皇太后こうたいごう

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皇太后こうたいごう(こうたいごう、えい: Empress Dowagerおうふとしきさき(おうたいごう、えい: Queen Dowager)は、先代せんだい皇帝こうてい天皇てんのう国王こくおう皇后こうごうであったもの、ならびに皇帝こうてい天皇てんのう国王こくおう母親ははおや母后ぼこう)であるもの、およびその称号しょうごう[1]。ただしかならずしもこの定義ていぎにあてはまらない事例じれいもある。

中国ちゅうごく皇太后こうたいごう[編集へんしゅう]

ふとしきさきという単語たんご自体じたいは、君主くんしゅははしてもちいられた言葉ことばである。称号しょうごう初出しょしゅつは、はたあきらじょうおう即位そくいしたあと、嫡母ちゃくぼめぐみぶんきさき区別くべつするため生母せいぼの羋はち後世こうせいではせんふときさきんでいる)にふとしきさきごうさづけた事例じれいである。かん時代じだいから、在位ざいいちゅう皇帝こうてい嫡母ちゃくぼ皇太后こうたいごうとなった。嫡母ちゃくぼすでくなった場合ばあいだけ皇帝こうてい生母せいぼ皇太后こうたいごう称号しょうごうさづけられた(れいかんぶんみかど生母せいぼうすひめ)。あきらきよし時代じだいでは、在位ざいいちゅう皇帝こうてい生母せいぼ嫡母ちゃくぼなら尊崇そんすうして「皇太后こうたいごう前者ぜんしゃ聖母せいぼ皇太后こうたいごう後者こうしゃ母后ぼこう皇太后こうたいごう)」とぶ。たがいに優劣ゆうれつはないが、儀式ぎしき母后ぼこう皇太后こうたいごうほう聖母せいぼ皇太后こうたいごうよりかくじょうである。敬称けいしょう殿下でんか

皇太后こうたいごうくらいは、おや世代せだいという立場たちばった皇帝こうてい未亡人みぼうじんあたえられる。したがって、以下いか皇太后こうたいごうくらいのぼることはなかった場合ばあいである。

  • 先代せんだい皇帝こうてい退位たいいした場合ばあいには、ふとしじょう皇帝こうていとなった。対応たいおうとしてふとしじょう皇帝こうていの嫡妻はふとしじょう皇后こうごうしょうされ、皇太后こうたいごう区別くべつしてもちいられた。
  • 先代せんだい皇帝こうてい在位ざいいちゅう皇帝こうてい同一どういつ世代せだい兄弟きょうだい従兄弟いとこ)の場合ばあいには、先代せんだい皇帝こうてい未亡人みぼうじん皇太后こうたいごうではなく「○○皇后こうごう」とんだ。たとえば、かんぶんみかど皇帝こうてい即位そくいあに孝恵たかえみかど皇后こうごうちょうおっとおくりなかさねて「孝恵たかえ皇后こうごう」とばれ、「孝恵たかえみかど皇后こうごう」とむ。またあきらよしみやすしみかど即位そくい従兄じゅうけい正徳しょうとくみかど皇后こうごうなつは「そう皇后こうごう」の尊号そんごうおくられた。

原則げんそくでは、皇太后こうたいごう追号ついごうとしてもちいられたことはなかった。皇太后こうたいごう追号ついごうされたのは、かんたけみかどあきらみかどははちょう婕妤ただ一人ひとりである。それは、ちょう婕妤がたけみかど断罪だんざいされて処刑しょけいされる。たけみかど皇后こうごうとしてふさわしくない。したがって、わりに皇后こうごうではなく皇太后こうたいごう追号ついごうされた。

最初さいしょ皇太后こうたいごう前漢ぜんかん劉邦りゅうほう皇后こうごうりょである(『史記しき』によれば最初さいしょ皇帝こうていはた始皇帝しこうてい后妃こうひ殉死じゅんしさせられたために皇太后こうたいごうたるものはいない)。最後さいご皇太后こうたいごう清朝せいちょうひかりいとぐちみかど皇后こうごう隆裕たかひろ皇太后こうたいごうである。

日本にっぽん皇太后こうたいごう[編集へんしゅう]

日本の旗 日本にっぽん
皇太后こうたいごう
在位ざいいちゅう皇太后こうたいごう
空位くうい
2000ねん平成へいせい12ねん6月16にちより
詳細しょうさい
敬称けいしょう 陛下へいか
初代しょだい ヒメタタライスズヒメ
最終さいしゅうだい こうじゅん皇后こうごう
2021ねんれい3ねん現在げんざい
宮殿きゅうでん 大宮おおみや御所ごしょ東京とうきょう千代田ちよだ
ウェブサイト 宮内庁くないちょう
テンプレートを表示ひょうじ
称号しょうごう皇太后こうたいごう
敬称けいしょう 皇太后こうたいごう陛下へいか
Her Majesty the Empress Dowager

日本にっぽんにおいては、太皇太后たいこうたいこう皇后こうごうとならび三后さんこう三宮さんのみや)のひとつで、ふとしきさき(たいこう)ともりゃくされる。長楽ながらみや(ちょうらくきゅう)を別称べっしょうとする。

日本にっぽんでは以下いかのものが皇太后こうたいごうしょうされた。

  1. 天皇てんのうはは皇后こうごうであったもの
  2. 天皇てんのう生母せいぼ皇后こうごうていない)
  3. 中宮なかみやから皇太后こうたいごう皇后こうごう立后りっこうのため)
  4. 天皇てんのう生母せいぼへの追贈ついぞう死別しべつ
  5. 先代せんだいの嫡妻(先代せんだい生死せいしかかわらず)
  6. 先代せんだい皇后こうごう同上どうじょう

神話しんわじょう初代しょだい天皇てんのうである神武じんむ天皇てんのう皇后こうごうであったひめ蹈鞴たたら五十鈴いすずひめいのち(ヒメタタライスズヒメノミコト)が、息子むすこ綏靖天皇てんのう即位そくい同日どうじつ皇太后こうたいごうとなったのがはつとされ、律令りつりょうでは天皇てんのうはは皇后こうごうであったものあたえられるとされた。しかし、文武ぶんぶ天皇てんのう生母せいぼ藤原ふじわら宮子みやこ太皇太后たいこうたいこうひかりじん天皇てんのう生母せいぼきのとちひめおく皇太后こうたいごうとするなど、皇后こうごうていない国母こくぼ皇太后こうたいごう太皇太后たいこうたいこう宣下せんげされるようにもなり、嵯峨天皇さがてんのう皇后こうごうたちばなよしみ智子さとこが、嵯峨さがおとうと淳和天皇じゅんなてんのう譲位じょういするのと同時どうじ皇太后こうたいごうとなったり(太上天皇だじょうてんのう配偶はいぐうしゃ天皇てんのうははではない)、後冷泉天皇ごれいぜいてんのう中宮なかみや章子あきこ内親王ないしんのう藤原ふじわら歓子皇后こうごう立后りっこうにより皇太后こうたいごうとなるひとし実態じったい複雑ふくざつした。皇太后こうたいごうには世話せわをする部署ぶしょとして皇太后こうたいごうみやしょくかれた。

また天皇てんのう即位そくいまえ生母せいぼ死別しべつしていた場合ばあい即位そくいさい皇太后こうたいごう追贈ついぞうすることもあった。れいとして白河天皇しらかわてんのうはは藤原ふじわら茂子しげこは、ちち後三条ごさんじょう天皇てんのう皇太子こうたいし時代じだい御息所みやすんどころとどまって早世そうせいするが、白河天皇しらかわてんのう即位そくいするとはは皇太后こうたいごう追贈ついぞうした。そして白河天皇しらかわてんのうちょう中宮ちゅうぐう藤原ふじわら賢子さとこ息子むすこ即位そくいまえ早世そうせいするが、堀河ほりかわ天皇てんのう即位そくいしたさい皇太后こうたいごう追贈ついぞうされた。

江戸えど時代じだい初期しょき以降いこう先代せんだい嫡妻をもって皇太后こうたいごうとするのが慣例かんれいになり、また中期ちゅうき以降いこう太皇太后たいこうたいこう尊称そんしょうであった「大宮おおみや」を別称べっしょうとするようになり、皇太后こうたいごう御所ごしょ大宮おおみや御所ごしょしょうした。

明治維新めいじいしん以後いごは、皇太后こうたいごう先帝せんてい皇后こうごうまたは天皇てんのうはは称号しょうごうとなり、皇室こうしつ典範てんぱん昭和しょうわ22ねん1がつ16にち法律ほうりつだい3ごう)により皇族こうぞく内廷ないてい皇族こうぞく)にふくまれ(だい5じょう)、敬称けいしょうは「陛下へいか」とさだめられた(だい23じょう)。

また、大宝たいほう律令りつりょう以来いらい三后さんこうはん)は太皇太后たいこうたいこう皇太后こうたいごう皇后こうごうじゅんさだめられていたが、1910ねん明治めいじ43ねん制定せいてい皇族こうぞくれい明治めいじ43ねん3がつ3にち皇室こうしつれいだい2ごうだい1じょうにより、皇后こうごう太皇太后たいこうたいこう皇太后こうたいごうじゅんさだめられ、皇后こうごう上位じょういあらためた。

近代きんだい以前いぜん皇太后こうたいごう追号ついごうとしてもちいられたことはなかったが、明治めいじ以降いこう孝明天皇こうめいてんのう女御にょうごじゅんさんみや)で明治天皇めいじてんのう嫡母ちゃくぼ形式けいしきじょうはは生母せいぼではない。)のえいあきら皇太后こうたいごう明治天皇めいじてんのう皇后こうごうであった昭憲皇太后しょうけんこうたいごうおくられている。えいあきら皇太后こうたいごうは、明治天皇めいじてんのう即位そくいともない、皇后こうごうずして皇太后こうたいごう冊立さくりつされた。昭憲皇太后しょうけんこうたいごうについては、本来ほんらい皇后こうごう追号ついごうであるべきとして、明治天皇めいじてんのう昭憲皇太后しょうけんこうたいごうまつ明治めいじ神宮じんぐう1920ねん大正たいしょう9ねん)にみや内省ないせいに、1963ねん昭和しょうわ38ねん)・1967ねん昭和しょうわ42ねん)には宮内庁くないちょう追号ついごうを「昭憲しょうけん皇后こうごう」に変更へんこうするようもうれたが、みとめられなかった(昭憲皇太后しょうけんこうたいごう#追号ついごうについて参照さんしょう)。次代じだい大正天皇たいしょうてんのうきさき貞明皇后ていめいこうごう以降いこうは、「皇太后こうたいごう」として崩御ほうぎょしても生前せいぜん最高さいこうである「皇后こうごう」のくらい追号ついごうされている。

なお、2017ねん平成へいせい29ねん)6がつ16にち公布こうふされ[2]2019ねん平成へいせい31ねん)4がつ30にち施行しこうされた[3]天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほうでは、だい3じょうで「前条ぜんじょう規定きていにより退位たいいした天皇てんのうは、上皇じょうこうとする。」、4じょうで「上皇じょうこうきさきは、うえ皇后こうごうとする。」とそれぞれ規定きていしている。すなわち、歴史れきしじょう太上天皇だじょうてんのう配偶はいぐうしゃにももちいられてきた「皇太后こうたいごう称号しょうごう使用しようせず、史上しじょうはつ称号しょうごうである「うえ皇后こうごう(じょうこうごう)」があらたにさだめられた。

日本にっぽん皇太后こうたいごう一覧いちらん[編集へんしゅう]

れき 西暦せいれき 皇后こうごう ふとしすめらぎ
ふとしきさき
ひめ蹈鞴たたら五十鈴いすずひめいのち 綏靖元年がんねん1がつ8にち
五十鈴依媛命 安寧あんねい元年がんねん10がつ11にち
渟名そこなかひめいのち 懿徳元年がんねん9がつ
てん豊津とよつひめいのち 孝昭たかあき元年がんねん4がつ5にち
世襲せしゅうあしひめ 孝安たかやす元年がんねん8がつ1にち
押媛いのち こうれい元年がんねん1がつ12にち
ほそひめいのち こうもと元年がんねん1がつ14にち
うつしょくなぞいのち 開化かいか元年がんねん1がつ4にち
伊香いかしょくなぞいのち たかしかみ元年がんねん1がつ13にち
あいだじょうひめいのち たれじん元年がんねん11がつ2にち
八坂やさかにゅうひめいのち なりつとむ2ねん11がつ10日とおか
両道りょうどうにゅうひめいのち 仲哀ちゅうせつ元年がんねん9がつ1にち
いき長足ちょうそくひめたかし 神功じんぐう元年がんねん10がつ2にち
なかひめいのち 仁徳にんとく元年がんねん1がつ3にち
しのぶ坂大ばんだい中姫なかひめいのち まこときょう42ねん12月14にち
しろ皇女おうじょ せん4ねん12月5にち
いしひめ皇女おうじょ さとしたち元年がんねん4がつ3にち 572/4/30
藤原ふじわら安宿やすやどひめ 天平てんぴょうかちたから元年がんねん8がつ1にち 749/8/19
高野たかのしんかさ のべれき9ねん1がつ14にち以降いこう おく 790/2/2- おく おく
藤原ふじわらおつ牟漏 大同だいどう元年がんねん5がつ19にち おく 806/6/9 おく
藤原ふじわらたび ひろじん14ねん5がつ1にち おく 823/6/12 おく
たちばなよしみ智子さとこ ひろじん14ねん4がつ23にち 823/6/5
正子まさこ内親王ないしんのう てんちょう10ねん3がつ2にち 833/3/26
藤原ふじわら順子じゅんこ じん寿ことぶき4ねん4がつ26にち 854/5/26
藤原ふじわら明子あきこ さだかん6ねん1がつ7にち 864/2/17
藤原ふじわら高子たかこ もとけい6ねん1がつ7にち 882/1/29
藤原ふじわら沢子さわこ もとけい8ねん おく 884 おく
藤原ふじわらたね 寛平かんぺい9ねん7がつ19にち おく 897/8/20 おく
はん子女しじょおう 寛平かんぺい9ねん7がつ26にち 897/8/27
藤原ふじわら穏子 うけたまわひら元年がんねん11がつ28にち 932/1/8
藤原ふじわら安子やすこ かん4ねん11月29にち おく 968/1/1 おく おく
昌子しょうじ内親王ないしんのう てんろく4ねん7がつ1にち 973/11/8
藤原ふじわらふところ 永観えいかん2ねん12月17にち おく 985/1/10 おく
藤原ふじわらかい 寛和ひろかず2ねん7がつ5にち 986/8/12
藤原ふじわら遵子 長保ながほ2ねん2がつ25にち 1000/4/2
藤原ふじわらちょう 寛弘かんこう8ねん12月27にち おく 1012/1/23 おく
藤原ふじわら彰子あきこ 寛弘かんこう9ねん2がつ14にち 1012/3/9
藤原ふじわら妍子 寛仁かんじん2ねん10がつ16にち 1018/11/26
藤原ふじわらうれし ひろしとく2ねん8がつ11にち おく 1045/11/27 おく
禎子さだこ内親王ないしんのう ながうけたまわ6ねん2がつ13にち 1051/3/27
章子あきこ内親王ないしんのう れき4ねん4がつ17にち 1068/5/20
藤原ふじわら寛子ひろこ 延久のべひさ元年がんねん7がつ3にち 1069/7/23
藤原ふじわら歓子 延久のべひさ6ねん6がつ20日はつか 1074/7/16
藤原ふじわら賢子さとこ おうとく3ねん? 1087 おく?
藤原ふじわら聖子せいこ 永治えいじ元年がんねん12がつ27にち 1142/1/25
藤原ふじわら多子おいご もと元年がんねん10がつ27にち 1156/12/11
藤原ふじわらてい もと3ねん2がつ3にち 1158/3/5
みなもと懿子 もと3ねん12月29にち おく 1159/1/20 おく
平滋子たいらのしげこ じんやす3ねん3がつ20日はつか 1168/4/29
藤原ふじわら忻子 うけたまわやす2ねん2がつ10日とおか 1172/3/6
みなもと通子みちこ じん3ねん7がつ11にち おく 1242/8/8 おく
西園寺さいおんじ禧子よしこ 元弘もとひろ3ねん7がつ11にち 1333/8/21
阿野あのれん のべもと4ねん(こよみおう2ねん)8がつ15にち以降いこう 1339/9/18-
庭田にわた朝子あさこ あかりおう9ねん10がつ25にち以降いこう おく 1500/11/16- おく
万里まり小路しょうじ栄子えいこ 弘治こうじ3ねん10がつ27にち以降いこう おく 1557/11/17- おく
近衛このえ尚子しょうこ とおる20ねん3がつ21にち以降いこう おく 1735/4/13- おく
じょうしゃ のべとおる4ねん5がつ27にち 1747/7/4
一条いちじょう富子とみこ 明和めいわ8ねん5がつ9にち 1771/6/21
近衛このえ維子 安永やすなが10ねん3がつ15にち 1781/4/8
欣子きんこ内親王ないしんのう 文政ぶんせい3ねん3がつ14にち 1820/4/26
鷹司たかつかさ祺子 ひろし4ねん3がつ14にち 1847/4/28
えいあきら皇太后こうたいごう 慶応けいおう4ねん3がつ18にち 1868/4/10
昭憲皇太后しょうけんこうたいごう 明治めいじ45ねん7がつ30にち 1912/7/30
貞明皇后ていめいこうごう 大正たいしょう15ねん12月25にち 1926/12/25
こうじゅん皇后こうごう 昭和しょうわ64ねん1がつ7にち 1989/1/7
(うえ皇后こうごう美智子みちこ) (れい元年がんねん5がつ1にち) (2019/5/1) (○)

三后さんこうひょう[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん皇太后こうたいごう[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん王朝おうちょうまでの君主くんしゅは、天皇てんのう皇帝こうていではなく国王こくおうだったため、皇太后こうたいごうではなくだいという。

1895ねん大韓たいかん帝国ていこく成立せいりつしたときには朝鮮ちょうせんおうこうはじめ大韓たいかん皇帝こうていとなったが正室せいしつはいなかった。つぎじゅんむね継室けいしつじゅんさだこう皇后こうごう夫君ふくん死後しご、1966ねんまできたため最初さいしょ最後さいご皇太后こうたいごうである。

ベトナムの皇太后こうたいごう[編集へんしゅう]

ベトナムではひのとあさのときに君主くんしゅごう皇帝こうていとしたためその正室せいしつ皇后こうごうとなり、皇太后こうたいごうあらわれた。最後さいご皇太后こうたいごう大帝たいていきさきたいよし皇后こうごう英語えいごばんことモニク・マリ・ユジェニー・ボドー(1946ねん-2021ねん)である。

ヨーロッパにおける「皇太后こうたいごう」「おうふとしきさき[編集へんしゅう]

訳語やくごとして、皇帝こうてい未亡人みぼうじん英語えいごEmpress dowager)に「皇太后こうたいごう」、先代せんだいおう王妃おうひだったもの英語えいごQueen dowager)に「おうふとしきさき」(おうたいごう)をもちいることがある。また、王国おうこく元首げんしゅをすべて皇帝こうていしょうしてきたかつての儀典ぎてんじょう慣例かんれいから、おうふとしきさきたいして「皇太后こうたいごう」のかたりもちいられる場合ばあいすくなくない。ヨーロッパでは一度いちどびたくらい原則げんそく終身しゅうしん保持ほじできるため、1989ねん崩御ほうぎょした、オーストリア・ハンガリー帝国ていこく最後さいご皇帝こうていカール1せい皇后こうごうツィタ(オーストリア・ハンガリー帝国ていこく1918ねん滅亡めつぼうし、カール1せい1922ねん崩御ほうぎょ)がヨーロッパ最後さいごの「皇太后こうたいごう」である。

現在げんざい、「皇后こうごう」(英語えいご:Empress)の地位ちい存在そんざいするのは日本にっぽんのみであるため、1947ねんまでインド皇后こうごう英語えいご:Empress of India)であり、2002ねん崩御ほうぎょしたエリザベス・ボーズ=ライアンイギリス国王こくおうジョージ6せいどう女王じょおうエリザベス2せい生母せいぼ)が、日本にっぽん以外いがいにおける最後さいごの「皇太后こうたいごう」である。

日本にっぽんでは天皇てんのうははであるきさき(きさき)を母后ぼこう(ヨミは「ぼこう[4]」または「ははきさき[5]」)と呼称こしょうするが[4][5]、ヨーロッパにもこれに相当そうとうする呼称こしょう英語えいごQueen mother)がある。

アフリカにおける「皇太后こうたいごう」「おうふとしきさき[編集へんしゅう]

アフリカ南部なんぶにあるエスワティニでは皇太后こうたいごう類似るいじするものとして、先代せんだい王妃おうひ国王こくおうははあたえられるンドロブカティという称号しょうごうがある。ンドロブカティは祭祀さいしおこなうことが権限けんげんとなっている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 新村しんむらいずるへん広辞苑こうじえん だいろくはん』(岩波書店いわなみしょてん2011ねん)936ぺーじおよび松村まつむらあきらへん大辞林だいじりん だいさんはん』(三省堂さんせいどう2006ねん)858ぺーじ参照さんしょう
  2. ^ 天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほうについて”. 首相しゅしょう官邸かんていホームページ. 内閣ないかく広報こうほうかん. 2019ねん4がつ30にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん4がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ あたらしい天皇陛下てんのうへいか即位そくいれいはじまる”. BBC News Japan (英国えいこく放送ほうそう協会きょうかい). (2019ねん4がつ30にち). オリジナルの2019ねん4がつ30にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190430170450/https://www.bbc.com/japanese/48101947 2019ねん4がつ30にち閲覧えつらん 
  4. ^ a b 母后ぼこう」『広辞苑こうじえん』(だいはん岩波書店いわなみしょてん
  5. ^ a b 母后ぼこうみ)ハハキサキ デジタル大辞泉だいじせん

参照さんしょう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

文献ぶんけん資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 新村しんむらいずるへん広辞苑こうじえん だいろくはん』(岩波書店いわなみしょてん、2011ねんISBN 400080121X
  • 松村まつむらあきらへん大辞林だいじりん だいさんはん』(三省堂さんせいどう、2006ねんISBN 4385139059

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]