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鷹司たかつかさ兼平かねひら

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近衛このえ兼平かねひらから転送てんそう
 
鷹司たかつかさ 兼平かねひら
鷹司たかつかさ兼平かねひらぞうさんまるなお蔵館くらだてぞう天子てんし摂関せっかん御影みかげ』より)
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん 安貞やすさだ2ねん1228ねん
死没しぼつ えいひとし2ねん8がつ8にち1294ねん8がつ30にち
改名かいめい 兼平かねひらさとし法名ほうみょう
別名べつめい あきらねんいん関白かんぱく
戒名かいみょう あきらねんいんしょうねんいん
墓所はかしょ 高山寺こうざんじ
官位かんい したがえいち関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
主君しゅくん 四条しじょう天皇てんのうこう嵯峨天皇さがてんのう後深草天皇ごふかくさてんのう亀山天皇かめやまてんのうこう宇多天皇うだてんのう伏見天皇ふしみてんのう
氏族しぞく 近衛このえ鷹司たかつかさ
父母ちちはは ちち近衛このえはは藤原ふじわら忠行ただゆきむすめ
兄弟きょうだい 近衛このえどおり近衛このえ近衛このえけんけい近衛このえ長子ながこ兼平かねひらじつせい、慈禅、ぞうちゅうきよしけんひじりみのるきよしほまれ
つま 一条いちじょうみのるゆうむすめひらおやまましむすめ藤原ふじわら光俊みつとしむすめ
もとただしけんただし朝子あさこしずほまれ、慈基ら
特記とっき
事項じこう
鷹司たかつかさ
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鷹司たかつかさ 兼平かねひら(たかつかさ かねひら)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき公卿くぎょう能書のうがき関白かんぱく近衛このえよんなん官位かんいしたがえいち関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん鷹司たかつかさ通称つうしょうあきらねんいん関白かんぱく(しょうねんいん かんぱく)。

経歴けいれき

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こよみひとし元年がんねん(1238ねんしたがえけん大納言だいなごんけんみぎ近衛このえ大将たいしょうとなる。その右大臣うだいじん左大臣さだいじん歴任れきにんけんちょう4ねん(1252ねん摂政せっしょうふじ長者ちょうじゃ宣下せんげたまわり、太政大臣だじょうだいじんにんじられた。どう6ねん(1254ねん関白かんぱくとなる。一旦いったん辞任じにんするが建治けんじ元年がんねん(1275ねん)に再度さいど摂政せっしょうふじ長者ちょうじゃとなった。せいおう3ねん(1290ねん出家しゅっけし、さとしごうする。えいひとし2ねん(1294ねん)に智恵ちえひかりいん開山かいさんするが、もなく薨去こうきょ兼平かねひら前後ぜんご23ねんながきにわたって摂関せっかんにんにあった。

能書のうがきとしても著名ちょめい日記にっきに『しょうねんいん関白かんぱく兼平かねひらこう)』、有職故実ゆうそくこじつしょに『あきらねんいん殿どの装束しょうぞくしょう』がある。勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうには4しゅいれしゅうしている。

後深草院二条ごふかくさいんのにじょうつづった『とはずがたり』に登場とうじょうする「近衛このえ大殿おおいどの」はこの兼平かねひらのことだとかんがえられている。

かんれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

れき 西暦せいれき 月日つきひ 事柄ことがら
安貞やすさだ2ねん 1228ねん 生誕せいたん
よしみろく3ねん 1237ねん 2がつ23にち 元服げんぷくし、せい叙位じょい
2がつ28にち みぎ近衛このえ少将しょうしょう任官にんかん
7がつ17にち したがえよん昇叙しょうじょし、みぎ近衛このえ少将しょうしょう如元。
9月15にち みぎ近衛このえ中将ちゅうじょう転任てんにん
10月15にち 禁色きんじきを聴される。
こよみひとし元年がんねん 1238ねん 1がつ5にち したがえよんじょう昇叙しょうじょし、みぎ近衛このえ中将ちゅうじょう如元。
1がつ22にち 播磨はりま権守ごんもり兼任けんにん
1がつ27にち したがえさん昇叙しょうじょし、みぎ近衛このえ中将ちゅうじょう如元。
うるう2がつ15にち けん中納言ちゅうなごん転任てんにん。 
4がつ18にち けん大納言だいなごん転任てんにん帯剣たいけんを聴される。
9月1にち せいさん昇叙しょうじょし、けん大納言だいなごん如元。  
11月6にち したがえ昇叙しょうじょし、けん大納言だいなごん如元。みぎ近衛このえ大将たいしょう兼任けんにん
12月23にち みぎりょうかん兼帯けんたい
のべおう元年がんねん 1239ねん 4がつ23にち せい昇叙しょうじょし、けん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大将たいしょうみぎりょうかん如元。
じん2ねん 1241ねん 4がつ17にち 内大臣ないだいじん転任てんにん
4がつ18にち みぎ近衛このえ大将たいしょう如元。
10がつ10日とおか みぎ近衛このえ大将たいしょう辞任じにん
ひろしもと2ねん 1244ねん 6月13にち 右大臣うだいじん転任てんにん
ひろしもと4ねん 1246ねん 3月28にち いちじょう宣下せんげ
11月15にち 随身ずいじん兵仗ひょうじょう辞退じたい
12月24にち 左大臣さだいじん転任てんにん
たからおさむ2ねん 1248ねん 10月23にち したがえいち昇叙しょうじょし、左大臣さだいじん如元。
けんちょう4ねん 1252ねん 10月3にち 摂政せっしょう長者ちょうじゃ宣下せんげ左大臣さだいじん如元。
11月3にち 太政大臣だじょうだいじん転任てんにん摂政せっしょう長者ちょうじゃ如元。
けんちょう5ねん 1253ねん 11月8にち 太政大臣だじょうだいじん辞任じにん
けんちょう6ねん 1254ねん 12月2にち 摂政せっしょうし、じゅん摂政せっしょう宣下せんげ関白かんぱく宣下せんげ
せいもと元年がんねん 1259ねん 11月26にち 亀山天皇かめやまてんのう践祚せんそともない、関白かんぱく如元宣下せんげ
ひろちょう元年がんねん 1261ねん 4がつ29にち 関白かんぱく長者ちょうじゃす。
ぶんひさし5ねん 1268ねん 12月29にち 随身ずいじん兵仗ひょうじょうたまわる。
建治けんじ元年がんねん 1275ねん 10月21にち 摂政せっしょう長者ちょうじゃ宣下せんげ
建治けんじ2ねん 1276ねん 12月14にち 太政大臣だじょうだいじん宣下せんげ摂政せっしょう長者ちょうじゃ如元。
建治けんじ3ねん 1277ねん 4がつ26にち 太政大臣だじょうだいじん辞任じにん
弘安ひろやす元年がんねん 1278ねん 12月7にち 摂政せっしょうし、関白かんぱく宣下せんげ
弘安ひろやす9ねん 1286ねん うるう12がつ12にち 兵仗ひょうじょう辞退じたい
弘安ひろやす10ねん 1287ねん 8がつ11にち 関白かんぱくす。
せいおう2ねん 1289ねん 6月1にち 内覧ないらん宣下せんげ
せいおう3ねん 1290ねん 3月30にち 出家しゅっけ
えいひとし2ねん 1294ねん 8がつ8にち 薨去こうきょ享年きょうねん67。

系譜けいふ

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