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流行りゅうこう

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昭和しょうわ歌謡かようから転送てんそう
流行りゅうこう
RyuuKouka
様式ようしきてき起源きげん
文化ぶんかてき起源きげん 1900年代ねんだい -
日本の旗 日本にっぽん
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炭坑たんこうぶし」(やつテイチクレコード、1950ねん)のSPレコード盤面ばんめんに「流行りゅうこう」の文字もじえる。

流行りゅうこう(りゅうこうか)は、一時期いちじきひろ世間せけん流布るふし、おおくのひとこのまれうたわれたうた

語義ごぎ語源ごげん

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  1. さい広義こうぎには有史ゆうし以来いらい流行りゅうこうしたうたのこと。流行りゅうこうを「流行りゅうこう(はやり)のうた」として概念的がいねんてきとらえた場合ばあいかんがかたで、その系譜けいふ文献ぶんけんじょうでもおよそ平安へいあん時代じだいにまでさかのぼることができる。今様いまようなどがその代表だいひょうれい
  2. 広義こうぎには日本にっぽん大衆たいしゅう歌謡かようのうち、レコード発売はつばいされるようになってから商業しょうぎょうてきに「流行りゅうこう」した独唱どくしょうまたは重唱じゅうしょう楽曲がっきょく。ヒットきょく全般ぜんぱん日本にっぽん国外こくがい大衆たいしゅう歌謡かようについても、同様どうよう傾向けいこうつものはふくまれる。とくかく年代ねんだいかくとし時代じだい世相せそうをまとめ記事きじにした出版しゅっぱんぶつもちいられる。
  3. 狭義きょうぎには日本にっぽん商業しょうぎょう制作せいさくによる大衆たいしゅう歌謡かようのうち、欧米おうべいフォークソングなどあたらしい音楽おんがく流入りゅうにゅうして分野ぶんや多岐たきかれる以前いぜん昭和しょうわ初期しょき~30年代ねんだい初頭しょとうまでの歌曲かきょくのこと。はやりうたとも。

また過去かこ流行りゅうこう言葉ことばとして「なつメロ」(なつめろ)というものがある。

1914ねん大正たいしょう3ねん)、神長かみながあきらがつによるレコード「流行りゅうこうまつこえ」が発売はつばいされる。これを契機けいき流行りゅうこうという言葉ことば使つかわれはじめた[1]

概説がいせつ

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流行りゅうこう日本にっぽんポピュラー音楽おんがく嚆矢こうしをなす存在そんざいである。明治めいじ以降いこう西洋せいよう音楽おんがく浸透しんとうレコード技術ぎじゅつ移入いにゅう、そして大正たいしょう時代じだいから昭和しょうわ初期しょきにかけての大衆たいしゅう文化ぶんか発達はったつともない、庶民しょみん娯楽ごらくとして登場とうじょうした。流行りゅうこうの「流行りゅうこう」とは、それまでの口伝くちづたえによるうた伝播でんぱから飛躍ひやくして、録音ろくおん再生さいせい技術ぎじゅつ定着ていちゃくともにラジオ放送ほうそう開始かいし大正たいしょう14ねん東京とうきょう放送ほうそうきょくほん放送ほうそう~15ねん日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい設立せつりつ)というあたらしいメディア作用さようおおきく影響えいきょうしている。日本にっぽん藤山ふじやま一郎いちろう三波みなみ春夫はるお美空みそらひばり欧米おうべいビング・クロスビー[2]らはとく有名ゆうめい流行りゅうこう歌手かしゅである。

音楽おんがくせい

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ギター使用しようされることもあるが、おもクラシック・ギターである。りも現在げんざいポピュラー音楽おんがくちが一定いってい規則きそくまもっており、そのなか個性こせいすことに作曲さっきょく才能さいのうためされていた。「演歌えんか」と混同こんどうされることもおおいが、音楽おんがくせいはかなりことなる。

制作せいさく

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現在げんざいのように固定こていした1人ひとりプロデューサー制作せいさく集団しゅうだんがいるわけではなく、レコード会社かいしゃの「文芸ぶんげい」とばれる部署ぶしょ制作せいさく指揮しきった。これにこたえて作詞さくし作曲さっきょくきょくつくり、歌手かしゅうたうという体制たいせいであった。なお当時とうじ作詞さくし作曲さっきょく歌手かしゅ地位ちい権利けんり保護ほごする仕組しくみがなかったこともあり、「専属せんぞく契約けいやく」というかたちでレコード会社かいしゃの「社員しゃいん」としてあつかわれていた。このため作詞さくし作曲さっきょく歌手かしゅ移籍いせきするさいには「入社にゅうしゃ」「退社たいしゃ」と表現ひょうげんすることがおおい。

録音ろくおん媒体ばいたい

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すべSPレコードによる。音声おんせい当時とうじまだステレオ録音ろくおんがなかったためモノーラルである。SPレコードの録音ろくおん可能かのう時間じかんが4ふん程度ていどみじかいため、アルバム形式けいしきでの発表はっぴょうはなく、すべてシングルでの発表はっぴょうであった[ちゅう 1]。また両面りょうめん歌手かしゅことなる場合ばあいがほとんどである[ちゅう 2]。ただしわせについてはまった不規則ふきそくというわけではなく、この歌手かしゅうらにはこの歌手かしゅ、という規則きそくせいがある程度ていどっている。

社会しゃかいてき地位ちい

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高峰たかみね秀子ひでこ東海林しょうじ太郎たろう(1936ねん

なお、発表はっぴょうたっては変名へんめい使つかうのが普通ふつうであった。流行りゅうこう地位ちいひくいものであり、うたうことにたい体裁ていさいわるいというおもいがあったためである。新人しんじん歌手かしゅ会社かいしゃちすることがおおかったため、ちが露見ろけんしないようさまざまな名前なまえ使つかうことがおおかった。楠木くすのき繁夫しげお本名ほんみょうの「黒田くろだすすむ」もふくめて55もの名前なまえ使用しようしていた。他方たほう東海林しょうじ太郎たろうのように本名ほんみょううたうケースもあった。

発生はっせい以来いらい庶民しょみん娯楽ごらくとして圧倒的あっとうてき支持しじけ「うたれ、うたれ」ということわざまででき、流行りゅうこうはその時代じだい世相せそううつかんとして、おおくの人々ひとびとあいされくちずさまれた。しかし一方いっぽう音楽おんがく愛好あいこうあいだにはクラシック音楽おんがく至上しじょうとしてかんがえ、大衆たいしゅうなかからまれて流行りゅうこう卑俗ひぞくなものとしてさげす傾向けいこうつよくあり、とき過剰かじょう排斥はいせき誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうおこなわれることもあった。だが、電気でんき吹込ふきこ時代じだい昭和しょうわ流行りゅうこうはクラシック・洋楽ようがくけい演奏えんそうによる歌唱かしょう主流しゅりゅうとなり、当時とうじなかあいだそう娯楽ごらくである歓楽街かんらくがい家庭かていでもけるような流行りゅうこうつくられている。ただし、音楽おんがく学校がっこう出身しゅっしんしゃやオペラ歌手かしゅ流行りゅうこうをレコードに吹込ふきこ時代じだいとはいえ、音楽おんがく学校がっこう卒業そつぎょうまえ流行りゅうこうをレコードに吹込ふきこむことは禁止きんしされた。とく音楽おんがく学校がっこう流行りゅうこうでのアルバイトをきんじ、事実じじつ東京とうきょう音楽おんがく学校がっこうげん東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく音楽学部おんがくがくぶ)にかよっていた藤山ふじやま一郎いちろう一時いちじ活動かつどう休止きゅうし余儀よぎなくされ、そのやからである松平まつだいらあきら同様どうようのアルバイト発覚はっかくにより退学たいがくしている。それ以外いがいにも男女だんじょ自由じゆう恋愛れんあい安易あんい女性じょせいなどをテーマにしたうたもあることから、風紀ふうきじょうこのましくないと意見いけんおおかった。このため学校がっこうなどで児童じどう生徒せいとうたうことは禁止きんしされていた。戦後せんごもその傾向けいこうつづき、昭和しょうわ24ねん(1949ねん)にまだ12さいぎない美空みそらひばりがデビューしたときにも「あんなにおさな少女しょうじょ流行りゅうこううたわせるとは何事なにごとか」という批判ひはんすくなからずあったという。

流行りゅうこうがその価値かち正当せいとうみとめられるようになるのは、流行りゅうこう時代じだいわってから10ねんほどち、テレビが家庭かてい普及ふきゅうして「なつメロ番組ばんぐみ」がまれ、ブームとなって以降いこうのことである。

歴史れきし

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流行りゅうこう歴史れきし戦前せんぜん戦中せんちゅう戦後せんごとおしておよそ30年間ねんかんおよぶが、どこをはじめとしどこをわりとするか、その範囲はんいについてはひとによってせつことなる。

演説えんぜつ

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きん現代げんだい日本にっぽんでの大衆たいしゅう歌謡かよう発祥はっしょうは、明治維新めいじいしん直後ちょくごまでさかのぼることが出来できる。

江戸えど時代じだいふしをつけた瓦版かわらばんり「読売よみうり」の伝統でんとうが、自由じゆう民権みんけん運動うんどう政治せいじ批判ひはん宣伝せんでんもちいられ、演説えんぜつとよばれた。川上かわかみ音二郎おとじろうの「オッペケペーぶし」をきっかけに壮士そうし演歌えんかとして発展はってん社会しゃかい問題もんだいあつかった「ダイナマイトぶし」「東雲しののめぶし」、条約じょうやく改正かいせい問題もんだいの「ノルマントンごう沈没ちんぼつ」、社会しゃかい風刺ふうしの「のんきぶし」、文芸ぶんげいぶつの「不如帰ふじょき」などが添田唖蝉坊そえだあぜんぼうらによってつくられた。

にち戦争せんそう前後ぜんこうから、庶民しょみん心情しんじょうがテーマになり、演歌えんかつやともわれるようになった。これらのうたはすべて自然しぜん発生はっせいてきなもので、「商業しょうぎょうせい」をむねとする昭和しょうわ流行りゅうこう性質せいしつには程遠ほどとおいものであったが、神長かみながあきらがつ演歌えんかばれる人々ひとびとがバイオリンの伴奏ばんそううたって人気にんきあつめ、書生しょせいぶし隆盛りゅうせいによる大衆たいしゅう歌謡かよう基礎きそつくられていった。

流行はやうた

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1930年代ねんだい、30だいころ藤原ふじわら義江よしえ

大正たいしょうには中山なかやま晋平しんぺい西洋せいよう音楽おんがく手法しゅほうげき中歌なかうた流行りゅうこうつくった。「カチューシャのうた」「ゴンドラのうた」などの洋風ようふう旋律せんりつ新鮮しんせんなイメージをあたえ、インテリそうけた。また「船頭せんどう小唄こうた」はヨナ短音階たんおんかいつくられ、昭和しょうわ演歌えんか基本きほんになっている。これらのうたは「流行はやうた」として、演歌えんかたちがうたひろめた。

ヨーロッパのオペラはすでに明治めいじ時代じだいから紹介しょうかいされており、帝劇ていげき歌劇かげき誕生たんじょうしている。どう歌劇かげきからは、はら信子のぶこ清水しみず金太郎きんたろうらがイタリアじん音楽家おんがくかヴィットリオ・ローシーしたでオペラ活動かつどう従事じゅうじした。それが、浅草あさくさオペラとしてはなき、田谷たや力三りきぞう藤原ふじわら義江よしえ声楽せいがくそだった、東京とうきょう浅草あさくさ拠点きょてんにした浅草あさくさオペラが人気にんきあつめた。人々ひとびとは「カルメン」の「闘牛とうぎゅううた」、「リゴレット」の「女心おんなごころうた」などをうたい、演歌えんかもアメリカの軍歌ぐんかから「パイノパイぶし」、インド民謡みんようから「ジンジロゲ」などを創作そうさく陸海りくかいぐん軍楽隊ぐんがくたいや「ジンタ」とばれる宣伝せんでんよう音楽おんがくたい活動かつどうピアノハーモニカ普及ふきゅうなどのうごきで、日本にっぽん海外かいがい音楽おんがく根付ねつ流行りゅうこう母体ぼたいまれていく。1925ねん大正たいしょう14ねん)のラジオ放送ほうそうも、音楽おんがく普及ふきゅうメディアとしておおきな役割やくわりたした。

松井まつい須磨子すまこ

一方いっぽう、1890年代ねんだい録音ろくおん媒体ばいたいとしてレコード技術ぎじゅつ移入いにゅうされ、音楽おんがく録音ろくおんとその発売はつばいという商業しょうぎょう活動かつどうはじまることになったが、それをもってしてもまだ商業しょうぎょうせいじょうじたうたまれなかった。このころのレコードみの内容ないよう講談こうだん落語らくご浪曲ろうきょく邦楽ほうがくなどそもそも音楽おんがく以外いがいのものが圧倒的あっとうてきであったこと、大正たいしょう時代じだいはいると、「流行はやうた」は書生しょせいぶしレコードとして、オリエント、帝国ていこく蓄音器ちくおんきのテイチクとはことなる)ニットーレコードなどから、演歌えんかたちのレコードが発売はつばいされている。また大衆たいしゅう歌謡かようのレコード制作せいさく態度たいどそのものも「あくまで流行りゅうこうしているうたんだだけ」、つまりは演歌えんかたちのうたきつけてレコードにするというもので、レコード会社かいしゃ能動のうどうてきうた企画きかく製作せいさくするわけではなかった。大正たいしょう初期しょき松井まつい須磨子すまこによる「カチューシャのうた」や、鳥取とっとり春陽しゅんようの「かごとり」「船頭せんどう小唄こうた」などは映画えいが主題歌しゅだいかとして商業しょうぎょうてき成功せいこうした例外れいがいてき存在そんざいであった。

この時期じき大衆たいしゅう歌謡かよう流行りゅうこう区別くべつして「流行はやうた」「はやりうた」とぶことがおおい。

「レコード歌謡かよう

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流行はやうた」から、流行りゅうこうへの移行いこう胎動たいどうられはじめるのは、昭和しょうわ3ねん(1928ねん)のことである。日本にほんビクター日本にほんコロムビアなど外資がいしけいレコード産業さんぎょう成立せいりつによって、マイクロフォン使用しようした電気でんき吹込ふきこみによるレコード歌謡かよう誕生たんじょうした。大正たいしょう時代じだい書生しょせいぶし流行はやうたことなり、レコード会社かいしゃ企画きかく製作せいさく宣伝せんでんによって大衆たいしゅう選択せんたくさせる仕組しくみがまれた。そのなか浅草あさくさオペラ出身しゅっしん二村にむら定一さだいち流行りゅうこうへの先鞭せんべんけた。二村にむらげい一部いちぶとしてうたもちい、大正たいしょう末期まっきからジャズ・ソングをニッポノホンで吹込ふきこみ、そのにナンセンスなコミックソングをおおうたっていたが、昭和しょうわ3ねんしたジャズ(現在げんざいイージーリスニングにあたる軽音楽けいおんがく総称そうしょう)に日本語にほんごをつけた「あおぞら」「アラビヤのうた」のヒットにより、井田いだ一郎いちろうのバンドでジャズ歌手かしゅとしての活動かつどう開始かいしする。

一方いっぽう声楽せいがくであった佐藤さとう千夜子ちやこは、ビクターで昭和しょうわ3ねん発売はつばいの「なみ浮のみなと」を吹込ふきこ本格ほんかくてき流行りゅうこう歌手かしゅとして登場とうじょうした。藤原ふじわら義江よしえ米国べいこくビクターで吹込ふきこんだあかばんあわせてかなりのレコードげをしめした。昭和しょうわ4ねん(1929ねん)に「東京とうきょう行進曲こうしんきょく」をヒットさせ歌謡かようかい女王じょおうとして「日本にっぽん最初さいしょのレコード歌手かしゅ」の栄誉えいよにすることになる。彼女かのじょ昭和しょうわ流行りゅうこう嚆矢こうしとするせつがあるゆえんである。

中山なかやま晋平しんぺい

それまで歌手かしゅといえば書生しょせいぶし街頭がいとう演歌えんかであり、洋楽ようがくけい歌手かしゅ登場とうじょう昭和しょうわあたらしい流行りゅうこう歌手かしゅ誕生たんじょうでもあった。しかしおおくの歌手かしゅ母音ぼいんひびきだけのビブラートを使つかってこえげてうたうことがおおく、当時とうじ録音ろくおん技術ぎじゅつ未熟みじゅくさもあいまって歌唱かしょう不明瞭ふめいりょうになってしまっていた。佐藤さとう千夜子ちやこはオペラ調ちょう二村にむら日本語にほんご明瞭めいりょうであり、二人ふたり歌唱かしょう非常ひじょう画期的かっきてきであった。のちむら舞台ぶたい専念せんねん佐藤さとうはイタリアへ留学りゅうがくしてそれぞれ流行りゅうこう世界せかいからいてしまう。しかしその佐藤さとう千夜子ちやこ刺激しげきけ、声楽せいがく流行りゅうこうやレコード歌謡かよう進出しんしゅつするなど、のこした影響えいきょうおおきかった。2人ふたりのレコードを制作せいさくしていたビクターは、作曲さっきょく中山なかやま晋平しんぺい佐々ささくれないはな作詞さくしには時雨しぐれ音羽おとわ堀内ほりうち敬三けいぞうようし、他社たしゃさえておおきく躍進やくしんした。

流行りゅうこう発生はっせい以後いご、レコード会社かいしゃ乱立らんりつした。しかしおおくは零細れいさい会社かいしゃであった。メジャーレーベル以外いがい会社かいしゃマイナーレーベルぶ。マイナーレーベルのなかにはのスター歌手かしゅだいとして使つかわれたものもあったが、おおくは無名むめい人物じんぶつうたつづけ、すうねんつぶれることもおおかった。ひどい場合ばあいには大手おおてレコード会社かいしゃばんから無理矢理むりやりかたって偽物にせもの海賊版かいぞくばんつくるものもあった。テイチクももとはマイナーレーベルであったが、古賀こが政男まさお藤山ふじやま一郎いちろういたことで一気いっき大手おおてにのしがった。

また、戦前せんぜんにはレコードてん以外いがい夜店よみせ流行りゅうこうのレコードがられることがあった。そのおおくはマイナーレーベルのもので、その非常ひじょうかるあつかいは当時とうじ流行りゅうこう地位ちいひくさを象徴しょうちょうてきしめ事象じしょうともいえる。なお霧島きりしまのぼるはこの夜店よみせ販売はんばいのレコードにんだうたがコロムビアの社員しゃいん注目ちゅうもくされ、メジャーデビューした。

初期しょき流行りゅうこうでは、しばしば以前いぜんのヒットきょくを「廉価れんかばん」「普及ふきゅうばん」「大衆たいしゅうばん」としょうして再発さいはつすることがあった。おおくはばんのカップリングをえる程度ていどであったが、まだ零細れいさい会社かいしゃであったころのテイチクは、松平まつだいらあきらがコロムビアでメジャーデビューした直後ちょくご過去かこ松平まつだいら不二夫ふじお名義めいぎ自社じしゃしたきょく曲名きょくめい変更へんこうしたうえ松平まつだいらあきら名義めいぎ再発さいはつするという大胆だいたん行動こうどうたことがある。

佐藤さとうのヒットから2ねん昭和しょうわ6ねん(1931ねん)、コロムビア流行りゅうこう制作せいさくたずさわっていた古賀こが政男まさおは、東京とうきょう音楽おんがく学校がっこうげん東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく音楽おんがく)の学生がくせい藤山ふじやま一郎いちろう[ちゅう 3]んで「さけなみだ溜息ためいきか」を発表はっぴょうした。ごくみじかうたであったが、それまでの大衆たいしゅう歌謡かようまったことなる音楽おんがくせい、そして電気でんきマイクの特質とくしつ利用りようした「クルーン唱法」による情感じょうかんあふれる歌唱かしょう人々ひとびと魅了みりょうされ、どうきょくおおきなヒットをばした。声楽せいがく技術ぎじゅつ正統せいとう解釈かいしゃくによる歌唱かしょう日本語にほんご質感しつかんたかめ、古賀こが政男まさおのギターきょく魅力みりょくひろめることになった。なお、古賀こが政男まさお古関こせき中山なかやま晋平しんぺい山田やまだ耕作こうさくらは軍歌ぐんか多数たすういている。

これがきっかけとなり、同様どうよう手法しゅほうによるうたかくレコード会社かいしゃ制作せいさくされるようになり、歌手かしゅ次々つぎつぎとデビューした。当初とうしょ流行りゅうこう小唄こうた」とわれたが、やがて「流行りゅうこう」の名称めいしょう定着ていちゃく世間せけんしばたあいだひろがることとなった。

淡谷あわやのり

初期しょきころ新興しんこう分野ぶんやということもありレコード会社かいしゃ勢力せいりょく歌手かしゅ人気にんきもはっきりしなかったが、昭和しょうわ6ねん古賀こがメロディーのヒットから昭和しょうわ11ねんごろになると大体だいたい勢力せいりょく範囲はんいまりはじめ、コロムビアテイチクポリドールの3しゃおおきな勢力せいりょくであった。

ビクターキングがあった。ビクターはかつて主力しゅりょくとしていた作曲さっきょく中山なかやま晋平しんぺい流行りゅうこうきでなかったために時流じりゅうおくれ、また昭和しょうわ8ねん(1933ねん)ビクターに入社にゅうしゃした藤山ふじやま一郎いちろう流行りゅうこううたうが本名ほんみょう増永ますなが丈夫たけおでクラシックをうた関係かんけいじょう本格ほんかくてきでなく、徳山とくやまよんいえ文子ふみこらもクラシックの声楽せいがくとしての活動かつどう主体しゅたいであり、「なみだわたどり」「しまむすめ」「無情むじょうゆめ」を作曲さっきょくした佐々木ささき俊一しゅんいち台頭たいとう日本にっぽん調ちょう小唄こうた勝太郎かつたろうらがビクターをささえていた。昭和しょうわ15ねん以後いごはいでん勝彦かつひこ人気にんき全国ぜんこくてきとなり、戦前せんぜんのビクターの看板かんばん歌手かしゅ代表だいひょうした。

キングはすで流行りゅうこう歌手かしゅとして実績じっせきっていた東海林しょうじ太郎たろう専属せんぞく契約けいやくをしたものの、ポリドールにしたさいに「赤城あかぎ子守こもりうた」でヒットをばされ、そのままポリドールとじゅう契約けいやくみとめざるをなくなったばかりか、相手方あいてがたでばかりヒットをばされるというい、結局けっきょく戦前せんぜん中堅ちゅうけん以上いじょうになれないままわった。

また、流行りゅうこう作詞さくし作曲さっきょく専門せんもんとする作詞さくし作曲さっきょく多数たすう出現しゅつげんした。作曲さっきょくでは古賀こが政男まさお江口えぐちよる古関こせきひろし服部はっとり良一りょういちらを筆頭ひっとうに、竹岡たけおか信幸のぶゆき阿部あべ武雄たけおなどが、作詞さくしでは西條さいじょう八十やそ佐藤さとう惣之助そうのすけ筆頭ひっとうに、サトウ・ハチロー藤田ふじたまさとらが活躍かつやくした。

流行りゅうこう庶民しょみん生活せいかつかたちでその制作せいさくすうつづけた。当時とうじだいいち娯楽ごらくであった映画えいがとリンクしたことが、普及ふきゅうおおいに役立やくだつことになった。「沓掛くつかけ小唄こうた」・「たびよるふう」などの主題歌しゅだいか、さらに映画えいが俳優はいゆうによるうたみや人気にんき歌手かしゅ映画えいが出演しゅつえん、「ひゃくまんにん合唱がっしょう」「うらまち交響樂こうきょうがく」「鴛鴦えんおう歌合戦うたがっせん」などの音楽おんがく映画えいが制作せいさく好例こうれいである。

また「赤城あかぎ子守こもりうた」・「つまこい道中どうちゅう」・「裏町うらまち人生じんせい」などの正統せいとう演歌えんかおおつくられ現在げんざいうたがれているきょくおおい。さらに「天国てんごくむすこい」・「肉弾にくだんさん勇士ゆうし」などの時事じじ問題もんだい、「ハイキングのうた」・「なみ浮のみなと」・「スキーのうた」などピクニックブームや大島おおしまブーム、スキーブームといった流行りゅうこうれた作品さくひん発表はっぴょうされた。

祇園ぎおん小唄こうた」・「ちゃきりぶし」・「東京とうきょう音頭おんど」といった「しん民謡みんよう」というかたち地方ちほう風物ふうぶつうたったり、ときには小唄こうた勝太郎かつたろう市丸いちまるやつ新橋しんばし喜代三きよぞうなど芸者げいしゃ歌手かしゅとして起用きようして(芸者げいしゃ歌手かしゅ)、「しまむすめ」「明治めいじいちだいおんな」を代表だいひょうさくとする邦楽ほうがく要素ようそつよったきょくした。また、ディックミネ・淡谷あわやのりらによる「ダイナ」・「さけみたい」・「わかれのブルース」など欧米おうべいのポピュラー音楽おんがくをベースにした作品さくひんは、戦後せんご笠置かさぎシヅ子しづこ江利えりチエミ雪村ゆきむらいづみらにがれポップス歌謡かよう源流げんりゅうした。

戦争せんそう時代じだい

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時代じだい満州まんしゅう事変じへんからにちちゅう戦争せんそうへと軍国ぐんこく主義しゅぎすすむと、それに呼応こおうして、当時とうじ新天地しんてんち」とされた満州まんしゅう中国ちゅうごく大陸たいりくへのあこがれを「上海しゃんはいはなうりむすめ」・「満州まんしゅうむすめ」など「大陸たいりく歌謡かよう」といういちジャンルに仕立したてげたりと、さまざまな側面そくめんからその世界せかい拡大かくだいし、各々おのおの個性こせいきそったのである。

戦前せんぜんにおける最盛さいせい

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二葉ふたばあき

流行りゅうこう繁栄はんえいともない、新人しんじん歌手かしゅ起用きよう次第しだい増加ぞうかしてきた。とく昭和しょうわ10ねん(1935ねん以降いこう、それまでのスターダムにつづ歌手かしゅ相次あいついで起用きようされ、「だい世代せだい」とでもぶべき一団いちだんつくした。この時期じき藤山ふじやま一郎いちろう東海林しょうじ太郎たろう頂点ちょうてんにし、ディック・ミネ伊藤いとう久男ひさおはいでん勝彦かつひこ霧島きりしまのぼる淡谷あわやのり渡辺わたなべはま二葉ふたばあきらが外国がいこくポピュラーソング、映画えいが主題歌しゅだいか軍国ぐんこく歌謡かようなどをうたってヒットをばした。

デビューした歌手かしゅとしてコロムビア霧島きりしまのぼるポリドール上原うえはらさとし田端たばた義夫よしおキングおか晴夫はるおなどがいる。この時代じだいから登場とうじょうする歌手かしゅは、音楽おんがく学校がっこう出身しゅっしんしゃおおかった時代じだい、それとは無縁むえんなところからてきたことになる。これが演歌えんかけい歌謡かようきょく歌手かしゅ基本きほんとなる。かれらはクラシック・洋楽ようがくけい先輩せんぱい歌手かしゅたちと共存きょうぞん、もしくは先輩せんぱい歌手かしゅにとってわり、流行りゅうこう戦前せんぜんにおける最盛さいせいてることに貢献こうけんした。

この時期じきの3しゃ陣容じんよう以下いかしめす。

このとき戦前せんぜんもっと流行りゅうこうさかえた時期じきであった。政治せいじてきにはにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ治安ちあん維持いじほう制定せいてい検閲けんえつ基準きじゅん改訂かいていはじめとする国民こくみん統制とうせい強化きょうかなどくら話題わだい相次あいついでいるが、社会しゃかい自体じたいにはまだ余裕よゆうがあり、庶民しょみんはなやかな生活せいかつ謳歌おうかすることが出来できた。

戦時せんじ歌謡かよう軍国ぐんこく歌謡かよう

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戦争せんそうかげ否応いやおうなく流行りゅうこう世界せかいにもかげとしはじめた。軍歌ぐんか兵士へいし鼓舞こぶさせるために軍隊ぐんたいつくったものや兵士へいしあいだうたわれたものをさす。軍国ぐんこく歌謡かよう新聞しんぶんしゃやレコード会社かいしゃ企画きかくし、戦時せんじ体制たいせいなどのプロパガンダうたい、国民こくみん戦意せんい高揚こうようはかったものである。戦時せんじ歌謡かようは、戦争せんそう時期じき流行りゅうこう軍国ぐんこく歌謡かようわせた意味いみをもつジャンルの名称めいしょうである。1932ねん昭和しょうわ7ねん)のばくだんさん勇士ゆうしけん先駆せんくとする。

1936ねん6がつ1にち国民こくみん歌謡かよう」がNHKで開始かいしされた。人気にんききょくはレコードされてだいヒットし、「あさ」「椰子やし」「はるうた」など今日きょう愛唱あいしょうされている作品さくひんがあるが、「愛国あいこくはな」・「隣組となりぐみうた」「めんこい仔馬こうま」「国民こくみん進軍しんぐん」などあきらかにプロパガンダてき要素ようそつよ作品さくひんおおかった。

1936ねん当時とうじ日本にほんビクター顧問こもんだった長田ながた幹彦みきひこは、「ああいった所謂いわゆる健全けんぜん流行りゅうこうなんじゅうまんなんひゃくまんとなくプレスして市場いちばおくしているが,いずれも返品へんぴんとなって倉庫そうこ逆流ぎゃくりゅうしてきて,いまではあまされている状態じょうたい」とべている[3]

昭和しょうわ12ねん(1937ねん)の「露営ろえいうた」の成功せいこうともない、このような戦争せんそう賛美さんび国威こくい発揚はつよう目的もくてきとしたうた徐々じょじょえ、流行りゅうこう音楽おんがく世界せかい蚕食さんしょくはじめた。「わすれちゃいやよ」・「裏町うらまち人生じんせい」などのヒットきょく発売はつばい禁止きんしになり統制とうせいきびしくなった。昭和しょうわ15ねんの「皇紀こうきせんろくひゃくねん記念きねん」によるくにげた記念きねん事業じぎょうも、それに拍車はくしゃをかけ、人気にんき歌手かしゅ戦地せんち慰問いもんくことがおおくなった。しかし、開戦かいせんまえまでは上原うえはらさとしの「上海しゃんはいだより」「こえなき凱旋がいせん」・近衛このえ八郎はちろうの「ああ戦友せんゆう」・おとまるの「皇国こうこくはは」など兵士へいし望郷ぼうきょうねん戦友せんゆうへのおもい、留守るす家族かぞく気持きもちをうたった叙情じょじょうてききょくおおかった。またしおまさるの「きゅうだんはは」のように、一見いっけんすると戦時せんじ体制たいせいたたえする内容ないようであるがじつちがう、というギミックがはいっているうたもあった[ちゅう 4]。これらの戦時せんじ歌謡かようはほとんどの場合ばあい流行りゅうこう共通きょうつう作詞さくし作曲さっきょくによってつくられたが、いさましい作風さくふう作曲さっきょくえらばれ、古関こせきひろし江口えぐちよる代表だいひょうかくとなった。一方いっぽう服部はっとり良一りょういちのようにモダンな作風さくふう作曲さっきょく不遇ふぐうであった。

軍国ぐんこく歌謡かようがそうでない歌謡かようたいして決定的けっていてき優勢ゆうせいになったのが、昭和しょうわ16ねん(1941ねん)の太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつである。これにより国内こくない戦争せんそう一色いっしょく状態じょうたいとなり、流行りゅうこう戦時せんじ歌謡かよう一色いっしょくとなって、叙情じょじょうてき戦時せんじ歌謡かようは「女々めめしい」と歌唱かしょう禁止きんしされ、その統制とうせい対象たいしょう明治めいじ時代じだいつくられた軍歌ぐんかにまでおよぶこともあった。高峰たかみね三枝子みえこの「湖畔こはん宿やど」などの抒情じょじょうが「女々めめしい」と発禁はっきん処分しょぶんになる状況じょうきょうとなった[ちゅう 5]流行りゅうこう世界せかいに「前線ぜんせんたたかい」と「銃後じゅうごまもり」、そしてプロパガンダをさけうたばかりがあふれた。昭和しょうわ18ねん(1943ねんごろになると、戦況せんきょうきびしさに比例ひれいして戦時せんじ歌謡かよう凄惨せいさん内容ないようのものにわってく。「新雪しんせつ」「高原こうげんつき」「勘太郎かんたろう月夜づきようた」などがわずかながらもつくられた。

戦時せんじ歌謡かよう軍歌ぐんかちが

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戦時せんじ歌謡かようは「軍歌ぐんか」と混同こんどうされることがおおいが、軍歌ぐんかぐん作成さくせいした歌曲かきょくなので、商業しょうぎょうてきぐん外部がいぶ民間みんかんつくられた戦時せんじ歌謡かようとは楽曲がっきょくとしても性格せいかくことなる。戦後せんご歌手かしゅ東海林しょうじ太郎たろう自分じぶんきょくむぎ兵隊へいたい」が「軍歌ぐんかばわりされるのをきらい「あれは戦時せんじ歌謡かよう軍歌ぐんかではない」とコメントしている。

大陸たいりく歌謡かよう

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大陸たいりく歌謡かようとは、日本にっぽん戦争せんそうちゅう直接ちょくせつもしくは間接かんせつてき占領せんりょうした満州まんしゅう上海しゃんはいなど中国ちゅうごく大陸たいりく舞台ぶたいにしたうたで、地名ちめい文物ぶんぶつまじえながら、新天地しんてんちもとめてさすらう旅人たびびと哀愁あいしゅう望郷ぼうきょうねん、また男女だんじょわかれや慕情ぼじょううたった叙情じょじょうである。舞台ぶたいから「満州まんしゅうぶつ」「上海しゃんはいぶつ」、この分野ぶんやてた松平まつだいらあきらの「いそほろ馬車ばしゃ」の影響えいきょうでよくほろ馬車ばしゃがアイテムとして使つかわれたため「ほろ馬車ばしゃぶつ」ともばれる。この大陸たいりく歌謡かよう戦時せんじ歌謡かようちがって戦争せんそうかんする明確めいかく描写びょうしゃ存在そんざいせず、舞台ぶたい日本にっぽん占領せんりょうであるというだけで本質ほんしつてきには純粋じゅんすいじょ情歌じょうか恋愛れんあいである。昭和しょうわ9ねん(1934ねん)の発生はっせいから一定いっていかずたもって大陸たいりく歌謡かようは、開戦かいせん戦時せんじ歌謡かよう優勢ゆうせいとなる16ねん前後ぜんこうから急激きゅうげきかずらし、敗戦はいせんたずに消滅しょうめつした。

大陸たいりく歌謡かよう叙情じょじょうは、戦後せんご発生はっせいした演歌えんかおおきな主題しゅだいひとつである「きたへのさすらい」の原形げんけいであるともわれる。

レコード会社かいしゃ状況じょうきょう

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戦争せんそう末期まっきにはレコード産業さんぎょう自体じたいにも統制とうせいおよび、敵性てきせい追放ついほうしたにレーベルめい社名しゃめい強制きょうせい変更へんこうされたり(「コロムビア」→「ニッチク」、「キングレコード」→「富士ふじ音盤おんばん」など)、強制きょうせい合併がっぺいさせられたり、さらには「不要ふよう不急ふきゅう産業さんぎょう」として工場こうじょう無理矢理むりやり軍需ぐんじゅ工場こうじょう転換てんかんされたりし、企業きぎょう活動かつどう出来できなくなった。昭和しょうわ19ねん(1944ねん)には「月夜つきよせん以外いがい流行りゅうこう発表はっぴょうされなくなり、このとしの7がつには人気にんき歌手かしゅであった上原うえはらさとしがニューギニアで戦没せんぼつした。昭和しょうわ20(1945ねん)の東京とうきょうだい空襲くうしゅうによって東京とうきょう壊滅かいめつてき打撃だげきけると、4がつ新譜しんぷをもってレコードの製造せいぞう停止ていしし、完全かんぜん休眠きゅうみん状態じょうたいになった。

戦後せんご歴史れきし

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藤山ふじやま一郎いちろう

敗戦はいせん日本にっぽんのレコード業界ぎょうかいは、さっそく各地かくち従軍じゅうぐん疎開そかいしていた歌手かしゅ作曲さっきょく作詞さくしもどはじめ、翌年よくねんからはやくも活動かつどう再開さいかいした。このとき、レコード会社かいしゃ新人しんじん歌手かしゅ開拓かいたく腐心ふしんし、デビューしたのが美空みそらひばり並木なみき路子みちこなど「だいさん世代せだい」とでもぶべき歌手かしゅである。とく並木なみき霧島きりしまのぼるがデュエットした「リンゴのうた」は戦後せんご解放かいほうてき雰囲気ふんいき謳歌おうかするきょくとして有名ゆうめいである。

だがこのことが、戦前せんぜんからの歌手かしゅにとっては明暗めいあんけることになった。とくにあおりをおおきくけたのが初期しょき歌手かしゅである。昭和しょうわいちけた時代じだいからうたつづけているかれらは、ふるいイメージから脱却だっきゃくしようとするレコード会社かいしゃ意向いこうにそぐわない存在そんざいであった。このため自然しぜん飯食めしくいの待遇たいぐうとなり、おおくの歌手かしゅ引退いんたい余儀よぎなくされた。移籍いせきして活動かつどうつづけるものもあったが、戦前せんぜんのようなヒットがばせずくるしむことがおおかった。戦後せんごわらずヒットをばすことが出来できたのは藤山ふじやま一郎いちろうなどごくわずかな歌手かしゅのみである。一方いっぽうだい世代せだい昭和しょうわ10年代ねんだい中盤ちゅうばんデビューの歌手かしゅらは、まだわかく、しん時代じだいでも活躍かつやくした。

また、レコード会社かいしゃ陣容じんよう変化へんかした。コロムビア・テイチクのつよさはわらなかったが、ポリドールが東海林しょうじ太郎たろう移籍いせき上原うえはらさとし戦病死せんびょうしによりおおきなはしらうしな沈下ちんかしてしまう。わりにおか晴夫はるおなどだい世代せだい歌手かしゅおおようしていたキングが台頭たいとうはじめた。この時期じきの3しゃ陣容じんよう以下いかとおりである。

この新旧しんきゅうしょうざった状態じょうたい昭和しょうわ20年代ねんだい中頃なかごろまでつづき、そのなか藤山ふじやま一郎いちろう奈良なら光枝みつえのデュエットによる「あお山脈さんみゃく」など、戦後せんご流行りゅうこう数多かずおおまれた。

終戦しゅうせん直後ちょくご混乱こんらんに、各社かくしゃ戦前せんぜんきょく戦時せんじしょくのないものが再発さいはつされた。戦争せんそう直後ちょくご混乱こんらんしていたのか、松山まつやま時夫ときおの「片瀬かたせなみ」をあやまって松平まつだいらあきらきょくとして再発さいはつし、後世こうせいファンを混乱こんらんさせることもあった[ちゅう 6]

おか晴夫はるお

次第しだいわか戦後せんご勢力せいりょくし、音楽おんがくせい戦後せんごあかるさを強調きょうちょうする目的もくてきから戦前せんぜんとはちが発展はってんはじめた。これに戸惑とまどったのが戦前せんぜん歌手かしゅである。かれらのおおくは昭和しょうわ28ねん(1953ねん)をぎるころからヒットがにくくなってきた。とく流行りゅうこうかい衝撃しょうげきあたえたのが、藤山ふじやま一郎いちろうのレコード専属せんぞく歌手かしゅとしての引退いんたい宣言せんげんである。

初期しょき歌手かしゅなか最前線さいぜんせんっていた藤山ふじやまも、昭和しょうわ28ねん以降いこうヒットがづらくなっていた。さらにかれ自身じしんいま流行りゅうこうかい現状げんじょうつよ不信ふしんかんをおぼえ「いまうたはパチンコ・ソングがおおい」と批判ひはんしていた。藤山ふじやま昭和しょうわ29ねん(1954ねん)に引退いんたい決意けついし、23年間ねんかんのレコード専属せんぞく歌手かしゅ生活せいかつ終止符しゅうしふった[ちゅう 7]以降いこう本来ほんらい西洋せいよう古典こてん音楽おんがくもどり、NHK音楽おんがく放送ほうそうつうじてクラシック歌曲かきょく、ホームソング、家庭かてい歌謡かよう普及ふきゅうつとめた。また、紅白こうはく歌合戦うたがっせんでは東京放送とうきょうほうそう管弦楽かんげんがくだん指揮しきしゃとして出場しゅつじょうし、しゃ校歌こうかなどの作曲さっきょく手掛てがけ、指揮しきしゃ作曲さっきょくとしても活躍かつやくした。

こうして戦前せんぜん歌手かしゅ昭和しょうわ30年代ねんだいなかばまで紅白こうはく歌合戦うたがっせん出場しゅつじょうしていたとはいえ、ヒットのおもて舞台ぶたいからほぼり、流行りゅうこうかい演歌えんかけい歌手かしゅ戦後せんご天下てんかとなった。

戦争せんそう体験たいけん歌謡かよう

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戦時せんじ歌謡かよう戦後せんごシベリア抑留よくりゅう境遇きょうぐう生還せいかんおもいを現地げんちうたった「異国いこくおか」やシベリア抑留よくりゅうからの復員ふくいんよろこびをえがいた「ハバロフスク小唄こうた[ちゅう 8]異国いこく戦犯せんぱん裁判さいばん悲劇ひげきうたった「ああモンテンルパのよるけて」、せんうたった「かえりせん」などがある。また、インドネシア大衆たいしゅう歌謡かようブンガワンソロ」が戦後せんご藤山ふじやま一郎いちろう松田まつだトシによってうたわれるなど、日本にっぽんぐん占領せんりょううた輸入ゆにゅうされた。

戦後せんご戦時せんじ歌謡かよう作詞さくし作曲さっきょくなかには戦争せんそう賛美さんび加担かたんしたことを「戦犯せんぱん」といわれ、また自身じしんでもい、罪悪ざいあくかんにさいなまれたものすくなくない。古関こせきひろし大戦たいせん末期まっき作曲さっきょくした『比島ひじま決戦けっせんうた』について「わたしにとっていやなうたで、終戦しゅうせん戦犯せんぱんだなどとさわがれた。いまさら歌詞かし楽譜がくふもさがすになれないし、まぼろし戦時せんじ歌謡かようとしてソッとしてある。」と証言しょうげんしている[4]

戦後せんご音楽おんがく変容へんよう

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戦前せんぜん撤退てったい横目よこめに、新人しんじん歌手かしゅ開拓かいたくつづいていた。ビクターは鶴田つるた浩二こうじ三浦みうらこういち、テイチクは三波みなみ春夫はるお、コロムビアは島倉しまくら千代子ちよこ村田むらた英雄ひでおがそれぞれデビュー。とくキング昭和しょうわ20年代ねんだいまつから30年代ねんだいにかけて、春日かすが八郎はちろう三橋みつはしよし智也ともやをデビューさせ、戦前せんぜんとはくらものにならないいきおいをほこった。また石原いしはら裕次郎ゆうじろうザ・ピーナッツなど、あたらしいタイプの歌手かしゅ次々つぎつぎ登場とうじょうした。とくに、ザ・ピーナッツは当時とうじ日本にっぽんにおける洋楽ようがくのカバーと発展はってんしつつあった演歌えんかというふたつのながれのなか当時とうじ斬新ざんしんであった和製わせいポップスみ、以後いご日本にっぽん歌謡かようにおけるジャンルへの契機けいきともなった。

このように戦後せんご天下てんか状況じょうきょうとなったことにより、流行りゅうこう変容へんよう昭和しょうわ35ねん(1960ねん)をさかい流行りゅうこう音楽おんがくせいおおきく変容へんようした。器楽きがくてき部分ぶぶんはなりをひそめ、のちの「演歌えんか」や「歌謡かようきょく」につうじるようなきょくおおまれた。このため、この時期じきの「だいよん世代せだい」ともいうべき歌手かしゅを「流行りゅうこう歌手かしゅ」としてみとめない意見いけんおおい。

演歌えんかとの分裂ぶんれつ

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昭和しょうわ38ねん(1963ねん)、コロムビアいちレーベルであったクラウンが「日本にほんクラウン」として分離ぶんり独立どくりつし「演歌えんか」を専門せんもんとするようになる。流行りゅうこうと「演歌えんか」が分裂ぶんれつした。

LPレコード

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またその前年ぜんねん昭和しょうわ37ねん(1962ねん)にはSPレコード生産せいさんられた。昭和しょうわ30年代ねんだいはいって急激きゅうげき生産せいさんりょうえたLPレコードにSPレコードは圧倒あっとうされていたが、ここにいたってついに駆逐くちくされるにいたった。現象げんしょうとしては新旧しんきゅう技術ぎじゅつ交替こうたいであり偶然ぐうぜん時期じき一致いっちしたにすぎないが、SPレコードはながらく流行りゅうこうになであっただけに、流行りゅうこう命脈めいみゃくきかけていることを暗示あんじする出来事できごととなった。

終焉しゅうえんとその

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同時どうじ進行しんこうてきえいべいからフォークソングザ・ビートルズといったあたらしい音楽おんがく大量たいりょう流入りゅうにゅうし、ビートルズなどに影響えいきょうけたグループ・サウンズなどもまれ、日本にっぽん音楽おんがくかい一気いっき多様たようすることになる。こうなるともはや日本にっぽん大衆たいしゅう音楽おんがくはジャンルとしてひとくくりに出来できるものではなくなり、音楽おんがくジャンルとしての「流行りゅうこう」は1960年代ねんだいはじめをもって事実じじつじょう終焉しゅうえんむかえた。その流行りゅうこうにたずさわった歌手かしゅ作詞さくし作曲さっきょくたちは、演歌えんか歌手かしゅ転向てんこうしたり歌謡かようきょくちが分野ぶんや転身てんしんしたりとりになり、やがて多様たようする音楽おんがく分野ぶんやなみなか埋没まいぼつしてった。

1960年代ねんだいにデビューした弘田ひろた三枝子みえこがザ・ピーナッツの和製わせいポップスにつづいてリズム・アンド・ブルースのジャンルを日本にっぽんみ、日本にっぽん歌謡かようかいにおける楽曲がっきょくジャンルのジャンル拍車はくしゃかった。流行りゅうこう歌手かしゅ出身しゅっしん演歌えんか歌手かしゅてきなスタンスをとっていた美空みそらひばりも1989ねん死去しきょし、以後いご1990年代ねんだいJ-POPやラップなどのジャンルが誕生たんじょうするなど、現在げんざいいたるまで日本にっぽん楽曲がっきょく多種たしゅ多彩たさいなジャンルがまれている。

音源おんげん復刻ふっこく

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流行りゅうこうではSPばん直接ちょくせつ以外いがいに「音源おんげん復刻ふっこく」のかたち音源おんげんくことが出来できる。SPばん骨董こっとうひん高価こうかであるうえ普通ふつうのレコードプレーヤではくことが出来できないため、LP・EPばん、またはCDが普及ふきゅうした現状げんじょうにあって「復刻ふっこく」のかたち媒体ばいたい変換へんかんすることがもとめられている。CD全盛期ぜんせいき現在げんざいにおいてLP・EPばん媒体ばいたい変換へんかんしてCDするのとおな感覚かんかくであるが、これにたいし「こう音域おんいきがカットされてあじがない」との批判ひはんがあるように、SPばんからの変換へんかんにも「ディレイをかけすぎている」などの批判ひはんすくなからずある。

各社かくしゃ復刻ふっこくじょうきょう

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音源おんげん復刻ふっこくかんしては現存げんそんするどのレコード会社かいしゃおこなっているが、その状況じょうきょうについては会社かいしゃによっておおきくことなる。

年代ねんだいべつ

  • 昭和しょうわ40年代ねんだい
だいいちなつメロブームの時期じきでもあり、またレコード購入こうにゅうそう当時とうじ“リアルタイム”だった世代せだいでもある。ステレオ音源おんげんせたいわゆる疑似ぎじステレオされたものがおおく、歴史れきし資料しりょうてきにみるとおとみにくいものが大半たいはんである。また、復刻ふっこくされたきょくはヒットきょくがメインである。
  • 昭和しょうわ50年代ねんだい
昭和しょうわ初期しょき創業そうぎょうした各社かくしゃ創業そうぎょう50周年しゅうねん節目ふしめむかえ、歴史れきしてき資料しりょう(ノン・ヒットきょくおお収録しゅうろく)としての復刻ふっこくをしたものが各社かくしゃから発売はつばいされた。とくにコロムビアから発売はつばいされた30まいぐみがレコード大賞たいしょう特別とくべつしょう受賞じゅしょうした。にビクターから戦前せんぜん10まい戦後せんご8まい(のちさらに30まいぐみ)、ポリドールから戦前せんぜん戦後せんごそれぞれ10まいぐみ、キングから25まいぐみ、テイチクから10まいぐみ、ニットー・タイヘイ・マーキュリーから24まいぐみ通販つうはんのみ、元々もともと25まいぐみだったが最後さいごの1まい諸般しょはん理由りゆうによりカット)とものとして発売はつばいされている
  • 昭和しょうわ60年代ねんだい平成へいせい初期しょき
21世紀せいきむかえさらに20世紀せいき遺産いさんとしての位置いちづけで復刻ふっこくのものを中心ちゅうしんにCDとして発売はつばいされている。

レコード会社かいしゃべつ

  • コロムビアは、もっと積極せっきょくてき復刻ふっこくおこなっている。昭和しょうわ30年代ねんだいすで復刻ふっこくおこなった実績じっせきがあり、昭和しょうわ40年代ねんだいごろから次々つぎつぎ自社じしゃ大量たいりょうのSP音源おんげん利用りようして歌手かしゅべつ復刻ふっこくおこなった。とくにごく一時期いちじきしか在籍ざいせきしなかった楠木くすのき繁夫しげお津村つむらけんなど、会社かいしゃないではマイナーな存在そんざいである歌手かしゅ音源おんげん大量たいりょう復刻ふっこくしたのは他社たしゃれいがない。CD時代じだいになっても定期ていきてきにSP音源おんげん復刻ふっこくつづけ、最近さいきんでは「おと聴盤」としょうする廉価れんか復刻ふっこくばん販売はんばいしている。
  • テイチク流行りゅうこう時代じだいからある会社かいしゃなかでもとく消極しょうきょくてき。「流行りゅうこう」そのものの復刻ふっこくには積極せっきょくてきであるものの、その音源おんげん後述こうじゅつのステレオ音源おんげんたよっており、楠木くすのき繁夫しげおなどステレオ音源おんげんがない歌手かしゅ以外いがい、SP音源おんげんはほとんど復刻ふっこくされた実績じっせきがない。同社どうしゃ大手おおてにのしげた藤山ふじやま一郎いちろうのものですら過去かこかぞえるほどしか復刻ふっこくされていない。ようやく平成へいせいに、デイック・ミネ、古賀こが政男まさお作品さくひんしゅう上下じょうげかん、ジャズソング全集ぜんしゅう程度ていどである。
  • ポリドール復刻ふっこくには比較的ひかくてき積極せっきょくてきであるが、東海林しょうじ太郎たろう上原うえはらさとしおおきく比重ひじゅうかたよっている。同社どうしゃ流行りゅうこう時代じだいはこの2人ふたり牽引けんいんしたとっても過言かごんではなく、また現在げんざいでも根強ねづよ人気にんきがあることから集中しゅうちゅうてき復刻ふっこくおこなわれているとかんがえられる。ただし、CD全集ぜんしゅうになると東海林しょうじているが上原うえはらのはまだていない。また、田端たばた義夫よしおきた廉太郎れんたろうなど歌手かしゅについては、なん個人こじん復刻ふっこくされた実績じっせきのある歌手かしゅもいればオムニバスなどでおもしたようにしか復刻ふっこくされない程度ていど歌手かしゅもいるなど、各々おのおの歌手かしゅあいだおおきく均一きんいつで、そのてんではコロムビアにおとる。
  • キング復刻ふっこくには積極せっきょくてき同社どうしゃ勢力せいりょくおおきかったのが戦後せんごであるため戦後せんごきょく中心ちゅうしんであるが、歌手かしゅべつ復刻ふっこくばんすなど他社たしゃ比較ひかくしてもおおほうである。全集ぜんしゅうるいでは戦前せんぜんきょく会社かいしゃ設立せつりつきょく積極せっきょくてき復刻ふっこくし、貴重きちょう音源おんげん提供ていきょうする。
  • ビクター昭和しょうわわりころまで金属きんぞく原盤げんばんをほぼ完全かんぜんかたち保管ほかんしていたこともあって他社たしゃことなり戦前せんぜんきょくは“原盤げんばん”から、戦後せんごきょく他社たしゃ同様どうようばんこし”でほぼ流行りゅうこう時代じだいすべてにわたって復刻ふっこくおこなっている。歌手かしゅべつ復刻ふっこくばんしており、とく藤山ふじやま一郎いちろうについてはなん復刻ふっこく。コロムビアとテイチクにはさまれてかげうすれがちなビクター時代じだい貴重きちょう音源おんげん提供ていきょうしている。

このほか、会社かいしゃ同士どうし協力きょうりょくによる横断おうだん復刻ふっこくおこなわれたれいがいくつかあるが、そもそも流行りゅうこう復刻ふっこく自体じたいが「需要じゅようすくない」と軽視けいしされているめんがあるため、どの会社かいしゃ相互そうご協力きょうりょくにはこしおもく、大部たいぶなものしか発売はつばいされたことがなかった。しかし2008ねん平成へいせい20ねん)1がつ上記じょうき大手おおて5しゃ協力きょうりょくで「青春せいしゅん年鑑ねんかん」シリーズの姉妹しまいばんとして「青春せいしゅん年譜ねんぷ」シリーズがCD2まいぐみぜん10かんという比較的ひかくてきれやすいかたち発売はつばいされ、会社かいしゃをまたいだ流行りゅうこう鑑賞かんしょうらくおこなえるようになった。

ステレオ音源おんげん

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昭和しょうわ40年代ねんだいの「なつメロブーム」により、当時とうじ存命ぞんめいであった流行りゅうこう歌手かしゅはテレビに出演しゅつえんするだけでなく、あらたに過去かこきょく録音ろくおんなおした。これは当時とうじ実用じつようされてあいだもないステレオ録音ろくおんによるものであり、一般いっぱんてきに「ステレオ音源おんげん」とばれてSP原盤げんばん音源おんげん区別くべつする。

しかしさい録音ろくおんするさいにたいていの場合ばあい編曲へんきょくなおしているため、ファンのかたはさまざまで、ステレオ音源おんげん編曲へんきょくをさかしらとして嫌悪けんおかんものすくなくない。また復刻ふっこくをSP原盤げんばんではなくステレオ音源おんげん主体しゅたいおこなうこともあり、原盤げんばんきたいとねがうファンから顰蹙ひんしゅくっている[ちゅう 9][ちゅう 10]

関連かんれん図書としょ

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  • 貴志きし俊彦としひこひがしアジア流行りゅうこうアワー―越境えっきょうするおと 交錯こうさくする音楽おんがくじん』(岩波いわなみ現代げんだい全書ぜんしょ15)、岩波書店いわなみしょてん、2013ねん10がつ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ アンソロジー形式けいしきのものもあるが途中とちゅうきょくられる。
  2. ^ 映画えいが主題歌しゅだいか企画きかくばんではこのかぎりではない。
  3. ^ 藤山ふじやま本名ほんみょう増永ますなが丈夫たけおといって音楽おんがく学校がっこう将来しょうらい期待きたいするクラシック音楽おんがくせいだった。
  4. ^ 地方ちほうから老母ろうぼ戦死せんしした息子むすことむらいに招魂しょうこんしゃ靖国神社やすくにじんじゃ)に姿すがたえがいたうたで、招魂しょうこんしゃさんうた。しかしこの老母ろうぼ都会とかい戦時せんじ体制たいせいにすれていない姿すがたえがかれており、当時とうじ戦時せんじ体制たいせいがそれまでの常識じょうしきはずれた異常いじょうなものであることを風刺ふうししたうたともめる。[よう出典しゅってん]
  5. ^ ただし実際じっさいには前線ぜんせん兵士へいしあいだでも支持しじてヒットきょくとなった。
  6. ^ この「松山まつやま時夫ときお」=「松平まつだいらあきら」については「片瀬かたせなみ作詞さくししゃ高橋たかはし掬太郎きくたろうこうから否定ひていしているが、いま一部いちぶ楽譜がくふしゅうにはあやまって松平まつだいらあきらきょくのまま掲載けいさいされている。
  7. ^ ステレオ録音ろくおん時代じだいになって、過去かこのヒットきょくさい録音ろくおんすることはあった。
  8. ^ ただしこのきょく収容しゅうようしょおぼえたうたこしたものであったため、発売はつばいに、昭和しょうわ15ねんはやし伊佐いさいとぐちによる『東京とうきょうパレード』のうただったとわかり発売はつばい中止ちゅうしになった。
  9. ^ キングレコードや日本にほんコロムビアは、歌手かしゅによりSP・モノラル録音ろくおんとステレオさい録音ろくおん両方りょうほう復刻ふっこくすることがおおい。
  10. ^ ほかにも本人ほんにんすで死亡しぼうしている場合ばあいべつ歌手かしゅうたわせて無理矢理むりやりにステレオ音源おんげんとして収録しゅうろく復刻ふっこくにあてるれいもある。こうなるともはやカヴァーであって「復刻ふっこく」ですらないが、レコード会社かいしゃはこの矛盾むじゅんについて一切いっさいれることなく販売はんばいしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 下川しもかわ耿史 家庭かてい総合そうごう研究けんきゅうかい へん明治めいじ大正たいしょう家庭かてい年表ねんぴょう:1868-1925』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2000ねん、397ぺーじISBN 4-309-22361-3 
  2. ^ http://www.discogs.com/.../Bing-Crosby-White-Christmas/.../2...[リンク]
  3. ^ 佐藤さとうひろしまれ放送ほうそうにおける「日本にっぽん国民こくみん音楽おんがく確立かくりつ
  4. ^ 古関こせきひろし而『かねひびけー古関こせきひろし而自でん主婦しゅふ友社ともしゃ 1980ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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