アテルイ 、モレの顕彰 けんしょう 碑 ひ (京都 きょうと 市 し 清水寺 きよみずでら )
蝦夷 えぞ (えみし、えびす、えぞ)は、大和 やまと 朝廷 ちょうてい から続 つづ く歴代 れきだい の中央 ちゅうおう 政権 せいけん から見 み て、日本 にっぽん 列島 れっとう の東国 とうごく (現在 げんざい の関東 かんとう 地方 ちほう と東北 とうほく 地方 ちほう )や、北方 ほっぽう (現在 げんざい の北海道 ほっかいどう 、千島 ちしま 列島 れっとう 、樺太 からふと )などに住 す む人々 ひとびと の呼称 こしょう である[1] 。
大 おお きく、「エミシ(蝦夷 えぞ )」と「エゾ(蝦夷 えぞ )」という2つの呼称 こしょう に大別 たいべつ される。
大和 やまと 朝廷 ちょうてい の支配 しはい に服 ふく した東国 とうごく の蝦夷 えぞ (エミシ)は、俘囚 ふしゅう と呼 よ ばれ、他 た 地域 ちいき へ移住 いじゅう させられることがあった。
蝦夷 えぞ は古 ふる くは愛 あい 瀰詩 と書 か き(神武 じんむ 東征 とうせい 紀 き )、次 つぎ に毛 け 人 じん と表 あらわ され、ともに「えみし」と読 よ んだ。後 のち に「えびす」とも呼 よ ばれ、「えみし」からの転訛 てんか と言 い われる。「えぞ」が使 つか われ始 はじ めたのは11世紀 せいき か12世紀 せいき である。
えみし、毛 け 人 じん ・蝦夷 えぞ の語源 ごげん については、以下 いか に紹介 しょうかい する様々 さまざま な説 せつ が唱 とな えられているものの、いずれも確 かく たる証拠 しょうこ はないが、エミシ(愛 あい 瀰詩)の初 はつ 見 み は神武 じんむ 東征 とうせい 紀 き であり、神武 じんむ 天皇 てんのう によって滅 ほろ ぼされた畿内 きない の先住 せんじゅう 勢力 せいりょく とされている。「蝦夷 えぞ 」表記 ひょうき の初出 しょしゅつ は、日本書紀 にほんしょき の景 けい 行 ぎょう 天皇 てんのう 条 じょう である。そこでは、武内 たけうち 宿禰 すくね が北陸 ほくりく 及 およ び東方 とうほう 諸国 しょこく を視察 しさつ して、「東 ひがし の夷 えびす の中 なか に、日 にち 高見 こうけん 国 こく 有 あ り。その国 くに の人 ひと 、男女 だんじょ 並 なみ に椎 しい 結 ゆわ け身 み を文 ぶん (もどろ)けて、人 ひと となり勇 いさ みこわし。是 ぜ をすべて蝦夷 えぞ という。また土地 とち 沃壌えて広 ひろ し、撃 う ちて取 と りつべし」と述 の べており、5世紀 せいき 頃 ごろ とされる景 けい 行 ぎょう 期 き には、蝦夷 えぞ が現在 げんざい の東北 とうほく 地方 ちほう だけではなく関東 かんとう 地方 ちほう を含 ふく む広 ひろ く東方 とうほう にいたこと、蝦夷 えぞ は「身 み を文 ぶん けて」つまり、邪馬台国 やまたいこく の人々 ひとびと と同 おな じく、入 い れ墨 ずみ (文身 いれずみ )をしていたことが分 わ かっている。
古 こ 歌 うた で「えみしを 一人 ひとり 百 ひゃく な人 ひと 人 じん は言 げん へども 手向 てむ かいもせず」(えみしは一人 ひとり で百 ひゃく 人 にん と人 ひと は言 い うが、我 わ が軍 ぐん には手向 てむ かいもしない)[4] と歌 うた われたこと、蘇我蝦夷 そがのえみし 、小 しょう 野毛 のげ 人 じん 、佐伯 さえき 今 こん 毛 け 人 じん 、鴨 かも 蝦夷 えぞ のように大和 やまと 朝廷 ちょうてい 側 がわ の貴族 きぞく の名 な に使 つか われたこと、平安 へいあん 時代 じだい 後期 こうき には権威 けんい 付 づ けのために蝦夷 えぞ との関連 かんれん 性 せい を主張 しゅちょう する豪族 ごうぞく (安倍 あべ 氏 し や清原 きよはら 氏 し )が登場 とうじょう していることから、「えみし」には強 つよ さや勇敢 ゆうかん さという語感 ごかん があったと推測 すいそく されている。そこから、直接 ちょくせつ その意味 いみ で用 もち いられた用例 ようれい はないものの、本来 ほんらい の意味 いみ は「田舎 いなか の(辺境 へんきょう の)勇者 ゆうしゃ 」といったものではないかという推測 すいそく もある。
他方 たほう でアイヌ語 ご に語源 ごげん があると考 かんが えた金田一 きんだいち 京助 きょうすけ は、アイヌ語 ご の雅語 がご に人 ひと を「エンチュ (enchu, enchiu)」というのが、日本語 にほんご で「えみし」になったか、あるいはアイヌ語 ご の古 ふる い形 かたち が「えみし」であったと説 と いた。
文献 ぶんけん 的 てき に最古 さいこ の例 れい は毛 け 人 じん で、5世紀 せいき の倭 やまと 王 おう 武 たけし から宋 そう への上表 じょうひょう 文 ぶん に「東 ひがし に毛 け 人 じん を征 せい すること五 ご 十 じゅう 五 ご 国 こく 。西 にし に衆 しゅう 夷 えびす を服 ふく せしむこと六 ろく 十 じゅう 六 ろく 国 こく 」とある。蝦夷 えぞ の字 じ をあてたのは、斉 ひとし 明天 めいてん 皇 すめらぎ 5年 ねん (659年 ねん )の遣唐使 けんとうし 派遣 はけん の頃 ころ ではないかと言 い われる。後代 こうだい に人名 じんめい に使 つか う場合 ばあい 、ほとんど毛 け 人 じん の字 じ を使 つか った。蘇我蝦夷 そがのえみし は『日本書紀 にほんしょき 』では蝦夷 えぞ だが、『上宮 かみみや 聖徳 せいとく 法王 ほうおう 帝 みかど 説 せつ 』では蘇我 そが 豊浦 とようら 毛 け 人 じん と書 か かれている。毛 け 人 じん の毛 け が何 なに を指 さ しているかについても諸説 しょせつ あるが、一 ひと つは体毛 たいもう が多 おお いことをいったのだとして、後 ご のアイヌ との関連 かんれん 性 せい をみる説 せつ である。また、中国 ちゅうごく の地理 ちり 書 しょ 『山海 さんかい 経 けい 』に出 で てくる毛 け 民 みん 国 こく を意識 いしき して、中華 ちゅうか の辺境 へんきょう を表 あらわ すように字 じ を選 えら んだという説 せつ もある[9] 。
人名 じんめい に使 つか った場合 ばあい であっても、佐伯 さえき 今 こん 毛 け 人 じん が勤務 きんむ 評定 ひょうじょう で今 こん 蝦夷 えぞ (正確 せいかく には夷 えびす の字 じ に虫偏 むしへん がつく蛦 )と書 か かれた例 れい がある。蝦夷 えぞ の蝦 えび の字 じ については、あごひげが長 なが いのをエビに見 み たてて付 つ けたのだとする説 せつ がある。夷 えびす の字 じ を分解 ぶんかい すると「弓 ゆみ 人 じん 」、上代 じょうだい 日本語 にほんご で(ユミシ)になり、これが蝦夷 えぞ の特徴 とくちょう なのだという説 せつ もある。
喜田 きた 貞吉 さだきち は、意味 いみ ではなく音 おと 「かい」が蝦夷 えぞ の自称 じしょう 民族 みんぞく 名 めい だった[14] のではないかと説 と いた。アイヌ人 じん はモンゴル人 じん など中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ の民族 みんぞく からは「骨 ほね 嵬(クギ、クイ)」、ロシア人 じん からは「クリル 」と呼 よ ばれた。千島 ちしま 列島 れっとう のロシア語 ご 名 めい はクリル諸島 しょとう である。斉 ひとし 明天 めいてん 皇 すめらぎ 5年 ねん の遣 や 使 つかい の際 さい に、き取 きと った唐人 とうじん が蝦夷 えぞ の字 じ をあて、それを日本 にっぽん が踏襲 とうしゅう したという[注 ちゅう 1] 。平安 へいあん 初期 しょき の「弘 ひろ 仁 じん 私記 しき 」の序文 じょぶん には、蝦夷 えぞ に「カイ」とルビをふっている。平安 へいあん 末期 まっき の「伊呂波 いろは 字 じ 類 るい 抄 しょう 」にも、カイの条 じょう に「蝦夷 えぞ 」とある[16] 。秋田 あきた 藩 はん の藩士 はんし であった人見 ひとみ 蕉雨 によって1798年 ねん (寛政 かんせい 10年 ねん )頃 ごろ に著 あらわ された黒 くろ 甜瑣語 ご には、蝦夷 えぞ (夷 えびす は大 だい と弓 ゆみ の上下 じょうげ の合 ごう 字 じ になっている)のルビを「かい」としている。そこでは「ダケカンバ と思 おも える植物 しょくぶつ をタッチラと唱 とな える」という記述 きじゅつ からも、これがアイヌの事 こと を指 さ している事 こと がわかる[17] 。明治 めいじ 政府 せいふ は開拓 かいたく 使 し の設置 せっち に伴 ともな い蝦夷 えぞ 地 ち の名称 めいしょう の変更 へんこう を検討 けんとう 。1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )蝦夷 えぞ 地 ち 探査 たんさ やアイヌとの交流 こうりゅう を続 つづ けていた松浦 まつうら 武四郎 たけしろう は政府 せいふ に建白 けんぱく 書 しょ を提出 ていしゅつ し、「日 にち 高見 こうけん 道 どう 」「北 きた 加 か 伊 い 道 どう 」「海 うみ 北道 ほくどう 」「海島 うみしま 道 みち 」「東北道 とうほくどう 」「千島 ちしま 道 どう 」の6案 あん を提示 ていじ した[18] 。明治 めいじ 政府 せいふ は「北 きた 加 か 伊 い 道 どう 」を基本 きほん とし「加 か 伊 い 」を「海 うみ 」に改 あらた めた「北海道 ほっかいどう 」とすることを決定 けってい [18] 。明治 めいじ 2年 ねん 8月 がつ 15日 にち 太政官 だじょうかん 布告 ふこく により「蝦夷 えぞ 地 ち 自今 じこん 北海道 ほっかいどう ト被 ひ 稱 しょう 十 じゅう 一 いち ヶ国 かこく ニ分割 ぶんかつ 國名 こくめい 郡 ぐん 名 めい 等 とう 別紙 べっし 之 の 通 つう 被 ひ 仰 おおせ 出 で 候 こう 事 ごと 」と周知 しゅうち された[18] 。松浦 まつうら は建白 けんぱく 書 しょ において「北 きた 加 か 伊 い 道 どう 」案 あん はアイヌが自 みずか らを「カイ」と呼 よ んでいることから考案 こうあん したと説明 せつめい している[18] 。青森 あおもり 県 けん の伝承 でんしょう を集 あつ めた中道 なかみち 等 ひとし の『奥 おく 隅 すみ 奇 き 譚 たん 』では「蝦夷 えぞ 崎 さき 」のルビを「かいざき」としている[19] 。
金田一 きんだいち 京助 きょうすけ は喜田 きた らの説 せつ を批判 ひはん し、「えび」の古 ふる い日本語 にほんご 「えみ」が「えみし」に通 つう じるとして付 つ けたとする説 せつ を唱 とな えた[注 ちゅう 2] 。
諸説 しょせつ ある中 なか で唯一 ゆいいつ 定 さだ まっているのは、「夷 えびす 」が東 ひがし の異 い 民族 みんぞく (東夷 あずまえびす )を指 さ す字 じ で、中華 ちゅうか 思想 しそう を日本 にっぽん 中心 ちゅうしん にあてはめたものだということである。「夷 えびす 」単独 たんどく なら『古事記 こじき 』などにも普通 ふつう にあるが、その場合 ばあい 古訓 こくん で「ひな」と読 よ む。多 おお くの学者 がくしゃ は用字 ようじ の変化 へんか を異 こと 族 ぞく への蔑視 べっし の表 あらわ れとし、蘇我 そが 毛 け 人 じん を蘇我蝦夷 そがのえみし としたのも『日本書紀 にほんしょき 』編者 へんしゃ が彼 かれ を卑 いや しめたものとする。だが、佐伯 さえき 今 こん 毛 け 人 じん や小 しょう 野毛 のげ 人 じん の例 れい を引 ひ いてこれに反対 はんたい する意見 いけん もある。
用字 ようじ については、『日本書紀 にほんしょき 』では蝦夷 えぞ の夷 えびす の字 じ に虫偏 むしへん をつけた箇所 かしょ も散見 さんけん される。蝦夷 えぞ の字 じ の使用 しよう とほぼ同 おな じ頃 ごろ から、北 きた の異 い 民族 みんぞく を現 あらわ す「狄」の字 じ も使 つか われた。「蝦 えび 狄 」と書 か いて「えみし」と読 よ んだらしい。毛 け 人 じん と結合 けつごう して「毛 もう 狄」と書 か かれた例 れい もある[25] 。一 いち 字 じ で「夷 えびす 」と「狄」を使 つか い分 わ けることもよくあった。これは管轄 かんかつ する国 くに (令 れい 制 せい 国 こく )による人工 じんこう 的 てき 区分 くぶん で、越後 えちご 国 こく (後 のち に出羽 でわ 国 こく )所轄 しょかつ の日本海 にほんかい 側 がわ と北海道 ほっかいどう のえみしを蝦 えび 狄・狄 、陸奥 みちのく 国 こく 所轄 しょかつ の太平洋 たいへいよう 側 がわ のえみしを蝦夷 えぞ ・夷 えびす としたのである。
古代 こだい の蝦夷 えぞ (えみし)は、本州 ほんしゅう 東部 とうぶ とそれ以北 いほく に居住 きょじゅう し、政治 せいじ 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき に、大和 やまと 朝廷 ちょうてい やその支配 しはい 下 か に入 はい った地域 ちいき への帰属 きぞく や同化 どうか を拒否 きょひ していた集団 しゅうだん を指 さ した[1] 。統一 とういつ した政治 せいじ 勢力 せいりょく をなさず、積極 せっきょく 的 てき に朝廷 ちょうてい に接近 せっきん する集団 しゅうだん や敵対 てきたい した集団 しゅうだん が記録 きろく に残 のこ っている。しかし、次第 しだい に影響 えいきょう 力 りょく を増大 ぞうだい させていく大和 やまと 朝廷 ちょうてい により、征服 せいふく ・吸収 きゅうしゅう されていった。
「えみし」は朝廷 ちょうてい 側 がわ からの他称 たしょう であり、蝦夷 えぞ 側 がわ の民族 みんぞく 集団 しゅうだん としての自覚 じかく の有無 うむ に触 ふ れた史料 しりょう はない。蝦夷 えぞ に統一 とういつ なアイデンティティー は無 な かったと解 げ するか、朝廷 ちょうてい 側 がわ との交渉 こうしょう の中 なか で民族 みんぞく 意識 いしき が形成 けいせい されたであろうと想定 そうてい するかは、研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ で意見 いけん が分 わ かれている。
概 おおむ ね関東 かんとう 地方 ちほう から東北 とうほく 地方 ちほう 、北海道 ほっかいどう にかけて、広 ひろ く日本 にっぽん 列島 れっとう の東方 とうほう に住 す んでいたと考 かんが えられている。
東北 とうほく 地方 ちほう 北部 ほくぶ へも水田 すいでん ・稲作 いなさく が一時 いちじ 的 てき に伝 つた わったが放棄 ほうき され、狩猟 しゅりょう ・採集 さいしゅう 文化 ぶんか が伝統 でんとう として続 つづ いた。
5世紀 せいき の中国 ちゅうごく の歴史 れきし 書 しょ 『宋 そう 書 しょ 』倭国 わのくに 伝 でん に、478年 ねん (順 じゅん 帝 みかど 昇 のぼり 明 あきら 2年 ねん )倭 やまと 王 おう 武 たけし が宋 そう (南朝 なんちょう ) に届 とど けた上表 じょうひょう 文 ぶん として以下 いか の記述 きじゅつ がある。
「昔 むかし より祖 そ 彌 わたる (そでい)躬(みずか)ら甲冑 かっちゅう (かっちゅう)を環 たまき (つらぬ)き、山川 やまかわ (さんせん)を跋渉 ばっしょう (ばっしょう)し、寧 やすし 処 しょ (ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東 ひがし は毛 け 人 じん を征 せい すること、五 ご 十 じゅう 五 ご 国 こく 。西 にし は衆 しゅう 夷 えびす を服 ふく すること六 ろく 十 じゅう 六 ろく 国 こく 。渡 わた りて海 うみ 北 きた を平 たい らぐること、九 きゅう 十 じゅう 五 ご 国 こく 。」
「自 じ 昔 むかし 祖 そ 禰躬環 たまき 甲冑 かっちゅう 跋渉 ばっしょう 山川 やまかわ 不 ふ 遑寧處 しょ 東征 とうせい 毛 げ 人 じん 五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」
これにより既 すで にこの時代 じだい には蝦夷 えぞ の存在 そんざい とその支配 しはい が進 すす んでいた様子 ようす を確認 かくにん することが出来 でき る。
蝦夷 えぞ は、その優 すぐ れた弓術 きゅうじゅつ (和人 わじん の伝統 でんとう の長 ちょう 弓 ゆみ に比 くら べると短 たん 弓 ゆみ を用 もち いた)に、馬 うま (古墳 こふん 時代 じだい に日本 にっぽん へもたらされた)を和人 わじん から取 と り入 い れ組合 くみあわ せ、飛鳥 あすか 時代 ときよ ・奈良 なら 時代 じだい には騎射 きしゃ の技 わざ を磨 みが き狩猟 しゅりょう に用 もち いた[27] 。また同時 どうじ に、騎乗 きじょう 武器 ぶき (蕨 わらび 手刀 てがたな を和人 わじん から取 と り入 い れた)も改良 かいりょう ・発達 はったつ させた。これらの強力 きょうりょく な戦闘 せんとう 術 じゅつ は奈良 なら 時代 じだい ・平安 へいあん 時代 じだい に和人 わじん へ取 と り入 い られた。
古墳 こふん の分布 ぶんぷ は和人 わじん 文化 ぶんか の範囲 はんい を示 しめ し、蝦夷 えぞ との境界 きょうかい が北限 ほくげん となる。これまでの発掘 はっくつ 調査 ちょうさ により、古墳 こふん 時代 じだい 前期 ぜんき における最古 さいこ 級 きゅう の前方後円墳 ぜんぽうこうえんふん の北限 ほくげん は、現在 げんざい の新潟 にいがた 県 けん ・越後平野 えちごへいや 中部 ちゅうぶ 、福島 ふくしま 県 けん ・会津盆地 あいづぼんち 、宮城 みやぎ 県 けん ・仙台平野 せんだいへいや であったと考 かんが えられている。同 どう 時代 じだい の終末 しゅうまつ 期 き までに北限 ほくげん は、日本海 にほんかい 側 がわ 沿岸 えんがん ではほとんど北進 ほくしん せずむしろ中越 なかごえ 地方 ちほう に後退 こうたい するが、日本海 にほんかい 側 がわ 内陸 ないりく では山形 やまがた 県 けん ・村山 むらやま 地方 ちほう 中部 ちゅうぶ まで、太平洋 たいへいよう 側 がわ では岩手 いわて 県 けん ・北上盆地 きたかみぼんち 南部 なんぶ まで北進 ほくしん した。
神武 じんむ 東征 とうせい 伝説 でんせつ [ 編集 へんしゅう ]
蝦夷 えぞ 「えみし」についての形式 けいしき 上 じょう 最 もっと も古 ふる い言及 げんきゅう は『日本書紀 にほんしょき 』神武 じんむ 東征 とうせい 紀中 きちゅう に詠 よ まれている来 らい 目 め 歌 か の一 ひと つに愛 あい 濔詩 として登場 とうじょう する。
えみし を ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず
(訳 わけ : えみしを、1人 ひとり で100人 にん に当 あ たる強 つよ い兵 へい だと、人 ひと はいうけれど、抵抗 ていこう もせず負 ま けてしまった)
「愛 あい 瀰詩烏 がらす 毗 儾 利 り 毛 げ 々那 な 比 ひ 苔 こけ 比 ひ 苔 こけ 破 やぶ 易 えき 陪廼毛 げ 多 た 牟伽毗 毛 け 勢 ぜい 儒」[注 ちゅう 3]
しかし、この来 らい 目 め 歌 か がどの程度 ていど 史実 しじつ を反映 はんえい するものかどうかは判然 はんぜん とせず、またここで登場 とうじょう する「えみし 」が後 こう の「蝦夷 えぞ 」を意味 いみ するかどうかも判然 はんぜん としないため、古 ふる い時代 じだい の蝦夷 えぞ の民族 みんぞく 的 てき 性格 せいかく や居住 きょじゅう 範囲 はんい については諸説 しょせつ があり確 たし かなことはわかっていない。
『日本書紀 にほんしょき 』景 けい 行 ぎょう 天皇 てんのう 条 じょう には、武内 たけうち 宿禰 すくね (実在 じつざい 不明 ふめい )が北陸 ほくりく 及 およ び東方 とうほう 諸国 しょこく を視察 しさつ した際 さい の記述 きじゅつ として「東 ひがし の夷 えびす (あずまえびす)の中 なか に、日 にち 高見 こうけん 国有 こくゆう り。その国 くに の人 ひと 、男女 だんじょ 並 なみ に椎 しい 結 ゆわ け身 み を文 ぶん けて、人 ひと となり勇 いさ みこわし。是 ぜ をすべて蝦夷 えぞ という」とあり、荒々 あらあら しく勇猛 ゆうもう な者 もの 、情 じょう を理解 りかい せず教養 きょうよう や文化 ぶんか に欠 か ける者 もの としている。40年 ねん 条 じょう には、天皇 てんのう が日本 にっぽん 武 たけ 尊 たかし に東夷 あずまえびす の征討 せいとう を命 めい じる際 さい 、蝦夷 えぞ の特徴 とくちょう として「冬 ふゆ は穴居 けっきょ 、夏 なつ は樹 き 上家 うわや 屋 や の生活 せいかつ 」「山 やま に登 のぼ るときは飛 と ぶ鳥 とり のように速 はや く、草原 そうげん を走 はし るときは逃 に げる獣 しし のように速 はや い」「束 たば ねた髪 かみ の中 なか に矢 や を隠 かく し、刀 かたな は衣 ころも の中 なか に隠 かく し持 も つ」「攻撃 こうげき すると草原 そうげん に隠 かく れてしまい、追 お いかけると山中 さんちゅう に逃 に げてしまう」と記述 きじゅつ がある。
飛鳥 あすか 時代 ときよ (7世紀 せいき )頃 ごろ には、蝦夷 えぞ は現在 げんざい の宮城 みやぎ 県 けん 中部 ちゅうぶ から山形 やまがた 県 けん 以北 いほく の東北 とうほく 地方 ちほう と、北海道 ほっかいどう の大 だい 部分 ぶぶん に及 およ ぶ広範囲 こうはんい に住 す んでいた。平時 へいじ には和人 わじん と交易 こうえき を行 おこな い、昆布 こぶ ・馬 うま ・毛皮 けがわ ・羽根 はね などの特産 とくさん 物 ぶつ と引 ひ き換 か えに、米 べい ・布 ぬの ・鉄器 てっき ・工芸 こうげい 品 ひん を得 え ていた。大和 やまと 政権 せいけん が支配 しはい 領域 りょういき を北 きた に拡大 かくだい するにつれて、しばしば防衛 ぼうえい のために戦 たたか い、反乱 はんらん を起 お こし、また和人 わじん の築 きず いた城 しろ 柵 しがらみ を襲撃 しゅうげき したため、日本書紀 にほんしょき には襲撃 しゅうげき や討伐 とうばつ の記録 きろく が記録 きろく されている。大和 やまと に帰順 きじゅん した蝦夷 えぞ の集団 しゅうだん は俘囚 ふしゅう と呼 よ ばれ、関東 かんとう 地方 ちほう などへ移住 いじゅう させられたり、西日本 にしにほん で兵隊 へいたい 集団 しゅうだん を勤 つと めるなどした。
蝦夷 えぞ と接 せっ する地域 ちいき (陸奥 みちのく 国 こく ・出羽 でわ 国 こく ・越後 えちご 国 こく )では、国内 こくない の行政 ぎょうせい ・司法 しほう ・軍事 ぐんじ を管掌 かんしょう する国司 こくし の守 まもり と介 かい が饗 きょう 給 きゅう (慰撫 いぶ )、征討 せいとう 、斥候 せっこう などの外交 がいこう ・軍事 ぐんじ も担当 たんとう していた。特 とく に陸奥 みちのく 国 こく は面積 めんせき が広 ひろ く軍事 ぐんじ 的 てき 衝突 しょうとつ が頻繁 ひんぱん におきるため、陸奥 むつ 国司 くにじ には大宝 たいほう 律令 りつりょう が定 さだ める特例 とくれい が多 おお く、自 みずか らの判断 はんだん で征討 せいとう に出 で ることも許 ゆる されていた。なお同 おな じ辺境 へんきょう でも西国 さいごく の国司 こくし は、征討 せいとう のかわりに防 ぼう 守 もり 、饗 きょう 給 きゅう ではなく蕃 しげる 客 きゃく (外国 がいこく 使節 しせつ の接待 せったい )と帰化 きか が任務 にんむ であった(鎮西 ちんぜい 府 ふ )。
当初 とうしょ は大和 やまと 側 がわ では秋田 あきた 城 じょう などの城 しろ 柵 しがらみ で儀礼 ぎれい 的 てき な会食 かいしょく (饗応 きょうおう )や物資 ぶっし の提供 ていきょう を行 おこな い服属 ふくぞく を促 うなが していたが、蝦夷 えぞ には中央 ちゅうおう 政権 せいけん が無 な いため恭順 きょうじゅん する集団 しゅうだん と支配 しはい に抵抗 ていこう し襲撃 しゅうげき を行 おこな う集団 しゅうだん が混在 こんざい し、長期間 ちょうきかん にわたり交易 こうえき と征伐 せいばつ が並行 へいこう して行 おこな われる事態 じたい となった。
『日本書紀 にほんしょき 』斉 ひとし 明天 めいてん 皇 すめらぎ 元年 がんねん (655年 ねん )7月 がつ 11日 にち 条 じょう には、難波 なんば 朝 あさ (難波 なんば 京 きょう の朝廷 ちょうてい )で北 きた 蝦夷 えぞ 99人 にん と東 ひがし 蝦夷 えぞ 95人 にん を饗応 きょうおう したとある。そこでは「北 きた 」と「東 ひがし 」にそれぞれ「北越 ほくえつ 」「東 あずま 陸奥 むつ 」と注 ちゅう があり、北 きた は越 えつ の方面 ほうめん 、東 ひがし は陸奥 みちのく の方面 ほうめん と解 ほぐ せる。このうち越 えつ 国 こく は陸奥 みちのく 国 こく の西 にし に位置 いち するが、越 こし (高志 たかし )は都 と からみて北 きた に位置 いち するので北 きた 蝦夷 えぞ としている。これらの語 かたり は当時 とうじ の蝦夷 えぞ が二 に 大 だい 集団 しゅうだん に分 わ かれていたという意 い ではなく、応対 おうたい する国 くに (令 れい 制 せい 国 こく )の管轄 かんかつ によって朝廷 ちょうてい が用 もち いた分類 ぶんるい であると考 かんが えられている。この区別 くべつ は後 のち に出羽 でわ 国 こく と陸奥 みちのく 国 こく の管轄 かんかつ になって平安 へいあん 時代 じだい まで踏襲 とうしゅう されたが、字 じ は北 きた の異 い 民族 みんぞく を指 さ す「狄 」に変 か わり「蝦 えび 狄」とも書 か かれるようになった。
『日本書紀 にほんしょき 』斉 ひとし 明天 めいてん 皇 すめらぎ 4年 ねん (658年 ねん )4月 がつ には阿倍比羅夫 あべのひらふ が水軍 すいぐん 180隻 せき を率 ひき いて蝦夷 えぞ を討伐 とうばつ している。また日付 ひづけ は不明 ふめい であるが同年 どうねん には渡島 ととう に渡 わた り粛慎 の討伐 とうばつ とヒグマ の献上 けんじょう を受 う けた記録 きろく がある。この渡島 ととう (渡 わたり 嶋 しま )とは外 そと が浜 はま (陸奥湾 むつわん 沿岸 えんがん の一部 いちぶ )から海 うみ を渡 わた った先 さき にある島 しま (北海道 ほっかいどう )と推定 すいてい される。粛慎と呼 よ ばれる集団 しゅうだん の詳細 しょうさい は不明 ふめい であり本州 ほんしゅう 以外 いがい に住 す んでいる蝦夷 えぞ の別称 べっしょう という説 せつ もあるが、後 のち には蝦夷 えぞ と粛慎が別 べつ の集団 しゅうだん であるかのような記述 きじゅつ も登場 とうじょう する。
『日本書紀 にほんしょき 』斉 ひとし 明天 めいてん 皇 すめらぎ 5年 ねん (659年 ねん )には朝廷 ちょうてい に従 したが った蝦夷 えぞ が遣唐使 けんとうし に同行 どうこう し唐 とう の高 こう 宗 はじめ に紹介 しょうかい されている。ここで引用 いんよう された『伊吉 いきち 連 れん 博徳 ひろのり 書 しょ 』によると、熟 じゅく 蝦夷 えぞ (にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷 えぞ )が最 もっと も近 ちか く、麁蝦夷 えぞ (あらえみし。荒々 あらあら しい蝦夷 えぞ )がそれより遠 とお く、最 さい 遠方 えんぽう に都 と 加 か 留 とめ (つかる、つがる。津軽 つがる )がおり、連 つ れてきたのは毎年 まいとし 入貢 にゅうこう している熟 じゅく 蝦夷 えぞ であること、蝦夷 えぞ は肉食 にくしょく で五穀 ごこく を食 た べず、家 いえ を建 た てずに樹 き の下 した に住 す んでいるなどを説明 せつめい したところ、高 こう 宗 はじめ は珍 めずら しく思 おも ったと感想 かんそう を述 の べたとしている。しかしこのような生活 せいかつ は他 た の史料 しりょう にある記述 きじゅつ や現在 げんざい の考古学 こうこがく 的 てき 知見 ちけん とも矛盾 むじゅん し、蝦夷 えぞ を野蛮 やばん 人 じん と誇張 こちょう しこれを従 したが える大和 やまと の力 ちから を誇示 こじ するための創作 そうさく と思 おも われる。信憑 しんぴょう 性 せい に欠 か けるこの説明 せつめい から推測 すいそく されるのは、稲作 いなさく を行 おこな わず狩猟 しゅりょう を中心 ちゅうしん とした食生活 しょくせいかつ 、北 きた に行 い くほど恭順 きょうじゅん しない勢力 せいりょく が強 つよ く、都 みやこ 加 か 留 とめ が固有 こゆう 名 めい をあげられるほどの有力 ゆうりょく 集団 しゅうだん として存在 そんざい したことである。続 つづ けて引用 いんよう された『難波 なんば 吉 きち 士 し 男 おとこ 人 じん 書 しょ 』では遣唐使 けんとうし の蝦夷 えぞ の頭上 ずじょう に瓢 ひさご を乗 の せ、40歩 ほ 離 はな れた位置 いち から別 べつ の蝦夷 えぞ が射 い るという実演 じつえん をしたところ、百発百中 ひゃっぱつひゃくちゅう で瓢 ひさご を射貫 いぬ いたという記述 きじゅつ があり、弓術 きゅうじゅつ に優 すぐ れていたことがうかがえる。また齶田 (あきた、あぎた。秋田 あきた )蝦夷 えぞ の長 ちょう であった恩 おん 荷 に は阿倍比羅夫 あべのひらふ に降伏 ごうぶく した際 さい 、弓矢 ゆみや は武器 ぶき ではなく狩猟 しゅりょう の道具 どうぐ だと証言 しょうげん している。
『日本書紀 にほんしょき 』斉 ひとし 明天 めいてん 皇 すめらぎ 6年 ねん 3月 がつ には、阿倍 あべ 臣 しん が粛慎 を討伐 とうばつ する際 さい 、陸奥 みちのく の蝦夷 えぞ を自分 じぶん の船 ふね に乗 の せて河 かわ を越 こ え渡島 ととう に渡 わた ったが、到着 とうちゃく 後 ご に渡島 ととう に住 す む蝦夷 えぞ から粛慎の水軍 すいぐん が多数 たすう 襲来 しゅうらい するので、河 かわ を渡 わた って朝廷 ちょうてい に仕 つか えたいと申 もう し出 で る記述 きじゅつ があり、この時代 じだい には熟 じゅく 蝦夷 えぞ の一部 いちぶ が朝廷 ちょうてい 軍 ぐん として働 はたら いていたと見 み られている。また13世紀 せいき 半 なか ばから14世紀 せいき 初頭 しょとう にかけてモンゴル帝国 ていこく は樺太 からふと のアイヌ を攻撃 こうげき している が関連 かんれん は不明 ふめい である。
蝦夷 えぞ は、産 さん 馬 ば 、産金 さんきん の地 ち である陸奥 みちのく で経済 けいざい 力 りょく および戦闘 せんとう 力 りょく を付 つ けていったのに対 たい し、朝廷 ちょうてい は産出 さんしゅつ 物 ぶつ に依存 いぞん する形 かたち となるなど、次第 しだい にその王権 おうけん 外 がい の存在 そんざい が問題 もんだい 視 し され、完全 かんぜん に大和 やまと 化 か する政策 せいさく に次第 しだい に舵 かじ が切 き られていった(蝦夷 えぞ 征討 せいとう )。
『扶桑 ふそう 略記 りゃっき 』養老 ようろう 2年 ねん (718年 ねん )8月 がつ 14日 にち 、出羽 でわ と渡 わたし 嶋 しま の蝦夷 えぞ が78人 にん が馬 うま 1000頭 とう を献納 けんのう したので位 くらい と録 ろく を授 さづ けた記録 きろく がある[41] 。
光 ひかり 仁 じん 天皇 てんのう 以降 いこう 、蝦夷 えぞ 征討 せいとう 政策 せいさく が本格 ほんかく 化 か した。蝦夷 えぞ も組織 そしき 的 てき に朝廷 ちょうてい 軍 ぐん と戦 たたか うようになっていった。
宝 たから 亀 ひさし 11年 ねん (780年 ねん )には多賀城 たがじょう を一時 いちじ 陥落 かんらく させた宝亀 ほうき の乱 らん の伊 い 治 ち 呰麻呂 まろ 、延 のべ 暦 れき 8年 ねん (789年 ねん )に巣 す 伏 ふく の戦 たたか い で遠征 えんせい 軍 ぐん を壊滅 かいめつ させた阿弖流為 あてるい (アテルイ )らの名 な がその指導 しどう 者 しゃ として伝 つた わる。
延 のべ 暦 れき 6年 ねん (787年 ねん )の記録 きろく に「蝦夷 えぞ に横流 よこなが しされた綿 めん で敵 てき が綿 めん 冑 かぶと を作 つく っている」という記述 きじゅつ [42] があり、不正 ふせい な交易 こうえき が行 おこな われていたことがうかがえる。
平安 へいあん 時代 じだい 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
延 のべ 暦 れき 20年 ねん (801年 ねん )には征夷大将軍 せいいたいしょうぐん 坂上田村麻呂 さかのうえのたむらまろ が遠征 えんせい し勝利 しょうり した。延 のべ 暦 れき 21年 ねん (802年 ねん )に胆沢 いさわ 城 しろ を築 きず き、その周辺 しゅうへん の蝦夷 えぞ との戦 たたか いは記録 きろく に残 のこ っている中 なか でも最大 さいだい である。延 のべ 暦 れき 22年 ねん (803年 ねん )には志波 しば 城 しろ を築城 ちくじょう し、蝦夷 えぞ 征討 せいとう の目的 もくてき がほぼ達成 たっせい されたと見 み なされた。
その後 ご 、朝廷 ちょうてい は蝦夷 えぞ に対 たい する積極 せっきょく 的 てき な征服 せいふく 政策 せいさく を転 てん じ、民衆 みんしゅう の負担 ふたん を減 へ らすことととし、朝廷 ちょうてい の支配 しはい 領域 りょういき の拡大 かくだい は現在 げんざい の岩手 いわて 県 けん と秋田 あきた 県 けん のそれぞれ中部 ちゅうぶ 付近 ふきん を北限 ほくげん として停止 ていし する。延 のべ 暦 れき 24年 ねん (805年 ねん )、藤原 ふじわら 緒 いとぐち 嗣から蝦夷 えぞ 征討 せいとう と平安京 へいあんきょう の造営 ぞうえい の一時 いちじ 中止 ちゅうし を奏上 そうじょう され、桓武 かんむ 天皇 てんのう は蝦夷 えぞ への遠征 えんせい を中止 ちゅうし した。また軍団 ぐんだん を廃止 はいし し健児 けんじ 制 せい へと移行 いこう したが、陸奥 みちのく ・出羽 いずは のみ蝦夷 えぞ 対策 たいさく として軍団 ぐんだん が維持 いじ された。
その後 ご は、現地 げんち の朝廷 ちょうてい 官僚 かんりょう や、大和 やまと に帰順 きじゅん した俘囚 ふしゅう の長 ちょう たちが蝦夷 えぞ の部族 ぶぞく 紛争 ふんそう に関与 かんよ することなどにより、徐々 じょじょ に大和 やまと 化 か が進行 しんこう していったものと思 おも われる。
その後 ご 、前 ぜん 九 きゅう 年 ねん の役 やく 、後 こう 三 さん 年 ねん の役 やく などが勃発 ぼっぱつ し、平安 へいあん 後期 こうき の東北 とうほく 北部 ほくぶ は戦乱 せんらん の時代 じだい であったが、当事 とうじ 者 しゃ のうち安倍 あべ 氏 し や清原 きよはら 氏 し は俘囚 ふしゅう の長 ちょう を自称 じしょう し蝦夷 えぞ との系譜 けいふ 的 てき 関連 かんれん 性 せい を主張 しゅちょう しているが、他方 たほう 、源 みなもと 氏 し は蝦夷 えぞ の系譜 けいふ とは関係 かんけい なく東北 とうほく に乗 の り込 こ んでいる。平安 へいあん 末期 まっき になると、蝦夷 えぞ との血縁 けつえん 的 てき ・系譜 けいふ 的 てき 関係 かんけい を主張 しゅちょう する奥州 おうしゅう 藤原 ふじわら 氏 し の支配 しはい が東北 とうほく 北端 ほくたん まで及 およ ぶことになる。
藤原 ふじわら 氏 し 3代 だい は中尊寺 ちゅうそんじ 金色 きんいろ 堂 どう でミイラになっている。「東夷 あずまえびす 之 の 遠 とお 酋」や「俘囚 ふしゅう 之 の 上 うえ 頭 あたま 」を自称 じしょう する藤原 ふじわら 氏 し のミイラの調査 ちょうさ は注目 ちゅうもく された。調査 ちょうさ の結果 けっか 、このミイラには指紋 しもん には渦紋 かもん が多 おお く頭 あたま は丸 まる 顔 がお で歯 は のかみ合 あ わせも日本人 にっぽんじん 的 てき であり、藤原 ふじわら 氏 し の骨格 こっかく は日本人 にっぽんじん の骨格 こっかく であるとされた。また、ミイラには内臓 ないぞう や脳漿 のうしょう は全 まった く無 な く、腹部 ふくぶ は湾曲 わんきょく 状 じょう に切 き られ後頭部 こうとうぶ に穴 あな が開 ひら いていた。ただ、裂 さ け目 め にネズミの歯形 はがた が付 つ いており、長谷部 はせべ 言 げん 人 じん はミイラは自然 しぜん 発生 はっせい したと主張 しゅちょう し藤原 ふじわら 3代 だい は日本人 にっぽんじん であったとした。それに対 たい し、古畑 ふるはた 種基 たねもと はミイラの人工 じんこう 加工 かこう 説 せつ を主張 しゅちょう した。木 き 棺 かん 3個 こ とも後頭部 こうとうぶ と肛門 こうもん にあたる板 いた に穴 あな が開 あ けられていたが、切 き り口 くち は綺麗 きれい で汚物 おぶつ が流出 りゅうしゅつ した跡 あと は無 な く、また男性 だんせい 生殖 せいしょく 器 き は切断 せつだん されており、加工 かこう の跡 あと は歴然 れきぜん だとした。これは極 きわ めてアイヌ的 てき な慣行 かんこう で、樺太 からふと アイヌは偉大 いだい な酋長 しゅうちょう が死 し ぬと近親 きんしん 者 しゃ は遺体 いたい の脳漿 のうしょう と内臓 ないぞう を除去 じょきょ し、何 なん 度 ど か塩水 えんすい を付 つ けて天日 てんじつ で乾 かわ かしウフイ(ミイラ)を作 つく る。森 もり 嘉兵衛 かへえ は、和人 わじん との何 なん 代 だい かにわたる婚姻 こんいん で骨格 こっかく は日本人 にっぽんじん 化 か していたが、精神 せいしん や葬祭 そうさい の慣行 かんこう はアイヌ的 てき なものが変 か わらず残 のこ っていたのではないかとしている[43] 。
奥州 おうしゅう 藤原 ふじわら 氏 し が源 みなもと 頼朝 よりとも 率 ひき いる関東 かんとう 地方 ちほう の鎌倉 かまくら 政権 せいけん によって滅 ほろ ぼされると、幕府 ばくふ は東北 とうほく 地方 ちほう 各地 かくち に東国 とうごく 武士 ぶし を派遣 はけん し、ここに蝦夷 えぞ の系譜 けいふ ではなく、朝廷 ちょうてい の系譜 けいふ による鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ (関東 かんとう 政権 せいけん )による支配 しはい がはじめて東北 とうほく 北端 ほくたん にまで及 およ び、大和 やまと 化 か が成 な ったことになる。相 あい 前後 ぜんご して蝦夷 えぞ 、俘囚 ふしゅう などと言 い った民族 みんぞく 的 てき 諸 しょ 概念 がいねん は文献 ぶんけん から姿 すがた を消 け し、次項 じこう に述 の べる「エゾ」に置 お き換 か わる。
東北 とうほく 地方 ちほう の蝦夷 えぞ (えみし)の民族 みんぞく 系統 けいとう については、後 ご のアイヌとの関係 かんけい を中心 ちゅうしん に、江戸 えど 時代 じだい から二 に 種類 しゅるい の学説 がくせつ に分 わ かれている。蝦夷 えぞ をアイヌ人 じん とする蝦夷 えぞ アイヌ説 せつ と、蝦夷 えぞ を和人 わじん の一部 いちぶ とする蝦夷 えぞ 辺 べ 民 みん 説 せつ である。
日本 にっぽん 列島 れっとう の縄文 じょうもん 人 じん が朝鮮半島 ちょうせんはんとう からの渡来 とらい 人 じん との混血 こんけつ が進 すす み、北九州 きたきゅうしゅう から始 はじ まり本州 ほんしゅう 全域 ぜんいき まで及 およ んだ弥生 やよい 文化 ぶんか を生 う んだのが、弥生 やよい 人 じん ・和人 わじん だが、縄文 じょうもん 人 じん ・縄文 じょうもん 文化 ぶんか は、その後 ご も日本 にっぽん 列島 れっとう に残 のこ った。弥生 やよい 人 じん ・和人 わじん との混血 こんけつ の度合 どあ いも、北海道 ほっかいどう を除 のぞ く日本 にっぽん 列島 れっとう 内 ない では地理 ちり 的 てき に連続 れんぞく 的 てき だった。
弥生 やよい 人 じん は弥生 やよい 時代 じだい に東北 とうほく 地方 ちほう 北部 ほくぶ へ達 たっ したが、古墳 こふん 時代 じだい の寒冷 かんれい 化 か に伴 ともな い南 みなみ へ退 しりぞ き、そこへ、北海道 ほっかいどう の道 みち 央 ひさし や道 みち 南 みなみ 地方 ちほう を中心 ちゅうしん に栄 さか えていた続 ぞく 縄文 じょうもん 文化 ぶんか の担 にな い手 て (のちのアイヌ民族 みんぞく )が東北 とうほく 地方 ちほう 北部 ほくぶ を南下 なんか して仙台平野 せんだいへいや 付近 ふきん にまで達 たっ し[44] 、西南 せいなん 日本 にっぽん から北上 ほくじょう して来 き た古墳 こふん 文化 ぶんか の担 にな い手 て (和人 わじん )と接触 せっしょく ・交流 こうりゅう を行 おこ なったことが、考古学 こうこがく 的 てき に明 あき らかとなっている。なお、東北 とうほく 地方 ちほう に到来 とうらい した続 ぞく 縄文 じょうもん 文化 ぶんか の担 にな い手 て は、その後 ご 再 ふたた び北海道 ほっかいどう へ退 しりぞ いたが、東北 とうほく 地方 ちほう の和人 わじん との接触 せっしょく ・交流 こうりゅう 自体 じたい は続 つづ いた。
蝦夷 えぞ アイヌ説 せつ では、続 ぞく 縄文 じょうもん 文化 ぶんか の担 にな い手 て が東北 とうほく 地方 ちほう に残 のこ り蝦夷 えぞ (えみし)となったと考 かんが えられている。この理論 りろん は、考古学 こうこがく からする文化 ぶんか 圏 けん の検討 けんとう と、北 きた 東北 とうほく にアイヌ語 ご で説明 せつめい できる地名 ちめい が集中 しゅうちゅう していることから、少 すく なくとも飛鳥 あすか 時代 ときよ (7世紀 せいき )以降 いこう の蝦夷 えぞ について、アイヌとの連続 れんぞく 性 せい を認 みと める説 せつ が有力 ゆうりょく である[45] 。
蝦夷 えぞ と日本 にっぽん の他 ほか の民族 みんぞく 群 ぐん との正確 せいかく な民族 みんぞく 関係 かんけい については多 おお くの学説 がくせつ が存在 そんざい するが、そのうちの一 ひと つは蝦夷 えぞ がアイヌ民族 みんぞく と関連 かんれん しているとするものである。しかし、この理論 りろん は議論 ぎろん の的 まと となっている。なぜなら、多 おお くの蝦夷 えぞ の部族 ぶぞく は優 すぐ れた騎馬 きば 弓 ゆみ 兵 へい や戦士 せんし として知 し られている一方 いっぽう で、アイヌもまた弓 ゆみ 兵 へい として知 し られているものの、彼 かれ らは馬 うま を使用 しよう せず、戦闘 せんとう スタイルは明 あき らかに異 こと なっていたためである。また、文化 ぶんか 的 てき な面 めん でも彼 かれ らは異 こと なっていた[46] 。
中央 ちゅうおう 政府 せいふ 側 がわ に通訳 つうやく がついていたことから蝦夷 えぞ の言語 げんご が日本語 にほんご と相当 そうとう 異 こと なっていたことが分 わ かり、前述 ぜんじゅつ の通 とお りアイヌ語 ご 系 けい の地名 ちめい が東北 とうほく 北部 ほくぶ に数多 かずおお く残 のこ っていることから、アイヌ語 ご 系統 けいとう の言葉 ことば を話 はな していたと推定 すいてい される[45] 。
縄文 じょうもん 人 じん は歴史 れきし 的 てき 変遷 へんせん の中 なか で蝦夷 えぞ とアイヌの両方 りょうほう の祖先 そせん と考 かんが えられており、蝦夷 えぞ (えみし)と蝦夷 えぞ (えぞ)の名前 なまえ は同 おな じ漢字 かんじ で表 あらわ される。すでに、'蝦夷 えぞ 'の名前 なまえ が中世 ちゅうせい 初期 しょき に津軽 つがる 半島 はんとう の人々 ひとびと を指 さ すために使 つか われ、北海道 ほっかいどう の縄文 じょうもん 人 じん が直接 ちょくせつ アイヌの祖先 そせん であったことが知 し られているため、この理論 りろん によれば、これは論理 ろんり 的 てき な進行 しんこう である。北 きた 本州 ほんしゅう の恵山 えさん 文化 ぶんか はこの人々 ひとびと と関連 かんれん しており、後 のち に北海道 ほっかいどう の現代 げんだい アイヌ民族 みんぞく を形成 けいせい する上 じょう で重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした擦 こす 文 ぶん 文化 ぶんか に発展 はってん した。蝦夷 えぞ は馬 うま に乗 の り、鉄 てつ を扱 あつか う人々 ひとびと であった(アイヌとは異 こと なり)。農業 のうぎょう (キビと米 べい )の証拠 しょうこ がある一方 いっぽう で、彼 かれ らは主 おも に馬 うま に乗 の り、狩 か り、漁業 ぎょぎょう 、交易 こうえき を行 おこな っていた[47] 。
最近 さいきん の研究 けんきゅう では、アイヌ語 ご を話 はな す人々 ひとびと が地元 じもと の日本語 にほんご を話 はな す人々 ひとびと と連携 れんけい してヤマト王権 おうけん の拡大 かくだい に抵抗 ていこう したことを示唆 しさ している[48] 。マタギ は、これらのアイヌ語 ご 話者 わしゃ の子孫 しそん であり、彼 かれ らは地元 じもと の日本語 にほんご 話者 わしゃ に地理 ちり や彼 かれ らが狩猟 しゅりょう した森 もり や水 みず の動物 どうぶつ に関連 かんれん した地名 ちめい と借用 しゃくよう 語 ご を提供 ていきょう したとされている[48] [49] 。
縄文 じょうもん 文化 ぶんか の人々 ひとびと の骨格 こっかく 特徴 とくちょう の研究 けんきゅう は、先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の間 あいだ に非 ひ 均質 きんしつ 性 せい を示 しめ し、複数 ふくすう の起源 きげん と多様 たよう な民族 みんぞく 群 ぐん を示唆 しさ している。2014年 ねん の人類 じんるい 学 がく 的 てき ・遺伝 いでん 学 がく 的 てき 研究 けんきゅう では、「この点 てん で、縄文 じょうもん 時代 じだい の人々 ひとびと の生物 せいぶつ 学 がく 的 てき なアイデンティティは非 ひ 均質 きんしつ であり、それは多様 たよう な人々 ひとびと が存在 そんざい し、それらはおそらく共通 きょうつう の文化 ぶんか 、縄文 じょうもん 文化 ぶんか に所属 しょぞく していたことを示 しめ している」と結論 けつろん 付 つ けている[50] 。
これに対 たい し蝦夷 えぞ 辺 べ 民 みん 説 せつ では、上記 じょうき の西南 せいなん 日本 にっぽん から北上 ほくじょう して来 き て接触 せっしょく ・交流 こうりゅう を行 おこ なった古墳 こふん 文化 ぶんか の担 にな い手 て (和人 わじん )が東北 とうほく 地方 ちほう に住 す み蝦夷 えぞ (えみし)となったと考 かんが える。遺伝子 いでんし 特徴 とくちょう の研究 けんきゅう では、蝦夷 えぞ は、アイヌ よりも和人 わじん (特 とく に出雲 いずも 地方 ちほう の古代 こだい 人 じん )に近 ちか いとの研究 けんきゅう もある。また日本語 にほんご の「ズーズー弁 べん 」(現在 げんざい の東北 とうほく 方言 ほうげん の始祖 しそ )を話 はな す和人 わじん とする説 せつ もある[51] 。特 とく に東北 とうほく 方言 ほうげん と出雲 いずも 方言 ほうげん の類似 るいじ 性 せい から、古代 こだい 出雲 いずも 系 けい の民族 みんぞく のうち国 くに 譲 ゆず り後 こう も大和 やまと 王権 おうけん に従 したが わなかった勢力 せいりょく が蝦夷 えぞ となったとする見方 みかた もある[52] 。最近 さいきん の研究 けんきゅう 、例 たと えばBoerらの2020年 ねん の研究 けんきゅう では、蝦夷 えぞ は主 おも に出雲 いずも 方言 ほうげん に密接 みっせつ に関連 かんれん した日本語 にほんご を話 はな していたと結論 けつろん 付 つ けている。さらに、蝦夷 えぞ による稲作 いなさく の証拠 しょうこ と馬 うま の使用 しよう は、古代 こだい の出雲 いずも 日本人 にっぽんじん と蝦夷 えぞ との間 あいだ の結 むす びつきを強化 きょうか している。この理論 りろん によれば、蝦夷 えぞ は大和 やまと 日本人 にっぽんじん から追 お い出 だ された出雲 いずも 日本人 にっぽんじん であり、彼 かれ らは天皇 てんのう の統治 とうち に対 たい して同調 どうちょう することを受 う け入 い れなかった[53] 。
出雲 いずも 弁 べん とツングース諸語 しょご の類似 るいじ [54] などから、蝦夷 えぞ はもともと日本 にっぽん にいなかった馬 うま を引 ひ き連 つ れて大陸 たいりく から来 き た北方 ほっぽう 新 しん モンゴロイド の騎馬 きば 民族 みんぞく とする説 せつ もある。アムール 地域 ちいき の騎馬 きば 遊牧民 ゆうぼくみん 、特 とく にツングース諸 しょ 族 ぞく と蝦夷 えぞ との間 あいだ に顕著 けんちょ な類似 るいじ 性 せい を指摘 してき している歴史 れきし 学者 がくしゃ もいる。蝦夷 えぞ の起源 きげん はツングース系 けい 住民 じゅうみん であり、後 のち に日本語 にほんご を話 はな す出雲 いずも 系 けい 住民 じゅうみん と同化 どうか したと提唱 ていしょう されている[55] 。
蝦夷 えぞ を半 はん 遊牧 ゆうぼく の靺鞨 と関連付 かんれんづ ける説 せつ がある。また、本州 ほんしゅう の蝦夷 えぞ と北海道 ほっかいどう の渡島 ととう 蝦夷 えぞ との間 あいだ には区別 くべつ があった。歴史 れきし 的 てき な証拠 しょうこ は、本州 ほんしゅう の蝦夷 えぞ と渡島 ととう 蝦夷 えぞ との間 あいだ の頻繁 ひんぱん な戦闘 せんとう を示 しめ している。渡島 ととう 蝦夷 えぞ は本州 ほんしゅう の蝦夷 えぞ とプロトアイヌ語 ご 話者 わしゃ から成 な っていたと主張 しゅちょう されている。蝦夷 えぞ は主 おも にツングース起源 きげん で、一部 いちぶ は同化 どうか した日本語 にほんご 群 ぐん (出雲 いずも 人 じん )であったと結論 けつろん 付 つ ける説 せつ がある[56] 。
以前 いぜん アイヌ語 ご であると考 かんが えられていた地名 ちめい は、アムール地域 ちいき のツングースの基層 きそう によってプロトアイヌ語 ご に説明 せつめい できるとされている。また、マタギ猟師 りょうし は実際 じっさい には蝦夷 えぞ の子孫 しそん であり、特定 とくてい の狩猟 しゅりょう 語彙 ごい はアイヌ語 ご ではなくツングース語 ご 由来 ゆらい であるという説 せつ がある。菊池 きくち 俊彦 としひこ は、北本 きたもと 州 しゅう と北海道 ほっかいどう の先住民 せんじゅうみん 族 ぞく が形成 けいせい した擦 こす 文 ぶん 文化 ぶんか とオホーツク文化 ぶんか と、ロシア極東 きょくとう のツングースと古 こ アジア諸 しょ 族 ぞく との間 あいだ には、特 とく にアムール川 がわ 流域 りゅういき や満州 まんしゅう 平原 へいげん で多 おお くの接触 せっしょく があったと主張 しゅちょう している[47] 。
しかし、蝦夷 えぞ ツングース説 せつ は空想 くうそう の域 いき を出 で ないという批判 ひはん もある。[57] 。
中世 ちゅうせい 以後 いご の蝦夷 えぞ (えぞ)は、アイヌを指 さ すとの意見 いけん が主流 しゅりゅう である[注 ちゅう 4] 。鎌倉 かまくら 時代 ときよ 後期 こうき (13世紀 せいき から14世紀 せいき )頃 ごろ には、現在 げんざい アイヌと呼 よ ばれる人々 ひとびと と同一 どういつ とみられる「蝦夷 えぞ 」が存在 そんざい していたことが文献 ぶんけん 史料 しりょう 上 じょう から確認 かくにん される。アイヌの大 だい 部分 ぶぶん が居住 きょじゅう していた北海道 ほっかいどう は蝦夷 えぞ が島 しま 、蝦夷 えぞ 地 ち などと呼 よ ばれ、欧米 おうべい でも「Yezo 」 の名 な で呼 よ ばれた。「エゾ」の語源 ごげん についてはアイヌ語 ご で人 ひと を意味 いみ する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北 とうほく 方言 ほうげん 式 しき の発音 はつおん により「Ezo」となったとする説 せつ がある[51] 。
アイヌ文化 ぶんか は、前代 ぜんだい の擦 こす 文 ぶん 文化 ぶんか を継承 けいしょう しつつオホーツク文化 ぶんか (担 にな い手 て はシベリア大陸 たいりく 系 けい 民族 みんぞく の一 ひと つであるニヴフ といわれる[58] )と融合 ゆうごう し、本州 ほんしゅう の文化 ぶんか を摂取 せっしゅ して生 う まれたと考 かんが えられている。その成立 せいりつ 時期 じき は上記 じょうき 「えぞ」の初 はつ 見 み と近 ちか い鎌倉 かまくら 時代 じだい 後半 こうはん (13世紀 せいき )と見 み られており、また擦 こす 文 ぶん 文化 ぶんか とアイヌ文化 ぶんか の生活 せいかつ 体系 たいけい の最 もっと も大 おお きな違 ちが いは、本州 ほんしゅう や大陸 たいりく など道外 みちそと からの移入 いにゅう 品 ひん (特 とく に鉄 てつ 製品 せいひん )の量的 りょうてき 増大 ぞうだい にあり、アイヌ文化 ぶんか は交易 こうえき に大 おお きく依存 いぞん していたことから、アイヌ文化 ぶんか を生 う んだ契機 けいき に和人 わじん との交渉 こうしょう の増大 ぞうだい があると考 かんが えられている。具体 ぐたい 的 てき には奥州 おうしゅう 藤原 ふじわら 氏 し 政権 せいけん の盛衰 せいすい との関係 かんけい が指摘 してき されている。
鎌倉 かまくら 時代 じだい 後期 こうき (14世紀 せいき )には、「渡 わたり 党 とう 」[注 ちゅう 5] 、「日 ひ の本 もと 」[注 ちゅう 6] 、「唐子 からこ 」[注 ちゅう 7] に分 わ かれ、「日 ひ の本 もと 」と「唐子 からこ 」は農耕 のうこう をせず言葉 ことば も通 つう じず、「渡 わたり 党 とう 」は多毛 たもう だが姿 すがた は似 に ていて和人 わじん と言葉 ことば が通 つう じ、本州 ほんしゅう との交易 こうえき に従事 じゅうじ したという文献 ぶんけん (『諏訪 すわ 大明神 だいみょうじん 絵詞 えことば 』)が残 のこ っている[59] 。また、鎌倉 かまくら 時代 ときよ には陸奥 みちのく 国 こく の豪族 ごうぞく である安東 あんどう 氏 し が、幕府 ばくふ の執権 しっけん 北条 ほうじょう 氏 し より蝦夷 えぞ 管領 かんりょう (または蝦夷 えぞ 代官 だいかん )に任 にん ぜられ、これら3種 しゅ の蝦夷 えぞ を統括 とうかつ していたとする記録 きろく もある。
室町 むろまち 時代 ときよ (15世紀 せいき から16世紀 せいき にかけて)、和人 わじん とアイヌの抗 こう 争 そう の時代 じだい を生 い き抜 ぬ き、和人 わじん 勢力 せいりょく を糾合 きゅうごう して渡島 ととう 半島 はんとう 南部 なんぶ の領主 りょうしゅ に成長 せいちょう していった蠣崎 かきざき 氏 し は豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし ・徳川 とくがわ 家康 いえやす から蝦夷 えぞ 地 ち の支配 しはい 権 けん 、交易 こうえき 権 けん を公認 こうにん され、名実 めいじつ 共 ども に安東 あんどう 氏 し から独立 どくりつ し、江戸 えど 時代 じだい になると蠣崎 かきざき 氏 し は松前 まさき 氏 し と改名 かいめい して大名 だいみょう に列 れつ した。
^ 高橋 たかはし 崇 たかし は蝦夷 えぞ の自称 じしょう とは言 い わないが、中国 ちゅうごく 側 がわ が呼 よ んだものとしてこの説 せつ に傾 かたむ く。
^ 工藤 くどう 雅樹 まさき もこれを支持 しじ する。
^ 下線 かせん 部 ぶ 「「毗 」は田 た へん に「比 ひ 」の一文字 ひともじ 、「儾 」は「亻 」(にんべん )に「嚢」の一文字 ひともじ 。
^ ただし中世 ちゅうせい の蝦夷 えぞ に含 ふく まれる渡 わたり 党 とう という集団 しゅうだん は、文化 ぶんか 的 てき には近世 きんせい アイヌに酷似 こくじ しているが、その実体 じったい については諸説 しょせつ あり、青苗 あおなえ 文化 ぶんか 人 ひと の後裔 こうえい とも、和人 わじん が土着 どちゃく 化 か したものとの説 せつ もある。渡 わたり 党 とう の出自 しゅつじ が何 なに であれ、かれらは道 みち 南 みなみ で和人 わじん の支配 しはい 体制 たいせい に取 と り込 こ まれ、次第 しだい に和人 わじん 化 か していったとも言 い われる。
^ 北海道 ほっかいどう 渡島 ととう 半島 はんとう の住民 じゅうみん で、津軽海峡 つがるかいきょう を往来 おうらい する交易 こうえき 集団 しゅうだん 。
^ 北海道 ほっかいどう 太平洋 たいへいよう 側 がわ (近世 きんせい の東 ひがし 蝦夷 えぞ )の住民 じゅうみん で、千島 ちしま 方面 ほうめん の産物 さんぶつ をもたらした交易 こうえき 集団 しゅうだん と推定 すいてい される。
^ 北海道 ほっかいどう 日本海 にほんかい 側 がわ (近世 きんせい の西 にし 蝦夷 えぞ )の住民 じゅうみん で、樺太 からふと (唐 から 太 ふとし )とつながり、中国 ちゅうごく の産品 さんぴん をもたらした交易 こうえき 集団 しゅうだん と推定 すいてい される。
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Adachi et al. (2013) described the craniometrics and aDNA sequence from a Jomon individual from Nagano (Yugora cave site) dated to the middle of the initial Jomon Period (7920–7795 cal BP). This individual carried ancestry, which is widelydistributed among modern East Asians (Nohira et al. 2010; Umetsu et al. 2005) and resembled modern Northeast Asian comparison samples rather than geographical close Urawa Jomon sample.”
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出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2019年 ねん 6月 がつ )
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