上座かみざ佛教ぶっきょう

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重定しげさだこう上座かみざ佛教ぶっきょう


上座かみざ佛教ぶっきょう

佛教ぶっきょう大綱たいこうえいOutline of Buddhism 佛教ぶっきょう主題しゅだい

上座かみざ佛教ぶっきょうともえとしथेरवादうまtheravādaちょく长者てききょう义;梵語ぼんごस्थविरवादうまsthaviravādaそう伽羅きゃらථෙරවාදうまtheravādaちょく上座かみざ学派がくは),佛教ぶっきょう宗派しゅうは現今げんこん流行りゅうこう斯里らんはるたいこく柬埔寨りょうこくこしみなみこうわたぞくろう撾族及中こく傣族聚居等地とうちかえゆう一些古印度傳承殘存在孟加拉よしだい港山みなとやまあまはくなんじれんどう印度いんどべいひしげ姆邦おもね魯納恰爾くに雲南うんなん傣族聚居あずか大乘だいじょう佛教ぶっきょう並列へいれつため現存げんそん佛教ぶっきょうさい基本きほんてきりょうだいべつ

いん其尊たてまつともえとし三藏さんぞう,以ともえとしため聖典せいてんげんいん此又しょうともえとしけい佛教ぶっきょうともえとし佛教ぶっきょうよし其由印度いんどみなみでんいたりすずらんあずか東南とうなん一帶いったいまたたたえみなみでん佛教ぶっきょう與北よぎたでんいたりちゅう東亞とうあくらてききたでん佛教ぶっきょう包括ほうかつかんでんぞうでん相對そうたい現今げんこん上座かみざ佛教ぶっきょうみなもと斯里らん上座かみざ分別ふんべつせつけいあか铜鍱大寺おおてら傳承でんしょう

上座かみざ及與區別くべつてきだい眾部這兩個りゃんこ術語じゅつごしたがえ歷史れきし源流げんりゅううえかん印度いんど佛教ぶっきょう史上しじょうしるべ佛教ぶっきょう根本こんぽん分裂ぶんれつてき戒律かいりつ議題ぎだい紛爭ふんそう上座かみざ佛教ぶっきょう內的かく成員せいいん絕大ぜつだい多數たすうおさむ聲聞しょうもんじょうてき解脫げだつどう教法きょうほう,以成阿羅漢あらかんため修行しゅぎょう目標もくひょうただし也未排除はいじょかいゆう成員せいいん選擇せんたくおさむ菩薩ぼさつじょうてき菩薩道ぼさつどう教法きょうほう,以成佛じょうぶつため修行しゅぎょう目標もくひょうてき情況じょうきょうしょうみなみでん菩薩道ぼさつどうじょう

根據こんきょ上座かみざ佛教ぶっきょう佛陀ぶっだなみ千變萬化せんぺんばんかゆうもとめ必應てきかみ救世主きゅうせいしゅ佛陀ぶっだ一位智慧和德行圓滿的覺悟者,一位教導斷除煩惱方法的導師。事實じじつじょう佛教徒ぶっきょうとなみもとめじょ於神,みとめため神和しんわ人的じんてき區別くべつただざい於生いのち長短ちょうたん同樣どうようとく落於迴;人的じんてき解脫げだつざい自我じがてき修行しゅぎょう最終さいしゅうたちいた涅槃ねはんゆかり此脫はなれ迴,解脫げだつ痛苦つうく學術がくじゅつかいゆう觀點かんてんみとめため釋迦牟尼しゃかむにほとけひらきそうてき佛教ぶっきょうかず其他宗教しゅうきょう不同ふどうぞく於無かみろんてき

起源きげん[编辑]

佛教ぶっきょう主要しゅよう教派きょうは分布ぶんぷ紅色こうしょく地区ちくそく上座かみざ佛教ぶっきょう流行りゅうこうてき地区ちく

佛教ぶっきょう起源きげん马拉みやびやまみなみふもと一帶いったい後來こうらいこうそと傳播でんぱ發展はってんふんなりりょうだい系統けいとうこう北方ほっぽう流傳りゅうでんてき經過けいかちゅうでんいた中國ちゅうごく西域せいいきかん西藏とりぞうこうむふるさいつていた朝鮮半島ちょうせんはんとう日本にっぽんこしみなみ等地とうちぞくきたでん佛教ぶっきょうこう南方なんぽう流傳りゅうでんてき,经过天竺てんじく即今そっこん印度いんどおもね萨姆くに)榜葛剌(即今そっこんはじめひしげつていた斯里らんしかさいつていた東南とうなんてきはるたいこく柬埔寨ろう,及中國ちゅうごく雲南うんなん傣族とう地區ちくぞくみなみでん佛教ぶっきょう

ざい釋迦しゃかほとけ佛滅ぶつめつこれひゃくねん印度いんど西部せいぶ偷羅こくてき上座かみざ耶舍比丘びく,往東方とうほう毗舍はなれじょう見當けんとうてきばつぞく比丘びくざいぬの日向ひなたみん眾求ほどこせ金錢きんせん,此即「佛教ぶっきょう毘舍はなれ結集けっしゅう」。耶舍比丘びくみとめため此舉ほうとげこうみん眾宣せつ此為ほう,卻令當地とうち比丘びくだいいか而趕他出たしゅつじょう。耶舍比丘びくかい西方せいほう動員どういん其他大德だいとく比丘びくぜん東方とうほうばつ耆族比丘びく也動いんあずか西方せいほう比丘びく辯論べんろん戒律かいりつ結果けっかゆうななひゃくにん集會しゅうかい最後さいご談判だんぱん破裂はれつ,而上座かみざのり宣傳せんでん東部とうぶ比丘びく僧團そうだんたい戒律かいりつてきじゅうしゅほう錯誤さくごてきまたたたえじゅうことほう」)。而在這個事件じけん相傳そうでん東方とうほう僧團そうだん召集しょうしゅうりょういちまんそう[1]くだり集結しゅうけつ經典きょうてんあずか戒律かいりつよし於他們人數にんずう眾多,後世こうせいいん此稱們為「だい眾部」。這是佛教ぶっきょう僧團そうだん分裂ぶんれつてき開始かいし,揭開りょう佛教ぶっきょう時期じきてき序幕じょまく

ざいおもねそだておう時期じき,邀請犍連(神通じんずうだいいちてき大目おおめ犍連[2]みかど長老ちょうろうらい首都しゅと華氏かしじょう召集しょうしゅういちせんめい上座かみざ長老ちょうろう進行しんこうだいさん結集けっしゅうごう三藏さんぞう經典きょうてんざい這次大會たいかいこれおもねそだておうまた派遣はけん僧侶そうりょよんだしでんきょうおもねそだておうてき哂陀りつりょうよん長老ちょうろういち沙彌さやぜんそう伽羅きゃらこくまたたたえこく”,即今そっこん斯里らん建立こんりゅう僧團そうだんつていれ三藏さんぞう經典きょうてんそう伽羅きゃら國王こくおうしつはた王室おうしつてきちんえん捐出,建立こんりゅう寺院じいんゆずる僧團そうだん居住きょじゅうしょうため大寺おおてら。其後哂陀てきいもうといもうとそうとぎみつおお也前往斯さとらん卡,建立こんりゅうりょう比丘尼びくに僧團そうだん,她並且將佛陀ぶっだざい菩提ぼだい伽耶かや成道じょうどう所在しょざい菩提樹ぼだいじゅまとぶんえだおび往斯さとらん卡,しゅうえ於大おだいてらなか,這是斯里らん佛教ぶっきょうてき開始かいし

斯里らん時期じき[编辑]

つていれ斯里らんてき佛教ぶっきょうぞく上座かみざてきいちささえまたたたえ分別ふんべつせつひろしでん印度いんど西南せいなんあずか印度いんど東部とうぶてきだい眾部北部ほくぶてき住子すみこかず西北せいほくてきせつ一切いっさいゆう並列へいれつため最早もはやてき四大しだいけいざい教義きょうぎじょう傳承でんしょうりょう上座かみざ早期そうき學說がくせつあずかだい眾部てき差異さい如後おこり上座かみざけい同大どうだい眾部てき差異さいさまだいよし此傳いれ斯里らんまとぶんささえあずか其他二部都有相同點——律藏りつぞう註釋ちゅうしゃくしょう哂陀以目犍連子つれこみかどため和尚おしょう而出訶提ばばためおもね闍黎十戒じっかい,以闡提ためおもね闍黎具足ぐそく表明ひょうめい此時ぼつゆう不可ふか調和ちょうわてきぶん歧。

いたり西元にしもとぜんいち世紀せいきよしため斯里らん僧團そうだんちゅうてき長老ちょうろうゆうかん於國內曾發生はっせい戰亂せんらん,擔心教典きょうてんしつゆかり揭多あずかひゃくめい長老ちょうろう,於斯さとらん中部ちゅうぶとくれつ地區ちくてきおもねてらかい集結しゅうけつ三藏さんぞう教典きょうてんなみ以僧伽羅きゃら文字もじはた經典きょうてんうつしざいかい上成うえなししょ,這是ともえ利文としふみ三藏さんぞう最早もはやてき起源きげんみなみ佛教ぶっきょうしょう此為だいよん結集けっしゅうざい此同おもね拔耶おうおおやけもとまえ44ねんまえ17ねんざいかしこやまおさむたてりょうしんてき寺院じいん訶帝須率りょう大寺おおてらちゅうてき五百名僧侶前往住持,斯里らん佛教ぶっきょう於是分裂ぶんれつため大寺おおてらあずか无畏やまりょうささえ後部こうぶ份無かしこ山僧さんそう侶移往達山寺やまでら居住きょじゅう,以薩伽羅きゃらため領袖りょうしゅう,另立いちさけべ薩伽耶派。いたり訶舍おう建立こんりゅう祗陀林寺はやしじゆかり伽羅きゃらてき哄帝須住,此派於是またしょうためzhī陀林あずかかしこやま大寺おおてら並立へいりつため斯里らん佛教ぶっきょうてきさんだいけい。這些そう侶以そう伽羅きゃらぶんうつしさくりょう許多きょたてき疏,ただし大部たいぶ份都ぼつゆう流傳りゅうでんいた後世こうせい

大寺おおてらあずかかしこやまあいだ存在そんざい嚴重げんじゅうてきぶん歧,彼此ひしそう鬥。ざい訶先おおやけもと334ねん~361ねん時代じだいじゅうざいかしこやまてきらいみなみしるしてきそうとぎみつ法師ほうしでんほえ多利たり學說がくせつはた大寺おおてらそうじん逐出首都しゅと9ねん形成けいせいかしこやまどくもりてき局面きょくめんほうあらわ到達とうたつ斯里らん卡時,かしこやまてき勢力せいりょく仍然もり於大おだいてら現代げんだい學者がくしゃ解讀かいどくげんだいから西域せいいきしょう无畏やまため大乘だいじょう上座かみざ”。

西元にしもと世紀せいき前後ぜんこうきた印度いんど菩提ぼだい伽耶かやてきさとしおん到達とうたつそう伽羅きゃらこく首都しゅとおもねつとむひしげたちひしげ進入しんにゅう大寺おおてら學習がくしゅう三藏さんぞう經典きょうてんしょうそう伽羅きゃら文義ふみよし疏譯なりともえ利文としふみなみ且以ともえ利文としふみうつしさくりょう許多きょた註釋ちゅうしゃくさとしおとしょ秉承てき主要しゅよう大寺おおてらてき觀點かんてんうつしさくてき清淨せいじょうどうろん》,たい於南でん佛教ぶっきょうゆう很大てき影響えいきょう,而《ぜんりつ毗婆すな》也在南北なんぼくあさてきみなみひとしどきかんやくでんいたる中國ちゅうごくざい這段時間じかんちゅう大寺おおてらそうじんまたうつしさくりょうしま》,らい記錄きろく斯里らん早期そうきてき佛教ぶっきょう發展はってん。《しま》及其てきだい記錄きろく斯里らん及南でん佛教ぶっきょう早期そうき歷史れきしてき重要じゅうよう文獻ぶんけんいち。此後,大寺おおてらそうじん逐漸取得しゅとく優勢ゆうせい

いたりともえ辣甘波布はぶ(Parakkamabahu)おうじゅうしん統一とういつりょう斯里らん受他てき老師ろうし舍利しゃりどる(Saliputta)影響えいきょう認定にんていかしこやま及祗陀林異端いたん整頓せいとんどく尊大そんだいてら。此後,斯里らんただあまだいてらいちささえ傳承でんしょう

みなみでん佛教ぶっきょういん三藏さんぞう註釋ちゅうしゃく使用しようともえとしまたしょうともえとし佛教ぶっきょう也有やゆう人稱にんしょうため南方なんぽう佛教ぶっきょういんため這一系統けいとうてき佛教ぶっきょうゆかり印度いんどつねかわ流域りゅういきこう南方なんぽう流傳りゅうでんつていた斯里らんさいつていた東南とうなん,這些地區ちくざい印度いんどみなみ。如就所屬しょぞくらいせつ,凡是信仰しんこう上座かみざ佛法ぶっぽう及皈依教團きょうだんてきしょうため上座かみざ佛教ぶっきょうあるみなみでん佛教ぶっきょう,如盛行せいこう中國ちゅうごく雲南うんなん傣族やめゆういちせんさんひゃく多年たねんてき上座かみざ佛教ぶっきょう流行りゅうこうえつみなみ南部なんぶてき上座かみざ佛教ぶっきょう

對外たいがい發展はってん[编辑]

上座かみざ佛教ぶっきょうざいおおやけもとまえ3世紀せいきやめゆかり孔雀くじゃく王朝おうちょうでんにゅうげんぞくはる甸的はじめぞく地區ちくずいちょ佛教ぶっきょうざいおおやけもと1世紀せいき開始かいしゆかり印度いんどこう北方ほっぽうでんいれ佛教ぶっきょうあずか大乘だいじょう佛教ぶっきょう同期どうきでんいれ中國ちゅうごくひがしかん開始かいしゆうりょうゆかり犍陀ある梵語ぼんごわけなり漢語かんごてき上座かみざ佛經ぶっきょう最早もはやため安息あんそく三藏さんぞう安世やすよだか譯出やくしゅつ較多,這些佛經ぶっきょう特別とくべつひとほんよくせいけい》、《かげにゅうけいかずやす般守けいゆうちょ重要じゅうようてき影響えいきょうおびどうりょうすすむ南北なんぼくあさ佛教ぶっきょう在中ざいちゅうこくてき傳播でんぱすすむ南北なんぼくあさ時期じきよんおもね含經五部廣律中的四部被先後翻譯成了漢語。みなみひとし外國がいこく三藏さんぞうそうとぎばつ陀羅翻譯ほんやくりょう註釋ちゅうしゃく斯里らん上座かみざ律藏りつぞうてきぜんりつ毘婆すな》,こうはた罽賓三藏さんぞうくもり摩耶まやしゃくもり崛多とうひと翻譯ほんやくりょう分別ふんべつせつ舍利しゃりどるおもね毘曇ろん》。みなみはり扶南三藏さんぞうそうとぎばば翻譯ほんやくりょうゆうそこすなみやつこてき解脫げだつどうろん》,這本ろんちょみとめためうつし於西もと世紀せいき前後ぜんこう可能かのうぞく於分べつせつかしこやまいたりょうずいから時期じき所有しょゆう佛教ぶっきょうざい中國ちゅうごく逐漸沉寂,法相ほうしょうむね文獻ぶんけん中稱ちゅうしょう楞伽とうてき上座かみざため赤銅しゃくどう鍱部なみ記載きさいりょう其特しょく性的せいてきゆうぶんかずてき學說がくせつ

另一方面ほうめん上座かみざ佛教ぶっきょうまたでんいたるみなみ東南とうなん地區ちく。11世紀せいきはるおもねつとむりつ王朝おうちょう征服せいふくはじめぞく直通ちょくつう王國おうこく放棄ほうきおもねとぎそう信仰しんこうなみ引入はじめぞく僧侶そうりょしょ傳承でんしょうてき上座かみざ佛教ぶっきょう,其勢力せいりょく使みなみでん佛教ぶっきょう滲入暹羅しゃむ北部ほくぶ中部ちゅうぶ地區ちく經過けいか斯里らん卡於12世紀せいきなみ罗迦罗摩ともえゆるがせいちせいえいParakramabahu I國王こくおう在位ざいい於舉ぎょう結集けっしゅう整頓せいとん佛教ぶっきょう教團きょうだん使つかい上座かみざ佛教ぶっきょう於斯さとらん卡臻於隆盛りゅうせい透過とうか比丘びく學習がくしゅうつてかえし暹羅しゃむ,促使當時とうじもとたい王朝おうちょう傾向けいこう上座かみざ佛教ぶっきょう。14世紀せいき中葉ちゅうようろう撾國おうほうのぼるめと柬埔寨吳哥王てき女兒じょじためつまなみ引入上座かみざ佛教ぶっきょうしたがえ而傳播遍佈於せい湄公かわ流域りゅういき

ざい西元にしもと1361ねん斯里らんそうおう暹羅しゃむいまたいこくもとやすしおう請至こく建立こんりゅう僧團そうだん,這是たいこく佛教ぶっきょうてき開始かいし。此時,はる暹羅しゃむ柬埔寨とうてきそうじん不斷ふだん進入しんにゅう斯里らん學習がくしゅう佛法ぶっぽうなみおもしん受戒じゅかい們回國之くにゆき,也根據こんきょ們所受的戒律かいりつざい們國內建立こんりゅう僧團そうだんしょうためそう伽羅きゃら僧團そうだん。這些僧侶そうりょはた斯里らん大寺おおてらてき佛教ぶっきょう傳承でんしょうおび往東みなみ各地かくちなりためみなみでん佛教ぶっきょうてき開始かいし

ずいちょみなみでん佛教ぶっきょうてき快速かいそく發展はってん斯里らんいんため國力こくりょく衰弱すいじゃくまた受到外國がいこく勢力せいりょく侵入しんにゅう本土ほんどてき佛教ぶっきょうはん而衰落了いたり11世紀せいき毘舍耶婆訶いちせいおおやけもと1055ねん-1114ねん)曾經使者ししゃいたりはる甸,請おもねつとむりつおう派遣はけんそうじんいたり斯里らんつて建立こんりゅう僧團そうだんなみため三大派建立很多寺院[3]。其後なみらくばばいちせいおおやけもと1153ねん-1186ねん使つかい三大派重新團結一致。いたり18世紀せいき斯里らん本土ほんどてき佛教ぶっきょうぜっあと教典きょうてんしつ僧團そうだん寺院じいん消失しょうしつりょう。1750ねん使つかいいたり暹羅しゃむ請求せいきゅうそうじんいたり斯里らんつて戒。暹羅しゃむ國王こくおう於1753ねんゆうはなれとうじゅうめい僧侶そうりょいたり斯里らん授戒じゅかいなみ且將ともえ利文としふみ三藏さんぞうおもしん攜至斯里らん,這也目前もくぜん斯里らん暹羅しゃむ僧團そうだんてき開始かいし。1802ねん訶格かわら‧匿納ただ曼羅みかど須,はる受戒じゅかい建立こんりゅう比丘びく僧團そうだんめいためおもね曼羅。1865ねんおもね般格訶梵そく陀沙ばばはる甸傳かいあい曼匿。雖然現代げんだい斯里らん佛教ぶっきょう可分かぶんためさんだいけいただしざい見解けんかいじょう們都淵源えんげん於大おだいてら所以ゆえん教義きょうぎ仍然しょうどうてき

ざい 1857 ねんはる甸貢榜王ざい曼德勒主持しゅうもちだい結集けっしゅう同年どうねんはたともえとし三藏经典刻在729ぽう大理石だいりせきじょうぞうかたすえ佛塔ぶっとうごうしょう世界せかいじょう最大さいだいてき經書けいしょ」。とういんけんゆうななひゃくじゅう九座白色小佛塔塔林,まい佛塔ぶっとううらゆう一塊ひとかたまり大理石だいりせき功德くどく分別ふんべつこくゆう佛經ぶっきょういちしょう

ざい1954-1956ねんはる政府せいふざいおおせこう建造けんぞうりょう Mahāpāsāna guhā (大石おおいしくつ),舉行りょういち結集けっしゅうゆうらいはる甸、たいこく、斯里らん卡、柬埔寨、りょうこくこしみなみ印度いんどあまはくなんじとうこくてき上座かみざ長老ちょうろう比丘びく參加さんか。這次結集けっしゅうゆかり

現今げんこんざい斯里らんたいこくはるろう柬埔寨ゆう很多上座かみざ佛教ぶっきょう當地とうち教徒きょうとたいみなみでん佛教ぶっきょうてきしょういい教徒きょうととうちゅうたいこくてき上座かみざ佛教徒ぶっきょうと佔該こく佛教徒ぶっきょうとてき90%。みなみでん上座かみざ佛教ぶっきょう有史ゆうしりょうせいてきやくざい7世紀せいきちゅうゆかりはる甸傳にゅう中國ちゅうごく雲南うんなん地區ちく最初さいしょ經典きょうてんただこうみみ相傳そうでんやくざい11世紀せいき前後ぜんこうたいじゅんぶん書寫しょしゃてき佛經ぶっきょうけいはる甸傳いれ西にしそうばんおさめいたりみなみそうけいえんねん傣文創製そうせいはじめゆうこくうつしかいけいぶん現在げんざい雲南うんなん地區ちく上座かみざ佛教ぶっきょう按其名稱めいしょう可分かぶんためほとび、擺莊、れつひだり祗四

基本きほん教義きょうぎ[编辑]

上座かみざ佛教ぶっきょう自己じこてき傳承でんしょうため保守ほしゅ佛陀ぶっだてき原本げんぽん教法きょうほう,而沒ゆうたい佛陀ぶっだてき教法きょうほうさく過多かたてき發揮はっき改變かいへん[5]上座かみざ佛教ぶっきょう宣揚せんよう四聖しせいたいはちひじりどうじゅう因緣いんねんとう佛教ぶっきょう基本きほん教理きょうり,以修行しゅぎょうよんねんしょだんじょ自我じが煩惱ぼんのうため宗旨しゅうしよんそうはちやからため其果しょう

上座かみざ佛教ぶっきょうたい戒律かいりつ保守ほしゅてき態度たいど捨棄しょうしょう

  • 凡是ひさし制定せいていしゃおう再製さいせい
  • 凡是やめけい制定せいていしゃおう廢除はいじょ
  • 佛陀ぶっだ如何いか制定せいてい即應そくおう如何いか受持うけもち遵行。[6]

主要しゅよう經典きょうてん[编辑]

ともえとし聖典せいてん

    律藏りつぞう    
   
                   
けい分別ふんべつ 犍度 附隨ふずい
               
   
    經藏きょうぞう    
   
                                
長部おさべ 中部ちゅうぶ 相應そうおう
                     
   
   
                           
ぞう支部しぶ 小部こべ
                           
   
    論藏ろんぞう    
   
                             
ほうしゅう
ろん
分別ふんべつ
ろん
さかいろん
ひとほどこせ
しつらえろん
ろんごと そうろん はつおもむきろん
                       
   
         
 

みなみでん上座かみざみことたてまつようともえとし誦持てき三藏さんぞう

ぞうがい文獻ぶんけん包含ほうがんたい三藏さんぞう逐句註解ちゅうかいてきかずふくちゅう,以及どおりしゃく三藏さんぞうてき清淨せいじょうどうろん》。

みなみでん菩薩道ぼさつどう[编辑]

佛教ぶっきょう
波羅蜜はらみつ
 
みなみつたえじゅう波羅蜜はらみつ
じゅう波羅蜜はらみつ
佈施
持戒じかい
出離しゅつり
忍辱にんにく
真實しんじつ
決意けつい
せい
智慧ちえ
   
きたつたえ六波羅蜜ろくはらみつ
ろく/じゅう
佈施
持戒じかい
忍辱にんにく
せい
禪定ぜんじょう
般若はんにゃ
方便ほうべん
ねがい
ちから
さとし
 
 

雖然上座かみざ佛教ぶっきょう解脫げだつどうため主流しゅりゅうただしざい上座かみざてきともえとし三藏さんぞう注釋ちゅうしゃくちゅう也有やゆう記載きさいゆう菩薩道ぼさつどうてき修行しゅぎょう方法ほうほうしょうためだい菩提ぼだいじょう」(Mahābodhiyāna),而且いたりこんみなとぼし實踐じっせんしゃようなりため菩薩ぼさつbodhisatta必須ひっすはつ至上しじょうねがい」(abhinīhāra),なみいた佛陀ぶっだてきおや授記。菩薩ぼさついたりしょう必須ひっすようよん阿僧あそうじゅうまんだいこうてき時間じかんらい圓滿えんまんじゅうしゅひそか[註 1]。這じゅうしゅなみひそか分別ふんべつ佈施なみひそか持戒じかいなみひそか出離しゅつりなみひそか智慧ちえなみひそか精進しょうじんなみひそか忍耐にんたいなみひそか真實しんじつなみひそか決意けついなみひそかなみひそかなみひそかとう菩薩ぼさつ修習しゅうしゅうしょなみひそかたちいた圓滿えんまん,就能しょうさとるとう正覺しょうがくなりため一切いっさい佛陀ぶっだ[7]

みなみつたえともえとしけい佛教ぶっきょうあずかかんでん大乘だいじょう佛教ぶっきょう具有ぐゆう錯綜さくそうてき關係かんけいざいみなみでん三藏さんぞうちゅう小部こべてきほんなまけいそく集錄しゅうろく各種かくしゅほとけなみひそかくだりてき事蹟じせき,《ぞう支部しぶ主張しゅちょう心性しんせいもときよしためきゃくちりしみ[8]有人ゆうじんはた其比あきら於「含生どういち真性しんせいきゃくちりさわゆえ[9]てき如來にょらいぞう心性しんせいもときよし思想しそう

僧俗そうぞく關係かんけい[编辑]

ざい長部おさべ·教誡きょうかい西にし伽羅きゃらけいちゅう佛陀ぶっだひさげ及出沙門しゃもんあずかざい家信かしん眾之あいだてき相互そうご義務ぎむざい家信かしん眾應とう以五種方式來奉待作為上方的沙門しゃもん婆羅門ばらもん:以慈善じぜんてきぎょう,以慈善じぜんてきぎょう,以慈善じぜんてきぎょうせき閉門へいもん以及供養くよう必需ひつじゅひん相應そうおうてき作為さくい上方かみがたてき沙門しゃもん婆羅門ばらもんおう以六種方式來慈湣在家信眾:れいとおはなれ惡行あくぎょうれい確立かくりつ善行ぜんこう,以善意ぜんい悲憫,聽聞ちょうもんしゃれい聽聞ちょうもんやめ聽聞ちょうもんしゃれいせいきよし,以及指示しじせいてんみち

佛陀ぶっだ曾對しょ比丘びくせつ

しょ比丘びくもろ婆羅門ばらもん居士こじたい你們ゆう許多きょたじょえきいんため供養くよう你們衣服いふく飲食いんしょく住所じゅうしょ病人びょうにんしょ需的醫藥いやく。你們たいしょ婆羅門ばらもん居士こじ也有やゆう許多きょたじょえきいんため你們ため們宣せつ〔此〕最初さいしょぜんみょう中間ちゅうかんみょう結尾けつびぜんみょう具足ぐそくふかよしあずか文句もんくてき正法しょうぼう,〔ため們〕顯示けんじ完全かんぜん圓滿えんまんあまねきよしてき梵行もろ比丘びく,如此,通過つうか彼此ひしあいだてき互相すけ使つかいみちびけこう超越ちょうえつしょながれせいつきてき梵行とく以住りつ。(《小部こべ·如是にょぜだい107けい

上座かみざ佛教ぶっきょう流傳りゅうでんてき地區ちくいく乎都ぜんみん信教しんきょうてき地區ちく,這固しかあずか當地とうちてき風俗ふうぞく習慣しゅうかん及歷だい諸王しょおうてき護持ごじゆうせきただし佛教ぶっきょう僧團そうだんところおこりいたてきひょうりつ作用さよう也不ようゆるがせざい傳統でんとうじょう上座かみざ佛教ぶっきょう寺院じいんすんで兒童じどう接受せつじゅ傳統でんとう教育きょういくてき學校がっこうまた當地とうち村民そんみんしゃ活動かつどうてき中心ちゅうしん基本きほん上村うえむらちゅう所有しょゆうてき會議かいぎ公共こうきょう活動かつどうみやこただしざい寺院じいんちゅう舉行。作為さくい上座かみざ比丘びく們既知識ちしきてき代表だいひょう道德どうとくてき楷模,またせきるい功德くどくてき對象たいしょう道德どうとく理想りそうてき倡導しゃ充當じゅうとうちょ廣大こうだい在家ありいえ信徒しんと精神せいしん導師どうし心理しんりせいてきかくしょく佛教ぶっきょうてき影響えいきょうざい上座かみざ教區きょうくしょ不在ふざいいく滲透しんとういたまい一個人いっこじんてき生活せいかつ方式ほうしき行為こういしきあたい觀念かんねん人生じんせい趣向しゅこうとう方面ほうめん

みなみでん佛教ぶっきょう国家こっか一般いっぱんゆう男子だんし短期たんき出家しゅっけ傳統でんとう出家しゅっけさく为成ねん仪式而且时间次数じすうきり

たい於「小乘しょうじょう稱呼しょうこてき不同ふどう觀點かんてん[编辑]

きよし菩提樹ぼだいじゅ西元にしもとぜん3世紀せいきそうとぎみつおおしたがえ菩提ぼだい伽耶かや移植いしょくいた斯里らん

歷史れきしじょう大乘だいじょう經典きょうてん使用しよう小乘しょうじょう」(Hīnayānaいち貶稱聲聞しょうもんえんさとし二乘にじょう提出ていしゅつ小乘しょうじょう”(二乘にじょうあずか大乘だいじょうてきさんじょうせつ,如《妙法みょうほう蓮華れんげけいちゅう以“さんしゃ”——ごえ闻乘(ひつじしゃ)、缘觉じょう鹿しかしゃ)、菩薩ぼさつじょううしじょう)喻佛說ぶっせつさんじょうみとめため這三乘都是佛爲不同根基的學生所說,ふつてき教法きょうほう彼此ひしおう誹謗ひぼうよう互相尊重そんちょうせっおさめざい妙法みょうほう蓮華れんげけいちゅう明確めいかく指出さしで,其實並無ならびな小乘しょうじょうあずか大乘だいじょうてき區別くべつ佛法ぶっぽう俱是いちほとけじょうゆかり歷史れきし原因げんいんきん現代げんだい仍然有人ゆうじん沿用「小乘しょうじょう稱呼しょうこみなみでん佛教ぶっきょう,這引おこりりょういち些南でん佛教徒ぶっきょうとてき不滿ふまん。1950ねん世界せかい佛教徒ぶっきょうとれんよしみかい決定けってい使用しよう上座かみざ佛教ぶっきょういち稱呼しょうこみなみでん佛教ぶっきょうおうさい使用しよう小乘しょうじょうてき稱呼しょうこ

目前もくぜん東亞とうあ各國かっこくかんかたやめひびきおう決議けつぎさい使用しよう小乘しょうじょう稱呼しょうこみなみでん佛教ぶっきょうざい部分ぶぶん研究けんきゅう文獻ぶんけん和民かずたみあいだとうちゅう仍然有人ゆうじん沿用“小乘しょうじょういち學術がくじゅつ研究けんきゅうじょう通常つうじょういんため直接ちょくせつうたてじゅつ前人ぜんじんやめけい使用しよう小乘しょうじょうてき內容ばら民間みんかんそく份人ねがい改變かいへん其原そのはらゆうてきよう習慣しゅうかんひとしざいみなみでん上座かみざ佛教ぶっきょう源流げんりゅう及其主要しゅよう文獻ぶんけんりゃくこう表示ひょうじ

いたるなん長老ちょうろうざい佛教徒ぶっきょうと信仰しんこうてき什麼いんも表示ひょうじ

まいり[编辑]

註釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ なみひそかともえとしparami),大悲だいひこころあずかあるきぜんてき方便ほうべんぜんたくみさとしため基礎きそてきひじりきよし素質そしつれい如佈ほどこせ持戒じかいとう;而且這些素質そしつ必須ひっす受渴あいわが慢與邪見じゃけんしょ污染。

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

引用いんよう[编辑]

  1. ^ だいだいしょうだいさん結集けっしゅう
  2. ^ まいりぜんりつ毘婆すなおもねそだておうひん,《だいだいしょうだいさん結集けっしゅう
  3. ^ だい》:这位国王こくおう衷心ちゅうしんのべ续僧团,使者ししゃ携带れいひんいた朋友ほうゆう罗曼こくてきおもねつとむりつ陀国おうさと。从那さと带来精通せいつう三藏さんぞうてき比丘びく们是持戒じかいとうだか贵质量的りょうてき源泉げんせん,就像长老いち样有がく问。国王こくおうこう奉献ほうけんりょうのぼる贵的礼物れいもつ以后,就举ぎょうりょう出家しゅっけ仪式,つぎ获准加入かにゅう们主てきそう团。经常诵三藏及其注释,ざい兰卡一度衰亡的胜者佛陀僧团现在又重发光辉。ざいぬの罗提じょうてきかく地区ちく建造けんぞうりょう很多漂亮てき佛寺ぶつじ使つかいさんそう团的比丘びく们都有住ありずみ处,还向布施ふせ大量たいりょうてきよん种必需品じゅひん使つかい们心满意あし
  4. ^ うま哈希尊者そんじゃでん页面そん档备份そん互联网档あんゆずわが繼續けいぞくだん「Chattha Saṇgāyana」,だいろく結集けっしゅう大會たいかい。 「saṇgāyana」てき意思いしごう誦」(結集けっしゅう)。ざいごう誦的過程かていちゅうわたる及到りょう個人こじんつつみ問者もんじゃ誦答しゃひさげ問者もんじゃ通常つうじょうとい這部けいざい哪裡教導きょうどうためだれ而說とうとうざいだいいち結集けっしゅうだい迦葉尊者そんじゃ擔任たんにんひさげ問者もんじゃ,而阿なん尊者そんじゃかずゆうはなれ尊者そんじゃ擔任たんにん誦答しゃざいだいろく結集けっしゅう大會たいかい,裊將尊者そんじゃ長老ちょうろう擔任たんにん大會たいかい主席しゅせきうま哈希尊者そんじゃ擔任たんにんひさげ問者もんじゃもち三藏さんぞうあきらこん尊者そんじゃ.維奇とう沙羅さら毘旺薩(Tipitakadhāra Mingun Sayādaw U Vicittasārābhivaṃsa)のり擔任たんにん誦答しゃひさげ問者もんじゃあずか誦答しゃ必須ひっすごとさきぶんまわし劃、準備じゅんびさい進行しんこう問答もんどうてきほどじょ
  5. ^ 認識にんしき佛教ぶっきょう嗎? 台灣たいわんみなみでん上座かみざ佛教ぶっきょう學院がくいん页面そん档备份そん互联网档あん上座かみざ佛教ぶっきょう堅持けんじ傳承でんしょう保守ほしゅ佛陀ぶっだてき原本げんぽん教法きょうほう主張しゅちょうたい佛陀ぶっだてき教法きょうほうさく過多かたてき改變かいへん
  6. ^ だい般涅槃經》:「わがめつずいそうとぎらくほしはいしょう小學しょうがくしょ。」 みなみでん大藏經だいぞうきょう律藏りつぞう小品しょうひんだいじゅういちひゃく結集けっしゅう〕犍度:
    ときことぶきおもねなんげんしょ長老ちょうろう比丘びく:「しょ大德だいとく世尊せそん涅槃ねはん,曾對わがげん:『おもねなんわがめつそうとぎわかよくしゃしょうしょう戒可捨。』」「ともおもねなん何者なにものためしょうしょう戒,曾請とい世尊せそん?」大德だいとく何者なにものためしょうしょう戒,わが曾請とい世尊せそん。」いちふん長老ちょうろうとうげん:「じょよんえびすがいためしょうしょう戒。」いちふん長老ちょうろうとうげん:「じょよんえびすじゅうさんそうざんあまりためしょうしょう戒。」いちふん長老ちょうろうとうげん:「じょよんえびすじゅうさんそうざん不定ふていあまりためしょうしょう戒。」いちふん長老ちょうろうとうげん:「じょよんえびすじゅうさんそうざん不定ふていさんじゅう捨墮,あまりためしょうしょう戒。」いちふん長老ちょうろうとうげん:「じょよんえびすじゅうさんそうざん不定ふていさんじゅう捨墮、きゅうじゅういっひっさげためしょうしょう戒。」いちふん長老ちょうろうとうげん:「じょよんえびすじゅうさんそうざん不定ふていさんじゅう捨墮、きゅうじゅういっひっさげよんひさげしゃあまあまりためしょうしょう戒。」
    ときことぶき訶迦つげそうとぎげん:「しょ大德だいとく!請聽わがげんとう戒,ゆうせきざい家人かじん,雖是ざい家人かじんまたわがひとし:此是なんじとう釋子しゃくしおうため〕,此是おうため〕。わかわがとう捨小しょう戒,ある有人ゆうじんごと:『沙門しゃもん瞿曇ため弟子でしせい戒,〔ひさ〕如煙矣!ざいどきがく戒,いま般涅槃而不學ふがく戒。』若僧わかぞうとぎじゅくそうとぎひつじせいとくせいやめせいとく壞,隨所ずいしょせい戒而じゅう表白ひょうはくしょ大德だいとく!請聽わがげんとう戒……『……いま……不學ふがく戒。』そうとぎひつじせいとくせいやめせいとく壞,隨所ずいしょせい戒而じゅうせいとくせいやめせいとく壞,隨所ずいしょせい戒而じゅうことぶき聽者ちょうしゃ默然もくぜん聽者ちょうしゃ請言。そうとぎひつじせいとくせいやめせいとく壞,隨所ずいしょせい戒而じゅうことぶき聽……了知りょうち。」
    ときしょ長老ちょうろう比丘びくげんことぶきおもねなん:「ともおもねなんなんじ不問ふもん世尊せそん何者なにものためしょうしょう戒,あくさく懺悔ざんげ此惡さく!」「しょ大德だいとくわが失念しつねんとい世尊せそん何者なにものためしょうしょう戒,わがあくさくしかしんじしょことぶき懺悔ざんげ此惡さく。」
    ざいともえとし大藏經だいぞうきょうだい般涅槃經ちゅう佛陀ぶっだ肯定こうていりょうばつぞくじんたいまちせいてき類似るいじ原則げんそく
    世尊せそん!我聞がもんばつ耆人せいりつ[國法こくほう],[輕易けいい]せいりつやめせいりつしゃ[輕易けいい]廢棄はいき尊崇そんすう實踐じっせん往昔おうせきばつ耆人しょせいりつ[くに]ほう。」

    なみ開示かいじりょうなな退すさほう,其中有ちゅうう:「しょ比丘びく!ただようしょ比丘びくあきらせいりつしゃせいりつやめせいりつしゃはい實行じっこうしょせいたてりつほうしょ比丘びくすなわちおうあずかしょ比丘びくきょうもり而非衰亡すいぼう。」Dīhga-Nikāya: The Dīgha nikāya. : 74. maha-parinibbana-suttanta ともえとし语). 

  7. ^ はやしたかしやす. 南北なんぼくでんてき菩薩道ぼさつどう (PDF): 3–5. [2015-06-30]. (原始げんし内容ないようそん (PDF)于2015-09-15). 
  8. ^ ぞう支部しぶいちしゅうだいろくだんゆびひん》:しょ比丘びく! しんしゃ極光きょっこうきよししゃ,卻為きゃくずい煩惱ぼんのうしょざつしみ,而無聞之ことせい不能ふのう如實にょじつかいわがげん聞之なまおさむこころしょ比丘びく! しんしゃ極光きょっこうきよししゃのうしたがえきゃくずい煩惱ぼんのうとく解脫げだつ,而有聞之せい弟子でしのう如實にょじつかいわがげんゆう聞之せい弟子でしおさむこころ
  9. ^ 楞伽師資しし》:“いれしゃいい藉教さとるむねふかしんじ含生。凡聖同一どういつ真性しんせいただしためきゃくちり妄覆。不能ふのうあらわりょうわか也捨妄歸しんしこりじゅう辟觀。自他じた。凡聖とういちけんじゅううつりさら不隨ふずい於言きょう。此即あずか真理しんりめいじょうゆう分別ふんべつ寂然じゃくねん無名むめいいれ。”
  10. ^ 引用いんよう中略ちゅうりゃくてき原文げんぶん:此頌佛陀ぶっだざい祗陀りんはりたい俱生がわてきそうろん比丘びく而說,其大意たいい些爭ろん不休ふきゅうてきじん完全かんぜん不知ふちどうわが們將ため此爭ろんしょこま而走じょう毀滅!如果們懂とく這種危險きけんせい,就不かい爭論そうろんりょう
  11. ^ 世界せかい佛教徒ぶっきょうとれんよしみかい页面そん档备份そん互联网档あん),1950ねん成立せいりつ大會たいかい

らいみなもと[编辑]

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]