「ドイツ国防こくぼうぐん」のはんあいだ差分さぶん

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|disbanded = 1946ねん8がつ20日はつか連合れんごうこく管理かんり理事りじかい命令めいれい34ごうによって解体かいたい
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<!-- Senior Leaders -->
<!-- Senior Leaders -->
|commander1 = ・[[アドルフ・ヒトラー]]<br/>・[[カール・デーニッツ]]
|commander1 = ・[[アドルフ・ヒトラー]]<br/>・[[カール・デーニッツ]]
|commander1_label = [[File:Chef des Oberkommandos der Wehrmacht als Generalfeldmarschall.svg|25px]] 国防こくぼうぐん[[:en:Wehrmacht#Command structure|最高さいこう司令しれいかん]]
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}}
}}


'''ドイツ国防こくぼうぐん'''(ドイツこくぼうぐん、{{lang-de|'''Wehrmacht''':ヴェアマハト}}<!--固有名詞こゆうめいしとしては Wehrmacht のみ、Deutsche は不要ふよう-->、{{IPA-de|ˈveːɐ̯maxt|-|De-Wehrmacht-pronunciation.ogg}}、{{Literal translation|「防衛ぼうえい軍隊ぐんたい」|lk=yes}})は、[[1935ねん]]から[[1945ねん]]にかけて存在そんざいした[[ドイツくに]]の武力ぶりょく組織そしきである[[ドイツ陸軍りくぐん (国防こくぼうぐん)|陸軍りくぐん]]、[[ドイツ海軍かいぐん (国防こくぼうぐん)|海軍かいぐん]]、[[ドイツ空軍くうぐん (国防こくぼうぐん)|空軍くうぐん]]の三軍さんぐん総体そうたいす。[[ナチス・ドイツ]]体制たいせいにおいて、国家こっか唯一ゆいいつ武装ぶそうしゃ(Waffenträger der Nation)と規定きていされた存在そんざいである。(なお、実際じっさいには[[武装ぶそう親衛隊しんえいたい]]などのほか軍事ぐんじ組織そしき存在そんざいしている)
'''ドイツ国防こくぼうぐん'''(ドイツこくぼうぐん、{{lang-de|'''Wehrmacht''':ヴェアマハト}}<!--固有名詞こゆうめいしとしては Wehrmacht のみ、Deutsche は不要ふよう-->、{{IPA-de|ˈveːɐ̯maxt|-|De-Wehrmacht-pronunciation.ogg}}、{{Literal translation|「防衛ぼうえい軍隊ぐんたい」|lk=yes}})は、[[1935ねん]]から[[1945ねん]]にかけて存在そんざいした[[ナチス・ドイツ]]の武力ぶりょく組織そしきである[[ドイツ陸軍りくぐん (国防こくぼうぐん)|陸軍りくぐん]]、[[ドイツ海軍かいぐん (国防こくぼうぐん)|海軍かいぐん]]、[[ドイツ空軍くうぐん (国防こくぼうぐん)|空軍くうぐん]]の三軍さんぐん総体そうたいす。[[ナチス・ドイツ]]体制たいせいにおいて、国家こっか唯一ゆいいつ武装ぶそうしゃ(Waffenträger der Nation)と規定きていされた存在そんざいである。(実際じっさいには[[武装ぶそう親衛隊しんえいたい]]などのほか軍事ぐんじ組織そしき存在そんざいしている)


== 概要がいよう ==
== 概要がいよう ==
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==== 国軍こくぐん時代じだい秘密ひみつさい武装ぶそう ====
==== 国軍こくぐん時代じだい秘密ひみつさい武装ぶそう ====
{{see also|ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん|ドイツさい軍備ぐんび宣言せんげん}}
{{see also|ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん|ドイツさい軍備ぐんび宣言せんげん}}
[[だいいち世界せかい大戦たいせん]]に敗北はいぼくしたドイツでは帝政ていせい崩壊ほうかいしたが([[ドイツ革命かくめい]])、陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょうの[[ヴィルヘルム・グレーナー]]は[[ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう]]の[[フリードリヒ・エーベルト]]と密約みつやくむすび({{かりリンク|エーベルト・グレーナー協定きょうてい|de|Ebert-Groener-Pakt}})、[[ヴァイマルども和政かずまさ|共和きょうわこく]]への支持しじ見返みかえりに、陸海りくかいぐん存続そんぞく保証ほしょうた。1919ねん3がつ6にちぐんは'''vorläufige Reichswehr'''(暫定ざんてい国軍こくぐん)として再建さいけんされた。1921ねん1がつ1にちには'''Reichswehr'''と改称かいしょうしている。日本語にほんごでは[[ヴァイマルども和政かずまさ|ヴァイマル共和きょうわこく]]時代じだい軍隊ぐんたいであるてん強調きょうちょうして「[[ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん]]」とやくけることもあるが、Reichswehr時代じだいも「国防こくぼうぐん」と訳出やくしゅつされることがある{{efn|共和きょうわ国軍こくぐん非合法ひごうほう戦力せんりょく「[[くろ国防こくぼうぐん]]」「やみ国防こくぼうぐん」('''Schwarze Reichswehr''')をも秘密裏ひみつり温存おんぞんしていた}}<ref>竹本たけもと真希子まきこ「[http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hiroshima-cu/file/7400/20170118130431/senshushigaku45_1.pdf ヴァイマル共和きょうわこく末期まっき平和へいわ運動うんどうしょ問題もんだい]」(2008ねんなど。</ref>。グレーナーの協定きょうていがあったにもかかわらず、ぐんないには[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥げんすいはじめとする帝政ていせい支持しじおおく、共和きょうわせいとは一線いっせんかくした存在そんざいであった。1920ねんに[[陸軍りくぐん統帥とうすい長官ちょうかん]] (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任しゅうにんした[[ハンス・フォン・ゼークト]]はぐん政治せいじてき中立ちゅうりつ重点じゅうてんき、装備そうび充実じゅうじつはかった。この政党せいとうから超然ちょうぜんとしたぐんは「[[国家こっか内部ないぶにおける国家こっか|国家こっかない国家こっか]]」とばれることになる。
[[だいいち世界せかい大戦たいせん]]に敗北はいぼくしたドイツでは帝政ていせい崩壊ほうかいしたが([[ドイツ革命かくめい]])、陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょうの[[ヴィルヘルム・グレーナー]]は[[ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう]]の[[フリードリヒ・エーベルト]]と密約みつやくむすび({{かりリンク|エーベルト・グレーナー協定きょうてい|de|Ebert-Groener-Pakt}})、[[ヴァイマルども和政かずまさ|共和きょうわこく]]への支持しじ見返みかえりに、陸海りくかいぐん存続そんぞく保証ほしょうた。1919ねん3がつ6にちぐんは'''vorläufige Reichswehr'''(暫定ざんてい国軍こくぐん)として再建さいけんされた。1921ねん1がつ1にちには'''Reichswehr'''と改称かいしょうしている。日本語にほんごでは[[ヴァイマルども和政かずまさ|ヴァイマル共和きょうわこく]]時代じだい軍隊ぐんたいであるてん強調きょうちょうして「[[ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん]]」とやくけることもあるが、Reichswehr時代じだいも「国防こくぼうぐん」と訳出やくしゅつされることがある{{efn|共和きょうわ国軍こくぐん非合法ひごうほう戦力せんりょく「[[くろ国防こくぼうぐん]]」「やみ国防こくぼうぐん」('''Schwarze Reichswehr''')をも秘密裏ひみつり温存おんぞんしていた}}<ref>{{Cite journal|和書わしょ|author=竹本たけもと真希子まきこ |date=2008-11 |url=https://hiroshima-cu.repo.nii.ac.jp/records/1113 |title=ヴァイマル共和きょうわこく末期まっき平和へいわ運動うんどうしょ問題もんだい : オシエツキーと『ヴェルトビューネ』をめぐる裁判さいばんから |journal=専修せんしゅう史学しがく |ISSN=0386-8958 |publisher=専修大学せんしゅうだいがく歴史れきし学会がっかい |issue=45 |pages=1-19 |CRID=1050578061483447808}}など。</ref>。グレーナーの協定きょうていがあったにもかかわらず、ぐんないには[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥げんすいはじめとする帝政ていせい支持しじおおく、共和きょうわせいとは一線いっせんかくした存在そんざいであった。1920ねんに[[陸軍りくぐん統帥とうすい長官ちょうかん]] (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任しゅうにんした[[ハンス・フォン・ゼークト]]はぐん政治せいじてき中立ちゅうりつ重点じゅうてんき、装備そうび充実じゅうじつはかった。この政党せいとうから超然ちょうぜんとしたぐんは「[[国家こっか内部ないぶにおける国家こっか|国家こっかない国家こっか]]」とばれることになる。


[[ヴェルサイユ条約じょうやく]]の軍備ぐんび制限せいげん条項じょうこうによりドイツの軍隊ぐんたい陸軍りくぐん兵力へいりょくを10まんにん限定げんていされ、[[徴兵ちょうへいせい|義務ぎむ兵役へいえき制度せいど]]も廃止はいしされた。機構きこうめんでも[[プロイセン参謀さんぼう本部ほんぶ|参謀さんぼう本部ほんぶ]]、[[陸軍りくぐんだい学校がっこう]]、[[陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう]]は禁止きんしされ、軍備ぐんびでも[[戦車せんしゃ]]部隊ぶたい重火器じゅうかき禁止きんしされた。海軍かいぐん兵力へいりょくは1まん5000にん、[[ぜんいしゆみきゅう戦艦せんかん|戦艦せんかん]]6せき、[[巡洋艦じゅんようかん]]6せきおよび[[駆逐くちくかん]]12せき保有ほゆうのみがみとめられた。また、航空こうくう戦力せんりょく保持ほじ禁止きんしされた。ぐんはなれねばならなかったきゅう軍人ぐんじんちまたあふれ、社会しゃかいてき不安定ふあんてい要素ようそとなった。ぐんはヴェルサイユ条約じょうやく規制きせいをかいくぐって軍備ぐんび維持いじ向上こうじょう目論もくろんだ。参謀さんぼう本部ほんぶは「[[兵務へいむきょく (ドイツ陸軍りくぐん)|兵務へいむきょく]]」に偽装ぎそうして存続そんぞくさせ、将来しょうらい拡充かくじゅう見越みこして、[[下士官かしかん]]に[[将校しょうこう]]レベルの教育きょういくおこなった。[[ドイツ義勇軍ぎゆうぐん]]などに偽装ぎそうしたかたち人員じんいん確保かくほおこなった([[くろ国防こくぼうぐん]])。また[[赤軍せきぐん]]の協力きょうりょくて[[ソビエト連邦れんぽう|ソ連それん]]国内こくない秘密裏ひみつりに[[航空機こうくうき]]、[[戦車せんしゃ]]、[[化学かがく兵器へいき|化学かがくせん]]とう訓練くんれん施設しせつもうけ、将来しょうらいさい軍備ぐんびへの準備じゅんびおこたらなかった<ref>Olaf Groehler, Selbstmörderische Allianz, Deutsch-russische Militärbeziehungen 1920–1941, Vision Verlag Berlin, 1992, S. 44&nbsp;f.</ref>。戦闘せんとう旅客機りょかくき戦車せんしゃ農業のうぎょうようトラクターとしょうし、郵便ゆうびん配達はいたつじん自衛じえいようとの名目めいもく小銃しょうじゅう開発かいはつ新型しんがた機関きかんじゅう火砲かほう敗戦はいせんまえとししきけて開発かいはつ時期じき偽装ぎそうするなど、あのこの軍備ぐんびととの技術ぎじゅつたかめていった。この結果けっか世界せかいはつのジェット戦闘せんとう[[メッサーシュミット Me262]]、アサルトライフルの始祖しそ[[StG44 (突撃とつげきじゅう)]]、はつのミサイル兵器へいき[[V2ロケット]]など当時とうじとしては画期的かっきてき兵器へいき数多かずおおされることとなる。
[[ヴェルサイユ条約じょうやく]]の軍備ぐんび制限せいげん条項じょうこうによりドイツの軍隊ぐんたい陸軍りくぐん兵力へいりょくを10まんにん限定げんていされ、[[徴兵ちょうへいせい|義務ぎむ兵役へいえき制度せいど]]も廃止はいしされた。機構きこうめんでも[[プロイセン参謀さんぼう本部ほんぶ|参謀さんぼう本部ほんぶ]]、[[陸軍りくぐんだい学校がっこう]]、[[陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう]]は禁止きんしされ、軍備ぐんびでも[[戦車せんしゃ]]部隊ぶたい重火器じゅうかき禁止きんしされた。海軍かいぐん兵力へいりょくは1まん5000にん、[[ぜんいしゆみきゅう戦艦せんかん|戦艦せんかん]]6せき、[[巡洋艦じゅんようかん]]6せきおよび[[駆逐くちくかん]]12せき保有ほゆうのみがみとめられた。また、航空こうくう戦力せんりょく保持ほじ禁止きんしされた。ぐんはなれねばならなかったきゅう軍人ぐんじんちまたあふれ、社会しゃかいてき不安定ふあんてい要素ようそとなった。ぐんはヴェルサイユ条約じょうやく規制きせいをかいくぐって軍備ぐんび維持いじ向上こうじょう目論もくろんだ。参謀さんぼう本部ほんぶは「[[兵務へいむきょく (ドイツ陸軍りくぐん)|兵務へいむきょく]]」に偽装ぎそうして存続そんぞくさせ、将来しょうらい拡充かくじゅう見越みこして、[[下士官かしかん]]に[[将校しょうこう]]レベルの教育きょういくおこなった。[[ドイツ義勇軍ぎゆうぐん]]などに偽装ぎそうしたかたち人員じんいん確保かくほおこなった([[くろ国防こくぼうぐん]])。また[[赤軍せきぐん]]の協力きょうりょくて[[ソビエト連邦れんぽう|ソ連それん]]国内こくない秘密裏ひみつりに[[航空機こうくうき]]、[[戦車せんしゃ]]、[[化学かがく兵器へいき|化学かがくせん]]とう訓練くんれん施設しせつもうけ、将来しょうらいさい軍備ぐんびへの準備じゅんびおこたらなかった<ref>{{cite book|author=Groehler, Olaf |title=Selbstmörderische Allianz : deutsch-russische Militärbeziehungen 1920-1941 |publisher=Vision Verlag |year=1992 |pages=44- |url=https://lccn.loc.gov/92211822 |quote=Includes bibliographical references (p. 196-208)}}</ref>。戦闘せんとう旅客機りょかくき戦車せんしゃ農業のうぎょうようトラクターとしょうし、郵便ゆうびん配達はいたつじん自衛じえいようとの名目めいもく小銃しょうじゅう開発かいはつ新型しんがた機関きかんじゅう火砲かほう敗戦はいせんまえとししきけて開発かいはつ時期じき偽装ぎそうするなど、軍備ぐんびととの技術ぎじゅつたかめていった。この結果けっか世界せかいはつのジェット戦闘せんとう[[メッサーシュミット Me262]]、アサルトライフルの始祖しそ[[StG44 (突撃とつげきじゅう)]]、はつのミサイル兵器へいき[[V2ロケット]]など当時とうじとしては画期的かっきてき兵器へいき数多かずおおされることとなる。


==== ヒトラー政権せいけん軍拡ぐんかく ====
==== ヒトラー政権せいけん軍拡ぐんかく ====
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* [[ドイツ空軍くうぐん (国防こくぼうぐん)|空軍くうぐん]] - '''Luftwaffe'''(ルフトヴァッフェ)
* [[ドイツ空軍くうぐん (国防こくぼうぐん)|空軍くうぐん]] - '''Luftwaffe'''(ルフトヴァッフェ)


三軍さんぐん最高さいこう機関きかんとしては[[陸軍りくぐんそう司令しれい (ドイツ)|陸軍りくぐんそう司令しれい]](OKH)、[[海軍かいぐんそう司令しれい (ドイツ)|海軍かいぐんそう司令しれい]](OKM)、{{かりリンク|空軍くうぐんそう司令しれい (ドイツ)|de|Oberkommando der Luftwaffe|label=空軍くうぐんそう司令しれい}}(OKL)が設置せっちされ、それぞれにそう司令しれいかんかれた。また陸軍りくぐんの[[プロイセン参謀さんぼう本部ほんぶ|参謀さんぼう本部ほんぶ]]も兵務へいむきょくから改称かいしょうして復活ふっかつした。さらに5月21にちには、所轄しょかつ官庁かんちょうである{{かりリンク|国防省こくぼうしょう (ドイツこく)|de|Reichswehrministerium|label=国防省こくぼうしょう}}('''Reichswehrministerium''')は戦争せんそうしょう('''Reichskriegsministerium''')へと改称かいしょうされている。
三軍さんぐん最高さいこう機関きかんとしては[[陸軍りくぐんそう司令しれい (ドイツ)|陸軍りくぐんそう司令しれい]](OKH)、[[海軍かいぐんそう司令しれい (ドイツ)|海軍かいぐんそう司令しれい]](OKM)、[[空軍くうぐんそう司令しれい (ドイツ)|空軍くうぐんそう司令しれい]](OKL)が設置せっちされ、それぞれにそう司令しれいかんかれた。また陸軍りくぐんの[[プロイセン参謀さんぼう本部ほんぶ|参謀さんぼう本部ほんぶ]]も兵務へいむきょくから改称かいしょうして復活ふっかつした。さらに5月21にちには、所轄しょかつ官庁かんちょうである{{かりリンク|国防省こくぼうしょう (ドイツこく)|de|Reichswehrministerium|label=国防省こくぼうしょう}}('''Reichswehrministerium''')は戦争せんそうしょう('''Reichskriegsministerium''')へと改称かいしょうされている。


=== 国防こくぼうぐんさい編成へんせい ===
=== 国防こくぼうぐんさい編成へんせい ===
110ぎょう: 110ぎょう:
1945ねん5がつ7にちには国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい作戦さくせん部長ぶちょう[[アルフレート・ヨードル]]が降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいし、5月8にちには国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうカイテルが降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめい、[[批准ひじゅん]]をおこなった。6月5にちの[[ベルリン宣言せんげん (1945ねん)|ベルリン宣言せんげん]]ではこの国防こくぼうぐん降伏ごうぶくをもって、ドイツが降伏ごうぶくしたと規定きていされている。
1945ねん5がつ7にちには国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい作戦さくせん部長ぶちょう[[アルフレート・ヨードル]]が降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいし、5月8にちには国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうカイテルが降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめい、[[批准ひじゅん]]をおこなった。6月5にちの[[ベルリン宣言せんげん (1945ねん)|ベルリン宣言せんげん]]ではこの国防こくぼうぐん降伏ごうぶくをもって、ドイツが降伏ごうぶくしたと規定きていされている。


[[ニュルンベルク裁判さいばん]]ではナチとう指導しどう親衛隊しんえいたいとうとはことなり、犯罪はんざい組織そしきとしての認定にんていおこなわれなかった。1946ねん8がつ20日はつか、{{かりリンク|連合れんごうこく管理かんり理事りじかい|en|Allied Control Council}}が発出はっしゅつした{{かりリンク|連合れんごうこく管理かんり理事りじかい命令めいれい|de|Kontrollratsgesetz}}34ごうによってドイツ国防こくぼうぐん正式せいしき解体かいたいされた。
[[ニュルンベルク裁判さいばん]]ではナチとう指導しどう親衛隊しんえいたいとうとはことなり、犯罪はんざい組織そしきとしての認定にんていおこなわれなかった。1946ねん8がつ20日はつか、{{かりリンク|連合れんごうこく管理かんり理事りじかい|en|Allied Control Council}}が発出はっしゅつした{{かりリンク|連合れんごうこく管理かんり理事りじかい命令めいれい|de|Kontrollratsgesetz}}34ごうによってドイツ国防こくぼうぐん正式せいしき解体かいたいされた。[[ドイツ連邦れんぽうぐん]]がさい編成へんせいされるのは9ねんである


==兵力へいりょく==
==兵力へいりょく==
140ぎょう: 140ぎょう:
しかし、1970ねんごろから国防こくぼうぐん戦争せんそう犯罪はんざいたいする研究けんきゅうさかんとなり、また[[ナチズム]]イデオロギーとの関係かんけい研究けんきゅうされるようになった{{sfn|庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|p=51}}。[[ドイツさい統一とういつ]]の[[1995ねん]]から1999ねんにかけて、{{かりリンク|ハンブルク社会しゃかい問題もんだい研究所けんきゅうじょ|de|Hamburger Institut für Sozialforschung}}が「絶滅ぜつめつ戦争せんそう 国防こくぼうぐん犯罪はんざい1941~1944」とだいしたパネルてん({{かりリンク|ドイツ国防こくぼうぐん展示てんじかい|de|Wehrmachtsausstellung}})を開催かいさいした。このパネルてん国防こくぼうぐんが[[どくせん|東部とうぶ戦線せんせん]]において[[ユダヤじん]]の組織そしき虐殺ぎゃくさつおこなっていたこと国防こくぼうぐんが[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の道具どうぐではなくパートナーであったことなどが主張しゅちょうされ、[[ドイツ]]を二分にぶんするはげしい論争ろんそうこした。連邦れんぽうぐんおよび[[連邦れんぽう国防省こくぼうしょう]]はこうした問題もんだい態度たいど表明ひょうめいする必要ひつようせまられ、1995ねん6がつ5にち国防こくぼうぐん展示てんじかいについて「内容ないようはややラディカルなものの、軍事ぐんじ研究所けんきゅうじょ国防省こくぼうしょう管轄かんかつ組織そしき)の研究けんきゅう成果せいかをふまえている」という評価ひょうかおこなっている{{sfn|中田なかたじゅん|2001|p=2}}。また11月には[[フォルカー・リューエ]]国防こくぼうしょうが、「国防こくぼうぐんだいさん帝国ていこく組織そしきとして、その頂点ちょうてんにおいて、部隊ぶたい兵士へいしとともにナチズムの犯罪はんざいまれた。それゆえに国防こくぼうぐんは、国家こっか機関きかんとして、いかなる伝統でんとう形作かたちづくることはできない」と国防こくぼうぐんについて批判ひはんてき姿勢しせいしめした{{sfn|中田なかたじゅん|2001|p=2}}。
しかし、1970ねんごろから国防こくぼうぐん戦争せんそう犯罪はんざいたいする研究けんきゅうさかんとなり、また[[ナチズム]]イデオロギーとの関係かんけい研究けんきゅうされるようになった{{sfn|庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|p=51}}。[[ドイツさい統一とういつ]]の[[1995ねん]]から1999ねんにかけて、{{かりリンク|ハンブルク社会しゃかい問題もんだい研究所けんきゅうじょ|de|Hamburger Institut für Sozialforschung}}が「絶滅ぜつめつ戦争せんそう 国防こくぼうぐん犯罪はんざい1941~1944」とだいしたパネルてん({{かりリンク|ドイツ国防こくぼうぐん展示てんじかい|de|Wehrmachtsausstellung}})を開催かいさいした。このパネルてん国防こくぼうぐんが[[どくせん|東部とうぶ戦線せんせん]]において[[ユダヤじん]]の組織そしき虐殺ぎゃくさつおこなっていたこと国防こくぼうぐんが[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の道具どうぐではなくパートナーであったことなどが主張しゅちょうされ、[[ドイツ]]を二分にぶんするはげしい論争ろんそうこした。連邦れんぽうぐんおよび[[連邦れんぽう国防省こくぼうしょう]]はこうした問題もんだい態度たいど表明ひょうめいする必要ひつようせまられ、1995ねん6がつ5にち国防こくぼうぐん展示てんじかいについて「内容ないようはややラディカルなものの、軍事ぐんじ研究所けんきゅうじょ国防省こくぼうしょう管轄かんかつ組織そしき)の研究けんきゅう成果せいかをふまえている」という評価ひょうかおこなっている{{sfn|中田なかたじゅん|2001|p=2}}。また11月には[[フォルカー・リューエ]]国防こくぼうしょうが、「国防こくぼうぐんだいさん帝国ていこく組織そしきとして、その頂点ちょうてんにおいて、部隊ぶたい兵士へいしとともにナチズムの犯罪はんざいまれた。それゆえに国防こくぼうぐんは、国家こっか機関きかんとして、いかなる伝統でんとう形作かたちづくることはできない」と国防こくぼうぐんについて批判ひはんてき姿勢しせいしめした{{sfn|中田なかたじゅん|2001|p=2}}。


またパネルてん論調ろんちょう国防こくぼうぐん全体ぜんたい犯罪はんざい行為こうい関与かんよしているようになっていたことは批判ひはんんだ。[[ヘルムート・シュミット]]もと首相しゅしょうは、「わたしは、事実じじつあきらかにされ、道徳どうとくてき観点かんてんから判断はんだんがなされることには賛成さんせいである。しかし、はじめから1900まんにん<ref>当時とうじ国防こくぼうぐん従事じゅうじしゃ</ref> すべてを一括いっかつして中傷ちゅうしょう、さもなくば彼等かれら子供こどもたちにあなたかたおやにはつみがあるとしんじさせるやりかたでは、展示てんじ当初とうしょ目的もくてきたすことはまった出来できない」と批判ひはんしている{{sfn|庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|p=53-54}}。[[1997ねん]]4がつにはドイツ[[連邦れんぽう議会ぎかい (ドイツ)|連邦れんぽう議会ぎかい]]において国防こくぼうぐん問題もんだいかんする決議けつぎおこなうごきがあった。[[同盟どうめい90/みどりとう]]は「国防こくぼうぐん国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎシステムの支柱しちゅうひとつであった。国防こくぼうぐん組織そしきとして国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎ犯罪はんざい関与かんよした」という決議けつぎあん提出ていしゅつし、[[ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう]]や[[民主みんしゅ社会党しゃかいとう (ドイツ)|民主みんしゅ社会党しゃかいとう]]の賛成さんせいたものの、ドイツキリスト教きりすときょう民主みんしゅ同盟どうめい提出ていしゅつによる「ドイツ国防こくぼうぐんへの従事じゅうじしゃたいするあらゆる一方いっぽうてき総括そうかつてき非難ひなんたいして断固だんことして反対はんたいする」という決議けつぎあん賛成さんせい多数たすう採択さいたくされた<ref>熊野くまの (2006:67)</ref>{{sfn|中田なかたじゅん|2001|p=3}}。1995ねん8がつに『[[デア・シュピーゲル]]』がおこなった世論せろん調査ちょうさでは、46%が「国防こくぼうぐんはナチスの虐殺ぎゃくさつ行為こうい関与かんよしていた」と回答かいとうしている{{sfn|庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|p=56}}。
またパネルてん論調ろんちょう国防こくぼうぐん全体ぜんたい犯罪はんざい行為こうい関与かんよしているようになっていたことは批判ひはんんだ。[[ヘルムート・シュミット]]もと首相しゅしょうは、「わたしは、事実じじつあきらかにされ、道徳どうとくてき観点かんてんから判断はんだんがなされることには賛成さんせいである。しかし、はじめから1900まんにん<ref>当時とうじ国防こくぼうぐん従事じゅうじしゃ</ref> すべてを一括いっかつして中傷ちゅうしょう、さもなくば彼等かれら子供こどもたちにあなたかたおやにはつみがあるとしんじさせるやりかたでは、展示てんじ当初とうしょ目的もくてきたすことはまった出来できない」と批判ひはんしている{{sfn|庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|p=53-54}}。[[1997ねん]]4がつにはドイツ[[連邦れんぽう議会ぎかい (ドイツ)|連邦れんぽう議会ぎかい]]において国防こくぼうぐん問題もんだいかんする決議けつぎおこなうごきがあった。[[同盟どうめい90/みどりとう]]は「国防こくぼうぐん国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎシステムの支柱しちゅうひとつであった。国防こくぼうぐん組織そしきとして国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎ犯罪はんざい関与かんよした」という決議けつぎあん提出ていしゅつし、[[ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう]]や[[民主みんしゅ社会党しゃかいとう (ドイツ)|民主みんしゅ社会党しゃかいとう]]の賛成さんせいたものの、ドイツキリスト教きりすときょう民主みんしゅ同盟どうめい提出ていしゅつによる「ドイツ国防こくぼうぐんへの従事じゅうじしゃたいするあらゆる一方いっぽうてき総括そうかつてき非難ひなんたいして断固だんことして反対はんたいする」という決議けつぎあん賛成さんせい多数たすう採択さいたくされた{{sfn|熊野くまの|2006|p=67}}{{sfn|中田なかたじゅん|2001|p=3}}。1995ねん8がつに『[[デア・シュピーゲル]]』がおこなった世論せろん調査ちょうさでは、46%が「国防こくぼうぐんはナチスの虐殺ぎゃくさつ行為こうい関与かんよしていた」と回答かいとうしている{{sfn|庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|p=56}}。


2000ねんごろの研究けんきゅうでは[[ホロコースト]]においても国防こくぼうぐんなんらかのかたち関与かんよしていたことはあきらかになってきているが、「純粋じゅんすい組織そしきてき犯罪はんざい集団しゅうだん」であるかどうかについては議論ぎろん存在そんざいする{{sfn|庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|p=51}}。2009ねん、ドイツの歴史れきし {{かりリンク|クリスティアン・ハルトマン|de|Christian Hartmann (Historiker)}} は、「いわゆる『清廉せいれん潔白けっぱくな』国防こくぼうぐんという神話しんわについて、これ以上いじょう正体しょうたいあば必要ひつようはなくなった。国防こくぼうぐんつみはあまりにも圧倒的あっとうてきであるために、これ以上いじょう議論ぎろんはもはや不要ふようである」とべている<ref>Christian Hartmann: ''Wehrmacht im Ostkrieg. Front und militärisches Hinterland 1941/42.'' (= ''Quellen und Darstellungen zur Zeitgeschichte'', Band 75) Oldenbourg, München 2009, ISBN 978-3-486-58064-8, S. 790.</ref>。
2000ねんごろの研究けんきゅうでは[[ホロコースト]]においても国防こくぼうぐんなんらかのかたち関与かんよしていたことはあきらかになってきているが、「純粋じゅんすい組織そしきてき犯罪はんざい集団しゅうだん」であるかどうかについては議論ぎろん存在そんざいする{{sfn|庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|p=51}}。2009ねん、ドイツの歴史れきし {{かりリンク|クリスティアン・ハルトマン|de|Christian Hartmann (Historiker)}} は、「いわゆる『清廉せいれん潔白けっぱくな』国防こくぼうぐんという神話しんわについて、これ以上いじょう正体しょうたいあば必要ひつようはなくなった。国防こくぼうぐんつみはあまりにも圧倒的あっとうてきであるために、これ以上いじょう議論ぎろんはもはや不要ふようである」とべている<ref>Christian Hartmann: ''Wehrmacht im Ostkrieg. Front und militärisches Hinterland 1941/42.'' (= ''Quellen und Darstellungen zur Zeitgeschichte'', Band 75) Oldenbourg, München 2009, ISBN 978-3-486-58064-8, S. 790.</ref>。
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=== 出典しゅってん ===
=== 出典しゅってん ===
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== 参考さんこう文献ぶんけん ==
== 参考さんこう文献ぶんけん ==
* [[中田なかたじゅん]] [https://ci.nii.ac.jp/naid/110000079068 国防こくぼうぐん犯罪はんざい戦後せんごドイツの歴史れきし認識にんしき」] 茨城大学いばらきだいがく人文学部じんぶんがくぶ紀要きよう. 社会しゃかい科学かがく論集ろんしゅう 35, 1-18, 2001-09
* {{Cite journal|和書わしょ|author=中田なかたじゅん |date=2001-09 |url=https://rose-ibadai.repo.nii.ac.jp/records/10722 |title=国防こくぼうぐん犯罪はんざい戦後せんごドイツの歴史れきし認識にんしき |journal=茨城大学いばらきだいがく人文学部じんぶんがくぶ紀要きよう. 社会しゃかい科学かがく論集ろんしゅう |ISSN=13440160 |publisher=茨城大学いばらきだいがく人文学部じんぶんがくぶ |issue=35 |pages=1-18 |hdl=10109/2146 |doi=10.34405/00010716 |CRID=1390010292637764224 |ref=harv}}
* [[熊野くまの直樹なおき]] [https://ci.nii.ac.jp/naid/110006607022 戦後せんごドイツにおける戦争せんそう記憶きおく現在げんざい」] 法政ほうせい研究けんきゅう 73(2), 51-77, 2006-10 九州大学きゅうしゅうだいがく
* {{Cite journal|和書わしょ|author=熊野くまの直樹なおき |date=2006-10 |url=https://doi.org/10.15017/10709 |title=戦後せんごドイツにおける戦争せんそう記憶きおく現在げんざい |journal=法政ほうせい研究けんきゅう |ISSN=03872882 |publisher=九州大学きゅうしゅうだいがく法政ほうせい学会がっかい |volume=73 |issue=2 |pages=51-77 |hdl=2324/10709 |doi=10.15017/10709 |CRID=1390290699731903488 |ref={{harvid|熊野くまの|2006}}}}
* {{Cite journal|和書わしょ|author=庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|authorlink=庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|title=統一とういつドイツにおける「過去かこ」の展示てんじ歴史れきし認識にんしき--ホロコーストを中心ちゅうしんとして|journal=防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ紀要きよう|publisher=防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ|issue= 3(2)|naid=40005217718|year=2000|pages=pp.42-66|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書わしょ|author=庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう|title=統一とういつドイツにおける「過去かこ」の展示てんじ歴史れきし認識にんしき--ホロコーストを中心ちゅうしんとして|journal=防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ紀要きよう|publisher=防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ|volume=3 |issue=2 |naid=40005217718|year=2000|pages=pp.42-66|url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I5967566|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書わしょ|author=川瀬かわせ泰史やすし|authorlink=川瀬かわせ泰史やすし|title=ナチスドイツの経済けいざい回復かいふく|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110001139452|format=PDF|journal=立教りっきょう経済けいざいがく研究けんきゅう|publisher=立教大学りっきょうだいがく|issue=58(4)|naid=110001139452|year=2005|pages=pp.23-43|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書わしょ|author=川瀬かわせ泰史やすし|title=ナチスドイツの経済けいざい回復かいふく|url=https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/2915|journal=立教りっきょう経済けいざいがく研究けんきゅう|publisher=立教大学りっきょうだいがく|volume=58|issue=4|doi=10.14992/00002913|CRID=1390009224784654720|naid=110001139452|year=2005|pages=pp.23-43|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書わしょ|author=大島おおしま通義みちよし|authorlink=大島おおしま通義みちよし|title=だいさん帝国ていこくにおける軍事ぐんじ手形てがた金融きんゆう|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120005354257|format=PDF|journal=三田みた学会がっかい雑誌ざっし |publisher=慶應義塾けいおうぎじゅく経済けいざい学会がっかい|issue=79(1)|naid=120005354257|date=1986|pages=58-90|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書わしょ|author=大島おおしま通義みちよし|authorlink=大島おおしま通義みちよし|title=だいさん帝国ていこくにおける軍事ぐんじ手形てがた金融きんゆう|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234610-19860401-0058|journal=三田みた学会がっかい雑誌ざっし |publisher=慶應義塾けいおうぎじゅく経済けいざい学会がっかい|ISSN=0026-6760|date=1986-04|volume=79|issue=1|pages=58-90|doi=10.14991/001.19860401-0058|CRID=1390572244905196544|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書わしょ|author=村上むらかみ和光かずみつ|authorlink=村上むらかみ和光かずみつ|title=ナチス経済けいざい展開てんかい景気けいき変動へんどう過程かてい(した)現代げんだい資本しほん主義しゅぎろん体系たいけい(10)|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120001342298|format=PDF|journal=金沢かなざわ大学だいがく経済学部けいざいがくぶ論集ろんしゅう|publisher=金沢かなざわ大学だいがく経済学部けいざいがくぶ|issue=27(1)|naid=120001342298|year=2007|pages=pp.67-102|ref=sfn}}
* {{Cite journal|和書わしょ|author=村上むらかみ和光かずみつ|title=ナチス経済けいざい展開てんかい景気けいき変動へんどう過程かてい(した)現代げんだい資本しほん主義しゅぎろん体系たいけい(10)|url=https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/records/2881|journal=金沢かなざわ大学だいがく経済学部けいざいがくぶ論集ろんしゅう|publisher=金沢かなざわ大学だいがく経済学部けいざいがくぶ|date=2007-01|volume=27|issue=1|pages=67-102|hdl=2297/17601|CRID=1050001335926221568|ISSN=0285-4368|ref=harv}}


== 文献ぶんけん ==
== 文献ぶんけん ==

2024ねん3がつ15にち (金)きん 07:05時点じてんにおける最新さいしんばん

ドイツ国防こくぼうぐん
Wehrmacht
活動かつどう期間きかん1935ねん3がつ16にちさい軍備ぐんび)–1945ねん5がつ8にち(ドイツ国防こくぼうぐん無条件むじょうけん降伏ごうぶく
解散かいさん1946ねん8がつ20日はつか連合れんごうこく管理かんり理事りじかい命令めいれい34ごうによって解体かいたい
国籍こくせきナチス・ドイツの旗 ナチス・ドイツ
ぐんしゅ 陸軍りくぐん
海軍かいぐん
空軍くうぐん
兵力へいりょく70まんにん
(1935ねんさい軍備ぐんび) 1820まんにん
(1935ねん-1945ねんまで合計ごうけい
本部ほんぶ 国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい
標語ひょうごかみわれらととも
„Gott mit uns“
装備そうび詳細しょうさいはリストを参照さんしょう
おも戦歴せんれきスペイン内戦ないせん
だい世界せかい大戦たいせん
指揮しき
国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかんアドルフ・ヒトラー
カール・デーニッツ
国防こくぼうぐんそう司令しれいかんヴェルナー・フォン・ブロンベルク
アドルフ・ヒトラー
国防こくぼう大臣だいじんヴェルナー・フォン・ブロンベルク
カール・デーニッツ
国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうヴィルヘルム・カイテル
識別しきべつ
軍旗ぐんき(1935ねん-1938ねん
軍旗ぐんき(1938ねん-1945ねん
国籍こくせき標識ひょうしき
(1940ねん-1945ねん

くろじゅうヴェーザー演習えんしゅう作戦さくせん以後いごから陸軍りくぐん車両しゃりょう使用しようされた。

ドイツ国防こくぼうぐん(ドイツこくぼうぐん、ドイツ: Wehrmacht:ヴェーアマハトドイツ発音はつおん[ˈveːɐ̯maxt] ( 音声おんせいファイル)直訳ちょくやく: 「防衛ぼうえい軍隊ぐんたい)は、1935ねんから1945ねんにかけて存在そんざいしたナチス・ドイツ武力ぶりょく組織そしきである陸軍りくぐん海軍かいぐん空軍くうぐん三軍さんぐん総体そうたいす。ナチス・ドイツ体制たいせいにおいて、国家こっか唯一ゆいいつ武装ぶそうしゃ(Waffenträger der Nation)と規定きていされた存在そんざいである。(実際じっさいには武装ぶそう親衛隊しんえいたいなどのほか軍事ぐんじ組織そしき存在そんざいしている)

概要がいよう[編集へんしゅう]

1935ねん3がつ16にちドイツさい軍備ぐんび宣言せんげんによる徴兵ちょうへいせいさい施行しこうとともに発令はつれいされた「国防こくぼうぐん建設けんせつかんする法律ほうりつドイツ: Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht)」[1] により、旧来きゅうらい国軍こくぐんドイツ: Reichswehr )は、国防こくぼうぐん改称かいしょうされた[2][3]そう兵力へいりょくは50まんにんとなり、その多額たがく軍事ぐんじとうじられ、拡張かくちょう近代きんだいすすめられた。1939ねんポーランド侵攻しんこう直前ちょくぜん兵力へいりょくは318まんにん世界せかいでも屈指くっし規模きぼであった[4][5]だい世界せかい大戦たいせんにおいては連合れんごうこくたたかい、当初とうしょおおきな勝利しょうりおさめたが1942ねんごろから徐々じょじょ退潮たいちょうし、1945ねん5月には無条件むじょうけん降伏ごうぶくおこない、1946ねん8がつ20日はつか正式せいしき解体かいたいされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

前史ぜんし[編集へんしゅう]

国軍こくぐん時代じだい秘密ひみつさい武装ぶそう[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくしたドイツでは帝政ていせい崩壊ほうかいしたが(ドイツ革命かくめい)、陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょうヴィルヘルム・グレーナードイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうフリードリヒ・エーベルト密約みつやくむすび(エーベルト・グレーナー協定きょうていドイツばん)、共和きょうわこくへの支持しじ見返みかえりに、陸海りくかいぐん存続そんぞく保証ほしょうた。1919ねん3がつ6にちぐんvorläufige Reichswehr暫定ざんてい国軍こくぐん)として再建さいけんされた。1921ねん1がつ1にちにはReichswehr改称かいしょうしている。日本語にほんごではヴァイマル共和きょうわこく時代じだい軍隊ぐんたいであるてん強調きょうちょうして「ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん」とやくけることもあるが、Reichswehr時代じだいも「国防こくぼうぐん」と訳出やくしゅつされることがある[注釈ちゅうしゃく 1][6]。グレーナーの協定きょうていがあったにもかかわらず、ぐんないにはパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥げんすいはじめとする帝政ていせい支持しじおおく、共和きょうわせいとは一線いっせんかくした存在そんざいであった。1920ねん陸軍りくぐん統帥とうすい長官ちょうかん (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任しゅうにんしたハンス・フォン・ゼークトぐん政治せいじてき中立ちゅうりつ重点じゅうてんき、装備そうび充実じゅうじつはかった。この政党せいとうから超然ちょうぜんとしたぐんは「国家こっかない国家こっか」とばれることになる。

ヴェルサイユ条約じょうやく軍備ぐんび制限せいげん条項じょうこうによりドイツの軍隊ぐんたい陸軍りくぐん兵力へいりょくを10まんにん限定げんていされ、義務ぎむ兵役へいえき制度せいど廃止はいしされた。機構きこうめんでも参謀さんぼう本部ほんぶ陸軍りくぐんだい学校がっこう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう禁止きんしされ、軍備ぐんびでも戦車せんしゃ部隊ぶたい重火器じゅうかき禁止きんしされた。海軍かいぐん兵力へいりょくは1まん5000にん戦艦せんかん6せき巡洋艦じゅんようかん6せきおよび駆逐くちくかん12せき保有ほゆうのみがみとめられた。また、航空こうくう戦力せんりょく保持ほじ禁止きんしされた。ぐんはなれねばならなかったきゅう軍人ぐんじんちまたあふれ、社会しゃかいてき不安定ふあんてい要素ようそとなった。ぐんはヴェルサイユ条約じょうやく規制きせいをかいくぐって軍備ぐんび維持いじ向上こうじょう目論もくろんだ。参謀さんぼう本部ほんぶは「兵務へいむきょく」に偽装ぎそうして存続そんぞくさせ、将来しょうらい拡充かくじゅう見越みこして、下士官かしかん将校しょうこうレベルの教育きょういくおこなった。ドイツ義勇軍ぎゆうぐんなどに偽装ぎそうしたかたち人員じんいん確保かくほおこなった(くろ国防こくぼうぐん)。また赤軍せきぐん協力きょうりょくソ連それん国内こくない秘密裏ひみつり航空機こうくうき戦車せんしゃ化学かがくせんひとし訓練くんれん施設しせつもうけ、将来しょうらいさい軍備ぐんびへの準備じゅんびおこたらなかった[7]戦闘せんとう旅客機りょかくき戦車せんしゃ農業のうぎょうようトラクターとしょうし、郵便ゆうびん配達はいたつじん自衛じえいようとの名目めいもく小銃しょうじゅう開発かいはつ新型しんがた機関きかんじゅう火砲かほう敗戦はいせんまえとししきけて開発かいはつ時期じき偽装ぎそうするなど、軍備ぐんびととの技術ぎじゅつたかめていった。この結果けっか世界せかいはつのジェット戦闘せんとうメッサーシュミット Me262、アサルトライフルの始祖しそStG44 (突撃とつげきじゅう)はつのミサイル兵器へいきV2ロケットなど当時とうじとしては画期的かっきてき兵器へいき数多かずおおされることとなる。

ヒトラー政権せいけん軍拡ぐんかく[編集へんしゅう]

1933ねんアドルフ・ヒトラー首相しゅしょう就任しゅうにんした。ヒトラーは生存せいぞんけん確保かくほとなえ、軍事ぐんじきわめて重視じゅうししていた。2月3にちにはハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務へいむきょくちょうたくひらかれた会談かいだんde:Liebmann-Aufzeichnung)において、ぐん首脳しゅのうさい軍備ぐんび約束やくそくしている。また2がつ8にち閣議かくぎでは「あらゆる公的こうてき雇用こよう創出そうしゅつ措置そち助成じょせいは、ドイツ民族みんぞくさい武装ぶそうにとって必要ひつようかという観点かんてんから判断はんだんされるべきであり、このかんがえが、なんでも何処どこでも、中心ちゅうしんにされねばならない」「すべてを国防こくぼうぐんへということが、今後こんご4~5年間ねんかん至上しじょう原則げんそくであるべきだ」と言明げんめいするなど、ナチス時代じだい経済けいざい政策せいさくはすべて軍備ぐんび増強ぞうきょう念頭ねんとうかれたものであった[8]あらたに設置せっちされた航空こうくうしょうヘルマン・ゲーリングをトップとし、空軍くうぐん再建さいけん進行しんこうしていった。国家こっか予算よさんにおける国防こくぼうも、1932ねんには6おく3000まんライヒスマルクであったが、1933ねんには7おく4600まんライヒスマルク、1934ねんには19おく5200まんライヒスマルクと急増きゅうぞうしている[9]。さらにメフォ手形てがたなどの秘密ひみつ手段しゅだんによっても資金しきん調達ちょうたつされ、1934ねんだけでも40おく9700ライヒスマルクが軍事ぐんじとしてとうじられている[9]。1941ねん海軍かいぐん財政ざいせいきょくは1933ねん以降いこう状態じょうたい回顧かいこして、困難こんなんがなかったわけではないが、「(資金しきんは)つねにほとんど無制限むせいげん提供ていきょうされた」としている[10]

国防こくぼうぐん発足ほっそく[編集へんしゅう]

1935ねん3月16にちヴェルサイユ条約じょうやく軍備ぐんび制限せいげん条項じょうこう破棄はきさい軍備ぐんび)が宣言せんげんされると、ぐんReichswehr(ライヒスヴェア)からWehrmacht(ヴェアマハト)へと改名かいめいされる。陸軍りくぐん海軍かいぐん名称めいしょう下記かきのように改名かいめいされ、空軍くうぐん存在そんざい公式こうしきさだめられた。

  • 陸軍りくぐん - Heer(ヘーア) 旧名きゅうめいReichsheer(ライヒスヘーア)
  • 海軍かいぐん - Kriegsmarine(クリークスマリーネ) 旧名きゅうめいReichsmarine(ライヒスマリーネ)
  • 空軍くうぐん - Luftwaffe(ルフトヴァッフェ)

三軍さんぐん最高さいこう機関きかんとしては陸軍りくぐんそう司令しれい(OKH)、海軍かいぐんそう司令しれい(OKM)、空軍くうぐんそう司令しれい(OKL)が設置せっちされ、それぞれにそう司令しれいかんかれた。また陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ兵務へいむきょくから改称かいしょうして復活ふっかつした。さらに5月21にちには、所轄しょかつ官庁かんちょうである国防省こくぼうしょうドイツばん(Reichswehrministerium)は戦争せんそうしょう(Reichskriegsministerium)へと改称かいしょうされている。

国防こくぼうぐんさい編成へんせい[編集へんしゅう]

1935ねん5がつ21にちに、ぜん38じょうからなる兵役へいえきほう施行しこうされる[11]

  • だいいちじょう
    • いち兵役へいえきはドイツ民族みんぞくたいする名誉めいよある勤務きんむである。
    • 、すべてのドイツ男子だんしは、兵役へいえき義務ぎむう。
    • さん戦時せんじにおいては、兵役へいえき義務ぎむ超越ちょうえつして、すべてのドイツ男子だんしと、すべてのドイツ女子じょしは、祖国そこくのための勤務きんむについて義務ぎむう。
  • だいじょう
    • 国防こくぼうぐん武器ぶきって防衛ぼうえいするものであるとともに、ドイツ民族みんぞくかって、軍隊ぐんたいてき教育きょういくほどこすべき学校がっこうである。国防こくぼうぐんは、陸軍りくぐん海軍かいぐんおよび空軍くうぐんよりる。
  • だいさんじょう
    • いち国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかん指導しどうしゃけん首相しゅしょう(Führer und Reichskanzler)である。
    • 国防こくぼう大臣だいじんはそのしたにあって、国防こくぼうぐん高級こうきゅう指揮しきしゃとして、国防こくぼうぐんかって指揮しきけん発動はつどうする。

国防こくぼうぐん誕生たんじょうとともにさい軍備ぐんびはいよいよ公然こうぜんし、1936ねんそう軍事ぐんじは102おく7300まんライヒスマルク、1938ねんには172おく4700まんライヒスマルクにたっした。国民総生産こくみんそうせいさんたいする割合わりあいは、1936ねんで15.7%、1938ねんには21.0%にたっしている[9]

ヒトラーによる掌握しょうあく[編集へんしゅう]

ヴァイマル共和きょうわこく時代じだいから軍隊ぐんたい最高さいこう指揮しきけん国家こっか元首げんしゅ大統領だいとうりょう所在しょざいし、国防こくぼう大臣だいじん権限けんげん委託いたくする形式けいしきであった。ヒンデンブルク大統領だいとうりょう死去しきょしたのち、ヒトラーはその権限けんげんいでいた。1938ねん、ヒトラーの外交がいこう政策せいさくホスバッハ覚書おぼえがき)に反対はんたいする国防こくぼう大臣だいじんブロンベルク元帥げんすい陸軍りくぐんそう司令しれいかんフリッチュ上級じょうきゅう大将たいしょうにスキャンダルをでっちあげ、失脚しっきゃくさせた(ブロンベルク罷免ひめん事件じけん)。ヒトラーは後継こうけい大臣だいじん指名しめいせず、あらたにヴィルヘルム・カイテル総長そうちょうとする国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいもうけ、みずからはその最高さいこう司令しれいかん就任しゅうにんすることで国防こくぼうぐん三軍さんぐん直接ちょくせつ指揮しきする仕組しくみをつくった。その国防こくぼうぐんおおくはヒトラーの政策せいさく表立おもてだって反対はんたいすることはなく、1939ねんポーランド侵攻しんこうまでの外交がいこう政策せいさくはおおむね国防こくぼうぐん同意どういしていた。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1939ねん10がつ5にちワルシャワ戦勝せんしょうパレードするドイツ国防こくぼうぐん陸軍りくぐん

開戦かいせんから1941ねんごろまではすぐれた戦術せんじゅつ戦略せんりゃくで、ポーランドやフランス、ユーゴスラビア、ギリシャなど連合れんごうこく圧倒あっとうし、ヨーロッパの大半たいはんをドイツの影響えいきょうおさめた。しかし1941ねん6がつどくせん開始かいし以降いこうきびしい気候きこう赤軍せきぐんねばづよ抵抗ていこうによって次第しだい消耗しょうもうしていった。1941ねんふゆ陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ司令しれい後退こうたいもとめるようになり、退却たいきゃくゆるさないヒトラーと対立たいりつした。このときにはヒトラーの判断はんだんこうそうして戦線せんせん崩壊ほうかいまぬかれたが、ヒトラーに反対はんたいした陸軍りくぐんそう司令しれいかん参謀さんぼう総長そうちょうおおくの将軍しょうぐん更迭こうてつされた。ヒトラーはみずか陸軍りくぐんそう司令しれいかん兼任けんにんし、どくせん指揮しきつよ介入かいにゅうするようになった。1942ねんブラウ作戦さくせんはヒトラーがみずか大綱たいこうげたものであったが、攻勢こうせい不十分ふじゅうぶんわり、スターリングラード攻防こうぼうせんではおおきな損害そんがいした。また1944ねんにはノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせんにより、ドイツは東西とうざい両面りょうめん連合れんごう国軍こくぐんたたかうこととなった。

陸軍りくぐんもと参謀さんぼう総長そうちょうルートヴィヒ・ベック将軍しょうぐんらは戦前せんぜんからはんヒトラーグループ形成けいせいしており、なんもヒトラー暗殺あんさつ計画けいかくしていた。1944ねん7がつ20日はつか総統そうとう大本営だいほんえいにおいてヒトラー暗殺あんさつとそれにともなうクーデターを実行じっこうしようとした。しかしヒトラー暗殺あんさつには失敗しっぱいし、ベックらのクーデターのびかけにもほとんどの国防こくぼうぐん軍人ぐんじんしたがわなかった(7がつ20日はつか事件じけん)。事件じけんには親衛隊しんえいたい追及ついきゅう国防こくぼうぐん上層じょうそうにもおよび、エルヴィン・ロンメル元帥げんすいらといった国防こくぼうぐん軍人ぐんじん粛清しゅくせいされ、国防こくぼうぐんはいよいよヒトラーに従属じゅうぞくするようになった。戦局せんきょくはさらに悪化あっかし、1944ねんちゅうにはついにドイツ本土ほんど連合れんごうぐん侵攻しんこうした。

降伏ごうぶく解体かいたい[編集へんしゅう]

1945ねん5がつ7にちには国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい作戦さくせん部長ぶちょうアルフレート・ヨードル降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいし、5月8にちには国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうカイテルが降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめい批准ひじゅんおこなった。6月5にちベルリン宣言せんげんではこの国防こくぼうぐん降伏ごうぶくをもって、ドイツが降伏ごうぶくしたと規定きていされている。

ニュルンベルク裁判さいばんではナチとう指導しどう親衛隊しんえいたいとうとはことなり、犯罪はんざい組織そしきとしての認定にんていおこなわれなかった。1946ねん8がつ20日はつか連合れんごうこく管理かんり理事りじかい英語えいごばん発出はっしゅつした連合れんごうこく管理かんり理事りじかい命令めいれいドイツばん34ごうによってドイツ国防こくぼうぐん正式せいしき解体かいたいされた。ドイツ連邦れんぽうぐんさい編成へんせいされるのは9ねんである。

兵力へいりょく[編集へんしゅう]

1939ねんには、38師団しだん、58まんにん兵力へいりょくつ12軍団ぐんだん編成へんせいがヒトラーから要求ようきゅうされていた。予備よびやく動員どういんは1939ねん7がつと8がつおこなわれた。1939ねんまつ国防こくぼうぐんは470まんにん召集しょうしゅうしていたが、1940ねんには、ほぼ同数どうすうの410まんにんふたた召集しょうしゅうされた。人的じんてき資源しげん枯渇こかつしていたこともあり、そのすうねん半減はんげん1944ねんには130まんにんたっした。1939ねんから1945ねんあいだ合計ごうけいやく1,700まんにん以上いじょう男性だんせい召集しょうしゅうされた[12]

だい世界せかい大戦たいせんちゅうには、ドイツじん以外いがい兵士へいしとく東欧とうおうじんおおくが国防こくぼうぐん参加さんかしていた。かれらが志願しがんした理由りゆうは、そのおおくがソビエトのスターリン体制たいせい反発はんぱつするもの大半たいはんで、には、ユダヤじんボルシェヴィキによるひがしヨーロッパ支配しはいおそれていたからである(はんユダヤ主義しゅぎ蔓延まんえんしていたため、ユダヤじんとボルシェヴィキは同義どうぎとしてとらえられていた)しかし、なかには強制きょうせいてき動員どういんされた場合ばあいもあった。ソ連それん領内りょうないだけでもやく60まんにん男性だんせい補助ほじょ部隊ぶたい志願しがんしていた。義勇ぎゆう部隊ぶたいには、エストニアひとラトビアひとベラルーシひとウクライナひとロシアひとコーカサスひとなどがいた。ロシア以外いがい部隊ぶたいは「東方とうほう義勇ぎゆう部隊ぶたいドイツばん(Ostlegionen)」とばれ、ロシアじん部隊ぶたいおおくはアンドレイ・ウラソフひきいる「ロシア解放かいほうぐん」に参加さんかしていた。国防こくぼうぐんないにおける外人がいじん部隊ぶたい兵士へいし全体ぜんたいやく5%をめていたという。

1938ねん3がつオーストリアが併合へいごうされたのちオーストリアぐんドイツばん将兵しょうへいはドイツ国防こくぼうぐん編入へんにゅうされたうえでオーストリアにも徴兵ちょうへいせいかれ、ドイツ国防こくぼうぐん召集しょうしゅうされた。同盟どうめいこくのドイツけい民族みんぞくなんまんにん国防こくぼうぐん志願しがんしたが、それ以上いじょうおおかったのが武装ぶそう親衛隊しんえいたい(Waffen-SS)であった。また、11,600にんルクセンブルクひと強制きょうせい徴用ちょうようしゃやく10まんにんアルザスひと、3まんにんロレーヌひと動員どういんされた。外国がいこくじん志願しがんしゃは、インド軍団ぐんだん自由じゆうアラビア軍団ぐんだんドイツばんなどの部隊ぶたいでドイツ国防こくぼうぐん参加さんかしていた。

また、これら義勇軍ぎゆうぐんは、ドイツと同盟どうめい関係かんけいにあった東欧とうおう諸国しょこくルーマニアスロバキアクロアチアブルガリアハンガリー)の軍隊ぐんたい混同こんどうしてはいけない。どくせんにおける作戦さくせんではドイツぐん最高さいこう司令しれい指揮しきかれていたが、法的ほうてきには独立どくりつしていた。

忠誠ちゅうせい宣誓せんせい[編集へんしゅう]

ドイツぐん伝統でんとうには、忠誠ちゅうせい対象たいしょうあきらかにする忠誠ちゅうせい宣誓せんせい存在そんざいした。ヴァイマル時代じだいには「国家こっか憲法けんぽう」にたいして忠誠ちゅうせいちかうものであった。しかし、ヒトラーが首相しゅしょうとなると「民族みんぞく祖国そこく」に忠誠ちゅうせいちかうものとなり、国防こくぼうぐん成立せいりつ直前ちょくぜんには「ドイツこく民族みんぞく指導しどうしゃであり、国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかんであるアドルフ・ヒトラー」(Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, der Oberbefehlshaber der Wehrmacht)個人こじん忠誠ちゅうせいちかうようにと変更へんこうされた。

主権しゅけん紋章もんしょう[編集へんしゅう]

1935ねん5月1にち国防こくぼうぐん軍帽ぐんぼう軍服ぐんぷくみぎむねポケットのうえ主権しゅけん紋章もんしょう表示ひょうじすることめられる。軍帽ぐんぼう正章まさあきドイツこく国旗こっきしょくである「あかしろくろ」(帝政ていせい当時とうじ彩色さいしき現行げんこうくろあかきむ)を円形えんけいかたどっている(コカルデ)。ドイツ陸軍りくぐんドイツ海軍かいぐんではそのまわりをそれぞれぎんかねオークかこんでおり、ドイツ空軍くうぐんまわりをはねかたどっている。

正章まさあきうえにつくハーケンクロイツつかむ「わし」の意匠いしょうは、陸軍りくぐん海軍かいぐん武装ぶそう親衛隊しんえいたい空軍くうぐんそれぞれ若干じゃっかんことなっている。はねひろげたわし紋章もんしょうマ帝国まていこく以来いらいかみきよしマ帝国まていこく現在げんざいドイツいたるまでくにあきらでもある。

国防こくぼうぐん無罪むざいろん[編集へんしゅう]

国防こくぼうぐん無罪むざいろんとはドイツにおける、いわゆる「国防こくぼうぐん神話しんわ」の一角いっかくしており「ドイツ国防こくぼうぐん国家こっか元首げんしゅであるヒトラーの命令めいれいしたがっただけで、戦争せんそう犯罪はんざいかんする責任せきにんはない」とするものである。 これはモスクワのたたかまで陸軍りくぐん最高さいこう司令しれいかんつとめていたヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥げんすいよんめい将軍しょうぐん連名れんめいで、降伏ごうぶくニュルンベルク裁判さいばん提出ていしゅつした国防こくぼうぐん役割やくわりしめした覚書おぼえがきにそのみなもとがある。 そこではドイツ国防こくぼうぐん政治せいじてきなヒトラーの道具どうぐぎず、あくまでも国家こっか元首げんしゅ服従ふくじゅうしただけであり、またユダヤじんやスラブじんたいする残虐ざんぎゃく行為こういはあくまでもナチスとう隷下れいか親衛隊しんえいたいによっておこなわれたもので、ドイツ国防こくぼうぐんはドイツの国軍こくぐんとして通常つうじょう戦争せんそうおこなったにぎないとして、ナチズム体制たいせい国防こくぼうぐん明確めいかく分離ぶんりしていた。

西にしドイツにおいては、1950年代ねんだい同様どうよう認識にんしきしめエーリヒ・フォン・マンシュタインハインツ・グデーリアン回想かいそうがドイツで出版しゅっぱんされることでこのイメージは補強ほきょうされ、海外かいがいでもベイジル・リデル=ハートが「(国防こくぼうぐんは)ゲシュタポ親衛隊しんえいたい犯罪はんざい行為こういとは無縁むえんであった」という見方みかたあらわしている。また東西とうざいドイツにおけるさい軍備ぐんびによるきゅう国防こくぼうぐん将校しょうこうドイツ連邦れんぽうぐん西にしドイツぐんおよび国家こっか人民じんみんぐんひがしドイツぐんへの復権ふっけんがそれにをかけることとなった。7がつ20日はつか事件じけん関与かんよしたクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐たいさらが顕彰けんしょうされる一方いっぽうで、国防こくぼうぐんはプロフェッショナルな集団しゅうだんであり、政治せいじには無垢むく存在そんざいとしてとらえられていた[13]

しかし、1970ねんごろから国防こくぼうぐん戦争せんそう犯罪はんざいたいする研究けんきゅうさかんとなり、またナチズムイデオロギーとの関係かんけい研究けんきゅうされるようになった[13]ドイツさい統一とういつ1995ねんから1999ねんにかけて、ハンブルク社会しゃかい問題もんだい研究所けんきゅうじょドイツばんが「絶滅ぜつめつ戦争せんそう 国防こくぼうぐん犯罪はんざい1941~1944」とだいしたパネルてんドイツ国防こくぼうぐん展示てんじかいドイツばん)を開催かいさいした。このパネルてん国防こくぼうぐん東部とうぶ戦線せんせんにおいてユダヤじん組織そしき虐殺ぎゃくさつおこなっていたこと国防こくぼうぐんヒトラー道具どうぐではなくパートナーであったことなどが主張しゅちょうされ、ドイツ二分にぶんするはげしい論争ろんそうこした。連邦れんぽうぐんおよび連邦れんぽう国防省こくぼうしょうはこうした問題もんだい態度たいど表明ひょうめいする必要ひつようせまられ、1995ねん6がつ5にち国防こくぼうぐん展示てんじかいについて「内容ないようはややラディカルなものの、軍事ぐんじ研究所けんきゅうじょ国防省こくぼうしょう管轄かんかつ組織そしき)の研究けんきゅう成果せいかをふまえている」という評価ひょうかおこなっている[14]。また11月にはフォルカー・リューエ国防こくぼうしょうが、「国防こくぼうぐんだいさん帝国ていこく組織そしきとして、その頂点ちょうてんにおいて、部隊ぶたい兵士へいしとともにナチズムの犯罪はんざいまれた。それゆえに国防こくぼうぐんは、国家こっか機関きかんとして、いかなる伝統でんとう形作かたちづくることはできない」と国防こくぼうぐんについて批判ひはんてき姿勢しせいしめした[14]

またパネルてん論調ろんちょう国防こくぼうぐん全体ぜんたい犯罪はんざい行為こうい関与かんよしているようになっていたことは批判ひはんんだ。ヘルムート・シュミットもと首相しゅしょうは、「わたしは、事実じじつあきらかにされ、道徳どうとくてき観点かんてんから判断はんだんがなされることには賛成さんせいである。しかし、はじめから1900まんにん[15] すべてを一括いっかつして中傷ちゅうしょう、さもなくば彼等かれら子供こどもたちにあなたかたおやにはつみがあるとしんじさせるやりかたでは、展示てんじ当初とうしょ目的もくてきたすことはまった出来できない」と批判ひはんしている[16]1997ねん4がつにはドイツ連邦れんぽう議会ぎかいにおいて国防こくぼうぐん問題もんだいかんする決議けつぎおこなうごきがあった。同盟どうめい90/みどりとうは「国防こくぼうぐん国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎシステムの支柱しちゅうひとつであった。国防こくぼうぐん組織そしきとして国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎ犯罪はんざい関与かんよした」という決議けつぎあん提出ていしゅつし、ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう民主みんしゅ社会党しゃかいとう賛成さんせいたものの、ドイツキリスト教きりすときょう民主みんしゅ同盟どうめい提出ていしゅつによる「ドイツ国防こくぼうぐんへの従事じゅうじしゃたいするあらゆる一方いっぽうてき総括そうかつてき非難ひなんたいして断固だんことして反対はんたいする」という決議けつぎあん賛成さんせい多数たすう採択さいたくされた[17][18]。1995ねん8がつに『デア・シュピーゲル』がおこなった世論せろん調査ちょうさでは、46%が「国防こくぼうぐんはナチスの虐殺ぎゃくさつ行為こうい関与かんよしていた」と回答かいとうしている[19]

2000ねんごろの研究けんきゅうではホロコーストにおいても国防こくぼうぐんなんらかのかたち関与かんよしていたことはあきらかになってきているが、「純粋じゅんすい組織そしきてき犯罪はんざい集団しゅうだん」であるかどうかについては議論ぎろん存在そんざいする[13]。2009ねん、ドイツの歴史れきし クリスティアン・ハルトマンドイツばん は、「いわゆる『清廉せいれん潔白けっぱくな』国防こくぼうぐんという神話しんわについて、これ以上いじょう正体しょうたいあば必要ひつようはなくなった。国防こくぼうぐんつみはあまりにも圧倒的あっとうてきであるために、これ以上いじょう議論ぎろんはもはや不要ふようである」とべている[20]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 共和きょうわ国軍こくぐん非合法ひごうほう戦力せんりょくくろ国防こくぼうぐん」「やみ国防こくぼうぐん」(Schwarze Reichswehr)をも秘密裏ひみつり温存おんぞんしていた

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ documentArchiv.de - Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht (16.03.1935)
  2. ^ Proklamation der Reichsregierung an das deutsche Volk bezüglich der Einführung der allgemeinen Wehrpflicht vom 16. März 1935
  3. ^ Österreichische Nationalbibliothek (ÖNB): Deutsches Reichsgesetzblatt Teil I 1867–1945, S. 375
  4. ^ 歴史れきしぐんぞう欧州おうしゅう戦史せんしシリーズvol.ポーランド電撃でんげきせん
  5. ^ Karl-Heinz Janßen: Politische und militärische Zielvorstellungen. In: R.-D. Müller, H.-E. Volkmann (Hrsg. im Auftrag des MGFA): Die Wehrmacht: Mythos und Realität. Oldenbourg, München 1999, ISBN 3-486-56383-1, S. 76 f.
  6. ^ 竹本たけもと真希子まきこヴァイマル共和きょうわこく末期まっき平和へいわ運動うんどうしょ問題もんだい : オシエツキーと『ヴェルトビューネ』をめぐる裁判さいばんから」『専修せんしゅう史学しがくだい45ごう専修大学せんしゅうだいがく歴史れきし学会がっかい、2008ねん11月、1-19ぺーじCRID 1050578061483447808ISSN 0386-8958 など。
  7. ^ Groehler, Olaf (1992). Selbstmörderische Allianz : deutsch-russische Militärbeziehungen 1920-1941. Vision Verlag. pp. 44-. https://lccn.loc.gov/92211822. "Includes bibliographical references (p. 196-208)" 
  8. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 2005, p. 30.
  9. ^ a b c 村上むらかみ和光かずみつ 2007, p. 79.
  10. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 68.
  11. ^ ドイツ兵役へいえきほう(ドイツ原文げんぶん documentarchiv.de
  12. ^ Rüdiger Overmans: Deutsche militärische Verluste im Zweiten Weltkrieg. Oldenbourg, München 2004, ISBN 3-486-20028-3, S. 223 ff.
  13. ^ a b c 庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう, p. 51.
  14. ^ a b 中田なかたじゅん 2001, p. 2.
  15. ^ 当時とうじ国防こくぼうぐん従事じゅうじしゃ
  16. ^ 庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう, p. 53-54.
  17. ^ 熊野くまの 2006, p. 67.
  18. ^ 中田なかたじゅん 2001, p. 3.
  19. ^ 庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう, p. 56.
  20. ^ Christian Hartmann: Wehrmacht im Ostkrieg. Front und militärisches Hinterland 1941/42. (= Quellen und Darstellungen zur Zeitgeschichte, Band 75) Oldenbourg, München 2009, ISBN 978-3-486-58064-8, S. 790.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 濱田はまだ常二つねじりょうちょ)、『独逸どいつ軍部ぐんぶろん』、昭和しょうわ刊行かんこうかい、1943ねん
  • アラン・ブロー(ちょ)、『わし紋章もんしょうがく』、村松むらまつ つよしやく平凡社へいぼんしゃ、1994ねんISBN 4-582-48210-4

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]