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唯物ゆいぶつ史観しかん

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史的してき唯物ゆいぶつろんから転送てんそう

唯物ゆいぶつ史観しかん(ゆいぶつしかん)は、「唯物ゆいぶつろんてき歴史れきしかん」のりゃくであり、史的してき唯物ゆいぶつろん(してきゆいぶつろん、どく: Historischer Materialismus)と同義どうぎである[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

19世紀せいきカール・マルクスとなえた歴史れきしかんである。その内容ないようは「人間にんげん社会しゃかいにも自然しぜん同様どうよう客観きゃっかんてき法則ほうそく存在そんざいしており、階級かいきゅう社会しゃかいから階級かいきゅう社会しゃかいへ、階級かいきゅう社会しゃかいから階級かいきゅう社会しゃかいへと、生産せいさんりょく発展はってん照応しょうおうして生産せいさん関係かんけい移行いこうしていく」とする発展はってん史観しかんである。経済けいざい学者がくしゃ松尾まつおただしは、「唯物ゆいぶつ史観しかんとは、一言ひとことえば、生産せいさんのありかた(=「土台どだい」)がうまくいくように、それにわせて政治せいじ仕組しくみ(=「上部じょうぶ構造こうぞう」)はかわっていくという見方みかたです」としている。[2]

かつては、唯物ゆいぶつ史観しかんもとづく発展はってん段階だんかいせつが「客観きゃっかんてき歴史れきし必然ひつぜん法則ほうそく」となされており、「共産きょうさん主義しゅぎがもっともすすんだ段階だんかいであるから、資本しほん主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎるのは必然ひつぜん」とソ連それん学会がっかい主張しゅちょうしていた。[3]また、唯物ゆいぶつ史観しかん歴史れきしがく理論りろんとしてひろれられていた。それにより、歴史れきし事実じじつ解釈かいしゃくめぐ論争ろんそうにも発展はってんしていた。

ヘーゲル哲学てつがく弁証法べんしょうほう矛盾むじゅんから変化へんかこる)を継承けいしょうしており、人間にんげん社会しゃかい歴史れきし適用てきようされた唯物ゆいぶつ弁証法べんしょうほう弁証法べんしょうほうてき唯物ゆいぶつろん)ともえる[ちゅう 1]。またフォイエルバッハフランス唯物ゆいぶつろん英語えいごばんものたちから唯物ゆいぶつろん継承けいしょうしている。

定式ていしき[編集へんしゅう]

マルクスは『経済けいざいがく批判ひはん』の序言じょげん唯物ゆいぶつ史観しかん定式ていしきし、これをみずからの「みちびきのいと」とんでおり、その内容ないよう以下いかである。はしてきえば、下部かぶ構造こうぞう経済けいざいてき変化へんかすると社会しゃかい革命かくめいき、上部じょうぶ構造こうぞう変化へんかすることをべ、その生産せいさん方式ほうしき分類ぶんるいべている。

物質ぶっしつてき生活せいかつ生産せいさん方法ほうほうが、社会しゃかい政治せいじ精神せいしんてき人々ひとびと意識いしき決定けっていづけるのである。人々ひとびとみずからの意識いしきにより存在そんざい決定けっていづけるのではない。その反対はんたいに、社会しゃかい経済けいざい状態じょうたい人々ひとびと意識いしきつくるのである。 社会しゃかい発展はってんすると、所有しょゆう関係かんけい矛盾むじゅんしょうじ、その桎梏しっこくなやひととのあいだでそこに闘争とうそうしょうじるのだ。そして社会しゃかい革命かくめいきる。 こうして、経済けいざいてき基礎きそ構造こうぞうすなわち下部かぶ構造こうぞう変化へんかすると、おおきな上部じょうぶ構造こうぞうおそかれはやかれわらざるをない。 いかなる社会しゃかい秩序ちつじょも、それが十分じゅうぶん生産せいさんりょくがすべて開発かいはつされるまえ破壊はかいされることはなく、あたらしいすぐれた生産せいさん関係かんけいが、その存在そんざいのための物質ぶっしつてき条件じょうけんふる社会しゃかい枠組わくぐみのなか成熟せいじゅくするまえに、ふる生産せいさん関係かんけいってわることはない。

なぜなら、問題もんだいそのものは、その解決かいけつ必要ひつよう物質ぶっしつてき条件じょうけんがすでに存在そんざいしているか、すくなくとも形成けいせい途上とじょうにあるときにはじめてしょうじることが、よくよく検討けんとうすればかならずわかるからである。おおづかみにえば、アジアてき生産せいさん様式ようしき古代こだいてき生産せいさん様式ようしき封建ほうけんてき生産せいさん様式ようしき、および近世きんせいブルジョアてき生産せいさん様式ようしきといった諸々もろもろ社会しゃかい生産せいさん様式ようしきは、社会しゃかい経済けいざいてき発展はってんにおける進歩しんぽしめすエポックとして指定していすることができる。ブルジョア生産せいさん様式ようしきは、社会しゃかいてき生産せいさん過程かてい最後さいご敵対てきたいてき形態けいたいである。 — カール・マルクス『経済けいざいがく批判ひはん序言じょげん猪俣いのまた津南雄つなお(1946、あきらこう書院しょいん)やくおよびMarxists Internet Archiveばんの『経済けいざいがく批判ひはん』(英文えいぶん)より要旨ようし

かんがかた[編集へんしゅう]

経済けいざい発展はってん段階だんかいせつ参照さんしょう資本しほん主義しゅぎ経済けいざい仕組しくみを分析ぶんせきしたカール・マルクスは「歴史れきしはその発展はってん段階だんかいにおける経済けいざい生産せいさんりょく照応しょうおうする生産せいさん関係かんけいはいり、生産せいさんりょく生産せいさん関係かんけい矛盾むじゅんにより進歩しんぽする」というかんがえにもとづいて、唯物ゆいぶつ史観しかん概念がいねん発展はってんさせた。生産せいさん関係かんけいとは、共同きょうどう狩猟しゅりょう食料しょくりょう採集さいしゅうであり、封建ほうけん領主りょうしゅ農奴のうど関係かんけいであり、資本しほん主義しゅぎ段階だんかいにおける労働ろうどうしゃ資本しほんあいだむすばれる契約けいやくというような概念がいねんである。マルクスは、生産せいさん様式ようしき搾取さくしゅ剰余じょうよ価値かち過剰かじょう生産せいさんものしん崇拝すうはい資本しほん本源ほんげんてき蓄積ちくせきなどについて分析ぶんせきすることで、19世紀せいき当時とうじ資本しほん主義しゅぎ論理ろんり厳密げんみつ考察こうさつしたのち、「資本しほん主義しゅぎはその内在ないざいする矛盾むじゅんから必然ひつぜんてき社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめいこし、つぎ段階だんかいである共産きょうさん主義しゅぎ移行いこうする」とかんがえた。ただ、ぜん世界せかいがそうなるのか、「アジアてき生産せいさん様式ようしき」になっているアジア諸国しょこくちがうのか、それについてはマルクス経済けいざいがく受容じゅようする人々ひとびとあいだでも議論ぎろんがあった。スターリンの『弁証法べんしょうほうてき唯物ゆいぶつろん史的してき唯物ゆいぶつろん』では、原始げんし共産きょうさんせい奴隷どれいせい封建ほうけんせい資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい主義しゅぎ移行いこうするとされ、「アジアてき生産せいさん様式ようしき」そのものの存在そんざいされた。[4]小林こばやし良彰よしあきによれば、スターリン急死きゅうしぎゃくに「アジアてき生産せいさん様式ようしきろんったこと自体じたいがスターリニストの個人こじん崇拝すうはいぎないとされ、様々さまざませつ乱立らんりつしたという。[5]

マルクスやマルクス主義まるくすしゅぎしゃ理論りろん歴史れきし発展はってん過程かてい以下いかのように説明せつめいする:

  1. 社会しゃかい発展はってんは、その社会しゃかいのもつ物質ぶっしつてき条件じょうけん生産せいさんりょく発展はってんおうじてこされる。
  2. 社会しゃかいは、その生産せいさんりょくにより必然ひつぜんてき一定いってい生産せいさん関係かんけい[ちゅう 2]はいる。それは社会しゃかいにとってもっと重要じゅうよう社会しゃかいてき関係かんけいである。
  3. 生産せいさんりょくなんらかの要因よういん発展はってんすると、従来じゅうらい生産せいさん関係かんけいとのあいだ矛盾むじゅんしょうじ、その矛盾むじゅんとっうごかすちからにより生産せいさん関係かんけい変化へんか発展はってん)する。これが階級かいきゅう闘争とうそう歴史れきしとっうごかす基本きほんてきちからであるとかんがえる。
  4. 生産せいさんりょく生産せいさん関係かんけいは、個々ここ人間にんげん意図いと意志いしとは独立どくりつして変化へんかする。
  5. 政治せいじてき法律ほうりつてき上部じょうぶ構造こうぞうは、生産せいさん関係かんけい中心ちゅうしんとする経済けいざいのありかた土台どだい下部かぶ構造こうぞう)に規定きていされる。(下部かぶ構造こうぞう上部じょうぶ構造こうぞう規定きていする
  6. いまある生産せいさん関係かんけい形態けいたいがもはや生産せいさんりょく発展はってんたすけず、そのあしかせとなるとき、革命かくめいこる。

狩猟しゅりょう採集さいしゅう社会しゃかいは、経済けいざいりょく政治せいじりょくおな意味いみ組織そしきであった。封建ほうけん社会しゃかいでは、おう貴族きぞくたちの政治せいじりょくは、農奴のうどたちのむら々の経済けいざいりょく関係かんけいしていた。農奴のうどは、完全かんぜんには分離ぶんりされていないふたつのちから、すなわち政治せいじりょく経済けいざいりょくむすびつけられており、自由じゆうではなかった。こうしたことをまえてマルクスは、「資本しほん主義しゅぎでは経済けいざいりょく政治せいじりょく完全かんぜん分離ぶんりされ、政府せいふとおして限定げんていてき関係かんけいをもつようになる」とべた。

「アジアてき生産せいさん様式ようしき」をめぐ問題もんだい[編集へんしゅう]

歴史れきし学会がっかいにおいて、『経済けいざいがく批判ひはん』の主張しゅちょうはかなり衝撃しょうげきってめられた。とく学者がくしゃたちが議論ぎろんしたのはマルクスがう「アジアてき生産せいさん様式ようしき」とはぞや、ということであった。『経済けいざいがく批判ひはん』においてはこのけんについては簡単かんたんにしかれられていなかったためである。1947ねん日本にっぽんのリベラル歴史れきし学者がくしゃのグループ歴史れきしがく研究けんきゅうかいでは、「アジアてき生産せいさん様式ようしき」について討議とうぎかいおこなわれたが決着けっちゃくなかった。[6]

歴史れきしがく研究けんきゅうかい」の研究けんきゅうグループはマルクスの遺稿いこうなかにあった発表はっぴょう草稿そうこうなかに、「アジアてき生産せいさん様式ようしき」にかんする記載きさいがあることをり、経済けいざい学者がくしゃまねいて再度さいど討論とうろんおこなっている。議論ぎろんはそのつづき、いろいろな学者がくしゃ解釈かいしゃく発表はっぴょうした。

  • たとえば服部はっとり之総しそうは、「アジアてき生産せいさん様式ようしき」は古代こだい天皇てんのうせいそのものだとべ、マルクスは『古事記こじき』などもよくらなかったはずだが、それでいてこれほどすぐれた見解けんかい到達とうたつするのはおどろきだとべ、マルクスのせつ全面ぜんめんてき受容じゅようした。[5]
  • ところが、塩沢しおざわ君夫きみおはこれとことなる見解けんかいった。塩沢しおざわはマルクスやエンゲルスのせつ年代ねんだいごとに分析ぶんせきし、「マルクスはアジアてき生産せいさん様式ようしきがドイツ(ゲルマン)やロシアでもあったという想定そうていおこなった」とかんがえた。[5]

しかしながら、「アジアてき生産せいさん様式ようしきせつによれば中国ちゅうごく封建ほうけんせいはなかったことになるため、これまでの中国ちゅうごく理屈りくつはことごとくりたなくなってしまうこと、さらソ連それん共産党きょうさんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうにおいて「アジアてき生産せいさん様式ようしきろん否定ひていされてしまったため、この理論りろんうしなってしまった。[7]

ぎゃく反共はんきょう立場たちば学者がくしゃカール・ウィットフォーゲルはマルクスの問題もんだい提起ていきけて「水力すいりょく社会しゃかいみず理論りろん」を創案そうあんし、この理論りろん中国ちゅうごく古代こだいせつとして受容じゅようされた。[8]

アジアてき生産せいさん様式ようしきろん一般いっぱん読書どくしょじんには「アジアてき停滞ていたいろんとしてれられた。[8]たとえば司馬しばりょう太郎たろう歴史れきし小説しょうせつ項羽こうう劉邦りゅうほう』の後書あとがきにいて「中国ちゅうごくでは春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだい急激きゅうげき発展はってんがあり、はたかんころまでに極度きょくど古代こだい文明ぶんめい発展はってんしたのち中国ちゅうごく文明ぶんめいはずっと古代こだいのままながねむりについた」という「アジアてき停滞ていたいろんもとづいて小説しょうせついているとべている。[9]

ただ、アジアてき生産せいさん様式ようしきろんのちソ連それん共産党きょうさんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうにおいて否定ひていされてしまったため、ウィットフォーゲルや司馬しばのようなろんは「反共はんきょう理論りろん」として異端いたんせつあつかいにされてしまった。しまいには日本にっぽんのアカデミズムや左翼さよく陣営じんえいについて「アジアてき生産せいさん様式ようしきろんはなすことさえ不快ふかいがられるにいたった。歴史れきし学者がくしゃ福本ふくもと勝清かつきよ回想かいそうによれば、「中国ちゅうごく研究所けんきゅうじょでの勉強べんきょうかいでも長老ちょうろうたちは『アジアてき生産せいさん様式ようしきなど観念論かんねんろんぎない。検討けんとうする価値かちなどい』と否定ひていてきだった」「中国ちゅうごく関心かんしんがある、きゅう左翼さよくしん左翼さよく、いわゆるおや中国ちゅうごく人々ひとびと中国ちゅうごく実情じつじょうはなしても、人々ひとびと中国ちゅうごく理想りそうしていたために、『あなたは中国ちゅうごく悪口わるぐちをいうのか。そんなひどいところでよくごせたものだ』『中国ちゅうごくのことは少々しょうしょうのことは大目おおめるべきだ。革命かくめいすぐにくなるわけでもないだろう』と不快ふかいがって批判ひはんされ、れてもらえなかった。まして、実情じつじょう理論りろんしたアジアてき生産せいさん様式ようしきろんにより、伝統でんとう中国ちゅうごく封建ほうけんせいではなかったことをはなすことなど出来できることではなかった」という。[10]

歴史れきしがくにおける展開てんかい[編集へんしゅう]

マルクスの理論りろん提起ていきけ、歴史れきし学者がくしゃたちは唯物ゆいぶつ史観しかんもとづいて歴史れきし解釈かいしゃくするようになり、それについて下記かきのような論争ろんそうしょうじた。 たとえば、日本にっぽん史学しがく中国ちゅうごく史学しがく分野ぶんやにおいて下記かきのような論争ろんそうがあった。

  • 中国ちゅうごく史学しがくでは、とく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく学界がっかいにおいて顕著けんちょ唯物ゆいぶつ史観しかん受容じゅようられた。中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくでは諸子しょしひゃくいえ唯物ゆいぶつ史観しかんらして進歩しんぽてき反動はんどうてきけられ、はじめ郭沫若かくまつじゃく孔子こうし進歩しんぽてきで、ぼく反動はんどうてきだと主張しゅちょうした。[11]

しかし、毛沢東もうたくとうかくせつ批判ひはんし、法家ほうか進歩しんぽてき唯物ゆいぶつ史観しかんそくしており、儒家じゅかは「貴族きぞく奴隷どれいぬし代表だいひょう」、すなわち反動はんどうてき地主じぬし(ブルジョア)勢力せいりょく代表だいひょうだとした。すなわち、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう公式こうしき見解けんかいとして「法家ほうか毛沢東もうたくとう思想しそう」「儒家じゅかはん中国共産党ちゅうごくきょうさんとう」というかんがかた毛沢東もうたくとう統治とうち時代じだい確立かくりつし、歴代れきだい歴史れきし正義せいぎ法家ほうかあく儒家じゅか闘争とうそうとして解釈かいしゃくされた。[12]

絶対ぜったいてき権力けんりょくしゃである毛沢東もうたくとう主張しゅちょうそむいたことで、かく自己じこ批判ひはんせまられ、自己じこせつを「わたしせつくすべきです。すこしの価値かちもありません。」と否定ひていさせられた。[13]

文化ぶんかだい革命かくめいでは毛沢東もうたくとう主張しゅちょう沿って「儒法闘争とうそう史観しかん」がつくられ、いわゆるよん人組にんぐみ法家ほうか標榜ひょうぼうした。この時期じき発掘はっくつ調査ちょうさしん発見はっけんされた老子ろうしうま王堆漢おうたいかんほんと、孫子まごこぎんすずめやまかんはかほん法家ほうか思想しそうむすびつけて解釈かいしゃくされた。ぎゃく毛沢東もうたくとうよん人組にんぐみとの権力けんりょく闘争とうそうやぶれた中国共産党ちゅうごくきょうさんとうないぐみはやしぴょうおうあきら儒家じゅかなされ、批判ひはん対象たいしょうとなった。[14]のちには儒家じゅか聖人せいじんしゅうこうだん」としゅう恩来おんらい儒家じゅかとみなされ、「大儒たいじゅ」とあだされ、よん人組にんぐみは「大儒たいじゅ打倒だとうせよ」「批林批孔批周こう」という運動うんどうこしたが、民衆みんしゅうしゅう恩来おんらい尊敬そんけいしていたのであま成功せいこうしなかった。[15]

郭沫若かくまつじゃく以外いがい中国ちゅうごく歴史れきし学者がくしゃも「アジアてき生産せいさん様式ようしき」や奴隷どれいせいから封建ほうけんせい移行いこうする期間きかんなどについて研究けんきゅうおこなったが、研究けんきゅう成果せいかがまとまるまえ文化ぶんかだい革命かくめいでほとんど学者がくしゃ追放ついほうされてしまい、毛沢東もうたくとう指示しじで「歴史れきしがく革命かくめい奉仕ほうしせよ」ということになり、素人しろうと労働ろうどうしゃ歴史れきし学会がっかい支配しはいするようになったため、議論ぎろんふかまりをいた。この研究けんきゅう現在げんざいのこっているのはかくの『じゅう批判ひはんしょ』と楊寛の『古史こししんさがせ』だけである。[16]楊寛は中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおうとおりに次々つぎつぎせつえることで有名ゆうめいであり、被害ひがいをまぬがれた。[17]

現在げんざい中国ちゅうごくでも唯物ゆいぶつ史観しかんもとづいて歴史れきし解釈かいしゃくする傾向けいこう存続そんぞくしているが、よん人組にんぐみ失脚しっきゃく儒家じゅかたいする敵視てきしはやわらいでいる。たとえば孔子こうし学院がくいんなど。

  • 日本にっぽん史学しがくでは、戦前せんぜん明治維新めいじいしん資本しほん主義しゅぎもとづくブルジョア革命かくめいか、革命かくめいでないものかについての「日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう」が講座こうざ労農ろうのうかれただい論争ろんそうになっていた。講座こうざ革命かくめいではない、と主張しゅちょう。それにたいして労農ろうのうはブルジョア革命かくめいだと主張しゅちょうした。この資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう論争ろんそうちゅうコミンテルンがしばしば解釈かいしゃく変更へんこうおこなったために論争ろんそうをリードした野呂のろ栄太郎えいたろう自説じせつ撤回てっかいするなど紆余曲折うよきょくせつがあったが、結論けつろんとしては講座こうざ勝利しょうりとなり、「封建ほうけんせい強化きょうかされ、天皇てんのうせい絶対ぜったい主義しゅぎ確立かくりつされただけで民衆みんしゅう革命かくめいとはがたい」ということとなった。歴史れきし学者がくしゃたちはこの結論けつろんもとづいて実証じっしょうてき研究けんきゅうすすめようとしたが、[18]その矢先やさき戦争せんそうともな思想しそう統制とうせいおこなわれ、唯物ゆいぶつ史観しかん研究けんきゅう下火したびになったこともあり終了しゅうりょうした。[19]

また、戦後せんご日本にっぽん史学しがくにおいては、先述せんじゅつの「アジアてき生産せいさん様式ようしき」にたいする議論ぎろんめぐ石母田いしもたただし議論ぎろんをリードしていった。詳細しょうさいアジアてき生産せいさん様式ようしき項目こうもく参照さんしょう石母田いしもたこした「国民こくみんてき歴史れきしがく運動うんどう」や、石母田いしもた後継こうけいしゃである網野あみの善彦よしひこ唯物ゆいぶつ史観しかん影響えいきょうけている。「国民こくみんてき歴史れきしがく運動うんどう」は、これまでの歴史れきし著述ちょじゅつ権力けんりょくしゃ変遷へんせんをたどるのみだったことを反省はんせいし、民衆みんしゅうがわからの歴史れきしもうとする運動うんどうであった。この運動うんどうにより、あらたに民衆みんしゅうというあらたなジャンルがつくられ「むら歴史れきし」「工場こうじょう歴史れきし」「はは歴史れきし」「職場しょくば歴史れきし」などにスポットがてられた。ただ、石母田いしもた議論ぎろんは「中国ちゅうごく一人ひとり皇帝こうてい多数たすう民衆みんしゅうしたがえている奴隷どれいせいちかい「アジアてき生産せいさん様式ようしき国家こっかだったために歴史れきし発展はってんがなく、古代こだい文明ぶんめい花開はなひらいたのち停滞ていたいし、ぎゃく日本にっぽんやモンゴル(とくモンゴル帝国ていこくもと王朝おうちょう奴隷どれいせい克服こくふくして封建ほうけんせい資本しほん主義しゅぎすすんだ[20]」という結論けつろんめなくもないため、ナショナリズムにちかいのではないかという批判ひはん存在そんざいしていた。[21]

その民衆みんしゅう研究けんきゅうがさらにすすむにつれ、1990年代ねんだいには江戸えど時代じだい身分みぶん制度せいど従来じゅうらいかんがえられていたよりも柔軟じゅうなんだったこと、農民のうみんでも優秀ゆうしゅうであれば士分しぶんてられ武士ぶしになった人物じんぶつおおかったことがわかり、従来じゅうらい唯物ゆいぶつ史観しかんは「貧農ひんのう史観しかん」を強調きょうちょうしすぎており、あまりにも日本にっぽん民衆みんしゅうまずしくとらえすぎていたのではないか?という反省はんせいしょうじた。その研究けんきゅうをリードしたのは大石おおいしまき三郎さぶろうである。[22]また、小林こばやし良彰よしあき (経済けいざい学者がくしゃ)のように「幕末ばくまつ時点じてん武士ぶし民衆みんしゅうからまなんだことにより、高杉たかすぎ晋作しんさくのような民衆みんしゅうとともにがり兵隊へいたい創設そうせつして権力けんりょく打倒だとうするような市民しみん革命かくめいている。すなわち、講座こうざの『民衆みんしゅう革命かくめいとはがたい』というせつあやまりである」というせつ出現しゅつげんした。ただし小林こばやしせつ国民こくみんてき歴史れきしがく運動うんどうグループの影響えいきょうけた「あたらしい歴史れきし教科書きょうかしょをつくるかい」グループから批判ひはんされており、[23]その「つくるかい」グループも講座こうざ史観しかんぐ「歴史れきしがく研究けんきゅうかい」グループから批判ひはんされているため、結局けっきょくいま結論けつろんがついていない。

批判ひはん[編集へんしゅう]

唯物ゆいぶつ史観しかんへの批判ひはんについては、前述ぜんじゅつ中国ちゅうごく日本にっぽん史家しかによるもののほかマックス・ヴェーバー経済けいざい学者がくしゃ政治せいじ哲学てつがくしゃマレー・ロスバードなどによるものなど多数たすうある[24]

文献ぶんけん資料しりょう[編集へんしゅう]

基本きほん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • さかい利彦としひこ唯物ゆいぶつ史觀しかん立場たちばから』三田みた書房しょぼう、1919ねん8がつ
  • 三木みききよし唯物ゆいぶつ史觀しかん現代げんだい意識いしき岩波書店いわなみしょてん、1928ねん5がつ
  • 河上かわかみはじめ唯物ゆいぶつ史觀しかん研究けんきゅう弘文こうぶんどう書房しょぼう、1921ねん8がつ
  • はら光雄みつお唯物ゆいぶつ史観しかん原理げんり青木あおき書店しょてん、1960ねん6がつ
  • 郭沫若かくまつじゃくじゅう批判ひはんしょ』、邦訳ほうやく野原のはら四郎しろう佐藤さとう武敏たけとし上原うえはらあつしみちやく中国ちゅうごく古代こだい思想家しそうかたち』じょう下巻げかん岩波書店いわなみしょてん刊行かんこう上巻じょうかん1953・下巻げかん1957
  • 武市たけいちけんじん『ニヒリズムと唯物ゆいぶつ史観しかん福村ふくむら書店しょてん〈ロゴス新書しんしょ〉、1947ねん10がつ
  • 田山たやま春夫はるお『われらの「社会しゃかいがく」:やさしい唯物ゆいぶつ史観しかん』くれは書店しょてん、1948ねん6がつ
  • 服部はっとり之総しそう明治維新めいじいしん唯物ゆいぶつ史觀しかんてき研究けんきゅうだいおおとりかく書房しょぼう、1930ねん4がつ
  • こうまつわたる唯物ゆいぶつ史観しかんはらぞうさんいち書房しょぼうさんいち新書しんしょ737〉、1971ねん3がつ
  • 富沢とみざわ賢治けんじ唯物ゆいぶつ史観しかん労働ろうどう運動うんどう:マルクス・レーニンの「労働ろうどう社会しゃかいろんミネルみねるァ書房ぁしょぼう、1974ねん10がつ
  • 梅本うめもと克己かつみ唯物ゆいぶつ史観しかん現代げんだい岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、1967ねん9がつ。(だい2はん、1974ねん6がつISBN 9784004120087
  • 中村なかむらしず唯物ゆいぶつ史観しかん経済けいざいがく大月書店おおつきしょてん、1988ねん9がつISBN 4272110608
  • 滝村たきむら隆一りゅういち唯物ゆいぶつ史観しかん国家こっか理論りろんさんいち書房しょぼう、1980ねん5がつ
  • 影山かげやま光夫みつお唯物ゆいぶつ史観しかん変革へんかく論理ろんりこぶし書房しょぼう、1971ねん7がつ
  • 影山かげやま光夫みつお唯物ゆいぶつ史観しかん経済けいざいがく』こぶし書房しょぼう、1973ねん6がつ
  • あわ安太郎やすたろう初期しょきのマルクス:唯物ゆいぶつ史観しかん成立せいりつ過程かてい勁草書房しょぼう、1956ねん11月。
  • しおぶんしゃ編集へんしゅうへんマルクス主義まるくすしゅぎ唯物ゆいぶつ史観しかんのホントとウソ』しおぶんしゃしおぶんしゃ新書しんしょ〉、1976ねん8がつ
  • 岩佐いわさしげる人間にんげんなま唯物ゆいぶつ史観しかん青木あおき書店しょてん青木あおき教養きょうよう選書せんしょ〉、1988ねん12月。ISBN 4250880494
  • [1]シノドス、2015ねん5がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん12月17にち閲覧えつらん
  • 竹内たけうちみのる現代げんだい中國ちゅうごく歴史れきしせい - 「儒法闘爭とうそうまねべ」 - 運動うんどうにみえるりょきさき武則たけのりてんさん論理ろんりとその挫折ざせつ -」京都大學きょうとだいがく人文じんぶん科學かがく研究所けんきゅうじょ東方とうほうがくほう」、1978
  • 福本ふくもと勝清かつきよ「アジアてき生産せいさん様式ようしき発見はっけん 1946-1955」明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅう刊行かんこうかい、2019

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ しかし、「唯物ゆいぶつ史観しかん弁証法べんしょうほうてき唯物ゆいぶつろんをそのまま適用てきようしたものではない」とべるマルクス主義まるくすしゅぎしゃもいる[よう出典しゅってん]
  2. ^ おおまかにうと「経済けいざいてき関係かんけい」を[よう出典しゅってん]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 芝田しばたすすむうま史的してき唯物ゆいぶつろん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)=コトバンク
  2. ^ 松尾まつおただし連載れんさい『リスク・責任せきにん決定けってい、そして自由じゆう!』「「生身なまみ個人こじんにとっての自由じゆう」の潮流ちょうりゅうなかのマルクス」シノドス、2015ねん5がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん12月17にち閲覧えつらん
  3. ^ 松尾まつお2015
  4. ^ 小林こばやし良彰よしあき『アジアてき生産せいさん様式ようしきめぐ論争ろんそう同志社どうししゃ商学しょうがく創立そうりつひゃく周年しゅうねん記念きねんごう、1975
  5. ^ a b c 小林こばやし良彰よしあき1975
  6. ^ 福本ふくもと勝清かつきよ「アジアてき生産せいさん様式ようしき発見はっけん 1946-1955」明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅう刊行かんこうかい、2019
  7. ^ 福本ふくもと勝清かつきよしるべろん -アジアてき生産せいさん様式ようしき」『明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅう福本ふくもと勝清かつきよ名誉めいよ教授きょうじゅ退職たいしょく記念きねんごう明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅう刊行かんこうかい、2019
  8. ^ a b 福本ふくもとしるべろん」2019
  9. ^ 司馬しばりょう太郎たろう項羽こうう劉邦りゅうほう下巻げかん「あとがき」、新潮社しんちょうしゃ[新潮しんちょう文庫ぶんこ]1984。
  10. ^ 福本ふくもとしるべろん」2019、P8-9の要約ようやく
  11. ^ 郭沫若かくまつじゃくじゅう批判ひはんしょ』、邦訳ほうやく野原のはら四郎しろう佐藤さとう武敏たけとし上原うえはらあつしみちやく中国ちゅうごく古代こだい思想家しそうかたち』じょう下巻げかん岩波書店いわなみしょてん刊行かんこう上巻じょうかん1953・下巻げかん1957
  12. ^ 竹内たけうちみのる現代げんだい中國ちゅうごく歴史れきしせい - 「儒法闘爭とうそうまねべ」 - 運動うんどうにみえるりょきさき武則たけのりてんさん論理ろんりとその挫折ざせつ -」京都大學きょうとだいがく人文じんぶん科學かがく研究所けんきゅうじょ東方とうほうがくほう」、1978
  13. ^ なにつよし郭沫若かくまつじゃく史学しがくざい文革ぶんかくちゅうてき跌宕遭际』光明日報こうみょうにっぽうぐんらんはくしょ」2016ねん04がつ01にちより。著者ちょしゃ楽山らくざん師範しはん学院がくいん四川しせん郭沫若かくまつじゃく研究けんきゅう中心ちゅうしん研究けんきゅうしゃ2023ねん12月24にち閲覧えつらん
  14. ^ 竹内たけうち論文ろんぶん1978およ竹内たけうちみのる現代げんだい中国ちゅうごくにおける古典こてんさい評価ひょうかとそのながれ」『中国ちゅうごく古典こてん名著めいちょそう解説かいせつ自由じゆう国民こくみんしゃ所収しょしゅう
  15. ^ 産経新聞さんけいしんぶん毛沢東もうたくとう秘録ひろく取材しゅざいはんめいゆき雅夫まさお)『毛沢東もうたくとう秘録ひろく しただい 若干じゃっかん歴史れきし問題もんだいかんする決議けつぎによる。しお書房しょぼう光人みつひとしんしゃ産経さんけいNF文庫ぶんこ)、2021
  16. ^ 以上いじょう学会がっかい動向どうこう貝塚かいづか茂樹しげき中国ちゅうごく古代こだい社会しゃかい研究けんきゅうさん)」、『中国ちゅうごく古典こてん文学ぶんがく大系たいけい 月報げっぽう』1965,9 平凡社へいぼんしゃによる。
  17. ^ 楊の代表だいひょうさく戦国せんごく』ははんわるごとにせつが180わることで有名ゆうめいであり、だいはんだいさんはんではまった内容ないようことなる。このことを学界がっかい報告ほうこくした小倉おぐら芳彦よしひこ宮崎みやざきじょうが「だいよんはんちましょう」と一言ひとことだけったことに強烈きょうれつ印象いんしょうけたという。『宮崎みやざきてい全集ぜんしゅう月報げっぽうより。宮崎みやざき発言はつげんは「どうせ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう都合つごう平気へいきべつのことをいいだすので、かれらのせつ学問がくもんてきになんの意味いみもない」の意味いみ宮崎みやざき著書ちょしょみず滸伝 虚構きょこうなか史実しじつ』でこの時期じき中国共産党ちゅうごくきょうさんとうもと労働ろうどうしゃによる粗雑そざつ論文ろんぶん痛烈つうれつ批判ひはんした。
  18. ^ 藤岡ふじおか信勝のぶかつ歴史れきし本音ほんね扶桑社ふそうしゃ、1997、p16
  19. ^ 谷沢たにさわ永一えいいち生涯しょうがい終生しゅうせいとも―『日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう』『随想ずいそうろく』」『雑書ざっしょ放蕩ほうとう新潮社しんちょうしゃ、1996ねん
  20. ^ なお、石母田いしもたもと発展はってんについての論説ろんせつ前田まえだただしてん影響えいきょうによるものである。前田まえだせつのち岡田おかだ英弘ひでひろにより補強ほきょうされ、「モンゴル帝国ていこくから資本しほん主義しゅぎ世界せかいはじまった」と、モンゴル帝国ていこくによる歴史れきし発展はってんおおいに強調きょうちょうされるにいたった。岡田おかだ英弘ひでひろ世界せかい誕生たんじょう』ちくま文庫ぶんこ
  21. ^ 小国おぐに喜弘よしひろ国民こくみんてき歴史れきしがく運動うんどうにおける「国民こくみん位相いそう : 加藤かとう文三ぶんぞう石間いしま(いさま)をわるしぶき」をがかりとして」東京都立大学とうきょうとりつだいがくじん文学ぶんがくむくい、2002
  22. ^ 大石おおいし国民こくみんてき歴史れきしがく運動うんどうグループの影響えいきょうけた「あたらしい歴史れきし教科書きょうかしょをつくるかい」グループにも加入かにゅうし、『貧農ひんのう史観しかん見直みなおす』(講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)などの概説がいせつしょ執筆しっぴつ歴史れきし教科書きょうかしょ編纂へんさんなど精力せいりょくてき活動かつどうした
  23. ^ 藤岡ふじおか1997
  24. ^ Murray Rothabrd (1995), An Austrian Perspective on the History of Economic Thought, Volume 2, Edward Elgar Publishing Ltd, Chapter 12, p.371-385. p.433.

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