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毛沢東もうたくとう思想しそう

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毛沢東もうたくとうから転送てんそう

毛沢東もうたくとう思想しそう(もうたくとうしそう、簡体字かんたいじ中国語ちゅうごくご: もう泽东思想しそう繁体字はんたいじ中国語ちゅうごくご: 毛澤東もうたくとう思想しそう拼音: Máo Zédōng Sīxiǎng)また毛沢東もうたくとうがた社会しゃかい主義しゅぎ(もうたくとうがたしゃかいしゅぎ)は、中国ちゅうごくにおけるマルクス・レーニン主義しゅぎ理論りろん基礎きそとした社会しゃかい主義しゅぎ制度せいど導入どうにゅうかんする思想しそう[1][2]

政治せいじほか映画えいが絵画かいがなど様々さまざま分野ぶんやにおいても世界せかいてきおおきな影響えいきょうあたえている[注釈ちゅうしゃく 1]

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく初代しょだい主席しゅせきである毛沢東もうたくとうは、この理論りろん中心ちゅうしん中国ちゅうごく独自どくじ共産きょうさん主義しゅぎ理論りろん文化ぶんかだい革命かくめい展開てんかいし、1982ねん作成さくせいされた現行げんこう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく憲法けんぽうにもこの毛沢東もうたくとう思想しそうぜん中国人ちゅうごくじんならうべきものだとして明記めいきしている[3]

定義ていぎ

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毛沢東もうたくとう思想しそう統一とういつてき定義ていぎたず、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう与論よろん環境かんきょう敵国てきこくたいちゅう感情かんじょうおうじて、その定義ていぎこまかく調整ちょうせいしていく。

1940年代ねんだい毛沢東もうたくとう思想しそう一般いっぱんてきマルクス主義まるくすしゅぎやマルクス・レーニン主義しゅぎからは発展はってんした理論りろん看做みなされていたが、1960年代ねんだい毛沢東もうたくとう思想しそう文化ぶんかだい革命かくめいにより従来じゅうらい左翼さよく理論りろん区別くべつされた。毛沢東もうたくとう思想しそう初期しょき内容ないようは、人民じんみん戦争せんそう理論りろん3つの世界せかいろんなどがある。

1945ねん以降いこう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう規約きやくでは「マルクス・レーニン主義しゅぎ中国ちゅうごくにおける運用うんよう発展はってん」とされ、「マルクス・レーニン主義しゅぎ」などとならぶ「行動こうどう指針ししん」と位置いちづけられた[3][4]

とく1950年代ねんだいから1960年代ねんだいちゅう対立たいりつ文化ぶんかだい革命かくめい時期じきに、「中国共産党ちゅうごくきょうさんとう特有とくゆう理論りろん」として強調きょうちょうされ、外国がいこくでもひろ毛沢東もうたくとう主義しゅぎマオイズム英語えいご: Maoism)とんだ。その信奉しんぽうしゃ毛沢東もうたくとう主義しゅぎしゃおよびマオイストばれた。しかし中国ちゅうごく国内こくないでは紅衛兵こうえいへい造反ぞうはん一部いちぶのぞいて、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう文革ぶんかくふくめて一貫いっかんして毛沢東もうたくとう思想しそうであり、毛沢東もうたくとう主義しゅぎんだことはい。

由来ゆらい

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はんみんはんへいのゲリラ戦争せんそう解放かいほう根拠地こんきょち)の建設けんせつかく武装ぶそう有事ゆうじ想定そうていして政策せいさくおこなうなど、長期ちょうき戦略せんりゃくもとづく軍事ぐんじりょく増強ぞうきょうさい優先ゆうせん課題かだいとする。政治せいじ思想しそうというより、軍事ぐんじ理論りろんとされる場合ばあいおおい。

中国共産党ちゅうごくきょうさんとう1945ねん4がつ23にちから6月11にちにかけて開催かいさいされただい7かいとう大会たいかいにおいて、とう規約きやくに「中国共産党ちゅうごくきょうさんとうはマルクス・レーニン主義しゅぎ理念りねん中国ちゅうごく革命かくめい実践じっせん統一とういつした思想しそう毛沢東もうたくとう思想しそうみずからのすべての指針ししんとする」との記述きじゅつくわえた。ここでいう毛沢東もうたくとう思想しそうとは、理念りねんとしてはカール・マルクスウラジーミル・レーニン確立かくりつした共産きょうさん主義しゅぎ指針ししんとしながら、それを古代こだい中国ちゅうごくしん石器せっき革命かくめいから農耕のうこう社会しゃかいであった中国ちゅうごく実情じつじょう適応てきおうさせた、農民のうみん中心ちゅうしん革命かくめい方式ほうしきしているとされている。

毛沢東もうたくとう思想しそうは、毛沢東もうたくとうわかころからしたしんだ農耕のうこう社会しゃかい観察かんさつ経験けいけんからみちびされた中国ちゅうごく発展はってんのためのアイディアをふくんでおり、その大綱たいこうとして大公たいこう無私むし個人こじん利益りえきより公共こうきょう福祉ふくし優先ゆうせんする)、大衆たいしゅう路線ろせん農村のうそん大衆たいしゅう意見いけん政治せいじてき指針ししんもとめそれを理解りかいさせてとも行動こうどうする)、実事じつごともとめ現実げんじつからまなんで理論りろんてる)などがある。このほか社会しゃかい協調きょうちょうできる個人こじん主義しゅぎだい人数にんずう協力きょうりょく農村のうそんから蜂起ほうきして都市としかこいこんでいくゲリラ戦術せんじゅつ理論りろん人民じんみん戦争せんそう理論りろん)、世界せかい各国かっこく各自かくじ特性とくせいおうじた革命かくめいおこなうことによってだいさん世界せかい大戦たいせんふせぐことができるとする「中間なかま地帯ちたいろん」なども毛沢東もうたくとう思想しそうふくめられる場合ばあいがある。

毛沢東もうたくとう農民のうみん重視じゅうし姿勢しせいには、本来ほんらいマルクス主義まるくすしゅぎ唯物ゆいぶつ史観しかんによる「社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい発達はったつした資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい発生はっせいする」との理論りろんたいして、ロシア革命かくめいどきロシア以上いじょう資本しほん主義しゅぎ発達はったつ農業のうぎょう中心ちゅうしん社会しゃかいであった中国ちゅうごく実情じつじょうたいして、マルクス・レーニン主義しゅぎ適用てきようする必要ひつようせいがあった。また農村のうそん社会しゃかいにも特有とくゆう一揆いっきてき暴力ぼうりょく肯定こうてい知識ちしき階級かいきゅうたいするたんエリート主義しゅぎはん知性ちせい主義しゅぎ)などがげられる。またソビエト連邦れんぽうかたとの相違そういには、しん民主みんしゅ主義しゅぎろんによる人民じんみん民主みんしゅ主義しゅぎや、3つの世界せかいろんによる世界せかい認識にんしき外交がいこう政策せいさくなどがある。

毛沢東もうたくとう思想しそう毛沢東もうたくとう著作ちょさく発言はつげん実践じっせんなどの総称そうしょうであり、かならずしも体系たいけいてき理論りろんされ矛盾むじゅんなく整理せいりされたものではない。簡易かんい参照さんしょうにはもう主席しゅせき語録ごろく使用しようされた。

毛沢東もうたくとう思想しそうは、1950年代ねんだい以降いこう社会しゃかい主義しゅぎ政策せいさく推進すいしん、1957ねんからのはん右派うは闘争とうそう1960年代ねんだい以降いこう激化げきかしたちゅう対立たいりつさらに1966ねん発動はつどうされた文化ぶんかだい革命かくめいなどでとく強調きょうちょうされ、毛沢東もうたくとう個人こじん崇拝すうはいや、政敵せいてき打倒だとう国外こくがい各国かっこく共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょくへの干渉かんしょうにもひろ使用しようされた。

毛沢東もうたくとう死後しご中国ちゅうごくでの評価ひょうか

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毛沢東もうたくとう死後しご、その思想しそうをめぐる評価ひょうか微妙びみょううごいた。毛沢東もうたくとうのもとで中国ちゅうごく経済けいざいてきにはまずしい農業のうぎょうこくのまま停滞ていたいしながらもだいさん世界せかいでははつかく武装ぶそう成功せいこうして軍事ぐんじてき大国たいこくとなり、国際こくさい連合れんごうから台湾たいわん追放ついほうしてイギリスフランス日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくなど西側にしがわ諸国しょこくとの外交がいこう関係かんけいきずいて国際こくさい社会しゃかいでは無視むしできない地位ちいにした。毛沢東もうたくとう香港ほんこんマカオのぞ中国ちゅうごく大陸たいりくとなえるも、武力ぶりょく制覇せいはした覇道はどうてき覇権はけん主義しゅぎてきなその手法しゅほうのち西側にしがわから批判ひはんされた。

毛沢東もうたくとう死後しご、その後継こうけいしゃ自称じしょうした華国鋒かこくほうとなえた「ふたつのすべて(两个凡是)」は、毛沢東もうたくとう自身じしんとなえた「実事じつごともとめ」をして対抗たいこうした鄧小ひらたにより批判ひはんされ、華国鋒かこくほう失権しっけんすると、鄧小たいらかれ自身じしん解釈かいしゃくもとづく「実事じつごともとめ」を中国共産党ちゅうごくきょうさんとう指導しどう方針ほうしんとして実権じっけん掌握しょうあくした。鄧小たいら改革かいかく開放かいほう経済けいざい発展はってんすすめ、台湾たいわん対話たいわこころみ、毛沢東もうたくとうチベット侵攻しんこうしん侵攻しんこう編入へんにゅうしたチベットウイグルとは対照たいしょうてきに、香港ほんこんとマカオをいちこく制度せいどもとづく高度こうど自治じちみとめたうえ平和へいわうら編入へんにゅうすることで当事とうじこく合意ごういした。

1981ねん6月のだい116ちゅう全会ぜんかい採択さいたくされた『建国けんこく以来いらいとう若干じゃっかん歴史れきし問題もんだいについての決議けつぎ』(歴史れきし決議けつぎ)では、毛沢東もうたくとう思想しそうを「毛沢東もうたくとう同志どうし主要しゅよう代表だいひょうとする中国ちゅうごく共産きょうさん主義しゅぎしゃが、マルクス・レーニン主義しゅぎ基本きほんてき原理げんりもとづき、中国ちゅうごく革命かくめい実践じっせん経験けいけん理論りろんてき総括そうかつしてつくりあげた、中国ちゅうごく実情じつじょうてきした科学かがくてき指導しどう思想しそう」と定義ていぎしている。その一方いっぽうで、この決議けつぎは、毛沢東もうたくとう文化ぶんかだい革命かくめい提起ていきした論点ろんてんは「毛沢東もうたくとう思想しそう軌道きどうからあきらかに逸脱いつだつしたもので、毛沢東もうたくとう思想しそう完全かんぜん区別くべつしなければならない」とし、毛沢東もうたくとう思想しそう毛沢東もうたくとう個人こじん思想しそうとは区別くべつしている。この決議けつぎでは、「実事じつごともとめ」「大衆たいしゅう路線ろせん」「独立どくりつ自主じしゅ」が毛沢東もうたくとう思想しそう真髄しんずいとされている。また、この決議けつぎ前後ぜんごして、しゅう恩来おんらい劉少奇りゅうしょうきしゅいさおら、毛沢東もうたくとうどう時期じきほか指導しどうしゃたちの思想しそうも、毛沢東もうたくとう思想しそう一部いちぶ解釈かいしゃくされるようになってきている。鄧小たいらは「マルクス・レーニン主義しゅぎ毛沢東もうたくとう思想しそう堅持けんじ」をふくむ「よっつの基本きほん原則げんそく」をかえ強調きょうちょうした。かれ堅持けんじされるべきとかんがえた毛沢東もうたくとう思想しそうは、こうしたあらたな解釈かいしゃくもとづくものである。

なお、毛沢東もうたくとう以降いこう指導しどうしゃたちのかんがえは、「小平こだいら理論りろん」、江沢民こうたくみんの「みっつの代表だいひょうろん胡錦涛こきんとうの「科学かがく発展はってんかん」と、世代せだいごとにべつのものとしてまとめられている。

影響えいきょう

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もう主席しゅせき語録ごろく(ドイツばん

欧米おうべい

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1960年代ねんだい世界せかいてき学生がくせい運動うんどうでは文化ぶんかだい革命かくめい中国ちゅうごく対抗たいこう文化ぶんか做し[5]、しばしば原理げんり主義しゅぎてき教条きょうじょう主義しゅぎてき共産きょうさん主義しゅぎ信奉しんぽう原始げんし共産きょうさん主義しゅぎ)が毛沢東もうたくとう思想しそう移行いこうするれいがみられた。影響えいきょうけたのは大学生だいがくせい中心ちゅうしんとする都市とし中産ちゅうさん階級かいきゅう若者わかものであり、かれらが構成こうせいしたヒッピーはじめたコミューン運動うんどうなどで、人民公社じんみんこうしゃかた集団しゅうだん生活せいかつ実践じっせんや、下放かほうのスタイルが模倣もほうされた。1967ねんジャン=リュック・ゴダール映画えいが中国ちゅうごくおんな』では毛沢東もうたくとう思想しそう研究けんきゅうするために共同きょうどう生活せいかつはじめるフランスの若者わかものたちをえがいている。

欧州おうしゅう

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フランスの哲学てつがくしゃジャン=ポール・サルトルは、ソ連それんによる1956ねんハンガリー侵攻しんこうハンガリー動乱どうらん)、1968ねんチェコスロヴァキア侵攻しんこうプラハのはる以降いこうはんスターリン主義しゅぎ共感きょうかんするようになり。当時とうじソ連それん対立たいりつしていた中国ちゅうごくちゅう対立たいりつ)の毛沢東もうたくとう主義しゅぎしゃ主導しゅどう学生がくせい運動うんどう支持しじしはじめ、晩年ばんねんにいたるまでフランスの毛沢東もうたくとう主義しゅぎしゃ交遊こうゆうしていた。

1968ねん5月革命かくめいにもマオイストの影響えいきょうがあるとされ、クリストフ・ブルセリエは、フランスのマオイスムの流行りゅうこうについて、スターリン批判ひはんとそれによるソ連それんがた共産きょうさん主義しゅぎ失墜しっつい、およびそれにわるユートピアもとめる運動うんどうなか中国ちゅうごくモデルが誇大こだいされたとしている[6]。マオイスト運動うんどうフランス共産党きょうさんとうソ連それん擁護ようごたいする反動はんどうとしてこり、はん西欧せいおう主義しゅぎ東洋とうよう趣味しゅみ混在こんざいしていた。また、エコール・ノルマル・シュペリウールのロベール・リナールらエリート学生がくせい中国ちゅうごく専門せんもんのシャルル・ベトレームやルイ・アルチュセール中心ちゅうしんにいたといわれる[6]。1963ねんにジャック・ヴェルジエが創刊そうかんした雑誌ざっし革命かくめい』が中国ちゅうごくブームにをつけた。1964ねんフランス共産党きょうさんとうから除名じょめい追放ついほうされたフランソワ・マルティが同年どうねん7がつ東京とうきょう中国人ちゅうごくじん運動うんどうい、毛沢東もうたくとう招待しょうたいける。マルティらは『あたらしい人間にんげん主義しゅぎ』という雑誌ざっししている。

五月ごがつ革命かくめい以後いご当時とうじ内務ないむ大臣だいじんマルスランによってマオイストの組織そしき解体かいたい命令めいれいけるが、ベニ・レヴィによってGP(fr:Gauche prolétarienne プロレタリア左派さは)が結成けっせいされ、アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィらが参加さんかする。GPによる移民いみん労働ろうどうしゃ支援しえん活動かつどうは、サルトルやゴダール、ミシェル・フーコーらによって支持しじされた。どう団体だんたいは、マドレーヌ広場ひろば高級こうきゅうてんフォーションから「フォーションが貧民窟ひんみんくつ食糧しょくりょう支援しえんをする」「盗人ぬすっとからぬすんでもつみにはならない」「わが労働ろうどう果実かじつをパトロンからうばおう」として商品しょうひんうばうフォーション事件じけんこしている[6]代表だいひょうのベニ・レヴィはのちにサルトルの助手じょしゅとなり、ユダヤ思想しそう没入ぼつにゅうし、イスラエルわたった。また、フランスの作家さっかフィリップ・ソレルス哲学てつがくしゃアラン・バディウらが毛沢東もうたくとう思想しそう魅了みりょうされた[7]的場まとば昭弘あきひろによれば、エコール・ノルマルはマオイスムの母体ぼたいとなっていたと指摘してきしている[7]

ドイツではルディ・ドゥチュケしん左翼さよく学生がくせい運動うんどう活動かつどう毛沢東もうたくとうならったちょうただしかかげて環境かんきょう保護ほご運動うんどう[8]KグルッペドイツばんグルッペZドイツばんなどの毛沢東もうたくとう主義しゅぎしゃみどりとう結成けっせい参加さんかした[9]ベルント・アロイス・ツィンマーマンは1969ねん創作そうさく集大成しゅうたいせいとなった「わか詩人しじんのためのレクイエム」において、もう主席しゅせき語録ごろくからの抜粋ばっすい淡々たんたんげるなど音楽おんがく創作そうさくもちいた。

また、毛沢東もうたくとう思想しそうしん左翼さよくだけでなく、当時とうじ欧州おうしゅう極右きょくう青年せいねん運動うんどうにも影響えいきょうあたえ、1970年代ねんだいのドイツやイタリア過激かげき反抗はんこうてきかつ暴力ぼうりょくてき活動かつどうおこなっていたネオナチ指導しどうしゃミヒャエル・キューネン英語えいごばんネオファシズム理論りろんフランコ・フレーダ英語えいごばん毛沢東もうたくとう影響えいきょう自負じふしていた[10][11]

毛沢東もうたくとうひだり)と面会めんかいするホッジャ(1956ねん

国家こっかぐるみで毛沢東もうたくとう思想しそう影響えいきょうされたれいとしては、東欧とうおうバルカン半島ばるかんはんとう南西なんせい位置いちするアルバニアエンヴェル・ホッジャ政権せいけんげられる。ホッジャはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのみならず、スターリン批判ひはん以降いこうソ連それんユーゴスラビア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽう共和きょうわこくたいして批判ひはんてきであり、ソ連それん、ユーゴスラビアにたいしては「社会しゃかい帝国ていこく主義しゅぎもの」というレッテルをった。スターリン主義しゅぎもとにしたホッジャ主義しゅぎは、チトー主義しゅぎ同様どうようソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ陣営じんえい主導しゅどうすることにたいして批判ひはんてきだったが、ホッジャは同盟どうめい運動うんどう共鳴きょうめいするチトー主義しゅぎマルクス主義まるくすしゅぎそむくとかんがえていた[12]。 ホッジャは毛沢東もうたくとう傾倒けいとうし、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく接近せっきんした。アルバニア人民じんみんぐん人民じんみんふくふう軍装ぐんそう中国ちゅうごくせい56しき自動じどうやりとそのコピーのASh-78制式せいしき小銃しょうじゅう採用さいようして59しき戦車せんしゃJ-6戦闘せんとうなども配備はいびするなど東西とうざい冷戦れいせん時代じだい欧州おうしゅう異様いよう軍隊ぐんたいとなっていた[13]1967ねんには中国ちゅうごく文化ぶんかだい革命かくめいにも影響えいきょうされて「世界せかいはつかみ国家こっか」としてあくまで宗教しゅうきょう信仰しんこうをめぐるいち立場たちばにすぎないかみろん国家こっか政府せいふ)の原則げんそくとし[14]すべての宗教しゅうきょう完全かんぜん否定ひていかつ禁止きんしして全国ぜんこく教会きょうかいモスク閉鎖へいささせ、あらゆる信仰しんこう表明ひょうめいは、公的こうてきにであれ私的してきにであれ、違法いほうとなった。一方いっぽうで、農業のうぎょう教育きょういく重視じゅうしして識字しきじりつを5%から98%に改善かいぜんして食糧しょくりょう自給じきゅう達成たっせいした[15]1971ねんには国際こくさい連合れんごうアルバニア決議けつぎ共同きょうどう提案ていあんして国際こくさい社会しゃかい友好国ゆうこうこく中国ちゅうごく確固かっこたる立場たちばきずくのに一役ひとやくった。しかし、ホッジャはよく1972ねんニクソン大統領だいとうりょう中国ちゅうごく訪問ほうもんには批判ひはんてきであり、リチャード・ニクソンを「熱烈ねつれつ反共はんきょう主義しゅぎもの」ときらった[16]。1976ねんにホッジャは毛沢東もうたくとう葬儀そうぎ出席しゅっせきするも、中国ちゅうごくフランコ体制たいせいのスペインチリアウグスト・ピノチェト政権せいけんなど反共はんきょうてき国々くにぐに国交こっこう樹立じゅりつしたこと[17]中国ちゅうごく3つの世界せかいろんは「だいさん世界せかいちょう大国たいこく[16][18]になることを目論もくろんでいるとホッジャは批判ひはんしはじめ、華国鋒かこくほう鄧小ひらた時代じだいとなると中国ちゅうごくからの援助えんじょ途絶とだえた(ちゅう対立たいりつ)。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

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全米ぜんべい有色ゆうしょく人種じんしゅ地位ちい向上こうじょう協会きょうかい創立そうりつしゃW・E・B・デュボイスブラック・パンサーとう指導しどうしゃヒューイ・P・ニュートンウェザーマン毛沢東もうたくとうからおおきな影響えいきょうけ、デュボイスやニュートンら公民こうみんけん運動うんどう活動かつどう中国ちゅうごく訪問ほうもんしている。わかいころニュートンはロバート・ウィリアムズの公民こうみんけん運動うんどう団体だんたい革命かくめいてき行動こうどう運動うんどう (Revolutionary Action Movement,RAM)」に加入かにゅうしていたが、ウィリアムズは中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくから「クルセイダー」という機関きかんしていた。また、ブラック・パンサーとうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおける黒人こくじん社会しゃかいだいさん世界せかい植民しょくみん做し、合衆国がっしゅうこく敵対てきたい関係かんけいにあったベトナム朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)、キューバといった国々くにぐにたいして連帯れんたい意思いし表明ひょうめいしていた。

1970年代ねんだいは、ファッションてき毛沢東もうたくとう肯定こうていするひとがヒッピーやアウトローにおおかった。アンディ・ウォーホルは1972ねんニクソン大統領だいとうりょう中国ちゅうごく訪問ほうもんにあわせて「マオ」という作品さくひん発表はっぴょうしている。ボクサーのマイク・タイソンもう主席しゅせき記念きねんどう訪問ほうもん[19]し、ずみっている[20]

コミューン運動うんどう人民公社じんみんこうしゃは「人民じんみんのコミューン」と英訳えいやくされているようにインスピレーションをあたえ、ヒッピーの人民じんみん公園こうえん英語えいごばん運動うんどうなど人民じんみんとコミューンはヒッピーやしん左翼さよくのタームとなった。各種かくしゅグルイズムてきカルト宗教しゅうきょう結合けつごうしてその信者しんじゃコントロールの手段しゅだんとしてより広範囲こうはんい利用りようされた。またニューエイジ精神せいしん世界せかいですらそれを模範もはんする文化ぶんかひろがった。南米なんべいガイアナのコミューンできた人民じんみん寺院じいん事件じけんでは、毛沢東もうたくとう主義しゅぎとの関係かんけいがアメリカの新聞しんぶんとう指摘してきされている。人民じんみん寺院じいん教祖きょうそジム・ジョーンズ毛沢東もうたくとう傾倒けいとうしていることをみと[21]中国ちゅうごく洗脳せんのう研究けんきゅうしていた[22]

日本にっぽん

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もう主席しゅせき語録ごろく街宣がいせんする左翼さよく団体だんたい(1968ねん

毛沢東もうたくとう思想しそう自体じたいは、文化ぶんかだい革命かくめい実態じったいなが隠蔽いんぺいされていた日本にっぽんでは進歩しんぽてき文化ぶんかじんにより、現代げんだい社会しゃかいにおける政治せいじ体制たいせいかんがえるうえおおくの示唆しさあたえてくれる思想しそうとして喧伝けんでんされたため、これを信奉しんぽうする若者わかもの以後いごにわたり続出ぞくしゅつした。ただし、毛沢東もうたくとうゲリラせんなどの武装ぶそう闘争とうそうかく武装ぶそうふく軍拡ぐんかく優先ゆうせんさせたのにたいして、日本にっぽん反戦はんせん軍備ぐんび否定ひてい反核はんかくとなえるなどせい反対はんたいうごきをしている。日本にっぽん共産党きょうさんとうやリベラル左翼さよく組織そしきでは、スターリン主義しゅぎ派生はせいだとして憎悪ぞうおするものもいる[よう出典しゅってん]

日本にっぽんにおいては、共産きょうさんどうML日本にっぽん共産党きょうさんとう左派さは日本にっぽん共産党きょうさんとう革命かくめい左派さは神奈川かながわけん委員いいんかい(のちの連合赤軍れんごうせきぐん)、日本にっぽん労働党ろうどうとうといった政治せいじ団体だんたいがかつて毛沢東もうたくとう思想しそう指導しどう思想しそうとしてかかげ、全共闘ぜんきょうとう以外いがい日本にっぽんしん左翼さよく毛沢東もうたくとう主義しゅぎから一定いってい影響えいきょうけた。[よう出典しゅってん]東大とうだい紛争ふんそうなか東京大学とうきょうだいがく正門せいもんには毛沢東もうたくとう肖像しょうぞうとともにその言葉ことばである造反ぞうはん有理ゆうりかかげられていた時期じきもあった[23]毛沢東もうたくとう主義しゅぎは、議会ぎかい主義しゅぎ大衆たいしゅう運動うんどうかかげていた日本にっぽん共産党きょうさんとう日本にっぽん社会党しゃかいとう主流しゅりゅう方針ほうしんとは相容あいいれないものであり、毛沢東もうたくとう思想しそう支持しじしゃ既成きせい左翼さよくばれた社会党しゃかいとう共産党きょうさんとうりょう政党せいとうはげしく対立たいりつした。日本にっぽん共産党きょうさんとう行動こうどうは、修正しゅうせいてき毛沢東もうたくとう主義しゅぎかかげている。にちども行動こうどう反米はんべい右翼うよく暴力団ぼうりょくだん共闘きょうとうするなど日本にっぽん左翼さよく運動うんどうなかでは異端いたんてきである。また、さんきょうみどりとうなども毛沢東もうたくとう主義しゅぎ独自どくじ解釈かいしゃくした独特どくとくのイデオロギーをゆうしている[よう出典しゅってん]

また、毛沢東もうたくとう主義しゅぎかかげたマルクス主義まるくすしゅぎ青年せいねん同盟どうめいによる岡山おかやま大学北だいがくきたりょう襲撃しゅうげき事件じけんにおける無党派むとうは学生がくせいへの殺人さつじん連合赤軍れんごうせきぐんにおける大量たいりょう殺戮さつりくなど、日本にっぽんにおける毛沢東もうたくとう主義しゅぎの「実践じっせん」セクトによる人命じんめい軽視けいしのありかた日本にっぽん左翼さよく運動うんどうなかでも特筆とくひつされる異様いようさがある[よう出典しゅってん]

一般いっぱん社会しゃかいにおいても、1970年代ねんだい当時とうじ横山よこやま光輝みつてる[24]藤子とうこ不二雄ふじおA[25]が、毛沢東もうたくとう肯定こうていてき漫画まんがえがいた。中国ちゅうごくが1981ねんの「歴史れきし決議けつぎ」をおこなったあとも、養老ようろう孟司たけしのように毛沢東もうたくとう思想しそうのうほん思想しそうてき側面そくめん評価ひょうかする論者ろんしゃ存在そんざいする[26]

一方いっぽう先述せんじゅつ米国べいこく人民じんみん寺院じいんのように各種かくしゅカルト集団しゅうだんによるコミューンがた共同きょうどうたい日本にっぽん各地かくち形成けいせいされた[よう出典しゅってん]オウム真理教おうむしんりきょう麻原あさはら彰晃しょうこう毛沢東もうたくとう絶大ぜつだい影響えいきょう[27][28]教団きょうだん武装ぶそうさせて富士山ふじさんふもと農村のうそんなどにサティアンきずいて武装ぶそう蜂起ほうき政権せいけん転覆てんぷくくわだてた。また、毛沢東もうたくとう思想しそう右派うは保守ほしゅ政治せいじ運動うんどうにも影響えいきょうあたえ、石原いしはら慎太郎しんたろう[29][30][31]西村にしむら修平しゅうへい[32]毛沢東もうたくとう影響えいきょうけていることをみとめている。

カンボジア

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ポル・ポト

毛沢東もうたくとう思想しそうほうじるグループが、実際じっさい武装ぶそう闘争とうそうによって政権せいけん獲得かくとくしたれいとしてもっと有名ゆうめいなのは、カンボジア民主みんしゅカンプチアきずいたクメール・ルージュである[33]最高さいこう指導しどうしゃポル・ポトは、文化ぶんかだい革命かくめい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによって支援しえんされていたために、毛沢東もうたくとう思想しそう影響えいきょうつよけており[34][35][36]政権せいけんにぎると文革ぶんかく時代じだい中国ちゅうごくおこなわれたじゅうのう主義しゅぎてき政策せいさく極端きょくたんかたち模倣もほうした[37]。これは世界せかい動員どういんかえされてきた20世紀せいき歴史れきしからてもれいのない社会しゃかい実験じっけんだったとされる[38]

ポル・ポト貨幣かへい経済けいざい否定ひていするため、通貨つうか流通りゅうつう停止ていしさせ、自力じりき更生こうせいてき食料しょくりょう生産せいさんにな農村のうそん共同きょうどうたいを「国民こくみん生活せいかつ基本きほん単位たんい」とするために、生産せいさんりょくたない“寄生虫きせいちゅう”とみなされた都会とかいとその住民じゅうみん強制きょうせいてき田舎いなか下放かほうし、都市としゴーストタウンにした。ポル・ポトは原始げんし社会しゃかい原始げんし共産きょうさんせい)の自給自足じきゅうじそく生活せいかついとなんでいるとかんがえたカンボジアの山岳さんがく先住民せんじゅうみんぞく理想りそう都市とし文明ぶんめい廃絶はいぜつたくらんだ[39]

だい規模きぼ下放かほう過程かていで、ポル・ポトの理想りそうとする世界せかい適応てきおうできないと判断はんだんした都市とし住民じゅうみんはおろか、病人びょうにん高齢こうれいしゃにんなどの弱者じゃくしゃ[40]知識ちしきじん技術ぎじゅつしゃ眼鏡めがねをかけているもの文字もじもうとしたもの時計とけいめるものなど、すこしでも学識がくしきがありそうなものといった人々ひとびと犠牲ぎせいになった[41]都市としおおかった中国ちゅうごくけいとベトナムけい住民じゅうみん原住民げんじゅうみんのクメールじんおどかしてきた入植にゅうしょくしゃとして民族みんぞく浄化じょうか標的ひょうてきとなり[42]東南とうなんアジア史上しじょう最大さいだい規模きぼ[43]ともされる中国ちゅうごくけい住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつ当初とうしょは42まんにんいた中国ちゅうごくけいも20まんにんったが[43]、ポル・ポトを支援しえんした中国共産党ちゅうごくきょうさんとうはこれを無視むし[44]、さらにポル・ポトはベトナム領内りょうない農村のうそんでベトナムじん大量たいりょう虐殺ぎゃくさつおこなうも(バチュクむら虐殺ぎゃくさつ)、ベトナムは民主みんしゅカンプチア領内りょうない侵攻しんこうし、1979ねんにベトナムぐんはプノンペンを攻略こうりゃくしてポル・ポト政権せいけん崩壊ほうかいした。ベトナムぐん山林さんりんかくれたポル・ポトをとらえられず、ポル・ポトはタイりょう避難ひなん場所ばしょとしてベトナムぐんたい地下ちか活動かつどうつづけ、カンボジア内戦ないせん終結しゅうけつカンボジア特別とくべつ法廷ほうていにてクメール・ルージュの残党ざんとう人道じんどうたいするつみさばかれることとなった。

ネパール

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プラチャンダひだり

毛沢東もうたくとう思想しそうほうじるグループが、武装ぶそう闘争とうそう民主みんしゅてき選挙せんきょ勝利しょうりして合法ごうほうてき政権せいけん獲得かくとくしたれいもあり、ネパールネパール共産党きょうさんとう毛沢東もうたくとう主義しゅぎ(マオイスト)は有名ゆうめいである。最高さいこう指導しどうしゃプラチャンダ毛沢東もうたくとう主義しゅぎ発展はってんさせたとして「マルクス主義まるくすしゅぎ-レーニン主義しゅぎ-毛沢東もうたくとう主義しゅぎ-プラチャンダ・パト」をかかげた。

マオイストは武装ぶそう組織そしきネパール人民じんみん解放かいほうぐん」(2まんにん)をようし、生活せいかつ基盤きばん経済けいざい基盤きばん整備せいびおくれていた山間さんかん農村のうそん拠点きょてん人民じんみん政府せいふ」をかまえた。外国がいこくからの援助えんじょ皆無かいむであるとされ、マオイストを弾圧だんあつしていたギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ国王こくおう親政しんせいいて国際こくさい社会しゃかいから孤立こりつして中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく軍事ぐんじ援助えんじょけていた[45][46][47]農民のうみんいえ党員とういん兵士へいしまわせてもらい、食糧しょくりょう農民のうみん援助えんじょ自給自足じきゅうじそく基本きほんである。武器ぶき弾薬だんやくおも警察けいさつ国軍こくぐん襲撃しゅうげきしてうばったものを使用しようする。資金しきん調達ちょうたつのため銀行ぎんこうおそうこともあった。

ネパール内戦ないせんでマオイストは国土こくどのかなりの部分ぶぶん一説いっせつに8わり)を実効じっこう支配しはいしたが、2006ねん停戦ていせんして議会ぎかい進出しんしゅつして2008ねん単独たんどくだいいちとうとなり、プラチャンダも首相しゅしょうえらばれ、ネパール人民じんみん解放かいほうぐん国軍こくぐん統合とうごうされた[48]

現状げんじょう

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毛沢東もうたくとう中国人ちゅうごくじんみんすくいぼし救世主きゅうせいしゅ)とかれたスローガン

現在げんざいでも、世界中せかいじゅう様々さまざまはん政府せいふ組織そしき毛沢東もうたくとう思想しそうはんをとって活動かつどうしている。そのため一部いちぶ国家こっかでは「マオイスト」という言葉ことばテロリスト過激かげきという先入観せんにゅうかんたれる可能かのうせいがある。発展はってん途上とじょうこくはゲリラ路線ろせんはしりやすいが、これら毛沢東もうたくとう思想しそう継承けいしょうしたグループは統合とうごうされた指揮しき系統けいとう存在そんざいしておらず、麻薬まやく原料げんりょう植物しょくぶつ栽培さいばい資源しげん採掘さいくつなど独自どくじ資金しきんげんゆうしている場合ばあいおおく、中国ちゅうごくふくめてしょ外国がいこく援助えんじょけずに独力どくりょくだい勢力せいりょく発展はってんしている場合ばあいがほとんどである。また、はしばしば中国共産党ちゅうごくきょうさんとう手先てさきとみなされることがあるが、中国ちゅうごくたいする一方いっぽうてき親近しんきんかん以上いじょう関係かんけい確認かくにんされなかったり、ぎゃく現在げんざい中国共産党ちゅうごくきょうさんとう敵対てきたいしている場合ばあいもある。

ペルーの自称じしょう一時いちじペルーの国土こくどの3ぶんの1を征服せいふくしたセンデロ・ルミノソ中国ちゅうごく支援しえんけていた事実じじつく、コカイン原料げんりょうとなるコカ産地さんち支配しはいして資金しきんかせいでおり、鄧小平時へいじだいになって中国ちゅうごく文革ぶんかく毛沢東もうたくとう思想しそう放棄ほうきしてから以降いこうは、ざいペルーの中国人ちゅうごくじん中国ちゅうごく政府せいふ関係かんけいしゃ、さらには北朝鮮きたちょうせん関係かんけいしゃまでがセンデロ・ルミノソの攻撃こうげき対象たいしょうとされている。

ネパールでは合法ごうほうてき政権せいけん獲得かくとくしたが、インドではネパールの協力きょうりょく関係かんけいにあったインド共産党きょうさんとう毛沢東もうたくとう主義しゅぎ主導しゅどうするナクサライト英語えいごばん武装ぶそう闘争とうそうおこなっており、インドの首相しゅしょうマンモハン・シンは2006ねんに「インド国内こくない安全あんぜん保障ほしょうじょう最大さいだい問題もんだい」とんでいる[49][50]。2013ねんにインド政府せいふはインド国内こくないの76の地域ちいきがナクサライトのテロをけており、106の地域ちいき思想しそうてき影響えいきょうにあるとしている[51]

日本にっぽんにちども左派さはなどの場合ばあい武装ぶそう闘争とうそう犯罪はんざい一切いっさいおこなっていないが、体罰たいばつ教育きょういく推進すいしんとなえたり、毛沢東もうたくとう思想しそうセクトであるマルクス主義まるくすしゅぎ青年せいねん同盟どうめいによる無党派むとうは学生がくせい虐殺ぎゃくさつ連合赤軍れんごうせきぐんにおいて大量たいりょう殺戮さつりく指示しじしたのが毛沢東もうたくとう主義しゅぎ日本にっぽん共産党きょうさんとう革命かくめい左派さは神奈川かながわけん委員いいんかい指導しどうであったことによる左翼さよく運動うんどうないにおける反発はんぱつおおきい。

中国ちゅうごく河南かなんしょう漯河臨潁けんしろせき鎮には、毛沢東もうたくとう思想しそう信奉しんぽうして人民公社じんみんこうしゃかたちのこしている南街なんがいむら存在そんざいしている[52]

毛沢東もうたくとう思想しそう影響えいきょうされた著名ちょめいじん

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以下いか転向てんこうものはん共産きょうさん主義しゅぎしゃふくむ、毛沢東もうたくとう主義しゅぎしゃ毛沢東もうたくとう思想しそうてき影響えいきょうけた人物じんぶつ、あるいはみずからの芸術げいじゅつ作品さくひんのモチーフとした中国ちゅうごく国外こくがい著名ちょめい人物じんぶつ列挙れっきょする。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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