(Translated by https://www.hiragana.jp/)
「加藤高明」の版間の差分 - Wikipedia コンテンツにスキップ

加藤かとう高明こうめい」のはんあいだ差分さぶん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除さくじょされた内容ないよう 追加ついかされた内容ないよう
m編集へんしゅう要約ようやくなし
編集へんしゅう要約ようやくなし
タグ: モバイル編集へんしゅう モバイルウェブ編集へんしゅう
2ぎょう: 2ぎょう:
{{政治せいじ
{{政治せいじ
| 人名じんめい = {{ruby|加藤かとう|かとう}} {{ruby|高明こうめい|たかあき}}
| 人名じんめい = {{ruby|加藤かとう|かとう}} {{ruby|高明こうめい|たかあき}}
| 各国かっこく表記ひょうき = <small>{{kyujitai|'''加藤かとう&#xe0101; 高明こうめい&#xe0101;'''}}</small>
| 画像がぞう = Takaaki Kato suit.jpg
| 画像がぞう = Takaaki Kato suit.jpg
| 画像がぞうサイズ = 220px
| 画像がぞうサイズ = 220px
41ぎょう: 42ぎょう:
}}
}}


'''加藤かとう 高明こうめい'''(かとう たかあき、[[1860ねん]][[1がつ25にち]]([[安政あんせい]]7ねん[[1がつ3にち (旧暦きゅうれき)|1がつ3にち]])- [[1926ねん]]([[大正たいしょう]]15ねん)[[1がつ28にち]])は、[[日本にっぽん]]の[[外交がいこうかん]]、[[政治せいじ]]。[[位階いかい]][[勲等くんとう]][[爵位しゃくい]]は[[せい]][[だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう|だいくん]][[伯爵はくしゃく]]。[[学位がくい]]は[[学士がくし法学ほうがく)|法学ほうがく]]([[東京大学とうきょうだいがく (1877-1886)|東京大学とうきょうだいがく]]・[[1881ねん]])。
'''加藤かとう 高明こうめい'''(かとう たかあき、{{きゅう字体じたい|'''加藤かとう&#xe0101; 高明こうめい&#xe0101;'''}}、[[1860ねん]][[1がつ25にち]]([[安政あんせい]]7ねん[[1がつ3にち (旧暦きゅうれき)|1がつ3にち]])- [[1926ねん]]([[大正たいしょう]]15ねん)[[1がつ28にち]])は、[[日本にっぽん]]の[[外交がいこうかん]]、[[政治せいじ]]。[[位階いかい]][[勲等くんとう]][[爵位しゃくい]]は[[せい]][[だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう|だいくん]][[伯爵はくしゃく]]。[[学位がくい]]は[[学士がくし法学ほうがく)|法学ほうがく]]([[東京大学とうきょうだいがく (1877-1886)|東京大学とうきょうだいがく]]・[[1881ねん]])。


[[外務がいむ大臣だいじん (日本にっぽん)|外務がいむ大臣だいじん]](だい[[だい4伊藤いとう内閣ないかく|15]]・[[だい1西園寺さいおんじ内閣ないかく|18]]・[[だい3かつら内閣ないかく|25]]・[[だい2大隈おおくま内閣ないかく|27]]だい)、[[貴族きぞくいん (日本にっぽん)|貴族きぞくいん]]議員ぎいん、[[内閣ないかく総理そうり大臣だいじん]]([[加藤かとう高明こうめい内閣ないかく|だい24だい]])などを歴任れきにんした。
[[外務がいむ大臣だいじん (日本にっぽん)|外務がいむ大臣だいじん]](だい[[だい4伊藤いとう内閣ないかく|15]]・[[だい1西園寺さいおんじ内閣ないかく|18]]・[[だい3かつら内閣ないかく|25]]・[[だい2大隈おおくま内閣ないかく|27]]だい)、[[貴族きぞくいん (日本にっぽん)|貴族きぞくいん]]議員ぎいん、[[内閣ないかく総理そうり大臣だいじん]]([[加藤かとう高明こうめい内閣ないかく|だい24だい]])などを歴任れきにんした。

2023ねん12月27にち (水)すい 00:10時点じてんにおけるはん

加藤かとうかとう こうあきらたかあき
加藤かとう󠄁 高明こうめい󠄁
加藤かとう 高明こうめい
生年月日せいねんがっぴ 1860ねん1がつ25にち
安政あんせい7ねん1がつ2にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん尾張おわりこくうみひがしぐん佐屋さた
げん愛知あいちけんあい西市さいち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1926-01-28) 1926ねん1がつ28にち(66さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう
出身しゅっしんこう 東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう
ぜんしょく 外交がいこうかんざいイギリス公使こうし
所属しょぞく政党せいとう立憲りっけん同志どうしかい →)
憲政けんせいかい
称号しょうごう せい
だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう
伯爵はくしゃく
法学ほうがく東京大学とうきょうだいがく1881ねん
配偶はいぐうしゃ 加藤かとう春路はるじ
子女しじょ 岡部おかべ悦子えつこ長女ちょうじょ
加藤かとうあつし太郎たろう次男じなん
親族しんぞく 木内きうちしげる四郎しろう義弟ぎてい
ぬさはら喜重郎きじゅうろう義弟ぎてい
おか部長ぶちょうけいむすめ婿むこ
サイン

内閣ないかく 加藤かとう高明こうめい内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1924ねん6月11にち - 1926ねん1がつ28にち
天皇てんのう 大正天皇たいしょうてんのう

日本における郵船商船規則の旗 だい16・19・26・28だい 外務がいむ大臣だいじん
内閣ないかく だい4伊藤いとう内閣ないかく
だい1西園寺さいおんじ内閣ないかく
だい3かつら内閣ないかく
だい2大隈おおくま内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1900ねん10月19にち - 1901ねん6月3にち
1906ねん1がつ7にち - 1906ねん3月3にち
1913ねん1がつ29にち - 1913ねん2がつ20日はつか
1914ねん4がつ16にち - 1915ねん8がつ10日とおか

在任ざいにん期間きかん 1915ねん8がつ10日とおか - 1926ねん1がつ28にち
テンプレートを表示ひょうじ

加藤かとう 高明こうめい(かとう たかあき、きゅう字体じたい加藤かとう󠄁 高明こうめい󠄁1860ねん1がつ25にち安政あんせい7ねん1がつ3にち)- 1926ねん大正たいしょう15ねん1がつ28にち)は、日本にっぽん外交がいこうかん政治せいじ位階いかい勲等くんとう爵位しゃくいせいだいくん伯爵はくしゃく学位がくい法学ほうがく東京大学とうきょうだいがく1881ねん)。

外務がいむ大臣だいじんだい15182527だい)、貴族きぞくいん議員ぎいん内閣ないかく総理そうり大臣だいじんだい24だい)などを歴任れきにんした。

生涯しょうがい

財界ざいかいへのあゆ

尾張おわりはん下級かきゅう藩士はんしである服部はっとり重文しげふみ久子ひさこ夫妻ふさい次男じなんとしてまれた。幼名ようみょうそうきち(そうきち)。ちち尾張おわりかいひがしぐん佐屋さや愛知あいちけん海部かいふぐん佐屋さやまち現在げんざい愛知あいちけんあい西市さいち)の代官だいかん手代てだいだった。明治めいじ5ねん1872ねん)、祖母そぼ加奈子かなこあねあいとつさきである加藤かとう養子ようしはい[1]明治めいじ7ねん(1874ねん)、叔母おばおっと裁判官さいばんかん安井やすいゆずる維新いしんまえ尾張おわりはんふね奉行ぶぎょう)のすすめでこうあきら改名かいめい[2]旧制きゅうせい愛知あいち県立けんりつだいいち中学校ちゅうがっこうげん愛知あいち県立けんりつ旭丘あさひがおか高等こうとう学校がっこう)・名古屋なごやよう学校がっこうて、明治めいじ14ねん1881ねん)7がつ東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ[注釈ちゅうしゃく 1]首席しゅせき卒業そつぎょうし、法学ほうがく学位がくい授与じゅよされた[3]。 その三菱みつびし入社にゅうしゃイギリスわたる。帰国きこくは、三菱みつびし本社ほんしゃふく支配人しはいにん地位ちいにつき、明治めいじ19ねん1886ねん岩崎いわさき弥太郎やたろうぜい夫妻ふさい長女ちょうじょ春路はるじ結婚けっこん[2]。このことからのち政敵せいてきから「三菱みつびしだい番頭ばんがしら」と皮肉ひにくられる[4]

財界ざいかいから官界かんかい政界せいかい

ロンドン公使こうし
外務がいむ大臣だいじん在任ざいにんちゅう

明治めいじ20ねん1887ねん)より官界かんかいりし[5]外相がいしょう大隈おおくま重信しげのぶ秘書官ひしょかんけん政務せいむ課長かちょうちゅうえい公使こうし歴任れきにん

明治めいじ33ねん1900ねん)にはだい4伊藤いとう内閣ないかく外相がいしょう就任しゅうにん[6]にちえい同盟どうめい推進すいしんなどに尽力じんりょくした。その東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん毎日新聞まいにちしんぶん社長しゃちょうだい1西園寺さいおんじ内閣ないかく外相がいしょう[注釈ちゅうしゃく 2]ちゅうえい公使こうしだい3かつら内閣ないかく外相がいしょう歴任れきにんする。そのあいだ衆議院しゅうぎいん議員ぎいんを2つとめ(だい7かいそう選挙せんきょ高知こうちけん郡部ぐんぶだい8かいそう選挙せんきょ神奈川かながわけん横浜よこはま[7]のち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんみことのりまかされた。

大正たいしょう2ねん1913ねん)、かつら太郎たろう主導しゅどうによる立憲りっけん同志どうしかい結成けっせい参画さんかくする。同志どうしかい成立せいりつつことなくかつら急死きゅうししたため、同志どうしかいはいったん総務そうむ合議ごうぎによる集団しゅうだん指導しどう体制たいせいをとるも、のちにとう大会たいかい加藤かとう立憲りっけん同志どうしかい総理そうり党首とうしゅ)に選出せんしゅつされた。翌年よくねんだい2大隈おおくま内閣ないかく外相がいしょうとして、だいいち世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせんたいはな21ヶ条かじょう要求ようきゅうなどに辣腕らつわんるった。大隈おおくま退陣たいじんは、同志どうしかい中正ちゅうせいかい合同ごうどうして成立せいりつした憲政けんせいかい総裁そうさいとして元老げんろう政治せいじ打破だは選挙せんきょけん拡張かくちょうをめざす[8]大隈おおくま内閣ないかく外交がいこう政策せいさくいちにぎ加藤かとうたいして、立憲りっけん政友せいゆうかい西園寺さいおんじ公望きんもちはらたかしからはことたいはな21ヶ条かじょう要求ようきゅうへの批判ひはんつよまった。

そう選挙せんきょのたびに議席ぎせきすうらすなど加藤かとうとう運営うんえい平坦へいたんみちのりではなく、「苦節くせつじゅうねん」とばれる長期ちょうき在野ざいや生活せいかつおくった[9]。1922ねん高橋たかはし内閣ないかくそう辞職じしょくさいに、後継こうけい総理そうり候補こうほとして「加藤かとう友三郎ともさぶろう辞退じたいした場合ばあいには、加藤かとう高明こうめい後継こうけい総理そうりとする」あん加藤かとうにあらずんば加藤かとう)が元老げんろう会議かいぎされたことがあったが、これをった立憲りっけん政友せいゆうかい高明こうめい組閣そかく阻止そしするため、辞退じたい決意けついしていた友三郎ともさぶろう説得せっとくして翻意ほんいさせ加藤かとう友三郎ともさぶろう内閣ないかく成立せいりつしたため政権せいけん獲得かくとくは1924ねんまでとおざかる。

組閣そかく以降いこう

帝都ていと復興ふっこう審議しんぎかい委員いいん渋沢しぶさわ栄一えいいちひだり)、伊東いとう巳代治みよじ中央ちゅうおう)と
和服わふく着用ちゃくようした加藤かとう

だい護憲ごけん運動うんどうたかまりをけただい15かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ護憲ごけんさん勢力せいりょく圧勝あっしょうしたため、清浦きようら奎吾首相しゅしょう辞意じい表明ひょうめい清浦きようら内閣ないかく退陣たいじん大命たいめい降下こうかけた加藤かとう大正たいしょう13ねん1924ねん)6がつ11にち立憲りっけん政友せいゆうかい憲政けんせいかい革新かくしん倶楽部くらぶからなる護憲ごけんさん内閣ないかくひきいる内閣ないかく総理そうり大臣だいじんとなった。加藤かとうはつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく出身しゅっしん首相しゅしょうである。選挙せんきょ公約こうやくであった普通ふつう選挙せんきょほう成立せいりつさせ[10]にち基本きほん条約じょうやく締結ていけつソ連それん国交こっこう樹立じゅりつするなど、成果せいかをあげた。しかし一方いっぽうでは共産党きょうさんとう対策たいさくから治安ちあん維持いじほう成立せいりつさせた[11]。 この法規ほうきのち言論げんろん弾圧だんあつ口実こうじつとして使つかわれ、とく戦時せんじちゅう乱用らんようされたとして治安ちあん維持いじほう反対はんたいからはつよ批判ひはんされている。一方いっぽう治安ちあん維持いじほう擁護ようごからはこの時期じき労働ろうどう運動うんどう多発たはつしており、またロシア革命かくめい影響えいきょうから普通ふつう選挙せんきょほうによって共産きょうさん主義しゅぎ爆発ばくはつてきひろがる可能かのうせいもあったことからされたもので[12]治安ちあん維持いじほうとのセットでないと普通ふつう選挙せんきょ法案ほうあん貴族きぞくいん否決ひけつされた可能かのうせいたかく、当時とうじ各国かっこく同様どうよう法規ほうきゆうしていたことからやむをぬものであったとする意見いけんもある。また、宇垣うがき軍縮ぐんしゅくられるような陸軍りくぐん軍縮ぐんしゅくすすめる一方いっぽう陸軍りくぐん現役げんえき将校しょうこう学校がっこう配属はいぞくれい公布こうふし、中等ちゅうとう学校がっこう以上いじょうにおける学校がっこう教練きょうれん創設そうせつした。

加藤かとう高明こうめい内閣ないかく高橋たかはし是清これきよ若槻わかつき禮次郎れいじろう濱口はまぐち雄幸ゆうこうぬさはら喜重郎きじゅうろういぬやしなえあつしようし、以降いこう7だい衆議院しゅうぎいん多数たすう政党せいとう内閣ないかく交互こうご組織そしきする「憲政けんせい常道じょうどう」が確立かくりつされ、この慣習かんしゅういち事件じけんまでつづいた。

晩年ばんねん

晩年ばんねん加藤かとう

翌年よくねん憲政けんせいかい政友せいゆうかいのつなぎやくであった司法しほう大臣だいじん横田よこたせんこれすけ急死きゅうしすると、政友せいゆうかい憲政けんせいかい内紛ないふんこして護憲ごけんさん連立れんりつくずれて加藤かとう内閣ないかく崩壊ほうかいする。だが、元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもちみずからがつぎ政友せいゆうかい内閣ないかく首班しゅはん期待きたいしていた横田よこたぼっするとたちまちその遺志いしみにじって護憲ごけんさん崩壊ほうかいさせた政友せいゆうかい失望しつぼうして、個人こじんてきには好意こういてきではなかった加藤かとう政権せいけん続投ぞくとうさせる決断けつだんをした。これをけて大正たいしょう14ねん1925ねん8がつ2にち加藤かとう憲政けんせいかい単独たんどくないかくとなる[注釈ちゅうしゃく 3][注釈ちゅうしゃく 4]

1926ねん1がつ22にちに、加藤かとう帝国ていこく議会ぎかいうち肺炎はいえんをこじらせてたおれ、そのまま6にちに66さいにて死去しきょ現役げんえき首相しゅしょう病死びょうし加藤かとう高明こうめいほか加藤かとう友三郎ともさぶろう大平おおひら正芳まさよし小渕おぶち恵三けいぞうのみである。このとし加藤かとうノーベルしょう推薦人すいせんにんとして渋沢しぶさわ栄一えいいちノーベル平和へいわしょう推薦すいせんした[13]墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(1ロ8-1)。

加藤かとう没後ぼつご若槻わかつき禮次郎れいじろう内閣ないかく総理そうり大臣だいじん臨時りんじ代理だいり組閣そかく大命たいめいけてだい1若槻わかつき内閣ないかく組閣そかくした。 同年どうねん1926ねんまつには大正天皇たいしょうてんのう崩御ほうぎょし、昭和しょうわへと時代じだいうつわった。

鶴舞つるまい公園こうえんないっていた加藤かとう高明こうめいぞう朝倉あさくら文夫ふみおさく

名古屋なごや昭和しょうわ鶴舞つるまい公園こうえんうちには、普通ふつう選挙せんきょほう成立せいりつ記念きねんしててられたひろしせん記念きねんだんがある。どう園内えんないには加藤かとう銅像どうぞうっていた(1928ねん建立こんりゅう)が太平洋戦争たいへいようせんそう金属きんぞく供出きょうしゅつれいによりこわされ、現在げんざい台座だいざのみがのこる。

人物じんぶつ

家族かぞく

つま岩崎いわさき弥太郎やたろう長女ちょうじょ春路はるじ[15][16][17]春路はるじとのあいだに3にん子供こどもがいる[17]長女ちょうじょ悦子えつこおか部長ぶちょうけいつま[17][18]長男ちょうなん早世そうせい[17]次男じなんあつ太郎たろう三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ三菱銀行みつびしぎんこう勤務きんむしたのち三菱みつびしけい損害そんがい保険ほけん会社かいしゃ東明とうめい火災かさい海上かいじょう保険ほけんげん日新火災海上保険にっしんかさいかいじょうほけん[注釈ちゅうしゃく 5])の取締役とりしまりやくつとめた[17]あつ太郎たろうつまもとみや内省ないせい大膳だいぜんあたま上野うえの季三すえぞうろうさんじょ[17][19]。そのため服部はっとり金太郎きんたろう長男ちょうなん服部はっとり時計とけいてんの2代目だいめ社長しゃちょうつとめた服部はっとりげんさんあつ太郎たろう義兄ぎけいにあたり[注釈ちゅうしゃく 6]もと神宮じんぐう大宮おおみやつかさ佐佐木ささき行忠ゆきただもと九州朝日放送きゅうしゅうあさひほうそう会長かいちょうだん伊能いのうあつ太郎たろう義弟ぎていにあたる[注釈ちゅうしゃく 7]新選しんせんぐみたい佐野さのななさんこれすけ母方ははかた伯父おじにあたる[17]

栄典えいてん授章じゅしょう授賞じゅしょう

位階いかい
勲章くんしょうなど
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

伝記でんき

関連かんれん作品さくひん

テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ この東京大学とうきょうだいがくのち帝国ていこく大学だいがくさら東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく現在げんざい東京大学とうきょうだいがく)になるまえ東京とうきょう大学だいがくであることに注意ちゅうい
  2. ^ 鉄道てつどう国有こくゆう反対はんたい理由りゆうにわずか2ヶ月かげつ辞任じにんしたが、実際じっさいにはにち戦争せんそう陸軍りくぐん撤兵てっぺいおそさにたいする不満ふまん健康けんこう問題もんだいもあったとされている。
  3. ^ 現代げんだいではこれを内閣ないかく改造かいぞうとみなすことがおおいが、加藤かとうはこのとき内閣ないかくそう辞職じしょくしてからあらためて度目どめ組閣そかく大命たいめいけているので、この以後いごを「だい加藤かとう内閣ないかく」とするほう合理ごうりてきである。実際じっさい1980年代ねんだいはじめごろまでは教科書きょうかしょ参考さんこう文献ぶんけんおおくが「護憲ごけんさんだいいち加藤かとう高明こうめい内閣ないかく」「憲政けんせいかい単独たんどくだい加藤かとう高明こうめい内閣ないかく」といったかたをしていたが、首相しゅしょう官邸かんていホームページができてその歴代れきだいないかく一覧いちらんだい加藤かとう内閣ないかく無視むしされた結果けっかおおくの文献ぶんけんがこれを踏襲とうしゅうすることになってしまった。なおこのあと、近衛このえ文麿ふみまろだい近衛このえないかく意見いけん衝突しょうとつした松岡まつおか洋右ようすけ外務がいむ大臣だいじんめさせるため、やはりいったん内閣ないかくそう辞職じしょくしてからあらためて組閣そかく大命たいめいけて松岡まつおかきの内閣ないかく組織そしきしているが、内閣ないかく改造かいぞう目的もくてきとしたさい組閣そかくのち内閣ないかくを、今日きょう首相しゅしょう官邸かんてい日本人にっぽんじんも、「だいさん近衛このえないかく」とんでおり、あきらかに一貫いっかんせいいている。
  4. ^ 新内しんないかく組織そしきは、主権しゅけんしゃ意思いしによるものであり、戦前せんぜんは「大命たいめい降下こうか」、戦後せんごは「内閣ないかくそう辞職じしょく」か「そう選挙せんきょによるあたらしい国会こっかい実質じっしつ衆議院しゅうぎいん構成こうせい」ののちおこなわれる。戦前せんぜん時折ときおり、この内閣ないかくそう辞職じしょくにあたるぜん閣僚かくりょう辞表じひょうりまとめての提出ていしゅつがされており、しかしその都度つど受理じゅりされずに却下きゃっかさせることもおおかった。加藤かとう高明こうめい内閣ないかくにおいては、支持しじ基盤きばん瓦解がかい理由りゆうであり、一旦いったんはその後継こうけい検討けんとうがなされ、大命たいめいさい降下こうかされていることからも、べつあたらしいだい内閣ないかくとしたほう合理ごうりてきであるが、大命たいめいさい降下こうかのち辞表じひょうもどしをしており、親任しんにんしき交替こうたいした3閣僚かくりょうしかおこなわれていない。教科書きょうかしょ歴史れきし関連かんれん専門せんもんしょだい内閣ないかくあつかいをしたものはおおかったが、あくまで手続てつづてきには内閣ないかく改造かいぞうにあたるとかんがえて問題もんだいはない。よく近衛このえないかくだいだいさんちがいと比較ひかくされるが、このさい辞表じひょうもどしがおこなわれておらず、再度さいど首相しゅしょう拝命はいめいあつかいとなっているので、事務じむてきにはあきらかにちがいがしょうじる。
  5. ^ 日新火災にっしんかさい2014ねん平成へいせい26ねん現在げんざい東京とうきょう海上かいじょうホールディングス傘下さんかなので東京とうきょう海上かいじょう日動にちどう火災かさい保険ほけん同様どうよう三菱みつびしグループ損害そんがい保険ほけん会社かいしゃである。
  6. ^ げんさんつま英子えいこ上野うえの次女じじょである[19]
  7. ^ 佐佐木ささきつま米子よなご上野うえのよんじょであり、だんつま美智子みちこ上野うえのじょである[19]
  8. ^ 加藤かとうが、ちゅうえい大使たいしだった明治めいじ末期まっきに『時事新報じじしんぽう』に連載れんさいした匿名とくめいでの著作ちょさくとどこおえい偶感ぐうかん』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2015ねん)の解説かいせつ担当たんとうした。

出典しゅってん

  1. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 24ぺーじ、26ぺーじ
  2. ^ a b 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 24ぺーじ
  3. ^ アジア歴史れきし資料しりょうセンターレファレンスコードA07062200000
  4. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 15ぺーじ
  5. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 5ぺーじ、24-25ぺーじ
  6. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 5ぺーじ、25ぺーじ
  7. ^ 伊藤いとう伝記でんき加藤かとう高明こうめい 下巻げかん』「加藤かとうはく年譜ねんぷ」8ぺーじ
  8. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 5ぺーじ、26ぺーじ
  9. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 26ぺーじ
  10. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 27ぺーじ
  11. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 32-33ぺーじ
  12. ^ 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 32ぺーじ
  13. ^ Nomination Database I Kato Takaaki”. Official web site of the Nobel Prize. 2015ねん1がつ28にち閲覧えつらん
  14. ^ 伊藤いとうゆう元老げんろう 西園寺さいおんじ公望きんもち 古希こきからの挑戦ちょうせん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん新書しんしょ〉、2007ねんISBN 4166606093、208ぺーじ
  15. ^ 佐藤さとう門閥もんばつ』 262-263ぺーじ、270ぺーじ
  16. ^ かみねやばつ』 400ぺーじ
  17. ^ a b c d e f g 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 22』 26ぺーじ
  18. ^ 佐藤さとう門閥もんばつ』 262-265ぺーじ、276ぺーじ
  19. ^ a b c 佐藤さとう門閥もんばつ』 449-451ぺーじ
  20. ^ 官報かんぽうだい1976ごう叙任じょにん及辞れい」1890ねん2がつ3にち
  21. ^ 官報かんぽうだい2776ごう叙任じょにん及辞れい」1892ねん9がつ27にち
  22. ^ 官報かんぽうだい3388ごう叙任じょにん及辞れい」1894ねん10がつ11にち
  23. ^ 官報かんぽうだい4989ごう叙任じょにん及辞れい」1900ねん2がつ21にち
  24. ^ 官報かんぽうだい8251ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん12月21にち
  25. ^ 官報かんぽうだい174ごう叙任じょにん及辞れい」1913ねん3がつ1にち
  26. ^ a b 官報かんぽうだい4026ごう叙任じょにん及辞れい」1926ねん1がつ28にち
  27. ^ 官報かんぽうだい1935ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月9にち
  28. ^ 官報かんぽうだい3704ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん11月1にち
  29. ^ 官報かんぽうだい4487ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん6がつ16にち
  30. ^ 官報かんぽうだい5848ごう叙任じょにん及辞れい」1902ねん12月29にち
  31. ^ 官報かんぽうだい8454ごう叙任じょにん及辞れい」1911ねん8がつ25にち
  32. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  33. ^ 官報かんぽうだい1187ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ15にち
  34. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  35. ^ 官報かんぽうだい4301ごう叙任じょにん及辞れい」1897ねん10がつ30にち
  36. ^ 官報かんぽうだい7200ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん7がつ1にち
  37. ^ 官報かんぽうだい8502ごう叙任じょにん及辞れい」1911ねん10がつ21にち

参考さんこう文献ぶんけん

関連かんれん項目こうもく

外部がいぶリンク

公職こうしょく
先代せんだい
清浦きようら奎吾
日本の旗 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だい24だい:1924ねん6がつ11にち - 1926ねん1がつ28にち
次代じだい
若槻わかつき禮次郎れいじろう
先代せんだい
青木あおき周蔵しゅうぞう
小村こむら壽太郎じゅたろう
かつら太郎たろう
牧野まきのしんあきら
日本の旗 外務がいむ大臣だいじん
だい15だい:1900ねん10がつ19にち - 1901ねん6がつ2にち
だい18だい:1906ねん1がつ7にち - どう3がつ3にち
だい25だい:1913ねん1がつ29にち - どう2がつ20日はつか
だい27だい:1914ねん4がつ16にち - 1915ねん8がつ10日とおか
次代じだい
曾禰あらすけ
西園寺さいおんじ公望きんもち
牧野まきのしんあきら
大隈おおくま重信しげのぶ
とうしょく
先代せんだい
結成けっせい
憲政けんせいかい総裁そうさい
初代しょだい : 1916ねん - 1926ねん
次代じだい
若槻わかつき禮次郎れいじろう
先代せんだい
結成けっせい
立憲りっけん同志どうしかい総理そうり
初代しょだい : 1913ねん - 1916ねん
次代じだい
憲政けんせいかい
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
伯爵はくしゃく
加藤かとう高明こうめい初代しょだい
1926ねん
次代じだい
加藤かとうあつし太郎たろう
先代せんだい
陞爵
子爵ししゃく
加藤かとう高明こうめい初代しょだい
1916ねん - 1926ねん
次代じだい
陞爵
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
加藤かとう高明こうめい初代しょだい
1911ねん - 1916ねん
次代じだい
陞爵