この
記事 きじ には
複数 ふくすう の問題 もんだい があります。
改善 かいぜん や
ノートページ での
議論 ぎろん にご
協力 きょうりょく ください。
ヨハネ・パウロ2世 せい (羅 ら :Ioannes Paulus II , 伊 い :Giovanni Paolo II , 1920年 ねん 5月18日 にち - 2005年 ねん 4月 がつ 2日 にち )は、ポーランド 出身 しゅっしん の第 だい 264代 だい ローマ教皇 きょうこう (在位 ざいい :1978年 ねん 10月16日 にち - 2005年 ねん 4月 がつ 2日 にち )。ヨハネス・パウルス2世 せい 、ヨアンネス・パウルス2世 せい [ 1] とも表記 ひょうき される。本名 ほんみょう はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ (Karol Józef Wojtyła )。
教皇 きょうこう 紋章 もんしょう
ハドリアヌス6世 せい [ 注釈 ちゅうしゃく 1] 以来 いらい 455年 ねん ぶりの非 ひ イタリア人 じん 教皇 きょうこう にして、史上 しじょう 初 はつ のポーランド人 じん 教皇 きょうこう である。同時 どうじ に20世紀 せいき 中 ちゅう 、最年少 さいねんしょう で着座 ちゃくざ した教皇 きょうこう でもある。カトリック教会 きょうかい の聖人 せいじん で[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 、教皇 きょうこう ヨハネ23世 せい とともに列聖 れっせい された[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。神学 しんがく と哲学 てつがく の2つの博士 はかせ 号 ごう を持 も っていた。
冷戦 れいせん 末期 まっき において、世界 せかい 平和 へいわ と戦争 せんそう 反対 はんたい を呼 よ びかけ、数々 かずかず の平和 へいわ 行動 こうどう を実践 じっせん し、共産党 きょうさんとう 一 いち 党 とう 独裁 どくさい 下 か にあった母国 ぼこく ポーランドを初 はじ めとする各国 かっこく の民主 みんしゅ 化 か 活動 かつどう の精神 せいしん 的 てき 支柱 しちゅう としての役割 やくわり を果 は たした。世界 せかい 129か国 こく を訪問 ほうもん し「空 そら 飛 と ぶ聖 せい 座 ざ 」と呼 よ ばれた[ 2] 。
また、生命 せいめい 倫理 りんり などの分野 ぶんや でのキリスト教 きりすときょう 的 てき 道徳 どうとく 観 かん の再 さい 提示 ていじ を行 おこな うとともに、エキュメニズム の精神 せいしん からキリスト教 きょう 内 ない の他 た 宗派 しゅうは や他 た 宗教 しゅうきょう ・他 た 文化 ぶんか 間 あいだ の対話 たいわ を呼 よ びかけたことは、宗教 しゅうきょう ・宗派 しゅうは の枠 わく を超 こ えて現代 げんだい 世界 せかい 全体 ぜんたい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた え、没後 ぼつご も多 おお くの信徒 しんと や宗教 しゅうきょう 関係 かんけい 者 しゃ から尊敬 そんけい を集 あつ めている。
非合法 ひごうほう 神学校 しんがっこう から枢機卿 すうききょう へ[ 編集 へんしゅう ]
司祭 しさい のときのカロル・ヴォイティワ(ヨハネ・パウロ2世 せい )
カロル・ヴォイティワは1920年 ねん 、クラクフ 近郊 きんこう のヴァドヴィツェ に父 ちち カロル、母 はは エミリアの間 あいだ に次男 じなん として生 う まれた。父 ちち カロルはハプスブルク家 か の軍隊 ぐんたい に仕 つか えたこともある退役 たいえき 軍人 ぐんじん であった。
ヴォイティワは若 わか くして家族 かぞく の喪失 そうしつ を体験 たいけん した。8歳 さい で母 はは を、11歳 さい で兄 あに を、さらに20歳 さい で父 ちち を失 うしな った。当時 とうじ 、ヴォイティワは戦前 せんぜん のクラクフのユダヤ人 じん 社会 しゃかい に親 した しんでいたが、そのことが後 のち に教皇 きょうこう としての姿勢 しせい に影響 えいきょう を与 あた えることになる。
1939年 ねん 、ヴォイティワが19歳 さい のときにナチス・ドイツ のポーランド侵攻 しんこう によってポーランド が占領 せんりょう されたことで、ヴォイティワが学 まな んでいた大学 だいがく が閉鎖 へいさ されたため、鉱山 こうざん や工場 こうじょう で働 はたら きながら勉学 べんがく を続 つづ け、同時 どうじ に地下 ちか 演劇 えんげき の俳優 はいゆう 、脚本 きゃくほん 家 か としても活動 かつどう していた。
ヴォイティワは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の1943年 ねん に聖職 せいしょく 者 しゃ として生 い きることを決意 けつい したが、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん 下 か で神学校 しんがっこう の運営 うんえい が禁止 きんし されていたため、非合法 ひごうほう の地下 ちか 神学校 しんがっこう に入 はい り、1946年 ねん 11月1日 にち に司祭 しさい に叙 じょ 階 かい された。
優秀 ゆうしゅう だったヴォイティワは、司教 しきょう の推薦 すいせん でローマ の教皇 きょうこう 庁 ちょう 立 たて アンジェリクム神学 しんがく 大学 だいがく に送 おく られ、そこで学 まな んだ。1948年 ねん には十字架 じゅうじか の聖 ひじり ヨハネ の著作 ちょさく における信仰 しんこう 概念 がいねん についての研究 けんきゅう で神学 しんがく 博士 はかせ 号 ごう を取得 しゅとく している。また、ヴォイティワはこの年 とし にポーランドへ戻 もど り、クラクフの教区 きょうく 司祭 しさい としての職務 しょくむ を果 は たした。
1953年 ねん にヴォイティワは『カトリック倫理 りんり をマックス・シェーラー の倫理 りんり 体系 たいけい によって基礎 きそ づけることの可能 かのう 性 せい についての評価 ひょうか 』と題 だい する学位 がくい 論文 ろんぶん をルブリン ・カトリック大学 だいがく に提出 ていしゅつ 、その後 ご もクラクフのヤギェウォ大学 だいがく 、ルブリン大学 だいがく 神学 しんがく 部 ぶ で倫理 りんり 神学 しんがく を教 おし えた。
1958年 ねん 7月 がつ 4日 にち 、ヴォイティワはピウス12世 せい によってクラクフ教区 きょうく の補佐 ほさ 司教 しきょう に任 にん じられ、9月28日 にち に叙 じょ 階 かい した。時 とき に38歳 さい であった。
1962年 ねん に開始 かいし された第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ には、クラクフ司教 しきょう および神学 しんがく 者 しゃ として参加 さんか し、特 とく に重要 じゅうよう な2つの公 おおやけ 会議 かいぎ 文書 ぶんしょ 『信教 しんきょう の自由 じゆう に関 かん する宣言 せんげん (Dignitatis Humanae )』および『現代 げんだい 世界 せかい 憲章 けんしょう (Gaudium et spes )』の成立 せいりつ に貢献 こうけん した。
1964年 ねん 1月 がつ 13日 にち 、ヴォイティワはパウロ6世 せい によってクラクフ教区 きょうく の大司教 だいしきょう に任命 にんめい され、1967年 ねん 7月 がつ 26日 にち には同 どう 教皇 きょうこう によって枢機卿 すうききょう に親任 しんにん された。
ビル・クリントン アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう と(1993年 ねん )。
一般 いっぱん 参賀 さんが にて(2004年 ねん 9月29日 にち )。
1978年 ねん にパウロ6世 せい の帰 かえり 天 てん に伴 ともな って新 しん 教皇 きょうこう に選出 せんしゅつ されたのは、当時 とうじ 65歳 さい の(教皇 きょうこう としては若 わか い部類 ぶるい に入 はい る)アルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ1世 せい )であった。このコンクラーヴェ に参加 さんか したヴォイティワは、これでもう次 つぎ のコンクラーヴェに参加 さんか することはないだろうと思 おも っていた。
ところが、ヨハネ・パウロ1世 せい が不可解 ふかかい な状況 じょうきょう 下 か で在位 ざいい わずか33日 にち で帰 き 天 てん 。1978年 ねん 10月 がつ に再 ふたた びコンクラーヴェが行 おこな われることになった。
コンクラーヴェではイタリア出身 しゅっしん の枢機卿 すうききょう の二人 ふたり が激戦 げきせん を繰 く り広 ひろ げたため選出 せんしゅつ が停滞 ていたい 、その中 なか でドイツや南米 なんべい 出身 しゅっしん の枢機卿 すうききょう らがポーランド出身 しゅっしん のヴォイティワを支持 しじ し始 はじ めると一気 いっき に形勢 けいせい が逆転 ぎゃくてん [ 3] して、生涯 しょうがい 2度目 どめ のコンクラーヴェに臨 のぞ んだ58歳 さい のヴォイティワが新 しん 教皇 きょうこう に選出 せんしゅつ された(10月16日 にち 選出 せんしゅつ 、10月22日 にち 就任 しゅうにん )。
ヴォイティワは、前 ぜん 教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ1世 せい の遺志 いし を継 つ ぐ形 かたち で「ヨハネ・パウロ2世 せい 」という複 ふく 合名 ごうめい を名乗 なの った。そして新 しん 教皇 きょうこう として、第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ の精神 せいしん の実現 じつげん を前 ぜん 教皇 きょうこう から引 ひ き継 つ ぎ、現代 げんだい 社会 しゃかい に適合 てきごう した形 かたち への典礼 てんれい の刷新 さっしん を推進 すいしん した。
ヨハネ・パウロ2世 せい は、ポーランド人 じん 初 はつ のローマ教皇 きょうこう であり、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく 初 はつ の教皇 きょうこう の誕生 たんじょう でもあった。このことは故郷 こきょう ポーランドにおいてナショナリズム の高揚 こうよう と、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく としてソビエト連邦 れんぽう の衛星 えいせい 国 こく であることへの抵抗 ていこう 心 しん を一層 いっそう 大 おお きくすることになった。このことは1980年 ねん の独立 どくりつ 自主 じしゅ 管理 かんり 労働 ろうどう 組合 くみあい 「連帯 れんたい 」 による国内 こくない 改革 かいかく への要求 ようきゅう へとつながり、ひいては1988年 ねん 以降 いこう のポーランド民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう へとつながってゆくことになる。
ヨハネ・パウロ2世 せい は「旅 たび する教皇 きょうこう 」といわれたパウロ6世 せい を遥 はる かに凌 しの ぐスケールで全 ぜん 世界 せかい を訪問 ほうもん し、「空 そら 飛 と ぶ教皇 きょうこう (空 そら 飛 と ぶ聖 せい 座 ざ ) 」と呼 よ ばれるほどであった。最初 さいしょ の訪問 ほうもん 国 こく メキシコ を皮切 かわき りに、1981年 ねん 2月 がつ 23日 にち から26日 にち までの日本 にっぽん 訪問 ほうもん を含 ふく め、2003年 ねん 9月に最後 さいご の公式 こうしき 訪問 ほうもん 国 こく となったスロバキア に到 いた るまで、実 じつ に世界 せかい 100ヶ国 かこく 以上 いじょう を訪問 ほうもん している[ 4] 。勉強 べんきょう 熱心 ねっしん で飛行機 ひこうき の中 なか などでも学習 がくしゅう し、訪問 ほうもん 先 さき の言語 げんご で簡単 かんたん な演説 えんぜつ をすることで有名 ゆうめい だった。
ヨハネ・パウロ2世 せい は同年 どうねん 2月 がつ 23日 にち のローマ教皇 きょうこう として初 はつ の来日 らいにち 時 じ には広島 ひろしま 市 し と長崎 ながさき 市 し を訪 おとず れ、日本語 にほんご で「戦争 せんそう は人間 にんげん のしわざです」「戦争 せんそう は死 し です」と演説 えんぜつ し、核兵器 かくへいき の廃絶 はいぜつ を訴 うった えた[ 5] 。
またヨハネ・パウロ2世 せい は、キリスト教 きょう の平和 へいわ と非 ひ 暴力 ぼうりょく の教義 きょうぎ と、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか にドイツとソ連 それん の侵攻 しんこう により、故国 ここく ポーランドが焦土 しょうど と化 か した実体験 じつたいけん から、戦争 せんそう に対 たい しては一貫 いっかん して反対 はんたい の姿勢 しせい を取 と っていた。ポーランド人 じん としてナチス と共産 きょうさん 主義 しゅぎ の脅威 きょうい を体験 たいけん しながらカトリックの信仰 しんこう を守 まも り抜 ぬ いたことが、教皇 きょうこう 就任 しゅうにん 後 ご も反戦 はんせん 平和 へいわ 主義 しゅぎ を貫 つらぬ く大 おお きな動機 どうき となった。
イラク戦争 せんそう 中 なか に2003年 ねん 、アメリカのジョージ・W・ブッシュ 大統領 だいとうりょう が「神 かみ の加護 かご を」「神 かみ の祝福 しゅくふく あれ」と「神 かみ 」を引用 いんよう して戦争 せんそう を正当 せいとう 化 か していたのに対 たい し、ヨハネ・パウロ2世 せい は「神 かみ の名 な を用 もち いて殺 ころ すな」と不快 ふかい 感 かん を示 しめ し、「イラク でのこの戦争 せんそう に正義 せいぎ はなく、罪 つみ である」と批判 ひはん していた。
さらに1980年代 ねんだい 後半 こうはん 以降 いこう の東欧 とうおう の民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう において、精神 せいしん 的 てき 支柱 しちゅう の役割 やくわり を果 は たしたともいわれている。特 とく に、冷戦 れいせん 下 した で独裁 どくさい 政権 せいけん 下 した に置 お かれていた母国 ぼこく ポーランドの民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう には大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている。
ポーランドは国民 こくみん の98%がカトリック信者 しんじゃ であり、教皇 きょうこう が着任 ちゃくにん 8ヶ月 かげつ 後 ご に初 はじ めての故国 ここく 訪問 ほうもん をしたが、熱狂 ねっきょう 的 てき 歓迎 かんげい をもって迎 むか えられた。ヨハネ・パウロ2世 せい はワルシャワ のユゼフ・ピウスツキ 元帥 げんすい 広場 ひろば に集 あつ まった人々 ひとびと に「恐 おそ れるな」と訴 うった えた。その4ヶ月 かげつ 後 ご の「独立 どくりつ 自主 じしゅ 管理 かんり 労働 ろうどう 組合 くみあい 「連帯 れんたい 」 」が率 ひき いたストライキ などを経 へ て政権 せいけん は妥協 だきょう 路線 ろせん を走 はし り始 はじ め、1980年代 ねんだい 後半 こうはん の冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 時 じ には民意 みんい に押 お されて政権 せいけん が民主 みんしゅ 路線 ろせん へ転換 てんかん している。
なお、このような民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう への後援 こうえん の姿勢 しせい がソ連 それん を始 はじ めとする東側 ひがしがわ 諸国 しょこく の政府 せいふ に脅威 きょうい を感 かん じさせ、後 ご の暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん (後述 こうじゅつ )につながったという指摘 してき があった。また貧困 ひんこん 問題 もんだい ・難民 なんみん や移住 いじゅう 者 しゃ の問題 もんだい などの社会 しゃかい 問題 もんだい にも真摯 しんし な取 と り組 く みを見 み せた。
ヨハネ・パウロ2世 せい は他 た 宗教 しゅうきょう や他 た 文化 ぶんか との交流 こうりゅう にも非常 ひじょう に積極 せっきょく 的 てき で、プロテスタント 諸派 しょは との会合 かいごう や東方 とうほう 正教会 せいきょうかい や英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい との和解 わかい への努力 どりょく を行 おこな い、エキュメニズム の推進 すいしん に大 おお きな成果 せいか を上 あ げた。カトリックの教皇 きょうこう としては初 はじ めてのモスク [ 6] 、シナゴーグ [ 7] [ 8] 、ルーテル教会 きょうかい への訪問 ほうもん [ 9] 、東西 とうざい 教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ 以来 いらい のギリシャ 訪問 ほうもん [ 10] 、イギリス 訪問 ほうもん を成 な し遂 と げた。また天台宗 てんだいしゅう の大 だい 阿闍梨 あじゃり である酒井 さかい 雄哉 ゆうや とも会見 かいけん している。
1980年 ねん 5月21日 にち 、パウロ6世 せい の遺志 いし を引 ひ き継 つ ぎ[ 注釈 ちゅうしゃく 4] ヨハネ・パウロ2世 せい が、A級 きゅう ・BC級 きゅう 戦犯 せんぱん として処刑 しょけい された人々 ひとびと へのミサをサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう で執 と り行 おこな った。1618柱 はしら の位牌 いはい が納 おさ められた五重塔 ごじゅうのとう はヨハネ・パウロ2世 せい に奉呈 ほうてい された[ 11] 。
1982年 ねん 5月28日 にち には歴代 れきだい ローマ教皇 きょうこう 史上 しじょう 初 はじ めてイギリスを訪問 ほうもん 、バッキンガム宮殿 きゅうでん にエリザベス2世 せい を訪 たず ね、1534年 ねん のイングランド国王 こくおう ヘンリー8世 せい の離婚 りこん 問題 もんだい 以来 いらい 448年 ねん にわたり断絶 だんぜつ 状態 じょうたい にあった英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい とローマ・カトリックの和解 わかい の挨拶 あいさつ をした。翌 よく 29日 にち にはカンタベリー大 だい 聖堂 せいどう にロバート・ランシー カンタベリー大 だい 主教 しゅきょう を訪問 ほうもん した[ 12] 。
1986年 ねん には教皇 きょうこう として初 はじ めてローマのシナゴーグ を訪 おとず れるなど、ユダヤ人 じん への親近 しんきん 感 かん を示 しめ し続 つづ けたことなどでも知 し られる。
キリスト教 きりすときょう がなした過去 かこ の罪 つみ について、歴史 れきし 的 てき 謝罪 しゃざい を活発 かっぱつ に行 い っており、キリスト教 きょう の歴史 れきし におけるユダヤ人 じん への対応 たいおう や十字軍 じゅうじぐん の正教会 せいきょうかい やムスリム への行為 こうい への反省 はんせい と謝罪 しゃざい 、異端 いたん として火 ひ あぶりにされたヤン・フス やガリレオ・ガリレイ の地動説 ちどうせつ 裁判 さいばん における名誉 めいよ 回復 かいふく などを公式 こうしき に発表 はっぴょう している。
社会 しゃかい 問題 もんだい や他 た 宗教 しゅうきょう との対話 たいわ に注力 ちゅうりょく した一方 いっぽう で、従来 じゅうらい 同様 どうよう にカトリック教会 きょうかい において女性 じょせい の聖職 せいしょく 者 しゃ を認 みと めないなど、教義 きょうぎ 的 てき には伝統 でんとう を逸脱 いつだつ せず保守 ほしゅ 的 てき なことで知 し られる。1979年 ねん の最初 さいしょ の回 かい 勅 みことのり 「レデンプトーリス・オミニス」(『人間 にんげん のあがない主 ぬし 』)から2003年 ねん の「エクレシア・デ・エウカリスティア」(『教会 きょうかい にいのちを与 あた える聖体 せいたい 』)まで、多 おお くの回 かい 勅 みことのり や使徒 しと 的 てき 書簡 しょかん を精力 せいりょく 的 てき に発表 はっぴょう している。
特 とく に議論 ぎろん を呼 よ んだ1995年 ねん の回 かい 勅 みことのり 「エヴァンジェリウム・ヴィテ」(『いのちの福音 ふくいん 』)では、プロライフ の立場 たちば から妊娠 にんしん 中絶 ちゅうぜつ や安楽 あんらく 死 し を「死 し の文化 ぶんか 」であると非難 ひなん し、「いのちの文化 ぶんか 」の必要 ひつよう 性 せい を訴 うった えた。
ヨハネ・パウロ2世 せい にとって、内部 ないぶ 的 てき には常 つね にカトリック教会 きょうかい において存在 そんざい する、保守 ほしゅ 派 は と改革 かいかく 派 は の対立 たいりつ 構造 こうぞう の間 あいだ のバランスをどのように取 と っていくか、また対外 たいがい 的 てき には、複雑 ふくざつ 化 か する現代 げんだい 社会 しゃかい の諸 しょ 問題 もんだい の要請 ようせい に、カトリック教会 きょうかい としてどう答 こた えてゆくか、ということが常 つね に課題 かだい であった。
また1980年代 ねんだい 前半 ぜんはん には、宗教 しゅうきょう 事業 じぎょう 協会 きょうかい (バチカン銀行 ぎんこう )の主力 しゅりょく 取引 とりひき 行 ぎょう であったアンブロシアーノ銀行 ぎんこう の破綻 はたん やロベルト・カルヴィ 暗殺 あんさつ 事件 じけん 、極右 きょくう 秘密 ひみつ 結社 けっしゃ に高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ が関与 かんよ したP2事件 じけん などの、バチカンを揺 ゆ るがすスキャンダルにも関 かか わることを余儀 よぎ なくされた。晩年 ばんねん の病気 びょうき などにより、前 ぜん 教皇 きょうこう が進 すす めようとした宗教 しゅうきょう 事業 じぎょう 協会 きょうかい を中心 ちゅうしん としたバチカン の構造 こうぞう 改革 かいかく については積極 せっきょく 的 てき に関与 かんよ せず、次代 じだい 教皇 きょうこう への積 つ み残 のこ し課題 かだい となった。
1981年 ねん 5月13日 にち 、ヨハネ・パウロ2世 せい はバチカン のサン・ピエトロ広場 ひろば にて、トルコ人 じん マフィア のメフメト・アリ・アジャ から銃撃 じゅうげき された。銃弾 じゅうだん は2発 はつ 命中 めいちゅう し教皇 きょうこう は重傷 じゅうしょう を負 お ったが、奇跡 きせき 的 てき に内臓 ないぞう の損傷 そんしょう を免 まぬか れ一命 いちめい を取 と り留 と めた。アジャは逮捕 たいほ され終身 しゅうしん 刑 けい が宣告 せんこく された(その後 ご 恩赦 おんしゃ され、送還 そうかん 先 さき のトルコ で以前 いぜん に犯 おか した罪 つみ により服役 ふくえき )。
1983年 ねん のクリスマス の2日 にち 後 ご 、ヨハネ・パウロ2世 せい は狙撃 そげき 犯人 はんにん のアジャが収監 しゅうかん されている刑務所 けいむしょ を訪 おとず れた。2人 ふたり は面会 めんかい し、短時間 たんじかん の会話 かいわ を行 おこな った。教皇 きょうこう は「私 わたし たちが話 はな したものは、彼 かれ と私 わたし の間 あいだ の秘密 ひみつ のままでなければならないでしょう。私 わたし は彼 かれ を許 ゆる し、完全 かんぜん に信頼 しんらい できる兄弟 きょうだい として話 はな しました」と語 かた った。2005年 ねん 4月 がつ にヨハネ・パウロ2世 せい の訃報 ふほう を聞 き いたアジャは深 ふか い悲 かな しみを覚 おぼ え、喪 も に服 ふく したことが家族 かぞく により伝 つた えられている。
2005年 ねん 2月 がつ にヨハネ・パウロ2世 せい 自身 じしん が著書 ちょしょ で「犯行 はんこう は共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 もの によるもの」と発表 はっぴょう し、2005年 ねん 3月 がつ には前月 ぜんげつ に証拠 しょうこ 書類 しょるい が東 ひがし ドイツ で発見 はっけん されていたとドイツ紙 し が報道 ほうどう した[ 13] 。それによると事件 じけん はソ連 それん 国家 こっか 保安 ほあん 委員 いいん 会 かい (KGB) が計画 けいかく し、トドル・ジフコフ 率 ひき いるブルガリア人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 、東 ひがし ドイツ などが協力 きょうりょく していたという。祖国 そこく ポーランドをはじめ当時 とうじ の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 圏 けん 東側 ひがしがわ 諸国 しょこく における反 はん 体制 たいせい 運動 うんどう の精神 せいしん 的 てき 支柱 しちゅう である、ヨハネ・パウロ2世 せい の絶大 ぜつだい な影響 えいきょう 力 りょく を抹殺 まっさつ することが目的 もくてき であった。
2010年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、アジャがトルコの刑務所 けいむしょ から釈放 しゃくほう されたことをBBCワールドニュース が伝 つた えた。2014年 ねん 12月27日 にち 、アジャはサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう を訪問 ほうもん し、ヨハネ・パウロ2世 せい の墓 はか に献花 けんか した。アジャはフランシスコ教皇 きょうこう との面会 めんかい も求 もと めたが、バチカン側 がわ に拒否 きょひ された。
なお、事件 じけん 当日 とうじつ の5月 がつ 13日 にち はファティマの聖母 せいぼ 出現 しゅつげん の記念 きねん 日 び であったため、ヨハネ・パウロ2世 せい は「聖母 せいぼ が弾 たま をそらして下 くだ さいました」と語 かた っていたという。
翌年 よくねん の同 おな じ日 び である1982年 ねん 5月13日 にち 、ヨハネ・パウロ2世 せい が最初 さいしょ の暗殺 あんさつ 未遂 みすい からの「聖母 せいぼ のご加護 かご 」に感謝 かんしゃ を捧 ささ げるため、ポルトガル のファティマ を巡礼 じゅんれい していた際 さい 、教皇 きょうこう が進 すす める第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ に基 もと づく改革 かいかく やバチカン=モスクワ 協定 きょうてい に反対 はんたい していた、聖 せい ピオ十 じゅう 世 せい 会 かい のスペイン人 じん 司祭 しさい で超 ちょう 保守 ほしゅ 派 は のフアン・マリア・フェルナンデス・イ・クロン 神父 しんぷ (Juan María Fernández y Krohn ) に銃剣 じゅうけん で襲 おそ われ負傷 ふしょう した。
クロン神父 しんぷ は群衆 ぐんしゅう の中 なか からキャソック 姿 すがた で現 あらわ れ、ヨハネ・パウロ2世 せい の背後 はいご から近 ちか づくと、「打倒 だとう 教皇 きょうこう 、打倒 だとう 第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ 」と叫 さけ んでから、長 なが さ40cm のモーゼル ライフル の銃剣 じゅうけん で教皇 きょうこう を刺 さ した。ヨハネ・パウロ2世 せい は負傷 ふしょう したものの生命 せいめい に別状 べつじょう はなく、教皇 きょうこう を暗殺 あんさつ しようとしたクロン神父 しんぷ を祝福 しゅくふく し、巡礼 じゅんれい 旅行 りょこう を続 つづ けた。クロン神父 しんぷ は犯行 はんこう 現場 げんば で治安 ちあん 部隊 ぶたい に無抵抗 むていこう で逮捕 たいほ され、懲役 ちょうえき 6年 ねん の判決 はんけつ を受 う けてリスボン の刑務所 けいむしょ に3年 ねん 服役 ふくえき した。
この襲撃 しゅうげき 事件 じけん そのものは、当時 とうじ マスメディア で報道 ほうどう されたため世界中 せかいじゅう に知 し られていたが、ヨハネ・パウロ2世 せい が出血 しゅっけつ をともなう負傷 ふしょう をしていたことは、その後 ご 2008年 ねん 10月15日 にち になって初 はじ めて公表 こうひょう された。教皇 きょうこう の元 もと 側近 そっきん でクラクフ大司教 だいしきょう であったスタニスラフ・ジビッシュ枢機卿 すうききょう (Stanislaw Dziwisz ) の回顧 かいこ 録 ろく をもとに製作 せいさく されたドキュメンタリー 映画 えいが 「証言 しょうげん 」の中 なか で、ナレーター を務 つと めたジビッシュ枢機卿 すうききょう 自身 じしん が明 あき らかにしたものである[ 14] [ 15] [ 16] [ 17] [ 18] 。
初代 しょだい 教皇 きょうこう ペトロ を除 のぞ けば、31年 ねん 7ヶ月 かげつ 教皇 きょうこう 位 い にあったピウス9世 せい に次 つ いで、歴代 れきだい 2位 い の26年 ねん 5ヶ月 かげつ と2週間 しゅうかん という長期間 ちょうきかん の在位 ざいい であったが、晩年 ばんねん は暗殺 あんさつ 未遂 みすい で受 う けた重傷 じゅうしょう の後遺症 こういしょう や、パーキンソン症候群 しょうこうぐん など多 おお くの肉体 にくたい 的 てき な苦 くる しみを受 う けた。
2005年 ねん 2月 がつ からインフルエンザ と喉頭 こうとう 炎 えん による入退院 にゅうたいいん を繰 く り返 かえ し体調 たいちょう が悪化 あっか していたが、同年 どうねん 3月31日 にち 以降 いこう 感染 かんせん 症 しょう によって容体 ようだい はさらに悪化 あっか した。しかし教皇 きょうこう は入院 にゅういん を拒 こば み、住 す み慣 な れたバチカン宮殿 きゅうでん の居室 きょしつ で療養 りょうよう することを選 えら んだ。ヨハネ・パウロ2世 せい の容態 ようだい 悪化 あっか のニュースを聞 き いた信徒 しんと たちがサン・ピエトロ広場 ひろば に集 あつ まって祈 いの りを捧 ささ げていると、教皇 きょうこう は「私 わたし はあなたたちと一緒 いっしょ にいる。ありがとう」と語 かた った。
同年 どうねん 4月 がつ 2日 にち 午後 ごご 9時 じ 37分 ふん (日本 にっぽん 時間 じかん :3日 にち 午前 ごぜん 4時 じ 37分 ふん )、ヨハネ・パウロ2世 せい は敗 はい 血 ち 性 せい ショックにより84歳 さい の生涯 しょうがい を閉 と じた。同年 どうねん 9月 がつ 17日 にち に最期 さいご の言葉 ことば が「父 ちち なる神 かみ の家 いえ に行 い かせてほしい」というポーランド語 ご だったと報道 ほうどう された。
同年 どうねん 4月 がつ 8日 にち に行 おこな われたヨハネ・パウロ2世 せい の葬儀 そうぎ (英語 えいご 版 ばん ) は、参加 さんか 人数 にんずう において史上 しじょう 最大 さいだい 規模 きぼ のものとなった。厳戒 げんかい 態勢 たいせい の中 なか で、キリスト教 きりすときょう 国 くに であるか否 ひ かを問 と わず世界 せかい の要人 ようじん が多数 たすう 参加 さんか し、弔問 ちょうもん 外交 がいこう の場 ば ともなった。長年 ながねん 対立 たいりつ 関係 かんけい にあったヨルダン国王 こくおう 、アブドゥッラー2世 せい とイスラエル大統領 だいとうりょう 、カツァブ が葬儀 そうぎ の場 ば で軽 かる い挨拶 あいさつ を交 か わす光景 こうけい も見 み られた。また中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )の陳 ちん 水 みず 扁 ひらた 総統 そうとう の弔問 ちょうもん に対 たい して、同国 どうこく と対立 たいりつ 関係 かんけい にある中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は抗議 こうぎ 声明 せいめい を出 だ した(ただしバチカン は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と国交 こっこう が無 な く、代 か わりに中華民国 ちゅうかみんこく と国交 こっこう を有 ゆう する)。
葬儀 そうぎ にあたり、イスラム諸国 しょこく を含 ふく めほとんどの国 くに からは、国王 こくおう ・王 おう 太子 たいし や大統領 だいとうりょう など国家 こっか 元首 げんしゅ 級 きゅう の人物 じんぶつ が参列 さんれつ したにもかかわらず、日本 にっぽん からは元 もと 外務 がいむ 大臣 だいじん である川口 かわぐち 順子 じゅんこ 内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 補佐 ほさ 官 かん (当時 とうじ )と外務省 がいむしょう の副 ふく 局長 きょくちょう が出席 しゅっせき しただけであった[ 19] 。
ヨハネ・パウロ2世 せい の他 た 宗教 しゅうきょう との対話 たいわ 推進 すいしん の姿勢 しせい に敬意 けいい を表 あらわ し、キリスト教 きょう の他 ほか 教派 きょうは (聖 せい 公会 こうかい 、東方 とうほう 正教会 せいきょうかい など)や他 た 宗教 しゅうきょう (ユダヤ教 きょう など)の聖職 せいしょく 者 しゃ も多数 たすう 参列 さんれつ した。カンタベリー大 だい 主教 しゅきょう ローワン・ウィリアムズ も参列 さんれつ したが、これはヘンリー8世 せい によるイングランド国教 こっきょう 会 かい 創設 そうせつ 以来 いらい 初 はじ めてのことであった。
一般 いっぱん 信徒 しんと も世界 せかい 各国 かっこく から約 やく 30万 まん 人 にん 参列 さんれつ したほか、サン・ピエトロ広場 ひろば に入 い れなかった信徒 しんと や一般 いっぱん 市民 しみん は約 やく 200万 まん 人 にん にも及 およ び、ローマ市 し 当局 とうきょく は彼 かれ らのために大型 おおがた のディスプレイ を路上 ろじょう に設置 せっち して葬儀 そうぎ の様子 ようす を実況 じっきょう 中継 ちゅうけい した。また参列 さんれつ 者 しゃ によって満室 まんしつ になる宿 やど が続出 ぞくしゅつ し、ローマ市 し 当局 とうきょく は野宿 のじゅく する参列 さんれつ 者 しゃ のためにテント を無料 むりょう で貸 か し出 だ すなどの緊急 きんきゅう 措置 そち を取 と った。
ヨハネ・パウロ2世 せい の帰 かえり 天 てん を受 う けて、世界 せかい 各地 かくち からローマを訪 おとず れた信者 しんじゃ の数 かず は約 やく 500万 まん 人 にん に上 のぼ り、うち約 やく 200万 まん 人 にん はヨハネ・パウロ2世 せい の故郷 こきょう であるポーランドからの訪問 ほうもん 者 しゃ であったという。
葬儀 そうぎ 後 ご 、ヨハネ・パウロ2世 せい の遺体 いたい を納 おさ めた石棺 せっかん は、サン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう の地下 ちか 墓地 ぼち の、ヨハネ23世 せい の石棺 せっかん の下 した の土中 どちゅう に埋葬 まいそう された。ただし2011年 ねん の列 れつ 福 ぶく の際 さい に取 と り出 だ され、現在 げんざい は大 だい 聖堂 せいどう 入口 いりくち を入 はい り右側 みぎがわ に埋葬 まいそう されている。
列 れつ 福 ぶく 後 ご のヨハネ・パウロ2世 せい の墓 はか の前 まえ で祈 いの る人々 ひとびと 。
ヨハネ・パウロ2世 せい の後継 こうけい に就任 しゅうにん したベネディクト16世 せい 教皇 きょうこう は、2005年 ねん 5月13日 にち にヨハネ・パウロ2世 せい の列 れつ 福 ぶく 調査 ちょうさ の準備 じゅんび を始 はじ めたことを宣言 せんげん した。以降 いこう 、教皇 きょうこう 庁 ちょう 列聖 れっせい 省 しょう (英語 えいご 版 ばん ) 内 うち での審査 しんさ の過程 かてい においてはヨハネ・パウロ2世 せい は「神 かみ のしもべ」の位 くらい にあった[ 20] 。同年 どうねん 6月28日 にち には正式 せいしき の調査 ちょうさ が開始 かいし された。通常 つうじょう 、列 れつ 福 ぶく 調査 ちょうさ は死後 しご 5年 ねん を待 ま たないと始 はじ めることができないが、ヨハネ・パウロ2世 せい は特例 とくれい として死後 しご まもなくの調査 ちょうさ 開始 かいし となった。
死後 しご 丸 まる 2年 ねん が経過 けいか した2007年 ねん 4月 がつ 2日 にち にはクラクフでの調査 ちょうさ が完了 かんりょう し、資料 しりょう がバチカンの列聖 れっせい 省 しょう へ送付 そうふ された。以降 いこう 、同 どう 省内 しょうない での審査 しんさ の過程 かてい においてはヨハネ・パウロ2世 せい は「尊者 そんじゃ 」の位 くらい にあった[ 20] 。
2011年 ねん 1月 がつ 14日 にち 、ベネティクト16世 せい 教皇 きょうこう はヨハネ・パウロ2世 せい を「福 ぶく 者 しゃ 」に認定 にんてい し、同年 どうねん 5月1日 にち に列 れつ 福 ぶく 式 しき を執 と り行 おこな うと発表 はっぴょう し、予定 よてい 通 どお り同日 どうじつ に列 れつ 福 ぶく 式 しき が行 おこな われた。福 ぶく 者 しゃ に認定 にんてい される基準 きじゅん である「奇跡 きせき 」は、パーキンソン病 びょう 患者 かんじゃ であったフランスの修道 しゅうどう 女 おんな がヨハネ・パウロ2世 せい の死後 しご に祈 いの りを捧 ささ げると病気 びょうき が快方 かいほう に向 む かっていったという事例 じれい を挙 あ げ、これを「奇跡 きせき 」と認定 にんてい した[ 21] 。
列 れつ 福 ぶく に先立 さきだ つ2011年 ねん 4月 がつ 29日 にち 、ヨハネ・パウロ2世 せい の棺 かん は墓 はか から取 と り出 だ されて列 れつ 福 ぶく 式 しき 後 ご に崇敬 すうけい を受 う けた後 のち 、サン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう 内 ない のサン・セバスティアーノ礼拝 れいはい 堂 どう の祭壇 さいだん に再 さい 埋葬 まいそう された。ここにはインノケンティウス11世 せい の遺体 いたい が安置 あんち されていたが、4月 がつ 8日 にち に聖堂 せいどう 内 ない の別 べつ の場所 ばしょ へ移 うつり 葬 そう されている。
2013年 ねん 7月 がつ 2日 にち 、聖人 せいじん になる条件 じょうけん である二 ふた つ目 め の「奇跡 きせき 」が認定 にんてい され(列 れつ 福 ぶく 式 しき 当日 とうじつ の2011年 ねん 5月 がつ 1日 にち 、重病 じゅうびょう のコスタリカの女性 じょせい がヨハネ・パウロ2世 せい に祈 いの り続 つづ け、回復 かいふく した出来事 できごと が奇跡 きせき と認 みと められた)[ 22] 、3日 にち 後 ご の7月 がつ 5日 にち にはフランシスコ 教皇 きょうこう がこれを承認 しょうにん し、列聖 れっせい が確定 かくてい された。9月30日 にち には、同時 どうじ に列聖 れっせい が決 き まったヨハネ23世 せい とともに2014年 ねん 4月 がつ 27日 にち に列聖 れっせい 式 しき を執 と り行 おこな うことが発表 はっぴょう され[ 23] 、予定 よてい 通 どお り列聖 れっせい 式 しき が執 と り行 おこな われた[ 24] [ 22] 。これにより死後 しご 9年 ねん 25日 にち での列聖 れっせい となり、近年 きんねん では最速 さいそく の記録 きろく となった。列聖 れっせい 式 しき にはベネディクト16世 せい も共同 きょうどう 司式 ししき 者 しゃ として出席 しゅっせき し、現役 げんえき ・名誉 めいよ ・列聖 れっせい 対象 たいしょう 者 しゃ あわせて4人 にん の教皇 きょうこう の揃 そろ い踏 ぶ みとなった[ 22] 。
「
人間 にんげん ひとりひとりと諸国 しょこく の民 みん の母 はは マリアよ、私 わたし 達 たち をおびやかす悪 あく の力 ちから に打 う ち勝 か てるようお助 たす け下 くだ さい。
現代 げんだい 人 じん の心 しん にこれほど容易 ようい に根 ね ざしてしまう悪 あく 、そのもたらす計 はか り知 し れないもろもろの結果 けっか によって、すでに現代 げんだい の人々 ひとびと のいのちを危険 きけん にさらし、未来 みらい への道 みち を閉 と ざそうとしている悪 あく から私 わたし 達 たち をお救 すく い下 くだ さい。
飢餓 きが と戦争 せんそう 、核 かく 戦争 せんそう 、計 はか り知 し れない自己 じこ 破壊 はかい 、あらゆる戦争 せんそう より、主 おも よ、私 わたし 達 たち をお救 すく い下 くだ さい。
あがないと救 すく いの無限 むげん の力 ちから 、神 かみ の慈愛 じあい の力 ちから が世界 せかい の歴史 れきし において、再 ふたた び発揮 はっき されますように。
神 かみ の慈愛 じあい が悪 あく をおしとどめ、人間 にんげん の良心 りょうしん を正 ただ し、あなたの汚 よご れなきみ心 しん によって、希望 きぼう の光 ひかり が全 すべ ての人々 ひとびと に示 しめ されますように。
」
『サルヴィフィチ・ドローリスー苦 くる しみのキリスト教 きりすときょう 的 てき 意味 いみ 』内山 うちやま 恵 めぐみ 介 かい 訳 やく 、サンパウロ 、1988年 ねん
『真 しん の開発 かいはつ とはー人間 にんげん 不在 ふざい の開発 かいはつ から人間 にんげん 尊重 そんちょう の発展 はってん へ』山田 やまだ 經 けい 三 さん 訳 やく 、カトリック中央 ちゅうおう 協議 きょうぎ 会 かい 、1988年 ねん
『希望 きぼう の扉 とびら を開 ひら く』曽野 その 綾子 あやこ ・三浦 みうら 朱門 しゅもん 共 とも 訳 やく 、同朋 どうほう 舎 しゃ 出版 しゅっぱん 、1996年 ねん
『賜物 たまもの と神秘 しんぴ ー教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ二世 よはねぱうろにせい 自伝 じでん 』斎田 さいだ 靖子 やすこ 訳 やく 、エンデルレ書店 しょてん 、1997年 ねん
『教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい の詩 し 』木 き 鎌 がま 安雄 やすお 訳 やく 、聖母 せいぼ の騎士 きし 社 しゃ 、2004年 ねん
『ヨハネ・パウロ二世 よはねぱうろにせい 愛 あい と勇気 ゆうき の言葉 ことば 』中井 なかい 俊 しゅん 已 やめ 、PHP研究所 けんきゅうじょ 、2005年 ねん
『立 た ちなさい さあ行 い こうー教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ二世 よはねぱうろにせい の自伝 じでん 的 てき 回想 かいそう 』中野 なかの 裕明 ひろあき 訳 やく 、サンパウロ、2006年 ねん
1981年 ねん 、ポーランドの歴史 れきし を背景 はいけい としたヨハネ・パウロ2世 せい の伝記 でんき 映画 えいが 『遠 とお くから来 き た人 ひと 』(ポーランド映画 えいが )が製作 せいさく された[ 25] 。
1984年 ねん 、青年 せいねん カトリック信者 しんじゃ の年次 ねんじ 集会 しゅうかい であるワールドユースデー を提唱 ていしょう 。
1999年 ねん 、アルバム「アバ・パーテル」でCD デビューした。
2000年 ねん 、特別 とくべつ な節目 ふしめ となる大聖 たいせい 年 ねん を迎 むか え、教皇 きょうこう 大 だい 勅書 ちょくしょ (受肉の秘 ひ 儀 ぎ )で規定 きてい された教会 きょうかい が巡礼 じゅんれい の対象 たいしょう となった。
2003年 ねん 3月 がつ 、ヨハネ・パウロ2世 せい 名義 めいぎ で詩集 ししゅう 『ローマの三幅対 さんぶくつい 祭壇 さいだん 画 が 』を刊行 かんこう し、ポーランドで初版 しょはん 30万 まん 部 ぶ がすぐに完売 かんばい したほか、全 ぜん 世界 せかい でベストセラーになった。
2005年 ねん 、ヨハネ・パウロ2世 せい の半生 はんせい を描 えが いたイタリア・ポーランド合作 がっさく のテレビ映画 えいが 『カロル 教皇 きょうこう になった男 おとこ (KAROL - A man who became Pope)』が公開 こうかい された。世界 せかい 各国 かっこく で19言語 げんご に翻訳 ほんやく され放映 ほうえい された(日本語 にほんご 版 ばん は公開 こうかい されていない。2014年 ねん に「カロル日本語 にほんご 字幕 じまく 版 ばん DVD」が製作 せいさく された)[ 26] [ 27] 。
2006年 ねん 9月 がつ 3日 にち 、パリのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう 前 まえ の広場 ひろば に、従来 じゅうらい の「ノートルダム前庭 ぜんてい 」という名称 めいしょう に「ヨハネ・パウロ2世 せい 」の名称 めいしょう が功績 こうせき を称 とな えて追加 ついか された。パリでは著名 ちょめい 人 じん を地名 ちめい に採用 さいよう する場合 ばあい 、死去 しきょ から5年 ねん 待 ま つのが慣例 かんれい であるが、この名称 めいしょう 追加 ついか は例外 れいがい 的 てき である(大 だい 聖堂 せいどう の裏 うら の緑地 りょくち は「ヨハネ23世 せい 小 しょう 公園 こうえん 」と呼 よ ばれている)。
2006年 ねん 10月 がつ 16日 にち 、ポーランドでヨハネ・パウロ2世 せい の肖像 しょうぞう を使用 しよう した50ズウォティ の記念 きねん 紙幣 しへい が発行 はっこう された。
文化放送 ぶんかほうそう に自身 じしん の半生 はんせい を元 もと にした『わが選択 せんたく 』というラジオ ドラマ台本 だいほん を投稿 とうこう したことがある。惜 お しくも採用 さいよう されなかったものの、現在 げんざい では貴重 きちょう な文化財 ぶんかざい として「日本 にっぽん 脚本 きゃくほん アーカイブズ 」主催 しゅさい の展覧 てんらん 会 かい に展示 てんじ されている。
2011年 ねん 5月 がつ 、ローマ市内 しない のテルミニ駅 えき 前 まえ にブロンズ像 ぞう が設置 せっち された[ 28] 。
教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい は、その著作 ちょさく (『希望 きぼう の扉 とびら を開 ひら く』同朋 どうほう 舎 しゃ 出版 しゅっぱん )で仏教 ぶっきょう に対 たい し極 きわ めて否定 ひてい 的 てき な見解 けんかい を明 あ かしている。教皇 きょうこう によれば、仏教 ぶっきょう は無 む 神 かみ 論 ろん 的 てき 体系 たいけい にほかならず、その信徒 しんと は苦 く を本質 ほんしつ とする世界 せかい に対 たい し無 む 関心 かんしん を貫 つらぬ くことによってのみ救済 きゅうさい されるのだという[ 29] 。
^ 鈴木 すずき 宣明 のぶあき 、石井 いしい 祥 さち 裕 ひろし 「ヨアンネス・パウルス 2 世 せい 」『新 しん カトリック大 だい 事典 じてん 』研究 けんきゅう 社 しゃ Online Dictionary。
^ 大谷 おおや 啓 あきら 治 ち . “ヨハネ・パウロ(2世 せい ) ”. コトバンク . 日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ) . 小学館 しょうがくかん . 2019年 ねん 11月25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 漁夫 ぎょふ の利 り だった新 しん 法王 ほうおう イタリア二 に 派 は が激戦 げきせん 共倒 ともだお れつき浮上 ふじょう 『朝日新聞 あさひしんぶん 』1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )10月 がつ 20日 はつか 朝刊 ちょうかん 、13版 はん 、7面 めん
^ 教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい の海外 かいがい 司 し 牧 まき 訪問 ほうもん (1979~2004) - カトリック中央 ちゅうおう 協議 きょうぎ 会 かい
^ 広島 ひろしま で平和 へいわ アピール カトリック中央 ちゅうおう 協議 きょうぎ 会 かい
^ Plett, Barbara (7 May 2001). "Mosque visit crowns Pope's tour". BBC News.
^ AIJAC expresses sorrow at Pope's passing". Australia/Israel & Jewish Affairs Council. 4 April 2005.
^ "Address at the Great Synagogue of Rome". Boston College. 13 April 1986. Archived from the original on 11 June 2008.
^ "Ökumenisches Treffen mit der Evangelisch-Lutherischen Gemeinde von Rom" . Vatican.va.
^ Brunwasser, Matthew (2 August 2007). "Patriarch Teoctist, 92, Romanian Who Held Out Hand to John Paul II, Dies". The New York Times.
^ Popes, Bishops and War Criminals: reflections on Catholics and Yasukuni in post-war Japan
^ 『20世紀 せいき 全 ぜん 記録 きろく クロニック』小松 こまつ 左京 さきょう 、堺屋 さかいや 太一 たいち 、立花 たちばな 隆 たかし 企画 きかく 委員 いいん 。講談社 こうだんしゃ 、1987年 ねん 9月 がつ 21日 にち 、p1182。
^ Stasi Files Implicate KGB in Pope Shooting Deutsche Welle 2005年 ねん 1月 がつ 4日 にち 、2018年 ねん 5月 がつ 6日 にち 閲覧 えつらん
^ "Pope John Paul 'Wounded' in 1982" . BBC News. 16 October 2008. Retrieved 1 January 2009.
^ ""Pope John Paul Injured in 1982 Knife Attack", says Aide". 1982–2009 CBC News. 16 October 2008. Retrieved 1 January 2009.
^ "John Paul was Wounded in 1982 Stabbing, Aide Reveals" . Reuters News Release. 1982–2009 Reuters. 15 October 2008. Retrieved 1 January 2009.
^ Hebblethwaite, Peter (1995). Pope John Paul II and the Church. London: 1995 Rowman & Littlefield. ISBN 978-1-55612-814-1 .
^ “前 ぜん 教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい 、暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん 翌年 よくねん にもナイフで負傷 ふしょう ”. http://www.christiantoday.co.jp/ . クリスチャントゥデイ (2008年 ねん 10月 がつ 18日 にち ). 2018年 ねん 5月 がつ 6日 にち 閲覧 えつらん 。
^ EXTRAORDINARY MISSIONS REPRESENTING STATES AND INTERNATIONAL AND SUPRANATIONAL ORGANIZATIONS IN THE FUNERAL MASS OF HIS HOLINESS - JOHN PAUL II - 葬儀 そうぎ 参列 さんれつ 者 しゃ の一覧 いちらん
^ a b キリスト教 きりすときょう マメ知識 ちしき 「列 れつ 福 ぶく 、列聖 れっせい 」 Laudate 女子 じょし パウロ会 かい 公式 こうしき サイト 2012年 ねん 9月 がつ 26日 にち 閲覧 えつらん 。
^ ヨハネ・パウロ2世 せい が福 ぶく 者 しゃ に=聖人 せいじん の前 ぜん 段階 だんかい 、奇跡 きせき 認定 にんてい -ロ ろ ーマ法王 まほうおう - 時事通信社 じじつうしんしゃ 2011年 ねん 1月 がつ 14日 にち 配信 はいしん
^ a b c “バチカンで列聖 れっせい 式 しき ヨハネ・パウロ2世 せい ら聖人 せいじん に ”. 日本経済新聞 にほんけいざいしんぶん (2014年 ねん 4月 がつ 27日 にち ). 2018年 ねん 2月 がつ 3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 福 ぶく 者 しゃ ヨハネ23世 せい と福 ぶく 者 しゃ ヨハネ・パウロ2世 せい 、来年 らいねん 4月 がつ 27日 にち 列聖 れっせい へ バチカン放送 ほうそう 局 きょく 日本語 にほんご 版 ばん
^ ヨハネ23世 せい とヨハネ・パウロ2世 せい 、聖人 せいじん に、バチカンで列聖 れっせい 式 しき (バチカン放送 ほうそう 局 きょく 日本語 にほんご 版 ばん )
^ 「ポーランド映画 えいが 遠 とお くから来 き た人 ひと 」『カトリック生活 せいかつ 』ドン・ボスコ社 しゃ 、1981年 ねん 9月 がつ 号 ごう 。42-47頁 ぺーじ 。
^ 上智 じょうち 卒業生 そつぎょうせい 、教皇 きょうこう ドラマ字幕 じまく 版 ばん 制作 せいさく カトリック新聞 しんぶん オンライン (2014年 ねん 12月23日 にち )
^ 本学 ほんがく 卒業生 そつぎょうせい 有志 ゆうし により聖 ひじり ヨハネ・パウロ二世 よはねぱうろにせい の半生 はんせい を描 えが いたテレビ映画 えいが 「KAROL」日本語 にほんご 版 ばん が完成 かんせい しました 上智大学 じょうちだいがく
^ “酷評 こくひょう されたヨハネ・パウロ2世 せい 像 ぞう 、改修 かいしゅう して再 さい 公開 こうかい ” . AFPBB News (MSN). (2012年 ねん 11月20日 にち ). https://www.afpbb.com/articles/-/2912673?pid=9866286 2012年 ねん 11月21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Miyazaki, Tetsuya; 宮崎 みやざき 哲弥 てつや (2006). Shinsho 365-satsu . 宮崎 みやざき 哲弥 てつや . Tōkyō: Asahi Shinbunsha. ISBN 4-02-273106-0 . OCLC 123912904 . https://www.worldcat.org/oclc/123912904
ウィキメディア・コモンズには、
ヨハネ・パウロ2世 せい に
関連 かんれん する
メディア および
カテゴリ があります。
古代 こだい 中世 ちゅうせい 近世 きんせい 近代 きんだい 現代 げんだい
一覧 いちらん
^1 教皇 きょうこう 選出 せんしゅつ 者 しゃ 。正式 せいしき な教皇 きょうこう に数 かぞ えず
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た