アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつ

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アメリカ革命かくめいから転送てんそう
アメリカ革命かくめい
種類しゅるい 市民しみん革命かくめい
目的もくてき 宗主そうしゅこくからの独立どくりつ
対象たいしょう グレートブリテン王国おうこく
結果けっか アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく誕生たんじょう
発生はっせい現場げんば アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

(アメリカがっしゅうこくのどくりつ)あるいは(アメリカかくめい、えい: American Revolution)、(アメリカどくりつかくめい、えい: American Independence Revolution[1])とは、18世紀せいき後半こうはんきたアメリカ13植民しょくみん結束けっそくして宗主そうしゅこくであるイギリス(グレートブリテン王国おうこく植民しょくみん政策せいさく抵抗ていこうし、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうて、当時とうじまでほとんど常識じょうしきであった君主くんしゅせいはなれて、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくという共和きょうわせい国家こっか成立せいりつさせた一連いちれん出来事できごとのことである。そのフランス革命かくめいなどにもおおきな影響えいきょうあたえた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

この期間きかん中心ちゅうしんとなる出来事できごとは、1775ねんから1783ねんのアメリカ独立どくりつ戦争せんそうであり、さらにそのなかでも1776ねんアメリカ独立どくりつ宣言せんげん1781ねんヨークタウンのたたかいにおけるアメリカぐん勝利しょうり特筆とくひつあたいする。

フランスはアメリカの愛国あいこくいたるかね武器ぶき供給きょうきゅうし、イギリスにたいする同盟どうめい結成けっせいし、陸軍りくぐん海軍かいぐん派遣はけん。ヨークタウンのたたかいで戦争せんそう自体じたいわらせ、独立どくりつ戦争せんそうかぎとなる役割やくわりえんじた。しかし、アメリカじん啓蒙けいもう思想しそう哲学てつがくしゃかんがかた影響えいきょうつよけ、絶対ぜったい君主くんしゅせい反対はんたいしていたので、フランス王政おうせいアメリカ政府せいふのモデルにはしなかった。

アメリカの独立どくりつは、アメリカの大衆たいしゅうれられたあたらしい共和きょうわせい思想しそうのような初期しょきアメリカ社会しゃかいこった一連いちれんひろ知的ちてきかつ社会しゃかいてき変化へんかともなった。植民しょくみんにおいては、政府せいふにおける民主みんしゅ主義しゅぎ役割やくわりについてするど政治せいじてき議論ぎろんがあった。アメリカの共和きょうわせいへの移行いこう段階だんかいてき民主みんしゅ主義しゅぎ拡大かくだいとは、伝統でんとうてき社会しゃかい階層かいそう混乱こんらんをもたらし、アメリカの政治せいじてき価値かちかん中核ちゅうかくとなる倫理りんりかんつくった[2]

独立どくりつへのうごきは、フランスからの軍事ぐんじてき脅威きょういくなった1763ねんはじまったとうことができる。イギリスは植民しょくみん防衛ぼうえいするわりに、植民しょくみんがそれにおうじた費用ひよう支払しはらうべきというかんがえにち、一連いちれん税金ぜいきんしたが、これが不人気ふにんきだった。また、植民しょくみんからは自分じぶんたちえらんだ代表だいひょうがイギリスの議会ぎかい発言はつげんする権利けんりかったので、しつけられた税法ぜいほうなどの法律ほうりつ無効むこうかんがえた。ボストン抗議こうぎ行動こうどうこすと、イギリスは軍隊ぐんたいおくってふうじようとし、植民しょくみんがわ民兵みんぺい結集けっしゅうして1775ねんたたかいがはじまった。アメリカじんなかにもおう党派とうはが15ないし20%はいたとかんがえられるが、戦争せんそうつうじて独立どくりつ勢力せいりょく領土りょうどの80ないし90%を支配しはいつづけた。イギリスぐんいくつかの港湾こうわん都市としだつるだけにとどまった。 

1776ねん、13植民しょくみん代表だいひょうかいして全会ぜんかい一致いっちでアメリカ独立どくりつ宣言せんげん採択さいたくし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく設立せつりつした。1778ねんにはアメリカとフランスの同盟どうめい成立せいりつし、陸軍りくぐん海軍かいぐん同等どうとう兵力へいりょくとなった。1778ねんサラトガのたたかと1781ねんのヨークタウンのたたかいで2つのイギリスぐんだい部隊ぶたい降伏ごうぶくし、1783ねんのパリ条約じょうやく和平わへいがなった。アメリカは、きたはイギリスりょうカナダと、みなみスペインりょうフロリダせっし、西にしミシシッピーがわ境界きょうかいとする広大こうだいくにとなった。

独立どくりつまえ13植民しょくみん桃色ももいろ

アメリカ独立どくりつ原因げんいん[編集へんしゅう]

代表だいひょうなくして課税かぜいなし[編集へんしゅう]

1763ねんまでにイギリスはきたアメリカ広大こうだい領土りょうど獲得かくとくした。13植民しょくみんくわえて22のちいさな植民しょくみん本国ほんごくから指名しめいされた総督そうとくによって直接ちょくせつおさめられていた。ななねん戦争せんそう(アメリカではフレンチ・インディアン戦争せんそう)の勝利しょうりにより、イギリスはヌーベルフランス(カナダ)、スペインりょうフロリダおよびミシシッピがわからひがし先住民せんじゅうみんぞく土地とち獲得かくとくした。1765ねん植民しょくみんものたちはイギリス本国ほんごく住民じゅうみんつものおな歴史れきしてき権利けんり義務ぎむしたに、イギリス王室おうしつ忠実ちゅうじつ臣民しんみんであるとかんがえていた[3]

イギリス政府せいふななねん戦争せんそうでフランスからきたアメリカをまもいたことで、それにようした費用ひようはらうために植民しょくみん住人じゅうにん課税かぜいすることをめた。植民しょくみんものたちにとって税金ぜいきんたかいことは問題もんだいではなかった(事実じじつ税率ぜいりつひくく、イギリス本国ほんごく市民しみんはらっていた税金ぜいきんくらべればとくひくかった)。植民しょくみん代表だいひょうイギリス議会ぎかい発言はつげんする権利けんりがないまま、新税しんぜいについても植民しょくみんなんまえもっての相談そうだんかったことが問題もんだいだった。「代表だいひょうなくして課税かぜいなし」という言葉ことばおおくのアメリカじん社会しゃかいささやかれるようになった。イギリスは植民しょくみんじんが「事実じじつじょう代表だいひょうおくっているとの論法ろんぽうであったが、大半たいはん植民しょくみんじんは、本国ほんごく人間にんげん植民しょくみん必要ひつようとされていることやかれている状況じょうきょうについてなにらないので、植民しょくみん代表だいひょうしているわけではないとして、本国ほんごくかんがかた拒絶きょぜつした[4]

イギリスは理論りろんじょう帝国ていこく利益りえきをもたらすものはなんでも(および帝国ていこく損失そんしつあたえるものは)政策せいさくであるという、じゅうしょう主義しゅぎ原理げんりしたがった海洋かいようほうにより、植民しょくみん経済けいざい牛耳ぎゅうじっていた。植民しょくみん貿易ぼうえき英国えいこくせき船籍せんせきだけに限定げんていされた。このほうにはみちおおかったがながあいだ見過みすごされてきた。しかし、際限さいげん差押さしおさえじょう利用りようしてこのほう厳格げんかく運用うんよう実行じっこううつされた。1761ねんマサチューセッツ弁護士べんごしジェイムズ・オーティスは、イギリスの憲法けんぽう保障ほしょうされるはずの植民しょくみんじん権利けんり差押さしおさえじょう侵害しんがいしていると主張しゅちょうした。オーティスは訴訟そしょうやぶれたが、ジョン・アダムズのちに「アメリカの独立どくりつはあのとき、あのまれた」とのこした。

1762ねんバージニア弁護士べんごしパトリック・ヘンリーはバージニアで「ひと大義たいぎ」をろんじた。バージニアの議会ぎかい法律ほうりつとおすが、それには国王こくおう投票とうひょうけんがあった。ヘンリーは「国王こくおう有益ゆうえき性格せいかくほう許可きょかしないことで、人民じんみんちちであることから専制せんせいしゃ堕落だらくし、忠実ちゅうじつ臣民しんみんたいするすべての権利けんりうしなう」とった[5]

印紙いんしほうたいする植民しょくみん抗議こうぎ 1765ねん[編集へんしゅう]

1764ねんイギリス議会ぎかい砂糖さとうほう通貨つうかほう成立せいりつさせ、植民しょくみんじんをさらに当惑とうわくさせることになった。これにたいする抗議こうぎとして組織そしきてきなイギリス製品せいひんボイコットおこなわれた。イギリスはおなねんに「宿営しゅくえいほう」をとおすことにより植民しょくみんじんちをけた。これはイギリスの兵隊へいたい特定とくてい地域ちいき住民じゅうみんによって世話せわされるべきものとしていた。1765ねん成立せいりつした印紙いんしほうはイギリスから植民しょくみんされた最初さいしょ直接ちょくせつぜいであった。新聞しんぶん年鑑ねんかん、パンフレットおよび公的こうてき文書ぶんしょなどの印刷物いんさつぶつは、それがトランプさつであっても印紙いんしることがもとめられた。13植民しょくみんすべてが激烈げきれつ抗議こうぎをし、バージニアのパトリック・ヘンリーやマサチューセッツのジェイムズ・オーティスのような人気にんきのある指導しどうしゃ大衆たいしゅう反対はんたい意見いけんでまとめた。「自由じゆう息子むすこたち」とばれる秘密ひみつ結社けっしゃおおくのまちつくられ、印紙いんしろうとすれば暴力ぼうりょく使つかっておどしたので、だれほうしたがわなかった。ボストン自由じゆう息子むすこたちふく海事かいじ裁判所さいばんしょ記録きろく文書ぶんしょき、首席しゅせき判事はんじトマス・ハッチンソン優美ゆうび屋敷やしき略奪りゃくだつした。いくつかの植民しょくみん政府せいふ共同きょうどう行動こうどう提案ていあんし、1765ねん10がつニューヨーク開催かいさいされた印紙いんしほう会議かいぎには9つの植民しょくみんから代表だいひょうあつまった。中庸ちゅうようジョン・ディキンソンが「権利けんり不満ふまん宣言せんげん」をげ、代表だいひょうなくして議会ぎかいとおした課税かぜいあん古代こだいからの権利けんりおかしていると主張しゅちょうした。議論ぎろん重点じゅうてんはイギリス製品せいひんのボイコットにおかれ、植民しょくみん輸入ゆにゅうだかは1764ねんの225まんポンドから1765ねんの194まんポンドにった。ロッキンガム内閣ないかく権力けんりょくにぎっていたイギリス議会ぎかいでは、印紙いんしほう廃案はいあんにするか、あるいは強制きょうせいするために軍隊ぐんたいおくるかという議論ぎろんになった。ベンジャミン・フランクリン雄弁ゆうべんにアメリカの事情じじょうかたった。植民しょくみんはフランスと先住民せんじゅうみんたいする一連いちれん戦争せんそうで、イギリス帝国ていこく防衛ぼうえいのために兵力へいりょくかね提供ていきょうし、そしてながした、その戦争せんそう費用ひようはらうために税金ぜいきんされることは不公平ふこうへいであり、反乱はんらんぶことになるとろんじた。議会ぎかいほう撤廃てっぱい同意どういしたが、1766ねんの「宣言せんげんほう」により「如何いかなる場合ばあいも」イギリス議会ぎかい植民しょくみんほうつく絶対ぜったいてき権利けんり保有ほゆうすると主張しゅちょうした[5]

1770ねん3月5にち、ボストンで群衆ぐんしゅうあつまっていちぐんのイギリスへいかこんだ。群衆ぐんしゅうおどしはその程度ていどしていき、ゆきだま瓦礫がれき兵士へいしげつけはじめた。混乱こんらんなかでほとんど全員ぜんいん兵士へいし群衆ぐんしゅうかって発砲はっぽうした。11めいたれそのうち5めい死亡しぼうした。

この出来事できごとぐにボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけんとよばれるようになった。虐殺ぎゃくさつ詳細しょうさい誇大こだいひろつたえられ植民しょくみんじんあいだはんえい感情かんじょうひろまった。この事件じけんとくにマサチューセッツにおけるイギリスと植民しょくみんあいだ関係かんけいまけ循環じゅんかんんでいった。

1767ねん、イギリス政府せいふタウンゼンド諸法しょほうとおした。これはかみ、ガラスおよびちゃふく日用にちよう必需ひつじゅひんたいする課税かぜいさだめたものだった。植民しょくみんじん増税ぞうぜいいかりイギリス製品せいひんのボイコットをつよめた。1773ねんサミュエル・アダムズ指導しどうされインディアン・モホークぞく扮装ふんそうをした一群いちぐんおとこたちがイギリスのちゃはこんできたふねうつり、1まんポンドと見積みつもられたちゃふねからうみてた。この事件じけんボストン茶会ちゃかい事件じけんばれるようになるが、アメリカの愛国あいこくしゃ伝承でんしょう重要じゅうよう位置付いちづけとなった。ただし、このときのちゃぜいは1シリングから3ペンスにげられたもので、けっして税率ぜいりつげではなかった。ことの根源こんげんは、1773ねん5月にさだめたちゃほうで、イギリスがひがしインド会社かいしゃ救済きゅうさいのためにちゃ輸入ゆにゅう独占どくせんし、みつ貿易ぼうえききんじたことであった。

イギリス政府せいふは「がた諸法しょほう」としてられるいくつかの法律ほうりつ成立せいりつさせて対抗たいこうした。このなかには、その商品しょうひん破壊はかいされたちゃ商人しょうにん植民しょくみん確認かくにんするまでボストンこう封鎖ふうさするという処置しょちふくまれていた。うまでもなく、これらがた諸法しょほうはイギリスにたいする植民しょくみん世論せろん悪化あっかさせるだけであった。

自由じゆう主義しゅぎ共和きょうわ主義しゅぎ[編集へんしゅう]

ジョン・ロック自由じゆう主義しゅぎてきかんがかた独立どくりつ革命かくめい政治せいじてき根拠こんきょおおきな影響えいきょうおよぼした。たとえば、ロックの「社会しゃかい契約けいやくろん」は、くに指導しどうしゃイギリスじん歴史れきしある権利けんりみにじった場合ばあいには、人々ひとびと指導しどうしゃ打倒だとうする自然しぜん権利けんりがあるとしていた。歴史れきしによっては、アメリカにおけるジャン=ジャック・ルソー影響えいきょう見出みいだものもいる[6]しゅう国家こっか憲法けんぽうくときに、アメリカじんモンテスキューイギリスの憲法けんぽうかんする理想りそうてきにバランスされているという分析ぶんせきもちいた。

独立どくりつ革命かくめい推進すいしんしたちからは「共和きょうわ主義しゅぎ」とばれる政治せいじ理論りろんをアメリカじんっていたことであり、1775ねん植民しょくみん圧倒的あっとうてきちからった。イギリスの「土地とち根差ねざした党派とうは」は政治せいじ腐敗ふはいおそれることを強調きょうちょうしてイギリス政府せいふ批判ひはんしていたが、アメリカの政治せいじにも影響えいきょうあたえた。植民しょくみんじん奢侈しゃし世襲せしゅうされる貴族きぞく階級かいきゅうの「政府せいふ」にれていたが、これを徐々じょじょ非難ひなんするようになった。政治せいじ腐敗ふはいかんがえられる最大さいだいあくであり、市民しみん美徳びとく個人こじんてき欲望よくぼうよりも公的こうてき義務ぎむ前面ぜんめんすために要求ようきゅうされた。おとこくにのためにたたか公的こうてき義務ぎむがあった。女性じょせいには「共和きょうわせいはは」であることが理想りそうとなり、アビゲイル・アダムズやマーシー・オーティス・ウォーレンによって実行じっこうされた。共和きょうわせい女性じょせい最初さいしょ義務ぎむ子供こどもたち共和きょうわせい価値かちかんおしえることであり、贅沢ぜいたく見栄みえけることであった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく建国けんこくちちばれるサミュエル・アダムズ、パトリック・ヘンリー、トマス・ペイン、ベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントントーマス・ジェファーソンおよびジョン・アダムズは共和きょうわ主義しゅぎつよ主唱しゅしょうしゃであった[7]

西部せいぶ土地とち紛争ふんそう[編集へんしゅう]

イギリスは1763ねん宣言せんげんアパラチア山脈さんみゃくえての植民しょくみんじん進出しんしゅつ規制きせいしていた。それにもかかわらず開拓かいたくしゃ集団しゅうだん西部せいぶへの移住いじゅうつづけた。宣言せんげんもなく修正しゅうせいされ開拓かいたくしゃたいする障害しょうがいとはならなくなったが、宣言せんげん発行はっこうされたことと、自分じぶんたちにはなん相談そうだんかれたということが植民しょくみんじんいかりをった。1774ねんのケベックほうケベック境界きょうかいオハイオがわまでばし、13植民しょくみん要求ようきゅう拒絶きょぜつするものだった。しかし、このときまでに植民しょくみんじんはイギリスのあたらしい法律ほうりつをほとんど無視むしするようになった。開拓かいたくしゃたち民兵みんぺいきたえ、戦争せんそう準備じゅんびをしていた[8]

危機きき 1772ねん-1775ねん[編集へんしゅう]

ガスペーごう
ボストン茶会ちゃかい事件じけん

アメリカの独立どくりつにはおおくの原因げんいんがあったが、一連いちれん出来事できごと最終さいしゅうてきには戦争せんそう勃発ぼっぱつがねになった[9]1772ねん6がつ、ガスペー事件じけんこった。不人気ふにんき貿易ぼうえき規制きせい活発かっぱつ強制きょうせいする活動かつどうおこなっていたイギリスの艦船かんせんガスペーごうがアメリカの愛国あいこくしゃによってやされた。そのぐに、マサチューセッツのトマス・ハッチンソン知事ちじは、知事ちじ判事はんじがロンドンから直接ちょくせつ給与きゅうよはらわれていることを報告ほうこくしたが、これは植民しょくみん議会ぎかい無視むしするものであった。1772ねんおそく、サミュエル・アダムズは13植民しょくみん全体ぜんたいつな通信つうしん委員いいんかいあたらしくつくり、革命かくめい勢力せいりょく政府せいふとなる枠組わくぐみをつくった。1773ねんはやく、最大さいだい植民しょくみんであるバージニアがその通信員つうしんいんかい創設そうせつし、パトリック・ヘンリーやトーマス・ジェファーソンが任務にんむにあたった[10]

植民しょくみんじんのいわゆる「がた諸法しょほう」は、イギリス議会ぎかい法制ほうせいした4つの法律ほうりつからできていた[11]。1つは「マサチューセッツ統制とうせいほう」であり、マサチューセッツにたいする特許とっきょ修正しゅうせいし、まち集会しゅうかい制限せいげんした。2つは「司法しほう管理かんりほう」であり、イギリスへい法廷ほうてい召喚しょうかんされるとしても植民しょくみんではなく、イギリス本国ほんごく法廷ほうていでということにされた。3つは「ボストンこうほう」であり、ボストン茶会ちゃかい事件じけんうしなわれたちゃ弁償べんしょうむまでボストンこう封鎖ふうさすることであった。ただし、ちゃ弁償べんしょう結局けっきょくなされなかった。4つほうは1774ねんの「宿営しゅくえいほう」であり、知事ちじ使つかわれていない建物たてものをイギリスへい宿舎しゅくしゃてることを許可きょかしていた。1774ねんあき開催かいさいされただいいち大陸たいりく会議かいぎは「がた諸法しょほう」が憲法けんぽうはんしているという、いわゆるサフォーク決議けつぎ採択さいたくし、大衆たいしゅうには民兵みんぺい組織そしきを、マサチューセッツには愛国あいこくしゃ政府せいふつくることを要求ようきゅうした。

このことをけて、とくにマサチューセッツ統制とうせいほう対応たいおうするためにウースター住民じゅうみん土地とち政庁せいちょうしゃまえ武装ぶそうしたピケをり、イギリスの判事はんじいれちょうこばんだ。おなじような出来事できごと植民しょくみん地中ちちゅうこった。イギリスは本国ほんごくから増援ぞうえんたいおくったが、その部隊ぶたい到着とうちゃくするまえに、防御ぼうぎょあついボストンのぞくマサチューセッツ植民しょくみん全体ぜんたい地域ちいき事情じじょうかんしてはイギリスの統制とうせいからはずれてしまった。

レキシントンでの戦闘せんとう開始かいし[編集へんしゅう]

ベンジャミン・フランクリンによって作成さくせいされた「たたかいにくわわれ、さもなくばを」の漫画まんが。イギリスに対抗たいこうするために植民しょくみん団結だんけつかえうったえた。

1775ねん4がつ19にちレキシントン・コンコードのたたかこった。これはイギリスぐん軍隊ぐんたいマサチューセッツコンコードおくって植民しょくみん武器ぶき押収おうしゅうし、反乱はんらん指導しどうしゃ逮捕たいほしようとしたときのことであった。これがアメリカ独立どくりつ戦争せんそう最初さいしょたたかいとなり、そのらせはまたたに13植民しょくみん地中ちちゅうひろまり、植民しょくみん民兵みんぺい召集しょうしゅうしてボストン包囲ほういのために派遣はけんした。6月17にちにはバンカーヒルのたたかこった。1776ねん3がつジョージ・ワシントンそう司令しれいかんとした大陸たいりくぐんは、イギリスぐんをボストンから撤退てったいさせた。革命かくめい勢力せいりょくは13植民しょくみんすべてを確保かくほ独立どくりつ宣言せんげんする準備じゅんびととのった。おおくのおう党派とうは存在そんざいがあったが、1776ねん6がつ時点じてんではどこも支配しはいしてはいなかった。イギリスの役人やくにんすべ逃亡とうぼうした[12]

だい大陸たいりく会議かいぎ戦争せんそうはじまったのちの1775ねん5がつ招集しょうしゅうされた。大陸たいりく会議かいぎ大陸たいりくぐん創設そうせつし、和解わかいのためにオリーブのえだ請願せいがんをロンドンにおくった。イギリス国王こくおうジョージ3せいはそのりを拒否きょひし、そのわりに反乱はんらん状態じょうたい宣言せんげんして「裏切うらぎもの」にたいする行動こうどう要求ようきゅうした。こののち1783ねんまで具体ぐたいてき和平わへい交渉こうしょうかった。

愛国あいこくしゃおう党派とうはおよび中立ちゅうりつ[編集へんしゅう]

愛国あいこくしゃ革命かくめい勢力せいりょく[編集へんしゅう]

革命かくめい勢力せいりょく当時とうじ愛国あいこくしゃ(パトリオット)」とか、「ホィッグ」、「会議かいぎ」、あるいは「アメリカじん」とばれた。愛国あいこくしゃには社会しゃかいてきまた経済けいざいてき幅広はばひろ階層かいそうものふくまれていたが、アメリカじん権利けんりまもるという必要ひつようせいについては一体いったいとなっていた。戦後せんご、ジョージ・ワシントン、ジェームズ・マディソン、ジョン・アダムズ、アレクサンダー・ハミルトンおよびジョン・ジェイといった愛国あいこくしゃふか共和きょうわ主義しゅぎ信奉しんぽうし、裕福ゆうふく力強ちからづよ国家こっか建設けんせつ邁進まいしんした。一方いっぽうパトリック・ヘンリー、ベンジャミン・フランクリンおよびトーマス・ジェファーソンといった愛国あいこくしゃ民主みんしゅ主義しゅぎ推進すいしんりょくとし農業のうぎょう基本きほんとして、おおきな政治せいじてき平等びょうどうせいのもとに地域ちいき分散ぶんさんした社会しゃかいのぞんだ。

愛国あいこくしゃ」という言葉ことばたんに、アメリカの独立どくりつがわいた植民しょくみんひとという意味合いみあいで使つかわれた。革命かくめい勢力せいりょくを「愛国あいこくしゃ」とぶことは、なが歴史れきし慣習かんしゅうったものであり、このときもそうであった。どちらかのがわいているという偏見へんけんあらわ意味合いみあいはかった。

おう党派とうは中立ちゅうりつ[編集へんしゅう]

おう党派とうはかずについては実際じっさい計数けいすうする方法ほうほうはないが、歴史れきし植民しょくみんじんの15%ないし25%は国王こくおう忠実ちゅうじつなままであったとている。当時とうじかたは「ロイヤリスト」、「トーリー」、あるいは「国王こくおうひと」であった。典型てんけいてきおう党派とうは年長ねんちょうであり、すすんで国王こくおうへの忠誠ちゅうせいてようとはせず、おおくはイングランド国教こっきょうかいとのむすびつきがつよかった。ボストンのトマス・ハッチンソンのようにイギリス帝国ていこくとのむすびつきのつよ事業じぎょうおこな成功せいこうした商人しょうにんおおかった。しかし、この戦争せんそうめれば内戦ないせんであったので、おな家族かぞくでも両派りょうはかれる場合ばあいがあった。ベンジャミン・フランクリンの息子むすこニュージャージー知事ちじであったウィリアム・フランクリンは、戦争せんそうぜん期間きかんつうじておう党派とうは立場たちばくずさず、ちちとの対話たいわ途絶とだえた。アメリカに移民いみんしてきてからいまあさものは、完全かんぜんにアメリカに同化どうかしてらず、国王こくおう支持しじする傾向けいこうがあった。内陸ないりく開拓かいたくしゃとしてはいったスコットランドひとがこのれいである[13]

高貴こうきまれではなくておう党派とうはであった顕著けんちょれいもあるが、そのかず歴史れきし推計すいけいなかにはふくまれていないとおもわれるものがある。そのなかでも代表だいひょうてきれいアメリカの先住民せんじゅうみんぞくであり、アメリカじん中立ちゅうりつであってくれればとおもっていたがこれを拒否きょひすることになった。おおくの種族しゅぞくがイギリス帝国ていこくとの同盟どうめいうごいた。地域ちいき住民じゅうみん指導しどうしゃとの提携ていけい確保かくほする動機どうきけが両派りょうはからなされていたが、植民しょくみんとの交易こうえきおおくをたよっていた種族しゅぞく革命かくめい勢力せいりょく傾向けいこうがあった。ただし、政治せいじてき要素ようそ重要じゅうようであった。おう党派とうはいた先住民せんじゅうみんぞく指導しどうしゃなかでももっと有名ゆうめいなのが、モホークぞく指導しどうしゃジョセフ・ブラントであり、ペンシルベニアニューヨーク孤立こりつした開拓かいたくおそってまわった。しかし、1779ねんサリバン遠征えんせいたいによってニューヨークからされ、おう党派とうは先住民せんじゅうみんぞくカナダへの移住いじゅう余儀よぎなくされた[14]

ほかにもおう党派とうはいてはいたが、文献ぶんけんなどに記録きろくされていないのがアフリカけいアメリカじん奴隷どれいであり、奴隷どれいから解放かいほうしてくれたおれいに、あるいは家族かぞくまもるため、ある場合ばあいには土地とち特許とっきょるため(しばしばその約束やくそく反故ほごにされた)に積極せっきょくてきにイギリスぐん従軍じゅうぐんした。戦争せんそう進行しんこうしたがってこれら黒人こくじんおう党派とうはおおくがノバスコシア西にしインド諸島しょとうなどイギリス帝国ていこくのあちこちに移住いじゅうし、いまもその子孫しそんのこっている[15]

少数しょうすう民族みんぞく戦争せんそうあいだ中立ちゅうりつとどまろうとしたが、そのかずあきらかでない。おおくは目立めだたないことにてっした。しかし、とくにペンシルベニアのクエーカー教徒きょうと積極せっきょくてき中立ちゅうりつ宣言せんげんした重要じゅうよう集団しゅうだんであった。革命かくめい勢力せいりょく独立どくりつ宣言せんげんしたのちで、イギリスとの取引とりひきつづけていたクエーカーは、イギリス支配しはい支持しじするもの革命かくめい勢力せいりょく批判ひはんする「扇動せんどう文書ぶんしょ考案こうあんしゃ著者ちょしゃ」として革命かくめい勢力せいりょくから攻撃こうげきけた。

戦後せんごおう党派とうはだい多数たすうはアメリカにのこ以前いぜんらしにもどった。サミュエル・シーベリーのような人物じんぶつ傑出けっしゅつしたアメリカの指導しどうしゃになった。10まんにんから25まんにんられるおう党派とうはがカナダ、イギリスあるいは西にしインド諸島しょとう移住いじゅうし、歴史れきしじょうでもおおきな移住いじゅうひとつとなった。これはアメリカ植民しょくみん人口じんこうの5%程度ていどとなった。1783ねん南部なんぶおう党派とうは西にしインド諸島しょとう移住いじゅうするとき、やく75,000めい奴隷どれいともなってった[16]西にしインド諸島しょとうではアメリカより26ねんはや奴隷どれい解放かいほうされた。

愛国あいこくしゃなか階級かいきゅうによるちが[編集へんしゅう]

20世紀せいき初期しょきのJ・フランクリン・ジェイムソンのような歴史れきしたちは、愛国あいこくしゃがわいたもの階級かいきゅう構成こうせい調しらべ、独立どくりつ革命かくめいなか階級かいきゅう闘争とうそうがあったという証拠しょうこさがした。しかし20世紀せいき後半こうはんでは、歴史れきしおおくがそのような解釈かいしゃく放棄ほうきして、そのわりにたか水準すいじゅん理論りろんてき一体いったいせい強調きょうちょうした。富裕ふゆうおう党派とうはれば貧乏びんぼうおう党派とうはもいたのとおなじく、愛国あいこくしゃ様々さまざま資産しさん背景はいけい階層かいそう混在こんざいするものであり、富裕ふゆう教育きょういくがあるもの軍隊ぐんたいでも士官しかんになる可能かのうせいたかかった。理論りろんてき意見いけん一致いっちがいつも優先ゆうせんされた。愛国あいこくしゃはイギリスからの圧政あっせい不当ふとう税金ぜいきんからの解放かいほう、そしてなによりもその固有こゆう権利けんりであるとかんがえられることの確保かくほのための手段しゅだんとして、独立どくりつなしていた。ほとんどの自作農じさくのう技能ぎのう職人しょくにん商店しょうてんぬし愛国あいこくしゃがわき、政治せいじてき平等びょうどうもとめた。これらの人々ひとびととくにペンシルベニアでは成功せいこうしたが、ニューイングランドではそうでもなかった。ニューイングランドではジョン・アダムズがトマス・ペインの「コモン・センス」を「おろかな民主みんしゅ主義しゅぎ発想はっそう」を提案ていあんしているとって攻撃こうげきしていた[17]

女性じょせい[編集へんしゅう]

アビゲイル・アダムズ

あらゆるタイプの女性じょせいたち様々さまざま方法ほうほうでアメリカ独立どくりつ貢献こうけんした。男性だんせいおなじように参加さんかした女性じょせいりょうぐんどもにいた。イギリスけいアメリカじん、アフリカけいアメリカじんおよび先住民せんじゅうみんぞく女性じょせいは、おなじように愛国あいこくしゃがわあるいはおう党派とうはがわいた。

革命かくめい勢力せいりょく公式こうしき政治せいじには女性じょせいふくまれていなかったが、政治せいじ市民しみん社会しゃかいまた家庭かてい生活せいかつのあらゆるめんはいってきた戦争せんそう直面ちょくめんした愛国あいこくしゃ女性じょせいには、通常つうじょう家庭かていない生活せいかつですら政治せいじてき意味合いみあいをびてくるようになった。愛国あいこくしゃ女性じょせいはイギリス製品せいひんのボイコットにくわわった。イギリスぐん情報じょうほうぬすんだ。大陸たいりくぐんいてあるき、洗濯せんたくをし、料理りょうりをして兵士へいし世話せわをした。秘密ひみつ伝令でんれいとなったり、男装だんそうして実戦じっせんたたかったりした。け、自家じかにいる女性じょせい軍隊ぐんたいとその家族かぞくべさせていくために農事のうじ作業さぎょうつづけた。

イギリス製品せいひんのボイコットはアメリカの女性じょせいにとって意志いしをもって参加さんかできることだった。ボイコットの対象たいしょうちゃ衣類いるいのような家庭かてい用品ようひんであった。女性じょせいたちすたれて使つかわれなくなっていた紡績ぼうせき機織はたお挑戦ちょうせんした。1769ねん、ボストンの女性じょせいたちは4まんかせいと生産せいさんした。ミドルタウンの180にん女性じょせいたちは20,522ヤード (18,765 m)のぬのげた[18]

政治せいじてき忠誠ちゅうせいしん危機きき植民しょくみんアメリカ女性じょせい社会しゃかいてき生活せいかつ構造こうぞう破壊はかいした。男性だんせい国王こくおうたいする忠誠ちゅうせいしん表明ひょうめいしていようといまいと、階層かいそう家庭かていおよび親交しんこう関係かんけいとのきずなり、女性じょせい以前いぜんつながりから孤立こりつさせることになった。女性じょせいおっとたいする忠誠ちゅうせいしんは、むかし私的してきなことであったが、政治せいじてき行動こうどう変化へんかし、とくおっとおう党派とうはのままである女性じょせい場合ばあい深刻しんこく問題もんだいであった。

アフリカけいアメリカじんは、おとこおんなも、アメリカ独立どくりつうた文句もんく自由じゆう平等びょうどう約束やくそくするものとして理解りかいした。この期待きたい実現じつげんされなかった。イギリスもアメリカも政府せいふ従軍じゅうぐんすれば解放かいほうすると約束やくそくし、おおくの奴隷どれいたちたたかい、軍隊ぐんたい支援しえんすることで生活せいかつくしていこうとした。しかし奴隷どれい解放かいほうわずアフリカけいアメリカじん女性じょせい戦争せんそう究極きゅうきょくてきにはなん変化へんかももたらさなかった。独立どくりつ達成たっせい北部ほくぶ段階だんかいてき奴隷どれい解放かいほうきたが、南部なんぶでは奴隷どれいせいひろがり、人種じんしゅてき偏見へんけんいたってはしん国家こっかになってもどこでもられるものであった。

先住民せんじゅうみんぞくにとっては、アメリカの独立どくりつ愛国あいこく主義しゅぎでも独立どくりつでもなかった。おおくの先住民せんじゅうみんぞくはヨーロッパじん紛争ふんそうまれることになん価値かち見出みだせず、中立ちゅうりつであろうとしたが、ほとんどのものがどちらかのがわくことがもとめられた。戦争せんそうちゅう先住民せんじゅうみんぞく集落しゅうらくはしばしば愛国あいこくしゃ民兵みんぺい最初さいしょ攻撃こうげき目標もくひょうにされ、ときにはどちらのがわいているかということも無視むしされた。先住民せんじゅうみんぞく女性じょせいたち戦争せんそうあたえたもっと基本きほんてき影響えいきょうは、いえ家族かぞくおよび農業のうぎょう生活せいかつ崩壊ほうかいであった。

しゅう憲法けんぽうおよび国家こっか憲法けんぽう策定さくてい[編集へんしゅう]

1776ねんなつまでに、愛国あいこくしゃすべての領土りょうど人民じんみん掌握しょうあくした。おう党派とうはちからたなかった。ぜん13植民しょくみんはそれまでの政府せいふ打倒だとうし、法廷ほうていめ、イギリスの代理人だいりにん知事ちじをそのいえからした。規制きせい法体ほうたいけいそとにある代表だいひょうしゃ会議かいぎや「議会ぎかい」におくものえらんだ。イギリスからあたえられていた勅許ちょっきょわるあたらしい憲法けんぽうかくくにもとめられた。そこはくにであり、植民しょくみんではなかった[19]

1776ねん1がつ5にちニューハンプシャー最初さいしょしゅう憲法けんぽう批准ひじゅんしたが、これはアメリカ独立どくりつ宣言せんげん署名しょめいの6ヶ月かげつまえのことであった。つづいて5がつには、大陸たいりく会議かいぎ決議けつぎによりあらゆる形態けいたいのイギリスの権力けんりょくおさえ、土地とちごとつくられる権力けんりょくえられることになった。バージニアサウスカロライナおよびニュージャージーが7がつ4にち以前いぜんにそれぞれの憲法けんぽう策定さくていした。ロードアイランドコネチカット単純たんじゅんにイギリスの勅許ちょっきょじょう採用さいようし、王室おうしつ言及げんきゅうするところを削除さくじょする方法ほうほうった[20]

あたらしいくに々はどのような形態けいたい政府せいふつくるかをめる必要ひつようがあったばかりでなく、どのようにして憲法けんぽうつくものえらぶか、どのようにしてそれを批准ひじゅんするかをめなければならなかった。めるものがその過程かてい支配しはいしたくにであるメリーランド、バージニア、デラウェア、ニューヨークおよびマサチューセッツでは、つぎのような特徴とくちょう憲法けんぽうができた。

  • 選挙せんきょけんについては十分じゅうぶん資産しさんがあること、被選挙権ひせんきょけんについてはさらに資産しさん基準きじゅんたかいこと。ただし、ニューヨークおよびメリーランドは資産しさん条件じょうけんひくくした[19]
  • 二院にいんせいとし、上院じょういんには下院かいんのチェック機能きのうをもたせたこと。
  • つよ知事ちじ議会ぎかいたいする拒否きょひけん十分じゅうぶん任命にんめいけんがあること。
  • 政府せいふ複数ふくすう地位ちいめる個人こじんたいして制限せいげんいかすくないこと。
  • 国家こっか宗教しゅうきょう継続けいぞくしたこと。

それほど裕福ゆうふくでもないもの組織そしきしてそれなりのちからったくに、すなわちペンシルベニア、ニュージャージーおよびニューハンプシャーではつぎのような条項じょうこうのある憲法けんぽうとなった。

  • 白人はくじん男性だんせいすべての参政さんせいけん、あるいは選挙せんきょけん被選挙権ひせんきょけんたいするちいさな財産ざいさん資格しかくさだめたこと。ニュージャージーは財産ざいさん寡婦かふにも参政さんせいけんあたえた。ただし、25ねん撤回てっかいされた。
    ベンジャミン・ラッシュ
  • つよ一院制いちいんせい議会ぎかいであること。
  • 比較的ひかくてきよわ知事ちじ権力けんりょく拒否きょひけんし、任命にんめいけんかぎられたこと。
  • 個人こじん政府せいふ複数ふくすう地位ちいくことをきんじたこと。

あるくに議会ぎかい保守ほしゅあるいは改革かいかくのどちらが政権せいけんるかということは、ちからがわ温和おんわしく結果けっかみとめるということを意味いみするのではなかった。ペンシルベニア憲法けんぽう改革かいかくてき条項じょうこうはわずか14年間ねんかんしかつづかなかった。1790ねん保守ほしゅ議会ぎかいせいすると、あらたに憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ要求ようきゅうし、憲法けんぽうえた。あたらしい憲法けんぽうでは白人はくじん男性だんせい普通ふつう選挙せんきょ制限せいげんし、知事ちじには拒否きょひけんあたえ、任命にんめいけんあたえた。また上院じょういん追加ついかして一院制いちいんせい議会ぎかい議員ぎいんよりも被選挙権ひせんきょけん資産しさん条件じょうけんきびしくした。トマス・ペインはこの憲法けんぽうをアメリカには相応ふさわしくないものとった[21]

独立どくりつ宣言せんげん 1776ねん[編集へんしゅう]

トマス・ペインコモン・センス

1776ねん1がつ10日とおかトマス・ペインは「コモン・センス」というだい政治せいじ冊子さっし発行はっこうし、イギリスとの問題もんだい解決かいけつする唯一ゆいいつ手段しゅだん共和きょうわせいであり、イギリスからの独立どくりつであるとうったえた[22]

7がつ2にちだい大陸たいりく会議かいぎにおいてアメリカ独立どくりつ宣言せんげん批准ひじゅんされた。戦争せんそうすでに1775ねん4がつはじまっており、独立どくりつ宣言せんげんが1ねん以上いじょうの1776ねん7がつであった。この時点じてんまで植民しょくみん和平わへいみち模索もさくしたが、すべてのくに独立どくりつえらんだ[23]

だい大陸たいりく会議かいぎは1777ねん11月に連合れんごう規約きやく採択さいたくした。これはアメリカでも最初さいしょ政府せいふかんする規定きていであり、主権しゅけん国家こっかとしてのくに々のゆる連合れんごうというかたちった。連合れんごう規約きやくかくくにによる批准ひじゅんのために、さらに3年間ねんかん以上いじょうついやされた[24]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう[編集へんしゅう]

イギリスの反撃はんげき 1776ねん-1777ねん[編集へんしゅう]

イギリスぐんは1776ねん8がつ反撃はんげきて、独立どくりつ戦争せんそうなかでも最大さいだい会戦かいせんとなったロングアイランドのたたかで、巣立すだちしてあいだもない大陸たいりくぐんやぶった。結果けっかてきニューヨーク占領せんりょうし、ワシントン将軍しょうぐんつかまえる寸前すんぜんまでいった。イギリスぐんはニューヨーク政治せいじ中心ちゅうしんとし軍事ぐんじ基地きちとして1783ねんまで保持ほじつづけた。つづいてニュージャージーまで侵攻しんこうしたが、ワシントンはデラウェアがわわたっての急襲きゅうしゅうで、トレントンのたたかプリンストンのたたかにおいてイギリスぐんやぶり、革命かくめいぐんいきかえさせ、ニュージャージーもうばかえした。1777ねん、イギリスぐんは2つの連携れんけいれていない遠征えんせいたい発進はっしんさせた。ニューヨーク本拠ほんきょ軍隊ぐんたいはワシントンをやぶり、フィラデルフィアおとしいれた。同時どうじ侵攻しんこうしたカナダに本拠ほんきょ軍隊ぐんたいはニューイングランドをることを目指めざしたが、進退しんたいあやまり、1777ねん10がつサラトガのたたか降伏ごうぶくした。この勝利しょうりつよくしたフランスは、ベンジャミン・フランクリンが軍事ぐんじ同盟どうめい画策かくさくしていたことがこうそうし、1778ねんはやくに公式こうしきにアメリカがわいて参戦さんせんした。のちスペインオランダもフランスと同盟どうめいむすび、イギリスはおおきな同盟どうめいこくいままに単独たんどく戦争せんそうおこなうことになった。ヨーロッパでは武装ぶそう中立ちゅうりつ同盟どうめい成立せいりつし、イギリスの貿易ぼうえき海上かいじょう封鎖ふうさなどで危機ききひんした。アメリカの戦線せんせんはイギリスにとってかずある戦線せんせんひとつにぎなくなった[25]

イギリスは敵国てきこく同盟どうめい相対そうたいてき低下ていかした軍事ぐんじりょく背景はいけいに、ヘンリー・クリントンがフィラデルフィアをわたしニューヨークの補強ほきょうかった。ワシントンは撤退てったいするイギリスぐん阻止そしせんとしてモンマスのたたかこしたが、これが北部ほくぶでは最後さいご会戦かいせんとなった。このたたかいは勝敗しょうはいかず、イギリスぐんはうまくニューヨークまで撤退てったいできた。北部ほくぶ戦線せんせん手詰てづまり状態じょうたいとなり、戦略せんりゃくてき焦点しょうてん南部なんぶうつった[25]

イギリスぐん南部なんぶ攻撃こうげき 1778ねん-1783ねん[編集へんしゅう]

ヨークタウンでのコーンウォリス将軍しょうぐん降伏ごうぶく実質じっしつてき終戦しゅうせんけとなった。

1778ねん12月おそく、イギリスはジョージアサバンナ占領せんりょうし、きたのサウスカロライナへ侵攻しんこう開始かいしした。ジョージアの北部ほくぶはウィルクスぐんにおけるケトル・クリークのたたかいで愛国あいこくしゃぐん勝利しょうりし、この期間きかん占領せんりょうまぬかれた。イギリスぐんはサウスカロライナのチャールストン占領せんりょううご内陸ないりくでのとりでのネットワークをつくげた。この時点じてんでイギリスぐんおう党派とうはものたち英国えいこくしたあつまってくることを期待きたいしていた。しかし、十分じゅうぶんかずおう党派とうはあつまらないままに、イギリスぐんノースカロライナそしてバージニアへと進軍しんぐんした。バージニアではイギリス艦隊かんたいって救援きゅうえんされるものとかんがえていた。その期待きたいしていたイギリス艦隊かんたいはフランス艦隊かんたいやぶれた。ヨークタウンのたたか身動みうごきがれなくなったイギリスぐんは、アメリカ・フランスぐん包囲ほういされ、チャールズ・コーンウォリス将軍しょうぐん以下いかぜんぐん1781ねん10月にワシントンぐん降伏ごうぶくした。イギリスおうジョージ3せいたたかいの継続けいぞくのぞんだが、その支持しじしゃ議会ぎかいでの勢力せいりょくうしない、戦争せんそう実質じっしつてきわった[25]1783ねん3がつ10日とおかケープカナベラルおき大陸たいりく海軍かいぐんのジョン・バリー船長せんちょう指揮しきする連合れんごう船隊せんたいが、大陸たいりくぐん給与きゅうようばおうとしたHMSシビル以下いか3せきのイギリス艦船かんせんたたかったのが最後さいご海戦かいせんであった。

反逆はんぎゃく問題もんだい[編集へんしゅう]

1775ねん8がつ、イギリスおうはアメリカの革命かくめい勢力せいりょくをイギリスにたいする反逆はんぎゃくしゃであると宣言せんげんした。イギリス政府せいふ当初とうしょアメリカぐん捕虜ほりょ普通ふつう犯罪はんざいしゃとしてあつかうことからはじめた。捕虜ほりょ監獄かんごくれられ、反逆はんぎゃくざいさば準備じゅんびすすめられた。ジャーメインきょうサンドウィッチきょうとく熱心ねっしんにこれをすすめた。バンカーヒルのたたかいで捕虜ほりょとなったおおくのものうたがいも絞首刑こうしゅけいになるものとおもわれた。しかしイギリス政府せいふ次段じだんかい、つまり反逆はんぎゃくざい裁判さいばんけい執行しっこうすすむことを躊躇ためらった。アメリカにはなんまんにんにもおよおう党派とうはがいて、アメリカの反逆はんぎゃくざいさばかれる危険きけんせいがあった。イギリスはこれらおう党派とうは使つかってたたかいを展開てんかいする戦略せんりゃくてていた。1777ねんのサラトガでの降伏ごうぶくで、なんせんものイギリスへいがアメリカぐん捕虜ほりょとなり人質ひとじちというかたちになった。このためにアメリカじん捕虜ほりょ反逆はんぎゃくざいさばかれることはなくなり、監獄かんごくせんという問題もんだいのこったものの交戦こうせんこく戦闘せんとういん権利けんりしたがってあつかわれることになった。1782ねんイギリス議会ぎかい立法りっぽうにより、反逆はんぎゃくしゃではなく戦争せんそう捕虜ほりょ公式こうしきみとめられた。戦後せんごりょうぐん捕虜ほりょ解放かいほうした[26]

パリでの和平わへい条約じょうやく 1783ねん[編集へんしゅう]

1783ねんパリ条約じょうやくばれるイギリスとの和平わへい条約じょうやくで、アメリカはミシシッピーがわからひがし五大ごだいみずうみみなみ領土りょうど獲得かくとくした。ただし、フロリダふくまれなかった。1783ねん9月3にち、イギリスはスペインとべつ条約じょうやくむすび、フロリダをスペインに返還へんかんした。割譲かつじょうされた地域ちいき先住民せんじゅうみんぞく条約じょうやく交渉こうしょうせきにおらず、アメリカに軍事ぐんじてき敗北はいぼくきっするまで条約じょうやくのことを認識にんしきしていなかった。境界きょうかい負債ふさい問題もんだい1795ねんジェイ条約じょうやくまで解決かいけつされなかった[27]

戦争せんそうのち[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく住人じゅうにんの5%すなわちおう党派とうはにとって、敗北はいぼく追放ついほうともなうものであった。おそらくは10まんにん最大さいだいでも25まんにんおう党派とうはあたらしくできた共和きょうわこくはなれ、ケベック(イースタン・タウンシップに集中しゅうちゅうした)、プリンスエドワードアイランド、ノバスコシアなどのきたアメリカにのこされたイギリス植民しょくみん移住いじゅうした。アッパー・カナダ現在げんざいオンタリオしゅう)やニューブランズウィックあたらしい植民しょくみん移住いじゅうしゃのためにつくられた[28]

世界せかいおよぼした影響えいきょう[編集へんしゅう]

アメリカの独立どくりつ世襲せしゅう階級かいきゅう地位ちい状態じょうたいはじまった。ただし、そのようなものをつくろうという意図いとシンシナティ協会きょうかい結成けっせいされてうごいたが不首尾ふしゅびわった。独立どくりつ獲得かくとく連邦れんぽうとう反対はんたいがあったにもかかわらず、マシュー・ライアンが主張しゅちょうしたようなしん民主みんしゅてき政治せいじ実現じつげん可能かのうとなった[29]人民じんみん権利けんりかくくに憲法けんぽうれられた。かくして、アメリカの共和きょうわせい中核ちゅうかくてき価値かちかんとなる自由じゆう個人こじんしょ権利けんり平等びょうどうおよび政治せいじ腐敗ふはいたいする敵意てきいひろ保証ほしょうすることになった。ヨーロッパのふる秩序ちつじょ正面しょうめんから挑戦ちょうせんするということは、世襲せしゅうせい政治せいじ権力けんりょくたいする挑戦ちょうせんであり、統治とうち統治とうちされるもの同意どういうえっているというかんがえに挑戦ちょうせんするものであった。ヨーロッパの植民しょくみん帝国ていこくたいする革命かくめいはじめて成功せいこうしたことは、おおくの植民しょくみんじん模範もはんとなり、自分じぶんたち事態じたい打開だかいして自治じち政府せいふじゅてることができるとおもわせるようになった[30]

1777ねんモロッコアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのイギリスからの独立どくりつ最初さいしょみとめたくにとなった。この2カ国かこくは10ねんにモロッコ=アメリカ友好ゆうこう条約じょうやくむすんだ。1782ねん2がつ26にちネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこくの7しゅうひとつ、フリースラントしゅうがアメリカの独立どくりつみとめた2番目ばんめ政体せいたいになった。こののち4がつ19にちにはネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく議会ぎかい承認しょうにんした。ジョン・アダムズはちゅうハーグ初代しょだいアメリカ大使たいしとなった[31]

アメリカの独立どくりつは「大西洋たいせいよう革命かくめい」の最初さいしょなみとなり、フランス革命かくめいハイチ革命かくめいおよびラテンアメリカの解放かいほう戦争せんそうへとつづいた。余波よはは1798ねんアイルランド蜂起ほうきポーランド・リトアニア共和きょうわこくやオランダの内乱ないらんにもおよんだ[32]

アメリカの独立どくりつとくにイギリス、アイルランド、オランダおよびフランスに直接ちょくせつつよ衝撃しょうげきをもたらした。イギリスやアイルランドのホィッグとういんはアメリカを支援しえんする発言はつげんかえした。おおくのヨーロッパ諸国しょこくにとってふる体制たいせい崩壊ほうかいさせる教訓きょうくんになり(16世紀せいきまつのオランダの反乱はんらんや100ねんまえのイギリス清教徒せいきょうと革命かくめいべつとして)、フランス革命かくめいのときのラファイエットなどの活動かつどうあらわされた。アメリカ独立どくりつ宣言せんげんはフランスの人間にんげん市民しみん権利けんり宣言せんげん影響えいきょうあたえた[33][34]

アメリカの独立どくりつ影響えいきょうラテンアメリカとく顕著けんちょであった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく自由じゆう決定的けっていてき反映はんえい享受きょうじゅした植民しょくみんのモデルとして、かく植民しょくみん独立どくりつへの闘争とうそうはじめた。ラテンアメリカの歴史れきしたちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくをモデルとするおおくのむすびつきを指摘してきしている[35]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではイギリスがその植民しょくみんすべてで奴隷どれいせいきんじたのちなが奴隷どれいせい保持ほじつづけ、1865ねんまでつづいた。アメリカの先住民せんじゅうみんぞく悲惨ひさん経過けいか辿たどった。イギリスの支配しはいでは保護ほごされていたものが、アメリカのしたはいって以前いぜん条約じょうやく反故ほごにされ、その権利けんり侵害しんがいされ、最後さいご土地とちげられた。

解釈かいしゃく[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ影響えいきょうについての解釈かいしゃく様々さまざまである。この多様たようさのなかでも究極きゅうきょくのものは、アメリカ独立どくりつ結局けっきょく革命かくめい」ではなくて、急速きゅうそく植民しょくみん社会しゃかい変革へんかくされたわけではなく、とおくにあった政府せいふちかくのものにえられただけだというふる見解けんかいである[36]歴史れきしのバーナード・ベイリン、ゴードン・ウッドおよびエドムンド・モーガンなどによって提案ていあんされた最近さいきん見解けんかいは、人民じんみん自然しぜん権利けんり人民じんみんによってえらばれた法体ほうたいけいというような共和きょうわせい原則げんそくたいする信奉しんぽうふかまるにつれ、世界せかい情勢じょうせいふか変化へんか十分じゅうぶん影響えいきょうあたえた、特徴とくちょうるまた急進きゅうしんてき出来事できごとであったとしている[37]

国家こっか負債ふさい[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ国家こっかった負債ふさいには3種類しゅるいる。最初さいしょのものは外国がいこくとくにフランスからりた1100まんドルであった。2番目ばんめと3番目ばんめはそれぞれやく2400まんドルであり、戦争せんそうちゅう軍隊ぐんたい食料しょくりょううまなどの物資ぶっしったアメリカじんたいして国家こっかおよびかくくに政府せいふっているものであった。大陸たいりく会議かいぎあたらしい連邦れんぽう政府せいふ外国がいこくからの負債ふさい償還しょうかんすることに同意どういした。そのに、戦争せんそうちゅう兵士へいし商人しょうにんおよび農夫のうふたいして、あたらしい憲法けんぽう政府せいふつくって負債ふさいはらうということをみとめさせて、発行はっこうした「約束やくそく手形てがた」による負債ふさいもあった。かくくに戦費せんぴ総計そうけいで1おく1400まんドルにのぼり、連邦れんぽう政府せいふ戦費せんぴは3700まんドルであった[38]。1790ねん合衆国がっしゅうこく議会ぎかいかくくに負債ふさい海外かいがい国内こくないかかわらず合算がっさんして8000まんドルを国家こっか負債ふさいとした。あらゆるもの戦時せんじ債権さいけん額面がくめんどおり、くに威信いしんたもたれ信用しんよう確立かくりつされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

参照さんしょう作品さくひん[編集へんしゅう]

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調査ちょうさ記録きろく[編集へんしゅう]

特別とくべつ研究けんきゅう[編集へんしゅう]

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  • Palmer, Robert R. The Age of the Democratic Revolution: A Political History of Europe and America, 1760-1800. vol 1 (1959) online edition
  • Resch, John Phillips and Walter Sargent, eds. War And Society in the American Revolution: Mobilization And Home Fronts (2006)
  • Rothbard, Murray, Conceived in Liberty (2000), Volume III: Advance to Revolution, 1760-1775 and Volume IV: The Revolutionary War, 1775-1784. ISBN 0-945466-26-9.
  • Shankman, Andrew. Crucible of American Democracy: The Struggle to Fuse Egalitarianism and Capitalism in Jeffersonian Pennsylvania. University Press of Kansas, 2004.
  • Van Tyne, Claude Halstead. American Loyalists: The Loyalists in the American Revolution (1902)
  • Volo, James M. and Dorothy Denneen Volo. Daily Life during the American Revolution (2003)
  • Wahlke, John C. ed. The Causes of the American Revolution (1967) readings
  • Wood, Gordon S. The Radicalism of the American Revolution: How a Revolution Transformed a Monarchical Society into a Democratic One Unlike Any That Had Ever Existed. Alfred A. Knopf, 1992.

いち資料しりょう[編集へんしゅう]

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  • Commager, Henry Steele and Morris, Richard B., eds. The Spirit of 'Seventy-Six: The Story of the American Revolution As Told by Participants (1975) (ISBN 0-06-010834-7) short excerpts from hundreds of official and unofficial primary sources
  • Humphrey; Carol Sue, ed. The Revolutionary Era: Primary Documents on Events from 1776 to 1800 Greenwood Press, 2003
  • Morison, Samuel E. ed. Sources and Documents Illustrating the American Revolution, 1764-1788, and the Formation of the Federal Constitution (1923). 370 pp online version
  • Tansill, Charles C. ed.; Documents Illustrative of the Formation of the Union of the American States. Govt. Print. Office. (1927). 1124 pages online version
  • Martin Kallich and Andrew MacLeish, eds. The American Revolution through British eyes (1962) primary documents

その学術がくじゅつてき資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]