(Translated by https://www.hiragana.jp/)
洋服 - Wikipedia コンテンツにスキップ

洋服ようふく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
洋装ようそうから転送てんそう
ブレザーたクリケットの選手せんしゅたち。

洋服ようふく(ようふく)とは、西洋せいようふくりゃくで、西洋せいようふう衣服いふくのこと[1]英語えいごwestern clothes におおむね該当がいとうする[2]ヨーロッパ服飾ふくしょく起源きげんつが、列強れっきょう各国かっこく各地かくち進出しんしゅつともなえなって、アメリカ大陸あめりかたいりくオセアニアひとし植民しょくみんをはじめ、世界せかい各地かくちひろもちいられ、19世紀せいきすえ以降いこう近代きんだいとともに、中国ちゅうごく日本にっぽんひとしでも使用しようされるようになった。この過程かていで、日本語にほんご中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんにおいて、伝統でんとうてき衣服いふく日本にっぽん場合ばあい和服わふく着物きもの)にたいする概念がいねんとして、これらの西洋せいよう起源きげん衣服いふくが「洋服ようふく」とばれるようになった[3][4]

それ以前いぜんには、オランダ阿蘭陀おらんだ)からふくという意味いみらんふく(らんふく)[5]南蛮なんばんふく(なんばんふく)、紅毛こうもうふく(こうもうふく)とばれていた[4]洋服ようふく各地かくち伝統でんとうてき服飾ふくしょく要素ようそれながら発展はってんし、民族みんぞくふく形成けいせい変化へんかにも影響えいきょうあたえた。現在げんざいでは、背広せびろドレスシャツズボンスカートわせとうほかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく中心ちゅうしん発展はってんした簡素かんそTてぃーシャツジーンズひとし世界中せかいじゅう使用しようされている。今日きょう日本にっぽんでは、洋服ようふく一般いっぱんてきになったため、たんに「ふく」といえば洋服ようふくを、「着物きもの(きもの)」といえば和服わふくすことがおおい。なにひゃくねんまえから人々ひとびと自分じぶんあらわため洋服ようふくまた被服ひふくまつわってきた。

縫製ほうせい技術ぎじゅつからると、和服わふく直線ちょくせんった生地きじわせるのが基本きほんであるのにたいし、洋服ようふく身体しんたい形状けいじょうわせて曲線きょくせんてきった生地きじわせるのが基本きほんである。

日本にっぽんにおける洋服ようふく

[編集へんしゅう]
ナポレオン3せいからおくられた司令しれい官服かんぷく徳川とくがわ慶喜よしのぶ
長州ちょうしゅう兵隊へいたい
1920ねん大正たいしょう9ねん)、資産しさん子供こどもたち。

16世紀せいきポルトガルスペインからキリスト教きりすときょう宣教師せんきょうしひとし日本にっぽん渡来とらいすると、日本にっぽんでも西洋せいようふう服飾ふくしょく南蛮なんばんふく)がられるようになった[3][4]織田おだ信長のぶなが西欧せいおうふくよろいることもこのんだことがられている。江戸えど時代じだい日本にっぽん鎖国さこく政策せいさくいたため、基本きほんてきには人々ひとびと西洋せいようふう衣服いふくにすることはなかったが、長崎ながさき出島でじま駐留ちゅうりゅうするオランダじんひとし服装ふくそうは、出島でじま以外いがいでも、オランダ商館しょうかんちょう江戸えど参府さんぷとうつうじてにすることができた。

1858ねん日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくにより各地かくちみなとひらかれると、役人やくにん通訳つうやくなどの直接ちょくせつ外国がいこくじん交渉こうしょうをする立場たちば人間にんげん中心ちゅうしんとして、洋服ようふく着用ちゃくようするものがあらわれた。江戸えど時代じだいにはキリスト教きりすときょうたいする禁教きんきょうれいにより、洋服ようふくることは忌避きひされたが、幕末ばくまついた軍備ぐんび西洋せいようすすめるしょはん幕府ばくふでは、西洋せいようしき軍服ぐんぷく導入どうにゅうした。1864ねん禁門きんもんへん理由りゆう長州ちょうしゅう征伐せいばつへいげるにさいしては、軍服ぐんぷく西洋せいようしきにすることをめ、小伝馬こでんままち商人しょうにんである守田もりたおさむ兵衛ひょうえが2000にんぶん軍服ぐんぷく製作せいさくけ、試行しこう錯誤さくごしながらもつくげた。日本にっぽんにおいての洋服ようふく大量たいりょう生産せいさんは、記録きろくのこかぎりこれがはつだとされる。このころ最後さいご将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶナポレオン3せいからおくられた司令しれいかんふく着用ちゃくようした写真しゃしんのこっている。また長州ちょうしゅう兵隊へいたいへい西洋せいようしき軍服ぐんぷくていた。

明治めいじ政府せいふ欧化おうか政策せいさくをとり、その一環いっかんとして伊藤いとう博文ひろぶみ宮中きゅうちゅうでの洋服ようふく着用ちゃくよう推進すいしんした。1872ねん太政官だじょうかん布告ふこく339ごうだい礼服れいふく通常つうじょう礼服れいふくてい衣冠いかん祭服さいふくためとうけん)により、男性だんせいについては、ヨーロッパの宮廷きゅうていふくにならっただい礼服れいふくなどがさだめられた。またその前年ぜんねん1871ねん散髪さんぱつだつかたなれい太政官だじょうかん399ごう)により髪型かみがた従来じゅうらいまげから散切ざんぎあたま一般いっぱんにもひろまった。以後いご警官けいかん鉄道てつどういん郵便ゆうびんおっとひとし制服せいふく、また教員きょういん服装ふくそうなどが西洋せいようした。制服せいふく製造せいぞうまたそのはらひんあつかうところから、洋服ようふく仕立したてん各地かくちにできた。大正たいしょう時代じだいサラリーマンそう成立せいりつすると、おおやけではすくなくとも男性だんせい洋装ようそうをしネクタイ着用ちゃくようするのがたりまえとなった。しかし、自宅じたくもどると和服わふくごすひとおおく、職業しょくぎょうによっては仕事しごとさいにも和服わふく着用ちゃくようした。だが洋服ようふく和服わふくよりも防寒ぼうかんせい活動かつどうせいすぐれるため、明治めいじ開拓かいたく本格ほんかくした北海道ほっかいどうでは洋服ようふくがいちはや普及ふきゅうした。

一方いっぽう女性じょせい洋装ようそうおくれ、上流じょうりゅう階級かいきゅうでは鹿しかかん舞踏ぶとうかい着用ちゃくようされたほか、1886ねん女性じょせいだい礼服れいふくなどがさだめられたが、一般いっぱんには和服わふく着用ちゃくようされた。1908ねん東京とうきょう新橋しんばしえき構内こうないに、洋装ようそうはなむすめ(14さい)があらわれ、評判ひょうばんとなった[6]大正たいしょう時代じだいはいると、大正たいしょうデモクラシー影響えいきょうモダン・ガール(モガ)や、バスのおんな車掌しゃしょうなどの職業しょくぎょう婦人ふじん洋服ようふくた。また、1923ねん関東大震災かんとうだいしんさいでは、身体しんたい動作どうささまたげる構造こうぞうである和服わふく着用ちゃくようしていた女性じょせい被害ひがいおおかったことから、よく1924ねんに「東京とうきょう婦人ふじん子供こどもふく組合くみあい」が発足ほっそくし、女性じょせい服装ふくそう西洋せいよう目指めざ運動うんどうさかんになった。1927ねん9月21にちには、どう組合くみあい主催しゅさいにより、当時とうじ銀座ぎんざ三越みつこしにおいて日本にっぽん国内こくないはつファッションショー開催かいさいされる。これは一般いっぱんからデザインつのったファッションショーでもあった。また、日本橋にほんばしにあった「白木屋しらきや」デパートにて発生はっせいしただい規模きぼ火災かさいで、和装わそう人々ひとびと被害ひがいおおかったという認識にんしきしめされたこともあいまって、従業じゅうぎょういん服装ふくそう西洋せいようしきあらためる百貨店ひゃっかてん増加ぞうかした。

洋服ようふくたいして女性じょせいいていた感覚かんかくてき抵抗ていこうかんのひとつに、和服わふくとはちがい、羽織はおってそでとおすのでなく「あたまからかぶってる」という着脱ちゃくだつ方式ほうしきちがいがあったといい、これは1950年代ねんだいにも言及げんきゅうされている[7]

1930年代ねんだい後半こうはんから1940年代ねんだい前半ぜんはんにかけては、太平洋戦争たいへいようせんそう戦時せんじ体制たいせい物資ぶっし欠乏けつぼうにより繊維せんい衣服いふく統制とうせい極端きょくたんすすんだ。1940ねん国民こくみんふくれいによって男性だんせい国民こくみんふくさだめられた。1942ねんからの衣料いりょう切符きっぷ制度せいどにおいてスーツの点数てんすうたかかったこともあり、流通りゅうつうする衣服いふく大半たいはん点数てんすうひく国民こくみんふくとなった。女性じょせいには和服わふく洋服ようふく折衷せっちゅうした婦人ふじん標準ひょうじゅんふく制定せいていされたが普及ふきゅうせず、和服わふくつくえたもんぺ着用ちゃくようした。戦争せんそうによる壊滅かいめつてき打撃だげきけた日本にっぽんは、敗戦はいせんアメリカなど連合れんごうこくからの援助えんじょたよることになった。食料しょくりょうなどと同様どうよう衣料いりょうひん不足ふそくし、GHQ放出ほうしゅつ衣料いりょう古着ふるぎ)をとおして、洋服ようふく流通りゅうつうし、「占領せんりょうぐんファッション」として流行りゅうこうした。昭和しょうわ博物館はくぶつかん[だれ?]昭和しょうわ最大さいだい事件じけんは、日本人にっぽんじん洋装ようそうであるとべている。

ナイロンをはじめ化学かがく繊維せんい統制とうせい撤廃てっぱいのち化学かがく繊維せんい使用しようした衣服いふくつくられはじめるのは1951ねんころで、繊維せんい産業さんぎょうでもビニロンやテトロン(ポリエステル商品しょうひんめい)、レーヨンなどの化学かがく繊維せんい開発かいはつ製造せいぞうすすんだ。既製きせいふく製造せいぞう販売はんばいぎょう興隆こうりゅうし、1960年代ねんだい以降いこう衣料いりょう大量たいりょう消費しょうひ時代じだいはいる。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 広辞苑こうじえんだい6はん洋服ようふく
  2. ^ プログレッシブ和英かずひでちゅう辞典じてん洋服ようふく
  3. ^ a b つじますみ洋服ようふく」『日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ
  4. ^ a b c 中山なかやま千代ちよ洋服ようふく」『国史こくしだい辞典じてん
  5. ^ 学生がくせいふく秘密ひみつ』7ぺーじ
  6. ^ 報知ほうち新聞しんぶん1908ねん6がつ1にち
  7. ^ 鎌倉かまくら書房しょぼうドレスメーキング」1954ねん3がつごう

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]