大 だい さん橋 ばし (おおさんばし)は、神奈川 かながわ 県 けん 横浜 よこはま 市 し 中 ちゅう 区 く にある横浜 よこはま 港 こう の港湾 こうわん 施設 しせつ 。
1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )に完成 かんせい した鉄 てつ 桟橋 さんばし を前身 ぜんしん とし、「税関 ぜいかん 桟橋 さんばし 」「横浜 よこはま 桟橋 さんばし 」「山下 やました 町 まち 桟橋 さんばし 」等 とう の様々 さまざま な名称 めいしょう があったが、その後 ご 、「大 だい 桟橋 さんばし 」に落 お ち着 つ いた[1] 。その他 た 、太平洋戦争 たいへいようせんそう 後 のち 連合 れんごう 軍 ぐん に接収 せっしゅう されていた間 あいだ は「サウスピア 」と呼 よ ばれ[2] [注 ちゅう 1] 、明治 めいじ の末 すえ 頃 ごろ から1970年 ねん 頃 ころ までは「メリケン波止場 はとば 」とも呼 よ ばれていた[3] 。前身 ぜんしん 施設 しせつ は名実 めいじつ ともに桟橋 さんばし であったが、2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )に完成 かんせい した現在 げんざい の大 だい さん橋 ばし は構造 こうぞう 的 てき には桟橋 さんばし ではなく岸壁 がんぺき であり、平仮名 ひらがな 混 ま じりの「大 だい さん橋 ばし 」が正式 せいしき な表記 ひょうき である[4] [5] 。
横浜 よこはま 港 こう 大 だい さん橋 ばし ふ頭 とう および横浜 よこはま 港 こう 大 だい さん橋 ばし 国際 こくさい 客船 きゃくせん ターミナル により構成 こうせい され、横浜 よこはま 港 こう における国内 こくない および外国 がいこく 航路 こうろ の客船 きゃくせん の主要 しゅよう 発着 はっちゃく 埠頭 ふとう である。横浜 よこはま 港 こう の象徴 しょうちょう 的 てき 存在 そんざい であると同時 どうじ に、横浜 よこはま 市 し や横浜 よこはま 港 こう における主要 しゅよう 観光 かんこう 地 ち としても知 し られている[6] 。
日本郵船 にっぽんゆうせん の子会社 こがいしゃ ・郵船 ゆうせん クルーズ のクルーズ客船 きゃくせん である「飛鳥 あすか II 」は横浜 よこはま 港 こう が船籍 せんせき 港 みなと (母港 ぼこう )であり、大 だい さん橋 ばし を拠点 きょてん としている。また、横浜 よこはま 港 こう 周遊 しゅうゆう 船 せん である「ロイヤルウイング 」や東海汽船 とうかいきせん による伊豆諸島 いずしょとう への離島 りとう 旅客 りょかく 航路 こうろ も持 も っている[7] 。
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海上 かいじょう から見 み る大 だい さん橋 ばし ふ頭 とう
横浜 よこはま 開港 かいこう から大 だい 桟橋 さんばし 建設 けんせつ まで[ 編集 へんしゅう ]
横浜 よこはま 港 こう は幕末 ばくまつ の1859年 ねん (安政 あんせい 6年 ねん )に開港 かいこう して以来 いらい 、急増 きゅうぞう する貨物 かもつ 量 りょう に対 たい し、イギリス波止場 はとば (後 ご の「象 ぞう の鼻 はな 」波止場 はとば と呼 よ ばれる)やフランス波止場 はとば [8] と呼 よ ばれる艀 はしけ 荷役 にやく に必要 ひつよう な小規模 しょうきぼ の船 ふね 溜 た まりこそあったものの、直接 ちょくせつ 岸壁 がんぺき に接岸 せつがん し荷役 にやく を行 おこな える施設 しせつ がなかった。
増加 ぞうか 一途 いっと の貨物 かもつ 量 りょう は、艀 はしけ 荷役 にやく だけでは対応 たいおう しきれなくなり、接岸 せつがん 荷役 にやく を可能 かのう にする近代 きんだい 埠頭 ふとう の必要 ひつよう 性 せい が高 たか まっていった[9] 。艀 はしけ 荷役 にやく は、慢性 まんせい 的 てき な埠頭 ふとう 不足 ふそく により、海上 かいじょう コンテナ輸送 ゆそう への質的 しつてき 転換 てんかん まで長 なが く続 つづ き、まずは近代 きんだい 国家 こっか に相応 ふさわ しい埠頭 ふとう を建設 けんせつ することが当時 とうじ の早急 そうきゅう の課題 かだい とされた。
明治維新 めいじいしん 直後 ちょくご から井上 いのうえ 馨 かおる 大蔵 おおくら 大輔 だいすけ や、神奈川 かながわ 県知事 けんちじ からの要請 ようせい により、1870年 ねん に工 こう 部 ぶ 省 しょう お雇 やと い外国 がいこく 人 じん の英国 えいこく 人 じん 技師 ぎし リチャード・ブラントン による横浜 よこはま 築港 ちっこう 桟橋 さんばし 計画 けいかく の提案 ていあん [10] や、1874年 ねん には内務省 ないむしょう お雇 やと い外国 がいこく 人 じん オランダ人 じん 技師 ぎし ファン・ドールンにより築港 ちっこう 計画 けいかく 提案 ていあん [11] に至 いた り、大隈 おおくま 重信 しげのぶ 大蔵 おおくら 卿 きょう からも接岸 せつがん 荷役 にやく 体制 たいせい に向 む けた築港 ちっこう 計画 けいかく が上申 じょうしん され、多 おお くの要望 ようぼう があったが、実現 じつげん できなかった[11] 。また当時 とうじ 、既 すで に東京 とうきょう 港 こう 建設 けんせつ の機運 きうん があり、品川 しながわ 沖 おき に築港 ちっこう する案 あん もあったが、横浜 よこはま 市 し からの反対 はんたい や財政難 ざいせいなん により、、これも実現 じつげん しなかった。
横浜 よこはま 開港 かいこう から27年 ねん が経過 けいか した1886年 ねん になり、機運 きうん はいよいよ高 たか まり、内務省 ないむしょう からオランダ人 じん 技師 ぎし デ・リーケへの設計 せっけい 要請 ようせい や、神奈川 かながわ 県 けん よりイギリス陸軍 りくぐん 大佐 たいさ であり技官 ぎかん であったヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計 せっけい 要請 ようせい となった[12] 。しかし両者 りょうしゃ の設計 せっけい 案 あん は、明治 めいじ 政府 せいふ 内 うち でも議論 ぎろん が拮抗 きっこう し、さらに政府 せいふ 内 ない ではその上位 じょうい 案件 あんけん として、東京 とうきょう 港 こう 建設 けんせつ と横浜 よこはま 港 こう 建設 けんせつ のどちらを先行 せんこう させるかといった議論 ぎろん が深 ふか まっていた。
外務 がいむ 大臣 だいじん になっていた大隈 おおくま 重信 しげのぶ は、横浜 よこはま 港 こう 建設 けんせつ を強 つよ く進言 しんげん し、さらにパーマーがイギリス帝国 ていこく 『タイムズ 』記者 きしゃ を兼職 けんしょく して同 どう 紙上 しじょう で日本 にっぽん を好意 こうい 的 てき に報道 ほうどう した実績 じっせき [9] や、不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく 改正 かいせい に向 む けた日 にち 英 えい 同盟 どうめい への動 うご きと相 あい 交 ま じり、正式 せいしき にパーマーの横浜 よこはま 港 こう 築港 ちっこう 案 あん が採択 さいたく された[9] 。さらに下関 しものせき 砲撃 ほうげき 事件 じけん での賠償 ばいしょう のうち、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく へ支払 しはら った賠償金 ばいしょうきん が、1883年 ねん にグラント大統領 だいとうりょう およびアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 議会 ぎかい 承認 しょうにん より、日本 にっぽん への償還 しょうかん が承認 しょうにん されており、償還 しょうかん 賠償金 ばいしょうきん 785,000ドルを充当 じゅうとう させることで資金 しきん 的 てき 目処 めど も整 ととの った[9] 。
この時期 じき に横浜 よこはま 築港 ちっこう が正式 せいしき 決定 けってい されたことが、後年 こうねん の横浜 よこはま 港 こう や横浜 よこはま 市 し の発展 はってん に繋 つな がる決定的 けっていてき 瞬間 しゅんかん であったともいえる。
こうして1889年 ねん に横浜 よこはま 築港 ちっこう 第 だい 一 いち 期 き 工事 こうじ が始 はじ まり、接岸 せつがん 荷役 にやく が可能 かのう な埠頭 ふとう の建設 けんせつ が始 はじ まった。しかし基礎 きそ に必要 ひつよう な螺旋 らせん 杭 くい は、日本 にっぽん の工場 こうじょう からは供給 きょうきゅう できなかったため、大量 たいりょう の螺旋 らせん 杭 くい を輸入 ゆにゅう して建築 けんちく された。こうして1894年 ねん に現在 げんざい の大 だい さん橋 ばし の前身 ぜんしん となる「鉄 てつ 桟橋 さんばし 」 が完成 かんせい した[13] 。鉄 てつ 桟橋 さんばし は陸地 りくち からの総 そう 延長 えんちょう 738メートル、桟橋 さんばし 部分 ぶぶん は457メートル、幅 はば 19.2メートルの当時 とうじ の技術 ぎじゅつ で最先端 さいせんたん を行 い く近代 きんだい 埠頭 ふとう であった。
鉄 てつ 桟橋 さんばし の完成 かんせい を見 み たものの、横浜 よこはま 港 こう の貨物 かもつ 取扱 とりあつかい 量 りょう は近代 きんだい 日本 にっぽん の急 きゅう 成長 せいちょう とともにさらに急増 きゅうぞう し、外 そと 航路 こうろ 客船 きゃくせん はともかく、依然 いぜん として艀 はしけ 荷役 にやく に依存 いぞん せざるを得 え ない状況 じょうきょう であった。これは貨物 かもつ 滞留 たいりゅう や物流 ぶつりゅう 遅延 ちえん を招 まね き、横浜 よこはま 経済 けいざい 界 かい からも更 さら なる横浜 よこはま 港 こう 拡充 かくじゅう の要請 ようせい が強 つよ まっていった。これが横浜 よこはま 築港 ちっこう 第 だい 二 に 期 き 工事 こうじ と繋 つな がり、新港 しんこう 埠頭 ふとう 建設 けんせつ へと繋 つな がっていった[14] 。
横浜 よこはま 築港 ちっこう 第 だい 二 に 期 き 工事 こうじ では「鉄 てつ 桟橋 さんばし 」も拡張 かくちょう され幅 はば 42.8メートルとなり、2つの木造 もくぞう 2層 そう 型 がた 上屋 うわや が新設 しんせつ され、低層 ていそう 部 ぶ は貨物 かもつ 倉庫 そうこ 、上層 じょうそう 部 ぶ は旅客 りょかく 施設 しせつ や旅 たび 具 ぐ 検査 けんさ 場 じょう 、ならびに電信 でんしん 電話 でんわ 設備 せつび や事務 じむ 室 しつ が併設 へいせつ された。1913年 ねん に第 だい 二 に 期 き 工事 こうじ は完成 かんせい した[13] 。
こうして鉄 てつ 桟橋 さんばし は、外国 がいこく 航路 こうろ の貨客船 かきゃくせん における日本 にっぽん の主要 しゅよう 拠点 きょてん となり、日本郵船 にっぽんゆうせん ・東洋 とうよう 汽船 きせん ・大阪 おおさか 商船 しょうせん など日本 にっぽん 海運 かいうん 業界 ぎょうかい の表玄関 おもてげんかん の一 ひと つとして利用 りよう され、外国 がいこく 海運 かいうん 業界 ぎょうかい の外国 がいこく 定期 ていき 航路 こうろ の拠点 きょてん として活躍 かつやく した。ヨーロッパ 航路 こうろ では英国 えいこく P&O、北 きた ドイツ・ロイド 、フランス郵船 ゆうせん 、北米 ほくべい 航路 こうろ では米国 べいこく 太平洋 たいへいよう 郵船 ゆうせん 、カナダ太平洋 たいへいよう 汽船 きせん 、アメリカンプレジデントラインズ 等 ひとし が定期 ていき 航路 こうろ を開設 かいせつ するようになった。
新港 しんこう 埠頭 ふとう が完成 かんせい すると、外国 がいこく 航路 こうろ の一部 いちぶ を移譲 いじょう した。新港 しんこう 埠頭 ふとう 4号 ごう 岸壁 がんぺき は日本郵船 にっぽんゆうせん の北米 ほくべい 航路 こうろ が使用 しよう し。9号 ごう 岸壁 がんぺき は欧州 おうしゅう 航路 こうろ が接岸 せつがん する等 とう 鉄 てつ 桟橋 さんばし の負荷 ふか を緩和 かんわ させた。鉄 てつ 桟橋 さんばし は外国 がいこく 籍 せき 船 せん と日本郵船 にっぽんゆうせん のシアトル 航路 こうろ が発着 はっちゃく するようになった。新港 しんこう 埠頭 ふとう 4号 ごう 岸壁 がんぺき からは、太平洋戦争 たいへいようせんそう 後 こう もシアトル航路 こうろ に復帰 ふっき した日本郵船 にっぽんゆうせん の「氷川丸 ひかわまる 」が発着 はっちゃく を続 つづ けた。氷川丸 ひかわまる が1960年 ねん に最終 さいしゅう 航海 こうかい を終了 しゅうりょう させるに伴 ともな い、新港 しんこう 埠頭 ふとう の旅客 りょかく 業務 ぎょうむ も終了 しゅうりょう した。
鉄 てつ 桟橋 さんばし (後 ご の大 だい 桟橋 さんばし )を含 ふく む横浜 よこはま 港 こう からは生糸 きいと や茶 ちゃ が主要 しゅよう な輸出 ゆしゅつ 品 しな であり、大日本帝国 だいにっぽんていこく に大 おお きな外貨 がいか 獲得 かくとく 機会 きかい をもたらした[13] 。生糸 きいと や茶 ちゃ 貿易 ぼうえき で大 おお きく成長 せいちょう した横浜 よこはま 商社 しょうしゃ もあった。原 はら 三渓 さんけい の歴史 れきし や、現在 げんざい も観光 かんこう 名所 めいしょ である三渓 さんけい 園 えん やシルクセンター に往事 おうじ を偲 しの ぶことができる。輸入 ゆにゅう 品 ひん としては大豆 だいず 、小麦 こむぎ 、綿花 めんか 、石炭 せきたん 等 ひとし があった。
関東大震災 かんとうだいしんさい による倒壊 とうかい と復興 ふっこう [ 編集 へんしゅう ]
1923年 ねん 9月 がつ 1日 にち の関東大震災 かんとうだいしんさい により大 だい 桟橋 さんばし は崩壊 ほうかい した[12] 。大 だい 桟橋 さんばし には当時 とうじ 3隻 せき の客船 きゃくせん が接岸 せつがん しており、カナダ太平洋 たいへいよう 汽船 きせん の「初代 しょだい エンプレス・オブ・オーストラリア(英語 えいご 版 ばん ) 」の船長 せんちょう サミュエル・ロビンソン が当時 とうじ の救出 きゅうしゅつ 活動 かつどう や罹災 りさい 状 じょう 況 きょう につき詳細 しょうさい な記録 きろく を残 のこ している[15] 。ロビンソンは被災 ひさい 者 しゃ の船上 せんじょう への救出 きゅうしゅつ 活動 かつどう などで活躍 かつやく し、紅綬 こうじゅ 褒章 ほうしょう を受章 じゅしょう したのをはじめ、各国 かっこく でも救助 きゅうじょ 活動 かつどう を高 たか く評価 ひょうか され勲章 くんしょう を与 あた えられている。大 だい 桟橋 さんばし の復旧 ふっきゅう は1923年 ねん 10月 がつ から始 はじ まり、1925年 ねん 9月 がつ には完成 かんせい した[16] 。1928年 ねん までに2棟 むね の上屋 うわや が建設 けんせつ され、チャータード銀行 ぎんこう 、香港 ほんこん 上海 しゃんはい 銀行 ぎんこう 支店 してん が開設 かいせつ され、帝国 ていこく ホテル直営 ちょくえい の桟橋 さんばし レストランが開業 かいぎょう した[16] 。
この頃 ころ から海運 かいうん 競争 きょうそう 力 りょく 維持 いじ や国威 こくい 高揚 こうよう も兼 か ねて日本 にっぽん 船籍 せんせき の新鋭 しんえい 客船 きゃくせん 新造 しんぞう が相次 あいつ いだ。外国 がいこく 新造 しんぞう 大型 おおがた 船 せん も続々 ぞくぞく と入港 にゅうこう するようになり、大 だい 桟橋 さんばし は黄金 おうごん 期 き を迎 むか え、多忙 たぼう な桟橋 さんばし となった。チャーリー・チャップリン の来日 らいにち も大 だい 桟橋 さんばし から始 はじ まるなど、大 だい 桟橋 さんばし を場 ば とした国際 こくさい 旅客 りょかく の乗 じょう 下船 げせん による文化 ぶんか 交流 こうりゅう が最 もっと も盛 さか んな時代 じだい であったといえる。一方 いっぽう では、昭和 しょうわ 恐慌 きょうこう により疲弊 ひへい した農村 のうそん 部 ぶ からの南米 なんべい 移民 いみん が急増 きゅうぞう した時代 じだい でもあり、大 だい 桟橋 さんばし は南米 なんべい 移民 いみん の日本 にっぽん 出発 しゅっぱつ の最終 さいしゅう 拠点 きょてん として、周辺 しゅうへん の移民 いみん 宿 やど と共 とも に歴史 れきし に大 おお きな軌跡 きせき を残 のこ していくことになる。
太平洋戦争 たいへいようせんそう と連合 れんごう 国 こく 接収 せっしゅう 、接収 せっしゅう 解除 かいじょ [ 編集 へんしゅう ]
太平洋戦争 たいへいようせんそう 終結 しゅうけつ により大 だい 桟橋 さんばし は連合 れんごう 国 こく に接収 せっしゅう され[12] 、サウスピア と改称 かいしょう された[2] 。降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん のために米国 べいこく 戦艦 せんかん 「ミズーリ 」に向 む かった重光 しげみつ 葵 まもる 外相 がいしょう も大 だい 桟橋 さんばし から小型 こがた 船 せん に乗船 じょうせん している。連合 れんごう 国 こく も連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ) を当初 とうしょ 置 お いたのも大 だい 桟橋 さんばし に程近 ほどちか いホテルニューグランド であり、大 だい 桟橋 さんばし が時代 じだい の節目 ふしめ で日本 にっぽん の歴史 れきし に深 ふか くかかわることが、横浜 よこはま の開港 かいこう 以来 いらい の宿命 しゅくめい を如実 にょじつ に表 あらわ している。
大 だい 桟橋 さんばし は1952年 ねん 2月 がつ 15日 にち に接収 せっしゅう 解除 かいじょ となり[17] 、北 きた アメリカ定期 ていき 航路 こうろ にはアメリカンプレジデントラインの「プレジデント・ウィルソン 」や「プレジデント・クリーブランド 」、ヨーロッパ航路 こうろ にはP&Oクルーズ の「チューサン 」、オリエントラインの「オロンセイ 」などが就航 しゅうこう 。日本郵船 にっぽんゆうせん の「氷川丸 ひかわまる 」がシアトル航路 こうろ に復活 ふっかつ するなど、第 だい 二 に の盛時 せいじ を迎 むか えた。
また日本人 にっぽんじん の移民 いみん 船 せん として「ぶらじる丸 まる 」、「あるぜんちな丸 まる 」等 とう が就航 しゅうこう し、1960年代 ねんだい 初頭 しょとう までの戦前 せんぜん に続 つづ く第 だい 二 に 次 じ 南米 なんべい 移民 いみん ブームを支 ささ えた。また後 のち にソビエト連邦 れんぽう とのナホトカ 定期 ていき 航路 こうろ も開設 かいせつ され、シベリア鉄道 てつどう に乗継 のりつ ぐことで、安価 あんか な旅費 りょひ でのヨーロッパ渡航 とこう が人気 にんき を博 はく した。
この頃 ころ の「氷川丸 ひかわまる 」でフルブライト 留学生 りゅうがくせい として渡米 とべい した人々 ひとびと も少 すく なくなく、また宝塚歌劇団 たからづかかげきだん の渡米 とべい にも利用 りよう された。1968年 ねん 4月 がつ には、世界 せかい 一周 いっしゅう クルーズ 中 なか のキュナード・ライン の「カロニア 」が来航 らいこう した(同船 どうせん は出帆 しゅっぱん 時 じ に、港口 こうこう の白 しろ 灯台 とうだい を薙倒 なぎたお す事故 じこ を起 お こした)。
東京 とうきょう オリンピックから1970年代 ねんだい 初頭 しょとう [ 編集 へんしゅう ]
1964年 ねん の東京 とうきょう オリンピック に合 あ わせて3度目 どめ の大 だい 改修 かいしゅう が行 おこな われた。国際 こくさい 船客 せんきゃく ターミナルとしての高機能 こうきのう 化 か が図 はか られ、2階 かい 建 けん 国際 こくさい 船客 せんきゃく ターミナルが完成 かんせい した。1階 かい 部分 ぶぶん に税関 ぜいかん ・出入国 しゅつにゅうこく 管理 かんり ・検疫 けんえき 施設 しせつ を構 かま え、2階 かい 部分 ぶぶん に渡航 とこう 旅客 りょかく や歓送 かんそう 迎 むかえ 者 しゃ 用 よう 待合 まちあい 所 しょ や土産物 みやげもの 店 てん 向 む け設備 せつび が整 ととの えられた。
自 じ 走 はし 式 しき ボーディングブリッジ により、接岸 せつがん 船舶 せんぱく の高度 こうど 差 さ や位置 いち に関 かか わらず、ターミナルからの乗 じょう 下船 げせん が容易 ようい になるなど、当時 とうじ としては最高 さいこう 位 い の機能 きのう を備 そな えていた。1970年 ねん には貨客船 かきゃくせん 寄港 きこう 数 すう が過去 かこ 最高 さいこう となったが、海外 かいがい 渡航 とこう の主力 しゅりょく は空路 くうろ になっていた。大型 おおがた 旅客機 りょかくき ボーイング747 就航 しゅうこう による航空 こうくう 輸送 ゆそう 力 りょく の増強 ぞうきょう や、海路 かいろ 旅行 りょこう 者 しゃ の激減 げきげん 、1970年代 ねんだい 初頭 しょとう の石油 せきゆ 危機 きき による原油 げんゆ 価格 かかく 高騰 こうとう により、外 そと 航 こう 貨客船 かきゃくせん 航路 こうろ は急速 きゅうそく に衰退 すいたい した。
1973年 ねん には、「あるぜんちな丸 まる 」の最終 さいしゅう 航海 こうかい によって、1世紀 せいき に渡 わた る海外 かいがい 移民 いみん 航路 こうろ が終焉 しゅうえん した。一方 いっぽう 1975年 ねん 3月 がつ には、「クイーン・エリザベス2 」が初 はつ 入港 にゅうこう し、空前 くうぜん の52万 まん 人 にん の見物 けんぶつ 客 きゃく で溢 あふ れ返 かえ った。以降 いこう 、大 だい 桟橋 さんばし に寄港 きこう する客船 きゃくせん は、全 すべ てがクルーズ客船 きゃくせん となり「ロイヤルバイキングスター 」「キャンベラ 」「ロッテルダム 」が、主 おも に横浜 よこはま を寄港 きこう 地 ち とするようになった。
特筆 とくひつ すべきは、旧 きゅう ソ連 それん 極東 きょくとう 船舶 せんぱく 公社 こうしゃ がナホトカ定期 ていき 航路 こうろ を持続 じぞく 運用 うんよう し、1980年代 ねんだい 全体 ぜんたい を通 とお して、横浜 よこはま 港 こう を国際 こくさい 旅客 りょかく 定期 ていき 航路 こうろ 保有 ほゆう の港 みなと としての威容 いよう を保 たも った。
1980年代 ねんだい から現在 げんざい [ 編集 へんしゅう ]
改修 かいしゅう 工事 こうじ 中 ちゅう の大 だい さん橋 ばし 、手前 てまえ は横浜 よこはま 赤 あか レンガ倉庫 そうこ (2002年 ねん 2月 がつ )
1980年代 ねんだい から、斜陽化 しゃようか する海運 かいうん 旅客 りょかく 事業 じぎょう を憂 うれ う声 こえ がある一方 いっぽう 、クルーズ産業 さんぎょう の興隆 こうりゅう という新 あたら しいクルーズ客船 きゃくせん の在 あ り方 かた が脚光 きゃっこう を浴 あ び始 はじ め、日本 にっぽん の経済 けいざい 成長 せいちょう に伴 ともな い、日本 にっぽん 市場 いちば のクルーズ人口 じんこう も拡大 かくだい してきた。船舶 せんぱく の巨大 きょだい 化 か と、大 だい 桟橋 さんばし そのものが設備 せつび 更新 こうしん 時期 じき を迎 むか え、1989年 ねん から大 だい 桟橋 さんばし 改修 かいしゅう 事業 じぎょう が着手 ちゃくしゅ され、2002年 ねん に新 あら たな大 だい さん橋 ばし 国際 こくさい 船客 せんきゃく ターミナル が完成 かんせい した。
設計 せっけい は、国際 こくさい コンペ660件 けん の応募 おうぼ から、アレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィの設計 せっけい が選定 せんてい された。構造 こうぞう は地下 ちか 1階 かい 地上 ちじょう 2階 かい 建 けん の鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり となっており、全 ぜん 床 ゆか 面積 めんせき は44,000平方 へいほう メートル となっている。1階 かい は約 やく 400台 だい の普通 ふつう 車 しゃ に対応 たいおう する駐車 ちゅうしゃ 場 じょう 、2階 かい は出入国 しゅつにゅうこく ロビーとしてインフォメーション・発券 はっけん 所 しょ ・船客 せんきゃく 待合 まちあい 場所 ばしょ ・店舗 てんぽ ・レストラン・CIQ施設 しせつ を備 そな える。
また第 だい 1と第 だい 2ホールを備 そな え、多目的 たもくてき に利用 りよう できるスペースを確保 かくほ している。A、Bバースは延長 えんちょう 450m、水深 すいしん 12mを備 そな え、C、Dバースは延長 えんちょう 450m、水深 すいしん 10〜11mとなっており3万 まん トンクラスの客船 きゃくせん は4隻 せき 、より大 おお きな客船 きゃくせん は同時 どうじ 2隻 せき 着岸 ちゃくがん が可能 かのう となった。バリアフリー型 がた 渡船 とせん 橋 きょう 4基 き 装備 そうび により、今後 こんご のクルーズ客船 きゃくせん 増加 ぞうか に対応 たいおう できる埠頭 ふとう として整備 せいび された。
建物 たてもの 2Fや屋上 おくじょう 床 ゆか はブラジル 産 さん イペ を使用 しよう したウッドデッキ になっており、さらに天然 てんねん 芝 しば の緑地 りょくち を設 もう けてある。接岸 せつがん 船舶 せんぱく からの眺望 ちょうぼう や周辺 しゅうへん 空間 くうかん の眺望 ちょうぼう を遮 さえぎ らないことを考慮 こうりょ し、比較的 ひかくてき 低層 ていそう 構造 こうぞう となっている。2000年代 ねんだい から横浜 よこはま 市 し からも積極 せっきょく 的 てき な客船 きゃくせん 誘致 ゆうち を行 おこな い、2011年 ねん の年間 ねんかん 客船 きゃくせん 入港 にゅうこう 数 すう は全国 ぜんこく 港湾 こうわん の中 なか で9年 ねん 連続 れんぞく の1位 い となった[18] 。大 だい さん橋 ばし の稼働 かどう 能力 のうりょく を活 い かすため、より一層 いっそう のクルーズ客船 きゃくせん 寄港 きこう 誘致 ゆうち を進 すす め、港湾 こうわん 機能 きのう の維持 いじ 拡大 かくだい や港 みなと 勢 ぜい 拡大 かくだい を行 おこな い、乗船 じょうせん 客 きゃく および観光 かんこう 集客 しゅうきゃく 増 ぞう に結 むす び付 つ け、地域 ちいき 経済 けいざい の発展 はってん に寄与 きよ させることが課題 かだい となっている。
2017年 ねん 1月 がつ には訪日 ほうにち クルーズ客 きゃく の増加 ぞうか を見込 みこ み、国土 こくど 交通省 こうつうしょう が官民 かんみん 連携 れんけい により施設 しせつ 整備 せいび を行 おこな う「国際 こくさい クルーズ拠点 きょてん 」の一 ひと つとして、横浜 よこはま 港 こう の大 だい さん橋 ばし と新港 しんこう 地区 ちく を選定 せんてい した。大 だい さん橋 ばし では郵船 ゆうせん クルーズが旅客 りょかく ターミナル内 ない に待合 まちあい ラウンジ を整備 せいび する計画 けいかく で[19] 、同社 どうしゃ のクルーズ客船 きゃくせん 「飛鳥 ひちょう II」による岸壁 がんぺき の優先 ゆうせん 使用 しよう (15年 ねん 〜20年間 ねんかん )が認 みと められることとなった[20] [21] [22] 。その後 ご 2019年 ねん 4月 がつ 12日 にち より上級 じょうきゅう 船室 せんしつ 利用 りよう 者 しゃ 向 む けの「アスカラウンジ」として開業 かいぎょう した[23] 。
クルーズ客船 きゃくせん の寄港 きこう 誘致 ゆうち が課題 かだい であるが、2000年代 ねんだい の超 ちょう 大型 おおがた クルーズ船 せん (海面 かいめん 上 じょう の高 たか さ〈マスト 高 こう 〉がパナマックス の高 たか さ制限 せいげん である57.91m クラス)が横浜 よこはま ベイブリッジ下 した (主 しゅ 塔 とう 高 だか 175m・主 しゅ 塔 とう 上端 じょうたん から道路 どうろ 部 ぶ まで120m=海面 かいめん から道路 どうろ 部 ぶ までの高 たか さ約 やく 55m)のクリアランス (船 ふね が通過 つうか できる高 たか さ)を達成 たっせい できないため、大 だい さん橋 ばし に着岸 ちゃくがん できない。そのため、2009年 ねん と2010年 ねん の「クイーン・メリー2 」の横浜 よこはま 港 こう 寄港 きこう では、旅客 りょかく 用 よう の大 だい さん橋 ばし ではなく、貨物 かもつ 埠頭 ふとう である大黒 おおくろ 埠頭 ふとう に着岸 ちゃくがん した。
しかし、本来 ほんらい は貨物 かもつ 埠頭 ふとう の上 うえ 、横浜 よこはま 市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ である中 ちゅう 区 く から離 はな れているため、横浜 よこはま への滞在 たいざい 時間 じかん が短 みじか くなってしまう搭乗 とうじょう 客 きゃく からの不満 ふまん から、キュナード・ライン は「クイーン・メリー2」の日本 にっぽん 寄港 きこう 地 ち を大阪 おおさか 港 こう に変更 へんこう したため[24] 、横浜 よこはま 市民 しみん からはこれを憂 うれ う声 こえ が高 たか まった。その後 ご 、キュナード・ラインは2014年 ねん に「クイーン・エリザベス 」を寄港 きこう させ、干潮 かんちょう 時 とき に横浜 よこはま ベイブリッジを通過 つうか することで、大 だい さん橋 ばし への接岸 せつがん を可能 かのう にした。
横浜 よこはま 港 こう における横浜 よこはま ベイブリッジをくぐれない超 ちょう 大型 おおがた クルーズ船 せん 問題 もんだい の抜本 ばっぽん 的 てき な解決 かいけつ 策 さく として、横浜 よこはま 市 し では横浜 よこはま ベイブリッジ外側 そとがわ にある本牧 ほんもく 埠頭 ふとう や大黒 だいこく 埠頭 ふとう の岸壁 がんぺき を超 ちょう 大型 おおがた クルーズ船 せん (海面 かいめん 上 じょう の高 たか さ〈マスト高 だか 〉が55m以上 いじょう の船 ふね )に対応 たいおう した「客船 きゃくせん ターミナル」として再 さい 整備 せいび する方針 ほうしん を示 しめ しており[25] [26] [注 ちゅう 2] 、さらに新港 しんこう 埠頭 ふとう や山下 やました 埠頭 ふとう にも客船 きゃくせん ターミナルを整備 せいび することで、今後 こんご のクルーズ客船 きゃくせん 需要 じゅよう を取 と り込 こ み、市内 しない 観光 かんこう の活性 かっせい 化 か に繋 つな げるための検討 けんとう が進 すす められている[26] [27] [注 ちゅう 3] 。2017年 ねん からは大黒 おおくろ 埠頭 ふとう にて超 ちょう 大型 おおがた 船 せん への対応 たいおう を目的 もくてき とした改良 かいりょう 工事 こうじ に着手 ちゃくしゅ し、CIQ 施設 しせつ など新設 しんせつ した上 うえ で2019年 ねん 4月 がつ 19日 にち より運用 うんよう を開始 かいし した[28] [29] [30] 。
横浜 よこはま 港 こう 大 だい さん橋 ばし 国際 こくさい 客船 きゃくせん ターミナル[ 編集 へんしゅう ]
上部 じょうぶ
横浜 よこはま 港 こう 大 だい さん橋 ばし 国際 こくさい 客船 きゃくせん ターミナル は、横浜 よこはま 港 こう で大型 おおがた 客船 きゃくせん が複数 ふくすう 同時 どうじ 着岸 ちゃくがん できる主要 しゅよう 旅客 りょかく ターミナルとして建設 けんせつ された。「クイーン・エリザベス2 」クラスの客船 きゃくせん が2隻 せき 同時 どうじ 着岸 ちゃくがん できる。また3万 まん トン以下 いか クラスの客船 きゃくせん であれば4隻 せき 同時 どうじ 着岸 ちゃくがん が可能 かのう であり、その規模 きぼ は神戸 こうべ 港 こう の新港 しんこう 第 だい 四 よん 突堤 とってい (神戸 こうべ ポートターミナル )に次 つ ぐ。建物 たてもの は、内部 ないぶ に柱 はしら ・梁 はり がなく[31] 、また階段 かいだん が無 な くスロープやエレベータ で昇 のぼ り降 お りする非常 ひじょう に先取 せんしゅ 的 てき 構造 こうぞう となっている。また、屋上 おくじょう はウッドデッキおよび芝生 しばふ 広場 ひろば となっており、24時 じ 間 あいだ 自由 じゆう に出入 でい りできる、公園 こうえん のような場所 ばしょ となっている。
大 だい さん橋 ばし ふ頭 とう ビル
大 だい さん橋 ばし は海路 かいろ からの出入国 しゅつにゅうこく の場 ば であり、横浜 よこはま 港 こう や横浜 よこはま 税関 ぜいかん を経由 けいゆ する旅客 りょかく の出入国 しゅつにゅうこく の場 ば である。現在 げんざい でも外国 がいこく 航路 こうろ に出 で るクルーズ客船 きゃくせん に乗 の 下船 げせん する際 さい は、ここで通関 つうかん や出入国 しゅつにゅうこく 手続 てつづ きや手荷物 てにもつ 検査 けんさ を行 おこな う。乗 じょう 下船 げせん は基本 きほん 的 てき にはボーディング・ブリッジ を使用 しよう してターミナルを経由 けいゆ して行 おこな うが、寄港 きこう するだけの場合 ばあい はツアーバスを停 と めるスペースの関係 かんけい 上 じょう 、タラップ を使用 しよう しての岸壁 がんぺき 経由 けいゆ となる。
大 だい さん橋 ばし は国内 こくない 離島 りとう 航路 こうろ もあり、伊豆諸島 いずしょとう に向 む かう東海汽船 とうかいきせん の定期 ていき 航路 こうろ の発着 はっちゃく 場 じょう としても広 ひろ く利用 りよう されている。また時季 じき によっては、伊豆諸島 いずしょとう 航路 こうろ の帰路 きろ に便乗 びんじょう する形 かたち で、東京 とうきょう 港 こう の竹 たけ 芝 しば 埠頭 ふとう への夜景 やけい クルーズが利用 りよう できる[32] 。
一帯 いったい はみなとオアシス の登録 とうろく をしていて、ターミナルはみなとオアシス横浜 よこはま 港 こう の代表 だいひょう 施設 しせつ である。
ホール内部 ないぶ
大 だい さん橋 ばし ホール は、大 だい さん橋 ばし の2Fの奥 おく に位置 いち する多目的 たもくてき ホールである[33] 。相鉄企業 そうてつきぎょう ・横浜 よこはま 港 こう 振興 しんこう 協会 きょうかい ・相鉄 そうてつ エージェンシー共同 きょうどう 事業 じぎょう 体 たい が管理 かんり ・運営 うんえい している。床 ゆか 面 めん ・壁面 へきめん はウッドデッキ 仕上 しあ げ、正面 しょうめん 奥 おく は強化 きょうか ガラスウォールであり、横浜 よこはま ベイブリッジ方面 ほうめん を望 のぞ むことができる。広 ひろ さは約 やく 2,000m2 であり、天井 てんじょう 高 だか は6.5〜7.5mある。最大 さいだい で1,200名 めい の収容 しゅうよう が可能 かのう であり、屋上 おくじょう フリースペースから連続 れんぞく した空間 くうかん としての利用 りよう も可能 かのう である。朱 しゅ 孝 たかし 天 てん のアルバム『On Ken's Time 』に収録 しゅうろく されている「La La La」や茅原 かやはら 実里 みさと 「ZONE//ALONE 」のミュージックビデオなど撮影 さつえい 地 ち としても用 もち いられる。
新 あたら しい愛称 あいしょう 「くじらのせなか」[ 編集 へんしゅう ]
大 だい さん橋 ばし 屋上 おくじょう のフリースペースは、大型 おおがた 客船 きゃくせん の入 にゅう 出港 しゅっこう 時 じ 等 とう は多 おお くの見物 けんぶつ 客 きゃく で賑 にぎ わい、今 いま や横浜 よこはま の一大 いちだい 観光 かんこう スポットとなっているが、このスペースをより親 した しみやすい場所 ばしょ に育 そだ てるべく、2006年 ねん に横浜 よこはま 市 し 港湾 こうわん 局 きょく が愛称 あいしょう を一般 いっぱん から公募 こうぼ した。その結果 けっか 、大 だい さん橋 ばし 全体 ぜんたい を大 おお きなクジラ に見立 みたて てイメージされた「くじらのせなか 」が選定 せんてい され、同年 どうねん 12月 がつ に公式 こうしき な愛称 あいしょう となった。「屋上 おくじょう 広場 ひろば の特徴 とくちょう をよく表 あらわ し『海 うみ に浮 う かぶ雄大 ゆうだい なくじら』をイメージさせる。また、子供 こども 達 たち に親 した しみやすく、わかりやすく、かつユニークである。」という選定 せんてい 理由 りゆう から上述 じょうじゅつ の名称 めいしょう となった[34] [35] 。
なお、この愛称 あいしょう を派生 はせい させる形 かたち で、大 だい さん橋 ばし の室内 しつない 部分 ぶぶん が「くじらのおなか」と呼 よ ばれるケースも生 しょう じており、例 たと えばミニコンサート等 とう のイベントが行 おこな われる場合 ばあい 、「くじらのおなかコンサート」といった言葉 ことば の用 もち いられ方 かた がなされている[36] 。
上部 じょうぶ から内部 ないぶ へのスロープ
大 だい さん橋 ばし から見 み た横浜 よこはま ベイブリッジ
大 だい さん橋 ばし から見 み た氷川丸 ひかわまる とマリンタワー
大 だい さん橋 ばし から見 み たみなとみらい21
画面 がめん 奧 おく が大 だい さん橋 ばし 。施設 しせつ 内 ない の駐車 ちゅうしゃ 場 じょう は24時 じ 間 あいだ 利用 りよう が可能 かのう なため、週末 しゅうまつ は車 くるま の出入 でい りが多 おお い
舞台 ぶたい となった作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
※発表 はっぴょう 年 ねん 順 じゅん
『横浜 よこはま 市 し 史 し II』 第 だい 2巻 かん (上 うえ )、横浜 よこはま 市 し 、1999年 ねん 。
客船 きゃくせん とみなと遺産 いさん の会 かい 編 へん 『横浜 よこはま 大 だい 桟橋 さんばし 物語 ものがたり 』JTBパブリッシング、2004年 ねん 。ISBN 9784533056239 。
田中 たなか 祥夫 よしお 『横浜 よこはま 港 こう の七不思議 ななふしぎ ―象 ぞう の鼻 はな ・大 だい 桟橋 さんばし ・新港 しんこう 埠頭 ふとう 』有隣堂 ゆうりんどう 、2007年 ねん 。ISBN 9784896602005 。
^ 同様 どうよう に瑞穂 みずほ 埠頭 ふとう は「ノースピア」、新港 しんこう 埠頭 ふとう は「センターピア」と呼 よ ばれた。
^ ちなみに東京 とうきょう 港 こう においては、レインボーブリッジ 外側 そとがわ にある「船 ふね の科学 かがく 館 かん 」跡地 あとち (東京 とうきょう 臨海 りんかい 副 ふく 都心 としん )に超 ちょう 大型 おおがた クルーズ船用 せんよう の客船 きゃくせん ターミナルを建設 けんせつ することが決定 けってい している。
^ 横浜 よこはま 港 こう は2017年 ねん 7月 がつ に国土 こくど 交通省 こうつうしょう より「国際 こくさい 旅客船 りょかくせん 拠点 きょてん 形成 けいせい 港湾 こうわん 」に指定 してい されており、横浜 よこはま 市 し ではその拠点 きょてん として大 だい さん橋 ばし や新港 しんこう 埠頭 ふとう 、山下 やました 埠頭 ふとう 、本牧 ほんもく 埠頭 ふとう の計 けい 4箇所 かしょ を想定 そうてい している(整備 せいび 目標 もくひょう は2025年 ねん 。なお、これらに含 ふく まれない大黒 だいこく 埠頭 ふとう の扱 あつか いについては、本牧 ほんもく 埠頭 ふとう に22万 まん 総 そう トン級 きゅう の超 ちょう 大型 おおがた クルーズ船 せん に対応 たいおう した多目的 たもくてき 岸壁 がんぺき を整備 せいび する〈同年 どうねん 目標 もくひょう 〉までの繋 つな ぎとして2019年 ねん より暫定 ざんてい 活用 かつよう する方針 ほうしん )[26] [27] 。
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座標 ざひょう : 北緯 ほくい 35度 ど 27分 ふん 6秒 びょう 東経 とうけい 139度 ど 38分 ふん 52秒 びょう / 北緯 ほくい 35.45167度 ど 東経 とうけい 139.64778度 ど / 35.45167; 139.64778
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