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博多 - Wikipedia

博多はかた

福岡ふくおかけん都市とし

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博多はかた(はかた)とは、九州きゅうしゅう地方ちほう北部ほくぶ筑前ちくぜんこく現在げんざい福岡ふくおかけん福岡ふくおか博多はかた一部いちぶ地域ちいきである。博多湾はかたわんめんする港湾こうわん都市としで、博多はかたなどともばれた。

博多はかたそう鎮守ちんじゅ櫛田くした神社じんじゃ

戦国せんごく時代じだい合戦かっせんにより博多はかた一帯いったい荒廃こうはいしたが、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる都市とし整備せいび太閤たいこうまちり)により、博多はかた商人しょうにん協力きょうりょくした那珂川なかがわ東側ひがしがわ博多はかたまちながれ)が整備せいびされ、現在げんざい博多はかた基盤きばんとなる。江戸えど時代じだい以降いこう黒田くろだにより那珂川なかがわ西側にしがわきずかれた城下町じょうかまち福岡ふくおか」とたいをなす双子ふたご都市としとしてさかえた。1889ねん市政しせい施行しこうに「福岡ふくおか」と合併がっぺいして福岡ふくおか誕生たんじょうした。

現代げんだいにおいては博多はかた中心ちゅうしんである博多はかたえき周辺しゅうへんのエリアをすことがおおく、広義こうぎでは福岡ふくおか自体じたいすこともある。ふるくからの博多はかた市街地しがいち博多はかた博多はかたきゅう市街しがいばれる[1][2]

概要がいよう沿革えんかく

有史ゆうしうえ古代こだいから、考古学こうこがくうえ3世紀せいき後半こうはんごろからさかえた[3][4]日本にっぽん最古さいこみなとみなと)の1つである。大陸たいりくからちかいこの歴史れきしじょうずい使遣唐使けんとうしからはじまる外交がいこう交易こうえき中心ちゅうしんであり、また一方いっぽう筑紫つくしこく九州きゅうしゅう北部ほくぶふくめ、朝鮮半島ちょうせんはんとうアジア大陸たいりくとの戦争せんそう来寇らいこうさらされる国防こくぼうじょう要所ようしょひとつでもあった。大宰府だざいふ外港がいこうとして機能きのうしたこの状況じょうきょう大宰府だざいふ国政こくせいじょう重要じゅうよう位置いちめ、またもとなどのはげしい外寇がいこうがあった鎌倉かまくら時代ときよごろまでつづいた。中世ちゅうせいには、だい商人しょうにんたちによる合議ごうぎせいおさめられた日本にっぽん史上しじょうはつ自治じち都市とし商業しょうぎょう都市としとして繁栄はんえいした。

一方いっぽう古代こだいから天下てんか統一とういつまで度々どど戦乱せんらん翻弄ほんろうされ、野原のはらとなった博多はかた豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる都市とし整備せいび太閤たいこうまちり)により復興ふっこうし、このときに「ながれ(ながれ)」といった現代げんだいまでつづ博多はかたまち基礎きそ構築こうちくされた。江戸えど時代じだい入国にゅうこくした黒田くろだ福岡ふくおかはん)が那珂川なかがわ西側にしがわ福岡ふくおかじょうとその城下町じょうかまちである「福岡ふくおか」をきずき、商人しょうにんまち博多はかた」と武士ぶしまち福岡ふくおか」は性格せいかくことなるきょく都市としとして繁栄はんえいした。明治めいじ以前いぜんまでは文化ぶんかてきに「博多はかた」と「福岡ふくおか」のへだたりは根強ねづよいものがあった。1889ねんに「福岡ふくおか」と統合とうごうして市制しせい施行しこうするさいにはめいを「福岡ふくおか」または「博多はかた」のどちらかにするかで非常ひじょう紛糾ふんきゅうしたが、最終さいしゅうてき福岡ふくおか決定けっていした。そのわりに九州きゅうしゅう鉄道てつどう現在げんざいのJR鹿児島本線かごしまほんせん)の駅名えきめい福岡ふくおかえきではなく博多はかたえき命名めいめいされた。1972ねんに、福岡ふくおか北九州きたきゅうしゅう九州きゅうしゅうで2番目ばんめ政令せいれい指定してい都市とし昇格しょうかくしたさいには行政ぎょうせいひとつとして博多はかた発足ほっそくした。

博多はかた区内くない所在しょざいする博多はかたえき九州きゅうしゅう最大さいだいターミナルえきであり、えき周辺しゅうへんにはオフィスがいひろがるともに2010年代ねんだい以降いこうえきビルJR博多はかたシティなど大型おおがた商業しょうぎょう施設しせつ集積しゅうせきすすんでいる。現代げんだい博多はかた地区ちく中心ちゅうしんであり、様々さまざま都市とし機能きのう集積しゅうせきした博多はかたえき周辺しゅうへんは、福岡ふくおか地区ちく位置いちする天神てんじんとともに福岡ふくおか都心としん形成けいせいしている。ただし、狭義きょうぎ博多はかた博多はかたがわ那珂川なかがわ支流しりゅう)と御笠川みかさがわはさまれた博多はかたきゅう市街しがい博多はかたし、旧来きゅうらいからの博多はかた中心ちゅうしんであるきゅう市街しがい地下鉄ちかてつ祇園ぎおんえきふく駅名えきめい:博多はかたきゅう市街しがいこう)・呉服ごふくまちえき周辺しゅうへんのエリア)と、現在げんざい博多はかたえき周辺しゅうへん博多駅中央街はかたえきちゅうおうがい博多駅前はかたえきまえ博多駅東はかたえきひがし博多駅南はかたえきみなみ)は地理ちりてき範囲はんいことなる。また、かつては博多はかた商人しょうにんまち福岡ふくおか武士ぶしまちという性格せいかくちがいがあったが、現代げんだいにおいては西日本鉄道にしにっぽんてつどう西鉄にしてつ)などの貢献こうけんもあり、市内しない最大さいだい繁華はんかがい博多はかたえき周辺しゅうへんではなく福岡ふくおか地区ちく天神てんじんである。現在げんざい博多はかたえき周辺しゅうへん繁華はんかがいというよりオフィスビルならビジネスがいとしての性格せいかくつよい(2011ねんJR博多はかたシティ開業かいぎょう博多はかた地区ちく商業しょうぎょう機能きのう強化きょうかされている)。

毎年まいとし博多はかたながれ中心ちゅうしんおこなわれる博多はかた祇園山ぎおんやまかさは、博多はかたそう鎮守ちんじゅとしてられる櫛田くした神社じんじゃ奉納ほうのう神事しんじで、700ねん以上いじょう歴史れきしゆうする伝統でんとう行事ぎょうじである。このりゅう豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる太閤たいこうまち以降いこうやまかさ博多はかたまつ囃子ばやしなどの伝統でんとう行事ぎょうじ文化ぶんかてき共同きょうどうたい保持ほじつづけており、博多はかた特徴付とくちょうづける存在そんざいとして特筆とくひつされる。なが歴史れきしをもつ博多はかたにはまつりや寺社じしゃ仏閣ぶっかくのほかにも、博多はかた人形にんぎょう博多織はかたおりといった伝統でんとう工芸こうげいひん現在げんざいまでがれている。

定義ていぎ名称めいしょう

分類ぶんるい

現在げんざい博多はかた」と「福岡ふくおか」は、とく九州きゅうしゅうそとにおいておな地域ちいき地名ちめいとして認識にんしき誤認ごにん)されることがおおく、福岡ふくおか福岡ふくおか都市としけんのことを「博多はかた」とえることもすくなくない。これは市外しがいひとにとっては博多はかたえき玄関げんかんこうであることがおおく、また博多はかたべん博多はかたラーメンなど「博多はかた」という名称めいしょう全国ぜんこくてきたか知名度ちめいどつためである。一方いっぽう福岡ふくおか博多はかた区内くない一部いちぶ地域ちいきは「博多はかた」という地名ちめい以外いがいにいいかえができないエリアがあり、福岡ふくおか市内しない近郊きんこう使用しようした場合ばあいはこのエリアをすことがおおい。 こういった理由りゆうにより、たんに「博多はかた」という言葉ことばもちいた場合ばあい、その言葉ことばしめ範囲はんいには曖昧あいまいせい多義たぎせいがあり、ひとにより差異さいはあるものの、おおむ以下いかのような類型るいけいもちいられる。

博多はかた」の定義ていぎせま範囲はんいから列挙れっきょ
定義ていぎ/名称めいしょう 地図ちず 説明せつめい
博多はかたえき周辺しゅうへん 北緯ほくい3335ふん24.8びょう 東経とうけい13025ふん16.4びょう JR代表だいひょうえきかつ、福岡ふくおか地下鉄ちかてつ中心ちゅうしんえきであるどうえき周辺しゅうへんひろがるCBDおよび繁華はんかがい住所じゅうしょじょう博多駅中央街はかたえきちゅうおうがい博多駅前はかたえきまえ博多駅東はかたえきひがし博多駅南はかたえきみなみなど。

なお博多はかたえきは、1963ねん昭和しょうわ38ねん)に現在地げんざいちえき移転いてんする以前いぜんは、現在げんざい祇園ぎおんえき祇園ぎおん大通おおどおり)付近ふきんにあった。

博多はかた 博多はかた北西ほくせい博多はかたがわ那珂川なかがわ分流ぶんりゅう)と御笠川みかさがわはさまれた、旧来きゅうらい町人ちょうにんまち該当がいとうする地域ちいき博多はかたがわ対岸たいがん中洲なかす地区ちくふくめることもある[よう出典しゅってん]

南端なんたん時代じだいにより変遷へんせんするがおおむね1963ねん移転いてんまえ博多はかたえき現在げんざい祇園ぎおんえきふく駅前えきまえ:博多はかたきゅう市街しがいこう)、祇園ぎおん大通おおどおり)付近ふきんである。また、矢倉やぐらもん現在げんざい博多はかた警察けいさつしょ付近ふきんにあった。[5]

博多はかた周辺しゅうへん 博多はかたに、博多はかたえき周辺しゅうへんキャナルシティ博多はかた周辺しゅうへん博多はかた埠頭ふとうおよび中央ちゅうおう埠頭ふとう周辺しゅうへん御笠川みかさがわ対岸たいがん千代ちよ地区ちくなどをふくめた博多はかた区内くない地域ちいき[よう出典しゅってん]
博多はかた 地図ちず - Google マップ 福岡ふくおか行政ぎょうせいひと
博多湾はかたわん沿岸えんがん地域ちいき 黒田くろだ入国にゅうこく以前いぜんの、古代こだいから中世ちゅうせいにおける文献ぶんけんじょう参照さんしょうおおい。
福岡ふくおか 地図ちず - Google マップ
福岡ふくおか都市としけん 春日かすが大野城おおのじょう那珂川なかがわ志免しめまち新宮しんぐうまち糸島いとしまなど福岡ふくおかとその郊外こうがいふくめた呼称こしょう
 
狭義きょうぎ博多はかた地図ちず(2024ねん現在げんざい)(SVG形式けいしきのファイル
 
博多はかたがわ
 
中洲なかす地区ちく

広義こうぎ

ぞく日本にっぽん」において、博多はかたまちは「博多はかた大津おおつ」としょうされた。博多はかたにある大津おおつ、すなわち海上かいじょう貿易ぼうえき都市としである。そのため博多はかたとは、はねかたちをしたわんめんする干潟ひがた、すなわち那珂川なかがわ西側にしがわエリア(福岡ふくおか)をふくめた博多湾はかたわんきゅう沿岸えんがん全域ぜんいきしたものである。現代げんだいでも博多はかた福岡ふくおか別称べっしょうとしてもちいられることがおおく、福岡ふくおか場合ばあいには「博多はかたく」などと表現ひょうげんする場合ばあいがある。

狭義きょうぎ

狭義きょうぎとして、戦国せんごく時代じだいには自治じち都市とし江戸えど時代じだいには商人しょうにんまちとしてあつかわれた博多はかたきゅう市街しがい限定げんていして「博多はかた」とぶことがある。この限定げんてい定義ていぎでの地域ちいきは「博多はかた(はかたぶ)」と呼称こしょうされる。地理ちりてきには博多はかた北西ほくせい那珂川なかがわ博多はかたがわ)と御笠川みかさがわはさまれた区域くいきである。北西ほくせいはし明治めいじ海岸かいがんせんにほぼ相当そうとうするどお近辺きんぺん南東なんとうはしはかつて房州ぼうしゅうほり存在そんざいした国体こくたい道路どうろ近辺きんぺんとなる部分ぶぶんで、教育きょういく行政ぎょうせい区画くかくとしてぜん地域ちいき博多はかた小学校しょうがっこう博多はかた中学校ちゅうがっこう校区こうくふくまれる。地下鉄ちかてつ祇園ぎおんえき呉服ごふくまちえき中洲なかす川端かわばたえき櫛田くしたかみ社前やしろまええき一帯いったいのエリアに相当そうとうし、現在げんざい中心ちゅうしん地区ちくである博多はかたえき博多はかた博多駅中央街はかたえきちゅうおうがい周辺しゅうへんとは位置いちことなる。

また、これにさん笠川かさがわ右岸うがん千代ちよまちふくめた部分ぶぶんは、複数ふくすうまちからなる「ながれ(ながれ)」を構成こうせいして博多はかた祇園山ぎおんやまかさ博多はかたまつ囃子ばやしなどの伝統でんとう行事ぎょうじいでおり、博多はかた特徴付とくちょうづける文化ぶんかてき共同きょうどうたい形成けいせいしている[ちゅう 1]。この博多はかたたいして、那珂川なかがわ以西いせいきゅう城下町じょうかまち福岡ふくおか(ふくおかぶ)とし、この両者りょうしゃ総称そうしょうしてぶくはく(ふくはく)とぶことにより、博多はかた独自どくじせい配慮はいりょして福岡ふくおか中心ちゅうしん表現ひょうげんすることがある。

1871ねん廃藩置県はいはんちけん福岡ふくおかだいいち博多はかただいとなったあと、これをあわせただい一大いちだい福岡ふくおか1889ねん市政しせい執行しっこう福岡ふくおかとなった。博多はかた地名ちめい福岡ふくおか政令せいれい指定してい都市とし昇格しょうかくした1972ねんに「博多はかた」という行政ぎょうせいめいとして復活ふっかつしたが、その区域くいき旧来きゅうらい博多はかた狭義きょうぎ)から大幅おおはば拡張かくちょうされたものとなった。

NPO法人ほうじん博多はかたまちづくり協議きょうぎかいではとく注釈ちゅうしゃくなくこの狭義きょうぎの「博多はかた」(博多はかた)をもちいている。また、『博多はかたんもんのたましい』など大庭おおば宗一そういち著作ちょさくではこの狭義きょうぎ意味いみでしか「博多はかた」という言葉ことばもちいていない。いっぽう現代げんだいでは福岡ふくおかとその周辺しゅうへんにおいて、たんに「博多はかた」や「博多はかたにある」という表現ひょうげんもちいる場合ばあいは、都市とし機能きのう集積しゅうせきした博多はかたえき周辺しゅうへん中心ちゅうしんとした博多はかた限定げんていてき地域ちいき地名ちめい場合ばあいおおい。

歴史れきし

博多はかたは、日本にっぽん最古さいこみなとであり、古代こだいにおいては大宰府だざいふ外港がいこうとして機能きのうした。筑紫つくしかん(つくしのむろつみ)、迎賓げいひん施設しせつであるおおとり臚館(こうろかん)がかれた。中世ちゅうせいには商港しょうこうとしてさかえた。平安へいあん時代じだいから鎌倉かまくら時代じだいまでの地形ちけい現代げんだいおおきくことなっていた。ずい使遣唐使けんとうし派遣はけんされる以前いぜんから在地ざいちやつこくかん交流こうりゅうがあり、中国ちゅうごく日本にっぽん歴史れきしじょう文献ぶんけんえる大津おおつ記述きじゅつなどは、そのいにしえのふるさを物語ものがたる。三津みつづ七湊ななみなと筆頭ひっとうでもある。[5]

起源きげん古代こだい

ふるく「(なのつ)」「荒津あらつ(あらつ)」「なだ(なだつ)」「冷泉れいせん」「筑紫つくし大津おおつ」とばれていた博多湾はかたわんは、797ねんのべれき16ねん)の『ぞく日本にっぽん』において「博多はかた大津おおつ博多はかた)」としるされているのが見出みいだされる。「ハカタ」の語源ごげんは、「土地とちはく(ひろ)くひと物産ぶっさんおおし」という言葉ことばから「博多はかた」、大鳥おおとりはねひろげたような地形ちけいから「はねがた」、海外かいがいふね停泊ていはくするかたから「とまりかた」、づるはねちたとして「はねへん」(づるはか太宰府だざいふえのきしゃにある)、たおされた大樹たいじゅちたので「がた」などのせつがある。この当時とうじの「博多はかた」というのは現在げんざい博多湾はかたわんめんする一帯いったいすものであった。

大宰府だざいふ外港がいこうであった博多はかたには万葉集まんようしゅうにもまれた筑紫つくしかんという日本にっぽん最古さいこ外交がいこう施設しせつ存在そんざいした。そのおな場所ばしょおおとり臚館としてなおされ、おおとり臚館貿易ぼうえきおこなわれるとともに、ずい使遣唐使けんとうし経由けいゆとしておとずれていた(おおとり臚館は現在げんざい福岡ふくおかじょううち発掘はっくつ作業さぎょうおこなわれている)。757ねん天平てんぴょうたから元年がんねん)に櫛田くした神社じんじゃ創建そうけん806ねん大同だいどう元年がんねん)にとうより帰朝きちょうした空海くうかい博多はかた東長寺とうちょうじ建立こんりゅうしている。

藤原ふじわらじゅんともらんさいしては、朝廷ちょうていつい使つかい小野おの好古よしふる藤原ふじわらじゅんともとのあらそいで博多はかたまち焼失しょうしつする。このあらそいのまえ好古こうこ戦勝せんしょう祈願きがんにと櫛田くした神社じんじゃ盞鳴大神だいじん勧請かんじょうしたとされる。

にちそう貿易ぼうえき

おおとり臚館の衰退すいたいののち、博多はかたではきたそうみなみそう商人しょうにん住吉すみよし神社じんじゃ筥崎宮はこざきぐうなど寺院じいん神社じんじゃ荘園しょうえん領主りょうしゅらのわたし貿易ぼうえきによるにちそう貿易ぼうえき拠点きょてんとなった。1019ねん寛仁かんじん3ねん)のかたな入寇にゅうこう1151ねん仁平にだいら元年がんねん)の大宰府だざいふつい使つかいによる襲撃しゅうげきがあったもののにちそう貿易ぼうえきさかえ、近年きんねん発掘はっくつ調査ちょうさからそうぜに博多はかたでも流通りゅうつうしていたことが判明はんめいしている。

平安へいあん時代じだい末期まっきから、後世こうせいだいとうがい」とばれるそう国人くにびとがい筥崎宮はこざきぐう周辺しゅうへん形成けいせいされた。異国いこくふう建物たてものならび、多数たすう外国がいこくじん商人しょうにん国際こくさい都市としであった。そうじん船団せんだんんでさかんに往来おうらいし、博多はかたきょかまえ、寺社じしゃともむすいた。このようなそう商人しょうにんは「つなくび」(ごうしゅ、こうしゅ)としょうされる。1195ねんたてひさ6ねん)に帰朝きちょうした栄西えいさい博多はかたせいぶくてら開山かいさんしたのも、博多はかたつなくびしんぶつ両面りょうめん援助えんじょしたからであった。1241ねんじん2ねん)にそうより帰朝きちょうしたせいいち国師こくし円爾えんに弁円べんえん)のうけたまわてんてら開山かいさん博多はかたつなくび小呂島おろのしま地頭じとうしゃ国明くにあき援助えんじょしたことによる。この時期じきそうによりちゃ饂飩うどん蕎麦そば饅頭まんじゅう日本にっぽんにもたらされ、博多はかたはこれらの発祥はっしょうだというせつがある。

平清盛たいらのきよもりちち忠盛ただもりのちいで伊勢いせぎんなどを輸出ゆしゅつひんそうとの貿易ぼうえき活発かっぱつさせた。1158ねんもと3ねん)にだいおさむ大弐だいにとなったころ清盛きよもり博多はかた人工じんこうこうそでみなと」(そでのみなと)をひらいてにちそう貿易ぼうえき中継ちゅうけいとしたとかんがえられている[6]

博多はかたどんたく前身ぜんしんである博多はかたまつ囃子ばやしは、清盛きよもり重盛しげもり博多はかたまちにもたらした恩恵おんけいへの謝意しゃいしめしたのがはじまりとされ、また博多はかた祇園山ぎおんやまかさ円爾えんに疫病えきびょう流行りゅうこうする博多はかたまち甘露かんろすいきよまわった1241ねん起源きげんとしている。

ちなみに1222ねんさだおう元年がんねん)に人魚にんぎょ博多はかたうみながいたという記述きじゅつがあり、そのほねとされるものが龍宮りゅうぐうてら所蔵しょぞうされている[7]

もと寇 - 室町むろまち時代ときよ

もと襲来しゅうらいしたぶんながやく(1274ねん)によって博多はかたまち焼失しょうしつした。再来さいらい警戒けいかいして博多湾はかたわん沿岸えんがんにはもと防塁ぼうるいきずかれる。防塁ぼうるいきずかれたことから博多はかた別名べつめいとして「石城せきじょう」のまれる。もと寇ののち1293ねんえいひとし元年がんねん)に鎮西ちんぜい探題たんだい設置せっちされ(現在げんざい櫛田くした神社じんじゃちかく)、大宰府だざいふわって九州きゅうしゅう統治とうち中心ちゅうしんとなる。鎌倉かまくら時代じだい末期まっきには、全国ぜんこく主要しゅよう寺社じしゃ造営ぞうえい獲得かくとくするため、博多はかた商人しょうにん幕府ばくふ公認こうにんした、しばしばもととのあいだ交易こうえきせん往来おうらいさせた(寺社じしゃ造営ぞうえいりょう唐船とうせん)。

1333ねん元弘もとひろ3ねん)に後醍醐天皇ごだいごてんのう挙兵きょへいすると、菊池きくちたけしとき鎮西ちんぜい探題たんだい北条ほうじょう英時ひでときおそ博多はかたまちはらった。しょうさだけい大友おおとも貞宗さだむねによって駆逐くちくされるが、足利尊氏あしかがたかうじによって京都きょうとろく探題たんだい陥落かんらくしたことがつたわるとさだけい貞宗さだむねさらには島津しまつ宗久そうきゅうらは北条ほうじょう英時ひでときから離反りはん鎮西ちんぜい探題たんだいほろぼした。1336ねんたてたけし3ねん)、たてたけし新政しんせい離反りはんして九州きゅうしゅうびた足利尊氏あしかがたかうじしょうたよなお島津しまつ貞久さだひさ大友おおともやすしらとともに多々良たたらはまたたかにて菊池きくちやぶる。

足利あしかが義満よしみつ治世ちせい1371ねんおうやす4ねん)に管領かんりょう細川ほそかわよりゆきこれによって今川いまがわ貞世さだよ了俊りょうしゅん)が九州きゅうしゅう探題たんだい任命にんめいされ、なつけ親王しんのうひとし南朝なんちょう勢力せいりょく掃討そうとう御家人ごけにん守護しゅご被官ひかんつとめた。貞世さだよはまた対馬つしま壱岐いき松浦まつうら五島列島ごとうれっとう本拠地ほんきょちとしたやまとによって博多はかたられたであろうこう麗人れいじん捕虜ほりょあわれみ、帰国きこくさせている。さらに、あきらからのやまと討伐とうばつ要請ようせいなどをけ、大内おおうちとともにやまと寇を討伐とうばつし、幕府ばくふ日明ひあがり貿易ぼうえき勘合かんごう貿易ぼうえき開始かいしたずさわったが、讒言ざんげんにて失脚しっきゃくした。

貞世さだよつぎ九州きゅうしゅう探題たんだいとなった渋川しぶかわみつるよりゆきは、おうなが外寇がいこうさいして博多はかた商人しょうにんむねきんをして幕府ばくふとの連絡れんらくおこない、博多はかた商人しょうにん平方ひらかた吉久よしひさ外郎ういろう由来ゆらいであるちん宗敬むねよし)と妙楽寺みょうらくじ住職じゅうしょく涯亮倪を朝鮮ちょうせん派遣はけんし、朝鮮ちょうせん使者ししゃそうのぞみ璟が博多はかたおとずれたときはみずか接待せったいした。

足利あしかが義持よしもちは、わたし貿易ぼうえきおこなっていた大内おおうち義弘よしひろおうながらんったのち、安芸あき出身しゅっしんといわれる博多はかた商人しょうにんこえとみ小泉こいずみ)の進言しんげんけて1401ねんおうひさし8ねん)におもね正使せいしこえとみ副使ふくしとしてあかりだい1かいあかりせんしてもいる。

このころ博多はかた商人しょうにん日明ひあがり貿易ぼうえきにちちょう貿易ぼうえきのみならず、琉球りゅうきゅう経由けいゆして東南とうなんアジアとの貿易ぼうえきにもかかわり、なかでもみちやすという商人しょうにん琉球りゅうきゅう国王こくおう名代なだいとして貿易ぼうえきおこなった。あかりけた生糸きいと日本にっぽんで20ばい価値かちになり、ぎゃく日本にっぽんどうあかりで4~5ばい価値かちになったという。また銅銭どうせん輸入ゆにゅうし、日本にっぽんがたな硫黄いおうなどを輸出ゆしゅつし、博多はかた商人しょうにんきょまんとみていた。その様子ようすうみひがし諸国しょこくにも記載きさいされている。

渋川しぶかわみつるよりゆき九州きゅうしゅう探題たんだいしたのち、大友おおとも1429ねんえいとおる元年がんねん朝鮮ちょうせん使者ししゃつかわして博多はかた支配しはい宣言せんげんむねきんなど商人しょうにんたちは大友おおとも保護ほご貿易ぼうえきおこなう。当時とうじ博多はかたまちは、みなとがある北東ほくとういきはま」(おきのはま)に6000せいぶくてらうけたまわてんてら周辺しゅうへん南西なんせい内陸ないりく博多はかたはま」に4000あり、いきはま大友おおともが、博多はかたはましょうおさめていた。

日明ひあがり貿易ぼうえき再開さいかいした1432ねんえいとおる4ねん)、しょうよしみよりゆき家臣かしん三原みはら入道にゅうどう家人かじん秋月あきづきまんたね家臣かしん原田はらだたねたい家人かじん見物けんぶつていた博多はかた祇園山ぎおんやまかさの「やま」の会場かいじょうにて衝突しょうとつ三原みはらかた50にんあまり原田はらだかた20にんあまり死者ししゃした。翌年よくねんにはしょう家人かじん大内おおうち持世もちよ家人かじん博多はかた衝突しょうとつ。さらに翌年よくねんには大内おおうち家人かじんしょう家人かじん箱崎はこざきにて衝突しょうとつしている。このほかにも守護しゅご大名だいみょう同士どうし大身たいしんらは、筑前ちくぜんこく覇権はけん日明ひあがり貿易ぼうえき主導しゅどうけんをめぐってこうそう各地かくちこした。

1478ねん文明ぶんめい10ねん)、大内おおうち政弘まさひろしょう勢力せいりょく博多はかたから追放ついほう筑前ちくぜん豊前ぶぜんまでを勢力せいりょくき、博多はかたまち大内おおうち勢力せいりょく大友おおとも勢力せいりょく配下はいかとなる。

戦国せんごく時代じだい

応仁おうにんらんののちさかい足利あしかが将軍家しょうぐんけさん管領かんりょう細川ほそかわらの日明ひあがり貿易ぼうえき拠点きょてんとして台頭たいとうすると、博多はかた商人しょうにん大内おおうち利害りがい衝突しょうとつするようになる。そのもっともたるのが日明ひあがり貿易ぼうえきみなとやすしなみ大内おおうち義興よしおき一味いちみ細川ほそかわだかこく一味いちみあらそったやすしらん(1523ねん)である。こののち大内おおうち義隆よしたか1536ねん天文てんもん5ねん)にあかりせん再開さいかいする。義隆よしたかはまた博多はかた祇園山ぎおんやまかさやま12ほんのうち6ほん周防すおうこく山口やまぐちうつしたとわれている。1551ねん天文てんもん20ねん)に義隆よしたか家臣かしんとう晴賢はるかた謀反むほんわれ自害じがいしたのち、博多はかたまち大友おおとも宗麟そうりんにより統治とうちされる。宗麟そうりん1559ねんえいろく2ねん)に幕府ばくふから九州きゅうしゅう探題たんだい任命にんめいされてもいる。

だが同年どうねん大友おおとも宗麟そうりん反旗はんきひるがえした筑前ちくぜんこくしゅ筑紫つくしおもんみもんは、1559ねん4がつ12にち(えいろく2ねん2がつ25にち)にへい2,000で博多はかたまちはらって破壊はかいし、大友おおとも博多はかた代官だいかん殺害さつがいした[8][9][10]イエズスかい宣教師せんきょうしルイス・デ・アルメイダによれば、1570ねん3がつ上旬じょうじゅん(えいろく13ねん1がつ)の博多はかたまち森林しんりんのごとくに変貌へんぼうして20ほどしか居住きょじゅうしていなかったという[11]。このときおおくの商人しょうにん肥前ひぜんこく避難ひなんしており、神屋かみやそうじん唐津からつのがれていた。しかしその2カ月かげつにアルメイダがふたた博多はかた通過つうかしたときには20から3,500えて、ほどなく人口じんこう1まんにんたっするいきおいだったといい、1570ねんえいろく13ねん/もとかめ元年がんねん)の博多はかた急速きゅうそく復興ふっこうがうかがえる [12][13][14]

大友おおともは、博多はかたまち南東なんとうなが那珂川なかがわそそ比恵ひえがわ氾濫はんらんふせぐためだい規模きぼ治水ちすい工事こうじもとかめ天正てんしょう年間ねんかん家臣かしん臼杵うすき鎮続めいじておこなわせ、博多湾はかたわん直接ちょくせつながむようにした。いま石堂川いしどうがわ御笠川みかさがわ)である。そして比恵ひえがわあとほりとしててき来襲らいしゅうそなえた。臼杵きゅうしょ鎮続が安房あわもりであったことから房州ぼうしゅうほりばれる。房州ぼうしゅうほり江戸えど時代じだいには古屋ふるやほりともばれ、明治めいじはいって九州きゅうしゅう鉄道てつどう博多はかたえき現在げんざい祇園ぎおんえき付近ふきん)が建設けんせつされるまでのこっていた。ほりちかく、現在げんざい博多はかた警察けいさつしょ場所ばしょ矢倉やぐらてた。

大友おおとも時代じだい博多はかた九州きゅうしゅうもっと富裕ふゆうまちであったとわれる。有力ゆうりょく商人しょうにん中心ちゅうしんとして自治じちおこなわれていたとイエズスかいルイス・フロイスつたえている。博多はかたでは「年寄としより」とばれる役職やくしょく自治じち運営うんえいをしていたとかんがえられ、後年こうねん1597ねん慶長けいちょう2ねん)の資料しりょうにおいて「じゅうろくにん年寄としよりしゅ」とのこっている。また宣教師せんきょうしアルメイダは「博多はかたキリスト教きりすときょうれず日本一にっぽんいち布教ふきょうしづらい土地とちであった。その理由りゆう裕福ゆうふく贅沢ぜいたくまちだからである」とつたえている[15]フランシスコ・ザビエル平戸ひらどから京都きょうとおもむ途中とちゅう博多はかたにもっているが、男色なんしょくひどさに辟易へきえきとし足早あしばやっている[16]当時とうじ西欧せいおう文献ぶんけんにおいて博多はかたは「Facata」「Focata」「Facatta」と記載きさいされた[17]

博多はかた商人しょうにん戦国せんごく時代じだい活躍かつやくし、その一人ひとり神屋かみやそうじん祖父そふ寿ことぶきただし大内おおうち義隆よしたかちち義興よしおき支援しえん石見いわみ銀山ぎんざん開発かいはつする。また種子島たねがしま漂着ひょうちゃく(1543ねん)したあきらこくせん乗船じょうせんしていたあきら国人くにびとおうただし博多はかた商人しょうにん3にん貿易ぼうえき仲間なかまとしていた。この時期じき日明ひあがり貿易ぼうえきせん平戸ひらど長崎ながさき来航らいこうしているポルトガルせん・オランダせんなどに担保たんぽ買付かいつけようぎん融資ゆうしし、航海こうかい成功せいこうに3~11わりこう利子りしけて返済へんさいさせる「ほうぎん」(なげがね)というリスクたか商行為しょうこういがおこなわれており、かみをはじめ博多はかた商人しょうにんもこれによって多額たがく利益りえきた。

1578ねん12月20にち(天正てんしょう6ねん11月12にち)の耳川みみがわたたか大友おおとも島津しまつ大敗たいはいしたことが筑前ちくぜんこくつたわるとあいだもなく、博多はかた筑紫つくしひろもん秋月あきづき種実たねざね軍勢ぐんぜいによる掠奪りゃくだつき、1579ねん1がつ3にち(天正てんしょう6ねん11月26にち)にイエズスかい司祭しさい修道しゅうどう博多はかた脱出だっしゅつした[18]1580ねん天正てんしょう8ねん)には龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ筑前ちくぜんこく進撃しんげきし、博多はかたまちのほぼ全土ぜんど焼失しょうしつした[19]つづいて島津しまつ義久よしひさぐん復興ふっこうした博多はかた占領せんりょうするも1586ねん天正てんしょう14ねん)8がつ下旬げじゅん博多はかたはらって撤退てったいする。

1587ねん天正てんしょう15ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう征伐せいばつおこな島津しまつ降伏ごうぶくさせる。九州きゅうしゅう平定へいてい秀吉ひでよし筥崎宮はこざきぐう滞在たいざいし、千利休せんのりきゅう神屋かみやそうじんらをまねいて茶会ちゃかいひらく。同年どうねん6がつ10日とおか秀吉ひでよしは、平戸ひらどからコエリョとモンテイロが秀吉ひでよし謁見えっけんするためってフスタせんに、箱崎はこざきはまから乗船じょうせんして焦土しょうど博多はかたながめる。そしてすぐに博多はかた復興ふっこうかり、黒田くろだ如水じょすいをして住民じゅうみんもど役目やくめになわせた。そのには石田いしだ三成みつなり博多はかた奉行ぶぎょうにんじ、博多はかた商人しょうにんそうじんしま宗室そうしつにも協力きょうりょくをさせ、本格ほんかくてき復興ふっこうかった。湿地しっちて、いきはま博多はかたはまひとつのまちとし、最初さいしょ縄張なわばりをおこなった南北なんぼく街路がいろを「いち小路こうじ市小路いちしょうじ)」とし、まち袈裟けさななじょうになぞらえてなな小路こうじななすじ七堂しちどうなな厨子ずしななくちなな観音かんのんとし、なな小路こうじめんするまち々を「ながれ」(ながれ)という単位たんい集合しゅうごうさせた。この復興ふっこう事業じぎょうは「太閤たいこうまちり」とばれる。また荒廃こうはいした櫛田くした神社じんじゃ社殿しゃでん寄進きしんした。

秀吉ひでよし復興ふっこうとともに9かじょうからなる「じょう」(さだめ)を発布はっぷ問屋とんやきんじ、土地とち家屋かおくへの課税かぜい地子じし」や武士ぶしへの労役ろうえきしょやく」も免除めんじょし、博多はかた武士ぶしいえつことも禁止きんしされ、博多はかた廻船かいせん全国ぜんこく保護ほごし、喧嘩けんか両成敗りょうせいばいとした。楽市らくいち楽座らくざ政策せいさくである。これらは朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい見越みこして博多はかたまち兵站へいたん供給きょうきゅうとするためであったとされる。また、秀吉ひでよしはこの博多はかた滞在たいざいちゅう6月19にちバテレン追放ついほうれい発布はっぷしている。

ただし、秀吉ひでよし当初とうしょ復興ふっこう計画けいかくは、博多はかた九州きゅうしゅう統治とうちおよび将来しょうらい朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいのための政治せいじ軍事ぐんじ都市としとする予定よていであった。(当初とうしょ豊臣とよとみ政権せいけん奉行ぶぎょう筆頭ひっとうである治部じぶしょう石田いしだ三成みつなり筑前ちくぜん52まんせきあたえる予定よていであった。)このとしの5がつから6がつにかけて、豊臣とよとみ秀長ひでなが田中たなか吉政よしまさらにてた複数ふくすう書状しょじょうによれば、博多はかたしろ建設けんせつして秀吉ひでよし九州きゅうしゅうにおける居城きょじょうにするとともに大老たいろう一人ひとり小早川こばやかわ隆景たかかげ筑前ちくぜんあたえて留守居るすいやくねさせること、南蛮なんばん中国ちゅうごく高麗こうらい朝鮮ちょうせんとの貿易ぼうえき博多はかたいちこう限定げんていするわりに博多はかた中心ちゅうしんから寺院じいん神社じんじゃ排斥はいせきして郊外こうがい移転いてんさせ、市内しないにはイエズスかい教会きょうかい建設けんせつさせる構想こうそうがあったとされている[ちゅう 2]。ただし、そのわりに大村おおむらがイエズスかい寄進きしんした長崎ながさき返上へんじょう商船しょうせん博多はかた回航かいこう条件じょうけんとしたことから、イエズスかいがわ警戒けいかいつよめてこれを辞退じたい、これが全国ぜんこく支配しはいしゃたる秀吉ひでよしへの服従ふくじゅう看做みなされてバテレン追放ついほうれい一因いちいんになったとするせつがある。また、建設けんせつ予定よていであった博多はかた留守居るすいやく予定よていしていた小早川こばやかわ隆景たかかげもこれを辞退じたいしたため、結局けっきょく秀吉ひでよし新城しんじょう建設けんせつ寺社じしゃ排斥はいせき構想こうそう中止ちゅうしされて従来じゅうらいどおりの商業しょうぎょう都市としとしての復興ふっこう路線ろせん修正しゅうせい余儀よぎなくされた。

いずれにしろ搏多わん水深すいしんあさく、ナウせん・ガレオンせん停泊ていはく出来できなかったため、天然てんねん良港りょうこうである平戸ひらど長崎ながさきのようなポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスとの貿易ぼうえきこうになれなかった。秀吉ひでよしがポルトガルがわ通商つうしょう責任せきにんしゃドミンゴス・モンテイロにたいし、平戸ひらど口之津くちのつ長崎ながさきだけでなく、博多はかたにも入港にゅうこうするよういいわたすが、博多はかたみなと水深すいしんあささを理由りゆう拒絶きょぜつ(この直後ちょくごにバテレン追放ついほうれいされている)。博多港はかたこう大型おおがたせん停泊ていはく出来できるようになるのは平戸ひらど中村なかむらきよし七郎しちろうほどこしにより昭和しょうわになってからである[20]

江戸えど時代じだい

秀吉ひでよしにより豊臣とよとみ政権せいけん大老たいろう一人ひとりである小早川こばやかわ隆景たかかげ筑前ちくぜんこく領主りょうしゅになり、前述ぜんじゅつのように博多はかたではなくひがし名島なじましろきずいた。隆景たかかげのちいだ養子ようし秀秋ひであき関ヶ原せきがはらたたか勲功くんこうによって備前びぜん美作みさくうつりふうされ、わって黒田くろだ長政ながまさ筑前ちくぜんこくふうじられた。長政ながまさちち如水にょすいとともに博多はかたまち那珂川なかがわ対岸たいがんの、きゅう那珂なかぐん警固けいごむら福崎ふくざき福岡ふくおかじょう1601ねん慶長けいちょう6ねん)から建設けんせつ福岡ふくおかじょう万葉集まんようしゅうにも筑紫つくしかんおおとり臚館っていた場所ばしょでもある)。城下町じょうかまちととのえ、城北しろきたがわ唐津からつ街道かいどう沿いにはぜん封入ふうにゅう豊前ぶぜんこく中津なかつからしたがった商人しょうにん職人しょくにん居住きょじゅうさせた。「福岡ふくおか」の地名ちめい福崎ふくざきという地名ちめいおかしろてたことと、黒田くろだ備前びぜんこく邑久おくぐん福岡ふくおかむら現在げんざい岡山おかやまけん瀬戸内せとうち長船おさふねまち福岡ふくおか)にちなんだもので、長政ながまさうつりふうさい名付なづけたものである。

ここにおいて町人ちょうにんまち博多はかた城下町じょうかまち福岡ふくおかきょく都市としまれる。藩政はんせい時代じだいにおいてすでに「博多はかた」と「福岡ふくおか」は別個べっこかんがえられていた[ちゅう 3][ちゅう 4]

神屋かみやそうじんちゃをつうじて如水にょすい旧知きゅうちなかであった。またしま宗室そうしつ朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい反対はんたい秀吉ひでよしから蟄居ちっきょめいじられたが福岡ふくおかじょう築城ちくじょうさいして協力きょうりょくしていた。しかし長政ながまさ徳川とくがわ家康いえやすからたまわった暹羅しゃむ(シャム)貿易ぼうえき朱印しゅいんじょう商人しょうにん大賀おおがそうきゅうあたえ、はんわりに貿易ぼうえきおこなわせた。これはそうきゅう築城ちくじょうさいして多額たがく金銀きんぎん献上けんじょうしたからのみならず、だい商人しょうにんとして権威けんい秀吉ひでよし親交しんこうふかさんなりとも関係かんけいのあったそうじん宗室そうしつしん領主りょうしゅにとってはうとましかったためとかんがえられる。のちに「博多はかたさんすぐる」とわれるこの3商人しょうにんのうちそうじん宗室そうしつ凋落ちょうらくし、そうきゅうさかえた。そうきゅう貿易ぼうえきのほかほうぎんおこない、また出島でじま建設けんせつ資金しきん拠出きょしゅつして家主やぬしかぶ獲得かくとくしている。

2だい藩主はんしゅ黒田くろだ忠之ただゆきむねきゅうである大賀おおが宗伯そうはく伊藤いとう小左衛門こざえもん島原しまばららん兵站へいたんにんじた。また1633ねん寛永かんえい9ねん)に鎖国さこくれい発布はっぷされて14ねん1647ねん正保まさやす4ねん)にポルトガル国王こくおう使節しせつシケイラが長崎ながさき来航らいこう日本にっぽんとの通交つうこう再開さいかいもとめたとき、福岡ふくおかはん長崎ながさき警備けいびであった。忠之ただゆきふたた宗伯そうはく小左衛門こざえもん兵站へいたんにんじる。宗伯そうはく長崎ながさき伊奈いなたすくきょう住居じゅうきょめてこわし、ちの資材しざいをいちはや準備じゅんびした。

大賀おおが宗伯そうはくとともに御用ごよう商人しょうにんとして活躍かつやくした伊藤いとう小左衛門こざえもんはそののち1667ねん寛文ひろふみ7ねん)、朝鮮ちょうせんへの武器ぶき密輸みつゆ金元かねもと出資しゅっししゃ)であったことが発覚はっかく長崎ながさき奉行ぶぎょう判決はんけつにより一族いちぞく全員ぜんいん処刑しょけいされた。また博多はかた商人しょうにん長崎ながさき代官だいかんとなった末次すえつぐ平蔵へいぞうみつ貿易ぼうえきから1630ねん寛永かんえい7ねん)に江戸えどにて幽閉ゆうへいのうえ斬殺ざんさつされた。黒田くろだ忠之ただゆき時代じだい鎖国さこく時代じだい)に海外かいがい貿易ぼうえき生業せいぎょうとする博多はかた商人しょうにん活躍かつやく急速きゅうそく色褪いろあせていったが、わりに廻船かいせん中継ちゅうけいみなととしてさかえ、花街はなまち博多はかたやなぎまちなどはなやかな商人しょうにん文化ぶんかまれた。博多はかたまち秀吉ひでよしの「じょう」により武士ぶし居住きょじゅうきんじられ、江戸えど時代じだいになっても武士ぶし居住きょじゅうおこなわれなかった。博多はかたまちはんからつかわされた2人ふたり町奉行まちぶぎょう寺社じしゃ奉行ぶぎょう兼任けんにん)により管轄かんかつされた。奉行ぶぎょうしょ寛文ひろふみ年間ねんかんには博多はかたなか須崎すさきまち)にあったが、そののち博多はかたそとかれることとなる。それとはべつ博多はかたちゅう家格かかくたか知名ちめいらから12にんとし行司ぎょうじ輪番りんばん任命にんめいされ、運上うんじょうぎん徴収ちょうしゅう事件じけんとう町奉行まちぶぎょうへの報告ほうこくなどのにんいた。100ほどあったかく町内ちょうないからは年寄としより年寄としより助役じょやくが1にんずつが選任せんにんされ、まち収拾しゅうしゅうなど自治じち活動かつどう中心ちゅうしんった。また町内ちょうないの10~20けんを1くみとしぐみ頭取とうどり1にん選出せんしゅつされた。そして年寄としよりなかからながれごとにつき行司ぎょうじ1人ひとり選任せんにんされ(1-2かげつないし半年はんとしほどで交代こうたい)、りゅうないりまとめと博多はかた全体ぜんたいでの相談そうだんごとでのりゅう代表だいひょうにんたった。とし行司ぎょうじ徐々じょじょ減少げんしょうし、一時期いちじき2人ふたりにまでなった。

一時いちじてき途絶とだえていた博多はかたまつ囃子ばやし黒田くろだ忠之ただゆきいのちにより1642ねん寛永かんえい19ねん)に再開さいかいとなった。まつ囃子ばやしいちぎょう博多はかたから出発しゅっぱつし、城下町じょうかまち福岡ふくおかはいり、福岡ふくおかじょう藩主はんしゅ年始ねんし挨拶あいさつをすることとなる。博多はかた祇園山ぎおんやまかさ江戸えど時代じだいにも博多はかた町中まちなかおこなわれ、1687ねん貞享ていきょう4ねん)にやまはじまっている。

1732ねんとおる17ねん)のとおるだい飢饉ききんおりには博多はかたでもおおくの餓死がししゃた。中洲なかすいまでものこかつえじん地蔵じぞうみことは、飢饉ききんたおれた人々ひとびととむらったものである。

江戸えど時代じだい後期こうきにはせいぶくてらだい123せい住持じゅうじせん厓義梵(せんがいぎぼん)(1750ねん1837ねん)が活躍かつやくした。せん和尚おしょう水墨すいぼくえがいており、ぜん境地きょうち簡素かんそいたユーモアな戯画ぎがおおのこしている。

きん現代げんだい

時代じだい明治めいじとなり、1871ねん明治めいじ4ねん)に廃藩置県はいはんちけんによって福岡ふくおかはん福岡ふくおかけんとなる。1872ねん福岡ふくおかけんは32けられ、城下町じょうかまち福岡ふくおかだいいち町人ちょうにんまち博多はかただいとされた。そののち32は16さい編成へんせいされ、福岡ふくおかだい一大いちだい博多はかただいだいとなった。1876ねんには16は9再々さいさい編成へんせいされ、福岡ふくおか博多はかた統合とうごうしてだい一大いちだいとされた。1878ねんにはこおり町村ちょうそん編制へんせいほう施行しこうによってぶくはく福岡ふくおかとなった。

1889ねん4がつ1にち市制しせいおよ町村ちょうそんせい」の公布こうふにより博多はかた福岡ふくおかいて市制しせい施行しこうしようとするさいめいを「博多はかた」とするか「福岡ふくおか」とするか、博多はかた福岡ふくおかあいだだい論争ろんそうおこった。4月1にち時点じてんでの人口じんこう博多はかた25677にん福岡ふくおか20410にんひがし中洲なかすほかよん1530にんであった。「福岡ふくおか博多はかた分離ぶんり独立どくりつするべき」など極端きょくたん論調ろんちょうまですもののまとまらず、翌年よくねん3がつけんれいにより博多はかた福岡ふくおかをまとめて1つのとして発足ほっそくさせることとなり、めいを「福岡ふくおか」とすることになった。議場ぎじょうひがし中洲なかすの「共進きょうしん会館かいかん」にかれた。

福岡ふくおかとしての発足ほっそくのさいに仲裁ちゅうさいあんとして同年どうねん開通かいつうすることになった九州きゅうしゅう鉄道てつどう駅名えきめいを「博多はかたえき」とすることによってけん議論ぎろん決着けっちゃくはかろうとした。博多はかたえき立地りっち現在げんざい地下鉄ちかてつ祇園ぎおんえき付近ふきんであって博多はかたあたりえん位置いちした。福岡ふくおかさかい農耕のうこうだったため駅舎えきしゃ建設けんせつ容易よういであり、また小倉おぐら熊本くまもと方面ほうめん鉄道てつどうむすぶに好都合こうつごうであったとかんがえられる。しかし駅名えきめいによる決着けっちゃく納得なっとくのいかない博多はかたがわ議員ぎいんよく1890ねんめいを「博多はかた」と改名かいめいするあん提出ていしゅつ議員ぎいんすう博多はかたがわ17にん福岡ふくおかがわ13にん出席しゅっせき議員ぎいん博多はかたがわ15にん福岡ふくおかがわ12にん(うち1にん議長ぎちょう))であったが軟禁なんきんとう妨害ぼうがい工作こうさくもあってかひょうは13たい13の同数どうすうれ、きゅう福岡ふくおか藩士はんしであった不破ふわ国雄くにお議長ぎちょう議長ぎちょうせきりていち議員ぎいんとして投票とうひょうしたが、ふたたび13たい13となり、最終さいしゅうてきには不破ふわ国雄くにお議長ぎちょうわって議長ぎちょうせきいていた議長ぎちょう代理だいりしゃにより「変更へんこうせず」とされ否決ひけつされた[21]。よって市町村しちょうそん制度せいどにおいて「博多はかた」という存在そんざいしたことは過去かこにおいてもいちもない。その度々たびたびめい変更へんこう議論ぎろんこったものの、現在げんざいまでと(玄関げんかん意味いみ中心ちゅうしんとなる)えきとで名前なまえことなる状態じょうたいつづいている。またこの混乱こんらん当時とうじきゅう福岡ふくおか藩士はんし中心ちゅうしんだったげんようしゃ壮士そうしたちは「福岡ふくおか」を支持しじして反対はんたい工作こうさく展開てんかいした。

1896ねんには博多はかた電灯でんとう九州きゅうしゅう電灯でんとう鉄道てつどう)が発足ほっそく同社どうしゃひがし中洲なかす発電はつでんしょ建設けんせつして1898ねんより供給きょうきゅう開始かいししたことで、岩田屋いわたや呉服ごふくてん(のちの岩田屋いわたや)など博多はかた商店しょうてん電灯でんとうされた。また1898ねんにはおなじくひがし中洲なかす福岡ふくおか電話でんわ交換こうかんきょく設置せっちされた。1910ねんにはぶくはく電気でんき軌道きどう翌年よくねんには博多はかた電気でんき軌道きどう路面ろめん電車でんしゃ福岡ふくおか市内しない開業かいぎょうした(西鉄にしてつ福岡ふくおか市内しないせん)。

明治めいじ川上かわかみ音二郎おとじろう筆頭ひっとうに、博多はかた文化ぶんかまちとしておおくの人間にんげん輩出はいしゅつした。1934ねん昭和しょうわ9ねん)に開店かいてんした喫茶店きっさてん「ブラジレイロ」が文学ぶんがくサロンとなり、火野ひの葦平あしへい夢野ゆめの久作きゅうさく原田はらだ種夫たねおらがあしはこんだ。また1925ねん大正たいしょう14ねん)には当時とうじ福岡ふくおか市内しないはつ百貨店ひゃっかてんである福岡玉屋ふくおかたまや開業かいぎょうするなど商業しょうぎょうまちとしても急速きゅうそく発展はってんした。

太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっき1945ねん6月19にち福岡大ふくおかだい空襲くうしゅうにより博多はかた福岡ふくおか焼夷弾しょういだんにより被災ひさい。およそ2あいだ爆撃ばくげきにより焦土しょうどし、この空襲くうしゅうにより福岡ふくおか市内しない死者ししゃ902にん行方ゆくえ不明ふめいしゃ244にん負傷ふしょうしゃ1078にん被害ひがいした。博多はかたまち被害ひがい甚大じんだいで、同年どうねん博多はかた祇園山ぎおんやまかさ中止ちゅうしとなる。

1962ねん施行しこうされた住居じゅうきょ表示ひょうじかんする法律ほうりつにより1950年代ねんだい後半こうはん以降いこう福岡ふくおかでも順次じゅんじ住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっしされていったが、博多はかた旧来きゅうらいからの町名ちょうめい数多かずおおうしなわれる結果けっかとなった。このことは「町名まちみょうまちかい整理せいり」とばれ、博多はかた祇園山ぎおんやまかさ運営うんえいをおこなう「ながれ」や、りゅう構成こうせいするまち々に多大ただい混乱こんらんこした。その結果けっかりゅう再編さいへんがなされて現状げんじょうへといたる。また、町名ちょうめいかんしては町名ちょうめい統廃合とうはいごう実施じっししつつできるだけ単独たんどく町名ちょうめい採用さいようすることにして対処たいしょをすることとなった。その結果けっか御供所ごくしょまち祇園ぎおんまちなどにおいて本来ほんらいのエリアより範囲はんい拡大かくだいしたまち複数ふくすう誕生たんじょうした。

1963ねん博多はかたえき現在げんざい位置いちへと南東なんとうやく600mに移転いてんあわせてえき周辺しゅうへん地区ちく区画くかく整理せいり事業じぎょうおこなわれ、当時とうじ田畑たはたおおかった場所ばしょえきから放射状ほうしゃじょう街路がいろびるしん市街しがい形成けいせいされた。

明治めいじ行政ぎょうせいじょうから消失しょうしつした博多はかた地名ちめいは、福岡ふくおか政令市せいれいし昇格しょうかくした1972ねん4がつ1にちに「博多はかた」としてその名称めいしょう復活ふっかつさせた。これにともな博多はかたえき周辺しゅうへん地名ちめいが「福岡ふくおか博多はかた博多駅前はかたえきまえ」「博多駅東はかたえきひがし」「博多駅南はかたえきみなみ」となる。

地理ちりてき変遷へんせん

縄文じょうもんうみすすむ

現代げんだいからやく3000ねんまえ紀元前きげんぜん10世紀せいきころ縄文じょうもんうみすすむのピークがあり、博多湾はかたわん海岸かいがんせんは、つぎ中世ちゅうせいそでみなと形成けいせいべるよりも、さらにおおきく後退こうたいしており、これに現代げんだい福岡ふくおか主要しゅよう河川かせん樋井川ひいかわ那珂川なかがわ御笠川みかさがわむことと、縄文じょうもんうみしんピーク以降いこう現代げんだいまでの緩慢かんまんうみ退すさにより、縄文じょうもん海岸かいがんせんよりうみがわけて徐々じょじょ海浜かいひんすなによる砂礫されきそう形成けいせいされていった。中世ちゅうせいそでみなと形成けいせいは、「冷泉れいせん」や「草香江くさがえ」が現在げんざい市内しない中心ちゅうしんおおきく進出しんしゅつしていた時代じだいであるが、これは14世紀せいき1301ねん~)ごろはじまるしょうこおりによるややだい規模きぼうみ退すさ手前てまえ時期じきにあたる[22]

そでみなと

中世ちゅうせい博多はかたは、平安へいあん時代じだいの1161ねん平清盛たいらのきよもりにより日本にっぽんはつ人工じんこうこうそでみなと」が建設けんせつされたことによりはじまる。住吉すみよし神社じんじゃぞう博多はかたいにしえ」によると、当時とうじ博多はかたおおきく「草香江くさがえ」、「冷泉れいせん」、せいぶくてら櫛田くした神社じんじゃなどがある博多はかた中心ちゅうしんとそこからはしつながれた「おきはま」と出島でじまによりけられていた。当時とうじ比恵ひえがわ現在げんざい御笠川みかさがわ石堂川いしどうがわ)は西にしなが住吉すみよし神社じんじゃ北側きたがわうみそそいでおり、博多はかた中心ちゅうしんはそれよりきた部分ぶぶんにあった。

冷泉れいせん」は現代げんだい天神てんじん地区ちく中心ちゅうしんとして東西とうざい中洲なかす地区ちくから赤坂あかさか地区ちく周辺しゅうへんみなみ住吉すみよし神社じんじゃ手前てまえまでにおよび、この一帯いったい当時とうじすべうみそこであった。冷泉れいせん草香江くさがえ当時とうじ平尾ひらおむら中心ちゅうしんとするやや小高こだか丘陵きゅうりょう現在げんざい南公園みなみこうえんから西公園にしこうえんいた地域ちいき)によってへだてられ、「草香江くさがえ」もまた、現在げんざい草香江くさがえ六本松ろっぽんまつ地区ちく中心ちゅうしんとして、すべうみそこであった。平尾ひらおむら丘陵きゅうりょう北端ほくたんからは東方とうほうおきはま細長ほそなが砂嘴さしびており、これを「長浜ながはま」とんだ。

冷泉れいせん」にはみなみから那珂川なかがわひがしには比恵ひえがわんでおり、当時とうじ那珂川なかがわ河口かこう現在げんざい塩原しおばら地区ちく付近ふきんしまとして「箕島みのしま」(現在げんざい美野島みのしま地区ちく)があり、そのすぐきたへだてて、「冷泉れいせん」のほとりに住吉すみよし神社じんじゃ鎮座ちんざしていた。筥崎八幡宮はちまんぐうは、博多はかた中心ちゅうしんから東北とうほく方向ほうこう海岸かいがん沿いにあった。現在げんざい向野こうの地区ちく鎮座ちんざする石投いしなぎ地蔵じぞう当時とうじしおこげづかしおづか)」とばれていた[ちゅう 5]

鎌倉かまくら時代じだい以降いこう

 
寛永かんえいごろまでの福岡ふくおか博多はかた推定すいてい
 
博多南はかたみなみえんほり

福岡ふくおか博物館はくぶつかん所蔵しょぞう博多はかた古地こち(1550ねんごろ)によると、博多湾はかたわん海岸かいがんせんは、現在げんざい九州大学きゅうしゅうだいがく病院びょういん付近ふきんから博多はかた古門戸こもんどまち付近ふきんむす付近ふきんにあり、また、現在げんざい博多はかたがわより西側にしがわは、住吉すみよし小学校しょうがっこう付近ふきんまで海岸かいがんせんがっており、現在げんざい博多はかた中洲なかず中央ちゅうおう天神てんじん渡辺わたなべとおる付近ふきんうみであった。三笠みかさがわ現在げんざい御笠川みかさがわ石堂川いしどうがわ)は現在げんざい堅粕かたかす小学校しょうがっこう付近ふきんから西にしおおきくがり、現在げんざいのキャナルシティ付近ふきん那珂川なかがわそそいでいた。この部分ぶぶん当時とうじ比恵ひえがわばれていた[5]。なお、 2016ねん11月8にち地下鉄ちかてつななくません延伸えんしん工事こうじちゅう陥没かんぼつ事故じこ地点ちてん博多はかた駅前えきまえ2丁目ちょうめ交差点こうさてん付近ふきん)はかつての比恵ひえがわあとかさなる。

もとかめ天正てんしょう年間ねんかん大友おおとも宗麟そうりんいのちけた臼杵うすき鎮続によりだい規模きぼ治水ちすい工事こうじがおこなわれ、三笠みかさがわから博多湾はかたわん直接ちょくせつそそぐようにされた(現在げんざい石堂川いしどうがわ)。また比恵ひえがわ博多はかた防衛ぼうえいのためにほり築造ちくぞうし、房州ぼうしゅうほりとした。房州ぼうしゅうほりもん矢倉やぐらもんとし、直近ちょっきん出来できまちしょうとりできずく。[23]

このようにこの時代じだい博多はかたは、おおむね、古門戸こもんどまち付近ふきん海岸かいがんせん現在げんざい博多はかたがわ房州ぼうしゅうほりと、当時とうじ新造しんぞうされた、現在げんざい石堂川いしどうがわかこまれた地域ちいきであり、水郷すいごう都市としようていしていた。中世ちゅうせい初期しょきまでの博多はかた入江いりえなどによりさらに海岸かいがんせんへこんでおり、現在げんざい中洲なかす川端かわばたえき付近ふきん東西とうざいくびれた地形ちけいになっていた。そこからきた部分ぶぶんいきはまおきはま)、南側みなみがわ博多はかたはまんでいた。[5]

鎌倉かまくら時代じだいもと寇ののちおきはま現在げんざい蔵本くらもとまち付近ふきん)から現在げんざい古門戸こもんどまち付近ふきんまでの海岸かいがんせん沿いに防塁ぼうるいきずかれている。このころ、博多はかた海沿うみぞいにはうけたまわてんてらせいぶくてら櫛田くした神社じんじゃまんぎょうてら鎮座ちんざしており、文字通もじどお博多はかた中心ちゅうしんであった。[5]

前述ぜんじゅつ石堂川いしどうがわ築造ちくぞうにより房州ぼうしゅうほりきゅう比恵ひえがわ)の流量りゅうりょういちじるしくがり、きゅう比恵ひえがわ河口かこう中州なかす形成けいせいされ、これが現在げんざい中洲なかす地区ちくにあたる。

安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだいにかけては、豊臣とよとみ秀吉ひでよし太閤たいこうまちわりや、黒田くろだにより築造ちくぞうおこなわれた。中央ちゅうおう東西とうざいへこんだ入江いりえせばめられるとともに東西とうざい連結れんけつされて、博多はかただい水道すいどうばれるしょう運河うんがつくられた。

近代きんだいでは中洲なかすほか周辺しゅうへん地形ちけい前述ぜんじゅつうみ退すさ現象げんしょう海水かいすいじゅん変動へんどう)により形成けいせいもしくはてによりひろがり、房州ぼうしゅうほりはほぼ消失しょうしつ一部いちぶ暗渠あんきょされ[5]現在げんざい那珂川なかがわ博多はかたがわ御笠川みかさがわ石堂川いしどうがわ)をさかいとするほぼ連続れんぞくした地形ちけい形成けいせいされ、さらに北側きたがわ海岸かいがんせんがり、人工じんこう埠頭ふとう形成けいせいされて現在げんざい地形ちけいいたっている。

博多はかた」の用法ようほうなど

交通こうつう

博多はかた玄関げんかんこうえきは、新幹線しんかんせんふくぜん旅客りょかく列車れっしゃ停車駅ていしゃえきである博多はかたえきであり、どうえき福岡ふくおかおよび九州きゅうしゅう地方ちほう最大さいだいのターミナルでもある。一方いっぽう福岡ふくおかには「西鉄にしてつ福岡ふくおか天神てんじんえき」が存在そんざいする。なお、1935ねん以降いこうたんなる「福岡ふくおかえき」は福岡ふくおかけんには存在そんざいしていない[ちゅう 6]。なおに、「みなみ福岡ふくおかえき[ちゅう 7]や、「博多南はかたみなみえき[ちゅう 8]、「博多はかた総合そうごう車両しゃりょうしょ」などがある。

みなとめいは「博多港はかたこう」であり、明治めいじから昭和しょうわ初期しょきまでもちいられていた「福岡ふくおかこう」(現在げんざい福岡ふくおかせんため)の呼称こしょう博多はかた臨港りんこうせん貨物かもつえき福岡ふくおかみなとえき」(1985ねん廃止はいし)にのこすのみとなっていた。志賀島しかのしま糸島半島いとしまはんとうむすせんから内側うちがわわんめいは、国土こくど地理ちりいん定義ていぎでは西部せいぶいきを「福岡湾ふくおかわん」、東部とうぶいきを「博多湾はかたわん」とするが、一般いっぱんてきにはそうじて「博多湾はかたわん」とばれ、地図ちずによっては両者りょうしゃ併記へいきされる。

メディア

バラエティ番組ばんぐみのみならず報道ほうどう番組ばんぐみといったテレビ番組ばんぐみ全国ぜんこく雑誌ざっし記事きじ漫画まんがなどのマスメディアでは、しばしば曖昧あいまい定義ていぎで「博多はかた[ちゅう 9] という言葉ことば利用りようされ、ときには福岡ふくおかを「博多はかた」とあやまって紹介しょうかいすることすらある。

ターミナルえきでありけんとの玄関げんかんこうとなる博多はかたえきをはじめ、博多はかたどんたく博多はかた祇園山ぎおんやまかさ博多はかたラーメン博多はかた明太子めんたいこなど全国ぜんこくてきられた祭事さいじ土産みやげひん施設しせつなどに「博多はかた」という言葉ことばもちいられる。そのため、九州きゅうしゅうがいでの認知にんちとしては「福岡ふくおか」よりも「博多はかた」のほうたかことがままある。東京とうきょうえきでは博多はかたきの新幹線しんかんせん日常にちじょうてき発着はっちゃくすることもあってか、東日本ひがしにっぽん方面ほうめん福岡ふくおか方面ほうめん場合ばあい、「福岡ふくおかのほう」とうよりも「博多はかたのほう」とほうとおりがいのも否定ひていできない。全国ぜんこく活躍かつやくするタレント歌手かしゅみずからの出身しゅっしんかりやすく「博多はかた」とうこともその証左しょうさである。

福岡ふくおか出身しゅっしん漫画まんがうえやまとちさく漫画まんがクッキングパパ』では、天神てんじん百道ももじなどをふくめ、福岡ふくおか意味いみとしてそのだい部分ぶぶんを「博多はかた」と表現ひょうげんしている。しかし漫画まんが舞台ぶたい博多はかたでもなければ博多はかたでさえないひがし香椎かしいである。西尾にしお維新いしんさく小説しょうせつしん本格ほんかく魔法まほう少女しょうじょりすか』では冒頭ぼうとうに「博多はかた」の登場とうじょうするが、これは福岡ふくおかをモデルとした架空かくう都市としである。

特産とくさんひん

福岡ふくおかけんさんブランド農産物のうさんぶつ全国ぜんこく市場いちばけて出荷しゅっかされるさいマーケティング戦略せんりゃくとして「博多はかた」の知名度ちめいどにあやかったネーミングがなされている。そのれいとして、イチゴ博多はかたあまおう、博多はかたなす博多はかた万能ばんのうねぎ、はかたどり博多はかたはなあじとりなどがある。これら博多はかたブランド農産物のうさんぶつ生産せいさんには、熊本くまもとけん隣接りんせつするみやまや、大分おおいたけん隣接りんせつする豊前ぶぜんなどもふくまれる。

方言ほうげん

博多はかた中心ちゅうしんもちいられた方言ほうげん博多はかたべんである。江戸えど時代じだいまではぶくはくじゅうけが明確めいかくであり、中洲なかすえた那珂川なかがわ対岸たいがん福岡ふくおか福岡ふくおかじょう城下町じょうかまち)では福岡ふくおかじょうつとめの武士ぶしそう家族かぞく係累けいるいはなす「福岡ふくおかべん」(がっしゃい言葉ことば)がもちいられていたが、もともと話者わしゃ絶対ぜったいすうすくなかったうえ、平成へいせいはいると話者わしゃはほぼ消滅しょうめつし、一部いちぶ方言ほうげん研究けんきゅうによる文献ぶんけんのこるのみである。かくして明治めいじ以降いこう博多はかたべん博多はかた中心ちゅうしん福岡ふくおかとその周辺しゅうへんひろがった。

博多はかた」をかんするおも施設しせつ企業きぎょうとう

かならずしも博多はかたにあるものばかりではない。商業しょうぎょう施設しせつやホテルなどは博多はかたえき周辺しゅうへん集積しゅうせきしている。

商業しょうぎょう娯楽ごらく施設しせつ

 
博多はかたまち」ふるさとかん

スポーツ施設しせつ

学校がっこう

以上いじょう学校がっこうのうち博多はかたにあるものは博多はかた小学校しょうがっこう博多はかた中学校ちゅうがっこう博多はかた高等こうとう学園がくえんの3こうである。

宿泊しゅくはく施設しせつ

交通こうつう施設しせつ

公的こうてき施設しせつ公的こうてき機関きかん

団体だんたい

  • 博多はかた祇園山ぎおんやまかさ振興しんこうかい
  • 博多はかたまつ囃子ばやし振興しんこうかい
  • 博多はかたごりょんさん・女性じょせいかい
  • 博多はかた商人しょうにんじゅく
  • 博多はかたしょく文化ぶんかかい
  • 博多はかたまち人文じんぶん連盟れんめい
  • 博多はかた伝統でんとう芸能げいのう振興しんこうかい
  • 博多はかたふう
  • 博多はかた歴史れきし文化ぶんか寺社じしゃまちネット
  • はかたランド協議きょうぎかいひろしらんきょう
  • 博多はかたまちづくり

まつり・伝統でんとう芸能げいのう風習ふうしゅう

 
博多はかたまつ囃子ばやし博多はかたどんたく)
 
博多はかた祇園山ぎおんやまかさ

名産めいさんぶつ工芸こうげいひん

土産みやげ菓子かし

酒類しゅるい

当地とうちソング

漫画まんが小説しょうせつ文筆ぶんぴつ

人物じんぶつ

博多はかたはなまる大吉だいきち
吉本興業よしもとこうぎょう東京とうきょう本社ほんしゃへの移籍いせきわせて「鶴屋つるやはなまる亀屋かめや大吉だいきち」から現在げんざい芸名げいめい変更へんこう
博多はかた淡海たんかい (初代しょだい)
にわかきの大工だいく職人しょくにんからプロ役者やくしゃ転向てんこう一座いちざ淡海たんかい劇団げきだん」をひきい、博多はかたのみならず福岡ふくおかけん内外ないがいまわった。
博多はかた淡海たんかい (2代目だいめ)
初代しょだい博多はかた淡海たんかい藤山ふじやま寛美ひろみさそわれ松竹しょうちくしん喜劇きげき入団にゅうだんがりばあさんのやく人気にんきはくす。
木村きむらすすむ(3代目だいめ博多はかた淡海たんかい
2代目だいめ博多はかた淡海たんかい吉本よしもとしん喜劇きげき座長ざちょうとなる。
HKT48
HAKATA48の略称りゃくしょうで、福岡ふくおか拠点きょてん活動かつどうするAKB48グループである。かつて中央ちゅうおう地行浜じぎょうはまホークスタウンうち専用せんよう劇場げきじょうっていた。専用せんよう劇場げきじょううしなっていた時代じだいは、中央ちゅうおう天神てんじん西鉄にしてつホール博多はかたせんだいのパピヨン24ガスホール、中央ちゅうおう渡辺通わたなべどおりのスカラエスパシオを拠点きょてん活動かつどうしていたが、現在げんざいはE-ZO FUKUOKAにある西日本にしにほんシティ銀行ぎんこうHKT48劇場げきじょう拠点きょてんつづ活動かつどうちゅう

検定けんてい

唱歌しょうか

1900ねん明治めいじ33ねん)に大和田おおわだ建樹たけき作詞さくしした『鉄道てつどう唱歌しょうかだい2しゅう山陽さんよう九州きゅうしゅうへんでは、博多はかた福岡ふくおか合併がっぺいからまもない時期じきであり、作者さくしゃ誤解ごかいもあって、以下いかのように「博多はかた」と「福岡ふくおか」を混同こんどうしてこの地域ちいきうたった。

40.織物おりもの産地さんちられたる 博多はかた黒田くろだしろのあと かわをへだてて福岡ふくおかの まちもまぢかくつづきたり

そのほか

ぶくはく」をかんする事物じぶつ

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ 中洲なかすりゅう千代ちよりゅうは、(博多はかた区内くないではあるが)狭義きょうぎの「博多はかた」のそとへ、だい大戦たいせん新設しんせつされたりゅうである。
  2. ^ 寺社じしゃ排斥はいせきについては、ルイス・フロイスの『日本にっぽん』にしか記述きじゅつがないものの、『日本にっぽん』に記述きじゅつされている博多はかたにおける秀吉ひでよし動向どうこうかんするほか記事きじについては、史料しりょうによって確認かくにんできるために、その信憑しんぴょうせいたかいとかんがえられている。
  3. ^ 福岡ふくおかはん儒学じゅがくしゃ貝原かいばら益軒えきけんの『筑前ちくぜんこくぞく風土記ふどき』は1かん・2かんの「提要ていよう」ののち、3かんを「福岡ふくおか」に、4かんを「博多はかた」にてており、また元禄げんろく3ねん(1690ねん)の住民じゅうみんすう福岡ふくおか15009にん博多はかた19468にん別々べつべつ記載きさいしている。福岡ふくおかはん筆頭ひっとう家老がろういえつたわる文化ぶんか9ねん(1812ねんせい地図ちずには、福岡ふくおか武士ぶしたく838けん町人ちょうにんたく1629けん)と博多はかた町人ちょうにんたく3395けん)の戸数こすう区分くぶんされ記載きさいされている。
  4. ^ 江戸えど時代じだい後期こうきかれたとされる『佐藤さとうもとうみ九州きゅうしゅう紀行きこう』には「都下とか福岡ふくおか)もとみにょうゆ。博多はかたとは、僅なるはしへだてたるまちつづけにて、りょうごうすれば、まんあまりゆうべし。」とあり、文政ぶんせい10ねん(1827ねん)にかれた紀行きこうぶんかんしも』には「中川なかがわとて大河たいがあり。大橋おおはしツあり。中川なかがわきょううん。これをわたり、見附みつけもんあり。これより福岡ふくおかなり。」ともあり、そとからの旅行りょこうしゃも「博多はかた」と「福岡ふくおか」を別個べっことらえていたことがうかがえる。
  5. ^ 石投いしなぎ地蔵じぞう由来ゆらいに、「筑前ちくぜん風土記ふどきしおづか記録きろくされる、ふる歴史れきしつものである」としるされている。
  6. ^ なお西鉄にしてつ天神てんじん大牟田線おおむたせん前身ぜんしんとなる九州きゅうしゅう鉄道てつどう大牟田線おおむたせん福岡ふくおか - 久留米くるめ)の開業かいぎょう1924ねん大正たいしょう13ねん)であり、それまで福岡ふくおかとの都市としあいだ鉄道てつどう窓口まどぐち博多はかたえきだけであった。
  7. ^ 福岡ふくおか博多はかた南端なんたんにあるJR九州きゅうしゅうえき
  8. ^ 春日かすが那珂川なかがわとの境界きょうかい部分ぶぶん)にある、JR西日本にしにほん博多南線はかたみなみせんえき
  9. ^ 1989ねんわらっていいとも!が福岡ふくおか市内しないイムズホール(天神てんじん立地りっち)で公開こうかい生放送なまほうそうをしたときにタモリは博多はかたからと表現ひょうげんした。(なお、タモリは地元じもと福岡ふくおか出身しゅっしんである。)

出典しゅってん

  1. ^ 博多はかたきゅう市街しがい”. 博多はかたまちあるきマップ. 2023ねん12月21にち閲覧えつらん
  2. ^ 博多はかたきゅう市街しがいセレクション”. 福岡ふくおか博多はかた観光かんこう情報じょうほう満載まんさい福岡ふくおか観光かんこう情報じょうほうサイト よかなび. 2023ねん12月21にち閲覧えつらん
  3. ^ 高田たかだ(2017), p. 50.
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  9. ^ 『イエズスかい 日本にっぽん通信つうしん じょう (しん異国いこく叢書そうしょ 1)』 181~182ぺーじ、190ぺーじ (昭和しょうわ43ねん1968ねん12月10にち発行はっこう 訳者やくしゃ村上むらかみ直次郎なおじろう 編輯へんしゅうしゃ柳谷やなぎや武夫たけお 発行はっこうしょ雄松おまつどう出版しゅっぱん
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  11. ^ 1559ねん4がつ(えいろく2ねん2がつ)の筑紫つくしおもんみもん博多はかた焼討やきうちによる。 『イエズスかい 日本にっぽん通信つうしん  (しん異国いこく叢書そうしょ 2)』(昭和しょうわ44ねん(1969ねん発行はっこう 発行はっこうしょ雄松おまつどう出版しゅっぱん) 230~232ぺーじ、241ぺーじ、265ぺーじ、276ぺーじ
  12. ^ 『イエズスかい 日本にっぽん通信つうしん  (しん異国いこく叢書そうしょ 2)』(昭和しょうわ44ねん(1969ねん発行はっこう 発行はっこうしょ雄松おまつどう出版しゅっぱん) 230~232ぺーじ、241ぺーじ、265ぺーじ、276ぺーじ
    • 1571ねん2がつ14にち(もとかめ2ねん1がつ10日とおか)づけガスパル・ヴィレラ手紙てがみは、博多はかたむかしさかえていたが、てき完全かんぜんはらわれて破壊はかいされ、2ねんまえから復興ふっこうはじまったとく。
    • 1571ねん10月2にち(もとかめ2ねん9月4にち)づけフランシスコ・カブラル手紙てがみは、むかし博多はかたには1まんあったが、じゅうねんまえ戦争せんそう完全かんぜん破壊はかいされてはらわれた。博多はかたは1ねんまえから復興ふっこうはじまり、いまでは3,000あるとく。
  13. ^ 1570ねん1がつ7にち(えいろく12ねん11月21にち)に毛利もうり立花たちばな山城やましろ守将しゅしょう乃美のみ宗勝むねかつしろ大友おおともわたして撤兵てっぺいした。 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション『史料しりょう綜覧そうらん まきじゅう』729ぺーじ昭和しょうわ13ねん1938ねん9月15にち発行はっこう 編纂へんさんしゃ東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく文學部ぶんがくぶ史料しりょう編纂へんさんしょ 発行はっこうしょ財団ざいだん法人ほうじん内閣ないかく印刷いんさつきょく朝陽あさひかい)
  14. ^ 1570ねん1がつ29にち(えいろく12ねん12月13にち)に龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ大友おおとも宗麟そうりん和睦わぼくむすんだ。 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション『史料しりょう綜覧そうらん まきじゅう』730ぺーじ
  15. ^ 『イエズスかい 日本にっぽん通信つうしん  (しん異国いこく叢書そうしょ 2)』(昭和しょうわ44ねん(1969ねん)2がつ10日とおか発行はっこう 訳者やくしゃ村上むらかみ直次郎なおじろう 編輯へんしゅうしゃ柳谷やなぎや武夫たけお 発行はっこうしょ雄松おまつどう出版しゅっぱん) 422ぺーじ
  16. ^ フランシスコ・ザビエルは平戸ひらどより山口やまぐちいた途中とちゅう天文てんもん19ねん9月下旬げじゅんグレゴリオれき1550ねん11月中旬ちゅうじゅん)に、博多はかたにある巨大きょだいぜんそう寺院じいん訪問ほうもんした。 『フロイス日本にっぽん 6 豊後ぶんごへん1』50ぺーじ~59ぺーじ (昭和しょうわ53ねん(1978ねん)8がつ20日はつか発行はっこう 訳者やくしゃ松田まつだ毅一きいち川崎かわさきももふとし 発行はっこうしょ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  17. ^ 内容ないようてきにFacataはTacataのあやまりで、博多はかたではなく豊後高田ぶんごたかだだとおもわれる箇所かしょもある。 『イエズスかい 日本にっぽん通信つうしん  (しん異国いこく叢書そうしょ 2)』(昭和しょうわ44ねん(1969ねん)2がつ10日とおか発行はっこう 訳者やくしゃ村上むらかみ直次郎なおじろう 編輯へんしゅうしゃ柳谷やなぎや武夫たけお 発行はっこうしょ雄松おまつどう出版しゅっぱん) 316ぺーじ
  18. ^ 『フロイス日本にっぽん 10 西にし九州きゅうしゅうへん2』84ぺーじ~95ぺーじ昭和しょうわ54ねん1979ねん9がつ20日はつか発行はっこう 訳者やくしゃ松田まつだ毅一きいち川崎かわさきももふとし 発行はっこうしょ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  19. ^ この兵火へいか博多はかた在家ありいえ1まんけ、博多はかたまち痕跡こんせきすらめぬ有様ありさまになった。『フロイス日本にっぽん 10 西にし九州きゅうしゅうへん2』178ぺーじ、182ぺーじ (昭和しょうわ54ねん1979ねん9がつ20日はつか発行はっこう 訳者やくしゃ松田まつだ毅一きいち川崎かわさきももふとし 発行はっこうしょ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高田たかだぬきふとしうみこうから倭国わのくに講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2017ねん

外部がいぶリンク