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げんむね帰命きみょうだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

げんむね帰命きみょうだん(げんしきみょうだん)とは、かつて天台宗てんだいしゅう存在そんざいした一派いっぱである。のちに淫祠いんし邪教じゃきょうあつかいされ江戸えど時代じだいには廃絶はいぜつしたといわれる。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

比叡山ひえいざん常行つねゆき三昧ざんまいどう本尊ほんぞんであるかみまつってしゅうする一種いっしゅ口伝くでん灌頂といわれる。

げんむね帰命きみょうまゆみは、げんむねまゆみ帰命きみょうまゆみわせたものである。げんむねまゆみとは、一心いっしんさんかんふかむね口伝くでんめん授するげんむね灌頂であり、法華ほっけほうすいを授者の頭頂とうちょうにそそぐ儀式ぎしきである。帰命きみょうまゆみとは、衆生しゅじょういのち根源こんげん天台てんだいである一念いちねんさんせんにあるとして、それを実現じつげんする儀式ぎしきである。

けいあらしじつしゅうだい39「常行つねゆきどうかみこと」にしるされるように、かみ円仁えんにんとうから帰国きこくするさい感得かんとくして、常行つねゆきどう勧請かんじょうしたとつたえられる。しかし実際じっさいは、かみ平安へいあん時代じだいから鎌倉かまくら時代ときよにかけて成立せいりつしたげんむね帰命きみょうだん本尊ほんぞんとして成立せいりつしたものとかんがえられている。

この修法しゅほうは、中世ちゅうせいおこった天台宗てんだいしゅうくち伝法でんぼうりゅうみなもとはっし、その流派りゅうはであるめぐみまゆみりゅうのうち、檀那だんなりゅう正嫡せいちゃくとし、恵心えしんりゅう傍流ぼうりゅうとして相承そうしょうしたといわれる。はじめは、厳格げんかく口伝くでん相承そうしょうであったが、時代じだいるにしたがい、とく南北なんぼくあさ時代じだいにこのげんむねだん灌頂をけたえんかんが、淫靡いんび宗教しゅうきょう堕落だらくせしめ、『げんむね帰命きみょうまゆみほう』をつたえた。これは、当時とうじ真言宗しんごんしゅう文観もんかん多大ただい影響えいきょうがあったとされる(望月もちづき仏教ぶっきょう辞典じてん参照さんしょう)。

えんかん交流こうりゅうがあった真言宗しんごんしゅう小野おのりゅう文観もんかん真言しんごん立川たつかわりゅう大成たいせいして、それが次第しだい蔓延まんえんするにおよび、ついにその影響えいきょう天台てんだい檀那だんなりゅう一派いっぱであるとしこうぼうりゅう波及はきゅうし、神聖しんせいであったげんむね帰命きみょうだん淫祠いんしてき傾向けいこうびたともいわれる。ただし立川たつかわりゅう教義きょうぎ儀式ぎしきは、批判ひはん弾圧だんあつしたがわ文献ぶんけん記述きじゅつによるもので疑問ぎもんされている(かれほう集団しゅうだん)。

のちに阿弥陀如来あみだにょらいへの浄土じょうど信仰しんこうまれ、本堂ほんどう壇上だんじょうには阿弥陀あみだぼとけぞう安置あんちした、行者ぎょうじゃ呼吸こきゅうの吸吐を阿弥陀あみだ来迎らいごう浄土じょうどかんり、そこに生死せいし根源こんげんきわめるとする。さらに日月じつげつ精気せいき父母ちちはは和合わごうのときのいきふう胎内たいないはいることにはじまるとく。これらは初期しょきには、いずれも生死せいし根源こんげんじて、さとりをようとするものであったが、南北なんぼくあさ時代じだい以降いこう現実げんじつ世界せかい愛欲あいよく煩悩ぼんのうを「煩悩ぼんのうそく菩提ぼだい」の立場たちばから積極せっきょくてき仏事ぶつじとして肯定こうていし、交会(性交せいこう)の儀式ぎしきを以ってさとりをようと解釈かいしゃくするきがつよまった。このため真言しんごん立川たつかわりゅう影響えいきょう多大ただいであったが、江戸えど時代じだい天台てんだいれいそら後述こうじゅつ)により、これをあらためて、禁圧きんあつし、現在げんざいではそのただしい部分ぶぶんのみを発見はっけんしようという努力どりょくがされている。

1689ねん元禄げんろく2ねん)に、安楽あんらくいんれいむなしが『闢邪へん』(へきじゃへん)をあらわして批判ひはんし、はなわ王寺おうじみや上書うわがきしたことで、典籍てんせき没収ぼっしゅうされ焚書ふんしょにあい、げんむね帰命きみょうだんはついに禁断きんだんとされ廃絶はいぜつしたといわれる。