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平和へいわだい野球やきゅうじょう

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平和へいわだい野球やきゅうじょう
Heiwadai Baseball Stadium
平和台野球場
施設しせつデータ
所在地しょざいち 福岡ふくおかけん福岡ふくおか中央ちゅうおう城内きうち1-2
福岡ふくおか舞鶴まいづる公園こうえんない
開場かいじょう 1949ねん12月18にち
閉場へいじょう 1997ねん11月24にち
所有しょゆうしゃ 福岡ふくおか
グラウンド 天然てんねんしば開場かいじょう - 1978ねん
人工芝じんこうしば(1979ねん - 閉場へいじょう
照明しょうめい 照明しょうめいとう - 6
照度しょうど - バッテリーあいだ:1,900ルクス
内野ないや:1,500ルクス
外野がいや:1,000ルクス
建設けんせつ 3,000まんえん
使用しようチーム • 開催かいさい試合しあい
西日本にしにほんパイレーツ1950ねん
西鉄にしてつクリッパース
西鉄にしてつライオンズ
太平洋たいへいようクラブライオンズ
クラウンライターライオンズ
(1950ねん - 1978ねん
福岡ふくおかダイエーホークス1989ねん - 1992ねん
収容しゅうよう人員じんいん
34,000にん
 内野ないや19,700にん特別とくべつせき9,900にん
 内野ないやせき9,800にん)、外野がいや14,300にん
グラウンドデータ
球場きゅうじょう規模きぼ 両翼りょうよく - 92 m (やく301.8 ft)
中堅ちゅうけん - 122 m (やく400.3 ft)
バックネット - 20 m (やく65.6 ft)
フェンス 不明ふめい

平和へいわだい野球やきゅうじょう(へいわだいやきゅうじょう)は、かつて福岡ふくおかけん福岡ふくおか中央ちゅうおう舞鶴まいづる公園こうえんにあった野球やきゅうじょう

1949ねん建設けんせつされ、1997ねん老朽ろうきゅう歴史れきし公園こうえん整備せいび理由りゆう閉鎖へいさされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

パイレーツ→ライオンズ本拠地ほんきょち時代じだい[編集へんしゅう]

球場きゅうじょうはつのナイター(1954ねん6がつ2にち
はつナイターをいわうセレモニーでのアトラクション(1954ねん6がつ2にち

1948ねん福岡ふくおかけんだい3かい国民こくみん体育たいいく大会たいかい開催かいさいされたさい福岡ふくおか中心ちゅうしんにある舞鶴まいづる公園こうえん福岡ふくおかじょう陸軍りくぐんだい12師団しだん歩兵ほへいだい24連隊れんたい跡地あとち)に陸上りくじょう競技きょうぎじょう球技きゅうぎじょう2めんなどをようする平和へいわだい総合そうごう運動うんどうじょう建設けんせつされる。当時とうじ連隊れんたい跡地あとちGHQ接収せっしゅうされていたが、国体こくたい準備じゅんび委員いいんちょうつとめた岡部おかべ平太へいたがGHQ相手あいてなん折衝せっしょうおこない、そのさいに「連隊れんたい跡地あとちをスポーツによるPEACE HILL(=平和へいわだい)にしたい」とかたったことなどから接収せっしゅう解除かいじょされ、運動うんどうじょうつくられることになった。1949ねん12月18にちに、球技きゅうぎじょうの1めん国体こくたいでサッカー競技きょうぎひらかれた場所ばしょ)をつくえて平和へいわだい野球やきゅうじょう完成かんせいした。そう工費こうひは3000まんえん。こけらとしは、1949ねん12月18にちふゆオープンせん巨人きょじんたい阪神はんしん

1950ねんにプロ野球やきゅう参入さんにゅうしたセントラル・リーグ西日本にしにほんパイレーツ本拠地ほんきょち球場きゅうじょうパシフィック・リーグ西鉄にしてつクリッパースじゅん本拠地ほんきょちとなった。しかし、当時とうじ本州ほんしゅうから九州きゅうしゅうへの移動いどう手段しゅだんとなる鉄道てつどう急行きゅうこう列車れっしゃでも1昼夜ちゅうやようするうえ、地方ちほう都市としでの遠征えんせい開催かいさい頻繁ひんぱんおこなわれた影響えいきょうもあり、西日本にしにほん当初とうしょここと八幡やはた桃園ももぞの野球やきゅうじょうわせて50-60試合しあい開催かいさいすることを予告よこくするも、わずか4試合しあい県内けんないでは桃園ももぞの2・飯塚いいづか1をふくめ7試合しあい)しかおこなわれず、西鉄にしてつもメインを春日かすが春日かすがげん球場きゅうじょうさだめたこともあり、わずか7試合しあい県内けんないでは球場きゅうじょうでの開催かいさいふくめ27試合しあい)の開催かいさいにとどまった[1]

よく1951ねん西鉄にしてつ西日本にしにほん合併がっぺいしてパ・リーグの西鉄にしてつライオンズが誕生たんじょうし、西鉄にしてつ本拠地ほんきょち春日しゅんじつげん球場きゅうじょうからうつした。

開場かいじょう当時とうじナイター照明しょうめいがなく、試合しあいちゅう日没にちぼつになった場合ばあい球審きゅうしん判断はんだんにより試合しあいり(進行しんこうじょうきょうによりコールドゲームまたはノーゲーム)としていたが、1952ねん平和へいわだい事件じけんをきっかけに1954ねん、ナイター照明しょうめい設置せっちしている。

1953ねん8がつ29にち中西なかにしふとしほん球場きゅうじょうバックスクリーンをはるかにえる推定すいてい距離きょり160メートルの本塁打ほんるいだはなったことで話題わだいになった。1954ねんのリーグはつ優勝ゆうしょうから西鉄にしてつライオンズの黄金おうごん時代じだいはじまり、豊田とよだ泰光やすみつ中西なかにしふとし大下おおしたひろし稲尾いなお和久かずひさ1956ねん入団にゅうだん)らをようしたチームは1956~1958ねん読売よみうりジャイアンツくだ日本にっぽんシリーズ3連覇れんぱたしたが、とくに1958ねんは3連敗れんぱいのち雨天うてん中止ちゅうしがねとなり、奇跡きせきともわれた4連勝れんしょうたした。

だが、当時とうじ球場きゅうじょうスタンドひくうえ芝生しばふもりせきおおかったため、優勝ゆうしょうチームにはふさわしくないという意見いけんから、1956ねんには球場きゅうじょう改装かいそうもとめる看板かんばん球場前きゅうじょうまえてられたり、ファンの署名しょめい活動かつどうはじまるなど、球場きゅうじょう改装かいそうへの期待きたいたかまった。1957ねんのシーズン終了しゅうりょうから全面ぜんめん改修かいしゅう工事こうじほどこし、スタンドの全面ぜんめん座席ざせき実施じっし。1958ねん4がつ26にち竣工しゅんこうした(竣工しゅんこう開幕かいまくわなかったため、同年どうねん開幕かいまくせんからの西鉄にしてつ主催しゅさい試合しあい小倉おぐら市営しえい球場きゅうじょうげん北九州きたきゅうしゅう市民しみん球場きゅうじょうで4試合しあい久留くるべいブリヂストン球場きゅうじょう大牟田おおむた延命えんめい球場きゅうじょうかく1試合しあい開催かいさい[2])。

1969ねんきたくろきり事件じけんによって西鉄にしてつおおくの選手せんしゅ永久えいきゅう追放ついほうなどの処分しょぶんけ、成績せいせき低迷ていめいする。1973ねん当時とうじロッテオリオンズのオーナーだった中村なかむらちょうかおるによって西鉄にしてつ球団きゅうだん西日本鉄道にしにっぽんてつどうから買収ばいしゅうされ、「福岡ふくおか野球やきゅう株式会社かぶしきがいしゃ[3]設立せつりつした。球団きゅうだん命名めいめいけん売却ばいきゃくされ、1973ねん1976ねん太平洋たいへいようクラブがスポンサーとなった「太平洋たいへいようクラブライオンズ」、1977ねん1978ねんクラウンガスライターがスポンサーとなった「クラウンライターライオンズ」に名称めいしょう変更へんこうをするが、成績せいせき低迷ていめいとも観客かんきゃく動員どういん減少げんしょうし、1978ねん10月福岡ふくおか野球やきゅう国土こくど計画けいかく西武せいぶグループ)に買収ばいしゅうされて「西武せいぶライオンズ」となり、埼玉さいたまけん所沢ところざわ西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう移転いてんした。

これにより、福岡ふくおか本拠地ほんきょちとするプロ野球やきゅう球団きゅうだんがなくなった。「福岡ふくおかのライオンズ最後さいご平和へいわだい試合しあい」は同年どうねんあきシンシナティ・レッズむかえた日米にちべい野球やきゅうたい巨人きょじん・クラウン連合れんごう)としておこなわれた。

ライオンズ撤退てったいからホークス誘致ゆうちまで[編集へんしゅう]

平和へいわだい球場きゅうじょう外野がいやスタンドあと(2006ねん6がつ撮影さつえい現存げんそんせず)
平和へいわだい球場きゅうじょう記念きねん(2006ねん10がつ撮影さつえい

本拠地ほんきょち球団きゅうだんくなった1978ねん12月福岡ふくおか地元じもと企業きぎょうによるだいさんセクター興業こうぎょう会社かいしゃ平和へいわだい野球やきゅう株式会社かぶしきがいしゃ」が設立せつりつされた。よく1979ねんには2おく6,000まんえんをかけて、グラウンドを西日本にしにほんはつ全面ぜんめん人工芝じんこうしば一新いっしんしている。このようなみにより、1979ねん以後いごおも西武せいぶライオンズ(1979ねん主催しゅさい10試合しあいふくめ17試合しあい開催かいさいとく5月にはホームあつかいでの近鉄きんてつバファローズたたかえ7試合しあい8がつにはビジターあつかいの近鉄きんてつせん日本にっぽんハムファイターズたたかえならびにホームあつかいの阪急はんきゅうブレーブスせんかく3試合しあいずつ、けい9試合しあいがそれぞれ集中しゅうちゅうてき開催かいさいされた)を中心ちゅうしんとして、巨人きょじん主催しゅさいによるどんたくシリーズ(5がつ上旬じょうじゅん3連戦れんせん)、全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい期間きかんちゅう阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう使用しようできない阪神はんしんタイガース主催しゅさい試合しあいなど、プロ野球やきゅうかくチームによる公式こうしきせん年間ねんかん20~30試合しあい程度ていど開催かいさいされた。

このあいだほん球場きゅうじょう公式こうしきせん・オープンせんともに主催しゅさい主管しゅかん試合しあい開催かいさいしなかったのは中日ちゅうにちドラゴンズのみだが、これは「原則げんそくとして中日新聞ちゅうにちしんぶん北陸ほくりく中日新聞ちゅうにちしんぶん日刊県民福井にっかんけんみんふくいふくむ)の販売はんばいエリアで主催しゅさい試合しあいおこなう」というどう球団きゅうだん方針ほうしんがあったことによる。ただし、球団きゅうだん主催しゅさい試合しあいのビジターとなることはあった。

広島東洋ひろしまとうようカープ公式こうしきせんでの主催しゅさい試合しあいおこなわなかったが、1981ねん3月28にちにオープンせん主催しゅさい試合しあいたい近鉄きんてつせん)を開催かいさいしているほか(出典しゅってん読売新聞よみうりしんぶん岡山おかやまばん、1981ねん3がつ28にち、テレビ・ラジオらん九州朝日放送きゅうしゅうあさひほうそう広島ひろしまホームテレビ中継ちゅうけい[4]、1984ねん日米にちべい野球やきゅうでホームゲームあつかいの試合しあい開催かいさいした(ただし主催しゅさい読売新聞社よみうりしんぶんしゃだった)。

なお、巨人きょじん主催しゅさい試合しあい読売新聞社よみうりしんぶんしゃ報知新聞社ほうちしんぶんしゃスポーツ報知ほうち)・日本にほんテレビ主催しゅさい福岡放送ふくおかほうそう後援こうえんによる自主じしゅ興行こうぎょうあつかいで開催かいさいしており、福岡ふくおかドーム誕生たんじょう以降いこうも2007ねんまで毎年まいとし継続けいぞくしていた。その巨人きょじんは2011ねん4がつ13にち北九州きたきゅうしゅう市民しみん球場きゅうじょう開催かいさいしたのを最後さいご福岡ふくおか県内けんない公式こうしきせん主催しゅさい試合しあい開催かいさい実績じっせきはない。

1987ねん7がつ8にち南海なんかいホークスたいロッテオリオンズのサスペンデッドゲーム続行ぞっこう試合しあいおこなわれたが、これは同年どうねん5がつ23にち柏崎かしわざき佐藤さとういけ野球やきゅうじょう新潟にいがたけん柏崎かしわざき)での試合しあい雨天うてんなどの影響えいきょう日没にちぼつサスペンデッドになったもので、地方ちほう球場きゅうじょう場合ばあい後日ごじつべつ球場きゅうじょうでの開催かいさいみとめられることによる処置しょちとしておこなわれた(本来ほんらいは7がつ7にち予定よていされていたが、雨天うてんのため順延じゅんえんされた)。なお、これはサスペンデッドのつづきの試合しあい地方ちほう球場きゅうじょうおこなわれた唯一ゆいいつれいだった(ただし専用せんよう球場きゅうじょう以外いがいという観点かんてんれば、1954ねん近鉄きんてつパールスたい東映とうえいフライヤーズせん中断ちゅうだんまえこうとも中日ちゅうにち球場きゅうじょうげん・ナゴヤ球場きゅうじょうおこなわれたれいがある)。

また、1984ねん稲尾いなお和久かずひさがロッテの監督かんとく就任しゅうにんしたさい将来しょうらいてき本拠地ほんきょち当時とうじ川崎球場かわさききゅうじょう神奈川かながわけん川崎かわさき)からほん球場きゅうじょう移転いてんすることを条件じょうけん監督かんとく要請ようせい受託じゅたくしたとされているが、実現じつげんにはいたらなかった。

ホークス本拠地ほんきょち時代じだい[編集へんしゅう]

1988ねん9月南海なんかいホークスがダイエー譲渡ゆずりわたされ、本拠地ほんきょち大阪おおさか球場きゅうじょうからほん球場きゅうじょう移転いてん。10ねんぶりにプロ野球やきゅう本拠地ほんきょち球場きゅうじょうとなった。これにともない、使命しめいえた平和へいわだい野球やきゅう株式会社かぶしきがいしゃ解散かいさんしている。

1990ねん、バックスクリーンのひだり当時とうじとしては破格はかくおおきさだった大型おおがた映像えいぞう装置そうち「ホークスビジョン」(ソニーせいジャンボトロン)を設置せっちしたが、スコアボードは手動しゅどうのままであった。

1987ねんまつ、「古代こだいアジアの玄関げんかんこう」とされるおおとり臚館(こうろかん)遺跡いせき球場きゅうじょう改修かいしゅう工事こうじちゅう発見はっけんされたため、遺跡いせき発掘はっくつすすめるとともに同所どうしょ歴史れきし公園こうえんとしてさい整備せいびすることが計画けいかくされ、ダイエーもほん球場きゅうじょうわり中央ちゅうおう地行じぎょう埋立うめたて福岡ふくおかドーム建設けんせつすすめていたため、プロ野球やきゅう公式こうしきせん福岡ふくおかドーム完成かんせい前年ぜんねん1992ねん最後さいご終了しゅうりょうした。プロ野球やきゅう公式こうしきせん最終さいしゅう試合しあいは10月1にちのダイエーたい近鉄きんてつせんで、ダイエーのルーキー・若田部わかたべ健一けんいち近鉄きんてつ野茂のも英雄ひでおとの投手とうしゅせんを1たい0でせいし、10しょうげた。

ほん球場きゅうじょう福岡ふくおかドームの完成かんせいもしばらくはのこされ、全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう野球やきゅう選手権せんしゅけん福岡ふくおか大会たいかいなどのアマチュア野球やきゅう公式こうしきせんや、ダイエーのぐんせんなどで使用しようされたが、1997ねん老朽ろうきゅうおよ歴史れきし公園こうえん整備せいび本格ほんかく着手ちゃくしゅともな完全かんぜん閉鎖へいさされた。同年どうねん11がつ24にちにおわかれイベント「さよなら平和へいわだい」が開催かいさいされ、ダイエーたいオリックスの非公式ひこうしきせんや、西鉄にしてつOBたい福岡ふくおか市民しみん代表だいひょうチームの試合しあいなどがおこなわれた。これをもっやくはん世紀せいきにわたって九州きゅうしゅう野球やきゅうかい牽引けんいんしてきた球場きゅうじょう歴史れきしまくろされた。

球場きゅうじょう解体かいたい以降いこう[編集へんしゅう]

備品びひん一部いちぶは1997ねん11月におこなわれた「さよなら平和へいわだい」にて、かく備品びひんごとに事前じぜん申込もうしこみしゃなかから抽選ちゅうせん無償むしょう譲渡じょうとされた。

2002ねんには西鉄にしてつライオンズOBかい有志ゆうし発起人ほっきにんとなって記念きねん建立こんりゅうされた。

球場きゅうじょう解体かいたい外野がいやスタンドや外壁がいへき一部いちぶのこされていたが、2005ねん3がつ20日はつか福岡ふくおかけん西方にしほうおき地震じしんによって外壁がいへき亀裂きれつはいるなどの被害ひがいけ、崩落ほうらく危険きけんせいしょうじたため、2007ねん12月から2008ねん4がつにかけてすべ解体かいたい撤去てっきょされた。なお、撤去てっきょ工事こうじわったのちにはフェンスが新設しんせつされ、福岡ふくおか教育きょういく委員いいんかいおおとり臚館遺跡いせき説明せつめいパネルを設置せっちした。

舞鶴まいづる公園こうえん敷地しきちないには現在げんざい軟式なんしき野球やきゅう専用せんようの「舞鶴まいづる公園こうえん野球やきゅうじょう」がある。

プロ野球やきゅう開催かいさい実績じっせき[編集へんしゅう]

西日本にしにほんパイレーツ[編集へんしゅう]

セリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

読売よみうりジャイアンツ[編集へんしゅう]

日米にちべい野球やきゅう[編集へんしゅう]

セリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1949ねん12月18にち 巨人きょじん4-1阪神はんしん
  • 1982ねん3がつ7にち 巨人きょじん14-9ヤクルト
  • 1983ねん3がつ13にち 巨人きょじん6-3ヤクルト
  • 1984ねん3がつ11にち 巨人きょじん8-1阪神はんしん
  • 1985ねん3がつ10にち 巨人きょじん2-1ヤクルト
  • 1986ねん3がつ9にち 巨人きょじん2-3阪急はんきゅう
  • 1987ねん3がつ8にち 巨人きょじん4-4阪神はんしん 観衆かんしゅう:34,000
  • 1988ねん3がつ6にち 巨人きょじん1-7大洋たいよう 観衆かんしゅう:33,000

イリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

  • 1987ねん5がつ2にち 巨人きょじん3-5西武せいぶ

ヤクルトスワローズ[編集へんしゅう]

セリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1980ねん3がつ18にち ヤクルト2-4阪急はんきゅう
  • 1981ねん3がつ18にち ヤクルト6-7日本にほんハム
  • 1981ねん3がつ19にち ヤクルト4-7日本にほんハム

大洋たいようホエールズ[編集へんしゅう]

セリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1983ねん3がつ21にち 大洋たいよう2-11近鉄きんてつ

阪神はんしんタイガース[編集へんしゅう]

セリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

かち 中田なかた良弘よしひろ S 山本やまもと和行かずゆき はい 曽田そた康二こうじ ほん 真弓まゆみ明信あきのぶ×2,バース,かけぬの雅之まさゆき(T),ケン・モッカ,上川かみかわ誠二せいじ(D)

  • 1986ねん8がつ9にち 阪神はんしん3-4大洋たいよう 観衆かんしゅう:34,000
  • 1986ねん8がつ10にち 阪神はんしん1-15大洋たいよう 観衆かんしゅう:34,000
  • 1987ねん8がつ8にち 阪神はんしん4-4ヤクルト 観衆かんしゅう:32,000
  • 1987ねん8がつ9にち 阪神はんしん1-0ヤクルト 観衆かんしゅう:30,000 ※6かいうら終了しゅうりょう降雨こううコールドゲーム
  • 1988ねん9がつ3にち 阪神はんしん6-3大洋たいよう 観衆かんしゅう:25,000

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1983ねん3がつ10にち 阪神はんしん2-1大洋たいよう

広島ひろしまカープ[編集へんしゅう]

セリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1981ねん3がつ28にち 広島ひろしま2-0近鉄きんてつ

松竹しょうちくロビンス[編集へんしゅう]

セリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

ライオンズ(所沢ところざわ移転いてん[編集へんしゅう]

パリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1980ねん3がつ9にち 西武せいぶ6-4近鉄きんてつ
  • 1981ねん3がつ8にち 西武せいぶ2-2近鉄きんてつ
  • 1982ねん3がつ9にち 西武せいぶ4-2南海なんかい
  • 1983ねん3がつ24にち 西武せいぶ5-15広島ひろしま

イリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

  • 1981ねん8がつ9にち 西武せいぶ2-1巨人きょじん
  • 1982ねん8がつ18にち 西武せいぶ4-2巨人きょじん

日本にっぽんハムファイターズ[編集へんしゅう]

パリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1980ねん3がつ12にち 日本にほんハム1-11広島ひろしま 観衆かんしゅう:6,000
  • 1981ねん3がつ11にち 日本にほんハム1-4広島ひろしま
  • 1984ねん3がつ15にち 日本にほんハム6-10ヤクルト
  • 1988ねん3がつ16にち 日本にほんハム2-3近鉄きんてつ 観衆かんしゅう:1,500

ロッテオリオンズ[編集へんしゅう]

パリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

島田しまだまこと(F)

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1984ねん3がつ17にち ロッテ4-3南海なんかい
  • 1984ねん3がつ18にち ロッテ6-11南海なんかい

近鉄きんてつバファローズ[編集へんしゅう]

パリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

オープンせん[編集へんしゅう]

  • 1982ねん3がつ11にち 近鉄きんてつ5-4西武せいぶ

ホークス(福岡ふくおか移転いてんまえ)[編集へんしゅう]

パリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

阪急はんきゅうブレーブス[編集へんしゅう]

パリーグ公式こうしきせん[編集へんしゅう]

施設しせつ[編集へんしゅう]

  • 敷地しきち面積めんせき:25,480m2(グラウンド面積めんせき:12,349m2、スタンド面積めんせき:13,131m2公園こうえんないのためそと面積めんせきふくんでいない)
  • スコアボード:手書てがき(1990ねん~1992ねんはバックスクリーン左側ひだりがわ電光でんこう掲示板けいじばん「ホークスビジョン」を併設へいせつ
1988ねんまでは15かいまで+合計ごうけい得点とくてん表示ひょうじ1989ねんから14かいまで+合計ごうけい得点とくてん安打あんだ表示ひょうじとなった。
選手せんしゅめい表記ひょうき当初とうしょ9にんぶんしかなかったため、1975ねんにパ・リーグが指名しめい打者だしゃ制度せいどれてからは当初とうしょはチームめい表記ひょうきする箇所かしょ投手とうしゅめいれていた。のち改修かいしゅうされ、投手とうしゅふくめ10にんぶん記載きさい可能かのうとなった。
バックスクリーンには電光でんこう広告こうこく看板かんばん周囲しゅういまめ電球でんきゅう点滅てんめつするもの。本拠地ほんきょち球団きゅうだんのなかった時代じだいPENTAX(旭光学工業あさひこうがくこうぎょう、ダイエーの本拠地ほんきょちサッポロビール)が掲出けいしゅつされ、本塁打ほんるいだるとそのうえに「HOMERUN」の文字もじ掲出けいしゅつされた。
フェンスは1970年代ねんだい~1987ねんごろまでカラー広告こうこくだったが、その緑地りょくちしろ文字もじ変更へんこうされた。またスタンド看板かんばんも1988ねんまでカラーボードだったが、そのはダイエーのチームカラーにわせて白地しろじあお緑色みどりいろ文字もじ統一とういつされた(どう時期じき、ホークスのじゅん本拠地ほんきょちである北九州きたきゅうしゅう市民しみん球場きゅうじょう同様どうよう改修かいしゅうをしている)。
  • バックスクリーンの裏側うらがわには売店ばいてんすうけん存在そんざいした。売店ばいてん中央ちゅうおう販売はんばいしていたうどんは人気にんきたかく、閉鎖へいさかたぐさとなっている。

エピソード[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

ほん球場きゅうじょう閉鎖へいさ記念きねんして発行はっこうされた書籍しょせきほん球場きゅうじょうにおける西鉄にしてつライオンズ本拠地ほんきょち時代じだいから閉鎖へいさまでのエピソードを写真しゃしんまじえて紹介しょうかいしていく。当時とうじ西日本にしにほん新聞しんぶん西日本にしにほんスポーツ記者きしゃをはじめ、ライオンズOBの河村かわむら英文ひでふみもと満男みつおどう球団きゅうだん代表だいひょうだった坂井さかい保之やすゆき寄稿きこうしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 記録きろくいんコラム】29都道府県とどうふけん、52球場きゅうじょうめぐった西日本にしにほんパイレーツ日本にっぽん野球やきゅう機構きこう
  2. ^ 小倉こくらでは小倉おぐらゆたか楽園らくえん球場きゅうじょう時代じだいからじゅん本拠地ほんきょちとしてとし20試合しあい前後ぜんこうおこなわれたが、1965ねん主催しゅさい試合しあい半数はんすうにあたる35試合しあいずつ(とし140試合しあいちゅうホームは70試合しあい)を平和へいわだい小倉こくらって開催かいさいした。
  3. ^ 当時とうじほん球場きゅうじょうない事務所じむしょがあったが、福岡ふくおかから使用しよう許可きょかていないという理由りゆうでクレームがつき、事務所じむしょほん球場きゅうじょうのまま法人ほうじん登記とうきうえ本社ほんしゃ当時とうじ球団きゅうだん社長しゃちょうだった坂井さかい保之やすゆき自宅じたく当時とうじ福岡ふくおかにあった)にうつしたとされる。
  4. ^ 解説かいせつ河村かわむら英文ひでふみ当時とうじ九州朝日放送きゅうしゅうあさひほうそう野球やきゅう解説かいせつしゃ)。
  5. ^ この試合しあいのち阪神はんしんナインは翌日よくじつ後楽園こうらくえん球場きゅうじょうでの試合しあいのぞむため日本航空にほんこうくう福岡ふくおか - 羽田はたせん移動いどうしたが、そのさい搭乗とうじょうした機体きたい日本航空にほんこうくう123便びん墜落ついらく事故じこ事故じこボーイング747SR-100、JA8119)だった。
  6. ^ [1]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]


ぜん本拠地ほんきょち
n/a
-
西日本にしにほんパイレーツ本拠地ほんきょち
1950 - 1950
本拠地ほんきょち
n/a
-
ぜん本拠地ほんきょち
春日かすがげん球場きゅうじょう
1950 - 1950
クラウンライターライオンズ本拠地ほんきょち
1951 - 1978
本拠地ほんきょち
西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう西武せいぶドーム
1979 - 現在げんざい
ぜん本拠地ほんきょち
大阪おおさかスタヂアム
1950 - 1988
福岡ふくおかダイエーホークス本拠地ほんきょち
1989 - 1992
本拠地ほんきょち
福岡ふくおかドーム
1993 - 現在げんざい