提示 ていじ :此条
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主 ぬし 题不
是 ぜ 藏 くら 区 く 。
吐蕃四 よん 茹
吐蕃 [ 註 2] (藏 ぞう 語 ご :བོད་ཆེན་པོ། ,威 い 利 り 转写 :bod chen po ,THL :Bö Chenpo ,拉 ひしげ 薩話:/pʰøʔ˩˧˨ ʨʰẽ˥ po˥˧/ ,意 い 为“大 だい 蕃 しげる ”[ 註 3] ),又 また 称 たたえ 吐蕃王国 おうこく 、吐蕃帝国 ていこく ,是 ぜ 7世 せい 纪初到 いた 9世 せい 纪中叶 かのう 存在 そんざい 于青 あお 藏 ぞう 高原 こうげん 的 てき 藏人 くろうど 帝國 ていこく ,由 ゆかり 松 まつ 赞干布 ぬの 到 いた 朗 ろう 達 たち 瑪延 のべ 续两百 ひゃく 多年 たねん ,鼎 かなえ 盛 もり 时期疆域囊括今 いま 中国 ちゅうごく 西藏 とりぞう 、青海 あおみ 、甘 あま 肃 、四川 しせん 康 かん 巴 ともみ 地区 ちく ,天山 てんざん 以南 いなん 新 しん 疆和 わ 云 うん 南 みなみ 西北 せいほく 部 ぶ 、不 ふ 丹 に 全 ぜん 境 さかい ,以及中 ちゅう 亚 、尼 あま 泊 はく 尔和 わ 印度 いんど 北部 ほくぶ 部分 ぶぶん 地區 ちく 。
原始 げんし 藏 ぞう 族 ぞく 在 ざい 漢文 かんぶん 史籍 しせき 中 ちゅう 被 ひ 稱 しょう 為 ため 髮 かみ 羌 。在 ざい 6世紀 せいき 以前 いぜん ,整 せい 個 こ 青 あお 藏 ぞう 高原 こうげん 分 ぶん 佈著很多小 しょう 國家 こっか 和 わ 部族 ぶぞく ,多 た 說 せつ 藏 ぞう 語 ご ,也有 やゆう 羌人 與 あずか 鲜卑人 じん 的 てき 後代 こうだい 。這些部落 ぶらく 後來 こうらい 合併 がっぺい 為 ため 12個 こ 小 しょう 邦 くに ,其中以位於山南 さんなん 地區 ちく 雅 まさ 隆 たかし 河谷 こうだに 的 てき 一 いち 支 ささえ 最 さい 為 ため 強大 きょうだい ,不 ふ 但 ただし 統一 とういつ 了 りょう 諸 しょ 邦 くに ,而且後來 こうらい 還 かえ 建立 こんりゅう 了 りょう 吐蕃王朝 おうちょう 。
根據 こんきょ 藏 ぞう 族 ぞく 傳說 でんせつ ,大約 たいやく 在 ざい 西元 にしもと 前 ぜん 127年 ねん 的 てき 時候 じこう ,山南 さんなん 地區 ちく 雅 まさ 隆 たかし 河谷 こうだに 出現 しゅつげん 了 りょう 一 いち 位 い 相貌 そうぼう 不 ふ 凡、語 かたり 言 げん 不通 ふつう 的 てき 幼兒 ようじ 。當地 とうち 人 じん 很好奇 こうき ,便 びん 問 とえ 他 た 從 したがえ 哪裡來 らい ,此幼兒 じ 用 よう 手指 しゅし 天 てん 。幾 いく 位 い 苯教領袖 りょうしゅう 便 びん 認 みとめ 為 ため 他 た 來 き 自 じ 天上 てんじょう ,將 はた 他 た 背 せ 回 かい 部落 ぶらく ,立 たて 為 ため 國王 こくおう 。這位幼兒 ようじ 就是吐蕃傳說 でんせつ 中 ちゅう 的 てき 第 だい 一 いち 位 い 贊 さん 普 ひろし ,聶赤贊 さん 普 ひろし 。後來 こうらい 的 てき 吐蕃帝国 ていこく 君主 くんしゅ 均 ひとし 宣 せん 稱 しょう 自己 じこ 是 ぜ 聶赤贊 さん 普 ひろし 的 てき 後代 こうだい 。
吐蕃王室 おうしつ 的 てき 始祖 しそ 崛起於西藏 ぞう 山南 さんなん 地區 ちく 的 てき 雅 まさ 礱河谷 たに ,在 ざい 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 贊 さん 普 ひろし [ 註 4] 繼 つぎ 位 い 以前 いぜん ,據 よりどころ 說 せつ 已 やめ 傳承 でんしょう 了 りょう 20餘 よ 世 せい ,但 ただし 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 之 の 前 ぜん 吐蕃並無 ならびな 文字 もじ ,因 いん 此其世 よ 系 けい 難 なん 以考證 こうしょう 。
6世紀 せいき 時 じ ,赞普囊日論贊 ろんさん 开始用 よう 武力 ぶりょく 兼 けん 并其鄰近的 てき 部落 ぶらく ,森 もり 波 なみ 、藏 くら 蕃 しげる 、尼 あま 雅 まさ 尼 に 达布等 とう 国 こく 相 しょう 继被征服 せいふく 。后 きさき 来 らい 囊日論贊 ろんさん 被 ひ 谋杀,其子松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 继位,平定 へいてい 了 りょう 各地 かくち 叛乱 はんらん 。松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 继承其遗志 こころざし ,先後 せんご 征服 せいふく 、兼併 けんぺい 位 い 於今青海 あおみ 玉 たま 树一帶 いったい 的 てき 「松波 まつなみ 」、西部 せいぶ 的 てき 蘇 そ 毗 、謙 けん 多 た (今 いま 昌 あきら 都 と )一帶 いったい 的 てき 「康 かん 國 こく 」(舊 きゅう 唐 とう 書 しょ 稱 たたえ 「東 ひがし 女 おんな 國 こく 」)、甘 あま 孜 つとむ 一帶 いったい 的 てき 「附 ふ 國 こく 」、理 り 塘一帶 いったい 的 てき 「蕃 しげる 綠 みどり 」、居 きょ 青海 あおみ 的 てき 吐谷渾 等 とう 国 くに ,633年 ねん ,建都 けんと 邏些 (中古 ちゅうこ 擬音 ぎおん /lɑ sɑ/,今 いま 拉 ひしげ 薩 ),国号 こくごう “大 だい 蕃 しげる ”或 ある “吐蕃”,並 なみ 在 ざい 紅 べに 山 やま 上 うえ 建立 こんりゅう 皇宮 こうぐう 。
松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 派遣 はけん 了 りょう 16名 めい 聰 さとし 穎的藏 ぞう 族 ぞく 兒童 じどう 前 ぜん 往印度 いんど 學習 がくしゅう ,其中一 いち 名 めい 兒童 じどう 吞彌·桑 くわ 布 ぬの 扎 後來 こうらい 以梵文 ぼんぶん 為 ため 藍本 らんぽん 創 そう 制 せい 了 りょう 藏 ぞう 文 ぶん 。苯教 文献 ぶんけん 則 そく 說 せつ 藏 ぞう 文 ぶん 是 ぜ 按照象 ぞう 雄文 ゆうぶん 創 そう 制 せい 而來[ 6] ,時間 じかん 則 のり 是 ぜ 在 ざい 丹 たん 巴 ともみ 辛 からし 繞 にょう 創立 そうりつ 雍仲苯教 的 てき 時期 じき 。
現存 げんそん 大昭 たいしょう 寺 てら 的 てき 照 あきら 片 へん
藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 紅 べに 教 きょう (寧 やすし 瑪派 )的 てき 大本營 だいほんえい —桑 くわ 耶寺 。「桑 くわ 耶寺」藏 ぞう 語 ご 意思 いし 是 ぜ 「三 さん 樣 よう 寺 てら 」,位 い 於拉 ひしげ 薩東 ひがし 南方 なんぽう 的 てき 河谷 こうだに 平原 へいげん 上 じょう ,歷史 れきし 已 やめ 經 けい 超過 ちょうか 千 せん 年 ねん 以上 いじょう ,全 ぜん 寺 てら 共有 きょうゆう 108座 ざ 建築 けんちく ,是 ぜ 藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 僧 そう 伽 とぎ 組織 そしき 始 はじめ 創 そう 的 てき 搖籃 ようらん 。
在 ざい 征服 せいふく 青 あお 藏 ぞう 高原 こうげん 大 だい 部分 ぶぶん 地区 ちく 之 の 后 きさき ,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 派 は 噶爾·東 ひがし 贊 さん 域 いき 松 まつ (即 そく 唐 とう 史 し 中 ちゅう 的 てき 祿 ろく 東 ひがし 贊 さん )到 いた 尼 あま 婆 ばば 罗(今 こん 尼 あま 泊 はく 爾 なんじ ),采 さい 用 よう 武力 ぶりょく 方式 ほうしき 迫 はさま 使 し 光 こう 胄王(Amsuvarman,或 ある 稱 しょう 「鴦輸伐摩 ま 」)将 はた 女 おんな 儿尺 せき 尊 たかし 公主 こうしゅ 嫁 よめ 給 きゅう 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 。尺 せき 尊 たかし 公主 こうしゅ 攜來了 りょう 吐蕃历史上 じょう 第 だい 一 いち 尊 みこと 佛像 ぶつぞう 不動 ふどう 金剛 こんごう 佛 ふつ ,並 なみ 修 おさむ 建 たて 了 りょう 饒 にょう 薩孜拉 ひしげ 康 かん (即 そく 現在 げんざい 的 てき 拉 ひしげ 薩「大昭 たいしょう 寺 てら 」)。[ 7] [ 8]
634年 ねん ,松 まつ 赞干布 ぬの 派 は 使者 ししゃ 访问唐 とう 朝 あさ ,这是吐蕃第 だい 一 いち 次 じ 与 あずか 唐 から 朝 あさ 发生正式 せいしき 接触 せっしょく 。听闻突厥 和 わ 吐谷浑 迎 むかえ 娶 めと 了 りょう 唐 から 朝 あさ 公主 こうしゅ ,松 まつ 赞干布 ぬの 也提出 ていしゅつ 要 よう 迎 むかえ 娶 めと 一位唐朝公主为妻,但 ただし 遭到唐 とう 朝 あさ 拒 こばめ 绝。松 まつ 赞干布 ぬの 大 だい 怒 いか ,迁怒于吐谷 たに 浑。637年 ねん ,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 借 か 口 くち 吐谷渾 从中作 さく 梗,联合象 ぞう 雄 ゆう 大 だい 举讨伐吐谷浑,灭亡其盟国 こく 党 とう 氏 し (即 そく 唐 とう 史 し 所 しょ 記 き 「党 とう 項 こう 」)和 わ 白 はく 蘭 らん ,逼近唐 から 朝 あさ 边境松 まつ 州 しゅう 西境 にしさかい (今 いま 四川 しせん 省 しょう 松 まつ 潘 はん 县 ),试图用 よう 武力 ぶりょく 逼婚。唐 から 朝 あさ 的 てき 松 まつ 州都 しゅうと 督 とく 韓 かん 威 たけし 率 りつ 軍 ぐん 迎 むかえ 戰 せん ,被 ひ 吐蕃擊 げき 敗 はい 。[ 9] 唐 から 朝 あさ 于是派遣 はけん 侯 ほう 君 くん 集 しゅう 、执失思 おもえ 力 りょく 、牛 うし 进达等 とう 人出 ひとで 击,击败吐蕃。松 まつ 赞干布 ぬの 知 ち 晓了唐 とう 朝 あさ 的 てき 强 きょう 盛 もり ,便 びん 改 あらため 为和平 わへい 请婚,遣 や 大臣 だいじん 噶爾·東 ひがし 贊 さん 域 いき 松 まつ (即 そく 唐 とう 史 し 中 ちゅう 的 てき 祿 ろく 東 ひがし 贊 さん )前 ぜん 往唐朝 あさ 献 けんじ 聘礼。640年 ねん ,唐 から 朝 ちょう 派 は 文成 ふみなり 公主 こうしゅ 和 かず 亲吐蕃 しげる 。藏 くら 文 ぶん 文獻 ぶんけん 如班 はん 欽·索 さく 南 みなみ 扎巴的 てき 《新 しん 紅 べに 史 し 》等 とう 则宣称 しょう 唐 から 太 ふとし 宗 むね 原 はら 本並 もとなみ 不 ふ 願意 がんい 嫁 よめ 出 で 公主 こうしゅ ,是 ぜ 迫 はさま 于吐蕃 しげる 的 てき 军事威 い 脅 おびえ 才 ざい 同意 どうい 和親 わしん 。[ 10] 文成 ふみなり 公主 こうしゅ 攜來了 りょう 釋迦牟尼 しゃかむに 佛像 ぶつぞう ,並 なみ 修 おさむ 建 たて 了 りょう 饒 にょう 摩 ま 齊 ひとし (即今 そっこん 拉 ひしげ 薩的 てき 「小 しょう 昭 あきら 寺 てら 」)。此外,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 的 てき 另外三 さん 個 こ 妃 ひ 子 こ 象 ぞう 雄 ゆう 公主 こうしゅ 、尺 せき 尊 たかし 公主 こうしゅ 、惹擁妃 ひ 等 とう 也分別 べつ 創建 そうけん 了 りょう 寺院 じいん ,據 よりどころ 說 せつ 當時 とうじ 在 ざい 吐蕃總 そう 共有 きょうゆう 108座 ざ 佛寺 ぶつじ 。
大約 たいやく 在 ざい 641年 ねん 的 てき 時候 じこう ,吐蕃协助尼 あま 婆 ばば 罗平定 へいてい 内乱 ないらん ,并趁机 つくえ 将 はた 其降为附属 ふぞく 国 こく 。642年 ねん ,松 まつ 赞干布 ぬの 亲自率 りつ 兵 へい 攻 おさむ 灭了象 ぞう 雄 ゆう ,统一了 りょう 青 あお 藏 ぞう 高原 こうげん 。647年 ねん ,因 いん 唐 から 朝 あさ 使者 ししゃ 被 ひ 印度 いんど 的 てき 摩 ま 伽 とぎ 陀国 扣留,松 まつ 赞干布 ぬの 便 びん 以此为借口 こう 大 だい 举入侵 おかせ 印度 いんど ,救出 きゅうしゅつ 唐 から 朝 あさ 使者 ししゃ ,同 どう 时征服 ふく 了 りょう 北 きた 印度 いんど 地区 ちく 。
松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 在位 ざいい 期 き 间,吐蕃与 あずか 唐 から 朝 あさ 关系良好 りょうこう ,为盟友 めいゆう 关系。650年 ねん ,松 まつ 赞干布 ぬの 過 か 世 よ ,其孙芒 すすき 松 まつ 芒 すすき 贊 さん 继位,因 いん 其年幼 よう ,由 よし 大 だい 相 しょう 禄 ろく 东赞 摄政。禄 ろく 东赞繼承 けいしょう 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 的 てき 方針 ほうしん ,完 かん 善 ぜん 法律 ほうりつ ,清 きよし 查戶籍 こせき ,確定 かくてい 稅 ぜい 賦 ふ ,安定 あんてい 吐蕃內部。吐谷浑大臣 だいじん 素 す 和 わ 贵 叛逃吐蕃,将 はた 吐谷浑的虚 きょ 实全部 ぶ 告知 こくち 禄 ろく 东赞。禄 ろく 东赞便 びん 借 か 机 つくえ 大 だい 举入侵 おかせ 吐谷渾 ,于663年 ねん 彻底征服 せいふく 该国,改 あらため 其名字 みょうじ 为阿 おもね 秦 はた 。吐谷浑国王 おう 诺曷钵 携王后 きさき 弘 ひろし 化 か 公主 こうしゅ 出奔 しゅっぽん 唐 から 朝 あさ 避难。吐蕃另立傀儡 かいらい 国王 こくおう ,并由禄 ろく 东赞率 りつ 军驻守 もり ,监督内政 ないせい 。此后,日 にち 渐强大 だい 的 てき 吐蕃开始与 あずか 唐 から 朝 あさ 争 そう 夺西域 せいいき 的 てき 霸权,屡次 るじ 发兵攻 おさむ 打 だ 安西 あんざい 四 よん 鎮 ,煽 あふ 动疏勒 、龟兹 和 わ 西 にし 突厥的 てき 弓月 ゆづき 部 ぶ 反 はん 叛唐朝 あさ ,大破 たいは 勃律 ,另立小 しょう 勃律王 おう ,在 ざい 西域 せいいき 设下了 りょう 一 いち 个据点 てん 。667年 ねん ,禄 ろく 东赞逝世,其子论钦陵 りょう (噶尔·钦陵赞卓)等 とう 兄弟 きょうだい 把持 はじ 朝政 ちょうせい 。670年 ねん (唐 から 朝 あさ 咸亨 元年 がんねん ),唐 から 朝 あさ 出動 しゅつどう 十幾萬大軍護送诺曷钵還青海 あおみ ,論 ろん 欽陵得 え 到 いた 情 じょう 报后立 りつ 即 そく 調 ちょう 集 しゅう 吐蕃二 に 十 じゅう 多 た 萬 まん 軍隊 ぐんたい 迎 むかえ 戰 せん 。在 ざい 青海湖 おうみこ 南面 なんめん 的 てき 大 だい 非 ひ 川 かわ 之 の 戰 たたかえ 中 なか ,唐 とう 軍 ぐん 覆沒 ふくぼつ 。從 したがえ 此吐蕃 しげる 牢 ろう 牢 ろう 控 ひかえ 制 せい 了 りょう 青海湖 おうみこ 地區 ちく ,並進 へいしん 一 いち 步 ほ 與 あずか 大 だい 唐 から 爭奪 そうだつ 隴右 和 わ 河西 かさい 走 はし 廊 ろう ,力 ちから 圖 ず 取得 しゅとく 對 たい 絲 いと 綢之路 ろ 的 てき 控 ひかえ 制 せい 權 けん ,以獲得 かくとく 更 さら 大 だい 的 てき 經濟 けいざい 利益 りえき 。
676年 ねん ,芒 すすき 松 まつ 芒 すすき 贊 さん 去 さ 世 よ ,其遺 のこ 腹 はら 子 こ 赤 あか 都 と 松 まつ 赞被 ひ 立 たて 為 ため 贊 さん 普 ひろし ,論 ろん 欽陵繼續 けいぞく 掌 てのひら 政 せい 。这段时期里 さと ,吐蕃在 ざい 西域 せいいき 的 てき 战事中 ちゅう 处于劣 れつ 势,转而攻 おさむ 打 だ 西南 せいなん ,夺取了 りょう 岷江畔 こうはん 的 てき 数 すう 个军事 ごと 重 じゅう 地 ち 。由 よし 於噶尔氏 し 家族 かぞく 長期 ちょうき 專權 せんけん ,與 あずか 其他貴族 きぞく 產 さん 生 せい 矛盾 むじゅん ,同時 どうじ 也威脅 おびえ 到 いた 贊 さん 普 ひろし 王權 おうけん 的 てき 鞏固 きょうこ ,赤 あか 都 と 松 まつ 赞長大 だい 後 ご ,决定清算 せいさん 噶尔氏 し 的 てき 势力。695年 ねん (唐 から 朝 あさ 証 あかし 聖 きよし 元年 がんねん ),赤 あか 都 と 松 まつ 赞以在 ざい 西域 せいいき 战败为由,诛杀了 りょう 论钦陵 りょう 的 てき 弟 おとうと 弟 おとうと 勃论赞刃 。但 ただし 翌年 よくねん 论钦陵 りょう 与 あずか 弟 おとうと 弟 おとうと 赞婆 大破 たいは 王 おう 孝 たかし 杰 于素 す 罗汗山 やま (今 いま 洮州 附近 ふきん ),使 つかい 噶尔氏 し 的 てき 地位 ちい 更 さら 加 か 巩固。赤 あか 都 と 松 まつ 赞对噶尔氏 し 一族猜忌心越来越重,终于在 ざい 698年 ねん (唐 から 朝 あさ 聖 せい 曆 こよみ 元年 がんねん )對 たい 噶尔氏 し 進行 しんこう 討伐 とうばつ ,捕 と 杀噶尔氏党 とう 羽 わ 两千余人 よにん 。论欽陵 りょう 在 ざい 吐谷浑举兵 へい 反 はん 叛,由 ゆかり 于手下 か 将士 しょうし 皆 みな 不 ふ 敢与赞普为敌,因 いん 而兵潰 つぶせ 自殺 じさつ ,其弟贊 さん 婆 ばば 及兒子 こ 論 ろん 弓 ゆみ 仁 ひとし 率 りつ 部 ぶ 眾投降 とうこう 唐 から 朝 あさ ,被 ひ 安置 あんち 在 ざい 凉州 的 てき 洪 ひろし 源 げん 谷 たに 以防御 ご 吐蕃。噶尔氏 し 灭亡之 の 后 きさき ,吐蕃缺乏 けつぼう 良 よ 将 はた ,在 ざい 战事中 ちゅう 多 た 处于劣 れつ 势。赤 あか 都 と 松 まつ 赞派麹 こうじ 莽布支 ささえ 前 まえ 去 さ 讨伐赞婆,但 ただし 大 だい 败。704年 ねん ,赤 あか 都 と 松 まつ 赞亲征 せい 南 みなみ 诏 ,死 し 于军中 ちゅう 。幼子 おさなご 赤 あか 德 とく 祖 そ 赞继位 い ,由 ゆかり 祖母 そぼ 没 ぼつ 庐·赤 あか 玛类 摄政。
以後 いご ,吐蕃王朝 おうちょう 與 あずか 唐 から 朝 あさ 的 てき 關係 かんけい 時 じ 而緊張 きんちょう ,時 じ 而修好 しゅうこう 。714年 ねん ,吐蕃與 あずか 唐 から 朝議 ちょうぎ 以河源 げん 為 ため 界 かい ,會 かい 盟 めい 不 ふ 成 なり 又 また 起 おこり 戰火 せんか [ 11] [ 9] ,於730年 ねん 簽約定 やくじょう 赤嶺 あかみね 為 ため 界 かい 。據 よりどころ 《敦煌 とんこう 文選 ぶんせん 》和 かず 「恩 おん 蘭 らん ·達 たち 札 さつ 路 ろ 恭 きょう 紀 きの 功 いさお 碑 ひ 」的 てき 記載 きさい :唐 から 肃宗應 おう 允 まこと 向 こう 吐蕃納 おさめ 絹 きぬ 5萬 まん 匹 ひき ,為 ため 歲 とし 絹 きぬ ,這也是 ぜ 歲 とし 幣 ぬさ 的 てき 起源 きげん 。
唐 とう 代 だい 宗 むね 继位以后,停止 ていし 向 こう 吐蕃纳绢。[ 12] 當時 とうじ 在位 ざいい 的 てき 唐 から 金城 きんじょう 公主 こうしゅ 之子 ゆきこ ,吐蕃贊 さん 普 ひろし 赤松 あかまつ 德 いさお 贊 さん [ 註 5] 極 ごく 為 ため 惱怒,遣 や 部下 ぶか 恩 おん 蘭 らん ·達 たち 扎路恭 きょう (即 そく 馬 うま 重 しげる 英 えい )率 りつ 20萬 まん 之 これ 眾於762年 ねん (安 やす 史 し 之 の 乱 みだれ 尚 なお 未 み 完全 かんぜん 平 ひら 息 いき )攻 おさむ 陷 おちい 唐 から 都 と 長安 ながやす ,立金 たつがね 城 じょう 公主 こうしゅ 侄李 り 承 うけたまわ 宏 ひろし 為 ため 帝 みかど [ 13] 。赤松 あかまつ 德 いさお 贊 さん (755年 ねん -797年 ねん )在位 ざいい 時 じ 吐蕃的 てき 國力 こくりょく 達 たち 到 いた 鼎 かなえ 盛 もり ,除 じょ 了 りょう 大力 だいりき 發展 はってん 佛教 ぶっきょう 以外 いがい ,還 かえ 廣 こう 拓 つぶせ 疆土,疆界西 にし 至 いたり 勃律 、黑衣 くろご 大食 たいしょく ,東 ひがし 到 いた 川 かわ 隴,北 きた 至 いたる 天山 あまやま ,南 みなみ 至 いたる 南 みなみ 詔 みことのり 、恒 つね 河北 かほく 岸 がん 。[ 7]
吐蕃铜镀金 きん 释迦牟尼佛像 ぶつぞう
佛教 ぶっきょう 虽在松 まつ 赞干布 ぬの 在位 ざいい 期 き 间,便 びん 传入吐蕃,但 ただし 一直没有成为主流。赤松 あかまつ 德 いさお 赞在位 ざいい 期 き 间,大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 和 わ 密宗 みっしゅう 從 したがえ 印度 いんど 傳 でん 入 いれ ,與 あずか 吐蕃原 はら 有 ゆう 的 てき 苯教 結合 けつごう ,而形成 けいせい 了 りょう 藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 。在 ざい 佛 ふつ 苯之爭 そう 後 ご ,由 ゆかり 贊 さん 普 ふ 宣布 せんぷ 佛教 ぶっきょう 勝 しょう 出 で ,而逐漸 やや 確立 かくりつ 為 ため 吐蕃的 てき 國教 こっきょう 。該教宣傳 せんでん 宇宙 うちゅう 大 だい 劫 こう 、一切 いっさい 無常 むじょう 、因果 いんが 報 ほう 應 おう 、生死 せいし 輪 わ 迴 、修行 しゅぎょう 解脫 げだつ 等 とう 教義 きょうぎ ,特別 とくべつ 崇 たかし 奉 たてまつ 密宗 みっしゅう ,以無上 むじょう 瑜伽 ゆが 為 ため 最高 さいこう 修行 しゅぎょう 次第 しだい ,稱 しょう 為 ため 藏 ぞう 密 みつ 。這是佛教 ぶっきょう 傳 でん 入藏 いりくら 區 く 的 てき 第 だい 一波 いっぱ 活動 かつどう ,宗教 しゅうきょう 史學 しがく 者 しゃ 將 はた 其稱為 ため 藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 的 てき 「前 ぜん 弘 ひろ 期 き 」。大約 たいやく 西元 にしもと 792-794年 ねん 在 ざい 拉 ひしげ 薩桑 くわ 耶寺發生 はっせい 了 りょう 印度 いんど 與 あずか 中國 ちゅうごく 佛教 ぶっきょう 教義 きょうぎ 的 てき 辯論 べんろん 桑 くわ 耶論諍 いさかい ,結果 けっか 由 よし 代表 だいひょう 印度 いんど 中 ちゅう 觀 かん 學派 がくは 的 てき 蓮花 れんげ 戒勝 かつ 出 いずる ,而代表 だいひょう 中國 ちゅうごく 禪宗 ぜんしゅう 的 てき 摩 ま 訶衍則 のり 敗 はい 下 か 陣 じん 來 らい 並 なみ 遭驅出 で 境 さかい 。[ 14]
經過 けいか 近 きん 兩個 りゃんこ 世紀 せいき 的 てき 戰爭 せんそう ,吐蕃和 わ 唐 とう 朝 あさ 均 ひとし 感 かん 到 いた 疲 つかれ 憊。821年 ねん 及次年 ねん ,吐蕃和 わ 唐 とう 朝 あさ 雙方 そうほう 分別 ふんべつ 在 ざい 長安 ながやす 、邏娑(即 そく 拉 ひしげ 薩)[ 註 6] 會 かい 盟 めい ,達成 たっせい 「唐 から 蕃 しげる 舅 しゅうと 甥 おい 和 わ 盟 めい 」。由 よし 於這次 じ 會 かい 盟 めい 是 ぜ 發生 はっせい 在 ざい 唐 とう 長慶 ちょうけい 元年 がんねん 和 わ 二 に 年 ねん ,中國 ちゅうごく 的 てき 史書 ししょ 稱 しょう 之 の 為 ため 「長慶 ちょうけい 會 かい 盟 めい 」。記載 きさい 這次會 かい 盟 めい 內容的 てき 「唐 から 蕃 しげる 會 かい 盟 めい 碑 ひ 」共有 きょうゆう 三 さん 塊 かたまり ,其中一塊立於拉薩「大昭 たいしょう 寺 てら 」前面 ぜんめん [ 7] 。长庆会 かい 盟 めい 也是唐 から 蕃 しげる 间的最 さい 后 きさき 一 いち 次 じ 会 かい 盟 めい ,在 ざい 這次會 かい 盟 めい 所 しょ 簽定的 てき 條約 じょうやく 中 ちゅう ,吐蕃和 わ 唐 とう 朝 あさ 兩朝 りょうちょう 的 てき 邊 あたり 界 かい 被 ひ 確定 かくてい ,雙方 そうほう 平等 びょうどう 相 しょう 待 まて ,互相承諾 しょうだく 尊重 そんちょう 對 たい 方 かた 的 てき 領土 りょうど 主權 しゅけん :今 いま 蕃 しげる 漢 かん 兩國 りょうこく ,所 しょ 守 もり 見 み 管 かん 本 ほん 界 かい ,界 さかい 以東 いとう 悉為大 だい 唐 から 國境 こっきょう ,以西 いせい 盡 つき 是 ぜ 大 だい 蕃 しげる 境 さかい 土 ど ,彼此 ひし 不為 ふため 寇、不 ふ 舉兵、不 ふ 相 あい 侵 おかせ 。
吐蕃本部 ほんぶ 历经最 さい 后 きさき 一任 いちにん 统一的 てき 贊 さん 普 ひろし 朗 ろう 達 たち 瑪 而分裂 ぶんれつ ,公 おおやけ 元 もと 851年 ねん 曾经游 ゆう 历唐代 だい 广州 的 てき 阿 おもね 拉 ひしげ 伯 はく 商人 しょうにん 苏莱曼 曾写到 いた 吐蕃东部地区 ちく (康 かん 区 く )的 てき “诸王”情 じょう 况:[ 15] [ 16]
上述 じょうじゅつ 国家 こっか 之 の 后 きさき 便 びん 是 ぜ Smad-bod诸王(下 した 西藏 にしくら ,卫、康 かん 地区 ちく ),这里的 てき 城市 じょうし 星 ぼし 罗棋布 ぬの ,国土 こくど 幅 はば 员辽阔,一 いち 直 ちょく 延伸 えんしん 到 いた Moutcha(蒙 こうむ 舍 しゃ 诏 ),而人口 じんこう 却比蒙 こうむ 舍 しゃ 诏为多 た ,而且比 ひ 他 た 们更接近 せっきん 中国人 ちゅうごくじん 。和 わ 中国人 ちゅうごくじん 一 いち 样,也任命 にんめい 太 ふと 监管理 かんり 财政。该国和 かず 中国 ちゅうごく 接 せっ 壤,同 どう 中国 ちゅうごく 君主 くんしゅ 和睦 わぼく 相 しょう 处,但 ただし 并不臣 しん 从于中国 ちゅうごく 君主 くんしゅ 。国王 こくおう 每年 まいとし 向 むかい 中国 ちゅうごく 派 は 使 し 节,进送礼 れい 品 ひん ,而中国 ちゅうごく 的 てき 统治者 しゃ 每年 まいとし 也给他 た 们送礼 れい 品 ひん 。由 よし 于面积大,人口 じんこう 多 た ,中国 ちゅうごく 担心它会征服 せいふく 自己 じこ 国土 こくど ,因 いん 此,每 まい 当 とう 其使节进入 にゅう 中国 ちゅうごく 土地 とち 时,总是处于被 ひ 监视的 てき 状 じょう 况。该国和 かず 中国 ちゅうごく 之 の 间,除 じょ 高山 たかやま 峻 たかし 岭之外 がい ,只 ただ 有 ゆう 崎 さき 岖山径 みち 。
反映 はんえい 朗 ろう 达玛灭佛的 てき 唐 から 卡
西元 にしもと 841年 ねん (當時 とうじ 為 ため 唐 から 朝 あさ 會 かい 昌 あきら 元年 がんねん )赤 あか 祖 そ 德 とく 赞被 ひ 反對 はんたい 佛教 ぶっきょう 的 てき 大臣 だいじん 暗殺 あんさつ ,其兄朗 ろう 達 たち 瑪被 ひ 扶上贊 さん 普 ふ 之 の 位 くらい 。朗 ろう 達 たち 瑪代表 だいひょう 著 ちょ 反對 はんたい 佛教 ぶっきょう 傳播 でんぱ 的 てき 勢力 せいりょく 。841年 ねん ,末代 まつだい 贊 さん 普 ひろし 朗 ろう 達 たち 瑪下 した 令 れい 禁止 きんし 佛教 ぶっきょう ,[ 註 7] 殺害 さつがい 僧 そう 人 じん 首領 しゅりょう ,強迫 きょうはく 僧 そう 人 じん 還俗 げんぞく ,關 せき 閉寺院 いん ,毀壞佛像 ぶつぞう 、佛經 ぶっきょう ,史 し 稱 しょう 朗 ろう 達 たち 瑪滅佛 ほとけ 。
西元 にしもと 843年 ねん (唐 から 朝 あさ 會 かい 昌 あきら 三 さん 年 ねん )朗 ろう 達 たち 瑪被僧 そう 人 じん 拉 ひしげ 垅贝吉 よし 多吉 たきち 射 い 死 し 。達磨 だるま 的 てき 兩個 りゃんこ 兒 じ 子 こ 俄 にわか 松 まつ 和 わ 云 うん 丹 に 在 ざい 父親 ちちおや 死後 しご 又 また 為 ため 爭奪 そうだつ 贊 さん 普 ふ 之 の 位 くらい 爆發 ばくはつ 了 りょう 被 ひ 稱 しょう 為 ため 「伍 ご 約 やく 之 これ 戰 せん 」的 てき 內戰,掌握 しょうあく 軍 ぐん 權 けん 的 てき 將領 しょうりょう 也隨即發 そくはつ 生 せい 混戰 こんせん 。在 ざい 西元 にしもと 869年 ねん (唐 から 朝 あさ 咸通 十 じゅう 年 ねん )又 また 引起臣民 しんみん 的 てき 大 だい 反 はん 叛 。西元 にしもと 877年 ねん (唐 から 朝 あさ 乾 いぬい 符 ふ 四 よん 年 ねん )起 おこり 義軍 ぎぐん 發掘 はっくつ 贊 さん 普 ひろし 陵墓 りょうぼ ,逐殺王室 おうしつ 和 かず 貴族 きぞく ,吐蕃王朝 おうちょう 徹底 てってい 崩潰 ほうかい ,青 あお 藏 ぞう 高原 こうげん 二 に 百多年的統一局面到此告終,正式 せいしき 進入 しんにゅう 分裂 ぶんれつ 割據 かっきょ 的 てき 時代 じだい 。[ 7] [ 7]
從 したがえ 宗教 しゅうきょう 發展 はってん 的 てき 角度 かくど 來 らい 看 み ,這也是 ぜ 藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 「前 ぜん 弘 ひろ 期 き 」結束 けっそく 的 てき 标志。
藏人 くろうど 自稱 じしょう བོད་ (威 い 利 り 轉寫 てんしゃ :bod)。
中國 ちゅうごく 古代 こだい 往往 おうおう 用 もちい 陽 ひ 聲 ごえ 韻 いん 音譯 おんやく 外語 がいご 閉音節 ぶし 。原則 げんそく 是 ぜ 用 よう 韻 いん 尾 お -m的 てき 字 じ 譯 やく 外語 がいご -p、-b、-v等 とう 閉音節 ぶし ,唇音 しんおん 對 たい 唇音 しんおん ;用 よう 韻 いん 尾 お -n的 てき 字 じ 譯 やく 外語 がいご -t、-r、-s等 とう 閉音節 ぶし ,舌 した 音 おん 對 たい 舌 した 音 おん ;用 よう 韻 いん 尾 お -ŋ的 てき 字 じ 譯 やく 外語 がいご -k、-ɡ等 とう 閉音節 ぶし ,齶音對 たい 齶音。[ 18] 比 ひ 如兩個 りゃんこ 陽 ひ 聲 ごえ 韻字 いんじ “堅 けん 昆 こん ”(堅 けん ,古 こ 賢 けん 切 きり 。昆 こん ,古 こ 渾切。中 ちゅう 古音 こおん *ken -kuon ,普通 ふつう 話 ばなし jian-kun[ 19] )音譯 おんやく Kyr gys (今 いま 譯 やく 吉 よし 爾 なんじ 吉 きち 斯或 ある 柯爾克 かつ 孜 つとむ ,曾譯結 ゆい 骨 こつ ),又 また 比 ひ 如“欽察 ”(欽,去 さ 金 きむ 切 きり 。中古 ちゅうこ 音 おん *khim ,普通 ふつう 話 ばなし qin[ 19] )”音譯 おんやく Kip chak。所以 ゆえん 用 よう 陽 ひ 聲 ごえ 韻字 いんじ “蕃 しげる ” (附 ふ 袁切,中古 ちゅうこ 音 おん *byan ,普通 ふつう 話 ばなし fan[ 19] )音譯 おんやく 藏 ぞう 語 ご བོད bod 是 ぜ 正常 せいじょう 的 てき 。“堅 けん 昆 こん ”今 こん 天 てん 不能 ふのう 讀如入聲 にっしょう 字 じ “結 ゆい 骨 こつ ”,只 ただ 能 のう 讀成jiān-kūn;“欽”今 こん 天 てん 不能 ふのう 讀如入聲 にっしょう 字 じ “泣”,只 ただ 能 のう 讀成qīn;餘 あまり 類推 るいすい 。另外日本人 にっぽんじん 读作“トバン (to ban)”。朝鮮 ちょうせん 人 じん 讀作“토번 (to bun)”。越 えつ 南 みなみ 人 じん 讀作“Thổ Phồn ”,皆 みな 是 ぜ 基 もと 於其本 ほん 民族 みんぞく 之 の 漢字 かんじ 發音 はつおん 。
《旧 きゅう 唐 から 书 》认为“吐蕃”是 ぜ “秃发”(即 そく 拓 つぶせ 跋 ばつ )二 に 音 おと 的 てき 讹传,[ 20] 而《新 しん 唐 から 书 》则认为吐蕃 しげる 是 これ 西 にし 羌之 これ 后 きさき ,“蕃 しげる ”与 あずか “发羌”的 てき “发”音 おと 近 きん 而得名 めい [ 21] ,因 いん 此當代 だい 有 ゆう 學者 がくしゃ 認 みとめ 爲 ため “蕃 しげる ”应该读作“撥 ばち /播”音 おと 。[ 22]
认为应该读“tǔbō”的 てき 学者 がくしゃ 指出 さしで ,西方 せいほう 语言对藏区 く 的 てき 名 めい Tibet ,汉语 “吐蕃”和 わ 藏 ぞう 文 ぶん bod 三个名称相对应,蕃 しげる 字 じ 是 ぜ 藏 ぞう 语bod 的 てき 译音。支持 しじ 此观点 てん 的 てき 人 じん 认为,虽然1949年 ねん 以前 いぜん 的 てき 數 すう 千年中沒有任何字典記錄“蕃 しげる ”有 ゆう 入聲 にっしょう 的 てき 讀法,但 ただし 吐蕃一 いち 词应该读入声 にっしょう (山 やま 合一 ごういつ 入 いれ 末 まつ 帮),折合 おれあい 到 いた 现在的 てき 普通 ふつう 话念bō ,以前 いぜん 字典 じてん 未收 みしゅう 可能 かのう 是 ぜ 字典 じてん 失 しつ 收 おさむ 这一少数 しょうすう 民族 みんぞく 的 てき 译音。也有 やゆう 人 じん 认为在 ざい 吐蕃之 の 前 ぜん 藏人 くろうど 就建立 こんりゅう 了 りょう 博 はく 部落 ぶらく ,吐蕃政 せい 权不过是扩大了 りょう 统治范围而已。并且认为“蕃 しげる ”与 あずか “博 ひろし ”在 ざい 藏 ぞう 文中 ぶんちゅう 是 ぜ 同一 どういつ 个字,同 どう 时藏族 ぞく 信奉 しんぽう 的 てき 苯教 的 てき “苯བོན”与 あずか “蕃 しげる བོད”在 ざい 藏 ぞう 文 ぶん 中也 ちゅうや 可能 かのう 是 ぜ 同一 どういつ 个字,只 ただ 是 ぜ 由 よし 于后缀字母 はは 的 てき 读写造成 ぞうせい 了 りょう 形体 けいたい 上 じょう 的 てき 差 さ 异。[ 23] 目前 もくぜん 對 たい 藏 くら 區 く 的 てき 一種 いっしゅ 稱呼 しょうこ 「圖 ず 博 はく 」也與此相應 おう 。惟 おもんみ 此一論點欠缺漢語音韻學觀點,忽 ゆるがせ 略 りゃく 了 りょう 漢語 かんご 讀音的 てき 歷史 れきし 演 えんじ 變 へん 。[ 18]
持 もち 相反 あいはん 观点的 てき 学者 がくしゃ 则提出 ていしゅつ ,在 ざい 《广韵 》里 さと 蕃 しげる 字 じ 的 てき 反切 はんせつ 为甫烦切(山 やま 合 あい 三平 さんぺい 元 もと 非 ひ ,中古 ちゅうこ 擬音 ぎおん *pyan,普通 ふつう 話 ばなし fān)和 かず 附 ふ 袁切(山 やま 合 あい 三平 さんぺい 元 もと 並 なみ ,中古 ちゅうこ 擬音 ぎおん *byan,普通 ふつう 話 ばなし fán),属 ぞく 于平声 ひょうしょう ,没 ぼつ 有 ゆう 入声 にっしょう 的 てき 读法,因 いん 此从音 おと 韵学的 てき 角度 かくど ,將 はた 現代 げんだい 漢語 かんご 的 てき 蕃 しげる 字 じ 读成bō不 ふ 合 ごう 邏輯且欠缺 かけ 理 り 據 よりどころ 。考慮 こうりょ 到 いた 韻 いん 尾 お -d與 あずか -n口腔 こうくう 發音 はつおん 位置 いち 相 しょう 同 どう ,皆 みな 為 ため 舌尖 ぜっせん 音 おん ,漢語 かんご 以-n韻 いん 尾 お 漢字 かんじ 翻譯 ほんやく 同屬 どうぞく 舌尖 ぜっせん 音 おん 的 てき -t、-d、-l之 の 情況 じょうきょう 在 ざい 歷史 れきし 上 じょう 實 じつ 屬 ぞく 常 つね 有 ゆう 之 の 事 こと ,因 いん 此中古 こ 漢語 かんご 的 てき 蕃 しげる (*pyan或 ある *byan)本身 ほんみ 就是對 たい 藏 ぞう 語 ご bod 的 てき 音譯 おんやく ,而蕃 しげる 歷 れき 經 けい 千年後自然演變而成的現代漢語讀音即是fān (聲 こえ 母 はは b、p、f均 ひとし 屬 ぞく 唇音 しんおん ,東 ひがし 西方 せいほう 語 ご 言 げん 皆 みな 有 ゆう 古代 こだい 之 の b、p音 おと 自然 しぜん 演 えんじ 變 へん 為 ため f之 の 現象 げんしょう ,於閩南語 ご 、日 にち 語 ご 、韓 かん 語 ご 的 てき 漢字 かんじ 發音 はつおん 中 ちゅう 均 ひとし 可 か 見 み 此種演 えんじ 變 へん 痕跡 こんせき ,實 じつ 不足 ふそく 爲 ため 奇 き ),fān即 そく 是 ぜ 吐蕃之 の 蕃 しげる 字 じ 的 てき 正確 せいかく 現代 げんだい 漢語 かんご 讀音。在 ざい 贾岛 《寄 よせ 沧州李 り 尚 しょう 书》一 いち 诗当中 ちゅう ,“吐蕃”也与后 きさき 句 く 的 てき “冤”字 じ 押韵。[ 註 8]
“吐蕃”国号 こくごう 为“大 だい 蕃 しげる ”,[ 24] 有人 ゆうじん 猜测“吐蕃”之 の 称 たたえ 是 これ 唐 から 朝 あさ 君臣 くんしん 不 ふ 肯称其为大 だい ,故 こ 别写作 さく “吐蕃”,用 もちい “吐”表示 ひょうじ 音 おん 译字,[ 22] 含有 がんゆう 贬义。西方 せいほう 许多藏 ぞう 学 がく 家 か 则认为可能 かのう 源 げん 于藏文 ぶん “duo”字 じ ,与 あずか “吐”(tu)音 おと 近 ちか ,为上部 じょうぶ 的 てき 意思 いし ,“吐蕃”就是“上 うえ 蕃 しげる ”之 の 意 い 。[ 25] 也有 やゆう 学者 がくしゃ 认为“吐”是 ぜ 读音为“teu”的 てき 藏 ぞう 文 ぶん 的 てき 音 おと 译,为“崇高 すうこう ”之 の 意 い ,可 か 专注为汉语中的 てき “大 だい ”。因 よし 此唐人 じん 用 よう “吐蕃”作 さく 为“大 だい 发”,“大 だい 蕃 しげる ”的 てき 音 おと 意 い 合 あい 译。[ 26] 赞同这种观点的 てき 学者 がくしゃ 进一 いち 步 ほ 认为藏 ぞう 文 ぶん “dao”可能 かのう 发音为“teu”。同 どう 时“吐”是 これ 汉 唐 とう 时期常用 じょうよう 来 らい 译写北方 ほっぽう 、西方 せいほう 少数 しょうすう 民族 みんぞく 人名 じんめい 等 とう 的 てき 专用字 ようじ 。而“蕃 しげる ”既 すんで 是 ぜ 音 おん 译,又 また 有 ゆう “茂 しげる 盛 もり ”之 の 意 い ,“吐蕃”含有 がんゆう 褒义。[ 27]
唐 から 蕃 しげる 會 かい 盟 めい 碑 ひ
松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 於西元 にしもと 634年 ねん (唐 から 朝 あさ 唐 から 太 ふとし 宗 むね 貞 さだ 觀 かん 八 はち 年 ねん )遣 や 使 つかい 與 あずか 唐 から 修好 しゅうこう ,唐 から 也派臣 しん 入 にゅう 蕃 しげる 。638年 ねん (貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 二 に 年 ねん ),松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 派 は 專 せん 使 し 去 さ 長安 ながやす 請婚。兩年 りょうねん 之 これ 後 ご ,又 また 派 は 大臣 だいじん 祿 ろく 東 ひがし 贊 さん 使 つかい 唐 から 求婚 きゅうこん ,唐 から 太 ふとし 宗 むね 便 びん 以宗室 しつ 之 の 女 おんな 文成 ふみなり 公主 こうしゅ 許嫁 いいなずけ 於贊普 ひろし 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの ,並 なみ 派 は 禮 れい 部 ぶ 尚書 しょうしょ 江夏 えなつ 王 おう 李 り 道 どう 宗 むね 持 じ 節 ぶし 護送 ごそう 。641年 ねん (貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 五 ご 年 ねん )文成 ふみなり 公主 こうしゅ 入 にゅう 蕃 しげる ,《唐 とう 書 しょ 》記載 きさい 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 親 おや 迎 むかえ 於河源 げん ,文成 ふみなり 公主 こうしゅ 進 しん 蕃 しげる 時 じ 把 わ 各種 かくしゅ 大 だい 唐 とう 的 てき 生產 せいさん 技術 ぎじゅつ 轉入 てんにゅう 吐蕃,如營造 えいぞう 與 あずか 工 こう 技 わざ 著作 ちょさく 六 ろく 十 じゅう 種 しゅ ,能 のう 治 ち 404種 しゅ 疾病 しっぺい 的 てき 醫方 いほう 百 ひゃく 種 しゅ ,診斷 しんだん 法 ほう 五 ご 種 しゅ ,醫療 いりょう 器械 きかい 六 ろく 種 しゅ ,醫學 いがく 論 ろん 著 ちょ 四 よん 種 しゅ ,還 かえ 有 ゆう 大 だい 批日用品 ようひん 和 わ 農作物 のうさくもつ 種子 しゅし 等 とう 。文成 ふみなり 公主 こうしゅ 在 ざい 吐蕃生活 せいかつ 了 りょう 將 はた 近 きん 40年 ねん ,於西元 にしもと 680年 ねん (唐 から 朝 あさ 永 えい 隆 たかし 元年 がんねん )去 さ 世 よ 。
這次聯 れん 姻是大 だい 唐 とう 与 あずか 吐蕃統治 とうち 者 しゃ 之 の 間 あいだ 第 だい 一次建立起正式的聯繫。大 だい 多數 たすう 歷史 れきし 學 がく 家 か 也讚揚 あげ 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 從 したがえ 尼 あま 婆 ばば 羅 ら 王室 おうしつ 娶 めと 得 とく 一 いち 位 い 公主 こうしゅ 。但 ただし 是 これ 否 いや 確 かく 有 ゆう 其事仍有爭議 そうぎ ,因 いん 為 ため 早期 そうき 歷史 れきし 並 なみ 沒 ぼつ 有 ゆう 這一記載 きさい 。[ 28] 雖然有 ゆう 些證據 しょうこ 表明 ひょうめい 這一時期吐蕃對佛教並非全然無知,但 ただし 主要 しゅよう 是 ぜ 由 よし 於大 おだい 唐 から 公主 こうしゅ 對 たい 其丈夫 じょうぶ 的 てき 影響 えいきょう 才 ざい 使 し 得 とく 佛教 ぶっきょう 在 ざい 吐蕃廣 こう 泛傳播 でんぱ 。
在 ざい 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 在世 ざいせい 的 てき 時期 じき ,唐 から 蕃 しげる 之 の 間 あいだ 保持 ほじ 著 ちょ 和平 わへい 友好 ゆうこう 的 てき 關係 かんけい ,雙方 そうほう 使節 しせつ 來往 らいおう 逐年 ちくねん 增加 ぞうか 。據 よりどころ 不完全 ふかんぜん 統計 とうけい ,自 じ 630年 ねん (貞 さだ 觀 かん 四 よん 年 ねん )開始 かいし ,到 いた 842年 ねん (會 かい 昌 あきら 二 に 年 ねん ),雙方 そうほう 來往 らいおう 共 ども 191次 じ ,其中大 だい 唐 から 官員 かんいん 入 にゅう 蕃 しげる 66次 じ ,吐蕃官員 かんいん 使 し 唐 とう 125次 じ 。645年 ねん (貞 さだ 觀 かん 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん )唐 から 太 ふとし 宗 そう 親 ちかし 征 せい 高句麗 こうくり 後 こう 返 かえし 回 かい 長安 ながやす ,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 派 は 禄 ろく 東 ひがし 贊 さん 到 いた 長安 ながやす 祝賀 しゅくが 凱旋 がいせん ,並 なみ 獻 けんじ 高 だか 七 なな 尺 しゃく 的 てき 黃金 おうごん 鑄 い 成 なり 的 てき 鵝 作為 さくい 禮 れい 品 ひん 。648年 ねん (貞 さだ 觀 かん 廿 にじゅう 二 に 年 ねん )大 だい 唐 から 使臣 ししん 王 おう 玄 げん 策 さく 奉 たてまつ 命 いのち 出 で 使 し 天竺 てんじく ,適 てき 逢天竺 てんじく 發生 はっせい 戰亂 せんらん ,大 だい 唐 から 使臣 ししん 被 ひ 搶劫,王 おう 玄 げん 策 さく 逃到吐蕃,松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 派兵 はへい 幫助,並 なみ 徵兵 ちょうへい 於尼婆 ばば 羅 ら ,由 ゆかり 王 おう 玄 げん 策 さく 帶 おび 領 りょう 前 ぜん 往天竺 てんじく ,平定 へいてい 了 りょう 戰亂 せんらん ,使 つかい 大 だい 唐 とう 使 し 團 だん 順 じゅん 利 り 返 かえし 回 かい ,並 なみ 獻 けんじ 俘于長安 ながやす 。後來 こうらい 王 おう 玄 げん 策 さく 在 ざい 西元 にしもと 658年 ねん (唐 から 朝 あさ 唐 とう 高 だか 宗 むね 顯 あらわ 慶 けい 三 さん 年 ねん )還 かえ 經過 けいか 吐蕃出 で 使 し 天竺 てんじく ,至 いたり 今 こん 在 ざい 西藏 とりぞう 吉 よし 隆 たかし 縣 けん 還 かえ 保存 ほぞん 有 ゆう 題 だい 為 ため 《大 だい 唐 から 天竺 てんじく 使 し 出 で 銘 めい 》的 てき 摩 ま 崖 がけ 石刻 せっこく 。649年 ねん (貞 さだ 觀 かん 廿 にじゅう 三 さん 年 ねん )夏 なつ 天 たかし 唐 から 太 ふとし 宗 むね 去 さ 世 よ ,唐 とう 高 だか 宗 むね 即位 そくい ,遣 や 使 つかい 入 にゅう 蕃 しげる 告 つげ 喪 も ,並 なみ 封 ふう 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 為 ため 駙馬都 と 尉 じょう 西海 にしうみ 郡 ぐん 王 おう 。松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 派 は 專 せん 使 し 到 いた 長安 ながやす 弔 ちょう 祭 さい ,獻金 けんきん 銀 ぎん 珠 たま 寶 たから 15種 しゅ 置 おけ 於太宗 むね 靈前 れいぜん ,並 なみ 上書 うわがき 表示 ひょうじ 對 たい 唐 とう 高 だか 宗 むね 即位 そくい 的 てき 祝賀 しゅくが 和 わ 支持 しじ 。又 また 再 さい 致書司 つかさ 徒 と 長 ちょう 孫 まご 無 む 忌 き 稱 しょう :“天子 てんし 初 はつ 即位 そくい ,若 わか 臣下 しんか 有 ゆう 不忠 ふちゅう 之 の 心 しん 者 しゃ ,當 とう 勒兵以赴國 こく 除 じょ 討。”唐 とう 高 だか 宗 むね 封 ふう 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 為 ため “駙馬都 と 尉 じょう ”、“西海 さいかい 郡 ぐん 王 おう ”,又 また 晉 すすむ 封 ふう 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 為 ため “賨王”,並 なみ 刻 こく 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布石 ふせき 像 ぞう 立 りつ 與 あずか 唐 から 太 ふとし 宗 むね 的 てき 昭 あきら 陵 りょう 之 の 前 まえ 。
松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの
650年 ねん (永 えい 徽元年 がんねん )松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 去 さ 世 よ 後 ご ,由 ゆかり 孫子 まごこ 芒 すすき 松 まつ 芒 すすき 贊 さん 繼 つぎ 位 い 為 ため 贊 さん 普 ひろし ,由 ゆかり 大臣 だいじん 蒆東贊 さん 域 いき 宋 そう 輔佐 ほさ 朝政 ちょうせい 。蒆東贊 さん 域 いき 宋 そう 繼承 けいしょう 松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの 的 てき 方針 ほうしん ,完 かん 善 ぜん 法律 ほうりつ ,清 きよし 查戶籍 こせき ,確定 かくてい 稅 ぜい 負 まけ ,安定 あんてい 吐蕃內部。他 た 利用 りよう 吐谷渾王室 しつ 的 てき 內爭,多 た 次 つぎ 帶 たい 兵 へい 攻擊 こうげき 吐谷渾 ,甚至與 あずか 支持 しじ 吐谷渾的大 だい 唐 から 發生 はっせい 衝突 しょうとつ 。670年 ねん (咸亨 元年 がんねん ),大 だい 唐 から 為 ため 了 りょう 支持 しじ 吐谷渾,出動 しゅつどう 十幾萬大軍護送吐谷渾王還青海,論 ろん 欽陵得 え 到 いた 情 じょう 报后立 りつ 即 そく 調 ちょう 集 しゅう 吐蕃二 に 十 じゅう 多 た 萬 まん 軍隊 ぐんたい 迎 むかえ 戰 せん ,在 ざい 青海湖 おうみこ 南面 なんめん 的 てき 大 だい 非 ひ 川 かわ 之 の 戰 たたかえ 中 なか ,唐 とう 軍 ぐん 覆沒 ふくぼつ 。從 したがえ 此吐蕃 しげる 牢固 ろうこ 控 ひかえ 制 せい 了 りょう 青海湖 おうみこ 地區 ちく ,並進 へいしん 一 いち 步 ほ 與 あずか 大 だい 唐 から 爭奪 そうだつ 隴右 、河西 かさい 走 はし 廊 ろう 、安西 あんざい 四 よん 鎮 ,力 ちから 圖 ず 取得 しゅとく 對 たい 絲 いと 綢之路 ろ 的 てき 控 ひかえ 制 せい 權 けん ,獲得 かくとく 更 さら 大 だい 的 てき 經濟 けいざい 利益 りえき 。676年 ねん ,芒 すすき 松 まつ 芒 すすき 贊 さん 去 さ 世 よ ,其遺 のこ 腹 はら 子 こ 器 うつわ 弩 いしゆみ 悉弄被 ひ 立 たて 為 ため 贊 さん 普 ひろし ,論 ろん 欽陵繼續 けいぞく 掌 てのひら 政 せい 。由 よし 於蒆氏家族 かぞく 長期 ちょうき 專權 せんけん ,與 あずか 其他貴族 きぞく 產 さん 生 せい 矛盾 むじゅん ,同時 どうじ 也威脅 おびえ 到 いた 贊 さん 普 ひろし 王權 おうけん 的 てき 鞏固 きょうこ ,器 うつわ 弩 いしゆみ 悉弄長大 ちょうだい 後 ご ,於695年 ねん (証 あかし 聖 きよし 元年 がんねん )到 いた 698年 ねん (聖 せい 曆 こよみ 元年 がんねん )對 たい 蒆氏家族 かぞく 進行 しんこう 討伐 とうばつ ,论欽陵 りょう 在 ざい 青海 あおみ 宗 そう 喀地方 ちほう 兵 へい 潰 つぶせ 自殺 じさつ ,其弟贊 さん 婆 ばば 及兒子 こ 論 ろん 弓 ゆみ 仁 ひとし 率 りつ 部 ぶ 眾投降 とうこう 大 だい 唐 とう ,贊 さん 婆 ばば 受封為 ため 輔國大將軍 だいしょうぐん 歸 かえり 德 とく 郡 ぐん 王 おう ,論 ろん 弓 ゆみ 仁 ひとし 先 さき 封 ふう 安國 やすくに 公 こう ,後 ご 以戰功 こう 晉 すすむ 封 ふう 撥 ばち 川 かわ 郡 ぐん 王 おう ,其後裔 こうえい 世代 せだい 在 ざい 大 だい 唐 から 擔任 たんにん 官職 かんしょく 。
器 うつわ 弩 いしゆみ 悉弄剪除蒆氏家族 かぞく 後 ご ,吐蕃王權 おうけん 得 え 到 いた 加 か 強 きょう 和 わ 鞏固 きょうこ ,但 ただし 是 ぜ 不 ふ 久 ひさ 以後 いご 器 き 弩 いしゆみ 悉弄於704年 ねん (長安 ながやす 四 よん 年 ねん )在 ざい 遠征 えんせい 南 みなみ 詔 みことのり 時 とき 去 さ 世 よ ,其子棄隸蹜贊 同年 どうねん 即 そく 吐蕃贊 さん 普 ふ 位 い ,因 いん 他年 たねん 僅一 いち 歲 さい ,由 ゆかり 其祖母 はは 沒 ぼつ 廬 いおり 氏 し 赤 あか 瑪類臨朝聽政 。這一時期 じき 處 しょ 於武 たけ 周 あまね 女 おんな 皇帝 こうてい 武則 たけのり 天 てん 的 てき 晚年 ばんねん ,周 しゅう 蕃 しげる 雙方 そうほう 都 と 被 ひ 連年 れんねん 戰爭 せんそう 所 しょ 困 こま ,希望 きぼう 恢復 かいふく 和平 わへい 友好 ゆうこう ,器 うつわ 弩 いしゆみ 悉弄在世 ざいせい 時 じ ,赤 あか 瑪類就曾為 ため 他 た 向 むかい 大周 たいしゅう 求 もとめ 親 おや ,其後又 また 為 ため 棄隸蹜贊向 むかい 大周 たいしゅう 求 もとめ 親 おや 。705年 ねん (神 かみ 龍 りゅう 元年 がんねん )武則 たけのり 天 てん 去 さ 世 よ ,唐 とう 中 ちゅう 宗 むね 复辟大 だい 唐 から 即位 そくい 称 しょう 帝 みかど 。710年 ねん (景 けい 龍 りゅう 四 よん 年 ねん ),唐 とう 中 ちゅう 宗 むね 許 もと 金城 きんじょう 公主 こうしゅ 于棄隸蹜贊 さん 。同年 どうねん 唐 とう 中 ちゅう 宗派 しゅうは 專 せん 使 し 和 わ 吐蕃的 てき 迎 むかい 親 ちかし 使者 ししゃ 一起護送金城公主入蕃,唐 とう 中 ちゅう 宗 そう 親 ちかし 率 りつ 百官隆重送行到陝西 せんせい 始 はじめ 平 たいら 縣 けん ,並 なみ 因 いん 吐蕃的 てき 請求 せいきゅう ,把 わ 黃河 こうが 九曲之地賜給金城公主為湯 ゆ 沐邑 。731年 ねん (開 ひらき 元 もと 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん )棄隸蹜贊和金 わきん 城 じょう 公主 こうしゅ 遣 や 使 つかい 向 こう 大 だい 唐 から 請求 せいきゅう 《毛 もう 詩 し 》《禮 れい 記 き 》《左 ひだり 傳 でん 》等 とう ,並 なみ 要求 ようきゅう 定 じょう 界 かい 互市 ごし 。棄隸蹜贊在 ざい 表 ひょう 文中 ぶんちゅう 說 せつ :“外 そと 甥 おい 是 ぜ 先 さき 皇帝 こうてい 舅 しゅうと 宿 やど 親 おや ,又 また 蒙 こうむ 降 ぶ 金城 きんじょう 公主 こうしゅ ,遂 とげ 和 わ 同 どう 為 ため 一家 いっか ,天下 てんか 百姓 ひゃくしょう ,普 ひろし 皆 みな 安樂 あんらく 。”733年 ねん (開 ひらき 元 もと 廿 にじゅう 一 いち 年 ねん )唐 から 蕃 しげる 雙方 そうほう 在 ざい 赤嶺 あかみね (今 こん 青海 せいかい 省 しょう 日 び 月山 つきやま )立 たて 碑 いしぶみ 定 じょう 界 かい ,於赤嶺 みね 、甘 あま 松嶺 まつみね 互市 ごし ,雙方 そうほう 邊 あたり 將 はた 和 わ 官員 かんいん 參加 さんか ,並 なみ 通告 つうこく 各地 かくち ,雙方 そうほう 和好 かずよし 禁止 きんし 互相搶掠。
不 ふ 久 ひさ ,由 ゆかり 於唐蕃 しげる 雙方 そうほう 都 と 想 そう 擴大 かくだい 自己 じこ 的 てき 權勢 けんせい ,而且邊 べ 將 はた 也想從 したがえ 戰爭 せんそう 中 ちゅう 獲 え 取 ど 功名 こうみょう ,戰 せん 事 ごと 遂 とげ 起 おこり 。吐蕃北面 ほくめん 與 あずか 突騎施 ほどこせ 聯合 れんごう ,東南 とうなん 與 あずか 雲南 うんなん 的 てき 南 みなみ 詔 みことのり 聯合 れんごう ,合 ごう 兵 へい 對 たい 唐 とう 造成 ぞうせい 巨大 きょだい 威 い 脅 おびえ 。約 やく 在 ざい 754年 ねん (天寶 てんぽう 十 じゅう 三 さん 年 ねん ),擔任 たんにん 大 だい 論 ろん 的 てき 末 まつ 東 ひがし 則 そく 布 ぬの 和朗 かずお 邁色等 とう 作 さく 亂 みだれ ,棄隸蹜贊被害 ひがい ,到 いた 755年 ねん (天寶 てんぽう 十 じゅう 四 よん 年 ねん )吐蕃王朝 おうちょう 平定 へいてい 叛亂 はんらん ,年 ねん 僅十 じゅう 三 さん 歲 さい 的 てき 赤松 あかまつ 德 いさお 贊 さん 繼 つぎ 位 い 。就在這一 いち 年 ねん 大 だい 唐 から 發生 はっせい “安 やす 史 し 之 の 亂 らん ”,唐 から 玄 げん 宗 むね 從 したがえ 長安 ながやす 逃到四川 しせん ,唐 から 朝廷 ちょうてい 抽調大量 たいりょう 對 たい 付 づけ 吐蕃的 てき 軍隊 ぐんたい 去 さ 平 ひら 亂 みだれ ,使 つかい 得 とく 西 にし 面 めん 的 てき 防 ぼう 務 つとむ 空虛 くうきょ ,吐蕃相 しょう 機 き 佔領了 りょう 隴右、河西 かさい 、安西 あんざい 四 よん 鎮 大 だい 唐 とう 的 てき 大 だい 片地 かたじ 區 く ,並 なみ 在 ざい 763年 ねん (廣德 ひろのり 元年 がんねん )10月 がつ ,乘 じょう 大 だい 唐 から 君臣 くんしん 不和 ふわ 之 の 機 き ,集中 しゅうちゅう 約 やく 二 に 十 じゅう 萬 まん 軍隊 ぐんたい 東進 とうしん ,直入 なおいり 長安 ながやす ,唐 とう 代 だい 宗 むね 倉皇 そうこう 出奔 しゅっぽん 陝州。吐蕃軍 ぐん 佔領長安 ながやす 十 じゅう 五 ご 天 てん ,同時 どうじ 立金 たつがね 城 じょう 公主 こうしゅ 的 てき 侄子(實際 じっさい 上 じょう 與 あずか 金城 きんじょう 公主 こうしゅ 同輩 どうはい )廣 こう 武 ぶ 王 おう 李 り 承 うけたまわ 宏 ひろし 為 ため 皇帝 こうてい ,並 なみ 設置 せっち 百官 ひゃっかん 。後 こう 大 だい 唐 とう 勤王 きんのう 之 これ 軍 ぐん 逼近,吐蕃軍 ぐん 主動 しゅどう 退出 たいしゅつ 長安 ながやす 。在 ざい 赤松 あかまつ 德 いさお 贊 さん 在位 ざいい 的 てき 時期 じき ,吐蕃王朝 おうちょう 的 てき 轄地 大 だい 大 だい 擴張 かくちょう ,東面 とうめん 與 あずか 大 だい 唐 から 大體 だいたい 上 じょう 以隴山 為 ため 界 かい ,還 かえ 多 た 次 つぎ 進 しん 到 いた 寶 たから 雞 ,威 い 脅 おびえ 長安 ながやす ,北 きた 到 いた 寧 やすし 夏 なつ 賀 が 蘭山 あららぎやま 與 あずか 回 かい 紇相 あい 接 せっ ,南面 なんめん 以南 みなみ 詔 みことのり 為 ため 屬國 ぞっこく ,西 にし 面 めん 盡 つき 有 ゆう 安西 あんざい 四 よん 鎮 ,在 ざい 中 ちゅう 亞 あ 與 あずか 大食 たいしょく 相 あい 抗 こう 。據 よりどころ 藏 ぞう 文 ぶん 史籍 しせき 記載 きさい ,此時吐蕃還 かえ 一度 いちど 進 すすむ 到 いた 喜 き 馬 ば 拉 ひしげ 雅 みやび 山 やま 以南 いなん 的 てき 恒 つね 河 かわ 北岸 ほくがん 。
據 よりどころ 歷史 れきし 記載 きさい ,從 したがえ 705年 ねん (神 かみ 龍 りゅう 元年 がんねん )至 いたり 822年 ねん (彝 つね 泰 やすし 八 はち 年 ねん ),唐 から 朝 あさ 和 わ 吐蕃共 ども 會 かい 盟 めい 八 はち 次 じ ,其中第 だい 八次會盟碑至今仍矗立在拉薩大昭寺前。因 よし 為 ため 第 だい 八 はち 次 じ 會 かい 盟 めい 是 ぜ 在 ざい 西元 にしもと 821年 ねん 至 いたり 822年 ねん (唐 から 穆 きよし 宗 むね 長慶 ちょうけい 元年 がんねん 至 いたり 二 に 年 ねん )進行 しんこう 的 てき ,所以 ゆえん 也稱為 ため “長慶 ちょうけい 會 かい 盟 めい ”。盟 めい 文 ぶん 如下:
大 だい 唐 から 文武 ぶんぶ 孝德 たかのり 皇帝 こうてい 與 あずか 大 だい 蕃 しげる 聖 せい 神 かみ 贊 さん 普 ひろし ,舅 しゅうと 甥 おい 二 に 主 ぬし ,商議 しょうぎ 社稷 しゃしょく 如一,結 ゆい 立 りつ 大和 やまと 盟約 めいやく ,永 えい 無 む 淪替,神人 しんじん 俱以證 しょう 知 ち ,世世 せぜ 代代 だいだい ,使 つかい 其稱讚 しょうさん 。是 ぜ 以盟文節 ぶんせつ 目 め ,題 だい 之 の 於碑也。文武 ぶんぶ 孝德 たかのり 皇帝 こうてい 與 あずか 贊 さん (普 ひろし )陛下 へいか ,二 に 聖 せい 舅 しゅうと 甥 おい ,睿哲鴻 おおとり 被 ひ ,曉 あかつき 今 いま 永 なが 之 の 屯 たむろ ,享 とおる 矜湣之 の 情 じょう ,恩 おん 覆 くつがえ 其無內外,商議 しょうぎ 葉 は 同 どう ,務 つとむ 今 こん 萬 まん 姓 せい 安泰 あんたい ,所思 しょし 如一,成久 なりひさ 遠大 えんだい 善 ぜん ,再 さい 續 ぞく 舊 きゅう 親 おや 之 の 情 じょう ,重 じゅう 申 さる 鄰好之 の 義 よし ,為 ため 此大和 やまと 矣。今 いま 蕃 しげる 漢 かん 二 に 國 こく ,各 かく 守 もり 見 み 管 かん 本 ほん 界 かい ,(洮泯以東 いとう ,大 だい 唐 から 封 ふう 疆,其塞)以西 いせい ,儘是大 だい 蕃 しげる 境 さかい 土 ど ,彼此 ひし 不為 ふため 寇敵,不 ふ 舉兵革 へいかく ,不 ふ 相 あい 侵 おかせ 謀 はかりごと 封 ふう 境 さかい 。或 ある 有 ゆう 猜阻,捉生問 とい 事 ごと 訖,給 きゅう 以衣糧 いりょう 放 ひ 歸 き 。今 こん 社稷 しゃしょく 葉 は 同 どう 如一,為 ため 此大和 やまと 。然 しか 舅 しゅうと 甥 おい 相好 そうごう 之 の 義 よし ,善 ぜん 誼 よしみ 每 ごと 須通傳 でん ,彼此 ひし 驛 えき 騎 き ,一 いち (任 にん 常 つね 相 しょう 往來 おうらい ,兩 りょう 路 ろ )蕃 しげる 漢 かん ,並 なみ 于將軍 ぐん 穀 こく 交馬,其綏戎 えびす 柵 しがらみ 已 やめ 東 ひがし ,大 だい 唐 から 祇應,清水 しみず 縣 けん 已 やめ 西 にし ,大 だい 蕃 しげる 供應 きょうおう ,須合舅 しゅうと 甥 おい 親近 しんきん 之 の 禮 れい ,使 つかい 其兩界 かい 煙 けむり 塵 ちり 不 ふ 揚 あげ ,罔聞寇盜之 の 名 な ,複 ふく 無 む 驚 おどろき 恐 こわ 之 これ 患。封 ふう 人 じん 撤備,鄉土 きょうど 俱安,如斯樂 らく 業 ぎょう 之 の (恩 おん ,垂 たれ 於萬 まん 代 だい ,讚美 さんび 之 の 聲 こえ ),遍 へん 於日月 がつ 所 ところ 照 あきら 矣。蕃 しげる 于蕃國 こく 受安,漢 かん 亦 また 漢國 かんごく 受樂,茲乃合 あい 其大業 ぎょう 耳 みみ ,依 よ 此盟誓 ちかい ,永久 えいきゅう 不 ふ 得 とく 移 うつり 易 えき ,(於)三寶 さんぽう 及諸賢 けん 聖 きよし ,日月 じつげつ 星辰 せいしん ,請為知 ち 證 しょう 。如此盟約 めいやく ,各自 かくじ 契 ちぎり 陳 ひね 。刑 けい 牲為盟 めい ,設 しつらえ 此大約 やく ,倘不依 よ 此誓,蕃 しげる 漢 かん (背 せ 約 やく 破 やぶ 盟 めい 者 しゃ ,受其殃)禍 わざわい 也。仍須仇 かたき (報 ほう )及為陰謀 いんぼう 者 しゃ ,不在 ふざい 破 やぶ 盟 めい 之 の 限 かぎり 。蕃 しげる 漢 かん 君臣 くんしん ,並 なみ 稽首立 りつ 誓 ちかい ,周 しゅう 細 ほそ 為 ため 文 ぶん ,二 に 君 くん 之 の 驗 けん ,證 あかし 以官印 しるし ,登壇 とうだん 之 の 臣 しん ,親署 しんしょ 姓名 せいめい 。手 て 執 と 如斯誓文 せいもん ,藏 ぞう 於玉府 ふ 焉。
唐 から 朝 あさ 西川 にしかわ 節度 せつど 使 し 楊國忠 ただし 派 は 鮮于仲通 なかどおり 率 りつ 兵 へい 六 ろく 萬 まん 出 で 戎 えびす 州 しゅう 、巂州,分 ふん 三 さん 路 ろ 進 しん 兵 へい 征伐 せいばつ 南 みなみ 詔 みことのり 。南 みなみ 詔 みことのり 節節 ふしぶし 敗退 はいたい ,閣 かく 羅 ら 鳳 おおとり 遣 や 使 つかい 向 こう 唐 とう 朝 あさ 謝罪 しゃざい ,請求 せいきゅう 歸還 きかん 擄掠所得 しょとく ,與 あずか 唐 から 朝 あさ 和好 かずよし ,否 いや 則 のり 要 よう 向 こう 吐蕃投降 とうこう ,被 ひ 唐 から 朝 ちょう 所 しょ 拒 こばめ 。
南 みなみ 詔 みことのり 於是向 こう 吐蕃求 もとめ 救 すくえ ,唐 とう 軍 ぐん 進軍 しんぐん 靠 もたれ 近 きん 南 みなみ 詔 みことのり 首都 しゅと 太 ふと 和 やわ 城 じょう ,戰敗 せんぱい 。吐蕃與 あずか 南 みなみ 詔 みことのり 由 よし 此結為 ため 兄弟 きょうだい 之 の 邦 くに ,閣 かく 羅 ら 鳳 おおとり 被 ひ 吐蕃稱 しょう 為 ため 贊 さん 普 ひろし 鍾。閣 かく 羅 ら 鳳 おおとり 說 せつ :「生 なま 雖禍之 の 始 はじめ ,死 し 乃怨之 の 終 おわり ,豈 あに 顧前非 ひ 而忘大禮 たいれい 」,修築 しゅうちく 「大 だい 唐 とう 天寶 てんぽう 戰士 せんし 冢」(俗稱 ぞくしょう 萬 まん 人 にん 冢),並 なみ 在 ざい 太 ふとし 和 わ 王 おう 都立 とりつ 南 みなみ 诏德化 とっか 碑 ひ ,刻 こく 石 せき 寫 うつし 上 じょう 「叛唐不 ふ 得 とく 已 やめ 而為之 の 」等 とう 字句 じく 。[ 29] [ 30]
754年 ねん ,李 り 宓率 りつ 軍 ぐん 七 なな 萬 まん 攻 おさむ 南 みなみ 詔 みことのり ,打 だ 到 いた 南 みなみ 詔 みことのり 首都 しゅと 太 ふと 和 やわ 城 じょう 外 がい ,閣 かく 羅 ら 鳳 おおとり 守 まもる 在 ざい 城 しろ 內不出 ふしゅつ 戰 せん ,李 り 宓軍糧 かて 盡 つき ,士卒 しそつ 因 いん 疾病 しっぺい 瘴疫及飢餓 きが 而死者 しゃ 達 たち 到 いた 十 じゅう 分 ふん 之 の 七 なな 八 はち ,李 り 宓率餘部 あまるべ 返 かえし 回 かい ,南 みなみ 詔 みことのり 追擊 ついげき ,李 り 宓全軍 ぐん 覆沒 ふくぼつ 。
唐 とう 軍 ぐん 在 ざい 天寶 てんぽう 戰爭 せんそう 中 ちゅう 慘敗 ざんぱい ,丞相 じょうしょう 楊國忠 ちゅう 卻向玄 げん 宗 むね 報 ほう 捷 とし 。明代 あきよ 萬曆雲南總兵鄧子龍,看 み 了 りょう 「萬 まん 人 にん 冢」感慨 かんがい 地 ち 寫 うつし 道 どう :「唐 から 將 しょう 南 みなみ 征 せい 以捷聞,誰 だれ 憐枯骨 こつ 臥 が 黃昏 たそがれ ,唯 ただ 有 ゆう 蒼 あお 山 やま 公道 こうどう 雪 ゆき ,年年 ねんねん 披白弔 ちょう 忠魂 ちゅうこん 」。[ 31]
779年 ねん ,唐 から 朝 あさ 李 り 晟 あきら 等 とう 大破 たいは 南 みなみ 詔 みことのり 、吐蕃聯 れん 軍 ぐん ,使 つかい 其損失 そんしつ 慘 むご 重 おも 。李 り 晟 あきら 率 りつ 禁 きん 兵 へい 四 よん 千 せん 人 にん ,金吾 きんご 大將軍 だいしょうぐん 安 やす 邑曲環 たまき 率 りつ 邠、隴、范陽兵 へい 五 ご 千 せん ,從 したがえ 東川 ひがしがわ 出 いずる 軍 ぐん ,自 じ 江 こう 油 あぶら 到 いた 白 しろ 壩,與 あずか 山南 さんなん 兵 へい 合 ごう 擊 げき 吐蕃、南 みなみ 詔 みことのり 大軍 たいぐん ,一 いち 破 やぶ 之 これ ,斬首 ざんしゅ 六 ろく 千 せん 級 きゅう ,俘獲大量 たいりょう 吐蕃南 みなみ 詔 みことのり 部 ぶ 眾。范陽兵 へい 在 ざい 七盤追上吐蕃南詔軍,又 また 破 やぶ 之 これ ,攻 おさむ 占 うらない 維、茂 しげ 二 に 州 しゅう 。李 り 晟 あきら 追擊 ついげき 吐蕃南 みなみ 詔 みことのり 到 いた 了 りょう 大度 たいど 河 かわ 外 がい ,三 さん 破 やぶ 之 これ 。吐蕃南 みなみ 詔 みことのり 大軍 たいぐん 被 ひ 趕入山谷 さんや ,因 いん 饑寒 きかん 、隕於崖 がけ 谷 たに 而死的 てき 達 たち 到 いた 八 はち 、九 きゅう 萬 まん 人 にん 。
據 よりどころ 《五 ご 部 ぶ 遺 のこ 教 きょう 》所載 しょさい ,吐蕃帝國 ていこく 的 てき 領土 りょうど 分 ぶん 為 ため 四 よん 個 こ 茹 ,共 きょう 40個 こ 東 ひがし 岱,達 たち 286萬 まん 人 にん ,但 ただし 較《賢者 けんじゃ 喜 き 宴 えん 》的 てき 說法 せっぽう 少 しょう 了 りょう 蘇 そ 毗茹的 てき 10個 こ 東 ひがし 岱及通 どおり 頰11個 いっこ 東 ひがし 岱。蘇 そ 毗人口 じんこう 12萬 まん ,通 つう 頰11個 いっこ 東 ひがし 岱的人口 じんこう 是 ぜ 漢 かん 族 ぞく ,約 やく 20萬 まん ,再 さい 加 か 上 じょう 象 ぞう 雄 ゆう 10個 こ 東 ひがし 岱的30萬 まん 人 にん ,吐蕃本部 ほんぶ 人口 じんこう 約 やく 348萬 まん ,近 きん 350萬 まん 人 にん 。又 また 2400人 にん ,按吐蕃 しげる 平均 へいきん 一 いち 户四 よん 人 にん ,三户出一兵的規則推算,吐蕃本部 ほんぶ 人口 じんこう 超過 ちょうか 400萬 まん 人 にん 。另外,吐蕃也有 やゆう 如奴户、僧 そう 户等不在 ふざい 藉人口 じんこう ,數 すう 目 もく 不詳 ふしょう 。[ 3]
基本 きほん 上 じょう 是 ぜ 在 ざい 目前 もくぜん 的 てき 史料 しりょう 基 もと 础上,在 ざい 有 ゆう 参考 さんこう 项的基 もと 础上估算,而对没 ぼつ 有 ゆう 参考 さんこう 项可资参照 さんしょう 而无法 ほう 估算的 てき 人口 じんこう 数 すう ,只 ただ 能 のう 付 づけ 之 の 阙如,总计吐蕃占 うらない 领区控 ひかえ 制 せい 的 てき 人口 じんこう ,保守 ほしゅ 估计要 よう 超 ちょう 过200万 まん ,甚至超 ちょう 过300万 まん ,这些控 ひかえ 制 せい 区 く 及其人口 じんこう 的 てき 数量 すうりょう 与 あずか 分布 ぶんぷ ,对9世 せい 纪以后 きさき 藏 ぞう 族 ぞく 形成 けいせい 及發展 はってん 产生了 りょう 重要 じゅうよう 影 かげ 响。[ 32]
门域,又 また 译作“门隅”、“蒙 こうむ 圉”,门(mon)在 ざい 藏 ぞう 文中 ぶんちゅう 是 ぜ 指 ゆび 地 ち 势低凹、山谷 さんや 狭窄 きょうさく 、被 ひ 浓密的 てき 原始 げんし 森林 しんりん 覆 くつがえ 盖之地 ち 。一般將吐蕃的南部疆域分为三部,即 そく 东南部 なんぶ 的 てき “杂圉”(za-yul)、南部 なんぶ 的 てき “珞圉”(lho-yul)和 かず 西南 せいなん 部 ぶ 的 てき “蒙 こうむ 圉”,而吐蕃 しげる 帝國 ていこく 的 てき 管 かん 控 ひかえ 人口 じんこう 大 だい 致在30万 まん 左右 さゆう 。[ 32]
吐谷浑的人口 じんこう ,除 じょ 诺曷钵所率 りつ 的 てき 一 いち 小 しょう 部外 ぶがい ,其余悉归吐蕃。隋 ずい 代 だい 吐谷渾的人口 じんこう 約 やく 30萬 まん 。[ 32]
吐蕃在 ざい 金沙江 きむしゃこう 磨 すり 些江段 だん 北岸 ほくがん 建立 こんりゅう 神川 かみかわ 都 と 督 とく ,以扼制 せい 南 みなみ 诏,而南诏王在 ざい 其所辖的十 じゅう 赕之地 ち ,虽对吐蕃承 うけたまわ 担着繁 しげる 重 じゅう 的 てき 赋役,但 ただし 仍为自主 じしゅ 行使 こうし 行政 ぎょうせい 管理 かんり 。所以 ゆえん ,南 みなみ 诏地区 ちく 的 てき 人口 じんこう 数 すう 目 もく 并不能 ふのう 全 ぜん 盘算入 さんにゅう 吐蕃属 ぞく 民 みん 范畴当 とう 中 ちゅう ,只 ただ 有 ゆう 直接 ちょくせつ 依 よ 服 ふく 并隶属 ぞく 于吐蕃 しげる 的 てき 诸蛮人口 じんこう 可 か 当 とう 其数。[ 32]
吐蕃统治西 にし 洱河地区 ちく 时,因 いん 南 みなみ 诏内部 ぶ 矛盾 むじゅん 而投附 ふ 吐蕃的 てき 诸蛮不 ふ 少 しょう ,磨 すり 些蛮 、裳 も 人 じん 、扑子蛮、施 ほどこせ 蛮、顺蛮、弄 ろう 栋蛮等 とう 部 ぶ 部 ぶ 投 とう 附 ふ 吐蕃,降 くだ 附 ふ 吐蕃的 てき 诸蛮人口 じんこう ,大 だい 致有20万 まん 人 にん 。[ 32]
吐蕃帝國 ていこく 攻 おさむ 滅 めつ 有 ゆう 20萬 まん 人口 じんこう 的 てき 東 ひがし 女 おんな 國 こく ,又 また 控 ひかえ 制 せい 白 はく 蘭 らん 羌 、黨 とう 項 こう 羌等 ひとし 約 やく 20萬 まん 人口 じんこう 。[ 32]
8世 せい 纪末叶 かのう ,吐蕃完全 かんぜん 控 ひかえ 制 せい 了 りょう 整 せい 个天山南 さんなん 路 ろ 地区 ちく ,将 はた 势力范围延伸 えんしん 到 いた 从河西 にし 地区 ちく 到 いた 塔 とう 里 さと 木 き 盆地 ぼんち 的 てき 广大范围,曾一 いち 度 ど 击败阿 おもね 拉 ひしげ 伯 はく 帝国 ていこく 阿 おもね 拔斯王朝 おうちょう 并攻占 うらない 后 きさき 者 しゃ 的 てき 吐火罗 地区 ちく 。吐蕃在 ざい 西域 せいいき 势力最盛 さいせい 时,其西域 せいいき 占 うらない 领區人口 じんこう 累 るい 计至少 しょう 在 ざい 20万 まん 以上 いじょう 。[ 32]
西元 にしもと 756年 ねん (唐 から 朝 あさ 至德 しとく 元年 がんねん ),吐蕃乘 じょう 安 やす 史 し 之 の 乱 みだれ 唐 から 朝 あさ 边防空虚 くうきょ 之 の 机 つくえ ,大 だい 举出兵 しゅっぺい ,先 さき 后 きさき 占 うらない 领了河西 かさい 、陇右地区 ちく ,并在当地 とうち 实施行政 ぎょうせい 管理 かんり ,区 く 內漢族 ぞく 人口 じんこう 至 いたり 少 しょう 有 ゆう 60萬 まん ,《旧 きゅう 五 ご 代 だい 史 し ·吐蕃传》更 さら 有 ゆう “华人百 ひゃく 万 まん 皆 みな 陷 おちい 吐蕃”之 の 语。[ 32] 另外,在 ざい 吐蕃侵 おかせ 扰唐境 さかい 的 てき 上 じょう 千 せん 次 じ 行 ぎょう 动中,不 ふ 乏 とぼし 大 だい 掠 かすめ 人口 じんこう 的 てき 记载,估计吐蕃虏掠的 てき 漢 かん 族 ぞく 人口 じんこう 有 ゆう 几十 じゅう 万 まん 之 これ 多 た 。[ 32]
《賢者 けんじゃ 喜 き 宴 えん 》记载,吐蕃帝国 ていこく 鼎 かなえ 盛 もり 时期軍 ぐん 队人数 にんずう 高 だか 达46萬 まん ,这与《新 しん 唐 とう 書 しょ ·吐蕃传》记载的 てき 雄 ゆう 兵 へい 数 すう 十 じゅう 万 まん 相 そう 吻合 ふんごう 。据 すえ 唐 とう 代 だい 杜 もり 佑 たすく 《通 つう 典 てん 》记载:吐蕃军队法令 ほうれい 严明,每次 まいじ 作 さく 战都要 よう 下 した 马列阵,前 ぜん 队战死 し 则后队跟进,如此往复,绝不后 きさき 退 すさ 。吐蕃军人马皆批制作 せいさく 精良 せいりょう 的 てき 鎖 くさり 子 こ 甲 かぶと ,只 ただ 露出 ろしゅつ 两眼,防 ぼう 护效果 こうか 非常 ひじょう 强 きょう 。吐蕃士 し 兵 へい 擅长使用 しよう 长枪,吐蕃枪比唐 から 军细且长,但 ただし 吐蕃士 し 兵 へい 不 ふ 擅长使用 しよう 弓箭 きゅうせん 。吐蕃人人 ひとびと 习用剑,即 そく 使 つかい 不 ふ 打 だ 仗时身上 しんじょう 也会佩剑。
按照藏 ぞう 族 ぞく 历史的 てき 传统,松 まつ 赞干布 ぬの 是 ぜ 第 だい 33任 にん 吐蕃贊 さん 普 ひろし ,但 ただし 是 ぜ 因 いん 为在他 た 即位 そくい 之 の 前 まえ 藏 ぞう 文 ぶん 尚 なお 未 み 创制,所以 ゆえん 很难肯定 こうてい 在 ざい 他 た 之 の 前 まえ 的 てき 吐蕃贊 さん 普 ひろし 的 てき 历史正 せい 确性。在 ざい 《贤者喜 き 宴 えん 》等 とう 藏 ぞう 文 ぶん 历史书和在 ざい 敦煌 とんこう 发掘的 てき 古 こ 藏 ぞう 文 ぶん 历史文献 ぶんけん 里 さと 记载着 ぎ 在 ざい 松 まつ 赞干布 ぬの 之 の 前 まえ 的 てき 吐蕃赞普的 てき 许多传说。
846年 ねん (會 かい 昌 あきら 六 ろく 年 ねん ),赞普朗 ろう 达玛被 ひ 杀,吐蕃分裂 ぶんれつ 为贵族 ぞく 领主割 わり 据 すえ 的 てき 局面 きょくめん 。
名字 みょうじ (转写 )
名字 みょうじ (藏 ぞう 文 ぶん )
名字 みょうじ (漢文 かんぶん )
名字 みょうじ (舊譯 きゅうやく )
年號 ねんごう
出生 しゅっしょう 年 ねん -去 さ 世 よ 年 ねん
在位 ざいい 時間 じかん
gNya-khri btsan-po
གཉའ་ཁྲི་བཙན་པོ།
聂赤赞普
前 ぜん 360年 ねん -前 ぜん 329年 ねん
Mu-khri btsan-po
མུ་ཁྲི་བཙན་པོ།
穆 きよし 赤 あか 赞普
前 ぜん 329年 ねん -前 ぜん 302年 ねん
Ding-khri btsan-po
དིང་ཁྲི་བཙན་པོ།
定 てい 赤 あか 赞普
前 ぜん 302年 ねん -前 ぜん 277年 ねん
So-khri btsan-po
སོ་ཁྲི་བཙན་པོ།
索 さく 赤 あか 赞普
前 ぜん 277年 ねん -前 ぜん 248年 ねん
Mer-khri btsan-po
མེར་ཁྲི་བཙན་པོ།
美 び 赤 あか 赞普
前 ぜん 248年 ねん -前 ぜん 207年 ねん
gDags-khri btsan-po
གདགས་ཁྲི་བཙན་པོ།
达赤赞普
前 ぜん 208年 ねん -前 ぜん 179年 ねん
Srib-khri btsan-po
སྲིབ་ཁྲི་བཙན་པོ།
塞 ふさが 赤 あか 赞普
前 ぜん 179年 ねん -前 ぜん 146年 ねん
Gri-gung btsan-po
གྲི་གུམ་བཙན་པོ་
止 とめ 贡赞普 ひろし
前 ぜん 146年 ねん -前 ぜん 123年 ねん
Pu-de gung-rgyal
པུ་ལྡེ་གུང་རྒྱལ།
布 ぬの 德 とく 共 ども 杰
前 ぜん 123年 ねん -前 ぜん 93年 ねん
E sho legs
ཨེ་ཤོ་ལེགས།
艾 あい 雪 ゆき 勒
前 ぜん 93年 ねん -前 ぜん 71年 ねん
De sho legs
དེ་ཤོ་ལེགས།
德 とく 雪 ゆき 勒
前 ぜん 71年 ねん -前 ぜん 38年 ねん
Thi sho legs
ཐི་ཤོ་ལེགས།
提 ひさげ 雪 ゆき 勒
前 ぜん 38年 ねん -11年 ねん
Gu ru legs
གུང་རུ་ལེགས།
古 こ 茹勒
11年 ねん -26年 ねん
vBrong zhi legs
འབྲོང་ཞེར་ལེགས།
仲 なか 谢勒
26年 ねん -64年 ねん
I shi legs
ཨི་ཤོ་ལེགས།
伊 い 雪 ゆき 勒
64年 ねん -99年 ねん
Za nam zin lde
ཟ་ནལ་ཟིན་ལྡེ།
萨南森 もり 德 いさお
99年 ねん -128年 ねん
lDe vphrul nam gzhung btsan
ལྡེ་འཕྲུལ་ནམ་གཞུང་།
德 とく 楚南 そなん 雄 ゆう
128年 ねん -152年 ねん
Se snol gnam lde
སེ་སྣོལ་གནམ་ལྡེ།
色 いろ 诺南德 とく
152年 ねん -178年 ねん
Se snol po lde
སེ་སྣོལ་པོ་ལྡེ།
色 いろ 诺布德 とく
178年 ねん -220年 ねん
lDe snol nam
ལྡེ་སྣོལ་ནམ
德 とく 诺南
220年 ねん -245年 ねん
lDe snol po
ལྡེ་སྣོལ་པོ
德 とく 诺布
245年 ねん -276年 ねん
lDe rgyal po
ལྡེ་རྒྱལ་པོ
德 とく 结布
276年 ねん -326年 ねん
lDe sprin btsan
ལྡེ་སྤྲིན་བཙན
德 とく 振 ふ 贊 さん
326年 ねん -352年 ねん
To ri long btsan
ཏོ་རི་ལུང་བཙན
结多日 び 隆 たかし 赞
352年 ねん -382年 ねん
Khri btsan nam
ཁྲི་བཙན་ནམ
赤 あか 赞南
382年 ねん -402年 ねん
Khri sgra dpung btsan
ཁྲི་སྒྲ་དཔུང་བཙན
赤 あか 扎邦赞
402年 ねん -412年 ねん
Khri thog rje btsan
ཐོག་རྗེ་ཐོག་བཙན
赤 あか 脱 だつ 吉 きち 赞
412年 ねん -432年 ねん
Lha tho tho ri gnyan btsan
ཐོ་ཐོ་ཏི་གཉན་བཙན
佗土度 ど 日 び 年 ねん 贊 さん
432年 ねん -512年 ねん ?
Khri gnyan gzungs btsan
ཁྲི་གཉན་གཟུངས་བཙན
赤 あか 宁松赞
揭利失 しつ 若 わか
512年 ねん -537年 ねん
vBrong gnyan ldevu
འབྲོང་གཉན་ལྡེ་རུ།
仲 なか 宁德乌
勃弄若 わか
537年 ねん -562年 ねん
dMus long dkon pa bkra shis
སྟག་རི་གཉན་གཟིགས།
达日宁色
讵素若 わか
562年 ねん -618年 ねん
gNam-ri Srong-btsan
གནམ་རི་སྲོང་བཙན།
南 みなみ 日 び 松 まつ 赞
论素赞
618年 ねん -629年 ねん
Srong-btsan sgam-po
སྲོང་བཙན་སྒམ་པོ།
松 まつ 贊 さん 干 ひ 布 ぬの
弃宗弄 ろう 赞
629年 ねん -650年 ねん
Gung-ri gung-btsan
གུང་རི་གུང་བཙན།
共 きょう 日 にち 共 ども 赞
638年 ねん -655年 ねん
650年 ねん -655年 ねん
Mang-srong mang-btsan
མང་སྲོང་མང་བཙན།
芒 すすき 松 まつ 芒 すすき 贊 さん
乞黎拔布
643年 ねん -676年 ねん
650年 ねん -676年 ねん
vDus-srong mang-po-rje
འདུས་སྲོང་མང་པོ་རྗེ་
杜 もり 松 まつ 芒 すすき 波 は 傑 すぐる
乞黎弩 いしゆみ 悉籠、器 うつわ 弩 いしゆみ 悉弄
670年 ねん -704年 ねん
676年 ねん -704年 ねん
lha bal pho
ལྷ་བལ་ཕོ་
拉 ひしげ 跋 ばつ 布 ぬの ?
乞黎跋 ばつ 布 ぬの
704年 ねん -705年 ねん ?
Khri-lde gtsug-brtan, Mes Ag-tshom
ཁྲི་ལྡེ་གཙུག་བརྟན་,མེས་ཨག་ཚོམ་
赤 あか 德 とく 祖 そ 贊 さん
棄隸縮 ちぢみ 贊 さん
698年 ねん -755年 ねん
705年 ねん -755年 ねん
Khri-srong lDe-btsan
ཁྲི་སྲོང་ལྡེ་བཙན་
赤松 あかまつ 德 いさお 贊 さん
乞犁悉籠納 おさめ 贊 さん 、乞立贊 さん 、乞黎蘇 そ 籠 かご 獵 りょう 贊 さん 、娑 しゃば 悉笼腊赞
742年 ねん -797年 ねん
755年 ねん -797年 ねん
Mu-ne btsan-po
མུ་ནེ་བཙན་པོ་
木 き 奈贊普 ひろし
牟尼赞普,足 そく 之 の 煎 せんじ
762年 ねん -798年 ねん
797年 ねん -798年 ねん
Mu-tig btsan-po; Mu-rug-brtsan
མུ་ཏིག་བཙན་པོ་,
牟如赞普
798年 ねん
Khri-lde-srong-btsan,Sad-na-legs
ཁྲི་ལྡེ་སྲོང་བཙན་,སད་ན་ལེགས་
赤 あか 德松 とくまつ 贊 さん
764年 ねん -815年 ねん
798年 ねん -815年 ねん
Khri-gtsug-lde-btsan, Ral-pa-can
ཁྲི་གཙུག་ལྡེ་བཙན་,རལ་པ་ཅན་
赤 あか 祖 そ 德 とく 贊 さん
可 か 黎 はじむ 可 か 足 あし
彝 つね 泰 やすし
806年 ねん -838年 ねん
815年 ねん -838年 ねん
Glang dar-ma
གླང་དར་མ་
朗 ろう 達 たち 瑪
達磨 だるま
803年 ねん -842年 ねん
838年 ねん -842年 ねん
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