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ポリネシア

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ポリネシア(むらさき),ミクロネシアあか),メラネシアあお
ポリネシアの地理ちりてき定義ていぎ

ポリネシアPolynesia)は、オセアニア海洋かいよう分類ぶんるいひとつである。太平洋たいへいようで、おおむミッドウェみっどうぇ諸島しょとう北西ほくせいハワイ諸島しょとううち)、アオテアロアニュージーランドマオリ)、ラパ・ヌイ(イースターとう)をむすんだ三角形さんかっけいポリネシアン・トライアングル)のなかにある諸島しょとう総称そうしょうで、2017ねん人口じんこうやく700まんにん

概要がいよう

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イースターとうモアイぞう
ハワイ火山かざん国立こくりつ公園こうえん
ボラボラとう水上すいじょうコテージ

ポリネシアはギリシャのポリ(πολύς おおくの)ネソス(νにゅーῆσος しま)から、「おおくの島々しまじま」の意味いみである[1]。ポリネシアという用語ようご1832ねんフランス海軍かいぐん提督ていとくジュール・デュモン・デュルヴィル(Jules Dumont d'Urville)が、メラネシアミクロネシアとはちがうこの地域ちいき民族みんぞくてき地理ちりてき分類ぶんるいのために使つかはじめた。

なお、ポリネシアにふくまれるくに地域ちいき以下いかとおりである。

主権しゅけん国家こっか
以下いかの2こくはニュージーランドの自由じゆう連合れんごうくにである。
フランスの旗 フランスりょう
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくりょう
ニュージーランドの旗 ニュージーランドりょう
イギリスの旗 イギリスりょう
 チリりょう

域外いきがいポリネシア

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ウベアとう
レンネルとうのテンガノ

域外いきがいポリネシア(Polynesian outlier)とばれる、ポリネシア文化ぶんか保持ほじした島々しまじまミクロネシアおよびメラネシア点在てんざいしている。域外いきがいポリネシアには、ポリネシア・トライアングルないではうしなわれてしまった古代こだい知識ちしき継承けいしょうされている地域ちいきがあり、とくソロモン諸島しょとうぞくするサンタ・クルーズ諸島しょとうタウマコとう英語えいごばん(Taumako)は、古代こだいポリネシアの航法こうほう技術ぎじゅつ後述こうじゅつ)にもっとちか技術ぎじゅつ継承けいしょうしている地域ちいきとして注目ちゅうもくあつめている[14][15]域外いきがいポリネシアとされるしま以下いかとおりである[16]

ツバルけい
フツナけい
その

歴史れきし

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ポリネシアへの人間にんげん居住きょじゅう

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ポリネシアじん移住いじゅうルート

ポリネシアじん祖先そせんオーストロネシアはなすモンゴロイドけい民族みんぞくで、その祖先そせん台湾たいわん定住ていじゅうしていた[17]紀元前きげんぜん2500ねんころ一部いちぶのグループが台湾たいわんから南下なんか開始かいしし、フィリピン紀元前きげんぜん2000ねんころインドネシアスラウェシとう到達とうたつした。

ラピタじんしょうされるげんポリネシアじんは、ここからニューギニアとう沿岸えんがんおよびメラネシアへと東進とうしんし、紀元前きげんぜん1100ねんころにはフィジー諸島しょとう到達とうたつした。現在げんざい、ポリネシアとばれる地域ちいきへの移住いじゅう紀元前きげんぜん950ねんころからで、サモアやトンガからもラピタじん土器どき出土しゅつどしている。サモアに到達とうたつした時点じてんでラピタじんひがしへの移住いじゅううごきは一旦いったんまるのだが、そのあいだにポリネシア文化ぶんか成立せいりつしていったとかんがえられている[18]

ふたたひがしへの移住いじゅう開始かいしするのは1世紀せいきころからで、ポリネシアじんたちはカタマランアウトリガーカヌーもちい、エリス諸島しょとうマルキーズ諸島しょとうソシエテ諸島しょとうにまず移住いじゅうした。その、マルキーズ諸島しょとうやソシエテ諸島しょとう中心ちゅうしん300ねんころにイースターとう400ねんころにハワイ諸島しょとう1000ねんころにクック諸島しょとうやニュージーランドに到達とうたつした[19]。なお、ポリネシアじんたちは太平洋たいへいよう各地かくち拡散かくさんしたのちも、ウェイファインディング(スターナビゲーション)というたか航法こうほう技術ぎじゅつによってたがいにおこなわれていた。

南米なんべいとの交流こうりゅう可能かのうせい

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チリ南部なんぶのチロエとうおこなわれているクラント

ポリネシアと南米なんべいあいだ航海こうかいおこなわれた確実かくじつ証拠しょうこつかっていない。しかし、ポリネシアじん主食しゅしょくのひとつであるサツマイモ南米なんべい原産げんさんであり、ヨーロッパじん来航らいこうまえすでにポリネシア域内いきないではひろくサツマイモが栽培さいばいされていた[20][21]。そのうえサツマイモは、アンデス地方ちほうケチュア語族ごぞくではクマルKumar)、ポリネシアのトンガではクマラKumala)と呼称こしょうされる[21]。そのほかに、ポリネシアやミクロネシア一般いっぱんてきな、肉類にくるいイモなどの食材しょくざいバナナココヤシいたのちいしとともに土中どちゅうめてげるウム料理りょうりという調理ちょうりほう[22][23][24]は、ペルーパチャマンカ(Pachamanca)やチリ南部なんぶチロエとうクラント英語えいごばん(Curanto)として南米なんべい太平洋たいへいよう沿岸えんがん地域ちいきにも存在そんざいする[25]など、古代こだいポリネシアじん南米なんべいまでの航海こうかいおこなった可能かのうせい否定ひていできない[21]

ペルー太平洋たいへいようがん民族みんぞくにはポリネシアとの交流こうりゅう示唆しさする伝承でんしょう存在そんざいする[26]インカ帝国ていこくの10代サパ・インカ皇帝こうてい)であるトゥパック・インカ・ユパンキは、1480ねんころに20,000の兵力へいりょく太平洋たいへいようじょうの「ニナ・チュンピ(ほのおおび)」、「ハフア・チュンピ(はなれたおび)」の2つのしま遠征えんせいし、財宝ざいほうかえったとされている。またこれにたいし、ポリネシアがわでもトゥアモトゥ諸島しょとうひがしからトパという英雄えいゆう来航らいこうしたという伝承でんしょうがある[26]さらに、インカ帝国ていこく征服せいふくしたフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)の従兄弟いとこであるペドロ・ピサロ英語えいごばん(Pedro Pizarro)が1570ねんのこした記録きろくには、「ペルー太平洋たいへいようがん民族みんぞくうみこうと交流こうりゅうおこなっていたが、いま(1570ねん)ではだい海流かいりゅうフンボルト海流かいりゅう)によってさまたげられて接触せっしょくたれている」との記述きじゅつがある[26]

また、ノルウェー人類じんるい学者がくしゃであるトール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)はポリネシアじん南米なんべい起源きげんせつ提唱ていしょうし、1947ねんコンティキごうといういかだでペルーのカヤオおき80kmの地点ちてんからトゥアモトゥ諸島しょとうラロイア環礁かんしょう英語えいごばんまで、6,980kmの距離きょりを101にち航海こうかいした[27]

しかし2014ねんに、ポリネシアの遺跡いせき出土しゅつどしたニワトリほねから検出けんしゅつしたミトコンドリアDNAと、南米なんべい古代こだい現代げんだいのニワトリのミトコンドリアDNAの比較ひかく解析かいせきおこなわれた結果けっか両者りょうしゃ遺伝いでんてき関連かんれんせいはみられなかった[28]

トンガだい首長しゅちょうこく

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ハアモンガの石門せきもん

10世紀せいきころサモアじん両親りょうしんアホエイトゥ英語えいごばん(ʻAhoʻeitu)によってトンガが統一とういつされ、トンガだい首長しゅちょうこく(Tu'i Tonga トンガ帝国ていこく)が建国けんこくされた[29]。トンガだい首長しゅちょうこく12世紀せいきころだい9だいだい首長しゅちょうモモ英語えいごばん(Momo)とだい10代だい首長しゅちょうトゥイタトゥイ英語えいごばん(Tuʻi-tā-tui)の時代じだい拡張かくちょう政策せいさくおこない、トンガのほかにサモア諸島しょとうフィジー諸島しょとうてはサンタクルーズ諸島しょとうのティコピアとうにまでいただい帝国ていこくをきずきあげた。

15世紀せいきころ暴君ぼうくんであっただい23だいだい首長しゅちょうタカラウア(Takalaua)の暗殺あんさつに、トンガだい首長しゅちょうこくでは宗教しゅうきょうてき権力けんりょく世俗せぞくてき権力けんりょく分離ぶんりした[29]。そのため、従来じゅうらいトゥイ・トンガ英語えいごばんだい首長しゅちょう)の称号しょうごうのほかに世俗せぞくてき権力けんりょくになトゥイ・ハアタカラウア英語えいごばん(Tuʻi Haʻatakalaua)の称号しょうごう誕生たんじょうし、それぞれタカラウアの長男ちょうなんであるカウウルフォヌア1せい(Kau'ulufonua I)とそのおとうとモウンガモトゥア(Mo'ungamotu'a)の家系かけい世襲せしゅうすることになった。しかしこののち内乱ないらんによってトンガだい首長しゅちょうこく衰退すいたいし、1600ねんころにはマリエトア英語えいごばん一族いちぞくによって、サモアでの影響えいきょうりょくうしなった。

1610ねんころあらたにトゥイ・カノクポル英語えいごばん(Tuʻi Kanokupolu)が誕生たんじょうする。トゥイ・カノクポルはだい6だいトゥイ・ハアタカラウアの分家ぶんけであったが、やがてトゥイ・ハアタカラウアと世俗せぞくてき権力けんりょくめぐって競合きょうごうするようになった[30]

ヨーロッパじん到来とうらい

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アベル・タスマン

ヨーロッパじんによる最初さいしょ太平洋たいへいよう航海こうかいは、1521ねんスペインフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)がおこなった航海こうかいであるが、マゼラン艦隊かんたいはトゥアモトゥ諸島しょとうやライン諸島しょとう無人島むじんとう接触せっしょくしたのみで、ポリネシアじんには接触せっしょくしなかった[31]。ヨーロッパじんによる本格ほんかくてきなポリネシア探検たんけんはじまりは、1642ねんアベル・タスマン(Abel Tasman)が、オランダひがしインド会社かいしゃ依頼いらいけてった探検たんけんである。タスマンはこの探検たんけんでニュージーランド南島なんとうやトンガに到達とうたつし、マオリじんとは敵対てきたいしたが、トンガじんとは友好ゆうこうてき交流こうりゅうおこない、トゥイ・ハアタカラウアに謁見えっけんしている[32]。また1722ねんヤーコプ・ロッヘフェーン南方みなかた大陸たいりく探索たんさくのために太平洋たいへいよう探検たんけんし、イースターとうボラボラとう、サモアに到達とうたつしている[33]

1768ねんイギリスサミュエル・ウォリス(Samuel Wallis)ははじめてタヒチに到達とうたつしたヨーロッパじんとなった。その10箇月かげつはんにはフランスルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル(Louis Antoine de Bougainville)もタヒチをおとずれている[34]

ジェームズ・クック

ポリネシアののこりの地域ちいき詳細しょうさい判明はんめいするのは、1768ねんから1780ねんにかけておこなわれたジェームズ・クック(James Cook)による3かいにわたる探検たんけん航海こうかいである。クックはタヒチ、ニュージーランド、トンガのほか、1778ねんだい3かい航海こうかい途上とじょうでハワイ諸島しょとう到達とうたつしている[35]。なお、だい3かい航海こうかい参加さんかしたウィリアム・ブライ(William Bligh)は、1787ねんバウンティごう(HMS Bounty)の船長せんちょうになるが、1789ねん4がつ28にちにトンガおき乗組のりくみいんによる反乱はんらん事件じけんこされている。この事件じけんバウンティごう反乱はんらん(Mutiny on the Bounty)といい、バウンティごう追放ついほうされたブライ以下いか19にんは、ボートで6,701kmはなれたティモールとうにたどり生還せいかんする。一方いっぽう反乱はんらんこした乗組のりくみいんたちはタヒチにもどり、16にんはタヒチに残留ざんりゅうしたが、8にんはタヒチじん男女だんじょふねせて無人島むじんとうであったピトケアンとう移住いじゅうした[36][37]

また1804ねんには、ロシア帝国ていこくニコライ・レザノフНиколай Резанов)が指揮しきする2せき艦隊かんたいが、マルキーズ諸島しょとうヌク・ヒバとうとハワイに寄港きこうした。2せきのうちのナジェジダごう英語えいごばんНадежда)には、陸奥みちのくこく牡鹿おしかぐん石巻いしのまきげん宮城みやぎけん石巻いしのまき出身しゅっしん太夫たゆうぜんろくわか宮丸みやまる漂流ひょうりゅうみん5めいっており、確実かくじつ記録きろくのこっているなかでは、若宮わかみやまる漂流ひょうりゅうみん5めいはじめてポリネシアをおとずれた日本人にっぽんじんである[38]

ポリネシア社会しゃかい変容へんよう

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1774ねんソシエテ諸島しょとうフアヒネとう

18世紀せいき後半こうはん以降いこう、ポリネシアの探検たんけんいちとお終了しゅうりょうしたことにより、捕鯨ほげいせん商人しょうにん宣教師せんきょうしがポリネシアに姿すがたせるようになった[39]

捕鯨ほげいせんはポリネシアの社会しゃかいおおきな影響えいきょうあたえた。18世紀せいきから19世紀せいき初頭しょとうにかけての捕鯨ほげい船員せんいんは、強制きょうせい徴募ちょうぼによってあつめられたものおおかった[40]ため、そのしつ劣悪れつあくであった[41]。こうした捕鯨ほげい船員せんいんたちのなかには寄港きこう脱走だっそうはかったり、また船長せんちょうりにされるケースもあったため、ポリネシアの島々しまじま性病せいびょうのほか天然痘てんねんとうはしかインフルエンザなどの伝染でんせんびょうをもたらし、抵抗ていこうりょくたないポリネシアじん人口じんこう激減げきげんした[41]

初期しょき商人しょうにんたちは、島民とうみんとの交易こうえきのほか、中国ちゅうごく珍重ちんちょうされている白檀びゃくだんナマコ目的もくてきとしており、首長しゅちょう人質ひとじちにとって島民とうみん使役しえきするなど暴力ぼうりょくてき手段しゅだんることもあった[42]。また、商人しょうにんたちはマスケットじゅうをポリネシアにもたらしたため、いちはやじゅう入手にゅうしゅした勢力せいりょくによってハワイ王国おうこくやタヒチのポマレ王朝おうちょうのような統一とういつ王朝おうちょう建国けんこくされた[43]。やがて商人しょうにんたちは、土地とち所有しょゆうけんという概念がいねんうす島民とうみんたちから、契約けいやくによって土地とち入手にゅうしゅまたは賃借ちんしゃくし、コプラサトウキビコーヒー綿めんなどの換金かんきん作物さくもつをポリネシアにみ、農園のうえんぬしとなるものあらわれた[44]。また19世紀せいき後半こうはんに、化学かがく肥料ひりょう原料げんりょうとしてグアノ有用ゆうようであることが判明はんめいすると、その採取さいしゅおこなわれた[45]。こうして誕生たんじょうした農園のうえんでは、当初とうしょ島民とうみんたちが労働ろうどうしゃとして導入どうにゅうされたものの、前述ぜんじゅつ事情じじょうからポリネシアじん人口じんこう激減げきげんしており、はたらりなかったため、中国人ちゅうごくじんインドじん日本人にっぽんじんフィリピンじんなどの移民いみん招聘しょうへいされることになった[46]。このような移民いみんたちは苦力くーりー呼称こしょうされ、てい賃金ちんぎん過酷かこく労働ろうどういられた[47]。また反対はんたいに、ポリネシアじんたちがブラックバーダー英語えいごばん(Black-birder)とばれる人身じんしん売買ばいばいせんもん商人しょうにん拉致らちされ、ペルーなど南米なんべい鉱山こうざん強制きょうせい労働ろうどうさせられるケースもあったが、国際こくさいてき批判ひはんもあり、1864ねん禁止きんしされた[48]

宣教師せんきょうしによるキリスト教きりすときょう布教ふきょうは、1797ねんにタヒチでプロテスタント布教ふきょうおこなわれたのが嚆矢こうしである[49]。ほどなくカトリック布教ふきょうはじまり、プロテスタント勢力せいりょくのバックにはイギリスとアメリカ、カトリック勢力せいりょくのバックにはフランスがつき[50]、それぞれポリネシアの首長しゅちょうそう紛争ふんそうにも介入かいにゅうした。トンガは1799ねん以降いこう、トゥイ・トンガ、トゥイ・ハアタカラウア、トゥイ・カノクポルのあいだどもえ内戦ないせん勃発ぼっぱつし、最初さいしょにトゥイ・ハアタカラウアがトゥイ・カノクポルにやぶ消滅しょうめつした。1826ねんハアパイ諸島しょとう首長しゅちょうであったタウファアハウ英語えいごばん(Taufa'ahau)にプロテスタントの宣教師せんきょうし接近せっきんした。タウファアハウは軍事ぐんじてき支援しえんえにプロテスタントに改宗かいしゅうし、イギリスふうにジョージ・ツポウ1せい(George Tupou I)と改名かいめいした[51]。これにたいして、だい39だいトゥイ・トンガであるラウフィリトンガ英語えいごばん(Laufilitonga)もカトリック勢力せいりょく味方みかたにつけ、ジョージ・ツポウ1せい対立たいりつした[52]りょう勢力せいりょく同年どうねんリフカとう決戦けっせんおこなった結果けっか、ジョージ・ツポウ1せい勝利しょうりした。ジョージ・ツポウ1せいはそのキリスト教きりすときょう反対はんたいするトンガタプとう首長しゅちょう勢力せいりょくから抵抗ていこうったものの、1845ねんだい18だいトゥイ・カノクポルであるアレアモトゥア英語えいごばん(Aleamotuʻa)から禅譲ぜんじょうけ、だい19だいトゥイ・カノクポルとなりトンガを統一とういつした[53]

植民しょくみん

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19世紀せいきのポリネシアは、ハワイやトンガ、タヒチのように中央ちゅうおう集権しゅうけんてき王国おうこく誕生たんじょうしている地域ちいきもあったが、在地ざいち勢力せいりょく統一とういつされていない地域ちいき数多かずおお存在そんざいした。

ニュージーランドは、19世紀せいき前半ぜんはんからイギリスじん入植にゅうしょくしゃ多数たすう流入りゅうにゅうしており、1840ねん2がつ6にちワイタンギ条約じょうやくによってイギリスの植民しょくみんとなった。ワイタンギ条約じょうやくニュージーランド総督そうとく代理だいりウィリアム・ホブソン英語えいごばん(William Hobson)とマオリじん首長しゅちょうたちのあいだ締結ていけつされた条約じょうやくであり、だい2じょうでマオリじん土地とち所有しょゆう保障ほしょうしたものであったために500にんあまりの首長しゅちょうがワイタンギ条約じょうやく署名しょめいした[54]。しかし、入植にゅうしょくしゃたちは羊毛ようもう輸出ゆしゅつするために牧畜ぼくちく導入どうにゅうし、だい規模きぼ土地とち買収ばいしゅうおこなわれるようになったため、1864ねん時点じてん南島なんとう土地とちの99%が入植にゅうしょくしゃ所有しょゆうする土地とちとなっていた[54]。これにたいしてマオリじんたちは反撥はんぱつし、1845ねんニュージーランド戦争せんそう英語えいごばん(マオリ戦争せんそう)が勃発ぼっぱつし、武力ぶりょく衝突しょうとつはじまった。戦争せんそう1861ねん4がつ一時いちじ休戦きゅうせんするも、そのもマオリじんによるゲリラてき抵抗ていこうつづき、完全かんぜん鎮圧ちんあつされるのは1872ねんであった[54]。ニュージーランドの白人はくじん人口じんこうはこののち増加ぞうかし、1907ねん9月26にちにニュージーランドはイギリスの自治領じちりょう(Dominion)となり、独自どくじ政府せいふてるようになった。イギリスはこののち、ニュージーランド以外いがいのポリネシアかく地域ちいき植民しょくみんすすめ、1872ねんにはイギリスりょう西太平洋にしたいへいよう領土りょうど英語えいごばん(British Western Pacific Territories)を成立せいりつさせ、クック諸島しょとう、ニウエ、エリス諸島しょとう、トケラウをこれにふくめた。また、トンガも1900ねんにイギリスの保護ほごこくとなった[55]

フランスは19世紀せいき前半ぜんはんからタヒチのポマレ王朝おうちょうたいする干渉かんしょうつよめていった。ポマレ王朝おうちょう成立せいりつ以来いらいプロテスタントの影響えいきょうにあったが、1836ねんポマレ4せいがフランスじん宣教師せんきょうし2めい国外こくがい追放ついほう処分しょぶんにしたことをきっかけに、フランスはポマレ王朝おうちょうたいする干渉かんしょうつよめていった。1843ねん、フランスはポマレ王朝おうちょうたい保護ほご条約じょうやく批准ひじゅん要求ようきゅうしたが、ポマレ4せいはこれに反対はんたいし、反対はんたいによる武力ぶりょく闘争とうそうおこなわれた。しかし、1847ねん8がつ5にちにポマレ4せいはフランスと保護ほご条約じょうやく締結ていけつした。その、ポマレ王朝おうちょうポマレ5せい王位おうい継承けいしょうするものの、パナマ運河うんが開通かいつうにらんだフランスによって1880ねん併合へいごう協定きょうてい署名しょめいさせられ、ポマレ王朝おうちょうフランスりょうポリネシア一部いちぶとなった[56][57][58]。また、ウォリス・フツナに存在そんざいするアロ首長しゅちょうこく英語えいごばんウベア首長しゅちょうこく英語えいごばんシガベ首長しゅちょうこく英語えいごばんの3つの王国おうこく首長しゅちょうこく)も1888ねんにフランスの保護ほごこくとなり、1917ねん併合へいごうされた。

ハワイ王国おうこくカラカウアおうめいであるカイウラニ王女おうじょ日本にっぽん山階やましなみやてい麿まろおうとのえん談話だんわがあった。

ハワイは、カメハメハ3せい治世ちせいである1840ねん憲法けんぽうさだめられ、国際こくさいてき独立どくりつ国家こっかとして承認しょうにんされていた。しかし、経済けいざいてき実権じっけんはイギリスじんやアメリカじんにぎられており、1850ねん外国がいこくじん土地とち所有しょゆうけんみとめられていた[59]1872ねん親米しんべいルナリロ国王こくおうとなると、ハワイはアメリカへの傾斜けいしゃつよめていき、1875ねん6月3にちにはべいぬの互恵ごけい条約じょうやく締結ていけつされ、ハワイのすべての生産せいさんひん非課税ひかぜいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく本土ほんどへの輸出ゆしゅつ可能かのうとなった[60]1887ねんロリン・アンドリュース・サーストン英語えいごばん(Lorrin Andrews Thurston)ひきいる安全あんぜん委員いいんかい英語えいごばん(Committee of Safety)は、カラカウアおうたいしてしん憲法けんぽう英語えいごばん採択さいたく承認しょうにんさせた[61]。このしん憲法けんぽうによって国王こくおう議会ぎかいたいしてっていた拒否きょひけん剥奪はくだつされ、さらに外国がいこく人参にんじん政権せいけんみとめられた反面はんめん、アジアけい移民いみんたいする参政さんせいけん剥奪はくだつされた[61]武力ぶりょく背景はいけい採択さいたくされたこの憲法けんぽうは、銃剣じゅうけん憲法けんぽう(Bayonet Constitution)とも呼称こしょうされる。これにたいし、1891ねん即位そくいした女王じょおうリリウオカラニは、1893ねん1がつ14にちおう党派とうはとともにしん憲法けんぽうあん起草きそうするが、2にち1がつ16にちにアメリカの支援しえんけた共和きょうわクーデターこし、リリウオカラニを退位たいいんだ[62]。リリウオカラニ退位たいい共和きょうわサンフォード・ドール大統領だいとうりょうとしたハワイ共和きょうわこく樹立じゅりつした。ハワイ共和きょうわこくはアメリカの傀儡かいらい政権せいけんであったため、1898ねんにハワイはアメリカに併合へいごうされた[63]

こうして、19世紀せいき後半こうはん植民しょくみんまぬかれている地域ちいきはサモアのみとなった。サモアはイギリス、アメリカのほか後発こうはつドイツ帝国ていこく勢力せいりょく拮抗きっこうした緩衝かんしょう地帯ちたいとなっていた。サモアは、ドイツじん実業じつぎょうであるヨハン・セザール・ゴーデフロイ6せい英語えいごばん(Johann Cesar VI. Godeffroy)が1856ねんアピア事務所じむしょいて以来いらい、ドイツ勢力せいりょく南太平洋みなみたいへいようにおける拠点きょてんとなっており、1850年代ねんだい当時とうじざいサモアドイツ領事りょうじはゴッテフロイ商会しょうかい支配人しはいにんであった[64]当時とうじのサモアには統一とういつ政権せいけんがなかったが、1875ねんからマリエトア・ラウペパ英語えいごばん(Malietoa Laupepa)がサモアのだい首長しゅちょうとなっていた[65]。しかしマリエトア・ラウペパは、サモアにおけるドイツ企業きぎょう独占どくせんみとめるわりにアメリカの保護ほごこくになるという約束やくそくをしたことから、1887ねん各国かっこく領事りょうじあつりょくによってだい首長しゅちょう退位たいいさせられた[65]。その結果けっか権力けんりょく空白くうはくめぐり、1886ねんから1894ねんにかけてサモア内戦ないせん勃発ぼっぱつし、アメリカが支援しえんするマタアファ・イオセフォ英語えいごばん(Mata'afa Iosefo)とドイツが支援しえんするトゥプア・タマセセ・ティティマエア(Tupua Tamasese Titimaea)のあいだ戦闘せんとうおこなわれた[65]最終さいしゅうてきにマリエトア・ラウペパがサモアのだい首長しゅちょう復帰ふっきすることで戦争せんそう終結しゅうけつしたものの、マリエトア・ラウペパの死後しご1898ねんから1899ねんにかけてだいサモア内戦ないせん勃発ぼっぱつした。だいサモア内戦ないせんではマタアファ・イオセフォをドイツが支援しえんし、マリエトア・ラウペパの息子むすこであるマリエトア・タヌマフィリ1せい英語えいごばん(Malietoa Tanumafili I)をイギリスとアメリカが支援しえんした。サモア問題もんだい最終さいしゅうてき解決かいけつは、1899ねん12月2にちにドイツ、アメリカ、イギリスの3こくあいだ締結ていけつされたさんしゃ協定きょうてい英語えいごばん(Tripartite Convention)であった。この協定きょうていにより、アメリカは西経せいけい171せん以東いとうトゥトゥイラとうふくひがしサモアアメリカりょうサモア)、ドイツはウポルとうふく西にしサモアドイツりょうサモア)を獲得かくとくし、イギリスはサモアから撤退てったいするわりにトンガおよびソロモン諸島しょとう支配しはいを2こくみとめさせた[65]

イースターとう1888ねん以来いらいチリりょうであったが、1937ねん昭和しょうわ12ねん)、チリ政府せいふから日本にっぽん、イギリス、アメリカかく政府せいふたいしてイースターとうおよびサラ・イ・ゴメスとう売却ばいきゃく打診だしんおこなわれた。日本にっぽん政府せいふはイースターとう経済けいざいてき有用ゆうようせいみとめつつも、日米にちべい関係かんけい悪化あっか懸念けねんしたため購入こうにゅう断念だんねんしている[66]

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、8がつにドイツりょうサモアはオーストラリアぐんニュージーランドぐんによって占領せんりょう英語えいごばんされた。9月22にちにはドイツ東洋とうよう艦隊かんたいによるパペーテ砲撃ほうげきおこなわれ、パペーテのまちだい部分ぶぶん破壊はかいされた。これ以降いこうポリネシアでの戦闘せんとうはなく、西にしサモアはそのまま軍政ぐんせいしたかれ、1920ねん12月17にちニュージーランド委任いにん統治とうちりょう西にしサモア英語えいごばん発足ほっそくし、ニュージーランドの委任いにん統治とうちりょうとなった。

だい世界せかい大戦たいせん

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1941ねん昭和しょうわ16ねん12月7にち炎上えんじょうする戦艦せんかんウェストバージニア

1941ねん昭和しょうわ16ねん12月7にち日本にっぽん海軍かいぐんによる真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきおこなわれ、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)が勃発ぼっぱつした。日米にちべい開戦かいせん日本にっぽんぐんだいだん作戦さくせんとしてFS作戦さくせん企図きとした。これは、フィジーやサモアを攻略こうりゃくして、アメリカとオーストラリア補給ほきゅうせん遮断しゃだんするという作戦さくせんであったが、1942ねん昭和しょうわ17ねん)6がつおこなわれたミッドウェー海戦かいせん日本にっぽんぐんやぶれたため、最終さいしゅうてき作戦さくせん中止ちゅうしされた[67]

その、ポリネシアでのおおきな戦闘せんとうはなく、太平洋戦争たいへいようせんそう期間きかんちゅう、ポリネシアは連合れんごうぐん後方こうほう兵站へいたん基地きちとして機能きのうした。ニュージーランドには北島きたじま南部なんぶみなみワイララパ地方ちほう英語えいごばんフェザーストン英語えいごばん(Featherston)に捕虜ほりょ収容しゅうようしょ開設かいせつされ、ガダルカナルとうたたかだいさんソロモン海戦かいせんなどによって捕虜ほりょとなった日本にっぽんへいやく600めい収容しゅうようされていた[68]。ニュージーランドぐんによる日本にっぽんへい捕虜ほりょあつかいは丁重ていちょうなものであった[69]が、1943ねん昭和しょうわ18ねん2がつ25にちフェザーストン事件じけん発生はっせいし、日本にっぽんへい38めいとニュージーランドへい1めい死亡しぼうした[70]

ハワイでは、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきの8あいだはんから1944ねん10月24にちまで戒厳かいげんれいかれ、すべてがぐん管理かんりとなった[71]オアフとう土地とちの30%あまりがぐん用地ようちとして接収せっしゅうされ、住民じゅうみん身分みぶん証明しょうめいしょ携帯けいたい義務付ぎむづけられたうえ日没にちぼつ以降いこう外出がいしゅつ禁止きんしされた[71]手紙てがみ電話でんわ検閲けんえつけ、英語えいご以外いがい言語げんご電話でんわをすることは禁止きんしされた[71]日系にっけいじんはハワイの人口じんこうの40%をめていたため、僧侶そうりょ日本語にほんご学校がっこう教師きょうしなど「危険きけん人物じんぶつ」とみなされた1500にんほどをのぞいて、アメリカ本土ほんどのような強制きょうせい収容しゅうようまぬかれた[72]。しかし、日系にっけいじんかばんってあるいているだけでスパイうたがわれ逮捕たいほされるなど、日系にっけいじんたいする不信ふしんかんがハワイにひろがっていた[73]。そのため日系にっけいじんたちは、自身じしんがアメリカじんであることを証明しょうめいすべく、家庭かていないにある日本にっぽんてきもの処分しょぶんする、もちつきひなまつ盆踊ぼんおどなどの年中ねんじゅう行事ぎょうじりやめる、洋服ようふく着用ちゃくよう和服わふく着用ちゃくようをやめるなど日本にっぽんてき習慣しゅうかん排除はいじょし、さらに日本にっぽんふう名前なまえから欧米おうべいふうファーストネーム改名かいめいするものも2,000にんえた[74]。そして日系にっけいせい若者わかものたちは、べいぐん志願しがんすることで自身じしん忠誠ちゅうせいしん証明しょうめいしようとした。ハワイには、日米にちべい開戦かいせんまえから日系にっけいじん部隊ぶたいであるだい100歩兵ほへい大隊だいたい存在そんざいしたが、1943ねんべいぐん日系にっけいじん1,500にん募集ぼしゅうしたところ、ハワイだけで1まんにん以上いじょう応募おうぼがあり、そのうち2,700にん入隊にゅうたい許可きょかされ[75]あらたにだい442連隊れんたい戦闘せんとうだん編成へんせいされた。だい100歩兵ほへい大隊だいたいおよびだい442連隊れんたい戦闘せんとうだん1943ねん9月9にちアヴァランチ作戦さくせん皮切かわきりに、おもイタリアフランス派遣はけんされ、モンテ・カッシーノのたたかヴォージュけんブリュイエール(Bruyères)とビフォンテーヌ英語えいごばん(Biffontaine)でのたたかい、ダッハウ強制きょうせい収容しゅうようしょ解放かいほうなどに参加さんかした。だい442連隊れんたい戦闘せんとうだん従軍じゅうぐんした7,500めいのうち、700めい戦死せんしし、700めい手足てあしうしない、1000めい重傷じゅうしょうった[75]

現代げんだいのポリネシア

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2012ねん太平洋たいへいよう諸島しょとうフォーラムに参加さんかした各国かっこく首脳しゅのうたち。クック諸島しょとう開催かいさいされた。

だい世界せかい大戦たいせん西にしサモアは1946ねん12月13にち信託しんたく統治とうちりょう移行いこうしたのち、1962ねん西にしサモアとして独立どくりつたした[76]。その1970ねんにトンガ、ツバルは1974ねんギルバート諸島しょとうげんキリバスりょう)と分離ぶんりしたのち1978ねん独立どくりつした[76]。クック諸島しょとうとニウエは1974ねんからニュージーランドの自由じゆう連合れんごうくにとなっており、外交がいこう防衛ぼうえいはニュージーランドがおこない、住民じゅうみん国籍こくせきもニュージーランドのままであるが、内政ないせい自治じちけん独自どくじ国際こくさい機関きかん加盟かめいする権利けんりあたえられた。その1993ねん8がつ4にちにニュージーランドは2こく主権しゅけん国家こっかとして承認しょうにんし、外交がいこうけんあたえられたため、日本にっぽん2011ねん6月16にちにクック諸島しょとう[77]2015ねん5月15にちにニウエを国家こっか承認しょうにんし、国交こっこう樹立じゅりつしている[78]一方いっぽう、ハワイは1959ねん8がつ21にちにアメリカ50番目ばんめしゅう昇格しょうかくした[79]

ポリネシアのうち、21世紀せいき現在げんざいでも伝統でんとうてき生活せいかつつづけているしまは、ハワイのニイハウとうなどごくわずかである[80]。 ハワイやタヒチは1960年代ねんだいころ主要しゅよう産業さんぎょう農業のうぎょうから観光かんこうへと転換てんかんし、世界せかいてき観光かんこうとなった。一方いっぽうで、独立どくりつたしたものの、きゅう宗主そうしゅこく先進せんしんこくからの経済けいざい援助えんじょがなければかないくに地域ちいきおおく、しょう島嶼とうしょ開発かいはつ途上とじょうこく分類ぶんるいされるくに地域ちいきがほとんどである[81]とくにツバルは後発こうはつ開発かいはつ途上とじょうこくにも分類ぶんるいされるじょう国土こくどのすべてが低地ていち環礁かんしょうしまであるため、地球ちきゅう温暖おんだんおよび海面かいめん上昇じょうしょうによる国土こくど水没すいぼつ危機ききひんしている[82]

まただい世界せかい大戦たいせん、アメリカ、イギリス、フランスの3こくはポリネシア地域ちいきかく実験じっけんおこなった。とくにフランスは、1960ねんから1996ねんまでトゥアモトゥ諸島しょとう南部なんぶムルロア環礁かんしょうファンガタウファ環礁かんしょうで200かいあまりのかく実験じっけんおこなった[83]。このフランスによるかく実験じっけんたいし、1965ねん南太平洋みなみたいへいよう委員いいんかいげん太平洋たいへいよう共同きょうどうたい)の席上せきじょうで、クック諸島しょとう代表だいひょうかく実験じっけん反対はんたい立場たちば表明ひょうめいした[84]。さらに1971ねん8がつには、島嶼とうしょこく主体性しゅたいせい堅持けんじし、結束けっそくはかることを目的もくてきとして、イギリスやアメリカ、フランスの影響えいきょうりょくつよ南太平洋みなみたいへいよう委員いいんかいとは別個べっこに、南太平洋みなみたいへいようフォーラム (South Pacific Forum; SPF) がクック諸島しょとう西にしサモア、トンガ、ニュージーランド、フィジー、ナウル、オーストラリアの7つのくに地域ちいきによって創設そうせつされた[84]。そのも、南太平洋みなみたいへいようフォーラム(げん太平洋たいへいよう諸島しょとうフォーラム)はかく実験じっけん太平洋たいへいようへの放射ほうしゃせい廃棄はいきぶつ投棄とうきには反対はんたい立場たちばつづけており、1985ねん8がつ6にちには加盟かめいこくあいだ南太平洋みなみたいへいよう非核ひかく地帯ちたい条約じょうやく(ラロトンガ条約じょうやく)が調印ちょういんされた[85]。また1980ねん昭和しょうわ55ねん)に、日本にっぽん科学技術庁かがくぎじゅつちょう小笠原諸島おがさわらしょとうおき放射ほうしゃせい廃棄はいきぶつ海洋かいよう投棄とうきする計画けいかく発表はっぴょうしたさいには、日本にっぽん政府せいふたいして連名れんめい抗議こうぎおこなった[86][85]。しかし、日本にっぽん太平洋たいへいよう諸島しょとうフォーラムの関係かんけいけっしてわるいものではなく、1997ねん平成へいせい9ねん以来いらい3ねんに1かいのペースで、日本にっぽん太平洋たいへいよう諸島しょとうフォーラム首脳しゅのう会議かいぎ太平洋たいへいようしまサミット Pacific Islands Leaders Meeting: PALM)が日本にっぽん国内こくない開催かいさいされている[87]

民族みんぞく

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ポリネシア文化ぶんか

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パレオてダンスをするマルキーズしょ島民とうみん1909ねん撮影さつえいされた。

ポリネシアはラピタ文化ぶんか時代じだい植民しょくみんされた西にしポリネシア(サモア、トンガとう)と、ポリネシア文化ぶんか成立せいりつ植民しょくみんされたひがしポリネシア(ハワイ、タヒチ、テ・ヘヌア・エナナ、ラパ・ヌイ、アオテアロアとう)にけられる。西洋せいようじんがこの海域かいいき到達とうたつした時点じてんでポリネシアじん相互そうごきわめて似通にかよった言語げんごポリネシア諸語しょご)をはなしており、キャプテン・クックがタヒチからハワイに同行どうこうした人物じんぶつは、ハワイじんとの会話かいわほとん困難こんなんおぼえなかったとつたえている。また、ポリネシア海域かいいきない先住民せんじゅうみん身体しんたい形質けいしつ同質どうしつせいきわめてたかい。

「ハワイキ」

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ポリネシアじんたちはみずからのを「ハワイキ」「アヴァイキ英語えいごばん」などとんだ。この言葉ことばはポリネシア各地かくち若干じゃっかんことなっており、タヒチでは「ハヴァイイ」、ツアモツ諸島しょとうなどでは「ハヴァイキ」、クック諸島しょとうでは「アヴァイキ」、サモアでは「サヴァイイ」、ニュージーランドでは「ハワイキ」、ハワイ諸島しょとうでは「ハワイイ」などとなっている。

サモアの建築けんちくなどにみられる伝統でんとうてき住居じゅうきょファレ」は日射ひざしをけて風通かぜとおしをよくするためはしら屋根やねだけでかべあいだ仕切じきりのない構造こうぞうである[88]

自然しぜん

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火山かざんとうおおい。たとえば、サモアマルケサス諸島しょとう島々しまじまラパヌイ(イースターとう)などである。これらの火山かざんとう玄武岩げんぶがん構成こうせいされ、屹立きつりつした高山たかやましま中央ちゅうおう付近ふきん分布ぶんぷしている。土壌どじょう肥沃ひよくで、降水こうすいりょうおおく、植物しょくぶつしょう多様たようである。やま裾野すそのには森林しんりん発達はったつし、巨木きょぼく林立りんりつしている。沿岸えんがんではシダるいやヤシるい繁殖はんしょくしている。[89]

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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