毛沢東 もうたくとう 思想 しそう (もうたくとうしそう、簡体字 かんたいじ 中国語 ちゅうごくご : 毛 もう 泽东思想 しそう 、繁体字 はんたいじ 中国語 ちゅうごくご : 毛澤東 もうたくとう 思想 しそう 、拼音 : Máo Zédōng Sīxiǎng )また毛沢東 もうたくとう 型 がた 社会 しゃかい 主義 しゅぎ (もうたくとうがたしゃかいしゅぎ)は、中国 ちゅうごく におけるマルクス・レーニン主義 しゅぎ を理論 りろん 基礎 きそ とした社会 しゃかい 主義 しゅぎ 制度 せいど の導入 どうにゅう に関 かん する思想 しそう [ 1] [ 2] 。
政治 せいじ の他 ほか に映画 えいが や絵画 かいが など様々 さまざま な分野 ぶんや においても世界 せかい 的 てき に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 初代 しょだい の主席 しゅせき である毛沢東 もうたくとう は、この理論 りろん を中心 ちゅうしん に中国 ちゅうごく 独自 どくじ な共産 きょうさん 主義 しゅぎ 理論 りろん や文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい を展開 てんかい し、1982年 ねん で作成 さくせい された現行 げんこう の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 憲法 けんぽう にもこの毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を全 ぜん 中国人 ちゅうごくじん が習 なら うべきものだとして明記 めいき している[ 3] 。
毛沢東 もうたくとう 思想 しそう は統一 とういつ 的 てき な定義 ていぎ を持 も たず、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう は与論 よろん 環境 かんきょう や敵国 てきこく の対 たい 中 ちゅう 感情 かんじょう を応 おう じて、その定義 ていぎ を細 こま かく調整 ちょうせい していく。
1940年代 ねんだい の毛沢東 もうたくとう 思想 しそう は一般 いっぱん 的 てき なマルクス主義 まるくすしゅぎ やマルクス・レーニン主義 しゅぎ からは発展 はってん した理論 りろん と看做 みな されていたが、1960年代 ねんだい の毛沢東 もうたくとう 思想 しそう は文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい により従来 じゅうらい の左翼 さよく 理論 りろん と区別 くべつ 化 か された。毛沢東 もうたくとう 思想 しそう の初期 しょき の内容 ないよう は、人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん 、3つの世界 せかい 論 ろん などがある。
1945年 ねん 以降 いこう の中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 規約 きやく では「マルクス・レーニン主義 しゅぎ の中国 ちゅうごく における運用 うんよう と発展 はってん 」とされ、「マルクス・レーニン主義 しゅぎ 」などと並 なら ぶ「行動 こうどう 指針 ししん 」と位置 いち づけられた[ 3] [ 4] 。
特 とく に1950年代 ねんだい から1960年代 ねんだい の中 ちゅう ソ対立 たいりつ や文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい の時期 じき に、「中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 特有 とくゆう の理論 りろん 」として強調 きょうちょう され、外国 がいこく でも広 ひろ く毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ 、マオイズム (英語 えいご : Maoism )と呼 よ んだ。その信奉 しんぽう 者 しゃ は毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ 者 しゃ およびマオイスト と呼 よ ばれた。しかし中国 ちゅうごく 国内 こくない では紅衛兵 こうえいへい ・造反 ぞうはん 派 は の一部 いちぶ を除 のぞ いて、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう は文革 ぶんかく 期 き を含 ふく めて一貫 いっかん して毛沢東 もうたくとう 思想 しそう であり、毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ と呼 よ んだことは無 な い。
半 はん 民 みん 半 はん 兵 へい のゲリラ戦争 せんそう 、解放 かいほう 区 く (根拠地 こんきょち )の建設 けんせつ 、核 かく 武装 ぶそう 、有事 ゆうじ を想定 そうてい して政策 せいさく を行 おこな うなど、長期 ちょうき 戦略 せんりゃく に基 もと づく軍事 ぐんじ 力 りょく の増強 ぞうきょう を最 さい 優先 ゆうせん 課題 かだい とする。政治 せいじ 思想 しそう というより、軍事 ぐんじ 理論 りろん とされる場合 ばあい も多 おお い。
中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう は1945年 ねん 4月 がつ 23日 にち から6月11日 にち にかけて開催 かいさい された第 だい 7回 かい 党 とう 大会 たいかい において、党 とう 規約 きやく に「中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう はマルクス・レーニン主義 しゅぎ の理念 りねん と中国 ちゅうごく 革命 かくめい の実践 じっせん を統一 とういつ した思想 しそう 、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を自 みずか らの全 すべ ての指針 ししん とする」との記述 きじゅつ を加 くわ えた。ここでいう毛沢東 もうたくとう 思想 しそう とは、理念 りねん としてはカール・マルクス とウラジーミル・レーニン が確立 かくりつ した共産 きょうさん 主義 しゅぎ を指針 ししん としながら、それを古代 こだい 中国 ちゅうごく の新 しん 石器 せっき 革命 かくめい から農耕 のうこう 社会 しゃかい であった中国 ちゅうごく の実情 じつじょう に適応 てきおう させた、農民 のうみん 中心 ちゅうしん の革命 かくめい 方式 ほうしき を指 さ しているとされている。
毛沢東 もうたくとう の思想 しそう は、毛沢東 もうたくとう が若 わか い頃 ころ から親 した しんだ農耕 のうこう 社会 しゃかい の観察 かんさつ や経験 けいけん から導 みちび き出 だ された中国 ちゅうごく 発展 はってん のためのアイディアを含 ふく んでおり、その大綱 たいこう として大公 たいこう 無私 むし (個人 こじん の利益 りえき より公共 こうきょう の福祉 ふくし を優先 ゆうせん する)、大衆 たいしゅう 路線 ろせん (農村 のうそん 大衆 たいしゅう の意見 いけん に政治 せいじ 的 てき 指針 ししん を求 もと めそれを理解 りかい させて共 とも に行動 こうどう する)、実事 じつごと 求 もとめ 是 ぜ (現実 げんじつ から学 まな んで理論 りろん を立 た てる)などがある。この他 ほか 、社会 しゃかい と協調 きょうちょう できる個人 こじん 主義 しゅぎ 、大 だい 人数 にんずう の協力 きょうりょく 、農村 のうそん から蜂起 ほうき して都市 とし を囲 かこ いこんでいくゲリラ戦術 せんじゅつ 理論 りろん (人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん )、世界 せかい 各国 かっこく が各自 かくじ の特性 とくせい に応 おう じた革命 かくめい を行 おこな うことによって第 だい 三 さん 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を防 ふせ ぐことができるとする「中間 なかま 地帯 ちたい 論 ろん 」なども毛沢東 もうたくとう 思想 しそう に含 ふく められる場合 ばあい がある。
毛沢東 もうたくとう の農民 のうみん 重視 じゅうし の姿勢 しせい には、本来 ほんらい のマルクス主義 まるくすしゅぎ の唯物 ゆいぶつ 史観 しかん による「社会 しゃかい 主義 しゅぎ 革命 かくめい は発達 はったつ した資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい で発生 はっせい する」との理論 りろん に対 たい して、ロシア革命 かくめい 時 どき のロシア 以上 いじょう に資本 しほん 主義 しゅぎ が未 み 発達 はったつ で農業 のうぎょう 中心 ちゅうしん 社会 しゃかい であった中国 ちゅうごく の実情 じつじょう に対 たい して、マルクス・レーニン主義 しゅぎ を適用 てきよう する必要 ひつよう 性 せい があった。また農村 のうそん 社会 しゃかい にも特有 とくゆう の一揆 いっき 的 てき な暴力 ぼうりょく の肯定 こうてい 、知識 ちしき 階級 かいきゅう に対 たい する反 たん エリート主義 しゅぎ (反 はん 知性 ちせい 主義 しゅぎ )などが挙 あ げられる。またソビエト連邦 れんぽう 型 かた との相違 そうい には、新 しん 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 論 ろん による人民 じんみん 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ や、3つの世界 せかい 論 ろん による世界 せかい 認識 にんしき と外交 がいこう 政策 せいさく などがある。
毛沢東 もうたくとう 思想 しそう は毛沢東 もうたくとう の著作 ちょさく 、発言 はつげん 、実践 じっせん などの総称 そうしょう であり、必 かなら ずしも体系 たいけい 的 てき に理論 りろん 化 か され矛盾 むじゅん なく整理 せいり されたものではない。簡易 かんい な参照 さんしょう には毛 もう 主席 しゅせき 語録 ごろく も使用 しよう された。
毛沢東 もうたくとう 思想 しそう は、1950年代 ねんだい 以降 いこう の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政策 せいさく 推進 すいしん 、1957年 ねん からの反 はん 右派 うは 闘争 とうそう 、1960年代 ねんだい 以降 いこう に激化 げきか した中 ちゅう ソ対立 たいりつ 、更 さら に1966年 ねん に発動 はつどう された文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい などで特 とく に強調 きょうちょう され、毛沢東 もうたくとう の個人 こじん 崇拝 すうはい や、政敵 せいてき の打倒 だとう 、国外 こくがい の各国 かっこく 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく への干渉 かんしょう にも広 ひろ く使用 しよう された。
毛沢東 もうたくとう 死後 しご の中国 ちゅうごく での評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
毛沢東 もうたくとう の死後 しご 、その思想 しそう をめぐる評価 ひょうか は微妙 びみょう に揺 ゆ れ動 うご いた。毛沢東 もうたくとう のもとで中国 ちゅうごく は経済 けいざい 的 てき には貧 まず しい農業 のうぎょう 国 こく のまま停滞 ていたい しながらも第 だい 三 さん 世界 せかい では初 はつ の核 かく 武装 ぶそう に成功 せいこう して軍事 ぐんじ 的 てき に五 ご 大国 たいこく となり、国際 こくさい 連合 れんごう から台湾 たいわん を追放 ついほう してイギリス ・フランス ・日本 にっぽん ・アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく など西側 にしがわ 諸国 しょこく との外交 がいこう 関係 かんけい も築 きず いて国際 こくさい 社会 しゃかい では無視 むし できない地位 ちい を手 て にした。毛沢東 もうたくとう は香港 ほんこん とマカオ を除 のぞ く中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に覇 は を唱 とな えるも、武力 ぶりょく で制覇 せいは した覇道 はどう 的 てき で覇権 はけん 主義 しゅぎ 的 てき なその手法 しゅほう は後 のち に西側 にしがわ から批判 ひはん された。
毛沢東 もうたくとう の死後 しご 、その後継 こうけい 者 しゃ を自称 じしょう した華国鋒 かこくほう の唱 とな えた「二 ふた つのすべて (两个凡是)」は、毛沢東 もうたくとう 自身 じしん が唱 とな えた「実事 じつごと 求 もとめ 是 ぜ 」を持 も ち出 だ して対抗 たいこう した鄧小平 ひらた により批判 ひはん され、華国鋒 かこくほう が失権 しっけん すると、鄧小平 たいら は彼 かれ 自身 じしん の解釈 かいしゃく に基 もと づく「実事 じつごと 求 もとめ 是 ぜ 」を中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の指導 しどう 方針 ほうしん として実権 じっけん を掌握 しょうあく した。鄧小平 たいら は改革 かいかく 開放 かいほう で経済 けいざい 発展 はってん を進 すす め、台湾 たいわん と対話 たいわ を試 こころ み、毛沢東 もうたくとう がチベット侵攻 しんこう と新 しん 疆侵攻 しんこう で編入 へんにゅう したチベット やウイグル とは対照 たいしょう 的 てき に、香港 ほんこん とマカオを一 いち 国 こく 二 に 制度 せいど に基 もと づく高度 こうど な自治 じち を認 みと めた上 うえ で平和 へいわ 裏 うら に編入 へんにゅう することで当事 とうじ 国 こく と合意 ごうい した。
1981年 ねん 6月の第 だい 11期 き 6中 ちゅう 全会 ぜんかい で採択 さいたく された『建国 けんこく 以来 いらい の党 とう の若干 じゃっかん の歴史 れきし 問題 もんだい についての決議 けつぎ 』(歴史 れきし 決議 けつぎ )では、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を「毛沢東 もうたくとう 同志 どうし を主要 しゅよう な代表 だいひょう とする中国 ちゅうごく の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ が、マルクス・レーニン主義 しゅぎ の基本 きほん 的 てき 原理 げんり に基 もと づき、中国 ちゅうごく 革命 かくめい の実践 じっせん 経験 けいけん を理論 りろん 的 てき に総括 そうかつ してつくりあげた、中国 ちゅうごく の実情 じつじょう に適 てき した科学 かがく 的 てき な指導 しどう 思想 しそう 」と定義 ていぎ している。その一方 いっぽう で、この決議 けつぎ は、毛沢東 もうたくとう が文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい で提起 ていき した論点 ろんてん は「毛沢東 もうたくとう 思想 しそう の軌道 きどう から明 あき らかに逸脱 いつだつ したもので、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう と完全 かんぜん に区別 くべつ しなければならない」とし、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を毛沢東 もうたくとう 個人 こじん の思想 しそう とは区別 くべつ している。この決議 けつぎ では、「実事 じつごと 求 もとめ 是 ぜ 」「大衆 たいしゅう 路線 ろせん 」「独立 どくりつ 自主 じしゅ 」が毛沢東 もうたくとう 思想 しそう の真髄 しんずい とされている。また、この決議 けつぎ と前後 ぜんご して、周 しゅう 恩来 おんらい 、劉少奇 りゅうしょうき 、朱 しゅ 徳 いさお ら、毛沢東 もうたくとう と同 どう 時期 じき の他 ほか の指導 しどう 者 しゃ たちの思想 しそう も、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう の一部 いちぶ と解釈 かいしゃく されるようになってきている。鄧小平 たいら は「マルクス・レーニン主義 しゅぎ 、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう の堅持 けんじ 」を含 ふく む「四 よっ つの基本 きほん 原則 げんそく 」を繰 く り返 かえ し強調 きょうちょう した。彼 かれ が堅持 けんじ されるべきと考 かんが えた毛沢東 もうたくとう 思想 しそう は、こうした新 あら たな解釈 かいしゃく に基 もと づくものである。
なお、毛沢東 もうたくとう 以降 いこう の指導 しどう 者 しゃ たちの考 かんが えは、「鄧小平 こだいら 理論 りろん 」、江沢民 こうたくみん の「三 みっ つの代表 だいひょう 」論 ろん 、胡錦涛 こきんとう の「科学 かがく 発展 はってん 観 かん 」と、世代 せだい ごとに別 べつ のものとしてまとめられている。
毛 もう 主席 しゅせき 語録 ごろく (ドイツ語 ご 版 ばん )
1960年代 ねんだい の世界 せかい 的 てき な学生 がくせい 運動 うんどう では文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい を中国 ちゅうごく の対抗 たいこう 文化 ぶんか と見 み 做し[ 5] 、しばしば原理 げんり 主義 しゅぎ 的 てき で教条 きょうじょう 主義 しゅぎ 的 てき な共産 きょうさん 主義 しゅぎ 信奉 しんぽう (原始 げんし 共産 きょうさん 主義 しゅぎ )が毛沢東 もうたくとう 思想 しそう に移行 いこう する例 れい がみられた。影響 えいきょう を受 う けたのは大学生 だいがくせい を中心 ちゅうしん とする都市 とし 部 ぶ の中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の若者 わかもの であり、彼 かれ らが構成 こうせい したヒッピー が始 はじ めたコミューン運動 うんどう などで、人民公社 じんみんこうしゃ 型 かた の集団 しゅうだん 生活 せいかつ の実践 じっせん や、下放 かほう のスタイルが模倣 もほう された。1967年 ねん のジャン=リュック・ゴダール の映画 えいが 『中国 ちゅうごく 女 おんな 』では毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を研究 けんきゅう するために共同 きょうどう 生活 せいかつ を始 はじ めるフランスの若者 わかもの たちを描 えが いている。
フランスの哲学 てつがく 者 しゃ ジャン=ポール・サルトル は、ソ連 それん による1956年 ねん のハンガリー 侵攻 しんこう (ハンガリー動乱 どうらん )、1968年 ねん のチェコスロヴァキア 侵攻 しんこう (プラハの春 はる )以降 いこう 、反 はん スターリン主義 しゅぎ に共感 きょうかん するようになり。当時 とうじ ソ連 それん と対立 たいりつ していた中国 ちゅうごく (中 ちゅう ソ対立 たいりつ )の毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ 者 しゃ 主導 しゅどう の学生 がくせい 運動 うんどう を支持 しじ しはじめ、晩年 ばんねん にいたるまでフランスの毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ 者 しゃ と交遊 こうゆう していた。
1968年 ねん の5月革命 かくめい にもマオイストの影響 えいきょう があるとされ、クリストフ・ブルセリエは、フランスのマオイスムの流行 りゅうこう について、スターリン批判 ひはん とそれによるソ連 それん 型 がた 共産 きょうさん 主義 しゅぎ の失墜 しっつい 、およびそれに代 か わるユートピア を求 もと める運動 うんどう の中 なか で中国 ちゅうごく モデルが誇大 こだい 視 し されたとしている[ 6] 。マオイスト運動 うんどう はフランス共産党 きょうさんとう のソ連 それん 擁護 ようご に対 たい する反動 はんどう として起 お こり、反 はん 西欧 せいおう 主義 しゅぎ 、東洋 とうよう 趣味 しゅみ が混在 こんざい していた。また、エコール・ノルマル・シュペリウール のロベール・リナールらエリート学生 がくせい 、中国 ちゅうごく 専門 せんもん 家 か のシャルル・ベトレームやルイ・アルチュセール が中心 ちゅうしん にいたといわれる[ 6] 。1963年 ねん にジャック・ヴェルジエが創刊 そうかん した雑誌 ざっし 『革命 かくめい 』が中国 ちゅうごく ブームに火 ひ をつけた。1964年 ねん フランス共産党 きょうさんとう から除名 じょめい 追放 ついほう されたフランソワ・マルティが同年 どうねん 7月 がつ に東京 とうきょう で中国人 ちゅうごくじん 運動 うんどう 家 か と知 し り合 あ い、毛沢東 もうたくとう の招待 しょうたい を受 う ける。マルティらは『新 あたら しい人間 にんげん 主義 しゅぎ 』という雑誌 ざっし を出 だ している。
五月 ごがつ 革命 かくめい 以後 いご 、当時 とうじ の内務 ないむ 大臣 だいじん マルスランによってマオイストの組織 そしき は解体 かいたい 命令 めいれい を受 う けるが、ベニ・レヴィ によってGP(fr:Gauche prolétarienne プロレタリア左派 さは )が結成 けっせい され、アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィ らが参加 さんか する。GPによる移民 いみん 労働 ろうどう 者 しゃ の支援 しえん 活動 かつどう は、サルトルやゴダール、ミシェル・フーコー らによって支持 しじ された。同 どう 団体 だんたい は、マドレーヌ広場 ひろば の高級 こうきゅう 店 てん フォーションから「フォーションが貧民窟 ひんみんくつ に食糧 しょくりょう 支援 しえん をする」「盗人 ぬすっと から盗 ぬす んでも罪 つみ にはならない」「わが労働 ろうどう の果実 かじつ をパトロンから奪 うば おう」として商品 しょうひん を奪 うば うフォーション事件 じけん を起 お こしている[ 6] 。代表 だいひょう のベニ・レヴィはのちにサルトルの助手 じょしゅ となり、ユダヤ思想 しそう に没入 ぼつにゅう し、イスラエル に渡 わた った。また、フランスの作家 さっか のフィリップ・ソレルス や哲学 てつがく 者 しゃ のアラン・バディウ らが毛沢東 もうたくとう 思想 しそう に魅了 みりょう された[ 7] 。的場 まとば 昭弘 あきひろ によれば、エコール・ノルマル はマオイスムの母体 ぼたい となっていたと指摘 してき している[ 7] 。
ドイツ ではルディ・ドゥチュケ ら新 しん 左翼 さよく 学生 がくせい 運動 うんどう の活動 かつどう 家 か は毛沢東 もうたくとう に倣 なら った長 ちょう 征 ただし を掲 かか げて環境 かんきょう 保護 ほご 運動 うんどう に乗 の り出 だ し[ 8] 、Kグルッペ (ドイツ語 ご 版 ばん ) やグルッペZ (ドイツ語 ご 版 ばん ) などの毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ 者 しゃ は緑 みどり の党 とう の結成 けっせい に参加 さんか した[ 9] 。ベルント・アロイス・ツィンマーマン は1969年 ねん に創作 そうさく の集大成 しゅうたいせい となった「若 わか い詩人 しじん のためのレクイエム」において、毛 もう 主席 しゅせき 語録 ごろく からの抜粋 ばっすい を淡々 たんたん と読 よ み上 あ げるなど音楽 おんがく 創作 そうさく に用 もち いた。
また、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう は新 しん 左翼 さよく だけでなく、当時 とうじ の欧州 おうしゅう の極右 きょくう の青年 せいねん 運動 うんどう にも影響 えいきょう を与 あた え、1970年代 ねんだい のドイツやイタリア で過激 かげき で反抗 はんこう 的 てき かつ暴力 ぼうりょく 的 てき な活動 かつどう を行 おこな っていたネオナチ の指導 しどう 者 しゃ ミヒャエル・キューネン (英語 えいご 版 ばん ) やネオファシズム の理論 りろん 家 か フランコ・フレーダ (英語 えいご 版 ばん ) は毛沢東 もうたくとう の影響 えいきょう を自負 じふ していた[ 10] [ 11] 。
毛沢東 もうたくとう (左 ひだり )と面会 めんかい するホッジャ(1956年 ねん )
国家 こっか ぐるみで毛沢東 もうたくとう 思想 しそう に影響 えいきょう された例 れい としては、東欧 とうおう のバルカン半島 ばるかんはんとう 南西 なんせい 部 ぶ に位置 いち するアルバニア のエンヴェル・ホッジャ 政権 せいけん を挙 あ げられる。ホッジャはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のみならず、スターリン批判 ひはん 以降 いこう のソ連 それん 、ユーゴスラビア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく に対 たい して批判 ひはん 的 てき であり、ソ連 それん 、ユーゴスラビアに対 たい しては「社会 しゃかい 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 もの 」というレッテルを貼 は った。スターリン主義 しゅぎ を元 もと にしたホッジャ主義 しゅぎ は、チトー主義 しゅぎ と同様 どうよう にソビエト連邦 れんぽう が社会 しゃかい 主義 しゅぎ 陣営 じんえい を主導 しゅどう することに対 たい して批判 ひはん 的 てき だったが、ホッジャは非 ひ 同盟 どうめい 運動 うんどう に共鳴 きょうめい するチトー主義 しゅぎ をマルクス主義 まるくすしゅぎ に背 そむ くと考 かんが えていた[ 12] 。
ホッジャは毛沢東 もうたくとう に傾倒 けいとう し、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に接近 せっきん した。アルバニア人民 じんみん 軍 ぐん は人民 じんみん 服 ふく 風 ふう の軍装 ぐんそう を着 き て中国 ちゅうごく 製 せい の56式 しき 自動 じどう 歩 ふ 槍 やり とそのコピーのASh-78 を制式 せいしき 小銃 しょうじゅう に採用 さいよう して59式 しき 戦車 せんしゃ やJ-6 戦闘 せんとう 機 き なども配備 はいび するなど東西 とうざい 冷戦 れいせん 時代 じだい の欧州 おうしゅう で異様 いよう な軍隊 ぐんたい となっていた[ 13] 。1967年 ねん には中国 ちゅうごく の文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい にも影響 えいきょう されて「世界 せかい 初 はつ の無 む 神 かみ 国家 こっか 」としてあくまで宗教 しゅうきょう と信仰 しんこう をめぐる一 いち 立場 たちば にすぎない無 む 神 かみ 論 ろん を国家 こっか (政府 せいふ )の原則 げんそく とし[ 14] 、全 すべ ての宗教 しゅうきょう を完全 かんぜん に否定 ひてい かつ禁止 きんし して全国 ぜんこく の教会 きょうかい とモスク を閉鎖 へいさ させ、あらゆる信仰 しんこう の表明 ひょうめい は、公的 こうてき にであれ私的 してき にであれ、違法 いほう となった。一方 いっぽう で、農業 のうぎょう や教育 きょういく を重視 じゅうし して識字 しきじ 率 りつ を5%から98%に改善 かいぜん して食糧 しょくりょう の自給 じきゅう も達成 たっせい した[ 15] 。1971年 ねん には国際 こくさい 連合 れんごう でアルバニア決議 けつぎ を共同 きょうどう 提案 ていあん して国際 こくさい 社会 しゃかい で友好国 ゆうこうこく の中国 ちゅうごく が確固 かっこ たる立場 たちば を築 きず くのに一役 ひとやく を買 か った。しかし、ホッジャは翌 よく 1972年 ねん のニクソン大統領 だいとうりょう の中国 ちゅうごく 訪問 ほうもん には批判 ひはん 的 てき であり、リチャード・ニクソン を「熱烈 ねつれつ な反共 はんきょう 主義 しゅぎ 者 もの 」と嫌 きら った[ 16] 。1976年 ねん にホッジャは毛沢東 もうたくとう の葬儀 そうぎ に出席 しゅっせき するも、中国 ちゅうごく がフランコ体制 たいせい 下 か のスペイン やチリ のアウグスト・ピノチェト 政権 せいけん など反共 はんきょう 的 てき な国々 くにぐに と国交 こっこう 樹立 じゅりつ したこと[ 17] や中国 ちゅうごく の3つの世界 せかい 論 ろん は「第 だい 三 さん 世界 せかい の超 ちょう 大国 たいこく 」[ 16] [ 18] になることを目論 もくろ んでいるとホッジャは批判 ひはん しはじめ、華国鋒 かこくほう ・鄧小平 ひらた 時代 じだい となると中国 ちゅうごく からの援助 えんじょ は途絶 とだ えた(中 ちゅう ア対立 たいりつ )。
全米 ぜんべい 有色 ゆうしょく 人種 じんしゅ 地位 ちい 向上 こうじょう 協会 きょうかい の創立 そうりつ 者 しゃ W・E・B・デュボイス やブラック・パンサー党 とう の指導 しどう 者 しゃ ヒューイ・P・ニュートン 、ウェザーマン は毛沢東 もうたくとう から大 おお きな影響 えいきょう を受 う け、デュボイスやニュートンら公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう の活動 かつどう 家 か は中国 ちゅうごく を訪問 ほうもん している。若 わか いころニュートンはロバート・ウィリアムズの公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう 団体 だんたい 「革命 かくめい 的 てき 行動 こうどう 運動 うんどう (Revolutionary Action Movement,RAM)」に加入 かにゅう していたが、ウィリアムズは中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく から「クルセイダー」という機関 きかん 紙 し を出 だ していた。また、ブラック・パンサー党 とう はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく における黒人 こくじん 社会 しゃかい を第 だい 三 さん 世界 せかい 、植民 しょくみん 地 ち と見 み 做し、合衆国 がっしゅうこく と敵対 てきたい 関係 かんけい にあったベトナム や朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく (北朝鮮 きたちょうせん )、キューバ といった国々 くにぐに に対 たい して連帯 れんたい の意思 いし を表明 ひょうめい していた。
1970年代 ねんだい は、ファッション的 てき に毛沢東 もうたくとう を肯定 こうてい する人 ひと がヒッピーやアウトローに多 おお かった。アンディ・ウォーホル は1972年 ねん にニクソン大統領 だいとうりょう の中国 ちゅうごく 訪問 ほうもん にあわせて「マオ」という作品 さくひん を発表 はっぴょう している。ボクサーのマイク・タイソン は毛 もう 主席 しゅせき 記念 きねん 堂 どう を訪問 ほうもん [ 19] し、毛 け の入 い れ墨 ずみ も彫 ほ っている[ 20] 。
コミューン 運動 うんどう も人民公社 じんみんこうしゃ は「人民 じんみん のコミューン」と英訳 えいやく されているようにインスピレーションを与 あた え、ヒッピーの人民 じんみん 公園 こうえん (英語 えいご 版 ばん ) 運動 うんどう など人民 じんみん とコミューンはヒッピーや新 しん 左翼 さよく のタームとなった。各種 かくしゅ のグルイズム 的 てき なカルト 宗教 しゅうきょう と結合 けつごう してその信者 しんじゃ コントロールの手段 しゅだん としてより広範囲 こうはんい に利用 りよう された。またニューエイジ や精神 せいしん 世界 せかい ですらそれを模範 もはん する文化 ぶんか が広 ひろ がった。南米 なんべい ガイアナ のコミューンで起 お きた人民 じんみん 寺院 じいん 事件 じけん では、毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ との関係 かんけい がアメリカの新聞 しんぶん 等 とう で指摘 してき されている。人民 じんみん 寺院 じいん 教祖 きょうそ のジム・ジョーンズ は毛沢東 もうたくとう に傾倒 けいとう していることを認 みと め[ 21] 、中国 ちゅうごく の洗脳 せんのう を研究 けんきゅう していた[ 22] 。
毛 もう 主席 しゅせき 語録 ごろく を手 て に街宣 がいせん する毛 け 派 は の左翼 さよく 団体 だんたい (1968年 ねん )
毛沢東 もうたくとう 思想 しそう 自体 じたい は、文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい の実態 じったい が長 なが く隠蔽 いんぺい されていた日本 にっぽん では進歩 しんぽ 的 てき 文化 ぶんか 人 じん の手 て により、現代 げんだい 社会 しゃかい における政治 せいじ 体制 たいせい を考 かんが える上 うえ で多 おお くの示唆 しさ を与 あた えてくれる思想 しそう として喧伝 けんでん されたため、これを信奉 しんぽう する若者 わかもの が以後 いご にわたり続出 ぞくしゅつ した。ただし、毛沢東 もうたくとう がゲリラ戦 せん などの武装 ぶそう 闘争 とうそう 、核 かく 武装 ぶそう を含 ふく む軍拡 ぐんかく を優先 ゆうせん させたのに対 たい して、日本 にっぽん の毛 け 派 は は反戦 はんせん 、軍備 ぐんび 否定 ひてい 、反核 はんかく を唱 とな えるなど正 せい 反対 はんたい の動 うご きをしている。日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう やリベラル派 は の左翼 さよく 組織 そしき では、スターリン主義 しゅぎ の派生 はせい だとして憎悪 ぞうお する者 もの もいる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
日本 にっぽん においては、共産 きょうさん 同 どう ML派 は 、日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう (左派 さは ) 、日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう (革命 かくめい 左派 さは )神奈川 かながわ 県 けん 委員 いいん 会 かい (のちの連合赤軍 れんごうせきぐん )、日本 にっぽん 労働党 ろうどうとう といった政治 せいじ 団体 だんたい がかつて毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を指導 しどう 思想 しそう として掲 かか げ、全共闘 ぜんきょうとう や毛 け 派 は 以外 いがい の日本 にっぽん の新 しん 左翼 さよく も毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ から一定 いってい の影響 えいきょう を受 う けた。[要 よう 出典 しゅってん ] 東大 とうだい 紛争 ふんそう 中 なか の東京大学 とうきょうだいがく の正門 せいもん には毛沢東 もうたくとう の肖像 しょうぞう 画 が とともにその言葉 ことば である造反 ぞうはん 有理 ゆうり が掲 かか げられていた時期 じき もあった[ 23] 。毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ は、議会 ぎかい 主義 しゅぎ と大衆 たいしゅう 運動 うんどう を掲 かか げていた日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう や日本 にっぽん 社会党 しゃかいとう の主流 しゅりゅう 派 は の方針 ほうしん とは相容 あいい れないものであり、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう 支持 しじ 者 しゃ は既成 きせい 左翼 さよく と呼 よ ばれた社会党 しゃかいとう ・共産党 きょうさんとう の両 りょう 政党 せいとう と激 はげ しく対立 たいりつ した。日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう (行動 こうどう 派 は ) は、修正 しゅうせい 的 てき な毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ を掲 かか げている。日 にち 共 ども 行動 こうどう 派 は は反米 はんべい 右翼 うよく 、暴力団 ぼうりょくだん と共闘 きょうとう するなど日本 にっぽん の左翼 さよく 運動 うんどう の中 なか では異端 いたん 的 てき である。また、三 さん 橋 きょう 派 は 緑 みどり の党 とう なども毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ を独自 どくじ に解釈 かいしゃく した独特 どくとく のイデオロギーを有 ゆう している[要 よう 出典 しゅってん ] 。
また、毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ を掲 かか げたマルクス主義 まるくすしゅぎ 青年 せいねん 同盟 どうめい による岡山 おかやま 大学北 だいがくきた 津 つ 寮 りょう 襲撃 しゅうげき 事件 じけん における無党派 むとうは 学生 がくせい への殺人 さつじん 、連合赤軍 れんごうせきぐん における大量 たいりょう 殺戮 さつりく など、日本 にっぽん における毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ の「実践 じっせん 」セクトによる人命 じんめい 軽視 けいし のあり方 かた は日本 にっぽん の左翼 さよく 運動 うんどう の中 なか でも特筆 とくひつ される異様 いよう さがある[要 よう 出典 しゅってん ] 。
一般 いっぱん 社会 しゃかい においても、1970年代 ねんだい 当時 とうじ は横山 よこやま 光輝 みつてる [ 24] や藤子 とうこ 不二雄 ふじお A[ 25] が、毛沢東 もうたくとう に肯定 こうてい 的 てき な漫画 まんが を描 えが いた。中国 ちゅうごく が1981年 ねん の「歴史 れきし 決議 けつぎ 」をおこなったあとも、養老 ようろう 孟司 たけし のように毛沢東 もうたくとう 思想 しそう の農 のう 本 ほん 思想 しそう 的 てき 側面 そくめん を評価 ひょうか する論者 ろんしゃ が存在 そんざい する[ 26] 。
一方 いっぽう 、先述 せんじゅつ の米国 べいこく の人民 じんみん 寺院 じいん のように各種 かくしゅ のカルト 集団 しゅうだん によるコミューン型 がた 共同 きょうどう 体 たい が日本 にっぽん 各地 かくち で形成 けいせい された[要 よう 出典 しゅってん ] 。オウム真理教 おうむしんりきょう の麻原 あさはら 彰晃 しょうこう も毛沢東 もうたくとう の絶大 ぜつだい な影響 えいきょう を受 う け[ 27] [ 28] 、教団 きょうだん を武装 ぶそう 化 か させて富士山 ふじさん 麓 ふもと の農村 のうそん などにサティアン を築 きず いて武装 ぶそう 蜂起 ほうき と政権 せいけん 転覆 てんぷく を企 くわだ てた。また、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう は右派 うは 保守 ほしゅ の政治 せいじ 運動 うんどう にも影響 えいきょう を与 あた え、石原 いしはら 慎太郎 しんたろう [ 29] [ 30] [ 31] や西村 にしむら 修平 しゅうへい [ 32] は毛沢東 もうたくとう に影響 えいきょう を受 う けていることを認 みと めている。
ポル・ポト
毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を奉 ほう じるグループが、実際 じっさい に武装 ぶそう 闘争 とうそう によって政権 せいけん を獲得 かくとく した例 れい として最 もっと も有名 ゆうめい なのは、カンボジア に民主 みんしゅ カンプチア を築 きず いたクメール・ルージュ である[ 33] 。最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ のポル・ポト は、文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい 期 き の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく によって支援 しえん されていたために、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けており[ 34] [ 35] [ 36] 、政権 せいけん を握 にぎ ると文革 ぶんかく 時代 じだい の中国 ちゅうごく で行 おこな われた重 じゅう 農 のう 主義 しゅぎ 的 てき な政策 せいさく を極端 きょくたん な形 かたち で模倣 もほう した[ 37] 。これは世界 せかい で動員 どういん が繰 く り返 かえ されてきた20世紀 せいき の歴史 れきし から見 み ても例 れい のない社会 しゃかい 実験 じっけん だったとされる[ 38] 。
ポル・ポト派 は は貨幣 かへい 経済 けいざい を否定 ひてい するため、通貨 つうか の流通 りゅうつう を停止 ていし させ、自力 じりき 更生 こうせい 的 てき に食料 しょくりょう 生産 せいさん を担 にな う農村 のうそん 共同 きょうどう 体 たい を「国民 こくみん 生活 せいかつ の基本 きほん 単位 たんい 」とするために、生産 せいさん 力 りょく を持 も たない“寄生虫 きせいちゅう ”とみなされた都会 とかい とその住民 じゅうみん を強制 きょうせい 的 てき に田舎 いなか へ下放 かほう し、都市 とし をゴーストタウン にした。ポル・ポトは原始 げんし 社会 しゃかい (原始 げんし 共産 きょうさん 制 せい )の自給自足 じきゅうじそく の生活 せいかつ を営 いとな んでいると考 かんが えたカンボジアの山岳 さんがく 先住民 せんじゅうみん 族 ぞく を理想 りそう に都市 とし 文明 ぶんめい の廃絶 はいぜつ を企 たくら んだ[ 39] 。
大 だい 規模 きぼ な下放 かほう の過程 かてい で、ポル・ポトの理想 りそう とする世界 せかい に適応 てきおう できないと判断 はんだん した都市 とし 住民 じゅうみん はおろか、病人 びょうにん ・高齢 こうれい 者 しゃ ・妊 にん 婦 ふ などの弱者 じゃくしゃ [ 40] や知識 ちしき 人 じん 、技術 ぎじゅつ 者 しゃ 、眼鏡 めがね をかけている者 もの 、文字 もじ を読 よ もうとした者 もの 、時計 とけい が読 よ める者 もの など、少 すこ しでも学識 がくしき がありそうな者 もの といった人々 ひとびと も犠牲 ぎせい になった[ 41] 。都市 とし 部 ぶ に多 おお かった中国 ちゅうごく 系 けい とベトナム系 けい の住民 じゅうみん も原住民 げんじゅうみん のクメール人 じん を脅 おど かしてきた入植 にゅうしょく 者 しゃ として民族 みんぞく 浄化 じょうか の標的 ひょうてき となり[ 42] 、東南 とうなん アジア史上 しじょう 最大 さいだい 規模 きぼ [ 43] ともされる中国 ちゅうごく 系 けい 住民 じゅうみん の虐殺 ぎゃくさつ で当初 とうしょ は42万 まん 人 にん いた中国 ちゅうごく 系 けい も20万 まん 人 にん に減 へ ったが[ 43] 、ポル・ポトを支援 しえん した中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう はこれを無視 むし し[ 44] 、さらにポル・ポトはベトナム領内 りょうない の農村 のうそん でベトナム人 じん の大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ を行 おこな うも(バチュク村 むら の虐殺 ぎゃくさつ )、ベトナムは民主 みんしゅ カンプチア領内 りょうない へ侵攻 しんこう し、1979年 ねん にベトナム軍 ぐん はプノンペンを攻略 こうりゃく してポル・ポト政権 せいけん は崩壊 ほうかい した。ベトナム軍 ぐん は山林 さんりん に隠 かく れたポル・ポトを捕 とら えられず、ポル・ポト派 は はタイ領 りょう を避難 ひなん 場所 ばしょ としてベトナム軍 ぐん に対 たい し地下 ちか 活動 かつどう を続 つづ け、カンボジア内戦 ないせん 終結 しゅうけつ 後 ご にカンボジア特別 とくべつ 法廷 ほうてい にてクメール・ルージュの残党 ざんとう は人道 じんどう に対 たい する罪 つみ で裁 さば かれることとなった。
プラチャンダ (左 ひだり )
毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を奉 ほう じるグループが、武装 ぶそう 闘争 とうそう を経 へ て民主 みんしゅ 的 てき な選挙 せんきょ に勝利 しょうり して合法 ごうほう 的 てき に政権 せいけん を獲得 かくとく した例 れい もあり、ネパール のネパール共産党 きょうさんとう 毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ 派 は (マオイスト)は有名 ゆうめい である。最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ のプラチャンダ は毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ を発展 はってん させたとして「マルクス主義 まるくすしゅぎ -レーニン主義 しゅぎ -毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ -プラチャンダ・パト 」を掲 かか げた。
マオイストは武装 ぶそう 組織 そしき 「ネパール人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん 」(2万 まん 人 にん )を擁 よう し、生活 せいかつ 基盤 きばん 、経済 けいざい 基盤 きばん 整備 せいび が遅 おく れていた山間 さんかん 農村 のうそん 部 ぶ に拠点 きょてん 「人民 じんみん 政府 せいふ 」を構 かま えた。外国 がいこく からの援助 えんじょ は皆無 かいむ であるとされ、マオイストを弾圧 だんあつ していたギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ 国王 こくおう は親政 しんせい を敷 し いて国際 こくさい 社会 しゃかい から孤立 こりつ して中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の軍事 ぐんじ 援助 えんじょ を受 う けていた[ 45] [ 46] [ 47] 。農民 のうみん の家 いえ に党員 とういん や兵士 へいし を住 す まわせてもらい、食糧 しょくりょう は農民 のうみん の援助 えんじょ か自給自足 じきゅうじそく が基本 きほん である。武器 ぶき 弾薬 だんやく は主 おも に警察 けいさつ や国軍 こくぐん を襲撃 しゅうげき して奪 うば ったものを使用 しよう する。資金 しきん 調達 ちょうたつ のため銀行 ぎんこう を襲 おそ うこともあった。
ネパール内戦 ないせん でマオイストは国土 こくど のかなりの部分 ぶぶん (一説 いっせつ に8割 わり )を実効 じっこう 支配 しはい したが、2006年 ねん に停戦 ていせん して議会 ぎかい 進出 しんしゅつ して2008年 ねん に単独 たんどく 第 だい 一 いち 党 とう となり、プラチャンダも首相 しゅしょう に選 えら ばれ、ネパール人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん も国軍 こくぐん に統合 とうごう された[ 48] 。
毛沢東 もうたくとう は中国人 ちゅうごくじん 民 みん の救 すくい 星 ぼし (救世主 きゅうせいしゅ )と書 か かれたスローガン
現在 げんざい でも、世界中 せかいじゅう の様々 さまざま な反 はん 政府 せいふ 組織 そしき が毛沢東 もうたくとう 思想 しそう に範 はん をとって活動 かつどう している。そのため一部 いちぶ の国家 こっか では「マオイスト」という言葉 ことば はテロリスト ・過激 かげき 派 は という先入観 せんにゅうかん を持 も たれる可能 かのう 性 せい がある。発展 はってん 途上 とじょう 国 こく の毛 け 派 は はゲリラ路線 ろせん に走 はし りやすいが、これら毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を継承 けいしょう したグループは統合 とうごう された指揮 しき 系統 けいとう は存在 そんざい しておらず、地 ち の利 り を得 え て麻薬 まやく 原料 げんりょう 植物 しょくぶつ の栽培 さいばい や資源 しげん の採掘 さいくつ など独自 どくじ の資金 しきん 源 げん を有 ゆう している場合 ばあい が多 おお く、中国 ちゅうごく も含 ふく めて諸 しょ 外国 がいこく の援助 えんじょ を受 う けずに独力 どくりょく で大 だい 勢力 せいりょく に発展 はってん している場合 ばあい がほとんどである。また、毛 け 派 は はしばしば中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の手先 てさき とみなされることがあるが、中国 ちゅうごく に対 たい する一方 いっぽう 的 てき な親近 しんきん 感 かん 以上 いじょう の関係 かんけい は確認 かくにん されなかったり、逆 ぎゃく に現在 げんざい の中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう と敵対 てきたい している場合 ばあい もある。
ペルーの自称 じしょう 毛 げ 派 は で一時 いちじ ペルーの国土 こくど の3分 ぶん の1を征服 せいふく したセンデロ・ルミノソ も中国 ちゅうごく の支援 しえん を受 う けていた事実 じじつ は無 な く、コカイン の原料 げんりょう となるコカ の産地 さんち を支配 しはい して資金 しきん を稼 かせ いでおり、鄧小平時 へいじ 代 だい になって中国 ちゅうごく が文革 ぶんかく 期 き の毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を放棄 ほうき してから以降 いこう は、在 ざい ペルーの中国人 ちゅうごくじん や中国 ちゅうごく 政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ 、さらには北朝鮮 きたちょうせん 関係 かんけい 者 しゃ までがセンデロ・ルミノソの攻撃 こうげき 対象 たいしょう とされている。
ネパールでは毛 け 派 は が合法 ごうほう 的 てき に政権 せいけん を獲得 かくとく したが、インド ではネパールの毛 け 派 は と協力 きょうりょく 関係 かんけい にあったインド共産党 きょうさんとう 毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ 派 は の主導 しゅどう するナクサライト (英語 えいご 版 ばん ) が武装 ぶそう 闘争 とうそう を行 おこな っており、インドの首相 しゅしょう マンモハン・シン は2006年 ねん に「インド国内 こくない の安全 あんぜん 保障 ほしょう 上 じょう 最大 さいだい の問題 もんだい 」と呼 よ んでいる[ 49] [ 50] 。2013年 ねん にインド政府 せいふ はインド国内 こくない の76の地域 ちいき がナクサライトのテロを受 う けており、106の地域 ちいき が思想 しそう 的 てき な影響 えいきょう 下 か にあるとしている[ 51] 。
日本 にっぽん の日 にち 共 ども 左派 さは などの場合 ばあい は武装 ぶそう 闘争 とうそう や犯罪 はんざい は一切 いっさい 行 おこ なっていないが、体罰 たいばつ 教育 きょういく の推進 すいしん を唱 とな えたり、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう セクトであるマルクス主義 まるくすしゅぎ 青年 せいねん 同盟 どうめい による無党派 むとうは 学生 がくせい 虐殺 ぎゃくさつ や連合赤軍 れんごうせきぐん において大量 たいりょう 殺戮 さつりく を指示 しじ したのが毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ の日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 革命 かくめい 左派 さは 神奈川 かながわ 県 けん 委員 いいん 会 かい 指導 しどう 部 ぶ であったことによる左翼 さよく 運動 うんどう 内 ない における反発 はんぱつ は大 おお きい。
中国 ちゅうごく の河南 かなん 省 しょう 漯河市 し 臨潁県 けん 城 しろ 関 せき 鎮には、毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を信奉 しんぽう して人民公社 じんみんこうしゃ の形 かたち を残 のこ している南街 なんがい 村 むら が存在 そんざい している[ 52] 。
毛沢東 もうたくとう 思想 しそう に影響 えいきょう された著名 ちょめい 人 じん [ 編集 へんしゅう ]
以下 いか に転向 てんこう 者 もの 、反 はん 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ を含 ふく む、毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ 者 しゃ 、毛沢東 もうたくとう に思想 しそう 的 てき 影響 えいきょう を受 う けた人物 じんぶつ 、あるいは自 みずか らの芸術 げいじゅつ 作品 さくひん のモチーフとした中国 ちゅうごく 国外 こくがい の著名 ちょめい な人物 じんぶつ を列挙 れっきょ する。
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「毛沢東 もうたくとう ―実践 じっせん と思想 しそう 」(近藤 こんどう 邦康 くにやす 、岩波書店 いわなみしょてん 、2003年 ねん )
概念 がいねん 基礎 きそ 種類 しゅるい 国際 こくさい 組織 そしき 人物 じんぶつ 出来事 できごと 関連 かんれん 項目 こうもく
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