(Translated by https://www.hiragana.jp/)
新浦壽夫 - Wikipedia コンテンツにスキップ

しんうら壽夫としお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しんうら寿夫としおから転送てんそう
しんうら 壽夫としお(きむにちとおる)
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 東京とうきょう世田谷せたがや
生年月日せいねんがっぴ (1951-05-11) 1951ねん5月11にち(73さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
183 cm
80 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき ひだりとうひだり
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1968ねん ドラフトがい
はつ出場しゅつじょう NPB / 1971ねん4がつ13にち
KBO / 1984ねん
最終さいしゅう出場しゅつじょう NPB / 1992ねん9月23にち
KBO / 1986ねん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき
  • 静岡しずおか県立けんりつ静岡しずおか商業しょうぎょう高等こうとう学校がっこう

しんうら 壽夫としお(にうら ひさお、1951ねん5月11にち - )は、東京とうきょう世田谷せたがや出身しゅっしん静岡しずおかけんそだち)のもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)・解説かいせつしゃ

出自しゅつじ在日ざいにち韓国かんこくじんで、韓国かんこくめいは「きむにちとおる(キム・イリュン、김일융)」である。NPB1978ねん長男ちょうなん誕生たんじょうしたことをに、知己ちき国会こっかい議員ぎいんである稲葉いなばおさむ立川談志たてかわだんし協力きょうりょく日本にっぽん国籍こくせき帰化きかして韓国かんこくけい日本人にっぽんじんとなったことをみずかかしている[1]

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

プロりまで[編集へんしゅう]

在日ざいにち韓国かんこくじん2せいとして東京とうきょう世田谷せたがや二子ふたご玉川たまがわ出生しゅっしょうした。そのすぐに静岡しずおか転居てんきょした。小学校しょうがっこう時代じだいプロレスきで、力道山りきどうざんがヒーローだった。静岡しずおか市立しりつ安倍川あべかわ中学校ちゅうがっこう進学しんがくし、いろいろな運動うんどうからさそわれたが最終さいしゅうてき野球やきゅうはいった。大橋おおはし功男いさおというピッチャーがいたため、自分じぶんは2番手ばんてで、げる機会きかいはほとんどなかった。3年生ねんせいのとき御前崎おまえざき中学校ちゅうがっこう転校てんこうしてからはエースとして活躍かつやくし、けん南部なんぶ大会たいかい優勝ゆうしょうたした。あき地区ちく大会たいかい静岡しずおか商業しょうぎょう高校こうこうOBからさそわれ、同校どうこう進学しんがくした[2]同校どうこう定時ていじせいの1ねん修了しゅうりょうどう高校こうこう全日ぜんじつせいの(2ねんではなく)1ねんつぎ編入へんにゅうした。1ねん1968ねんなつ甲子園こうしえんへエースとして出場しゅつじょうすると、決勝けっしょうまでの5試合しあいで、完封かんぷう3試合しあい、1失点しってん完投かんとう2試合しあい記録きろく決勝けっしょうすす興國こうこくだか丸山まるやまあきらうが、0-1で完封かんぷうきっじゅん優勝ゆうしょうにとどまる[3]。このときのチームメイトには池谷いけがやこう二郎じろう、1ねんじょう藤波ふじなみ行雄ゆきお当時とうじ三塁手さんるいしゅでのちに大洋たいよう同僚どうりょうとなる松島まつしま英雄ひでおらがいた。前述ぜんじゅつ経緯けいい卒業そつぎょうつと全日ぜんじつせい3ねんには年齢ねんれい制限せいげん公式こうしきせん出場しゅつじょう資格しかくいっするうえに当時とうじしんうら韓国かんこくせきであり、このころドラフト制度せいどでは、日本にっぽん学校がっこう卒業そつぎょうしても外国がいこくせき選手せんしゅはドラフト会議かいぎにかける必要ひつようかったため[4]国内こくないの6球団きゅうだんおよメジャーリーグんだ争奪そうだつせんとなった。この結果けっかしんうら秋季しゅうきけん大会たいかい期間きかんちゅう高校こうこう中退ちゅうたいして読売よみうりジャイアンツドラフトがい入団にゅうだんし、8がつ22にち甲子園こうしえん決勝けっしょうから18にちの9がつ9にち入団にゅうだん発表はっぴょうされた[3]。これがきっかけとなり、その日本にっぽん学校がっこう所属しょぞくする選手せんしゅはすべてドラフトにかける」というルールに変更へんこうされたが、とうしんうら後年こうねん、「日本語にほんごしかからないおれ日本人にっぽんじんじゃないと意識いしきした数少かずすくない機会きかいがこのときだった」と回想かいそうしている。

巨人きょじん時代じだい[編集へんしゅう]

きょじんでの最初さいしょの2年間ねんかんは、入団にゅうだんかたいためており、年齢ねんれいも17さいわかかったことから、一切いっさいボールをにぎらずランニングのみの指令しれい川上かわかみ哲治てつじ監督かんとくからていた[5]かたにはちいさなひびがはいっていたこともあり、しんうら広島ひろしま住田すみた整骨せいこついんかよかたわらで酒屋さかや配達はいたつアルバイトをしながらからだつくっていった。

1971ねん一軍いちぐん昇格しょうかくしたあと、V9最終さいしゅうねん1973ねん先発せんぱつローテーションりし、威力いりょくのある速球そっきゅうカーブ武器ぶきに、1973ねんに3しょうよく1974ねんに7しょう6はい1セーブで頭角とうかくあらわ[6]

1975ねん長嶋ながしま茂雄しげお監督かんとく就任しゅうにんすると、先発せんぱつ救援きゅうえん両方りょうほう失敗しっぱいする場面ばめんおおく2しょう11はい低迷ていめいした。大量たいりょうリードにリリーフしてもまれて逆転ぎゃくてんされるなど、「ノミの心臓しんぞう[ちゅう 1]話題わだいとなり、マウンドをかこんだおう貞治さだはるが「(リードしている)スコアボードをろ」とゆびさし叱咤しったするひとしのエピソードもあった。防御ぼうぎょりつ3.33でしんうらは「いつもめったちをらった印象いんしょうはなくうんわるくて打線だせん援護えんごめぐまれなかった。試合しあいもあったとおもいます。同点どうてん降板こうばんしたらつぎ投手とうしゅたれて投手とうしゅになったこともあります。罵声ばせいびたし、球団きゅうだん史上しじょうはつ最下位さいかいはおまえのせいだとわれましたね。シーズンちゅうかたひじいたくないのに結果けっかない。」[6]べている。長嶋ながしま監督かんとく自身じしんしんうら起用きようには疑問ぎもんたれたほどであったが、この時期じきたれてもたれても長嶋ながしま監督かんとく登板とうばんさせつづけたことがしんうら成長せいちょうさせたともいわれている。同年どうねん8がついち2ぐん調整ちょうせいになり、1ぐん復帰ふっきすると8がつ31にちのヤクルトせんで1安打あんだ完封かんぷうしてはつ勝利しょうり長嶋ながしま監督かんとく進言しんげん禁煙きんえん決意けつい[7]、これが76ねん飛躍ひやくにつながっていく。

1976ねん願掛がんかけの意味いみ正月しょうがつから禁煙きんえんするとふとってしまい長嶋ながしまから「どうしたのそのからだは?」とかれ、「タバコめたんです」とこたえたら「おまえはそんなのをつかうなよ。けはおれ責任せきにんだ。おまええ。ケツのなかにヤニをんでもえ」とわれ、ふたた喫煙きつえんするとからだしぼれボールがはやくなってキレがてきた[6]はつ規定きてい投球とうきゅうかい(3防御ぼうぎょりつ3.11)にたっし、同年どうねん以降いこう1979ねんまで202試合しあい登板とうばん(そのうち77試合しあい先発せんぱつ)し、大車輪だいしゃりん活躍かつやくで4ねん連続れんぞく2けた勝利しょうりと2けたセーブポイントを同時どうじげる。1976ねん1977ねん連覇れんぱ貢献こうけん[6]。「具体ぐたいてき優勝ゆうしょうおもはないのですがかったとおもいます。長嶋ながしま監督かんとく恩返おんがえしができてありがとうございましたという気持きもちです。長嶋ながしまさんが使つかってくれなければトレードにされていもおかしくない存在そんざいでしたから」とべている。1977ねん1978ねんは2ねん連続れんぞく最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつ最多さいたセーブ同時どうじ記録きろくした(1978ねんには最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅベストナイン。1979ねんには当時とうじタイトルではなかった時代じだいだが、最多さいただつ三振さんしん記録きろくしている)。ベンチで長嶋ながしまに「しんうら今日きょう登板とうばんが)ないからとわれ、試合しあいちゅう翌日よくじつためにブルペンにって投手とうしゅ投球とうきゅう練習れんしゅう合間あいまかるげていたら電話でんわがかかってきて「しんうら登板とうばんだ。」とわれたこともあり[6]絶対ぜったいてきな「ひだりのエースけんリリーフエース」として長嶋ながしま監督かんとく信頼しんらいされた[6]。1977ねん5がつ31にちたい中日ちゅうにちせんでの打席だせきで、戸田とだよしから12きゅう連続れんぞくしてファウルボールをっている。結果けっかは、カウント2-2から17きゅう三振さんしんであった[8]江川えがわ事件じけんでは阪神はんしんタイガースはトレードの相手あいてしんうら指名しめいしたが長嶋ながしまことわって小林こばやししげる阪神はんしん移籍いせきしたがしんうらは「わたしわりです。阪神はんしんわたし要求ようきゅうしたらしいですが、長嶋ながしま監督かんとくことわって小林こばやしさんがくことになったといています。わたしなんかたいした成績せいせきではなかったのですが阪神はんしんせんはいいところでおさえた印象いんしょうがあるみたいで。それでもかれ反骨はんこつしんつよ人間にんげんですから、移籍いせき1ねん巨人きょじんせん活躍かつやくしたでしょう。」[6]べている。

1980ねんひじいためて、「ファームにってもいいんだぞ」とわれたが、「そういうわけにいきません」とこたえ、3しょう4はい1セーブにわった[6]

1981ねん藤田ふじたもとつかさ監督かんとく就任しゅうにんするとひじなおっていたが江川えがわたく西本にしもときよしていおか正二しょうじ先発せんぱつ3ばんばしら確立かくりつしたため使つかわれなくなった[6]。1982ねん8がつ28にち大洋たいようせん優勝ゆうしょうあらそいの最中さいちゅう先発せんぱつ登板とうばんするも、2番手ばんて鹿取かとり義隆よしたかとともに初回しょかいから3かいまででそれぞれ2てん、2てん、6てんうばわれて大敗たいはいきっし、戦前せんぜんのクーデター事件じけんならって「226事件じけん」とばれた。しんうらは「江川えがわはエースになるだろうとおもっていましたがわたしにとって「あーあ」ですよね。使つかいづらかったとおもいます。怪我けがしていたわけではなくまだちからはあったので下手へた移籍いせきさせても巨人きょじんせん活躍かつやくされ、巨人きょじんがメンツをうしな可能かのうせいがあるとおもわれたのではないですか。閉鎖へいさてき球団きゅうだんでしたね。1983ねん西武せいぶとの日本にっぽんシリーズは7試合しあいあったのに登板とうばん機会きかいがなくさすがにトレードかとおもったら長嶋ながしまさんから電話でんわました。「おまえ韓国かんこくプロ野球やきゅうけと」[6]べている。その長嶋ながしまのすすめもあり[9]1983ねんシーズンかぎりで巨人きょじん退団たいだんし、新設しんせつされたばかりであった韓国かんこくプロ野球やきゅうサムスン・ライオンズ移籍いせきした。

韓国かんこく・サムスン時代じだい[編集へんしゅう]

韓国かんこくでは韓国かんこくめいきむにちとおる(キム・イルユン、김일융)として、サムスンのエースとして1984ねんから3年間ねんかん活躍かつやく。3年間ねんかんで54しょう20はい、とくに1985ねんには25しょう6はい圧倒的あっとうてき成績せいせきのこす。かつては速球そっきゅう投手とうしゅであったが、韓国かんこく球界きゅうかい在籍ざいせき技巧ぎこうへと変身へんしんした。しかし、日本語にほんごしかはなせなかったためにチームでは苦労くろうかさね、チームメイトからも年長ねんちょうしゃたいする敬称けいしょうである「ヒョン」(hyeong=「あに」)とばれることはなく、終始しゅうしよそものあつかいされていたと告白こくはくしている[10]しんうらは「もうかってないですよ。出稼でかせぎにもならなかった。(どう時期じき三美みよしスーパースターズ在籍ざいせきしていた)福士ふくしたかしあきら選手せんしゅウォン契約けいやくだったので外貨がいか日本にっぽんかえれなかったり、わたし自身じしんも、3年間ねんかんでたくさんったわり給料きゅうりょう一切いっさいがりませんでした。でも成績せいせきのこしたしチームの優勝ゆうしょう貢献こうけんした(1985ねん三星みつぼし韓国かんこくいち)。技術ぎじゅつてきことおしえてくれとってきた選手せんしゅにはおしえた。やることはやったとおもっています。」[11]べている。

日本にっぽん球界きゅうかい復帰ふっき[編集へんしゅう]

1987ねん横浜よこはま大洋たいようホエールズ日本にっぽん球界きゅうかいに35さい復帰ふっき。かつての球威きゅういりをひそめたが、高橋たかはし一三かずみバレンズエラならったチェンジアップ[12]種類しゅるい変化球へんかきゅうによる老練ろうれん投球とうきゅうをみせ11しょう(4完封かんぷう、107だつ三振さんしん)をあげカムバックしょう受賞じゅしょう

1988ねんは10しょうした。

1989ねんに8しょう大洋たいようひだりのエースとして活躍かつやくした。8月4にちには、横浜よこはまスタジアム古巣ふるす巨人きょじん相手あいてに13安打あんだびながらも完封かんぷう勝利しょうりげ、最多さいた安打あんだ完封かんぷうのプロ野球やきゅう記録きろくとなっている[13]。この試合しあいでイニングべつ安打あんだは2、1、3、3、2、1、0、1、0[14]で、5かいまでに11安打あんだたれた。1990ねん監督かんとく須藤すとうゆたかわると、先発せんぱつから中継なかつぎで起用きようされることがおおくなった[11]

1992ねん大塚おおつか義樹よしきとの交換こうかんトレードで福岡ふくおかダイエーホークス移籍いせき。しかし監督かんとく田淵たぶち幸一こういち衝突しょうとつし、本人ほんにんから移籍いせきもうれたこと[11]異例いれいではあったが在籍ざいせきわずか半年はんとし同年どうねんのシーズン途中とちゅうヤクルトスワローズ再度さいど移籍いせき。ヤクルトでは優勝ゆうしょうあらそいも佳境かきょうはいった8がつ16にちたい巨人きょじんせん斎藤さいとう雅樹まさきって[11]5かい2失点しってんで2ねんりの勝利しょうり投手とうしゅとなり、どう25にち大洋たいようせんでも勝利しょうり投手とうしゅにはなれなかったものの5かい失点しってんでチームの勝利しょうり貢献こうけんするなど、このとし14ねんぶりのリーグ制覇せいは達成たっせいするチームにあって数少かずすくない経験けいけん豊富ほうふなベテランとして最後さいごかがやきをみせて花道かどうかざった。シーズンがわって翌年よくねん契約けいやくはなしがなく、巨人きょじん監督かんとく復帰ふっきした長嶋ながしま電話でんわしたら「ひだり投手とうしゅおおいからな」とわれ引退いんたいした[11]

引退いんたいは、日本にほんテレビ福岡放送ふくおかほうそうラジオ日本にっぽん1993ねん - 1998ねん)にいで東北放送とうほくほうそう2005ねん - 2012ねん)で解説かいせつしゃつとめ、韓国かんこくえんから東亞日報とうあにっぽうグループ「スポーツ東亞とうあ」の日本にっぽん駐在ちゅうざい通信員つうしんいん兼任けんにんする。プロ野球やきゅうマスターズリーグ札幌さっぽろアンビシャス参加さんかした。

2013ねん7がつスポーツニッポン紙上しじょうで「みち」を、2024ねん3がつ産経新聞さんけいしんぶんで「はなし肖像しょうぞう[15]連載れんさいした。

2015ねん11月からおなどしながら1学年がくねん先輩せんぱい藤波ふじなみ行雄ゆきおとともに、母校ぼこう静岡しずおかしょう野球やきゅう外部がいぶコーチをつとめた。

エピソード[編集へんしゅう]

糖尿とうにょうびょう[編集へんしゅう]

韓国かんこく球界きゅうかい糖尿とうにょうびょう発症はっしょうし、インスリン注射ちゅうしゃ毎日まいにちかせない生活せいかつになったが、現役げんえき時代じだい糖尿とうにょうびょうであることをられないために、ホテルのトイレなど一切いっさい人目ひとめにつかない場所ばしょ注射ちゅうしゃっていた。しかしいつしか注射ちゅうしゃっていることがばれ、さらに病気びょうき影響えいきょうせていたこともあって「しんうら覚醒剤かくせいざいっている」といううわさになったこともあった。2013ねん放送ほうそう番組ばんぐみで、現在げんざい糖尿とうにょうびょう格闘かくとうしている姿すがた放映ほうえいされた。

わかころ好物こうぶつしろめしサイダーで、サイダーをよこいてしろめしくえしているとコーチの牧野まきのしげるに「ごはんにサイダーをかけてうのか」とからかわれたと新聞しんぶん記事きじにした[16]。「サイダーをごはんにかけて茶漬ちゃづけにしてべる」といううわさされるほどにあまものこのみ、糖尿とうにょうびょうわずら一因いちいんともうたがわれた。

カッパ[編集へんしゅう]

しんうら結構けっこうあせっかきで、けられたあだは「カッパ」。ある堀内ほりうち恒夫つねおあせだくのしんうらて、「あっ、カッパだ、カッパ…」とさけんだことに由来ゆらい[17]

そのほか[編集へんしゅう]

2003ねん日本にほんテレビけいのバラエティ番組ばんぐみダウンタウンのガキの使つかいやあらへんで!!』のばっゲーム「ウラジオストク」へん出演しゅつえんした。「うらめない」烙印らくいんされた浜田はまだ雅功まさとしを「ウラ」のつくものづくしでてる趣向しゅこうで、ギャグのひとつとしてしんうら登場とうじょうした。

つま登志としめぐみは1さい年上としうえで、白百合学園しらゆりがくえんだかフェリス女学院短大ふぇりすじょがくいんたんだいそつ才媛さいえん。ラジオで巨人きょじん情報じょうほう番組ばんぐみのパーソナリティーをしていたどくまむし三太夫さんだゆうのアシスタントとして後楽園こうらくえん球場きゅうじょうをおとずれ、選手せんしゅのインタビューをしていた。しんうらのファンだとった関本せきもとよんじゅうよんなかをとりもったという。2ねん交際こうさいすえ1976ねん1がつ30にち結婚けっこんした。披露宴ひろうえんにはどくまむし出席しゅっせきした。いいときも、わるときかげささえてもらい、「いまわたしがこうしていられるのはつまのおかげです[18]。」とべている。

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1971 巨人きょじん 19 10 2 1 0 4 3 -- -- .571 239 58.1 43 4 26 1 2 43 2 0 17 13 2.01 1.18
1972 5 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 23 3.2 7 1 3 0 0 1 0 0 9 7 17.18 2.73
1973 21 17 1 1 0 3 3 -- -- .500 356 83.2 61 7 53 3 0 78 0 1 36 32 3.44 1.36
1974 26 17 4 1 0 7 6 1 -- .538 492 119.2 96 14 52 9 2 102 2 0 42 35 2.63 1.24
1975 37 14 2 1 0 2 11 0 -- .154 450 108.0 93 9 46 8 1 82 0 1 47 40 3.33 1.29
1976 50 25 10 3 1 11 11 5 -- .500 818 197.1 156 20 81 2 2 162 2 0 82 68 3.10 1.20
1977 44 15 5 1 0 11 3 9 -- .786 549 136.0 104 10 60 6 1 96 2 1 38 35 2.32 1.21
1978 63 9 5 0 0 15 7 15 -- .682 777 189.0 160 21 75 6 5 152 3 1 66 59 2.81 1.24
1979 45 28 12 3 1 15 11 5 -- .577 961 236.1 211 24 68 7 6 223 1 0 94 90 3.43 1.18
1980 18 11 1 1 0 3 4 1 -- .429 297 69.0 64 11 24 0 2 58 1 0 42 29 3.78 1.28
1981 14 8 2 0 0 0 5 0 -- .000 248 58.1 55 8 19 3 1 44 1 0 32 22 3.39 1.27
1982 27 16 4 1 0 6 6 0 -- .500 499 117.0 119 18 38 0 3 89 1 0 58 53 4.08 1.34
1983 31 7 0 0 0 3 2 0 -- .600 292 67.1 71 8 25 2 3 52 2 0 26 24 3.21 1.43
1984 サムスン 38 23 14 3 -- 16 10 3 -- .615 907 222.0 191 7 78 4 6 155 5 1 68 56 2.27 1.21
1985 34 28 11 3 -- 25 6 0 -- .806 920 226.0 200 13 77 6 5 107 4 0 87 70 2.79 1.23
1986 19 19 7 2 -- 13 4 0 -- .765 573 138.2 120 8 45 4 2 60 1 0 47 39 2.53 1.19
1987 大洋たいよう 25 25 7 4 1 11 12 0 -- .478 645 152.0 151 20 47 3 2 107 0 0 78 72 4.26 1.30
1988 29 28 7 1 1 10 11 0 -- .476 681 160.1 147 14 66 6 3 110 6 0 83 77 4.32 1.33
1989 28 28 6 2 1 8 13 0 -- .381 763 175.0 176 20 75 8 5 130 3 1 79 66 3.39 1.43
1990 42 15 0 0 0 6 10 2 -- .375 603 140.0 121 11 68 2 7 107 2 0 66 59 3.79 1.35
1991 47 0 0 0 0 0 1 1 -- .000 220 53.1 49 4 19 3 3 42 3 0 19 19 3.21 1.28
1992 ダイエー 7 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 42 9.0 14 2 5 0 0 4 0 0 8 6 6.00 2.11
ヤクルト 14 4 0 0 0 1 3 0 -- .250 116 25.1 33 6 9 0 1 24 1 1 22 21 7.46 1.66
'92けい 21 5 0 0 0 1 4 0 -- .200 158 34.1 47 8 14 0 1 28 1 1 30 27 7.08 1.78
NPB:19ねん 592 278 68 20 5 116 123 39 -- .485 9071 2158.2 1931 232 859 69 49 1706 32 6 944 827 3.45 1.29
KBO:3ねん 91 70 32 8 -- 54 20 3 -- .730 2400 586.2 511 28 200 14 13 322 10 1 202 165 2.53 1.21
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル[編集へんしゅう]

NPB
KBO
  • 最多さいたしょう:1かい (1985ねん

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

NPB

記録きろく[編集へんしゅう]

NPBはつ記録きろく
NPB節目ふしめ記録きろく
  • 1000だつ三振さんしん:1981ねん4がつ9にちたい大洋たいようホエールズ3回戦かいせん横浜よこはまスタジアム)、3かいひょうぜんとまり哲明てつあきから ※史上しじょう60にん
  • 100しょう:1988ねん7がつ18にちたい読売よみうりジャイアンツ16回戦かいせん横浜よこはまスタジアム)、9かい1失点しってん完投かんとう勝利しょうり史上しじょう97にん
  • 1500だつ三振さんしん:1989ねん8がつ29にちたい中日ちゅうにちドラゴンズ22回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、2かいうら中村なかむら武志たけしから ※史上しじょう31にん
  • 500試合しあい登板とうばん:1990ねん8がつ5にちたい中日ちゅうにちドラゴンズ18回戦かいせん横浜よこはまスタジアム)、9かいひょう2に3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1/3かい失点しってん史上しじょう63にん
NPBその記録きろく
  • オールスターゲーム出場しゅつじょう:5かい (1976ねん、1978ねん、1979ねん、1987ねん、1988ねん

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 42 (1968ねん
  • 40 (1969ねん - 1972ねん
  • 28 (1973ねん - 1992ねん途中とちゅう
  • 49 (1992ねん途中とちゅう - 同年どうねん終了しゅうりょう

登録とうろくめい[編集へんしゅう]

  • しんうら 壽夫としお(にうら ひさお、1968ねん - 1970ねん、1981ねん - 1983ねん、1987ねん - 1992ねん
  • しんうら 寿夫としお(にうら ひさお、1971ねん - 1979ねん
  • しんうら ことぶきたけ(にうら ひさお、1980ねん
  • きむ にちとおる(キム・イリュン、김일융、1984ねん - 1986ねん

関連かんれん情報じょうほう[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

出演しゅつえん番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

  • さむらいプロ野球やきゅう現在げんざいのところ東北放送とうほくほうそう楽天らくてん主催しゅさいゲームローカル中継ちゅうけいのみ)
  • TBCパワフルベースボール(JRN・NRNの楽天らくてん主催しゅさいゲーム全国ぜんこく中継ちゅうけいにもごくまれに登場とうじょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ブルペンではたまげるが、ひよわ性格せいかくわざわいして、マウンドにつと委縮いしゅくすることがった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 2013ねん7がつ23にちづけスポーツニッポンみち」より
  2. ^ 「ヒーローはプロレスの力道山りきどうざん はなし肖像しょうぞう もとプロ野球やきゅう選手せんしゅ しんうら壽夫としお(72)3」『産経新聞さんけいしんぶん』、2024ねん3がつ3にち
  3. ^ a b ドラフト「国籍こくせき消滅しょうめつ 静岡しずおかしょうしんうら静岡しずおか2”. 日刊にっかんスポーツ (2018ねん7がつ13にち). 2018ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  4. ^ 【8がつ31にち】1975ねんあきら50) 0しょう7はい左腕さわんしんうら寿夫としお突然変異とつぜんへんい!1安打あんだ完封かんぷう勝利しょうり”. スポーツニッポン (2007ねん8がつ31にち). 2012ねん7がつ5にち閲覧えつらん
  5. ^ YOMIURI GIANTSホームページ、「おやG」コーナーの本人ほんにん談話だんわ
  6. ^ a b c d e f g h i j 週刊しゅうかんベースボール2023ねん11月20にちごう、レジェンドをたずねる、昭和しょうわ時代じだいのいいのこし、しんうら壽夫としお60-61ぺーじ
  7. ^ だい1長嶋ながしま巨人きょじん」のエース左腕さわん 甲子園こうしえんじゅんV、韓国かんこく移籍いせき波乱万丈はらんばんじょう野球やきゅう人生じんせい次世代じせだいつたえたいこと” (2020ねん7がつ15にち). 2022ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  8. ^ 宇佐美うさみ徹也てつや『プロ野球やきゅうデータブック'84』(講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、1984ねん)P105
  9. ^ しんうらは“手切てぎきん127えん”おりに復活ふっかつ 巨人きょじん退団たいだんの“仕打しうち” zakzak 2013ねん8がつ2にち
  10. ^ みのもんたのあさズバッ!」(2006ねん3がつ20日はつか放送ほうそう
  11. ^ a b c d e 週刊しゅうかんベースボール2023ねん11月27にちごう、レジェンドをたずねる、昭和しょうわ時代じだいのいいのこし、しんうら壽夫としお、57ぺーじ
  12. ^ 江川えがわ対決たいけつしたかった しんうら寿夫としおきて赤瀬川あかせがわはやぶさ」『「文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう」にみるスポーツ昭和しょうわだい3かん〉』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1988ねん、532-539ぺーじISBN 9784163629100 
  13. ^ しんうら寿夫としおさん、先発せんぱつ救援きゅうえんフル回転かいてん!ミスターにきたえられた サンケイスポーツ 2018ねん1がつ27にち1981ねん日本にっぽんシリーズだい5せん巨人きょじん西本にしもときよしも13安打あんだ完封かんぷう記録きろくしている。
  14. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん1991ねん8がつ5にち19めん
  15. ^ はなし肖像しょうぞう もとプロ野球やきゅう選手せんしゅ しんうら壽夫としお(72)」『産経新聞さんけいしんぶん』、2024ねん3がつ1にち
  16. ^ 週刊しゅうかんベースボール』 2023ねん11月20にちごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、59ぺーじ
  17. ^ 4ねんはつ勝利しょうりとV9戦士せんし仲間入なかまいはなし肖像しょうぞう もとプロ野球やきゅう選手せんしゅしんうら壽夫としお<8> 2024ねん3がつ8にち 産経新聞さんけいしんぶん閲覧えつらん
  18. ^ 最大さいだい感謝かんしゃつまへ はなし肖像しょうぞう もとプロ野球やきゅう選手せんしゅ しんうら壽夫としお(72)30」『産経新聞さんけいしんぶん』、2024ねん3がつ31にち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]