ポリネシア(紫 むらさき ),ミクロネシア (赤 あか ),メラネシア (青 あお )
ポリネシアの地理 ちり 的 てき 定義 ていぎ
ポリネシア (Polynesia )は、オセアニア の海洋 かいよう 部 ぶ の分類 ぶんるい の一 ひと つである。太平洋 たいへいよう で、概 おおむ ねミッドウェ みっどうぇ ー諸島 しょとう (北西 ほくせい ハワイ諸島 しょとう 内 うち )、アオテアロア (ニュージーランド のマオリ語 ご 名 な )、ラパ・ヌイ(イースター島 とう )を結 むす んだ三角形 さんかっけい (ポリネシアン・トライアングル )の中 なか にある諸島 しょとう の総称 そうしょう で、2017年 ねん の人口 じんこう は約 やく 700万 まん 人 にん 。
イースター島 とう のモアイ 像 ぞう
ハワイ火山 かざん 国立 こくりつ 公園 こうえん
ボラボラ島 とう の水上 すいじょう コテージ
ポリネシアはギリシャ語 ご のポリ(πολύς 多 おお くの)ネソス(ν にゅー ῆσος 島 しま )から、「多 おお くの島々 しまじま 」の意味 いみ である[ 1] 。ポリネシアという用語 ようご は1832年 ねん 、フランス の海軍 かいぐん 提督 ていとく ジュール・デュモン・デュルヴィル (Jules Dumont d'Urville)が、メラネシア やミクロネシア とは違 ちが うこの地域 ちいき の民族 みんぞく 的 てき ・地理 ちり 的 てき 分類 ぶんるい のために使 つか い始 はじ めた。
なお、ポリネシアに含 ふく まれる国 くに と地域 ちいき は以下 いか の通 とお りである。
主権 しゅけん 国家 こっか
以下 いか の2国 こく はニュージーランドの自由 じゆう 連合 れんごう 国 くに である。
フランス 領 りょう
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 領 りょう
ニュージーランド 領 りょう
イギリス 領 りょう
チリ 領 りょう
ウベア島 とう
レンネル島 とう のテンガノ湖 こ
域外 いきがい ポリネシア (Polynesian outlier)と呼 よ ばれる、ポリネシア文化 ぶんか を保持 ほじ した島々 しまじま がミクロネシア およびメラネシア に点在 てんざい している。域外 いきがい ポリネシアには、ポリネシア・トライアングル内 ない では失 うしな われてしまった古代 こだい の知識 ちしき が継承 けいしょう されている地域 ちいき があり、特 とく にソロモン諸島 しょとう に属 ぞく するサンタ・クルーズ諸島 しょとう のタウマコ島 とう (英語 えいご 版 ばん ) (Taumako)は、古代 こだい ポリネシアの航法 こうほう 技術 ぎじゅつ (後述 こうじゅつ )に最 もっと も近 ちか い技術 ぎじゅつ を継承 けいしょう している地域 ちいき として注目 ちゅうもく を集 あつ めている[ 14] [ 15] 。域外 いきがい ポリネシアとされる島 しま は以下 いか の通 とお りである[ 16] 。
ツバル系 けい
フツナ 系 けい
その他 た
ポリネシア人 じん の移住 いじゅう ルート
ポリネシア人 じん の祖先 そせん はオーストロネシア語 ご を話 はな すモンゴロイド系 けい の民族 みんぞく で、その祖先 そせん は台湾 たいわん に定住 ていじゅう していた[ 17] 。紀元前 きげんぜん 2500年 ねん 頃 ころ 、一部 いちぶ のグループが台湾 たいわん から南下 なんか を開始 かいし し、フィリピン を経 へ て紀元前 きげんぜん 2000年 ねん 頃 ころ にインドネシア のスラウェシ島 とう に到達 とうたつ した。
ラピタ人 じん と称 しょう される原 げん ポリネシア人 じん は、ここからニューギニア島 とう 沿岸 えんがん およびメラネシア へと東進 とうしん し、紀元前 きげんぜん 1100年 ねん 頃 ころ にはフィジー諸島 しょとう に到達 とうたつ した。現在 げんざい 、ポリネシアと呼 よ ばれる地域 ちいき への移住 いじゅう は紀元前 きげんぜん 950年 ねん 頃 ころ からで、サモアやトンガからもラピタ人 じん の土器 どき が出土 しゅつど している。サモアに到達 とうたつ した時点 じてん でラピタ人 じん の東 ひがし への移住 いじゅう の動 うご きは一旦 いったん 止 と まるのだが、その間 あいだ にポリネシア文化 ぶんか が成立 せいりつ していったと考 かんが えられている[ 18] 。
再 ふたた び東 ひがし への移住 いじゅう を開始 かいし するのは1世紀 せいき 頃 ころ からで、ポリネシア人 じん たちはカタマラン やアウトリガーカヌー を用 もち い、エリス諸島 しょとう やマルキーズ諸島 しょとう 、ソシエテ諸島 しょとう にまず移住 いじゅう した。その後 ご 、マルキーズ諸島 しょとう やソシエテ諸島 しょとう を中心 ちゅうしん に300年 ねん 頃 ころ にイースター島 とう 、400年 ねん 頃 ころ にハワイ諸島 しょとう 、1000年 ねん 頃 ころ にクック諸島 しょとう やニュージーランドに到達 とうたつ した[ 19] 。なお、ポリネシア人 じん たちは太平洋 たいへいよう 各地 かくち に拡散 かくさん したのちも、ウェイファインディング (スターナビゲーション)という高 たか い航法 こうほう 技術 ぎじゅつ によって互 たが いに行 い き来 き が行 おこな われていた。
チリ南部 なんぶ のチロエ島 とう で行 おこな われているクラント
ポリネシアと南米 なんべい の間 あいだ で航海 こうかい が行 おこな われた確実 かくじつ な証拠 しょうこ は見 み つかっていない。しかし、ポリネシア人 じん の主食 しゅしょく のひとつであるサツマイモ は南米 なんべい 原産 げんさん であり、ヨーロッパ人 じん の来航 らいこう 前 まえ に既 すで にポリネシア域内 いきない では広 ひろ くサツマイモが栽培 さいばい されていた[ 20] [ 21] 。そのうえサツマイモは、アンデス地方 ちほう のケチュア語族 ごぞく ではクマル (Kumar )、ポリネシアのトンガ語 ご ではクマラ (Kumala )と呼称 こしょう される[ 21] 。そのほかに、ポリネシアやミクロネシア で一般 いっぱん 的 てき な、肉類 にくるい やイモ などの食材 しょくざい をバナナ やココヤシ の葉 は で巻 ま いた後 のち 、焼 や け石 いし とともに土中 どちゅう に埋 う めて蒸 む し上 あ げるウム料理 りょうり という調理 ちょうり 法 ほう [ 22] [ 23] [ 24] は、ペルー のパチャマンカ (Pachamanca)やチリ南部 なんぶ チロエ島 とう のクラント (英語 えいご 版 ばん ) (Curanto)として南米 なんべい の太平洋 たいへいよう 沿岸 えんがん 地域 ちいき にも存在 そんざい する[ 25] など、古代 こだい ポリネシア人 じん が南米 なんべい までの航海 こうかい を行 おこな った可能 かのう 性 せい は否定 ひてい できない[ 21] 。
ペルー太平洋 たいへいよう 岸 がん の民族 みんぞく にはポリネシアとの交流 こうりゅう を示唆 しさ する伝承 でんしょう が存在 そんざい する[ 26] 。インカ帝国 ていこく の10代サパ・インカ (皇帝 こうてい )であるトゥパック・インカ・ユパンキ は、1480年 ねん 頃 ころ に20,000の兵力 へいりょく で太平洋 たいへいよう 上 じょう の「ニナ・チュンピ(炎 ほのお の帯 おび )」、「ハフア・チュンピ(離 はな れた帯 おび )」の2つの島 しま に遠征 えんせい し、財宝 ざいほう を持 も ち帰 かえ ったとされている。またこれに対 たい し、ポリネシア側 がわ でもトゥアモトゥ諸島 しょとう に東 ひがし からトパという英雄 えいゆう が来航 らいこう したという伝承 でんしょう がある[ 26] 。更 さら に、インカ帝国 ていこく を征服 せいふく したフランシスコ・ピサロ (Francisco Pizarro)の従兄弟 いとこ であるペドロ・ピサロ (英語 えいご 版 ばん ) (Pedro Pizarro)が1570年 ねん に残 のこ した記録 きろく には、「ペルー太平洋 たいへいよう 岸 がん の民族 みんぞく は海 うみ の向 む こうと交流 こうりゅう を行 おこな っていたが、今 いま (1570年 ねん )では大 だい 海流 かいりゅう (フンボルト海流 かいりゅう )によって妨 さまた げられて接触 せっしょく が断 た たれている」との記述 きじゅつ がある[ 26] 。
また、ノルウェー の人類 じんるい 学者 がくしゃ であるトール・ヘイエルダール (Thor Heyerdahl)はポリネシア人 じん の南米 なんべい 起源 きげん 説 せつ を提唱 ていしょう し、1947年 ねん にコンティキ号 ごう という筏 いかだ でペルーのカヤオ 沖 おき 80kmの地点 ちてん からトゥアモトゥ諸島 しょとう ラロイア環礁 かんしょう (英語 えいご 版 ばん ) まで、6,980kmの距離 きょり を101日 にち で航海 こうかい した[ 27] 。
しかし2014年 ねん に、ポリネシアの遺跡 いせき で出土 しゅつど したニワトリ の骨 ほね から検出 けんしゅつ したミトコンドリアDNA と、南米 なんべい の古代 こだい と現代 げんだい のニワトリのミトコンドリアDNAの比較 ひかく 解析 かいせき が行 おこな われた結果 けっか 、両者 りょうしゃ に遺伝 いでん 的 てき 関連 かんれん 性 せい はみられなかった[ 28] 。
ハアモンガの石門 せきもん
10世紀 せいき 頃 ころ 、サモア人 じん を両親 りょうしん に持 も つアホエイトゥ (英語 えいご 版 ばん ) (ʻAhoʻeitu)によってトンガが統一 とういつ され、トンガ大 だい 首長 しゅちょう 国 こく (Tu'i Tonga トンガ帝国 ていこく )が建国 けんこく された[ 29] 。トンガ大 だい 首長 しゅちょう 国 こく は12世紀 せいき 頃 ころ 、第 だい 9代 だい 大 だい 首長 しゅちょう モモ (英語 えいご 版 ばん ) (Momo)と第 だい 10代大 だい 首長 しゅちょう トゥイタトゥイ (英語 えいご 版 ばん ) (Tuʻi-tā-tui)の時代 じだい に拡張 かくちょう 政策 せいさく を行 おこな い、トンガのほかにサモア諸島 しょとう やフィジー諸島 しょとう 、果 は てはサンタクルーズ諸島 しょとう のティコピア島 とう にまで至 いた る大 だい 帝国 ていこく をき上 ずきあ げた。
15世紀 せいき 頃 ころ 、暴君 ぼうくん であった第 だい 23代 だい 大 だい 首長 しゅちょう タカラウア(Takalaua)の暗殺 あんさつ を機 き に、トンガ大 だい 首長 しゅちょう 国 こく では宗教 しゅうきょう 的 てき な権力 けんりょく と世俗 せぞく 的 てき な権力 けんりょく が分離 ぶんり した[ 29] 。そのため、従来 じゅうらい のトゥイ・トンガ (英語 えいご 版 ばん ) (大 だい 首長 しゅちょう )の称号 しょうごう のほかに世俗 せぞく 的 てき な権力 けんりょく を担 にな うトゥイ・ハアタカラウア (英語 えいご 版 ばん ) (Tuʻi Haʻatakalaua)の称号 しょうごう が誕生 たんじょう し、それぞれタカラウアの長男 ちょうなん であるカウウルフォヌア1世 せい (Kau'ulufonua I)とその弟 おとうと モウンガモトゥア(Mo'ungamotu'a)の家系 かけい が世襲 せしゅう することになった。しかしこの後 のち 、内乱 ないらん によってトンガ大 だい 首長 しゅちょう 国 こく は衰退 すいたい し、1600年 ねん 頃 ころ にはマリエトア (英語 えいご 版 ばん ) 一族 いちぞく によって、サモアでの影響 えいきょう 力 りょく を失 うしな った。
1610年 ねん 頃 ころ 、新 あら たにトゥイ・カノクポル (英語 えいご 版 ばん ) (Tuʻi Kanokupolu)が誕生 たんじょう する。トゥイ・カノクポルは第 だい 6代 だい トゥイ・ハアタカラウアの分家 ぶんけ であったが、やがてトゥイ・ハアタカラウアと世俗 せぞく 的 てき な権力 けんりょく を巡 めぐ って競合 きょうごう するようになった[ 30] 。
アベル・タスマン
ヨーロッパ人 じん による最初 さいしょ の太平洋 たいへいよう 航海 こうかい は、1521年 ねん にスペイン のフェルディナンド・マゼラン (Ferdinand Magellan)が行 おこな った航海 こうかい であるが、マゼラン艦隊 かんたい はトゥアモトゥ諸島 しょとう やライン諸島 しょとう の無人島 むじんとう に接触 せっしょく したのみで、ポリネシア人 じん には接触 せっしょく しなかった[ 31] 。ヨーロッパ人 じん による本格 ほんかく 的 てき なポリネシア探検 たんけん の始 はじ まりは、1642年 ねん にアベル・タスマン (Abel Tasman)が、オランダ東 ひがし インド会社 かいしゃ の依頼 いらい を受 う けて行 い った探検 たんけん である。タスマンはこの探検 たんけん でニュージーランド南島 なんとう やトンガに到達 とうたつ し、マオリ人 じん とは敵対 てきたい したが、トンガ人 じん とは友好 ゆうこう 的 てき な交流 こうりゅう を行 おこな い、トゥイ・ハアタカラウアに謁見 えっけん している[ 32] 。また1722年 ねん 、ヤーコプ・ロッヘフェーン は南方 みなかた 大陸 たいりく 探索 たんさく のために太平洋 たいへいよう を探検 たんけん し、イースター島 とう 、ボラボラ島 とう 、サモアに到達 とうたつ している[ 33] 。
1768年 ねん 、イギリス のサミュエル・ウォリス (Samuel Wallis)は初 はじ めてタヒチに到達 とうたつ したヨーロッパ人 じん となった。その10箇月 かげつ 半 はん 後 ご にはフランス のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル (Louis Antoine de Bougainville)もタヒチを訪 おとず れている[ 34] 。
ジェームズ・クック
ポリネシアの残 のこ りの地域 ちいき の詳細 しょうさい が判明 はんめい するのは、1768年 ねん から1780年 ねん にかけて行 おこな われたジェームズ・クック (James Cook)による3回 かい にわたる探検 たんけん 航海 こうかい である。クックはタヒチ、ニュージーランド、トンガのほか、1778年 ねん の第 だい 3回 かい 航海 こうかい の途上 とじょう でハワイ諸島 しょとう に到達 とうたつ している[ 35] 。なお、第 だい 3回 かい 航海 こうかい に参加 さんか したウィリアム・ブライ (William Bligh)は、1787年 ねん にバウンティ号 ごう (HMS Bounty)の船長 せんちょう になるが、1789年 ねん 4月 がつ 28日 にち にトンガ沖 おき で乗組 のりくみ 員 いん による反乱 はんらん 事件 じけん を起 お こされている。この事件 じけん はバウンティ号 ごう の反乱 はんらん (Mutiny on the Bounty)といい、バウンティ号 ごう を追放 ついほう されたブライ以下 いか 19人 にん は、ボート で6,701km離 はな れたティモール島 とう にたどり着 つ き生還 せいかん する。一方 いっぽう 、反乱 はんらん を起 お こした乗組 のりくみ 員 いん たちはタヒチに戻 もど り、16人 にん はタヒチに残留 ざんりゅう したが、8人 にん はタヒチ人 じん の男女 だんじょ を船 ふね に乗 の せて無人島 むじんとう であったピトケアン島 とう に移住 いじゅう した[ 36] [ 37] 。
また1804年 ねん には、ロシア帝国 ていこく のニコライ・レザノフ (Николай Резанов )が指揮 しき する2隻 せき の艦隊 かんたい が、マルキーズ諸島 しょとう ヌク・ヒバ島 とう とハワイに寄港 きこう した。2隻 せき のうちのナジェジダ号 ごう (英語 えいご 版 ばん ) (Надежда )には、陸奥 みちのく 国 こく 牡鹿 おしか 郡 ぐん 石巻 いしのまき (現 げん :宮城 みやぎ 県 けん 石巻 いしのまき 市 し )出身 しゅっしん の津 つ 太夫 たゆう や善 ぜん 六 ろく ら若 わか 宮丸 みやまる 漂流 ひょうりゅう 民 みん 5名 めい が乗 の っており、確実 かくじつ な記録 きろく に残 のこ っている中 なか では、若宮 わかみや 丸 まる 漂流 ひょうりゅう 民 みん 5名 めい が初 はじ めてポリネシアを訪 おとず れた日本人 にっぽんじん である[ 38] 。
1774年 ねん のソシエテ諸島 しょとう フアヒネ島 とう
18世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう 、ポリネシアの探検 たんけん が一 いち 通 とお り終了 しゅうりょう したことにより、捕鯨 ほげい 船 せん と商人 しょうにん と宣教師 せんきょうし がポリネシアに姿 すがた を見 み せるようになった[ 39] 。
捕鯨 ほげい 船 せん はポリネシアの社会 しゃかい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。18世紀 せいき から19世紀 せいき 初頭 しょとう にかけての捕鯨 ほげい 船員 せんいん は、強制 きょうせい 徴募 ちょうぼ によって集 あつ められた者 もの が多 おお かった[ 40] ため、その質 しつ は劣悪 れつあく であった[ 41] 。こうした捕鯨 ほげい 船員 せんいん たちの中 なか には寄港 きこう 地 ち で脱走 だっそう を図 はか ったり、また船長 せんちょう に置 お き去 ざ りにされるケースもあったため、ポリネシアの島々 しまじま に性病 せいびょう のほか天然痘 てんねんとう 、はしか 、インフルエンザ などの伝染 でんせん 病 びょう をもたらし、抵抗 ていこう 力 りょく を持 も たないポリネシア人 じん の人口 じんこう は激減 げきげん した[ 41] 。
初期 しょき の商人 しょうにん たちは、島民 とうみん との交易 こうえき のほか、中国 ちゅうごく で珍重 ちんちょう されている白檀 びゃくだん やナマコ を目的 もくてき としており、首長 しゅちょう を人質 ひとじち にとって島民 とうみん を使役 しえき するなど暴力 ぼうりょく 的 てき な手段 しゅだん に出 で ることもあった[ 42] 。また、商人 しょうにん たちはマスケット銃 じゅう をポリネシアにもたらしたため、いち早 はや く銃 じゅう を入手 にゅうしゅ した勢力 せいりょく によってハワイ王国 おうこく やタヒチのポマレ王朝 おうちょう のような統一 とういつ 王朝 おうちょう が建国 けんこく された[ 43] 。やがて商人 しょうにん たちは、土地 とち の所有 しょゆう 権 けん という概念 がいねん の薄 うす い島民 とうみん たちから、契約 けいやく によって土地 とち を入手 にゅうしゅ または賃借 ちんしゃく し、コプラ 、サトウキビ 、コーヒー 、綿 めん などの換金 かんきん 作物 さくもつ をポリネシアに持 も ち込 こ み、農園 のうえん 主 ぬし となる者 もの が現 あらわ れた[ 44] 。また19世紀 せいき 後半 こうはん に、化学 かがく 肥料 ひりょう の原料 げんりょう としてグアノ が有用 ゆうよう であることが判明 はんめい すると、その採取 さいしゅ も行 おこな われた[ 45] 。こうして誕生 たんじょう した農園 のうえん では、当初 とうしょ は島民 とうみん たちが労働 ろうどう 者 しゃ として導入 どうにゅう されたものの、前述 ぜんじゅつ の事情 じじょう からポリネシア人 じん の人口 じんこう は激減 げきげん しており、働 はたら き手 て が足 た りなかったため、中国人 ちゅうごくじん 、インド人 じん 、日本人 にっぽんじん 、フィリピン人 じん などの移民 いみん が招聘 しょうへい されることになった[ 46] 。このような移民 いみん たちは苦力 くーりー と呼称 こしょう され、低 てい 賃金 ちんぎん で過酷 かこく な労働 ろうどう を強 し いられた[ 47] 。また反対 はんたい に、ポリネシア人 じん たちがブラックバーダー (英語 えいご 版 ばん ) (Black-birder)と呼 よ ばれる人身 じんしん 売買 ばいばい 専 せん 門 もん の商人 しょうにん に拉致 らち され、ペルーなど南米 なんべい の鉱山 こうざん で強制 きょうせい 労働 ろうどう させられるケースもあったが、国際 こくさい 的 てき な批判 ひはん もあり、1864年 ねん に禁止 きんし された[ 48] 。
宣教師 せんきょうし によるキリスト教 きりすときょう の布教 ふきょう は、1797年 ねん にタヒチでプロテスタント の布教 ふきょう が行 おこな われたのが嚆矢 こうし である[ 49] 。ほどなくカトリック の布教 ふきょう も始 はじ まり、プロテスタント勢力 せいりょく のバックにはイギリスとアメリカ、カトリック勢力 せいりょく のバックにはフランスがつき[ 50] 、それぞれポリネシアの首長 しゅちょう 層 そう の紛争 ふんそう にも介入 かいにゅう した。トンガは1799年 ねん 以降 いこう 、トゥイ・トンガ、トゥイ・ハアタカラウア、トゥイ・カノクポルの間 あいだ で三 み つ巴 どもえ の内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ し、最初 さいしょ にトゥイ・ハアタカラウアがトゥイ・カノクポルに敗 やぶ れ消滅 しょうめつ した。1826年 ねん 、ハアパイ諸島 しょとう の首長 しゅちょう であったタウファアハウ (英語 えいご 版 ばん ) (Taufa'ahau)にプロテスタントの宣教師 せんきょうし が接近 せっきん した。タウファアハウは軍事 ぐんじ 的 てき な支援 しえん と引 ひ き換 か えにプロテスタントに改宗 かいしゅう し、イギリス風 ふう にジョージ・ツポウ1世 せい (George Tupou I)と改名 かいめい した[ 51] 。これに対 たい して、第 だい 39代 だい トゥイ・トンガであるラウフィリトンガ (英語 えいご 版 ばん ) (Laufilitonga)もカトリック勢力 せいりょく を味方 みかた につけ、ジョージ・ツポウ1世 せい と対立 たいりつ した[ 52] 。両 りょう 勢力 せいりょく は同年 どうねん にリフカ島 とう で決戦 けっせん を行 おこな った結果 けっか 、ジョージ・ツポウ1世 せい が勝利 しょうり した。ジョージ・ツポウ1世 せい はその後 ご もキリスト教 きりすときょう に反対 はんたい するトンガタプ島 とう の首長 しゅちょう 勢力 せいりょく から抵抗 ていこう に遭 あ ったものの、1845年 ねん に第 だい 18代 だい トゥイ・カノクポルであるアレアモトゥア (英語 えいご 版 ばん ) (Aleamotuʻa)から禅譲 ぜんじょう を受 う け、第 だい 19代 だい トゥイ・カノクポルとなりトンガを統一 とういつ した[ 53] 。
19世紀 せいき のポリネシアは、ハワイやトンガ、タヒチのように中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき な王国 おうこく が誕生 たんじょう している地域 ちいき もあったが、在地 ざいち 勢力 せいりょく の統一 とういつ が成 な されていない地域 ちいき も数多 かずおお く存在 そんざい した。
ニュージーランドは、19世紀 せいき 前半 ぜんはん からイギリス人 じん の入植 にゅうしょく 者 しゃ が多数 たすう 流入 りゅうにゅう しており、1840年 ねん 2月 がつ 6日 にち 、ワイタンギ条約 じょうやく によってイギリスの植民 しょくみん 地 ち となった。ワイタンギ条約 じょうやく はニュージーランド総督 そうとく 代理 だいり のウィリアム・ホブソン (英語 えいご 版 ばん ) (William Hobson)とマオリ人 じん の首長 しゅちょう たちの間 あいだ で締結 ていけつ された条約 じょうやく であり、第 だい 2条 じょう でマオリ人 じん の土地 とち 所有 しょゆう を保障 ほしょう したものであったために500人 にん あまりの首長 しゅちょう がワイタンギ条約 じょうやく に署名 しょめい した[ 54] 。しかし、入植 にゅうしょく 者 しゃ たちは羊毛 ようもう を輸出 ゆしゅつ するために牧畜 ぼくちく を導入 どうにゅう し、大 だい 規模 きぼ な土地 とち 買収 ばいしゅう が行 おこな われるようになったため、1864年 ねん の時点 じてん で南島 なんとう の土地 とち の99%が入植 にゅうしょく 者 しゃ の所有 しょゆう する土地 とち となっていた[ 54] 。これに対 たい してマオリ人 じん たちは反撥 はんぱつ し、1845年 ねん にニュージーランド戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) (マオリ戦争 せんそう )が勃発 ぼっぱつ し、武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ が始 はじ まった。戦争 せんそう は1861年 ねん 4月 がつ に一時 いちじ 休戦 きゅうせん するも、その後 ご もマオリ人 じん によるゲリラ 的 てき な抵抗 ていこう が続 つづ き、完全 かんぜん に鎮圧 ちんあつ されるのは1872年 ねん であった[ 54] 。ニュージーランドの白人 はくじん 人口 じんこう はこの後 のち も増加 ぞうか し、1907年 ねん 9月26日 にち にニュージーランドはイギリスの自治領 じちりょう (Dominion)となり、独自 どくじ の政府 せいふ を持 も てるようになった。イギリスはこの後 のち 、ニュージーランド以外 いがい のポリネシア各 かく 地域 ちいき の植民 しょくみん 地 ち 化 か を進 すす め、1872年 ねん にはイギリス領 りょう 西太平洋 にしたいへいよう 領土 りょうど (英語 えいご 版 ばん ) (British Western Pacific Territories)を成立 せいりつ させ、クック諸島 しょとう 、ニウエ、エリス諸島 しょとう 、トケラウをこれに含 ふく めた。また、トンガも1900年 ねん にイギリスの保護 ほご 国 こく となった[ 55] 。
フランスは19世紀 せいき 前半 ぜんはん からタヒチのポマレ王朝 おうちょう に対 たい する干渉 かんしょう を強 つよ めていった。ポマレ王朝 おうちょう は成立 せいりつ 以来 いらい プロテスタントの影響 えいきょう 下 か にあったが、1836年 ねん にポマレ4世 せい がフランス人 じん 宣教師 せんきょうし 2名 めい を国外 こくがい 追放 ついほう 処分 しょぶん にしたことをきっかけに、フランスはポマレ王朝 おうちょう に対 たい する干渉 かんしょう を強 つよ めていった。1843年 ねん 、フランスはポマレ王朝 おうちょう に対 たい し保護 ほご 条約 じょうやく の批准 ひじゅん を要求 ようきゅう したが、ポマレ4世 せい はこれに反対 はんたい し、反対 はんたい 派 は による武力 ぶりょく 闘争 とうそう が行 おこな われた。しかし、1847年 ねん 8月 がつ 5日 にち にポマレ4世 せい はフランスと保護 ほご 条約 じょうやく を締結 ていけつ した。その後 ご 、ポマレ王朝 おうちょう はポマレ5世 せい が王位 おうい を継承 けいしょう するものの、パナマ運河 うんが の開通 かいつう を睨 にら んだフランスによって1880年 ねん に併合 へいごう 協定 きょうてい に署名 しょめい させられ、ポマレ王朝 おうちょう はフランス領 りょう ポリネシア の一部 いちぶ となった[ 56] [ 57] [ 58] 。また、ウォリス・フツナに存在 そんざい するアロ首長 しゅちょう 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) 、ウベア首長 しゅちょう 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) 、シガベ首長 しゅちょう 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) の3つの王国 おうこく (首長 しゅちょう 国 こく )も1888年 ねん にフランスの保護 ほご 国 こく となり、1917年 ねん に併合 へいごう された。
ハワイ王国 おうこく カラカウア 王 おう の姪 めい であるカイウラニ 王女 おうじょ 。日本 にっぽん の山階 やましな 宮 みや 定 てい 麿 まろ 王 おう との縁 えん 談話 だんわ があった。
ハワイは、カメハメハ3世 せい の治世 ちせい 下 か である1840年 ねん に憲法 けんぽう が定 さだ められ、国際 こくさい 的 てき に独立 どくりつ 国家 こっか として承認 しょうにん されていた。しかし、経済 けいざい 的 てき な実権 じっけん はイギリス人 じん やアメリカ人 じん に握 にぎ られており、1850年 ねん に外国 がいこく 人 じん の土地 とち 所有 しょゆう 権 けん が認 みと められていた[ 59] 。1872年 ねん に親米 しんべい 派 は のルナリロ が国王 こくおう となると、ハワイはアメリカへの傾斜 けいしゃ を強 つよ めていき、1875年 ねん 6月3日 にち には米 べい 布 ぬの 互恵 ごけい 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、ハワイの全 すべ ての生産 せいさん 品 ひん は非課税 ひかぜい でアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 本土 ほんど への輸出 ゆしゅつ が可能 かのう となった[ 60] 。1887年 ねん 、ロリン・アンドリュース・サーストン (英語 えいご 版 ばん ) (Lorrin Andrews Thurston)率 ひき いる安全 あんぜん 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) (Committee of Safety)は、カラカウア 王 おう に対 たい して新 しん 憲法 けんぽう (英語 えいご 版 ばん ) の採択 さいたく を承認 しょうにん させた[ 61] 。この新 しん 憲法 けんぽう によって国王 こくおう が議会 ぎかい に対 たい して持 も っていた拒否 きょひ 権 けん が剥奪 はくだつ され、さらに外国 がいこく 人参 にんじん 政権 せいけん も認 みと められた反面 はんめん 、アジア系 けい 移民 いみん に対 たい する参政 さんせい 権 けん は剥奪 はくだつ された[ 61] 。武力 ぶりょく を背景 はいけい に採択 さいたく されたこの憲法 けんぽう は、銃剣 じゅうけん 憲法 けんぽう (Bayonet Constitution)とも呼称 こしょう される。これに対 たい し、1891年 ねん に即位 そくい した女王 じょおう リリウオカラニ は、1893年 ねん 1月 がつ 14日 にち に王 おう 党派 とうは とともに新 しん 憲法 けんぽう 案 あん を起草 きそう するが、2日 にち 後 ご の1月 がつ 16日 にち にアメリカの支援 しえん を受 う けた共和 きょうわ 派 は がクーデター を起 お こし、リリウオカラニを退位 たいい に追 お い込 こ んだ[ 62] 。リリウオカラニ退位 たいい 後 ご 、共和 きょうわ 派 は はサンフォード・ドール を大統領 だいとうりょう としたハワイ共和 きょうわ 国 こく を樹立 じゅりつ した。ハワイ共和 きょうわ 国 こく はアメリカの傀儡 かいらい 政権 せいけん であったため、1898年 ねん にハワイはアメリカに併合 へいごう された[ 63] 。
こうして、19世紀 せいき 後半 こうはん に植民 しょくみん 地 ち 化 か を免 まぬか れている地域 ちいき はサモアのみとなった。サモアはイギリス、アメリカのほか後発 こうはつ のドイツ帝国 ていこく の勢力 せいりょく が拮抗 きっこう した緩衝 かんしょう 地帯 ちたい となっていた。サモアは、ドイツ人 じん 実業 じつぎょう 家 か であるヨハン・セザール・ゴーデフロイ6世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (Johann Cesar VI. Godeffroy)が1856年 ねん にアピア に事務所 じむしょ を置 お いて以来 いらい 、ドイツ勢力 せいりょく の南太平洋 みなみたいへいよう における拠点 きょてん となっており、1850年代 ねんだい 当時 とうじ の在 ざい サモアドイツ領事 りょうじ はゴッテフロイ商会 しょうかい の支配人 しはいにん であった[ 64] 。当時 とうじ のサモアには統一 とういつ 政権 せいけん がなかったが、1875年 ねん からマリエトア・ラウペパ (英語 えいご 版 ばん ) (Malietoa Laupepa)がサモアの大 だい 首長 しゅちょう となっていた[ 65] 。しかしマリエトア・ラウペパは、サモアにおけるドイツ企業 きぎょう の独占 どくせん を認 みと める代 か わりにアメリカの保護 ほご 国 こく になるという約束 やくそく をしたことから、1887年 ねん に各国 かっこく 領事 りょうじ の圧 あつ 力 りょく によって大 だい 首長 しゅちょう を退位 たいい させられた[ 65] 。その結果 けっか 権力 けんりょく の空白 くうはく を巡 めぐ り、1886年 ねん から1894年 ねん にかけてサモア内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ し、アメリカが支援 しえん するマタアファ・イオセフォ (英語 えいご 版 ばん ) (Mata'afa Iosefo)とドイツが支援 しえん するトゥプア・タマセセ・ティティマエア(Tupua Tamasese Titimaea)の間 あいだ で戦闘 せんとう が行 おこな われた[ 65] 。最終 さいしゅう 的 てき にマリエトア・ラウペパがサモアの大 だい 首長 しゅちょう に復帰 ふっき することで戦争 せんそう は終結 しゅうけつ したものの、マリエトア・ラウペパの死後 しご 、1898年 ねん から1899年 ねん にかけて第 だい 二 に 次 じ サモア内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ した。第 だい 二 に 次 じ サモア内戦 ないせん ではマタアファ・イオセフォをドイツが支援 しえん し、マリエトア・ラウペパの息子 むすこ であるマリエトア・タヌマフィリ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (Malietoa Tanumafili I)をイギリスとアメリカが支援 しえん した。サモア問題 もんだい の最終 さいしゅう 的 てき な解決 かいけつ は、1899年 ねん 12月2日 にち にドイツ、アメリカ、イギリスの3国 こく の間 あいだ で締結 ていけつ された三 さん 者 しゃ 協定 きょうてい (英語 えいご 版 ばん ) (Tripartite Convention)であった。この協定 きょうてい により、アメリカは西経 せいけい 171度 ど 線 せん 以東 いとう のトゥトゥイラ島 とう を含 ふく む東 ひがし サモア (アメリカ領 りょう サモア )、ドイツはウポル島 とう を含 ふく む西 にし サモア (ドイツ領 りょう サモア )を獲得 かくとく し、イギリスはサモアから撤退 てったい する代 か わりにトンガおよびソロモン諸島 しょとう の支配 しはい を2国 こく に認 みと めさせた[ 65] 。
イースター島 とう は1888年 ねん 以来 いらい チリ領 りょう であったが、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )、チリ政府 せいふ から日本 にっぽん 、イギリス、アメリカ各 かく 政府 せいふ に対 たい してイースター島 とう およびサラ・イ・ゴメス島 とう 売却 ばいきゃく の打診 だしん が行 おこな われた。日本 にっぽん 政府 せいふ はイースター島 とう の経済 けいざい 的 てき 有用 ゆうよう 性 せい を認 みと めつつも、日米 にちべい 関係 かんけい の悪化 あっか を懸念 けねん したため購入 こうにゅう を断念 だんねん している[ 66]
1914年 ねん 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ し、8月 がつ にドイツ領 りょう サモアはオーストラリア軍 ぐん とニュージーランド軍 ぐん によって占領 せんりょう (英語 えいご 版 ばん ) された。9月22日 にち にはドイツ東洋 とうよう 艦隊 かんたい によるパペーテ砲撃 ほうげき が行 おこな われ、パペーテの町 まち の大 だい 部分 ぶぶん が破壊 はかい された。これ以降 いこう ポリネシアでの戦闘 せんとう はなく、西 にし サモアはそのまま軍政 ぐんせい 下 した に置 お かれ、1920年 ねん 12月17日 にち にニュージーランド委任 いにん 統治 とうち 領 りょう 西 にし サモア (英語 えいご 版 ばん ) が発足 ほっそく し、ニュージーランドの委任 いにん 統治 とうち 領 りょう となった。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月7日 にち 、炎上 えんじょう する戦艦 せんかん ウェストバージニア
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月7日 にち 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん による真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき が行 おこな われ、太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )が勃発 ぼっぱつ した。日米 にちべい 開戦 かいせん 後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん は第 だい 二 に 段 だん 作戦 さくせん としてFS作戦 さくせん を企図 きと した。これは、フィジーやサモアを攻略 こうりゃく して、アメリカとオーストラリア の補給 ほきゅう 線 せん を遮断 しゃだん するという作戦 さくせん であったが、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )6月 がつ に行 おこな われたミッドウェー海戦 かいせん で日本 にっぽん 軍 ぐん が敗 やぶ れたため、最終 さいしゅう 的 てき に作戦 さくせん は中止 ちゅうし された[ 67] 。
その後 ご 、ポリネシアでの大 おお きな戦闘 せんとう はなく、太平洋戦争 たいへいようせんそう の期間 きかん 中 ちゅう 、ポリネシアは連合 れんごう 軍 ぐん の後方 こうほう 兵站 へいたん 基地 きち として機能 きのう した。ニュージーランドには北島 きたじま 南部 なんぶ の南 みなみ ワイララパ地方 ちほう (英語 えいご 版 ばん ) フェザーストン (英語 えいご 版 ばん ) (Featherston)に捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ が開設 かいせつ され、ガダルカナル島 とう の戦 たたか い や第 だい 三 さん 次 じ ソロモン海戦 かいせん などによって捕虜 ほりょ となった日本 にっぽん 兵 へい 約 やく 600名 めい が収容 しゅうよう されていた[ 68] 。ニュージーランド軍 ぐん による日本 にっぽん 兵 へい 捕虜 ほりょ の取 と り扱 あつか いは丁重 ていちょう なものであった[ 69] が、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )2月 がつ 25日 にち にフェザーストン事件 じけん が発生 はっせい し、日本 にっぽん 兵 へい 38名 めい とニュージーランド兵 へい 1名 めい が死亡 しぼう した[ 70] 。
ハワイでは、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の8時 じ 間 あいだ 半 はん 後 ご から1944年 ねん 10月24日 にち まで戒厳 かいげん 令 れい が敷 し かれ、すべてが軍 ぐん の管理 かんり 下 か となった[ 71] 。オアフ島 とう の土地 とち の30%あまりが軍 ぐん 用地 ようち として接収 せっしゅう され、住民 じゅうみん は身分 みぶん 証明 しょうめい 書 しょ の携帯 けいたい が義務付 ぎむづ けられた上 うえ に日没 にちぼつ 以降 いこう の外出 がいしゅつ は禁止 きんし された[ 71] 。手紙 てがみ や電話 でんわ は検閲 けんえつ を受 う け、英語 えいご 以外 いがい の言語 げんご で電話 でんわ をすることは禁止 きんし された[ 71] 。日系 にっけい 人 じん はハワイの人口 じんこう の40%を占 し めていたため、僧侶 そうりょ や日本語 にほんご 学校 がっこう の教師 きょうし など「危険 きけん 人物 じんぶつ 」とみなされた1500人 にん ほどを除 のぞ いて、アメリカ本土 ほんど のような強制 きょうせい 収容 しゅうよう は免 まぬか れた[ 72] 。しかし、日系 にっけい 人 じん が鞄 かばん を持 も って歩 ある いているだけでスパイ と疑 うたが われ逮捕 たいほ されるなど、日系 にっけい 人 じん に対 たい する不信 ふしん 感 かん がハワイに広 ひろ がっていた[ 73] 。そのため日系 にっけい 人 じん たちは、自身 じしん がアメリカ人 じん であることを証明 しょうめい すべく、家庭 かてい 内 ない にある日本 にっぽん 的 てき な物 もの を処分 しょぶん する、餅 もち つき やひな祭 まつ り 、盆踊 ぼんおど り などの年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ を取 と りやめる、洋服 ようふく を着用 ちゃくよう し和服 わふく の着用 ちゃくよう をやめるなど日本 にっぽん 的 てき な習慣 しゅうかん を排除 はいじょ し、さらに日本 にっぽん 風 ふう の名前 なまえ から欧米 おうべい 風 ふう のファーストネーム に改名 かいめい する者 もの も2,000人 にん を超 こ えた[ 74] 。そして日系 にっけい 二 に 世 せい の若者 わかもの たちは、米 べい 軍 ぐん に志願 しがん することで自身 じしん の忠誠 ちゅうせい 心 しん を証明 しょうめい しようとした。ハワイには、日米 にちべい 開戦 かいせん 前 まえ から日系 にっけい 人 じん 部隊 ぶたい である第 だい 100歩兵 ほへい 大隊 だいたい が存在 そんざい したが、1943年 ねん に米 べい 軍 ぐん が日系 にっけい 人 じん 1,500人 にん を募集 ぼしゅう したところ、ハワイだけで1万 まん 人 にん 以上 いじょう の応募 おうぼ があり、そのうち2,700人 にん が入隊 にゅうたい を許可 きょか され[ 75] 、新 あら たに第 だい 442連隊 れんたい 戦闘 せんとう 団 だん が編成 へんせい された。第 だい 100歩兵 ほへい 大隊 だいたい および第 だい 442連隊 れんたい 戦闘 せんとう 団 だん は1943年 ねん 9月9日 にち のアヴァランチ作戦 さくせん を皮切 かわき りに、主 おも にイタリア やフランス に派遣 はけん され、モンテ・カッシーノの戦 たたか い やヴォージュ県 けん ブリュイエール (Bruyères)とビフォンテーヌ (英語 えいご 版 ばん ) (Biffontaine)での戦 たたか い、ダッハウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の解放 かいほう などに参加 さんか した。第 だい 442連隊 れんたい 戦闘 せんとう 団 だん に従軍 じゅうぐん した7,500名 めい のうち、700名 めい が戦死 せんし し、700名 めい が手足 てあし を失 うしな い、1000名 めい が重傷 じゅうしょう を負 お った[ 75] 。
2012年 ねん 、太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう フォーラムに参加 さんか した各国 かっこく 首脳 しゅのう たち。クック諸島 しょとう で開催 かいさい された。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、西 にし サモアは1946年 ねん 12月13日 にち に信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう に移行 いこう したのち、1962年 ねん に西 にし サモア として独立 どくりつ を果 は たした[ 76] 。その後 ご 、1970年 ねん にトンガ、ツバルは1974年 ねん にギルバート諸島 しょとう (現 げん :キリバス 領 りょう )と分離 ぶんり したのち1978年 ねん に独立 どくりつ した[ 76] 。クック諸島 しょとう とニウエは1974年 ねん からニュージーランドの自由 じゆう 連合 れんごう 国 くに となっており、外交 がいこう と防衛 ぼうえい はニュージーランドが行 おこな い、住民 じゅうみん の国籍 こくせき もニュージーランドのままであるが、内政 ないせい 自治 じち 権 けん と独自 どくじ に国際 こくさい 機関 きかん に加盟 かめい する権利 けんり が与 あた えられた。その後 ご 、1993年 ねん 8月 がつ 4日 にち にニュージーランドは2国 こく を主権 しゅけん 国家 こっか として承認 しょうにん し、外交 がいこう 権 けん も与 あた えられたため、日本 にっぽん は2011年 ねん 6月16日 にち にクック諸島 しょとう [ 77] 、2015年 ねん 5月15日 にち にニウエを国家 こっか 承認 しょうにん し、国交 こっこう を樹立 じゅりつ している[ 78] 。一方 いっぽう 、ハワイは1959年 ねん 8月 がつ 21日 にち にアメリカ50番目 ばんめ の州 しゅう に昇格 しょうかく した[ 79] 。
ポリネシアのうち、21世紀 せいき の現在 げんざい でも伝統 でんとう 的 てき な生活 せいかつ を続 つづ けている島 しま は、ハワイのニイハウ島 とう などごくわずかである[ 80] 。
ハワイやタヒチは1960年代 ねんだい 頃 ころ に主要 しゅよう 産業 さんぎょう を農業 のうぎょう から観光 かんこう へと転換 てんかん し、世界 せかい 的 てき な観光 かんこう 地 ち となった。一方 いっぽう で、独立 どくりつ を果 は たしたものの、旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく や先進 せんしん 国 こく からの経済 けいざい 援助 えんじょ がなければ立 た ち行 ゆ かない国 くに や地域 ちいき も多 おお く、小 しょう 島嶼 とうしょ 開発 かいはつ 途上 とじょう 国 こく に分類 ぶんるい される国 くに と地域 ちいき がほとんどである[ 81] 。特 とく にツバルは後発 こうはつ 開発 かいはつ 途上 とじょう 国 こく にも分類 ぶんるい される上 じょう 、国土 こくど のすべてが低地 ていち の環礁 かんしょう 島 しま であるため、地球 ちきゅう 温暖 おんだん 化 か および海面 かいめん 上昇 じょうしょう による国土 こくど 水没 すいぼつ の危機 きき に瀕 ひん している[ 82] 。
また第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、アメリカ、イギリス、フランスの3国 こく はポリネシア地域 ちいき で核 かく 実験 じっけん を行 おこな った。特 とく にフランスは、1960年 ねん から1996年 ねん までトゥアモトゥ諸島 しょとう 南部 なんぶ のムルロア環礁 かんしょう とファンガタウファ環礁 かんしょう で200回 かい あまりの核 かく 実験 じっけん を行 おこな った[ 83] 。このフランスによる核 かく 実験 じっけん に対 たい し、1965年 ねん に南太平洋 みなみたいへいよう 委員 いいん 会 かい (現 げん :太平洋 たいへいよう 共同 きょうどう 体 たい )の席上 せきじょう で、クック諸島 しょとう 代表 だいひょう が核 かく 実験 じっけん 反対 はんたい の立場 たちば を表明 ひょうめい した[ 84] 。さらに1971年 ねん 8月 がつ には、島嶼 とうしょ 国 こく の主体性 しゅたいせい を堅持 けんじ し、結束 けっそく を図 はか ることを目的 もくてき として、イギリスやアメリカ、フランスの影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ い南太平洋 みなみたいへいよう 委員 いいん 会 かい とは別個 べっこ に、南太平洋 みなみたいへいよう フォーラム (South Pacific Forum; SPF) がクック諸島 しょとう 、西 にし サモア、トンガ、ニュージーランド、フィジー、ナウル 、オーストラリアの7つの国 くに と地域 ちいき によって創設 そうせつ された[ 84] 。その後 ご も、南太平洋 みなみたいへいよう フォーラム(現 げん :太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう フォーラム)は核 かく 実験 じっけん や太平洋 たいへいよう への放射 ほうしゃ 性 せい 廃棄 はいき 物 ぶつ の投棄 とうき には反対 はんたい の立場 たちば を取 と り続 つづ けており、1985年 ねん 8月 がつ 6日 にち には加盟 かめい 国 こく 間 あいだ で南太平洋 みなみたいへいよう 非核 ひかく 地帯 ちたい 条約 じょうやく (ラロトンガ条約 じょうやく )が調印 ちょういん された[ 85] 。また1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん )に、日本 にっぽん の科学技術庁 かがくぎじゅつちょう が小笠原諸島 おがさわらしょとう 沖 おき に放射 ほうしゃ 性 せい 廃棄 はいき 物 ぶつ を海洋 かいよう 投棄 とうき する計画 けいかく を発表 はっぴょう した際 さい には、日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい して連名 れんめい で抗議 こうぎ を行 おこな った[ 86] [ 85] 。しかし、日本 にっぽん と太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう フォーラムの関係 かんけい は決 けっ して悪 わる いものではなく、1997年 ねん (平成 へいせい 9年 ねん )以来 いらい 3年 ねん に1回 かい のペースで、日本 にっぽん ・太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう フォーラム首脳 しゅのう 会議 かいぎ (太平洋 たいへいよう ・島 しま サミット Pacific Islands Leaders Meeting: PALM)が日本 にっぽん 国内 こくない で開催 かいさい されている[ 87] 。
パレオ を着 き てダンスをするマルキーズ諸 しょ 島民 とうみん 。1909年 ねん に撮影 さつえい された。
ポリネシアはラピタ文化 ぶんか 時代 じだい に植民 しょくみん された西 にし ポリネシア(サモア、トンガ等 とう )と、ポリネシア文化 ぶんか の成立 せいりつ 後 ご に植民 しょくみん された東 ひがし ポリネシア(ハワイ、タヒチ 、テ・ヘヌア・エナナ、ラパ・ヌイ 、アオテアロア等 とう )に分 わ けられる。西洋 せいよう 人 じん がこの海域 かいいき に到達 とうたつ した時点 じてん でポリネシア人 じん は相互 そうご に極 きわ めて似通 にかよ った言語 げんご (ポリネシア諸語 しょご )を話 はな しており、キャプテン・クック がタヒチからハワイに同行 どうこう した人物 じんぶつ は、ハワイ人 じん との会話 かいわ に殆 ほとん ど困難 こんなん を覚 おぼ えなかったと伝 つた えている。また、ポリネシア海域 かいいき 内 ない の先住民 せんじゅうみん の身体 しんたい 形質 けいしつ の同質 どうしつ 性 せい は極 きわ めて高 たか い。
ポリネシア人 じん たちは自 みずか らの故 こ 地 ち を「ハワイキ」「アヴァイキ (英語 えいご 版 ばん ) 」などと呼 よ んだ。この言葉 ことば はポリネシア各地 かくち で若干 じゃっかん 異 こと なっており、タヒチでは「ハヴァイイ」、ツアモツ諸島 しょとう などでは「ハヴァイキ」、クック諸島 しょとう では「アヴァイキ」、サモアでは「サヴァイイ」、ニュージーランドでは「ハワイキ」、ハワイ諸島 しょとう では「ハワイイ」などとなっている。
サモアの建築 けんちく などにみられる伝統 でんとう 的 てき 住居 じゅうきょ 「ファレ 」は日射 ひざ しを避 さ けて風通 かぜとお しをよくするため柱 はしら と屋根 やね だけで壁 かべ や間 あいだ 仕切 じき りのない構造 こうぞう である[ 88] 。
火山 かざん 島 とう が多 おお い。例 たと えば、サモア 、マルケサス諸島 しょとう の島々 しまじま 、ラパヌイ (イースター島 とう )などである。これらの火山 かざん 島 とう は玄武岩 げんぶがん で構成 こうせい され、屹立 きつりつ した高山 たかやま が島 しま の中央 ちゅうおう 付近 ふきん 分布 ぶんぷ している。土壌 どじょう は肥沃 ひよく で、降水 こうすい 量 りょう も多 おお く、植物 しょくぶつ 相 しょう も多様 たよう である。山 やま 裾野 すその には森林 しんりん が発達 はったつ し、巨木 きょぼく も林立 りんりつ している。沿岸 えんがん ではシダ類 るい やヤシ類 るい が繁殖 はんしょく している。[ 89]
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