北条ほうじょう貞時さだとき

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北条ほうじょう 貞時さだとき
北条ほうじょう貞時さだとき栗原くりはらしんたかしやなぎあん随筆ずいひつ日本にっぽん随筆ずいひつ大成たいせいだい2だい9かん
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき
生誕せいたん ぶんひさし8ねん12月12にち1272ねん1がつ14にち
死没しぼつ おうちょう元年がんねん10月26にち1311ねん12月6にち
改名かいめい 幸寿ゆきとしまる幼名ようみょう)→貞時さだときたかしあかつきたかしえんじ法名ほうみょう
戒名かいみょう さいかちえんてら殿どのさとしけん
墓所はかしょ 鎌倉かまくら山之内やまのうち円覚寺えんかくじふつにちあん
官位かんい ひだりけんあたま相模さがみもりしたがえよんじょう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふだい9だい執権しっけん
在職ざいしょく弘安ひろやす7ねん (1284ねん) -正安まさやすねん (1301ねん) )
主君しゅくん おもんみかん親王しんのう久明ひさあき親王しんのうまもりくに親王しんのう
氏族しぞく 北条ほうじょうとくむね
父母ちちはは ちち北条ほうじょう時宗じしゅうはは堀内ほりうち殿どの
つま 正室せいしつ北条ほうじょうそうまさしむすめ
側室そくしつ安達あだちやすしむねむすめさとしうみえんなり
さとしひさきく寿ことぶきまるたかときどきたいたかしあかつききむ寿ひさしまる千代ちよ寿ひさしまる北条ほうじょうしつ南殿なんでん北条ほうじょう熙時しつ)、北条ほうじょうもとしつ
花押かおう 北条貞時の花押
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北条ほうじょう 貞時さだとき(ほうじょう さだとき)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき北条ほうじょう一門いちもん武将ぶしょう北条ほうじょうとく宗家そうけ当主とうしゅ鎌倉かまくら幕府ばくふだい9だい執権しっけん在職ざいしょく弘安ひろやす7ねん1284ねん) - 正安まさやす3ねん1301ねん))。

だい8だい執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅう嫡男ちゃくなんはは安達あだち義景よしかげむすめ堀内ほりうち殿どのさとしやまあま)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

誕生たんじょう元服げんぷく[編集へんしゅう]

ぶんなが8ねん12月12にち1272ねん1がつ14にち)、北条ほうじょう時宗じしゅう嫡男ちゃくなんとして鎌倉かまくらまれる。幼名ようみょう幸寿ゆきとしまる

建治けんじ3ねん1277ねん12月2にち元服げんぷくして貞時さだとき名乗なのった[1][2]。この様子ようすは『建治けんじさんねん』の同日どうじつじょう宗家そうけ嫡男ちゃくなん元服げんぷく貴重きちょう記録きろくとしてのこされている[2]。このとき烏帽子えぼしおや明確めいかくにはしめされていない[注釈ちゅうしゃく 1]が、「むね御所ごしょ西にし格子こうしのぼらる。西にしさむらい」の記述きじゅつから、元服げんぷくおこなわれた場所ばしょむね御所ごしょ西にしさむらい[注釈ちゅうしゃく 2]であり[4]、「こししゅう刻限こくげんもうさる。その出御しゅつぎょ[注釈ちゅうしゃく 3]か。いでけんいき(=貞時さだとき簾中れんちゅう[注釈ちゅうしゃく 4]まいらる。」という表現ひょうげんから当時とうじ将軍しょうぐんおもんみかん親王しんのうったことがうかがえるため、これまでのとく宗家そうけ当主とうしゅ[注釈ちゅうしゃく 5]同様どうよう将軍しょうぐんおもんみかん親王しんのう)を烏帽子えぼしおやとして元服げんぷくしたものとみられている[2][4]

元服げんぷくさいしては烏帽子えぼしおやへんいみな実名じつめいの1)をけることがおおいが、「貞時さだとき」の名乗なのりをかるとおり、将軍しょうぐんへんいみなおもんみかん親王しんのうの「おもんみ」または「やすし」の1)はけなかったようである。どう時代じだい(のうえ立場たちば)のもので「さだ」のもちいる人物じんぶつはおらず、研究けんきゅうでは祖先そせんとされるひらたさだもりあやかったものとする見解けんかいしめされている。元々もともと細川ほそかわ重男しげおがこのせつくわえて貞時さだとき息子むすこたかときの「こう」が高望王たかもちおう由来ゆらいするとするせつ)をとなえたものの根拠こんきょなしとして論文ろんぶんとうではしめしてはいなかったが、角田つのだ朋彦ともひこ根拠こんきょきでこれを支持しじしている。これは、細川ほそかわ著書ちょしょで、ちち時宗じしゅうだいに、とく宗家そうけによる政治せいじ支配しはい体制たいせい確立かくりつさせるにあたりその正統せいとうせい主張しゅちょうするために、にあたる北条ほうじょうよしとき武内たけうち宿禰すくねになぞらえる伝説でんせつまれて流布るふしていたこと[5][6]や、時宗じしゅうとは不可分ふかぶん関係かんけいにあった平頼綱たいらのよりつな貞時さだとき乳母うばおっとにあたる)がみずからの家格かかく向上こうじょうさせるため、次男じなんむねじょしゅうともく)の名字みょうじ名前なまえの1)を平資盛たいらのすけもりもとめた可能かのうせいがあること[7]べており、こうしたかんがかた可能かのうならば、同様どうよう時宗じしゅう自分じぶん嫡男ちゃくなん名字みょうじ平貞盛たいらのさだもりもとめたとかんがえることができるのではないかという理由りゆうによるものである。くわえて角田つのだは、貞時さだときだいには将軍しょうぐん御家人ごけにんというへんいみな授与じゅよ図式ずしき存在そんざいせず[注釈ちゅうしゃく 6]とく宗家そうけ当主とうしゅである貞時さだときの「さだ」の御家人ごけにんあたえられる図式ずしきがこの時代じだい成立せいりつしていたことが御家人ごけにん名前なまえからうかが[注釈ちゅうしゃく 7]、これはとくむね権力けんりょく確立かくりつしていたことの徴証ちょうしょうひとつとしてれるとする見解けんかいしめしている[9]

家督かとく相続そうぞく霜月しもつき騒動そうどう[編集へんしゅう]

弘安ひろやす7ねん1284ねん)4がつちち時宗じしゅう病死びょうしし13さいまん12さい)で執権しっけん就任しゅうにんする。だが8がつには北条ほうじょうひかり(ときみつ、かいりゅう北条ほうじょう)の陰謀いんぼう事件じけんこるなど[10]、その初期しょき治世ちせい安定あんていしなかった。これは貞時さだとき兄弟きょうだいがおらず、また叔父おじちち実弟じってい)であった北条ほうじょうそうまさしなど有力ゆうりょく親族しんぞく早世そうせいしていたためにおさな貞時さだときささえるべき藩屏はんぺいまった存在そんざいしていなかったためとされる。

このため幕政ばくせい貞時さだとき外祖父がいそふ(ただし血縁けつえんじょうそと伯父おじ)である有力ゆうりょく御家人ごけにん弘安ひろやす徳政とくせい推進すいしんしていた安達あだち泰盛やすもり掌握しょうあくするが、泰盛やすもり施策しさくとく宗家そうけ勢力せいりょく削減さくげんして御家人ごけにんらの既得きとく権益けんえきおかしたために幕府ばくふない孤立こりつした[11][注釈ちゅうしゃく 8]。このためとく宗家そうけ執事しつじうち管領かんりょう)で貞時さだとき乳母うばおっとにあたる平頼綱たいらのよりつなはん安達あだち勢力せいりょくとの対立たいりつ激化げきかする。

弘安ひろやす8ねん(1285ねん)11月17にち頼綱よりつな讒言ざんげんにより泰盛やすもり討伐とうばつするいのちくだす(霜月しもづき騒動そうどう)。これにより泰盛やすもり一掃いっそうされ、頼綱よりつな実権じっけん掌握しょうあくして権勢けんせいるった[13]

ひら禅門ぜんもんらん独裁どくさいけん強化きょうか[編集へんしゅう]

せいおう2ねん(1289ねん)には将軍しょうぐんおもんみかん親王しんのう退しりぞけて、久明ひさあき親王しんのう擁立ようりつしている。

頼綱よりつな貞時さだときようして御家人ごけにん保護ほご全面ぜんめんこと権力けんりょく基盤きばんとしていたが、うち管領かんりょうとはとく宗家そうけ家政かせい機関きかん首長しゅちょうとして強大きょうだい権力けんりょく一方いっぽう幕府ばくふ主要しゅよう構成こうせいいんである評定ひょうじょうしゅ引付ひきつけしゅではない御内おんうちじんであり、将軍家しょうぐんけつかえる御家人ごけにん北条ほうじょうつかえるうち管領かんりょうではそもそも身分みぶんおおきく幕政ばくせい主導しゅどうすること自体じたい無理むりがあった[14]。このため泰盛やすもりのこりである宇都宮うつのみや景綱かげつな有力ゆうりょく御家人ごけにんらのはん勢力せいりょくによる不満ふまんたかまり、頼綱よりつな窮余きゅうよさくとしてとくむね被官ひかん監察かんさつけんあたえて強圧きょうあつてき政権せいけん運営うんえいおこなうが、これにより成長せいちょうした貞時さだときからも見切みきりをつけられることになる[15]せいおう6ねん(1293ねん)4がつ22にち貞時さだとき幕政ばくせい壟断ろうだんしていた頼綱よりつなとその一族いちぞく鎌倉かまくらだい地震じしんえいひとしだい地震じしん)の混乱こんらんじょうじて誅殺ちゅうさつした(ひら禅門ぜんもんらん)。

実権じっけんもどした貞時さだときは、一門いちもん北条ほうじょう従兄弟いとこそうまさしでのちだい10代執権しっけんとなる(後述こうじゅつ参照さんしょう))や宗方むなかたらを抜擢ばってきし、また霜月しもつき騒動そうどう追放ついほうされていた金沢かなざわ北条ほうじょう北条ほうじょうあらわときらの復権ふっけん断行だんこうしてちち時代じだい回帰かいきすることを基本きほん方針ほうしんとしてとく宗家そうけ主導しゅどう専制せんせい政治せいじ強力きょうりょくすすめた[15]。10月には引付ひきつけしゅ廃止はいししてあらわそうせん(のちだい11だい執権しっけん後述こうじゅつ参照さんしょう))・長井ながいそうしげる宇都宮うつのみや景綱かげつなどきむらおおやけら7めい新設しんせつした執奏しっそう任命にんめいするなど泰盛やすもり登用とうよううしたてとして[16]訴訟そしょう制度せいど改革かいかくおこない、とくむねいえによる専制せんせい政治せいじ強化きょうかつとめた。また、もと寇後にも薩摩さつまおき異国いこくせん出現しゅつげんするなどの事件じけんもあり、えいひとし4ねん(1296ねん)には鎮西ちんぜい探題たんだいあらたに設置せっちするとともに、西国さいこく守護しゅごおも北条ほうじょう一族いちぞくなどでかためるなどして、西国さいごく支配しはい国防こくぼう強化きょうかおこなっている。そして、もとによる膨大ぼうだい軍費ぐんぴ出費しゅっぴなどでくるしむ中小ちゅうしょう御家人ごけにん救済きゅうさいするために、えいひとし5ねん1297ねん)にえいひとし徳政令とくせいれい関東かんとう徳政とくせい)を発布はっぷするが、これは借金しゃっきんをしにくくなるというぎゃく効果こうかまねき、かえって御家人ごけにんくるしめた。

執権しっけん退任たいにんよしみもとらん[編集へんしゅう]

正安まさやす3ねん1301ねん)、鎌倉かまくら彗星すいせい飛来ひらい現在げんざいハレはれ彗星すいせいにあたる)、これを擾乱じょうらん凶兆きょうちょう憂慮ゆうりょした貞時さだとき出家しゅっけし、執権しっけんしょく従兄弟いとこ北条ほうじょうゆずったが、出家しゅっけ幕府ばくふない隠然いんぜん政治せいじりょくたもった。

よしみもと3ねん1305ねん)4がつ22にち貞時さだとき鎌倉かまくら宿やどかん焼失しょうしつしたためかんうつったが、その翌日よくじつ貞時さだとき命令めいれいとしてとくむね被官ひかん御家人ごけにんによって連署れんしょ北条ほうじょうむら殺害さつがいされる事件じけんこった[17]貞時さだときは5月2にちどきむら殺害さつがいあやまりとして五大ごだいいん高頼たかよりらを誅殺ちゅうさつし、4にちには引付ひきつけしゅいち番頭ばんがしらじん大仏だいぶつむねせんらがとく宗家そうけ執事しつじ北条ほうじょう宗方むなかたとその与党よとう誅殺ちゅうさつした(よしみもとらん[18]北条ほうじょう一門いちもん暗闘あんとう真相しんそう不明ふめいだが、どきむら殺害さつがい家格かかく秩序ちつじょ先例せんれい無視むしした貞時さだとき政治せいじ抵抗ていこうする北条ほうじょう庶流を貞時さだとき制圧せいあつしようとしたためで[19]どきむら暗殺あんさつたいするぞくない反発はんぱつ予想よそう以上いじょうつよかったため、貞時さだときときむら殺害さつがいしたとくむね被官ひかんらを誅殺ちゅうさつし、それでも反発はんぱつおさまらなかったため、自分じぶん責任せきにん回避かいひするために、宗方むなかた陰謀いんぼうとして宗方むなかたとその与党よとう誅殺ちゅうさつしたとするせつがある[18]。また、執権しっけん宗方むなかた対立たいりつ、さらにとくむね貞時さだとき歴代れきだいにわたってめしわされていたそうせん対立たいりつ背景はいけいにあったとするせつもある[20][21]

みだれた晩年ばんねん最期さいご[編集へんしゅう]

徳治とくじ3ねん1308ねん)8がつ4にちには将軍しょうぐん久明ひさあき親王しんのうはいしてまもりくに親王しんのう擁立ようりつされた[22]。またおさな息子むすこである北条ほうじょうだか足場あしばがための布石ふせきとして長崎ながさきえん安達あだちあらわ登用とうようかれ2人ふたりこう補佐ほさする両翼りょうよくとしてそなえようとした。のべけい2ねん1309ねん)1がつにはこう元服げんぷくしきおこなっている[23]

だが幕府ばくふ内外ないがい問題もんだいかかえ、家庭的かていてきにも息子むすこ2にん先立さきだたれた貞時さだとき政治せいじ次第しだい精彩せいさいいて情熱じょうねつうしなわれた。貞時さだとき次第しだい政務せいむをおろそかにして酒宴しゅえんふけることがおおくなり、御内おんうちじんたいらまさしれん中原なかはらまさしれんから素行そこう改善かいぜんねが趣旨しゅしの諫状を提出ていしゅつされている(『たいらまさしれん諫草』)[24]

おうちょう元年がんねん(1311ねん)9がつ22にちにはこう成長せいちょうするまでの中継なかつぎであった執権しっけん死去しきょ[25]よしみもとらん貞時さだとき対立たいりつしたそうせん執権しっけん就任しゅうにんするなど[25]さい晩年ばんねん貞時さだとき政権せいけんでは世代せだい交代こうたい[26]とくむね権力けんりょく弱体じゃくたい進行しんこうし、貞時さだとき平頼綱たいらのよりつなほろぼして以降いこうきずいてきたとくむねによる専制せんせいてき体制たいせい崩壊ほうかいしていった。一方いっぽう最高さいこう権力けんりょくしゃであるはずの貞時さだとき政務せいむ放棄ほうきしても長崎ながさきらの御内おんうちじん外戚がいせき安達あだち北条ほうじょう庶家などの寄合よりあいしゅうらが主導しゅどうする寄合よりあいによって幕府ばくふ機能きのうしており、とくむね将軍しょうぐん同様どうよう装飾そうしょくてき地位ちいまつげられる結果けっかとなった[27]

貞時さだときのちうように1ヵ月かげつの10がつ26にち(1311ねん12月6にち)に死去しきょ享年きょうねん41[26]まん39さいぼつ)。のぞんで、貞時さだとき長崎ながさきえん安達あだちあらわ二人ふたり枕元まくらもとせ、こう補佐ほさ幕府ばくふててゆくようめいじたという。廟所びょうしょ鎌倉かまくら山ノ内やまのうちみず鹿山しかやま円覚寺えんかくじ塔頭たっちゅうふつにちあん木像もくぞうおさめられている。

たかときわずか9さいとく宗家そうけ家督かとくぐが、すで貞時さだとき晩年ばんねんむね地位ちい形骸けいがいしており、政治せいじてき主導しゅどうけん発揮はっきする機会きかいもない形式けいしきてき存在そんざいのまま[28]元弘もとひろ3ねん(1333ねん)の元弘もとひろらんによる鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうときむかえることになった。

人物じんぶつ逸話いつわ[編集へんしゅう]

北条ほうじょう貞時さだとき前賢ぜんけん故実こじつ

古典こてん太平たいへい』では、貞時さだとき祖父そふの5だい執権しっけん北条ほうじょうよりゆき同様どうよう廻国かいこく伝説でんせつがある。

貞時さだときとく宗家そうけによる専制せんせい強化きょうかつうじて幕府ばくふ権威けんい回復かいふくした。この改革かいかくたすけたのが、とくむね側近そっきんとして活動かつどうしてきた長崎ながさきえん御内おんうちじんであった。だが、とくむねとその周辺しゅうへんへの権力けんりょく集中しゅうちゅうは、やがて御内おんうちじんをはじめとする幕府ばくふ首脳しゅのうへの権力けんりょく一極いっきょく集中しゅうちゅううながし、政治せいじ腐敗ふはいなどにつながった。政治せいじ紊乱びんらん悪党あくとう蠢動しゅんどうなどの社会しゃかい不安ふあん惹起じゃっきするなど、後醍醐天皇ごだいごてんのうによる討幕とうばく運動うんどうはじまる遠因えんいんつくした時代じだいでもあった。

晩年ばんねん貞時さだとき行状ぎょうじょうみだれて連日れんじつのように酒宴しゅえんひらいたが、一門いちもん北条ほうじょうさだあきらすらもその乱行らんぎょうなげいて書状しょじょうで「連日れんじつ御酒みき当時とうじ何事なにごともさたありぬともおぼえずこうあざむこうあざむこう」とひょうし、またさだあらわえん奏上そうじょうたのんだ用件ようけんとしえてもいまだに奏上そうじょうされていないことにもあわてたという(のべけい3ねん初頭しょとうにおけるさだあきら書状しょじょう[29]。この貞時さだとき乱行らんぎょう次代じだいこう乱行らんぎょうとして引用いんようされることもある[24]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

へんいみなけた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

北条ほうじょう貞時さだとき絵本えほん鎌倉かまくら北条ほうじょうきゅうだいより。福井ふくいあつし

貞時さだときだいには「さだ」の一般いっぱん御家人ごけにん下賜かしする図式ずしき成立せいりつしていたことが論文ろんぶんによって指摘してきされており(前述ぜんじゅつ参照さんしょう)、これに該当がいとうする人物じんぶつ以下いかものとみられる。

北条ほうじょう一門いちもん[編集へんしゅう]

ほか

その御家人ごけにんなど)[編集へんしゅう]

ほか

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 理髪りはつやく叔父おじ北条ほうじょうそうまさし烏帽子えぼし持参じさんする役目やくめ安達あだち泰盛やすもりになったことひとし担当たんとうしゃは『建治けんじさんねん』に明確めいかくしめされている(森茂もりもあかつきもこれについて言及げんきゅうしている[1])。
  2. ^ むね御所ごしょとは幕府ばくふ御所ごしょ南西なんせい部分ぶぶんにあたるむねづくり建物たてもののことであり、「西にしさむらい」は北条ほうじょうやすしとき元服げんぷく御家人ごけにん祗候しこうしていた場所ばしょ、また大伯父おおおじやすし嫡孫ちゃくそん)・経時きょうじちち時宗じしゅう元服げんぷくおこなわれたことのある場所ばしょであった[3]
  3. ^ 将軍しょうぐん目下もっかものまえにおでましになること。『デジタル大辞泉だいじせん』・『大辞林だいじりん だいさんはんとう国語こくご辞典じてんによる。
  4. ^ 簾中れんちゅうとは貴人きじん正妻せいさいしてった敬称けいしょうとして使つかわれることがおおいが、元々もともと語源ごげんとしてはつねすだれ内側うちがわにいる貴人きじんす(『デジタル大辞泉だいじせんとう国語こくご辞典じてんによる)ため、この場合ばあい将軍しょうぐんおもんみかん親王しんのうすだれ内側うちがわにおでましになったとかんがえられる。
  5. ^ 北条ほうじょうやすしとき経時きょうじどきよりゆき時宗じしゅう元服げんぷく様子ようすは『吾妻あづまきょう』で確認かくにんすることができる[2]
  6. ^ 角田つのだ論文ろんぶんされたのちに、赤橋あかばしりゅう北条ほうじょう北条ほうじょうひさとき久明ひさあき親王しんのう北条ほうじょう守時もりときまもりくに親王しんのうへんいみなたまわっていることが指摘してきされている[8]が、これは赤橋あかいばし将軍しょうぐん烏帽子えぼしおやとする家系かけいであったためであり、例外れいがいとみなす。
  7. ^ 紺戸こんと 1979にはその事例じれいいくつか紹介しょうかいされている。後述こうじゅつへんいみなけた人物じんぶつふし参照さんしょうのこと。
  8. ^ ただし、安達あだち泰盛やすもり施策しさく自身じしん後見こうけんするとく宗家そうけ勢力せいりょく強化きょうかする意図いとがあったとする見方みかたもある[12]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b もりしげるあかつき足利あしかが将軍しょうぐん元服げんぷく足利あしかが義満よしみつより同義どうぎきょういたる-」『中世ちゅうせい 日本にっぽん政治せいじ文化ぶんか思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2006ねん 
  2. ^ a b c d 山野さんや 2012, p. 164.
  3. ^ 山野さんや 2012, pp. 168–169.
  4. ^ a b 山野さんや 2012, p. 169.
  5. ^ 細川ほそかわ重男しげお本郷ほんごう和人かずと北条ほうじょうとく宗家そうけ成立せいりつ試論しろん」『東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ研究けんきゅう紀要きよう』11ごう、2001ねん 
  6. ^ 細川ほそかわ重男しげおとくむね専制せんせい政治せいじ論理ろんり」『年報ねんぽう三田みた中世ちゅうせい研究けんきゅう』9ごう、2002ねん 
  7. ^ 細川ほそかわ重男しげお飯沼いいぬま大夫たいふ判官ほうがん両統りょうとう迭立」『白山はくさん史学しがく』38ごう、2002ねん 
  8. ^ a b c 山野さんや 2012, p.182 脚注きゃくちゅう(27).
  9. ^ 角田つのだ朋彦ともひこへんいみなはなし」『だんかづら』さんよん、2004ねん、20-21ぺーじ 
  10. ^ 永井ながい 2003, p. 226.
  11. ^ 永井ながい 2003, p. 9.
  12. ^ 五味ごみ文彦ふみひことくむね専制せんせい政治せいじ」『国史こくしだい辞典じてんだい10、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989ねん、313-314ぺーじ 
  13. ^ 永井ながい 2003, pp. 9–10.
  14. ^ 永井ながい 2003, p. 11.
  15. ^ a b 永井ながい 2003, p. 12.
  16. ^ 永井ながい 2003, pp. 12–13.
  17. ^ 永井ながい 2003, p. 39.
  18. ^ a b 永井ながい 2003, p. 40.
  19. ^ 新井あらい孝重たかしげ護良親王もりよししんのう:武家ぶけよりもきみうらめしくわたらせきゅうふ』2016ねん ミネルみねるァ書房ぁしょぼう
  20. ^ 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら政権せいけんとくむね専制せんせいろん
  21. ^ 永井ながい 2003, p. 43.
  22. ^ 永井ながい 2003, pp. 51–52.
  23. ^ 永井ながい 2003, p. 63.
  24. ^ a b 永井ながい 2003, p. 68.
  25. ^ a b 永井ながい 2003, p. 73.
  26. ^ a b 永井ながい 2003, p. 74.
  27. ^ 細川ほそかわ 2011, pp. 132–133.
  28. ^ 細川ほそかわ 2011, pp. 142–145.
  29. ^ 永井ながい 2003, pp. 67–68.
  30. ^ 永井ながい 2003, p. 3.
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 紺戸こんと 1979, p.15系図けいずほか.
  32. ^ a b c d e f g 結城ゆうき だいよんかん 古代こだい中世ちゅうせい通史つうしへん結城ゆうき、1980ねん、297ぺーじ 
  33. ^ 臼井うすい信義のぶよし ちょたかし父祖ふそよりゆき家時いえとき年代ねんだいこう―」、田中たなか大喜だいぎ へん下野しもの足利あしかがえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいきゅうかん〉、2013ねん、68ぺーじ 
  34. ^ だい3へん 中世ちゅうせい I 鎌倉かまくら時代じだい」『二本松にほんまつ だい1かん 原始げんし古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい 通史つうしへん1』二本松にほんまつ、1999ねん、233ぺーじ 
  35. ^ a b c d 工藤くどう一門いちもん今野こんの慶信よしのぶ ちょ藤原ふじわらみなみ武智たけち麿まろ四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図けいず」、峰岸みねぎし純夫すみお; 入間田いりまだ宣夫のりお; 白根しらねやすしだい へん中世ちゅうせい武家ぶけ系図けいず史料しりょうろんじょう高志こうし書院しょいん、2007ねん 
  36. ^ 江田えだ郁夫いくお ちょ総論そうろん 下野げや宇都宮うつのみや」、江田えだ郁夫いくお へん下野しもの宇都宮うつのみやえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいよんかん〉、2011ねん、9ぺーじ 
  37. ^ 鈴木すずき由美ゆみ御家人ごけにんとくむね被官ひかんとしての小笠原おがさわら -鎌倉かまくら後期こうきちょうちゅうけい小笠原おがさわら題材だいざいに-」『信濃しなのだい64かんだい12ごう信濃しなのふみ学会がっかい、2012ねん12月。 脚注きゃくちゅう24。
  38. ^ a b 市村いちむら高男たかお ちょ鎌倉かまくら成立せいりつの「結城ゆうき系図けいずほんかんする基礎きそてき考察こうさつ -系図けいず研究けんきゅう視点してん方法ほうほう探求たんきゅう-」、峰岸みねぎし純夫すみお; 入間田いりまだ宣夫のりお; 白根しらねやすしだい へん中世ちゅうせい武家ぶけ系図けいず史料しりょうろんじょう高志こうし書院しょいん、2007ねん、96-97ぺーじ 
  39. ^ 松本まつもと一夫かずお ちょ総論そうろん小山こやま研究けんきゅう成果せいか課題かだい」、松本まつもと一夫かずお へん下野しもの小山こやまえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいろくかん〉、2012ねん、13ぺーじ 
  40. ^ 今野こんの慶信よしのぶ ちょ鎌倉かまくら御家人ごけにん葛西かさいについて」、入間田いりまだ宣夫のりお へん葛西かさい研究けんきゅう名著めいちょ出版しゅっぱんしゃだい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう叢書そうしょ3〉、1998ねん 
  41. ^ 紺戸こんと 1979, p. 21.
  42. ^ a b 服部はっとり英雄ひでお中世ちゅうせい小城おぎ景観けいかんうみからかんがえる」『中世ちゅうせい肥前ひぜん千葉ちば足跡あしあと : しょう京都きょうと小城おぎ源流げんりゅう佐賀さがけん小城おぎ教育きょういく委員いいんかい、2011ねんNCID BB05770990https://hdl.handle.net/2324/20437 
  43. ^ ぐんしょ系図けいずしゅう よん』p.362 「大友おおとも系図けいず」に「貞時さだときいち。」、p.372 「立花たちばな系図けいず」に「北條ほうじょう相模さがみもり貞時さだときくびかんむり。授諱いち。」、『入江いりえ文書ぶんしょ』(『大分おおいたけん史料しりょう10』所収しょしゅう)の「大友おおとも田原たはら系図けいず」に「相模さがみもり貞時さだとき元服げんぷく」とある。武家ぶけ家伝かでん_戸次とつぎにもこのむね記載きさいあり。
  44. ^ 樋川ひかわ智美ともみ ちょ鎌倉かまくら武家ぶけ社会しゃかいにおける婚姻こんいん意義いぎ -小山こやま結城ゆうき事例じれいによる考察こうさつ-」、荒川あらかわ善夫よしお へん下総しもうさ結城ゆうきえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいはちかん〉、2012ねん、142-143ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]