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バイセクシュアルのシンボルフラッグ
両 りょう 性愛 せいあい (りょうせいあい)、バイセクシュアリティ (英 えい :bisexuality)[ 注 ちゅう 1] は、男性 だんせい にも女性 じょせい にも見 み られる、異性 いせい ・同性 どうせい にかかわらずいずれの性 せい の人 ひと に対 たい しても、美 よし 的 てき な憧 あこが れや情緒 じょうちょ 的 てき ・精神 せいしん 的 てき な魅惑 みわく 、あるいは性的 せいてき ・肉体 にくたい 的 てき な欲望 よくぼう を抱 いだ きうる性的 せいてき 指向 しこう をいう語 かたり 。また、すべての性別 せいべつ の人 ひと に対 たい する性的 せいてき 、恋愛 れんあい 的 てき 指向 しこう を意味 いみ することもあり、これは厳密 げんみつ には全 ぜん 性愛 せいあい と呼 よ ばれる。
両 りょう 性愛 せいあい の性質 せいしつ を持 も っている人 ひと を両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ (りょうせいあいしゃ)、バイセクシュアル (英 えい :bisexual)[ 注 ちゅう 2] あるいは略 りゃく してバイ という[ 注 ちゅう 3] 。
両 りょう 性愛 せいあい は歴史 れきし 上 じょう 、人間 にんげん 社会 しゃかい [ 1] および動物 どうぶつ 社会 しゃかい [ 2] [ 3] [ 4] においてもさまざまな形態 けいたい で観察 かんさつ されてきたものであるが、20世紀 せいき 後半 こうはん に入 はい って初 はじ めて本格 ほんかく 的 てき に研究 けんきゅう の対象 たいしょう となった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
同性愛 どうせいあい および異性 いせい 愛 あい が女性 じょせい か男性 だんせい のいずれかに対 たい する性的 せいてき 指向 しこう であるのに対 たい して、「両 りょう 性愛 せいあい 」は男性 だんせい と女性 じょせい の両方 りょうほう のように二 ふた つ以上 いじょう の性別 せいべつ に対 たい して恋愛 れんあい 的 てき 、性愛 せいあい 的 てき 感情 かんじょう を抱 いだ く性的 せいてき 指向 しこう である。両 りょう 性愛 せいあい の人々 ひとびと は必 かなら ずしもそれぞれの性 せい に同等 どうとう に魅力 みりょく を感 かん じるとは限 かぎ らない[ 5] 。いずれかの性 せい を、もう片方 かたがた の性 せい よりも好 この む人 ひと も多 おお い[ 6] 。また、両方 りょうほう の性 せい を好 この むが、セックス としては一方 いっぽう を好 この んだり、両方 りょうほう のセックスへの指向 しこう をもちつつも一方 いっぽう の文化 ぶんか 的 てき 性 せい のみに魅力 みりょく を感 かん じるという形態 けいたい も存在 そんざい する[要 よう 出典 しゅってん ] 。両 りょう 性愛 せいあい という語 かたり は同時 どうじ に、同性愛 どうせいあい および異性 いせい 愛 あい といった単 たん 性愛 せいあい 指向 しこう を内包 ないほう するものであると定義 ていぎ されることもあるが、両 りょう 性愛 せいあい 自体 じたい を独立 どくりつ した性 せい 指向 しこう とみなすべきだという議論 ぎろん も少 すく なくない[ 7] [要 よう 出典 しゅってん ] 。
同性愛 どうせいあい 者 しゃ や異性愛者 いせいあいしゃ と自認 じにん する人 ひと でも、他者 たしゃ からその性的 せいてき 指向 しこう に基 もと づき両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ であるとみなされることもある。たとえば、自身 じしん を同性愛 どうせいあい 者 しゃ とみなす両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ の女性 じょせい を考 かんが える。「同性愛 どうせいあい とは、自 みずか らと同 おな じ性 せい を愛 あい することである」という定義 ていぎ に従 したが えばこの女性 じょせい は同性愛 どうせいあい 者 しゃ といえる。このような女性 じょせい がたまたま最初 さいしょ に女性 じょせい に恋愛 れんあい 感情 かんじょう を抱 だ いた場合 ばあい には、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ であるとは認識 にんしき しにくいであろう。同様 どうよう に、たとえば、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ の男性 だんせい であっても、自 みずか らが男性 だんせい に対 たい し恋愛 れんあい 感情 かんじょう を抱 いだ くことがありつつも、アナルセックス はしないという立場 たちば から自 みずか らを異性愛者 いせいあいしゃ であるとみなしていることがある。このように両 りょう 性愛 せいあい という概念 がいねん はあいまいなものである。一部 いちぶ の人 ひと [誰 だれ ? ] は、単 たん 性愛 せいあい は「両 りょう 性愛 せいあい を除 のぞ く」と否定 ひてい 的 てき に定義 ていぎ されたものであるとの立場 たちば を示 しめ すし、また一部 いちぶ の人 ひと [誰 だれ ? ] は実際 じっさい に個人 こじん がどのような状況 じょうきょう にあるかだけが両 りょう 性愛 せいあい に該当 がいとう するか否 ひ かを決定 けってい するという立場 たちば を示 しめ す一方 いっぽう で、またある人 ひと [誰 だれ ? ] は両 りょう 性愛 せいあい の存在 そんざい 自体 じたい を否定 ひてい する(両 りょう 性愛 せいあい は本来 ほんらい 同性愛 どうせいあい で、社会 しゃかい 的 てき 適応 てきおう のために異 い 性愛 せいあい 的 てき 指向 しこう を持 も つようになったのが異 い 性愛 せいあい であるとする立場 たちば )ために大変 たいへん 厄介 やっかい な議論 ぎろん となる。
一部 いちぶ の両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ [誰 だれ ? ] は、自身 じしん を同性愛 どうせいあい 者 しゃ とは異 こと なるものだとみなしつつ、両 りょう 性愛 せいあい は広義 こうぎ でのLGBT (Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender personの略 りゃく )に属 ぞく すると考 かんが える。またある人々 ひとびと [誰 だれ ? ] は、レズビアン やゲイ という概念 がいねん を尊重 そんちょう しつつ、自 みずか らはいずれにも属 ぞく さないと考 かんが え、またいかなるレッテルも自身 じしん の状況 じょうきょう を的確 てきかく に表現 ひょうげん していないと考 かんが える。
しかし以上 いじょう の議論 ぎろん は現代 げんだい に入 はい り、キリスト教 きりすときょう の教義 きょうぎ に基 もとづ いて同性愛 どうせいあい がタブーとされたことにより、異 い 性愛 せいあい のみが一般 いっぱん 社会 しゃかい で認 みと められる様 よう になった為 ため と考 かんが えられる[要 よう 出典 しゅってん ] 。後述 こうじゅつ の両 りょう 性愛 せいあい の歴史 れきし に見 み られるとおり、近代 きんだい 以前 いぜん においては両 りょう 性愛 せいあい が異 い 性愛 せいあい 以上 いじょう に一般 いっぱん 的 てき な性的 せいてき 指向 しこう であったとさえ言 い える[誰 だれ によって? ] 。自 みずか らを同性 どうせい 、異性 いせい の一方 いっぽう のみの愛 あい ではなく両性 りょうせい を同様 どうよう に愛 あい する、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ と自認 じにん する人 ひと も多 おお い[要 よう 出典 しゅってん ] 。
両 りょう 性愛 せいあい という語 かたり は、もともと19世紀 せいき に両性 りょうせい 具有 ぐゆう の者 もの をいうときに用 もち いられ出 だ した語 かたり である。遅 おそ くとも1914年 ねん までには、両 りょう 性愛 せいあい は一 ひと つの性的 せいてき 指向 しこう を指 さ す語 かたり として用 もち いられるようになっていた[ 8] 。一部 いちぶ の両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ および性 せい に関 かん する調査 ちょうさ に携 たずさ わる者 もの [誰 だれ ? ] の中 なか には、「両 りょう 性愛 せいあい 」という語 かたり の定義 ていぎ に不満 ふまん を抱 いだ き、多様 たよう な代替 だいたい 語 ご を用 もち いるようになったり、両 りょう 性愛 せいあい のあり方 かた やある一 いち 面 めん を適切 てきせつ に説明 せつめい できるように追加 ついか 的 てき な用語 ようご をたくさん用 もち いた。しかしながらこうして作 つく り出 だ された語 かたり は、まだ社会 しゃかい に広 ひろ く認識 にんしき されているとは言 い えない。
例 たと えば、英語 えいご においては以下 いか のような代替 だいたい 語 ご 、拡張 かくちょう 語 ご が提唱 ていしょう されている[誰 だれ によって? ] 。
パンセクシュアル・オムニセクシュアル(pansexual, omnisexual)[ 編集 へんしゅう ]
パンセクシュアル(pansexual)あるいはオムニセクシュアル(omnisexual)[ 注 ちゅう 4] という言葉 ことば について日本語 にほんご にはまだ対応 たいおう する語 かたり は存在 そんざい しないが、以下 いか 本 ほん 項 こう では仮 かり に「全 ぜん 性愛 せいあい 」と訳 やく すこととする。
バイセクシュアル(bisexual)という語 かたり に含 ふく まれる「バイ 」[ 注 ちゅう 5] という接頭 せっとう 語 ご を避 さ けて、両方 りょうほう の性 せい に惹 ひ かれるというよりもあらゆる性 せい に魅力 みりょく を感 かん じるとする立場 たちば から作 つく られた。これらの語 かたり は主 おも に、トランスジェンダー の人々 ひとびと も含 ふく むあらゆるジェンダーの存在 そんざい を尊重 そんちょう する立場 たちば の人 ひと が好 この んで用 もち いる[要 よう 出典 しゅってん ] 。全 ぜん 性愛 せいあい という語 かたり は、時 とき にはBDSM のような特殊 とくしゅ な性 せい 行動 こうどう を含意 がんい することがある。また、全 ぜん 性愛 せいあい に分類 ぶんるい されるのが適当 てきとう である人 ひと であっても、両 りょう 性愛 せいあい という語 かたり の方 ほう がより一般 いっぱん 的 てき に浸透 しんとう している語 かたり [要 よう 出典 しゅってん ] であり、かつ両 りょう 性愛 せいあい という語 かたり がアイデンティティ政治 せいじ において重要 じゅうよう な意味 いみ を持 も つ語 かたり であるという理由 りゆう から、自 みずか らを両 りょう 性愛 せいあい と称 しょう することがまだ多 おお い[要 よう 出典 しゅってん ] 。
バイ・パーミッシブ(bi-permissive)という言葉 ことば について日本語 にほんご にはまだ対応 たいおう する訳語 やくご は存在 そんざい しない。この語 かたり は、積極 せっきょく 的 てき に自 みずか らの性 せい に性的 せいてき な意味 いみ を見 み いだそうとすることはないながら、時 とき に特定 とくてい の性 せい の人 ひと と性行為 せいこうい を行 おこな うこともあるという人々 ひとびと を指 さ している。このような人々 ひとびと は自 みずか らを異性 いせい 愛 あい であるとか同性愛 どうせいあい であると認識 にんしき し、また圧倒的 あっとうてき に多 おお く同 おな じ性 せい の人 ひと と性 せい 行動 こうどう をとることもあるだろう[要 よう 出典 しゅってん ] 。
アンビセクシュアル(ambisexual)という言葉 ことば について日本語 にほんご にはまだ対応 たいおう する訳語 やくご は存在 そんざい しない。この語 かたり は本来 ほんらい 、いずれの性 せい に対 たい してもまったく同様 どうよう に魅力 みりょく を感 かん じる状況 じょうきょう を指 さ してきた。自 みずか らをアンビセクシュアルであると認識 にんしき する人 ひと は、身体 しんたい 面 めん でも、感情 かんじょう 面 めん でも、知性 ちせい の面 めん でも、また精神 せいしん 的 てき な面 めん においても、パートナーの性 せい (文化 ぶんか 的 てき 性 せい 含 ふく む)に左右 さゆう されることなく同 おな じように相手 あいて に惹 ひ かれる。またある人 ひと は、パートナーの性的 せいてき な特徴 とくちょう (e.g.異性 いせい であるということ)によって引 ひ き起 お こされるようなものとまったく変 か わらない、激 はげ しい恋愛 れんあい 感情 かんじょう をもつこともある[要 よう 出典 しゅってん ] 。
トリセクシュアル(trisexual)[ 注 ちゅう 6] という言葉 ことば はバイセクシュアルという語 かたり の拡張 かくちょう であり、また単 たん なる語呂合 ごろあ わせでもある。もっと重要 じゅうよう な用法 ようほう で用 もち いられたときには、この語 かたり は遺伝 いでん 学的 がくてき ・文化 ぶんか 的 てき な男性 だんせい や女性 じょせい に加 くわ え、トランスジェンダー の人 ひと にも同様 どうよう に性的 せいてき 魅力 みりょく を感 かん じる状況 じょうきょう を指 さ す[要 よう 出典 しゅってん ] 。精神 せいしん 分析 ぶんせき においては、ジェンダー論 ろん は異 こと なる文脈 ぶんみゃく で、クリストファー・ボラスが提唱 ていしょう したものがある[ 9] 。一言 ひとこと で言 い えば、トリセクシュアルは、両 りょう 性愛 せいあい に自己 じこ 愛 あい が加 くわ わった形 かたち として理解 りかい されている。ただし、これは単純 たんじゅん にナルシストなバイセクシュアルを指 さ すものではない。なぜなら、ナルシストとは本質 ほんしつ 的 てき に他者 たしゃ に関心 かんしん がなく、自分 じぶん 自身 じしん が作 つく り出 だ した理想 りそう 的 てき な自己 じこ イメージを他者 たしゃ に与 あた えることで、他者 たしゃ の中 なか にある自己 じこ イメージを愛 あい しているだけの人物 じんぶつ であるのに対 たい し、トリセクシュアルは、性別 せいべつ を問 と わず他者 たしゃ に強 つよ い関心 かんしん を持 も っており、他者 たしゃ が持 も つ理想 りそう を十分 じゅうぶん に受 う け入 い れられる存在 そんざい だからである。このため、トリセクシュアルな人物 じんぶつ は、ナルシストとは異 こと なり、才気 さいき に長 た け、官能 かんのう 的 てき で魅力 みりょく 的 てき であることが多 おお い。ただし、トリセクシュアルは、相手 あいて の性的 せいてき 願望 がんぼう を、最終 さいしゅう 的 てき にはすべて自分 じぶん に対 たい する賞賛 しょうさん や尊敬 そんけい の念 ねん に変換 へんかん させてしまうため、自分 じぶん 自身 じしん に対 たい する愛情 あいじょう を備給している点 てん で、自己 じこ 愛 あい 的 てき である。
バイフォビア (biphobia)[ 注 ちゅう 7] は、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ に対 たい する嫌悪 けんお 感 かん や、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ であることについて非難 ひなん されるのではないかという両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ の恐 おそ れを示 しめ す。ほとんどの場合 ばあい 、これは異 い 性愛 せいあい もしくは同性愛 どうせいあい だけがふつうな性 せい 指向 しこう で、適切 てきせつ なライフスタイル であるという信条 しんじょう に基 もと づく。両 りょう 性愛 せいあい という性的 せいてき 指向 しこう は同時 どうじ に、異性 いせい 愛 あい だけが適切 てきせつ だと考 かんが える異性愛者 いせいあいしゃ にとってはホモフォビア[ 注 ちゅう 8] の対象 たいしょう でもある。これとは逆 ぎゃく に、両 りょう 性愛 せいあい の人 ひと がヘテロフォビア[ 注 ちゅう 9] の対象 たいしょう となりうること、また同性愛 どうせいあい の人々 ひとびと からの差別 さべつ の対象 たいしょう であるというときにもあてはまる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
近代 きんだい 西洋 せいよう における両 りょう 性愛 せいあい の普及 ふきゅう [ 編集 へんしゅう ]
近代 きんだい に入 はい ってまとめられたいくつかの調査 ちょうさ [要 よう 出典 しゅってん ] によれば、西洋 せいよう に住 す む人々 ひとびと のうち約 やく 2%から6%が両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ である。しかしながらこの調査 ちょうさ には回答 かいとう 者 しゃ の無 む 作為 さくい 抽出 ちゅうしゅつ や回答 かいとう 者 しゃ の規模 きぼ などに関 かん して方法 ほうほう 的 てき な難点 なんてん が存在 そんざい するし、回答 かいとう を自己 じこ 分析 ぶんせき に頼 たよ ることによって正確 せいかく 性 せい も疑問 ぎもん 視 し されている[誰 だれ によって? ] 。したがって、この調査 ちょうさ が報告 ほうこく する両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ の人口 じんこう は論争 ろんそう の対象 たいしょう である。さらに、個々 ここ の調査 ちょうさ で両 りょう 性愛 せいあい の基準 きじゅん が統一 とういつ されていないことも問題 もんだい である。ある調査 ちょうさ [要 よう 出典 しゅってん ] は両 りょう 性愛 せいあい という現象 げんしょう の存在 そんざい 自体 じたい を無視 むし しているし、同性愛 どうせいあい と異性 いせい 愛 あい のくくりに入 い れてしまう調査 ちょうさ [要 よう 出典 しゅってん ] も存在 そんざい する。報告 ほうこく されている結果 けっか を検討 けんとう しても、語 かたり の定義 ていぎ が統一 とういつ されていないことから、同性愛 どうせいあい と異性 いせい 愛 あい とどちらがより多 おお く見 み られるのかを決定 けってい することはできない。ちなみに、西洋 せいよう 以外 いがい の地域 ちいき からの逸話 いつわ 的 てき 報告 ほうこく [要 よう 出典 しゅってん ] では、両 りょう 性愛 せいあい を示 しめ す割合 わりあい が同性愛 どうせいあい よりはるかに高 たか いことが示唆 しさ されている。
おそらく人間 にんげん の性 せい についての統計 とうけい を初 はじ めて記述 きじゅつ した[要 よう 出典 しゅってん ] 精神 せいしん 科 か 医 い ジークムント・フロイト は、「あらゆる人間 にんげん は誰 だれ でも、人生 じんせい のうちのある時期 じき において両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ になりうる可能 かのう 性 せい を持 も っている」と考 かんが えた。彼 かれ は、人間 にんげん の社会 しゃかい 的 てき 成長 せいちょう の過程 かてい において、同一 どういつ の性 せい (それが自然 しぜん に得 え たものか努力 どりょく で得 え たものかにはよらない)における性的 せいてき 経験 けいけん が、その人 ひと のもつであろう必要 ひつよう と欲望 よくぼう 、特 とく に性的 せいてき 欲望 よくぼう を愛着 あいちゃく のもてるものとするか否 ひ かを決定 けってい するという考 かんが えに基 もと づいているのである。
両 りょう 性愛 せいあい に関 かん する諸 しょ 研究 けんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
Main article:キンゼイ報告 ほうこく
アルフレッド・キンゼイ のSexual Behavior in the Human Male(1948) 、Sexual Behavior in the Human Female(1953) (人間 にんげん 男性 だんせい の性 せい 行動 こうどう ・人間 にんげん 女性 じょせい の性 せい 行動 こうどう )に代表 だいひょう される数 すう 件 けん の論文 ろんぶん は、ほとんどの人 ひと はある程度 ていど 両 りょう 性愛 せいあい 的 てき 傾向 けいこう を持 も つと述 の べている。つまり、異 い 性愛 せいあい を自覚 じかく する人 ひと は、ただ単 たん に異性 いせい を同性 どうせい より好 この むというだけであって、本来 ほんらい は同性 どうせい に対 たい する性的 せいてき 魅力 みりょく も持 も っていると述 の べるのである。その他 た の調査 ちょうさ によれば、完全 かんぜん な異 い 性愛 せいあい または同性愛 どうせいあい と断定 だんてい 出来 でき る人 ひと は全 ぜん 人口 じんこう に対 たい して5%ないし10%にすぎないという。一方 いっぽう で、ごく少数 しょうすう の人々 ひとびと は一方 いっぽう の性 せい をより好 この むという自分 じぶん の傾向 けいこう をはっきりとは自覚 じかく していない。
両 りょう 性愛 せいあい はいずれの性 せい に対 たい しても同 おな じくらいの強 つよ さで性的 せいてき 魅力 みりょく を感 かん じるということのみを意味 いみ するのではない。実際 じっさい 、一方 いっぽう の性 せい を明確 めいかく に好 この みながらも他方 たほう の性 せい への魅力 みりょく を排除 はいじょ しようとはしないという人 ひと は、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ となりうるし実際 じっさい 自身 じしん が両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ であると認識 にんしき していることも多 おお い。2005年 ねん にメディアの注目 ちゅうもく を集 あつ めた、心理 しんり 学者 がくしゃ ジョン・マイケル・ベイリーによる今後 こんご 議論 ぎろん を呼 よ びそうな研究 けんきゅう を含 ふく む、最近 さいきん のいくつかの研究 けんきゅう は、両 りょう 性愛 せいあい は男性 だんせい にきわめて少 すく ないものであるとする見解 けんかい を提示 ていじ している。
歴史 れきし 的 てき に見 み て、両 りょう 性愛 せいあい は同性愛 どうせいあい から俗 ぞく に連想 れんそう されるような社会 しゃかい 的 てき 汚名 おめい とは一般 いっぱん に縁 えん がなかったどころか、両 りょう 性愛 せいあい が普通 ふつう のことだと見 み なされている社会 しゃかい [どこ? ] においてはむしろ広 ひろ く流行 りゅうこう していることであった[要 よう 出典 しゅってん ] 。古代 こだい ギリシャ では、男性 だんせい が最終 さいしゅう 的 てき には結婚 けっこん して子 こ ども を作 つく る限 かぎ りにおいて、少年 しょうねん 愛 あい ということ自体 じたい はまったく問題 もんだい 視 し されなかった。世界中 せかいじゅう の異性 いせい と結婚 けっこん している男性 だんせい たちの間 あいだ では、同性愛 どうせいあい の問題 もんだい は比較的 ひかくてき 平穏 へいおん に受 う け入 い れられている。また、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ のうちにも、異 こと なる性 せい の者 もの と生活 せいかつ していくことによりお互 たが いにないものを補完 ほかん しあえるということを価値 かち あることと見 み なし、異性 いせい のパートナーと結婚 けっこん したり同棲 どうせい したりする者 もの [誰 だれ ? ] もある。このような者 もの の中 なか には、異性 いせい 間 あいだ の一夫一妻 いっぷいっさい 制 せい の下 した で同性愛 どうせいあい 的 てき 関係 かんけい を持 も つことで、自 みずか らの存在 そんざい が豊 ゆた かなものとなったと感 かん じている者 もの [誰 だれ ? ] もいる。
同性愛 どうせいあい 社会 しゃかい の一部 いちぶ の人 ひと [誰 だれ ? ] は、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ を「裏表 うらおもて がある」として非難 ひなん する。彼 かれ らは両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ が「真 しん の同性愛 どうせいあい 」が社会 しゃかい で認知 にんち を勝 か ち取 と るための「自 みずか らの義務 ぎむ を果 は たしていない」として批判 ひはん する。また一部 いちぶ 同性愛 どうせいあい 者 しゃ [誰 だれ ? ] は、両 りょう 性愛 せいあい というのは異性愛者 いせいあいしゃ としてのアイデンティティ が揺 ゆ らいだ人 ひと が至 いた るもので、単 たん なる同性愛 どうせいあい の初期 しょき 段階 だんかい に過 す ぎないと疑 うたが い、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ は結局 けっきょく 自 みずか らが同性愛 どうせいあい 者 しゃ であることを認 みと めると考 かんが えている(同性愛 どうせいあい 者 しゃ が陥 おちい りやすいこの種 たね の誤解 ごかい は、"Bi now, gay later."[ 注 ちゅう 10] という揶揄 やゆ 的 てき ない回 いまわ しに端 はし 的 てき に表 あらわ されている)。こういった状況 じょうきょう は起 お こりうるし実際 じっさい 起 お こっているが、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ の大 だい 部分 ぶぶん に真実 しんじつ として適用 てきよう されるわけではないようである[要 よう 出典 しゅってん ] 。それでも往々 おうおう にして両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ は、同性愛 どうせいあい 者 しゃ から余 あま り受 う け入 い れられないことがある[要 よう 出典 しゅってん ] 。その理由 りゆう は、特 とく に男性 だんせい 両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ において「いずれは女性 じょせい を優先 ゆうせん して結婚 けっこん し、子供 こども を作 つく り、家庭 かてい を持 も つという選択 せんたく をすることが多 おお く、同性愛 どうせいあい との関 かか わりは性欲 せいよく 処理 しょり だけだ」「同性 どうせい との恋愛 れんあい は異性 いせい の恋人 こいびと ができるまでの間 ま に合 あ わせだ」という反感 はんかん が同性愛 どうせいあい 者 しゃ [誰 だれ ? ] の側 がわ にあるからだ。また一部 いちぶ 両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ [誰 だれ ? ] が異性 いせい と結婚 けっこん してからもその事実 じじつ を隠 かく し、同性 どうせい の愛人 あいじん を作 つく ったり、同性愛 どうせいあい の世界 せかい で下半身 かはんしん だけの関係 かんけい を繰 く り返 かえ したりすることへ反発 はんぱつ もある。異 い 性愛 せいあい 結婚 けっこん 制度 せいど の中 なか で婚姻 こんいん 関係 かんけい を結 むす び、自分 じぶん は家庭 かてい という安全 あんぜん 地帯 ちたい で守 まも られながら同性 どうせい とも関係 かんけい するのは、配偶 はいぐう 者 しゃ も同性 どうせい の愛人 あいじん もその両方 りょうほう を大切 たいせつ にしていないとする声 こえ もある[誰 だれ によって? ] 。ちなみに両性 りょうせい との性的 せいてき 行動 こうどう を「実践 じっせん 」することは思春期 ししゅんき の両 りょう 性愛 せいあい の少年 しょうねん 少女 しょうじょ にとってもごく一般 いっぱん 的 てき なことである[ 10] 。
両 りょう 性愛 せいあい という語 かたり は、同性愛 どうせいあい であることをカミングアウト しないままに異 い 性愛 せいあい 的 てき な結婚 けっこん をして、なお同性愛 どうせいあい 的 てき 性 せい 行動 こうどう をとる男性 だんせい のこととしばしば結 むす びつけて考 かんが えられる[誰 だれ によって? ] が、このような男性 だんせい たち("men living on the down-low [ 注 ちゅう 11] ")の大 だい 部分 ぶぶん は自分 じぶん のことを両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ だとは認識 にんしき していない[ 11] [リンク切 き れ ] 。
バイセクシュアルプライドフラグ 両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ のうちいくらか[誰 だれ ? ] は異 い 性愛 せいあい 社会 しゃかい にも同性愛 どうせいあい 社会 しゃかい にもあてはまらないと感 かん じ、また公 おおやけ にはしばしば「見 み えない」存在 そんざい となってしまうために(同性愛 どうせいあい 社会 しゃかい と異性 いせい 愛 あい 社会 しゃかい との両方 りょうほう に所属 しょぞく してどっちつかずな存在 そんざい に見 み えてしまうために)、コミュニティ 、文化 ぶんか および政治 せいじ 的 てき 動議 どうぎ を1から形成 けいせい せざるを得 え ない状況 じょうきょう におかれている。
両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ としてのアイデンティティ の一般 いっぱん 的 てき 象徴 しょうちょう は、最 さい 上段 じょうだん に濃 こ い桃色 ももいろ で同性愛 どうせいあい を、最 さい 下段 げだん に青色 あおいろ で異性 いせい 愛 あい を、中段 ちゅうだん に桃色 ももいろ と青色 あおいろ の合成 ごうせい 色 しょく である紫色 むらさきいろ を配 はい した旗 はた ("bisexual pride flag")である[ 12] 。
この旗 はた と同 おな じ配色 はいしょく を用 もち いているその他 た の象徴 しょうちょう 的 てき 記号 きごう には、図 ず のような一 いち 組 くみ のオーバーラップした桃色 ももいろ と青色 あおいろ の三角形 さんかっけい でつくられる図形 ずけい がある(桃色 ももいろ の三角形 さんかっけい は、同性愛 どうせいあい 者 しゃ のコミュニティの象徴 しょうちょう としてよく知 し られている)。重複 じゅうふく している部分 ぶぶん の紫色 むらさきいろ はもちろん両 りょう 性愛 せいあい を象徴 しょうちょう する。
重 かさ なり合 あ う三角形 さんかっけい
三角形 さんかっけい に代 か わる象徴 しょうちょう としては、男女 だんじょ の性的 せいてき 分化 ぶんか の象徴 しょうちょう としても用 もち いられる火星 かせい と金星 きんぼし の天文学 てんもんがく 的 てき 記号 きごう が、両側 りょうがわ の切 き れた2つの円 えん に変更 へんこう されて生 う まれた "bisexual double moon symbol" がある。このような図形 ずけい に変更 へんこう されたことで、この記号 きごう は両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ がどちらの性 せい 社会 しゃかい にも開 ひら かれたものであることを象徴 しょうちょう しているのである[ 13] 。
"bisexual double moons" の配色 はいしょく はさまざまなものがある。しばしば、両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ が同性愛 どうせいあい 者 しゃ のコミュニティに属 ぞく することを強調 きょうちょう して虹色 にじいろ で表 あらわ されることもあるし[ 14] 、上 うえ で述 の べた他 ほか の象徴 しょうちょう 記号 きごう のように、桃色 ももいろ ・紫 むらさき ・青 あお の3色 しょく で構成 こうせい されることもある。
教養 きょうよう 的 てき な社会 しゃかい [どこ? ] における歴史 れきし 的 てき および文学 ぶんがく 的 てき な記録 きろく [要 よう 出典 しゅってん ] は、古代 こだい より男性 だんせい の両 りょう 性愛 せいあい が日常 にちじょう 的 てき なことであって、実際 じっさい に望 のぞ ましいことであったのだと示 しめ している。このような性的 せいてき 関係 かんけい は一般 いっぱん に年齢 ねんれい 的 てき 構造 こうぞう をとったり(古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい までの少年 しょうねん 愛 あい や、中世 ちゅうせい から近代 きんだい の日本 にっぽん における衆道 しゅどう のようなもの)、もしくは文化 ぶんか ・社会 しゃかい 的 てき 構造 こうぞう を取 と ったり(同 おな じ身体 しんたい に二 ふた つの異 こと なる性 せい が存在 そんざい すると考 かんが えた北 きた アメリカに伝統 でんとう 的 てき なものや、中央 ちゅうおう アジア地方 ちほう のイスラム 社会 しゃかい における少年 しょうねん 愛 あい のようなもの)していた。男性 だんせい の異 い 性愛 せいあい や同性愛 どうせいあい は記録 きろく に残 のこ ってはいるが、そのほとんどがむしろ例外 れいがい 的 てき なものとして現 あらわ れている(アブラハムの宗教 しゅうきょう のように、異性愛者 いせいあいしゃ を特権 とっけん 化 か し、同性愛 どうせいあい や両 りょう 性愛 せいあい を強 つよ く弾圧 だんあつ する宗教 しゅうきょう に影響 えいきょう を受 う けている社会 しゃかい のように非常 ひじょう に特殊 とくしゅ な例 れい がまれに存在 そんざい するが)。先 さき の文化 ぶんか における男性 だんせい 「同性愛 どうせいあい 」の例 れい としてしばしば引用 いんよう されるものの多 おお くは、実 み のところはどちらかというと両性 りょうせい 愛 あい に分類 ぶんるい した方 ほう が適切 てきせつ であるのだ[要 よう 出典 しゅってん ] 。
女性 じょせい による両 りょう 性愛 せいあい の歴史 れきし を確定 かくてい することはもっと厄介 やっかい な問題 もんだい である。というのも、研究 けんきゅう されている社会 しゃかい の大 だい 部分 ぶぶん で女性 じょせい は男性 だんせい より社会 しゃかい 的 てき に低 ひく い身分 みぶん に置 お かれ、かつ移動 いどう や表現 ひょうげん の自由 じゆう が制限 せいげん されて自分 じぶん 自身 じしん を考 かんが えることも少 すく なく、他方 たほう では女性 じょせい が歴史 れきし を文字 もじ に記 しる し伝 つた える立場 たちば になかったからである[要 よう 出典 しゅってん ] 。
古代 こだい ギリシャでは、一般 いっぱん に男性 だんせい は、思春期 ししゅんき のうちに同性愛 どうせいあい 的 てき 指向 しこう を示 しめ す段階 だんかい を経験 けいけん し、続 つづ いて青年 せいねん 期 き において少年 しょうねん 愛 あい に特徴 とくちょう を見 み いだせる両 りょう 性愛 せいあい 的 てき 指向 しこう を示 しめ す段階 だんかい を経験 けいけん し、そこから人生 じんせい の遅 おそ い時期 じき に結婚 けっこん し子 こ ども を作 つく る時 とき になって初 はじ めて異 い 性愛 せいあい 的 てき 指向 しこう を示 しめ す段階 だんかい に至 いた るのだと考 かんが えられていた[要 よう 出典 しゅってん ] 。古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく や、中国 ちゅうごく 、日本 にっぽん 、また現在 げんざい もその慣習 かんしゅう の残 のこ るアラブ諸国 しょこく においても男性 だんせい は類似 るいじ の両 りょう 性愛 せいあい 的 てき 振 ふ る舞 ま いを見 み せていた[要 よう 出典 しゅってん ] 。特 とく に日本 にっぽん においては、衆道 しゅどう にみられる実践 じっせん とそれに関連 かんれん する美術 びじゅつ 作品 さくひん や文学 ぶんがく 作品 さくひん が莫大 ばくだい な数 すう 遺 のこ されてきていたために、本来 ほんらい なされてきた両 りょう 性愛 せいあい 的 てき ライフスタイル はとても詳細 しょうさい に記述 きじゅつ されているし、なんと19世紀 せいき に至 いた るまで実際 じっさい にその習慣 しゅうかん が続 つづ いてきているのである。
おそらくもっとも有名 ゆうめい [要 よう 出典 しゅってん ] な例 れい は複数 ふくすう の妻 つま と愛妾 あいしょう を持 も っていたアレクサンドロス大王 だいおう であろう。多 おお くの歴史 れきし 作家 さっか [誰 だれ ? ] は彼 かれ には少 すく なくとも2人 ふたり の男性 だんせい の恋人 こいびと がいたのだと断言 だんげん している。そのうちのひとりヘファイスティオン は彼 かれ の古 ふる い友人 ゆうじん である。両 りょう 性愛 せいあい 的 てき 振 ぶ る舞 ま いはローマ皇帝 こうてい や中国 ちゅうごく 皇帝 こうてい 、日本 にっぽん の将軍 しょうぐん ・戦国 せんごく 大名 だいみょう たちの間 あいだ ではしばしば見 み られることであった。
プラトン の著作 ちょさく 『饗宴 きょうえん 』はアルキビアデス (ソクラテス の元 もと 恋人 こいびと )のくだりから同性愛 どうせいあい の書物 しょもつ とされることも多 おお いが、同時 どうじ に両 りょう 性愛 せいあい に関 かん する有名 ゆうめい な寓話 ぐうわ も含 ふく む。男女 だんじょ (アンドロギュノス )の話 はなし がそれで人間 にんげん は両性 りょうせい に分 わ かれる前 まえ は一体 いったい であったが、神 かみ によって今 いま の男 おとこ と女 おんな に切 き り離 はな されたため以前 いぜん の状態 じょうたい に戻 もど ることを渇望 かつぼう して互 たが いに求 もと め合 あ うというものである。ギリシアの彫刻 ちょうこく ではこの寓話 ぐうわ に基 もと づいて男女 だんじょ の美点 びてん をつなぎ合 あ わせた「ヘルムアプロディテ」という像 ぞう が作 つく られた。プラトンのイデア説 せつ から禁欲 きんよく 主義 しゅぎ が発達 はったつ したように、のちの宗教 しゅうきょう 界 かい でも異 い 性愛 せいあい をも含 ふく めた禁欲 きんよく の概念 がいねん がないわけではなかったが抑圧 よくあつ したものとして続 つづ いていた[ 注 ちゅう 12] 。
古代 こだい ギリシア の都市 とし 国家 こっか スパルタ の伝統 でんとう 法 ほう は、年頃 としごろ の若者 わかもの との同性愛 どうせいあい 関係 かんけい は、男性 だんせい が最終 さいしゅう 的 てき には結婚 けっこん して子供 こども を作 つく る限 かぎ りにおいて、成人 せいじん 男性 だんせい の判断 はんだん に任 まか せていた。スパルタ市民 しみん は、経験 けいけん 豊富 ほうふ な兵 へい と未熟 みじゅく な兵 へい との間 あいだ の恋愛 れんあい 関係 かんけい および肉体 にくたい 関係 かんけい は、国家 こっか に対 たい する忠誠 ちゅうせい 心 しん を強固 きょうこ なものとし、またパートナーを感動 かんどう させようと兵士 へいし たちが互 たが いに競 きそ いあうことで、英雄 えいゆう 的 てき 戦術 せんじゅつ に積極 せっきょく 的 てき に取 と り組 く むよう仕向 しむ けるものであると考 かんが えたのである。
ひとたび年下 としした の兵 へい が成熟 せいじゅく した年齢 ねんれい に達 たっ したならば、同性愛 どうせいあい 関係 かんけい は肉体 にくたい 的 てき なものでなくなるのが望 のぞ ましいとされたが、この暗黙 あんもく のルールがどれくらい厳格 げんかく に順守 じゅんしゅ されたのかということは明 あき らかではない。成人 せいじん した兵 へい と性的 せいてき 関係 かんけい を継続 けいぞく したことで汚名 おめい を着 き せられた若 わか い男性 だんせい に関 かん する話 はなし も残 のこ っている[要 よう 出典 しゅってん ] 。しかしながら古代 こだい ギリシャ世界 せかい のほとんどの地域 ちいき においては、たとえばアテネ を例 れい として挙 あ げると、老齢 ろうれい の男性 だんせい と、かなり若年 じゃくねん の少年 しょうねん とが少年 しょうねん の成人 せいじん まで性的 せいてき 関係 かんけい を継続 けいぞく すると言 い うことは社会 しゃかい 的 てき に厳 きび しく蔑 さげす まれていたのである。このような関係 かんけい は、少年 しょうねん に対 たい し男性 だんせい が優位 ゆうい に立 た っているものと見 み なされ、奨励 しょうれい されていなかった。
ギリシャ 世界 せかい におけるいくつかの宗教 しゅうきょう 的 てき 書物 しょもつ は、両 りょう 性愛 せいあい の話題 わだい をまとめる試 こころ みを行 おこな っている。その論理 ろんり は、ミステリー 的 てき なものから帰納 きのう 的 てき なものまで多岐 たき にわたってはいるが。
イスラム教 いすらむきょう 諸国 しょこく においては、対象 たいしょう の性 せい が何 なに であっても、イスラーム の教義 きょうぎ に背 そむ かない限 かぎ り愛 あい は絶対 ぜったい 的 てき な善 ぜん であるとみなす文化 ぶんか が発達 はったつ した。男性 だんせい が美 うつく しい少年 しょうねん に魅力 みりょく を感 かん じるということはイスラム世界 せかい において万国 ばんこく 共通 きょうつう であり、ごく普通 ふつう のこととしてかなり寛容 かんよう に理解 りかい されていた[ 15] 。このような逸話 いつわ がある。イブン・アル=ジャウージという13世紀 せいき の学者 がくしゃ は「あの、美 うつく しい少年 しょうねん を見 み ても何 なに にも感 かん じないとか言 い う男 おとこ はうそつきだ。奴 やつ を信 しん じることができるとしたら奴 やつ は人間 にんげん じゃない。動物 どうぶつ でしかあり得 え ない」と述 の べたことで有名 ゆうめい なのである[ 16] 。
宗教 しゅうきょう 的 てき 書物 しょもつ の一部 いちぶ [要 よう 出典 しゅってん ] は、少年 しょうねん に対 たい する感情 かんじょう は女性 じょせい に対 たい するものよりしばしば強 つよ いものであったので、この感情 かんじょう にのめり込 こ まないよう若 わか い男性 だんせい に警鐘 けいしょう をならすほどであった。スーフィズム は、議論 ぎろん の分 わ かれる所 ところ であるのだが、男 おとこ の子 こ の美 うつく しさをじっと見 み つめることは神 かみ と交流 こうりゅう する方法 ほうほう なのだと教 おし えている。詩人 しじん やアーティストは中世 ちゅうせい から20世紀 せいき 初頭 しょとう に至 いた るまで、受 う け入 い れられたか否 ひ かは別 べつ 問題 もんだい としても、繰 く り返 かえ し少年 しょうねん の愛 あい を表現 ひょうげん してきた。クルアーン に男性 だんせい とのアナルセックス を厳 きび しく禁 きん じる規定 きてい (リワート )があることは一部 いちぶ の人 ひと により愚弄 ぐろう され、またこのような関係 かんけい に耽 ふけ った人 ひと により曲解 きょっかい されてきたが、性交 せいこう 以外 いがい の行為 こうい は思 おも いとどまらせてきた。男性 だんせい はしばしばこのリワートが原因 げんいん でパートナーもろとも有罪 ゆうざい 宣告 せんこく を受 う け、折 おり を見 み て処刑 しょけい された。
しかしながらクルアーン は、犯罪 はんざい 者 しゃ を有罪 ゆうざい とするために、犯罪 はんざい 現場 げんば が4人 にん の男性 だんせい または8人 にん の女性 じょせい により押 お さえられていることを必要 ひつよう としているのである。
人間 にんげん 以外 いがい の多 おお くの動物 どうぶつ も両 りょう 性愛 せいあい 行動 こうどう を示 しめ す。哺乳類 ほにゅうるい ではボノボ 、シャチ 、バンドウイルカ が挙 あ げられる。生物 せいぶつ 学 がく 的 てき な実例 じつれい は魚類 ぎょるい 、甲殻 こうかく 類 るい 、扁 ひらた 形 がた 動物 どうぶつ に豊富 ほうふ に見 み られる[ 17] [リンク切 き れ ] 。両 りょう 性愛 せいあい は、行動 こうどう としても生物 せいぶつ 学的 がくてき にも、500以上 いじょう の動物 どうぶつ 種 しゅ においてその存在 そんざい が確認 かくにん されている。
^ バイセクシャリティとも表記 ひょうき 。
^ バイセクシャルとも表記 ひょうき 。
^ 俗語 ぞくご (隠語 いんご )として「両刀 りょうとう 」という言葉 ことば もある。
^ 「pan」、「omni」は英語 えいご の接頭 せっとう 語 ご であり、「全 すべ ての」という意味 いみ を添 そ える。例 れい :Pan-Pacific(パンパシフィック=環太平洋 かんたいへいよう の)
^ 「バイ」(bi)は英語 えいご の接頭 せっとう 語 ご (ラテン語 らてんご 系 けい )であり、「両方 りょうほう の」「二 ふた つの」という意味 いみ を添 そ える。例 れい :bilingual(バイリンガル=二 ふた つの言語 げんご を使用 しよう できる人 ひと )
^ 「トリ」(tri)は英語 えいご の接頭 せっとう 語 ご (ラテン語 らてんご 系 けい )であり、「三 みっ つの」という意味 いみ を添 そ える。
^ 「フォビア」は英語 えいご の接尾 せつび 語 ご であり、「〜恐怖症 きょうふしょう 」という意味 いみ である。
^ 同性愛 どうせいあい 者 しゃ であることについて非難 ひなん されるのではないかと恐 おそ れること、またそのように恐 おそ れる人 ひと 。
^ 異性愛者 いせいあいしゃ であることについて非難 ひなん されるのではないかと恐 おそ れること。またそのように恐 おそ れる人 ひと 。
^ 直訳 ちょくやく すれば「とりあえず両 りょう 性愛 せいあい 、あとで同性愛 どうせいあい 」。日本語 にほんご にしてもわかるとおり、このスラング には両 りょう 性愛 せいあい 者 しゃ に対 たい する誤解 ごかい を内包 ないほう している。
^ down-lowとは英語 えいご のスラングであって、隠 かく れてする何 なに かをいう時 とき 用 もち いる。このような文脈 ぶんみゃく では特 とく に同性愛 どうせいあい のことを指 さ す。
^ 逆 ぎゃく に、有史 ゆうし 以前 いぜん に遡 さかのぼ るほど地 ち 母 はは 神 しん 崇拝 すうはい ・生殖 せいしょく 器 き 信仰 しんこう もあり性的 せいてき な表現 ひょうげん には寛容 かんよう である
^ Crompton, Louis (2003). Homosexuality and Civilization . Cambridge, Massachusetts: Belknap Press . ISBN 978-0-674-01197-7 . https://archive.org/details/homosexualityciv00crom
^ Bagemihl, Bruce (1999). Biological Exuberance: Animal Homosexuality and Natural Diversity . London: Profile Books, Ltd.. ISBN 978-1-86197-182-1
^ Roughgarden, Joan (May 2004). Evolution's Rainbow: Diversity, Gender, and Sexuality in Nature and People . Berkeley, CA: University of California Press . ISBN 978-0-520-24073-5 . https://archive.org/details/evolutionsrainbo00roug
^ Driscoll, Emily V. (July 2008). “Bisexual Species: Unorthodox Sex in the Animal Kingdom” . Scientific American . http://www.sciam.com/article.cfm?id=bisexual-species
^ Eisner, Shiri (2013). Bi: Notes for a Bi Revolution . Seal Press. ISBN 978-1-58005-474-4
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^ [1] [リンク切 き れ ]
^ (Oxford English Dictionary, 2nd ed. より出典 しゅってん )
^ Christopher Bollas, "The trisexual", In The shadow of the object , London, Free Association Books Ltd, 1987.
^ [2] [3]
^ [4] “アーカイブされたコピー ”. 2006年 ねん 4月 がつ 27日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2006年 ねん 4月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ [5] アーカイブ 2012年 ねん 2月 がつ 4日 にち - ウェイバックマシン [6]
^ “アーカイブされたコピー ”. 2006年 ねん 9月 がつ 27日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2006年 ねん 10月 がつ 2日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ (El-Rouayheb, 2005, pp. 14-24)より出典 しゅってん
^ (Monroe, 1997, p. 117)より出典 しゅってん
^ “アーカイブされたコピー ”. 2007年 ねん 1月 がつ 1日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2007年 ねん 2月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん 。