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神州しんしゅうまる

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神州しんしゅうまる
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 播磨はりま造船ぞうせんしょ
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
かんしゅ 特殊とくしゅせん
かんれき
起工きこう 1933ねん昭和しょうわ8ねん4がつ8にち
進水しんすい 1934ねん昭和しょうわ9ねん3月14にち
竣工しゅんこう 1934ねん昭和しょうわ9ねん12月15にち
最期さいご 1945ねん昭和しょうわ20ねん1がつ3にち戦没せんぼつ
要目ようもく
基準きじゅん排水はいすいりょう 7,100 トン
満載まんさい排水はいすいりょう 8,108 トン
全長ぜんちょう 144 m
最大さいだいはば 22 m
吃水きっすい 4.2 m
しゅかん かん本式ほんしきボイラー×2
おも 石川いしかわとう造船ぞうせんしょせい蒸気じょうきタービン×1
出力しゅつりょく 7,500 hp
最大さいだい速力そくりょく 20.4 kt
航続こうぞく距離きょり 7,000 うみさと
乗員じょういん 標準ひょうじゅん収容しゅうよう兵員へいいんやく1,200めい最大さいだいやく2,000めい
へいそう
太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん
八八式七糎単装高射砲(とく×6
きゅうはちしき 20mm たんそう高射こうしゃ機関きかんほうとく×4
さんはちしき 7.5cm 野砲やほう×1
爆雷ばくらい
最終さいしゅう
はちはちしき ななせんちめーとるたんそう高射こうしゃほうとく)×11
きゅうはちしき 20mm たんそう高射こうしゃ機関きかんほうとく)×6
しき 12cm 迫撃はくげきほうたいせんよう)×1
爆雷ばくらい
搭載とうさいてい
搭載とうさい きゅう一式いっしき戦闘せんとうきゅうしき偵察ていさつばくそうとう最大さいだい12
ソナー 水中すいちゅう聴音ちょうおん
その
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神州しんしゅうまる神洲しんしゅうまる、しんしゅうまる)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん発案はつあん海軍かいぐん協力きょうりょくもと開発かいはつ建造けんぞう運用うんようした揚陸ようりくかん上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい母船ぼせん)(詳細しょうさい後述こうじゅつ)。存在そんざい秘匿ひとくのためにR1GLMTりゅう城丸しろまる(りゅうじょうまる)とう名称めいしょう使用しようされている。帝国ていこく陸軍りくぐんでは特種とくしゅせん分類ぶんるいされ、そのだい1ごうだい1せん・1ばんせん)となり同型どうけいせんい。

先進せんしんてき設計せっけい意図いと揚陸ようりくかんで、舟艇しゅうてい泛水設備せつびにより安全あんぜん迅速じんそく一挙いっきょ上陸じょうりくよう舟艇しゅうていであるだい発動はつどうてい大発だいはつ)・しょう発動はつどうていしょうはつ多数たすう兵員へいいん搭載とうさい状態じょうたい連続れんぞく発進はっしんできるほか、それらの護衛ごえいほうていたる装甲そうこうてい(ABてい)、高速こうそく偵察ていさつていたる高速艇こうそくていかぶと(HB-K)を搭載とうさいきわめてたか上陸じょうりくせん遂行すいこう能力のうりょくそなえていた。にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん最初さいしょから太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう末期まっきいたるまで数々かずかず上陸じょうりく作戦さくせん揚陸ようりく作戦さくせん成功せいこうみちびいた。また、計画けいかく段階だんかいより搭載とうさい航空機こうくうきによる上陸じょうりく部隊ぶたい支援しえん攻撃こうげき考慮こうりょされていたため、発展はってんがたであるあきつまるおなじく現在げんざい強襲きょうしゅう揚陸ようりくかん先駆せんくてき存在そんざいであった。

ふねめい

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本来ほんらいふねめいたる神州しんしゅうまる神洲しんしゅうまる)の「神州しんしゅう神洲しんしゅう)」とは古来こらい日本にっぽん異称いしょう雅称がしょうであり、「現人神あらひとがみたる天皇てんのうくに」および「かみ宿やどくに」という意味いみである(神国しんこく)。日本にっぽん異称いしょうは「神州しんしゅう」のほかにも扶桑ふそう大和やまと敷島しきしま秋津島あきつしま秋津あきつしゅう・あきつ)八島やじまはちしゅう瑞穂みずほひとし存在そんざいするが、いずれも民間みんかん船舶せんぱく陸軍りくぐん船舶せんぱく海軍かいぐん艦艇かんていふねめいかんめい)としてひろもちいられているものである。

神州しんしゅうまる命名めいめいされるまで、本船ほんせんは「R1」(アールワン運送うんそうせん)と呼称こしょうされていた。これは日本にっぽん海軍かいぐん建造けんぞうかんしゅ番号ばんごうをA・B・C…とわけていたことにちなみ、いちいち「陸軍りくぐんふね」とんでいては不都合ふつごうのため、陸軍りくぐんマ字まじ表記ひょうきRikugun」の頭文字かしらもじをとって「R(陸軍りくぐん)1(はじめてのかた)」と呼称こしょうしたのである[2]秘匿ひとくせんめいの「GL」はその「神州しんしゅう」を英語えいご直訳ちょくやくした「God Land(ゴッドランド)」の頭字かしらじ[3]、「MTM.T.)」は命名めいめい当時とうじ帝国ていこく陸軍りくぐん船舶せんぱく部隊ぶたいあかつき部隊ぶたい)のトップたる、だい1船舶せんぱく輸送ゆそう司令しれいかんけん陸軍りくぐん運輸うんゆ部長ぶちょう松田まつだまきたいら初代しょだい)・田尻たじりあきら代目だいめりょう陸軍りくぐん中将ちゅうじょうせいイニシャルMatsuda・Tajiri」からられたものである[4][5]

神州しんしゅうまる建造けんぞうとほぼどう時期じきだいいち船舶せんぱく改善かいぜん助成じょせい施設しせつによって民間みんかん海運かいうん会社かいしゃともえぐみ汽船きせん本船ほんせん同名どうめいである中型ちゅうがた貨物かもつせん神州しんしゅうまる(4,180そうt)を建造けんぞうしており、かつ神州しんしゅうまる貨物かもつせん)は太平洋戦争たいへいようせんそう初期しょきには陸軍りくぐん徴用ちょうようせん吾妻あづま汽船きせん移籍いせき)として神州しんしゅうまる特種とくしゅせん共々ともどもジャワ上陸じょうりく作戦さくせん投入とうにゅうされているため、ほん作戦さくせん当時とうじ神州しんしゅうまる特種とくしゅせん)はりゅう城丸しろまるというふねめい使用しようしている[6][7]りゅうじょうはジャワ上陸じょうりく作戦さくせんのみの秘匿ひとくせんめいとされ、作戦さくせん終了しゅうりょうもとの「神州しんしゅう」へともどっている[8])。りゅうじょう暫定ざんていてきなものであったために由来ゆらい不明ふめいではあるものの、海軍かいぐんには同音どうおん異字いじかんめい小型こがた航空こうくう母艦ぼかんりゅう」が存在そんざいしており、あえて建造けんぞう時期じきこうむりゅう驤とふねめいかぶらせること特種とくしゅせん存在そんざい秘匿ひとくつとめたというせつもある。なお、海軍かいぐん艦艇かんていかんめい同一どういつないし類似るいじするふねめい特種とくしゅせんはじめとする陸軍りくぐん船舶せんぱくおよび舟艇しゅうていにはめずらしいことではない[9]#秘匿ひとく)。

建造けんぞう経緯けいい

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上陸じょうりくよう舟艇しゅうていは、波打なみうぎわげて将兵しょうへい装備そうび揚陸ようりくするために、吃水きっすいあさ小型こがたであるものがほとんどである。このため外洋がいよう航行こうこうりょくとぼしく、根拠地こんきょちから上陸じょうりく地点ちてんまでは母船ぼせんによってはこばれる必要ひつようがある。せんあいだ当時とうじ上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい母船ぼせん宇品うじなまる陸軍りくぐんしょう所有しょゆうせん)のように一般いっぱん貨物かもつせん軍隊ぐんたい輸送ゆそうせん)と大差たいさいもので、うえ甲板かんぱん舟艇しゅうてい搭載とうさいし、デリックガントリークレーンボートダビットホイストとうで泛水(へんすい・海面かいめんろすこと)させる方式ほうしきをとっていた。泛水には基本きほんてき舟艇しゅうていそらせんで、将兵しょうへいは泛水母船ぼせん舷側げんそくらされたなわばしごをつたって舟艇しゅうていみ、火砲かほう車輛しゃりょう馬匹ばひつひとしはデリックで舟艇しゅうていないろしていた。この方式ほうしき舟艇しゅうてい多数たすう場合ばあい時間じかんがかかるほか、波浪はろう状態じょうたいによっては泛水・乗船じょうせん積載せきさいむずかしく、また将兵しょうへいとう移乗いじょう落下らっかする危険きけんせいもあるため迅速じんそく上陸じょうりくせんおこなうのに不向ふむきであった。

島国しまぐにである日本にっぽん地理ちりてき条件じょうけんだいいち世界せかい大戦たいせんせんくんガリポリ上陸じょうりく作戦さくせん)、ざいフィリピンアメリカぐん極東きょくとう陸軍りくぐん)を仮想かそうてきとする大正たいしょう12ねん帝国ていこく国防こくぼう方針ほうしんによって、1920年代ねんだいより上陸じょうりくせん関心かんしんのあった帝国ていこく陸軍りくぐんはその研究けんきゅうちかられており、同年代どうねんだい中期ちゅうきから1930年代ねんだい初期しょきにかけて機能きのうてき上陸じょうりくよう舟艇しゅうていであるしょう発動はつどうていしょうはつ)・だい発動はつどうてい大発だいはつ)のかくかた実用じつようしていた。それらが投入とうにゅうされた1932ねん昭和しょうわ7ねん)3がつ1にちだい11師団しだんによるななりょうこう上陸じょうりく作戦さくせんだいいち上海しゃんはい事変じへん)は成功裏せいこうりわったが、せんくんとして以下いか問題もんだいあきらかとなった[10]

  • 在来ざいらいの泛水方式ほうしきでは上陸じょうりく時間じかんがかかり奇襲きしゅう効果こうかとぼしいこと。
  • 敵前てきぜん洋上ようじょう輸送ゆそうせんより舟艇しゅうてい移乗いじょうするため危険きけんなこと。
  • 水深すいしんあさいため小型こがた輸送ゆそうせんしか使用しようできず、そのため積載せきさいてい種類しゅるいかぎられそのかずすくなくなること。

また、だいいち上海しゃんはい事変じへんでのせんくんのほか、1932ねん6がつおこなわれた陸軍りくぐん将校しょうこうらのにち出丸でまる栃木とちぎ商事しょうじ、5,256そうt)による南洋なんよう群島ぐんとう巡航じゅんこう開発かいはつ契機けいきになったとの見方みかたもある[11]

大発だいはつ(Dがた

これらの経緯けいいから、上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい大量たいりょう積載せきさい可能かのう人員じんいん装備そうびせたまま連続れんぞくてきに泛水できる新鋭しんえい舟艇しゅうてい母船ぼせん揚陸ようりくかん)の開発かいはつ開始かいし当初とうしょ軍隊ぐんたい物資ぶっし輸送ゆそう担当たんとうする官衙かんがたる陸軍りくぐん運輸うんゆ独力どくりょく着手ちゃくしゅしていた。なお、陸軍りくぐん本格ほんかくてき揚陸ようりくかん開発かいはつ保有ほゆうした背景はいけいについては以下いかてんにも留意りゅういしなければならない。

かつ、陸軍りくぐん海軍かいぐんとはべつに(揚陸ようりく輸送ゆそう目的もくてきとする)独自どくじ船舶せんぱく部隊ぶたい陸軍りくぐん船舶せんぱく部隊ぶたい)を保有ほゆうすることは、日本にっぽんだけでなくどう時期じきアメリカ陸軍りくぐんでも大々的だいだいてきおこなわれていた行為こういである[16]

計画けいかく開発かいはつされたこの舟艇しゅうてい母船ぼせんは、従来じゅうらいたんなる輸送ゆそうせんとはまったことなり以下いかおおきな特徴とくちょうがあった[17]

  • 船内せんない舟艇しゅうてい格納庫かくのうこゆう大量たいりょう大発だいはつとう舟艇しゅうてい搭載とうさい船尾せんび泛水装置そうちとうにより安全あんぜん迅速じんそく一挙いっきょ進水しんすい可能かのう
  • 偵察ていさつばくげきをいわゆる艦載かんさいとして搭載とうさい上陸じょうりく部隊ぶたい支援しえんようとして多数たすう運用うんよう可能かのう

これらきわめて先進せんしんてき機能きのうゆうする艦船かんせんは、神州しんしゅうまる世界せかいはつであった。航空機こうくうき運用うんよう能力のうりょくゆうするてんでは強襲きょうしゅう揚陸ようりくかん先駆せんくてき存在そんざいでもあり、神州しんしゅうまる航空機こうくうき運用うんよう能力のうりょく全通ぜんつう飛行ひこう甲板かんぱんかたち発展はってんさせた後続こうぞくあきつまるは、船型せんけいにおいても現代げんだい強襲きょうしゅう揚陸ようりくかんちかいものであった。

神州しんしゅうまるおなじように兵員へいいんじゅう装備そうび搭載とうさいした状態じょうたい上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい多数たすう急速きゅうそく発進はっしんさせる能力のうりょくそなえた揚陸ようりくかんは、日本にっぽん以外いがいでは、神州しんしゅうまる起工きこうやく9ねんである1942ねん昭和しょうわ17ねん)に起工きこう進水しんすいされた世界せかいはつドックがた揚陸ようりくかんであるアシュランドきゅう1ばんかんのアシュランド(ドックは露天ろてんがた)まであらわれなかった。同艦どうかんは、露天ろてんがたながらウェルドックという神州しんしゅうまるとはまったことなる設計せっけい舟艇しゅうてい母船ぼせん機能きのう実現じつげんし、その主流しゅりゅうとなった。イギリスぐんにおいては1940ねん昭和しょうわ15ねん)に、1917ねん大正たいしょう6ねん建造けんぞう鉄道てつどう連絡れんらくせん「TF-1」および「TF-3」を徴用ちょうよう1941ねん昭和しょうわ16ねん)に前者ぜんしゃはアイリス(さらに1942ねんにプリンセス・アイリスへ改名かいめい後者こうしゃダフォディル命名めいめいし、神州しんしゅうまるおなじようにかんすべだいから舟艇しゅうていろすスターンシュートがた揚陸ようりくかん(LSS:Landing Ship Sternchute)に改装かいそう就役しゅうえきさせているが、あくまで老朽ろうきゅう鉄道てつどう連絡れんらくせん設備せつび流用りゅうようした脆弱ぜいじゃくなものであり、のちにはアメリカから供与きょうよされた本格ほんかくてきカサ・グランデきゅう(アシュランドきゅうおも変更へんこうしたじゅん同型どうけいかん)を運用うんようしている。

建造けんぞう

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船尾せんびおよび舷側げんそくハッチを開放かいほうした完成かんせい直後ちょくご神州しんしゅうまる

上述じょうじゅつ計画けいかくからまれた原案げんあんをもとに設計せっけいされた「R1(R1輸送ゆそうせん特種とくしゅ輸送ゆそうせんR1・R1運送うんそうせんとう呼称こしょう)」は、船内せんない舟艇しゅうてい格納庫かくのうこゆうし、格納庫かくのうこ内部ないぶ大発だいはつ船尾せんびハッチから発進はっしん)を、うえ甲板かんぱんりょうふなばたしょうはつ各々おのおの専用せんようのダビットを用意ようい)を満載まんさいした舟艇しゅうてい母船ぼせんとして先進せんしんてきかつ実用じつようてきなものであった反面はんめん船首せんしゅ小型こがた飛行ひこう甲板かんぱんもうけた奇抜きばつ構造こうぞうであった(さらうえ甲板かんぱん中央ちゅうおうカタパルト2設置せっち)。

そのため、開発かいはつ途中とちゅうから参加さんかした海軍かいぐん技術ぎじゅつ協力きょうりょくにより大幅おおはば設計せっけい変更へんこうくわえられ[18]海軍かいぐんかんせい本部ほんぶ設計せっけい送付そうふ[19])、舟艇しゅうてい運用うんよう方法ほうほうおよび設計せっけい寸法すんぽう陸軍りくぐん原案げんあんをそのまま承継しょうけいしつつ、船首せんしゅ飛行ひこう甲板かんぱんはい航空機こうくうき発進はっしんには船橋ふなばしおよび前部ぜんぶ甲板かんぱんもうけられた射出しゃしゅつこう左右さゆうけい2のカタパルトをもちいることとし、あらたにりょう舷側げんそくがわかた泛水装置そうち舷側げんそくハッチとホイスト)を新設しんせつするひとし船型せんけいおおきく変更へんこうされた[20]前述ぜんじゅつのように陸軍りくぐんがわ航空こうくう母艦ぼかんのような発着はっちゃく甲板かんぱんもうけることを要望ようぼうしたが、20ノット以上いじょう高速こうそくのぞめないこと・みじか甲板かんぱんからの発着はっちゃくかん無理むりとの判断はんだんから、カタパルト方式ほうしきになった[21]。また空母くうぼとして運用うんようするためには煙突えんとつかたふなばたによせなければならないが、けむりかんしつないでまげる余裕よゆうがないこと、舟艇しゅうてい甲板かんぱん居住きょじゅう甲板かんぱんでまげると船内せんない余裕よゆうがなくなるため、通常つうじょう船舶せんぱく同様どうよう直立ちょくりつ煙突えんとつかん後部こうぶにもうけられた[21]煙突えんとつより後方こうほう格納庫かくのうこせまいため航空機こうくうきつばさ展開てんかいする余裕よゆうがなく、予備よび格納庫かくのうことなった[21]。 なお、あくまで船内せんない舟艇しゅうてい格納庫かくのうこゆう舟艇しゅうてい母船ぼせん揚陸ようりくかん)の設計せっけい陸軍りくぐん発想はっそうによるものである。特殊とくしゅせんのため、造船ぞうせんしょ選定せんていにあたっては機密きみつ保持ほじ技術ぎじゅつりょく双方そうほう重要じゅうようされた[22]。そこでやすしうみきゅう巡洋艦じゅんようかんやすしうみ建造けんぞう実績じっせきをもつ播磨はりま造船ぞうせんしょえらばれた[23]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)4がつ8にち、「R1」は播磨はりま造船ぞうせんしょ起工きこう[24]建造けんぞうちゅう陸軍りくぐんは「なんとかして空母くうぼしき甲板かんぱんにできないか」と海軍かいぐんがわ要望ようぼうしたが、すで建造けんぞうちゅうのため根本こんぽんてき設計せっけい変更へんこう不可能ふかのうであった[25]。そこで空母くうぼについてはだい2せん以降いこう検討けんとうすることになった[26]よく1934ねん昭和しょうわ9ねん)2がつ8にち神州しんしゅうまる神洲しんしゅうまる)と命名めいめいされる[27]同年どうねん3がつ14にち進水しんすいした[24]神州しんしゅうまる進水しんすいどう時期じき日本にっぽん海軍かいぐんにおいて水雷すいらいていともづる転覆てんぷくするともづる事件じけん発生はっせいした[28]日本にっぽん海軍かいぐん対応たいおうわれたが、神州しんしゅうまる場合ばあい防水ぼうすい区画くかく海水かいすいバラストを注水ちゅうすいして重心じゅうしんげるだけで充分じゅうぶんとの判定はんていであり、陸海りくかいぐん双方そうほう関係かんけいしゃ安堵あんどさせた[29]。 11月の海上かいじょう運転うんてんでは、けい荷物にもつ状態じょうたい5600トンで20ノットを突破とっぱ基準きじゅん状態じょうたい7180トンで予定よてい速力そくりょく19ノットを発揮はっきした[29]。 11月30にち陸軍りくぐんわたされ12月15にち竣工しゅんこうした[20][24]

竣工しゅんこう神州しんしゅうまる帝国ていこく陸軍りくぐん船舶せんぱく部隊ぶたい根拠地こんきょちであり、陸軍りくぐん運輸うんゆ本部ほんぶ(のちにけん船舶せんぱく司令しれい)もかれている母港ぼこうたる広島ひろしまけん宇品うじな宇品うじなこう)に移動いどう1935ねん昭和しょうわ10ねん)1がつにはカタパルトを装備そうびするため近隣きんりん海軍かいぐん工廠こうしょう回航かいこうされ、射出しゃしゅつ試験しけんた2がつ26にち宇品うじな帰還きかんれて完全かんぜん完成かんせいとなった[30]以降いこう神州しんしゅうまるしょう改装かいそう演習えんしゅう試験しけん訓練くんれんかえ錬成れんせいしつつ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)7がつにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつむかえることとなった(#実戦じっせん)。

秘匿ひとく

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神州しんしゅうまるは、りくひそかだい438ごう陸軍りくぐんへい器機きき秘密ひみつ取扱とりあつかい規程きてい』にる「だいいちきゅう秘密ひみつ兵器へいき」になずらえしてあつか文字通もじどおりの秘密ひみつ兵器へいきであり、「神州しんしゅうまる機密きみつ保持ほじせきまんぜんス……」ではじまる『【極秘ごくひ神州しんしゅうまる取扱とりあつかい要領ようりょう』においては、とく航空機こうくうき舟艇しゅうてい運用うんよう能力のうりょく(KS・りょうふなばたホイスト・船尾せんび装置そうち)を秘匿ひとくすることとしている。かつ、一般いっぱんたいしては「馬匹ばひつ重量じゅうりょうざい輸送ゆそうせん」としょうする、新聞しんぶん雑誌ざっし日本にっぽん船舶せんぱく名簿めいぼロイドふね名簿めいぼ日本にっぽんせんめいろくその一切いっさい名簿めいぼおよび公刊こうかん印刷物いんさつぶつ記載きさいされないように注意ちゅういするといった配慮はいりょが1935ねん1がつになされている[31]

どう時期じき逓信ていしんしょうかんせんきょく)にたいして以下いか内容ないよう通牒つうちょう(ほぼ同様どうようのものを憲兵けんぺい司令しれいかん大蔵省おおくらしょう税関ぜいかん)にも通牒つうちょう[32]

  • 陸軍りくぐん輸送ゆそうせん神州しんしゅうまる作戦さくせんじょう構造こうぞう性能せいのう勿論もちろん存在そんざいせきシテモ極力きょくりょくこれ秘匿ひとく中略ちゅうりゃくしょ構造こうぞう図面ずめんなみしょ要目ようもく秘密ひみつ扱トシ一切いっさいこれ外部がいぶ開示かいじセサルさま関係かんけいむかい伝達でんたつかたとくニ及依頼いらいこう也」
  • なお諸種しょしゅふね名簿めいぼ統計とうけい新聞しんぶん雑誌ざっしとう本船ほんせんめいノミヲ登録とうろく掲記スルコトモ防止ぼうしスルさま配慮はいりょしょうはん併テ依頼いらいトス」

ふねめいとしてR1あらた神州しんしゅうまる命名めいめいされて以降いこう秘匿ひとくめいとして、としふるじゅんに「GL(God Land)」[33]、「MTMatsuda・Tajiri)」、りゅう城丸しろまるかくしょう臨時りんじ使用しようされており(#ふねめい)、カタパルトは「KS(KS、K,S)」、航空機こうくうき格納庫かくのうこには「うまらん甲板かんぱん馬匹ばひつよう部屋へや)」の秘匿ひとくめい偽名ぎめいあたえられている。

また、竣工しゅんこう前後ぜんこうにおいては陸軍りくぐん内部ないぶ以下いか配慮はいりょがされた。

船橋ふなばし中央ちゅうおう部分ぶぶん戦艦せんかん日向ひなた2ばん煙突えんとつ転用てんようしたダミーの大型おおがた煙突えんとつ完成かんせい直後ちょくご撮影さつえいしたうえ掲の写真しゃしんには存在そんざいしない

播磨はりま造船ぞうせんしょドック田舎いなか山間さんかん位置いちしており、(川崎かわさき造船ぞうせんしょ三菱みつびし造船ぞうせんしょ大阪おおさか鉄工てっこうしょ藤永ふじなが造船ぞうせんしょといった主要しゅようしょより)機密きみつ保持ほじてきしていたことも発注はっちゅうさきえらばれた理由りゆうひとつであった[37]

戦艦せんかん日向ひなた煙突えんとつ

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完成かんせい神州しんしゅうまるにちちゅう戦争せんそう実戦じっせん投入とうにゅうまえ後述こうじゅつ航空機こうくうき格納庫かくのうこうまらん甲板かんぱん)の擬装ぎそうないし[26]同様どうよう特種とくしゅせん複数ふくすう保有ほゆうしているかのごと欺瞞ぎまんするため[38]船体せんたい中央ちゅうおうふと大型おおがた煙突えんとつ増設ぞうせつしている(本物ほんもの船体せんたい後部こうぶうまらん甲板かんぱんけるようにやや左舷さげんりにもうけられたほそ小型こがた煙突えんとつ)。飛行機ひこうき格納庫かくのうこであることを偽装ぎそうするため、軍馬ぐんばせるうまらん(ばらん)甲板かんぱん呼称こしょうした[26]

このダミーの大型おおがた煙突えんとつは、もとは海軍かいぐん伊勢いせがた戦艦せんかん2ばんかん日向ひなたの2ばん煙突えんとつであった[39][40]。これは1936ねん昭和しょうわ11ねん前後ぜんごごろ伊勢いせ日向ひなたおこなった機関きかん改装かいそうとうだい改装かいそう従来じゅうらい2ほん煙突えんとつを1ほん、1ばん煙突えんとつ撤去てっきょし2ばん煙突えんとつ大型おおがた)の撤去てっきょひん転用てんようとされている。

構造こうぞう

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基本きほん船型せんけい

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舷側げんそくのハッチ周辺しゅうへんみぎじょう大型おおがた煙突えんとつ日向ひなたの2ばん煙突えんとつ転用てんようしたダミー

神州しんしゅうまる船型せんけい当時とうじ民間みんかん商船しょうせんとはまったことなった外形がいけいである。航空機こうくうき/うまらん格納庫かくのうこ上段じょうだん)と兵員へいいん居住きょじゅう下段げだん)の2そうかれた巨大きょだいはこがた上部じょうぶ構造こうぞうぶつゆうし、後世こうせい自動車じどうしゃ運搬船うんぱんせんや、21世紀せいきアメリカ海軍かいぐんさい新鋭しんえいドックがた輸送ゆそう揚陸ようりくかんサン・アントニオきゅうおもわせる。上部じょうぶ構造こうぞうぶつ側壁そくへきへつながるよう舷側げんそくつよいフレアがかかっており、水線すいせんでの船体せんたいはばよりも上部じょうぶいちじるしく幅広はばひろくなっている。このように特殊とくしゅぐん用船ようせんだとあきらかな外観がいかん機密きみつ保持ほじ観点かんてんから問題もんだいされ、かぶとがた1ばんせん摩耶山まやさんまるひとしのち量産りょうさんがた特種とくしゅせんでは商船しょうせんがたちか外形がいけいへと変更へんこうされることになる(へいがた1ばんせんあきつまる起工きこう国際こくさい情勢じょうせいかんがみて、商船しょうせんがただい1形態けいたいりやめ飛行ひこう甲板かんぱん装着そうちゃくした空母くうぼがただい2形態けいたい状態じょうたい竣工しゅんこう[41]

外見がいけんとは裏腹うらはらにいわゆる軍艦ぐんかん構造こうぞうじゅう防御ぼうぎょ設計せっけいではなく、商船しょうせん構造こうぞうである[24]。ただし、建造けんぞうちゅうの1934ねん発生はっせいしたともづる事件じけんけて復元ふくげんせい向上こうじょうのため海水かいすいバラスト搭載とうさい設計せっけい変更へんこうがされたさい浸水しんすいたいする防御ぼうぎょりょくたかめるための防水ぼうすい区画くかく増設ぞうせつおこなわれている。この設計せっけい変更へんこうのためにおおやけためし排水はいすいりょうが1,600tも増加ぞうかした。後述こうじゅつするように船体せんたいない舟艇しゅうてい格納庫かくのうこ存在そんざいするため水中すいちゅう防御ぼうぎょりょくについての懸念けねんがあり、就役しゅうえきたい魚雷ぎょらい防御ぼうぎょのため25mmのDS鋼板こうはん舷側げんそくじゅう追加ついかする改装かいそう舞鶴まいづる海軍かいぐん工廠こうしょうけている[42]。なお、のちのジャワ上陸じょうりく作戦さくせん友軍ゆうぐんじゅう巡洋艦じゅんようかん最上さいじょうあやま雷撃らいげきされ大破たいはそこしているが、ぼうかみなり隔壁かくへきだい1そうこそやぶられたもののだい2そう浸水しんすいめられていた[43]

陸軍りくぐん運輸うんゆ原案げんあんでは、畿内きないまるとうニューヨークライナーとばれていた当時とうじ新鋭しんえい高速こうそく貨物かもつせん原型げんけいとした設計せっけいであった。原型げんけいのニューヨークライナーではディーゼルエンジン22じく推進すいしん方式ほうしきであるところ、エンジンを1追加ついかして3じく推進すいしんとする計画けいかくであったが[44]海軍かいぐんによる設計せっけい変更へんこう蒸気じょうきタービン一軸いちじくにされている。

舟艇しゅうてい泛水設備せつび

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船尾せんびハッチをひらき泛水作業さぎょうちゅう神州しんしゅうまる大発だいはつ発進はっしんちゅう
船尾せんびハッチとうから大発だいはつしょうはつ発進はっしんないし収容しゅうようちゅう後部こうぶ甲板かんぱんには装甲そうこうてい搭載とうさいされている

神州しんしゅうまる最大さいだい特徴とくちょうとして先進せんしんてき上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい搭載とうさい・泛水方法ほうほうがある。その船体せんたいないひろ舟艇しゅうてい格納庫かくのうこもうけて大発だいはつとう多数たすう舟艇しゅうてい搭載とうさいし、船尾せんび主要しゅよう発進はっしんこうもうけられている。一見いっけんするとドックがた揚陸ようりくかん類似るいじするが、ドックがた揚陸ようりくかんがそののとおり船内せんないのドックに海水かいすいみちび舟艇しゅうていかびがらせて発進はっしんさせるウェルドック方式ほうしきなのにたいして、神州しんしゅうまるでは喫水線きっすいせんよりうえ位置いちする格納庫かくのうこから船尾せんびのスロープ(滑走かっそうだい)によって舟艇しゅうてい発進はっしんさせる泛水方式ほうしきであった。舟艇しゅうてい格納庫かくのうこないにはローラーを利用りようした軌道きどうかれ、天井てんじょう設置せっちされたトロリーワイヤーを利用りようして舟艇しゅうてい軌道きどうじょう移動いどうさせる。この軌道きどう船尾せんびまでびており、シーソーを経由けいゆして滑走かっそうだいに、そして大型おおがたハッチ(門扉もんぴ船尾せんび泛水とびら)をゆう並列へいれつ2箇所かしょの泛水こうつうじている。船尾せんび並列へいれつ2箇所かしょの泛水こうには曲線きょくせんえがけい4まいしき大型おおがたハッチがあり、揚陸ようりく作業さぎょうにはバラストタンクに注水ちゅうすい船尾せんび沈下ちんかさせるとともにこのハッチがひらき、スロープの後端こうたん海面かいめんせっするようになっている。これらの設備せつびによって滑走かっそうだい軌道きどううえ舟艇しゅうてい順次じゅんじ移動いどうし、連続れんぞくして泛水、だい部隊ぶたい揚陸ようりくさせること可能かのうとなった。船尾せんびハッチの構想こうそう自体じたい陸軍りくぐん原案げんあんからあるものだが、それを全通ぜんつうしき格納庫かくのうことしたのは海軍かいぐんによる設計せっけい変更へんこうである。同様どうよう設備せつびがあきつまる以下いか量産りょうさんがたかく特種とくしゅせんにも承継しょうけいされている。

この全通ぜんつう格納庫かくのうこ軌道きどう滑走かっそうだいわせは、のドックがた揚陸ようりくかん構造こうぞうてきおおきくことなるが、同様どうよう能力のうりょくゆうしていた。ただし、必然ひつぜんてき隔壁かくへきすくなくなる舟艇しゅうてい格納庫かくのうこ喫水線きっすいせん付近ふきん存在そんざいする構造こうぞうは、浸水しんすいたいして脆弱ぜいじゃくという弱点じゃくてんもあった。日本にっぽん以外いがいではイギリス海軍かいぐん類似るいじのスターンシュートがた揚陸ようりくかん(フェリー改装かいそう)のアイリス(プリンセス・アイリス)、ダフォディルを運用うんようしているが、やはり防御ぼうぎょりょくひくさが問題もんだいされて前線ぜんせん使用しよう制限せいげんされた。

神州しんしゅうまるでは船尾せんびのみならずりょう舷側げんそくにも大型おおがたハッチがもうけられており、舟艇しゅうていをホイストをもちいて泛水可能かのうである。この舷側げんそくハッチも海軍かいぐんによる設計せっけい変更へんこう追加ついかされたものである。その陸軍りくぐん特殊とくしゅせんにはこのような舷側げんそくハッチがもうけられなかった。

各種かくしゅ舟艇しゅうてい格納庫かくのうこだけでなく前部ぜんぶ中部ちゅうぶ後部こうぶすべての端艇たんてい甲板かんぱんじょうにも多数たすう搭載とうさい可能かのうであり、これらは一般いっぱん軍隊ぐんたい輸送ゆそうせんのようにデリックやダビットをもちい泛水する。装甲そうこうてい(ABてい)・高速艇こうそくていかぶと(HB-K)やカタパルトのげが可能かのうなようにデリックは強力きょうりょくなものであり(デリック強化きょうか海軍かいぐん設計せっけい変更へんこう大幅おおはば強化きょうかされたてんである)、しょうはつよう中部ちゅうぶじょう甲板かんぱんには各々おのおの専用せんようのダビットが用意よういされていた。

航空機こうくうき運用うんよう能力のうりょく

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船首せんしゅ付近ふきん外観がいかん航空機こうくうき発進はっしんこうのある船橋ふなばし下部かぶ格納庫かくのうこ前部ぜんぶ帆布ほぬのふさがれている。トラス構造こうぞう大型おおがたデリックが目立めだつが、この前部ぜんぶ甲板かんぱんにも各種かくしゅ舟艇しゅうてい搭載とうさい可能かのう

すぐれた舟艇しゅうてい運用うんよう能力のうりょくならぶもうひとつのおおきな特徴とくちょうとして、上陸じょうりく部隊ぶたい支援しえんよう航空機こうくうき運用うんよう能力のうりょくがある。2そう構造こうぞう上部じょうぶ構造こうぞうぶつない上段じょうだん航空機こうくうき格納庫かくのうこ秘匿ひとくめいうまらん甲板かんぱん」)をもうけ、最大さいだい12ほど戦闘せんとう偵察ていさつ偵察ていさつ爆撃ばくげき)を搭載とうさい使用しよう可能かのうであった。実際じっさいきゅう一式いっしき戦闘せんとう 6きゅうななしきけい爆撃ばくげき 6の12搭載とうさいしたことがあったという[45]離船りせんはつかん手順てじゅんは、大型おおがたデリックをもち前部ぜんぶ甲板かんぱん円形えんけい台座だいざ設置せっちした秘匿ひとくめい「KS」ことくれしきごう射出しゃしゅつさんがたあらため海軍かいぐんせい火薬かやくしきカタパルト)に、船橋ふなばしブリッジ下部かぶ格納庫かくのうこ開口かいこう用意よういした機体きたい射出しゃしゅつとなる。きゅうしき偵察ていさつきゅうよんしき偵察ていさつきゅうはちしき直接ちょくせつ協同きょうどう偵察ていさつ射出しゃしゅつ実験じっけんおこなったことがあった[45]

神州しんしゅうまる着船ちゃくせん設備せつびはなく、また使用しよう水上すいじょうではない陸上りくじょうであるため、機体きたい占領せんりょうしたてき飛行場ひこうじょう臨時りんじ造成ぞうせい飛行場ひこうじょう着陸ちゃくりく陸上りくじょう水上すいじょう不時着ふじちゃく不時ふじ着水ちゃくすいするか、操縦そうじゅうしゃじょう落下傘らっかさん降下こうかによって収容しゅうようされる[46]。これに類似るいじする運用うんよう能力のうりょく船舶せんぱくとしては、のちのだい世界せかい大戦たいせんとき輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえいのためイギリス海軍かいぐん実戦じっせん投入とうにゅうしたCAMシップ該当がいとうする。「神州しんしゅうまる」とおなじくカタパルトによって発船はっせんした戦闘せんとうは、てき迎撃げいげきした防空ぼうくう戦闘せんとうには陸上りくじょう飛行場ひこうじょうかうか、船団せんだん付近ふきん不時ふじ着水ちゃくすいないし落下傘らっかさん降下こうか操縦そうじゅうしゃ収容しゅうようされていた(このCAMシップおよびMACシップ一般いっぱん輸送ゆそうせん商船しょうせん)を臨時りんじ改装かいそうしたものであり、日本にっぽんの「神州しんしゅうまる以下いか特種とくしゅせんことなり揚陸ようりくかんではない)。

この航空機こうくうき運用うんよう能力のうりょく画期的かっきてきなものであったが、航空機こうくうき急速きゅうそく発達はったつにより建造けんぞうすうねん実質じっしつてき意味いみうしなってしまい、その運用うんようなんからも使用しようされることほとんどなかった[46]実戦じっせんでKSが使用しようされたのはにちちゅう戦争せんそうちゅうの1937ねん9がつ23にち白河しらかわくちから乗船じょうせんした独立どくりつ飛行ひこうだい4中隊ちゅうたい上海しゃんはいけて洋上ようじょう離船りせんしたれい唯一ゆいいつである[38]。しかしながら、神州しんしゅうまるはただの揚陸ようりくかんからいちすすんだ、総合そうごうてき上陸じょうりくせん遂行すいこう能力のうりょくった強襲きょうしゅう揚陸ようりくかん先駆せんくてき存在そんざいであった。のちのだい大戦たいせん建造けんぞうされる量産りょうさん特種とくしゅせんのうち、航空機こうくうき運用うんよう能力のうりょく改良かいりょう発展はってんさせたへいがたあきつまる(およびMへいがた熊野くまのまるひとし)は、全通ぜんつうしき飛行ひこう甲板かんぱんゆうとう本格ほんかくてき航空こうくう設備せつびもうけられたより先進せんしんてき揚陸ようりくかんとなっている。

実戦じっせん

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にちちゅう戦争せんそう

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1938ねん10がつバイアスわん上陸じょうりく作戦さくせんにおける神州しんしゅうまる
アメリカ海軍かいぐんによって秘密裏ひみつりかつ鮮明せんめい撮影さつえいされた神州しんしゅうまる特徴とくちょうてき三角さんかくがた形状けいじょう船橋ふなばし航空機こうくうき発進はっしんこうふさほろぬの舷側げんそくのハッチ、大型おおがたのデリック、多数たすうのダビット、偽装ぎそう大型おおがた煙突えんとつ目立めだ

1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつごろ舞鶴まいづる海軍かいぐん工廠こうしょうではだいよん艦隊かんたい事件じけん損傷そんしょうした駆逐くちくかん3せき初雪はつゆきゆうきりひびき)の修理しゅうり白露しらつゆがた駆逐くちくかん海風かいふう建造けんぞうわろうとしていた[47]まいしょう造船ぞうせん課長かちょう庭田にわた尚三しょうぞう造船ぞうせん大佐たいさであった[48]庭田にわた造船ぞうせん部員ぶいん時代じだい播磨はりま造船ぞうせんしょ派遣はけんされて臨時りんじ陸軍りくぐん運輸うんゆ部員ぶいんとなり、神州しんしゅうまる建造けんぞうふか関与かんよしていた[49]当時とうじ日本にっぽん陸軍りくぐん神州しんしゅうまるバルジ装着そうちゃくする意向いこうであったが、海軍かいぐん工廠こうしょう余裕よゆうがなかったこと・神州しんしゅうまる建造けんぞう監督かんとくした庭田にわた舞鶴まいづる造船ぞうせん課長かちょうをしていることから、神州しんしゅうまる工事こうじ舞鶴まいづる海軍かいぐん工廠こうしょう実施じっしすることになった[49]

同年どうねん7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけんはしはっしたささえ事変じへん全面ぜんめん衝突しょうとつへと発展はってんにちちゅう戦争せんそう[50]神州しんしゅうまる舞鶴まいづるでの改装かいそう工事こうじちゅう中断ちゅうだんし、もと状態じょうたい復旧ふっきゅうして急遽きゅうきょ出動しゅつどうすることになった[51]。この工事こうじまいしょう造船ぞうせん職工しょっこう多数たすう動員どういんしたので、建造けんぞうちゅうあさしおがた駆逐くちくかん進水しんすい予定よていよりいちヶ月かげつおくれることになった[52]一方いっぽう神州しんしゅうまるは7がつ17にち宇品うじな帰港きこう完成かんせい以降いこう、泛水作業さぎょうとう錬成れんせいはげんでいただい5師団しだん工兵こうへいだい5連隊れんたいだい3中隊ちゅうたいは、28にちないし29にち独立どくりつ部隊ぶたいたる独立どくりつ工兵こうへいだい6連隊れんたい連隊れんたいちょういわなかこう陸軍りくぐん工兵こうへい中佐ちゅうさ)に改編かいへんされ隷下れいかに3中隊ちゅうたいようし、「神州しんしゅうまる」にはこのだい1中隊ちゅうたい中隊ちゅうたいちょう鬼頭おにがしらすすむかた陸軍りくぐん工兵こうへい大尉たいい)が乗船じょうせん出撃しゅつげき準備じゅんびにあたった[53]

中国ちゅうごく派遣はけん動員どういん師団しだんのひとつたるだい10師団しだん揚陸ようりく一翼いちよくにな神州しんしゅうまる当時とうじ秘匿ひとくめい「MT」を使用しよう)は、8がつ9にちまでに大発だいはつ12せきしょうはつ26せき装甲そうこうてい4せき高速艇こうそくていかぶと4せき搭載とうさい準備じゅんびえ、よく10日とおかだい1船舶せんぱく輸送ゆそう司令しれいかん松田まつだまきひら陸軍りくぐん中将ちゅうじょう乗船じょうせん司令しれいかんていらの見送みおくりを宇品うじな出港しゅっこうした。 13にち神州しんしゅうまる以下いか4せきだい1上陸じょうりく船団せんだん上陸じょうりくさきであるふとしおき到着とうちゃく投錨とうびょう装甲そうこうてい高速艇こうそくていかぶと偵察ていさつのため先行せんこう出撃しゅつげきしている。14にちだい2上陸じょうりく船団せんだんかく輸送ゆそうせん到着とうちゃくをもって揚陸ようりく作業さぎょううつ神州しんしゅうまる舟艇しゅうてい迅速じんそくに泛水、同日どうじつ9ごろだい10師団しだんしょ部隊ぶたいふとし沽に上陸じょうりくした。同地どうちは7がつ30にち現地げんち陸軍りくぐん部隊ぶたいによって制圧せいあつずみであったこともあり問題もんだいなく上陸じょうりくえている。つづき15にちだい3上陸じょうりく船団せんだん揚陸ようりく作業さぎょうえた神州しんしゅうまる前日ぜんじつよる宇品うじな帰還きかん命令めいれいけていたため、20ふとし沽を出港しゅっこう帰路きろいた[54]

ふとし上陸じょうりく作戦さくせんにおいて神州しんしゅうまるはその威力いりょく発揮はっき活躍かつやく、その初陣ういじん成功せいこうわった。8月14にち当時とうじ台風たいふう接近せっきんちゅうのため2mもの波浪はろうかく船舶せんぱく舟艇しゅうていおそ悪条件あくじょうけんであったが、神州しんしゅうまる泛水作業さぎょうたいはたらきによりぜん舟艇しゅうていの泛水・収容しゅうよう完了かんりょうしている。以降いこうかわすな呉松くれまつ杭州こうしゅうわんしろ茆口しろわんとうおこなわれたかく上陸じょうりく作戦さくせん神州しんしゅうまる投入とうにゅうされるとともに、またその搭載とうさい能力のうりょくかし輸送ゆそう任務にんむにも参加さんか中国ちゅうごく戦線せんせんだい活躍かつやくした[54]ほん作戦さくせん当時とうじ陸軍りくぐん支援しえん中華民国ちゅうかみんこく空軍くうぐん対策たいさくのため投入とうにゅうされていた日本にっぽん海軍かいぐん空母くうぼは、だいいち航空こうくう戦隊せんたい空母くうぼりゅう空母くうぼおおとりしょうだい30駆逐くちくたい)とだい航空こうくう戦隊せんたい空母くうぼ加賀かがだい22駆逐くちくたい)であった[ちゅう 1]。 このにちちゅう戦争せんそう中国ちゅうごく沿岸えんがんにて投錨とうびょうちゅう神州しんしゅうまる特異とくい姿すがた注目ちゅうもくした現地げんちアメリカ海軍かいぐんは、秘密裏ひみつり至近しきん距離きょりから写真しゃしん撮影さつえいをおこなった(「日本にっぽん艦船かんせん識別しきべつひょう ONI41-42」収録しゅうろく[39]。またイギリス東洋とうよう艦隊かんたい駆逐くちくかん神州しんしゅうまる目撃もくげきして「けん埼型高速こうそく給油きゅうゆかんけん埼(さちおおとり高崎たかさき瑞鳳ずいほうではないか?」とおもったという[56]

つづいて神州しんしゅうまる1940ねん昭和しょうわ15ねん)9がつ以降いこうふつしるし進駐しんちゅう従事じゅうじした[57]陸上りくじょうからはだい師団しだんが、海上かいじょうからは西村にしむら琢磨たくま陸軍りくぐん少将しょうしょうひきいる近衛このえ師団しだん歩兵ほへいさん大隊だいたい歩兵ほへいだい35旅団りょだんがフランスりょうインドシナにむかった[58]神州しんしゅうまる/りゅう城丸しろまる陸軍りくぐん部隊ぶたい旗艦きかんで、これをだい二遣支艦隊司令しれい長官ちょうかん高須たかす四郎しろう海軍かいぐん中将ちゅうじょう旗艦きかん鳥海とりうみ麾下きかだいいち水雷すいらい戦隊せんたいだいさん水雷すいらい戦隊せんたいおよびだい航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん戸塚とつか道太郎みちたろう少将しょうしょう空母くうぼりゅう空母くうぼあおいりゅう[ちゅう 2]だい11駆逐くちくたい吹雪ふぶきはくゆき初雪はつゆき〉)が護衛ごえいした[58][59]西村にしむら少将しょうしょう神州しんしゅうまる乗船じょうせんし、だいさん水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん藤田ふじたるい太郎たろう少将しょうしょう旗艦きかん川内せんだい」)が神州しんしゅうまる船団せんだん護衛ごえいした[ちゅう 3]。サイゴンにはけい巡洋艦じゅんようかんラモット・ピケ旗艦きかんとするフランス極東きょくとう艦隊かんたいがおり、日本にっぽんがわ警戒けいかいする必要ひつようがあった[60]

神州しんしゅうまる以下いか陸軍りくぐん輸送ゆそう船団せんだん海南かいなんとううみこうよりベトナム北部ほくぶハイフォンかい、海軍かいぐん海南かいなんとうさん航空こうくう基地きち拠点きょてん哨戒しょうかい任務にんむ警戒けいかい従事じゅうじした[60][61]。9月23にちにハイフォン沖合おきあい到達とうたつすると、フランスがわから上陸じょうりく延期えんきするようもうれがあったが、日本にっぽん陸軍りくぐん上陸じょうりく強行きょうこう意向いこうであった[58]。9月24にち子日ねのひはハイフォンを脱出だっしゅつし、三水さんずいせん合流ごうりゅうした[62]藤田ふじた少将しょうしょう上陸じょうりく掩護えんごのためかんほう射撃しゃげきおこな予定よていだったが、高須たかす長官ちょうかん旗艦きかん鳥海とりうみ」)は日本にっぽん陸軍りくぐん姿勢しせい反発はんぱつして「陸軍りくぐん協力きょうりょくするな」とめいじる[62]。9月26にち日本にっぽん陸軍りくぐんはハイフォンに上陸じょうりく完了かんりょうした[63]三水さんずいせん陸軍りくぐん船団せんだん護衛ごえいをやめてさき帰投きとうしたので、後日ごじつ「ハイフォンおき船団せんだん事件じけん」とばれた[62]

太平洋戦争たいへいようせんそう

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マレー作戦さくせん

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にちちゅう戦争せんそう活躍かつやくした神州しんしゅうまるは、当然とうぜん1941ねんまつ開戦かいせん予定よてい太平洋戦争たいへいようせんそう南方みなかた作戦さくせん)にも投入とうにゅうされることとなった。12月8にち太平洋戦争たいへいようせんそう作戦さくせんだい1ごうであるマレー作戦さくせんタイりょうシンゴラへのだい25ぐんぐん司令しれいかん山下やました奉文ともゆき陸軍りくぐん中将ちゅうじょうぐん参謀さんぼうちょう鈴木すずきはじめさく陸軍りくぐん中将ちゅうじょう[64]司令しれい上陸じょうりくたずさわった[65]ほん作戦さくせんにおいて神州しんしゅうまるは「りゅう城丸しろまる」の秘匿ひとく名称めいしょうばれており、山下やました奉文ともゆきだいじゅうぐん司令しれいかん作戦さくせん主任しゅにん参謀さんぼう要員よういんつじ政信まさのぶ陸軍りくぐん中佐ちゅうさ乗船じょうせんしていた[66]つじ中佐ちゅうさ大本営だいほんえい陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん戦力せんりょく班長はんちょうだったが、マレー作戦さくせんにあたりだいじゅうぐん作戦さくせん主任しゅにん参謀さんぼう要員よういん任命にんめいされていた[67]

マレまれ半島はんとう上陸じょうりくする陸軍りくぐん輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえいしていたのは、うまらい部隊ぶたい指揮しきかん小沢おざわおさむ三郎さぶろうみなみ艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん旗艦きかん鳥海とりうみ」)麾下きかだいさん水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん橋本はしもと信太郎しんたろう少将しょうしょうけいじゅん川内かわうちだい11駆逐くちくたいだい12駆逐くちくたいだい19駆逐くちくたいだい20駆逐くちくたい[68]練習れんしゅう巡洋艦じゅんようかん香椎かしい海防かいぼうかんうらないもり[69]だいなな戦隊せんたい熊野くまの鈴谷すずやさんくま最上さいじょう)などであった[70][71]

らんしるし作戦さくせん

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上陸じょうりく地点ちてん4箇所かしょ。メラク(地図ちず左端ひだりはし、あきつまる以下いか船団せんだん)とバンタム(メラクの東部とうぶ神州しんしゅうまる以下いか船団せんだん)にだい2師団しだん主力しゅりょく上陸じょうりくする

よく1942ねん昭和しょうわ17ねん)には太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん意義いぎである南方みなかた資源しげん地帯ちたい確保かくほのため、1がつ11にちよりはじめられたらんしるし作戦さくせん動員どういんされる。らんしるし作戦さくせんでは「そらかみへい」ことだい1挺進ていしんだん活躍かつやくによって、さい重要じゅうよう戦略せんりゃくてき攻略こうりゃく目標もくひょうであるパレンバンだい油田ゆでんを2がつ14にち制圧せいあつしていたが(パレンバン空挺くうてい作戦さくせん)、首都しゅとバタビアジャカルタ)やバンドン要塞ようさいようオランダぐん主力しゅりょくイギリスぐんオーストラリアぐんアメリカぐんABDA連合れんごうぐん将兵しょうへいやく8まんきょう守備しゅびするジャワ島じゃわとう制圧せいあつ最終さいしゅう目標もくひょうとなっていた。このジャワ上陸じょうりく作戦さくせんには神州しんしゅうまる当時とうじ秘匿ひとくめいりゅう城丸しろまる使用しよう)のみならず、竣工しゅんこうあいだもないあきつまるへいがた特種とくしゅせん神州しんしゅうまる特種とくしゅせんだい2ごう)も投入とうにゅうされ、だい16ぐん司令しれいかん今村いまむらひとし陸軍りくぐん中将ちゅうじょう参謀さんぼうちょう岡崎おかざき清三郎せいさぶろう少将しょうしょう。1941ねん11月15にち新編しんぺん[72]司令しれい座乗ざじょうする神州しんしゅうまる以下いかはバンタム、あきつまる以下いかはメラクへの上陸じょうりく参加さんかすることとなった[73]

なお西方せいほう攻略こうりゃく部隊ぶたい護衛ごえいにんじられただい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかんはらあらわさんろう少将しょうしょうは「現在げんざいけいじゅん名取なとり駆逐くちくかん16せきという戦力せんりょくでは護衛ごえい完遂かんすいできない」と、今村いまむら中将ちゅうじょう不安ふあんうったえた[74]今村いまむら南方なんぽうぐんそう司令しれいかん寺内てらうち寿一ひさいち陸軍りくぐん大将たいしょう)に岡崎おかざき参謀さんぼうちょう作戦さくせん主任しゅにん参謀さんぼう派遣はけんして護衛ごえい戦力せんりょくやしてくれるよう要請ようせいしたが、返事へんじはもらえなかった[75]。そこで今村いまむら自身じしん寺内てらうちそう司令しれいかん直談判じかだんぱんしようとしたが、そのまえうまらい部隊ぶたい指揮しきかん小沢おざわおさむ三郎さぶろう海軍かいぐん中将ちゅうじょうだいいちみなみ艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)に相談そうだんしたところ、うまらい部隊ぶたいから艦艇かんていだい水雷すいらい戦隊せんたい増強ぞうきょうすると約束やくそくした[76]うまらい部隊ぶたいから増強ぞうきょうされた部隊ぶたいなかには、だいさん水雷すいらい戦隊せんたい[77]けいじゅん由良ゆらだいなな戦隊せんたい司令しれいかん栗田くりた健男たけお少将しょうしょう指揮しきする最上さいじょうがたじゅう巡洋艦じゅんようかん4せき熊野くまの鈴谷すずやさんくま最上さいじょう)の姿すがたもあった[78][ちゅう 4]

2がつ18にちあさ10西部せいぶジャワ島じゃわとう上陸じょうりく部隊ぶたいたる神州しんしゅうまる・あきつまるとう総計そうけい56せき大船おおぶねだん編成へんせいしてふつしるしカムランわん出港しゅっこうだい水雷すいらい戦隊せんたい[ちゅう 5]由良ゆら護衛ごえい南進なんしんした[6][81][ちゅう 6]日本にっぽんぐん上陸じょうりく阻止そしすべく出撃しゅつげきしたABDA連合れんごうぐん艦隊かんたい行動こうどうによりボルネオとう西方せいほうかいぎゃくこうすることになり、がつ末日まつじつジャワ島じゃわとう上陸じょうりく予定よてい不可能ふかのうとなった[83]。 2月27にち哨戒しょうかいちゅう陸上りくじょう攻撃こうげきがバタビアを出撃しゅつげきしてきた連合れんごう国軍こくぐん西方せいほう攻撃こうげきたい[84]豪州ごうしゅうけいじゅんホバートえいけいじゅんダナエ―英語えいごばんドラゴン英語えいごばんえい駆逐くちくかんスカウト、テネドス)を発見はっけんし、日本にっぽんぐん輸送ゆそう船団せんだん緊迫きんぱくした[85]だいなな戦隊せんたい司令しれいかん栗田くりた健男たけお少将しょうしょう海兵かいへい38)とだいさん護衛ごえい部隊ぶたい指揮しきかんだい五水雷戦隊司令官原少将、海兵かいへい37)のあいだ意見いけん錯綜さくそうし、みかねた連合れんごう艦隊かんたいは「バタビヤ方面ほうめん敵情てきじょうかんだいなな戦隊せんたい司令しれいかん当該とうがい方面ほうめんしょ部隊ぶたい統一とういつ指揮しきスルヲ適当てきとうみとめム」と指示しじした[86]連合れんごう国軍こくぐん西方せいほう攻撃こうげき部隊ぶたい日本にっぽんぐん輸送ゆそう船団せんだん北方ほっぽうへ避退したためせってきできず、バタビアで燃料ねんりょう補給ほきゅうをおこなったあと、インド洋いんどよう方面ほうめん脱出だっしゅつした[87]

どう27にち、ジャワとうスラバヤにむかっていた東方とうほう攻略こうりゃく部隊ぶたいおよび護衛ごえい部隊ぶたいだい戦隊せんたいだい水雷すいらい戦隊せんたいだいよん水雷すいらい戦隊せんたいだいさん艦隊かんたい)は、カレル・ドールマン提督ていとく指揮しきのABDA艦隊かんたい交戦こうせんする[87]スラバヤおき海戦かいせん[88]結果けっかてき日本にっぽんぐん敵艦てきかん多数たすう撃沈げきちん勝利しょうりするものの、長時間ちょうじかん戦闘せんとうにもかかわらずてき艦隊かんたい全滅ぜんめつさせること出来できず、これがのちのジャワ上陸じょうりく問題もんだいとなってしまった[89]

ジャワ島じゃわとう上陸じょうりくする日本にっぽんぐん

イギリス巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたいはバタビア方面ほうめんかって撤退てったいし(前述ぜんじゅつ)、由良ゆらとう西部せいぶジャワ攻略こうりゃく部隊ぶたい東方とうほう警戒けいかいした[90]2がつ28にちよる西部せいぶジャワ攻略こうりゃく部隊ぶたいはバンタムわん到着とうちゃくし、駆逐くちくかんがオランダ政庁せいちょう小型こがた艦艇かんてい掃討そうとうした[91]だいなな戦隊せんたいだい1小隊しょうたい熊野くまの鈴谷すずや)はバタビア方面ほうめんにむかった[92]西部せいぶジャワ攻略こうりゃく部隊ぶたい神州しんしゅうまるりゅう城丸しろまる以下いかバンタムわん上陸じょうりく部隊ぶたいと、あきつまるなどメラクわん上陸じょうりく部隊ぶたいにわかれた[93]3月1にち午前ごぜん0、バンタムわん上陸じょうりく部隊ぶたい投錨とうびょうし、揚陸ようりく作業さぎょう開始かいしした[94]。030ごろには赤色あかいろ信号しんごうだんそらがり、だい1上陸じょうりく部隊ぶたいジャワ島じゃわとう無血むけつ上陸じょうりくした。しかし、スラバヤおき海戦かいせんのがしたアメリカ海軍かいぐんじゅう巡洋艦じゅんようかんヒューストンおよびオーストラリア海軍かいぐんけい巡洋艦じゅんようかんパースがこれら上陸じょうりく船団せんだん発見はっけん泊地はくち侵入しんにゅうしてきた[95]どう1にち09ふん、バビとう東方とうほうにおいて哨戒しょうかいちゅう駆逐くちくかん吹雪ふぶきだいさん水雷すいらい戦隊せんたいだい11駆逐くちくたい)がヒューストンとパースを発見はっけんし、追跡ついせき開始かいしした[96]。037ふん、ヒューストンとパースは砲撃ほうげき開始かいしした[97]吹雪ふぶきは044ふん雷撃らいげき敢行かんこうした[98]。これをきっかけにバタビアおき海戦かいせん発生はっせいした。上陸じょうりく船団せんだん護衛ごえいにあたっていたけいじゅん名取なとり旗艦きかんとするだい3護衛ごえいたい指揮しきかんはらあらわさんろうだい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん指揮しき駆逐くちくたい敷設ふせつかん白鷹しらたか戦闘せんとう加入かにゅうし、ヒューストンおよびパースと交戦こうせんした[99]。また北方ほっぽう哨戒しょうかいちゅうだったさんくま艦長かんちょう指揮しきの3せきじゅうじゅんさんくまじゅうじゅん最上さいじょう駆逐くちくかん敷波しきなみ)も参戦さんせんした[100]。0120、さんくま艦長かんちょうは「ワレこんヨリてきノトドメヲサス」と宣言せんげんして砲火ほうかびせた[101]最上さいじょうは127ふん酸素さんそ魚雷ぎょらい発射はっしゃした[102]。パースは147ふんに、ヒューストンは26ふんにそれぞれ沈没ちんぼつし、日本にっぽんぐんどう海戦かいせん勝利しょうりした[103]

しかし戦闘せんとうちゅうの135ふん、バンタムわん上陸じょうりく船団せんだんちょく掩であるだいごう掃海そうかいてい突如とつじょ轟沈ごうちんした。138ふんには輸送ゆそうせん佐倉さくらまる神州しんしゅうまるとともにぐん司令しれい指定していせん)、つづいて病院びょういんせん蓬莱ほうらいまる、そして神州しんしゅうまる/りゅう城丸しろまる魚雷ぎょらいけて大破たいはした[ちゅう 7]当時とうじ神州しんしゅうまるではだい16ぐん司令しれい要員よういん上陸じょうりくのため前部ぜんぶ甲板かんぱんにて舟艇しゅうてい移乗いじょうちゅうであったが、右舷うげん中央ちゅうおうかみなり急速きゅうそくやく45傾斜けいしゃした。今村いまむら陸軍りくぐん中将ちゅうじょう以下いか将兵しょうへいは、重油じゅうゆ流出りゅうしゅつしたうみ転落てんらくした[104]やく3あいだ[105]に泛水作業さぎょうたいらによって救助きゅうじょされた。遠距離えんきょりよう無線むせん暗号あんごうしょうみぼっしてしまった[106]。この椿事ちんじにより、ジャワ島じゃわとう中部ちゅうぶバトロールおよび東部とうぶクラガンに上陸じょうりくした別働隊べつどうたいとの直接ちょくせつ通信つうしんが(無線むせんが3月5にち空輸くうゆされるまで)不能ふのうとなってしまった[107]。しかしながらだい2師団しだん筆頭ひっとうかく上陸じょうりく部隊ぶたいかい進撃しんげきつづけ、5にちには首都しゅとバタビアを占領せんりょうし、7にちには要衝ようしょうバンドンに進出しんしゅつした[108]。これによりバンドン地区ちく防衛ぼうえい兵団へいだん降伏ごうぶくした。8にちよりらんしるし総督そうとくとのあいだ降伏ごうぶく交渉こうしょうおこなわれ、よく9にち無条件むじょうけん降伏ごうぶく確定かくていする[109]今村いまむら陸軍りくぐん中将ちゅうじょう以下いかだい16ぐんは3がつ10日とおか陸軍りくぐん記念きねんにバンドン入城にゅうじょうをはたし、らんしるし作戦さくせん日本にっぽんぐん完勝かんしょうわった[110]

バンタムの西部せいぶ位置いちするメラクへの上陸じょうりく部隊ぶたいであるあきつまる以下いかは、てき艦隊かんたいとの遭遇そうぐうだい2師団しだん無事ぶじ上陸じょうりくさせ[111]帰路きろいている[8]

じゅうじゅん最上さいじょうあやま
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あやまにより神州しんしゅうまる以下いか複数ふくすう友軍ゆうぐんせん撃沈げきちんしてしまったじゅうじゅん最上さいじょう写真しゃしんけいじゅん時代じだい

戦闘せんとう調査ちょうさによって、神州しんしゅうまる以下いか直撃ちょくげきした魚雷ぎょらい日本にっぽん海軍かいぐんきゅうさんしき魚雷ぎょらい酸素さんそ魚雷ぎょらい)であること判明はんめいした。これは3がつ1にち127ふん最上さいじょうがヒューストンにたいはなったはず複数ふくすうほん魚雷ぎょらいが、せん延長線えんちょうせんじょう神州しんしゅうまる以下いか船団せんだん命中めいちゅうしてしまった同士討どうしうあやま)であった[112][ちゅう 8]神州しんしゅうまる優秀ゆうしゅう上陸じょうりくせん遂行すいこう能力のうりょくのみならず旗艦きかんてき司令しれい機能きのうゆうする日本にっぽんぐんにとってとらてき存在そんざいであり、それを輸送ゆそうせん2せき病院びょういんせん1せき掃海そうかいてい1せきとともに「撃沈げきちん」してしまった海軍かいぐん失態しったいおおきなものであった(佐倉さくらまるだいごう掃海そうかいてい沈没ちんぼつ神州しんしゅうまる蓬莱ほうらいまる龍野たつのまる大破たいはそこ)。かつ、神州しんしゅうまる沈没ちんぼつによって座乗ざじょうしていた司令しれいかん以下いかだい16ぐん司令しれい上陸じょうりくまえにあわや全滅ぜんめつという危機ききおちいり、なか東部とうぶ上陸じょうりく部隊ぶたい直接ちょくせつ指揮しき必要ひつよう遠距離えんきょりよう無線むせん喪失そうしつしている。バンタムわん浅瀬あさせ泊地はくちであるためふね完全かんぜん沈下ちんかせずにていし、かみなりだい1上陸じょうりく部隊ぶたい揚陸ようりくで、当日とうじつ月齢げつれい13と非常ひじょうあかるいよるであったため人的じんてき被害ひがい最小限さいしょうげんめられたが、それでもやく100めい死亡しぼうした。 なお『戦史せんし叢書そうしょだい26かんらんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん』では「最上さいじょう」のあやまとしているが、当時とうじ初雪はつゆき砲術ほうじゅつちょうだい11駆逐くちくたい初雪はつゆきはくゆき吹雪ふぶき)が発射はっしゃした魚雷ぎょらいだった可能かのうせい指摘してきしている[115]当時とうじ春風しゅんぷう駆逐くちく艦長かんちょうは、だい5駆逐くちくたい朝風あさかぜはたふう春風しゅんぷう[ちゅう 9]かん発射はっしゃした魚雷ぎょらい命中めいちゅうしなかったか、味方みかた輸送ゆそう船団せんだん方向ほうこうながれていったと回想かいそうしている[116]だい水雷すいらい戦隊せんたい消費しょうひだんすうは、名取なとり主砲しゅほう29はつ魚雷ぎょらい4ほん)、だい5駆逐くちくたい主砲しゅほう16はつ魚雷ぎょらい17ほん)、だい12駆逐くちくたい主砲しゅほう37はつ魚雷ぎょらい18ほん)、だい11駆逐くちくたい主砲しゅほう116はつ魚雷ぎょらい4ほん)と記録きろくされている[112]

帝国ていこく陸軍りくぐんはバタビアおき海戦かいせんにおけるあやま事件じけん不問ふもんしょし、帝国ていこく海軍かいぐん名誉めいよきずをつけぬよう神州しんしゅうまる以下いか沈没ちんぼつてきぐん攻撃こうげきによるものにすることを提案ていあん、かつ責任せきにん追及ついきゅうおこなっていない。「人情にんじょう将軍しょうぐん」とうたわれた人格じんかくしゃたる名将めいしょう今村いまむら陸軍りくぐん中将ちゅうじょうも、後日ごじつ司令しれいそろって謝罪しゃざいまいった海軍かいぐん関係かんけいしゃこころよゆるしている[117]戦後せんご今村いまむら中将ちゅうじょうは「2せき高速こうそく魚雷ぎょらいていにやられた」と回想かいそうしている[118]。また『提督ていとく小沢おざわおさむ三郎さぶろうでん』には今村いまむら感謝かんしゃべられているが[78]、この「だいじゅんせき」がさんくま最上さいじょうである[119]

 この提督ていとくは、万一まんいちにも連合れんごう艦隊かんたい不承認ふしょうにんがあったらいけないとおもってか、まったくの独断どくだんによりこのおおきな兵力へいりょく転用てんよう断行だんこうしようとしている。
 みぎ艦艇かんてい増加ぞうかによりわたしぐん輸送ゆそう船団せんだんがつじゅうはちにちカムランわん出航しゅっこうし、巡洋艦じゅんようかんいちせき駆逐くちくかんさんじゅうせき[ちゅう 10]護衛ごえいされ、赤道せきどうみなみみなみへとすすんだ。
 小沢おざわ長官ちょうかんはそれでもなおなおわたしぐんうえあんじ、さらだいじゅんせき増派ぞうはしてくれた。
 バタビヤにちかいバンタムわん付近ふきん海戦かいせんで、わが駆逐くちくかんてき巡洋艦じゅんようかんせき交戦こうせんしている最中さいちゅう突如とつじょわがだいじゅんせき[ちゅう 11]がかけつけ、べい巡洋艦じゅんようかんヒューストン(いちまんトンきゅう)とごう巡洋艦じゅんようかんパースごうななせんトンきゅう)と交戦こうせん見事みごと撃沈げきちんした。このため輸送ゆそう船団せんだんわずよんせき沈没ちんぼつひゃくめい戦死せんししただけで上陸じょうりく作戦さくせん成功せいこうした。
 もし小沢おざわ長官ちょうかん独断どくだん専行せんこう協力きょうりょくがなかったとしたら、どんなおおきな犠牲ぎせいしょうじたか、また上陸じょうりくそのものが可能かのうだったかどうかもわからなかっただろう。
 だいじゅうろくぐん主力しゅりょく方面ほうめん上陸じょうりく作戦さくせん成功せいこうは、まった小沢おざわ長官ちょうかんたまものたまものものだったので、わたしいまにそのとき感激かんげきわすれないでいる。

— 生出おいで寿ひさし智将ちしょう 小沢おざわおさむ三郎さぶろう』68ページ、『提督ていとく小沢おざわおさむ三郎さぶろうでん掲載けいさい今村いまむらひとし回想かいそうより引用いんよう

だいじゅうろくぐん参謀さんぼうちょう岡崎おかざき清三郎せいさぶろう陸軍りくぐん少将しょうしょうと、最上もがみ艦長かんちょう曾爾そにあきら大佐たいさは、おな中学校ちゅうがっこう先輩せんぱい後輩こうはいという関係かんけいであった[120]最上さいじょう艦長かんちょうによれば、太平洋戦争たいへいようせんそう岡崎おかざき曾爾そにに「船上せんじょうからまたとないめずらしい海戦かいせん見物けんぶつさせてもらった」とわらったという[121]曾爾そに自身じしんは、ジャワ方面ほうめん行動こうどうもっと残念ざんねんだったのは(バタビアおき海戦かいせんあやましゃではなく)知床しれとこがた給油きゅうゆかん鶴見つるみ補給ほきゅう任務にんむ潜水せんすいかんK-15)によって撃沈げきちんされ多数たすう戦死せんししゃしたこと……と回想かいそうしている[ちゅう 12]

のちの陸軍りくぐんによる神州しんしゅうまるサルベージ作業さぎょうちゅう、「きゅうさんしき」の刻印こくいんがあるきゅうさんしき魚雷ぎょらい破片はへん船倉ふなぐらヘドロうちより発見はっけんされたがこれはバンタムわん投棄とうきされ証拠しょうこ隠滅いんめつ[122]陸軍りくぐんしょう企画きかくした対外たいがいよう公刊こうかん戦史せんしだい東亜とうあ戦史せんし ジャワ作戦さくせん』(1942ねん11月)では、連合れんごうぐん駆逐くちくかんばくげき攻撃こうげきによって神州しんしゅうまる以下いか沈没ちんぼつしたことになっている。

以下いか上陸じょうりくの3がつ1にち1550ふんおよび54ふんに、海軍かいぐんたいしてだい16ぐん司令しれいかん今村いまむらひとし陸軍りくぐん中将ちゅうじょうだい1揚陸ようりくだんなが伊藤いとうしのぶ陸軍りくぐん少将しょうしょうおくった謝辞しゃじである[123]

がつじゅうはちにちよる戦隊せんたい海戦かいせん赫々かくかくタル戦果せんか慶祝けいしゅくシ併セテとうぐん主力しゅりょく戦闘せんとうたいスル献身けんしんてきいち不明ふめい協力きょうりょく深謝しんしゃ

— 今村いまむらだい16ぐん司令しれいかんだい5水雷すいらい戦隊せんたいだい7戦隊せんたい司令しれいかんたいし)

いち非常ひじょうナル苦心くしん尽力じんりょく深謝しんしゃ損傷そんしょう輸送ゆそう船団せんだんほうだんそと高速こうそく魚雷ぎょらいてい攻撃こうげきルモノノ如シ(後略こうりゃく

— 伊藤いとうだい1揚陸ようりく団長だんちょうだい3護衛ごえいたい指揮しきかんたいし、救助きゅうじょ作業さぎょうよう使用しようしていた熱田あつたまる[8]より名取なとり発信はっしん
サルベージ・修理しゅうり
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3月4にちだい傾斜けいしゃそこした神州しんしゅうまるをサルベージし、修理しゅうりうえふたた軍務ぐんむかせるむね命令めいれいねつ田丸たまる避難ひなんちゅう乗員じょういんたいだい1揚陸ようりく団長だんちょうよりはっせられた。やく1ヵ月かげつシンガポールから日本にっぽんサルヴェージ株式会社かぶしきがいしゃ静波しずなみまる到着とうちゃく調査ちょうさにあたったが、ふね能力のうりょくでは浮上ふじょう不可ふか判断はんだん宇品うじな船舶せんぱく司令しれいにおいて協議きょうぎがなされ、技師ぎし作業さぎょういん潜水せんすい多数たすうせた日本郵船にっぽんゆうせん大隅おおすみまる派遣はけん決定けっていし5がつ下旬げじゅんおくられた[124]神州しんしゅうまる魚雷ぎょらいによって右舷うげん中央ちゅうおうちゅう甲板かんぱん2m下部かぶ位置いち縦横じゅうおうすうmのやぶくちひらき、水中すいちゅう聴音ちょうおん聴音ちょうおんぼうち、舟艇しゅうてい泛水よう舷側げんそくハッチも破損はそん全体ぜんたい被害ひがい状況じょうきょうみぎ傾斜けいしゃやく45機関きかんしつ完全かんぜん水没すいぼつちゅう甲板かんぱんやく70%水没すいぼつうえ甲板かんぱんやく50%水没すいぼつであった。しかしさいわいにも発電はつでんしつ水没すいぼつしておらず、ぼうかみなり隔壁かくへきだい1そうこそやぶられていたがだい2そう浸水しんすいめられていた[43]

サルベージはまず右舷うげん船底ふなそこのヘドロを除去じょきょやぶくち木材もくざいにて密封みっぷう、これは8がつ中旬ちゅうじゅんまでに完了かんりょう。9月には船内せんない排水はいすい作業さぎょうおこないつつ傾斜けいしゃ復元ふくげんさせ23にち船体せんたい浮上ふじょう船内せんない洗浄せんじょう消毒しょうどく整備せいびて12月13にち総合そうごう運転うんてん試験しけんをパスした。やぶくちはあくまで応急おうきゅう修理しゅうりであるため日本にっぽん本土ほんどへの回航かいこう不安ふあんされたため、12月25にちにシンガポールの海軍かいぐんのドック(セレタードック)に移送いそうやく2ヶ月かげつ入渠にゅうきょ1943ねん昭和しょうわ18ねん)4がつ30にちまで各部かくぶ補強ほきょうけた。なお、当時とうじセレタードックは海軍かいぐん艦艇かんてい修理しゅうり手一杯ていっぱいであったが、海軍かいぐんしずめられた神州しんしゅうまるは(入渠にゅうきょやく2ヶ月かげつようしているものの)優先ゆうせんして修理しゅうりされることになっていた[122]

5月1にち、「お色直いろなおし」がされみぞした神州しんしゅうまるなまゴム1,000tぶん資源しげん本土ほんど帰還きかんしゃせた。6にち神州しんしゅうまるりゅうじょう)はみねふうがた駆逐くちくかん汐風しおかぜ護衛ごえいされてシンガポールを出港しゅっこうする[125]。12にち台湾たいわんうまこう寄港きこうする[126]佐々木ささき船長せんちょう機転きてん土産みやげとしてバナナ大量たいりょうんだ。14にちうまこう出発しゅっぱつ[127]。まもなく九州きゅうしゅう門司もじ到着とうちゃくした[128]似島にのしま検疫けんえきしょて18にち宇品うじな帰還きかんしたが、7がつ中旬ちゅうじゅんから10がつごろにかけて播磨はりま造船ぞうせんしょ入渠にゅうきょ修繕しゅうぜん工事こうじおこなわれている[122]

輸送ゆそう揚陸ようりく作戦さくせん

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1943ねん11月、完全かんぜん復帰ふっきした神州しんしゅうまるはその搭載とうさい能力のうりょくかし数々かずかず輸送ゆそう任務にんむ投入とうにゅうされ、1944ねん昭和しょうわ19ねん)5がつまでにパラオ高雄たかお・シンガポール・釜山ぷさんひとしかく方面ほうめんめぐっている。

ヒ57船団せんだん
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1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ上旬じょうじゅん神州しんしゅうまるヒ57船団せんだん船団せんだん)に加入かにゅうした[129]神州しんしゅうまるふく加入かにゅう船舶せんぱく9せきを、大鷹おおたかがた航空こうくう母艦ぼかんうみたか[ちゅう 13]海防かいぼうかん択捉えとろふ壱岐いきうらないもりだい8ごうだい9ごう護衛ごえいした[131]旗艦きかん択捉えとろふで、うみたかだいきゅうさんいち海軍かいぐん航空こうくうたいきゅうななしき艦上かんじょう攻撃こうげき 12搭載とうさいしていた[132]。4月1にち、ヒ57船団せんだん部隊ぶたい門司もじ出撃しゅつげき、16にちシンガポールに到着とうちゃくした[133]帰路きろヒ58船団せんだん部隊ぶたいとなり[132]神州しんしゅうまるふく加入かにゅう船舶せんぱく7せきを、うみたかおよび海防かいぼうかん択捉えとろふ壱岐いきうらないもりだい9ごう)が護衛ごえいした[134]。4月21にち、ヒ58船団せんだん部隊ぶたいはシンガポールを出発しゅっぱつする[135]。4月24にち、サイゴン沖合おきあい潜水せんすいかんロバロ―航行こうこうしており、どう海域かいいきにヒ58船団せんだん部隊ぶたい接近せっきんしていた[136][ちゅう 14]うみたかより発進はっしんしたきゅうななかんおさむはロバロ―を爆撃ばくげきし、同艦どうかん損傷そんしょうした[138]。5月3にち、ヒ58船団せんだん部隊ぶたい門司もじ到着とうちゃくした[135]

ヒ65船団せんだん
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1944ねん昭和しょうわ19ねん)5がつ下旬げじゅん神州しんしゅうまるだいなな護衛ごえい船団せんだん司令しれいかん松山まつやま光治こうじ少将しょうしょう指揮しきかんとするヒ65船団せんだん加入かにゅうした[139]神州しんしゅうまるをふくむ加入かにゅう船舶せんぱく12せきを、練習れんしゅう巡洋艦じゅんようかん香椎かしいけい空母くうぼうみたかなどが護衛ごえいした[140]松山まつやま少将しょうしょう香椎かしい旗艦きかんとした[141][142][ちゅう 15]。 5月29にち、ヒ65船団せんだん部隊ぶたい北九州きたきゅうしゅう門司もじ出発しゅっぱつする[145]。シンガポールを目指めざしてバシー海峡かいきょう南下なんかちゅうの6がつ2にち護衛ごえい海防かいぼうかん淡路あわじがアメリカ潜水せんすいかんギターロにより撃沈げきちんされた[146][147]当時とうじあめ視界しかい不良ふりょう船団せんだんたん縦陣じゅうじん側面そくめん海防かいぼうかん護衛ごえいしていたという[148]。つづいて魚雷ぎょらい攻撃こうげき回避かいひしようとした輸送ゆそうせん有馬ありまさんまる三井商船みついしょうせん、8,967そうトン)が神州しんしゅうまる船尾せんび衝突しょうとつする[ちゅう 16]有馬ありまさんまるには魚雷ぎょらい命中めいちゅうしていたが、はやばく不発ふはつのため小破しょうはであった[149]一方いっぽう神州しんしゅうまるではたいせんよう搭載とうさいしていた爆雷ばくらい誘爆ゆうばくし、航行こうこう不能ふのうになった[150]積荷つみにカーバイト引火いんかしたという回想かいそうもある[151]やく200めい死亡しぼうした。 神州しんしゅうまる香椎かしい曳航えいこうされ[152]海防かいぼうかん千振せんぶり19ごう[ちゅう 17]護衛ごえいされてもとたかしにむかった[151][ちゅう 18]台湾たいわん到着とうちゃく香椎かしいひとしはヒ65船団せんだんもどっていった[146]だいいち海上かいじょう護衛ごえいたいは、ミ05船団せんだんたいし「もとたかし寄港きこうし、神州しんしゅうまる乗船じょうせんちゅうりくへいかくふね移乗いじょうせよ」とめいじた[155][ちゅう 19]神州しんしゅうまる同地どうちで7がつまつまで修理しゅうりけ、8がつ宇品うじな帰還きかんは、11月まで釜山ぷさんへの輸送ゆそう任務にんむ幾度いくどおこなっている。

これ以降いこうフィリピン輸送ゆそう作戦さくせんは、揚陸ようりくかんとして建造けんぞうされた神州しんしゅうまる以下いか特種とくしゅせんたち揚陸ようりく能力のうりょく最大限さいだいげんかす最後さいご作戦さくせんとなった[158]

ヒ81船団せんだん
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へいがた特種とくしゅせんあきつまるたいせん哨戒しょうかい運用うんよう可能かのう揚陸ようりくかんけん護衛ごえい空母くうぼへの改装かいそう撮影さつえい

11月、フィリピン防衛ぼうえいせんのため精鋭せいえいだい23師団しだん緊急きんきゅう輸送ゆそうする任務にんむ[159]神州しんしゅうまる・あきつまるへいがた)・摩耶山まやさんまるかぶとがた)・吉備きび津丸つまるかぶとがた)の特種とくしゅせんあたえられた[160]日本にっぽんぐんルソンしまマニラ神州しんしゅうまる以下いか特種とくしゅせんだんと、本来ほんらいのシンガポールタンカー複数ふくすうせきにより、ヒ81船団せんだん編成へんせいした[161]指揮しきかんだいはち護衛ごえい船団せんだん司令しれいかん佐藤さとうつとむ少将しょうしょう旗艦きかん聖川ひじりかわまる」)[162]護衛ごえいにはけい空母くうぼかみたかまつがた駆逐くちくかんかし海防かいぼうかん5せき対馬つしま択捉えとろふ昭南しょうなん久米くめ大東だいとう)がいた[163][164]

空母くうぼしんたかにはたいせん飛行ひこう部隊ぶたいとしてだいきゅうさんいち海軍かいぐん航空こうくうたいきゅうななしき艦上かんじょう攻撃こうげき14搭載とうさいされ[165]目視もくし可能かのう昼間ひるまには2常時じょうじ飛行ひこう哨戒しょうかい警戒けいかいにあたった[166]。また神州しんしゅうまる・あきつまるおよび護衛ごえいかくかん水中すいちゅう聴音ちょうおん使用しようてき潜水せんすいかん警戒けいかいしていた。なお、当時とうじの「あきつまる」はたいせんよう護衛ごえい空母くうぼとして改装かいそう姿すがたであったが、護衛ごえいかみたかがあることとだい規模きぼ軍隊ぐんたい輸送ゆそうのためたいせん飛行ひこう部隊ぶたい独立どくりつ飛行ひこうだい1中隊ちゅうたいさんしき指揮しき連絡れんらく)は陸揚りくあげされ、飛行ひこう甲板かんぱん舟艇しゅうていよう格納庫かくのうこにはよんしき肉薄にくはく攻撃こうげきてい[167]航空機こうくうき格納庫かくのうこには物資ぶっしとう満載まんさいしている[168]

11月14にち、ヒ81船団せんだん伊万里湾いまりわん出港しゅっこうした[169]。 11月15にち正午しょうごごろ五島列島ごとうれっとうおきにおいて、あきつまるがアメリカ潜水せんすいかんクイーンフィッシュ)の雷撃らいげき炎上えんじょう沈没ちんぼつした[170]。また17にち18摩耶山まやさんまるべい潜水せんすいかんピクーダ)の雷撃らいげき沈没ちんぼつした[170]同日どうじつ23には、かみたかべい潜水せんすいかんスペードフィッシュ雷撃らいげき沈没ちんぼつした[171][172]。これにより輸送ゆそう部隊ぶたい半分はんぶん喪失そうしつ、3せき合計ごうけいやく6,200ないし6,700めい戦死せんしした[160]

タマ33船団せんだん
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かぶとがた特種とくしゅせん吉備津きびつまるじゅう武装ぶそう特種とくしゅせんでありレーダー装備そうびしていた

眼前がんぜん僚船りょうせん撃沈げきちんされた神州しんしゅうまる吉備津きびつまる被害ひがいく、11月21にち上海しゃんはい沖合おきあい沈没ちんぼつかん生存せいぞんしゃをおろした[173]。25にち無傷むきずのタンカー船団せんだん(ヒ81船団せんだん)と分離ぶんりしたのち、26にちと28にち高雄たかおこう台湾たいわん到着とうちゃく[174][175]。タマ33船団せんだん改編かいへんした。 当時とうじのフィリピン戦線せんせんでは輸送ゆそうせん機帆船きはんせんはもちろん、駆逐くちくかん輸送ゆそうかんだいいちごうがた輸送ゆそうかんSBてい)すら次々つぎつぎ撃沈げきちんされ、りくへい輸送ゆそうよう船舶せんぱく確保かくほすら困難こんなんになっていた[176]。このため、吉備きび津丸つまる神州しんしゅうまる途中とちゅうから青葉山あおばやままる追加ついか[177]によるだいじゅうさん師団しだんだいじゅう師団しだんだいじゅうきゅう師団しだん高雄たかお~ルソンかえ輸送ゆそう計画けいかくがたてられた[178][179]。しかしフィリピン戦線せんせん状況じょうきょう日々ひび悪化あっかし、大本営だいほんえい憂慮ゆうりょふかまるばかりだった[174]

吉備津きびつまる神州しんしゅうまるだいじゅうさん師団しだん残余ざんよのみを搭載とうさい[180]、30にち高雄たかお出発しゅっぱつ[174]。12月2にちルソン島るそんとうきたサンフェルナンド当初とうしょのマニラより変更へんこう)へ到着とうちゃく輸送ゆそう部隊ぶたい揚陸ようりく任務にんむ達成たっせいした[174]。12月4にちきたサンフェルナンドを出発しゅっぱつした[174]

ヒ85船団せんだんおよびタマ38船団せんだん
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12月、ルソンとうへの精鋭せいえい部隊ぶたいだい19師団しだんとら兵団へいだん〉・だい1挺進ていしん集団しゅうだん輸送ゆそう任務にんむ神州しんしゅうまるおよび吉備津きびつまる日向ひなたまる(Mかぶとがた) にあたえられた[181][182]日向ひなたまる青葉山あおばやままるには、だい1挺進ていしん集団しゅうだんだい滑空かっくう聯隊れんたい乗船じょうせんしていた[183]。12月19にちだいいち〇一戦隊司令官渋谷しぶやむらさきろう少将しょうしょう指揮しきのヒ85船団せんだん部隊ぶたい護衛ごえいたい香椎かしい対馬つしまらい大東だいとうだい23ごう海防かいぼうかんだい27ごうだい51ごうだい6ごう駆潜艇くせんてい〉、加入かにゅう船舶せんぱく神州しんしゅうまる吉備きび津丸つまる青葉山あおばやままる日向ひなたまるせりあまる〉)は北九州きたきゅうしゅう出発しゅっぱつする[184]。 12月23にち高雄たかお到着とうちゃくする[185]。 ここで船団せんだん部隊ぶたい編成へんせいがえがおこなわれた[186]特殊とくしゅ輸送ゆそうせん4せき神州しんしゅうまる吉備きび津丸つまる日向ひなたまる青葉山あおばやままる)は、海防かいぼうかん三宅みやけ以下いかすうせき海防かいぼうかん編成へんせいされたタマ38船団せんだん部隊ぶたいとなり、26にち高雄たかお出港しゅっこうする[187][188]。29にちルソン島るそんとうきたサンフェルナンドへ到着とうちゃく[189][190]揚陸ようりく作業さぎょうちゅうアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい5空軍くうぐん双発そうはつ攻撃こうげき[ちゅう 20]攻撃こうげきけ、青葉山あおばやままるだいじゅうごう海防かいぼうかん沈没ちんぼつする[192]神州しんしゅうまる以下いかは31にち深夜しんやまでに輸送ゆそう物件ぶっけん大半たいはん無事ぶじ揚陸ようりく輸送ゆそう任務にんむ成功せいこうした[193]

最期さいご(マタ40船団せんだん
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1945ねん1がつ3にち、ホーネット艦載かんさい空襲くうしゅうける僚船りょうせんたる吉備津きびつまるまたは日向ひなたまる

どう時期じき、フィリピン近海きんかいにはだい38任務にんむ部隊ぶたい接近せっきんしており、戦艦せんかんニュージャージーはたはたかかげるハルゼー提督ていとくは「小沢おざわ機動きどう部隊ぶたい最後さいごのこりである航空こうくう戦艦せんかん日向ひなた伊勢いせ撃沈げきちんしてやろう」と闘志とうしやしていた[194]としけた1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ1にち355ふん、タマ38船団せんだん揚陸ようりく任務にんむ成功せいこうさせた特殊とくしゅ輸送ゆそうせん3せき神州しんしゅうまる吉備きび津丸つまる日向ひなたまる)は帰還きかん便乗びんじょうしゃすうひゃくめいせてマタ40船団せんだん編成へんせい海防かいぼうかん6せき三宅みやけたま能美のみ生名いきなだい39ごうだい112ごう)を護衛ごえいとしてサンフェルナンドを出港しゅっこうした[195][196]

3にち030ふん、バシー海峡かいきょう突破とっぱした船団せんだん高雄たかおおき到着とうちゃく投錨とうびょうした[197]。ところが台湾たいわんはアメリカ海軍かいぐん空母くうぼ機動きどう部隊ぶたいだい38任務にんむ部隊ぶたい)の搭載とうさいにより空襲くうしゅうされていた[191]回避かいひのため中国ちゅうごく本土ほんど変針へんしんしたが、750ふんだい38任務にんむ部隊ぶたい索敵さくてき2遭遇そうぐう索敵さくてき船団せんだん警戒けいかいのため出撃しゅつげきしていた海軍かいぐん飛行ひこうていだいきゅう〇一海軍航空隊きゅうななしき艦上かんじょう攻撃こうげきとも)[198]撃墜げきついった。こののちばくそうしたてき艦上かんじょう爆撃ばくげき3飛来ひらいするも、神州しんしゅうまる以下いか対空たいくう戦闘せんとう敢行かんこうしこれを撃退げきたいする[199][200]

1130ふん空母くうぼホーネット (CV-12)よりやく50てきだい編隊へんたい襲来しゅうらいばくげき雷撃らいげき船団せんだんなかでもひときわ異様いよう船型せんけい神州しんしゅうまる集中しゅうちゅう攻撃こうげきしていった。神州しんしゅうまるたくみな操船そうせんふねほうたい対空たいくう戦闘せんとうによりじゅうすうはつばくだん魚雷ぎょらい回避かいひするも、戦闘せんとう開始かいしやく10ふんついに船橋ふなばし付近ふきん煙突えんとつ付近ふきんばくだん直撃ちょくげきばくだんうまらん甲板かんぱんきゅう航空機こうくうき格納庫かくのうこ)をつらぬじょう甲板かんぱんじょう爆発ばくはつ火災かさい発生はっせいした。攻撃こうげきは15ふんほどわりてき空母くうぼ帰還きかんしたが、神州しんしゅうまる延焼えんしょうふせぐことは出来でき搭載とうさい弾薬だんやく誘爆ゆうばくしたため、中村なかむら船長せんちょう総員そういん退すさふね命令めいれいはっおなじく1230ふんには今野こんのふねほう隊長たいちょう退すさふね命令めいれい発令はつれい神州しんしゅうまる放棄ほうきされた。戦死せんししゃ船員せんいん33めいふねほうたい66めい便乗びんじょうしゃ283めいのぼ[158]生還せいかんした神州しんしゅうまる乗員じょういん海防かいぼうかん救助きゅうじょされ、また僚船りょうせん吉備津きびつまるは3はつ直撃ちょくげきだんけていたが日向ひなたまるともども健在けんざいであり[201]、これらのこったマタ40船団せんだん目的もくてき高雄たかお入港にゅうこうした[202]

放棄ほうきされた神州しんしゅうまる水線すいせんには被害ひがいけていなかったため、しずむことなく炎上えんじょうつづけながら漂流ひょうりゅうした[203]。しかしやく12あいだ夜間やかんほのおらされるその姿すがた目標もくひょうとなり、1がつ3にち2337ふんにアメリカ海軍かいぐん潜水せんすいかんアスプロ雷撃らいげき高雄たかおおき南南西なんなんせいやく90km、北緯ほくい2157ふん東経とうけい11944ぶん地点ちてん沈没ちんぼつした。

主要しゅようせんれき

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  • 1933ねん4がつ8にち - 播磨はりま造船ぞうせんしょにて起工きこう
  • 1934ねん2がつ8にち - 神州しんしゅうまる命名めいめい
    • 3月14にち - 進水しんすい
    • 11月30にち - 引渡
    • 12月15にち - 竣工しゅんこう
  • 1935ねん2がつ26にち - 完全かんぜん完成かんせい海軍かいぐん工廠こうしょうにてカタパルト設置せっち
  • 1937ねん5がつ - 舞鶴まいづる海軍かいぐん工廠こうしょうにて改装かいそう着手ちゃくしゅ舷側げんそく水中すいちゅう防御ぼうぎょ改善かいぜん
    • 7がつ - にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつにともない改装かいそう工事こうじ未成みせいのまま帰港きこう
    • 8がつ - ふとし上陸じょうりく作戦さくせん参加さんか揚陸ようりく成功せいこう
    • 11月 - 杭州こうしゅうわん上陸じょうりく作戦さくせん参加さんか揚陸ようりく成功せいこう
  • 1938ねん10がつ - バイアスわん上陸じょうりく作戦さくせん参加さんか揚陸ようりく成功せいこう
  • 1939ねん2がつ - 海南かいなんとう上陸じょうりく作戦さくせん参加さんか揚陸ようりく成功せいこう
  • 1941ねん12月 - 防空ぼうくう基幹きかんせん指定してい。マレー作戦さくせん・シンゴラ上陸じょうりく作戦さくせん参加さんか揚陸ようりく成功せいこう
  • 1942ねん3がつ1にち - あららぎしるし作戦さくせん・ジャワ上陸じょうりく作戦さくせん参加さんか揚陸ようりく成功せいこう
    • だい1上陸じょうりく部隊ぶたい揚陸ようりく直後ちょくご、バタビアおき海戦かいせんまれ友軍ゆうぐんじゅうじゅん最上さいじょう発射はっしゃした魚雷ぎょらい命中めいちゅう大破たいはだい傾斜けいしゃそこ座乗ざじょうしていただい16ぐん司令しれいかん今村いまむらひとし陸軍りくぐん中将ちゅうじょう以下いか将兵しょうへいうみされる
    • 3月4にち - サルベージ作業さぎょう開始かいし
    • 12月25にち - 応急おうきゅう修理しゅうりのためシンガポールに移送いそう
  • 1943ねん7がつ - 播磨はりま造船ぞうせんしょ入渠にゅうきょ
    • 10月 - 修理しゅうり完了かんりょう以降いこう数々かずかず輸送ゆそう揚陸ようりく任務にんむ従事じゅうじ
  • 1944ねん6がつ - ヒ65船団せんだん加入かにゅう航行こうこうちゅうてきせん雷撃らいげき回避かいひしようとした輸送ゆそうせん有馬ありまさんまる船尾せんび衝突しょうとつ爆雷ばくらい誘爆ゆうばく大破たいは操舵そうだ不能ふのうになりやく200にん死亡しぼう台湾たいわんにて修理しゅうりおこな
    • 11月 - ヒ81船団せんだんにあきつまる摩耶山まやさんまる吉備津きびつまる特種とくしゅせん3せきとうとも加入かにゅう。あきつまる摩耶山まやさんまるおよび護衛ごえいかみたかてきせん雷撃らいげきによって喪失そうしつするも、神州しんしゅうまる吉備津きびつまる生還せいかん
    • 11月/12月 - 吉備きび津丸つまるともにタマ33船団せんだん編成へんせい揚陸ようりく成功せいこう
    • 12月 - 吉備きび津丸つまる日向ひなたまるとともにタマ38船団せんだん編成へんせい揚陸ようりく成功せいこう
  • 1945ねん1がつ3にち - 帰路きろ吉備きび津丸つまる日向ひなたまるとともにマタ40船団せんだん編成へんせい航行こうこうちゅう高雄たかおおきにてアメリカ海軍かいぐんだい38任務にんむ部隊ぶたい空襲くうしゅう炎上えんじょう放棄ほうき吉備きび津丸つまる日向ひなたまる生還せいかん
    • 漂流ひょうりゅうちゅうべい海軍かいぐん潜水せんすいかんアスプロの雷撃らいげき沈没ちんぼつ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

  1. ^ 空母くうぼ赤城あかぎ佐世保させぼ海軍かいぐん工廠こうしょう多段ただんしき空母くうぼからいちだん全通ぜんつう飛行ひこう甲板かんぱん改造かいぞうちゅう[55]当時とうじだい22駆逐くちくたい睦月むつきがた4せき皐月さつき水無月みなづき文月ふづき長月ながつき)、だい30駆逐くちくたい睦月むつきがた4せき睦月むつき如月きさらぎ弥生やよい卯月うづき[55]
  2. ^ あおいりゅう航空こうくうたいりゅううつし、内地ないち待機たいきした。
  3. ^ 当時とうじだいさん水雷すいらい戦隊せんたいは、けいじゅん川内かわうちだい20駆逐くちくたいてんきり朝霧あさぎりゆうきり狭霧さぎり)、だい21駆逐くちくたい初春しょしゅん子日ねのひはつしも若葉わかば)。三水さんずいせんだい21駆逐くちくたい駆逐くちくかん子日ねのひ同年どうねん7がつからハノイへ先行せんこう進出しんしゅつし、つづいてハイフォンへ移動いどうしていた[58]
  4. ^ だいなな戦隊せんたいかくかん艦長かんちょうは、だいなな戦隊せんたい1ばんかん熊野くまの艦長かんちょう田中たなか菊松きくまつ大佐たいさだい2ばんかん鈴谷すずや艦長かんちょう木村きむら昌福まさとみ大佐たいさ、3ばんかんさんくま艦長かんちょう崎山さきやましゃくおっと大佐たいさ、4ばんかん最上さいじょう艦長かんちょう曾爾そにあきら大佐たいさ[79]
  5. ^ だい水雷すいらい戦隊せんたい編制へんせいは、長良ながらがたけいじゅん名取なとりだい5駆逐くちくたい朝風あさかぜ春風しゅんぷう松風まつかぜはたふう)、だい22駆逐くちくたい皐月さつき水無月みなづき文月ふづき長月ながつき[80]
  6. ^ だい48師団しだんせた東部とうぶジャワ島じゃわとう上陸じょうりく船団せんだん38せきは、だい水雷すいらい戦隊せんたいだいよん水雷すいらい戦隊せんたい護衛ごえいで2がつ19にちにホロとう出港しゅっこうした[82]
  7. ^ 佐倉さくらまる神州しんしゅうまるおよび、魚雷ぎょらい回避かいひしようときゅう旋回せんかいした輸送ゆそうせん龍野たつのまる船体せんたい傾斜けいしゃした状態じょうたいそこ蓬莱ほうらいまる水平すいへい状態じょうたいそこ
  8. ^ モリソン博士はかせの『太平洋たいへいよう旭日きょくじつ』では「駆逐くちくかん吹雪ふぶき魚雷ぎょらい神州しんしゅうまるなどを撃沈げきちんした」と記述きじゅつしており、木俣きまたしげるろうちょ日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし(1977)』158ぺーじではモリソンしょ記述きじゅつ採用さいようしている[113]木俣きまたちょ日本にっぽん水雷すいらい戦史せんし(1986)』114ぺーじでは「最上さいじょう魚雷ぎょらい」として『日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし』の記述きじゅつ訂正ていせいしている[114]
  9. ^ だい5駆逐くちくたい所属しょぞく駆逐くちくかん松風まつかぜは、この時点じてん空母くうぼりゅう護衛ごえいしておりべつはたらけちゅうだった。
  10. ^ ちゅうだい水雷すいらい戦隊せんたい駆逐くちくかんのほかに、だいさん水雷すいらい戦隊せんたいからの増援ぞうえん艦艇かんてい参加さんかしている。
  11. ^ ちゅうだいなな戦隊せんたい最上さいじょうさんくま
  12. ^ 曾爾そにじゅうじゅん最上さいじょう出撃しゅつげきせよ」268ぺーじでは、鶴見つるみは3がつ4にち潜水せんすいかん雷撃らいげき沈没ちんぼつしたと記述きじゅつしている[120]実際じっさいは3がつ1にち雷撃らいげきされてちゅうやぶして内地ないち帰投きとう修理しゅうり鶴見つるみミッドウェー作戦さくせんにも参加さんかした。1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつ5にち鶴見つるみ潜水せんすいかんセロ雷撃らいげき沈没ちんぼつした。なおバタビアおき海戦かいせん鶴見つるみ同型どうけいかん知床しれとこがた給油きゅうゆかんえり付近ふきん行動こうどうしており、最上さいじょうとうたい補給ほきゅう実施じっししていた[90]。3月4にちえり潜水せんすいかんS-39雷撃らいげき撃沈げきちんされ、由良ゆら松風まつかぜ乗組のりくみいん救助きゅうじょしている[90]
  13. ^ 軍艦ぐんかんうみたか(かいよう)」は、貨客船かきゃくせんあるぜんちなまる改造かいぞうしたけい空母くうぼ[130]
  14. ^ ロバロ―艦長かんちょうは、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれい長官ちょうかんハズバンド・キンメル大将たいしょう長男ちょうなんマニング・キンメル少佐しょうさであった[137]
  15. ^ 松山まつやま光治こうじ少将しょうしょう1942ねん昭和しょうわ17ねん)8がつ当時とうじだいじゅうはち戦隊せんたい天龍てんりゅう龍田たつた司令しれいかんで、そと南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきかん三川みかわ軍一ぐんいち中将ちゅうじょうだいはち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん旗艦きかん鳥海とりうみ」)のガダルカナルとう突入とつにゅう作戦さくせん直訴じきそして同行どうこう許可きょかされ[143]天龍てんりゅう臨時りんじ指揮しき夕張ゆうばり夕凪ゆうなぎひきいてだいいちソロモン海戦かいせん参加さんかした[144]
  16. ^ 日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし』685ぺーじや『日本にっぽんけいじゅん戦史せんし』557ぺーじでは「ギタローの雷撃らいげき回避かいひしようとした有馬ありまさんまる神州しんしゅうまる衝突しょうとつした」と記述きじゅつし、潜水せんすいかんピクーダ襲撃しゅうげきについてはれていない。
  17. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし』557ぺーじでは香椎かしい神州しんしゅうまる護衛ごえい千振せんぶりのみとし、だい19ごう海防かいぼうかんについては記載きさいしていない[146]だい19ごう海防かいぼうかん主計しゅけいちょうは、淡路あわじ轟沈ごうちんの19ごうは、ヒ65船団せんだん所属しょぞくせん護衛ごえいして高雄たかお入港にゅうこうしたあと、あらためて神州しんしゅうまる護衛ごえいのためさい出撃しゅつげきしたと回想かいそうしている[153]
  18. ^ だい19ごう海防かいぼうかん主計しゅけいちょうは「神州しんしゅうまるもとたかし近海きんかい単独たんどく航海こうかいしていた」と回想かいそうする[154]
  19. ^ 6月8にちから9にちにかけて、ミ05船団せんだん台湾たいわんもとたかし寄港きこうした[156]。6月10にちから11にち高雄たかお寄港きこう、ミ05船団せんだん有馬ありまさんまるくわわった[157]
  20. ^ 日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし』825ぺーじによれば、みなみミンドロ島みんどろとうより発進はっしんしたA-20双発そうはつ地上ちじょう襲撃しゅうげき ハボックで、日本にっぽんがわ双発そうはつB-25がたちゅう爆撃ばくげき誤認ごにんした[191]

参照さんしょう

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  16. ^ 21世紀せいき初頭しょとう現代げんだいにおいても、アメリカ陸軍りくぐんだい規模きぼ船舶せんぱく部隊ぶたい海軍かいぐんとはべつ保有ほゆうしている
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    • (223-243ぺーじ)戦史せんし研究けんきゅう伊達だてひさ日本にっぽん海軍かいぐんかぶとがた海防かいぼうかん戦歴せんれき一覧いちらん うらないもりがたよんせき択捉えとろふがたじゅうよんせき御蔵おぐらがたはちせきかたきゅうせきらいがたじゅうせき航跡こうせき
  • 佐藤さとう和正かずまさ艦長かんちょうたちの太平洋戦争たいへいようせんそう 34にん艦長かんちょうかたった勇者ゆうしゃ条件じょうけん光人みつひとしゃ光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ〉、1993ねん5がつ原著げんちょ1983ねん)。ISBN 47698-2009-7 
    • (275-285ぺーじ)同士打どうしうち <駆逐くちくかん春風しゅんぷう艦長かんちょうようかつら中佐ちゅうさ証言しょうげん>(昭和しょうわ15ねん11月〜昭和しょうわ17ねん11がつまで春風しゅんぷう駆逐くちく艦長かんちょう
  • 塩山しおやまさくいちほか『わりダネ軍艦ぐんかん奮闘ふんとう 裏方うらかたてっ任務にんむめいじけた異形いぎょう軍艦ぐんかんたちの航跡こうせきしお書房しょぼう光人みつひとしゃ、2017ねん7がつISBN 978-4-7698-1647-8 
    • (258-269ぺーじ)当時とうじ海軍かいぐんかんせい本部ほんぶいん海軍かいぐん技術ぎじゅつ大佐たいさ塩山しおやまさくいち『マル 強襲きょうしゅう揚陸ようりくかん神州しんしゅうまる始末しまつ 舟艇しゅうていさんじゅうななせき飛行機ひこうきじゅう特殊とくしゅせん建造けんぞうにあたった開発かいはつ技術ぎじゅつしゃ回想かいそう
    • (270-282ぺーじ)もとさんじゅう突撃とつげきたい海軍かいぐんとう兵曹へいそう艦艇かんてい研究けんきゅう正岡まさおかかつただしちいさな傑作けっさく"大発だいはつ"とくがたうん貨船物語ものがたり 攻略こうりゃく撤退てったい多用たようされたじゅうよんメートルとくがたうん貨船の実像じつぞう戦場せんじょう実例じつれい
  • 瀬名せなたかし彦「昭和しょうわ日本にっぽん陸軍りくぐんせんてい」『世界せかい艦船かんせん 506ごう』、海人あましゃ、1996ねん、22-23ぺーじ 
  • 日本にっぽん造船ぞうせん学会がっかい昭和しょうわ造船ぞうせん だい1かん 戦前せんぜん戦時せんじへんはら書房しょぼう明治めいじひゃくねん叢書そうしょ だい207〉、1977ねんISBN 978-4562003020 
  • 庭田にわた尚三しょうぞう「8.陸軍りくぐん特種とくしゅ輸送ゆそうせん神州しんしゅうまるまき」『もと海軍かいぐん技術ぎじゅつ中将ちゅうじょう 庭田にわた尚三しょうぞうじゅつ けんかん秘話ひわ船舶せんぱく技術ぎじゅつ協会きょうかい、1965ねん9がつ 
  • 深井ふかい俊之としゆきすけ、(バタビアおき海戦かいせん初雪はつゆき砲術ほうじゅつちょう)「だい2しょう 航空こうくう時代じだい到来とうらい駆逐くちくかん初雪はつゆき」の激闘げきとう」『戦艦せんかん大和やまと反転はんてん真相しんそう 海軍かいぐん士官しかんいちよんさいかた戦争せんそう宝島社たからじましゃ宝島社たからじましゃ新書しんしょ〉、2018ねん7がつISBN 978-4-8002-8494-5 
  • 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうへん完本かんぽん太平洋戦争たいへいようせんそううえ)』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1991ねん12月。ISBN 4-16-345920-0 
    • (72-86ぺーじ)児島こじまじょう戦死せんしさんせんひゃくななめい山下やました兵団へいだんのマレー作戦さくせん ― 」/(111-123ぺーじ)今村いまむらひとし「バンドン城下じょうかちかい ― ジャワ上陸じょうりく作戦さくせん ― 」
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ としごう陸軍りくぐん作戦さくせん(1) レイテ決戦けっせんだい41かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1970ねん12月。 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ 海上かいじょう護衛ごえいせんだい46かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1971ねん5がつ 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ としごう陸軍りくぐん作戦さくせん(2) ルソン決戦けっせんだい60かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1972ねん11月。 
  • 松原まつばら茂生しげお遠藤えんどうあきら陸軍りくぐん船舶せんぱく戦争せんそうせん刊行かんこうかい、1996ねんISBN 978-4795246331 
  • まる編集へんしゅうへんじゅうじゅん最上さいじょう出撃しゅつげきせよ ミッドウェーの惨劇さんげき艦長かんちょう吐露とろする痛恨つうこん手記しゅき曾爾そにあきら」『巡洋艦じゅんようかん戦記せんき じゅうじゅん最上さいじょう出撃しゅつげきせよ』光人みつひとしゃ光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ〉、2011ねん8がつ原著げんちょ1990ねん)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
  • 三木みきはらとしいち帝国ていこく陸海りくかいぐん補助ほじょ艦艇かんていそう力戦りきせん必要ひつようとされた支援しえん艦艇かんていぐん全貌ぜんぼう歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ (37)』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2002ねんISBN 978-4056027808 
  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅうへん勇躍ゆうやくインド洋いんどよう作戦さくせん 南方みなかた資源しげん地帯ちたい確保かくほへさらなる進攻しんこう南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい西進せいしん作戦さくせん徹底てってい分析ぶんせきだい3かん学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ〉、1994ねん6がつ 


  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
    • 参謀さんぼう本部ほんぶ特種とくしゅ輸送ゆそうせん準備じゅんびせきスルけん」1938ねん3がつ24にちアジア歴史れきし資料しりょうセンター、Ref.C04120477800
    • 陸軍りくぐん運輸うんゆ神州しんしゅうまるよう探照灯たんしょうとう保管ほかん転換てんかんけん」 1936ねん4がつ8にち、アジれき、Ref.C01004243600
    • 陸軍りくぐん運輸うんゆ神州しんしゅうまる無線むせん電信でんしんしょ開設かいせつけん」 1934ねん12がつ10日とおか、アジれき、Ref.C01004129900
    • 昭和しょうわ18ねん9がつ~12がつたち/11月(3)』。Ref.C12070121000。 
    • 昭和しょうわ18ねん3がつ1にち昭和しょうわ18ねん5がつ31にち だい1海上かいじょう護衛ごえいたい戦時せんじ日誌にっし(2)』。Ref.C08030139400。 
    • 昭和しょうわ19ねん2がつ7にち昭和しょうわ19ねん11月25にち だい38ごう哨戒しょうかいてい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(1)』。Ref.C08030626700。 
    • 昭和しょうわ19ねん2がつ7にち昭和しょうわ19ねん11月25にち だい38ごう哨戒しょうかいてい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(2)』。Ref.C08030626800。 
    • 昭和しょうわ19ねん4がつ9にち昭和しょうわ20ねん1がつ19にち だい7護衛ごえい船団せんだん司令しれい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(1)』。Ref.C08030707500。 
    • 昭和しょうわ19ねん11月1にち昭和しょうわ20ねん6がつ30にち だい1海防かいぼうたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(1)』。Ref.C08030151000。 
    • 昭和しょうわ19ねん11月1にち昭和しょうわ20ねん6がつ30にち だい1海防かいぼうたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(2)』。Ref.C08030151100。 
    • 昭和しょうわ19ねん11月1にち昭和しょうわ20ねん6がつ30にち だい1海防かいぼうたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(3)』。Ref.C08030151200。 
    • 昭和しょうわ19ねん8がつ1にち昭和しょうわ20ねん3がつ31にち 海防かいぼうかんらい戦時せんじ日誌にっし(3)』。Ref.C08030595900。 
    • 昭和しょうわ19ねん8がつ1にち昭和しょうわ20ねん3がつ31にち 海防かいぼうかんらい戦時せんじ日誌にっし(4)』。Ref.C08030596000。 
    • 昭和しょうわ19ねん12月7にち昭和しょうわ20ねん1がつ31にち 海防かいぼうかん生名いきな戦時せんじ日誌にっし』。Ref.C08030596500。 
    • 昭和しょうわ20ねん1がつ5にち昭和しょうわ20ねん1がつ6にち 海防かいぼうかん生名いきな戦闘せんとう詳報しょうほう』。Ref.C08030596700。 
    • 昭和しょうわ19ねん1がつ1にち昭和しょうわ20ねん1がつ31にち 海防かいぼうかん新南しんなん戦時せんじ日誌にっし』。Ref.C08030596600。 

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外部がいぶリンク

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