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紀伊きい国分寺こくぶんじ

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西国分にしこくぶとうあとから転送てんそう
紀伊きい国分寺こくぶんじ

創建そうけん講堂こうどうあとげん本堂ほんどう
所在地しょざいち 和歌山わかやまけんかわ東国分ひがしこくぶん682
位置いち 北緯ほくい3416ふん7.60びょう 東経とうけい13520ふん21.00びょう / 北緯ほくい34.2687778 東経とうけい135.3391667 / 34.2687778; 135.3391667座標ざひょう: 北緯ほくい3416ふん7.60びょう 東経とうけい13520ふん21.00びょう / 北緯ほくい34.2687778 東経とうけい135.3391667 / 34.2687778; 135.3391667
山号さんごう 八光はっこうさん
宗派しゅうは しん真言宗しんごんしゅう
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい
創建そうけんねん 奈良なら時代じだい
開基かいき 聖武天皇しょうむてんのう
正式せいしきめい 八光山醫王院国分寺
文化財ぶんかざい 紀伊きい国分寺こくぶんじあとくに史跡しせき
法人ほうじん番号ばんごう 5170005002937 ウィキデータを編集
紀伊国分寺の位置(和歌山県内)
紀伊国分寺
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紀伊きい国分寺こくぶんじ(きいこくぶんじ)は、和歌山わかやまけんかわ東国分ひがしこくぶんにあるしん真言宗しんごんしゅう寺院じいん山号さんごう八光はっこうさん院号いんごうおういん本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい

奈良なら時代じだい聖武天皇しょうむてんのうみことのりにより日本にっぽん各地かくち建立こんりゅうされた国分寺こくぶんじのうち、紀伊きいこく国分寺こくぶんじ後継こうけい寺院じいんにあたる。ほんこうではげん寺院じいんとともに、創建そうけん当時とうじ史跡しせきである紀伊きい国分寺こくぶんじあとくに史跡しせき)・紀伊きい国分こくぶ尼寺あまでらあとについても解説かいせつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

かわ右岸うがん段丘だんきゅうじょう位置いちし、本堂ほんどう創建そうけん国分寺こくぶんじ講堂こうどうあとっている。創建そうけん寺跡てらあとくに史跡しせき指定していされ、史跡しせき紀伊きい国分寺こくぶんじあと歴史れきし公園こうえんとして整備せいびがなされている。また、隣接りんせつしてかわ歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかんがある。

歴史れきし[編集へんしゅう]

聖武天皇しょうむてんのうみことのりによる建立こんりゅうとされるが、創建そうけん記録きろくのこっていない。『ぞく日本にっぽん』には天平てんぴょうかちたから8さい756ねん)に紀伊きいこくふくむ26ヶ国かこく国分寺こくぶんじたいするほう頒布はんぷ記事きじがある[1]。また『日本にっぽんさんだい実録じつろく』にはもとけい3ねん879ねん2がつ22にちに「紀伊きいこく金光明寺こんこうみょうじ」が火災かさいにより焼失しょうしつしたとある[1]。しかしそのすぐに復興ふっこうしたものとられ[1]、『延喜えんぎしき』には紀伊きい国分寺こくぶんじりょうとして20,000たば記載きさいがある[1]。その平安へいあん時代じだい後期こうきまでは存在そんざい確認かくにんされるが、中世ちゅうせいはいると衰退すいたい文献ぶんけんへの登場とうじょうはなくなる[1]

一方いっぽうげん国分寺こくぶんじ経緯けいいつたえる史料しりょうでは、寛永かんえい4ねん1628ねん)に本寺ほんじから根来寺ねごろじすえになったといい、寛延かんえい4ねん1751ねん)にはん寺社じしゃ奉行ぶぎょう直轄ちょっかつはいったという[1]。また、浅野あさの時代じだいには寺領じりょう4せき5徳川とくがわ時代じだいには3せき2あたえられていたという[1]

昭和しょうわ3ねん1928ねん2がつ7にちくに史跡しせき指定していされた。その昭和しょうわ48ねん1973ねん)から昭和しょうわ50ねん1970ねん)の発掘はっくつ調査ちょうさによっててらいきまち四方しほうやく218メートル四方しほう)と判明はんめいし、伽藍がらん配置はいち規模きぼ確認かくにんされた。その昭和しょうわ60ねん1985ねん)にくに史跡しせき追加ついか指定していされた。

境内けいだい[編集へんしゅう]

本堂ほんどう指定してい文化財ぶんかざい

現在げんざい堂宇どううは、創建そうけん国分寺こくぶんじ講堂こうどうあと本堂ほんどうのみである。本堂ほんどう江戸えど時代じだい元禄げんろく13ねん1700ねん)の再建さいけんによる[2]構造こうぞう桁行けたゆき5あいだ梁間はりま4あいだむねだか11.7メートル、ほん瓦葺かわらぶき入母屋いりもやづくり重層じゅうそう屋根やね[2]外観がいかんかいてにえるが、内部ないぶいちかいである。平成へいせい4ねん1992ねん)に講堂こうどう基壇きだん中央ちゅうおう現在げんざい位置いち移築いちくされた[2]。この本堂ほんどうかわ文化財ぶんかざい指定していされている。

紀伊きい国分寺こくぶんじあと[編集へんしゅう]

正面しょうめんみなみ門跡もんぜき手前てまえ)から金堂こんどうあとのぞ

てらいきは2まち四方しほうやく218メートル四方しほう[1]伽藍がらんみなみからみなみもん中門ちゅうもん金堂こんどう講堂こうどうけんろう(こんろう)・僧房そうぼう一直線いっちょくせん配置はいちされている[3][1]。またとう金堂こんどうひがし前方ぜんぽうに、鐘楼しゅろう経蔵きょうぞう金堂こんどう後方こうほう配置はいちされる。さらに、中門ちゅうもん左右さゆうから回廊かいろう金堂こんどうとう鐘楼しゅろう経蔵きょうぞううちかこんで講堂こうどう接続せつぞくしていた[1]てら東側ひがしがわざつしゃてられたものと推測すいそくされている。

とうななじゅうとう推測すいそくされ、一辺いっぺん16.4メートルのかわらせき基壇きだんじょう緑泥りょくでい片岩かたいわせいしんいしずえはじすべての礎石そせききゅうじょうたもっている[3][1]

紀伊きい国分こくぶ尼寺あまでら[編集へんしゅう]

西国分にしこくぶとうあと岩出いわで西国分にしこくぶ
中央ちゅうおうとうこころいしずえ

尼寺あまでら所在しょざい経緯けいいあきらかでない。

一説いっせつとして、そうてら西方せいほうやく800メートルにのこ西国分にしこくぶ廃寺はいじあと(にしこくぶはいじあと、岩出いわで西国分にしこくぶ)を尼寺あまでら指摘してきするせつがある[4]。この廃寺はいじには現在げんざいとうこころいしずえのみがのこっており、「西国分にしこくぶとうあと」としてくに史跡しせき指定していされている。調査ちょうさからとう規模きぼあきらかとなったほか、白鳳はくほう時代じだいから奈良なら時代じだいてらあとであったと判明はんめいしている[4]尼寺あまでらせつにおいては、それまで存在そんざいしたこの寺院じいん天平てんぴょう尼寺あまでら転用てんようしたと推測すいそくされる[4]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

くに史跡しせき[編集へんしゅう]

  • 紀伊きい国分寺こくぶんじあと - 昭和しょうわ3ねん2がつ7にち指定してい

かわ指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 本堂ほんどう

現地げんち情報じょうほう[編集へんしゅう]

所在地しょざいち

関係かんけい施設しせつ

  • かわ歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん

周辺しゅうへん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 和歌山わかやまけん地名ちめい国分寺こくぶんじこう
  2. ^ a b c かわ文化財ぶんかざいマップ(ひょう (PDF)かわ生涯しょうがい学習がくしゅう文化財ぶんかざいがかり)。
  3. ^ a b 史跡しせき 紀伊きい国分寺こくぶんじあと』。
  4. ^ a b c 和歌山わかやまけん地名ちめい西国分にしこくぶ廃寺はいじあとこう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 各所かくしょ説明せつめいばん
  • 史跡しせき 紀伊きい国分寺こくぶんじあと』(かわ教育きょういく委員いいんかい
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい体系たいけい 和歌山わかやまけん地名ちめい』(平凡社へいぼんしゃ那賀なかぐん 国分寺こくぶんじこう西国分にしこくぶ廃寺はいじあとこう

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]