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久米寺くめでら

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久米寺くめでら
本堂ほんどう
所在地しょざいち 奈良ならけん橿原かしはら久米くめまち502
位置いち 北緯ほくい3429ふん4.43びょう 東経とうけい13547ふん24.11びょう / 北緯ほくい34.4845639 東経とうけい135.7900306 / 34.4845639; 135.7900306座標ざひょう: 北緯ほくい3429ふん4.43びょう 東経とうけい13547ふん24.11びょう / 北緯ほくい34.4845639 東経とうけい135.7900306 / 34.4845639; 135.7900306
山号さんごう れいぜんやま
院号いんごう ひがしとういん
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅう御室おむろ
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい
創建そうけんねん 7世紀せいきまつ白鳳はくほう時代じだい[1]
開基かいき つて皇子おうじ、もしくはつて久米くめ仙人せんにん
札所ふだしょとう 西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい7ばん
仏塔ぶっとう古寺ふるでらじゅうはちみことだい9ばん
聖徳太子しょうとくたいしれいあとだい32ばん
大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうだい88ばん
大和やまとななぶくはちたからめぐり寿老人じゅろうじん
文化財ぶんかざい 多宝塔たほうとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 3150005004953 ウィキデータを編集
久米寺の位置(奈良県内)
久米寺
久米寺くめでら
久米寺くめでら (奈良ならけん)
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久米寺くめでら(くめでら)は、奈良ならけん橿原かしはら久米くめまちにある真言宗しんごんしゅう御室おむろ寺院じいん[2]山号さんごうれいぜんやま本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい[1]開基かいき創立そうりつしゃ)は聖徳太子しょうとくたいしおとうと皇子おうじ(くめのみこ)ともいうがしょう[1]。『扶桑ふそう略記りゃっき』や『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』においてはむすめのふくらはぎにとれてそらからちたという久米くめ仙人せんにんにより創建そうけんされたとつたえられる[1]。また、空海くうかいゆかりのてらであり、「真言宗しんごんしゅう発祥はっしょう」とされる。

歴史れきし

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大和やまと三山さんざんの1つ、畝傍山うねびやま南方なんぽう位置いちし、橿原神宮かしはらじんぐうからもちか[3]開基かいき聖徳太子しょうとくたいしおとうと皇子おうじ(くめのみこ)とも久米くめ仙人せんにんともつたわるが、詳細しょうさい不明ふめいである。また、創建そうけん年代ねんだい推古天皇すいこてんのう2ねん594ねん)ともされるが、これも詳細しょうさい不明ふめいである。

かずしゅう久米寺くめでらりゅう』には皇子おうじ開基かいきつたえる。一方いっぽう、『扶桑ふそう略記りゃっき』『なな大寺おおてら巡礼じゅんれい私記しき』などはとうてら久米くめ仙人せんにんむすけている。久米くめ仙人せんにん伝説でんせつ後述こうじゅつ)がフィクションであることはいうまでもなく、創建そうけん正確せいかく事情じじょう不明ふめいだが、ヤマト政権せいけん軍事ぐんじ部門ぶもん担当たんとうしていた部民ぶみん久米くめてらとして創建そうけんされたとするせつ[4]提唱ていしょうされていた[5]。しかし、境内けいだい出土しゅつどしたかわらおな木型きがたつくられたかわら藤原ふじわらみや興福寺こうふくじから出土しゅつどしていることなどから、興福寺こうふくじ前身ぜんしん寺院じいんうまやざかてら比定ひていする学説がくせつ現在げんざいでは有力ゆうりょくである[6]境内けいだいにはひがしとうおおきな礎石そせきのこり、境内けいだいから出土しゅつどするかわら様式ようしきからても創建そうけんは7世紀せいきまつ白鳳はくほう時代じだい)にさかのぼるとおもわれる。

空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)はとうてらひがしとうにおいて真言宗しんごんしゅう根本こんぽん経典きょうてんの1つである『だい日経にっけい』を感得かんとく発見はっけん)したとされている[1]空海くうかい撰文せんぶんした「益田ますだいけ碑銘ひめい并序」(ますだいけひめいならびにじょ)には、「らい精舎しょうじゃ」(くめしょうじゃ)として言及げんきゅうされており、空海くうかいとは関係かんけいがあったとおもわれる。とう留学りゅうがくした空海くうかい大同だいどう2ねん807ねん)に帰国きこくすると、とうてら真言しんごん密教みっきょう宣布せんぷしている。このため、とうてらは「真言宗しんごんしゅう発祥はっしょう」とされ、空海くうかい真言宗しんごんしゅうひら端緒たんしょてらとしてられている[2]

なお、橿原かしはらとなり明日香あすかむら奥山おくやまの「奥山おくやま廃寺はいじあと」はかつては「奥山久米寺おくやまくめでらあと」とばれ、久米寺くめでらの「おくいん」とかんがえられていたが、発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっか、このてらあとは7世紀せいき前半ぜんはん建立こんりゅうされた「しょう墾田こんでんてら」(しょう治田はったてら)のあととみられ、久米寺くめでらとは無関係むかんけいとされている[7]

みなみ隣接りんせつする久米くめけん神社じんじゃは、かつての久米寺くめでら鎮守ちんじゅしゃである。

久米くめ仙人せんにん伝説でんせつ

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久米くめ仙人せんにんによる開基かいき伝承でんしょうは『扶桑ふそう略記りゃっき』『なな大寺おおてら巡礼じゅんれい私記しき』などのほか、『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまきじゅう本朝ほんちょう仏法ぶっぽうにも収録しゅうろくされ、『徒然草つれづれぐさ』にも言及げんきゅうされている著名ちょめいはなしである。それによると、吉野よしのりゅうもんてら久米くめ仙人せんにん仙術せんじゅつそらべるようになったが、あるそらんでいるときかわ洗濯せんたくをしているおんなのふくらはぎにとれて法力ほうりきうしない、地上ちじょうちてしまった[1]久米くめ仙人せんにんはそのおんなとめでたく結婚けっこん。その普通ふつう俗人ぞくじんとしてらしていた。そのとき聖武天皇しょうむてんのう遷都せんとおこなうことになり、俗人ぞくじんもどった久米くめ仙人せんにん遷都せんとのための工事こうじたずさわる労働ろうどうしゃとしてやとわれ、材木ざいもくはこんだりしていた。ある仕事しごと仲間なかまから「おまえ仙人せんにんなら、仙術せんじゅつ使つかって材木ざいもくなど一気いっきはこんでしまったらどうだ」とからかわれた。一念いちねん発起ほっきした久米くめ仙人せんにんは7にち7ばんいのつづけたのちせんりょく回復かいふく久米くめ仙人せんにん仙術せんじゅつで、やまにあった材木ざいもく次々つぎつぎそらがり、新都しんとへとんでった[1]。これをよろこんだ天皇てんのう久米くめ仙人せんにん免田めんだ30まちあたえた[3]。これによっててたのが久米寺くめでらであるというはなしである[1]

境内けいだい

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多宝塔たほうとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい

文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 多宝塔たほうとう

年中ねんじゅう行事ぎょうじ

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  • 久米寺くめでらねり供養くよう(5がつ3にち

前後ぜんご札所ふだしょ

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西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょう
6 しん薬師寺やくしじ - 7 久米寺くめでら - 8 室生寺むろうじ
仏塔ぶっとう古寺ふるでらじゅうはちみこと
8 當麻寺たいまでらいん西南院さいなんいん - 9 久米寺くめでら - 10 浄瑠璃寺じょうるりでら
聖徳太子しょうとくたいしれいあと
31 西教寺さいきょうじ - 32 久米寺くめでら - 33 西方せいほういん
大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう
87 がく安寺あてら - 88 久米寺くめでら - 番外ばんがい 東大寺とうだいじ戒壇かいだんいん
大和やまとななぶくはちたからめぐり寿老人じゅろうじん

アクセス

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j 奈良ならけん高等こうとう学校がっこう教科きょうかとう研究けんきゅうかい歴史れきし部会ぶかい へん奈良ならけん歴史れきし散歩さんぽ 奈良なら南部なんぶ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ歴史れきし散歩さんぽ 29〉、2007ねん、11-12ぺーじISBN 978-4-634-24829-8 
  2. ^ a b 仏塔ぶっとう古寺ふるでらじゅうはち尊霊そんれいじょうかい - だい9ばん れいぜんさん 久米寺くめでら
  3. ^ a b 久米寺くめでら橿原かしはら公式こうしきサイト)
  4. ^ 久米寺くめでら|西国さいこくよんじゅうきゅう薬師くすし霊場れいじょうかい
  5. ^ 福山ふくやま敏男としお奈良ならちょう寺院じいん研究けんきゅう』(こうきり書店しょてん、1948);やぶちゅうひゃくじゅ奈良なら時代じだいける興福寺こうふくじ造営ぞうえいかわら」『南都なんと仏教ぶっきょう』64(南都なんと仏教ぶっきょう研究けんきゅうかい、1990)、17-51 ぺーじ;やぶちゅうひゃくじゅ興福寺こうふくじ前身ぜんしん山階やましなてらうまやざかてらをめぐって」『仏教ぶっきょう芸術げいじゅつ』234 ごう仏教ぶっきょう芸術げいじゅつ研究けんきゅうかい、1997)、117-140 ぺーじ
  6. ^ もり郁夫いくお興福寺こうふくじしきのきまるかわら」『文化財ぶんかざい論叢ろんそう』(奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ、1983)、pp. 571-585 ;山崎やまざき信二しんじ藤原宮ふじわらぐうづくりかわら藤原ふじわらみや時期じき各地かくちみやつこかわら」『文化財ぶんかざい論叢ろんそうⅡ』(奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究けんきゅう、1995)、pp.249-271 ;奥村おくむら茂樹しげき創建そうけん興福寺こうふくじかわら生産せいさん」『かわらころもせんねんもり郁夫いくお先生せんせい還暦かんれき記念きねんろん文集ぶんしゅう―』(もり郁夫いくお先生せんせい還暦かんれき記念きねんろん文集ぶんしゅう刊行かんこうかい、1999)、pp.272-285;吉川よしかわ真司しんじ藤原鎌足ふじわらのかまたり三島みしま別業べつぎょう」『藤原鎌足ふじわらのかまたり阿武山あぶさん古墳こふん 文化財ぶんかざいシンポジウム記録きろくしゅう』(茨木いばらぎ教育きょういく委員いいんかい、2009)、31-37 ;しんせき雅弘まさひろ久米寺くめでらしきのきかわら成立せいりつ展開てんかい」『考古学こうこがく研究けんきゅう』66-2(考古学こうこがく研究けんきゅうかい、2019)、pp.62-82
  7. ^ 木下きのした正史せいし飛鳥あすかまぼろしてら大官大寺だいかんだいじなぞ』(角川書店かどかわしょてん、2005)、pp.121 - 122; もり郁夫いくおいちかわら一説いっせつ』(あわ交社、2014)、pp.64 - 66

外部がいぶリンク

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