二階堂 にかいどう トクヨ (にかいどう トクヨ、1880年 ねん 12月5日 にち - 1941年 ねん 7月 がつ 17日 にち )は、宮城 みやぎ 県 けん 大崎 おおさき 市 し (旧 きゅう ・三本木 さんぼんぎ 町 まち )出身 しゅっしん の体育 たいいく 指導 しどう 者 しゃ ・教育 きょういく 者 しゃ 。日本女子体育大学 にほんじょしたいいくだいがく の創設 そうせつ 者 しゃ にあたり[9] [10] 、「女子 じょし 体育 たいいく の母 はは 」と称 しょう される[9] 。日本 にっぽん 初 はつ の女子 じょし オリンピック選手 せんしゅ である人見 ひとみ 絹枝 きぬえ のほか、8名 めい のオリンピック選手 せんしゅ を育 そだ てた。
イギリス 留学 りゅうがく で学 まな んだスポーツ の普及 ふきゅう に努 つと め、女子 じょし のスポーツとしてクリケット とホッケー を日本 にっぽん に初 はじ めて紹介 しょうかい した[10] 。
体操 たいそう 嫌 ぎら いの文学 ぶんがく 少女 しょうじょ (1880-1904)[ 編集 へんしゅう ]
1880年 ねん (明治 めいじ 13年 ねん )12月5日 にち に宮城 みやぎ 県 けん 志田 しだ 郡 ぐん 桑折 こおり 村 むら (現 げん ・大崎 おおさき 市 し 三本木 さんぼんぎ 桑折 こうり )にて父 ちち ・保治 やすじ 、母 はは ・キンの長女 ちょうじょ として生 う まれる[4] 。父方 ちちかた ・母方 ははかた ともに会津 あいづ 藩 はん 士 し の家系 かけい であった。三本木 さんぼんぎ は豊 ゆた かな自然 しぜん に囲 かこ まれた山 やま あいの里 さと であり、トクヨはどんな花 はな の名所 めいしょ よりも美 うつく しいと讃 たた える歌 うた を残 のこ している。1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )、父 ちち の赴任 ふにん 地 ち ・松山 まつやま の松山 まつやま 尋常 じんじょう 高等 こうとう 小学校 しょうがっこう (現 げん ・大崎 おおさき 市立 しりつ 松山 まつやま 小学校 しょうがっこう )に入学 にゅうがく するが、間 ま もなく父 ちち の転勤 てんきん により三本木 さんぼんぎ 尋常 じんじょう 高等 こうとう 小学校 しょうがっこう (現 げん ・大崎 おおさき 市立 しりつ 三本木 さんぼんぎ 小学校 しょうがっこう )に転校 てんこう する。三本木 さんぼんぎ 小 しょう では尋常 じんじょう 科 か 4年 ねん ・高等 こうとう 科 か 4年 ねん の計 けい 8年間 ねんかん 学 まな び、成績 せいせき は普通 ふつう であったが、「女子 じょし には高度 こうど な学問 がくもん は不要 ふよう 」と考 かんが える当時 とうじ の風潮 ふうちょう [注 ちゅう 1] からすると、高等 こうとう 科 か をきっちりと卒業 そつぎょう させた二階堂 にかいどう 家 か は教育 きょういく 熱心 ねっしん であったことが窺 うかが える。高等 こうとう 科 か 4年生 ねんせい (1894年 ねん =明治 めいじ 27年 ねん )の夏休 なつやす み に叔父 おじ の佐藤 さとう 文 ぶん 之 の 進 すすむ (仙台 せんだい 市立 しりつ 立町 たてまち 小学校 しょうがっこう 教師 きょうし )から『日本 にっぽん 外史 がいし 』を習 なら ったことで学問 がくもん に目覚 めざ め、文学 ぶんがく 少女 しょうじょ に成長 せいちょう した[4] 。なお、小学校 しょうがっこう 時代 じだい の8年間 ねんかん 、トクヨは体操 たいそう (体育 たいいく )の授業 じゅぎょう を受 う けたことがなかった。
1895年 ねん (明治 めいじ 28年 ねん )に三本木 さんぼんぎ 小 しょう 高等 こうとう 科 か を卒業 そつぎょう し、予備 よび 講習 こうしゅう 会 かい [注 ちゅう 2] を経 へ て、同年 どうねん 11月10日 にち に尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう 本科 ほんか 准 じゅん 教員 きょういん の免許 めんきょ を取得 しゅとく する。地元 じもと の三本木 さんぼんぎ 小学校 しょうがっこう に就職 しゅうしょく し、坂本 さかもと 分教場 ぶんきょうじょう で准 じゅん 教員 きょういん となった。坂本 さかもと 分教場 ぶんきょうじょう では老 ろう 教師 きょうし が教 おし えていたため、「鬼 おに ごっこ をしましょう」と誘 さそ う15歳 さい の「二階堂 にかいどう 先生 せんせい 」の出現 しゅつげん に児童 じどう は驚 おどろ いた。月給 げっきゅう は1円 えん 50銭 ぜに と新米 しんまい 教師 きょうし の相場 そうば と同等 どうとう で、初任 しょにん 給 きゅう を神棚 かみだな に祀 まつ った。
分教場 ぶんきょうじょう での教師 きょうし 生活 せいかつ を続 つづ けるうちに更 さら に上級 じょうきゅう 学校 がっこう へ行 い って学問 がくもん を身 み に付 つ けたいという思 おも いが募 つの ったが、宮城 みやぎ 県 けん 尋常 じんじょう 師範 しはん 学校 がっこう (宮城 みやぎ 師範 しはん 、現 げん ・宮城教育大学 みやぎきょういくだいがく )は女子 じょし 部 ぶ を廃止 はいし しており、トクヨは進学 しんがく ができなかった。しかしトクヨは諦 あきら めず、全 まった く縁 えん のない福島 ふくしま 民 みん 報 ほう に手紙 てがみ を送 おく って福島 ふくしま 県 けん 尋常 じんじょう 師範 しはん 学校 がっこう (福島 ふくしま 師範 しはん 、現 げん ・福島大学 ふくしまだいがく 人文 じんぶん 社会 しゃかい 学 がく 群 ぐん )への入学 にゅうがく の斡旋 あっせん を依頼 いらい した。福島 ふくしま 師範 しはん には福島 ふくしま 県 けん 民 みん でないと入学 にゅうがく できなかったことから、戸籍 こせき 上 うえ 養子 ようし 縁組 えんぐみ すれば面倒 めんどう を見 み るという返事 へんじ を受 う け取 と ったトクヨは、これを受諾 じゅだく して1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )3月 がつ に福島 ふくしま 民 みん 報 ほう の社長 しゃちょう ・小笠原 おがさわら 貞 さだ 信 しん の養女 ようじょ となり、小笠原 おがさわら トクヨを名乗 なの った。こうして同年 どうねん 4月 がつ に福島 ふくしま 師範 しはん へ入学 にゅうがく 、1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )3月 がつ に高等 こうとう 小学校 しょうがっこう 本科 ほんか 正教 せいきょう 員 いん の資格 しかく を得 え て卒業 そつぎょう [注 ちゅう 3] した。福島 ふくしま 師範 しはん では体操 たいそう の授業 じゅぎょう があり、トクヨはほぼ休 やす まず出席 しゅっせき していたが、面白 おもしろ みに欠 か けたため、心 こころ ここにあらずという状態 じょうたい で臨 のぞ み、「時間 じかん の無駄 むだ だ」と不満 ふまん を漏 も らしていた。この時 とき トクヨが学 まな んだのは、すでに魅力 みりょく を失 うしな っていた普通 ふつう 体操 たいそう であり、体操 たいそう が他 た の教科 きょうか よりも1段 だん 低 ひく く見 み られていたことも手伝 てつだ って、トクヨはより一層 いっそう つまらなく感 かん じたのであった。ただし、実地 じっち 授業 じゅぎょう でトクヨが体操 たいそう を教 おし えると高 たか く評価 ひょうか され、卒業 そつぎょう まで校内 こうない では筒袖 つつそで ・袴 はかま 姿 すがた で過 す ごすことを許 ゆる された。
成績 せいせき 優秀 ゆうしゅう で附属 ふぞく 小学校 しょうがっこう の訓導 くんどう に就 つ くことを求 もと められるも固辞 こじ し、安達 あだち 郡 ぐん 油井 あぶらい 村 むら の油井 ゆせい 尋常 じんじょう 高等 こうとう 小学校 しょうがっこう (現 げん ・二本松 にほんまつ 市立 しりつ 油井 ゆせい 小学校 しょうがっこう )に赴任 ふにん し、訓導 くんどう として尋常 じんじょう 科 か 2年生 ねんせい の担任 たんにん になった。担任 たんにん クラスには長沼 ながぬま ミツという児童 じどう がおり、その姉 あね で高等 こうとう 科 か 3年生 ねんせい の智恵子 ちえこ とも親 した しくなった。智恵子 ちえこ とは、後 のち に高村 たかむら 光太郎 こうたろう の妻 つま になる高村 たかむら 智恵子 ちえこ のことであり、智恵子 ちえこ はトクヨに懐 なつ いた。
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )4月 がつ 、油井 ゆせい 小 しょう を休職 きゅうしょく し、女子 じょし 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう (女 おんな 高 だか 師 し 、現 げん ・お茶 ちゃ の水女子大学 みずじょしだいがく )文科 ぶんか に入学 にゅうがく する。当時 とうじ の女 おんな 高 だか 師 し は高嶺 たかね 秀夫 ひでお が校長 こうちょう を務 つと め、和歌 わか の尾上 おがみ 柴舟 さいしゅう 、体操 たいそう の坪井 つぼい 玄道 げんどう をはじめ、安井 やすい てつ[注 ちゅう 4] ・後閑 ごかん 菊野 きくの らの授業 じゅぎょう を受 う けた。トクヨは特 とく に尾上 おがみ 柴舟 さいしゅう の授業 じゅぎょう に魅了 みりょう され、自作 じさく の歌 うた を褒 ほ められて「小柴 こしば 舟 ふね 」の名 な をもらうほどであった。一方 いっぽう で体操 たいそう の授業 じゅぎょう には全 まった く関心 かんしん がなく、欠課 けっか や見学 けんがく など何 なに とか授業 じゅぎょう に出 で ないようにしていた。なおトクヨ在学 ざいがく 中 ちゅう の体操 たいそう の授業 じゅぎょう では、矯正 きょうせい 術 じゅつ や舞踊 ぶよう が教 おし えられていた。
女 おんな 高 だか 師 し の学生 がくせい 時代 じだい のトクヨは、毎年 まいとし 学年 がくねん 末 まつ に不運 ふうん に見舞 みま われるというジンクス があった。1年生 ねんせい の時 とき はチフス に感染 かんせん して4か月 げつ 間 あいだ 茅ヶ崎 ちがさき の病院 びょういん に入院 にゅういん 、2年生 ねんせい は足 あし 裏 うら の怪我 けが が原因 げんいん で骨 ほね が腐 くさ って40日 にち の闘病 とうびょう 生活 せいかつ を送 おく り、3年生 ねんせい は養父 ようふ ・小笠原 おがさわら 貞 さだ 信 しん が死去 しきょ 、4年生 ねんせい は実父 じっぷ ・保治 やすじ が死去 しきょ した。このうち1・2・4年生 ねんせい の時 とき には学年 がくねん 末 まつ 試験 しけん を受 う けることができなかった。本来 ほんらい 、試験 しけん を受 う けなければ進級 しんきゅう できないが、トクヨは成績 せいせき が良 よ かったからか、試験 しけん 免除 めんじょ で進級 しんきゅう した。特 とく に4年生 ねんせい の試験 しけん は卒業 そつぎょう をかけたものであり、トクヨは留年 りゅうねん 覚悟 かくご であったが、学校 がっこう は試験 しけん を免除 めんじょ し卒業 そつぎょう を認 みと めた。こうして1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )3月 がつ 、教育 きょういく ・倫理 りんり ・体操 たいそう ・国語 こくご ・地理 ちり ・歴史 れきし ・漢文 かんぶん の7科目 かもく の師範 しはん 学校 がっこう 女子 じょし 部 ぶ ・高等 こうとう 女学校 じょがっこう の教員 きょういん 免許 めんきょ を取得 しゅとく して女 おんな 高 だか 師 し をストレートで卒業 そつぎょう した。
体操 たいそう 教師 きょうし への覚醒 かくせい (1904-1912)[ 編集 へんしゅう ]
女 おんな 高 だか 師 し の卒業 そつぎょう 後 ご は教師 きょうし となり、最初 さいしょ の赴任 ふにん 先 さき は石川 いしかわ 県立 けんりつ 高等 こうとう 女学校 じょがっこう (石川 いしかわ 高 だか 女 おんな 、現 げん ・石川 いしかわ 県立 けんりつ 金沢 かなざわ 二水 にすい 高等 こうとう 学校 がっこう )であった。赴任 ふにん 前 まえ に「主 しゅ として体操 たいそう 科 か を受 う け持 も ってほしい」という私信 ししん を受 う け取 と っていたが、トクヨは何 なに かの間違 まちが いだろうと思 おも い、最初 さいしょ の校長 こうちょう [注 ちゅう 5] からの言葉 ことば でそれが事実 じじつ だと知 し ると絶句 ぜっく した。本業 ほんぎょう の国語 こくご の教師 きょうし は十分 じゅうぶん いる一方 いっぽう 、体操 たいそう の免許 めんきょ を持 も った教師 きょうし は不足 ふそく していたから[注 ちゅう 6] であった。体操 たいそう のことを「義理 ぎり にもおもしろいとは云 い えぬ代物 しろもの 」、「怒鳴 どな られて馬鹿馬鹿 ばかばか しい」、「およそ之 これ れ程 ほど 下 くだ らないものは天下 てんか にあるまい」と酷評 こくひょう していたトクヨにとって体操 たいそう 教師 きょうし を命 めい じられたことは不本意 ふほんい であるばかりでなく、大 だい 恥辱 ちじょく である、世間 せけん に対 たい して面目 めんぼく を失 うしな う[注 ちゅう 7] 、とまで思 おも っていた。しかし、女 おんな 高 だか 師 し の卒業生 そつぎょうせい は5年間 ねんかん 任地 にんち で教職 きょうしょく を全 まっと うする義務 ぎむ を負 お っていたこと、女 おんな 高 だか 師 し 時代 じだい のジンクスから翌 よく 1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )の春 はる に自分 じぶん は死 し ぬのだろうと思 おも い込 こ んでいたことで、決死 けっし の覚悟 かくご で体操 たいそう を教 おし えることにした。最初 さいしょ は週 しゅう 13時 じ 間 あいだ の授業 じゅぎょう に身 み も心 しん も疲弊 ひへい したが、数 すう か月 げつ すると自身 じしん の体調 たいちょう が良 よ くなっている[注 ちゅう 8] ことを発見 はっけん し、夏 なつ には井口 いぐち 阿 おもね くり[注 ちゅう 9] が講師 こうし を務 つと める3週間 しゅうかん の体操 たいそう 講習 こうしゅう 会 かい を受講 じゅこう し、スウェーデン体操 たいそう を学 まな んだ。
井口 いぐち の講習 こうしゅう を受 う けたトクヨは素人 しろうと では到底 とうてい 教 おし えられないと痛感 つうかん し、体操 たいそう を学 まな びたいと思 おも うようになった。幸運 こううん にも、体操 たいそう 専門 せんもん 学校 がっこう を卒業 そつぎょう したカナダ人 じん 宣教師 せんきょうし のフランシス・ケイト・モルガン(ミス・モルガン)が金沢 かなざわ 市 し にキリスト教 きりすときょう を布教 ふきょう しに来 き ていたため、トクヨは1日 にち おきに30分 ぶん の個人 こじん レッスンをモルガンの家 いえ の庭 にわ で受 う け始 はじ めた。モルガンの教 おし える体操 たいそう は、スウェーデン体操 たいそう にドイツ体操 たいそう を混合 こんごう した独自 どくじ のもので、指導 しどう のうまさと相 あい まって、トクヨはどんどん体操 たいそう にのめり込 こ んでいった。トクヨが習 なら った体操 たいそう はさまざまな体操 たいそう 器具 きぐ を使 つか うものであったが、器具 きぐ が整 ととの わなくてもできるよう、跳 と び箱 ばこ の代 か わりにトランク を、平均 へいきん 台 だい の代 か わりにベッド 2台 だい の間 あいだ に渡 わた した板 いた を、水平 すいへい 棒 ぼう の代 か わりに柱 はしら と柱 はしら の間 あいだ に張 は った縄 なわ を、肋木 ろくぼく の代 か わりに本棚 ほんだな を活用 かつよう する方法 ほうほう [注 ちゅう 10] をモルガンは伝授 でんじゅ した。ついには石川 いしかわ 高 だか 女 おんな の全 ぜん 生徒 せいと を対象 たいしょう に週 しゅう 28時 じ 間 あいだ もの体操 たいそう の授業 じゅぎょう を受 う け持 も つ[注 ちゅう 11] に至 いた り、石川 いしかわ 県 けん の郡部 ぐんぶ を回 まわ って小学校 しょうがっこう 教師 きょうし 向 む けに体操 たいそう の実地 じっち 指導 しどう を行 おこな うようになった。この頃 ころ の教 おし え子 ご に時 とき の石川 いしかわ 県知事 けんちじ ・村上 むらかみ 義雄 よしお の娘 むすめ がおり、父 ちち 娘 むすめ ともどもトクヨの体操 たいそう に魅了 みりょう され[注 ちゅう 12] 、知事 ちじ の後 うし ろ盾 たて を得 え て運動会 うんどうかい ではプロの楽隊 がくたい を入 い れて体操 たいそう を行 おこな うという企画 きかく を行 おこな ったり、生徒 せいと を男役 おとこやく と女 おんな 役 やく に分 わ けてカドリーユ を踊 おど らせたりした。この運動会 うんどうかい では、入場 にゅうじょう 券 けん を得 え られなかった第 だい 四 よん 高等 こうとう 学校 がっこう (現 げん ・金沢大学 かなざわだいがく )の学生 がくせい が塀 へい を乗 の り越 こ えて乱入 らんにゅう し、警察官 けいさつかん が監視 かんし に当 あ たるほどの大変 たいへん な評判 ひょうばん [注 ちゅう 13] を呼 よ んだ。
1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )7月 がつ 、トクヨは高知 こうち 県 けん 師範 しはん 学校 がっこう (高知 こうち 師範 しはん 、現 げん ・高知大学 こうちだいがく 教育 きょういく 学部 がくぶ )への出向 しゅっこう を命 めい じられた。しかし高知 こうち 市 し に来 き てすぐにマラリア に感染 かんせん し、入院 にゅういん を余儀 よぎ なくされた。回復 かいふく 後 ご 、教諭 きょうゆ 兼 けん 舎監 しゃかん [注 ちゅう 14] に着任 ちゃくにん し、歴史 れきし 1時 じ 間 あいだ 、体操 たいそう 18時 じ 間 あいだ [注 ちゅう 15] を受 う け持 も った。体操 たいそう の授業 じゅぎょう 中 ちゅう 、生徒 せいと を木陰 こかげ で休 やす ませている時 とき に、ウィリアム・シェイクスピア の戯曲 ぎきょく を語 かた り生徒 せいと を喜 よろこ ばせた、という逸話 いつわ が残 のこ っている。また校長 こうちょう が大切 たいせつ にしている芝生 しばふ の上 うえ で自転車 じてんしゃ を乗 の り回 まわ し、校長 こうちょう に不満 ふまん を持 も つ人 ひと たちを痛快 つうかい がらせたという話 はなし もある。高知 こうち 県 けん でもトクヨは体操 たいそう 講習 こうしゅう 会 かい を開 ひら き、その模様 もよう は土 ど 陽 ひ 新聞 しんぶん (現 げん ・高知新聞 こうちしんぶん )に取 と り上 あ げられた。この頃 ころ トクヨは、自身 じしん がスウェーデン体操 たいそう を教 おし えているつもりであったが、実際 じっさい には金沢 かなざわ では第 だい 9師団 しだん 、高知 こうち では歩兵 ほへい 第 だい 44連隊 れんたい で行 おこな われていた軍隊 ぐんたい 式 しき 訓練 くんれん を見 み よう見 み まねで教 おし えていた[注 ちゅう 16] のであった。軍人 ぐんじん からは「女 おんな 軍 ぐん の一 いち 隊 たい だ」などと言 い われたことに当時 とうじ のトクヨは得意 とくい げだったが、後 のち に振 ふ り返 かえ って「之 これ れ等 とう を思 おも へば総 す べて漸 やや 死 し の種 たね なり」と綴 つづ っている。1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )7月 がつ 31日 にち 、トクヨは二階堂 にかいどう 姓 せい に戻 もど った。1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )末 まつ 、トクヨは母校 ぼこう の東京 とうきょう 女子 じょし 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう [注 ちゅう 17] (東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し )の体操 たいそう 科 か 研究 けんきゅう 生 せい になることを願 ねが い出 で た。この願 ねが い出 で は後 のち に取 と り下 さ げるが、次 つぎ には宮城 みやぎ 師範 しはん への転任 てんにん の話 はなし が舞 ま い込 こ み、更 さら に母校 ぼこう ・東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し からは助手 じょしゅ 就任 しゅうにん の勧 すす めが来 き て、また別 べつ の学校 がっこう からも就任 しゅうにん 依頼 いらい が届 とど いた。トクヨはこの中 なか から東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し の職 しょく を選 えら び、高知 こうち 師範 しはん を辞 じ して1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )春 はる に東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し 助教授 じょきょうじゅ に着任 ちゃくにん した。トクヨはこの時 とき 30歳 さい で、異例 いれい の抜擢 ばってき となった。
東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し での仕事 しごと は、6時 じ 間 あいだ の授業 じゅぎょう と井口 いぐち 阿 おもね くり・永井 ながい 道明 みちあき 両 りょう 教授 きょうじゅ の補佐 ほさ であった。ところが井口 いぐち は同年 どうねん 7月 がつ に藤田 ふじた 積 つもる 造 づくり と結婚 けっこん して退職 たいしょく した[注 ちゅう 18] ため、トクヨは井口 いぐち の後任 こうにん として女子 じょし 体育 たいいく の指導 しどう 者 しゃ の重責 じゅうせき を負 お うことになった。体操 たいそう を専攻 せんこう した者 もの ではないのに、体操 たいそう 界 かい の権威 けんい になろうとしていたトクヨは同僚 どうりょう 4人 にん から妬 ねた まれ、家族 かぞく 宛 あ ての手紙 てがみ で「たかがウジ虫 ちゅう メラ!」とののしっている。
足掛 あしかけ 四 よん 年 ねん の英国 えいこく 留学 りゅうがく (1912-1915)[ 編集 へんしゅう ]
1912年 ねん (大正 たいしょう 元年 がんねん )10月1日 にち 、トクヨは体操 たいそう 研究 けんきゅう のため文部省 もんぶしょう から2年間 ねんかん のイギリス留学 りゅうがく を命 めい じられた。留学 りゅうがく を推薦 すいせん したのは上司 じょうし の永井 ながい 道明 みちあき であり、永井 ながい は女子 じょし 体育 たいいく の担 にな い手 て としてトクヨに期待 きたい していた。11月20日 にち 、曇 くも り空 そら の下 した で永井 ながい 道明 みちあき 、安井 やすい てつ、長沼 ながぬま 智恵子 ちえこ (後 のち に高村 たかむら 姓 せい となる)、高村 たかむら 光太郎 こうたろう ら10人 にん が見送 みおく りに駆 か けつけ、横浜 よこはま 港 こう から旅立 たびだ った。日本人 にっぽんじん 女性 じょせい の体育 たいいく 留学生 りゅうがくせい は、井口 いぐち 阿 おもね くり以来 いらい 2人 にん 目 め であった。
1913年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )1月 がつ 15日 にち 、ロイヤルアルバートドック (英語 えいご 版 ばん ) に入港 にゅうこう しイギリスに到着 とうちゃく するも、予定 よてい より1日 にち 早 はや く着 つ いたため迎 むか えの人 ひと が来 き ておらず、船 ふね 中 ちゅう でもう一夜 いちや を明 あ かした。翌 よく 1月 がつ 16日 にち 、迎 むか えは来 き たものの、その人 ひと は留学 りゅうがく 先 さき のキングスフィールド体操 たいそう 専門 せんもん 学校 がっこう (Kingsfield Physical Training College、KPTC、現 げん ・グリニッジ大学 だいがく (英語 えいご 版 ばん ) )の場所 ばしょ を知 し らず、雨 あめ の降 ふ る中 なか ようやく夕方 ゆうがた に学校 がっこう に到着 とうちゃく し、入学 にゅうがく 手続 てつづ きを行 おこな った。学校 がっこう 側 がわ は「アシスタント・プロフェッサー が留学 りゅうがく してくる」と聞 き いて身構 みがま えたが、いざトクヨに試験 しけん を課 か すと何 なに も知 し らないことが判明 はんめい し、トクヨは「一体 いったい まあ、何 なに をあなたは教 おし えていました?」と教師 きょうし 一同 いちどう から問 と われてしまった。これに対 たい して「スウェーデン体操 たいそう を教 おし えていた」とトクヨはすまして答 ごた えたが、その内容 ないよう [注 ちゅう 19] を話 はな すと「スウェーデン式 しき 教育 きょういく 体操 たいそう の一部 いちぶ をやっているんですね」と教師 きょうし から言 い われ、自分 じぶん が教 おし えていたものはスウェーデン体操 たいそう の一部 いちぶ にすぎないことを知 し った。そんな中 なか で唯一 ゆいいつ 、「家庭 かてい 競技 きょうぎ 」だけは「興味 きょうみ ある室内 しつない ゲームだ」と高 こう 評価 ひょうか を得 え た。トクヨが披露 ひろう したのは羅漢 らかん 遊 あそ び(各人 かくじん が違 ちが った身振 みぶ りをする[93] )、篠田 しのだ の森 もり の狐 きつね つり (わらべ歌 うた [94] )、鼻 はな 々遊 あそ び(手遊 てあそ び歌 か [95] )、はげ頭 あたま (言葉 ことば 遊 あそ び[96] )などであった。
KPTCの授業 じゅぎょう は理論 りろん と実科 じっか に分 わ かれ、理論 りろん では生理学 せいりがく ・解剖 かいぼう 学 がく ・衛生 えいせい 学 がく など、実科 じっか では教育 きょういく 体操 たいそう ・医療 いりょう 体操 たいそう ・舞踊 ぶよう ・競技 きょうぎ などを学 まな び、理論 りろん と実科 じっか にまたがる「教授 きょうじゅ 法 ほう 」の科目 かもく もあった。最初 さいしょ は何 なに も知 し らないと驚 おどろ いていた教師 きょうし 陣 じん も、日々 ひび 急速 きゅうそく に成長 せいちょう していくトクヨに「天才 てんさい だ」と賛辞 さんじ を贈 おく るようになった。トクヨが最 もっと も影響 えいきょう を受 う けたのは、校長 こうちょう のマルチナ・バーグマン=オスターバーグ であった。学校 がっこう の長期 ちょうき 休暇 きゅうか 中 ちゅう は、ロンドン 市内 しない の女子 じょし 体操 たいそう 学校 がっこう を参観 さんかん し、チェシャー州 しゅう オルトリンガム (英語 えいご 版 ばん ) の夏季 かき 学校 がっこう での水泳 すいえい 練習 れんしゅう 、ロンドンの舞踊 ぶよう 塾 じゅく でのダンス 練習 れんしゅう に励 はげ んだ。特 とく に水泳 すいえい は苦手 にがて で最 もっと も苦 くる しんだが、1か月 げつ 後 ご には一 いち 通 とお りの型 かた を習得 しゅうとく し[注 ちゅう 20] 学年 がくねん 1位 い の成績 せいせき を得 え た。
KPTCで1年 ねん 3か月 げつ 学 まな んだ[注 ちゅう 21] 後 ご 、トクヨはイギリス国内 こくない の体操 たいそう 専門 せんもん 学校 がっこう を渡 わた り歩 ある いた。当初 とうしょ の留学 りゅうがく 予定 よてい では、イギリス巡歴 じゅんれき の後 のち 、ヨーロッパ 各国 かっこく を巡 めぐ ってスウェーデン で半年 はんとし 学 まな び、帰路 きろ アメリカ に立 た ち寄 よ ることになっていた。しかしこの頃 ころ 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ し、イギリスでもドイツ軍 ぐん による空爆 くうばく が行 おこな われるような緊張 きんちょう 状態 じょうたい であったため、トクヨは各国 かっこく 巡回 じゅんかい を諦 あきら めイギリスにとどまることにした。ところが日本 にっぽん から急 せ きょ帰国 きこく せよとの電報 でんぽう が届 とど いたため、やむなく1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )3月14日 にち にイギリスを発 た ち、ドイツ軍 ぐん の潜水 せんすい 艦 かん 攻撃 こうげき に怯 おび えながら行 い きと同 おな じ航路 こうろ を取 と って、4月 がつ 4日 にち に日本 にっぽん へ戻 もど った。
留学 りゅうがく 前 まえ は、イギリスに行 い ってもそう変 か わることはなかろうと踏 ふ んでいたが、実際 じっさい には体操 たいそう 教師 きょうし の博識 はくしき 多芸 たげい さに驚 おどろ かされ、女性 じょせい が体操 たいそう 教師 きょうし として活躍 かつやく していることに感銘 かんめい を受 う け、愛国心 あいこくしん を喚起 かんき させる結果 けっか となった。この経験 けいけん を胸 むね に、自 みずか らの体 からだ を女子 じょし 体育 たいいく と国 くに に捧 ささ げるという覚悟 かくご を決 き め、その意志 いし は終生 しゅうせい 揺 ゆ らぐことはなかった。トクヨは留学 りゅうがく 生活 せいかつ について『足掛 あしかけ 四 よん 年 ねん 』(1917年 ねん )に書 か き残 のこ し、2人 ふたり の弟 おとうと ・清 せい 寿 ひさし と真 ま 寿 ことぶき はトクヨ13回忌 かいき 記念 きねん に、留学 りゅうがく 中 ちゅう に送 おく られてきた手紙 てがみ をまとめた『ロンドン通信 つうしん 』(1953年 ねん )を発行 はっこう した。
女子 じょし 体育 たいいく は女子 じょし の手 て で(1915-1922)[ 編集 へんしゅう ]
メイポールダンス(スペイン ・エイバル )
1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )5月 がつ 、東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し 教授 きょうじゅ となり、第 だい 六 ろく 臨時 りんじ 教員 きょういん 養成 ようせい 所 しょ 教授 きょうじゅ を兼任 けんにん する[4] 。同年 どうねん 6月 がつ には文部省 もんぶしょう 講習 こうしゅう 会 かい 講師 こうし [注 ちゅう 22] と教員 きょういん 検定 けんてい 臨時 りんじ 委員 いいん に就任 しゅうにん 、1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )7月 がつ には文部省 もんぶしょう 視学 しがく 委員 いいん になり、夏休 なつやす み には自 みずか ら体操 たいそう 講習 こうしゅう 会 かい を開催 かいさい して日本 にっぽん 各地 かくち を飛 と び回 まわ った。また著書 ちょしょ 『体操 たいそう 通俗 つうぞく 講話 こうわ 』、『足掛 あしかけ 四 よん 年 ねん 』、『模擬 もぎ 体操 たいそう の実態 じったい 』を1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )・1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )に立 た て続 つづ けに出版 しゅっぱん 、東京女子大学 とうきょうじょしだいがく の学長 がくちょう となっていた安井 やすい てつに請 こ われて、1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )5月 がつ から1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )3月 がつ まで同学 どうがく で授業 じゅぎょう を行 おこな った。女 おんな 高 だか 師 し と臨時 りんじ 教員 きょういん 養成 ようせい 所 しょ では共 とも に家事 かじ 科 か の生徒 せいと に体育 たいいく を教 おし え、ダンス・体操 たいそう ・遊戯 ゆうぎ ・スポーツの指導 しどう を行 おこな った。この時 とき の教 おし え子 ご に、女子 じょし 体育 たいいく の指導 しどう 者 しゃ となる戸倉 とくら ハル 、加藤 かとう トハ(旧姓 きゅうせい :内田 うちだ )がいる。戸倉 とくら はこの頃 ころ のトクヨが「女子 じょし 体育 たいいく は女子 じょし の手 て で」と口癖 くちぐせ のように言 い っていたことを証言 しょうげん している。
授業 じゅぎょう では、イギリスから持 も ち帰 かえ ったメイポールダンス、クリケット 、ホッケー [注 ちゅう 23] を取 と り入 い れ、生徒 せいと を肋木 ろくぼく にぶら下 さ げておいてゆっくりと説明 せつめい するのが常 つね であった。この頃 ころ の体操 たいそう 指導 しどう は、上司 じょうし の永井 ながい 道明 みちあき が苦労 くろう してまとめ上 あ げた『学校 がっこう 体操 たいそう 教授 きょうじゅ 要目 ようもく 』に従 したが うことが求 もと められていたが、その体操 たいそう はドリルを中心 ちゅうしん とした味気 あじけ ないものであり、トクヨは要目 ようもく よりもオスターバーグから習 なら ったイギリス式 しき の生 い き生 い きとした体操 たいそう を強引 ごういん に実施 じっし していた。また、永井 ながい はダンスの価値 かち をほとんど認 みと めておらず、女 おんな 高 だか 師 し の体操 たいそう 服 ふく も永井 ながい 受 う け持 も ちのクラスがブルマー だったのに対 たい し、トクヨのクラスはKPTCと同 おな じチュニック を採用 さいよう するなど、永井 ながい とトクヨの間 あいだ に対立 たいりつ が生 しょう じていった。永井 ながい は自身 じしん の後継 こうけい 者 しゃ としてトクヨに期待 きたい していただけに、裏切 うらぎ られた格好 かっこう となり、トクヨは体操 たいそう の資格 しかく がないクラスに配置 はいち 転換 てんかん されてしまった。さらに永井 ながい との対立 たいりつ は、東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し でのトクヨの孤立 こりつ に至 いた り、ノイローゼとなって鎌倉 かまくら に引 ひ きこもってしまったこともある。この時 とき は安井 やすい てつの助力 じょりょく により、無事 ぶじ に東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し に復帰 ふっき した。一方 いっぽう で、オスターバーグからかけられた「ここ(KPTC)にちなみを持 も ったクイーンスフィールド体操 たいそう 専門 せんもん 学校 がっこう を建 た てるように祈 いの ります」の言葉 ことば を胸 むね に抱 いだ き、学校 がっこう を建 た てる構想 こうそう を温 あたた め続 つづ けていた。
まず、トクヨは1919年 ねん (大正 たいしょう 8年 ねん )の体操 たいそう 女 おんな 教員 きょういん 協議 きょうぎ 会 かい (東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し で開催 かいさい )の場 ば で女子 じょし の体操 たいそう 教師 きょうし 120人 にん に呼 よ び掛 か けて「全国 ぜんこく 体操 たいそう 女 おんな 教員 きょういん 会 かい 」(後 のち に体育 たいいく 婦人 ふじん 同志 どうし 会 かい に改称 かいしょう )を立 た ち上 あ げ、自 みずか ら会長 かいちょう に就任 しゅうにん した。全国 ぜんこく 体操 たいそう 女 おんな 教員 きょういん 会 かい を率 ひき いたトクヨは、スウェーデンの国立 こくりつ 中央 ちゅうおう 体操 たいそう 学校 がっこう [注 ちゅう 24] やイギリスのKPTCのような体操 たいそう 研究 けんきゅう と指導 しどう 者 しゃ 育成 いくせい を担 にな う「体育 たいいく 研究所 けんきゅうじょ 」を設立 せつりつ すべく10万 まん 円 えん を目標 もくひょう に寄付 きふ を募 つの り始 はじ めた。しかし1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )に文部 もんぶ 大臣 だいじん 官房 かんぼう が「体育 たいいく 研究所 けんきゅうじょ 」の設立 せつりつ 議案 ぎあん を策定 さくてい し、その経費 けいひ が150万 まん 円 えん と発表 はっぴょう されると、トクヨは10万 まん 円 えん では到底 とうてい 研究所 けんきゅうじょ を作 つく れないことを悟 さと り、また「国 くに がいつか建 た ててくれるなら」と人々 ひとびと に思 おも われたことで3,300円 えん しか募金 ぼきん は集 あつ まらなかった。そこでトクヨは、構想 こうそう を温 あたた めてきた自身 じしん の体操 たいそう 塾 じゅく を設立 せつりつ する資金 しきん に募金 ぼきん を振 ふ り向 む けることに決 き め、寄付 きふ 者 しゃ に理解 りかい を求 もと めた。次 つぎ に、1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )5月 がつ に雑誌 ざっし 『わがちから』を創刊 そうかん し、女子 じょし 体育 たいいく の重要 じゅうよう 性 せい を社会 しゃかい に訴 うった えた。『わがちから』は毎号 まいごう 1,000冊 さつ 印刷 いんさつ し、平均 へいきん 500冊 さつ ほど販売 はんばい していた。関東大震災 かんとうだいしんさい による中断 ちゅうだん をはさんで1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )1月 がつ に『ちから』に改題 かいだい 、1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )4月 がつ の『ちから第 だい 51号 ごう 』[注 ちゅう 25] を最後 さいご に発行 はっこう を停止 ていし した。当初 とうしょ は女子 じょし 体育 たいいく の専門 せんもん 誌 し であったものの、次第 しだい に二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく の宣伝 せんでん に移行 いこう していき、末期 まっき の12冊 さつ は「体育 たいいく 写真 しゃしん 画 が 報 ほう 」と銘打 めいう って完全 かんぜん に塾 じゅく の紹介 しょうかい だけになっている。雑誌 ざっし 発行 はっこう 業務 ぎょうむ に追 お われて、トクヨは講習 こうしゅう 会 かい や講演 こうえん 会 かい を開 ひら く余裕 よゆう がなくなり、視学 しがく 委員 いいん の仕事 しごと も返上 へんじょう した。
『わがちから』を創刊 そうかん した1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )には正 せい 六 ろく 位 い に叙 じょ せられた。
二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく の創立 そうりつ (1922-1926)[ 編集 へんしゅう ]
二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく
1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )4月 がつ 15日 にち 、私財 しざい を投 な げ打 う ち[注 ちゅう 26] 、日本女子体育大学 にほんじょしたいいくだいがく の前身 ぜんしん となる「二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく 」を開 ひら いた[4] 。女子 じょし 体育 たいいく の研究 けんきゅう 機関 きかん と女子 じょし 体育 たいいく 家 か (≒女性 じょせい 体操 たいそう 教師 きょうし )の養成 ようせい 機関 きかん を兼 か ねた塾 じゅく で、トクヨを中心 ちゅうしん として入塾 にゅうじゅく 生 せい とともに創 つく り上 あ げていく共同 きょうどう 体 たい であった。この時 とき トクヨは41歳 さい であった。校舎 こうしゃ は東京 とうきょう ・下 した 代々木 よよぎ (後 ご の小田急 おだきゅう 小田原 おだわら 線 せん 参宮橋 さんぐうばし 駅 えき 付近 ふきん [注 ちゅう 27] )に借 か りた庭園 ていえん 付 つ きの邸宅 ていたく を利用 りよう し、設立 せつりつ 前 まえ から住 す み込 こ みで準備 じゅんび していた。トクヨ塾長 じゅくちょう が自 みずか ら授業 じゅぎょう を行 おこな ったほか、トクヨの弟 おとうと ・二階堂 にかいどう 真 しん 寿 ことぶき が国語 こくご と和歌 わか を担当 たんとう し、軍人 ぐんじん や軍医 ぐんい ら軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ 、野口 のぐち 源三郎 げんざぶろう ・大谷 おおや 武一 たけいち ら体育 たいいく 界 かい の重鎮 じゅうちん も教鞭 きょうべん を執 と った。また、トクヨの母 はは ・二階堂 にかいどう キンとお手伝 てつだ いさん 2人 ふたり が家事 かじ を行 おこな って塾生 じゅくせい を支 ささ えた。
開校 かいこう して間 あいだ もなく、体操 たいそう 教師 きょうし 不足 ふそく の時勢 じせい からトクヨの活動 かつどう は世間 せけん の注目 ちゅうもく を浴 あ び、9月には塾生 じゅくせい に出張 しゅっちょう 教授 きょうじゅ 依頼 いらい が舞 ま い込 こ むほどであった。この年 とし の12月4日 にち 、東京 とうきょう キリスト教 きりすときょう 青年 せいねん 会 かい 会館 かいかん で第 だい 6回 かい 極東 きょくとう 選手権 せんしゅけん 競技 きょうぎ 大会 たいかい を前 まえ にした女子 じょし 体育 たいいく の講演 こうえん 会 かい が開 ひら かれ、野口 のぐち 源三郎 げんざぶろう ・大谷 おおや 武一 たけいち ・沢田 さわだ 一郎 いちろう ・内藤 ないとう 起行 きぎょう に続 つづ いてトクヨも演壇 えんだん に立 た った。この時 とき のビラ でトクヨの肩書 かたがき が「前 ぜん 東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し 教授 きょうじゅ 」になっていたことにトクヨは激昂 げっこう し、「余 よ は死 し せるか!」と冒頭 ぼうとう の5分間 ふんかん 熱弁 ねつべん を振 ふ るった。トクヨは臨時 りんじ 教員 きょういん 養成 ようせい 所 しょ が3年 ねん かけて教 おし える内容 ないよう をわずか1年 ねん で塾生 じゅくせい に叩 たた き込 こ み、49人 にん の1期生 きせい を世 よ に送 おく り出 だ した。この1期生 きせい には、後 のち に参議院 さんぎいん 議員 ぎいん となる山下 やました 春江 はるえ がいた[143] 。
1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )9月1日 にち に関東大震災 かんとうだいしんさい が発生 はっせい し、塾舎 じゅくしゃ が半 はん 倒壊 とうかい し使用 しよう 困難 こんなん になる被害 ひがい を受 う けたが、トクヨと塾生 じゅくせい 80人 にん は全員 ぜんいん 無事 ぶじ [注 ちゅう 28] であった。塾 じゅく 再建 さいけん のため、塾生 じゅくせい が体操 たいそう やダンスをしている写真 しゃしん を売 う り歩 ある き資金 しきん 調達 ちょうたつ を図 はか った。トクヨは荏原 えばら 郡 ぐん 松沢 まつざわ 村 むら 松原 まつばら (現 げん ・世田谷 せたがや 区 く 松原 まつばら 二 に 丁目 ちょうめ 、日本女子体育大学 にほんじょしたいいくだいがく 附属 ふぞく 二 に 階 かい 堂 どう 高等 こうとう 学校 がっこう の位置 いち )に移転 いてん を決 き め、1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )1月 がつ 25日 にち にバラック の塾舎 じゅくしゃ へ移転 いてん した。
3期生 きせい には1928年 ねん アムステルダムオリンピック に日本 にっぽん 女子 じょし 選手 せんしゅ として初 はつ 出場 しゅつじょう し、陸上 りくじょう 800m走 はし で同 おな じく日本 にっぽん 女子 じょし 史上 しじょう 初 はつ となる銀 ぎん メダル を獲得 かくとく した人見 ひとみ 絹枝 きぬえ が入学 にゅうがく した[9] 。塾 じゅく 創設 そうせつ 時 じ のトクヨはアスリート を育成 いくせい する気 き は毛頭 もうとう なかったが、絹枝 きぬえ と出会 であ って女子 じょし 体育 たいいく の発展 はってん にアスリート養成 ようせい が不可欠 ふかけつ との認識 にんしき に至 いた った[注 ちゅう 29] 。1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )4月 がつ 、東京女子大学 とうきょうじょしだいがく に復帰 ふっき し体操 たいそう 科 か の担任 たんにん を務 つと め、東京 とうきょう 女子 じょし 医学 いがく 専門 せんもん 学校 がっこう (現 げん ・東京女子医科大学 とうきょうじょしいかだいがく )でも週 しゅう 1回 かい 教 おし え始 はじ めた。両校 りょうこう での勤務 きんむ についてトクヨ本人 ほんにん は「御 ご 主 おも に仕 つかまつ ヘて忠義 ちゅうぎ をして見 み たい」と語 かた っているが、二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく の専門 せんもん 学校 がっこう 昇格 しょうかく のための学習 がくしゅう ・準備 じゅんび を兼 か ねていた可能 かのう 性 せい がある。
専門 せんもん 学校 がっこう 昇格 しょうかく と晩年 ばんねん (1926-1941)[ 編集 へんしゅう ]
1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )3月24日 にち 、日本 にっぽん 女子 じょし 体育 たいいく 専門 せんもん 学校 がっこう (体 からだ 専 せん )に昇格 しょうかく ・改称 かいしょう した。私立 しりつ の女子 じょし 専門 せんもん 学校 がっこう としては日本 にっぽん で20校 こう 目 め であり、初 はつ の女子 じょし 体育 たいいく 専門 せんもん 学校 がっこう であった。この頃 ころ のトクヨは忙 いそが しさのあまり居留守 いるす を使 つか ったり[注 ちゅう 30] 、黒髪 くろかみ を切 き り丸坊主 まるぼうず になったりした[注 ちゅう 31] エピソードが関係 かんけい 者 しゃ の間 あいだ で知 し られている。震災 しんさい の被害 ひがい や学校 がっこう 移転 いてん で資金繰 しきんぐ りに窮 きゅう し、学生 がくせい からも借金 しゃっきん をする羽目 はめ になった。文部省 もんぶしょう が審査 しんさ のために来校 らいこう した時 とき には、慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく や東京 とうきょう 女子 じょし 体操 たいそう 音楽 おんがく 学校 がっこう (現 げん ・東京 とうきょう 女子 じょし 体育 たいいく 短期大学 たんきだいがく /東京女子体育大学 とうきょうじょしたいいくだいがく )から図書 としょ や備品 びひん を借 か りて審査 しんさ をやり過 す ごした。
右 みぎ から順 じゅん に今村 いまむら 嘉雄 よしお 、野口 のぐち 源三郎 げんざぶろう 、二宮 にのみや 文 ぶん 右 みぎ 衛門 えもん 、浅川 あさがわ 正一 しょういち 。この写真 しゃしん は1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )の東京 とうきょう 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう (現 げん ・筑波大学 つくばだいがく )の体育 たいいく 科 か 教師 きょうし 陣 じん であるが、浅川 あさがわ 以外 いがい は二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく ・体 からだ 専 せん でも教師 きょうし を務 つと めた。
体 からだ 専 せん 時代 じだい のトクヨの学校 がっこう 経営 けいえい は、思 おも いの強 つよ さから「専制 せんせい 的 てき 」と見 み られ、トクヨと相 あい いれず学校 がっこう を去 さ った教師 きょうし も少 すく なくなかった。11年 ねん ほど体 からだ 専 せん で講師 こうし を務 つと めた今村 いまむら 嘉雄 よしお は、晩年 ばんねん のトクヨを「よい軍国 ぐんこく 婆 ばあ さん」と表現 ひょうげん した。社会 しゃかい が戦争 せんそう へと向 む かっていったことと戦前 せんぜん の体育 たいいく が軍 ぐん と深 ふか い関係 かんけい があったこともあり、トクヨは青年 せいねん 将校 しょうこう を愛 あい し、将校 しょうこう の側 がわ もそれを分 わ かっていて軍事 ぐんじ 演習 えんしゅう の帰 かえ りに兵隊 へいたい を連 つ れてたびたび来校 らいこう した。その際 さい には授業 じゅぎょう を中断 ちゅうだん して湯茶 ゆちゃ で接待 せったい したり、軍人 ぐんじん に見 み せるために学生 がくせい にダンスさせたりしていたという。トクヨの日々 ひび の発言 はつげん や雑誌 ざっし 『ちから』の記事 きじ も国家 こっか 主義 しゅぎ ・国粋 こくすい 主義 しゅぎ 的 てき な色味 いろみ を帯 お びていき、「日本 にっぽん のほこり」のために女子 じょし スポーツ選手 せんしゅ を輩出 はいしゅつ しようと考 かんが えるようになっていった。
こうした中 なか でトクヨは学校 がっこう 経営 けいえい の実務 じつむ を名誉 めいよ 校長 こうちょう の二宮 にのみや 文 ぶん 右 みぎ 衛門 えもん に任 まか せ、校内 こうない に引 ひ きこもり、病気 びょうき がちとなった。弟 おとうと の真 ま 寿 ことぶき に「自分 じぶん なんぞは今 いま に誰 だれ からも相手 あいて にされなくなって、電信柱 でんしんばしら の蔭 かげ にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦 くる しい胸 むね の内 うち を明 あ かした。1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )にトクヨとの面会 めんかい を許 ゆる された記者 きしゃ によると、当時 とうじ のトクヨは火鉢 ひばち で餅 もち を焼 や きながら来客 らいきゃく を応対 おうたい し、3坪 つぼ ほどの部屋 へや を書斎 しょさい 兼 けん 校長 こうちょう 室 しつ としていた[169] 。室内 しつない は洋風 ようふう で奥 おく には「正義 まさよし 無敵 むてき 」の額 がく があり、トクヨはロイド眼鏡 ろいどめがね をかけ、和装 わそう していた[169] 。語尾 ごび の「〜よ」を強調 きょうちょう する話 はな し方 かた をし、楽 たの しみは入浴 にゅうよく ・睡眠 すいみん ・月 がつ 1回 かい の歌舞伎 かぶき 鑑賞 かんしょう であった[169] 。
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )、佐々木 ささき 等 ひとし や戸倉 とくら ハルらの尽力 じんりょく で東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し に体育 たいいく 科 か が設立 せつりつ された。トクヨはこれを喜 よろこ び、両 りょう 手 て いっぱいに花束 はなたば を抱 かか えて下村 しもむら 寿一 ひさいち 校長 こうちょう を訪問 ほうもん し、「限 かぎ りなき喜 よろこ びです」と挨拶 あいさつ した。その後 ご は桜 さくら 蔭 かげ 会 かい (東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し 同窓会 どうそうかい )員 いん とお茶 ちゃ をしながらの座談 ざだん 会 かい を行 おこな い、「これから(体 からだ 専 せん と東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し で)競争 きょうそう しましょう」と発言 はつげん し、大笑 おおわら いした。久々 ひさびさ の母校 ぼこう 訪問 ほうもん とあって夕方 ゆうがた まで校内 こうない に滞在 たいざい し、校内 こうない を一巡 いちじゅん して満足 まんぞく げに帰宅 きたく した。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )4月 がつ 7日 にち 、体 からだ 専 せん の入学 にゅうがく 式 しき の朝 あさ に倒 たお れ、東京 とうきょう 海軍 かいぐん 共済 きょうさい 組合 くみあい 病院 びょういん (現 げん ・東京 とうきょう 共済 きょうさい 病院 びょういん )に入院 にゅういん 、後 のち に本人 ほんにん の希望 きぼう で慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 病院 びょういん に転院 てんいん [注 ちゅう 32] した。病名 びょうめい は胃 い ガン で、ほかに糖尿 とうにょう 病 びょう や白内障 はくないしょう などの持病 じびょう があった。4月14日 にち [注 ちゅう 33] にはトクヨの妹 いもうと ・とみの娘 むすめ である美喜子 みきこ を養女 ようじょ にとった。入院 にゅういん 中 ちゅう 、体 からだ 専 せん の生徒 せいと や卒業生 そつぎょうせい は看病 かんびょう や見舞 みま い、輸血 ゆけつ を申 もう し出 で たが、一切 いっさい 断 ことわ っている[注 ちゅう 34] 。同年 どうねん 7月 がつ 17日 にち 午前 ごぜん 1時 じ 40分 ふん に死去 しきょ 、60歳 さい であった。当日 とうじつ は稀 まれ に見 み るような暑 あつ さであったという。生涯 しょうがい 独身 どくしん であった。
「ゆかり」と題 だい した手帳 てちょう には、次 つぎ の言葉 ことば が互 たが いに何 なに の脈絡 みゃくらく もなく並 なら んでおり、死 し の間際 まぎわ のトクヨの心境 しんきょう を映 うつ し出 だ している。( / は改行 かいぎょう )
「
馬鹿 ばか を見 み るな / 愚痴 ぐち をこぼすな / 時 とき は解決 かいけつ / 勝 か て!! / 償 つぐなえ へ / 大 だい 摂理 せつり に安 やす んぜよ / 自適 じてき 楽天 らくてん / 大 だい 御 ご 手 て の身 み がはり / 時 とき は勝利 しょうり / 大 だい 慈悲 じひ の手 て / 報償 ほうしょう 、深慮 しんりょ 、自適 じてき 、浄土 じょうど / 外 そと に無 む し ただ羽根 はね 布団 ふとん わが一生 いっしょう
」
教育 きょういく 学者 がくしゃ の上沼 かみぬま 八郎 はちろう はこれを「女子 じょし 体育 たいいく という特殊 とくしゅ な未開 みかい の領域 りょういき に生涯 しょうがい を捧 ささ げた明治 めいじ の女性 じょせい の面目 めんぼく を語 かた っているように思 おも う」と評 ひょう した。
7月 がつ 18日 にち 、数 すう 名 めい の関係 かんけい 者 しゃ のみが見守 みまも る中 なか 、堀ノ内 ほりのうち 斎場 さいじょう で火葬 かそう され、「勝 かち 妙 みょう 院 いん 釈 しゃく 桜 さくら 菊 きく 尼 あま 」の法名 ほうみょう を授 さづ けられた。トクヨの死 し は7月 がつ 27日 にち に朝日新聞 あさひしんぶん が夕刊 ゆうかん で報 ほう じたのが最初 さいしょ で、翌 よく 7月 がつ 28日 にち の朝刊 ちょうかん で他紙 たし も報 ほう じ、これを見 み た人々 ひとびと が弔問 ちょうもん に訪 おとず れた。夏休 なつやす み期間 きかん 中 ちゅう であったため、学校 がっこう 葬 そう が行 おこな われたのは9月 がつ 20日 はつか になってからであった。
死後 しご 、勲 くん 六 ろく 等 とう 瑞宝章 ずいほうしょう が贈 おく られた[4] 。墓所 はかしょ は築地 つきじ 本願寺 ほんがんじ 和田 わだ 堀 ほり 廟所 びょうしょ [4] 。すぐ近 ちか くには作家 さっか ・樋口 ひぐち 一葉 かずは の墓 はか がある。トクヨは生前 せいぜん 、多磨 たま 霊園 れいえん がなければ和田 わだ 堀 ほり 廟所 びょうしょ でもよいと美喜子 みきこ に要望 ようぼう していた。
トクヨは養女 ようじょ の美喜子 みきこ に遺言 ゆいごん 書 しょ を口述 こうじゅつ 筆記 ひっき させ、その中 なか で体 からだ 専 せん の学生 がくせい 募集 ぼしゅう を停止 ていし し、全 ぜん 生徒 せいと の卒業 そつぎょう ・就職 しゅうしょく を待 ま って閉校 へいこう するよう要望 ようぼう したが、弟 おとうと の清 せい 寿 ひさし が2代目 だいめ 校長 こうちょう に就任 しゅうにん して学校 がっこう を引 ひ き継 つ いだ。清 せい 寿 ひさし は「体育 たいいく のタの字 じ も知 し らない」ような人物 じんぶつ であったため、学生 がくせい は反発 はんぱつ したものの、太平洋戦争 たいへいようせんそう の激化 げきか でボイコット運動 うんどう をしているような時代 じだい ではなくなったことや、長年 ながねん の学校 がっこう 行政 ぎょうせい 手腕 しゅわん を発揮 はっき して同窓会 どうそうかい 「松 まつ 徳 いさお 会 かい 」[注 ちゅう 35] を組織 そしき するなどして反発 はんぱつ を収束 しゅうそく させていった。
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )9月1日 にち 、ある新聞 しんぶん が「女子 じょし 体力 たいりょく 章 あきら 検定 けんてい いよいよ実施 じっし 」という記事 きじ にて「日本 にっぽん 女子 じょし 体育 たいいく 専門 せんもん 学校 がっこう 校長 こうちょう 二階堂 にかいどう とくよ女史 じょし 」の談話 だんわ を掲載 けいさい した。すでに2年 ねん 前 まえ に他界 たかい しているトクヨが当然 とうぜん 語 かた るわけはないので、実際 じっさい は電話 でんわ 取材 しゅざい を受 う けた弟 おとうと の清 せい 寿 ひさし が「冷汗 ひやあせ 三 さん 斗 と 」[注 ちゅう 36] で答 こた えたものがトクヨ談 だん として掲載 けいさい された。死 し してなお、トクヨが女子 じょし 体育 たいいく に大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていたことを物語 ものがた るエピソードである。
生徒 せいと や卒業生 そつぎょうせい にものをあげることが好 す きで、手当 てあ たり次第 しだい にものをあげ、その時 とき は相手 あいて に要 よう ・不要 ふよう を言 い わせなかった。喜 よろこ んで受 う け取 と れば非常 ひじょう に満足 まんぞく し、断 ことわ れば叱 しか りつけた。好物 こうぶつ はリンゴ で、当時 とうじ の高級 こうきゅう 品種 ひんしゅ ・デリシャス を生徒 せいと 1人 にん ずつに配 くば ることもあった。他人 たにん の幸福 こうふく は自分 じぶん の幸福 こうふく と考 かんが える人 ひと であり、口癖 くちぐせ のように「○○さん、ご幸福 こうふく ですか?」と問 と うていたという。
校長 こうちょう としての忙 いそが しい生活 せいかつ の中 なか での束 つか の間 ま の休息 きゅうそく には、よく新宿 しんじゅく の映画 えいが 館 かん に出 で かけた。映画 えいが 鑑賞 かんしょう が趣味 しゅみ だったわけではなく、誰 だれ にも邪魔 じゃま されずにぐっすり眠 ねむ るのが目的 もくてき であった。ハッと起 お きると周囲 しゅうい の人々 ひとびと が不思議 ふしぎ そうな表情 ひょうじょう を浮 う かべているので、トクヨは恥 は ずかしかったという。途中 とちゅう で中村屋 なかむらや に寄 よ り、両 りょう 手 て いっぱいにパン を買 か って帰 かえ るのが定番 ていばん であった。
ある新聞 しんぶん で、トクヨはドイツの俳優 はいゆう ・エミール・ヤニングス にたとえられたことがある[169] 。トクヨはこれが不服 ふふく だったようで、体 からだ 専 せん の生徒 せいと に「楠木 くすのき 正成 まさしげ は忠臣 ちゅうしん 、石川 いしかわ 五右衛門 ごえもん は泥棒 どろぼう と相場 そうば が決 き まっているが、エミール・ヤニングスは何 なに だ?」と問 と うたが、生徒 せいと は困惑 こんわく し、黙 だま って下 した を向 む いたという[169] 。
服装 ふくそう と髪型 かみがた [ 編集 へんしゅう ]
金沢 かなざわ で初 はじ めて洋服 ようふく を着 き た人 ひと であると言 い われている。当時 とうじ のトクヨは颯爽 さっそう とした印象 いんしょう の人 ひと だったが、体 からだ 専 せん の校長 こうちょう になった頃 ころ には服装 ふくそう へのこだわりはなくなり、「ぞろっとした着物 きもの 」を着 き ていたと学生 がくせい が証言 しょうげん している。1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )に体操 たいそう 塾 じゅく を訪問 ほうもん した宮城 みやぎ 県 けん の新聞 しんぶん 記者 きしゃ は、トクヨが紺 こん 絣 かすり に筒袖 つつそで を着 き ていたと記 しる している。
かつらは3つくらい持 も っていた。来客 らいきゃく 時 じ にはかつら を着用 ちゃくよう したが、慌 あわ ててかぶるため、眉毛 まゆげ の近 ちか くまでかかっている時 とき から大 おお きく後退 こうたい している時 とき まであった。ある日 ひ 、電車 でんしゃ に乗 の っていると、ほかの客 きゃく に傘 かさ の先 さき でかつらを引 ひ っかけて外 はず されてしまい、乗客 じょうきゃく 一同 いちどう に爆笑 ばくしょう されるという経験 けいけん をした。しかしトクヨは全 まった く動 どう じることはなく、平然 へいぜん としていたという。坊主 ぼうず 頭 あたま にする前 まえ には二 に 百 ひゃく 三 さん 高地 こうち まげ にしており、髪型 かみがた が崩 くず れないように10数 すう 本 ほん もピンを刺 さ したその姿 すがた はまるで甲冑 かっちゅう を付 つ けた武士 ぶし のようであった。
トクヨは美声 びせい の持 も ち主 ぬし だったといい、よく通 とお る声 こえ であった。トクヨの弟 おとうと ・真 ま 寿 ことぶき は、「澄 す んだ美 うつく しいはりのあるソプラノ で遠 とお くまで凛々 りり しくひびきその深 ふか みといい、強 つよ みといい、一度 いちど 聞 き いたら耳 みみ にのこっていていつまでも忘 わす れられないような魅力 みりょく のある美 うつく しいものだった」と賛美 さんび している。代々木 よよぎ 練兵 れんぺい 場 じょう の軍人 ぐんじん は「トクヨの号令 ごうれい は日本一 にっぽんいち 」と讃 たた えた。歌人 かじん として「伊豆 いず 能 のう 舍 しゃ 馨 かおる 聲 こえ 子 こ 」[注 ちゅう 37] という雅号 がごう を使 つか ったこともあるように、自身 じしん の声 こえ に自信 じしん を持 も っていた。
トクヨの声 こえ に関 かん する逸話 いつわ がいくらか残 のこ っている。
高等 こうとう 科 か 4年 ねん の時 とき 、『日本 にっぽん 外史 がいし 』を朗々 ろうろう と読 よ み上 あ げる声 こえ が高等 こうとう 科 か 2年 ねん にいた弟 おとうと の清 せい 寿 ひさし の教室 きょうしつ まで聞 き こえてきた。
福島 ふくしま 師範 しはん の学生 がくせい 時代 じだい には、帰省 きせい 時 じ に授業 じゅぎょう で習 なら った唱歌 しょうか を夕闇 ゆうやみ の中 なか で大声 おおごえ で歌 うた っていた。
石川 いしかわ 高 だか 女 おんな では、浅野川 あさのがわ の河原 かわら で早朝 そうちょう に号令 ごうれい 練習 れんしゅう をしていたところ、「全体 ぜんたい 、止 と まれ!」の号令 ごうれい に驚 おどろ いた馬子 まご が立 た ち止 ど まった。
高知 こうち 師範 しはん では桂 かつら 浜 はま で号令 ごうれい を練習 れんしゅう し、いつしか土佐 とさ の荒波 あらなみ さえトクヨの号令 ごうれい に従 したが った、という伝説 でんせつ を残 のこ した。また、運動会 うんどうかい にはトクヨの号令 ごうれい を聞 き きに大勢 おおぜい の人 ひと が集 あつ まった。
東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し 教授 きょうじゅ 時代 じだい には、体操 たいそう の授業 じゅぎょう を見学 けんがく に来 き た校長 こうちょう 団 だん 一 いち 行 ぎょう が小声 こごえ で話 はな していたところ、「出 で て行 い って下 くだ さい」の一言 ひとこと で黙 だま らせた。生徒 せいと の精神 せいしん 統一 とういつ を欠 か くから、というのが理由 りゆう であった。トクヨの一声 いっせい に一 いち 行 ぎょう は面食 めんく らったが、理由 りゆう を聞 き いて納得 なっとく して帰 かえ って行 い った。
トクヨの声 こえ は、体育 たいいく 指導 しどう や日常 にちじょう 生活 せいかつ でしばしば雷 かみなり が落 お ちたような大声 おおごえ となった。養女 ようじょ の美喜子 みきこ は、トクヨを知 し る人 ひと で怒 おこ られた経験 けいけん がない人 ひと はおそらくあるまいと記 しる し、調査 ちょうさ に来 き た特別 とくべつ 高等 こうとう 警察 けいさつ を殴 なぐ りつけたという「武勇 ぶゆう 伝 でん 」を披露 ひろう している。特 とく に弁解 べんかい や不正 ふせい 、失礼 しつれい なことに関 かん しては厳 きび しく叱 しか りつけ、「お疲 つか れ様 さま でした」[注 ちゅう 38] や「ありがとうございました」[注 ちゅう 39] と声 こえ をかけられても叱 しか ることがあった。それでも教 おし え子 ご はトクヨの愛情 あいじょう を感 かん じて心服 しんぷく してしまい、トクヨに反発 はんぱつ したり反抗 はんこう 心 しん を持 も ったりすることはなかった。
トクヨは指導 しどう の際 さい に独特 どくとく の表現 ひょうげん をよく使 つか った。養女 ようじょ の美喜子 みきこ はトクヨの言葉 ことば を「奇妙 きみょう な、しかも穿 うが った形容詞 けいようし 」と表現 ひょうげん し、人見 ひとみ 絹枝 きぬえ は「叱 しか られながら可笑 おか しくなります」と記 しる している。そして叱 しか られた生徒 せいと が笑 わら うと「愛嬌 あいきょう を振 ふ りまく」とまた叱 しか るのであった。
以下 いか にトクヨが使 つか った主 おも な言葉 ことば を示 しめ す。(☆は特 とく によく使 つか ったもの)
イヌ やネコ が好 す きで、よくイヌを連 つ れて散歩 さんぽ していたので、「女 おんな 西郷 さいごう 」というあだ名 な を付 つ けられた。自身 じしん の好物 こうぶつ をイヌ・ネコに与 あた えることも好 す きで、散歩 さんぽ 中 ちゅう には餌 えさ を持 も ち歩 ある いていた。トクヨは常 つね にイヌを5 - 6匹 ひき 、ネコを3 - 4匹 ひき 飼 か っていたので、イヌ・ネコ嫌 ぎら いの教 おし え子 ご は大変 たいへん 困 こま っていたという。
特 とく にシロと名付 なづ けたイヌをかわいがっていた。シロはトクヨが東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し 教授 きょうじゅ 時代 じだい の1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )頃 ごろ に御茶ノ水 おちゃのみず で拾 ひろ ったイヌで、東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し で苦楽 くらく を共 とも にしたという思 おも いから、二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく の移転 いてん の際 さい にも一緒 いっしょ に連 つ れていった。「幼 よう 犬 けん の頃 ころ に片足 かたあし が不自由 ふじゆう だった名残 なごり で、治 なお ってからも足 あし を引 ひ きずって歩 ある く」、「何 なに を聞 き いても『ワン』と答 こた える」とトクヨはシロを溺愛 できあい していたが、よく吠 ほ えたので学生 がくせい からは嫌 きら われ、トクヨの外出 がいしゅつ 中 ちゅう にシロをいじめる学生 がくせい もいた。ある日 ひ 、学生 がくせい がシロをいじめているところを目撃 もくげき し、その学生 がくせい に「あなたは退学 たいがく です」と宣告 せんこく した。
またある時 とき 、大阪 おおさか の街 まち を歩 ある いていると、痩 や せた捨 す てイヌが木 こ の下 した でうずくまっているのを見 み つけたので、近 ちか くのうどん屋 や に飛 と び込 こ み、1杯 はい の天 てん ぷらうどん を買 か ってそのイヌに与 あた えたという。
トクヨの人生 じんせい には常 つね に経済 けいざい 苦 く が付 つ きまとった。女 おんな 高 だか 師 し の学生 がくせい 時代 じだい には既 すで に学資 がくし の負債 ふさい を抱 かか えており、「死 し ぬに死 し ねない立場 たちば 」と心境 しんきょう を綴 つづ っている。石川 いしかわ 高 だか 女 おんな 時代 じだい は生命 せいめい 保険 ほけん に入 はい っていたが保険 ほけん 料 りょう が払 はら えずに中途 ちゅうと 解約 かいやく し、トクヨの金欠 きんけつ を見 み かねた同僚 どうりょう がトクヨに代 か わって軍事 ぐんじ 公債 こうさい を買 か い受 う けたり、トクヨに体操 たいそう を教 おし えたミス・モルガンが宣教師 せんきょうし 館 かん の1室 しつ にトクヨを住 す まわせたりしている。これに輪 わ をかけて、実家 じっか が債 さい 主 ぬし の手 て に渡 わた る[注 ちゅう 44] ことになり、母 はは ・妹 いもうと ・末弟 ばってい の3人 にん を金沢 かなざわ に引 ひ き取 と った。この3人 にん は、トクヨの高知 こうち 師範 しはん 転任 てんにん に伴 ともな い宮城 みやぎ 県 けん に帰 かえ り、長 ちょう 弟 おとうと の清 せい 寿 ひさし が面倒 めんどう を見 み た。この間 あいだ 、清 せい 寿 ひさし は結婚 けっこん し、トクヨは羽織 はおり や袴 はかま を高知 こうち の呉服 ごふく 店 てん に仕立 した てさせて送 おく った。
体 からだ 専 せん 時代 じだい には多額 たがく の借金 しゃっきん を抱 かか え、急場 きゅうば しのぎに持 も ち物 もの の質入 しちい れ や学生 がくせい から借金 しゃっきん をすることもしばしばであった。それでも夫 おっと に先立 さきだ たれた妹 いもうと のとみとその娘 むすめ に送金 そうきん し、家計 かけい を支 ささ えた。学生 がくせい から借 か り入 い れ・返済 へんさい するときは、必 かなら ず皆 みな がそろう食堂 しょくどう で行 おこな い、「皆 みな さんご承認 しょうにん を!」と叫 さけ んでいた。校舎 こうしゃ の雨漏 あまも りも直 なお せず、手 て を付 つ けてはいけない財団 ざいだん 法人 ほうじん の基本 きほん 金 きん すら取 と り崩 くず さざるを得 え ないほどの金欠 きんけつ にもかかわらず、トクヨは人 ひと にものをあげるのを好 この み、学生 がくせい から20円 えん を借 か りると、20円 えん の利息 りそく を付 つ けて返 かえ した。教 おし え子 ご はトクヨの金欠 きんけつ をよく知 し っていたので、初任 しょにん 給 きゅう を全額 ぜんがく トクヨに寄付 きふ したり、雑誌 ざっし 『ちから』を200冊 さつ も買 か い取 と ったり、赴任 ふにん 先 さき の名物 めいぶつ を贈 おく ったりして、トクヨや母校 ぼこう を支 ささ えようとした。それでもトクヨは贈 おく られてきた名物 めいぶつ を在校生 ざいこうせい にあげてしまったという。
結局 けっきょく 、生前 せいぜん に借金 しゃっきん を完済 かんさい することはできず、遺品 いひん には多 おお くの「金子 かねこ 借用 しゃくよう 書 しょ 」が含 ふく まれていた。
トクヨが出会 であ った順番 じゅんばん に記述 きじゅつ する。
高村 たかむら 智恵子 ちえこ (1914年 ねん 頃 ごろ /28歳 さい 前後 ぜんこう )
高村 たかむら 智恵子 ちえこ とトクヨの出会 であ いは1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )のことで、智恵子 ちえこ の在籍 ざいせき していた油井 ゆせい 尋常 じんじょう 高等 こうとう 小学校 しょうがっこう にトクヨが赴任 ふにん したことがきっかけである。智恵子 ちえこ は妹 いもうと のミツの担任 たんにん であったトクヨに親 した しみを抱 いだ き、下宿 げしゅく を訪 たず ねたり、一緒 いっしょ に安達ケ原 あだちがはら を散歩 さんぽ したり、トクヨに話 はなし を聞 き かせてもらったりと慕 した っていた。トクヨの油井 ゆせい 小 しょう 勤務 きんむ は1年 ねん で終 お わったが、女 おんな 高 だか 師 し に進学 しんがく してすぐの9月 がつ 頃 ごろ に、(担任 たんにん をしたミツのクラス宛 あて ではなく)智恵子 ちえこ のいた高等 こうとう 科 か の女子 じょし 児童 じどう に向 む けて手紙 てがみ を送 おく っている。智恵子 ちえこ は自分 じぶん の写真 しゃしん をトクヨに贈 おく り、学費 がくひ の援助 えんじょ までしていたという。
トクヨのイギリス留学 りゅうがく の時 とき には、智恵子 ちえこ は出会 であ ってから1年 ねん くらい経過 けいか した高村 たかむら 光太郎 こうたろう を伴 ともな って横浜 よこはま 港 こう まで見送 みおく りに行 い き、留学 りゅうがく 中 ちゅう には「長沼 ながぬま 家 か 」名義 めいぎ で紋付 もんつき を贈 おく っている。見送 みおく り時 じ 、まだ2人 ふたり は結婚 けっこん 前 まえ である。
その後 ご 、智恵子 ちえこ が統合 とうごう 失調 しっちょう 症 しょう を発 はっ して入院 にゅういん した時 とき に、トクヨは見舞 みま いに行 い った。その時 とき の智恵子 ちえこ の症状 しょうじょう はまだ軽 かる かったが、トクヨを見 み た智恵子 ちえこ は後 うし ろを向 む いてしまった。トクヨは椅子 いす に座 すわ り、2人 ふたり は黙 だま ったまま同 おな じ姿勢 しせい を取 と り続 つづ け、30分 ふん ほどたってからトクヨは無言 むごん で立 た ち去 さ った。お互 たが いのわがままさを示 しめ すエピソードであるとともに、そうしたわがままを許 ゆる し合 あ える関係 かんけい だったことが分 わ かるエピソードである。智恵子 ちえこ はトクヨより先 さき に亡 な くなったが、トクヨが智恵子 ちえこ の死 し に何 なに を思 おも ったかは記録 きろく に残 のこ されていない。
安井 やすい てつ(1933年 ねん 頃 ごろ /63歳 さい 前後 ぜんこう )
安井 やすい てつとトクヨの出会 であ いは、トクヨが女 おんな 高 だか 師 し に入学 にゅうがく したことがきっかけである。てつはトクヨの恩師 おんし であり、トクヨはクリスチャンのてつの下 した で聖書 せいしょ の学習 がくしゅう に没頭 ぼっとう し、英語 えいご 専攻 せんこう でない者 もの には読解 どっかい が難 むずか しいとされた『ヨブ記 き 』さえ読 よ みこなせるようになった。この経験 けいけん が、後 のち に金沢 かなざわ で体操 たいそう 教師 きょうし となった際 さい に教会 きょうかい に通 かよ い、ミス・モルガンから体操 たいそう の指導 しどう を受 う ける契機 けいき となった上 うえ に、英語 えいご 学習 がくしゅう の成果 せいか がイギリス留学 りゅうがく に生 い きることになるのであった。
トクヨが助教授 じょきょうじゅ として東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し に戻 もど ると、てつは同僚 どうりょう になった。トクヨのイギリス留学 りゅうがく が決 き まると、イギリス留学 りゅうがく の経験 けいけん 者 しゃ であるてつに大 おお いに世話 せわ になり、イギリスへ出発 しゅっぱつ するときには、てつが横浜 よこはま 港 こう まで見送 みおく りに行 い っている。留学 りゅうがく から戻 もど ると、てつは東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し を去 さ っており、東京女子大学 とうきょうじょしだいがく に移 うつ っていた。てつ自身 じしん は体育 たいいく 指導 しどう を行 おこな っていないが、かねてより女子 じょし 体育 たいいく の重要 じゅうよう 性 せい を十分 じゅうぶん 認識 にんしき しており、その専門 せんもん 家 か としてトクヨに東京女子大学 とうきょうじょしだいがく で指導 しどう するよう懇願 こんがん した。またトクヨが東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し に出勤 しゅっきん せず、鎌倉 かまくら に引 ひ きこもってしまった際 さい には、てつのおかげでトクヨは東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し に復帰 ふっき できた。
二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく の設立 せつりつ 構想 こうそう 期 き には、資金 しきん 不足 ふそく から東京女子大 とうきょうじょしだい の体操 たいそう 場 じょう を借 か りることも視野 しや に入 い れていた。(実際 じっさい には自前 じまえ の設備 せつび を整 ととの えることができ、借 か りずに済 す んだ。)二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく ・体 からだ 専 せん では、てつが理事 りじ を務 つと めることでトクヨを支 ささ えた。このように、てつは女子 じょし 体育 たいいく の理解 りかい 者 しゃ として常 つね にトクヨの味方 みかた であり続 つづ けた。
永井 ながい 道明 みちあき (1914年 ねん /45歳 さい )
永井 ながい 道明 みちあき とトクヨの出会 であ いは、トクヨの東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し の助教授 じょきょうじゅ 就任 しゅうにん 時 じ である。ここで道明 どうみょう はトクヨに目星 めぼし を付 つ け、部下 ぶか としてトクヨをかわいがった。トクヨの助教授 じょきょうじゅ 就任 しゅうにん 時 じ は、道明 どうみょう 自身 じしん が欧米 おうべい 留学 りゅうがく から日本 にっぽん に戻 もど ってきたばかりの時期 じき と重 かさ なり、道明 みちあき は日本 にっぽん の女子 じょし 体育 たいいく の遅 おく れを痛感 つうかん していたものと見 み られる。そこで道明 みちあき は、イギリス滞在 たいざい 中 ちゅう に知 し ったオスターバーグのKPTCにトクヨを留学 りゅうがく させようと、文部省 もんぶしょう に留学生 りゅうがくせい としてトクヨを推薦 すいせん した。東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し の校長 こうちょう であった中川 なかがわ 謙二郎 けんじろう もトクヨを推薦 すいせん し、留学 りゅうがく 話 ばなし が持 も ち上 あ がってから10か月 げつ でトクヨは文部省 もんぶしょう 留学生 りゅうがくせい の辞令 じれい を受 う け取 と った。当時 とうじ の心境 しんきょう をトクヨは「夢 ゆめ とまぼろしがごっちゃになった様 よう な」と表現 ひょうげん している。
トクヨがイギリスに出発 しゅっぱつ した時 とき には、道明 みちあき は横浜 よこはま 港 こう まで見送 みおく りに行 い った。KPTCでオスターバーグの教育 きょういく を受 う けたトクヨは、オスターバーグの人格 じんかく に接 せっ し、そこに送 おく ってくれた道明 みちあき に深 ふか く感謝 かんしゃ し、トクヨの著書 ちょしょ 『足掛 あしかけ 四 よん 年 ねん 』にも道明 どうみょう への感謝 かんしゃ の言葉 ことば が綴 つづ られている。オスターバーグは道明 どうみょう のことを覚 おぼ えており、「ヤパニースボーイ[注 ちゅう 45] が日本 にっぽん の体育 たいいく 界 かい を支配 しはい しているんだから、誠 まこと に結構 けっこう だ」とトクヨに言 い った。またオスターバーグと道明 みちあき は、トクヨ留学 りゅうがく 中 ちゅう に手紙 てがみ でやり取 と りしていた。
留学 りゅうがく 経験 けいけん を胸 むね に帰国 きこく したトクヨを待 ま っていたのは、皮肉 ひにく にも道明 どうみょう との対立 たいりつ であった。留学 りゅうがく 先 さき で見 み つけた理想 りそう とする教育 きょういく を実践 じっせん しようとし、自説 じせつ を曲 ま げなかったことがその原因 げんいん である。道明 みちあき はトクヨに、自身 じしん が骨 ほね を折 お って策定 さくてい し、スウェーデン体操 たいそう を軸 じく とした『学校 がっこう 体操 たいそう 教授 きょうじゅ 要目 ようもく 』を普及 ふきゅう させてくれることを期待 きたい しており、実際 じっさい トクヨもスウェーデン体操 たいそう を学 まな び、体操 たいそう 遊戯 ゆうぎ 講習 こうしゅう 会 かい の講師 こうし として日本 にっぽん 中 ちゅう にスウェーデン体操 たいそう を広 ひろ めることに尽力 じんりょく した。しかし、道明 どうみょう の言 い うスウェーデン体操 たいそう はドリル中心 ちゅうしん の味気 あじけ ない体操 たいそう であり、トクヨが学 まな んだオスターバーグ式 しき の生 い き生 い きとした体操 たいそう とは異 こと なっていた。道明 どうみょう の立場 たちば からすれば、自身 じしん が『学校 がっこう 体操 たいそう 教授 きょうじゅ 要目 ようもく 』を普及 ふきゅう させるために地方 ちほう に出張 しゅっちょう している間 あいだ に、トクヨが勝手 かって にイギリス式 しき の体操 たいそう を教 おし えているように見 み え、裏切 うらぎ られたという思 おも いであった。最初 さいしょ は小 ちい さなすれ違 ちが いから始 はじ まったが、ダンスに対 たい する考 かんが え方 かた や体操 たいそう 服 ふく の採用 さいよう などトクヨと道明 みちあき はことごとく衝突 しょうとつ するようになり、留学 りゅうがく 前 まえ から同僚 どうりょう に妬 ねた まれていたトクヨは孤立 こりつ 無援 むえん となってしまった。
道明 どうみょう とトクヨの対立 たいりつ の諸点 しょてん をまとめると次 つぎ のようになる。
事項 じこう
永井 ながい 道明 みちあき
二階堂 にかいどう トクヨ
立場 たちば
旧弊 きゅうへい
新進 しんしん
校内 こうない の主流 しゅりゅう 派 は
校内 こうない で孤立 こりつ
学校 がっこう 体操 たいそう 教授 きょうじゅ 要目 ようもく
重視 じゅうし
軽視 けいし
スウェーデン体操 たいそう
リング主義 しゅぎ
オスターバーグ式 しき
形式 けいしき 的 てき ・画一 かくいつ 的 てき ・ドリル的 てき
変化 へんか 自在 じざい ・生 い き生 い き
指導 しどう 法 ほう
単式 たんしき 教程 きょうてい (決 き まった順 じゅん に行 おこな う)
複式 ふくしき 教程 きょうてい (生徒 せいと の興味 きょうみ に応 おう じて繰 く り返 かえ す)
指導 しどう 方針 ほうしん
教師 きょうし 本位 ほんい (命令 めいれい と服従 ふくじゅう )
生徒 せいと 本位 ほんい
ダンス
ほぼ価値 かち を認 みと めない
授業 じゅぎょう で積極 せっきょく 的 てき に採用 さいよう
体操 たいそう 服 ふく
ブルマー[注 ちゅう 46]
チュニック
教材 きょうざい [注 ちゅう 47]
合理 ごうり 体操 たいそう 、跳 と び箱 ばこ 、平行棒 へいこうぼう 、肋木 ろくぼく 、梯子 はしご
器械体操 きかいたいそう 、ダンス、スウェーデン体操 たいそう
道明 どうみょう との対立 たいりつ に加 くわ え、プライベートでは縁談 えんだん の破談 はだん があり、トクヨは精神 せいしん 的 てき に動揺 どうよう したが、こうした公私 こうし に渡 わた る悩 なや みを振 ふ り切 き ることで、トクヨは「女子 じょし 体育 たいいく の使徒 しと 」としての自覚 じかく を強 つよ めていき、東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し の職 しょく を捨 す て二 に 階 かい 堂 どう 体操 たいそう 塾 じゅく を設立 せつりつ するという決断 けつだん に踏 ふ み切 き ることになった。1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )、トクヨ41歳 さい のことである。
対 たい する道明 みちあき は、1920年 ねん アントワープオリンピック に合 あ わせて欧米 おうべい への外遊 がいゆう に出 で かけ、帰国 きこく 後 ご は教授 きょうじゅ から講師 こうし に職階 しょっかい を落 お とし、1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )に東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し を退 しりぞ いた。兼務 けんむ していた東京 とうきょう 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう (東京 とうきょう 高 だか 師 し 、現 げん ・筑波大学 つくばだいがく )でも道明 どうみょう は派閥 はばつ 争 あらそ いを抱 かか えていたが、道明 みちあき は自叙伝 じじょでん に「数多 すうた の感想 かんそう もあるが」と記 しる すのみで、東京 とうきょう 高 だか 師 し ・女 おんな 高 だか 師 し での対立 たいりつ について何 なに も書 か き残 のこ しておらず、女 おんな 高 だか 師 し の思 おも い出 で 話 はなし の中 なか にトクヨを登場 とうじょう させていない。
道明 どうみょう とトクヨの両方 りょうほう から指導 しどう を受 う けた戸倉 とくら ハルは、両者 りょうしゃ に対 たい して学生 がくせい であるという態度 たいど を貫 つらぬ き、どちらにも義理 ぎり を通 とお した。戸倉 とくら は道明 どうみょう の学校 がっこう 体操 たいそう 教授 きょうじゅ 要目 ようもく の普及 ふきゅう 活動 かつどう に帯同 たいどう し、大 だい 日本 にっぽん 体育 たいいく 同志 どうし 会 かい の会長 かいちょう である道明 どうみょう を守 まも るように援助 えんじょ したことから「唯一 ゆいいつ の愛弟子 まなでし 」と見 み なされ、道明 どうみょう の自叙伝 じじょでん に追悼 ついとう 文 ぶん を寄 よ せた。一方 いっぽう で、トクヨの2人 ふたり の弟 おとうと とともにトクヨの伝記 でんき の執筆 しっぴつ に参加 さんか し、日本女子体育短期大学 にほんじょしたいいくたんきだいがく の教授 きょうじゅ に就任 しゅうにん して日本女子体育大学 にほんじょしたいいくだいがく の開設 かいせつ に尽力 じんりょく した。
マルチナ・バーグマン=オスターバーグ(1890年 ねん /40歳 さい )
オスターバーグとトクヨの出会 であ いは、1913年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )1月 がつ にトクヨがKPTCに入学 にゅうがく した時 とき である。入学 にゅうがく 前 まえ にオスターバーグについてトクヨが知 し っていたことは、スウェーデン人 じん であるということだけで、名前 なまえ すら正確 せいかく に把握 はあく していなかった。トクヨが入学 にゅうがく した当時 とうじ のオスターバーグは64歳 さい で、実務 じつむ はミス・ウィクナーらに任 まか せ、自身 じしん が積極 せっきょく 的 てき に教壇 きょうだん に立 た つことはなくなり、引退 いんたい の準備 じゅんび を始 はじ めていたところであった。
オスターバーグはあまり授業 じゅぎょう をしなかったため、トクヨが直接 ちょくせつ 教 おそ わったのは「実地 じっち 教授 きょうじゅ 法 ほう 」だけであるが、生徒 せいと 1人 にん ひとりに長所 ちょうしょ と短所 たんしょ を指摘 してき して本 ほん 入学 にゅうがく の可否 かひ を伝 つた えるところを目撃 もくげき したり、オスターバーグの人格 じんかく に接 せっ したりしたことで、トクヨの留学 りゅうがく 以後 いご の人生 じんせい をオスターバーグの存在 そんざい なしに語 かた れないほどの大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。具体 ぐたい 例 れい を挙 あ げると、オスターバーグの学校 がっこう 創立 そうりつ 経緯 けいい を聞 き いてトクヨは国家 こっか 的 てき 認識 にんしき を高 たか めた。オスターバーグは自身 じしん の学校 がっこう を建 た てた理由 りゆう として、よりよいスウェーデン体操 たいそう を紹介 しょうかい すること、女子 じょし が体操 たいそう 教師 きょうし に最適 さいてき であることを証明 しょうめい したかったこと、独立 どくりつ 自営 じえい 的 てき なイギリスの女性 じょせい に体操 たいそう 教師 きょうし という職 しょく が最適 さいてき であることを認知 にんち させたかったことの3つだったと語 かた った。さらに学校 がっこう を建 た てた目的 もくてき は、ロシア帝国 ていこく とドイツに挟 はさ まれた祖国 そこく ・スウェーデンでは富国強兵 ふこくきょうへい に女性 じょせい の力 ちから が最 さい 重要 じゅうよう で、有事 ゆうじ の際 さい には友好国 ゆうこうこく ・イギリスの女性 じょせい の援助 えんじょ を受 う けたいと考 かんが えたからだと話 はな した。オスターバーグはトクヨの体格 たいかく を「手足 てあし の短 みじか い猪首 いくび の、まるい体 からだ の、丈 たけ のひくい」と評 ひょう し、一見 いっけん すると体操 たいそう 教師 きょうし には向 む かないが、「今日 きょう の教授 きょうじゅ 振 ぶ りによりて、只 ただ 天才 てんさい 家 か との賞辞 しょうじ を呈 てい する外 そと に詞 し はない」と絶賛 ぜっさん した。
留学 りゅうがく 中 ちゅう 、トクヨとオスターバーグは共通 きょうつう の知人 ちじん である永井 ながい 道明 みちあき について話 はな しており、オスターバーグはトクヨの帰国 きこく 後 ご に自身 じしん の学校 がっこう を建 た てるように促 うなが し、協力 きょうりょく もすると言 い った。トクヨに期待 きたい を寄 よ せていたオスターバーグは、トクヨが1年 ねん 半 はん でKPTCを去 さ ると知 し って「2年 ねん 在学 ざいがく しないなら入学 にゅうがく を許可 きょか すべきでなかった、入学 にゅうがく した以上 いじょう は2年 ねん いなければならない」と主張 しゅちょう し、他 た の学校 がっこう も視察 しさつ せねばならないトクヨを困惑 こんわく させた。最終 さいしゅう 的 てき にオスターバーグは、トクヨが学校 がっこう を去 さ ることを許 ゆる し、トクヨはイギリス国内 こくない の体操 たいそう 学校 がっこう を訪問 ほうもん して1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )4月 がつ に日本 にっぽん へ帰国 きこく した。
オスターバーグは、トクヨの帰国 きこく からわずか3か月 げつ 後 ご にこの世 よ を去 さ った。死 し の直前 ちょくぜん にKPTCを国家 こっか に寄付 きふ し、「無一文 むいちもん で立 た った私 わたし は無一文 むいちもん で終 お わらねばならぬ」とトクヨに語 かた った言葉 ことば を現実 げんじつ にした。トクヨは生涯 しょうがい オスターバーグを敬愛 けいあい し、自作 じさく の花 はな 柄 がら の刺繍 ししゅう 入 い りの額縁 がくぶち にオスターバーグの写真 しゃしん を入 い れて居間 いま に飾 かざ っていた。トクヨが建 た てた二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく ・体 からだ 専 せん にはKPTCの影響 えいきょう が随所 ずいしょ に見 み られるが、オスターバーグが女性 じょせい 参政 さんせい 権 けん の獲得 かくとく などを目指 めざ すフェミニズム の思想 しそう を持 も ちながら体操 たいそう 教師 きょうし を育成 いくせい したのに対 たい して、トクヨの教育 きょういく 観 かん はフェミニズムを直接 ちょくせつ 意図 いと したものではなく[注 ちゅう 48] 、思想 しそう 的 てき 背景 はいけい なく技術 ぎじゅつ のみ持 も ち込 こ まれるという日本 にっぽん の典型 てんけい を体現 たいげん したものとなった。
オスターバーグとトクヨの大 おお きな考 かんが え方 かた の違 ちが いをまとめると次 つぎ のようになる。
事項 じこう
オスターバーグ
二階堂 にかいどう トクヨ
女性 じょせい 体操 たいそう 教師 きょうし 養成 ようせい の意義 いぎ
体操 たいそう 教師 きょうし となって心身 しんしん の健康 けんこう と経済 けいざい 的 てき 自活 じかつ を実現 じつげん し、女性 じょせい の権利 けんり を獲得 かくとく する。
女性 じょせい の地位 ちい 向上 こうじょう のため体操 たいそう 教師 きょうし の資質 ししつ を向上 こうじょう する。ただし良妻賢母 りょうさいけんぼ を体育 たいいく の目的 もくてき とする。
学校 がっこう 以外 いがい の体育 たいいく
学校 がっこう に女性 じょせい や子供 こども 向 む けの学級 がっきゅう を設置 せっち し、地域 ちいき との結 むす び付 つ きを作 つく る。
児童 じどう から高齢 こうれい 者 しゃ までが体育 たいいく をする生涯 しょうがい 体育 たいいく が重要 じゅうよう である。
人見 ひとみ 絹枝 きぬえ (1926年 ねん /19歳 さい )
人見 ひとみ 絹枝 きぬえ とトクヨの出会 であ いは、1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )4月 がつ に絹 きぬ 枝 えだ が二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく に入塾 にゅうじゅく した時 とき である。塾 じゅく 創設 そうせつ 時 じ のトクヨはアスリートを育成 いくせい する気 き はなく、塾生 じゅくせい がスポーツエリート 意識 いしき を持 も つことを嫌 きら い、特定 とくてい の種目 しゅもく に特 とく 化 か した生徒 せいと に特別 とくべつ な配慮 はいりょ をすることもなかった。テニス の腕 うで を磨 みが きたかった絹枝 きぬえ は、理想 りそう と現実 げんじつ の差 さ に思 おも い悩 なや み、退 すさ 塾 じゅく したいと思 おも うこともあったが、夏休 なつやす みに帰省 きせい した際 さい に教師 きょうし となることを家族 かぞく に期待 きたい されていると感 かん じて考 かんが え直 なお した。トクヨの方 ほう も岡山 おかやま 県 けん から絹 きぬ 枝 えだ に陸上 りくじょう 競技 きょうぎ 大会 たいかい への出場 しゅつじょう 要請 ようせい が来 き たことで、トップアスリートの養成 ようせい が女子 じょし 体育 たいいく の発展 はってん に必要 ひつよう であると認識 にんしき を改 あらた める契機 けいき となった。
トクヨが絹 きぬ 枝 えだ を認 みと めてからは、絹枝 きぬえ のために急 せ きょグラウンドを2倍 ばい に拡張 かくちょう して競技 きょうぎ 力 りょく 向上 こうじょう を支援 しえん したが、トクヨは陸上 りくじょう 競技 きょうぎ を指導 しどう できなかったため、絹枝 きぬえ は野口 のぐち 源三郎 げんざぶろう 『オリムピック陸上 りくじょう 競技 きょうぎ 法 ほう 』や文部省 もんぶしょう 『競走 きょうそう 指針 ししん 』などの手引 てび きを参考 さんこう に自主 じしゅ 練習 れんしゅう に励 はげ んだ。絹枝 きぬえ の卒業 そつぎょう 後 ご 、トクヨは一旦 いったん は京都 きょうと 市立 しりつ 第 だい 一 いち 高等 こうとう 女学校 じょがっこう (現 げん ・京都 きょうと 市立 しりつ 堀川 ほりかわ 高等 こうとう 学校 がっこう )に送 おく り出 だ すも、8月 がつ には呼 よ び戻 もど して研究 けんきゅう 生 せい とし、トクヨと絹枝 きぬえ の二人三脚 ににんさんきゃく で塾 じゅく の専門 せんもん 学校 がっこう 昇格 しょうかく に向 む けて準備 じゅんび を進 すす めた。この時 とき のトクヨは絹枝 きぬえ に月給 げっきゅう 70円 えん を支給 しきゅう していたが、絹枝 きぬえ は頑 がん として受 う け取 と らず、年末年始 ねんまつねんし も帰省 きせい せずにグラウンド整備 せいび に尽 つ くそうとする絹 きぬ 枝 えだ を無理 むり にでも帰省 きせい させようとしていた。絹枝 きぬえ は毎朝 まいあさ 、松原 まつばら 駅 えき (現 げん ・明大前 めいだいまえ 駅 えき )から体 からだ 専 せん に向 む かう道 みち を掃除 そうじ し、高 こう 身長 しんちょう を生 い かして体育館 たいいくかん の屋根 やね を修理 しゅうり した。昇格 しょうかく が認 みと められた際 さい には、2人 ふたり で手 て を取 と り泣 な いたという。
トクヨは「何一 なにひと つ非 ひ の打 う ちどころの無 な い人物 じんぶつ 」と絹 きぬ 枝 えだ を手放 てばな しで絶賛 ぜっさん し、体 からだ 専 せん に留 と めおきたいという思 おも いが強 つよ かった。一方 いっぽう の絹枝 きぬえ は女子 じょし 陸上 りくじょう 競技 きょうぎ のパイオニアとして更 さら なる飛躍 ひやく を目指 めざ し、トクヨの反対 はんたい を振 ふ り切 き って大阪毎日新聞 おおさかまいにちしんぶん に入社 にゅうしゃ した。絹枝 きぬえ が立 た て続 つづ けに大会 たいかい に出場 しゅつじょう していた際 さい には「こうした大会 たいかい に出場 しゅつじょう することは大 おお いに考 かんが えるべきこと」とトクヨはたしなめた。
こうしてトクヨと絹枝 きぬえ は仲違 なかたが いしてしまうが、その後 ご 和解 わかい したようで、1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )、国際 こくさい 女子 じょし 競技 きょうぎ 大会 たいかい への遠征 えんせい 費 ひ として金一封 きんいっぷう (1,000円 えん )を絹 きぬ 枝 えだ に送 おく った。1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )のトクヨの忠告 ちゅうこく は図 はか らずも1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )に現実 げんじつ となり、絹枝 きぬえ は大阪 おおさか 帝国 ていこく 大学 だいがく 付属 ふぞく 病院 びょういん (現 げん ・大阪大学 おおさかだいがく 医学部 いがくぶ 附属 ふぞく 病院 びょういん )に入院 にゅういん した。同年 どうねん 5月31日 にち 、トクヨは絹枝 きぬえ の見舞 みま いに訪 おとず れ、やつれた絹枝 きぬえ を見 み たトクヨは涙 なみだ を流 なが した。絹枝 きぬえ も涙 なみだ しつつ心配 しんぱい させまいと気丈 きじょう に振 ふ る舞 ま い、トクヨの差 さ し入 い れであるスイカ を2片 へん 食 た べた。しかし絹枝 きぬえ は回復 かいふく せず、8月 がつ 2日 にち に24歳 さい の若 わか さでこの世 よ を去 さ った。トクヨは「スポーツが絹 きぬ 枝 えだ を殺 ころ したのではなく、絹枝 きぬえ がスポーツに死 し んだのです」という言葉 ことば を『婦人 ふじん 公論 こうろん 』に寄 よ せた。またプラハ に絹枝 きぬえ の碑 いしぶみ が建立 こんりゅう されることになった際 さい 、借金 しゃっきん をしてまで寄付 きふ を行 おこな い、女子 じょし スポーツの意見 いけん を求 もと められた際 さい には「人見 ひとみ さんが生 い きてるといいんですがねえ」と感慨 かんがい 深 ふか げに語 かた った[169] 。
恋愛 れんあい と縁談 えんだん [ 編集 へんしゅう ]
女子 じょし 体育 たいいく の指導 しどう 者 しゃ として同 どう 時代 じだい に活躍 かつやく した井口 いぐち 阿 おもね くりや藤村 ふじむら トヨと比較 ひかく しても結婚 けっこん の機会 きかい は豊富 ほうふ にめぐってきた上 うえ 、この2人 ふたり よりも結婚 けっこん 願望 がんぼう が強 つよ かったにもかかわらず、トクヨは生涯 しょうがい 独身 どくしん であった。しかし、年 とし を重 かさ ねてからも結婚 けっこん 願望 がんぼう を抱 いだ き続 つづ け、弟 おとうと の真 ま 寿 ことぶき は40代 だい ・50代 だい になっても結婚 けっこん への希望 きぼう を捨 す てていなかったと語 かた っている。1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )、52歳 さい にして受 う けた新聞 しんぶん のインタビュー で、トクヨは理想 りそう の男性 だんせい 像 ぞう に「侵略 しんりゃく 的 てき な男 おとこ 」を挙 あ げ、智 さとし ・仁 ひとし ・勇 いさむ を兼備 けんび している必要 ひつよう があると答 こた えた[169] 。教 おし え子 ご には人 ひと の妻 つま となり母 はは となることがいかに幸福 こうふく であるか、そして女子 じょし 体育 たいいく はそれを叶 かな えるものであることを説 と き、そのような女子 じょし 体育 たいいく を実践 じっせん し続 つづ けた。
最初 さいしょ の縁談 えんだん は、三本木 さんぼんぎ 小 しょう の恩師 おんし の仲介 ちゅうかい で、仙台 せんだい 出身 しゅっしん の東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 法科 ほうか 大学 だいがく (現 げん ・東京大学 とうきょうだいがく 法学部 ほうがくぶ )の学生 がくせい との間 あいだ で持 も たれた。先方 せんぽう が東京 とうきょう から帰 かえ る時 とき に、トクヨは福島 ふくしま 駅 えき で合流 ごうりゅう し、同 おな じ列車 れっしゃ で宮城 みやぎ 県 けん に帰 かえ ることもあったほどの仲 なか となり、結納 ゆいのう まで進 すす んでいた。先方 せんぽう は母子 ぼし 家庭 かてい で、トクヨの卒業 そつぎょう と同時 どうじ に結婚 けっこん して家庭 かてい に入 はい り、母 はは の面倒 めんどう を見 み ることを要望 ようぼう したが、トクヨは福島 ふくしま 師範 しはん 3年生 ねんせい (18歳 さい )で、女 おんな 高 だか 師 し への進学 しんがく を夢見 ゆめみ ており、進学 しんがく と婚約 こんやく は両立 りょうりつ できるものと考 かんが え、女 おんな 高 だか 師 し を受験 じゅけん 、合格 ごうかく を果 は たした。女 おんな 高 だか 師 し に進学 しんがく すると、トクヨの思 おも いに反 はん して、先方 せんぽう は破談 はだん を申 もう し入 い れた。トクヨの家族 かぞく は「法科 ほうか の学生 がくせい なのに人権 じんけん 無視 むし だ」と憤 いきどお り、仲介 ちゅうかい した恩師 おんし も「縁 えん がなかった、意 い に介 かい することはない」と慰 なぐさ めた。この経験 けいけん は長 なが らくトクヨに暗 くら い影 かげ を落 お とし、上京 じょうきょう 時 じ には赤門 あかもん の前 まえ を通 とお ると破談 はだん にした男 おとこ と出 で くわすのではないかとひやひやし、その男 おとこ が別 べつ の女性 じょせい と結婚 けっこん したと風 ふう の噂 うわさ で聞 き いた時 とき には悶絶 もんぜつ した。イギリスから帰国 きこく した際 さい に、家族 かぞく に松島 まつしま 旅行 りょこう を勧 すす められるも、新婚 しんこん 旅行 りょこう で松島 まつしま に行 い く予定 よてい だった苦 にが い思 おも い出 で からトクヨは拒否 きょひ し、「人 ひと の心 しん も知 し らないで」とつぶやいた。
高知 こうち 師範 しはん では恋愛 れんあい を経験 けいけん している。相手 あいて は歩兵 ほへい 第 だい 44連隊 れんたい の青年 せいねん 将校 しょうこう で、トクヨが慰問 いもん のため衛戍 えいじゅ 病院 びょういん を訪 たず ねたのが出会 であ いのきっかけであった。2人 ふたり は順調 じゅんちょう に仲 なか を深 ふか め、結婚 けっこん を意識 いしき するまでになったが、連隊 れんたい 長 ちょう が反対 はんたい したため破談 はだん となった。弟 おとうと の清 せい 寿 ひさし は姉 あね トクヨから事 こと の次第 しだい を手紙 てがみ で知 し らされたが、掛 か ける言葉 ことば が見 み つからなかったという。
東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し の助教授 じょきょうじゅ 時代 じだい には、福島 ふくしま 師範 しはん の同級生 どうきゅうせい の母親 ははおや がトクヨを心配 しんぱい して仲人 なこうど を買 か って出 で てくれた。仲介 ちゅうかい された相手 あいて は海軍 かいぐん 少佐 しょうさ で、トクヨと同 おな じようにわけあって結婚 けっこん できなかった人物 じんぶつ であったことから、トクヨに深 ふか く同情 どうじょう し、自分 じぶん と結婚 けっこん したらもっと悲惨 ひさん な目 め に遭 あ わせてしまうと発言 はつげん した。この時 とき トクヨは母方 ははかた の叔父 おじ ・小 しょう 梁川 はしかわ 文平 ぶんぺい を同伴 どうはん していたが、文平 ぶんぺい は「忙 いそが しいのに」とひどく不機嫌 ふきげん で、仲人 なこうど の家 いえ に着 つ くと「おみやげはどうするんだ」と言 い い、先方 せんぽう の同情 どうじょう 発言 はつげん も理解 りかい していなかった、と手紙 てがみ に記 しる している。そうこうしているうちにトクヨのイギリス行 い きが決 き まり、縁談 えんだん は自然 しぜん 消滅 しょうめつ 、先方 せんぽう はトクヨの留学 りゅうがく 中 ちゅう に別 べつ の女性 じょせい と結婚 けっこん した。
東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し 教授 きょうじゅ に就任 しゅうにん した時 とき には34歳 さい になっていたが、トクヨはまだ若 わか いつもりで、「老 ろう 女流 じょりゅう 教育 きょういく 家 か を前 まえ にして、古 ふる くなった軍艦 ぐんかん をおばあさんの船 ふね にたとえる講演 こうえん 会 かい が学校 がっこう であって、おかしくて仕方 しかた なかった」と家族 かぞく に話 はな し、弟 おとうと の真 ま 寿 ことぶき は内心 ないしん 「そのうち自分 じぶん もおばあさん船 せん の仲間 なかま になってしまうくせに」と思 おも っていた。そんなある日 ひ に縁談 えんだん が持 も ち込 こ まれ、相手 あいて の男性 だんせい はある分野 ぶんや で知名度 ちめいど の高 たか い人物 じんぶつ であった。トクヨは一旦 いったん この縁談 えんだん を断 ことわ るも後 ご から気 き になり出 だ し、真 ま 寿 ことぶき に再 さい 交渉 こうしょう を依頼 いらい した。真 ま 寿 ことぶき は仲人 なこうど だった人物 じんぶつ に会 あ いに行 い って事情 じじょう を話 はな すと、既 すで に先方 せんぽう は婚約 こんやく 者 しゃ が決 き まったと伝 つた えられ、「もっと早 はや く言 い ってくれたら」と残念 ざんねん がられた。真 ま 寿 ことぶき はトクヨに手紙 てがみ で結果 けっか 報告 ほうこく をし、トクヨから「二日 ふつか 二 に 晩 ばん 飯 めし も食 く わずに泣 な き明 あ かした。もう迷 まよ わないで女子 じょし 体育 たいいく という使命 しめい に生 い きる」という旨 むね を記 しる した長々 ながなが しい返事 へんじ を受 う け取 と った。
最 さい 晩年 ばんねん になっても、トクヨは体 からだ 専 せん の若手 わかて 男性 だんせい 教師 きょうし を校長 こうちょう 室 しつ に呼 よ び、疑似 ぎじ 恋愛 れんあい のようなものを楽 たの しんでいた。佐々木 ささき 秀一 ひでかず は校長 こうちょう 室 しつ に気軽 きがる に出入 でい りを許 ゆる された教師 きょうし の1人 ひとり で、佐々木 ささき を応対 おうたい するときは、普段 ふだん の孤独 こどく 感 かん を漂 ただよ わせず明朗 めいろう 快活 かいかつ で、かつらは外 はず したままだった。入院 にゅういん 中 ちゅう 、実弟 じってい の見舞 みま いすら激怒 げきど して追 お い返 かえ したにもかかわらず、佐々木 ささき には面会 めんかい を許 ゆる し、「私 わたし は、他人 たにん のおせわになりたくない。」と話 はな した。通常 つうじょう の訪問 ほうもん 者 しゃ には面会 めんかい 時間 じかん 30分 ふん を要求 ようきゅう し[169] 、居留守 いるす を使 つか うこともあった一方 いっぽう で、心 しん を許 ゆる した男性 だんせい 記者 きしゃ とは3時 じ 間 あいだ も懇談 こんだん を楽 たの しんでいた[169] 。
体育 たいいく の世界 せかい に入 はい ったことにより、トクヨの人生 じんせい は軍人 ぐんじん との関係 かんけい が深 ふか くなった。金沢 かなざわ で第 だい 9師団 しだん に乗馬 じょうば 練習 れんしゅう のため単身 たんしん 司令 しれい 部 ぶ に乗 の り込 こ んだのが、記録 きろく に残 のこ る最初 さいしょ の軍人 ぐんじん との関係 かんけい である。乗馬 じょうば 練習 れんしゅう 中 ちゅう に、将校 しょうこう が部下 ぶか に号令 ごうれい をかけたがあまりうまくなく、トクヨが代 か わりに号令 ごうれい をかけたら兵隊 へいたい は一糸 いっし 乱 みだ れずに動 うご いたというエピソードもある。金沢 かなざわ や高知 こうち では近 ちか くの師団 しだん ・連隊 れんたい の訓練 くんれん の様子 ようす を眺 なが めて軍隊 ぐんたい 式 しき の体操 たいそう を授業 じゅぎょう で行 おこな っていた。
特 とく に体 からだ 専 せん 時代 じだい は陸軍 りくぐん 戸山 とやま 学校 がっこう の教官 きょうかん や青年 せいねん 将校 しょうこう 、歩兵 ほへい 第 だい 1連隊 れんたい との関 かか わりが多 おお かった。体 からだ 専 せん に青年 せいねん 将校 しょうこう が来校 らいこう した際 さい には、授業 じゅぎょう を中断 ちゅうだん させて湯茶 ゆちゃ での接待 せったい や生徒 せいと のダンス披露 ひろう などで歓待 かんたい したため、現場 げんば 教師 きょうし の不満 ふまん の種 たね となった。トクヨの「わが身 み を国 くに に捧 ささ げる」という思 おも いは、献身 けんしん 的 てき な姿勢 しせい で教 おし え子 ご に感動 かんどう を与 あた える一方 いっぽう で、その時々 ときどき の政策 せいさく に簡単 かんたん に引 ひ っ張 ぱ られてしまうという弱点 じゃくてん を持 も っていた。トクヨの人生 じんせい の末期 まっき はまさに戦争 せんそう に向 む かっている時代 じだい であり、国家 こっか 主義 しゅぎ ・国粋 こくすい 主義 しゅぎ 的 てき な思想 しそう を持 も った「軍国 ぐんこく ばあさん」になっていき、トクヨの死後 しご の体 からだ 専 せん の学生 がくせい は、「人生 じんせい とは何 な ぞや…と考 かんが えるより先 ま ず自分 じぶん の心 しん の雑草 ざっそう を抜 ぬ く。」という言葉 ことば を残 のこ しており、トクヨの教 おし えは思考 しこう 停止 ていし 装置 そうち になってしまった。
トクヨは高知 こうち 時代 じだい に軍人 ぐんじん と恋 こい をし、教 おし え子 ご を軍人 ぐんじん と結婚 けっこん させたこともある。一方 いっぽう で、教 おし え子 ご の見合 みあ い相手 あいて の軍人 ぐんじん に対 たい し、「今 いま に軍隊 ぐんたい などなくなる時代 じだい が来 く る」と言 い ったこともあり、軍人 ぐんじん に対 たい する見方 みかた は首尾 しゅび 一貫 いっかん したものではなかった。
人生 じんせい の後半 こうはん になるとトクヨは教育 きょういく 体操 たいそう の中 なか に兵 へい 式 しき 体操 たいそう が入 はい り込 こ んでくることに反対 はんたい した。軍隊 ぐんたい で行 おこな われる兵 へい 式 しき 体操 たいそう の目的 もくてき は号令 ごうれい による統一 とういつ 行動 こうどう であり、教育 きょういく 体操 たいそう の目的 もくてき は個人 こじん としてあるいは団体 だんたい としての日常 にちじょう 的 てき な動作 どうさ を体得 たいとく することであることから、目的 もくてき が違 ちが うと考 かんが えたためである。特 とく に児童 じどう や女子 じょし に兵 へい 式 しき 体操 たいそう を施 ほどこ すならば大 おお いに手加減 てかげん しなければ真価 しんか を発揮 はっき できないと述 の べた。
トクヨと女子 じょし 教育 きょういく 家 か [ 編集 へんしゅう ]
トクヨは他 た の女子 じょし 教育 きょういく の専門 せんもん 家 か とも交友 こうゆう 関係 かんけい があり、幾 いく 人 にん かとやり取 と りした手紙 てがみ も残 のこ っている。具体 ぐたい 的 てき には吉岡 よしおか 彌生 やよい (東京 とうきょう 女子 じょし 医学 いがく 専門 せんもん 学校 がっこう )、大 だい 妻 つま コタカ (大 だい 妻 つま 女子 じょし 専門 せんもん 学校 がっこう )、大江 おおえ スミ (東京家政学院 とうきょうかせいがくいん )、十文字 じゅうもんじ こと (十文字 じゅうもんじ 学園 がくえん )、川村 かわむら 文子 ふみこ (川村 かわむら 学園 がくえん )らが挙 あ げられる。ある人 ひと からは「二階堂 にかいどう さんってなかなかのやり手 て ね、未 いま だ駆 か け出 だ しなのにもう専門 せんもん 学校 がっこう にしてしまった。」と塾 じゅく の創立 そうりつ からわずか4年 ねん で専門 せんもん 学校 がっこう に昇格 しょうかく させたことをやっかまれたこともあった。
ある日 ひ 、吉岡 よしおか 彌生 やよい が体 からだ 専 せん に来校 らいこう した。トクヨが応接 おうせつ 室 しつ でもてなすと吉岡 よしおか は「まあ立派 りっぱ なスプーンですこと、まあお見事 みごと な菓子 かし 器 き ですこと」と、茶器 ちゃき に比 くら べて貧弱 ひんじゃく な校舎 こうしゃ や学校 がっこう 設備 せつび に対 たい して暗 あん に皮肉 ひにく を言 い った。その場 ば では軽 かる く受 う け流 なが したものの、吉岡 よしおか が帰 かえ った後 のち 、トクヨは人前 ひとまえ で「さんざんからかわれちゃった」と言 い いながら、吉岡 よしおか のものまね を披露 ひろう してうっぷんを晴 は らした。
またある時 とき には、トクヨは川村 かわむら 文子 ふみこ を訪 たず ねて金 かね の工面 くめん を依頼 いらい した。川村 かわむら もお金 かね に苦労 くろう していたのでその旨 むね を伝 つた えて断 ことわ るも、トクヨは川村 かわむら の付 つ けていたダイヤモンド の指輪 ゆびわ に気付 きづ いて、「私 わたし は恩給 おんきゅう もつぎ込 こ んで一文 いちぶん 無 む しですが、そのダイヤは高価 こうか なものではありませんか」と食 く い下 さ がった。川村 かわむら は「これは肌身 はだみ 離 はな さずつけている記念 きねん のものでございますが、何 なに ならこれを金 かね にかえて御 お 用立 ようだて ていたしましょうか」と応 おう じ、さすがのトクヨも、そこまでは求 もと めていないと恐縮 きょうしゅく して帰 かえ った。このエピソードは、トクヨの死後 しご に川村 かわむら がトクヨの末弟 ばってい ・真 ま 寿 ことぶき に語 かた ったものである。
理論 りろん と業績 ぎょうせき [ 編集 へんしゅう ]
トクヨの体育 たいいく に対 たい する考 かんが え方 かた は、イギリス留学 りゅうがく の前後 ぜんご で180度 ど 転換 てんかん した。
留学 りゅうがく 以前 いぜん の「厳 きび しい体育 たいいく 」[ 編集 へんしゅう ]
留学 りゅうがく 前 まえ のトクヨは井口 いぐち から学 まな んだスウェーデン体操 たいそう と勤務 きんむ 校 こう の近 ちか くにあった師団 しだん ・連隊 れんたい で見 み た兵 へい 式 しき 体操 たいそう を授業 じゅぎょう で行 おこな っていた。トクヨは自身 じしん が教 おし えている体操 たいそう がスウェーデン体操 たいそう だと思 おも い込 こ んでいたが、実際 じっさい にはスウェーデン体操 たいそう のうちの教育 きょういく 体操 たいそう に相当 そうとう する領域 りょういき のみであり、しかも大 だい 部分 ぶぶん はスウェーデン体操 たいそう ではなく軍隊 ぐんたい 式 しき 訓練 くんれん をまねたものであった。また井口 いぐち から習 なら ったのはスウェーデン体操 たいそう の型 かた だけであり、その背後 はいご にある理論 りろん は学 まな んでいなかった。井口 いぐち の実践 じっせん するスウェーデン体操 たいそう が厳 いかめ しかったこともあり、トクヨも体操 たいそう とは厳 きび しいものという認識 にんしき を持 も っており、授業 じゅぎょう で教 おし え子 ご が泣 な くのは当 あ たり前 まえ だと考 かんが えていた。
油井 ゆい 小 しょう 訓導 くんどう 時代 じだい に行 い った授業 じゅぎょう は、自分 じぶん が嫌 きら っていた「怒鳴 どな られて馬鹿馬鹿 ばかばか しい」体操 たいそう そのものであった。北国 きたぐに の2月 がつ のある寒 さむ い日 ひ に、川 かわ から吹 ふ き付 つ ける身 み を切 き るような風 ふう の中 なか 、屋根 やね だけのある雨天 うてん 体操 たいそう 場 じょう で、トクヨは児童 じどう をきれいに整列 せいれつ させた。少 すこ しでも列 れつ を乱 みだ そうものなら厳 きび しく叱 しか りつけ、続 つづ けて徒手 としゅ 体操 たいそう をさせた。防寒 ぼうかん が不十分 ふじゅうぶん な児童 じどう が多 おお く、みな震 ふる えており、泣 な き出 だ す者 もの も現 あらわ れた。トクヨは「そんな弱虫 よわむし ではいけません」と叱 しか り、泣 な けば泣 な くほど児童 じどう に厳 きび しく指導 しどう した。
留学 りゅうがく 以後 いご の体育 たいいく 観 かん [ 編集 へんしゅう ]
留学 りゅうがく 以降 いこう のトクヨの体育 たいいく 観 かん は「知育 ちいく ・徳育 とくいく の基礎 きそ 」、「保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体育 たいいく 」の2点 てん に特徴 とくちょう づけられる。
留学 りゅうがく 前 まえ はスウェーデン体操 たいそう を称賛 しょうさん し、ドイツ体操 たいそう を「さっぱり駄目 だめ 」と評 ひょう していたが、ロンドンで見 み たつり輪 わ ・平行棒 へいこうぼう ・鉄棒 てつぼう ・木馬 もくば の演武 えんぶ に魅了 みりょう され、さらにそれがドイツ体操 たいそう であることを知 し って驚愕 きょうがく し、ドイツ体操 たいそう を専 せん 門 もん に学 まな びたいと日本 にっぽん へ書 か き送 おく るほどに認識 にんしき を改 あらた めた。その後 ご 、ドイツ体操 たいそう はドイツ国民 こくみん のための上体 じょうたい を鍛 きた える体操 たいそう 、スウェーデン体操 たいそう は全 ぜん 地球 ちきゅう 民 みん のための全身 ぜんしん の調和 ちょうわ 的 てき 発達 はったつ を図 はか る体操 たいそう であるという理解 りかい に至 いた ったが、ドイツ体操 たいそう への敬意 けいい を忘 わす れず、帰国 きこく 後 ご の体育 たいいく 理論 りろん はスウェーデン体操 たいそう とドイツ体操 たいそう の折衷 せっちゅう を図 はか っている。
知育 ちいく ・徳育 とくいく の基礎 きそ [ 編集 へんしゅう ]
トクヨは体育 たいいく の目的 もくてき を身体 しんたい の健康 けんこう の維持 いじ ・増進 ぞうしん とし、知育 ちいく ・徳育 とくいく の基礎 きそ であると考 かんが えた。当時 とうじ の日本 にっぽん は「優良 ゆうりょう 国民 こくみん 養成 ようせい 」の観点 かんてん から知育 ちいく ・徳育 とくいく ともに失敗 しっぱい しており、体育 たいいく はより悲惨 ひさん な状況 じょうきょう であるとトクヨは認識 にんしき し、まず第 だい 一 いち に体育 たいいく を充実 じゅうじつ させることで自然 しぜん と徳育 とくいく が高 たか まり、知育 ちいく も発展 はってん すると主張 しゅちょう した。これは先進 せんしん 国 こく の事例 じれい をいくらでも挙 あ げて立証 りっしょう できるとトクヨは述 の べた。
い換 いか えれば「体育 たいいく を通 とお した全 ぜん 人 ひと 教育 きょういく 」であり、女子 じょし 体育 たいいく に限定 げんてい すれば「女性 じょせい らしい健康 けんこう な心 しん と体 からだ づくり」である。体育 たいいく を全 ぜん 人 ひと 教育 きょういく と捉 とら えたのは、トクヨと対立 たいりつ した永井 ながい 道明 みちあき も同 おな じである。
保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体育 たいいく [ 編集 へんしゅう ]
保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体育 たいいく とは、個人 こじん の体質 たいしつ ・年齢 ねんれい ・境遇 きょうぐう に応 おう じて、食物 しょくもつ ・衣服 いふく ・睡眠 すいみん ・医薬 いやく を調整 ちょうせい し、自然 しぜん の欲求 よっきゅう を満 み たし、衛生 えいせい 的 てき にいたわることを重視 じゅうし した体育 たいいく である。基礎 きそ 的 てき ・一般 いっぱん 的 てき な体育 たいいく は保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体育 たいいく を旨 むね とし、一般人 いっぱんじん や子供 こども には保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体育 たいいく を施 ほどこ すことが重要 じゅうよう であるとトクヨは強調 きょうちょう した。こうした思想 しそう に至 いた ったのは、当時 とうじ の日本 にっぽん では幼児 ようじ や青年 せいねん の早死 はやじに に、婦人 ふじん や一般人 いっぱんじん の病弱 びょうじゃく が社会 しゃかい 問題 もんだい 化 か していたという背景 はいけい がある。国 くに も体育 たいいく 研究所 けんきゅうじょ を設立 せつりつ するに至 いた ったが、強 つよ い軍隊 ぐんたい を作 つく ることが主 しゅ 目的 もくてき であり、一般 いっぱん 国民 こくみん の健康 けんこう と体位 たいい 向上 こうじょう が必要 ひつよう だとトクヨは考 かんが えたのであった。
保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体育 たいいく は生徒 せいと 本位 ほんい で行 おこな うべき体育 たいいく であり、当時 とうじ の日本 にっぽん の体育 たいいく は教師 きょうし 本位 ほんい ・運動 うんどう 場 じょう 本位 ほんい ・器械 きかい 本位 ほんい であると批判 ひはん した。教師 きょうし 本位 ほんい の例 れい として、体操 たいそう 教師 きょうし の不足 ふそく を理由 りゆう に複数 ふくすう 学級 がっきゅう を統合 とうごう して多人数 たにんずう で授業 じゅぎょう を行 おこな うこと、運動 うんどう 場 じょう 本位 ほんい の例 れい として、グラウンドの砂 すな や石 いし 、寒 さむ 暑 あつ を考慮 こうりょ せずに授業 じゅぎょう を行 おこな うこと、器械 きかい 本位 ほんい の例 れい として、器械 きかい が不足 ふそく するからと言 い って行 おこな うべき体操 たいそう を省略 しょうりゃく し、数 すう 人 にん だけ器械体操 きかいたいそう を行 おこな わせ他 ほか の生徒 せいと は見学 けんがく しているだけにすることをトクヨは挙 あ げた。生徒 せいと 本位 ほんい の授業 じゅぎょう を行 おこな うには、体操 たいそう 教師 きょうし が絶 た えず練習 れんしゅう して立派 りっぱ な体操 たいそう を見 み せることと、生徒 せいと の中 なか から示 しめせ 範 はん 役 やく を選 えら んで自 みずか らの力 ちから で身 み に付 つ ける努力 どりょく をさせると同時 どうじ に、教師 きょうし の型 かた にはめないことが大事 だいじ であると主張 しゅちょう した。教師 きょうし が厳 きび しい号令 ごうれい をかけ続 つづ けていると感覚 かんかく がマヒし、命令 めいれい がないと動 うご けない生徒 せいと になってしまうので注意 ちゅうい すべきと説 と いた。指導 しどう する順序 じゅんじょ に関 かん しては、『学校 がっこう 体操 たいそう 教授 きょうじゅ 要目 ようもく 』に記載 きさい された体操 たいそう を固定 こてい した順序 じゅんじょ で実施 じっし する単式 たんしき 教程 きょうてい が一般 いっぱん 的 てき だったが、トクヨは生徒 せいと が関心 かんしん を示 しめ し集中 しゅうちゅう して取 と り組 く めるよう、同 おな じ種類 しゅるい の体操 たいそう を複数 ふくすう の異 こと なった方法 ほうほう で繰 く り返 かえ し行 おこな う複式 ふくしき 教程 きょうてい を採用 さいよう し、強弱 きょうじゃく ・難易 なんい ・緩急 かんきゅう のバランスを考 かんが えることが「正 ただ しい教程 きょうてい 」だとした。1回 かい の授業 じゅぎょう で体操 たいそう だけしか行 おこな わない授業 じゅぎょう も一般 いっぱん 的 てき で、それだけでは時間 じかん が余 あま るため1つの体操 たいそう を行 おこな うたびに「休 やす め」をはさんで場 ば をつないでいた。トクヨはこれを「ほかの教科 きょうか で2、3分 ふん 毎 ごと にヤスメをしますか?」と批判 ひはん し、競技 きょうぎ ・遊戯 ゆうぎ を取 と り入 い れるべきだと述 の べた。
また学校 がっこう 体育 たいいく とは勉学 べんがく で弱 よわ らせた血液 けつえき 循環 じゅんかん や呼吸 こきゅう 機能 きのう を正常 せいじょう に戻 もど し、姿勢 しせい を矯正 きょうせい するものであると述 の べた。姿勢 しせい の矯正 きょうせい は、留学 りゅうがく 前 まえ から胸 むね を張 は る動作 どうさ を中心 ちゅうしん に実践 じっせん していたが、これはスウェーデン体操 たいそう のうちの教育 きょういく 体操 たいそう の領域 りょういき に相当 そうとう するものであり、医療 いりょう 体操 たいそう の視点 してん は欠如 けつじょ していた。そこでトクヨは「正 ただ しくない姿勢 しせい 」が教育 きょういく 体操 たいそう によって矯正 きょうせい のできるものと、医療 いりょう 体操 たいそう で改善 かいぜん すべきもの[注 ちゅう 49] のどちらか見極 みきわ める必要 ひつよう 性 せい を説 と いた。
年齢 ねんれい と行 おこな うべき体操 たいそう の対応 たいおう について、トクヨは下表 かひょう のように主張 しゅちょう している。下表 かひょう の「鍛錬 たんれん 」とは、保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体育 たいいく に上乗 うわの せして行 おこな うものであり、細心 さいしん の注意 ちゅうい と合理 ごうり 的 てき な条件 じょうけん を持 も って行 おこな うべきと説 と いた。
年齢 ねんれい
行 おこな うべき体操 たいそう
幼年 ようねん ・児童 じどう
保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体操 たいそう 、鍛錬 たんれん はごく初歩 しょほ [注 ちゅう 50]
14・15歳 さい 頃 ごろ 〜
一般 いっぱん 的 てき ・鍛練 たんれん 的 てき 体操 たいそう [注 ちゅう 51]
20歳 さい 前後 ぜんこう
思 おも い切 き った鍛練 たんれん
24・25歳 さい 頃 ごろ 〜
思 おも い切 き った鍛練 たんれん を徐々 じょじょ に緩 ゆる める
成人 せいじん
保護 ほご 的 てき 体操 たいそう ・趣味 しゅみ 的 てき 体操 たいそう
老人 ろうじん
自愛 じあい 的 てき 体操 たいそう
トクヨの保護 ほご 愛育 あいいく の対象 たいしょう は、老若男女 ろうにゃくなんにょ を問 と わず、民族 みんぞく や国籍 こくせき をも超 こ えたものであった。トクヨは二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく で、当時 とうじ 日本 にっぽん の統治 とうち 下 か にあった地域 ちいき の出身 しゅっしん 者 しゃ を日本人 にっぽんじん と平等 びょうどう に、というよりもむしろより積極 せっきょく 的 てき に愛護 あいご した。
保護 ほご 愛育 あいいく 的 てき 体育 たいいく とは言 い いながらも、トクヨの指導 しどう する体操 たいそう は依然 いぜん として厳 きび しいものであった。トクヨの授業 じゅぎょう を受 う けた戸倉 とくら ハルによると、特 とく に徒手 としゅ 体操 たいそう が厳 きび しく、「半 はん 前半 ぜんはん 上 じょう 屈 こごめ 臂 ひじ 」など独特 どくとく の名前 なまえ を付 つ けた体操 たいそう をさせたという。
女子 じょし 体育 たいいく と女子 じょし スポーツ[ 編集 へんしゅう ]
トクヨが留学 りゅうがく から帰国 きこく した当時 とうじ の日本 にっぽん では、井口 いぐち 阿 おもね くりら先人 せんじん の努力 どりょく もむなしく、女子 じょし 体育 たいいく は男子 だんし 体育 たいいく よりも下位 かい に置 お かれ、女子 じょし 体育 たいいく の標準 ひょうじゅん 点 てん や到達 とうたつ 点 てん の設定 せってい には程遠 ほどとお く、男子 だんし 体育 たいいく を1段 だん から数 すう 段 だん 下 さ げた教材 きょうざい を女子 じょし に与 あた えている状態 じょうたい であった。教育 きょういく 現場 げんば では、体力 たいりょく 的 てき に男子 だんし 体育 たいいく の指導 しどう が満足 まんぞく にできなくなってきた老 ろう 教師 きょうし が女子 じょし 体育 たいいく で威張 いば り、トクヨは「この立 た ちぐされ連 れん 」と手厳 てきび しい批判 ひはん を行 おこな った。「女子 じょし 体育 たいいく は女子 じょし の手 て で」というトクヨの口癖 くちぐせ は、男性 だんせい 教師 きょうし は女子 じょし の身体 しんたい 特性 とくせい をよく理解 りかい せず、過度 かど に配慮 はいりょ した体育 たいいく を課 か す現状 げんじょう が女子 じょし のためになっていないという考 かんが えを表 あらわ したもので、女性 じょせい 体操 たいそう 教師 きょうし 共通 きょうつう の思 おも いであった。トクヨは著書 ちょしょ 『足掛 あしかけ 四 よん 年 ねん 』に「何 なん 時 じ の世 よ でも女 おんな らしい体操 たいそう 家 か が女子 じょし の世界 せかい には勝利 しょうり を占 し めねばなりませぬ」という言葉 ことば を綴 つづ っている。また1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )に全国 ぜんこく 女 おんな 学 がく 校長 こうちょう 会議 かいぎ で「走高跳 はしりたかとび 、スキー 、バスケットボール 、インドアベースボール などは女子 じょし には過激 かげき なので深 ふか く考 かんが えて行 おこな わねばならぬ」と決議 けつぎ したことに対 たい して、トクヨは自身 じしん の経験 けいけん 上 じょう 、心配 しんぱい には及 およ ぶまいとして、ある程度 ていど までは男子 だんし と同 おな じでよいと意見 いけん した[152] 。
トクヨにとって女子 じょし 体育 たいいく の目的 もくてき とは良妻賢母 りょうさいけんぼ であり、健全 けんぜん な女性 じょせい でなければ健全 けんぜん な子供 こども を産 う めないので、女子 じょし 体育 たいいく は国力 こくりょく の源 みなもと であると考 かんが えていた。また女子 じょし の身体 しんたい の構造 こうぞう と機能 きのう は、男子 だんし より複雑 ふくざつ であるから、男子 だんし 体育 たいいく よりも女子 じょし 体育 たいいく の方 ほう が重要 じゅうよう であると主張 しゅちょう した。したがって男子 だんし と同 おな じ体育 たいいく を女子 じょし にさせても成功 せいこう はないと述 の べ、女子 じょし に適 てき した教材 きょうざい としてダンスを採用 さいよう した。逆 ぎゃく に女子 じょし に適 てき さない教材 きょうざい として激 はげ しい運動 うんどう を挙 あ げ、具体 ぐたい 的 てき にはマラソン を例示 れいじ した。マラソンは女子 じょし には激 はげ しすぎる上 うえ 、優美 ゆうび ではないからだとした。
他方 たほう で、当時 とうじ の日本 にっぽん には新 あたら しいスポーツが次々 つぎつぎ と流入 りゅうにゅう し、国際 こくさい 大会 たいかい に出場 しゅつじょう する選手 せんしゅ も増加 ぞうか 傾向 けいこう にあった。トクヨ自身 じしん 、イギリスからクリケットとホッケーを日本 にっぽん に持 も ち帰 かえ った[10] 。トクヨの持 も ち帰 かえ ったクリケットとホッケーは、スウェーデン体操 たいそう と並行 へいこう してKPTCで行 おこな っていた競技 きょうぎ であり、クリケットはKPTCで最 もっと も難 むずか しい競技 きょうぎ 、ホッケーは最 もっと も人気 にんき の競技 きょうぎ であった。
しかしながら、当時 とうじ 日本 にっぽん でスポーツができるのはほんの一 いち 握 にぎ りの人々 ひとびと であり、彼 かれ らとてスポーツを楽 たの しむという領域 りょういき にはなく、旧来 きゅうらい からの武術 ぶじゅつ 的 てき 視点 してん や国家 こっか 意識 いしき 高揚 こうよう の視点 してん にとらわれがちであった。このためトクヨは国民 こくみん 体育 たいいく をある程度 ていど まで向上 こうじょう させることが先決 せんけつ で、選手 せんしゅ の育成 いくせい は二 に の次 つぎ だと考 かんが えていた。その反面 はんめん 、国際 こくさい 大会 たいかい で日本 にっぽん の女子 じょし 選手 せんしゅ を勝 か たせたいという思 おも いがあり、「日本 にっぽん 選手 せんしゅ 婦人 ふじん 後援 こうえん 会 かい 」なる組織 そしき を立 た ち上 あ げて応援 おうえん した。勝 か てば女 おんな の面目 めんぼく ・母 はは の面目 めんぼく が立 た つからという思 おも いと、国際 こくさい 舞台 ぶたい での日本 にっぽん 婦人 ふじん の体面 たいめん を保 たも ちたいという思 おも いからである。この矛盾 むじゅん はトクヨ自身 じしん 、よく自覚 じかく しているものであった。そして、人見 ひとみ 絹枝 きぬえ との出会 であ いを通 とお して、トクヨはアスリート養成 ようせい に舵 かじ を切 き っていくのであった。
ダンスは、スウェーデン体操 たいそう のうちの優美 ゆうび 体操 たいそう の領域 りょういき に相当 そうとう し、女子 じょし に適 てき する運動 うんどう として積極 せっきょく 的 てき に採用 さいよう した。ダンスが曲線 きょくせん 的 てき 運動 うんどう で女子 じょし に曲線 きょくせん 美 び を与 あた えることと、ダンスが民族 みんぞく の女性 じょせい 的 てき 精神 せいしん の発露 はつろ であると考 かんが えたからである。ダンスそのものは、トクヨのイギリス留学 りゅうがく 前 まえ より日本 にっぽん の体操 たいそう 科 か の授業 じゅぎょう で取 と り入 い れられており、井口 いぐち 阿 おもね くりによってファーストダンス (英語 えいご 版 ばん ) やポルカ セリーズなどが持 も ち込 こ まれていた。トクヨ自身 じしん 、留学 りゅうがく 前 まえ の石川 いしかわ 高 だか 女 おんな 教師 きょうし 時代 じだい から、カドリールやレディポルカなどのハイカラ なダンスを授業 じゅぎょう や運動会 うんどうかい で実施 じっし していた。明治 めいじ 時代 じだい の井口 いぐち やトクヨによるダンスの普及 ふきゅう 活動 かつどう は、日本 にっぽん の学校 がっこう ダンスの先駆 せんく 的 てき な取 と り組 く みであり、体操 たいそう 的 てき な要素 ようそ を持 も ったドイツの諸派 しょは のダンスを主 おも に採用 さいよう していた。留学 りゅうがく 中 ちゅう にはロンドンの舞踏 ぶとう 塾 じゅく に13回 かい 通 どおり 塾 じゅく して3人 にん の教師 きょうし から個人 こじん レッスンを受 う け、ホーンパイプ 、スコッチリール 、アイリッシュジグ 、ウェルシュダンスなどの稽古 けいこ に励 はげ んだほか、数 すう 校 こう でイギリスの民族 みんぞく 舞踊 ぶよう などを学 まな んだ。
トクヨのダンスにおける功績 こうせき は、ダンスの基本 きほん 練習 れんしゅう として身体 しんたい 練習 れんしゅう ・表現 ひょうげん 練習 れんしゅう ・リズム練習 れんしゅう の3要素 ようそ を初 はじ めて実践 じっせん したことである。ダンスのレパートリーは、トクヨ自身 じしん の創作 そうさく ダンスや、学生 がくせい が習 なら ってきたものに手直 てなお しを加 くわ えたものをどんどん追加 ついか していき、1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )頃 ごろ には50種類 しゅるい ほどになっていた。ファーストやカドリールといった西洋 せいよう 式 しき のダンスのみならず、「雨降 あめふ りお月 げっ さん 」や「花嫁 はなよめ 人形 にんぎょう 」といった日本 にっぽん の童謡 どうよう を用 もち いたもの、木曽 きそ 節 たかし や佐渡 さわたり おけさ といった各地 かくち の民謡 みんよう を用 もち いたものまで多様 たよう であった。ダンスに使 つか う楽曲 がっきょく は、古典 こてん 的 てき な曲 きょく から当世 とうせい の流行 りゅうこう 歌 か まで幅広 はばひろ く取 と り入 い れ、歌 うた っても踊 おど っても良 よ い曲 きょく を揃 そろ えていた。
教 おし え子 ご の記憶 きおく によると、東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し 教授 きょうじゅ 時代 じだい にトクヨが教 おし えたダンスは、時期 じき によって異 こと なっていた。1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )に入学 にゅうがく した戸倉 とくら ハルは、「三 さん 人 にん 遊 あそ び」と題 だい したトクヨの創作 そうさく ダンス[注 ちゅう 52] やメイポールダンス、ブラックナッグ(Black Nag)、ギャザリングピースカッツ、ロブスタージック[注 ちゅう 53] などのフォークダンス を習 なら った。一方 いっぽう 、1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )に入学 にゅうがく した堀井 ほりい 千代 ちよ 鶴 づる は、在学 ざいがく 中 ちゅう にウォーキング、ホップ、ポルカ、バランス、ギャロップ といった歩法 ほほう しか習 なら わなかったといい、「三 さん 人 にん 遊 あそ び」は卒業 そつぎょう 後 ご にトクヨの体操 たいそう 講習 こうしゅう 会 かい で初 はじ めて習 なら ったと証言 しょうげん している。
大正 たいしょう 時代 じだい の末期 まっき 頃 ごろ から、戸倉 とくら ハルと土川 つちかわ 五郎 ごろう は、舞踊 ぶよう 愛好 あいこう 者 しゃ との交流 こうりゅう 会 かい を開 ひら いていた。この交流 こうりゅう 会 かい は昭和 しょうわ 初期 しょき になると毎週 まいしゅう 行 おこな われるようになり、体育 たいいく ダンスの荒木 あらき 直 ただし 範 はん ・渋井 しぶい 二夫 つぎお 、日本 にっぽん 体育 たいいく 専門 せんもん 学校 がっこう (現 げん ・日本体育大学 にほんたいいくだいがく )の赤間 あかま 雅彦 まさひこ ・加藤 かとう 孝 たかし 吾 われ ・沢山 さわやま 駒 こま 次郎 じろう 、女子 じょし 体育 たいいく 家 か の藤村 ふじむら トヨ・伊沢 いさわ ヱイ姉妹 しまい 、美濃部 みのべ タカらが出席 しゅっせき していた。トクヨもこの交流 こうりゅう 会 かい に参加 さんか し、出席 しゅっせき 者 しゃ は女子 じょし 体育 たいいく の普及 ふきゅう にはダンスが最適 さいてき との共通 きょうつう 理解 りかい が生 う まれた。
体操 たいそう 服 ふく の改良 かいりょう [ 編集 へんしゅう ]
留学 りゅうがく から帰国 きこく したトクヨは、和服 わふく が自然 しぜん な呼吸 こきゅう 機能 きのう を阻害 そがい する[注 ちゅう 54] ので改良 かいりょう しなければならないと考 かんが え、「和服 わふく 式 しき 体操 たいそう 服 ふく 」を考案 こうあん した。留学 りゅうがく 先 さき のイギリスで自国 じこく の文化 ぶんか を大切 たいせつ にする教育 きょういく に触 ふ れて感銘 かんめい を受 う け、ぜひとも体操 たいそう 服 ふく を和風 わふう にしたいと考 かんが えたのであった。
トクヨは1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )10月 がつ に貞明皇后 ていめいこうごう が東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し に行啓 ぎょうけい するのに合 あ わせて和服 わふく 式 しき 体操 たいそう 服 ふく の「着初 きぞ め式 しき 」を行 おこな った。その体操 たいそう 服 ふく は、和服 わふく から胸 むね 枷 かせ を取 と り去 さ り、袖 そで をシャツのようにし、下 しも 衣 ころも に袴 はかま を採用 さいよう して[注 ちゅう 55] 、帯 おび をひも 状 じょう にしたものであった。中 なか に肌着 はだぎ を着込 きこ むことで寒 さむ 暑 あつ を調整 ちょうせい し、足元 あしもと は靴下 くつした を履 は くか否 ひ かは自由 じゆう とし、足袋 たび でも下駄 げた でも構 かま わないとした。この格好 かっこう ならば体操 たいそう 科 か の授業 じゅぎょう 以外 いがい にそのまま出席 しゅっせき しても何 なん ら問題 もんだい なく、羽織 はおり やコート を上 うえ にまとえば外出 がいしゅつ もできると利点 りてん を主張 しゅちょう した。着初 きぞ め式 しき に続 つづ き、トクヨは2年生 ねんせい の生徒 せいと 15人 にん を率 ひき いて皇后 こうごう にダンスを披露 ひろう し[注 ちゅう 56] 、皇后 こうごう は「本校 ほんこう の教育 きょういく 一般 いっぱん に進歩 しんぽ の状 じょう あり。又 また 特 とく に体育 たいいく に留意 りゅうい する所 ところ あるを見 み る。」という感想 かんそう を述 の べた。せっかく着初 きぞ め式 しき まで行 い ったものの、和服 わふく 式 しき 体操 たいそう 服 ふく は不 ふ 採用 さいよう となり、トクヨは結局 けっきょく 、KPTCと同 おな じチュニックを教 おし え子 ご に着 き せたのであった。
トクヨによる体操 たいそう 服 ふく の改良 かいりょう の実践 じっせん は、非 ひ 活動 かつどう 的 てき な従来 じゅうらい 型 がた の衣服 いふく が男性 だんせい への女性 じょせい の隷属 れいぞく を強 し いるものであるから、運動 うんどう を通 とお して衣服 いふく を改良 かいりょう し、女性 じょせい の地位 ちい を向上 こうじょう させるという意味合 いみあ いを持 も ったものであった。井口 いぐち 阿 おもね くりが持 も ち帰 かえ り、永井 ながい 道明 みちあき も採用 さいよう したブルマーも女性 じょせい の心身 しんしん の解放 かいほう を目指 めざ した体操 たいそう 服 ふく であった。
いずれの著書 ちょしょ も女 おんな 高 だか 師 し 文科 ぶんか 出身 しゅっしん の文才 ぶんさい を発揮 はっき し、読者 どくしゃ に話 はな しかけるような文体 ぶんたい を取 と っている。
郷里 きょうり の三本木 さんぼんぎ にある大崎 おおさき 市 し 三本木 さんぼんぎ 総合 そうごう 支所 ししょ には、トクヨの胸像 きょうぞう が設置 せっち されており[10] 、2019年 ねん 3月17日 にち には二階堂 にかいどう トクヨ先生 せんせい を顕彰 けんしょう する会 かい [注 ちゅう 58] と館山 たてやま 公園 こうえん を復活 ふっかつ させる会 かい が協同 きょうどう してトクヨを顕彰 けんしょう する看板 かんばん を設置 せっち した[9] 。また、母校 ぼこう の三本木 さんぼんぎ 小学校 しょうがっこう では、2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )より校内 こうない 縄跳 なわと び大会 たいかい を「二階堂 にかいどう トクヨ杯 はい 」と銘打 めいう って開催 かいさい し、「二階堂 にかいどう トクヨ先生 せんせい を顕彰 けんしょう する会 かい 」の会員 かいいん も観覧 かんらん に来 き ている[371] 。2019年 ねん (平成 へいせい 31年 ねん /令 れい 和 わ 元年 がんねん )に吉野 よしの 作造 さくぞう 記念 きねん 館 かん (宮城 みやぎ 県 けん 大崎 おおさき 市 し )は企画 きかく 展 てん 「時代 じだい をつくった女性 じょせい たち―大正 たいしょう 女性 じょせい の豊 ゆた かな生 い き方 かた 」を開催 かいさい してトクヨを取 と り上 あ げ[372] [373] 、同 どう 企画 きかく 展 てん 終了 しゅうりょう 後 ご は「みやぎの先人 せんじん ・二階堂 にかいどう トクヨ」と改名 かいめい して写真 しゃしん 資料 しりょう のみの展示 てんじ に切 き り替 か えてトクヨを紹介 しょうかい した[372] [374] 。
トクヨが創設 そうせつ した日本女子体育大学 にほんじょしたいいくだいがく では、学部 がくぶ 1年生 ねんせい の教養 きょうよう 演習 えんしゅう でトクヨの生涯 しょうがい について見識 けんしき を深 ふか める授業 じゅぎょう を行 おこな っている[375] 。この授業 じゅぎょう は従来 じゅうらい 、テキストを読 よ んで問 と いに答 こた えるという「テストの読解 どっかい 問題 もんだい 」のような形式 けいしき [注 ちゅう 59] をとっていたため学生 がくせい から不評 ふひょう であったが、2012年 ねん (平成 へいせい 24年 ねん )に外部 がいぶ 講師 こうし を招 まね いて、学生 がくせい がシナリオ 作 つく りをするという方式 ほうしき で開講 かいこう したところ、学生 がくせい がトクヨに人間 にんげん としての生 い き生 い きとしたイメージを持 も つようになったという[375] 。
父方 ちちかた の祖父 そふ :二階堂 にかいどう 清三郎 せいさぶろう
父方 ちちかた の祖母 そぼ :二階堂 にかいどう やえ
父 ちち :二階堂 にかいどう 保治 やすじ (やすじ)
幼少 ようしょう 期 き から書 しょ を好 この み、20歳 さい 頃 ごろ に志田 しだ ・玉造 たまつくり 郡 ぐん 役所 やくしょ 書記 しょき に就任 しゅうにん 、松山 まつやま の戸長 こちょう を経 へ て三 さん 本木 もとき に戻 もど り、戸長 こちょう ・村長 そんちょう を務 つと める。しかし途中 とちゅう で挫折 ざせつ し、酒 さけ に溺 おぼ れ、一家 いっか 離散 りさん の原因 げんいん を作 つく った。1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )、48歳 さい で死去 しきょ 。
父方 ちちかた の叔母 おば :佐藤 さとう トリノ
保治 やすじ の妹 いもうと 。仙台 せんだい に住 す んでおり、夏休 なつやす みにトクヨを家 いえ に呼 よ んだ。
父方 ちちかた の叔父 おじ :佐藤 さとう 文 ぶん 之 の 進 すすむ
トリノの夫 おっと で小学校 しょうがっこう 教師 きょうし 。トクヨに『日本 にっぽん 外史 がいし 』を教 おし え、トクヨの勉学 べんがく の才能 さいのう を開花 かいか させた。
母方 ははかた の祖父 そふ :小 しょう 梁川 はしかわ 正之助 しょうのすけ
元 もと ・会津 あいづ 藩士 はんし 、士族 しぞく 。黒川 くろかわ 郡 ぐん 大松沢 おおまつざわ 村 むら (現 げん ・大郷 おおさと 町 まち )新田 しんでん に居 きょ を構 かま えた。トクヨの福島 ふくしま 師範 しはん 進学 しんがく の際 さい にトクヨに付 つ き添 そ って養父 ようふ となる小笠原 おがさわら に挨拶 あいさつ し、トクヨの留学 りゅうがく 出発 しゅっぱつ 前 まえ には「外 そと つくにの 学 まな びの園 えん に あそぶとも ゆめな忘 わす れそ 大和 やまと 国 こく ふり」という励 はげ ましの短歌 たんか を記 しる した短冊 たんざく を贈 おく った。
母 はは :二階堂 にかいどう キン
小 しょう 梁川 はしかわ 正之助 しょうのすけ の長女 ちょうじょ 。18歳 さい で保治 やすじ と結婚 けっこん する。気丈 きじょう で男勝 おとこまさ りな性格 せいかく であり、畑 はたけ 仕事 しごと は得意 とくい であったが文字 もじ は読 よ めず、裁縫 さいほう もできなかった。しかし字面 じめん の雰囲気 ふんいき でほぼ正確 せいかく に内容 ないよう を読 よ み取 と り、古川 ふるかわ の裁縫 さいほう 塾 じゅく に通 かよ って裁縫 さいほう を身 み に付 つ けたという。夫 おっと 亡 な き後 あと は1人 ひとり で家 いえ を支 ささ え、後 のち に二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく の運営 うんえい も手助 てだす けした。1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )、85歳 さい で死去 しきょ 。
母方 ははかた の叔父 おじ :小 しょう 梁川 はしかわ 文平 ぶんぺい
キンの弟 おとうと 。東京 とうきょう 在住 ざいじゅう で、トクヨが東京 とうきょう で頼 たよ れる唯一 ゆいいつ の親類 しんるい であったが、トクヨにとってあまりいい思 おも い出 で のない人 ひと であった。トクヨが助教授 じょきょうじゅ 時代 じだい に受 う けた見合 みあ いに立 た ち会 あ うも不機嫌 ふきげん に振 ふ る舞 ま い、教授 きょうじゅ 時代 じだい には息子 むすこ の結婚式 けっこんしき を手伝 てつだ わせてトクヨに多額 たがく の出費 しゅっぴ をさせている。式 しき の後 のち トクヨはのどを患 わずら ってしばらく出勤 しゅっきん できず、その間 あいだ 文平 ぶんぺい に打 う ち首 くび にされるという悪夢 あくむ を見 み ている。
養父 ようふ :小笠原 おがさわら 貞 さだ 信 しん
長 ちょう 弟 おとうと :二階堂 にかいどう 清 きよし 寿 ことぶき
末弟 ばってい :二階堂 にかいどう 真 しん 寿 ことぶき
妹 いもうと :村田 むらた とみ
名前 なまえ は「登美子 とみこ 」とも書 か く。トクヨの留学 りゅうがく 中 ちゅう に、許婚 きょこん (村田 むらた 順 じゅん 義 よし )がありながら別 べつ の男性 だんせい と恋仲 こいなか になり、トクヨを怒 おこ らせた。後 ご 、村田 むらた と結婚 けっこん して村田 むらた 姓 せい となる。2人 ふたり の娘 むすめ を出産 しゅっさん するも、夫 おっと に先立 さきだ たれ、長女 ちょうじょ も後 ご を追 お うように死亡 しぼう した。夫 おっと 亡 な き後 あと 、主 おも にトクヨの資金 しきん 援助 えんじょ で生活 せいかつ する。1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )に67歳 さい で死去 しきょ 。
養女 ようじょ :二階堂 にかいどう 美喜子 みきこ
義理 ぎり の息子 むすこ :二階堂 にかいどう 直 ただし 富 とみ
トクヨの養女 ようじょ ・美喜子 みきこ の夫 おっと [394] 。トクヨの死後 しご に美喜子 みきこ と結婚 けっこん し、2児 じ をもうける[394] 。トクヨ亡 な き後 あと の体 からだ 専 せん は、美喜子 みきこ 理事 りじ 長 ちょう ・清 せい 寿 ひさし 校長 こうちょう ・直 ちょく 富 とみ の三 さん 頭 とう 体制 たいせい になり、美喜子 みきこ の死 し に伴 ともな いトクヨの財産 ざいさん を継承 けいしょう する[394] 。体 からだ 専 せん の校舎 こうしゃ や敷地 しきち はトクヨの個人 こじん 名義 めいぎ になっていたため、これを継承 けいしょう した直 ちょく 富 とみ の発言 はつげん 権 けん が増 ま すこととなった[394] 。
^ 三本木 さんぼんぎ 小 しょう 高等 こうとう 科 か の同級生 どうきゅうせい は7、8人 にん しかおらず、女子 じょし 児童 じどう はトクヨだけであった。
^ 郡 ぐん の視学 しがく が教師 きょうし となって開 ひら いていた。講習 こうしゅう 会 かい からの帰 かえ り道 みち は暗 くら くなったので、用心 ようじん のためトクヨは小刀 こがたな を懐 ふところ に忍 しの ばせ、途中 とちゅう まで弟 おとうと の清 せい 寿 ひさし が迎 むか えに行 い っていた。
^ 在学 ざいがく 中 ちゅう に校 こう 名 めい 変更 へんこう があり、卒業 そつぎょう 時 じ の校 こう 名 めい は福島 ふくしま 県 けん 師範 しはん 学校 がっこう であった。
^ 安井 やすい はクリスチャン であり、トクヨは安井 やすい の下 した で聖書 せいしょ の勉強 べんきょう をし、『ヨブ記 き 』を英語 えいご で読 よ みこなすことができた。この経験 けいけん が金沢 かなざわ での宣教師 せんきょうし との接触 せっしょく につながり、体操 たいそう 教師 きょうし トクヨの誕生 たんじょう に至 いた るのであった。
^ 当時 とうじ の校長 こうちょう は体操 たいそう 伝習 でんしゅう 所 しょ の卒業生 そつぎょうせい である土師 はじ 雙 そう 他 た 郎 ろう (はじ そうたろう、1853 - 1938)であった。土師 はじ は体育 たいいく を重視 じゅうし し、トクヨの赴任 ふにん 前年 ぜんねん に体操 たいそう 科 か の中心 ちゅうしん を担 にな った高桑 たかくわ たまが病死 びょうし したため、トクヨに高桑 たかくわ と同様 どうよう の役回 やくまわ りを期待 きたい していた。
^ 実際 じっさい には国語 こくご の担当 たんとう 教師 きょうし は2人 にん しかおらず、土師 はじ 校長 こうちょう がトクヨを納得 なっとく させるために使 つか った方便 ほうべん だったと考 かんが えられる。
^ トクヨが特別 とくべつ 体操 たいそう を卑下 ひげ していたというわけでなく、当時 とうじ の日本 にっぽん 社会 しゃかい が体操 たいそう 教師 きょうし を軽視 けいし する傾向 けいこう があった。トクヨの場合 ばあい 、女 おんな 高 だか 師 し の文科 ぶんか を出 で たという誇 ほこ りもあって、体操 たいそう を任 まか されたことに強 つよ い不満 ふまん を持 も ったのであった。
^ この文章 ぶんしょう の元 もと になっているのは、イギリス留学 りゅうがく から帰国 きこく した後 のち のトクヨが自身 じしん の転換 てんかん 点 てん として言及 げんきゅう したものである。文学 ぶんがく 好 す きのトクヨは悲劇 ひげき のヒロインに自己 じこ 同化 どうか する傾向 けいこう があり、誇張 こちょう された表現 ひょうげん とみるべきである。周囲 しゅうい の人 ひと からは金沢 かなざわ で初 はじ めて洋装 ようそう した(純白 じゅんぱく の体操 たいそう 服 ふく を身 み に付 つ けた)颯爽 さっそう とした印象 いんしょう の人 ひと だと見 み られており、身 み も心 しん も病 や んでいるようには見 み えていなかった。
^ 井口 いぐち は1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )に女 おんな 高 だか 師 し 教授 きょうじゅ に着任 ちゃくにん したので、トクヨが4年生 ねんせい の時 とき と重 かさ なっているが、井口 いぐち は国語 こくご 体操 たいそう 専修 せんしゅう 科 か を主 おも に担当 たんとう したため、文科 ぶんか のトクヨと接点 せってん はなかった。
^ こうした器具 きぐ の応用 おうよう は体操 たいそう 専門 せんもん 学校 がっこう で教 おそ わるものではなく、体操 たいそう から遠 とお ざかっている間 あいだ にモルガンが身 み に付 つ けた見聞 けんぶん や経験 けいけん を生 い かしたものだと考 かんが えられる。
^ 本業 ほんぎょう の国語 こくご でも50人 にん の作文 さくぶん 指導 しどう を行 おこな っている。
^ トクヨが体操 たいそう 指導 しどう をする前 まえ に石川 いしかわ 高 だか 女 おんな で行 おこな われていた体操 たいそう は、校内 こうない に設置 せっち された遊動円木 ゆうどうえんぼく やブランコ を使 つか うもの、アレイ や棍棒 こんぼう などの手 て 具 ぐ を使 つか うもの、テニス であった。スウェーデン体操 たいそう は当時 とうじ 日本 にっぽん に入 はい ってきたばかりであり、最新 さいしん の体操 たいそう を教 おし え、洋服 ようふく を着 き こなす若 わか いトクヨ先生 せんせい は生徒 せいと の憧 あこが れであった。
^ 石川 いしかわ 高 だか 女 おんな の運動会 うんどうかい を「金沢 かなざわ 名物 めいぶつ 」にしたのはトクヨの功績 こうせき である、と語 かた る当時 とうじ の生徒 せいと は多 おお いものの、実際 じっさい にはトクヨ赴任 ふにん の前年 ぜんねん の運動会 うんどうかい に2,500人 にん が観覧 かんらん に訪 おとず れたという記録 きろく があり、石川 いしかわ 高 だか 女 おんな の伝統 でんとう にトクヨが上乗 うわの せしたものと言 い える。
^ 舎監 しゃかん として、夜中 よなか に高知 こうち 師範 しはん 女子 じょし 寄宿舎 きしゅくしゃ に侵入 しんにゅう した泥棒 どろぼう を薙刀 なぎなた で追 お い払 はら った。トクヨに武士 ぶし の血 ち が流 なが れていることを示 しめ すエピソードである。
^ 本格 ほんかく 的 てき に体操 たいそう 教師 きょうし になったトクヨに弟 おとうと の清 せい 寿 ひさし は「物好 ものず きにもほどがある」と自分 じぶん の思 おも いを伝 つた えたが、トクヨは全 まった く意 い に介 かい さなかった。
^ 当時 とうじ の日本 にっぽん では、子供 こども や女子 じょし の体操 たいそう 指導 しどう 法 ほう が確立 かくりつ しておらず、トクヨだけの責任 せきにん ではない。
^ 女子 じょし 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう から改称 かいしょう していた。
^ 井口 いぐち の退職 たいしょく は、文科 ぶんか 出身 しゅっしん ながら体育 たいいく に一生 いっしょう を捧 ささ げようとしているトクヨの熱意 ねつい に打 う たれた井口 いぐち が、自 みずか らの後任 こうにん とすべく引退 いんたい したという説 せつ がある。井口 いぐち は退職 たいしょく 時 じ に「其筋へも学校 がっこう へもあなたを推薦 すいせん して行 い きますから」とトクヨに声 こえ をかけている。
^ 脚 あし ・上肢 じょうし ・頭 とう の運動 うんどう 、平均 へいきん ・跳躍 ちょうやく ・躯幹 くかん の諸 しょ 運動 うんどう 、懸垂 けんすい ・胸 むね 張 ば りなどとトクヨは答 こた えた。当時 とうじ の日本 にっぽん では、猫背 ねこぜ 矯正 きょうせい のために胸 むね を張 は る動作 どうさ を重視 じゅうし し、しばしば極端 きょくたん に胸 むね を張 は らせた。
^ 水 みず に入 はい っているのは1日 にち 1回 かい 30分 ふん までという規則 きそく を破 やぶ って3時 じ 間 あいだ 練習 れんしゅう したり、1日 にち 2回 かい 入水 じゅすい したりして猛 もう 練習 れんしゅう した成果 せいか である。これを知 し った教師 きょうし は「そんな無理 むり をするなら証明 しょうめい 書 しょ はやらない」と激怒 げきど したが、限 かぎ られた時間 じかん 内 ない で水泳 すいえい の実力 じつりょく を付 つ けたかったトクヨにとって証明 しょうめい 書 しょ の取得 しゅとく は重要 じゅうよう なことではなく、ついに教師 きょうし 側 がわ が折 お れてトクヨは猛 もう 練習 れんしゅう を認 みと められた。
^ KPTCは、トクヨの2年間 ねんかん のイギリス留学 りゅうがく を同校 どうこう で2年 ねん 学 まな ぶものと誤解 ごかい していたため、学校 がっこう を去 さ る時 とき にひと悶着 もんちゃく あった。同校 どうこう は2年 ねん 制 せい の学校 がっこう であり、オスターバーグ校長 こうちょう はトクヨを学校 がっこう に留 と めおきたかったのであった。
^ スウェーデン体操 たいそう の普及 ふきゅう と女子 じょし 体育 たいいく の振興 しんこう を図 はか った。
^ トクヨは日本 にっぽん で初 はじ めての女子 じょし スポーツとしてクリケットとホッケーを持 も ち帰 かえ った。特 とく にホッケーは体 からだ 専 せん 時代 じだい に校 こう 技 わざ と呼 よ べるほど盛 さか んで、対外 たいがい 試合 しあい では常 つね に上位 じょうい にあった。
^ スウェーデン語 ご : Gymnastiska Centralinstitutet 、現 げん ・スウェーデンスポーツ健康 けんこう 科学 かがく 大学 だいがく (スウェーデン語 ご : Gymnastik- och idrottshögskolan )。スウェーデン体操 たいそう の創始 そうし 者 しゃ ・リングが設立 せつりつ した体操 たいそう 指導 しどう 者 しゃ 養成 ようせい 施設 しせつ で、永井 ながい 道明 みちあき の留学 りゅうがく 先 さき であった。
^ 合併 がっぺい 号 ごう が多 おお いので実際 じっさい には51冊 さつ も発行 はっこう しておらず、29冊 さつ だったと推定 すいてい される。このうち二階堂学園 にかいどうがくえん には21冊 さつ が現存 げんそん する。
^ トクヨが投 とう じた私財 しざい は、母 はは の老後 ろうご の住 す まいを買 か うために貯金 ちょきん していた1,500円 えん である。先述 せんじゅつ の通 とお り、募金 ぼきん も開 ひらけ 塾 じゅく 資金 しきん に利用 りよう している。体育 たいいく 研究所 けんきゅうじょ から体操 たいそう 塾 じゅく に計画 けいかく 変更 へんこう 後 ご に募金 ぼきん 額 がく が増 ふ え、最終 さいしゅう 的 てき に3,800円 えん となった。うち3,500円 えん を塾舎 じゅくしゃ の整備 せいび に、残 のこ る300円 えん を風呂 ふろ 桶 おけ ・風呂 ふろ 釜 がま の購入 こうにゅう に充 あ てた。
^ 二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく 創立 そうりつ 時 じ にはまだ小田急 おだきゅう 線 せん は開業 かいぎょう しておらず、京王線 けいおうせん 神 かみ 宮裏 みやうら 駅 えき (現存 げんそん せず)が最寄駅 もよりえき であった。当時 とうじ の代々木 よよぎ は人家 じんか もまばらで自然 しぜん 環境 かんきょう が良 よ く、塾 じゅく のすぐ近 ちか くには代々木 よよぎ 練兵 れんぺい 場 じょう (ワシントンハイツ を経 へ て代々木公園 よよぎこうえん となる)があった。
^ 塾 じゅく で教鞭 きょうべん を執 と っていた弟 おとうと の真 ま 寿 ことぶき が駆 か けつけたところ、余震 よしん の不安 ふあん から代々木 よよぎ 練兵 れんぺい 場 じょう に避難 ひなん していた。東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し の教 おし え子 ご 2人 にん が心配 しんぱい して訪 たず ねて来 き て、「無事 ぶじ でよかった」と抱 だ き合 あ って泣 な いた、という一幕 ひとまく もあった。
^ 夏休 なつやす み明 あ けに岡山 おかやま 県 けん から絹枝 きぬえ 宛 あて に県 けん 大会 たいかい 出場 しゅつじょう 要請 ようせい が届 とど いたのを機 き にトクヨが絹 きぬ 枝 えだ への態度 たいど を180度 ど 転換 てんかん したのは確 たし かだが、1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )時点 じてん では「少数 しょうすう の選手 せんしゅ を出 だ すために多 おお くの生徒 せいと を犠牲 ぎせい にするのは考 かんが えねばならぬこと」と語 かた っており、まだアスリート養成 ようせい には向 む かっていない[152] 。一方 いっぽう 、人見 ひとみ に憧 あこが れて体操 たいそう 塾 じゅく ・体 からだ 専 せん に入学 にゅうがく する生徒 せいと が現 あらわ れ、1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )になって「この四 よん 月 がつ から選手 せんしゅ 育成 いくせい の試 こころ みをする考 こう へ」を示 しめ した。
^ 居留守 いるす を見破 みやぶ って長居 ながい する訪問 ほうもん 客 きゃく もいたが、その時 とき のトクヨは客 きゃく の前 まえ を素通 すどお りして別 べつ の部屋 へや に行 い くということをやってのけた。これを見 み た客 きゃく はさすがに唖然 あぜん として帰 かえ る人 ひと が多 おお かったという。
^ 1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )・1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )頃 ごろ から坊主 ぼうず 頭 あたま だったという。そこでトクヨは「桜 さくら 菊 きく 尼 あま 」と自称 じしょう するようになった。
^ トクヨが慶應 けいおう 病院 びょういん を希望 きぼう したのは、10年来 ねんらい の知己 ちき で体 からだ 専 せん の校長 こうちょう 副 ふく 代理 だいり を務 つと めた加藤 かとう 信一 しんいち (慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 教授 きょうじゅ で医学 いがく 博士 はかせ )がいたからである。
^ 4月 がつ 24日 にち 説 せつ もある。
^ 週 しゅう 1回 かい 、放射線 ほうしゃせん 治療 ちりょう のために病室 びょうしつ から移動 いどう する際 さい に運搬 うんぱん 車 しゃ を押 お すことは例外 れいがい 的 てき に認 みと められた。看護 かんご 師 し の制止 せいし を振 ふ り切 き って卒業生 そつぎょうせい が病室 びょうしつ に入 はい って来 き た際 さい には「二階堂 にかいどう を見舞 みま う暇 ひま があったら自分 じぶん の職務 しょくむ を立派 りっぱ に果 は たして来 き なさい!」と叫 さけ んだが、布団 ふとん をかぶってすすり泣 な いたという。また別 べつ の人 ひと には、「今 こん 大 だい 往生 おうじょう を楽 たの しんでいるところだ、最後 さいご の聖地 せいち をけがされたことは残念 ざんねん だ、出 で て行 い ってくれ」と激怒 げきど した。弟 おとうと の清 せい 寿 ひさし が見舞 みま いに来 き た時 とき でさえ、開口一番 かいこういちばん 「なんでこんなところに来 き た、帰 かえ れ」と激昂 げっこう した。
^ 「しょうとくかい」と読 よ み、学校 がっこう 所在地 しょざいち ・松原 まつばら の「松 まつ 」とトクヨの「徳 とく 」をとって命名 めいめい した。「しょうとくかい」の音 おと は「頌徳会 かい 」と同 おな じであり、「トクヨを讃 たた える」の意味合 いみあ いをかけたものであった。
^ 清 せい 寿 ひさし が当日 とうじつ の日記 にっき に残 のこ した言葉 ことば である。
^ 馨 かおる 聲 ごえ (けいせい)とは「香 かお るような声 こえ 」という意味 いみ であろうと弟 おとうと が語 かた っている。伊豆 いず 能 のう 舍 しゃ (いずのや)の意味 いみ は不明 ふめい であるが、穴水 あなみず 恒雄 つねお は、トクヨの歌 うた 作 さく の師 し ・尾上 おがみ 柴舟 さいしゅう が伊豆 いず に別荘 べっそう を持 も っていたことや、女 おんな 高 だか 師 し の別称 べっしょう 「お茶 ちゃ の水 みず 」からの連想 れんそう で、泉 いずみ の「いず」と校舎 こうしゃ の「舎 しゃ 」から「いずのや」としたのではないかと推測 すいそく している。
^ 「このくらいで疲 つか れる体 からだ ではないので、お疲 つか れ様 さま とは言 い わないこと」とトクヨはい返 いかえ した。
^ 何 なん 度 ど もありがとうと言 い うと「前 まえ にも言 い ったのに、い直 いなお しをしなければならないほど、いい加減 かげん なことを言 い っていたのか」と怒 おこ った。
^ 体操 たいそう 中 ちゅう にグニャグニャした姿勢 しせい を取 と った生徒 せいと に対 たい して。
^ 靴下 くつした をだぶつかせていた生徒 せいと に対 たい して。
^ 生徒 せいと が手 て を上 あ げているときにトクヨが手 て をたたいて揺 ゆ れた時 とき に使用 しよう した。「○○の化物 ばけもの のようです」という表現 ひょうげん 自体 じたい 、よく使 つか っていた。
^ 号令 ごうれい 練習 れんしゅう で声 こえ の小 ちい さい生徒 せいと に対 たい して。
^ 1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )頃 ごろ に建築 けんちく されたもので、人手 ひとで に渡 わた った後 のち 、大光寺 だいこうじ の庫裏 くり となった。建築 けんちく 当時 とうじ 、父 ちち の保治 やすじ は三本木 さんぼんぎ 村長 そんちょう であったため、桑折 こおり 区 く の住民 じゅうみん 総出 そうで で建設 けんせつ の手伝 てつだ いに訪 おとず れたという。
^ 永井 ながい 道明 みちあき のことを「ヤパニースボーイ」と呼 よ んでいた。スウェーデン出身 しゅっしん のオスターバーグは、スウェーデン語 ご なまりの英語 えいご を話 はな し、“Japanese boy” を「ヤパニースボーイ」と発音 はつおん していた。
^ 井口 いぐち 阿 おもね くりがアメリカ留学 りゅうがく から持 も ち帰 かえ ったもので、東京 とうきょう 女 おんな 高 だか 師 し や奈良 なら 女子 じょし 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう (現 げん ・奈良女子大学 ならじょしだいがく )で採用 さいよう されていた。
^ 戸倉 とくら ハルが受講 じゅこう したもの。
^ 結果 けっか 的 てき には、トクヨの活動 かつどう はフェミニズムの先駆 せんく となった。またトクヨ自身 じしん 、全 まった くフェミニズムと無縁 むえん だったわけでもなく、「雷鳥 らいちょう さん の奔走 ほんそう 」を横目 よこめ に見 み ながら体操 たいそう 塾 じゅく 創立 そうりつ の準備 じゅんび を行 おこな っていたことを『わがちから』に書 か いている。
^ 例 たと えば生徒 せいと が猫背 ねこぜ の場合 ばあい 、単純 たんじゅん に姿勢 しせい が悪 わる いだけならば矯正 きょうせい で対処 たいしょ できるが、筋肉 きんにく の発育 はついく 不良 ふりょう が原因 げんいん であるならば医療 いりょう 体操 たいそう を行 おこな うべきであるとトクヨは考 かんが えた。
^ 「嬉々 きき として遊 あそ ばしむる間 あいだ に体操 たいそう 科 か の目的 もくてき を遂 と げんとするもの」と説 と いた。
^ 女子 じょし は生理 せいり 的 てき 変動 へんどう の初期 しょき のみ、特別 とくべつ な加減 かげん を要 よう する。
^ 3人 にん 1列 れつ になって行 おこな うダンスで、トクヨは「見 み ばえのする遊戯 ゆうぎ 」と表現 ひょうげん した。
^ 個々人 ここじん が任意 にんい の位置 いち に付 つ き、個別 こべつ に踊 おど る教育 きょういく 的 てき 舞踊 ぶよう であった。
^ 和服 わふく は胸部 きょうぶ を圧迫 あっぱく し、体 からだ を締 し め付 つ けるため、浅薄 せんばく な上部 じょうぶ 呼吸 こきゅう しかできないとトクヨは主張 しゅちょう した。
^ 折 お り込 こ むことで、長短 ちょうたん が自在 じざい にできるという利点 りてん があった。
^ トクヨは授業 じゅぎょう の前 まえ に斎戒 さいかい 沐浴 もくよく し、短刀 たんとう を携行 けいこう して万 まん が一 いち 失敗 しっぱい したときは自決 じけつ する覚悟 かくご で臨 のぞ んだ。
^ 桜 さくら 菊 きく (おうぎく)はトクヨの号 ごう (ペンネーム )であり、晩年 ばんねん には「桜 さくら 菊 きく 尼 あま 」と自称 じしょう していた。また、イギリスから帰国 きこく 後 ご に自身 じしん が教 おし えた生徒 せいと を集 あつ めて桜 さくら 菊 きく 会 かい を結成 けっせい した。
^ 元 もと ・三本木 さんぼんぎ 町長 ちょうちょう を会長 かいちょう 、大崎 おおさき 市 し の行政 ぎょうせい 関係 かんけい 者 しゃ が理事 りじ などの役員 やくいん に就任 しゅうにん して2016年 ねん (平成 へいせい 28年 ねん )12月3日 にち に発足 ほっそく した[369] 。なお、大河 たいが ドラマ『いだてん』の制作 せいさく 発表 はっぴょう は同年 どうねん 11月 がつ 16日 にち である[370] 。
^ 例 たと えば「トクヨが、金沢 かなざわ でノイローゼ同然 どうぜん になった原因 げんいん を簡潔 かんけつ に説明 せつめい しなさい」など[375] 。
^ 北 きた 五番丁 ごばんちょう 高等 こうとう 小学校 しょうがっこう (仙台 せんだい 市立 しりつ 第 だい 二 に 中学校 ちゅうがっこう の源流 げんりゅう )、東 ひがし 二番丁 にばんちょう 尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう (現 げん ・仙台 せんだい 市立 しりつ 東 ひがし 二番丁 にばんちょう 小学校 しょうがっこう )校長 こうちょう や宮城 みやぎ 県 けん 女子 じょし 師範 しはん 学校 がっこう 教諭 きょうゆ を務 つと めた。
穴水 あなみず 恒雄 つねお 『人 ひと として女 おんな として―二階堂 にかいどう トクヨの生 い き方 かた ―』不 ふ 昧堂書店 しょてん 、2001年 ねん 5月 がつ 30日 にち 、182頁 ぺーじ 。ISBN 4-8293-0403-0 。
勝 かち 場 じょう 勝子 かつこ ・村山 むらやま 茂代 しげよ 『二階堂 にかいどう を巣立 すだ った娘 むすめ たち―戦前 せんぜん オリンピック選手 せんしゅ 編 へん ―』不 ふ 昧堂出版 しゅっぱん 、2013年 ねん 4月 がつ 18日 にち 、171頁 ぺーじ 。ISBN 978-4-8293-0498-3 。
上沼 かみぬま 八郎 はちろう 『近代 きんだい 日本 にっぽん 女子 じょし 体育 たいいく 史 し 序説 じょせつ 』不 ふ 昧堂出版 しゅっぱん 〈第 だい 8版 はん 〉、1972年 ねん 4月 がつ 10日 とおか 、179頁 ぺーじ 。 全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :68003247
唐木 からき 国彦 くにひこ ・前川 まえかわ 峯雄 みねお ・丹下 たんげ 保夫 やすお ・弘中 ひろなか 栄子 えいこ 「永井 ながい 道明 みちあき の教育 きょういく 思想 しそう ―特 とく に現代 げんだい からみた physical Training 論 ろん について」『体育 たいいく 学 がく 研究 けんきゅう 』第 だい 11巻 かん 第 だい 5号 ごう 、日本 にっぽん 体育 たいいく 学会 がっかい 、1967年 ねん 7月 がつ 5日 にち 、12頁 ぺーじ 、NAID 110001939062 。
桐生 きりゅう 敬子 けいこ 「学校 がっこう ダンスの普及 ふきゅう 者 しゃ ●戸倉 とくら ハル●」『近代 きんだい 日本 にっぽん 女性 じょせい 体育 たいいく 史 し ―女性 じょせい 体育 たいいく のパイオニアたち―』日本 にっぽん 体育 たいいく 社 しゃ 、1981年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、239-262頁 ぺーじ 。 全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :82017419
清水 しみず 諭 さとし 「体操 たいそう する身体 しんたい ―誰 だれ がモデルとなる身体 しんたい を作 つく ったのか/永井 ながい 道明 みちあき と嘉納 かのう 治五郎 じごろう の身体 しんたい の格闘 かくとう ―」『年報 ねんぽう 筑波 つくば 社会 しゃかい 学 がく 』第 だい 8号 ごう 、筑波 つくば 社会 しゃかい 学会 がっかい 、1996年 ねん 9月 がつ 、119-150頁 ぺーじ 、NAID 110000527968 。
曽我 そが 芳枝 よしえ ・平 ひら 工 こう 志穂 しほ ・中村 なかむら 有紀 ゆき 「女性 じょせい におけるスポーツ・運動 うんどう 実践 じっせん ―東京女子大学 とうきょうじょしだいがく の体育 たいいく を中心 ちゅうしん として― 」『東京女子大学 とうきょうじょしだいがく 紀要 きよう 論集 ろんしゅう . 科学 かがく 部門 ぶもん 報告 ほうこく 』第 だい 65号 ごう 、東京女子大学 とうきょうじょしだいがく 論集 ろんしゅう 編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい 、2015年 ねん 、1987-1999頁 ぺーじ 、NAID 120006512580 。
田原 たはら 淳子 じゅんこ 「10 二階堂 にかいどう トクヨ (1880〜1941)」第 だい 56巻 かん 第 だい 6号 ごう 、杏林 きょうりん 書院 しょいん 、2006年 ねん 6月 がつ 、NAID 40007273430 。
永井 ながい 道明 みちあき 先生 せんせい 後援 こうえん 会 かい 『遺稿 いこう 永井 ながい 道明 みちあき 自叙伝 じじょでん 』大空 おおぞら 社 しゃ 〈伝記 でんき 叢書 そうしょ 36〉、1988年 ねん 3月 がつ 17日 にち 、93頁 ぺーじ 。 全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :88039498
二階堂 にかいどう 清 きよし 寿 ことぶき ・戸倉 とくら ハル・二階堂 にかいどう 真 しん 寿 ことぶき 『二階堂 にかいどう トクヨ伝 でん 』不 ふ 昧堂書店 しょてん 〈第 だい 4版 はん 〉、1961年 ねん 4月 がつ 1日 にち 、222頁 ぺーじ 。 全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :67005097
萩原 はぎはら 美代子 みよこ 「女性 じょせい スポーツのパイオニア ●人見 ひとみ 絹枝 きぬえ ●」『近代 きんだい 日本 にっぽん 女性 じょせい 体育 たいいく 史 し ―女性 じょせい 体育 たいいく のパイオニアたち―』日本 にっぽん 体育 たいいく 社 しゃ 、1981年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、177-195頁 ぺーじ 。 全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :82017419
西村 にしむら 絢子 あやこ 「二階堂 にかいどう 体操 たいそう 塾 じゅく (日本女子体育大学 にほんじょしたいいくだいがく )の創設 そうせつ 者 しゃ ●二階堂 にかいどう トクヨ●」『近代 きんだい 日本 にっぽん 女性 じょせい 体育 たいいく 史 し ―女性 じょせい 体育 たいいく のパイオニアたち―』日本 にっぽん 体育 たいいく 社 しゃ 、1981年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、151-176頁 ぺーじ 。 全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :82017419
西村 にしむら 絢子 あやこ 『体育 たいいく に生涯 しょうがい をかけた女性 じょせい ―二階堂 にかいどう トクヨ―』杏林 きょうりん 書院 しょいん 、1983年 ねん 8月 がつ 1日 にち 、266頁 ぺーじ 。 全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :83050977
松本 まつもと 千代栄 ちよえ 「三浦 みうら ヒロ・戸倉 とくら ハルとその時代 じだい 」『舞踊 ぶよう 學 がく 』第 だい 1999巻 かん 第 だい 22号 ごう 、舞踊 ぶよう 学会 がっかい 、1999年 ねん 、82-87頁 ぺーじ 、NAID 130003855717 。
頼 よりゆき 住 じゅう 一昭 かずあき 「体育 たいいく 人 じん と身体 しんたい 感 かん 21 永井 ながい 道明 みちあき (1868〜1950)」『体育 たいいく の科学 かがく 』第 だい 57巻 かん 第 だい 5号 ごう 、杏林 きょうりん 書院 しょいん 、2007年 ねん 5月 がつ 、377-381頁 ぺーじ 、NAID 40015447887 。
川畑 かわはた 愛 あい 義 よし 、浅井 あさい 浅 あさ 一 いち 編 へん 『女子 じょし の保健 ほけん 体育 たいいく 』体育 たいいく の科学 かがく 社 しゃ 〈第 だい 2版 はん 〉、1958年 ねん 4月 がつ 15日 にち 、251頁 ぺーじ 。 全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :57004353
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