意識 いしき (いしき、Consciousness)は、一般 いっぱん に、「起 お きている状態 じょうたい にあること(覚醒 かくせい )」または「自分 じぶん の今 いま ある状態 じょうたい や、周囲 しゅうい の状況 じょうきょう などを認識 にんしき できている状態 じょうたい のこと」を指 さ す[1] 。
ただし、歴史 れきし 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき に、この言葉 ことば は様々 さまざま な形 かたち で用 もち いられており、その意味 いみ は多様 たよう である。哲学 てつがく 、心理 しんり 学 がく 、生物 せいぶつ 学 がく 、医学 いがく 、宗教 しゅうきょう 、日常 にちじょう 会話 かいわ などの中 なか で、様々 さまざま な意味 いみ で用 もち いられる。生物 せいぶつ 学 がく や神経 しんけい 学 がく など学術 がくじゅつ 面 めん では、意識 いしき の有無 うむ に注目 ちゅうもく した植物 しょくぶつ と動物 どうぶつ の線引 せんひ き[2] 、ヒト 以外 いがい を含 ふく む動物 どうぶつ の意識 いしき が進化 しんか のどの段階 だんかい で発生 はっせい したか[3] も考察 こうさつ ・研究 けんきゅう されている。
日本語 にほんご では、「ある物事 ものごと について注意 ちゅうい を払 はら っている」という意味 いみ で「意識 いしき する」、「考 かんが え方 かた や取 と り組 く み方 かた について努力 どりょく が行 おこな われている」といったことを表 あらわ す場合 ばあい 「意識 いしき が高 たか い(または低 ひく い)」といったい方 いかた がなされる。たとえば公害 こうがい や廃棄 はいき 物 ぶつ などの問題 もんだい についてよく勉強 べんきょう し、改善 かいぜん のために様々 さまざま な行動 こうどう や対策 たいさく を行 おこな っている個人 こじん や集団 しゅうだん を、環境 かんきょう 問題 もんだい についての意識 いしき が高 たか い、などと表現 ひょうげん する。このような用法 ようほう は「遵法 じゅんぽう 意識 いしき 」「コスト意識 いしき 」「プロ意識 いしき 」「意識 いしき 調査 ちょうさ 」「意識 いしき 改革 かいかく 」など様々 さまざま な表現 ひょうげん に見 み られる。
学術 がくじゅつ 的 てき には、文脈 ぶんみゃく に応 おう じて意識 いしき という語 かたり は様々 さまざま な意味 いみ で使用 しよう される。以下 いか では、哲学 てつがく 、心理 しんり 学 がく 、臨床 りんしょう 医学 いがく をはじめとするいくつかの分野 ぶんや に分 わ けて、代表 だいひょう 的 てき な意味 いみ を解説 かいせつ する。
ライプニッツの思想 しそう における、認識 にんしき の光芒 こうぼう 、 悟性 ごせい 、理性 りせい 、感性 かんせい 、各々 おのおの の役割 やくわり を持 も つ。ライプニッツの影響 えいきょう を受 う けたクリスティアン・ヴォルフ は、「意識 いしき 」の概念 がいねん を「知 し られている状態 じょうたい 」(ドイツ語 ご : Bewusstsein )と造語 ぞうご し名 な づけた。カント は、Cogito を「純粋 じゅんすい 統覚 とうかく 」とみなし、すべての悟性 ごせい 的 てき 認識 にんしき の根源 こんげん であるとしたが、意識 いしき そのものの主題 しゅだい 化 か には向 む かわず、各 かく 認識 にんしき 能力 のうりょく の身分 みぶん と能力 のうりょく についての考察 こうさつ をその批判 ひはん において展開 てんかい した。
意識 いしき がドイツ哲学 てつがく において全面 ぜんめん 的 てき に主題 しゅだい 化 か されるのはドイツ観念論 かんねんろん においてである。フィヒテ は、デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行 そこう 的 てき に知 し られるとした "ich bin" 我 わが あり、をデカルトにおいてそうであったような個我 こが の自己 じこ 認識 にんしき から、カントが主題 しゅだい 化 か した超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 認識 にんしき 能力 のうりょく の原理 げんり に拡大 かくだい し、自我 じが と呼 よ び、その働 はたら きを定式 ていしき 化 か した。ここで自我 じが とは意識 いしき の能力 のうりょく にほかならない。つまり、そのような自我 じが は、自己 じこ 自身 じしん を真正 しんせい の対象 たいしょう とする活動 かつどう 、すなわち事 こと 行 ぎょう (独 どく : Tathandlung )と把握 はあく され、この自 みずか らを客観 きゃっかん とする認識 にんしき 主観 しゅかん としての自我 じが を自己 じこ 意識 いしき と呼 よ ぶ。フィヒテのほか、シェリング 、ヘーゲル らが自己 じこ 意識 いしき を哲学 てつがく の問題 もんだい として取 と り上 あ げた。シェリングは、対象 たいしょう 化 か された自己 じこ 意識 いしき を「無意識 むいしき 」と名 な づけた。ユング はシェリングが無意識 むいしき の発見 はっけん 者 しゃ であると指摘 してき している。ドイツ圏 けん における意識 いしき についての研究 けんきゅう は1780年代 ねんだい から1810年 ねん 頃 ごろ まで盛 さか んに行 おこな われたが、その後 ご は存在 そんざい 論 ろん 的 てき 哲学 てつがく に座 ざ を譲 ゆず った。
認知 にんち 科学 かがく ・人工 じんこう 知能 ちのう における意識 いしき [ 編集 へんしゅう ]
認知 にんち 科学 かがく 、人工 じんこう 知能 ちのう の分野 ぶんや では、人間 にんげん が人工 じんこう 知能 ちのう に質問 しつもん などをして、その人工 じんこう 知能 ちのう があたかも人 ひと のように反応 はんのう し、人 ひと から見 み て人 ひと と何 なん ら区別 くべつ がつかなければ、それをもってしてその存在 そんざい は知能 ちのう あるいは意識 いしき を持 も っていると見 み なしていいのではないか、とアラン・チューリング が提案 ていあん した(チューリング・テスト )。
現代 げんだい において、ヒト を含 ふく む動物 どうぶつ の神経 しんけい 細胞 さいぼう や脳 のう 活動 かつどう を計測 けいそく する技術 ぎじゅつ が進歩 しんぽ し、意識 いしき は医学 いがく 以外 いがい の自然 しぜん 科学 かがく でも研究 けんきゅう テーマとなっている。動物 どうぶつ の神経 しんけい 細胞 さいぼう と電子 でんし 回路 かいろ の接続 せつぞく も成功 せいこう している。五感 ごかん などを基 もと に脳 のう で統合 とうごう された感覚 かんかく (クオリア )と、外部 がいぶ から計測 けいそく された脳 のう からの信号 しんごう との関連 かんれん は未 み 解明 かいめい であるが、意識 いしき が生 う まれる過程 かてい は電子 でんし 計算 けいさん 機 き のアルゴリズム に類似 るいじ しているという仮説 かせつ もある。将来 しょうらい に向 む けて、電子 でんし 計算 けいさん 機 き に「人工 じんこう 意識 いしき 」を持 も たせる(動物 どうぶつ の意識 いしき のアップロードを含 ふく む)研究 けんきゅう も始 はじ まっている[4] 。
19世紀 せいき 中葉 ちゅうよう のヨーロッパでは、哲学 てつがく から心理 しんり 学 がく が分科 ぶんか した。ヴィルヘルム・ヴント は意識 いしき という概念 がいねん を中心 ちゅうしん に心理 しんり 学 がく を組 く み立 た てようとした。意識 いしき は自分 じぶん の感 かん ずる「感覚 かんかく 」「感情 かんじょう 」「観念 かんねん 」に分 わ けられる。この三 みっ つの意識 いしき を自分 じぶん 自身 じしん が感 かん じたままに観 み ることを内観 ないかん 法 ほう (ないかんほう)という。
行動 こうどう 主義 しゅぎ 心理 しんり 学 がく では、意識 いしき という概念 がいねん を用 もち いずに、刺激 しげき と反応 はんのう という図式 ずしき で人間 にんげん の行動 こうどう を理解 りかい しようとする。
精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく [ 編集 へんしゅう ]
精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく では人間 にんげん の心 しん を、意識 いしき ・前 ぜん 意識 いしき ・無意識 むいしき の三 みっ つに分 わ ける。
自分 じぶん で現在 げんざい 認識 にんしき している内容 ないよう を意識 いしき という。つまり、我々 われわれ が直接的 ちょくせつてき に心 しん の現象 げんしょう として経験 けいけん していること、これは私 わたし の経験 けいけん だと感 かん じることのできることを総体 そうたい 的 てき に意識 いしき という。意識 いしき は短期 たんき 記憶 きおく ・作動 さどう 記憶 きおく と関係 かんけい がある[要 よう 出典 しゅってん ] 、ともされる。
自分 じぶん で現在 げんざい 認識 にんしき していないが、努力 どりょく すれば思 おも い出 だ すことができる内容 ないよう を前 ぜん 意識 いしき という。
自分 じぶん で現在 げんざい 認識 にんしき しておらず、努力 どりょく しても思 おも い出 だ せない内容 ないよう を無意識 むいしき という。精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく では通常 つうじょう の方法 ほうほう では思 おも い出 だ せない無 む 意識 いしき 下 か にあるものを、自由 じゆう 連想 れんそう 法 ほう などを用 もち いて意識 いしき に持 も ってゆくことで無意識 むいしき を理解 りかい しようとした。
覚醒 かくせい 状態 じょうたい とかかわる部位 ぶい として、脳幹 のうかん の網 あみ 様 さま 体 たい を含 ふく む上 うえ 行 こう 性 せい 網 もう 様 さま 体 たい 賦活 ふかつ 系 けい (じょうこうせいもうようたいふかつけい、Ascending Reticular Activating System; ARAS)という構造 こうぞう が重要 じゅうよう であることが知 し られている。上 うえ 行 ぎょう 性 せい 網 もう 様 さま 体 たい 賦活 ふかつ 系 けい を刺激 しげき すると眠 ねむ りから覚 さ める。逆 ぎゃく にこの部位 ぶい を破壊 はかい されると昏睡 こんすい 状態 じょうたい に陥 おちい る。上 うえ 行 ぎょう 性 せい 網 もう 様 さま 体 たい 賦活 ふかつ 系 けい の概念 がいねん は1949年 ねん にMoruzziとMagounによってまとめられた[5] [6] 。
ヒトの覚醒 かくせい と睡眠 すいみん は約 やく 24時 じ 間 あいだ 周期 しゅうき で繰 く り返 かえ される。24時 じ 間 あいだ 周期 しゅうき での睡眠 すいみん -覚醒 かくせい リズムは、ヒトの場合 ばあい 、生後 せいご 15-16週 しゅう 齢 よわい から始 はじ まる[7] 。この地球 ちきゅう の自転 じてん 周期 しゅうき と同調 どうちょう したリズムはサーカディアン・リズム と呼 よ ばれる。ヒトを含 ふく む哺乳類 ほにゅうるい のサーカディアン・リズムは、左右 さゆう の視神経 ししんけい が交差 こうさ する視 み 交叉 こうさ の上 うえ にある視 み 交叉 こうさ 上 じょう 核 かく という視床 ししょう 下部 かぶ の神経 しんけい 核 かく で生 う み出 だ されている。視 し 交叉 こうさ 上 じょう 核 かく を破壊 はかい された生物 せいぶつ は睡眠 すいみん と覚醒 かくせい の周期 しゅうき 的 てき なリズムが失 うしな われる[8] 。睡眠 すいみん ・覚醒 かくせい リズムは網膜 もうまく から入射 にゅうしゃ する外部 がいぶ の光信 みつのぶ 号 ごう などにより修飾 しゅうしょく を受 う け調整 ちょうせい されている。時間 じかん に関 かん する手 て がかり情報 じょうほう のない場所 ばしょ (たとえば明 あか るさの変化 へんか しない地下 ちか 室 しつ など)にヒトを長期間 ちょうきかん 置 お くと、睡眠 すいみん -覚醒 かくせい リズムはおよそ25時 じ 間 あいだ 周期 しゅうき となる。これはフリーラン・リズムと呼 よ ばれる[9] 。
医療 いりょう 現場 げんば の「意識 いしき レベル」[ 編集 へんしゅう ]
医療 いりょう 分野 ぶんや では患者 かんじゃ の意識 いしき の状態 じょうたい を「意識 いしき レベル」という数値 すうち で評価 ひょうか する。特 とく に救急 きゅうきゅう 医療 いりょう や麻酔 ますい 科学 かがく 分野 ぶんや で用 もち いられる。
意識 いしき の構成 こうせい には「清明 せいめい 度 ど 」「広 ひろ がり」「質的 しつてき 」の三 みっ つの要素 ようそ が存在 そんざい するが、このうち一般 いっぱん 的 てき に意識 いしき 障害 しょうがい というと「清明 せいめい 度 ど 」の低下 ていか についてを指 さ す。「広 ひろ がり」の低下 ていか (意識 いしき の狭窄 きょうさく )は催眠 さいみん であり、「質的 しつてき 」の変化 へんか (意識 いしき 変容 へんよう )はせん妄 もう やもうろう 等 ひとし を指 さ す。
意識 いしき は脳 のう の働 はたら きが活性 かっせい 化 か し、五感 ごかん に対 たい する刺激 しげき を感 かん じ取 と ることが可能 かのう な状態 じょうたい である。「意識 いしき がある」とは、脳 のう において刺激 しげき を認識 にんしき することが可能 かのう であり、刺激 しげき に対 たい し明確 めいかく な反応 はんのう を示 しめ す状態 じょうたい を指 さ す。これに対 たい して、 無意識 むいしき は五感 ごかん に対 たい する刺激 しげき が脳 のう で感 かん じ取 と られず、刺激 しげき を認識 にんしき していない状態 じょうたい である。刺激 しげき に対 たい する反応 はんのう が部分 ぶぶん 的 てき な状態 じょうたい である。また、「意識 いしき がない」とは、脳 のう の働 はたら きが部分 ぶぶん 的 てき に停止 ていし し、刺激 しげき の入力 にゅうりょく を拒否 きょひ した状態 じょうたい である。「気 き を失 うしな う」とは、過剰 かじょう な刺激 しげき に対 たい しショックを受 う け、脳 のう の働 はたら きが停止 ていし した状態 じょうたい である。
医療 いりょう の現場 げんば においては、意識 いしき の状態 じょうたい ・反応 はんのう に応 おう じて「意識 いしき レベル」で表示 ひょうじ する。救急 きゅうきゅう 医療 いりょう では、バイタルサイン の重要 じゅうよう 項目 こうもく の一 ひと つとして先 ま ず疾病 しっぺい 者 しゃ 等 とう の意識 いしき をアセスメント(確認 かくにん )して「意識 いしき レベル」の判定 はんてい を行 おこな う。簡易 かんい 的 てき に行 おこな う場合 ばあい は、アセスメントは3STEPで行 おこな う[10] 。STEP1 - まず「○○さん、わかりますか~?」などと声 こえ がけ して、声 こえ に反応 はんのう があるか観察 かんさつ する[10] 。行 い き倒 たお れた人 ひと や身元 みもと 不明 ふめい 者 しゃ などで名前 なまえ が分 わ からない場合 ばあい は、名前 なまえ 抜 ぬ きで「大丈夫 だいじょうぶ ですか~?」などと適当 てきとう に声 こえ がけして観察 かんさつ する[10] 。このSTEP1で反応 はんのう が無 な かったらSTEP2に進 すす み、肩 かた を手 て のひらでパタパタなどと叩 はた き つつ「○○さーん、起 お きてくださーい!」と大 おお きな声 こえ で叫 さけ んで反応 はんのう を観察 かんさつ する(ただ耳 みみ が遠 とお いだけ、という人 ひと もいるため)[10] 。STEP2でも反応 はんのう が無 な かったらSTEP3に進 すす み、腕 うで の皮膚 ひふ などをつねり 、反応 はんのう を観察 かんさつ する[10] 。
「意識 いしき レベル」はGlasgow Coma Scale やJapan Coma Scale やEmergency Coma Scale によって数値 すうち 化 か して評価 ひょうか される。
意識 いしき という言葉 ことば は実 じつ に様々 さまざま な意味 いみ で使 つか われており、意識 いしき という言葉 ことば の多義 たぎ 性 せい は、議論 ぎろん や研究 けんきゅう の中 なか でしばしば混乱 こんらん を引 ひ き起 お こしやすいものとなっている。
それぞれの人 ひと がそれぞれの場面 ばめん で、どういう意味 いみ でもって、意識 いしき という言葉 ことば を使 つか っているのか、その点 てん について相互 そうご 了解 りょうかい を持 も たないまま議論 ぎろん をしていくと、行 い き違 ちが いが発散 はっさん していくことが多 おお い。そうした混乱 こんらん は、心理 しんり 学者 がくしゃ や神経 しんけい 科学 かがく 者 しゃ といった、専門 せんもん 的 てき な肩書 かたが きを持 も つ人々 ひとびと の間 あいだ でも普通 ふつう に見 み られる。このような問題 もんだい を避 さ けるため意識 いしき と関 かか わる研究 けんきゅう 分野 ぶんや では、注意深 ちゅういぶか い研究 けんきゅう 者 しゃ は論文 ろんぶん や書籍 しょせき の冒頭 ぼうとう で、私 わたし が意識 いしき という言葉 ことば を使 つか うときそれはどういう意味 いみ か、といった説明 せつめい を予 あらかじ め行 おこな うことも少 すく なくない。意識 いしき を研究 けんきゅう しているそれぞれの科学 かがく 者 しゃ が研究 けんきゅう している対象 たいしょう は様々 さまざま だが(選択 せんたく 的 てき 注意 ちゅうい のメカニズムや覚醒 かくせい や麻酔 ますい のメカニズム、主観 しゅかん 的 てき 体験 たいけん の神経 しんけい 相関 そうかん 物 ぶつ など)、そうした全体 ぜんたい を含 ふく む最 もっと も包括 ほうかつ 的 てき な意識 いしき の定義 ていぎ として暫定 ざんてい 的 てき にしばしば使用 しよう されるのはアメリカの哲学 てつがく 者 しゃ ジョン・サール が採用 さいよう した定義 ていぎ に基 もと づく次 つぎ のような定義 ていぎ である[11] [12] [13] [14] 。
「
意識 いしき とは、私 わたし たちが、夢 ゆめ を見 み ない眠 ねむ りから覚 さ めて、再 ふたた び夢 ゆめ のない眠 ねむ りに戻 もど るまでの間 あいだ 持 も っている心 しん 的 てき な性質 せいしつ のことである
」
一方 いっぽう 、日常 にちじょう の中 なか では、意識 いしき という語 かたり は知性 ちせい (英 えい :intelligence)や自由 じゆう 意志 いし (英 えい :free will)の意味 いみ と混同 こんどう されることがある。しかし、しばしば見 み られるこれらの用法 ようほう は、心 しん や脳 のう と直接 ちょくせつ かかわる分野 ぶんや の現代 げんだい の研究 けんきゅう 者 しゃ によって、ほとんど採用 さいよう されていない。
以下 いか 、意識 いしき という言葉 ことば の持 も つ容易 ようい に区別 くべつ できるいくつかの意味 いみ を述 の べる[15] 。この区分 くぶん は必 かなら ずしも相互 そうご 排他 はいた 的 てき な分類 ぶんるい ではなく、相互 そうご に重複 じゅうふく や関連 かんれん を持 も った区分 くぶん である。このような区分 くぶん の仕方 しかた は研究 けんきゅう 者 しゃ によって、とりわけ哲学 てつがく 的 てき な立場 たちば によってまちまちで、統一 とういつ された見解 けんかい はない。この項 こう では混同 こんどう されやすい意味 いみ の区分 くぶん を述 の べるに留 と めて哲学 てつがく 的 てき な議論 ぎろん の詳細 しょうさい には立 た ち入 い らない。
意識 いしき には、起 お きている、覚醒 かくせい している、といった意味 いみ がある(英 えい :vigilance, arousal, awakening, wakefulness など)。これは睡眠 すいみん 、失神 しっしん 、昏睡 こんすい または死亡 しぼう 、という状態 じょうたい にない、という事 こと を意味 いみ する。この意味 いみ での用例 ようれい をあげるとたとえば「柔道 じゅうどう で、絞 し め技 わざ をかけられて我慢 がまん していたら、意識 いしき を失 うしな ってしまった」とか「交通 こうつう 事故 じこ のあとずっと昏睡 こんすい 状態 じょうたい だった人 ひと の意識 いしき が、今朝 けさ やっと戻 もど った」などがある。この意味 いみ での意識 いしき は、意識 いしき がある、意識 いしき がない、といった形 かたち で表現 ひょうげん される。この意味 いみ での意識 いしき は、creature consciousness (クリーチャー ・コンシャスネス、生物 せいぶつ 意識 いしき ・被 ひ 造物 ぞうぶつ 意識 いしき )と呼 よ ばれることもある。また、この意味 いみ での意識 いしき は目的 もくてき 語 ご を取 と らずに表現 ひょうげん されるため intransitive consciousness (イントランジッティブ・コンシャスネス、自動詞 じどうし 的 てき 意識 いしき )と呼 よ ばれることもある。
意識 いしき には、気 き づいている、または知 し っている、といった意味 いみ がある(英 えい :awareness)。たとえば今 いま あなたがこの文章 ぶんしょう を室内 しつない で読 よ んでいるとしたら、エアコンの稼動 かどう 音 おん 、パソコンのファンのうなり、冷蔵庫 れいぞうこ が動 うご く音 おと 、蛍光 けいこう 灯 とう の音 おと 、窓 まど に吹 ふ き付 つ ける風 かぜ の音 おと 、外 そと を通過 つうか する車 くるま の音 おと 等々 とうとう 、何 なん らかの音 おと が常 つね に鳴 な っていると思 おも われる。しかしそうしたことは恐 おそ らく今 いま 言 い われてみて気 き づいただろうが、それまでは特 とく に考 かんが えていなかったと思 おも われる。このようなとき「たしかに色々 いろいろ な音 おと がなっているね。でも今 いま まで特 とく に意識 いしき していなかった」などと言 い う。このような用法 ようほう が「意識 いしき 」という言葉 ことば にはある。他 ほか にも例 れい を挙 あ げると、あなたはこの文章 ぶんしょう を読 よ んでいる間 あいだ 、何 なん 度 ど も瞬 まばた き をしている(人間 にんげん はおよそ数 すう 秒 びょう ごとに一 いち 回 かい 、目 め を閉 と じる動作 どうさ を繰 く り返 かえ す)。これも言 い われてみばそうだと思 おも うかもしれないが、しかし言 い われるまでは恐 おそ らくそうしたことは考 かんが えていなかったはずである。このようなときも「たしかに瞬 まばた きはしている。でも普段 ふだん は特 とく に意識 いしき していないね」などと言 い う。意識 いしき する、意識 いしき しない、という言葉 ことば でこのようなことが表現 ひょうげん されている。この意味 いみ での意識 いしき は「○○を意識 いしき している」「△△について意識 いしき していなかった」などと、目的 もくてき 語 ご を取 と って表現 ひょうげん されるため transitive consciousness (トランジッティブ・コンシャスネス、他動詞 たどうし 的 てき 意識 いしき )と呼 よ ばれることもある。
意識 いしき という言葉 ことば は注意 ちゅうい (英 えい :attention)の意味 いみ で用 もち いられることがある。「意識 いしき 」と「注意 ちゅうい 」という二 ふた つの概念 がいねん は学者 がくしゃ たちの間 あいだ でも、しばしば相互 そうご に混同 こんどう して用 もち いられる概念 がいねん である。しかし意識 いしき や注意 ちゅうい の専門 せんもん 家 か たちはこの二 ふた つの概念 がいねん を、深 ふか い関 かか わりはあるが別 べつ の概念 がいねん であるとして、はっきり区別 くべつ して使用 しよう する[16] 。注意 ちゅうい には定位 ていい (orienting)、フィルターリング(filtering)、探索 たんさく (searching)という大 おお きく三 みっ つの側面 そくめん がある[17] 。定位 ていい とは、注意 ちゅうい を向 む けている対象 たいしょう についての情報 じょうほう が得 え やすいように体 からだ の姿勢 しせい など制御 せいぎょ すること。たとえば犬 いぬ の近 ちか くで大 おお きい音 おと を鳴 な らしてみる。すると各部 かくぶ の筋肉 きんにく の収縮 しゅうしゅく と弛緩 しかん を通 つう じて物音 ものおと のした方向 ほうこう に犬 いぬ の顔 かお が向 む けられ、眼球 がんきゅう が対象 たいしょう の方向 ほうこう に向 む けられる。そして音 おと が鳴 な った方 ほう に向 む かって犬 いぬ の耳 みみ がピンと立 た つ。こうして対象 たいしょう についての情報 じょうほう が取得 しゅとく しやすくなる(これは定位 ていい 反射 はんしゃ と呼 よ ばれる)。フィルタリングとは注意 ちゅうい を向 む けている情報 じょうほう についての情報処理 じょうほうしょり を強化 きょうか し、対象 たいしょう についてより多 おお くの情報 じょうほう を取得 しゅとく する一方 いっぽう 、他 た の対象 たいしょう についての情報処理 じょうほうしょり 作業 さぎょう を抑制 よくせい することである。たとえば音楽 おんがく が鳴 な っている中 なか でワイワイ・ガヤガヤと多 おお くの人 ひと が会話 かいわ を繰 く り広 ひろ げている大 おお きいパーティの会場 かいじょう で、誰 だれ かがどこかで自分 じぶん の名前 なまえ を出 だ したように思 おも ったとき、その自分 じぶん の名前 なまえ を呼 よ んだように思 おも った人 ひと の会話 かいわ の情報処理 じょうほうしょり を強化 きょうか し、他 た の人 ひと たちが行 おこな っている会話 かいわ についての情報処理 じょうほうしょり を抑制 よくせい することができる。つまりフィルタリングされる(カクテル・パーティー効果 こうか )。
(英 えい :voluntary action)
上 うえ の意味 いみ と似 に ているが、自分 じぶん がいるということに気 き づいていること、または自分 じぶん がいるということを知 し っていることを、「意識 いしき がある」と表現 ひょうげん することがある(英 えい :self-consciousness, self-recognition)。これは自己 じこ 意識 いしき 、自意識 じいしき とも言 い われる。ヒトは成長 せいちょう の過程 かてい で自己 じこ の存在 そんざい に気 き づくようになるが、これは、自我 じが の芽生 めば え、とも言 い われる。このような側面 そくめん と関 かか わる実験 じっけん は心理 しんり 学 がく の分野 ぶんや で多 おお い。発達 はったつ 心理 しんり 学 がく をはじめ、比較 ひかく 心理 しんり 学 がく における鏡 かがみ 像 ぞう 自己 じこ 認知 にんち の研究 けんきゅう などがある。鏡 かがみ 像 ぞう 自己 じこ 認知 にんち とは、鏡 かがみ を見 み てそこに映 うつ った自分 じぶん の像 ぞう を自分 じぶん だと理解 りかい できること、を指 さ す。この鏡 かがみ 像 ぞう 自己 じこ 認知 にんち が、ネコはできるか、ゾウはできるか、チンパンジーはできるか、イルカはできるか、といったことが調 しら べられている。
また、自分 じぶん 自身 じしん の心的 しんてき な状態 じょうたい などを把握 はあく すること、たとえば「自分 じぶん は今 こん 機嫌 きげん が悪 わる い」「自分 じぶん は今 いま ○○をしたいと思 おも っている」といったことを知 し ることができること、を「意識 いしき がある」と表現 ひょうげん することがある。このような自己 じこ の心 しん 的 てき 状態 じょうたい についての把握 はあく する行為 こうい は、メタ認知 にんち (英 えい :metacognition)とも言 い われる。
主観 しゅかん 的 てき 経験 けいけん 、現象 げんしょう 的 てき な質 しつ [ 編集 へんしゅう ]
意識 いしき という言葉 ことば のもつもうひとつの意味 いみ は主観 しゅかん 的 てき な経験 けいけん 、現象 げんしょう 的 てき な質 しつ である(英 えい :subjective character of experience, phenomenal quality など)。物理 ぶつり 化学 かがく 的 てき な三人称 さんにんしょう 的 てき 視点 してん (third-person perspective)と対比 たいひ させて一人称 いちにんしょう 的 てき 視点 してん (first-person perspective)、また客観 きゃっかん 的 てき 側面 そくめん と対比 たいひ させて単 たん に主観性 しゅかんせい (subjectivity)などとも言 い う。この意味 いみ での意識 いしき は、もっとも広 ひろ い関心 かんしん を集 あつ めており、非常 ひじょう に激 はげ しい哲学 てつがく 上 じょう の議論 ぎろん が交 か わされている部分 ぶぶん である。しかしこの意味 いみ での意識 いしき は明確 めいかく に定義 ていぎ することが難 むずか しく、ときに「それはただ指 さ すことしかできない」、「直 ちょく 示 しめせ 的 てき に定義 ていぎ することしかできない」ということが言 い われることもある。とりあえず主観 しゅかん 的 てき な経験 けいけん という意味 いみ での意識 いしき の定義 ていぎ で最 もっと も有名 ゆうめい なものは、ユーゴスラビア出身 しゅっしん のアメリカの哲学 てつがく 者 しゃ トマス・ネーゲル が1974年 ねん の論文 ろんぶん 『コウモリであるとはどのようなことか 』において提出 ていしゅつ した次 つぎ の定義 ていぎ である[18] 。
「
ある生物 せいぶつ が意識 いしき をともなう心 しん 的 てき 諸 しょ 状態 じょうたい をもつのは、その生物 せいぶつ であることはそのようにあることであるようなその何 なに かが―しかもその生物 せいぶつ にとってそのようにあることであるようなその何 なに かが―存在 そんざい している場合 ばあい であり、またその場合 ばあい だけである。
」
—トマス・ネーゲル(『コウモリであるとはどのようなことか 』より)
この定義 ていぎ はこのままでは暗号 あんごう めいているので、いくつか例 れい を出 だ して説明 せつめい する。まず1例 れい 目 め 「タンスの角 かく に小指 こゆび をぶつけた人 ひと である、とは一体 いったい どのようなことか」。もしあなたが同 おな じような経験 けいけん したことがあるなら何 なん となく分 わ かるだろうが、このような人 ひと は、足 あし 先 さき に突如 とつじょ 訪 おとず れた激 はげ しい痛 いた み、そしてどこにぶつけていいのか分 わ からないやり場 ば のない怒 いか り、などを経験 けいけん している。2例 れい 目 め 。「お祭 まつ りの場 ば でニコニコしながらチョコレート味 あじ のアイスクリームを食 た べている子供 こども である、とは一体 いったい どのようなことか」。これも似 に たような場面 ばめん を経験 けいけん したことがあるなら何 なん となく分 わ かるであろうが、このような子供 こども は、お祭 まつ りの場 ば にともなう高揚 こうよう 感 かん 、そして口 くち の中 なか に広 ひろ がる甘 あま い感 かん じ、などを体験 たいけん している。ではここで問題 もんだい である。「中 なか にガソリンを詰 つ められたドラム缶 どらむかん である、とはどのようことか」。これはおかしな質問 しつもん であり、多 おお くの人 ひと は次 つぎ のように思 おも うだろう。ドラム缶 どらむかん はただのモノであり何 なに かを感 かん じるとか、そういう類 るい のものではないと。つまりドラム缶 どらむかん であるとはどのようなことかと言 い えるような何 なに ものかはない、つまり意識 いしき はない、と。ネーゲルの意識 いしき の定義 ていぎ は、このような意味 いみ での意識 いしき を指 さ している。このネーゲルの意味 いみ と関連 かんれん の深 ふか い用法 ようほう として、主観 しゅかん 的 てき な経験 けいけん の中 なか に現 あらわ れるそれぞれの質 しつ のことを「意識 いしき 」という言葉 ことば で表現 ひょうげん することがある。これは普通 ふつう 、クオリア 、感覚 かんかく 質 しつ などといわれ、一般 いっぱん にいくつもの例 れい を挙 あ げる形 かたち で枚挙 まいきょ 的 てき に定義 ていぎ される(赤 あか の赤 あか さ、虫歯 むしば の痛 いた み、コーヒーの苦味 にがみ など)。こうした意識 いしき の持 も つ主観 しゅかん 的 てき 側面 そくめん について物理 ぶつり 化学 かがく 的 てき ・神経 しんけい 科学 かがく 的 てき な見地 けんち から説明 せつめい することが難 むずか しく思 おも える、という問題 もんだい は説明 せつめい のギャップ 、意識 いしき のハードプロブレム と呼 よ ばれる。1990年代 ねんだい ごろから科学 かがく の領域 りょういき でもこうした主観性 しゅかんせい の問題 もんだい が議論 ぎろん されている[19] 。
実体 じったい としての意識 いしき [ 編集 へんしゅう ]
もうひとつの意味 いみ として、意識 いしき はしばしば心霊 しんれい 主義 しゅぎ 的 てき な霊魂 れいこん の同義語 どうぎご のような形 かたち で使 つか われる(英 えい :soul, spirit, consciousness as substance など)。このような用例 ようれい としてたとえば「意識 いしき が肉体 にくたい から抜 ぬ け出 だ して幽体 ゆうたい 離脱 りだつ (体外 たいがい 離脱 りだつ )した」といったものが挙 あ げられる。このような考 かんが え方 かた 、体 からだ と独立 どくりつ に心的 しんてき 実体 じったい があるという考 かんが え方 かた は、哲学 てつがく の世界 せかい では心身 しんしん 二元論 にげんろん 、実体 じったい 二元論 にげんろん などと呼 よ ばれているが、科学 かがく 者 しゃ の中 なか にも哲学 てつがく 者 しゃ の中 なか にも、この考 かんが え方 かた を支持 しじ している人 ひと はほとんどいない。しかしながら臨死 りんし 体験 たいけん 研究 けんきゅう 者 しゃ など一部 いちぶ の科学 かがく 者 しゃ はこの説 せつ を支持 しじ している人 ひと もいる。
プロトサイエンスにおける意識 いしき [ 編集 へんしゅう ]
プロトサイエンス においては、探求 たんきゅう 者 しゃ の立場 たちば により定義 ていぎ 、内容 ないよう も様々 さまざま で、大胆 だいたん な仮説 かせつ が多 おお く、議論 ぎろん が分 わ かれているのが現状 げんじょう である。
自分 じぶん が慣 な れ親 した しんだ諸 しょ 理論 りろん や学問 がくもん 上 じょう のツールを、なかば強引 ごういん に流用 りゅうよう して意識 いしき の理論 りろん を構築 こうちく しようと試 こころ みている研究 けんきゅう 者 しゃ なども存在 そんざい する(究極 きゅうきょく の一 いち 要素 ようそ にこだわる還元 かんげん 主義 しゅぎ 的 てき な発想 はっそう に陥 おちい っているもの、数式 すうしき や方程式 ほうていしき で表現 ひょうげん することにこだわるものなど)。
また、一部 いちぶ では、心 しん の哲学 てつがく における細 こま かい論点 ろんてん に対 たい する科学 かがく の分野 ぶんや における議論 ぎろん が未熟 みじゅく であること、意識 いしき そのものの捉 とら え方 かた が研究 けんきゅう 者 しゃ ごとに大 おお きく異 こと なり曖昧 あいまい になっていることなどを問題 もんだい 視 し ・疑問 ぎもん 視 し する声 こえ もある。今後 こんご は、従来 じゅうらい の分野 ぶんや の域 いき を超 こ えた学際 がくさい 的 てき な議論 ぎろん が期待 きたい される。
以下 いか に、意識 いしき の仕組 しく みを解明 かいめい しようとしている仮説 かせつ 提唱 ていしょう 者 しゃ の一部 いちぶ を示 しめ す。
ロジャー・ペンローズ スチュワート・ハメロフ
量子 りょうし 脳 のう 理論 りろん などと呼 よ ばれる意識 いしき に関 かん する独自 どくじ の仮説 かせつ を提唱 ていしょう しており、「脳 のう 内 ない の神経 しんけい 細胞 さいぼう にある微小 びしょう 管 かん で、波動 はどう 関数 かんすう が収縮 しゅうしゅく すると、素粒子 そりゅうし に付随 ふずい する基本 きほん 的 てき で単純 たんじゅん な意識 いしき の属性 ぞくせい も組 く み合 あ わさり、生物 せいぶつ の高度 こうど な意識 いしき が生起 せいき する」としている。微小 びしょう 管 かん とは細胞 さいぼう 骨格 こっかく の一種 いっしゅ で、細胞 さいぼう の構造 こうぞう を維持 いじ する役割 やくわり を担 にな っているタンパク質 たんぱくしつ の複 ふく 合体 がったい である。微小 びしょう 管 かん が採用 さいよう された背景 はいけい には、脳 のう 内 ない の広 ひろ い範囲 はんい で、ある程度 ていど の時間 じかん 量子力学 りょうしりきがく 的 てき な重 かさ ね合 あ わせ状態 じょうたい を維持 いじ できそうな構造 こうぞう 物 ぶつ が他 た に見当 みあ たらなかったためだという理由 りゆう がある。 ペンローズの量子 りょうし 脳 のう 理論 りろん は三 みっ つの大 おお きな仮定 かてい の上 うえ に組 く み立 た てられている。一 ひと つは「人間 にんげん の思考 しこう はチューリングマシン の動作 どうさ には還元 かんげん できない」という仮定 かてい 、もう一 ひと つは「波動 はどう 関数 かんすう の収縮 しゅうしゅく はチューリングマシンで計算 けいさん することが不可能 ふかのう な、実在 じつざい 的 てき 物理 ぶつり プロセスである」という仮定 かてい 、そして最後 さいご は「量子 りょうし 論 ろん と相対 そうたい 論 ろん を理論 りろん 的 てき に統合 とうごう することで、意識 いしき の問題 もんだい も同時 どうじ に解決 かいけつ される」という仮定 かてい である。これら個々 ここ の仮定 かてい はどれも、科学 かがく 者 しゃ コミュニティーの間 あいだ で一般 いっぱん 的 てき に受 う け入 い れられているものではないが、それらを更 さら に一 ひと つの理論 りろん として結 むす びつけたのが、ペンローズの量子 りょうし 脳 のう 理論 りろん である。このような憶測 おくそく の上 うえ に憶測 おくそく を重 かさ ねて構成 こうせい された仮説 かせつ であるため、内容 ないよう の正 ただ しさについては一般 いっぱん 的 てき に懐疑 かいぎ の眼 め で見 み られている。ただ、著名 ちょめい な理論 りろん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ ペンローズによって提唱 ていしょう された仮説 かせつ という事 こと もあり、知名度 ちめいど は高 たか くまた、ハメロフは生物 せいぶつ 学 がく 上 じょう の様々 さまざま な現象 げんしょう が量子 りょうし 論 ろん を応用 おうよう することで説明 せつめい 可能 かのう な点 てん から少 すこ しずつ立証 りっしょう されていて20年 ねん 前 まえ から唱 とな えられてきたこの説 せつ を根本 こんぽん 的 てき に否定 ひてい できた人 ひと はいないと主張 しゅちょう している[20] 。
保 ほ 江 こう 邦夫 くにお
脳 のう のマクロスケールでの振舞 ふるま い、または意識 いしき の問題 もんだい に、系 けい の持 も つ量子力学 りょうしりきがく 的 てき な性質 せいしつ が深 ふか く関 かか わっているとする考 かんが え方 かた の総称 そうしょう 。心 こころ または意識 いしき に関 かん する量子力学 りょうしりきがく 的 てき アプローチ(Quantum approach to mind/consciousness)、クオンタム・マインド(Quantum mind)、量子 りょうし 意識 いしき (Quantum consciousness)などとも言 い われる。具体 ぐたい 的 てき な理論 りろん にはいくつかの流派 りゅうは が存在 そんざい する。
宇宙 うちゅう が創成 そうせい されたとき、何 なに もない無 む の状態 じょうたい 、すなわち宇宙 うちゅう を一 ひと つの量子力学 りょうしりきがく 系 けい と考 かんが えたときのその真空 しんくう 状態 じょうたい (最低 さいてい エネルギー固有 こゆう 状態 じょうたい )からトンネル効果 こうか による相 あい 転移 てんい で疑似 ぎじ 真空 しんくう 状態 じょうたい としての比較的 ひかくてき 平坦 へいたん な宇宙 うちゅう が出現 しゅつげん したとされる。そして、その宇宙 うちゅう の上 うえ での踊 おど る素粒子 そりゅうし もまた、場 ば の量子 りょうし 論 ろん により記述 きじゅつ される。スケールこそ違 ちが え、これと同 おな じ現象 げんしょう が人間 にんげん の脳 のう の中 なか で生 しょう じているという、この考 かんが え方 かた を量子 りょうし 脳 のう 力学 りきがく (Quantum Brain Dynamics)と呼 よ ぶ。心 しん とは、記憶 きおく を蓄 たくわ えた脳 のう 組織 そしき から絶 た え間 ま なく生 う み出 だ される光量子 こうりょうし (フォトン )凝集 ぎょうしゅう 体 たい であり、場 ば の量子 りょうし 論 ろん によって記述 きじゅつ されるその物理 ぶつり 的 てき 運動 うんどう が意識 いしき である。脳 のう をひとつの量子力学 りょうしりきがく 系 けい と考 かんが えたとき、外部 がいぶ からの刺激 しげき を受 う けてその無 む の状態 じょうたい 、すなわち真空 しんくう 状態 じょうたい からトンネル効果 こうか による相 あい 転移 てんい で準 じゅん 安定 あんてい な疑似 ぎじ 真空 しんくう 状態 じょうたい が出現 しゅつげん する。これがその刺激 しげき の記憶 きおく に他 た ならない。新 あら たなる刺激 しげき は再 ふたた びトンネル効果 こうか の引 ひ き金 がね となり、脳 のう の量子力学 りょうしりきがく 系 けい は別 べつ の真空 しんくう 状態 じょうたい と転移 てんい する。これは以前 いぜん の刺激 しげき の記憶 きおく を加味 かみ した新 あら たな刺激 しげき の記憶 きおく であり、したがって単 たん なる新 あら たな刺激 しげき のみの記憶 きおく ではない。つまり、脳 のう の量子力学 りょうしりきがく 系 けい の疑似 ぎじ 真空 しんくう 状態 じょうたい は常 つね に過去 かこ は記憶 きおく の総体 そうたい を表 あらわ している。宇宙 うちゅう の上 うえ で踊 おど る素粒子 そりゅうし の運動 うんどう に対応 たいおう するものは、脳 のう の場合 ばあい は、過去 かこ の記憶 きおく 上 じょう での人間 にんげん の意識 いしき そのものと考 かんが える。意識 いしき とは、過去 かこ の記憶 きおく 総体 そうたい である脳 のう の量子力学 りょうしりきがく 系 けい における疑似 ぎじ 真空 しんくう 状態 じょうたい の上 うえ に生成 せいせい と消滅 しょうめつ を繰 く り返 かえ す励起 れいき エネルギー量子 りょうし の運動 うんどう にほかならないとする。これを量子 りょうし 脳 のう 力学 りきがく という。1999年 ねん 5月 がつ 25日 にち から28日 にち まで、日本 にっぽん で初 はじ めてツーソン会議 かいぎ が東京 とうきょう 青山 あおやま の国際連合大学 こくさいれんごうだいがく にて開催 かいさい された。その内容 ないよう は意識 いしき 科学 かがく を中心 ちゅうしん とし、会議 かいぎ の幹事 かんじ が保 ほ 江 え であった。保 ほ 江 え は、この国際 こくさい 会議 かいぎ を手作 てづく り国際 こくさい 研究 けんきゅう 集会 しゅうかい と呼称 こしょう し協力 きょうりょく を各 かく 方面 ほうめん に仰 あお いだ。開催 かいさい が極 きわ めて難 むずか しい状況 じょうきょう であったが、保 ほ 江 え の熱意 ねつい が国連大学 こくれんだいがく 高等 こうとう 研究所 けんきゅうじょ のデラ・センタ所長 しょちょう に通 つう じて国連大学 こくれんだいがく を開催 かいさい 場所 ばしょ として確保 かくほ できた。保 ほ 江 え によれば、後 のち になって考 かんが えるとこれも合 ごう 気 き (愛 あい 魂 たましい )の効果 こうか だったのかもしれないと回顧 かいこ している。
茂木 もき 健一郎 けんいちろう
茂木 もき は、基本 きほん 的 てき な立場 たちば としてはデイヴィッド・チャーマーズ と同 おな じ路線 ろせん を歩 あゆ んでおり、クオリア までをも含 ふく んだ全 すべ ての現象 げんしょう を扱 あつか いうる「拡張 かくちょう された物理 ぶつり 学 がく 」を志向 しこう している。茂木 もき の著書 ちょしょ 『クオリア入門 にゅうもん 』も「心 しん も自然 しぜん 法則 ほうそく の一部 いちぶ である」という表題 ひょうだい から始 はじ められており、「意識 いしき のほんとうの科学 かがく を目指 めざ す」という自身 じしん の方向 ほうこう 性 せい をはっきりと明示 めいじ している。また茂木 もき は「脳 のう 内 ない でのニューロン の時 とき 空間 くうかん 的 てき な発火 はっか パターンに対応 たいおう してクオリア が生起 せいき している」という独自 どくじ の作業 さぎょう 仮説 かせつ をとり、そこからクオリアが持 も つ(であろう)何 なん らかの数学 すうがく 的 てき 構造 こうぞう を見 み つけることが出来 でき るのではないか、として研究 けんきゅう を行 おこな っている。具体 ぐたい 的 てき には発火 はっか しているニューロンの時間 じかん 的 てき ・空間 くうかん 的 てき パターンをミンコフスキー空間 くうかん 内 うち で幾何 きか 学 がく 的 てき または位相 いそう 幾何 きか 学 がく ・グラフ理論 りろん 的 てき に抽象 ちゅうしょう 化 か し、そこに群論 ぐんろん 的 てき な数学 すうがく 的 てき 構造 こうぞう を見出 みいだ そうとしている[要 よう 出典 しゅってん ] 、ともされる。
前野 まえの 隆司 たかし
前野 まえの は、ロボットに人間 にんげん と同等 どうとう の機能 きのう をもたせるようプログラミング する、といういわゆる人工 じんこう 知能 ちのう の問題 もんだい を追 お いかけている途上 とじょう で、意識 いしき に関 かん する仮説 かせつ 「受動 じゅどう 意識 いしき 仮説 かせつ 」を見出 みいだ し、提唱 ていしょう している。工学 こうがく 者 しゃ の前野 まえの らしく、意識 いしき についてかなり工学 こうがく 的 てき な議論 ぎろん を展開 てんかい する。
中田 なかた 力 つとむ
中田 なかた は、脳 のう にはニューロンネットワーク以外 いがい の機能 きのう 構造 こうぞう があるとし、グリア細胞 さいぼう に存在 そんざい するアクアポリン4を介 かい した水分 すいぶん 子 こ のクラスター形成 けいせい によってランダムなニューロンの発火 はっか 、つまり覚醒 かくせい がおこるとする仮説 かせつ を展開 てんかい している[21] 。
野口 のぐち 豊太 とよた
野口 のぐち は、脳 のう 内 ない の情報 じょうほう の意味 いみ の流 なが れ「そのもの」が意識 いしき であると言 い う。脳 のう 内 ない の情報 じょうほう の意味 いみ とは、例 たと えばリンゴを見 み た時 とき 目 め からの形状 けいじょう 信号 しんごう だけで出来上 できあ がるのではなく、記憶 きおく 情報 じょうほう の柿 かき ・ミカン・柿 かき の木 き ・種 たね ・赤 あか いとかの色彩 しきさい ・丸 まる い・甘酸 あまず っぱい味 あじ ・リンゴ園 えん ・青森 あおもり ・信州 しんしゅう ・アップルパイ・リンゴの値段 ねだん ・リンゴという言葉 ことば ・藤村 ふじむら の初恋 はつこい の詩 し 、等々 とうとう リンゴの周囲 しゅうい 情報 じょうほう があって初 はじ めてリンゴの意味 いみ が脳神経 のうしんけい 活動 かつどう の中 なか に生 う まれてくる。この様 よう に外界 がいかい 世界 せかい の情報 じょうほう の意味 いみ は要素 ようそ 単体 たんたい からではなく要素 ようそ 相互 そうご の依存 いぞん により創 そう 生 む される。つまりコンピュータ内 ない の意味 いみ とは異 こと なり与 あた えられたものではない。脳 のう 内 ない には依存 いぞん 関係 かんけい による外界 がいかい 情報 じょうほう 世界 せかい が出来上 できあ がる。(モザイクボール情報 じょうほう 世界 せかい 仮説 かせつ )見 み た目 め は神経 しんけい 発火 はっか 現象 げんしょう に過 す ぎない中 なか に潜 ひそ む意味 いみ を理解 りかい 出来 でき るのは、ただ次段 じだん に繋 つな がる神経 しんけい 系 けい である。意味 いみ は外界 がいかい を把握 はあく し「私 わたし 」の次 つぎ の行動 こうどう を決 き める。そして意味 いみ は、明 あか るい・痛 いた いではなく、明 あか るく感 かん じる・痛 いた く感 かん じるとする。つまり意味 いみ の主体 しゅたい がそこに隠 かく れていると考 かんが える。この主体 しゅたい が「私 わたし 」の原型 げんけい となる。(組 く み込 こ み主体 しゅたい 情報 じょうほう 仮説 かせつ )この物的 ぶってき 意味 いみ の流 なが れは、単 たん なる信号 しんごう 情報 じょうほう の流 なが れで生命 せいめい 維持 いじ の目的 もくてき だけに寄与 きよ しているのだろうか?そうではなくそこには「私 わたし 」が存在 そんざい し、リンゴを見 み て赤 あか く感 かん じ、あの時 とき の甘酸 あまず っぱい味 あじ を思 おも い出 だ し、藤村 ふじむら の詩 し が思 おも いだす。この一連 いちれん の複雑 ふくざつ で繊細 せんさい な情報 じょうほう の意味 いみ の流 なが れが「意識 いしき 」となり、「私 わたし 」だけが感 かん じられる。これは「意味 いみ の流 なが れそのもの」が自立 じりつ した意識 いしき となるのではないか。すると「意識 いしき 」は随伴 ずいはん 現象 げんしょう ではなく、脳 のう 内 ない の神経 しんけい 系 けい 情報 じょうほう の「意味 いみ の流 なが れそのもの」が自立 じりつ したものであると言 い える[22] 。
意識 いしき の神経 しんけい 相関 そうかん [ 編集 へんしゅう ]
神経 しんけい 科学 かがく などを専門 せんもん としている科学 かがく 者 しゃ による意識 いしき の探求 たんきゅう は、人間 にんげん (あるいは患者 かんじゃ )の事例 じれい ・症例 しょうれい を多数 たすう 踏 ふ まえ、脳 のう の解剖 かいぼう や神経 しんけい 組織 そしき の観察 かんさつ ・実験 じっけん などから意識 いしき 現象 げんしょう と物理 ぶつり 的 てき な要素 ようそ をすり合 あ わせ的 てき に検証 けんしょう している。
フランシス・クリック 、クリストフ・コッホ
コッホは、フランシス・クリック とともに、科学 かがく が意識 いしき の問題 もんだい に挑 いど む第一歩 だいいっぽ として、「意識 いしき と相関 そうかん する脳 のう 活動 かつどう (NCC)」を神経 しんけい 科学 かがく の実験 じっけん により追求 ついきゅう していくことが得策 とくさく であるとして具体 ぐたい 的 てき な研究 けんきゅう 手法 しゅほう を提案 ていあん している[23] [24] 。意識 いしき の機能 きのう を脳 のう 活動 かつどう と対応 たいおう づけていくことが着実 ちゃくじつ な進展 しんてん につながると考 かんが えている。意識 いしき の機能 きのう として将来 しょうらい の行動 こうどう のプラニングが重要 じゅうよう であることから、前頭葉 ぜんとうよう に直接 ちょくせつ 投射 とうしゃ のある脳 のう 部位 ぶい の活動 かつどう がNCCの一部 いちぶ となっていると考 かんが えており、解剖 かいぼう 的 てき に前頭葉 ぜんとうよう へ投射 とうしゃ していない一 いち 次 じ 視覚 しかく 野 の の活動 かつどう は直接 ちょくせつ 意識 いしき に上 のぼ らないという「V1仮説 かせつ 」を提唱 ていしょう している。その他 た にも、意識 いしき に関 かん して理論 りろん 的 てき 考察 こうさつ から、「非 ひ 意識 いしき ホムンクルス」などの概念 がいねん も提唱 ていしょう している。クオリアは計画 けいかく モジュールなどの一 いち 歩 ほ 手前 てまえ のニューロン連合 れんごう からつくられると考 かんが えている。これはレイ・ジャッケンドフ の「意識 いしき の中 なか 間 あいだ レベル理論 りろん 」に準拠 じゅんきょ し、意識 いしき の内容 ないよう は常 つね に知覚 ちかく の形式 けいしき をとると主張 しゅちょう している。一方 いっぽう 、より抽象 ちゅうしょう 的 てき な「思考 しこう 」などは非 ひ 意識 いしき に遂行 すいこう されると考 かんが えられる。
ジェラルド・エーデルマン 、ジュリオ・トノーニ
視床 ししょう -皮質 ひしつ 系 けい のネットワークで構成 こうせい されるダイナミック・コア が意識 いしき 体験 たいけん を生 う み出 だ しているとするダイナミック・コア仮説 かせつ [25] 、また視床 ししょう -皮質 ひしつ 系 けい において相互 そうご 情報 じょうほう 量 りょう で測 はか られる各 かく 部位 ぶい 間 あいだ の情報 じょうほう 的 てき な統合 とうごう の強 つよ さが主観 しゅかん 的 てき な意識 いしき 体験 たいけん の内容 ないよう を決 き めるとする意識 いしき の統合 とうごう 情報 じょうほう 理論 りろん (Information Integration theory of Consciousness )を提出 ていしゅつ している[14] [26] 。
運動 うんどう 準備 じゅんび 電位 でんい [ 編集 へんしゅう ]
自発 じはつ 的 てき 運動 うんどう に関 かん する研究 けんきゅう から、意識 いしき 的 てき 決定 けってい の体験 たいけん は行動 こうどう に先 さき んじない事 こと が確認 かくにん されており(つまり後追 あとお いする)、脳 のう 内 ない で神経 しんけい 細胞 さいぼう の活動 かつどう が始 はじ まってから数 すう 百 ひゃく ミリ秒 びょう 後 ご に意識 いしき 的 てき 決定 けってい の体験 たいけん が起 お きる、という順序 じゅんじょ が確 たし かめられている。このことから「意識 いしき とは自分 じぶん の現状 げんじょう をモニター(監視 かんし )する機能 きのう である」と結論 けつろん 付 つ けられつつある。 つまり意識 いしき はモニター監視 かんし した結果 けっか をフィードバックする事 こと で、その後 ご の行動 こうどう に反映 はんえい するという形 かたち で間接 かんせつ 的 てき に行動 こうどう を制御 せいぎょ できるが、その瞬間 しゅんかん 瞬間 しゅんかん に行動 こうどう を直接的 ちょくせつてき に制御 せいぎょ しているのではない、といったことである。簡潔 かんけつ に、私 わたし たちが持 も つのは自由 じゆう 意志 いし (free will)ではなく自由 じゆう 拒否 きょひ (free won't)だ、と表現 ひょうげん されることもある。意識 いしき 的 てき 決定 けってい と運動 うんどう に関 かん する先駆 せんく 的 てき な研究 けんきゅう は1980年代 ねんだい にアメリカの生理学 せいりがく 者 しゃ ベンジャミン・リベット により行 おこな われた[27] 。
脚注 きゃくちゅう ・出典 しゅってん [ 編集 へんしゅう ]
^ G.Bryan Young ら(編 へん ), 井上 いのうえ 聖 きよし 啓 けい ら(訳 わけ )『昏睡 こんすい と意識 いしき 障害 しょうがい 』
^ フロランス・ビュルガ『そもそも植物 しょくぶつ とは何 なに か』 (河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、2021年 ねん 4月 がつ )
^ シモーナ・ギンズバーグ、エヴァ・ヤブロンカ(著 ちょ )、鈴木 すずき 大地 だいち (訳 わけ )『動物 どうぶつ 意識 いしき の誕生 たんじょう 生体 せいたい システム理論 りろん と学習 がくしゅう 理論 りろん から解 と き明 あ かす心 しん の進化 しんか 』上 じょう ・下 した (勁草書房 しょぼう 、2021年 ねん 5月 がつ )
^ 「計算 けいさん 機 き に意識 いしき は宿 やど るか 動物 どうぶつ からアップロード実験 じっけん も」 『日本経済新聞 にほんけいざいしんぶん 』朝刊 ちょうかん 2021年 ねん 6月 がつ 6日 にち サイエンス面 めん
^ Moruzzi G. & Magoun H.W. (1949) Brain stem reticular formation and activation of the EEG. Electroencephalography and Clinical Neurophysiology 1:455–473.
^ 前田 まえだ 敏博 としひろ 「睡眠 すいみん の神経 しんけい 機構 きこう 」 『動物 どうぶつ 心理 しんり 学 がく 研究 けんきゅう 』第 だい 47巻 かん 第 だい 2号 ごう 99-106 (1997)
^ 井深 いぶか 信男 のぶお 「サーカディアン・システムの神経 しんけい 機構 きこう とその生理 せいり 心理 しんり 学 がく 」 『The Japanese Journal of Psychology』1985, Vol. 56, No. 5, 300-315
^ 秋山 あきやま 正憲 まさのり , 守屋 もりや 孝洋 たかひろ , 柴田 しばた 重信 しげのぶ 「生体 せいたい 時計 とけい の生理学 せいりがく 的 てき ,薬理 やくり 学 がく 的 てき ,分子生物学 ぶんしせいぶつがく 的 てき 解析 かいせき 」 『日 にち 薬理 やくり 誌 し 』(Folia Pharmacol. Jpn.)112, 243~250(1998年 ねん )
^ 本間 ほんま 研一 けんいち 「ヒトのサーカディアンリズムと光 ひかり 環境 かんきょう 」 『人間 にんげん 工学 こうがく 』第 だい 37巻 かん 特別 とくべつ 号 ごう pp.44-45(2001年 ねん )
^ a b c d e [1]
^ "By "consciousness" I mean those states of sentience or awareness that typically begin when we wake up in the morning from a dreamless sleep and continue throughout the day until we fall asleep again. " (「意識 いしき 」という言葉 ことば で私 わたし が意味 いみ するのは、典型 てんけい 的 てき には夢 ゆめ のない眠 ねむ りから覚 さ めたときに始 はじ まり、再 ふたた び眠 ねむ りにつくまで日 にち 中 ちゅう 続 つづ く、感覚 かんかく や気 き づきのこうした状態 じょうたい である) John R Searle "Mind, Language And Society: Philosophy In The Real World" Basic Books (1999) pp.40-41 ISBN 978-0465045211
^ Antonio Damasio and Kaspar Meyer "Consciousness: An Overview of the Phenomenon and of Its Possible Neural Basis" The Neurology of Consciousness: Cognitive Neuroscience and Neuropathology Steven Laureys et al. ed. p.4 Academic Press (2008) ISBN 978-0123741684
^ クリストフ・コッホ 著 しる 、土谷 つちたに 尚 しょう 嗣 、金井 かない 良太 りょうた 訳 わけ 『意識 いしき の探求 たんきゅう ―神経 しんけい 科学 かがく からのアプローチ <上 うえ >』岩波書店 いわなみしょてん 2006年 ねん ISBN 4000050532 pp.28-29
^ a b Gerald Edelman , Giulio Tononi "A Universe Of Consciousness How Matter Becomes Imagination" Basic Books (2001) ISBN 978-0465013777
^ ここでは非常 ひじょう に簡単 かんたん な区分 くぶん しか示 しめ さない。より詳細 しょうさい な議論 ぎろん については、たとえば哲学 てつがく 分野 ぶんや での議論 ぎろん を反映 はんえい した文献 ぶんけん として、スタンフォード哲学 てつがく 事典 じてん の記事 きじ 、Van Gulick, Robert, "Consciousness" , The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2009 Edition), Edward N. Zalta (ed.)
がある。また「意識 いしき 」という概念 がいねん について分析 ぶんせき を行 おこな っている様々 さまざま な論文 ろんぶん を、PhilPapers というサイトがリストしている。こちらも参照 さんしょう のこと。(文献 ぶんけん リスト)The Concept of Consciousness (英語 えいご ) - PhilPapers 「「意識 いしき の概念 がいねん 」について論 ろん じた文献 ぶんけん のリスト。」の文献 ぶんけん 一覧 いちらん 。
^ Naotsugu Tsuchiya and Christof Koch (2008), "Attention and consciousness" Scholarpedia , 3(5):4173. (オンライン・ペーパー )
^ Lawrence M. Ward (2008), "Attention" Scholarpedia , 3(10):1538. (オンライン・ペーパー )
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