アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の独立 どくりつ (アメリカがっしゅうこくのどくりつ)あるいはアメリカ革命 かくめい (アメリカかくめい、英 えい : American Revolution )、アメリカ独立 どくりつ 革命 かくめい (アメリカどくりつかくめい、英 えい : American Independence Revolution )とは、18世紀 せいき 後半 こうはん に北 きた アメリカ の13植民 しょくみん 地 ち が結束 けっそく して宗主 そうしゅ 国 こく であるイギリス(グレートブリテン王国 おうこく ) の植民 しょくみん 地 ち 政策 せいさく に抵抗 ていこう し、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう を経 へ て、当時 とうじ までほとんど常識 じょうしき であった君主 くんしゅ 制 せい を離 はな れて、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく という共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか を成立 せいりつ させた一連 いちれん の出来事 できごと のことである。その後 ご のフランス革命 かくめい などにも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
この期間 きかん の中心 ちゅうしん となる出来事 できごと は、1775年 ねん から1783年 ねん のアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう であり、さらにその中 なか でも1776年 ねん のアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん と1781年 ねん のヨークタウンの戦 たたか いにおけるアメリカ軍 ぐん の勝利 しょうり が特筆 とくひつ に値 あたい する。
フランス はアメリカの愛国 あいこく 派 は 達 いたる に金 かね と武器 ぶき を供給 きょうきゅう し、イギリスに対 たい する同盟 どうめい を結成 けっせい し、陸軍 りくぐん と海軍 かいぐん を派遣 はけん 。ヨークタウンの戦 たたか いで戦争 せんそう 自体 じたい を終 お わらせ、独立 どくりつ 戦争 せんそう の鍵 かぎ となる役割 やくわり を演 えん じた。しかし、アメリカ人 じん は啓蒙 けいもう 思想 しそう 哲学 てつがく 者 しゃ の考 かんが え方 かた の影響 えいきょう を強 つよ く受 う け、絶対 ぜったい 君主 くんしゅ 制 せい に反対 はんたい していたので、フランス王政 おうせい をアメリカ政府 せいふ のモデルにはしなかった。
アメリカの独立 どくりつ は、アメリカの大衆 たいしゅう に受 う け入 い れられた新 あたら しい共和 きょうわ 制 せい 思想 しそう のような初期 しょき アメリカ社会 しゃかい で起 お こった一連 いちれん の広 ひろ く知的 ちてき かつ社会 しゃかい 的 てき 変化 へんか を伴 ともな った。植民 しょくみん 地 ち においては、政府 せいふ における民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の役割 やくわり について鋭 するど い政治 せいじ 的 てき 議論 ぎろん があった。アメリカの共和 きょうわ 制 せい への移行 いこう と段階 だんかい 的 てき な民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の拡大 かくだい とは、伝統 でんとう 的 てき な社会 しゃかい 階層 かいそう に混乱 こんらん をもたらし、アメリカの政治 せいじ 的 てき 価値 かち 観 かん の中核 ちゅうかく となる倫理 りんり 観 かん を創 つく った[2] 。
独立 どくりつ への動 うご きは、フランスからの軍事 ぐんじ 的 てき 脅威 きょうい が無 な くなった1763年 ねん に始 はじ まったと言 い うことができる。イギリスは植民 しょくみん 地 ち を防衛 ぼうえい する替 か わりに、植民 しょくみん 地 ち がそれに応 おう じた費用 ひよう を支払 しはら うべきという考 かんが えに立 た ち、一連 いちれん の税金 ぜいきん を課 か したが、これが不人気 ふにんき だった。また、植民 しょくみん 地 ち からは自分 じぶん 達 たち の選 えら んだ代表 だいひょう がイギリスの議会 ぎかい に出 で て発言 はつげん する権利 けんり が無 な かったので、押 お しつけられた税法 ぜいほう などの法律 ほうりつ は無効 むこう だ と考 かんが えた。ボストン で抗議 こうぎ 行動 こうどう を起 お こすと、イギリスは軍隊 ぐんたい を送 おく って封 ふう じようとし、植民 しょくみん 地 ち 側 がわ は民兵 みんぺい を結集 けっしゅう して1775年 ねん に戦 たたか いが始 はじ まった。アメリカ人 じん の中 なか にも王 おう 党派 とうは が15ないし20%はいたと考 かんが えられるが、戦争 せんそう を通 つう じて独立 どくりつ 勢力 せいりょく が領土 りょうど の80ないし90%を支配 しはい し続 つづ けた。イギリス軍 ぐん は幾 いく つかの港湾 こうわん 都市 とし を奪 だつ るだけに留 とど まった。
1776年 ねん 、13植民 しょくみん 地 ち の代表 だいひょう が会 かい して全会 ぜんかい 一致 いっち でアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん を採択 さいたく し、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を設立 せつりつ した。1778年 ねん にはアメリカとフランスの同盟 どうめい が成立 せいりつ し、陸軍 りくぐん も海軍 かいぐん も同等 どうとう な兵力 へいりょく となった。1778年 ねん のサラトガの戦 たたか い と1781年 ねん のヨークタウンの戦 たたか いで2つのイギリス軍 ぐん 大 だい 部隊 ぶたい が降伏 ごうぶく し、1783年 ねん のパリ条約 じょうやく で和平 わへい がなった。アメリカは、北 きた はイギリス領 りょう カナダ と、南 みなみ はスペイン領 りょう フロリダ と接 せっ し、西 にし はミシシッピー川 がわ を境界 きょうかい とする広大 こうだい な国 くに となった。
独立 どくりつ 前 まえ の13植民 しょくみん 地 ち (桃色 ももいろ )
アメリカ独立 どくりつ の原因 げんいん [ 編集 へんしゅう ]
代表 だいひょう なくして課税 かぜい なし[ 編集 へんしゅう ]
1763年 ねん までにイギリスは北 きた アメリカ の広大 こうだい な領土 りょうど を獲得 かくとく した。13植民 しょくみん 地 ち に加 くわ えて22の小 ちい さな植民 しょくみん 地 ち が本国 ほんごく から指名 しめい された総督 そうとく によって直接 ちょくせつ 治 おさ められていた。七 なな 年 ねん 戦争 せんそう (アメリカではフレンチ・インディアン戦争 せんそう )の勝利 しょうり により、イギリスはヌーベルフランス (カナダ)、スペイン領 りょう フロリダ およびミシシッピ川 がわ から東 ひがし の先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の土地 とち を獲得 かくとく した。1765年 ねん 、植民 しょくみん 地 ち の者 もの 達 たち はイギリス本国 ほんごく の住民 じゅうみん が持 も つもの同 おな じ歴史 れきし 的 てき な権利 けんり と義務 ぎむ の下 した に、イギリス王室 おうしつ に忠実 ちゅうじつ な臣民 しんみん であると考 かんが えていた[3] 。
イギリス政府 せいふ は七 なな 年 ねん 戦争 せんそう でフランスから北 きた アメリカを守 まも り抜 ぬ いたことで、それに要 よう した費用 ひよう を払 はら うために植民 しょくみん 地 ち の住人 じゅうにん に課税 かぜい することを決 き めた。植民 しょくみん 地 ち の者 もの 達 たち にとって税金 ぜいきん が高 たか いことは問題 もんだい ではなかった(事実 じじつ 税率 ぜいりつ は低 ひく く、イギリス本国 ほんごく の市民 しみん が払 はら っていた税金 ぜいきん と比 くら べれば特 とく に低 ひく かった)。植民 しょくみん 地 ち の代表 だいひょう がイギリス議会 ぎかい で発言 はつげん する権利 けんり がないまま、新税 しんぜい についても植民 しょくみん 地 ち に何 なん の前 まえ もっての相談 そうだん も無 な かったことが問題 もんだい だった。「代表 だいひょう なくして課税 かぜい なし 」という言葉 ことば が多 おお くのアメリカ人 じん 社会 しゃかい で囁 ささや かれるようになった。イギリスは植民 しょくみん 地 ち 人 じん が「事実 じじつ 上 じょう 」代表 だいひょう を送 おく っているとの論法 ろんぽう であったが、大半 たいはん の植民 しょくみん 地 ち 人 じん は、本国 ほんごく の人間 にんげん は植民 しょくみん 地 ち で必要 ひつよう とされていることや置 お かれている状況 じょうきょう について何 なに も知 し らないので、植民 しょくみん 地 ち を代表 だいひょう しているわけではないとして、本国 ほんごく の考 かんが え方 かた を拒絶 きょぜつ した[4] 。
イギリスは理論 りろん 上 じょう 、帝国 ていこく に利益 りえき をもたらすものは何 なん でも(および他 た の帝国 ていこく に損失 そんしつ を与 あた えるものは)良 よ い政策 せいさく であるという、重 じゅう 商 しょう 主義 しゅぎ の原理 げんり に従 したが った海洋 かいよう 法 ほう により、植民 しょくみん 地 ち の経済 けいざい を牛耳 ぎゅうじ っていた。植民 しょくみん 地 ち 貿易 ぼうえき は英国 えいこく 籍 せき の船籍 せんせき だけに限定 げんてい された。この法 ほう には抜 ぬ け道 みち が多 おお かったが長 なが い間 あいだ 見過 みす ごされてきた。しかし、際限 さいげん の無 な い差押 さしおさえ 状 じょう を利用 りよう してこの法 ほう の厳格 げんかく な運用 うんよう が実行 じっこう に移 うつ された。1761年 ねん 、マサチューセッツ の弁護士 べんごし ジェイムズ・オーティス は、イギリスの憲法 けんぽう で保障 ほしょう されるはずの植民 しょくみん 地 ち 人 じん の権利 けんり を差押 さしおさえ 状 じょう が侵害 しんがい していると主張 しゅちょう した。オーティスは訴訟 そしょう に敗 やぶ れたが、ジョン・アダムズ は後 のち に「アメリカの独立 どくりつ はあの時 とき 、あの場 ば で生 う まれた」と書 か き残 のこ した。
1762年 ねん 、バージニア の弁護士 べんごし パトリック・ヘンリー はバージニアで「人 ひと の大義 たいぎ 」を論 ろん じた。バージニアの議会 ぎかい は法律 ほうりつ を通 とお すが、それには国王 こくおう も投票 とうひょう 権 けん があった。ヘンリーは「国王 こくおう が有益 ゆうえき な性格 せいかく の法 ほう を許可 きょか しないことで、人民 じんみん の父 ちち であることから専制 せんせい 者 しゃ に堕落 だらく し、忠実 ちゅうじつ な臣民 しんみん に対 たい する全 すべ ての権利 けんり を失 うしな う」と言 い った[5] 。
印紙 いんし 法 ほう に対 たい する植民 しょくみん 地 ち の抗議 こうぎ の輪 わ 1765年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1764年 ねん イギリス議会 ぎかい は砂糖 さとう 法 ほう と通貨 つうか 法 ほう を成立 せいりつ させ、植民 しょくみん 地 ち 人 じん をさらに当惑 とうわく させることになった。これに対 たい する抗議 こうぎ として組織 そしき 的 てき なイギリス製品 せいひん のボイコット が行 おこな われた。イギリスは同 おな じ年 ねん に「宿営 しゅくえい 法 ほう 」を通 とお すことにより植民 しょくみん 地 ち 人 じん に追 お い打 う ちを掛 か けた。これはイギリスの兵隊 へいたい は特定 とくてい 地域 ちいき の住民 じゅうみん によって世話 せわ されるべきものとしていた。1765年 ねん に成立 せいりつ した印紙 いんし 法 ほう はイギリスから植民 しょくみん 地 ち に課 か された最初 さいしょ の直接 ちょくせつ 税 ぜい であった。新聞 しんぶん 、年鑑 ねんかん 、パンフレットおよび公的 こうてき 文書 ぶんしょ などの印刷物 いんさつぶつ は、それがトランプ の札 さつ であっても印紙 いんし を貼 は ることが求 もと められた。13植民 しょくみん 地 ち 全 すべ てが激烈 げきれつ な抗議 こうぎ をし、バージニアのパトリック・ヘンリーやマサチューセッツのジェイムズ・オーティスのような人気 にんき のある指導 しどう 者 しゃ が大衆 たいしゅう を反対 はんたい 意見 いけん でまとめた。「自由 じゆう の息子 むすこ 達 たち 」と呼 よ ばれる秘密 ひみつ 結社 けっしゃ が多 おお くの町 まち で作 つく られ、印紙 いんし を売 う ろうとすれば暴力 ぼうりょく を使 つか って脅 おど したので、誰 だれ も法 ほう に従 したが わなかった。ボストン の自由 じゆう の息子 むすこ 達 たち は副 ふく 海事 かいじ 裁判所 さいばんしょ の記録 きろく 文書 ぶんしょ を焼 や き、首席 しゅせき 判事 はんじ トマス・ハッチンソン の優美 ゆうび な屋敷 やしき を略奪 りゃくだつ した。幾 いく つかの植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ が共同 きょうどう 行動 こうどう を提案 ていあん し、1765年 ねん 10月 がつ にニューヨーク市 し で開催 かいさい された印紙 いんし 法 ほう 会議 かいぎ には9つの植民 しょくみん 地 ち から代表 だいひょう が集 あつ まった。中庸 ちゅうよう 派 は のジョン・ディキンソン が「権利 けんり と不満 ふまん の宣言 せんげん 」を書 か き上 あ げ、代表 だいひょう なくして議会 ぎかい を通 とお した課税 かぜい 案 あん が古代 こだい からの権利 けんり を侵 おか していると主張 しゅちょう した。議論 ぎろん の重点 じゅうてん はイギリス製品 せいひん のボイコットにおかれ、植民 しょくみん 地 ち の輸入 ゆにゅう 高 だか は1764年 ねん の225万 まん ポンドから1765年 ねん の194万 まん ポンドに減 へ った。ロッキンガム 内閣 ないかく が権力 けんりょく を握 にぎ っていたイギリス議会 ぎかい では、印紙 いんし 法 ほう を廃案 はいあん にするか、あるいは強制 きょうせい するために軍隊 ぐんたい を送 おく るかという議論 ぎろん になった。ベンジャミン・フランクリン が雄弁 ゆうべん にアメリカの事情 じじょう を語 かた った。植民 しょくみん 地 ち はフランスと先住民 せんじゅうみん に対 たい する一連 いちれん の戦争 せんそう で、イギリス帝国 ていこく の防衛 ぼうえい のために兵力 へいりょく 、金 かね を提供 ていきょう し、そして血 ち を流 なが した、その戦争 せんそう の費用 ひよう を払 はら うために税金 ぜいきん を課 か されることは不公平 ふこうへい であり、反乱 はんらん を呼 よ ぶことになると論 ろん じた。議会 ぎかい は法 ほう の撤廃 てっぱい に同意 どうい したが、1766年 ねん の「宣言 せんげん 法 ほう 」により「如何 いか なる場合 ばあい も」イギリス議会 ぎかい は植民 しょくみん 地 ち の法 ほう を作 つく る絶対 ぜったい 的 てき な権利 けんり を保有 ほゆう すると主張 しゅちょう した[5] 。
1770年 ねん 3月5日 にち 、ボストンで群衆 ぐんしゅう が集 あつ まって一 いち 群 ぐん のイギリス兵 へい を取 と り囲 かこ んだ。群衆 ぐんしゅう の脅 おど しはその程度 ていど を増 ま していき、雪 ゆき 玉 だま や瓦礫 がれき を兵士 へいし に投 な げつけ始 はじ めた。混乱 こんらん の中 なか でほとんど全員 ぜんいん の兵士 へいし が群衆 ぐんしゅう に向 む かって発砲 はっぽう した。11名 めい が撃 う たれそのうち5名 めい が死亡 しぼう した。
この出来事 できごと は直 す ぐにボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん とよばれるようになった。虐殺 ぎゃくさつ の詳細 しょうさい が誇大 こだい に広 ひろ く伝 つた えられ植民 しょくみん 地 ち 人 じん の間 あいだ に反 はん 英 えい 感情 かんじょう が広 ひろ まった。この事件 じけん は特 とく にマサチューセッツにおけるイギリスと植民 しょくみん 地 ち の間 あいだ の関係 かんけい を負 まけ の循環 じゅんかん に巻 ま き込 こ んでいった。
1767年 ねん 、イギリス政府 せいふ はタウンゼンド諸法 しょほう を通 とお した。これは紙 かみ 、ガラスおよび茶 ちゃ を含 ふく む日用 にちよう 必需 ひつじゅ 品 ひん に対 たい する課税 かぜい を定 さだ めたものだった。植民 しょくみん 地 ち 人 じん は増税 ぞうぜい に怒 いか りイギリス製品 せいひん のボイコットを強 つよ めた。1773年 ねん 、サミュエル・アダムズ に指導 しどう されインディアン・モホーク族 ぞく の扮装 ふんそう をした一群 いちぐん の男 おとこ 達 たち がイギリスの茶 ちゃ を運 はこ んできた船 ふね に乗 の り移 うつ り、1万 まん ポンドと見積 みつ もられた茶 ちゃ を船 ふね から海 うみ に投 な げ捨 す てた。この事件 じけん はボストン茶会 ちゃかい 事件 じけん と呼 よ ばれるようになるが、アメリカの愛国 あいこく 者 しゃ の伝承 でんしょう で重要 じゅうよう な位置付 いちづ けとなった。ただし、このときの茶 ちゃ 税 ぜい は1シリングから3ペンスに下 さ げられたもので、決 けっ して税率 ぜいりつ 上 あ げではなかった。ことの根源 こんげん は、1773年 ねん 5月に定 さだ めた茶 ちゃ 法 ほう で、イギリスが東 ひがし インド会社 かいしゃ の救済 きゅうさい のために茶 ちゃ の輸入 ゆにゅう を独占 どくせん し、密 みつ 貿易 ぼうえき を禁 きん じたことであった。
イギリス政府 せいふ は「耐 た え難 がた き諸法 しょほう 」として知 し られる幾 いく つかの法律 ほうりつ を成立 せいりつ させて対抗 たいこう した。この中 なか には、その商品 しょうひん が破壊 はかい された茶 ちゃ 商人 しょうにん を植民 しょくみん 地 ち が確認 かくにん するまでボストン港 こう を封鎖 ふうさ するという処置 しょち が含 ふく まれていた。言 い うまでもなく、これら耐 た え難 がた き諸法 しょほう はイギリスに対 たい する植民 しょくみん 地 ち の世論 せろん を悪化 あっか させるだけであった。
自由 じゆう 主義 しゅぎ と共和 きょうわ 主義 しゅぎ [ 編集 へんしゅう ]
ジョン・ロック の自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき 考 かんが え方 かた は独立 どくりつ 革命 かくめい の政治 せいじ 的 てき 根拠 こんきょ に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼした。例 たと えば、ロックの「社会 しゃかい 契約 けいやく 論 ろん 」は、国 くに の指導 しどう 者 しゃ がイギリス人 じん の歴史 れきし ある権利 けんり を踏 ふ みにじった場合 ばあい には、人々 ひとびと は指導 しどう 者 しゃ を打倒 だとう する自然 しぜん の権利 けんり があるとしていた。歴史 れきし 家 か によっては、アメリカにおけるジャン=ジャック・ルソー の影響 えいきょう を見出 みいだ す者 もの もいる[6] 。州 しゅう や国家 こっか の憲法 けんぽう を書 か くときに、アメリカ人 じん はモンテスキュー のイギリスの憲法 けんぽう に関 かん する理想 りそう 的 てき にバランスされているという分析 ぶんせき を用 もち いた。
独立 どくりつ 革命 かくめい を推進 すいしん した力 ちから は「共和 きょうわ 主義 しゅぎ 」と呼 よ ばれる政治 せいじ 理論 りろん をアメリカ人 じん が持 も っていたことであり、1775年 ねん の植民 しょくみん 地 ち で圧倒的 あっとうてき な力 ちから を持 も った。イギリスの「土地 とち に根差 ねざ した党派 とうは 」は政治 せいじ 腐敗 ふはい を恐 おそ れることを強調 きょうちょう してイギリス政府 せいふ を批判 ひはん していたが、アメリカの政治 せいじ 家 か にも影響 えいきょう を与 あた えた。植民 しょくみん 地 ち 人 じん は奢侈 しゃし で世襲 せしゅう される貴族 きぞく 階級 かいきゅう の「政府 せいふ 」に慣 な れていたが、これを徐々 じょじょ に非難 ひなん するようになった。政治 せいじ 腐敗 ふはい が考 かんが えられる最大 さいだい の悪 あく であり、市民 しみん の美徳 びとく は個人 こじん 的 てき な欲望 よくぼう よりも公的 こうてき な義務 ぎむ を前面 ぜんめん に押 お し出 だ すために要求 ようきゅう された。男 おとこ は国 くに のために戦 たたか う公的 こうてき な義務 ぎむ があった。女性 じょせい には「共和 きょうわ 制 せい の母 はは 」であることが理想 りそう となり、アビゲイル・アダムズやマーシー・オーティス・ウォーレンによって実行 じっこう された。共和 きょうわ 制 せい の女性 じょせい の最初 さいしょ の義務 ぎむ は子供 こども 達 たち に共和 きょうわ 制 せい の価値 かち 観 かん を教 おし えることであり、贅沢 ぜいたく や見栄 みえ を避 さ けることであった。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 建国 けんこく の父 ちち と呼 よ ばれるサミュエル・アダムズ、パトリック・ヘンリー、トマス・ペイン 、ベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントン 、トーマス・ジェファーソン およびジョン・アダムズは共和 きょうわ 主義 しゅぎ の強 つよ い主唱 しゅしょう 者 しゃ であった[7] 。
西部 せいぶ の土地 とち 紛争 ふんそう [ 編集 へんしゅう ]
イギリスは1763年 ねん 宣言 せんげん でアパラチア山脈 さんみゃく を越 こ えての植民 しょくみん 地 ち 人 じん の進出 しんしゅつ を規制 きせい していた。それにもかかわらず開拓 かいたく 者 しゃ 集団 しゅうだん が西部 せいぶ への移住 いじゅう を続 つづ けた。宣言 せんげん は間 ま もなく修正 しゅうせい され開拓 かいたく 者 しゃ に対 たい する障害 しょうがい とはならなくなったが、宣言 せんげん が発行 はっこう されたことと、自分 じぶん 達 たち には何 なん の相談 そうだん も無 む く書 か かれたということが植民 しょくみん 地 ち 人 じん の怒 いか りを買 か った。1774年 ねん のケベック法 ほう はケベック の境界 きょうかい をオハイオ川 がわ まで伸 の ばし、13植民 しょくみん 地 ち の要求 ようきゅう を拒絶 きょぜつ するものだった。しかし、この時 とき までに植民 しょくみん 地 ち 人 じん はイギリスの新 あたら しい法律 ほうりつ をほとんど無視 むし するようになった。開拓 かいたく 者 しゃ 達 たち は民兵 みんぺい を鍛 きた え、戦争 せんそう の準備 じゅんび をしていた[8] 。
危機 きき 1772年 ねん -1775年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ガスペー号 ごう の焼 や き討 う ち
ボストン茶会 ちゃかい 事件 じけん アメリカの独立 どくりつ には多 おお くの原因 げんいん があったが、一連 いちれん の出来事 できごと が最終 さいしゅう 的 てき には戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ の引 ひ き金 がね になった[9] 。1772年 ねん 6月 がつ 、ガスペー事件 じけん が起 お こった。不人気 ふにんき な貿易 ぼうえき 規制 きせい を活発 かっぱつ に強制 きょうせい する活動 かつどう を行 おこな っていたイギリスの艦船 かんせん ガスペー号 ごう がアメリカの愛国 あいこく 者 しゃ によって燃 も やされた。その後 ご 直 す ぐに、マサチューセッツのトマス・ハッチンソン知事 ちじ は、知事 ちじ と判事 はんじ がロンドンから直接 ちょくせつ 給与 きゅうよ が払 はら われていることを報告 ほうこく したが、これは植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい を無視 むし するものであった。1772年 ねん 遅 おそ く、サミュエル・アダムズは13植民 しょくみん 地 ち 全体 ぜんたい を繋 つな ぐ通信 つうしん 委員 いいん 会 かい を新 あたら しく作 つく り、革命 かくめい 勢力 せいりょく の政府 せいふ となる枠組 わくぐ みを作 つく った。1773年 ねん 早 はや く、最大 さいだい の植民 しょくみん 地 ち であるバージニアがその通信員 つうしんいん 会 かい を創設 そうせつ し、パトリック・ヘンリーやトーマス・ジェファーソンが任務 にんむ にあたった[10] 。
植民 しょくみん 地 ち 人 じん のいわゆる「耐 た え難 がた き諸法 しょほう 」は、イギリス議会 ぎかい が法制 ほうせい 化 か した4つの法律 ほうりつ からできていた[11] 。1つ目 め は「マサチューセッツ統制 とうせい 法 ほう 」であり、マサチューセッツに対 たい する特許 とっきょ を修正 しゅうせい し、町 まち の集会 しゅうかい を制限 せいげん した。2つ目 め は「司法 しほう 管理 かんり 法 ほう 」であり、イギリス兵 へい が法廷 ほうてい に召喚 しょうかん されるとしても植民 しょくみん 地 ち ではなく、イギリス本国 ほんごく の法廷 ほうてい でということにされた。3つ目 め は「ボストン港 こう 法 ほう 」であり、ボストン茶会 ちゃかい 事件 じけん で失 うしな われた茶 ちゃ の弁償 べんしょう が済 す むまでボストン港 こう を封鎖 ふうさ することであった。ただし、茶 ちゃ の弁償 べんしょう は結局 けっきょく なされなかった。4つ目 め の法 ほう は1774年 ねん の「宿営 しゅくえい 法 ほう 」であり、知事 ちじ が使 つか われていない建物 たてもの をイギリス兵 へい の宿舎 しゅくしゃ に当 あ てることを許可 きょか していた。1774年 ねん 秋 あき に開催 かいさい された第 だい 一 いち 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ は「耐 た え難 がた き諸法 しょほう 」が憲法 けんぽう に反 はん しているという、いわゆるサフォーク決議 けつぎ を採択 さいたく し、大衆 たいしゅう には民兵 みんぺい の組織 そしき 化 か を、マサチューセッツには愛国 あいこく 者 しゃ の政府 せいふ を作 つく ることを要求 ようきゅう した。
このことを受 う けて、特 とく にマサチューセッツ統制 とうせい 法 ほう に対応 たいおう するためにウースター の住民 じゅうみん は土地 とち の政庁 せいちょう 舎 しゃ の前 まえ で武装 ぶそう したピケを張 は り、イギリスの判事 はんじ の入 いれ 庁 ちょう を拒 こば んだ。同 おな じような出来事 できごと が植民 しょくみん 地中 ちちゅう で起 お こった。イギリスは本国 ほんごく から増援 ぞうえん 隊 たい を送 おく ったが、その部隊 ぶたい が到着 とうちゃく する前 まえ に、防御 ぼうぎょ の厚 あつ いボストン市 し を除 のぞ くマサチューセッツ植民 しょくみん 地 ち 全体 ぜんたい が地域 ちいき の事情 じじょう に関 かん してはイギリスの統制 とうせい から外 はず れてしまった。
レキシントンでの戦闘 せんとう 開始 かいし [ 編集 へんしゅう ]
ベンジャミン・フランクリン によって作成 さくせい された「戦 たたか いに加 くわ われ、さもなくば死 し を」の漫画 まんが 。イギリスに対抗 たいこう するために植民 しょくみん 地 ち の団結 だんけつ を繰 く り返 かえ し訴 うった えた。
1775年 ねん 4月 がつ 19日 にち 、レキシントン・コンコードの戦 たたか い が起 お こった。これはイギリス軍 ぐん が軍隊 ぐんたい をマサチューセッツ のコンコード に送 おく って植民 しょくみん 地 ち の武器 ぶき を押収 おうしゅう し、反乱 はんらん の指導 しどう 者 しゃ を逮捕 たいほ しようとした時 とき のことであった。これがアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の最初 さいしょ の戦 たたか いとなり、その知 し らせは瞬 またた く間 ま に13植民 しょくみん 地中 ちちゅう に広 ひろ まり、植民 しょくみん 地 ち は民兵 みんぺい を召集 しょうしゅう してボストン包囲 ほうい のために派遣 はけん した。6月17日 にち にはバンカーヒルの戦 たたか い が起 お こった。1776年 ねん 3月 がつ にジョージ・ワシントン を総 そう 司令 しれい 官 かん とした大陸 たいりく 軍 ぐん は、イギリス軍 ぐん をボストンから撤退 てったい させた。革命 かくめい 勢力 せいりょく は13植民 しょくみん 地 ち の全 すべ てを確保 かくほ し独立 どくりつ を宣言 せんげん する準備 じゅんび が整 ととの った。多 おお くの王 おう 党派 とうは の存在 そんざい があったが、1776年 ねん 6月 がつ 時点 じてん ではどこも支配 しはい してはいなかった。イギリスの役人 やくにん も全 すべ て逃亡 とうぼう した[12] 。
第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ が戦争 せんそう の始 はじ まった後 のち の1775年 ねん 5月 がつ に招集 しょうしゅう された。大陸 たいりく 会議 かいぎ は大陸 たいりく 軍 ぐん を創設 そうせつ し、和解 わかい のためにオリーブの枝 えだ 請願 せいがん をロンドンに送 おく った。イギリス国王 こくおう ジョージ3世 せい はその受 う け取 と りを拒否 きょひ し、その代 か わりに反乱 はんらん 状態 じょうたい を宣言 せんげん して「裏切 うらぎ り者 もの 」に対 たい する行動 こうどう を要求 ようきゅう した。この後 のち 1783年 ねん まで具体 ぐたい 的 てき な和平 わへい 交渉 こうしょう は無 な かった。
愛国 あいこく 者 しゃ 、王 おう 党派 とうは および中立 ちゅうりつ [ 編集 へんしゅう ]
愛国 あいこく 者 しゃ =革命 かくめい 勢力 せいりょく [ 編集 へんしゅう ]
革命 かくめい 勢力 せいりょく は当時 とうじ 「愛国 あいこく 者 しゃ (パトリオット)」とか、「ホィッグ」、「会議 かいぎ 派 は 」、あるいは「アメリカ人 じん 」と呼 よ ばれた。愛国 あいこく 者 しゃ には社会 しゃかい 的 てき また経済 けいざい 的 てき に幅広 はばひろ い階層 かいそう の者 もの が含 ふく まれていたが、アメリカ人 じん の権利 けんり を守 まも るという必要 ひつよう 性 せい については一体 いったい となっていた。戦後 せんご 、ジョージ・ワシントン、ジェームズ・マディソン 、ジョン・アダムズ、アレクサンダー・ハミルトン およびジョン・ジェイ といった愛国 あいこく 者 しゃ は深 ふか く共和 きょうわ 主義 しゅぎ を信奉 しんぽう し、裕福 ゆうふく で力強 ちからづよ い国家 こっか の建設 けんせつ に邁進 まいしん した。一方 いっぽう 、パトリック・ヘンリー 、ベンジャミン・フランクリンおよびトーマス・ジェファーソン といった愛国 あいこく 者 しゃ は民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を推進 すいしん 力 りょく とし農業 のうぎょう を基本 きほん として、大 おお きな政治 せいじ 的 てき 平等 びょうどう 性 せい のもとに地域 ちいき に分散 ぶんさん した社会 しゃかい を望 のぞ んだ。
「愛国 あいこく 者 しゃ 」という言葉 ことば は単 たん に、アメリカの独立 どくりつ 側 がわ に付 つ いた植民 しょくみん 地 ち の人 ひと という意味合 いみあ いで使 つか われた。革命 かくめい 勢力 せいりょく を「愛国 あいこく 者 しゃ 」と呼 よ ぶことは、長 なが い歴史 れきし の慣習 かんしゅう に立 た ったものであり、この時 とき もそうであった。どちらかの側 がわ に付 つ いているという偏見 へんけん を表 あらわ す意味合 いみあ いは無 な かった。
王 おう 党派 とうは と中立 ちゅうりつ [ 編集 へんしゅう ]
王 おう 党派 とうは の数 かず については実際 じっさい に計数 けいすう する方法 ほうほう はないが、歴史 れきし 家 か は植民 しょくみん 地 ち 人 じん の15%ないし25%は国王 こくおう に忠実 ちゅうじつ なままであったと見 み ている。当時 とうじ の呼 よ び方 かた は「ロイヤリスト」、「トーリー」、あるいは「国王 こくおう の人 ひと 」であった。典型 てんけい 的 てき な王 おう 党派 とうは は年長 ねんちょう であり、進 すす んで国王 こくおう への忠誠 ちゅうせい を捨 す てようとはせず、多 おお くはイングランド国教 こっきょう 会 かい との結 むす びつきが強 つよ かった。ボストンのトマス・ハッチンソンのようにイギリス帝国 ていこく との結 むす びつきの強 つよ い事業 じぎょう を行 おこな う成功 せいこう した商人 しょうにん が多 おお かった。しかし、この戦争 せんそう は突 つ き詰 つ めれば内戦 ないせん であったので、同 おな じ家族 かぞく でも両派 りょうは に分 わ かれる場合 ばあい があった。ベンジャミン・フランクリンの息子 むすこ でニュージャージー の知事 ちじ であったウィリアム・フランクリンは、戦争 せんそう の全 ぜん 期間 きかん を通 つう じて王 おう 党派 とうは の立場 たちば を崩 くず さず、父 ちち との対話 たいわ も途絶 とだ えた。アメリカに移民 いみん してきてから未 いま だ日 ひ の浅 あさ い者 もの は、完全 かんぜん にアメリカに同化 どうか して居 お らず、国王 こくおう を支持 しじ する傾向 けいこう があった。内陸 ないりく に開拓 かいたく 者 しゃ として入 はい ったスコットランド 人 ひと がこの例 れい である[13] 。
高貴 こうき の生 う まれではなくて王 おう 党派 とうは であった顕著 けんちょ な例 れい もあるが、その数 かず は歴史 れきし 家 か の推計 すいけい の中 なか には含 ふく まれていないと思 おも われるものがある。その中 なか でも代表 だいひょう 的 てき な例 れい はアメリカの先住民 せんじゅうみん 族 ぞく であり、アメリカ人 じん は中立 ちゅうりつ であってくれればと思 おも っていたがこれを拒否 きょひ することになった。多 おお くの種族 しゅぞく がイギリス帝国 ていこく との同盟 どうめい に動 うご いた。地域 ちいき の住民 じゅうみん や指導 しどう 者 しゃ との提携 ていけい を確保 かくほ する動機 どうき 付 づ けが両派 りょうは からなされていたが、植民 しょくみん 地 ち との交易 こうえき に多 おお くを頼 たよ っていた種族 しゅぞく は革命 かくめい 勢力 せいりょく に付 つ く傾向 けいこう があった。ただし、政治 せいじ 的 てき な要素 ようそ も重要 じゅうよう であった。王 おう 党派 とうは に付 つ いた先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の指導 しどう 者 しゃ の中 なか でも最 もっと も有名 ゆうめい なのが、モホーク 族 ぞく の指導 しどう 者 しゃ ジョセフ・ブラント であり、ペンシルベニア やニューヨーク の孤立 こりつ した開拓 かいたく 地 ち を襲 おそ って回 まわ った。しかし、1779年 ねん のサリバン 遠征 えんせい 隊 たい によってニューヨークから追 お い出 だ され、王 おう 党派 とうは の先住民 せんじゅうみん 族 ぞく はカナダ への移住 いじゅう を余儀 よぎ なくされた[14] 。
他 ほか にも王 おう 党派 とうは に付 つ いてはいたが、文献 ぶんけん などに記録 きろく されていないのがアフリカ系 けい アメリカ人 じん 奴隷 どれい であり、奴隷 どれい から解放 かいほう してくれたお礼 れい に、あるいは家族 かぞく を守 まも るため、ある場合 ばあい には土地 とち の特許 とっきょ を得 え るため(しばしばその約束 やくそく は反故 ほご にされた)に積極 せっきょく 的 てき にイギリス軍 ぐん に従軍 じゅうぐん した。戦争 せんそう の進行 しんこう に従 したが ってこれら黒人 こくじん 王 おう 党派 とうは の多 おお くがノバスコシア 、西 にし インド諸島 しょとう などイギリス帝国 ていこく のあちこちに移住 いじゅう し、今 いま もその子孫 しそん が残 のこ っている[15] 。
少数 しょうすう 民族 みんぞく は戦争 せんそう の間 あいだ 中立 ちゅうりつ に留 とど まろうとしたが、その数 かず は明 あき らかでない。多 おお くは目立 めだ たないことに徹 てっ した。しかし、特 とく にペンシルベニアのクエーカー 教徒 きょうと は積極 せっきょく 的 てき に中立 ちゅうりつ を宣言 せんげん した重要 じゅうよう な集団 しゅうだん であった。革命 かくめい 勢力 せいりょく が独立 どくりつ を宣言 せんげん した後 のち で、イギリスとの取引 とりひき を続 つづ けていたクエーカーは、イギリス支配 しはい を支持 しじ する者 もの 、革命 かくめい 勢力 せいりょく を批判 ひはん する「扇動 せんどう 文書 ぶんしょ の考案 こうあん 者 しゃ や著者 ちょしゃ 」として革命 かくめい 勢力 せいりょく から攻撃 こうげき を受 う けた。
戦後 せんご 、王 おう 党派 とうは の大 だい 多数 たすう はアメリカに残 のこ り以前 いぜん の暮 く らしに戻 もど った。サミュエル・シーベリーのような人物 じんぶつ は傑出 けっしゅつ したアメリカの指導 しどう 者 しゃ になった。10万 まん 人 にん から25万 まん 人 にん と見 み られる王 おう 党派 とうは がカナダ、イギリスあるいは西 にし インド諸島 しょとう に移住 いじゅう し、歴史 れきし 上 じょう でも大 おお きな移住 いじゅう の一 ひと つとなった。これはアメリカ植民 しょくみん 地 ち 人口 じんこう の5%程度 ていど となった。1783年 ねん に南部 なんぶ の王 おう 党派 とうは が西 にし インド諸島 しょとう に移住 いじゅう するとき、約 やく 75,000名 めい の奴隷 どれい も伴 ともな って行 い った[16] 。西 にし インド諸島 しょとう ではアメリカより26年 ねん 早 はや く奴隷 どれい が解放 かいほう された。
愛国 あいこく 者 しゃ の中 なか の階級 かいきゅう による違 ちが い[ 編集 へんしゅう ]
20世紀 せいき 初期 しょき のJ・フランクリン・ジェイムソンのような歴史 れきし 家 か 達 たち は、愛国 あいこく 者 しゃ 側 がわ に付 つ いた者 もの の階級 かいきゅう 構成 こうせい を調 しら べ、独立 どくりつ 革命 かくめい の中 なか で階級 かいきゅう 闘争 とうそう があったという証拠 しょうこ を探 さが した。しかし20世紀 せいき の後半 こうはん では、歴史 れきし 家 か の多 おお くがそのような解釈 かいしゃく を放棄 ほうき して、その替 か わりに高 たか い水準 すいじゅん の理論 りろん 的 てき 一体 いったい 性 せい を強調 きょうちょう した。富裕 ふゆう な王 おう 党派 とうは が居 い れば貧乏 びんぼう な王 おう 党派 とうは もいたのと同 おな じく、愛国 あいこく 者 しゃ も様々 さまざま な資産 しさん と背景 はいけい の階層 かいそう が混在 こんざい するものであり、富裕 ふゆう で教育 きょういく がある者 もの は軍隊 ぐんたい でも士官 しかん になる可能 かのう 性 せい が高 たか かった。理論 りろん 的 てき な意見 いけん の一致 いっち がいつも優先 ゆうせん された。愛国 あいこく 者 しゃ はイギリスからの圧政 あっせい や不当 ふとう な税金 ぜいきん からの解放 かいほう 、そして何 なに よりもその固有 こゆう の権利 けんり であると考 かんが えられることの確保 かくほ のための手段 しゅだん として、独立 どくりつ を見 み なしていた。ほとんどの自作農 じさくのう 、技能 ぎのう 職人 しょくにん 、商店 しょうてん 主 ぬし は愛国 あいこく 者 しゃ 側 がわ に付 つ き、政治 せいじ 的 てき な平等 びょうどう を求 もと めた。これらの人々 ひとびと は特 とく にペンシルベニアでは成功 せいこう したが、ニューイングランド ではそうでもなかった。ニューイングランドではジョン・アダムズがトマス・ペイン の「コモン・センス 」を「愚 おろ かな民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の発想 はっそう 」を提案 ていあん していると言 い って攻撃 こうげき していた[17] 。
アビゲイル・アダムズ
あらゆるタイプの女性 じょせい 達 たち が様々 さまざま な方法 ほうほう でアメリカ独立 どくりつ に貢献 こうけん した。男性 だんせい と同 おな じように参加 さんか した女性 じょせい は両 りょう 軍 ぐん 共 ども にいた。イギリス系 けい アメリカ人 じん 、アフリカ系 けい アメリカ人 じん および先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の女性 じょせい は、同 おな じように愛国 あいこく 者 しゃ 側 がわ あるいは王 おう 党派 とうは 側 がわ に付 つ いた。
革命 かくめい 勢力 せいりょく の公式 こうしき の政治 せいじ には女性 じょせい が含 ふく まれていなかったが、政治 せいじ 、市民 しみん 社会 しゃかい また家庭 かてい 生活 せいかつ のあらゆる面 めん に入 はい ってきた戦争 せんそう に直面 ちょくめん した愛国 あいこく 者 しゃ の女性 じょせい には、通常 つうじょう の家庭 かてい 内 ない 生活 せいかつ ですら政治 せいじ 的 てき な意味合 いみあ いを帯 お びてくるようになった。愛国 あいこく 者 しゃ の女性 じょせい はイギリス製品 せいひん のボイコットに加 くわ わった。イギリス軍 ぐん の情報 じょうほう を盗 ぬす んだ。大陸 たいりく 軍 ぐん に付 つ いて歩 ある き、洗濯 せんたく をし、料理 りょうり をして兵士 へいし の世話 せわ をした。秘密 ひみつ の伝令 でんれい となったり、男装 だんそう して実戦 じっせん で戦 たたか ったりした。取 と り分 わ け、自家 じか にいる女性 じょせい は軍隊 ぐんたい とその家族 かぞく を食 た べさせていくために農事 のうじ 作業 さぎょう を続 つづ けた。
イギリス製品 せいひん のボイコットはアメリカの女性 じょせい にとって意志 いし をもって参加 さんか できることだった。ボイコットの対象 たいしょう は茶 ちゃ や衣類 いるい のような家庭 かてい の日 ひ 用品 ようひん であった。女性 じょせい 達 たち は廃 すた れて使 つか われなくなっていた紡績 ぼうせき 機 き や機織 はたお り機 き に挑戦 ちょうせん した。1769年 ねん 、ボストンの女性 じょせい 達 たち は4万 まん 枷 かせ の糸 いと を生産 せいさん した。ミドルタウンの180人 にん の女性 じょせい 達 たち は20,522ヤード (18,765 m)の布 ぬの を織 お り上 あ げた[18] 。
政治 せいじ 的 てき な忠誠 ちゅうせい 心 しん の危機 きき は植民 しょくみん 地 ち アメリカ女性 じょせい の社会 しゃかい 的 てき 生活 せいかつ 構造 こうぞう を破壊 はかい した。男性 だんせい が国王 こくおう に対 たい する忠誠 ちゅうせい 心 しん を表明 ひょうめい していようといまいと、階層 かいそう 、家庭 かてい および親交 しんこう 関係 かんけい との絆 きずな を切 き り、女性 じょせい を以前 いぜん の繋 つな がりから孤立 こりつ させることになった。女性 じょせい の夫 おっと に対 たい する忠誠 ちゅうせい 心 しん は、昔 むかし は私的 してき なことであったが、政治 せいじ 的 てき な行動 こうどう に変化 へんか し、特 とく に夫 おっと が王 おう 党派 とうは のままである女性 じょせい の場合 ばあい は深刻 しんこく な問題 もんだい であった。
アフリカ系 けい アメリカ人 じん は、男 おとこ も女 おんな も、アメリカ独立 どくりつ の謳 うた い文句 もんく を自由 じゆう と平等 びょうどう を約束 やくそく するものとして理解 りかい した。この期待 きたい は実現 じつげん されなかった。イギリスもアメリカも政府 せいふ は従軍 じゅうぐん すれば解放 かいほう すると約束 やくそく し、多 おお くの奴隷 どれい 達 たち が戦 たたか い、軍隊 ぐんたい を支援 しえん することで生活 せいかつ を良 よ くしていこうとした。しかし奴隷 どれい 、解放 かいほう を問 と わずアフリカ系 けい アメリカ人 じん 女性 じょせい に戦争 せんそう は究極 きゅうきょく 的 てき には何 なん の変化 へんか ももたらさなかった。独立 どくりつ 達成 たっせい 後 ご 、北部 ほくぶ で段階 だんかい 的 てき な奴隷 どれい 解放 かいほう が起 お きたが、南部 なんぶ では奴隷 どれい 制 せい が拡 ひろ がり、人種 じんしゅ 的 てき な偏見 へんけん に至 いた っては新 しん 国家 こっか になってもどこでも見 み られるものであった。
先住民 せんじゅうみん 族 ぞく にとっては、アメリカの独立 どくりつ は愛国 あいこく 主義 しゅぎ でも独立 どくりつ でもなかった。多 おお くの先住民 せんじゅうみん 族 ぞく はヨーロッパ人 じん の紛争 ふんそう に巻 ま き込 こ まれることに何 なん の価値 かち も見出 みだ せず、中立 ちゅうりつ であろうとしたが、ほとんどの者 もの がどちらかの側 がわ に付 つ くことが求 もと められた。戦争 せんそう 中 ちゅう 、先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の集落 しゅうらく はしばしば愛国 あいこく 者 しゃ 民兵 みんぺい の最初 さいしょ の攻撃 こうげき 目標 もくひょう にされ、時 とき にはどちらの側 がわ に付 つ いているかということも無視 むし された。先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の女性 じょせい 達 たち に戦争 せんそう が与 あた えた最 もっと も基本 きほん 的 てき な影響 えいきょう は、家 いえ 、家族 かぞく および農業 のうぎょう 生活 せいかつ の崩壊 ほうかい であった。
州 しゅう 憲法 けんぽう および国家 こっか 憲法 けんぽう の策定 さくてい [ 編集 へんしゅう ]
1776年 ねん の夏 なつ までに、愛国 あいこく 者 しゃ は全 すべ ての領土 りょうど と人民 じんみん を掌握 しょうあく した。王 おう 党派 とうは は力 ちから を持 も たなかった。全 ぜん 13植民 しょくみん 地 ち はそれまでの政府 せいふ を打倒 だとう し、法廷 ほうてい を閉 し め、イギリスの代理人 だいりにん や知事 ちじ をその家 いえ から追 お い出 だ した。規制 きせい の法体 ほうたい 系 けい の外 そと にある代表 だいひょう 者 しゃ 会議 かいぎ や「議会 ぎかい 」に送 おく る者 もの を選 えら んだ。イギリスから与 あた えられていた勅許 ちょっきょ に替 か わる新 あたら しい憲法 けんぽう が各 かく 邦 くに で求 もと められた。そこは国 くに であり、植民 しょくみん 地 ち ではなかった[19] 。
1776年 ねん 1月 がつ 5日 にち 、ニューハンプシャー は最初 さいしょ の州 しゅう 憲法 けんぽう を批准 ひじゅん したが、これはアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん 署名 しょめい の6ヶ月 かげつ も前 まえ のことであった。続 つづ いて5月 がつ には、大陸 たいりく 会議 かいぎ の決議 けつぎ によりあらゆる形態 けいたい のイギリスの権力 けんりょく を抑 おさ え、土地 とち 毎 ごと に作 つく られる権力 けんりょく に置 お き換 か えられることになった。バージニア 、サウスカロライナ およびニュージャージーが7月 がつ 4日 にち 以前 いぜん にそれぞれの憲法 けんぽう を策定 さくてい した。ロードアイランド とコネチカット は単純 たんじゅん にイギリスの勅許 ちょっきょ 状 じょう を採用 さいよう し、王室 おうしつ に言及 げんきゅう するところを削除 さくじょ する方法 ほうほう を採 と った[20] 。
新 あたら しい邦 くに 々はどのような形態 けいたい の政府 せいふ を作 つく るかを決 き める必要 ひつよう があったばかりでなく、どのようにして憲法 けんぽう を作 つく る者 もの を選 えら ぶか、どのようにしてそれを批准 ひじゅん するかを決 き めなければならなかった。富 と める者 もの がその過程 かてい を支配 しはい した邦 くに であるメリーランド 、バージニア、デラウェア 、ニューヨークおよびマサチューセッツでは、次 つぎ のような特徴 とくちょう 有 あ る憲法 けんぽう ができた。
選挙 せんきょ 権 けん については十分 じゅうぶん な資産 しさん があること、被選挙権 ひせんきょけん についてはさらに資産 しさん の基準 きじゅん が高 たか いこと。ただし、ニューヨークおよびメリーランドは資産 しさん 条件 じょうけん を低 ひく くした[19] 。
二院 にいん 制 せい とし、上院 じょういん には下院 かいん のチェック機能 きのう をもたせたこと。
強 つよ い知事 ちじ 、議会 ぎかい に対 たい する拒否 きょひ 権 けん と十分 じゅうぶん な任命 にんめい 権 けん があること。
政府 せいふ で複数 ふくすう の地位 ちい を占 し める個人 こじん に対 たい して制限 せいげん が無 な いか少 すく ないこと。
国家 こっか 宗教 しゅうきょう を継続 けいぞく したこと。
それほど裕福 ゆうふく でもない者 もの が組織 そしき してそれなりの力 ちから を持 も った邦 くに 、すなわちペンシルベニア、ニュージャージーおよびニューハンプシャーでは次 つぎ のような条項 じょうこう のある憲法 けんぽう となった。
白人 はくじん 男性 だんせい すべての参政 さんせい 権 けん 、あるいは選挙 せんきょ 権 けん や被選挙権 ひせんきょけん に対 たい する小 ちい さな財産 ざいさん 資格 しかく を定 さだ めたこと。ニュージャージーは財産 ざいさん を持 も つ寡婦 かふ にも参政 さんせい 権 けん を与 あた えた。ただし、25年 ねん 後 ご に撤回 てっかい された。ベンジャミン・ラッシュ
強 つよ い一院制 いちいんせい 議会 ぎかい であること。
比較的 ひかくてき 弱 よわ い知事 ちじ の権力 けんりょく 、拒否 きょひ 権 けん 無 な し、任命 にんめい 権 けん も限 かぎ られたこと。
個人 こじん が政府 せいふ の複数 ふくすう の地位 ちい に就 つ くことを禁 きん じたこと。
ある邦 くに の議会 ぎかい で保守 ほしゅ 派 は あるいは改革 かいかく 派 は のどちらが政権 せいけん を取 と るかということは、力 ちから の無 な い側 がわ が温和 おんわ しく結果 けっか を認 みと めるということを意味 いみ するのではなかった。ペンシルベニア憲法 けんぽう の改革 かいかく 的 てき 条項 じょうこう はわずか14年間 ねんかん しか続 つづ かなかった。1790年 ねん 、保守 ほしゅ 派 は が議会 ぎかい を制 せい すると、新 あら たに憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ を要求 ようきゅう し、憲法 けんぽう を書 か き換 か えた。新 あたら しい憲法 けんぽう では白人 はくじん 男性 だんせい の普通 ふつう 選挙 せんきょ を制限 せいげん し、知事 ちじ には拒否 きょひ 権 けん を与 あた え、任命 にんめい 権 けん も与 あた えた。また上院 じょういん を追加 ついか して一院制 いちいんせい 議会 ぎかい の議員 ぎいん よりも被選挙権 ひせんきょけん の資産 しさん 条件 じょうけん を厳 きび しくした。トマス・ペインはこの憲法 けんぽう をアメリカには相応 ふさわ しくないものと言 い った[21] 。
独立 どくりつ 宣言 せんげん 1776年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
トマス・ペイン のコモン・センス
1776年 ねん 1月 がつ 10日 とおか 、トマス・ペイン は「コモン・センス 」という題 だい の政治 せいじ 冊子 さっし を発行 はっこう し、イギリスとの問題 もんだい を解決 かいけつ する唯一 ゆいいつ の手段 しゅだん は共和 きょうわ 制 せい であり、イギリスからの独立 どくりつ であると訴 うった えた[22] 。
7月 がつ 2日 にち 、第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ においてアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん が批准 ひじゅん された。戦争 せんそう は既 すで に1775年 ねん 4月 がつ に始 はじ まっており、独立 どくりつ 宣言 せんげん が1年 ねん 以上 いじょう 後 ご の1776年 ねん 7月 がつ であった。この時点 じてん まで植民 しょくみん 地 ち は和平 わへい の道 みち を模索 もさく したが、全 すべ ての邦 くに が独立 どくりつ を選 えら んだ[23] 。
第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ は1777年 ねん 11月に連合 れんごう 規約 きやく を採択 さいたく した。これはアメリカでも最初 さいしょ の政府 せいふ に関 かん する規定 きてい であり、主権 しゅけん 国家 こっか としての邦 くに 々の緩 ゆる い連合 れんごう という形 かたち を採 と った。連合 れんごう 規約 きやく の各 かく 邦 くに による批准 ひじゅん のために、さらに3年間 ねんかん 以上 いじょう が費 つい やされた[24] 。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
イギリスの反撃 はんげき 1776年 ねん -1777年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
イギリス軍 ぐん は1776年 ねん 8月 がつ に反撃 はんげき に出 で て、独立 どくりつ 戦争 せんそう の中 なか でも最大 さいだい の会戦 かいせん となったロングアイランドの戦 たたか い で、巣立 すだ ちして間 あいだ もない大陸 たいりく 軍 ぐん を打 う ち破 やぶ った。結果 けっか 的 てき にニューヨーク 市 し を占領 せんりょう し、ワシントン将軍 しょうぐん を捕 つか まえる寸前 すんぜん までいった。イギリス軍 ぐん はニューヨーク市 し を政治 せいじ の中心 ちゅうしん とし軍事 ぐんじ 基地 きち として1783年 ねん まで保持 ほじ し続 つづ けた。続 つづ いてニュージャージーまで侵攻 しんこう したが、ワシントンはデラウェア川 がわ を渡 わた っての急襲 きゅうしゅう で、トレントンの戦 たたか い とプリンストンの戦 たたか い においてイギリス軍 ぐん を破 やぶ り、革命 かくめい 軍 ぐん の息 いき を吹 ふ き返 かえ させ、ニュージャージーも奪 うば い返 かえ した。1777年 ねん 、イギリス軍 ぐん は2つの連携 れんけい が取 と れていない遠征 えんせい 隊 たい を発進 はっしん させた。ニューヨーク市 し に本拠 ほんきょ を置 お く軍隊 ぐんたい はワシントンを破 やぶ り、フィラデルフィア を陥 おとしい れた。同時 どうじ に侵攻 しんこう したカナダに本拠 ほんきょ を置 お く軍隊 ぐんたい はニューイングランドを切 き り取 と ることを目指 めざ したが、進退 しんたい に誤 あやま り、1777年 ねん 10月 がつ にサラトガの戦 たたか い で降伏 ごうぶく した。この勝利 しょうり に気 き を強 つよ くしたフランスは、ベンジャミン・フランクリンが軍事 ぐんじ 同盟 どうめい を画策 かくさく していたことが功 こう を奏 そう し、1778年 ねん 早 はや くに公式 こうしき にアメリカ側 がわ に付 つ いて参戦 さんせん した。後 のち にスペイン とオランダ もフランスと同盟 どうめい を結 むす び、イギリスは大 おお きな同盟 どうめい 国 こく も無 な いままに単独 たんどく で戦争 せんそう を行 おこな うことになった。ヨーロッパでは武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ 同盟 どうめい が成立 せいりつ し、イギリスの貿易 ぼうえき は海上 かいじょう 封鎖 ふうさ などで危機 きき に瀕 ひん した。アメリカの戦線 せんせん はイギリスにとって数 かず ある戦線 せんせん の一 ひと つに過 す ぎなくなった[25] 。
イギリスは敵国 てきこく の同盟 どうめい で相対 そうたい 的 てき に低下 ていか した軍事 ぐんじ 力 りょく を背景 はいけい に、ヘンリー・クリントン がフィラデルフィアを明 あ け渡 わた しニューヨークの補強 ほきょう に向 む かった。ワシントンは撤退 てったい するイギリス軍 ぐん を阻止 そし せんとしてモンマスの戦 たたか い を起 お こしたが、これが北部 ほくぶ では最後 さいご の会戦 かいせん となった。この戦 たたか いは勝敗 しょうはい が付 つ かず、イギリス軍 ぐん はうまくニューヨーク市 し まで撤退 てったい できた。北部 ほくぶ の戦線 せんせん は手詰 てづ まり状態 じょうたい となり、戦略 せんりゃく 的 てき な焦点 しょうてん は南部 なんぶ に移 うつ った[25] 。
イギリス軍 ぐん の南部 なんぶ 攻撃 こうげき 1778年 ねん -1783年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ヨークタウンでのコーンウォリス将軍 しょうぐん の降伏 ごうぶく 。実質 じっしつ 的 てき な終戦 しゅうせん の切 き っ掛 か けとなった。
1778年 ねん 12月遅 おそ く、イギリスはジョージア のサバンナ を占領 せんりょう し、北 きた のサウスカロライナへ侵攻 しんこう を開始 かいし した。ジョージアの北部 ほくぶ はウィルクス軍 ぐん におけるケトル・クリークの戦 たたか いで愛国 あいこく 者 しゃ 軍 ぐん が勝利 しょうり し、この期間 きかん も占領 せんりょう を免 まぬか れた。イギリス軍 ぐん はサウスカロライナのチャールストン 占領 せんりょう に動 うご き内陸 ないりく 部 ぶ での砦 とりで のネットワークを作 つく り上 あ げた。この時点 じてん でイギリス軍 ぐん は王 おう 党派 とうは の者 もの 達 たち が英国 えいこく 旗 き の下 した に集 あつ まってくることを期待 きたい していた。しかし、十分 じゅうぶん な数 かず の王 おう 党派 とうは が集 あつ まらないままに、イギリス軍 ぐん はノースカロライナ そしてバージニアへと進軍 しんぐん した。バージニアではイギリス艦隊 かんたい と落 お ち合 あ って救援 きゅうえん されるものと考 かんが えていた。その期待 きたい していたイギリス艦隊 かんたい はフランス艦隊 かんたい に敗 やぶ れた。ヨークタウンの戦 たたか い で身動 みうご きが取 と れなくなったイギリス軍 ぐん は、アメリカ・フランス軍 ぐん に包囲 ほうい され、チャールズ・コーンウォリス 将軍 しょうぐん 以下 いか の全 ぜん 軍 ぐん が1781年 ねん 10月にワシントン軍 ぐん に降伏 ごうぶく した。イギリス王 おう ジョージ3世 せい は戦 たたか いの継続 けいぞく を望 のぞ んだが、その支持 しじ 者 しゃ が議会 ぎかい での勢力 せいりょく を失 うしな い、戦争 せんそう は実質 じっしつ 的 てき に終 お わった[25] 。1783年 ねん 3月 がつ 10日 とおか 、ケープカナベラル 沖 おき で大陸 たいりく 海軍 かいぐん のジョン・バリー船長 せんちょう の指揮 しき する連合 れんごう 船隊 せんたい が、大陸 たいりく 軍 ぐん の給与 きゅうよ を奪 うば おうとしたHMSシビル以下 いか 3隻 せき のイギリス艦船 かんせん と戦 たたか ったのが最後 さいご の海戦 かいせん であった。
反逆 はんぎゃく 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
1775年 ねん 8月 がつ 、イギリス王 おう はアメリカの革命 かくめい 勢力 せいりょく をイギリスに対 たい する反逆 はんぎゃく 者 しゃ であると宣言 せんげん した。イギリス政府 せいふ は当初 とうしょ アメリカ軍 ぐん 捕虜 ほりょ を普通 ふつう の犯罪 はんざい 者 しゃ として扱 あつか うことから始 はじ めた。捕虜 ほりょ は監獄 かんごく に入 い れられ、反逆 はんぎゃく 罪 ざい で裁 さば く準備 じゅんび が進 すす められた。ジャーメイン卿 きょう とサンドウィッチ卿 きょう は特 とく に熱心 ねっしん にこれを進 すす めた。バンカーヒルの戦 たたか いで捕虜 ほりょ となった多 おお くの者 もの が疑 うたが いも無 な く絞首刑 こうしゅけい になるものと思 おも われた。しかしイギリス政府 せいふ は次段 じだん 階 かい 、つまり反逆 はんぎゃく 罪 ざい の裁判 さいばん と刑 けい の執行 しっこう に進 すす むことを躊躇 ためら った。アメリカには何 なん 万 まん 人 にん にも及 およ ぶ王 おう 党派 とうは がいて、アメリカの地 ち で反逆 はんぎゃく 罪 ざい で裁 さば かれる危険 きけん 性 せい があった。イギリスはこれら王 おう 党派 とうは を使 つか って戦 たたか いを展開 てんかい する戦略 せんりゃく を立 た てていた。1777年 ねん のサラトガでの降伏 ごうぶく で、何 なん 千 せん ものイギリス兵 へい がアメリカ軍 ぐん の捕虜 ほりょ となり人質 ひとじち という形 かたち になった。このためにアメリカ人 じん 捕虜 ほりょ は反逆 はんぎゃく 罪 ざい で裁 さば かれることはなくなり、監獄 かんごく 船 せん という問題 もんだい は残 のこ ったものの交戦 こうせん 国 こく の戦闘 せんとう 員 いん の権利 けんり に従 したが って扱 あつか われることになった。1782年 ねん イギリス議会 ぎかい の立法 りっぽう により、反逆 はんぎゃく 者 しゃ ではなく戦争 せんそう 捕虜 ほりょ と公式 こうしき に認 みと められた。戦後 せんご 、両 りょう 軍 ぐん は捕虜 ほりょ を解放 かいほう した[26] 。
パリでの和平 わへい 条約 じょうやく 1783年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1783年 ねん 、パリ条約 じょうやく と呼 よ ばれるイギリスとの和平 わへい 条約 じょうやく で、アメリカはミシシッピー川 がわ から東 ひがし 、五大 ごだい 湖 みずうみ の南 みなみ の領土 りょうど を獲得 かくとく した。ただし、フロリダ は含 ふく まれなかった。1783年 ねん 9月3日 にち 、イギリスはスペインと別 べつ の条約 じょうやく を結 むす び、フロリダをスペインに返還 へんかん した。割譲 かつじょう された地域 ちいき に住 す む先住民 せんじゅうみん 族 ぞく は条約 じょうやく 交渉 こうしょう の席 せき におらず、アメリカに軍事 ぐんじ 的 てき な敗北 はいぼく を喫 きっ するまで条約 じょうやく のことを認識 にんしき していなかった。境界 きょうかい と負債 ふさい の問題 もんだい は1795年 ねん のジェイ条約 じょうやく まで解決 かいけつ されなかった[27] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 住人 じゅうにん の5%すなわち王 おう 党派 とうは にとって、敗北 はいぼく は追放 ついほう が伴 ともな うものであった。おそらくは10万 まん 人 にん 、最大 さいだい でも25万 まん 人 にん の王 おう 党派 とうは が新 あたら しくできた共和 きょうわ 国 こく を離 はな れ、ケベック (イースタン・タウンシップに集中 しゅうちゅう した)、プリンスエドワードアイランド 、ノバスコシアなどの北 きた アメリカに残 のこ されたイギリス植民 しょくみん 地 ち に移住 いじゅう した。アッパー・カナダ (現在 げんざい のオンタリオ州 しゅう )やニューブランズウィック の新 あたら しい植民 しょくみん 地 ち が移住 いじゅう 者 しゃ のために創 つく られた[28] 。
世界 せかい に及 およ ぼした影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
アメリカの独立 どくりつ は世襲 せしゅう の階級 かいきゅう や地位 ちい が無 な い状態 じょうたい で始 はじ まった。ただし、そのようなものを作 つく ろうという意図 いと でシンシナティ協会 きょうかい が結成 けっせい されて動 うご いたが不首尾 ふしゅび に終 お わった。独立 どくりつ 獲得 かくとく 後 ご 、連邦 れんぽう 党 とう の反対 はんたい があったにも拘 かか わらず、マシュー・ライアンが主張 しゅちょう したような真 しん の民主 みんしゅ 的 てき 政治 せいじ が実現 じつげん 可能 かのう となった[29] 。人民 じんみん の権利 けんり が各 かく 邦 くに の憲法 けんぽう に取 と り入 い れられた。かくして、アメリカの共和 きょうわ 制 せい の中核 ちゅうかく 的 てき 価値 かち 観 かん となる自由 じゆう 、個人 こじん の諸 しょ 権利 けんり 、平等 びょうどう および政治 せいじ 腐敗 ふはい に対 たい する敵意 てきい を広 ひろ く保証 ほしょう することになった。ヨーロッパの古 ふる い秩序 ちつじょ に正面 しょうめん から挑戦 ちょうせん するということは、世襲 せしゅう 制 せい の政治 せいじ 権力 けんりょく に対 たい する挑戦 ちょうせん であり、統治 とうち は統治 とうち される者 もの の同意 どうい の上 うえ に立 た っているという考 かんが えに挑戦 ちょうせん するものであった。ヨーロッパの植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく に対 たい する革命 かくめい が初 はじ めて成功 せいこう したことは、他 た の多 おお くの植民 しょくみん 地 ち 人 じん の模範 もはん となり、自分 じぶん 達 たち も事態 じたい を打開 だかい して自治 じち 政府 せいふ を打 う ち樹 じゅ てることができると思 おも わせるようになった[30] 。
1777年 ねん 、モロッコ はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のイギリスからの独立 どくりつ を最初 さいしょ に認 みと めた国 くに となった。この2カ国 かこく は10年 ねん 後 ご にモロッコ=アメリカ友好 ゆうこう 条約 じょうやく を結 むす んだ。1782年 ねん 2月 がつ 26日 にち 、ネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく の7州 しゅう の一 ひと つ、フリースラント州 しゅう がアメリカの独立 どくりつ を認 みと めた2番目 ばんめ の政体 せいたい になった。この後 のち の4月 がつ 19日 にち にはネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく の議会 ぎかい が承認 しょうにん した。ジョン・アダムズは駐 ちゅう ハーグ の初代 しょだい アメリカ大使 たいし となった[31] 。
アメリカの独立 どくりつ は「大西洋 たいせいよう 革命 かくめい 」の最初 さいしょ の波 なみ となり、フランス革命 かくめい 、ハイチ革命 かくめい およびラテンアメリカの解放 かいほう 戦争 せんそう へと続 つづ いた。余波 よは は1798年 ねん のアイルランド 蜂起 ほうき 、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく やオランダの内乱 ないらん にも及 およ んだ[32] 。
アメリカの独立 どくりつ は特 とく にイギリス、アイルランド、オランダおよびフランスに直接 ちょくせつ の強 つよ い衝撃 しょうげき をもたらした。イギリスやアイルランドのホィッグ党 とう 員 いん はアメリカを支援 しえん する発言 はつげん を繰 く り返 かえ した。多 おお くのヨーロッパ諸国 しょこく にとって古 ふる い体制 たいせい を崩壊 ほうかい させる教訓 きょうくん になり(16世紀 せいき 末 まつ のオランダの反乱 はんらん や100年 ねん 前 まえ のイギリス清教徒 せいきょうと 革命 かくめい は別 べつ として)、フランス革命 かくめい のときのラファイエット などの活動 かつどう に表 あらわ された。アメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん はフランスの人間 にんげん と市民 しみん の権利 けんり の宣言 せんげん に影響 えいきょう を与 あた えた[33] [34] 。
アメリカの独立 どくりつ の影響 えいきょう はラテンアメリカ で特 とく に顕著 けんちょ であった。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を自由 じゆう を打 う ち樹 き て決定的 けっていてき な反映 はんえい を享受 きょうじゅ した植民 しょくみん 地 ち のモデルとして、各 かく 植民 しょくみん 地 ち が独立 どくりつ への闘争 とうそう を始 はじ めた。ラテンアメリカの歴史 れきし 家 か 達 たち はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく をモデルとする多 おお くの結 むす びつきを指摘 してき している[35] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ではイギリスがその植民 しょくみん 地 ち 全 すべ てで奴隷 どれい 制 せい を禁 きん じた後 のち も長 なが く奴隷 どれい 制 せい を保持 ほじ し続 つづ け、1865年 ねん まで続 つづ いた。アメリカの先住民 せんじゅうみん 族 ぞく も悲惨 ひさん な経過 けいか を辿 たど った。イギリスの支配 しはい 下 か では保護 ほご されていたものが、アメリカの下 した に入 はい って以前 いぜん の条約 じょうやく は反故 ほご にされ、その権利 けんり は侵害 しんがい され、最後 さいご は土地 とち を取 と り上 あ げられた。
アメリカ独立 どくりつ の影響 えいきょう についての解釈 かいしゃく は様々 さまざま である。この多様 たよう さの中 なか でも究極 きゅうきょく のものは、アメリカ独立 どくりつ は結局 けっきょく 「革命 かくめい 」ではなくて、急速 きゅうそく に植民 しょくみん 地 ち 社会 しゃかい が変革 へんかく されたわけではなく、遠 とお くにあった政府 せいふ が近 ちか くのものに置 お き換 か えられただけだという古 ふる い見解 けんかい である[36] 。歴史 れきし 家 か のバーナード・ベイリン、ゴードン・ウッドおよびエドムンド・モーガンなどによって提案 ていあん された最近 さいきん の見解 けんかい は、人民 じんみん の自然 しぜん の権利 けんり や人民 じんみん によって選 えら ばれた法体 ほうたい 系 けい というような共和 きょうわ 制 せい の原則 げんそく に対 たい する信奉 しんぽう が深 ふか まるにつれ、世界 せかい の情勢 じょうせい に深 ふか い変化 へんか と十分 じゅうぶん な影響 えいきょう を与 あた えた、特徴 とくちょう 有 あ るまた急進 きゅうしん 的 てき な出来事 できごと であったとしている[37] 。
アメリカ独立 どくりつ 後 ご に国家 こっか が負 お った負債 ふさい には3種類 しゅるい 有 あ る。最初 さいしょ のものは外国 がいこく 、特 とく にフランスから借 か りた1100万 まん ドルであった。2番目 ばんめ と3番目 ばんめ はそれぞれ約 やく 2400万 まん ドルであり、戦争 せんそう 中 ちゅう の軍隊 ぐんたい に食料 しょくりょう 、馬 うま などの物資 ぶっし を売 う ったアメリカ人 じん に対 たい して国家 こっか および各 かく 邦 くに 政府 せいふ が負 お っているものであった。大陸 たいりく 会議 かいぎ は新 あたら しい連邦 れんぽう 政府 せいふ が外国 がいこく からの負債 ふさい を償還 しょうかん することに同意 どうい した。その他 た に、戦争 せんそう 中 ちゅう 、兵士 へいし 、商人 しょうにん および農夫 のうふ に対 たい して、新 あたら しい憲法 けんぽう が政府 せいふ を作 つく って負債 ふさい を払 はら うということを認 みと めさせて、発行 はっこう した「約束 やくそく 手形 てがた 」による負債 ふさい もあった。各 かく 邦 くに の戦費 せんぴ は総計 そうけい で1億 おく 1400万 まん ドルに上 のぼ り、連邦 れんぽう 政府 せいふ の戦費 せんぴ は3700万 まん ドルであった[38] 。1790年 ねん 、合衆国 がっしゅうこく 議会 ぎかい は各 かく 邦 くに の負債 ふさい を海外 かいがい 、国内 こくない に拘 かか わらず合算 がっさん して8000万 まん ドルを国家 こっか の負債 ふさい とした。あらゆる者 もの が戦時 せんじ 債権 さいけん を額面 がくめん 通 どお り受 う け取 と り、国 くに の威信 いしん が保 たも たれ信用 しんよう が確立 かくりつ された。
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