の軍隊 ぐんたい
* [[国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん ]](Nationale Volksarmee) - [[ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく ]](旧東 きゅうとう ドイツ)の軍隊 ぐんたい
* [[軍服 ぐんぷく _(ドイツ)#第 だい 三 さん 帝 みかど 国 くに 時代 じだい の軍服 ぐんぷく ]]
* [[軍服 ぐんぷく (ドイツ)#帝 みかど 政 せい ドイツ時代 じだい ]]
==外部 がいぶ リンク==
==外部 がいぶ リンク==
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{{第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう のドイツ軍 ぐん の編成 へんせい }}
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[[Category:ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん |*]]
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この項目 こうもく では、ナチス・ドイツ 時代 じだい (1935年 ねん —1945年 ねん )のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん (Wehrmacht)について説明 せつめい しています。
ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん (ドイツこくぼうぐん、ドイツ語 ご : Wehrmacht :ヴェーアマハト 、ドイツ語 ご 発音 はつおん : [ˈveːɐ̯maxt] ( 音声 おんせい ファイル ) 、直訳 ちょくやく : 「防衛 ぼうえい 軍隊 ぐんたい 」 )は、1935年 ねん から1945年 ねん にかけて存在 そんざい したナチス・ドイツ の武力 ぶりょく 組織 そしき である陸軍 りくぐん 、海軍 かいぐん 、空軍 くうぐん の三軍 さんぐん の総体 そうたい を指 さ す。ナチス・ドイツ 体制 たいせい 下 か において、国家 こっか 唯一 ゆいいつ の武装 ぶそう 者 しゃ (Waffenträger der Nation)と規定 きてい された存在 そんざい である。(実際 じっさい には武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい などの他 ほか の軍事 ぐんじ 組織 そしき が存在 そんざい している)
1935年 ねん 3月 がつ 16日 にち 、ドイツ再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん による徴兵 ちょうへい 制 せい の再 さい 施行 しこう とともに発令 はつれい された「国防 こくぼう 軍 ぐん 建設 けんせつ に関 かん する法律 ほうりつ (ドイツ語 ご : Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht )」[1] により、旧来 きゅうらい の国軍 こくぐん (ドイツ語 ご : Reichswehr )は、国防 こくぼう 軍 ぐん に改称 かいしょう された[2] [3] 。総 そう 兵力 へいりょく は50万 まん 人 にん となり、その後 ご も多額 たがく の軍事 ぐんじ 費 ひ が投 とう じられ、拡張 かくちょう と近代 きんだい 化 か が進 すす められた。1939年 ねん のポーランド侵攻 しんこう 直前 ちょくぜん の兵力 へいりょく は318万 まん 人 にん と世界 せかい でも屈指 くっし の規模 きぼ であった[4] [5] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん においては連合 れんごう 国 こく と戦 たたか い、当初 とうしょ は大 おお きな勝利 しょうり を収 おさ めたが1942年 ねん ごろから徐々 じょじょ に退潮 たいちょう し、1945年 ねん 5月には無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく を行 おこな い、1946年 ねん 8月 がつ 20日 はつか に正式 せいしき に解体 かいたい された。
国軍 こくぐん 時代 じだい の秘密 ひみつ 再 さい 武装 ぶそう [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に敗北 はいぼく したドイツでは帝政 ていせい が崩壊 ほうかい したが(ドイツ革命 かくめい )、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう のヴィルヘルム・グレーナー はドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう のフリードリヒ・エーベルト と密約 みつやく を結 むす び(エーベルト・グレーナー協定 きょうてい (ドイツ語 ご 版 ばん ) )、共和 きょうわ 国 こく への支持 しじ の見返 みかえ りに、陸海 りくかい 軍 ぐん の存続 そんぞく 保証 ほしょう を得 え た。1919年 ねん 3月 がつ 6日 にち に軍 ぐん はvorläufige Reichswehr (暫定 ざんてい 国軍 こくぐん )として再建 さいけん された。1921年 ねん 1月 がつ 1日 にち にはReichswehr と改称 かいしょう している。日本語 にほんご ではヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい の軍隊 ぐんたい である点 てん を強調 きょうちょう して「ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん 」と訳 やく し分 わ けることもあるが、Reichswehr時代 じだい も「国防 こくぼう 軍 ぐん 」と訳出 やくしゅつ されることがある[注釈 ちゅうしゃく 1] [6] 。グレーナーの協定 きょうてい があったにもかかわらず、軍 ぐん 内 ない にはパウル・フォン・ヒンデンブルク 元帥 げんすい を始 はじ めとする帝政 ていせい 支持 しじ 派 は が多 おお く、共和 きょうわ 制 せい とは一線 いっせん を画 かく した存在 そんざい であった。1920年 ねん に陸軍 りくぐん 統帥 とうすい 部 ぶ 長官 ちょうかん (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任 しゅうにん したハンス・フォン・ゼークト は軍 ぐん の政治 せいじ 的 てき 中立 ちゅうりつ に重点 じゅうてん を置 お き、装備 そうび の充実 じゅうじつ を図 はか った。この政党 せいとう から超然 ちょうぜん とした軍 ぐん は「国家 こっか 内 ない 国家 こっか 」と呼 よ ばれることになる。
ヴェルサイユ条約 じょうやく の軍備 ぐんび 制限 せいげん 条項 じょうこう によりドイツの軍隊 ぐんたい は陸軍 りくぐん 兵力 へいりょく を10万 まん 人 にん に限定 げんてい され、義務 ぎむ 兵役 へいえき 制度 せいど も廃止 はいし された。機構 きこう 面 めん でも参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 、陸軍 りくぐん 大 だい 学校 がっこう 、陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう は禁止 きんし され、軍備 ぐんび でも戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい 、重火器 じゅうかき は禁止 きんし された。海軍 かいぐん 兵力 へいりょく は1万 まん 5000人 にん 、戦艦 せんかん 6隻 せき 、巡洋艦 じゅんようかん 6隻 せき および駆逐 くちく 艦 かん 12隻 せき の保有 ほゆう のみが認 みと められた。また、航空 こうくう 戦力 せんりょく の保持 ほじ は禁止 きんし された。軍 ぐん を離 はな れねばならなかった旧 きゅう 軍人 ぐんじん は巷 ちまた に溢 あふ れ、社会 しゃかい 的 てき に不安定 ふあんてい な要素 ようそ となった。軍 ぐん はヴェルサイユ条約 じょうやく の規制 きせい をかいくぐって軍備 ぐんび の維持 いじ 、向上 こうじょう を目論 もくろ んだ。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は「兵務 へいむ 局 きょく 」に偽装 ぎそう して存続 そんぞく させ、将来 しょうらい の拡充 かくじゅう を見越 みこ して、下士官 かしかん に将校 しょうこう レベルの教育 きょういく を行 おこな った。ドイツ義勇軍 ぎゆうぐん などに偽装 ぎそう した形 かたち で人員 じんいん の確保 かくほ を行 おこな った(黒 くろ い国防 こくぼう 軍 ぐん )。また赤軍 せきぐん の協力 きょうりょく を得 え てソ連 それん 国内 こくない で秘密裏 ひみつり に航空機 こうくうき 、戦車 せんしゃ 、化学 かがく 戦 せん 等 ひとし の訓練 くんれん 施設 しせつ を設 もう け、将来 しょうらい の再 さい 軍備 ぐんび への準備 じゅんび を怠 おこた らなかった[7] 。戦闘 せんとう 機 き を旅客機 りょかくき ・戦車 せんしゃ を農業 のうぎょう 用 よう トラクターと称 しょう し、郵便 ゆうびん 配達 はいたつ 人 じん の自衛 じえい 用 よう との名目 めいもく で小銃 しょうじゅう を開発 かいはつ 、新型 しんがた の機関 きかん 銃 じゅう や火砲 かほう に敗戦 はいせん 前 まえ の年 とし 式 しき を付 つ けて開発 かいはつ 時期 じき を偽装 ぎそう するなど、軍備 ぐんび を整 ととの え技術 ぎじゅつ を高 たか めていった。この結果 けっか 世界 せかい 初 はつ のジェット戦闘 せんとう 機 き メッサーシュミット Me262 、アサルトライフルの始祖 しそ StG44 (突撃 とつげき 銃 じゅう ) 、初 はつ のミサイル兵器 へいき V2ロケット など当時 とうじ としては画期的 かっきてき な兵器 へいき が数多 かずおお く生 う み出 だ されることとなる。
ヒトラー政権 せいけん 下 か の軍拡 ぐんかく [ 編集 へんしゅう ]
1933年 ねん 、アドルフ・ヒトラー が首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した。ヒトラーは生存 せいぞん 圏 けん の確保 かくほ を唱 とな え、軍事 ぐんじ を極 きわ めて重視 じゅうし していた。2月3日 にち にはハンマーシュタイン=エクヴォルト 兵務 へいむ 局 きょく 長 ちょう 宅 たく で開 ひら かれた会談 かいだん (de:Liebmann-Aufzeichnung )において、軍 ぐん 首脳 しゅのう に再 さい 軍備 ぐんび を約束 やくそく している。また2月 がつ 8日 にち の閣議 かくぎ では「あらゆる公的 こうてき な雇用 こよう 創出 そうしゅつ 措置 そち 助成 じょせい は、ドイツ民族 みんぞく の再 さい 武装 ぶそう 化 か にとって必要 ひつよう か否 ひ かという観点 かんてん から判断 はんだん されるべきであり、この考 かんが えが、何 なん 時 じ でも何処 どこ でも、中心 ちゅうしん にされねばならない」「すべてを国防 こくぼう 軍 ぐん へということが、今後 こんご 4~5年間 ねんかん の至上 しじょう 原則 げんそく であるべきだ」と言明 げんめい するなど、ナチス時代 じだい の経済 けいざい 政策 せいさく はすべて軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう を念頭 ねんとう に置 お かれたものであった。新 あら たに設置 せっち された航空 こうくう 省 しょう はヘルマン・ゲーリング をトップとし、空軍 くうぐん の再建 さいけん が進行 しんこう していった。国家 こっか 予算 よさん における国防 こくぼう 費 ひ も、1932年 ねん には6億 おく 3000万 まん ライヒスマルク であったが、1933年 ねん には7億 おく 4600万 まん ライヒスマルク、1934年 ねん には19億 おく 5200万 まん ライヒスマルクと急増 きゅうぞう している。さらにメフォ手形 てがた などの秘密 ひみつ 手段 しゅだん によっても資金 しきん が調達 ちょうたつ され、1934年 ねん だけでも40億 おく 9700ライヒスマルクが軍事 ぐんじ 費 ひ として投 とう じられている。1941年 ねん に海軍 かいぐん 財政 ざいせい 局 きょく は1933年 ねん 以降 いこう の状態 じょうたい を回顧 かいこ して、困難 こんなん がなかったわけではないが、「(資金 しきん は)常 つね にほとんど無制限 むせいげん に提供 ていきょう された」としている。
国防 こくぼう 軍 ぐん の発足 ほっそく [ 編集 へんしゅう ]
1935年 ねん 3月16日 にち にヴェルサイユ条約 じょうやく 軍備 ぐんび 制限 せいげん 条項 じょうこう の破棄 はき (再 さい 軍備 ぐんび )が宣言 せんげん される と、軍 ぐん はReichswehr (ライヒスヴェア)からWehrmacht (ヴェアマハト)へと改名 かいめい される。陸軍 りくぐん 、海軍 かいぐん の名称 めいしょう も下記 かき のように改名 かいめい され、空軍 くうぐん の存在 そんざい も公式 こうしき に定 さだ められた。
陸軍 りくぐん - Heer (ヘーア) 旧名 きゅうめい Reichsheer (ライヒスヘーア)
海軍 かいぐん - Kriegsmarine (クリークスマリーネ) 旧名 きゅうめい Reichsmarine (ライヒスマリーネ)
空軍 くうぐん - Luftwaffe (ルフトヴァッフェ)
三軍 さんぐん の最高 さいこう 機関 きかん としては陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (OKH)、海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (OKM)、空軍 くうぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (OKL)が設置 せっち され、それぞれに総 そう 司令 しれい 官 かん が置 お かれた。また陸軍 りくぐん の参謀 さんぼう 本部 ほんぶ も兵務 へいむ 局 きょく から改称 かいしょう して復活 ふっかつ した。さらに5月21日 にち には、所轄 しょかつ 官庁 かんちょう である国防省 こくぼうしょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) (Reichswehrministerium )は戦争 せんそう 省 しょう (Reichskriegsministerium )へと改称 かいしょう されている。
国防 こくぼう 軍 ぐん 再 さい 編成 へんせい [ 編集 へんしゅう ]
1935年 ねん 5月 がつ 21日 にち に、全 ぜん 38条 じょう からなる兵役 へいえき 法 ほう が施行 しこう される[11] 。
第 だい 一 いち 条 じょう
一 いち 、兵役 へいえき はドイツ民族 みんぞく に対 たい する名誉 めいよ ある勤務 きんむ である。
二 に 、すべてのドイツ男子 だんし は、兵役 へいえき の義務 ぎむ を負 お う。
三 さん 、戦時 せんじ においては、兵役 へいえき の義務 ぎむ を超越 ちょうえつ して、すべてのドイツ男子 だんし と、すべてのドイツ女子 じょし は、祖国 そこく のための勤務 きんむ について義務 ぎむ を負 お う。
第 だい 二 に 条 じょう
国防 こくぼう 軍 ぐん は武器 ぶき を執 と って防衛 ぼうえい するものであると共 とも に、ドイツ民族 みんぞく に向 む かって、軍隊 ぐんたい 的 てき な教育 きょういく を施 ほどこ すべき学校 がっこう である。国防 こくぼう 軍 ぐん は、陸軍 りくぐん 、海軍 かいぐん および空軍 くうぐん より成 な る。
第 だい 三 さん 条 じょう
一 いち 、国防 こくぼう 軍 ぐん の最高 さいこう 司令 しれい 官 かん は指導 しどう 者 しゃ 兼 けん 首相 しゅしょう (Führer und Reichskanzler)である。
二 に 、国防 こくぼう 大臣 だいじん はその下 した にあって、国防 こくぼう 軍 ぐん の高級 こうきゅう 指揮 しき 者 しゃ として、国防 こくぼう 軍 ぐん に向 む かって指揮 しき 権 けん を発動 はつどう する。
国防 こくぼう 軍 ぐん の誕生 たんじょう とともに再 さい 軍備 ぐんび はいよいよ公然 こうぜん 化 か し、1936年 ねん の総 そう 軍事 ぐんじ 費 ひ は102億 おく 7300万 まん ライヒスマルク、1938年 ねん には172億 おく 4700万 まん ライヒスマルクに達 たっ した。国民総生産 こくみんそうせいさん に対 たい する割合 わりあい は、1936年 ねん で15.7%、1938年 ねん には21.0%に達 たっ している。
ヒトラーによる掌握 しょうあく [ 編集 へんしゅう ]
ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい から軍隊 ぐんたい の最高 さいこう 指揮 しき 権 けん は国家 こっか 元首 げんしゅ の大統領 だいとうりょう に所在 しょざい し、国防 こくぼう 大臣 だいじん に権限 けんげん を委託 いたく する形式 けいしき であった。ヒンデンブルク大統領 だいとうりょう が死去 しきょ した後 のち 、ヒトラーはその権限 けんげん を受 う け継 つ いでいた。1938年 ねん 、ヒトラーの外交 がいこう 政策 せいさく (ホスバッハ覚書 おぼえがき )に反対 はんたい する国防 こくぼう 大臣 だいじん ブロンベルク 元帥 げんすい と陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん フリッチュ 上級 じょうきゅう 大将 たいしょう にスキャンダルをでっちあげ、失脚 しっきゃく させた(ブロンベルク罷免 ひめん 事件 じけん )。ヒトラーは後継 こうけい の大臣 だいじん を指名 しめい せず、新 あら たにヴィルヘルム・カイテル を総長 そうちょう とする国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ を設 もう け、自 みずか らはその最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん することで国防 こくぼう 軍 ぐん 三軍 さんぐん を直接 ちょくせつ 指揮 しき する仕組 しく みを作 つく った。その後 ご の国防 こくぼう 軍 ぐん の多 おお くはヒトラーの政策 せいさく に表立 おもてだ って反対 はんたい することはなく、1939年 ねん のポーランド侵攻 しんこう までの外交 がいこう 政策 せいさく はおおむね国防 こくぼう 軍 ぐん も同意 どうい していた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1939年 ねん 10月 がつ 5日 にち 、ワルシャワ で戦勝 せんしょう パレードするドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 陸軍 りくぐん
開戦 かいせん から1941年 ねん 頃 ごろ までは優 すぐ れた戦術 せんじゅつ と戦略 せんりゃく で、ポーランドやフランス、ユーゴスラビア、ギリシャなど連合 れんごう 国 こく を圧倒 あっとう し、ヨーロッパの大半 たいはん をドイツの影響 えいきょう 下 か に収 おさ めた。しかし1941年 ねん 6月 がつ の独 どく ソ戦 せん 開始 かいし 以降 いこう 、厳 きび しい気候 きこう と赤軍 せきぐん の粘 ねば り強 づよ い抵抗 ていこう によって次第 しだい に消耗 しょうもう していった。1941年 ねん の冬 ふゆ に陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ と司令 しれい 部 ぶ は後退 こうたい を求 もと めるようになり、退却 たいきゃく を許 ゆる さないヒトラーと対立 たいりつ した。この時 とき にはヒトラーの判断 はんだん が功 こう を奏 そう して戦線 せんせん 崩壊 ほうかい を免 まぬか れたが、ヒトラーに反対 はんたい した陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん や参謀 さんぼう 総長 そうちょう 、多 おお くの将軍 しょうぐん が更迭 こうてつ された。ヒトラーは自 みずか ら陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん を兼任 けんにん し、独 どく ソ戦 せん の指揮 しき に強 つよ く介入 かいにゅう するようになった。1942年 ねん のブラウ作戦 さくせん はヒトラーが自 みずか ら大綱 たいこう を書 か き上 あ げたものであったが、攻勢 こうせい は不十分 ふじゅうぶん に終 お わり、スターリングラード攻防 こうぼう 戦 せん では大 おお きな損害 そんがい を出 だ した。また1944年 ねん にはノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん により、ドイツは東西 とうざい 両面 りょうめん の連合 れんごう 国軍 こくぐん と戦 たたか うこととなった。
陸軍 りくぐん 元 もと 参謀 さんぼう 総長 そうちょう ルートヴィヒ・ベック 将軍 しょうぐん らは戦前 せんぜん から反 はん ヒトラーグループ を形成 けいせい しており、何 なん 度 ど もヒトラー暗殺 あんさつ を計画 けいかく していた。1944年 ねん 7月 がつ 20日 はつか 、総統 そうとう 大本営 だいほんえい においてヒトラー暗殺 あんさつ とそれにともなうクーデターを実行 じっこう しようとした。しかしヒトラー暗殺 あんさつ には失敗 しっぱい し、ベックらのクーデターの呼 よ びかけにもほとんどの国防 こくぼう 軍 ぐん 軍人 ぐんじん は従 したが わなかった(7月 がつ 20日 はつか 事件 じけん )。事件 じけん 後 ご には親衛隊 しんえいたい の追及 ついきゅう が国防 こくぼう 軍 ぐん 上層 じょうそう 部 ぶ にもおよび、エルヴィン・ロンメル 元帥 げんすい らといった国防 こくぼう 軍 ぐん 軍人 ぐんじん が粛清 しゅくせい され、国防 こくぼう 軍 ぐん はいよいよヒトラーに従属 じゅうぞく するようになった。戦局 せんきょく はさらに悪化 あっか し、1944年 ねん 中 ちゅう にはついにドイツ本土 ほんど に連合 れんごう 軍 ぐん が侵攻 しんこう した。
降伏 ごうぶく と解体 かいたい [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 5月 がつ 7日 にち には国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 作戦 さくせん 部長 ぶちょう アルフレート・ヨードル が降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい し、5月8日 にち には国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総長 そうちょう カイテルが降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい 、批准 ひじゅん を行 おこな った。6月5日 にち のベルリン宣言 せんげん ではこの国防 こくぼう 軍 ぐん の降伏 ごうぶく をもって、ドイツが降伏 ごうぶく したと規定 きてい されている。
ニュルンベルク裁判 さいばん ではナチ党 とう 指導 しどう 部 ぶ 、親衛隊 しんえいたい 等 とう とは異 こと なり、犯罪 はんざい 組織 そしき としての認定 にんてい は行 おこな われなかった。1946年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 、連合 れんごう 国 こく 管理 かんり 理事 りじ 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) が発出 はっしゅつ した連合 れんごう 国 こく 管理 かんり 理事 りじ 会 かい 命令 めいれい (ドイツ語 ご 版 ばん ) 34号 ごう によってドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん は正式 せいしき に解体 かいたい された。ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん が再 さい 編成 へんせい されるのは9年 ねん 後 ご である。
1939年 ねん には、38個 こ 師団 しだん 、58万 まん 人 にん の兵力 へいりょく を持 も つ12軍団 ぐんだん の編成 へんせい がヒトラーから要求 ようきゅう されていた。予備 よび 役 やく の動員 どういん は1939年 ねん 7月 がつ と8月 がつ に行 おこな われた。1939年 ねん 末 まつ に国防 こくぼう 軍 ぐん は470万 まん 人 にん を召集 しょうしゅう していたが、1940年 ねん には、ほぼ同数 どうすう の410万 まん 人 にん が再 ふたた び召集 しょうしゅう された。人的 じんてき 資源 しげん が枯渇 こかつ していたこともあり、その後 ご 、数 すう 年 ねん で半減 はんげん し1944年 ねん には130万 まん 人 にん に達 たっ した。1939年 ねん から1945年 ねん の間 あいだ に合計 ごうけい 、約 やく 1,700万 まん 人 にん 以上 いじょう の男性 だんせい が召集 しょうしゅう された[12] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう には、ドイツ人 じん 以外 いがい の兵士 へいし 、特 とく に東欧 とうおう 人 じん の多 おお くが国防 こくぼう 軍 ぐん に参加 さんか していた。彼 かれ らが志願 しがん した理由 りゆう は、その多 おお くがソビエトのスターリン 体制 たいせい に反発 はんぱつ する者 もの が大半 たいはん で、他 た には、ユダヤ人 じん 、ボルシェヴィキ による東 ひがし ヨーロッパ の支配 しはい を恐 おそ れていたからである(反 はん ユダヤ主義 しゅぎ が蔓延 まんえん していたため、ユダヤ人 じん とボルシェヴィキは同義 どうぎ として捉 とら えられていた)しかし、中 なか には強制 きょうせい 的 てき に動員 どういん された場合 ばあい もあった。ソ連 それん 領内 りょうない だけでも約 やく 60万 まん 人 にん の男性 だんせい が補助 ほじょ 部隊 ぶたい に志願 しがん していた。義勇 ぎゆう 部隊 ぶたい には、エストニア 人 ひと 、ラトビア 人 ひと 、ベラルーシ 人 ひと 、ウクライナ 人 ひと 、ロシア 人 ひと 、コーカサス 人 ひと などがいた。ロシア以外 いがい の部隊 ぶたい は「東方 とうほう 義勇 ぎゆう 部隊 ぶたい (ドイツ語 ご 版 ばん ) (Ostlegionen)」と呼 よ ばれ、ロシア人 じん 部隊 ぶたい の多 おお くはアンドレイ・ウラソフ 率 ひき いる「ロシア解放 かいほう 軍 ぐん 」に参加 さんか していた。国防 こくぼう 軍 ぐん 内 ない における外人 がいじん 部隊 ぶたい の兵士 へいし は全体 ぜんたい の約 やく 5%を占 し めていたという。
1938年 ねん 3月 がつ にオーストリアが併合 へいごう された後 のち 、オーストリア軍 ぐん (ドイツ語 ご 版 ばん ) 将兵 しょうへい はドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん へ編入 へんにゅう されたうえでオーストリア にも徴兵 ちょうへい 制 せい が敷 し かれ、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん に召集 しょうしゅう された。同盟 どうめい 国 こく のドイツ系 けい 民族 みんぞく は何 なん 万 まん 人 にん も国防 こくぼう 軍 ぐん に志願 しがん したが、それ以上 いじょう に多 おお かったのが武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい (Waffen-SS)であった。また、11,600人 にん のルクセンブルク 人 ひと 強制 きょうせい 徴用 ちょうよう 者 しゃ 、約 やく 10万 まん 人 にん のアルザス 人 ひと 、3万 まん 人 にん のロレーヌ 人 ひと も動員 どういん された。外国 がいこく 人 じん 志願 しがん 者 しゃ は、インド軍団 ぐんだん や自由 じゆう アラビア軍団 ぐんだん (ドイツ語 ご 版 ばん ) などの部隊 ぶたい でドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん に参加 さんか していた。
また、これら義勇軍 ぎゆうぐん は、ドイツと同盟 どうめい 関係 かんけい にあった東欧 とうおう 諸国 しょこく (ルーマニア 、スロバキア 、クロアチア 、ブルガリア 、ハンガリー )の軍隊 ぐんたい と混同 こんどう してはいけない。独 どく ソ戦 せん における作戦 さくせん ではドイツ軍 ぐん の最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ の指揮 しき 下 か に置 お かれていたが、法的 ほうてき には独立 どくりつ していた。
忠誠 ちゅうせい 宣誓 せんせい [ 編集 へんしゅう ]
ドイツ軍 ぐん の伝統 でんとう には、忠誠 ちゅうせい 対象 たいしょう を明 あき らかにする忠誠 ちゅうせい 宣誓 せんせい が存在 そんざい した。ヴァイマル時代 じだい には「国家 こっか と憲法 けんぽう 」に対 たい して忠誠 ちゅうせい を誓 ちか うものであった。しかし、ヒトラーが首相 しゅしょう となると「民族 みんぞく と祖国 そこく 」に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか うものとなり、国防 こくぼう 軍 ぐん の成立 せいりつ 直前 ちょくぜん には「ドイツ国 こく と民族 みんぞく の指導 しどう 者 しゃ であり、国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん であるアドルフ・ヒトラー 」(Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, der Oberbefehlshaber der Wehrmacht)個人 こじん に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか うようにと変更 へんこう された。
主権 しゅけん 紋章 もんしょう [ 編集 へんしゅう ]
1935年 ねん 5月1日 にち 国防 こくぼう 軍 ぐん は軍帽 ぐんぼう と軍服 ぐんぷく 右 みぎ 胸 むね ポケットの上 うえ に主権 しゅけん 紋章 もんしょう を表示 ひょうじ する事 こと が決 き められる。軍帽 ぐんぼう の正章 まさあき はドイツ国 こく の国旗 こっき 色 しょく である「赤 あか 、白 しろ 、黒 くろ 」(帝政 ていせい 当時 とうじ の彩色 さいしき 。現行 げんこう は黒 くろ ・赤 あか ・金 きむ )を円形 えんけい に象 かたど っている(コカルデ)。ドイツ陸軍 りくぐん 、ドイツ海軍 かいぐん ではその周 まわ りをそれぞれ銀 ぎん と金 かね のオーク の葉 は で囲 かこ んでおり、ドイツ空軍 くうぐん は周 まわ りを羽 はね で象 かたど っている。
正章 まさあき の上 うえ につくハーケンクロイツ を掴 つか む「鷲 わし 」の意匠 いしょう は、陸軍 りくぐん 、海軍 かいぐん 、武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい 、空軍 くうぐん それぞれ若干 じゃっかん 異 こと なっている。羽 はね を広 ひろ げた鷲 わし の紋章 もんしょう はロ ろ ーマ帝国 まていこく 以来 いらい 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、現在 げんざい のドイツ に至 いた るまで国 くに 章 あきら でもある。
国防 こくぼう 軍 ぐん 無罪 むざい 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
国防 こくぼう 軍 ぐん 無罪 むざい 論 ろん とはドイツにおける、いわゆる「国防 こくぼう 軍 ぐん 神話 しんわ 」の一角 いっかく を成 な しており「ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん は国家 こっか 元首 げんしゅ であるヒトラーの命令 めいれい に従 したが っただけで、戦争 せんそう 犯罪 はんざい に関 かん する責任 せきにん はない」とするものである。
これはモスクワの戦 たたか い まで陸軍 りくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん を務 つと めていたヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ 元帥 げんすい が他 た の四 よん 名 めい の将軍 しょうぐん と連名 れんめい で、降伏 ごうぶく 後 ご にニュルンベルク裁判 さいばん に提出 ていしゅつ した国防 こくぼう 軍 ぐん の役割 やくわり を示 しめ した覚書 おぼえがき にその源 みなもと がある。
そこではドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん は非 ひ 政治 せいじ 的 てき なヒトラーの道具 どうぐ に過 す ぎず、あくまでも国家 こっか 元首 げんしゅ に服従 ふくじゅう しただけであり、またユダヤ人 じん やスラブ人 じん に対 たい する残虐 ざんぎゃく 行為 こうい はあくまでもナチス党 とう 隷下 れいか の親衛隊 しんえいたい によって行 おこな われたもので、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん はドイツの国軍 こくぐん として通常 つうじょう の戦争 せんそう を行 おこな ったに過 す ぎないとして、ナチズム体制 たいせい と国防 こくぼう 軍 ぐん を明確 めいかく に分離 ぶんり していた。
西 にし ドイツ においては、1950年代 ねんだい に同様 どうよう の認識 にんしき を示 しめ すエーリヒ・フォン・マンシュタイン やハインツ・グデーリアン の回想 かいそう がドイツで出版 しゅっぱん されることでこのイメージは補強 ほきょう され、海外 かいがい でもベイジル・リデル=ハート が「(国防 こくぼう 軍 ぐん は)ゲシュタポ や親衛隊 しんえいたい の犯罪 はんざい 行為 こうい とは無縁 むえん であった」という見方 みかた を著 あらわ している。また東西 とうざい ドイツにおける再 さい 軍備 ぐんび による旧 きゅう 国防 こくぼう 軍 ぐん 将校 しょうこう のドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん (西 にし ドイツ軍 ぐん ) および国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん (東 ひがし ドイツ軍 ぐん ) への復権 ふっけん がそれに輪 わ をかける事 こと となった。7月 がつ 20日 はつか 事件 じけん に関与 かんよ したクラウス・フォン・シュタウフェンベルク 大佐 たいさ らが顕彰 けんしょう される一方 いっぽう で、国防 こくぼう 軍 ぐん はプロフェッショナルな集団 しゅうだん であり、政治 せいじ には無垢 むく な存在 そんざい としてとらえられていた。
しかし、1970年 ねん 頃 ごろ から国防 こくぼう 軍 ぐん の戦争 せんそう 犯罪 はんざい に対 たい する研究 けんきゅう が盛 さか んとなり、またナチズム イデオロギーとの関係 かんけい も研究 けんきゅう されるようになった。ドイツ再 さい 統一 とういつ 後 ご の1995年 ねん から1999年 ねん にかけて、ハンブルク社会 しゃかい 問題 もんだい 研究所 けんきゅうじょ (ドイツ語 ご 版 ばん ) が「絶滅 ぜつめつ 戦争 せんそう 国防 こくぼう 軍 ぐん の犯罪 はんざい 1941~1944」と題 だい したパネル展 てん (ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 展示 てんじ 会 かい (ドイツ語 ご 版 ばん ) )を開催 かいさい した。このパネル展 てん で国防 こくぼう 軍 ぐん が東部 とうぶ 戦線 せんせん においてユダヤ人 じん の組織 そしき 虐殺 ぎゃくさつ を行 おこな っていた事 こと 、国防 こくぼう 軍 ぐん がヒトラー の道具 どうぐ ではなくパートナーであった事 こと などが主張 しゅちょう され、ドイツ を二分 にぶん する激 はげ しい論争 ろんそう を引 ひ き起 お こした。連邦 れんぽう 軍 ぐん および連邦 れんぽう 国防省 こくぼうしょう はこうした問題 もんだい に態度 たいど を表明 ひょうめい する必要 ひつよう に迫 せま られ、1995年 ねん 6月 がつ 5日 にち に国防 こくぼう 軍 ぐん 展示 てんじ 会 かい について「内容 ないよう はややラディカルなものの、軍事 ぐんじ 史 し 研究所 けんきゅうじょ (国防省 こくぼうしょう の管轄 かんかつ 組織 そしき )の研究 けんきゅう 成果 せいか をふまえている」という評価 ひょうか を行 おこな っている。また11月にはフォルカー・リューエ 国防 こくぼう 相 しょう が、「国防 こくぼう 軍 ぐん は第 だい 三 さん 帝国 ていこく の組織 そしき として、その頂点 ちょうてん において、部隊 ぶたい ・兵士 へいし とともにナチズムの犯罪 はんざい に巻 ま き込 こ まれた。それゆえに国防 こくぼう 軍 ぐん は、国家 こっか 機関 きかん として、いかなる伝統 でんとう も形作 かたちづく ることはできない」と国防 こくぼう 軍 ぐん について批判 ひはん 的 てき な姿勢 しせい を示 しめ した。
またパネル展 てん の論調 ろんちょう が国防 こくぼう 軍 ぐん 全体 ぜんたい が犯罪 はんざい 行為 こうい に関与 かんよ しているようになっていたことは批判 ひはん を生 う んだ。ヘルムート・シュミット 元 もと 首相 しゅしょう は、「私 わたし は、事実 じじつ が明 あき らかにされ、道徳 どうとく 的 てき な観点 かんてん から判断 はんだん がなされることには賛成 さんせい である。しかし、始 はじ めから1900万 まん 人 にん [15] すべてを一括 いっかつ して中傷 ちゅうしょう 、さもなくば彼等 かれら の子供 こども 達 たち にあなた方 かた の親 おや には罪 つみ があると信 しん じさせるやり方 かた では、展示 てんじ の当初 とうしょ の目的 もくてき を果 は たすことは全 まった く出来 でき ない」と批判 ひはん している。1997年 ねん 4月 がつ にはドイツ連邦 れんぽう 議会 ぎかい において国防 こくぼう 軍 ぐん 問題 もんだい に関 かん する決議 けつぎ を行 おこな う動 うご きがあった。同盟 どうめい 90/緑 みどり の党 とう は「国防 こくぼう 軍 ぐん は国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ システムの支柱 しちゅう の一 ひと つであった。国防 こくぼう 軍 ぐん は組織 そしき として国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の犯罪 はんざい に関与 かんよ した」という決議 けつぎ 案 あん を提出 ていしゅつ し、ドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう や民主 みんしゅ 社会党 しゃかいとう の賛成 さんせい を得 え たものの、ドイツキリスト教 きりすときょう 民主 みんしゅ 同盟 どうめい の提出 ていしゅつ による「ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん への従事 じゅうじ 者 しゃ に対 たい するあらゆる一方 いっぽう 的 てき ・総括 そうかつ 的 てき な非難 ひなん に対 たい して断固 だんこ として反対 はんたい する」という決議 けつぎ 案 あん が賛成 さんせい 多数 たすう で採択 さいたく された。1995年 ねん 8月 がつ に『デア・シュピーゲル 』が行 おこな った世論 せろん 調査 ちょうさ では、46%が「国防 こくぼう 軍 ぐん はナチスの虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい に関与 かんよ していた」と回答 かいとう している。
2000年 ねん ごろの研究 けんきゅう ではホロコースト においても国防 こくぼう 軍 ぐん が何 なん らかの形 かたち で関与 かんよ していたことは明 あき らかになってきているが、「純粋 じゅんすい に組織 そしき 的 てき な犯罪 はんざい 集団 しゅうだん 」であるかどうかについては議論 ぎろん が存在 そんざい する。2009年 ねん 、ドイツの歴史 れきし 家 か クリスティアン・ハルトマン (ドイツ語 ご 版 ばん ) は、「いわゆる『清廉 せいれん 潔白 けっぱく な』国防 こくぼう 軍 ぐん という神話 しんわ について、これ以上 いじょう 正体 しょうたい を暴 あば く必要 ひつよう はなくなった。国防 こくぼう 軍 ぐん の罪 つみ はあまりにも圧倒的 あっとうてき であるために、これ以上 いじょう の議論 ぎろん はもはや不要 ふよう である」と述 の べている[20] 。
^ 共和 きょうわ 国軍 こくぐん は非合法 ひごうほう 戦力 せんりょく 「黒 くろ い国防 こくぼう 軍 ぐん 」「闇 やみ の国防 こくぼう 軍 ぐん 」(Schwarze Reichswehr )をも秘密裏 ひみつり に温存 おんぞん していた
^ documentArchiv.de - Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht (16.03.1935)
^ Proklamation der Reichsregierung an das deutsche Volk bezüglich der Einführung der allgemeinen Wehrpflicht vom 16. März 1935
^ Österreichische Nationalbibliothek (ÖNB): Deutsches Reichsgesetzblatt Teil I 1867–1945 , S. 375
^ 【歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 】欧州 おうしゅう 戦史 せんし シリーズvol.ポーランド電撃 でんげき 戦 せん
^ Karl-Heinz Janßen: Politische und militärische Zielvorstellungen. In: R.-D. Müller, H.-E. Volkmann (Hrsg. im Auftrag des MGFA ): Die Wehrmacht: Mythos und Realität. Oldenbourg, München 1999, ISBN 3-486-56383-1 , S. 76 f.
^ 竹本 たけもと 真希子 まきこ 「ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 末期 まっき の平和 へいわ 運動 うんどう の諸 しょ 問題 もんだい : オシエツキーと『ヴェルトビューネ』をめぐる裁判 さいばん から 」『専修 せんしゅう 史学 しがく 』第 だい 45号 ごう 、専修大学 せんしゅうだいがく 歴史 れきし 学会 がっかい 、2008年 ねん 11月、1-19頁 ぺーじ 、CRID 1050578061483447808 、ISSN 0386-8958 。 など。
^ Groehler, Olaf (1992). Selbstmörderische Allianz : deutsch-russische Militärbeziehungen 1920-1941 . Vision Verlag. pp. 44-. https://lccn.loc.gov/92211822 . "Includes bibliographical references (p. 196-208)"
^ ドイツ兵役 へいえき 法 ほう (ドイツ語 ご 原文 げんぶん ) documentarchiv.de
^ Rüdiger Overmans: Deutsche militärische Verluste im Zweiten Weltkrieg. Oldenbourg, München 2004, ISBN 3-486-20028-3 , S. 223 ff.
^ 当時 とうじ の国防 こくぼう 軍 ぐん 従事 じゅうじ 者 しゃ
^ Christian Hartmann: Wehrmacht im Ostkrieg. Front und militärisches Hinterland 1941/42. (= Quellen und Darstellungen zur Zeitgeschichte , Band 75) Oldenbourg, München 2009, ISBN 978-3-486-58064-8 , S. 790.
濱田 はまだ 常二 つねじ 良 りょう (著 ちょ )、『独逸 どいつ 軍部 ぐんぶ 論 ろん 』、昭和 しょうわ 刊行 かんこう 会 かい 、1943年 ねん
アラン・ブロー(著 ちょ )、『鷲 わし の紋章 もんしょう 学 がく 』、村松 むらまつ 剛 つよし 訳 やく 、平凡社 へいぼんしゃ 、1994年 ねん 、ISBN 4-582-48210-4
歴史 れきし
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政治 せいじ
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