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蝦夷えぞ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
蝦夷えぞこくから転送てんそう
アテルイ、モレの顕彰けんしょう
京都きょうと清水寺きよみずでら

蝦夷えぞ(えみし、えびす、えぞ)は、大和やまと朝廷ちょうていからつづ歴代れきだい中央ちゅうおう政権せいけんからて、日本にっぽん列島れっとう東国とうごく現在げんざい関東かんとう地方ちほう東北とうほく地方ちほう)や、北方ほっぽう現在げんざい北海道ほっかいどう千島ちしま列島れっとう樺太からふと)などに人々ひとびと呼称こしょうである[1]

おおきく、「エミシ(蝦夷えぞ)」と「エゾ(蝦夷えぞ)」という2つの呼称こしょう大別たいべつされる。

大和やまと朝廷ちょうてい支配しはいふくした東国とうごく蝦夷えぞ(エミシ)は、俘囚ふしゅうばれ、地域ちいき移住いじゅうさせられることがあった。

語源ごげん用字ようじ[編集へんしゅう]

蝦夷えぞふるくはあい瀰詩き(神武じんむ東征とうせい)、つぎじんあらわされ、ともに「えみし」とんだ。のちに「えびす」ともばれ、「えみし」からの転訛てんかわれる[2]。「えぞ」が使つかわれはじめたのは11世紀せいきか12世紀せいきである[3]

えみし、じん蝦夷えぞ語源ごげんについては、以下いか紹介しょうかいする様々さまざませつとなえられているものの、いずれもかくたる証拠しょうこはないが、エミシ(あい瀰詩)のはつ神武じんむ東征とうせいであり、神武じんむ天皇てんのうによってほろぼされた畿内きない先住せんじゅう勢力せいりょくとされている。「蝦夷えぞ表記ひょうき初出しょしゅつは、日本書紀にほんしょきけいぎょう天皇てんのうじょうである。そこでは、武内たけうち宿禰すくね北陸ほくりくおよ東方とうほう諸国しょこく視察しさつして、「ひがしえびすなかに、にち高見こうけんこくり。そのくにひと男女だんじょなみしいゆわぶん(もどろ)けて、ひととなりいさみこわし。をすべて蝦夷えぞという。また土地とち沃壌えてひろし、ちてりつべし」とべており、5世紀せいきごろとされるけいぎょうには、蝦夷えぞ現在げんざい東北とうほく地方ちほうだけではなく関東かんとう地方ちほうふくひろ東方とうほうにいたこと、蝦夷えぞは「ぶんけて」つまり、邪馬台国やまたいこく人々ひとびとおなじく、ずみ文身いれずみ)をしていたことがかっている。

うたで「えみしを 一人ひとり ひゃくひと じんげんへども 手向てむかいもせず」(えみしは一人ひとりひゃくにんひとうが、ぐんには手向てむかいもしない)[4]うたわれたこと、蘇我蝦夷そがのえみししょう野毛のげじん佐伯さえきこんじんかも蝦夷えぞのように大和やまと朝廷ちょうていがわ貴族きぞく使つかわれたこと、平安へいあん時代じだい後期こうきには権威けんいけのために蝦夷えぞとの関連かんれんせい主張しゅちょうする豪族ごうぞく安倍あべ清原きよはら)が登場とうじょうしていることから、「えみし」にはつよさや勇敢ゆうかんさという語感ごかんがあったと推測すいそくされている[5]。そこから、直接ちょくせつその意味いみもちいられた用例ようれいはないものの、本来ほんらい意味いみは「田舎いなかの(辺境へんきょうの)勇者ゆうしゃ」といったものではないかという推測すいそくもある[6]

他方たほうアイヌ語源ごげんがあるとかんがえた金田一きんだいち京助きょうすけは、アイヌ雅語がごひとを「エンチュ (enchu, enchiu)」というのが、日本語にほんごで「えみし」になったか、あるいはアイヌふるかたちが「えみし」であったといた[7]

文献ぶんけんてき最古さいこれいじんで、5世紀せいきやまとおうたけしからそうへの上表じょうひょうぶんに「ひがしじんせいすることじゅうこく西にししゅうえびすふくせしむことろくじゅうろくこく」とある。蝦夷えぞをあてたのは、ひとし明天めいてんすめらぎ5ねん659ねん)の遣唐使けんとうし派遣はけんころではないかとわれる[8]後代こうだい人名じんめい使つか場合ばあい、ほとんどじん使つかった。蘇我蝦夷そがのえみしは『日本書紀にほんしょき』では蝦夷えぞだが、『上宮かみみや聖徳せいとく法王ほうおうみかどせつ』では蘇我そが豊浦とようらじんかれている。じんなにしているかについても諸説しょせつあるが、ひとつは体毛たいもうおおいことをいったのだとして、アイヌとの関連かんれんせいをみるせつである。また、中国ちゅうごく地理ちりしょ山海さんかいけい』にてくるみんこく意識いしきして、中華ちゅうか辺境へんきょうあらわすようにえらんだというせつもある[9][10]

人名じんめい使つかった場合ばあいであっても、佐伯さえきこんじん勤務きんむ評定ひょうじょうこん蝦夷えぞ正確せいかくにはえびす虫偏むしへんがつく)とかれたれいがある[11]蝦夷えぞえびについては、あごひげがながいのをエビにたててけたのだとするせつがある[12]えびす分解ぶんかいすると「ゆみじん」、上代じょうだい日本語にほんごで(ユミシ)になり、これが蝦夷えぞ特徴とくちょうなのだというせつもある[13]

喜田きた貞吉さだきちは、意味いみではなくおと「かい」が蝦夷えぞ自称じしょう民族みんぞくめいだった[14]のではないかといた。アイヌじんはモンゴルじんなど中国ちゅうごく東北とうほく民族みんぞくからは「ほね嵬(クギ、クイ)」、ロシアじんからは「クリル」とばれた。千島ちしま列島れっとうのロシアめいはクリル諸島しょとうである。ひとし明天めいてんすめらぎ5ねん使つかいさいに、ききとった唐人とうじん蝦夷えぞをあて、それを日本にっぽん踏襲とうしゅうしたという[ちゅう 1]平安へいあん初期しょきの「ひろじん私記しき」の序文じょぶんには、蝦夷えぞに「カイ」とルビをふっている。平安へいあん末期まっきの「伊呂波いろはるいしょう」にも、カイのじょうに「蝦夷えぞ」とある[16]秋田あきたはん藩士はんしであった人見ひとみ蕉雨によって1798ねん寛政かんせい10ねんごろあらわされたくろ甜瑣には、蝦夷えぞえびすだいゆみ上下じょうげごうになっている)のルビを「かい」としている。そこでは「ダケカンバおもえる植物しょくぶつをタッチラととなえる」という記述きじゅつからも、これがアイヌのことしていることがわかる[17]明治めいじ政府せいふ開拓かいたく使設置せっちともな蝦夷えぞ名称めいしょう変更へんこう検討けんとう1869ねん明治めいじ2ねん蝦夷えぞ探査たんさやアイヌとの交流こうりゅうつづけていた松浦まつうら武四郎たけしろう政府せいふ建白けんぱくしょ提出ていしゅつし、「にち高見こうけんどう」「きたどう」「うみ北道ほくどう」「海島うみしまみち」「東北道とうほくどう」「千島ちしまどう」の6あん提示ていじした[18]明治めいじ政府せいふは「きたどう」を基本きほんとし「」を「うみ」にあらためた「北海道ほっかいどう」とすることを決定けってい[18]明治めいじ2ねん8がつ15にち太政官だじょうかん布告ふこくにより「蝦夷えぞ自今じこん北海道ほっかいどうしょう じゅういちヶ国かこく分割ぶんかつ國名こくめいぐんめいとう別紙べっしつう おおせこうごと」と周知しゅうちされた[18]松浦まつうら建白けんぱくしょにおいて「きたどうあんはアイヌがみずからを「カイ」とんでいることから考案こうあんしたと説明せつめいしている[18]青森あおもりけん伝承でんしょうあつめた中道なかみちひとしの『おくすみたん』では「蝦夷えぞさき」のルビを「かいざき」としている[19]

金田一きんだいち京助きょうすけ喜田きたらのせつ批判ひはんし、「えび」のふる日本語にほんご「えみ」が「えみし」につうじるとしてけたとするせつとなえた[20][ちゅう 2]

諸説しょせつあるなか唯一ゆいいつさだまっているのは、「えびす」がひがし民族みんぞく東夷あずまえびす)をで、中華ちゅうか思想しそう日本にっぽん中心ちゅうしんにあてはめたものだということである。「えびす単独たんどくなら『古事記こじき』などにも普通ふつうにあるが、その場合ばあい古訓こくんで「ひな」とむ。おおくの学者がくしゃ用字ようじ変化へんかことぞくへの蔑視べっしあらわれとし、蘇我そがじん蘇我蝦夷そがのえみしとしたのも『日本書紀にほんしょき編者へんしゃかれいやしめたものとする[22]。だが、佐伯さえきこんじんしょう野毛のげじんれいいてこれに反対はんたいする意見いけんもある[23]

用字ようじについては、『日本書紀にほんしょき』では蝦夷えぞえびす虫偏むしへんをつけた箇所かしょ散見さんけんされる[24]蝦夷えぞ使用しようとほぼおなごろから、きた民族みんぞくあらわす「狄」の使つかわれた。「えび」といて「えみし」とんだらしい。じん結合けつごうして「もう狄」とかれたれいもある[25]いちで「えびす」と「狄」を使つかけることもよくあった。これは管轄かんかつするくにれいせいこく)による人工じんこうてき区分くぶんで、越後えちごこくのち出羽でわこく所轄しょかつ日本海にほんかいがわ北海道ほっかいどうのえみしをえび狄・狄陸奥みちのくこく所轄しょかつ太平洋たいへいようがわのえみしを蝦夷えぞえびすとしたのである[26]

蝦夷えぞ(えみし)[編集へんしゅう]

古代こだい蝦夷えぞ(えみし)は、本州ほんしゅう東部とうぶとそれ以北いほく居住きょじゅうし、政治せいじてき文化ぶんかてきに、大和やまと朝廷ちょうていやその支配しはいはいった地域ちいきへの帰属きぞく同化どうか拒否きょひしていた集団しゅうだんした[1]統一とういつした政治せいじ勢力せいりょくをなさず、積極せっきょくてき朝廷ちょうてい接近せっきんする集団しゅうだん敵対てきたいした集団しゅうだん記録きろくのこっている。しかし、次第しだい影響えいきょうりょく増大ぞうだいさせていく大和やまと朝廷ちょうていにより、征服せいふく吸収きゅうしゅうされていった。

「えみし」は朝廷ちょうていがわからの他称たしょうであり、蝦夷えぞがわ民族みんぞく集団しゅうだんとしての自覚じかく有無うむれた史料しりょうはない。蝦夷えぞ統一とういつアイデンティティーかったとするか、朝廷ちょうていがわとの交渉こうしょうなか民族みんぞく意識いしき形成けいせいされたであろうと想定そうていするかは、研究けんきゅうしゃあいだ意見いけんかれている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

弥生やよい時代じだい[編集へんしゅう]

おおむ関東かんとう地方ちほうから東北とうほく地方ちほう北海道ほっかいどうにかけて、ひろ日本にっぽん列島れっとう東方とうほうんでいたとかんがえられている。

東北とうほく地方ちほう北部ほくぶへも水田すいでん稲作いなさく一時いちじてきつたわったが放棄ほうきされ、狩猟しゅりょう採集さいしゅう文化ぶんか伝統でんとうとしてつづいた。

古墳こふん時代じだい[編集へんしゅう]

5世紀せいき中国ちゅうごく歴史れきししょそうしょ倭国わのくにでんに、478ねんじゅんみかどのぼりあきら2ねんやまとおうたけしそう (南朝なんちょう)とどけた上表じょうひょうぶんとして以下いか記述きじゅつがある。

むかしよりわたる(そでい)躬(みずか)ら甲冑かっちゅう(かっちゅう)をたまき(つらぬ)き、山川やまかわ(さんせん)を跋渉ばっしょう(ばっしょう)し、やすししょ(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。ひがしじんせいすること、じゅうこく西にししゅうえびすふくすることろくじゅうろくこくわたりてうみきたたいらぐること、きゅうじゅうこく。」

むかし禰躬たまき甲冑かっちゅう跋渉ばっしょう山川やまかわ遑寧しょ 東征とうせいじん五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」

これによりすでにこの時代じだいには蝦夷えぞ存在そんざいとその支配しはいすすんでいた様子ようす確認かくにんすることが出来できる。

蝦夷えぞは、そのすぐれた弓術きゅうじゅつ和人わじん伝統でんとうちょうゆみくらべるとたんゆみもちいた)に、うま古墳こふん時代じだい日本にっぽんへもたらされた)を和人わじんから組合くみあわせ、飛鳥あすか時代ときよ奈良なら時代じだいには騎射きしゃわざみが狩猟しゅりょうもちいた[27]。また同時どうじに、騎乗きじょう武器ぶきわらび手刀てがたな和人わじんかられた)も改良かいりょう発達はったつさせた。これらの強力きょうりょく戦闘せんとうじゅつ奈良なら時代じだい平安へいあん時代じだい和人わじんられた。

古墳こふん分布ぶんぷ[編集へんしゅう]

古墳こふん分布ぶんぷ和人わじん文化ぶんか範囲はんいしめし、蝦夷えぞとの境界きょうかい北限ほくげんとなる。これまでの発掘はっくつ調査ちょうさにより、古墳こふん時代じだい前期ぜんきにおける最古さいこきゅう前方後円墳ぜんぽうこうえんふん北限ほくげんは、現在げんざい新潟にいがたけん越後平野えちごへいや中部ちゅうぶ福島ふくしまけん会津盆地あいづぼんち宮城みやぎけん仙台平野せんだいへいやであったとかんがえられている。どう時代じだい終末しゅうまつまでに北限ほくげんは、日本海にほんかいがわ沿岸えんがんではほとんど北進ほくしんせずむしろ中越なかごえ地方ちほう後退こうたいするが、日本海にほんかいがわ内陸ないりくでは山形やまがたけん村山むらやま地方ちほう中部ちゅうぶまで、太平洋たいへいようがわでは岩手いわてけん北上盆地きたかみぼんち南部なんぶまで北進ほくしんした。

前方後円墳ぜんぽうこうえんふん北限ほくげん[28][29][30][31][32]

日本海にほんかいがわ 太平洋たいへいようがわ
島嶼とうしょ 沿岸えんがん 内陸ないりく
佐渡さわたり 新潟にいがたけん佐渡さどのぞく) 山形やまがたけん庄内しょうないのぞく)
福島ふくしまけん会津あいづ
岩手いわてけん
宮城みやぎけん
最北端さいほくたん なし 菖蒲しょうぶづか古墳こふん北緯ほくい3746ふん3.7びょう 東経とうけい13851ふん57.5びょう / 北緯ほくい37.767694 東経とうけい138.865972 / 37.767694; 138.865972 (菖蒲しょうぶづか古墳こふん(4世紀せいき後半こうはん)[33] 坊主ぼうずくぼ古墳こふんぐんだい1ごうふん
北緯ほくい3818ふん40.9びょう 東経とうけい14015ふん10.5びょう / 北緯ほくい38.311361 東経とうけい140.252917 / 38.311361; 140.252917 (坊主ぼうずくぼ古墳こふんぐんだい1ごうふん(6世紀せいき後半こうはん)[34]
すみづか古墳こふん北緯ほくい398ふん29.2びょう 東経とうけい1415ふん37.4びょう / 北緯ほくい39.141444 東経とうけい141.093722 / 39.141444; 141.093722 (すみづか古墳こふん(5世紀せいき後半こうはん)[35]
最大さいだい 菖蒲しょうぶづか古墳こふん北緯ほくい3746ふん3.7びょう 東経とうけい13851ふん57.5びょう / 北緯ほくい37.767694 東経とうけい138.865972 / 37.767694; 138.865972 (菖蒲しょうぶづか古墳こふん全長ぜんちょう:53m))
全長ぜんちょう:53m[33]
亀ヶ森かめがもり古墳こふん北緯ほくい3735ふん34.8びょう 東経とうけい13949ふん44.8びょう / 北緯ほくい37.593000 東経とうけい139.829111 / 37.593000; 139.829111 (亀ヶ森かめがもり古墳こふん全長ぜんちょう:127m))
全長ぜんちょう:127m[36][37]
雷神山らいじんやま古墳こふん北緯ほくい389ふん4.1びょう 東経とうけい14052ふん46.9びょう / 北緯ほくい38.151139 東経とうけい140.879694 / 38.151139; 140.879694 (雷神山らいじんやま古墳こふん全長ぜんちょう:168m))
全長ぜんちょう:168m[38]
最古さいこきゅう 稲場いなばづか古墳こふん北緯ほくい3741ふん14.8びょう 東経とうけい13850ふん31.4びょう / 北緯ほくい37.687444 東経とうけい138.842056 / 37.687444; 138.842056 (稲場いなばづか古墳こふん前期ぜんき) きねもり古墳こふん北緯ほくい3733ふん58.8びょう 東経とうけい13948ふん35.1びょう / 北緯ほくい37.566333 東経とうけい139.809750 / 37.566333; 139.809750 (きねもり古墳こふん前期ぜんき) かめづか古墳こふん北緯ほくい387ふん17.6びょう 東経とうけい14052ふん9.9びょう / 北緯ほくい38.121556 東経とうけい140.869417 / 38.121556; 140.869417 (かめづか古墳こふん前期ぜんき)
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神武じんむ東征とうせい伝説でんせつ[編集へんしゅう]

蝦夷えぞ「えみし」についての形式けいしきじょうもっとふる言及げんきゅうは『日本書紀にほんしょき神武じんむ東征とうせい紀中きちゅうまれているらいひとつにあい濔詩として登場とうじょうする。

えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず
わけえみしを、1人ひとりで100にんたるつよへいだと、ひとはいうけれど、抵抗ていこうもせずけてしまった)
あい瀰詩がらす こけ こけやぶえき陪廼 牟伽ぜい儒」[ちゅう 3]

しかし、このらいがどの程度ていど史実しじつ反映はんえいするものかどうかは判然はんぜんとせず、またここで登場とうじょうする「えみし」がこうの「蝦夷えぞ」を意味いみするかどうかも判然はんぜんとしないため、ふる時代じだい蝦夷えぞ民族みんぞくてき性格せいかく居住きょじゅう範囲はんいについては諸説しょせつがありたしかなことはわかっていない。

日本書紀にほんしょきけいぎょう天皇てんのうじょうには、武内たけうち宿禰すくね実在じつざい不明ふめい)が北陸ほくりくおよ東方とうほう諸国しょこく視察しさつしたさい記述きじゅつとして「ひがしえびす(あずまえびす)のなかに、にち高見こうけん国有こくゆうり。そのくにひと男女だんじょなみしいゆわぶんけて、ひととなりいさみこわし。をすべて蝦夷えぞという」とあり、荒々あらあらしく勇猛ゆうもうものじょう理解りかいせず教養きょうよう文化ぶんかけるものとしている。40ねんじょうには、天皇てんのう日本にっぽんたけたかし東夷あずまえびす征討せいとうめいじるさい蝦夷えぞ特徴とくちょうとして「ふゆ穴居けっきょなつ上家うわや生活せいかつ」「やまのぼるときはとりのようにはやく、草原そうげんはしるときはげるししのようにはやい」「たばねたかみなかかくし、かたなころもなかかくつ」「攻撃こうげきすると草原そうげんかくれてしまい、いかけると山中さんちゅうげてしまう」と記述きじゅつがある。

飛鳥あすか時代ときよ[編集へんしゅう]

飛鳥あすか時代ときよ7世紀せいきごろには、蝦夷えぞ現在げんざい宮城みやぎけん中部ちゅうぶから山形やまがたけん以北いほく東北とうほく地方ちほうと、北海道ほっかいどうだい部分ぶぶんおよ広範囲こうはんいんでいた。平時へいじには和人わじん交易こうえきおこない、昆布こぶうま毛皮けがわ羽根はねなどの特産とくさんぶつえに、べいぬの鉄器てっき工芸こうげいひんていた。大和やまと政権せいけん支配しはい領域りょういききた拡大かくだいするにつれて、しばしば防衛ぼうえいのためにたたかい、反乱はんらんこし、また和人わじんきずいたしろしがらみ襲撃しゅうげきしたため、日本書紀にほんしょきには襲撃しゅうげき討伐とうばつ記録きろく記録きろくされている。大和やまと帰順きじゅんした蝦夷えぞ集団しゅうだん俘囚ふしゅうばれ、関東かんとう地方ちほうなどへ移住いじゅうさせられたり、西日本にしにほん兵隊へいたい集団しゅうだんつとめるなどした。

蝦夷えぞせっする地域ちいき陸奥みちのくこく出羽でわこく越後えちごこく)では、国内こくない行政ぎょうせい司法しほう軍事ぐんじ管掌かんしょうする国司こくしまもりかいきょうきゅう慰撫いぶ)、征討せいとう斥候せっこうなどの外交がいこう軍事ぐんじ担当たんとうしていた。とく陸奥みちのくこく面積めんせきひろ軍事ぐんじてき衝突しょうとつ頻繁ひんぱんにおきるため、陸奥むつ国司くにじには大宝たいほう律令りつりょうさだめる特例とくれいおおく、みずからの判断はんだん征討せいとうることもゆるされていた。なおおな辺境へんきょうでも西国さいごく国司こくしは、征討せいとうのかわりにぼうもりきょうきゅうではなくしげるきゃく外国がいこく使節しせつ接待せったい)と帰化きか任務にんむであった(鎮西ちんぜい)。

当初とうしょ大和やまとがわでは秋田あきたじょうなどのしろしがらみ儀礼ぎれいてき会食かいしょく饗応きょうおう)や物資ぶっし提供ていきょうおこな服属ふくぞくうながしていたが、蝦夷えぞには中央ちゅうおう政権せいけんいため恭順きょうじゅんする集団しゅうだん支配しはい抵抗ていこう襲撃しゅうげきおこな集団しゅうだん混在こんざいし、長期間ちょうきかんにわたり交易こうえき征伐せいばつ並行へいこうしておこなわれる事態じたいとなった。

日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ元年がんねん655ねん)7がつ11にちじょうには、難波なんばあさ難波なんばきょう朝廷ちょうてい)できた蝦夷えぞ99にんひがし蝦夷えぞ95にん饗応きょうおうしたとある。そこでは「きた」と「ひがし」にそれぞれ「北越ほくえつ」「あずま陸奥むつ」とちゅうがあり、きたえつ方面ほうめんひがし陸奥みちのく方面ほうめんほぐせる。このうちえつこく陸奥みちのくこく西にし位置いちするが、こし高志たかし)はからみてきた位置いちするのできた蝦夷えぞとしている[39]。これらのかたり当時とうじ蝦夷えぞだい集団しゅうだんかれていたというではなく、応対おうたいするくにれいせいこく)の管轄かんかつによって朝廷ちょうていもちいた分類ぶんるいであるとかんがえられている。この区別くべつのち出羽でわこく陸奥みちのくこく管轄かんかつになって平安へいあん時代じだいまで踏襲とうしゅうされたが、きた民族みんぞくす「」にわり「えび狄」ともかれるようになった[40]

日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ4ねん658ねん)4がつには阿倍比羅夫あべのひらふ水軍すいぐん180せきひきいて蝦夷えぞ討伐とうばつしている。また日付ひづけ不明ふめいであるが同年どうねんには渡島ととうわた粛慎討伐とうばつヒグマ献上けんじょうけた記録きろくがある。この渡島ととうわたりしま)とはそとはま陸奥湾むつわん沿岸えんがん一部いちぶ)からうみわたったさきにあるしま北海道ほっかいどう)と推定すいていされる。粛慎とばれる集団しゅうだん詳細しょうさい不明ふめいであり本州ほんしゅう以外いがいんでいる蝦夷えぞ別称べっしょうというせつもあるが、のちには蝦夷えぞと粛慎がべつ集団しゅうだんであるかのような記述きじゅつ登場とうじょうする。

日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ5ねん659ねん)には朝廷ちょうていしたがった蝦夷えぞ遣唐使けんとうし同行どうこうとうこうはじめ紹介しょうかいされている。ここで引用いんようされた『伊吉いきちれん博徳ひろのりしょ』によると、じゅく蝦夷えぞ(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷えぞ)がもっとちかく、麁蝦夷えぞ(あらえみし。荒々あらあらしい蝦夷えぞ)がそれよりとおく、さい遠方えんぽうとめ(つかる、つがる。津軽つがる)がおり、れてきたのは毎年まいとし入貢にゅうこうしているじゅく蝦夷えぞであること、蝦夷えぞ肉食にくしょく五穀ごこくべず、いえてずにしたんでいるなどを説明せつめいしたところ、こうはじめめずらしくおもったと感想かんそうべたとしている。しかしこのような生活せいかつ史料しりょうにある記述きじゅつ現在げんざい考古学こうこがくてき知見ちけんとも矛盾むじゅんし、蝦夷えぞ野蛮やばんじん誇張こちょうしこれをしたがえる大和やまとちから誇示こじするための創作そうさくおもわれる。信憑しんぴょうせいけるこの説明せつめいから推測すいそくされるのは、稲作いなさくおこなわず狩猟しゅりょう中心ちゅうしんとした食生活しょくせいかつきたくほど恭順きょうじゅんしない勢力せいりょくつよく、みやことめ固有こゆうめいをあげられるほどの有力ゆうりょく集団しゅうだんとして存在そんざいしたことである。つづけて引用いんようされた『難波なんばきちおとこじんしょ』では遣唐使けんとうし蝦夷えぞ頭上ずじょうひさごせ、40はなれた位置いちからべつ蝦夷えぞるという実演じつえんをしたところ、百発百中ひゃっぱつひゃくちゅうひさご射貫いぬいたという記述きじゅつがあり、弓術きゅうじゅつすぐれていたことがうかがえる。また齶田(あきた、あぎた。秋田あきた蝦夷えぞちょうであったおん阿倍比羅夫あべのひらふ降伏ごうぶくしたさい弓矢ゆみや武器ぶきではなく狩猟しゅりょう道具どうぐだと証言しょうげんしている。

日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ6ねん3がつには、阿倍あべしん粛慎討伐とうばつするさい陸奥みちのく蝦夷えぞ自分じぶんふねせてかわ渡島ととうわたったが、到着とうちゃく渡島ととう蝦夷えぞから粛慎の水軍すいぐん多数たすう襲来しゅうらいするので、かわわたって朝廷ちょうていつかえたいともう記述きじゅつがあり、この時代じだいにはじゅく蝦夷えぞ一部いちぶ朝廷ちょうていぐんとしてはたらいていたとられている。また13世紀せいきなかばから14世紀せいき初頭しょとうにかけてモンゴル帝国ていこく樺太からふとアイヌ攻撃こうげきしている関連かんれん不明ふめいである。

蝦夷えぞは、さん産金さんきんである陸奥みちのく経済けいざいりょくおよび戦闘せんとうりょくけていったのにたいし、朝廷ちょうてい産出さんしゅつぶつ依存いぞんするかたちとなるなど、次第しだいにその王権おうけんがい存在そんざい問題もんだいされ、完全かんぜん大和やまとする政策せいさく次第しだいかじられていった(蝦夷えぞ征討せいとう)。

奈良なら時代じだい[編集へんしゅう]

扶桑ふそう略記りゃっき養老ようろう2ねん(718ねん)8がつ14にち出羽でわわたししま蝦夷えぞが78にんうま1000とう献納けんのうしたのでくらいろくさづけた記録きろくがある[41]

ひかりじん天皇てんのう以降いこう蝦夷えぞ征討せいとう政策せいさく本格ほんかくした。蝦夷えぞ組織そしきてき朝廷ちょうていぐんたたかうようになっていった。

たからひさし11ねん780ねん)には多賀城たがじょう一時いちじ陥落かんらくさせた宝亀ほうきらん麻呂まろのべれき8ねん789ねん)にふくたたか遠征えんせいぐん壊滅かいめつさせた阿弖流為あてるいアテルイ)らのがその指導しどうしゃとしてつたわる。

のべれき6ねん787ねん)の記録きろくに「蝦夷えぞ横流よこながしされた綿めんてき綿めんかぶとつくっている」という記述きじゅつ[42] があり、不正ふせい交易こうえきおこなわれていたことがうかがえる。

平安へいあん時代じだい以降いこう[編集へんしゅう]

のべれき20ねん(801ねん)には征夷大将軍せいいたいしょうぐん坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ遠征えんせい勝利しょうりした。のべれき21ねん(802ねん)に胆沢いさわしろきずき、その周辺しゅうへん蝦夷えぞとのたたかいは記録きろくのこっているなかでも最大さいだいである。のべれき22ねん(803ねん)には志波しばしろ築城ちくじょうし、蝦夷えぞ征討せいとう目的もくてきがほぼ達成たっせいされたとなされた。

その朝廷ちょうてい蝦夷えぞたいする積極せっきょくてき征服せいふく政策せいさくてんじ、民衆みんしゅう負担ふたんらすことととし、朝廷ちょうてい支配しはい領域りょういき拡大かくだい現在げんざい岩手いわてけん秋田あきたけんのそれぞれ中部ちゅうぶ付近ふきん北限ほくげんとして停止ていしする。のべれき24ねん(805ねん)、藤原ふじわらいとぐち嗣から蝦夷えぞ征討せいとう平安京へいあんきょう造営ぞうえい一時いちじ中止ちゅうし奏上そうじょうされ、桓武かんむ天皇てんのう蝦夷えぞへの遠征えんせい中止ちゅうしした。また軍団ぐんだん廃止はいし健児けんじせいへと移行いこうしたが、陸奥みちのく出羽いずはのみ蝦夷えぞ対策たいさくとして軍団ぐんだん維持いじされた。

そのは、現地げんち朝廷ちょうてい官僚かんりょうや、大和やまと帰順きじゅんした俘囚ふしゅうちょうたちが蝦夷えぞ部族ぶぞく紛争ふんそう関与かんよすることなどにより、徐々じょじょ大和やまと進行しんこうしていったものとおもわれる。

そのぜんきゅうねんやくこうさんねんやくなどが勃発ぼっぱつし、平安へいあん後期こうき東北とうほく北部ほくぶ戦乱せんらん時代じだいであったが、当事とうじしゃのうち安倍あべ清原きよはら俘囚ふしゅうちょう自称じしょう蝦夷えぞとの系譜けいふてき関連かんれんせい主張しゅちょうしているが、他方たほうみなもと蝦夷えぞ系譜けいふとは関係かんけいなく東北とうほくんでいる。平安へいあん末期まっきになると、蝦夷えぞとの血縁けつえんてき系譜けいふてき関係かんけい主張しゅちょうする奥州おうしゅう藤原ふじわら支配しはい東北とうほく北端ほくたんまでおよぶことになる。

藤原ふじわら3だい中尊寺ちゅうそんじ金色きんいろどうでミイラになっている。「東夷あずまえびすとお酋」や「俘囚ふしゅううえあたま」を自称じしょうする藤原ふじわらのミイラの調査ちょうさ注目ちゅうもくされた。調査ちょうさ結果けっか、このミイラには指紋しもんには渦紋かもんおおあたままるがおのかみわせも日本人にっぽんじんてきであり、藤原ふじわら骨格こっかく日本人にっぽんじん骨格こっかくであるとされた。また、ミイラには内臓ないぞう脳漿のうしょうまったく、腹部ふくぶ湾曲わんきょくじょうられ後頭部こうとうぶあなひらいていた。ただ、にネズミの歯形はがたいており、長谷部はせべげんじんはミイラは自然しぜん発生はっせいしたと主張しゅちょう藤原ふじわら3だい日本人にっぽんじんであったとした。それにたいし、古畑ふるはた種基たねもとはミイラの人工じんこう加工かこうせつ主張しゅちょうした。かん3とも後頭部こうとうぶ肛門こうもんにあたるいたあなけられていたが、くち綺麗きれい汚物おぶつ流出りゅうしゅつしたあとく、また男性だんせい生殖せいしょく切断せつだんされており、加工かこうあと歴然れきぜんだとした。これはきわめてアイヌてき慣行かんこうで、樺太からふとアイヌは偉大いだい酋長しゅうちょうぬと近親きんしんしゃ遺体いたい脳漿のうしょう内臓ないぞう除去じょきょし、なん塩水えんすいけて天日てんじつかわかしウフイ(ミイラ)をつくる。もり嘉兵衛かへえは、和人わじんとのなんだいかにわたる婚姻こんいん骨格こっかく日本人にっぽんじんしていたが、精神せいしん葬祭そうさい慣行かんこうはアイヌてきなものがわらずのこっていたのではないかとしている[43]

奥州おうしゅう藤原ふじわらみなもと頼朝よりともひきいる関東かんとう地方ちほう鎌倉かまくら政権せいけんによってほろぼされると、幕府ばくふ東北とうほく地方ちほう各地かくち東国とうごく武士ぶし派遣はけんし、ここに蝦夷えぞ系譜けいふではなく、朝廷ちょうてい系譜けいふによる鎌倉かまくら幕府ばくふ関東かんとう政権せいけん)による支配しはいがはじめて東北とうほく北端ほくたんにまでおよび、大和やまとったことになる。あい前後ぜんごして蝦夷えぞ俘囚ふしゅうなどとった民族みんぞくてきしょ概念がいねん文献ぶんけんから姿すがたし、次項じこうべる「エゾ」にわる。

民族みんぞく系統けいとう[編集へんしゅう]

東北とうほく地方ちほう蝦夷えぞ(えみし)の民族みんぞく系統けいとうについては、のアイヌとの関係かんけい中心ちゅうしんに、江戸えど時代じだいから種類しゅるい学説がくせつかれている。蝦夷えぞをアイヌじんとする蝦夷えぞアイヌせつと、蝦夷えぞ和人わじん一部いちぶとする蝦夷えぞみんせつである。

日本にっぽん列島れっとう縄文じょうもんじん朝鮮半島ちょうせんはんとうからの渡来とらいじんとの混血こんけつすすみ、北九州きたきゅうしゅうからはじまり本州ほんしゅう全域ぜんいきまでおよんだ弥生やよい文化ぶんかんだのが、弥生やよいじん和人わじんだが、縄文じょうもんじん縄文じょうもん文化ぶんかは、その日本にっぽん列島れっとうのこった。弥生やよいじん和人わじんとの混血こんけつ度合どあいも、北海道ほっかいどうのぞ日本にっぽん列島れっとうないでは地理ちりてき連続れんぞくてきだった。

弥生やよいじん弥生やよい時代じだい東北とうほく地方ちほう北部ほくぶたっしたが、古墳こふん時代じだい寒冷かんれいともなみなみ退しりぞき、そこへ、北海道ほっかいどうみちひさしみちみなみ地方ちほう中心ちゅうしんさかえていたぞく縄文じょうもん文化ぶんかにな(のちのアイヌ民族みんぞく)が東北とうほく地方ちほう北部ほくぶ南下なんかして仙台平野せんだいへいや付近ふきんにまでたっ[44]西南せいなん日本にっぽんから北上ほくじょうして古墳こふん文化ぶんかにな和人わじん)と接触せっしょく交流こうりゅうおこなったことが、考古学こうこがくてきあきらかとなっている。なお、東北とうほく地方ちほう到来とうらいしたぞく縄文じょうもん文化ぶんかになは、そのふたた北海道ほっかいどう退しりぞいたが、東北とうほく地方ちほう和人わじんとの接触せっしょく交流こうりゅう自体じたいつづいた。

蝦夷えぞアイヌせつ[編集へんしゅう]

蝦夷えぞアイヌせつでは、ぞく縄文じょうもん文化ぶんかにな東北とうほく地方ちほうのこ蝦夷えぞ(えみし)となったとかんがえられている。この理論りろんは、考古学こうこがくからする文化ぶんかけん検討けんとうと、きた東北とうほくにアイヌ説明せつめいできる地名ちめい集中しゅうちゅうしていることから、すくなくとも飛鳥あすか時代ときよ(7世紀せいき以降いこう蝦夷えぞについて、アイヌとの連続れんぞくせいみとめるせつ有力ゆうりょくである[45]蝦夷えぞ日本にっぽんほか民族みんぞくぐんとの正確せいかく民族みんぞく関係かんけいについてはおおくの学説がくせつ存在そんざいするが、そのうちのひとつは蝦夷えぞアイヌ民族みんぞく関連かんれんしているとするものである。しかし、この理論りろん議論ぎろんまととなっている。なぜなら、おおくの蝦夷えぞ部族ぶぞくすぐれた騎馬きばゆみへい戦士せんしとしてられている一方いっぽうで、アイヌもまたゆみへいとしてられているものの、かれらはうま使用しようせず、戦闘せんとうスタイルはあきらかにことなっていたためである。また、文化ぶんかてきめんでもかれらはことなっていた[46]中央ちゅうおう政府せいふがわ通訳つうやくがついていたことから蝦夷えぞ言語げんご日本語にほんご相当そうとうことなっていたことがかり、前述ぜんじゅつとおりアイヌけい地名ちめい東北とうほく北部ほくぶ数多かずおおのこっていることから、アイヌ系統けいとう言葉ことばはなしていたと推定すいていされる[45]縄文じょうもんじん歴史れきしてき変遷へんせんなか蝦夷えぞとアイヌの両方りょうほう祖先そせんかんがえられており、蝦夷えぞ(えみし)と蝦夷えぞ(えぞ)の名前なまえおな漢字かんじあらわされる。すでに、'蝦夷えぞ'の名前なまえ中世ちゅうせい初期しょき津軽つがる半島はんとう人々ひとびとすために使つかわれ、北海道ほっかいどう縄文じょうもんじん直接ちょくせつアイヌの祖先そせんであったことがられているため、この理論りろんによれば、これは論理ろんりてき進行しんこうである。きた本州ほんしゅう恵山えさん文化ぶんかはこの人々ひとびと関連かんれんしており、のち北海道ほっかいどう現代げんだいアイヌ民族みんぞく形成けいせいするじょう重要じゅうよう役割やくわりたしたこすぶん文化ぶんか発展はってんした。蝦夷えぞうまり、てつあつか人々ひとびとであった(アイヌとはことなり)。農業のうぎょう(キビとべい)の証拠しょうこがある一方いっぽうで、かれらはおもうまり、り、漁業ぎょぎょう交易こうえきおこなっていた[47]最近さいきん研究けんきゅうでは、アイヌはな人々ひとびと地元じもと日本語にほんごはな人々ひとびと連携れんけいしてヤマト王権おうけん拡大かくだい抵抗ていこうしたことを示唆しさしている[48]マタギは、これらのアイヌ話者わしゃ子孫しそんであり、かれらは地元じもと日本語にほんご話者わしゃ地理ちりかれらが狩猟しゅりょうしたもりみず動物どうぶつ関連かんれんした地名ちめい借用しゃくよう提供ていきょうしたとされている[48][49]縄文じょうもん文化ぶんか人々ひとびと骨格こっかく特徴とくちょう研究けんきゅうは、先住民せんじゅうみんぞくあいだ均質きんしつせいしめし、複数ふくすう起源きげん多様たよう民族みんぞくぐん示唆しさしている。2014ねん人類じんるいがくてき遺伝いでんがくてき研究けんきゅうでは、「このてんで、縄文じょうもん時代じだい人々ひとびと生物せいぶつがくてきなアイデンティティは均質きんしつであり、それは多様たよう人々ひとびと存在そんざいし、それらはおそらく共通きょうつう文化ぶんか縄文じょうもん文化ぶんか所属しょぞくしていたことをしめしている」と結論けつろんけている[50]

蝦夷えぞみんせつ[編集へんしゅう]

これにたい蝦夷えぞみんせつでは、上記じょうき西南せいなん日本にっぽんから北上ほくじょうして接触せっしょく交流こうりゅうおこなった古墳こふん文化ぶんかにな和人わじん)が東北とうほく地方ちほう蝦夷えぞ(えみし)となったとかんがえる。遺伝子いでんし特徴とくちょう研究けんきゅうでは、蝦夷えぞは、アイヌよりも和人わじんとく出雲いずも地方ちほう古代こだいじん)にちかいとの研究けんきゅうもある。また日本語にほんごの「ズーズーべん」(現在げんざい東北とうほく方言ほうげん始祖しそ)をはな和人わじんとするせつもある[51]とく東北とうほく方言ほうげん出雲いずも方言ほうげん類似るいじせいから、古代こだい出雲いずもけい民族みんぞくのうちくにゆずこう大和やまと王権おうけんしたがわなかった勢力せいりょく蝦夷えぞとなったとする見方みかたもある[52]最近さいきん研究けんきゅうたとえばBoerらの2020ねん研究けんきゅうでは、蝦夷えぞおも出雲いずも方言ほうげん密接みっせつ関連かんれんした日本語にほんごはなしていたと結論けつろんけている。さらに、蝦夷えぞによる稲作いなさく証拠しょうこうま使用しようは、古代こだい出雲いずも日本人にっぽんじん蝦夷えぞとのあいだむすびつきを強化きょうかしている。この理論りろんによれば、蝦夷えぞ大和やまと日本人にっぽんじんからされた出雲いずも日本人にっぽんじんであり、かれらは天皇てんのう統治とうちたいして同調どうちょうすることをれなかった[53]

ツングースせつ[編集へんしゅう]

出雲いずもべんツングース諸語しょご類似るいじ[54] などから、蝦夷えぞはもともと日本にっぽんにいなかったうまれて大陸たいりくから北方ほっぽうしんモンゴロイド騎馬きば民族みんぞくとするせつもある。アムール地域ちいき騎馬きば遊牧民ゆうぼくみんとくツングースしょぞく蝦夷えぞとのあいだ顕著けんちょ類似るいじせい指摘してきしている歴史れきし学者がくしゃもいる。蝦夷えぞ起源きげんはツングースけい住民じゅうみんであり、のち日本語にほんごはな出雲いずもけい住民じゅうみん同化どうかしたと提唱ていしょうされている[55]蝦夷えぞはん遊牧ゆうぼく靺鞨関連付かんれんづけるせつがある。また、本州ほんしゅう蝦夷えぞ北海道ほっかいどう渡島ととう蝦夷えぞとのあいだには区別くべつがあった。歴史れきしてき証拠しょうこは、本州ほんしゅう蝦夷えぞ渡島ととう蝦夷えぞとのあいだ頻繁ひんぱん戦闘せんとうしめしている。渡島ととう蝦夷えぞ本州ほんしゅう蝦夷えぞとプロトアイヌ話者わしゃからっていたと主張しゅちょうされている。蝦夷えぞおもにツングース起源きげんで、一部いちぶ同化どうかした日本語にほんごぐん出雲いずもじん)であったと結論けつろんけるせつがある[56]以前いぜんアイヌであるとかんがえられていた地名ちめいは、アムール地域ちいきのツングースの基層きそうによってプロトアイヌ説明せつめいできるとされている。また、マタギ猟師りょうし実際じっさいには蝦夷えぞ子孫しそんであり、特定とくてい狩猟しゅりょう語彙ごいはアイヌではなくツングース由来ゆらいであるというせつがある。菊池きくち俊彦としひこは、北本きたもとしゅう北海道ほっかいどう先住民せんじゅうみんぞく形成けいせいしたこすぶん文化ぶんかとオホーツク文化ぶんかと、ロシア極東きょくとうのツングースとアジアしょぞくとのあいだには、とくにアムールがわ流域りゅういき満州まんしゅう平原へいげんおおくの接触せっしょくがあったと主張しゅちょうしている[47]。 しかし、蝦夷えぞツングースせつ空想くうそういきないという批判ひはんもある。[57]

えぞ[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい以後いご蝦夷えぞ(えぞ)は、アイヌをすとの意見いけん主流しゅりゅうである[ちゅう 4]鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき13世紀せいきから14世紀せいきごろには、現在げんざいアイヌとばれる人々ひとびと同一どういつとみられる「蝦夷えぞ」が存在そんざいしていたことが文献ぶんけん史料しりょうじょうから確認かくにんされる。アイヌのだい部分ぶぶん居住きょじゅうしていた北海道ほっかいどう蝦夷えぞしま蝦夷えぞなどとばれ、欧米おうべいでも「Yezo」 のばれた。「エゾ」の語源ごげんについてはアイヌひと意味いみする「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北とうほく方言ほうげんしき発音はつおんにより「Ezo」となったとするせつがある[51]

アイヌ文化ぶんかは、前代ぜんだいこすぶん文化ぶんか継承けいしょうしつつオホーツク文化ぶんかになはシベリア大陸たいりくけい民族みんぞくひとつであるニヴフといわれる[58])と融合ゆうごうし、本州ほんしゅう文化ぶんか摂取せっしゅしてまれたとかんがえられている。その成立せいりつ時期じき上記じょうき「えぞ」のはつちか鎌倉かまくら時代じだい後半こうはん(13世紀せいき)とられており、またこすぶん文化ぶんかとアイヌ文化ぶんか生活せいかつ体系たいけいもっとおおきなちがいは、本州ほんしゅう大陸たいりくなど道外みちそとからの移入いにゅうひんとくてつ製品せいひん)の量的りょうてき増大ぞうだいにあり、アイヌ文化ぶんか交易こうえきおおきく依存いぞんしていたことから、アイヌ文化ぶんかんだ契機けいき和人わじんとの交渉こうしょう増大ぞうだいがあるとかんがえられている。具体ぐたいてきには奥州おうしゅう藤原ふじわら政権せいけん盛衰せいすいとの関係かんけい指摘してきされている。

鎌倉かまくら時代じだい後期こうき14世紀せいき)には、「わたりとう[ちゅう 5]、「もと[ちゅう 6]、「唐子からこ[ちゅう 7]かれ、「もと」と「唐子からこ」は農耕のうこうをせず言葉ことばつうじず、「わたりとう」は多毛たもうだが姿すがたていて和人わじん言葉ことばつうじ、本州ほんしゅうとの交易こうえき従事じゅうじしたという文献ぶんけん(『諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』)がのこっている[59]。また、鎌倉かまくら時代ときよには陸奥みちのくこく豪族ごうぞくである安東あんどうが、幕府ばくふ執権しっけん北条ほうじょうより蝦夷えぞ管領かんりょう(または蝦夷えぞ代官だいかん)ににんぜられ、これら3しゅ蝦夷えぞ統括とうかつしていたとする記録きろくもある。

室町むろまち時代ときよ15世紀せいきから16世紀せいきにかけて)、和人わじんとアイヌのこうそう時代じだいき、和人わじん勢力せいりょく糾合きゅうごうして渡島ととう半島はんとう南部なんぶ領主りょうしゅ成長せいちょうしていった蠣崎かきざき豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすから蝦夷えぞ支配しはいけん交易こうえきけん公認こうにんされ、名実めいじつども安東あんどうから独立どくりつし、江戸えど時代じだいになると蠣崎かきざき松前まさき改名かいめいして大名だいみょうれつした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 高橋たかはしたかし蝦夷えぞ自称じしょうとはわないが、中国ちゅうごくがわんだものとしてこのせつかたむ[15]
  2. ^ 工藤くどう雅樹まさきもこれを支持しじする[21]
  3. ^ 下線かせん「「」はへんに「」の一文字ひともじ、「」は「」(にんべん)に「嚢」の一文字ひともじ
  4. ^ ただし中世ちゅうせい蝦夷えぞふくまれるわたりとうという集団しゅうだんは、文化ぶんかてきには近世きんせいアイヌに酷似こくじしているが、その実体じったいについては諸説しょせつあり、青苗あおなえ文化ぶんかひと後裔こうえいとも、和人わじん土着どちゃくしたものとのせつもある。わたりとう出自しゅつじなにであれ、かれらはみちみなみ和人わじん支配しはい体制たいせいまれ、次第しだい和人わじんしていったともわれる。
  5. ^ 北海道ほっかいどう渡島ととう半島はんとう住民じゅうみんで、津軽海峡つがるかいきょう往来おうらいする交易こうえき集団しゅうだん
  6. ^ 北海道ほっかいどう太平洋たいへいようがわ近世きんせいひがし蝦夷えぞ)の住民じゅうみんで、千島ちしま方面ほうめん産物さんぶつをもたらした交易こうえき集団しゅうだん推定すいていされる。
  7. ^ 北海道ほっかいどう日本海にほんかいがわ近世きんせい西にし蝦夷えぞ)の住民じゅうみんで、樺太からふとからふとし)とつながり、中国ちゅうごく産品さんぴんをもたらした交易こうえき集団しゅうだん推定すいていされる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  5. ^ 高橋たかはし 1974, p. 23; 高橋たかはし 1969, p. 49; 工藤くどう 2001, p. 33.
  6. ^ 高橋たかはし 1974, p. 23; 高橋たかはし 1969, pp. 49–50.
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  12. ^ 高橋たかはし 1974, pp. 32–33.
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  41. ^ ただしわたりしまについては、北海道ほっかいどう南西なんせいは、考古学こうこがくてき古代こだいうまほね発見はっけんされておらず詳細しょうさい不明ふめいである。
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    Adachi et al. (2013) described the craniometrics and aDNA sequence from a Jomon individual from Nagano (Yugora cave site) dated to the middle of the initial Jomon Period (7920–7795 cal BP). This individual carried ancestry, which is widelydistributed among modern East Asians (Nohira et al. 2010; Umetsu et al. 2005) and resembled modern Northeast Asian comparison samples rather than geographical close Urawa Jomon sample.”
  51. ^ a b 小泉こいずみたもつ縄文じょうもん発見はっけん青土おうづちしゃ、1998ねんISBN 4791756312 [ようページ番号ばんごう]
  52. ^ 高橋たかはし克彦かつひこ東北とうほく蝦夷えぞたましい現代書館げんだいしょかん、2013ねんISBN 9784768457009 [ようページ番号ばんごう]
  53. ^ Boer, Elisabeth de; Yang, Melinda A.; Kawagoe, Aileen; Barnes, Gina L. (2020). “Japan considered from the hypothesis of farmer/language spread” (英語えいご). Evolutionary Human Sciences 2. doi:10.1017/ehs.2020.7. ISSN 2513-843X. 
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  57. ^ 吾妻あづまきょうさだおう3ねん1224ねん)2がつ29にちじょうにある難破なんぱしたこううららふね荷物にもつ調査ちょうさ記録きろくでは、高麗こうらいゆみについて「(本朝ほんちょうゆみくらべて)みじかく、えびすゆみ蝦夷えぞゆみ)にていて、かわせいつるである」としるされており、ちょうゆみもちいる和人わじんたいし、たんゆみ使用しようしていた。このような蝦夷えぞ武器ぶきたんゆみ毒矢どくや)や戦術せんじゅつ騎射きしゃけい装甲そうこう)はモンゴルけい民族みんぞく類似るいじしている。なおアイヌもたんゆみ毒矢どくや使用しようする。しかし、北方ほっぽうけい騎馬きば民族みんぞくには刺青しせい風習ふうしゅうはなく、日本にっぽん在来ざいらい起源きげんこうむうまからたいしゅうて、拡散かくさんされたものであり、このせつ空想くうそういきない。北米ほくべいネイティブ・アメリカンれいでもあるように、渡来とらいした集団しゅうだん(この場合ばあい白人はくじん)からうまれ、文化ぶんかみこまれたものとおもわれる。
  58. ^ “オホーツクじんのDNA解読かいどく成功せいこう北大ほくだい研究けんきゅうグループー”. 北海道新聞ほっかいどうしんぶん. (2012ねん6がつ18にち). http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html 
  59. ^ 福崎ふくざき孝雄たかお「エミシ」とはなに現代げんだい密教みっきょうだい11・12合併がっぺいごう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]