羽田空港 はねだくうこう (はねだくうこう)は、東京 とうきょう 都 と 大田 おおた 区 く の町名 ちょうめい 。現行 げんこう 行政 ぎょうせい 地名 ちめい は羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ から羽田空港 はねだくうこう 三 さん 丁目 ちょうめ 。郵便 ゆうびん 番号 ばんごう は144-0041[3] 。
現在 げんざい は東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう (通称 つうしょう :羽田空港 はねだくうこう )及 およ び関連 かんれん 施設 しせつ の敷地 しきち が多 おお くを占 し めるが、かつては穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ や羽田 はた 穴守 あなもり 海水浴 かいすいよく 場 じょう 、羽田 はた 競馬 けいば 場 じょう などを中心 ちゅうしん とした首都 しゅと 近郊 きんこう の一大 いちだい 観光 かんこう 地 ち として知 し られた。
大田 おおた 区 く の沿岸 えんがん 部 ぶ に所在 しょざい し、多摩川 たまがわ を挟 はさ んで神奈川 かながわ 県 けん 川崎 かわさき 市 し 川崎 かわさき 区 く 浮島 うかしま 町 まち ・殿町 とのまち 、海老 えび 取 と 川 かわ を挟 はさ んで羽田 はた ・羽田旭 はねだあさひ 町 まち ・東糀谷 ひがしこうじや ・大森南 おおもりみなみ 、京浜 けいひん 運河 うんが や東京 とうきょう 湾 わん を挟 はさ んで昭和島 しょうわじま ・京浜島 けいひんじま ・城南島 じょうなんじま ・令 れい 和島 わしま などと接 せっ する。
今 いま の羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ ・二 に 丁目 ちょうめ 付近 ふきん にあたる地域 ちいき は「羽田 はた 浦 うら 」などと呼 よ ばれ、元禄 げんろく ・天明 てんめい の頃 ころ には葦 あし が一 いち 面 めん に密生 みっせい した干潟 ひかた であった[5] 。
此地の眺望 ちょうぼう 、最 もっと も秀美 ひでみ なり。東 ひがし に滄海 そうかい 満々 まんまん として旭日 きょくじつ の房総 ぼうそう の山 やま に掛 か かるあり、南 みなみ は玉川 たまがわ 泥 どろ 々として清流 せいりゅう の冨 とみ 峯 みね の雪 ゆき に映 えい ずるある。西 にし は海老 えび 取 と 川 かわ を隔 へだ てて、東海 とうかい の駅路 えきろ あり、往来 おうらい 絡 からま 繹たり、北 きた は筑波山 つくばさん 峨々 がが として、飛 ひ 雨 う 行 ぎょう 雲 くも の気象 きしょう 萬 まん 千 せん なり。此島より相州 あいしゅう 三浦 みうら 浦賀 うらが へは、午 うま に當 あ たりて海路 かいろ 凡 およ そ八 はち 九 きゅう 里 り 、南 みなみ 総 そう 木更津 きさらづ の港 みなと へは巳 み に當 あ たりて海路 かいろ 八 はち 九 きゅう 里 り 、南北 なんぼく 総 そう の界 さかい は卯 う に當 あ たりて海路 かいろ 十 じゅう 三 さん 里 さと 計 はか りを隔 へだ てたり、冨 とみ 峯 みね は西 にし の方 ほう に見 み ゆ — 『江戸 えど 名所 めいしょ 図会 ずえ 』より
(文化 ぶんか 五 ご 年 ねん 十 じゅう 二 に 月 がつ )十 じゅう 七 なな 日 にち 、空 そら くもりて日 ひ の出 で るを見 み ず。巳 み の時 とき ばかりにやどを立 た ちいづ、野 の 羽織 はおり 半天 ばんてん を服 ふく し股引 ももひき を穿 うが ち草鞋 わらじ をつく。六郷 ろくごう のわたりをこえて、八幡 やはた 塚 つか 村 むら の内 うち ところどころ堤 つつみ のくづれたる所 しょ おさむべきために、名主 なぬし 案内 あんない して、間 あいだ 棹 ざお をもて丈 たけ 量 りょう す。 雑色 ぞうしき 村 むら より羽田 はねだ 村 むら までの道 みち あししとて、日 ひ よけ船 せん にのりゆく。ややありて猟師 りょうし 町 まち にいり、羽田 はた の方 ほう にむかふ。蝦 えび 取 と 橋 はし といふを渡 わた りて、羽田 はた の弁天 べんてん の前 まえ なる棚 たな 橋 きょう をわたり、社 しゃ に入 はい る。 玉川 たまがわ 弁財天 べざいてん といふ額 がく を掲ぐ。ここは要島 かなめじま といふ所 ところ なり。別 べつ 富 とみ を金生 きんせい 山 さん 龍王 りゅうおう 院 いん といふ。年頃 としごろ 此神の宮居 みやい を遠 とお くのぞみて一 いち 度 ど もまうづる事 こと なし。今日 きょう はからづもここに来 こ れるを思 おも ひて、白銀 はくぎん 一 いち つぶをささぐ。宇賀神 うがじん の小祠 しょうし あり、御 ご 穴 あな 宇賀神 うがじん といふ。ここに常 つね 燈籠 とうろう の高 こう きありて、入 いれ 来 く る船 ふね の目 め じるしとせしも、近頃 ちかごろ はたえて、そのかたばかりを残 のこ せり — 『調布 ちょうふ 日記 にっき 』より
当時 とうじ の羽田 はた 一帯 いったい は、江戸 えど 近郊 きんこう の漁師 りょうし 町 まち として栄 さか え、東 ひがし に江戸 えど 湾 わん を隔 へだ てて房総 ぼうそう 諸山 しょざん を望 のぞ める海浜 かいひん の地 ち であり、西 にし には富士山 ふじさん を仰 あお ぎ、南 みなみ は多摩川 たまがわ に接 せっ し、北 きた には品川 しながわ 越 ご しに江戸 えど 市 し 中 なか を目 め にすることができる風光 ふうこう 明媚 めいび な土地 とち であった[6] 。
武蔵 むさし 国 こく 荏原 えばら 郡 ぐん 羽田 はた 猟師 りょうし 町 まち で代々 だいだい 名主 なぬし をしていた鈴木 すずき 彌 わたる 五右衛門 ごえもん という人物 じんぶつ がいた。この彌 わたる 五右衛門 ごえもん は羽田 はた 浦 うら の東方 とうほう にある干潟 ひがた に目 め をつけ、その数 かず 町歩 ちょうぶ にわたる干潟 ひがた を埋 う め立 た てて、新 あたら しい田畑 たはた を開発 かいはつ することにした[7] 。
そこで彌 わたる 五右衛門 ごえもん はこの干潟 ひがた を羽田 はねだ 村 むら の名主 なぬし 石井 いしい 四郎 しろう 右 みぎ 衛門 えもん より譲 ゆず り受 う けて、この干潟 ひがた に堤防 ていぼう を作 つく って開墾 かいこん を始 はじ めた。この際 さい 、彌 わたる 五右衛門 ごえもん は猟師 りょうし 町 まち の名主 なぬし 職 しょく を嗣子 しし に譲 ゆず り、 自 みずか ら移 うつ り住 す んで開拓 かいたく に取 と り組 く んだという。1815年 ねん (文化 ぶんか 12年 ねん )頃 ごろ には、近在 きんざい 農村 のうそん の分家 ぶんけ 層 そう でとくに大森 おおもり 村 むら からの出 だし 百姓 ひゃくしょう らが居住 きょじゅう するようになり、新田 しんでん としての形態 けいたい が整 ととの えられた[8] 。この開墾 かいこん 事業 じぎょう は無事 ぶじ に成功 せいこう したが、東京 とうきょう 湾 わん や多摩川 たまがわ に面 めん する埋立 うめたて 地 ち という環境 かんきょう のため、常 つね に高潮 こうちょう 、洪水 こうずい などの水害 すいがい の危険 きけん を孕 はら んでいた土地 とち であった。そのため彌 わたる 五右衛門 ごえもん は、作物 さくもつ を植 う えるところは高 たか く土 ど を盛 も り、また堤防 ていぼう を強 つよ くするために数 すう 千 せん 本 ほん の松 まつ の木 き を植 う えることにした。この松 まつ の防潮 ぼうちょう 林 りん は、その後 ご 成長 せいちょう すると、沖 おき から眺 なが めると非常 ひじょう に美 うつく しい景観 けいかん となった。それでこの地 ち は、その地形 ちけい から「扇 おうぎ ヶ浦 うら 」とか、元々 もともと 一 ひと つの小 ちい さな島 しま があったことから「要島 かなめじま 」と人々 ひとびと から呼 よ ばれるようになる。また、彌 わたる 五右衛門 ごえもん は堤防 ていぼう のほとりに小 ちい さな祠 ほこら を建 た て、毎年 まいとし の五穀豊穣 ごこくほうじょう と海上 かいじょう 安全 あんぜん の守護 しゅご を祈願 きがん し、地主 じぬし 神 しん として、稲荷 いなり 大神 だいじん を祀 まつ ることにする[9] 。
1829年 ねん (文政 ぶんせい 12年 ねん )、この開墾 かいこん 地 ち は羽田 はた 猟師 りょうし 町 まち から分 わ かれて「鈴木 すずき 新田 にった 」と名付 なづ けられた。その後 ご 、羽田 はねだ 村 むら ・羽田 はた 猟師 りょうし 町 まち ・鈴木 すずき 新田 しんでん の三 さん 集落 しゅうらく を合 あ わせて「羽田 はた 三 さん ヶ村 かそん 」といわれるようになった[7] 。
文政 ぶんせい の末 すえ あるいは天保 てんぽう の初 はじ め頃 ごろ 、襲来 しゅうらい した大 だい 暴風雨 ぼうふうう と津波 つなみ によって、堤防 ていぼう の土手 どて の横 よこ 面 めん に大穴 おおあな が開 ひら き、海水 かいすい が侵入 しんにゅう して、懸命 けんめい に丹精 たんせい した田圃 たんぼ もまさに荒廃 こうはい する危険 きけん に直面 ちょくめん した。その様子 ようす を監視 かんし していた農夫 のうふ はすぐさま名主 なぬし の彌 わたる 五右衛門 ごえもん に知 し らせると共 とも に、法螺貝 ほらがい を吹 ふ き、篝火 かがりび を焚 た いて、五 ご 十 じゅう 余 よ 名 めい におよぶ農民 のうみん たちで、鋤 すき や鍬 くわ などの農具 のうぐ を持 も ち集 あつ まると、彌 わたる 五右衛門 ごえもん の指揮 しき の下 した 、死力 しりょく を尽 つ くしてその土手 どて を守 まも った。その甲斐 かい もあって、海水 かいすい の侵入 しんにゅう を免 まぬか れることができた[10] 。しかも、その後 ご は全 まった く水害 すいがい に遭 あ わなくなり、凶年 きょうねん の兆 きざ しも見 み えず、一帯 いったい は良質 りょうしつ な田園 でんえん 地帯 ちたい となった。これは農民 のうみん たちの努力 どりょく のためばかりではなく、神 かみ の助 たす けがあったに違 ちが いないという声 こえ が出 で て、それはおそらく土手 どて 上 じょう の祠 ほこら に祀 まつ られた稲荷 いなり 大神 だいじん の神徳 しんとく と人々 ひとびと に考 かんが えられるようになった。そのためその祠 ほこら を敬 うやま う人々 ひとびと が増 ふ え、また「波浪 はろう が穿 ほじく った穴 あな の害 がい より田畑 たはた を守 まも り給 たま う稲荷 いなり 大神 だいじん 」の祠 ほこら ということから、「穴守稲荷 あなもりいなり 大神 おおがみ 」と尊称 そんしょう されるようになった。それから、彌 わたる 五右衛門 ごえもん はそのようなありがたい祠 ほこら を土手 どて の上 うえ にそのままにしてはおけないと、自分 じぶん の屋敷 やしき 内 ない に遷 うつ して丁重 ていちょう に祀 まつ り、これがのちの穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ の起源 きげん となった[10] 。
羽田 はた 浦 うら 一帯 いったい の
風景 ふうけい についての
歌 うた
いく千代 ちよ ( ちよ ) までも末広 すえひろ ( すゑひろ ) く、あふぎが浦 うら ( うら ) に宮 みや ( みや ) ばしら、
太 ふとし 敷 じき ( ひとし ) たててうしはける、ところはながめ良 りょう ( よ ) き処 しょ ( ところ ) 、
きよき羽田 はた ( はねだ ) のたま川 かわ ( がは ) は、前 まえ ( まへ ) に流 ながれ ( なが ) れてわかれては、
海老 えび 取 と 川 かわ ( えびとりがは ) と名 な ( な ) にしたふ、きたは品川 しながわ ( しながは ) わんにして、
櫛 くし ( くし ) の歯 は ( は ) よりもなほ繁 しげる ( しげ ) き、とうきやう市街 しがい ( しがい ) 唯 ただ 一目 いちもく ( ただひとめ ) 、
ひがしは海原 うなばら ( うなばら ) いや広 ひろ ( ひろ ) く、幽 かそけ ( かす ) かに見 み ( み ) ゆる山 やま ( やま ) やまは、
房総 ぼうそう 諸山 しょざん ( ばうそうしょさん ) と知 ち ( し ) られたり、西 にし ( にし ) は富士 ふじ ( ふじ ) の嶺 みね ( ね ) いや高 こう ( たか ) く、
実 み ( げ ) に白扇 はくせん ( はくせん ) のさまに似 に ( に ) て、はねだの川 かわ ( かは ) に映 うつ ( うつ ) るなり、
夕日 ゆうひ ( ゆふひ ) を逐 ( おう ) て帆 ほ ( ほ ) を揚 あげ ( あ ) げて、帰 き ( かへ ) るやあまのいさり舩 ( ぶね ) 、
なみのまにまに友千鳥 ともちどり ( ともちどり ) 、よびかふ声 こえ ( こへ ) も長閑 のどか ( のどけ ) しや、
これぞ此地 ( このち ) の詠 えい ( なが ) めなる、
かくばかり詠 えい ( なが ) めよろしき扇 おうぎ 浦 うら ( あふぎうら ) 神 かみ ( かみ ) も嬉 うれし ( うれ ) しと見 み ( み ) そなはすらむ — 詠 よ み人 びと 知 し らず 明治 めいじ 37年刊 ねんかん 『穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 縁起 えんぎ 』より
穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ [ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ 34年 ねん 頃 ごろ の穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 周辺 しゅうへん
1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )11月26日 にち に、穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ が公衆 こうしゅう 参拝 さんぱい の独立 どくりつ した一 いち 社 しゃ として国家 こっか 公認 こうにん の神社 じんじゃ となると[11] 、鳥居前 とりいまえ 町 まち が急速 きゅうそく に発展 はってん 、さらに1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )、鈴木 すずき 新田 しんでん の一部 いちぶ を所有 しょゆう していた和泉 いずみ 茂 しげる 八 はち が旱魃 かんばつ に備 そな え、良水 よしみ を求 もと めて井戸 いど を掘 ほ ってみたところ、海水 かいすい よりも濃 こ い塩水 えんすい が湧出 ゆうしゅつ した。これを東京 とうきょう 衛生 えいせい 試験 しけん 所 しょ に成分 せいぶん 鑑定 かんてい を出願 しゅつがん したところ、1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )9月 がつ に湿疹 しっしん や貧血 ひんけつ 、胃腸 いちょう カタル などの諸 しょ 病 やまい に効 き くナトリウム冷 ひや 鉱泉 こうせん (塩化 えんか 物 ぶつ 泉 いずみ )と認 みと められた[12] 。そこで茂 しげ 八 はち は泉 いずみ 館 かん という温泉 おんせん 旅館 りょかん を起 お こした。その後 ご 、付近 ふきん のあちこちに鉱泉 こうせん が掘 ほ られ、要 よう 館 かん ・羽田 はた 館 かん ・西本 にしほん 館 かん などの旅館 りょかん が神社 じんじゃ の傍 かたわ らに開業 かいぎょう した。また、それ以前 いぜん より営業 えいぎょう していた料理 りょうり 店 てん も風呂 ふろ を設 もう け、後 のち には百 ひゃく 余 よ 軒 けん もの社前 やしろまえ 店 てん が並 なら ぶほどになり[13] 、神社 じんじゃ 一帯 いったい が東京 とうきょう の花柳 かりゅう 界 かい などの保養 ほよう 地 ち となり、神社 じんじゃ 参拝 さんぱい を兼 か ねた東京 とうきょう 近郊 きんこう の一大 いちだい 観光 かんこう 地 ち として発展 はってん した。
当社 とうしゃ 鳥居 とりい の多 おお きこと一見 いっけん 人 じん をして驚 おどろ かしむ。 其状数 すう 町 まち の間 あいだ に互り。赤色 あかいろ のもの比 ひ 々相 あい 倚り続々 ぞくぞく 相 あい 連 れん る。洞 ほら を成 な し隧を致 いた す処 しょ 。散 さん ぜざるは何 なん の霞 かすみ ぞ。霽ざるは何 なん の虹 にじ ぞ。実 じつ は羽田 はた の一 いち 奇観 きかん なりといふべし。 — 明治 めいじ 44年刊 ねんかん 『新撰 しんせん 東京 とうきょう 名所 めいしょ 図会 ずえ 』より
1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )には、「稲荷 いなり 道 どう 」と通称 つうしょう される5町 まち 程 ほど の海老 えび 取 と 川 かわ から穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ の南側 みなみがわ に至 いた る新道 しんどう が開 ひら かれた[14] 。
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )、赤坂 あかさか から黒田 くろだ 侯爵 こうしゃく 家 か の鴨 かも 場 じょう が移転 いてん し、羽田 はた 鴨 かも 場 じょう が設置 せっち された[15] 。黒田 くろだ 家 か 14代目 だいめ 当主 とうしゅ 黒田 くろだ 長 ちょう 礼 れい によると、飛来 ひらい する鴨 かも の種類 しゅるい が多 おお く、1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )の最盛 さいせい 期 き には4,200坪 つぼ の池 いけ に1万 まん 5000~1万 まん 6000羽 わ 、時 とき には2万 まん 羽 わ を数 かぞ えたという[15] 。また、黒田 くろだ 家 か の鴨 かも 場 じょう 以外 いがい に料亭 りょうてい 要 よう 館 かん 経営 けいえい の鴨 かも 場 じょう や横浜 よこはま の実業 じつぎょう 家 か ・渡辺 わたなべ 良平 りょうへい 所有 しょゆう の鴨 かも 場 じょう も設置 せっち され、羽田 はた は鴨 かも 猟 りょう の場 ば としても発展 はってん した[15] 。
黒田 くろだ 家 か の鴨 かも 場 じょう は東郷 とうごう 元帥 げんすい とか、ああいう人 ひと たちが来 く ると猟 りょう をする。だから、上流 じょうりゅう の人 ひと の社交 しゃこう 場 じょう だった。要 よう 館 かん の鴨 かも 場 じょう の方 ほう は料理 りょうり 屋 や ですから、鴨 かも を獲 え ってはお客 きゃく に食 た べさせた。(中略 ちゅうりゃく )要 よう 館 かん の客 きゃく は穴守稲荷 あなもりいなり の参詣 さんけい 者 しゃ などだった。穴守 あなもり 周辺 しゅうへん は鴨 かも 猟 りょう の穴場 あなば だったんですよ。 — 季刊 きかん わが町 まち あれこれ 第 だい 15・16合併 がっぺい 号 ごう より
1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )には、中央 ちゅうおう 新聞 しんぶん 社 しゃ が主催 しゅさい した東日本 ひがしにっぽん の避暑 ひしょ 地 ち 「畿内 きない 以東 いとう 十 じゅう 六 ろく 名勝 めいしょう 」のコンクールで「府下 ふか 羽田 はねだ 穴守 あなもり 境内 けいだい 」が、1位 い を獲得 かくとく した[16] 。
1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )6月28日 にち には、京浜 けいひん 電鉄 でんてつ 穴守 あなもり 線 せん (現 げん ・空港線 くうこうせん )が京浜 けいひん 蒲田 かまた から延伸 えんしん して開通 かいつう し、海老 えび 取 と 川 かわ の手前 てまえ に穴守 あなもり 駅 えき を開業 かいぎょう した。海老 えび 取 と 川 かわ 手前 てまえ までの開通 かいつう になったのは、鈴木 すずき 新田 にった 周辺 しゅうへん が既 すで に住宅 じゅうたく 密集 みっしゅう 地 ち であったことと、1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )に架橋 かきょう された 稲荷 いなり 橋 きょう [17] [18] から穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ までの続 つづ く道中 どうちゅう の商店 しょうてん 主 ぬし や人力車 じんりきしゃ 稼業 かぎょう の人々 ひとびと が、商売 しょうばい にならなくなると反対 はんたい した為 ため といわれている[19] 。
品川 しながわ より電車 でんしゃ にのりて大森 おおもり 蒲田 かまた を経 へ て、羽田 はた に至 いた る。橋 はし をわたれば両側 りょうがわ 数 すう 町 まち の間 あいだ 、物 もの うる家 いえ 、立 た ちつづき、赤 あか き鳥居 とりい 密接 みっせつ してトンネルを成 な す。そのきはまる処 しょ 小祠 しょうし あり。穴守稲荷 あなもりいなり とて、近年 きんねん にはかに名高 なだか くなり、その参詣 さんけい 者 しゃ の多 おお きことは、ここに電車 でんしゃ が通 つう じたるにても知 し らるべく、鳥居 とりい のトンネルにても知 し らるべく、鉱泉 こうせん 宿 やど 、料理 りょうり 屋 や 、商店 しょうてん など僅々十 じゅう 年 ねん の間 あいだ 、洲 しま 渚 なぎさ に市街 しがい を現出 げんしゅつ したるにても知 し らるべし。(中略 ちゅうりゃく )十 じゅう 年 ねん 前 まえ 、稲荷 いなり に接近 せっきん せる鉱泉 こうせん 宿 やど の要 よう 館 かん に数日 すうじつ 逗留 とうりゅう して、著述 ちょじゅつ に従事 じゅうじ したこともありしが、その時 とき は二 に 三 さん の鉱泉 こうせん 宿 やど が出来 でき て居 お り、祠 ほこら 前 まえ に十 じゅう 数 すう 軒 けん 出来 でき て居 お りしのみなるに、十 じゅう 年 ねん の後 のち には、かくまでに市街 しがい が出来 でき るものかと、茫然 ぼうぜん として、しばし祠 ほこら 前 まえ に彳立 たた す — 大町 おおまち 桂月 けいげつ 著 ちょ 『東京 とうきょう 遊行 ゆぎょう 記 き 』より抜粋 ばっすい
当初 とうしょ 穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ への参詣 さんけい 者 しゃ 輸送 ゆそう を主眼 しゅがん としていた京浜 けいひん 電鉄 でんてつ は、文芸 ぶんげい 評論 ひょうろん 家 か の押川 おしかわ 春浪 しゅんろう や押川 おしかわ の友人 ゆうじん で文芸 ぶんげい 評論 ひょうろん 家 か ながら京浜 けいひん 電鉄 でんてつ に勤 つと めていた中沢 なかざわ 臨川 りんせん の働 はたら きかけにより、1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )に陸上 りくじょう トラック・野球 やきゅう 場 じょう ・テニスコート・弓道 きゅうどう 場 じょう ・土俵 どひょう のほか、花壇 かだん や遊 ゆう 園地 えんち も兼 か ね備 そな えた羽田 はた 運動 うんどう 場 じょう (野球 やきゅう 場 じょう )を神社 じんじゃ 裏手 うらて の江戸 えど 見崎 みさき に設置 せっち したことを嚆矢 こうし として、羽田 はた 地域 ちいき の独自 どくじ の観光 かんこう 開発 かいはつ に乗 の り出 だ し、境内 けいだい には動物 どうぶつ 園 えん までつくられた。
1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )3月 がつ には、穴守 あなもり 線 せん の複線 ふくせん 化 か が行 おこな われ、1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )7月 がつ 5日 にち には、京浜 けいひん 電鉄 でんてつ は羽田 はた 穴守 あなもり 海水浴 かいすいよく 場 じょう を開設 かいせつ し、報知新聞社 ほうちしんぶんしゃ と提携 ていけい し同社 どうしゃ の主催 しゅさい で、元 もと 内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 大隈 おおくま 重信 しげのぶ 伯爵 はくしゃく や渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち 、樺太 からふと 探検 たんけん で有名 ゆうめい な白瀬 しらせ 矗 のぶ 中尉 ちゅうい などを来賓 らいひん に迎 むか え、開場 かいじょう 式 しき を挙行 きょこう した。宣伝 せんでん 効果 こうか もあって、会場 かいじょう 直後 ちょくご の同年 どうねん 7月 がつ 16日 にち には、1日 にち 1万 まん 人 にん を越 こ える入場 にゅうじょう 者 しゃ が来場 らいじょう したと新聞 しんぶん の記録 きろく に残 のこ されている[20] 。その後 ご 、羽田 はた 穴守 あなもり 海水浴 かいすいよく 場 じょう には、毎年 まいとし 5万 まん 人 にん の入場 にゅうじょう 者 しゃ が来場 らいじょう し、後 のち には海 うみ の家 いえ や浄化 じょうか 海水 かいすい プール も新設 しんせつ されている[21] 。これらの施設 しせつ は、当時 とうじ の海水浴 かいすいよく 場 じょう としては群 ぐん を抜 ぬ いたものであり、海上 かいじょう 休憩 きゅうけい 場 じょう のほか陸上 りくじょう にも休憩 きゅうけい 場 じょう 2棟 むね 、収容 しゅうよう 人数 にんずう は1万 まん 人 にん 、特別 とくべつ 休憩 きゅうけい 室 しつ 64室 しつ 、3500人 にん 分 ぶん の更衣 ころもがえ 室 しつ 、東洋 とうよう 一 いち と謳 うた われた海水 かいすい プール、海 うみ の遊泳 ゆうえい 場 じょう には飛込台 とびこみだい やボートもあり、総 そう タイル張 ば りでシャワー設備 せつび 等 とう も設 もう けた温浴 おんよく 場 じょう 、滑 すべ り台 だい やシーソー等 とう を設置 せっち した陸上 りくじょう 遊戯 ゆうぎ 場 じょう 、余興 よきょう 場 じょう 、各種 かくしゅ 売店 ばいてん 等 とう 、あらゆる施設 しせつ を備 そな えた一大 いちだい 娯楽 ごらく 施設 しせつ だった[22] 。
羽田 はた 穴守 あなもり 海水浴 かいすいよく 場 じょう
京浜 けいひん 電鉄 でんてつ (現 げん ・京急 けいきゅう )の広告 こうこく
同年 どうねん 10月 がつ 、京浜 けいひん 電鉄 でんてつ は穴守 あなもり 線 せん を神社 じんじゃ のすぐ近 ちか くまで延伸 えんしん することを計画 けいかく し、東京 とうきょう 府 ふ に申請 しんせい を行 おこな った[23] 。しかし、この動 うご きに対 たい して再 ふたた び「稲荷 いなり 道 どう 」関係 かんけい 者 しゃ が150名 めい 以上 いじょう による延伸 えんしん 反対 はんたい の陳情 ちんじょう 書 しょ を東京 とうきょう 府知事 ふちじ に対 たい して提出 ていしゅつ するなど反対 はんたい 運動 うんどう を展開 てんかい [24] 、これを受 う けて警視庁 けいしちょう などが調停 ちょうてい に乗 の り出 だ し、稲荷 いなり 橋 きょう 駅 えき から穴守 あなもり 新駅 しんえき までの間 あいだ は別 べつ に運賃 うんちん を徴収 ちょうしゅう するということで落着 らくちゃく し、延伸 えんしん が決 き まった[25] 。
また同年 どうねん 11月18日 にち から11月19日 にち には、1912年 ねん ストックホルムオリンピック に日本 にっぽん が初 はつ 参加 さんか することになったことで、予選 よせん 会 かい を都心 としん から近 ちか くて交通 こうつう の便 びん がよい羽田 はた 運動 うんどう 場 じょう で開催 かいさい することになり、野球 やきゅう 場 じょう を1周 しゅう 約 やく 400メートルの運動 うんどう 場 じょう に転換 てんかん して、国際 こくさい オリムピック大会 たいかい 選手 せんしゅ 予選 よせん 会 かい が開催 かいさい された。
1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )には一帯 いったい が三業 さんぎょう 地 ち (花街 はなまち )に指定 してい され、そして同年 どうねん 12月31日 にち には、遂 つい に穴守 あなもり 線 せん が海老 えび 取 と 川 かわ を渡 わた って神社 じんじゃ 前 まえ までの延伸 えんしん を果 は たし新 しん 穴守 あなもり 駅 えき が開業 かいぎょう 、穴守 あなもり 詣 もう でと羽田 はた の遊覧 ゆうらん に弾 はず みを与 あた えた。夏季 かき には観光 かんこう 客 きゃく 輸送 ゆそう のため本線 ほんせん と直通 ちょくつう する急行 きゅうこう 列車 れっしゃ も運転 うんてん されるようになり、一層 いっそう の賑 にぎ わいを見 み せるようになった。一方 いっぽう で、それまで繁栄 はんえい を極 きわ めていた「稲荷 いなり 道 どう 」沿道 えんどう は、客足 きゃくあし がぱったりと途絶 とだ え、僅 わず か一 いち か月 げつ 後 ご の翌年 よくねん 1月 がつ には、延伸 えんしん 前 ぜん 合計 ごうけい 80軒 けん 以上 いじょう 存在 そんざい していた土産物 みやげもの 屋 や や飲食 いんしょく 店 てん などが一挙 いっきょ に3軒 けん を残 のこ すばかりになっている[26] 。
このような、明治 めいじ 半 なか ばから始 はじ まる羽田 はた 地域 ちいき の行楽 こうらく 地 ち 化 か は、日 にち 清 しん ・日 にち 露 ろ の両 りょう 戦争 せんそう に勝利 しょうり して、ようやく近代 きんだい 国家 こっか として歩 あゆ み始 はじ めた時代 じだい と社会 しゃかい の反映 はんえい でもあった。東京 とうきょう を代表 だいひょう とする都市 とし の新興 しんこう 市民 しみん は、日曜 にちよう 休暇 きゅうか というそれまでの農 のう 間 あいだ 休暇 きゅうか とは明 あき らかに質 しつ の異 こと なる新 あたら しい生活 せいかつ リズムの休日 きゅうじつ を持 も つようになり、郊外 こうがい に日帰 ひがえ りあるいは一 いち 泊 はく で手軽 てがる に遊 あそ べる行楽 こうらく 地 ち を求 もと め出 だ したわけである[27] 。信仰 しんこう と娯楽 ごらく を混 こん 然 しか とさせつつ、近郊 きんこう オアシスとして羽田 はた は姿 すがた を整 ととの えていったのである[27] 。羽田 はた 穴 あな 守 もり が優 すぐ れていたのは、花街 はなまち のような妖艶 ようえん な空間 くうかん 、運動 うんどう 場 じょう や海水浴 かいすいよく 場 じょう といった幅広 はばひろ い層 そう に向 む けたレジャー施設 しせつ 、東京 とうきょう 湾 わん や多摩川 たまがわ 河口 かこう の優 すぐ れた景観 けいかん や神社 じんじゃ のような聖域 せいいき が共存 きょうぞん していたところにある[28] 。明治 めいじ 時代 じだい 末期 まっき には、人口 じんこう が1万 まん 人 にん 以上 いじょう いた羽田 はねだ 町 まち の町 まち 税 ぜい の内 うち 、人口 じんこう 700人 にん の羽田 はた 穴守 あなもり 地域 ちいき が2割 わり 以上 いじょう を納 おさ めていたという[29] 。
橋 はし の袂 たもと へかゝると、あゝもし〱橋 きょう 銭 ぜに をと傍 かたわ らの番小屋 ばんごや から声 こえ をかけられ、大枚 たいまい 往復 おうふく 一 いち 銭 ぜに の切符 きっぷ を買 か って橋 はし を渡 わた ると、赤 あか い華 はな 表 ひょう が算 さん へ切 き れぬまでぎっしり建 た て隧道 すいどう をなしてゐる、又 また 其間には芸者 げいしゃ や役者 やくしゃ や落語 らくご 家 か などの名 な を記 しる した無数 むすう の献灯 けんとう が行列 ぎょうれつ してゐる、片側 かたがわ には名物 めいぶつ の宝玉 ほうぎょく 煎餅 せんべい 、飴 あめ 、 蛤 はまぐり や土産物 みやげもの の玩弄 がんろう 物 ぶつ を売 う る店 みせ が軒 のき を連 つら ねて客 きゃく の懐 なつけ ろを狙 ねら ってゐる、一丁 いっちょう 計 はか りも真 ま っ直 す ぐに行 い って左 ひだり へ直角 ちょっかく に折 お れると、両側 りょうがわ の茶屋 ちゃや からコツテリ塗 ぬ った口 くち の光 ひかり つた穴 あな 守 もり だけに狐 きつね に縁 えん のありそうな怪 あや しい女 おんな が出 で て来 き て、お休 やす みなすって入 はい らつしやい奥 おく もすいて居 お ります、お支度 したく も出来 でき て居 お ります。 お風呂 ふろ も出来 でき て居 お ります、お休 やす みなすつて入 はい っしやいと殆んど手 て を捉へんばかりに呼 よ び込 こ む — 『横浜 よこはま 貿易 ぼうえき 新報 しんぽう 穴守 あなもり 詣 もう で(上 うえ )』明治 めいじ 41年 ねん 2月 がつ 27日 にち 付 づ けより
社 しゃ の後 のち 辺 あたり へ出 で ると松風 まつかぜ と波 なみ の音 おと とが先 さき づ聞 きこ える、これから奥 おく の院 いん の人造 じんぞう が嶽 たけ に登 とう つて、何処 どこ か絵 え になりそうな場所 ばしょ は無 な いかとレンス眼 め を睜つてゐると、傍 かたわ らの四 よん 十 じゅう 恰好 かっこう の男 おとこ 、鋸山 のこぎりやま が見 み えませんかえ、今日 きょう は生憎 あいにく 沖 おき が霞 かす みましたね、此見当 けんとう が横浜 よこはま で、彼処 あそこ が高輪 たかなわ でさアと聞 き きもせぬ講釈 こうしゃく をする(中略 ちゅうりゃく ) 兎 うさぎ に角 かく 穴守 あなもり 第 だい 一 いち の観 かん と云 うん へば、此処 ここら から東 ひがし の海 うみ を見 み たところであらう、コバルト色 しょく の空 そら と水 みず との継目 つぎめ を、其間に点綴 てんてい せる沖 おき の白帆 しらほ が楔 くさび のや(ママ)うにも見 み えて、一寸 ちょっと した洲 しま 鼻 はな を黄 き ばんだ蘆 あし が水 みず を隔 へだ て向 こう ふの岸 きし を穏(ママ)して、その蔭 かげ を近 ちか く行 い く船 ふね の帆 ほ ばかりが松 まつ の隙 すき から見 み える工合 ぐあい は、瀟洒 しょうしゃ してのび〱した光景 こうけい で、俗 ぞく の俗 ぞく なる此境域 きょういき には珍 ちん らしい眺 なが めである — 『横浜 よこはま 貿易 ぼうえき 新報 しんぽう 穴守 あなもり 詣 もう で(下 した )』明治 めいじ 41年 ねん 2月 がつ 29日 にち 付 づ けより
日本 にっぽん 飛行 ひこう 学校 がっこう と東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう [ 編集 へんしゅう ]
大正 たいしょう 時代 じだい に入 はい ると京浜 けいひん 間 あいだ の工業 こうぎょう 地帯 ちたい 化 か が始 はじ まり、東京 とうきょう 湾岸 わんがん の埋 う め立 た てが進 すす んでゆく中 なか で、穴守 あなもり 地域 ちいき にも行楽 こうらく 地 ち 以外 いがい の要素 ようそ が生 う まれてくるようになる。その最 さい たるものが、こんにちの羽田 はた を象徴 しょうちょう する航空 こうくう 好 こう 適地 てきち としての存在 そんざい である。
きっかけとなったのが、「日本 にっぽん 飛行 ひこう 学校 がっこう 」と「日本 にっぽん 飛行機 ひこうき 製作所 せいさくしょ 」の穴守稲荷 あなもりいなり 門前 もんぜん への設立 せつりつ である。1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )、麻布 まふ に鉄工 てっこう 所 しょ を持 も ち発動 はつどう 機 き の研究 けんきゅう 開発 かいはつ をしていた友野 ともの 直二 なおじ と千葉 ちば 県 けん 稲毛 いなげ 海岸 かいがん で飛行 ひこう 練習 れんしゅう に明 あ け暮 く れていた玉井 たまい 清太郎 せいたろう が日本 にっぽん 飛行機 ひこうき 製作所 せいさくしょ を立 た ち上 あ げる[30] [31] 。同 おな じ頃 ごろ 、飛行 ひこう 家 か を志 こころざ すも強度 きょうど の近視 きんし のため断念 だんねん し飛行 ひこう 雑誌 ざっし で記事 きじ を書 か いていた相羽 あいば 有 ゆう ( あいばたもつ ) も友野 ともの を通 つう じて清太郎 せいたろう と出会 であ う[32] 。飛行機 ひこうき に夢 ゆめ を賭 か ける二 に 人 にん はすぐに意気投合 いきとうごう し、日本 にっぽん 民間 みんかん 飛行 ひこう 界 かい の隆 りゅう 興 きょう のためにも一旗揚 ひとはたあ げようと共同 きょうどう で飛行 ひこう 家 か の養成 ようせい 学校 がっこう を創 つく ることを決 き めた。当時 とうじ は清太郎 せいたろう が24歳 さい で相羽 あいば は21歳 さい 、正規 せいき の飛行場 ひこうじょう など用意 ようい できるわけもなく、千葉 ちば の稲毛海岸 いなげかいがん にならって練習 れんしゅう 場 じょう は干潟 ひがた 。好 こう 適地 てきち を探 さが した結果 けっか 多摩川 たまがわ 河口 かこう 付近 ふきん の川崎 かわさき 側 がわ 、通称 つうしょう ・三 さん 本 ほん 葭 かや (さんぼんよし)と呼 よ ばれる三角州 さんかくす の干潟 ひがた をその場所 ばしょ に決 き め、対岸 たいがん の羽田 はねだ 町 まち に学校 がっこう を開 ひら くこととした。そこで二 に 人 にん は穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 総代 そうだい で鉱泉 こうせん 宿 やど ・要 よう 館 かん 当主 とうしゅ の石關 いしぜき 倉吉 くらよし へ直談判 じかだんぱん し、石關 いしぜき は航空 こうくう に志 こころざし を立 た てた二人 ふたり の若者 わかもの の熱意 ねつい に感 かん じ入 い って、 元 もと 料亭 りょうてい の古 ふる い建物 たてもの を校舎 こうしゃ として、隣 となり の建物 たてもの を機体 きたい 製作 せいさく の作業場 さぎょうば として提供 ていきょう した[33] 。
そして1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )8月 がつ 16日 にち 付 づけ で清太郎 せいたろう が「日本 にっぽん 飛行 ひこう 学校 がっこう 」の設立 せつりつ を申請 しんせい [34] 、同年 どうねん 10月 がつ 5日 にち 、玉井 たまい 清太郎 せいたろう の操縦 そうじゅう によって羽田 はた の空 そら を初 はじ めて飛行機 ひこうき が飛 と び[35] 、翌 よく 1917年 ねん 1月 がつ 4日 にち に日本 にっぽん 飛行 ひこう 学校 がっこう が正式 せいしき に開校 かいこう した[36] 。尚 なお 、初期 しょき 練習 れんしゅう 生 せい の中 なか には後 のち にゴジラ を創 つく る円谷 つぶらや 英二 えいじ もいた。
千葉 ちば 県 けん の稲毛 いなげ 海岸 かいがん を海水浴 かいすいよく 客 きゃく が危 あぶ ながるからと追 お い出 だ され、飛行機 ひこうき 滑走 かっそう が可能 かのう な場所 ばしょ を探 さが し求 もと めて移 うつ ってきたのが穴守稲荷 あなもりいなり の向 む こうの六郷 ろくごう 川 がわ (多摩川 たまがわ )の三角州 さんかくす だった。穴守 あなもり に日本 にっぽん 飛行 ひこう 学校 がっこう を開設 かいせつ したことが羽田 はた 飛行場 ひこうじょう の起源 きげん となった。 — 相羽 あいば 有 ゆう (1936年 ねん 5月 がつ ・日本 にっぽん 交通 こうつう 協会 きょうかい 定時 ていじ 総会 そうかい の晩餐 ばんさん 会 かい での発言 はつげん より)
穴守 あなもり 随一 ずいいち の有力 ゆうりょく 者 しゃ 、石関 いしぜき さんと初 はつ 会見 かいけん した私 わたし は、「将来 しょうらい の国防 こくぼう は飛行機 ひこうき が第 だい 一線 いっせん に戦 たたか う武器 ぶき となる。この製造 せいぞう と飛行 ひこう 士 し の育成 いくせい はもっとも緊急 きんきゅう を要 よう する」と臆面 おくめん もなくまくしたてた。大 だい 地主 じぬし の石関 いしぜき さんは、どこの馬 うま の骨 ほね とも知 し れぬ一 いち 青年 せいねん の、おこがましくも航空 こうくう に一身 いっしん を捧 ささ げる覚悟 かくご を披露 ひろう したことに感動 かんどう せられた。老 ろう 侠客 きょうかく のような石関 いしぜき さんの快諾 かいだく は千鈞 せんきん の重 おも みがあった。立派 りっぱ な玄関 げんかん のついた建物 たてもの を本館 ほんかん とし、元 もと 料亭 りょうてい の離 はな れ家 や を教室 きょうしつ として開校 かいこう した。これは無償 むしょう 提供 ていきょう されたものだ。かなめ館 かん の女中 じょちゅう が上等 じょうとう の料理 りょうり を運 はこ び込 こ んで、主人 しゅじん からの進物 しんもつ ですといわれて、食 く い気 け ざかりの一同 いちどう が欣喜雀躍 きんきじゃくやく したこともある。 — 昭和 しょうわ 41年刊 ねんかん 『日本 にっぽん 民間 みんかん 航空 こうくう 史話 しわ 』羽田 はた 飛行場 ひこうじょう の生 お い立 た ち(相羽 あいば 有 ゆう )より
多摩川 たまがわ が海 うみ にそそぐ海岸 かいがん の浅瀬 あさせ の砂浜 すなはま は、干潮 かんちょう 時 じ には一 いち 面 めん の干潟 ひがた になり、平坦 へいたん で、軽 かる い飛行機 ひこうき の滑走 かっそう には好適 こうてき であった[37] 。この羽田 はた の地 ち を飛行場 ひこうじょう 好 こう 適地 てきち と見出 みいだ した彼 かれ らが居 い たことが、後 ご の東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ に繋 つな がり、今日 きょう の東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう 発展 はってん の礎 いしずえ となった[38] [39] [40] 。
大正 たいしょう 五 ご 年 ねん (一 いち 九 きゅう 一 いち 六 ろく )、弱冠 じゃっかん 二 に 十 じゅう 一 いち 才 さい で、東京 とうきょう 府 ふ 荏原 えばら 郡 ぐん 羽田 はねだ 町 まち 穴守 あなもり の稲荷 いなり 神社 じんじゃ の近 ちか くに、日本 にっぽん 飛行 ひこう 学校 がっこう と日本 にっぽん 飛行機 ひこうき 製作所 せいさくしょ とを創立 そうりつ した。(中略 ちゅうりゃく )六郷 ろくごう 川 がわ の海 うみ にそそぐ両 りょう 岸 きし の浅瀬 あさせ の砂浜 すなはま は、干潮 かんちょう 時 じ には一 いち 面 めん の干潟 ひがた になる。平坦 へいたん であり、軽 かる い飛行機 ひこうき の滑走 かっそう には好適 こうてき であった。(中略 ちゅうりゃく )それから十 じゅう 余 よ 年 ねん の空白 くうはく 期間 きかん を過 す ごした羽田 はた 穴 あな 守 もり が、東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう として再 ふたた び浮 う かびあがる奇縁 きえん をもったのは、昭和 しょうわ 四 よん 年 ねん のことである。(中略 ちゅうりゃく )そこへ日本 にっぽん 飛行 ひこう 学校 がっこう が羽田 はた を開拓 かいたく した功労 こうろう 者 しゃ だからとて特別 とくべつ の承認 しょうにん を得 え 、(中略 ちゅうりゃく )昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 、終戦 しゅうせん とともに、米 べい 軍 ぐん 命令 めいれい で、えびとり川 かわ 以東 いとう の穴守 あなもり 一帯 いったい は、稲荷 いなり 神社 じんじゃ 、数 すう 百 ひゃく 戸 こ の住居 じゅうきょ 全部 ぜんぶ が一夜 いちや にして立退 たちの きを強制 きょうせい された。弁天 べんてん 橋 きょう と稲荷 いなり 橋 きょう も交通 こうつう を遮断 しゃだん された。この前代未聞 ぜんだいみもん の不測 ふそく の運命 うんめい に泣 な いた方々 かたがた に、ここに半 はん 世紀 せいき 前 まえ に飛行場 ひこうじょう を創始 そうし したことに発端 ほったん することを顧 かえり み、申 もう しわけないと思 おも っている。 — 昭和 しょうわ 41年刊 ねんかん 『日本 にっぽん 民間 みんかん 航空 こうくう 史話 しわ 』羽田 はた 飛行場 ひこうじょう の生 お い立 た ち(相羽 あいば 有 ゆう )より
1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )9月 がつ 1日 にち の関東大震災 かんとうだいしんさい の際 さい には、羽田 はた 近辺 きんぺん は推定 すいてい 震度 しんど 7 の揺 ゆ れに見舞 みま われた[41] 。大正 たいしょう 震災 しんさい 志 こころざし によると鈴木 すずき 新田 しんでん は荏原 えばら 郡 ぐん 内 ない で最 もっと も被害 ひがい が甚 はなは だしいとされ、神社 じんじゃ 北方 ほっぽう の堤防 ていぼう が破 やぶ 潰 つぶ したことで、満潮 まんちょう 時 じ には浸水 しんすい 、全体 ぜんたい に渡 わた り0.2-0.3m低下 ていか し、穴守 あなもり 線 せん も終点 しゅうてん 付近 ふきん に亀裂 きれつ 多数 たすう 、海老 えび 取 と 川 かわ 橋梁 きょうりょう が崩壊 ほうかい 、稲荷 いなり 橋 きょう 南方 なんぽう 堤 つつみ に沿 そ い地盤 じばん に亀裂 きれつ 等 とう の被害 ひがい 報告 ほうこく が残 のこ っている[41] 。また、関東大震災 かんとうだいしんさい により鉄道 てつどう が壊滅 かいめつ 的 てき 被害 ひがい をうけたことで、帝国 ていこく 飛行 ひこう 協会 きょうかい 副 ふく 会長 かいちょう 及 およ び帝都 ていと 復興 ふっこう 評議 ひょうぎ 員 いん の長岡 ながおか 外史 がいし が、11月15日 にち の帝都 ていと 復興 ふっこう 第 だい 一 いち 回 かい 評議 ひょうぎ 員 いん 会 かい の席上 せきじょう で飛行機 ひこうき による物資 ぶっし 輸送 ゆそう の重要 じゅうよう 性 せい を主張 しゅちょう し、羽田 はた に飛行場 ひこうじょう が必要 ひつよう だと提言 ていげん した[42] 。
所沢 ところざわ と立川 たちかわ は(飛行場 ひこうじょう として)遠 とお きに過 す ぎます。少 すく なくとも羽田 はた 付近 ふきん 、青梅 おうめ 街道 かいどう 上 じょう の荻窪 おぎくぼ 付近 ふきん 、中山道 なかせんどう の赤羽根 あかばね 付近 ふきん の三 さん か所 しょ に約 やく 二 に 〇万 まん 坪 つぼ (約 やく 六 ろく 六 ろく 万 まん 平方 へいほう m)の飛行場 ひこうじょう を設 もう ける必要 ひつよう があり、この他 た 大山 おおやま 街道 かいどう 上 じょう の世田谷 せたがや ならびに千葉 ちば 街道 かいどう 国府台 こうのだい 付近 ふきん に一朝 いっちょう 事 ごと ある場合 ばあい を考 かんが え、臨時 りんじ 飛行場 ひこうじょう (不時 ふじ 着陸 ちゃくりく 場 じょう )を設 もう ける必要 ひつよう があります。この飛行場 ひこうじょう のなかで、どこを国際 こくさい 飛行場 ひこうじょう にすべきかをいえば、私 わたし は羽田 はた 付近 ふきん を選 えら ぶに躊躇 ちゅうちょ しません。羽田 はた は東京 とうきょう に近 ちか く、交通 こうつう も便利 べんり 、しかも国際 こくさい 飛行場 ひこうじょう として水 みず ・陸 りく 飛行機 ひこうき の発着 はっちゃく に好条件 こうじょうけん を備 そな えています — 長岡 ながおか 外史 がいし 『21世紀 せいき へ伝 つた える航空 こうくう ストーリー 戦前 せんぜん 戦後 せんご の飛行場 ひこうじょう ・空港 くうこう 総 そう ざらえ』より
1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )には、穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ が昭和 しょうわ の御 ご 大典 たいてん を機 き に村社 そんしゃ へ昇格 しょうかく し、名実 めいじつ ともに鈴木 すずき 新田 しんでん の鎮守 ちんじゅ となった。同年 どうねん 10月 がつ には、京浜 けいひん 電鉄 でんてつ の重役 じゅうやく から一 いち の大鳥居 おおとりい として朱 しゅ 鳥居 とりい (後 ご の羽田空港 はねだくうこう に残 のこ された大鳥居 おおとりい )が、穴守 あなもり 駅前 えきまえ に奉納 ほうのう されている。
そして、逓信 ていしん 省 しょう 航空局 こうくうきょく が神社 じんじゃ 北側 きたがわ の土地 とち (現在 げんざい の整備 せいび 場 じょう 地区 ちく 付近 ふきん )を、前述 ぜんじゅつ のように飛行機 ひこうき の適地 てきち であり、東京 とうきょう 都心 としん 部 ぶ に近 ちか く、京浜 けいひん 間 あいだ の中間 ちゅうかん に位置 いち し、水陸 すいりく 両用 りょうよう 飛行場 ひこうじょう として利用 りよう 可能 かのう だと目 め を付 つ け[43] 、飛嶋 とびしま 文吉 ぶんきち (飛島 とびしま 組 ぐみ )から買収 ばいしゅう 、新 あたら しい飛行場 ひこうじょう の建設 けんせつ に着手 ちゃくしゅ し、1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )8月 がつ 25日 にち にそれまで立川 たちかわ にあった東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう が移転 いてん 開港 かいこう した。ただ、コンクリート 敷 じき の滑走 かっそう 路 ろ 以外 いがい はほとんど草 くさ 地 ち であったうえ、無線 むせん による管制 かんせい が行 おこな われていないため管制塔 かんせいとう もなかったなど、設備 せつび は簡素 かんそ なものであった(面積 めんせき 53ha、滑走 かっそう 路 ろ 300m、幅 はば 15m)。滑走 かっそう 路 ろ 脇 わき にカタカナの右 みぎ 読 よ みで「トウキヤウ」と書 か かれたコンクリート 製 せい の標識 ひょうしき 文字 もじ が設置 せっち されていた[44] [45] 。これ以来 いらい 、羽田 はた の街 まち は今日 きょう に至 いた るまで空港 くうこう 城下町 じょうかまち として発展 はってん してゆく事 こと になる。
空中 くうちゅう からみた羽田 はた 競馬 けいば 場 じょう
1932年 ねん には、羽田 はた 競馬 けいば 場 じょう が近隣 きんりん の羽田 はた 入船 いりふね 耕地 こうち (現 げん 東糀谷 ひがしこうじや 付近 ふきん )から、鈴木 すずき 新田 しんでん の東 ひがし にある御 ご 台場 だいば (羽田 はた 御 ご 台場 だいば ・鈴木 すずき 御 ご 台場 だいば ・猟師 りょうし 町 まち 御 ご 台場 だいば )へ移転 いてん してくることになった。予定 よてい 地 ち である御 ご 台場 だいば は多摩川 たまがわ の河口 かこう にできた広大 こうだい な干潟 ひがた で、天保 てんぽう 年間 ねんかん には江戸 えど 幕府 ばくふ が砲台 ほうだい をつくろうとして中止 ちゅうし したところでもあった。現在 げんざい の東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう 第 だい 3ターミナルあたりがその場所 ばしょ である。ただ、同地 どうち は土地 とち 台帳 だいちょう 上 うえ こそ畑地 はたち とされていたものの、満潮 まんちょう 時 じ にはほとんどが水没 すいぼつ してしまう湿地 しっち 帯 たい だった。そのため、主催 しゅさい 者 しゃ 側 がわ は東京 とうきょう 湾 わん 埋立 うめたて 株式会社 かぶしきがいしゃ に施工 しこう を発注 はっちゅう 。同地 どうち を埋 う め立 た て、盛 も り土 つち をして競馬 けいば 場 じょう を建設 けんせつ するという当時 とうじ としては一大 いちだい プロジェクトを敢行 かんこう した。完成 かんせい した新 しん 競馬 けいば 場 じょう の総 そう 面積 めんせき は、10万 まん 坪 つぼ (約 やく 333平方 へいほう メートル)・1周 しゅう 1600メートル・幅員 ふくいん 30メートルと、現在 げんざい の大井 おおい 競馬 けいば 場 じょう の外回 そとまわ りコース(1周 しゅう 1600メートル、幅員 ふくいん 25メートル)と同 どう 規模 きぼ であった。新 しん 競馬 けいば 場 じょう での最初 さいしょ の開催 かいさい は7月 がつ 3日 にち から5日 にち にかけて行 おこな われ、55万 まん 4229円 えん の売上 うりあげ を記録 きろく している。さらに、1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )7月 がつ の開催 かいさい で売上 うりあげ は初 はじ めて100万 まん 円 えん の大台 おおだい を突破 とっぱ 、その後 ご も地方 ちほう 競馬 けいば では全国 ぜんこく 一 いち の盛況 せいきょう が続 つづ き、羽田 はた の地 ち に新 あら たな名所 めいしょ が誕生 たんじょう することになった[46] [47] 。
また、1932年 ねん 10月1日 にち には、荏原 えばら 郡 ぐん 羽田 はねだ 町 まち が東京 とうきょう 市 し へ編入 へんにゅう され、新設 しんせつ された蒲田 かまた 区 く の一部 いちぶ となった[注 ちゅう 1] 。あわせて、鈴木 すずき 新田 しんでん も羽田 はた 穴守 あなもり 町 まち ・羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち ・羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち ・羽田 はた 御 ご 台場 だいば ・鈴木 すずき 御 ご 台場 だいば に改称 かいしょう ・分割 ぶんかつ された。
旧 きゅう 羽田 はねだ 穴守 あなもり 町 まち :現 げん 羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ 及 およ び二 に 丁目 ちょうめ の一部 いちぶ 、町 まち 域 いき は現 げん B滑走 かっそう 路 ろ の南端 なんたん 付近 ふきん [48] 。穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ をはじめ、鉱泉 こうせん 宿 やど や料亭 りょうてい 、土産物 みやげもの 屋 や など多種 たしゅ 多様 たよう な商店 しょうてん が並 なら ぶ門前 もんぜ 町 まち の中核 ちゅうかく であった[49] 。
旧 きゅう 羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち :現 げん 羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ 及 およ び二 に 丁目 ちょうめ の一部 いちぶ 、町 まち 域 いき は現 げん 荏原製作所 えばらせいさくしょ の対岸 たいがん 付近 ふきん から現 げん 羽田空港 はねだくうこう ワークステーション付近 ふきん に亘 わた ってL字 じ 型 がた に広 ひろ がっていた[50] 。商店 しょうてん が集 あつ まっていた穴守 あなもり 町 まち とは対象 たいしょう 的 てき に、数 すう 多 おお くの人家 じんか が集 あつ まっており、玉川 たまがわ 弁財天 べざいてん や鈴 すず 納 おさめ 稲荷 いなり 神社 じんじゃ も鈴木 すずき 町内 ちょうない に鎮座 ちんざ していた。また、東西 とうざい に穴守 あなもり 線 せん が通 とお り、終点 しゅうてん の穴守 あなもり 駅 えき も鈴木 すずき 町内 ちょうない にあった[51] 。
旧 きゅう 羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち :現 げん 羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ 及 およ び二 に 丁目 ちょうめ の一部 いちぶ 、町 まち 域 いき は現 げん 羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ の北 きた 半分 はんぶん にあたり、東京 とうきょう モノレールの整備 せいび 場 じょう 駅 えき のほか各 かく 航空 こうくう 会社 かいしゃ の関連 かんれん ビルや整備 せいび 工場 こうじょう ・格納庫 かくのうこ など多 おお くの建物 たてもの が並 なら んでいる[52] 。羽田 はた 運動 うんどう 場 じょう や鴨 かも 場 じょう 、のちには東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう の前身 ぜんしん である国営 こくえい の民間 みんかん 飛行場 ひこうじょう ・東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう が所在 しょざい し、穴守 あなもり 町 まち ・鈴木 すずき 町 まち と比較 ひかく して住民 じゅうみん はほとんどいなかった[53] 。
旧 きゅう 羽田 はた 御 ご 台場 だいば ・鈴木 すずき 御 ご 台場 だいば ・猟師 りょうし 町 まち 御台 みだい 場 じょう :現 げん 羽田空港 はねだくうこう 二 に 丁目 ちょうめ の一部 いちぶ 、町 まち 域 いき は第 だい 3ターミナル付近 ふきん 。羽田 はた 競馬 けいば 場 じょう が所在 しょざい した。
本町 ほんまち は
都 と の
隅 すみ に
在 あ り、
多摩 たま 川口 かわぐち の
左岸 さがん に
位 くらい し、
東 ひがし は
東京 とうきょう 灣 わん に
面 めん してゐる。
穴守稻荷 あなもりいなり の
存在 そんざい に
依 よ つて
古 ふる くから
知 し られた
漁村 ぎょそん であるが
最近 さいきん 東洋 とうよう 一 いち の
飛行場 ひこうじょう の
設置 せっち に
依 よ つて
共 ども の
名 な は
世界 せかい 的 てき となつた。
小田原 おだわら 北條 ほうじょう 氏 し の
時代 じだい には
羽田 はた 浦 うら 又 また は
扇ケ浦 おうぎがうら と
稱 しょう し
家人 かじん 行方 ゆくえ 彈正 だんじょう の
所領 しょりょう となり、
德川 とくがわ 氏 し 入國 にゅうこく 後 ご は
其 そ の
直 ちょく 領 りょう として
代官 だいかん を
置 お かれた。
元祿 げんろく 六 ろく 年 ねん 羽田 はねだ 村 むら から
羽田 はた 獵師 りょうし 町 まち を
分 わか ち、
同年 どうねん 更 さら に
羽田 はねだ 村 むら から
萩中 はぎなか 村 むら が
分村 ぶんそん し、
文化 ぶんか 十 じゅう 二 に 年 ねん 羽田 はた 獵師 りょうし 町 まち から
鈴木 すずき 新田 しんでん を
分 わか つた。
天保 てんぽう 十 じゅう 四 よん 年 ねん に
幕府 ばくふ は
海外 かいがい の
事情 じじょう (
阿片 あへん 戰爭 せんそう )に
鑑 かんが み此地に
奉行 ぶぎょう を
置 お き
老中 ろうじゅう 眞田 さなだ 幸 みゆき 貫 ぬき をして
羽田 はた 奉行 ぶぎょう に
任 にん じ
砲臺 ほうだい を
築 きず かしめた。
明治 めいじ 元年 がんねん 品川 しながわ 縣 けん に
屬 ぞく し、
同年 どうねん 東京 とうきょう 府 ふ の
管下 かんか に
入 はい り
明治 めいじ 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん に
羽田 はた 、
羽田 はた 獵師 りょうし 町 まち 、
鈴木 すずき 新田 にった 、
糀谷 こうじや 、
下袋 しもぶくろ 、
濱竹 はまたけ 、
萩中 はぎなか を
合併 がっぺい して
羽田 はねだ 村 むら を
編成 へんせい したが
同 どう 四 よん 十 じゅう 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 町 まち となった。
漁業 ぎょぎょう を
以 もっ て
生業 せいぎょう としてゐる。
本町 ほんまち は蒲田 かまた より分岐 ぶんき して居 い る京濱 けいひん 電車 でんしゃ と京濱 けいひん バスを唯一 ゆいいつ の交通 こうつう 機関 きかん として居 い る。
敎育 きょういく 施設 しせつ としては本町 ほんまち は面積 めんせき 廣 ひろ き爲 ため め、尋常 じんじょう 高等 こうとう 小學校 しょうがっこう 二 に 、尋常 じんじょう 小學校 しょうがっこう 二 に を有 ゆう する。逐年 ちくねん 兒童 じどう が増加 ぞうか する結果 けっか 全校 ぜんこう 二 に 部 ぶ 敎授 きょうじゅ を施工 しこう するの止 や むなき狀態 じょうたい である。 其他實業 じつぎょう 補習 ほしゅう 學校 がっこう 二 に 、靑年 せいねん 訓練 くんれん 所 しょ 二 に 、尋常 じんじょう 夜 よる 學校 がっこう 一 いち がある。尚 なお 東京 とうきょう 府立 ふりつ 工藝 こうげい 學校 がっこう の實習 じっしゅう 所 しょ が設置 せっち されてゐる。
町内 ちょうない の社會 しゃかい 事業 じぎょう としては方面 ほうめん 委員 いいん 制度 せいど の外 そと 見 み るべきものなく、町營 ちょうえい 以外 いがい では府立 ふりつ 勞働 ろうどう 紹介 しょうかい 所 しょ 出張所 しゅっちょうしょ が町 まち 役場 やくば 内 ない に設置 せっち されてゐる外 そと 私設 しせつ の羽田 はた 保育 ほいく 會 かい 託兒 たくじ 所 しょ がある。
町内 ちょうない の
神社 じんじゃ 佛閣 ぶっかく を
通 つう じて
著名 ちょめい なものは
穴 あな 守神 まもりがみ 社 しゃ だけである。
— 昭和 しょうわ 7年刊 ねんかん 『市域 しいき 拡張 かくちょう 記念 きねん 大 だい 東京 とうきょう 概観 がいかん 第 だい 六 ろく 節 せつ 蒲田 かまた 區 く 羽田 はねだ 町 まち 』より 蒲田 かまた 區 く 羽田 はねだ 穴守 あなもり 町 まち 。京濱 けいひん 電車 でんしゃ 穴守 あなもり 終點 しゅうてん 下車 げしゃ 。品川 しながわ から直通 ちょくつう 電車 でんしゃ 運轉 うんてん 、所要 しょよう 二 に 五 ご 分 ふん 、賃 ちん 片道 かたみち 二 に 四 よん 銭 ぜに 。蒲田 かまた から七 なな 分 ふん 、一 いち 一 いち 銭 ぜに 。
豊 ゆたか 宇氣 うけ 比 ひ 賣 うり 命 いのち を祀 まつ る稲荷 いなり 神社 じんじゃ があり、穴守 あなもり 神社 じんじゃ とも云 うん ふ。四 よん 時 じ 参詣 さんけい 者 しゃ 多 おお く、午 うま の日 ひ には殊 こと に賑 にぎわい はふ。祠 ほこら を去 さ る五 ご 十 じゅう 米 めーとる 許 もと りの海濱 かいひん は風光 ふうこう よく、海 うみ は遠浅 とおあさ で潮干狩 しおひがり 及 およ び海水浴 かいすいよく に適 てき し附近 ふきん に東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう がある。また穴 あな 守神 まもりがみ 社 しゃ 後 ご の近 ちか くには東京 とうきょう 附近 ふきん に珍 ちん らしい鵜 う の群棲 ぐんせい 林 りん がある。 — 「旅程 りょてい と費用 ひよう 概算 がいさん 」(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)より抜粋 ばっすい
東京 とうきょう を代表 だいひょう する観光 かんこう 地 ち として繁栄 はんえい を謳歌 おうか していた羽田 はた 地域 ちいき であるが、当時 とうじ の日本 にっぽん (大日本帝国 だいにっぽんていこく )が1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )の満州 まんしゅう 事変 じへん を機 き に、戦争 せんそう への道 みち を歩 あゆ んでゆくことで、その荒波 あらなみ に翻弄 ほんろう されることになる。
まず、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ に伴 ともな い立法 りっぽう された軍馬 ぐんば 資源 しげん 保護 ほご 法 ほう の施行 しこう によって、羽田 はた 競馬 けいば 場 じょう が1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )限 かぎ りで休 きゅう 催、翌 よく 1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )に廃 はい 場 じょう へと追 お い込 こ まれた[54] 。跡地 あとち には日本 にっぽん 特殊 とくしゅ 鋼 こう の羽田 はた 工場 こうじょう ができ、海岸 かいがん 線 せん 寄 よ りの跡地 あとち には高射 こうしゃ 砲 ほう 陣地 じんち が置 お かれた。日本 にっぽん 特殊 とくしゅ 鋼 こう のほか、荏原製作所 えばらせいさくしょ 、明電舎 めいでんしゃ 、大谷 おおや 重工 じゅうこう 等 ひとし の大手 おおて 企業 きぎょう が1935年 ねん あたりから次々 つぎつぎ 進出 しんしゅつ してきて、下請 したう け工場 こうじょう も出来 でき た[55] 。競馬 けいば 場 じょう 廃 はい 場 じょう の同年 どうねん には、満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく 以降 いこう 、満 まん 洲 しゅう へ旅客 りょかく や貨物 かもつ 輸送 ゆそう が増大 ぞうだい したこともあり、東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう の拡張 かくちょう 用地 ようち として羽田 はた 運動 うんどう 場 じょう が買収 ばいしゅう され、消滅 しょうめつ した[56] 。東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう の面積 めんせき は72haとなり全長 ぜんちょう 800メートル・幅 はば 80メートルの滑走 かっそう 路 ろ 2本 ほん が十文字 じゅうもんじ 型 がた に配置 はいち されるレイアウトになった。これにより、当時 とうじ としては近代 きんだい 化 か された民間 みんかん 飛行場 ひこうじょう となった[57] [58] 。
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )6月 がつ には、国民 こくみん 精神 せいしん 総動員 そうどういん 運動 うんどう の中 なか で、料亭 りょうてい 等 とう の営業 えいぎょう 時間 じかん が短縮 たんしゅく され、9月1日 にち に興亜 こうあ 奉公 ほうこう 日 び が設 もう けられると、以後 いご 毎月 まいつき 一 いち 日 にち は酒 さけ が不 ふ 売 うれ となり、次第 しだい に入手 にゅうしゅ も困難 こんなん となった[59] 。参拝 さんぱい 者 しゃ も行楽 こうらく 客 きゃく も激減 げきげん し、料亭 りょうてい は工員 こういん 相手 あいて の食堂 しょくどう になり、鉱泉 こうせん 宿 やど は社員 しゃいん 寮 りょう へ姿 すがた を変 か えてゆく等 ひとし 、穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 周辺 しゅうへん の娯楽 ごらく 施設 しせつ は急速 きゅうそく な衰退 すいたい を迎 むか え、一帯 いったい は工場 こうじょう が立 た ち並 なら ぶ軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう 地帯 ちたい として工場 こうじょう に働 はたら く労働 ろうどう 者 しゃ のための街 まち に変貌 へんぼう していった[60] 。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )10月1日 にち には、茨城 いばらき 県 けん 霞ヶ浦 かすみがうら より海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい の一部 いちぶ が飛行機 ひこうき 20機 き ・士官 しかん 70人 にん ・兵員 へいいん 1250人 にん の東京 とうきょう 分遣 ぶんけん 隊 たい として東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう に移 うつ され、大手 おおて 企業 きぎょう の工場 こうじょう も全 すべ て軍需 ぐんじゅ 品 ひん を作 つく らされるようになる。穴守 あなもり の町 まち には軍人 ぐんじん が闊歩 かっぽ するようになり、穴守 あなもり 線 せん も軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう で働 はたら く人 ひと の通勤 つうきん 路線 ろせん となった[61] 。
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )には、更 さら に戦争 せんそう の影響 えいきょう が表 あらわ れるようになり、最後 さいご まで残 のこ っていた羽田 はた 穴守 あなもり 海水浴 かいすいよく 場 じょう の営業 えいぎょう も中止 ちゅうし になった。一方 いっぽう で、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )の洲崎 すざき 遊郭 ゆうかく 接収 せっしゅう により、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )初 はじ めに洲崎 すざき の遊郭 ゆうかく 関係 かんけい 者 しゃ が移転 いてん してきたため、慰安 いあん 宿 やど 街 がい が新 あら たに誕生 たんじょう している[62] 。
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )7月 がつ 1日 にち には、東京 とうきょう 都 と 制 せい により東京 とうきょう 府 ふ と統合 とうごう されて東京 とうきょう 市 し は廃止 はいし 。東京 とうきょう 都 と 蒲田 かまた 区 く 羽田 はねだ 穴守 あなもり 町 まち ・羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち ・羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち ・羽田 はた 御 ご 台場 だいば ・鈴木 すずき 御 ご 台場 だいば となった。
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )秋 あき 頃 ごろ を境 さかい に、サイパン から出撃 しゅつげき した米 べい 軍機 ぐんき による空襲 くうしゅう が激 はげ しさを増 ま し、穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ の近辺 きんぺん も間 あいだ 引 び き疎開 そかい ということになり、一時 いちじ はそこに暮 く らす人 ひと はせいぜい20人 にん に満 み たないほどになったという[63] 。当時 とうじ の蒲田 かまた 区 く は軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう が盛 さか んであったこともあり、集中 しゅうちゅう 的 てき に狙 ねら われ、飛行場 ひこうじょう も2月 がつ 16日 にち (東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう への急降下 きゅうこうか 爆撃 ばくげき により火災 かさい 発生 はっせい 、旅客機 りょかくき 1機 き 焼失 しょうしつ )、2月 がつ 17日 にち (大 だい 日本航空 にほんこうくう 格納庫 かくのうこ 一 いち 棟 むね 全壊 ぜんかい )、4月 がつ 4日 にち (羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち )と空襲 くうしゅう を受 う け[64] 、1945年 ねん 4月 がつ 15日 にち から4月 がつ 16日 にち に行 おこな われた城南 じょうなん 京浜 けいひん 大 だい 空襲 くうしゅう では、蒲田 かまた ・大森 おおもり ・荏原 えばら 地域 ちいき が主 しゅ たる攻撃 こうげき 対象 たいしょう とされ、 蒲田 かまた 区 く の約 やく 99%が被災 ひさい 、羽田 はた 地域 ちいき も大 おお きな被害 ひがい を受 う けた。更 さら に敗戦 はいせん 間近 まぢか の7月 がつ 12日 にち には米 べい 軍機 ぐんき の爆撃 ばくげき により飛行場 ひこうじょう 施設 しせつ が破壊 はかい ・消失 しょうしつ し、飛行場 ひこうじょう 機能 きのう の大半 たいはん が失 うしな われた[65] 。
昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 四 よん 月 がつ 十 じゅう 五 ご 日 にち 夜半 やはん より、
十 じゅう 六 ろく 日 にち 未明 みめい にかけて
城南 じょうなん 地区 ちく (
旧 きゅう 蒲田 かまた 区 く ・
大森 おおもり 区 く )を
中心 ちゅうしん に
大 だい 空襲 くうしゅう があり、
羽田 はた も
大半 たいはん が
焦土 しょうど と
化 か した。
(中略 ちゅうりゃく )
当日 とうじつ は、船上 せんじょう にて一夜 いちや を過 す ごし、翌 よく 払暁 ふつぎょう 、処々 ところどころ にくすぶる煙 けむ り残 のこ る中 なか 、天空 てんくう の明 あか るみと同時 どうじ に我 わ が羽田 はた の町 まち の全容 ぜんよう が目 め 視 し されてきた。
九 きゅう 十 じゅう パーセントに
近 ちか い
焼失 しょうしつ で
残存 ざんそん した
一部 いちぶ は
奇跡 きせき とも
思 おも う
位 い であり、
特 とく に
印象 いんしょう 的 てき だったのが、
大森 おおもり の「ガスタンク」が
遠 とお いと
思 おも っていたのが、
近 ちか くに
見 み え、
大森 おおもり 方面 ほうめん の
小高 こだか い
丘陵 きゅうりょう 、そして、
池上本門寺 いけがみほんもんじ の
五重塔 ごじゅうのとう が
鮮明 せんめい に
目視 もくし 出来 でき たことだった。
— 1945年 ねん 4月 がつ 15日 にち ‐16日 にち の城南 しろみなみ 京浜 けいひん 大 だい 空襲 くうしゅう の回想 かいそう (あのとき…羽田 はた 地区 ちく における戦争 せんそう 体験 たいけん より) 昭和 しょうわ 20年 ねん (1945)になると空襲 くうしゅう は全国 ぜんこく 的 てき に激 はげ しくなり加 くわ えて艦載 かんさい 機 き の攻撃 こうげき も増 ふ えた。大森 おおもり 蒲田 かまた も焼 や け野原 のはら となった。蒲田 かまた 駅 えき を出 で ると焼 や け野原 のはら の遥 はる か向 む こうに羽田 はた 飛行場 ひこうじょう が見 み えた。こんなことは二度 にど とないだろう。 — 元 もと 日本航空 にほんこうくう 航空 こうくう 士 し 渡辺 わたなべ 勇 いさむ (羽田 はた 航空 こうくう 少年 しょうねん 団 だん 機関 きかん 誌 し 『はねだ』第 だい 46号 ごう より)
滑走 かっそう 路 ろ は見 み るも無残 むざん に破壊 はかい され、何 なん か所 しょ も大 おお きくえぐられていた。大 だい 日本航空 にほんこうくう の大半 たいはん の旅客機 りょかくき は地方 ちほう 飛行場 ひこうじょう に分散 ぶんさん してあったが、残 のこ っていた2機 き のDC3型 がた 機 き が炎々 えんえん と黒 くろ 煙 けむり をあげて燃 も えていた — 元 もと 日本 にっぽん 婦人 ふじん 航空 こうくう 協会 きょうかい 理事 りじ 長 ちょう 及位 のぞき 野 の 衣 ころも (1945年 ねん 7月 がつ 末 まつ の空襲 くうしゅう 後 ご の回想 かいそう 大田 おおた 区史 くし 研究 けんきゅう 史 し 誌 し 30 羽田 はた 飛行場 ひこうじょう と私 わたし より)
強制 きょうせい 退去 たいきょ [ 編集 へんしゅう ]
戦争 せんそう 末期 まっき には稼働 かどう 機材 きざい の減少 げんしょう より飛行場 ひこうじょう 機能 きのう の大半 たいはん を喪失 そうしつ していた東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう であるが、終戦 しゅうせん の詔書 しょうしょ を示 しめ す玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう が流 なが された後 のち には、飛行場 ひこうじょう は極度 きょくど の混乱 こんらん 状態 じょうたい に陥 おちい り、軍事 ぐんじ 輸送 ゆそう に関 かか わった操縦 そうじゅう 士 し が占領 せんりょう 軍 ぐん による厳 きび しい制裁 せいさい を受 う けるといったデマが流布 るふ された。そのため航空局 こうくうきょく はじめ大 だい 日本航空 にほんこうくう 等 とう 各社 かくしゃ では保管 ほかん 書類 しょるい の焼却 しょうきゃく 、個人 こじん 携帯 けいたい 飛行 ひこう 免状 めんじょう 等 とう の破棄 はき が直 ただ ちに行 おこな われ、また混乱 こんらん ・虚脱 きょだつ に乗 じょう じ社 しゃ 用品 ようひん の盗難 とうなん ・廃棄 はいき といった出来事 できごと も生 しょう じた[66] 。
飛行場 ひこうじょう では男 おとこ も女 おんな もただ無言 むごん のまま、書類 しょるい といわず、机 つくえ といわず、手当 てあて たり次第 しだい 、エプロンに持 も ち出 だ し、天 てん をも焦 こ がすような炎 ほのお の中 なか に放 ひ り投 な げていた。 — 元 もと 日本 にっぽん 婦人 ふじん 航空 こうくう 協会 きょうかい 理事 りじ 長 ちょう 及位 のぞき 野 の 衣 ころも (1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち の回想 かいそう 大田 おおた 区史 くし 研究 けんきゅう 史 し 誌 し 30 羽田 はた 飛行場 ひこうじょう と私 わたし より)
マッカーサー司令 しれい 部 ぶ では羽田 はた 飛行場 ひこうじょう を連合 れんごう 軍 ぐん の日本 にっぽん 駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん に引 ひ き渡 わた すよう十 じゅう 二 に 日 にち 我 わ が当局 とうきょく に申 もう し入 い れた。同時 どうじ に滑走 かっそう 路 ろ 拡張 かくちょう のため海岸 かいがん 線 せん 埋 う め立 た て設備 せつび を提供 ていきょう するよう要求 ようきゅう してきたが、飛行場 ひこうじょう 再建 さいけん のためには二 に 箇月 かげつ 乃至 ないし 三 さん 箇月 かげつ を要 よう すると見 み ている。なお、飛行場 ひこうじょう 付近 ふきん の一部 いちぶ 住民 じゅうみん に対 たい して立 た ち退 の きが命 めい ぜられることになった。 — 『朝日新聞 あさひしんぶん 』昭和 しょうわ 20年 ねん 9月 がつ 13日 にち 付 づ けより
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終 お わった連合 れんごう 国 こく による占領 せんりょう 下 か に置 お かれた日本 にっぽん は、一般 いっぱん 命令 めいれい 第 だい 一 いち 号 ごう によって各地 かくち の飛行場 ひこうじょう や航空 こうくう 施設 しせつ を良好 りょうこう な状態 じょうたい で保存 ほぞん するよう命 めい じられた。直後 ちょくご の1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )9月12日 にち 、連合 れんごう 国軍 こくぐん (のちのGHQ )はアメリカから人材 じんざい や物資 ぶっし を投入 とうにゅう する為 ため 、日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい して東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう の引渡 ひきわた しを命 めい じ、翌 よく 13日 にち 朝 あさ には自動 じどう 小銃 しょうじゅう を持 も った連合 れんごう 国 こく 兵 へい がジープで乗付 のりつ け、飛行場 ひこうじょう にいた人々 ひとびと 全員 ぜんいん に立 た ち退 の きを命 めい じた。こうして東京 とうきょう 飛行場 ひこうじょう は軍事 ぐんじ 基地 きち 「HANEDA ARMY AIR BASE」と改称 かいしょう された[67] 。そして9月21日 にち 、HANEDA AIR BASEを拡張 かくちょう するため、連合 れんごう 国軍 こくぐん は蒲田 かまた 区長 くちょう との連名 れんめい で日本 にっぽん の警察 けいさつ を通 つう じて、羽田 はた 穴守 あなもり 町 まち ・羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち ・羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち の三 さん か町内 ちょうない 約 やく 1200世帯 せたい 、約 やく 3000名 めい の全 ぜん 住民 じゅうみん に12時間 じかん 以内 いない の強制 きょうせい 退去 たいきょ 命令 めいれい を下 くだ した[68] 。
敗戦 はいせん 後 ご 、まだ1か月 げつ も経 た たない中 なか では、新聞 しんぶん 記事 きじ を読 よ んでいた住民 じゅうみん は極 ごく 僅 わず かであり、読 よ んでいたとしても、具体 ぐたい 的 てき な範囲 はんい が挙 あ げられていなかった為 ため 、自分 じぶん 達 たち が当事 とうじ 者 しゃ であると考 かんが えた人 ひと は殆 ほとん どいなかった。「飛行場 ひこうじょう 付近 ふきん の一部 いちぶ 住民 じゅうみん 」に説明 せつめい があったのは前日 ぜんじつ のことであり、警察 けいさつ から口頭 こうとう で知 し らされた。そこで住民 じゅうみん 代表 だいひょう が、12時 じ 間 あいだ とはあまりにも理不尽 りふじん で到底 とうてい 全 ぜん 住民 じゅうみん に周知 しゅうち 出来 でき ない事 こと や、立 た ち退 の き先 さき も決 き められないまま路頭 ろとう に迷 まよ う人 ひと が出 で て来 く る事 こと 等 とう を挙 あ げ、蒲田 かまた 区役所 くやくしょ や警察 けいさつ を仲介 ちゅうかい して交渉 こうしょう が行 おこな われた。そうした決死 けっし の訴 うった えにより、立 た ち退 の き後 ご に立 た ち入 い った者 もの の生命 せいめい の保障 ほしょう はないという厳 きび しい条件 じょうけん 付 づけ であるものの何 なに とか2日間 にちかん となったのだが、人手 ひとで も機材 きざい も時間 じかん もすべてが不足 ふそく している、まさに身一 みひと つでの立 た ち退 の きであった[69] 。
突如 とつじょ として町 まち を追 お われることになった人々 ひとびと は、行 い く当 あ てもないまま荷車 にぐるま に家財道具 かざいどうぐ を括 くく り付 づ けて、稲荷 いなり 橋 きょう ・弁天 べんてん 橋 きょう を渡 わた った。48時 じ 間 あいだ 後 ご 、橋 はし のたもとには連合 れんごう 国軍 こくぐん の兵隊 へいたい が立 た ち、街 まち へ戻 もど ろうとする住民 じゅうみん に対 たい し、威嚇 いかく 射撃 しゃげき まで行 おこな う横暴 おうぼう ぶりであった。見 み た事 こと の無 な い程 ほど の大 おお きなブルドーザー やパワーシャベル が瞬 しばた く間 あいだ に家 いえ や店 みせ を押 お しつぶし、町 まち は徹底的 てっていてき に破壊 はかい され、戦闘 せんとう 機 き が幾 いく 機 き も走 はし る滑走 かっそう 路 ろ となった。こうして、東京 とうきょう を代表 だいひょう する観光 かんこう 地 ち として、多 おお くの人々 ひとびと が訪 おとず れ、また生活 せいかつ を営 いとな んだ三 みっ つの町 まち は、終戦 しゅうせん から僅 わず か1か月 げつ で跡形 あとかた も無 な くなり、地図 ちず 上 じょう から抹消 まっしょう されたのである[70] 。終戦 しゅうせん 時 じ に空港 くうこう 内 ない あった上述 じょうじゅつ の航 こう 研 けん 機 き や日本 にっぽん 軍 ぐん の軍用 ぐんよう 機 き は米 べい 軍 ぐん によって投棄 とうき されており、現在 げんざい も敷地 しきち 内 ない の地中 ちちゅう に埋 う まっていると言 い われている[71] [72] [73] 。一方 いっぽう 、敷地 しきち 内 ない にあった穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ の一 いち の大 だい 鳥居 とりい は住民 じゅうみん たちが去 さ った後 のち にも残 のこ された[注 ちゅう 2] [72] [75] 。この大鳥居 おおとりい は後 のち に1980年代 ねんだい から始 はじ まった沖合 おきあい 展開 てんかい 事業 じぎょう に伴 ともな う新 しん B滑走 かっそう 路 ろ の建設 けんせつ 計画 けいかく での障害 しょうがい となったため、移設 いせつ されることとなる[76] [77] 。
11月から本格 ほんかく 的 てき に開始 かいし されたアメリカ軍 ぐん 808飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ 部隊 ぶたい による空港 くうこう 拡張 かくちょう 工事 こうじ はまたたく間 ま に進展 しんてん し、広大 こうだい な敷地 しきち を造成 ぞうせい した[71] 。この工事 こうじ には「占領 せんりょう 軍 ぐん 労務者 ろうむしゃ 」として雇 やと われた約 やく 2000人 にん の日本人 にっぽんじん 労働 ろうどう 者 しゃ も参加 さんか していた。拡張 かくちょう 工事 こうじ は1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )6月 がつ までに竣工 しゅんこう し、旧 きゅう A滑走 かっそう 路 ろ (2000m×45m)と旧 きゅう B滑走 かっそう 路 ろ (1650m×45m)が完成 かんせい した[72] [79] [80] [81] 。
1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )3月15日 にち には蒲田 かまた 区 く が大森 おおもり 区 く と合併 がっぺい し、東京 とうきょう 都 と 大田 おおた 区 く 羽田 はねだ 穴守 あなもり 町 まち ・羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち ・羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち ・羽田 はた 御 ご 台場 だいば ・鈴木 すずき 御 ご 台場 だいば となった。
また、1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )2月 がつ 24日 にち には、強制 きょうせい 退去 たいきょ となった穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ が、空港 くうこう に隣接 りんせつ する羽田 はた 地区 ちく に再建 さいけん されている[82] 。 再建 さいけん にあたっては、空港 くうこう 関係 かんけい 者 しゃ が滑走 かっそう 路上 ろじょう で白狐 びゃっこ を見 み たという逸話 いつわ も残 のこ っている。
東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう [ 編集 へんしゅう ]
1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )7月 がつ 1日 にち [83] 、滑走 かっそう 路 ろ ・誘導 ゆうどう 路 ろ ・各種 かくしゅ 航空 こうくう 灯火 ともしび 等 とう の諸 しょ 施設 しせつ がアメリカ軍 ぐん から日本国 にっぽんこく 政府 せいふ に移管 いかん され[84] 、同日 どうじつ に「東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう 」に改名 かいめい [85] 、初代 しょだい 空港 くうこう 長 ちょう には戦前 せんぜん の「ニッポン号 ごう 」で世界 せかい 一周 いっしゅう を果 は たした民間 みんかん 航空 こうくう 人 じん 中島 なかじま 純利 じゅんり が任命 にんめい された[86] 。しかし、「東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう の共同 きょうどう 使用 しよう に関 かん する日本 にっぽん 国 こく と在日 ざいにち 米 まい 軍 ぐん との間 あいだ の取 と 極 ごく 」により、空港 くうこう 内 ない に陸軍 りくぐん 空輸 くうゆ 部隊 ぶたい と極東 きょくとう 空軍 くうぐん は残 のこ り、管制 かんせい 権 けん や空港 くうこう 施設 しせつ の8割 わり は引 ひ き続 つづ き在 ざい 日米 にちべい 軍 ぐん の管轄 かんかつ 下 か に置 お かれて立入禁止 たちいりきんし 区域 くいき となっており、この時点 じてん では一部 いちぶ 返還 へんかん にとどまった[84] [87] 。運営 うんえい の主導 しゅどう も米 べい 軍 ぐん が握 にぎ って日本 にっぽん はそれに従 したが う形 かたち となり、離着陸 りちゃくりく は米 べい 軍機 ぐんき が優先 ゆうせん され、民間 みんかん 機 き は上空 じょうくう で1時 じ 間 あいだ も旋回 せんかい しながら待 ま たされることも度々 たびたび あったという[87] 。また、民間 みんかん 専用 せんよう ターミナルが出来 でき るまでは、空港 くうこう への入場 にゅうじょう には「入場 にゅうじょう 票 ひょう 」が発行 はっこう されていた[88] 。
翌 よく 1953年 ねん には、日本航空 にほんこうくう のダグラス DC-6 によって、日本 にっぽん のフラッグキャリア による第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 初 はつ の国際線 こくさいせん 定期 ていき 路線 ろせん の就航 しゅうこう (東京 とうきょう - ウェーク島 とう - ホノルル - サンフランシスコ )が開始 かいし された。同年 どうねん 9月 がつ 20日 はつか には、戦後 せんご 初 はつ の航空 こうくう ショーが羽田空港 はねだくうこう の滑走 かっそう 路 ろ を中心 ちゅうしん に開催 かいさい され、待 ま ち望 のぞ んでいた航空 こうくう ファンが10万 まん 人 にん も詰 つ めかけた[89] 。
1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )5月17日 にち 、現在 げんざい の国際線 こくさいせん ターミナルの西側 にしがわ ・現 げん B滑走 かっそう 路 ろ の南端 なんたん 付近 ふきん に近代 きんだい 的 てき な設備 せつび を持 も つ新 あたら しい旅客 りょかく ターミナルが開館 かいかん した。また、このターミナルビルの建設 けんせつ 地 ち が、強制 きょうせい 退去 たいきょ となった穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ の本殿 ほんでん 跡 あと に当 あ たることから、ターミナルビル屋上 おくじょう には穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 空港 くうこう 分社 ぶんしゃ が祀 まつ られた。同年 どうねん 8月 がつ には旧 きゅう A滑走 かっそう 路 ろ が2550mに延伸 えんしん され[90] 、1956年 ねん 7月 がつ には空港 くうこう 整備 せいび 法 ほう に基 もと づく第 だい 一種 いっしゅ 空港 くうこう に指定 してい された[91] 。その後 ご 1958年 ねん 6月 がつ [91] に全面 ぜんめん 返還 へんかん された[92] 。
1960年代 ねんだい に入 はい ると、1964年 ねん 東京 とうきょう オリンピック のための空港 くうこう 設備 せつび の整備 せいび 拡張 かくちょう が行 おこな われた。旅客 りょかく ターミナルが増築 ぞうちく (東京 とうきょう 五輪 ごりん 後 ご も度々 たびたび 行 おこな われた)されたほか、旧 きゅう A滑走 かっそう 路 ろ が3,000mに延伸 えんしん され[93] 、旧 きゅう C滑走 かっそう 路 ろ (3150m×60m)の新設 しんせつ [93] 、1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )8月 がつ 2日 にち には首都高 しゅとこう 羽田線 はねだせん の開通 かいつう 、1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )9月17日 にち には東京 とうきょう モノレール の乗 の り入 い れ、貨物 かもつ や検疫 けんえき 施設 しせつ の拡充 かくじゅう などが行 おこな われ、旅客 りょかく ターミナル向 む かいに初 はつ の空港 くうこう 敷地 しきち 内 ない ホテルである羽田 はた 東急 とうきゅう ホテル がオープンした。また、1963年 ねん 7月 がつ 11日 にち には穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 空港 くうこう 分社 ぶんしゃ が、新 あら たに作 つく られた特別 とくべつ 展望 てんぼう 回廊 かいろう の屋上 おくじょう に移 うつ され、同時 どうじ に財団 ざいだん 法人 ほうじん 日本航空 にほんこうくう 協会 きょうかい (当時 とうじ )の航空 こうくう 神社 じんじゃ より分霊 ぶんれい を勧請 かんじょう し、羽田 はた 航空 こうくう 神社 じんじゃ が建立 こんりゅう された[94] 。
一方 いっぽう で、京浜急行電鉄 けいひんきゅうこうでんてつ 空港線 くうこうせん は、東京 とうきょう オリンピック を前 まえ に運輸省 うんゆしょう からなされた空港 くうこう 乗 の り入 い れの打診 だしん を、本線 ほんせん の輸送 ゆそう 力 りょく 増強 ぞうきょう に専念 せんねん するため断 ことわ ったことで、1972年 ねん に再 さい 乗 の り入 い れの検討 けんとう を始 はじ めて以降 いこう も、空港 くうこう ターミナルへの乗 の り入 い れは長 なが らく運輸省 うんゆしょう ・東京 とうきょう 都 と とも門前払 もんぜんばら いが続 つづ くことになった[95] 。
1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )には、空港 くうこう 周辺 しゅうへん で単独 たんどく 機 き としては当時 とうじ 世界 せかい 最悪 さいあく の事故 じこ となった全日空 ぜんにっくう 羽田 はた 沖 おき 墜落 ついらく 事故 じこ が発生 はっせい し、その1か月 げつ 後 ご にはカナダ太平洋 たいへいよう 航空 こうくう 402便 びん 着陸 ちゃくりく 失敗 しっぱい 事故 じこ が発生 はっせい するなど悲劇 ひげき も起 お きた。そのような中 なか で、「かつて空港 くうこう 内 ない に鎮座 ちんざ していた穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ の祟 たた りであり、神社 じんじゃ を空港 くうこう の中 なか に祀 まつ らないと事故 じこ がこれからも多発 たはつ する」のような噂 うわさ が流布 るふ し、神社 じんじゃ の遷座 せんざ を国会 こっかい 議員 ぎいん に陳情 ちんじょう する者 もの も現 あらわ れた[96] 。この陳情 ちんじょう に「祟 たた りはともかく、神社 じんじゃ 復興 ふっこう は必要 ひつよう だ。」と、当時 とうじ の中村 なかむら 寅 とら 太 ふとし 運輸 うんゆ 大臣 だいじん や瀬戸山 せとやま 三男 みつお 建設 けんせつ 大臣 だいじん なども賛同 さんどう し、大臣 だいじん 等 とう を会長 かいちょう ・顧問 こもん とした「穴守稲荷 あなもりいなり 復元 ふくげん 奉賛 ほうさん 会 かい 」が設立 せつりつ された[97] 。結局 けっきょく 、社殿 しゃでん 再建 さいけん 後 ご であることやターミナルビルの屋上 おくじょう に分社 ぶんしゃ が祀 まつ られていることなどから、空港 くうこう 内 ない に穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ を復興 ふっこう する計画 けいかく は頓挫 とんざ したが、再建 さいけん 予定 よてい 地 ち とされた三愛 さんあい オブリ株式会社 かぶしきがいしゃ が、事務所 じむしょ 屋上 おくじょう に穴守稲荷 あなもりいなり 大神 おおがみ を分霊 ぶんれい した一 いち 祠 ほこら を設 もう けている[96] 。
その後 ご 1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )に旧 きゅう B滑走 かっそう 路 ろ が2500mまで延伸 えんしん [98] し、旧 きゅう 羽田空港 はねだくうこう が一応 いちおう の完成 かんせい を見 み た。
1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )5月 がつ 1日 にち には住居 じゅうきょ 表示 ひょうじ が実施 じっし され、東京 とうきょう 都 と 大田 おおた 区 く 羽田 はねだ 穴守 あなもり 町 まち ・羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち ・羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち ・鈴木 すずき 御 ご 台場 だいば ・羽田 はた 御 ご 台場 だいば 及 およ び猟師 りょうし 町 まち 御台 みだい 場 じょう が、現行 げんこう の地名 ちめい である東京 とうきょう 都 と 大田 おおた 区 く 羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ および二 に 丁目 ちょうめ になった[99] 。
一方 いっぽう で、1964年 ねん に一般 いっぱん 旅行 りょこう 者 しゃ の海外 かいがい 旅行 りょこう 自由 じゆう 化 か が行 おこな われたことや、地方 ちほう 路線 ろせん の機材 きざい 大型 おおがた 化 か やジェット化 か が進 すす んだことなどもあり、高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き 真 ま っただ中 なか の1960年代 ねんだい 後半 こうはん には、羽田空港 はねだくうこう の施設 しせつ では増大 ぞうだい する一方 いっぽう の離着陸 りちゃくりく をさばくのが困難 こんなん になり、首都 しゅと 圏 けん の航空 こうくう 需要 じゅよう を一 いち 手 て に引 ひ き受 う けていた羽田空港 はねだくうこう は、国際線 こくさいせん のみならず国内線 こくないせん ターミナル・貨物 かもつ ターミナルの処理 しょり 能力 のうりょく も限界 げんかい に達 たっ してしまう。1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )5月 がつ 20日 はつか に漸 ようや く新 しん 東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう が開港 かいこう を果 は たすと、外交 がいこう 的 てき 問題 もんだい から成田空港 なりたくうこう への移転 いてん を行 おこな わなかった中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )の中華航空 ちゅうかこうくう (現 げん ・チャイナエアライン )を除 のぞ く全 すべ ての国際線 こくさいせん が成田 なりた に移転 いてん した。
沖合 おきあい 展開 てんかい 事業 じぎょう の埋 う め立 た て工事 こうじ 中 ちゅう 国土 こくど 交通省 こうつうしょう 国土 こくど 地理 ちり 院 いん 地図 ちず ・空中 くうちゅう 写真 しゃしん 閲覧 えつらん サービス の空中 くうちゅう 写真 しゃしん を基 もと に作成 さくせい 1984年 ねん 撮影 さつえい の15枚 まい を合成 ごうせい 作成 さくせい
しかし、新設 しんせつ された成田空港 なりたくうこう は激 はげ しい反対 はんたい 運動 うんどう によって拡張 かくちょう が進 すす められなかったために羽田空港 はねだくうこう から移転 いてん された国際線 こくさいせん のみで処理 しょり 能力 のうりょく が飽和 ほうわ し国内線 こくないせん を引 ひ き受 う けられる余力 よりょく はなく、さらに国内線 こくないせん 需要 じゅよう の急激 きゅうげき な増加 ぞうか が続 つづ いたため、手狭 てぜま なターミナルと2本 ほん の滑走 かっそう 路 ろ のみであった当時 とうじ の羽田空港 はねだくうこう は間 ま もなくキャパシティの限界 げんかい を再 ふたた び迎 むか えた。滑走 かっそう 路 ろ は現在 げんざい よりも市街地 しがいち に近 ちか かったため、騒音 そうおん に対 たい する苦情 くじょう も絶 た えなかった。
これら空港 くうこう 機能 きのう の改善 かいぜん および騒音 そうおん 対策 たいさく を目的 もくてき として[100] 東方 とうほう の海面 かいめん を埋 う め立 た てて空港 くうこう 施設 しせつ を移設 いせつ ・拡張 かくちょう するという沖合 おきあい 展開 てんかい 事業 じぎょう (通称 つうしょう : 沖 おき 展 てん )が計画 けいかく された。1971年 ねん 5月 がつ には既 すで に航空局 こうくうきょく 内部 ないぶ に「東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう 拡張 かくちょう 計画 けいかく 作成 さくせい 委員 いいん 会 かい 」が設置 せっち されていたが、革新 かくしん 知事 ちじ として知 し られる当時 とうじ の東京 とうきょう 都知事 とちじ である美濃部 みのべ 亮吉 りょうきち が羽田 はた 拡張 かくちょう に反対 はんたい して国内線 こくないせん 専用 せんよう とすることを主張 しゅちょう し、地元 じもと では拡張 かくちょう どころか羽田 はた からの空港 くうこう 移転 いてん を主張 しゅちょう する声 こえ さえあった。また、運輸省 うんゆしょう 内部 ないぶ でも「羽田 はた を拡張 かくちょう すれば、成田 なりた は不要 ふよう 」と主張 しゅちょう する成田空港 なりたくうこう 反対 はんたい 派 は を刺激 しげき したくないとの判断 はんだん が働 はたら き、調査 ちょうさ 開始 かいし から10年 ねん 余 あま りの停滞 ていたい があった。しかし、増大 ぞうだい を続 つづ ける航空 こうくう 需要 じゅよう を背景 はいけい に、鈴木 すずき 俊一 しゅんいち への知事 ちじ 交代 こうたい に前後 ぜんご して沖 おき 展 てん の調整 ちょうせい が進 すす められ、1984年 ねん 1月 がつ 26日 にち には、東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう 沖合 おきあい 展開 てんかい 事業 じぎょう 着工 ちゃっこう 式 しき が穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ で執 と り行 おこな われ、沖合 おきあい 展開 てんかい 事業 じぎょう が開始 かいし された[101] [102] [103] [104] [105] 。
沖 おき 展 てん に不可欠 ふかけつ な埋 う め立 た て工事 こうじ は、脆弱 ぜいじゃく な海底 かいてい 地盤 じばん により難航 なんこう した。「ごみ戦争 せんそう 宣言 せんげん 」を出 だ した美濃部 みのべ 都政 とせい 下 か 、沖 おき 展 てん 用地 ようち は東京 とうきょう 港 こう の浚渫 しゅんせつ 土 ど や首都 しゅと 圏 けん の建設 けんせつ 残土 ざんど を処分 しょぶん する残土 ざんど 処理 しょり 場 じょう として、1975年度 ねんど から土砂 どしゃ の投棄 とうき が続 つづ けられており、長年 ながねん のヘドロ が堆積 たいせき した「底 そこ なし沼 ぬま 状態 じょうたい 」であったことから、重機 じゅうき はおろか人間 にんげん も立 た ち入 い れない場所 ばしょ が多 おお かった。
この場所 ばしょ は、含水比率 ひりつ 100パーセント以上 いじょう の超 ちょう 軟弱 なんじゃく 地盤 じばん であったことから、工事 こうじ 関係 かんけい 者 しゃ の間 あいだ では「(羽田 はた )マヨネーズ 層 そう 」と呼 よ ばれ始 はじ め(「おしるこ 層 そう 」とも[106] )、工事 こうじ 関係 かんけい 書類 しょるい に使 つか われたため学名 がくめい にまでなりかけたが、後 のち にマヨネーズ製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ から抗議 こうぎ があったため名称 めいしょう が変更 へんこう されている[107] [108] 。対策 たいさく としてチューブの集合 しゅうごう 体 たい の板 いた を地中 ちちゅう 深 ふか く差 さ し込 こ むことで水 みず を抜 ぬ くペーパードレーン工法 こうほう や、同 おな じく砂 すな の柱 はしら を地中 ちちゅう 深 ふか く構築 こうちく することで水 みず を抜 ぬ くサンドドレーン工法 こうほう 、沈下 ちんか する地盤 じばん をジャッキ の油圧 ゆあつ で持 も ち上 あ げ空洞 くうどう を特殊 とくしゅ なコンクリート で固 かた める工法 こうほう などを駆使 くし し、計画 けいかく から完成 かんせい まで約 やく 20年 ねん の歳月 さいげつ を経 へ て完成 かんせい した[注 ちゅう 3] 。
この埋 う め立 た て によって新 あら たに生 う まれた広大 こうだい な土地 とち が全 すべ て大田 おおた 区 く に組 く み込 こ まれたことから、世田谷 せたがや 区 く は長年 ながねん 保 たも っていた「東京 とうきょう 23区 く で面積 めんせき 最大 さいだい 」という地位 ちい を大田 おおた 区 く に譲 ゆず ることになった。
1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )2月 がつ 9日 にち 、日本航空 にほんこうくう 350便 びん による羽田 はた 沖 おき 墜落 ついらく 事故 じこ (通称 つうしょう 「日航 にっこう 逆 ぎゃく 噴射 ふんしゃ 事故 じこ 」)が発生 はっせい した。多摩川 たまがわ スカイブリッジの北側 きたがわ にあたる環 たまき 八 はち 通 とお り沿 ぞ い(羽田空港 はねだくうこう 船着場 ふなつきば 付近 ふきん )には、本 ほん 事故 じこ の慰霊 いれい 碑 ひ が建立 こんりゅう されている。
1988年 ねん には、旧 きゅう C滑走 かっそう 路 ろ の450m東側 ひがしがわ に現 げん A滑走 かっそう 路 ろ が完成 かんせい した。
羽田空港 はねだくうこう の沖合 おきあい 展開 てんかい 事業 じぎょう (沖 おき 展 てん )の中 なか 、拡大 かくだい する空港 くうこう 及 およ びターミナルに対 たい して東京 とうきょう モノレールだけでは増大 ぞうだい する輸送 ゆそう 量 りょう に対応 たいおう できないとの判断 はんだん から、京急 けいきゅう の羽田空港 はねだくうこう 乗 の り入 い れが認 みと められた。1993年 ねん に羽田 はねだ 駅 えき (現在 げんざい の天空 てんくう 橋 きょう 駅 えき )が空港 くうこう 島内 とうない に開業 かいぎょう して都心 としん 方面 ほうめん (本線 ほんせん ・都営地下鉄 とえいちかてつ 浅草線 あさくさせん )からの直通 ちょくつう 運転 うんてん が開始 かいし 。この時点 じてん では暫定 ざんてい 的 てき に同 どう 駅 えき から東京 とうきょう モノレールへ乗 の り継 つ ぐ形 かたち で空港 くうこう アクセスを図 はか っていたが、1998年 ねん には羽田空港 はねだくうこう 駅 えき (現在 げんざい の羽田空港 はねだくうこう 第 だい 1・第 だい 2ターミナル駅 えき )が開業 かいぎょう し旅客 りょかく ターミナルビルと直結 ちょっけつ 、羽田空港 はねだくうこう へのアクセス路線 ろせん として本格 ほんかく 的 てき に機能 きのう するようになった。
1993年 ねん (平成 へいせい 5年 ねん )7月 がつ 1日 にち には住居 じゅうきょ 表示 ひょうじ を実施 じっし され、羽田空港 はねだくうこう 三 さん 丁目 ちょうめ が設置 せっち された[109] 。
1993年 ねん 9月 がつ 27日 にち には、約 やく 29万 まん 平方 へいほう メートルの延 の べ床 ゆか 面積 めんせき に、24基 き のボーディング・ブリッジを持 も つ新 しん 国内線 こくないせん ターミナルビル(第 だい 1旅客 りょかく ターミナルビル)が供用 きょうよう 開始 かいし され、チャイナエアラインを除 のぞ く全 すべ ての航空 こうくう 会社 かいしゃ が移転 いてん した[110] 。同 どう ターミナルを運営 うんえい する日本空港 にほんくうこう ビルデングはこれに「ビッグバード (Big Bird)」 という愛称 あいしょう をつけたが、今日 きょう ではこれが羽田空港 はねだくうこう 第 だい 1・第 だい 2旅客 りょかく ターミナルの総称 そうしょう としても用 もち いられている。
また、旧 きゅう ターミナルビルの屋上 おくじょう に祀 まつ られていた羽田 はた 航空 こうくう 神社 じんじゃ も新 しん 国内線 こくないせん ターミナルビルに遷座 せんざ 、穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 空港 くうこう 分社 ぶんしゃ は本社 ほんしゃ に返 かえし 霊 れい されることになった。尚 なお 、航空 こうくう 関係 かんけい 者 しゃ からは隣 とな り合 あ って祀 まつ られてきた2社 しゃ を別々 べつべつ にする事 こと に対 たい して、反対 はんたい する声 こえ もあったという。又 また 、当初 とうしょ は神殿 しんでん ではなく神棚 かみだな に祀 まつ るという簡素 かんそ 化 か の案 あん もあったが、運輸省 うんゆしょう 東京 とうきょう 空港 くうこう 事務所 じむしょ 等 とう の反対 はんたい により、規模 きぼ を縮小 しゅくしょう するが今 いま まで通 とお り神殿 しんでん で祀 まつ る形 かたち に落 お ち着 つ いた。更 さら に東京 とうきょう 空港 くうこう 事務所 じむしょ 等 とう は新 しん ターミナルビルでも屋上 おくじょう に祀 まつ る事 こと を要望 ようぼう していたが、こちらは実現 じつげん しなかった。
1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )には、羽田空港 はねだくうこう 新 しん B滑走 かっそう 路 ろ の供用 きょうよう が開始 かいし され、ついに空港 くうこう 内 ない に唯一 ゆいいつ 残 のこ されていた穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ の旧 きゅう 一 いち の大鳥居 おおとりい の移築 いちく が実施 じっし されることになったが、その後 ご も移築 いちく は難航 なんこう し、ようやく1999年 ねん 2月 がつ 3日 にち 撤去 てっきょ 、翌 よく 4日 にち 移築 いちく と決定 けってい した。移築 いちく までの間 あいだ 、1995年 ねん には運輸省 うんゆしょう によって、「鳥居 とりい 参道 さんどう 」と「参拝 さんぱい 者 しゃ 専用 せんよう 駐車 ちゅうしゃ 場 じょう 」が整備 せいび され、鳥居 とりい までお参 まい りが出来 でき るようになっていた。移築 いちく 工事 こうじ にあたって土台 どだい の周 まわ りを掘 ほ ると、鳥居 とりい が非常 ひじょう に頑丈 がんじょう にできておりロープで引 ひ きずり倒 たお せるようなものではないことが判明 はんめい した。作業 さぎょう の際 さい は風 ふう がやや強 つよ く、鳥居 とりい をクレーン で吊 つ り上 あ げた時 とき にクレーン車 しゃ のワイヤーが揺 ゆ れ動 うご く一幕 ひとまく もあったというが、2日間 にちかん の工事 こうじ は滞 とどこお りなく終 お わり、現在地 げんざいち の弁天 べんてん 橋 きょう のたもと(天空 てんくう 橋 きょう 駅 えき 南 みなみ 、東京 とうきょう 空港 くうこう 警察 けいさつ 署 しょ 弁天橋 べんてんばし 交番 こうばん 近 ちか く)に移設 いせつ されて今 いま に至 いた っている。
新 しん B滑走 かっそう 路 ろ の整備 せいび に伴 ともな い移設 いせつ された大鳥居 おおとりい (天空 てんくう 橋 きょう 駅 えき の南 みなみ )
2004年 ねん 12月1日 にち には、約 やく 18万 まん 平方 へいほう メートルの延 の べ床 ゆか 面積 めんせき に15基 き のボーディング・ブリッジを持 も つ第 だい 2旅客 りょかく ターミナルビルが供用 きょうよう を開始 かいし した[110] 。第 だい 2旅客 りょかく ターミナルビルの供用 きょうよう 開始 かいし に先駆 さきが け、1998年 ねん 3月 がつ 20日 はつか に第 だい 2旅客 りょかく ターミナルビルの南 みなみ 寄 よ りに暫定 ざんてい 国際線 こくさいせん 旅客 りょかく ターミナルビルが完成 かんせい した[111] 。当初 とうしょ はチャイナエアラインのみが使用 しよう し、2000年 ねん 9月 がつ から同 おな じく台湾 たいわん 系 けい のエバー航空 こうくう が就航 しゅうこう していたが、2002年 ねん 4月 がつ 18日 にち に成田空港 なりたくうこう のB滑走 かっそう 路 ろ が暫定 ざんてい 供用 きょうよう を開始 かいし したことに伴 ともな い、チャイナエアライン・エバー航空 こうくう はともに成田空港 なりたくうこう 発着 はっちゃく となった[112] 。
航空 こうくう 需要 じゅよう の増大 ぞうだい から、羽田空港 はねだくうこう においては、ラッシュ時 じ は2分 ふん 間隔 かんかく で発着 はっちゃく が行 おこな われるなど、1990年代 ねんだい には発着 はっちゃく 能力 のうりょく が限界 げんかい に達 たっ しており、増便 ぞうびん は困難 こんなん な状況 じょうきょう になっていた。限 かぎ られた発着 はっちゃく 枠 わく でできるだけ輸送 ゆそう 量 りょう を大 おお きくするため、羽田空港 はねだくうこう では日本 にっぽん の空港 くうこう としては唯一 ゆいいつ 、小型 こがた 機 き の乗 の り入 い れが原則 げんそく として禁止 きんし されており、その結果 けっか 、特 とく に地方 ちほう 空港 くうこう の利便 りべん 性 せい が低下 ていか し不満 ふまん が高 たか まっていた。そこで2000年 ねん 9月 がつ から、首都 しゅと 圏 けん 第 だい 3空港 くうこう 調査 ちょうさ 検討 けんとう 会 かい により、羽田空港 はねだくうこう の再 さい 拡張 かくちょう や、首都 しゅと 圏 けん に羽田 はた ・成田 なりた に次 つ ぐ第 だい 3の空港 くうこう を設置 せっち し、航空 こうくう 需要 じゅよう の増加 ぞうか に対応 たいおう する案 あん が検討 けんとう された。その検討 けんとう の結果 けっか 、日本国 にっぽんこく 政府 せいふ は2001年 ねん 12月19日 にち に、第 だい 3空港 くうこう の設置 せっち より優位 ゆうい 性 せい のある羽田空港 はねだくうこう の再 さい 拡張 かくちょう を優先 ゆうせん 的 てき に行 おこな うことを決定 けってい し、以下 いか の事業 じぎょう が行 おこな われた[113] 。
再 さい 拡張 かくちょう と再 さい 国際 こくさい 化 か [ 編集 へんしゅう ]
D滑走 かっそう 路 ろ は、神奈川 かながわ 県 けん 寄 よ りの多摩川 たまがわ 河口 かこう 付近 ふきん の海上 かいじょう に、従来 じゅうらい の埋 う め立 た てとジャケット工法 こうほう による桟橋 さんばし [注 ちゅう 4] を組 く み合 あ わせた、世界 せかい 初 はつ の人工 じんこう 島 とう と桟橋 さんばし のハイブリッド 滑走 かっそう 路 ろ として、既存 きそん のB滑走 かっそう 路 ろ とほぼ平行 へいこう に建設 けんせつ された。このD滑走 かっそう 路 ろ の設計 せっけい 耐久 たいきゅう 年数 ねんすう は、100年 ねん に設定 せってい [114] されている。
東京 とうきょう 湾 わん の羽田空港 はねだくうこう 沖 おき は、江戸前 えどまえ マアナゴ などで有名 ゆうめい な漁場 ぎょじょう である。滑走 かっそう 路 ろ の建設 けんせつ 工事 こうじ の影響 えいきょう により、漁獲 ぎょかく 量 りょう 減少 げんしょう が懸念 けねん されるとして、地元 じもと 漁協 ぎょきょう と国土 こくど 交通省 こうつうしょう の漁業 ぎょぎょう 補償 ほしょう 交渉 こうしょう が難航 なんこう した。当初 とうしょ 、同省 どうしょう は閣議 かくぎ 決定 けってい されていた2009年 ねん 末 まつ の供用 きょうよう 開始 かいし に向 む け、2006年 ねん 春 はる 頃 ごろ の着工 ちゃっこう を目指 めざ していたが、結果 けっか 的 てき に目標 もくひょう は達成 たっせい できなかった。工事 こうじ は2007年 ねん 3月 がつ 31日 にち に開始 かいし され、5月20日 にち に関係 かんけい 者 しゃ による着工 ちゃっこう 記念 きねん 式典 しきてん が行 おこな われた。同省 どうしょう は、当初 とうしょ の計画 けいかく に間 ま に合 あ わせるために工期 こうき 短縮 たんしゅく の方法 ほうほう などを模索 もさく した結果 けっか 、2010年 ねん 10月 がつ 21日 にち に完成 かんせい し、供用 きょうよう を開始 かいし した。
このD滑走 かっそう 路 ろ の設置 せっち 計画 けいかく 当初 とうしょ は既存 きそん のB滑走 かっそう 路 ろ と完全 かんぜん に平行 へいこう な滑走 かっそう 路 ろ の建設 けんせつ を予定 よてい していたが、南風 みなみかぜ ・荒天 こうてん 時 じ に千葉 ちば 県 けん 浦安 うらやす 市 し の市街地 しがいち 上空 じょうくう を通過 つうか すること、また東京 とうきょう ディズニーリゾート と直線 ちょくせん 距離 きょり 300mの沖合 おきあ いを通過 つうか することが問題 もんだい 視 し され、滑走 かっそう 路 ろ の方位 ほうい を時計 とけい 回 まわ り に7.5度 ど 変更 へんこう した[115] 。この変更 へんこう により、神奈川 かながわ 県 けん 川崎 かわさき 市 し にある東京湾 とうきょうわん アクアライン川崎 かわさき 人工 じんこう 島 とう にある換気 かんき 口 こう のピラミッド 状 じょう の装飾 そうしょく が制限 せいげん 表面 ひょうめん 上 じょう に出 で るため、装飾 そうしょく 上部 じょうぶ が撤去 てっきょ された。
沖合 おきあい に建設 けんせつ されているD滑走 かっそう 路 ろ を含 ふく む空港 くうこう 全体 ぜんたい の視認 しにん 性 せい 確保 かくほ などを目的 もくてき として[116] 、新 あら たに旧 きゅう 管制塔 かんせいとう の南東 なんとう 側 がわ 、第 だい 2駐車 ちゅうしゃ 場 じょう に隣接 りんせつ する「バスプール」のエリアに世界 せかい で3番目 ばんめ (当時 とうじ )・国内 こくない 最高 さいこう の高 たか さとなる116mの新 しん 管制塔 かんせいとう が設 もう けられ、2010年 ねん 1月 がつ 12日 にち に運用 うんよう が開始 かいし された。これにより、それまでの旧 きゅう 管制塔 かんせいとう の飛行場 ひこうじょう 管制 かんせい 室 しつ は供用 きょうよう 開始 かいし から16年 ねん で役目 やくめ を終 お えたことになるが、新 しん 管制塔 かんせいとう 供用 きょうよう 開始 かいし 後 ご も撤去 てっきょ されずバックアップ用 よう の予備 よび 管制塔 かんせいとう となった。なお、新 しん 管制塔 かんせいとう で新設 しんせつ されるのは飛行場 ひこうじょう 管制 かんせい 室 しつ とその付帯 ふたい 設備 せつび だけで、ターミナルレーダー管制 かんせい 室 しつ や航空局 こうくうきょく 庁舎 ちょうしゃ は従来 じゅうらい の位置 いち のままである。
A滑走 かっそう 路 ろ とB滑走 かっそう 路 ろ および環 たまき 八 はち 通 とお り に囲 かこ まれ、かつての国内線 こくないせん ターミナル(1993年 ねん まで)と国際線 こくさいせん ターミナル(1998年 ねん まで)、日本航空 にほんこうくう のライン整備 せいび センターなどがあった区域 くいき に、新 あたら しい国際線 こくさいせん 旅客 りょかく ターミナルビルと国際 こくさい 貨物 かもつ ターミナル、エプロンなどを建設 けんせつ し、国際線 こくさいせん 地区 ちく としてPFI 手法 しゅほう を用 もち いて整備 せいび した。2008年 ねん 4月 がつ 8日 にち に起工式 きこうしき が行 おこな われ、2010年 ねん 7月 がつ 末 まつ に完成 かんせい し[117] 、同年 どうねん 10月 がつ 21日 にち に供用 きょうよう 開始 かいし された[118] [119] 。これに伴 ともな い、10月12日 にち に旧 きゅう ・P5駐車 ちゅうしゃ 場 じょう が営業 えいぎょう を終了 しゅうりょう し、10月 がつ 20日 はつか に暫定 ざんてい 国際線 こくさいせん 旅客 りょかく ターミナルビルが閉鎖 へいさ された[120] 。
国際線 こくさいせん 旅客 りょかく ターミナルビルは、5階 かい 建 だ て延 の べ床 ゆか 面積 めんせき 約 やく 15万 まん 9000平方 へいほう メートル(付属 ふぞく 棟 とう 含 ふく む)のターミナルビルと6層 そう 7段 だん の駐車 ちゅうしゃ 場 じょう (約 やく 2300台 だい 収容 しゅうよう 、延 の べ床 ゆか 面積 めんせき 約 やく 67,000平方 へいほう メートル)で構成 こうせい される。空港 くうこう ターミナルビル には、江戸 えど の町並 まちな みを再現 さいげん した商業 しょうぎょう ゾーン(4階 かい 「江戸 えど 小路 こうじ 」)や日本 にっぽん 最大 さいだい 級 きゅう の規模 きぼ の免税 めんぜい 店 てん を設置 せっち して収益 しゅうえき を確保 かくほ する見通 みとお しである。国際 こくさい 旅客 りょかく ターミナルビルの整備 せいび ・運営 うんえい は、国内線 こくないせん ターミナルビルを運営 うんえい している日本空港 にほんくうこう ビルデングを筆頭 ひっとう 株主 かぶぬし とする特別 とくべつ 目的 もくてき 会社 かいしゃ 「東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう ターミナル株式会社 かぶしきがいしゃ (Tokyo International Airport Terminal Corporation, TIAT)」がPFI方式 ほうしき で実施 じっし している。
スポットは固定 こてい スポットとオープンスポットが各々 おのおの 10か所 しょ 設置 せっち されるのみであるうえ、旅客 りょかく ターミナルビルがA滑走 かっそう 路 ろ とB滑走 かっそう 路 ろ および環 たまき 八 はち 通 とお りに囲 かこ まれ、更 さら なる拡張 かくちょう も難 むずか しいと考 かんが えられたことから、前原 まえはら 誠司 せいじ 国土 こくど 交通 こうつう 大臣 だいじん が提唱 ていしょう した「羽田空港 はねだくうこう 国際 こくさい ハブ空港 くうこう 化 か 」の実現 じつげん には不十分 ふじゅうぶん な規模 きぼ であるとの指摘 してき もあった。
国際線 こくさいせん ターミナルビルの開業 かいぎょう に合 あ わせ、同 どう ターミナルへのアクセスとして、東京 とうきょう モノレール羽田 はねだ 線 せん は一部 いちぶ ルートを変更 へんこう し、ビルに隣接 りんせつ する形 かたち での新駅 しんえき 「羽田空港 はねだくうこう 国際線 こくさいせん ビル駅 えき 」を新設 しんせつ した。また、京浜急行電鉄 けいひんきゅうこうでんてつ 空港線 くうこうせん も、羽田空港 はねだくうこう 駅 えき - 天空 てんくう 橋 きょう 駅 えき 間 あいだ のターミナルビル地下 ちか に新駅 しんえき 「羽田空港 はねだくうこう 国際線 こくさいせん ターミナル駅 えき 」を開業 かいぎょう し、あわせて国内線 こくないせん ターミナルの最寄駅 もよりえき である羽田空港 はねだくうこう 駅 えき の名称 めいしょう を「羽田空港 はねだくうこう 国内線 こくないせん ターミナル駅 えき 」に変更 へんこう 。
2011年 ねん 11月16日 にち 、国内線 こくないせん 第 だい 1旅客 りょかく ターミナルビルのリニューアル工事 こうじ が完了 かんりょう した[121] [122] [123] 。チェックインカウンターが並 なら ぶ2階 かい の出発 しゅっぱつ ロビーの天井 てんじょう には、自然 しぜん 光 こう を取 と り入 い れる開口 かいこう 部 ぶ が設 もう けられ、明 あか るい雰囲気 ふんいき となった。また、保安 ほあん 検査 けんさ 場 じょう を通過 つうか した後 のち の制限 せいげん エリア内 ない の商業 しょうぎょう 施設 しせつ を大幅 おおはば に拡充 かくじゅう したほか、屋上 おくじょう 展望 てんぼう デッキも改装 かいそう して航空機 こうくうき をより見 み やすくなるようフェンスを更新 こうしん した[124] 。
2009年 ねん 10月 がつ 13日 にち 、国土 こくど 交通 こうつう 大臣 だいじん だった前原 まえはら 誠司 せいじ は、日本 にっぽん の地方 ちほう 空港 くうこう から韓国 かんこく 仁川 にがわ 国際 こくさい 空港 くうこう を経由 けいゆ した海外 かいがい 渡航 とこう が増加 ぞうか している現状 げんじょう を問題 もんだい 視 し 。その原因 げんいん とされている「内 うち 際 ぎわ 分離 ぶんり 」の原則 げんそく (国際線 こくさいせん は成田空港 なりたくうこう 、国内線 こくないせん は羽田空港 はねだくうこう )を改 あらた め、羽田空港 はねだくうこう と成田空港 なりたくうこう を一体 いったい 的 てき に運用 うんよう し、羽田空港 はねだくうこう を24時 じ 間 あいだ 使用 しよう 可能 かのう な国際 こくさい ハブ空港 くうこう とする方針 ほうしん を明 あ かした[125] [126] 。この方針 ほうしん を受 う け、新設 しんせつ した国際線 こくさいせん 旅客 りょかく ターミナルビルを2013年度 ねんど をめどに夜 よる 間 あいだ 駐 ちゅう 機 き 場 じょう として整備 せいび された北側 きたがわ エプロン方面 ほうめん へ延長 えんちょう 増築 ぞうちく し、搭乗 とうじょう 口 こう を増設 ぞうせつ する拡張 かくちょう 計画 けいかく が打 う ち出 だ された[127] [128] 。
拡張 かくちょう 部分 ぶぶん についてもPFI 事業 じぎょう として整備 せいび され、2011年 ねん 6月 がつ 21日 にち 、国土 こくど 交通省 こうつうしょう と東京 とうきょう 国際 こくさい 空港 くうこう ターミナル が国際線 こくさいせん 旅客 りょかく ターミナルビル本館 ほんかん の改修 かいしゅう と増築 ぞうちく 、北側 きたがわ エプロンへの固定 こてい スポット8か所 しょ 分 ぶん のサテライト増築 ぞうちく 、立体 りったい 駐車 ちゅうしゃ 場 じょう の増築 ぞうちく 、ホテルの新設 しんせつ を内容 ないよう とする拡張 かくちょう 計画 けいかく に合意 ごうい した[129] [130] [131] 。また、2012年 ねん 8月 がつ 31日 にち 、国際線 こくさいせん エプロンの増設 ぞうせつ などの拡充 かくじゅう 整備 せいび による事業 じぎょう 契約 けいやく の変更 へんこう について、国土 こくど 交通省 こうつうしょう 関東 かんとう 地方 ちほう 整備 せいび 局 きょく と羽田空港 はねだくうこう 国際線 こくさいせん エプロンPFI株式会社 かぶしきがいしゃ が変更 へんこう 契約 けいやく を締結 ていけつ した[132] 。
2014年 ねん 3月 がつ 30日 にち 、拡張 かくちょう 部 ぶ の一部 いちぶ が供用 きょうよう 開始 かいし 。ターミナルビルはT字 じ 状 じょう になり、延 の べ面積 めんせき は約 やく 15万 まん 9000m2 から約 やく 23万 まん 6000m2 に約 やく 1.5倍 ばい 拡大 かくだい 、固定 こてい スポット(搭乗 とうじょう 口 こう )が10から18、チェックインカウンターが96から144、出発 しゅっぱつ 保安 ほあん 検査 けんさ 場 じょう が1カ所 かしょ から2カ所 かしょ に増加 ぞうか するなどした[133] [134] 。
2014年 ねん 8月 がつ 28日 にち 、拡張 かくちょう 部 ぶ 一般 いっぱん エリアが供用 きょうよう 開始 かいし 。イベントスペースや多目的 たもくてき ホール、レストランや物販 ぶっぱん 店 てん などの商業 しょうぎょう 店舗 てんぽ が設 もう けられた[135] 。
2014年 ねん 9月 がつ 30日 にち 、ロイヤルパークホテル ザ 羽田 はた (現 げん ・THE ロイヤルパークホテル 東京 とうきょう 羽田 はねだ )開業 かいぎょう [136] 。またホテル開業 かいぎょう に合 あ わせ、ビジネスジェット 専用 せんよう ゲートの供用 きょうよう が開始 かいし された[137] 。
2009年 ねん 4月 がつ 、政府 せいふ ・与党 よとう が長距離 ちょうきょり 国際線 こくさいせん への対応 たいおう としてC滑走 かっそう 路 ろ を南東 なんとう (D滑走 かっそう 路側 ろそく )へ360m延長 えんちょう して3,360mにする方針 ほうしん を固 かた め、追加 ついか 経済 けいざい 対策 たいさく に盛 も り込 こ むこととした[138] [139] 。これは長距離 ちょうきょり 国際線 こくさいせん の輸送 ゆそう 力 りょく を増強 ぞうきょう 、大型 おおがた 機 き の離着陸 りちゃくりく を可能 かのう にする施策 しさく で、特 とく に深夜 しんや 早朝 そうちょう 時間 じかん 帯 たい に就航 しゅうこう する長距離 ちょうきょり 国際線 こくさいせん の大型 おおがた 化 か が可能 かのう となる[140] 。2009年 ねん 度 ど 中 ちゅう に着工 ちゃっこう し、2013年度 ねんど 完成 かんせい 予定 よてい であった[141] [142] が、用地 ようち 内 ない の廃棄 はいき 物 ぶつ 対策 たいさく の検討 けんとう に時間 じかん を要 よう したため事業 じぎょう 期間 きかん が約 やく 1年 ねん 伸 の び、2014年 ねん 12月11日 にち より施設 しせつ 供用 きょうよう 開始 かいし となった[143] [144] [145] 。
旧 きゅう 空港 くうこう 跡地 あとち [ 編集 へんしゅう ]
2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )3月 がつ 、国土 こくど 交通省 こうつうしょう 、東京 とうきょう 都 と 、大田 おおた 区 く 、品川 しながわ 区 く による羽田空港 はねだくうこう 移転 いてん 問題 もんだい 協議 きょうぎ 会 かい は、羽田空港 はねだくうこう の沖合 おきあい 展開 てんかい 事業 じぎょう 及 およ び再 さい 拡張 かくちょう 事業 じぎょう の結果 けっか として発生 はっせい した跡地 あとち について、「羽田空港 はねだくうこう 跡地 あとち 利用 りよう 基本 きほん 計画 けいかく 」を策定 さくてい し[146] 、2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )10月 がつ には、それを具体 ぐたい 化 か した「羽田空港 はねだくうこう 跡地 あとち まちづくり推進 すいしん 計画 けいかく 」をとりまとめた[147] 。
政府 せいふ は、羽田空港 はねだくうこう 周辺 しゅうへん を訪日 ほうにち 客 きゃく の受 う け入 い れ拡大 かくだい や国際 こくさい 競争 きょうそう 力 りょく の強化 きょうか を目指 めざ し国家 こっか 戦略 せんりゃく 特区 とっく に認定 にんてい し[148] 、この地域 ちいき は「HANEDA GLOBAL WINGS 」と名付 なづ けられ[149] 、第 だい 1ゾーンには羽田 はた みらい開発 かいはつ [注 ちゅう 5] が「HANEDA INNOVATION CITY 」[150] 、第 だい 2ゾーンにあたる当 とう 地区 ちく には外国 がいこく 人 じん 観光 かんこう 客 きゃく の増加 ぞうか を見込 みこ んだ住友不動産 すみともふどうさん グループが「羽田 はた エアポートガーデン 」を整備 せいび した[148] [151] 。
羽田 はた エアポートガーデンは地上 ちじょう 12階 かい 建 だ て、延 のべ 床 ゆか 面積 めんせき は約 やく 9万 まん 1500平方 へいほう メートル。ホテル(ヴィラフォンテーヌプレミア/グランド羽田空港 はねだくうこう )、商業 しょうぎょう 施設 しせつ 、温浴 おんよく 施設 しせつ 、MICE施設 しせつ (ベルサール )、バスターミナル などを備 そな えた。当初 とうしょ は2020年 ねん (令 れい 和 わ 2年 ねん )4月 がつ 19日 にち の開業 かいぎょう を予定 よてい していたが、新型 しんがた コロナウイルス感染 かんせん 症 しょう (COVID-19)流行 りゅうこう の影響 えいきょう で延期 えんき となり、2023年 ねん (令 れい 和 わ 5年 ねん )1月 がつ 31日 にち に全面 ぜんめん 開業 かいぎょう を迎 むか えた[152] [153] 。なお、羽田 はた エアポートガーデンの開業 かいぎょう によって、約 やく 80年 ねん ぶりに羽田 はた の地 ち に「温泉 おんせん (塩化 えんか 物 ぶつ 泉 いずみ ・羽田空港 はねだくうこう 泉 いずみ 天空 てんくう 温泉 おんせん )」が復活 ふっかつ することになった。
なお、施設 しせつ 開業 かいぎょう に先行 せんこう して、2022年 ねん 3月 がつ 12日 にち には羽田 はた エアポートガーデン付近 ふきん から対岸 たいがん の川崎 かわさき 市 し 殿町 とのまち 地区 ちく 「キングスカイフロント 」とを結 むす ぶ「多摩川 たまがわ スカイブリッジ 」も新 あら たに開通 かいつう している[154] 。
1960年 ねん 4月 がつ 1日 にち - 蒲田 かまた 警察 けいさつ 署 しょ 羽田空港 はねだくうこう 支所 ししょ が東京 とうきょう 空港 くうこう 警察 けいさつ 署 しょ として昇格 しょうかく 。
町名 ちょうめい の変遷 へんせん [ 編集 へんしゅう ]
実施 じっし 後 ご
実施 じっし 年月日 ねんがっぴ
実施 じっし 前 まえ (いずれも羽田 はねだ 町 まち )
羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち
1932年 ねん 10月 がつ 1日 にち
大字 だいじ 鈴木 すずき 新田 にった 字 じ 宮ノ下 みやのした ・字 じ 鈴 すず 納 おさめ 耕地 こうち ・字 じ 巽 たつみ ノ方 かた ・字 じ 明神崎 みょうかんざき ・字 じ 辰巳 たつみ 之 これ 方 かた ・字 じ 堤外 ていがい 東南 とうなん
羽田 はた 穴守 あなもり 町 まち
大字 だいじ 鈴木 すずき 新田 にった 字 じ 東崎 とうざき ・字 じ 堤外 ていがい 東北 とうほく ・字 じ 堤外 ていがい 乾 いぬい 績
羽田 はた 江戶 えど 見 みる 町 まち
大字 だいじ 鈴木 すずき 新田 にった 字 じ 江戶 えど 見崎 みさき ・字 じ 江戶 えど 見崎 みさき 北 きた ノ方 ほう
羽田 はた 御 ご 臺場 だいば
大字 だいじ 羽田 はた 字 じ 御 ご 臺場 だいば
鈴木 すずき 御 ご 臺場 だいば
大字 だいじ 鈴木 すずき 新田 にった 字 じ 辰巳 たつみ 島 とう ・字 じ 御 ご 臺場 だいば ・字 じ 御 ご 臺場 だいば 耕地 こうち 績中堤防 ていぼう ノ内 ない ・字 じ 御 ご 臺場 だいば 耕地 こうち 績中堤防 ていぼう 外 がい 北 きた ノ方 かた ・字 じ 御 ご 臺場 だいば 耕地 こうち
獵師 りょうし 町 まち 御 ご 臺場 だいば
大字 だいじ 羽田 はねだ 獵師 りょうし 町 まち 字 じ 御 ご 臺場 だいば
実施 じっし 後 ご
実施 じっし 年月日 ねんがっぴ
実施 じっし 前 まえ
羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ
1967年 ねん 5月1日 にち
羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち の一部 いちぶ 、羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち の一部 いちぶ 、羽田 はた 穴守 あなもり 町 まち の一部 いちぶ
羽田空港 はねだくうこう 二 に 丁目 ちょうめ
羽田 はた 御 ご 台場 だいば 、猟師 りょうし 町 まち 御台 みだい 場 じょう 、鈴木 すずき 御 ご 台場 だいば 、羽田 はた 江戸 えど 見 みる 町 まち の一部 いちぶ 、羽田 はた 鈴木 すずき 町 まち の一部 いちぶ 、羽田 はた 穴守 あなもり 町 まち の一部 いちぶ
羽田空港 はねだくうこう 三 さん 丁目 ちょうめ
1993年 ねん 7月 がつ 1日 にち
京浜 けいひん 八 はち 区 く B区 く 、京浜 けいひん 九 きゅう 区 く A区 く 、京浜 けいひん 九 きゅう 区 く B区 く 第 だい 一 いち 工 こう 区 く 、京浜 けいひん 九 きゅう 区 く B区 く 第 だい 二 に 工 こう 区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 一 いち 工 こう 区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 二 に 工 こう 区 く A区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 二 に 工 こう 区 く B区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 三 さん 工 こう 区 く A区 く イ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 三 さん 工 こう 区 く A区 く ロ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 三 さん 工 こう 区 く B区 く イ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 三 さん 工 こう 区 く B区 く ロ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 三 さん 工 こう 区 く C区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 三 さん 工 こう 区 く D区 く イ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 三 さん 工 こう 区 く E区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 四 よん 工 こう 区 く A区 く イ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 四 よん 工 こう 区 く A区 く ロ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 四 よん 工 こう 区 く B区 く イ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 四 よん 工 こう 区 く B区 く ロ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 四 よん 工 こう 区 く B区 く ハ区 く 、羽田 はた 沖 おき 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 四 よん 工 こう 区 く B区 く ニ区 く 、羽田空港 はねだくうこう 二 に 丁目 ちょうめ 南東 なんとう 側 がわ 地 ち 先 さき 公有 こうゆう 水面 すいめん 、羽田空港 はねだくうこう 二 に 丁目 ちょうめ 地 ち 先 さき 国有 こくゆう 水没 すいぼつ 地 ち 、羽田空港 はねだくうこう 三丁目地先公有水面羽田沖埋立地第四工区B区 く ホ区 く 、羽田 はた 沖 おき その三 さん 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 一 いち 工 こう 区 く 、羽田空港 はねだくうこう 二丁目東側地先公有水面羽田沖その三 さん 埋立 うめたて 地 ち 第 だい 二 に 工 こう 区 く
戦前 せんぜん は1200世帯 せたい 3000人 にん の住民 じゅうみん がいたが、戦後 せんご の連合 れんごう 国軍 こくぐん による強制 きょうせい 接収 せっしゅう 以降 いこう は、0人 にん となった。その後 ご 、羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ に全寮 ぜんりょう 制 せい の航空 こうくう 保安 ほあん 大 だい 学校 がっこう が創設 そうせつ され、寮生 りょうせい 160人 にん 前後 ぜんこう の住民 じゅうみん がいた。しかし、2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )3月 がつ に同校 どうこう が大阪 おおさか 府 ふ 泉佐野 いずみさの 市 し に移転 いてん したため、人口 じんこう は再 ふたた び0人 にん となった。それから現在 げんざい に至 いた るまで、羽田空港 はねだくうこう の人口 じんこう は常 つね に0人 にん である[176] 。
区立 くりつ 小・中学校 しょうちゅうがっこう に通 かよ う場合 ばあい 、学区 がっく は以下 いか の通 とお りとなる(2023年 ねん 3月 がつ 時点 じてん )[177] [178] 。ただし、住民 じゅうみん 不在 ふざい のため、実際 じっさい には通学 つうがく する児童 じどう ・生徒 せいと はいない。
2021年 ねん (令 れい 和 わ 3年 ねん )現在 げんざい の経済 けいざい センサス調査 ちょうさ による事業 じぎょう 所 しょ 数 すう と従業 じゅうぎょう 員数 いんずう は以下 いか の通 とお りである[179] 。
丁 ひのと 目 め
事業 じぎょう 所 しょ 数 すう
従業 じゅうぎょう 員数 いんずう
羽田空港 はねだくうこう 一 いち 丁目 ちょうめ
118事業 じぎょう 所 しょ
4,536人 にん
羽田空港 はねだくうこう 二 に 丁目 ちょうめ
159事業 じぎょう 所 しょ
4,728人 にん
羽田空港 はねだくうこう 三 さん 丁目 ちょうめ
403事業 じぎょう 所 しょ
44,306人 にん
計 けい
680事業 じぎょう 所 しょ
53,570人 にん
事業 じぎょう 者 しゃ 数 すう の変遷 へんせん [ 編集 へんしゅう ]
経済 けいざい センサスによる事業 じぎょう 所 しょ 数 すう の推移 すいい 。
従業 じゅうぎょう 員数 いんずう の変遷 へんせん [ 編集 へんしゅう ]
経済 けいざい センサスによる従業 じゅうぎょう 員数 いんずう の推移 すいい 。
^ “住民 じゅうみん 基本 きほん 台帳 だいちょう による東京 とうきょう 都 と の世帯 せたい と人口 じんこう (町 まち 丁 ひのと 別 べつ ・年齢 ねんれい 別 べつ ) 令 れい 和 わ 5年 ねん 1月 がつ ” (CSV). 東京 とうきょう 都 と (2023年 ねん 4月 がつ 6日 にち ). 2023年 ねん 12月17日 にち 閲覧 えつらん 。 “(ファイル元 もと のページ) ” (CC-BY-4.0 )
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^ 『穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 史 し 』穴守稲荷 あなもりいなり 神社 じんじゃ 、3/31、16頁 ぺーじ 。
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