吉川よしかわ英治えいじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉川よしかわ 英治えいじ
(よしかわ えいじ)
誕生たんじょう 吉川よしかわ 英次えいじ
1892ねん8がつ11にち
日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん久良ひさよし岐郡中村なかむら根岸ねぎし
げん横浜よこはまちゅう
死没しぼつ (1962-09-07) 1962ねん9月7にち(70さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう中央ちゅうおう築地つきじ
国立こくりつがんセンター
墓地ぼち 多磨たま霊園れいえん
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 太田おおた尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう中退ちゅうたい
活動かつどう期間きかん 1923ねん - 1962ねん
ジャンル 歴史れきし小説しょうせつ
時代じだい小説しょうせつ
代表だいひょうさく鳴門なるとじょう』(1933ねん
親鸞しんらん』(1938ねん
宮本みやもと武蔵むさし』(1939ねん
上杉うえすぎ謙信けんしん』(1942ねん
新書しんしょ太閤たいこう』(1945ねん
三国志さんごくし』(1946ねん
しん平家ひらか物語ものがたり』(1957ねん
わたしほん太平たいへい』(1962ねん
おも受賞じゅしょうれき 菊池きくちひろししょう(1953ねん
朝日あさひ文化ぶんかしょう(1956ねん
文化ぶんか勲章くんしょう(1960ねん
毎日まいにち芸術げいじゅつしょう(1962ねん
おくしたがえさん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう(1962ねんぼつ叙位じょい叙勲じょくん
デビューさくしま物語ものがたり
配偶はいぐうしゃ 赤沢あかざわやす(1923 - 1937)
吉川よしかわ文子ふみこ旧姓きゅうせい池戸いけのべ、1937 - 1962)
子供こども 2なん3じょ
ウィキポータル 文学ぶんがく
テンプレートを表示ひょうじ

吉川よしかわ 英治えいじ(よしかわ えいじ、1892ねん明治めいじ25ねん8がつ11にち - 1962ねん昭和しょうわ37ねん9月7にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ本名ほんみょう吉川よしかわ 英次えいじ(よしかわ ひでつぐ)。現在げんざい神奈川かながわけん横浜よこはまちゅう出身しゅっしん文化ぶんか功労こうろうしゃ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃ位階いかい勲等くんとうしたがえさん勲一等くんいっとう

様々さまざましょくについたのち作家さっか活動かつどうはいり、『鳴門なるとじょう』などで人気にんき作家さっかとなる。1935ねん昭和しょうわ10ねん)より連載れんさいはじまった『宮本みやもと武蔵むさし』はおおくの読者どくしゃ獲得かくとくし、大衆たいしゅう小説しょうせつ代表だいひょうてき作品さくひんとなった。戦後せんごは『しん平家ひらか物語ものがたり』、『わたしほん太平たいへい』などの大作たいさく執筆しっぴつ幅広はばひろ読者どくしゃそうしたしまれ「国民こくみん文学ぶんがく作家さっか」とばれた。宝塚たからづか千種ちくさ地名ちめい名付なづおや

経歴けいれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

1892ねん明治めいじ25ねん)8がつ11にち戸籍こせきめんは13にち)、神奈川かながわけん久良ひさよし岐郡中村なかむら根岸ねぎし現在げんざい横浜よこはまちゅう山元やまもとまち2丁目ちょうめ18番地ばんち付近ふきん[ちゅう 1]に、きゅう小田原おだわらはん吉川よしかわただしこう、イクの次男じなんとしてうまれた。自筆じひつ年譜ねんぷによると出生しゅっしょう中村なかむら根岸ねぎしとなっている。

ちちちょくひろ県庁けんちょう勤務きんむのち小田原おだわらもどり、箱根はこね山麓さんろく牧畜ぼくちくぎょういとなみさらに横浜よこはまうつって牧場ぼくじょうひらく。イクとは再婚さいこんで、先妻せんさいとのあいだあに正広まさひろがいた。英治えいじまれた当時とうじちょくひろ牧場ぼくじょう経営けいえい失敗しっぱいし、寺子屋てらこやのようなじゅくひらいていた。その貿易ぼうえき仲買人なかがいにんのようなことをはじめ、高瀬たかせ理三郎りさぶろう見出みいだされて横浜よこはま桟橋さんばし合資ごうし会社かいしゃ設立せつりつ一時期いちじき安定あんていするが、ちょくひろ高瀬たかせ対立たいりつし、裁判さいばんこし敗訴はいそすると刑務所けいむしょれられ、出所しゅっしょ生活せいかつれ、家運かうん急激きゅうげきおとろえていく。

山内やまうち尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがく当時とうじ騎手きしゅ馬屋うまやちかく、将来しょうらい騎手きしゅになることをかんがえていた。また10さいころから雑誌ざっし投稿とうこうをするようになり、時事新報じじしんぽうしゃの『少年しょうねん作文さくぶん入選にゅうせんした。家運かうんおとろえたのはこのころで、異母いぼけいちちとの確執かくしつもあり、小学校しょうがっこう中退ちゅうたい。いくつもの職業しょくぎょう転々てんてんとしつつ、独学どくがくした。18さいとき年齢ねんれいいつわって横浜よこはまドック船具せんぐこうになったが、ドックで作業さぎょうちゅう船底ふなそこ墜落ついらく重傷じゅうしょうう。

東京とうきょう毎夕まいゆう新聞しんぶんしゃ記者きしゃ時代じだい
1921ねん大正たいしょう10ねん) - 1923ねん大正たいしょう12ねん

人気にんき作家さっかへのみち[編集へんしゅう]

神州しんしゅう天馬てんば執筆しっぴつのころ下落合しもおちあいいえにて
1925ねん大正たいしょう14ねん

1910ねん明治めいじ43ねん)に上京じょうきょう象嵌ぞうがん職人しょくにんしたはたらく。浅草あさくさみ、このとき町並まちなみが江戸えどまちくにあたって非常ひじょう印象いんしょうのこったという。またこのころから川柳せんりゅうつくはじめ、井上剣花坊いのうえけんかぼう紹介しょうかいで「大正たいしょう川柳せんりゅう」に参加さんかする。

1914ねん大正たいしょう3ねん)、「しま物語ものがたり」が『講談こうだん倶楽部くらぶに3とう当選とうせん吉川よしかわ雉子郎きじろう筆名ひつめい)するが、生活せいかつ向上こうじょうしなかった。のちに結婚けっこんする赤沢あかざわやすをたよって大連たいれんき、貧困ひんこんからの脱出だっしゅつ目指めざしたがわらず、このあいだいた小説しょうせつ3へん講談社こうだんしゃ懸賞けんしょう小説しょうせつ入選にゅうせん

1921ねん大正たいしょう10ねん)にははぼっすると、翌年よくねんより東京とうきょう毎夕まいゆう新聞しんぶんしゃはいり、次第しだい文才ぶんさいみとめられ『親鸞しんらん』などを執筆しっぴつする。関東大震災かんとうだいしんさいにより東京とうきょう毎夕まいゆう新聞しんぶんしゃ解散かいさんすると、作品さくひん講談社こうだんしゃおく様々さまざま筆名ひつめい発表はっぴょうし、「けん菩薩ぼさつ」を『面白おもしろ倶楽部くらぶ連載れんさい作家さっかとして一本立いっぽんだちする。

1925ねん大正たいしょう14ねん)より創刊そうかんされた『キング連載れんさいし、はじめて吉川よしかわ英治えいじ筆名ひつめい使つかった「剣難けんなん女難じょなん」で人気にんきた。このとき本名ほんみょうの「吉川よしかわ英次えいじ」でくようにもとめられたが、作品さくひん掲載けいさいされるさい出版しゅっぱんしゃを「英治えいじ」と誤植ごしょくしてしまったのを本人ほんにんり、以後いごこれをペンネームとするようになった。キング講談社こうだんしゃ社運しゃうんをかけた雑誌ざっしだが、新鋭しんえい作家さっか吉川よしかわ英治えいじはまさに期待きたいほしであり、「坂東ばんどう侠客きょうかくじん」「神洲しんしゅう天馬てんば侠」の2長編ちょうへん発表はっぴょうし、多大ただい読者どくしゃ獲得かくとくした。

執筆しっぴつ依頼いらいえ、毎日新聞まいにちしんぶんからも要請ようせいけ、阿波あわ蜂須賀はちすか重喜しげよし蟄居ちっきょ背景はいけいとした作品さくひん鳴門なるとじょう」を完成かんせいさせた。これを収録しゅうろくした『現代げんだい大衆たいしゅう文学ぶんがく全集ぜんしゅう』もよくれ、また作品さくひんおお映画えいがされた。

宮本みやもと武蔵むさし』の誕生たんじょう[編集へんしゅう]

英治えいじ夫妻ふさい
1937ねん昭和しょうわ12ねん

こうして巨額きょがく印税いんぜいはいったが、まずしいときからっていたつまやすは、この急激きゅうげき変化へんかについていけず、次第しだいヒステリーになっていく。これを危惧きぐし、印税いんぜい新居しんきょとうじ、さら養女ようじょもら家庭かてい安定あんていはかった。こののち、『まんはな地獄じごく』『はなぐるま』といった伝奇でんきせいあふれる小説しょうせつや、『檜山ひやま兄弟きょうだい』『まつのやはち』などの維新いしんものをく。

しかしつまのヒステリーにえかね、1930ねん昭和しょうわ5ねん)のはる半年はんとしほど家出いえでし、このあいだ『かんかんむしうたふ』などがまれた。このころから服部はっとり之総しそう交友こうゆうむすぶ。

1933ねん昭和しょうわ8ねん)、全集ぜんしゅう好評こうひょうけ、大衆たいしゅう文学ぶんがく研究けんきゅうしゅうぶん創刊そうかん、1ねんつづ純文学じゅんぶんがく対抗たいこうする。松本まつもとまなぶとなえる文芸ぶんげい懇談こんだんかい設立せつりつにもかかわり、また青年せいねん運動うんどう開始かいしし、白鳥省吾しらとりしょうご倉田くらた百三ひゃくぞうらと東北とうほく農村のうそんまわ講演こうえんひらいた。

1935ねん昭和しょうわ10ねん)『親鸞しんらん』を発表はっぴょう同年どうねんの8がつ23にちから「宮本みやもと武蔵むさし」の連載れんさいはじめ、これが新聞しんぶん小説しょうせつ史上しじょうかつてない人気にんき、4ねんの1939ねん昭和しょうわ14ねん)7がつ21にちまでつづいた。けんぜん一如いちにょ目指めざ求道きゅうどうしゃ宮本みやもと武蔵むさしえがいたこの作品さくひんは、太平洋戦争たいへいようせんそうした人心じんしん呼応こおうし、大衆たいしゅう小説しょうせつ代表だいひょうさくとなる。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、やすと離婚りこん池戸いけのべ文子ふみこ再婚さいこんする。1939ねん2がつより「新書しんしょ太閤たいこう」を連載れんさい。7月の「宮本みやもと武蔵むさし完結かんけつ、8がつより「三国志さんごくし」を連載れんさい個人こじん追究ついきゅうしたものから、2作品さくひん人間にんげん全体ぜんたいうごかすちからえがこうとしているのがうかがえる。『宮本みやもと武蔵むさし終了しゅうりょうも、朝日新聞あさひしんぶんからは連載れんさい依頼いらいつづき、「みなもと頼朝よりとも」「梅里うめざと先生せんせい行状ぎょうじょう」など歴史れきしのこ人物じんぶつえがいた作品さくひん発表はっぴょうした。

1941ねん昭和しょうわ16ねん12月24にち大政たいせい翼賛よくさんかいきもいりで開催かいさいされた文学ぶんがくしゃ愛国あいこく大会たいかいでは、大会たいかいめに「皇軍こうぐん感謝かんしゃするのぶん」をげるなど時流じりゅうわせた活動かつどうおこなった[1]1942ねん昭和しょうわ17ねん)、海軍かいぐん軍令ぐんれいみことのりにん待遇たいぐう嘱託しょくたくとなり、海軍かいぐん戦史せんし編纂へんさんたずさわった。山口やまぐち多聞たもん加来かくとめおとこ戦死せんしけて、「提督ていとくとその部下ぶか」を朝日新聞あさひしんぶん執筆しっぴつし、安田やすだよしたち戦死せんしは「安田やすだりく戦隊せんたい司令しれい」を毎日新聞まいにちしんぶん夕刊ゆうかん連載れんさいしている[2]。またこのとしには日本にっぽん文学ぶんがくほう国会こっかい理事りじ就任しゅうにんした。

吉川よしかわ英治えいじ
1939ねん昭和しょうわ14ねんなつ

敗戦はいせん活動かつどう[編集へんしゅう]

敗戦はいせんは、その衝撃しょうげきからふでことができなくなってしまった。親友しんゆう菊池きくちひろしもとめでようやくはじめ、『高山たかやま右近うこん』『大岡おおおか越前えちぜん』で本格ほんかくてき復活ふっかつする。ただし、このころ、『宮本みやもと武蔵むさし』の版権はんけんをめぐって講談社こうだんしゃ六興ろっこう出版しゅっぱん英治えいじおとうとすすむつとめていた)とのあいだ騒動そうどうきた。

1949ねん4がつ11にち東京とうきょう財務局ざいむきょく発表はっぴょうした所得しょとく番付ばんづけでは、作家さっかなかでは最高さいこうがくの250まんえん記録きろくしている[3]

1950ねん昭和しょうわ25ねん)より、やぶれた平家へいけ日本にっぽんかさねた「しん平家ひらか物語ものがたり」の連載れんさい開始かいしする。連載れんさい7ねんにおよぶ大作たいさくで、この作品さくひんだい1かい菊池きくちひろししょう1953ねん)を受賞じゅしょう[4]。また『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』からのつよ要望ようぼうで、1955ねん昭和しょうわ30ねん)より自叙伝じじょでんわすのこりの」を連載れんさい。なお、このころかくしていたつじ政信まさのぶい、逃亡とうぼう資金しきんわたしている。「しん平家ひらか物語ものがたり終了しゅうりょうは、「わたしほん太平たいへい」「しんみず滸伝」を連載れんさいする。「わたしほん太平たいへい」は、従来じゅうらい逆賊ぎゃくぞくといわれてきた足利尊氏あしかがたかうじ見方みかたあらためてえがく。

1960ねん昭和しょうわ35ねん文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう。しかし通俗つうぞく作家さっかなされ、芸術げいじゅついんにはれられなかった。

死去しきょ[編集へんしゅう]

わたしほん太平たいへい」の連載れんさい終了しゅうりょう間際まぎわ肺癌はいがんにかかり、翌年よくねんなつ悪性あくせい腫瘍しゅよう転移てんい悪化あっか1962ねん昭和しょうわ37ねん)9がつ7にち肺癌はいがんのため築地つきじ国立こくりつがん研究けんきゅうセンター中央ちゅうおう病院びょういん死去しきょ享年きょうねん70さい法名ほうみょうは、たかしぶんいん殿どのしゃくひとしえいだい居士こじおくしたがえさんぼつ叙位じょい)、おく勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょうぼつ叙勲じょくん)。

疎開そかいさきだった東京とうきょう青梅おうめに、1977ねん開設かいせつされた吉川よしかわ英治えいじ記念きねんかんがある(入館にゅうかんしゃ減少げんしょうにより、公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん吉川よしかわ英治えいじ国民こくみん文化ぶんか振興しんこうかい開設かいせつとしては2019ねん3がつ20にちをもって一旦いったん閉館へいかん休止きゅうし[5]、2020ねん9がつ7にち青梅おうめ施設しせつ青梅おうめ吉川よしかわ英治えいじ記念きねんかん」としてさい開館かいかんした[6])。

なお、東京とうきょうみなと赤坂あかさかにあったきゅう吉川よしかわてい講談社こうだんしゃ所有しょゆうとなり(同社どうしゃでの企画きかく出版しゅっぱんのための)まりみでの執筆しっぴつや、座談ざだんわせに使用しようされた。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

多磨たま霊園れいえんにある吉川よしかわ英治えいじはか
  • 1892ねん明治めいじ25ねん)- 神奈川かながわけん久良ひさよし岐郡中村なかむら根岸ねぎしげん横浜よこはまちゅう)に生誕せいたん
  • 1898ねん明治めいじ31ねん)- 横浜よこはま千歳ちとせまち私立しりつ山内さんない尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがく
  • 1900ねん明治めいじ33ねん)- 横浜よこはま清水しみずまち移転いてん太田おおた尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう転校てんこう
  • 1903ねん明治めいじ36ねん)- 家運かうんかたむ小学校しょうがっこう中退ちゅうたい
  • 1909ねん明治めいじ42ねん)- 年齢ねんれいいつわって横浜よこはまドック船具せんぐこうとなる。
  • 1910ねん明治めいじ43ねん)- 上京じょうきょう菊川きくかわまち現在げんざい墨田すみだ立川たちかわ4丁目ちょうめ)のラセンくぎ工場こうじょう工員こういんなる[7]
  • 1911ねん明治めいじ44ねん)- 蒔絵まきえいえ徒弟とていとなる。また川柳せんりゅう世界せかいはいり、雉子郎きじろう(きじろう)の筆名ひつめい作品さくひん発表はっぴょう
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん)- 三越みつこし百貨店ひゃっかてん各種かくしゅ文芸ぶんげい募集ぼしゅうした「文芸ぶんげい三越みつこし」の川柳せんりゅう部門ぶもん応募おうぼさく一等いっとう当選とうせん講談こうだん倶楽部くらぶ投稿とうこうした「しま物語ものがたり」が一等いっとう当選とうせん
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん)- 旅先たびさきから応募おうぼしていた講談社こうだんしゃ懸賞けんしょう小説しょうせつさんへん入選にゅうせん山崎やまざき帝國ていこくどう広告こうこく文案ぶんあんがかりれに東京とうきょう毎夕まいゆう新聞しんぶんしゃ入社にゅうしゃ
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん)- 人気にんき芸妓げいぎだった赤沢あかざわやすと結婚けっこん関東大震災かんとうだいしんさいに、文学ぶんがく生計せいけいてることを決意けついする。
  • 1925ねん大正たいしょう14ねん)- 『キング』創刊そうかんされ「剣難けんなん女難じょなん」を連載れんさい人気にんきる。はじめて吉川よしかわ英治えいじ筆名ひつめい使つかう。
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん)- 「鳴門なるとじょう」を連載れんさい大人気だいにんきとなり、時代じだい小説しょうせつとして大衆たいしゅう文学ぶんがくかい新鋭しんえいとなる。
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん)- 現代げんだい小説しょうせつ「かんかんむしうたふ」を『週刊しゅうかん朝日あさひ』に連載れんさい。このころから「貝殻かいがら一平いっぺい」や「まつのやはち」などの維新いしんぶつ発表はっぴょうしはじめる。
  • 1935ねん昭和しょうわ10ねん)-「宮本みやもと武蔵むさし」の連載れんさい開始かいし
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん)- にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ。『毎日新聞まいにちしんぶん』の特派とくはいんとして現地げんち視察しさつ旅行りょこうちゅうやすとの離婚りこん成立せいりつ料理りょうりはたらいていた池戸いけのべ文子ふみこ結婚けっこん文子ふみこ16さい英治えいじ45さいとし夫婦ふうふだった。
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん)- ペンの部隊ぶたいとして南京なんきんかんこう作戦さくせん従軍じゅうぐん。「三国志さんごくし」の執筆しっぴつ開始かいし
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん)- 西多摩にしたまぐん吉野よしのむら現在げんざい青梅おうめ)に疎開そかい疎開そかいのち記念きねんかんになる。
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん)- 終戦しゅうせんとともに一時いちじ執筆しっぴつ活動かつどう休止きゅうし
  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん)- 執筆しっぴつ再開さいかい
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん)-「高山たかやま右近うこん」を『読売新聞よみうりしんぶん』に連載れんさい
  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん)-「しん平家ひらか物語ものがたり」を『週刊しゅうかん朝日あさひ』に連載れんさい
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん)-「しん平家ひらか物語ものがたり」でだい1かい菊池きくちひろししょう受賞じゅしょう
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん)-「しん平家ひらか物語ものがたり」で朝日あさひ文化ぶんかしょう受賞じゅしょう
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん)- 文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう
  • 1962ねん昭和しょうわ37ねん)- 毎日まいにち芸術げいじゅつしょう受賞じゅしょうがん悪化あっか死去しきょ
  • 2013ねん平成へいせい25ねん)- 前年ぜんねんぼつ50ねんとしであり、もとをもって当時とうじ著作ちょさくけんほうしたが著作ちょさくけん消滅しょうめつ作品さくひんパブリックドメインとなる。青空あおぞら文庫ぶんこなどで多数たすう作品さくひん公開こうかいされた。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

著作ちょさく情報じょうほう尾崎おざき & 永井ながい (1985, p. 111)を参照さんしょう。すべての著作ちょさくけん終了しゅうりょうし、パブリックドメインとなっている。

全集ぜんしゅう[編集へんしゅう]

単行本たんこうぼん[編集へんしゅう]

  • 親鸞しんらん東京とうきょう毎夕まいゆう新聞しんぶんしゃ、1923ねん1がつ 
  • 坂東ばんどう侠客きょうかくじんだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1926ねん11月。 
  • 神州しんしゅう天馬てんばぜん3かん(1926ねん11月 - 1929ねん1がつだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ
    1. 神州しんしゅう天馬てんば侠』 だい1かんだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1926ねん11月。 
    2. 神州しんしゅう天馬てんば侠』 だい2かんだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1927ねん10がつ15にちNDLJP:1873879 
    3. 神州しんしゅう天馬てんば侠』 だい3かんだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1929ねん1がつ 
  • 剣難けんなん女難じょなんだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1926ねん12月。 
  • 鳴門なるとじょうぜん2かん(1927ねん3がつ - 1933ねん11月、大阪おおさか毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんしゃ
    1. 鳴門なるとじょう前編ぜんぺん大阪おおさか毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんしゃ、1927ねん3がつ10日とおかNDLJP:1191530 
    2. 鳴門なるとじょう後編こうへん大阪おおさか毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんしゃ、1933ねん11月。 
  • ひよどり草紙ぞうしだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1927ねん9がつ 
  • まんはな地獄じごく平凡社へいぼんしゃ、1929ねん6がつ 
  • 江戸えど三国志さんごくしぜん3かん(1927ねん7がつ - 1929ねん4がつだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ
  • 貝殻かいがら一平いっぺいぜん2かん(1929ねん12月 - 1930ねん4がつ先進せんしんしゃ
    1. 貝殻かいがら一平いっぺい上巻じょうかん先進せんしんしゃ、1929ねん12月。 
    2. 貝殻かいがら一平いっぺい下巻げかん先進せんしんしゃ、1930ねん4がつ12にちNDLJP:1184840 
  • おんならい也』先進せんしんしゃ、1930ねん4がつ 
  • 龍虎りゅうこはち天狗てんぐぜん4かん(1929ねん8がつ - 1931ねん6がつ博文ひろぶみかん
    1. 龍虎りゅうこはち天狗てんぐだい1かん博文ひろぶみかん、1929ねん8がつ 
    2. 龍虎りゅうこはち天狗てんぐだい2かん博文ひろぶみかん、1929ねん12月16にちNDLJP:1028716 
    3. 龍虎りゅうこはち天狗てんぐだい3かん博文ひろぶみかん、1930ねん6がつ23にちNDLJP:1033657 
    4. 龍虎りゅうこはち天狗てんぐだい4かん博文ひろぶみかん、1931ねん6がつ24にちNDLJP:1034407 
  • えたるあきらたい新潮社しんちょうしゃ、1930ねん9がつ 
  • こいぐるま』だい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1931ねん3がつ 
  • 江戸城えどじょう心中しんちゅうのぜん2かん(1931ねん6がつ - 7がつ先進せんしんしゃ
    1. 江戸城えどじょう心中しんちゅうのだい1かん先進せんしんしゃ、1931ねん6がつ16にちNDLJP:1216467 
    2. 江戸城えどじょう心中しんちゅうの』 つゞき、先進せんしんしゃ、1931ねん7がつ13にちNDLJP:1223487 
  • 『かんかんむしうたふ』春陽しゅんようどう、1932ねん7がつ9にちNDLJP:1110166 
  • 檜山ひやま兄弟きょうだいぜん2かん(1932ねん7がつ - 1933ねん3がつ新潮社しんちょうしゃ
  • 雲霧くもぎり閻魔えんまちょう新潮社しんちょうしゃ、1933ねん5がつ15にちNDLJP:1214760 
  • える富士ふじ新潮社しんちょうしゃ、1934ねん4がつ 
  • 女人にょにん曼荼羅まんだら中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1934ねん5がつ3にちNDLJP:1213481 
  • 桜田さくらだ事変じへん改造かいぞうしゃ、1934ねん12月。 
  • あるぷす大将たいしょう改造かいぞうしゃ、1934ねん12月。 
  • まつのやはち新潮社しんちょうしゃ、1935ねん4がつ 
  • くさおもえどう随筆ずいひつしんえいしゃ、1935ねん9がつ20日はつかNDLJP:1233470 
  • 自選じせん傑作けっさくしゅうしんえいしゃ、1935ねん10がつ17にちNDLJP:1238394 
  • 遊戯ゆうぎ菩薩ぼさつしんえいしゃ、1935ねん11月20にちNDLJP:1232320 
  • 青空あおぞら士官しかんしんえいしゃ、1936ねん1がつ20日はつかNDLJP:1214138 
  • 胡蝶こちょうじん湯川ゆかわ弘文社こうぶんしゃ、1936ねん2がつ 
  • 右近うこん左近さこんだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1936ねん5がつ 
  • 宮本みやもと武蔵むさしぜん6かん(1936ねん5がつ - 1939ねん9がつだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ)(1949ねん3がつ - 1950ねん4がつ六興ろっこう出版しゅっぱん
    佐々木ささき小次郎こじろうとの巌流島がんりゅうじま決闘けっとうまでをえが長編ちょうへん。それまで講談こうだん主人公しゅじんこうだった宮本みやもと武蔵むさしに、書生しょせいてき求道きゅうどうしゃとの解釈かいしゃくくわえる。登場とうじょう人物じんぶつ幼馴染おさななじみまたはち武蔵むさししたうおつう沢庵たくあん、おかぶと朱実あけみ母子ぼしなど。宝蔵ほうぞういん柳生やぎゅう石舟いしふねときほん阿弥あみ光悦こうえつなどとの出会であいをとおしての武蔵むさし人間にんげんてき成長せいちょう主軸しゅじくに、吉岡よしおか一門いちもん佐々木ささき小次郎こじろう対決たいけつ介入かいにゅうする柳生やぎゅう一門いちもんなどとの対決たいけつえがく。
  • 現代げんだい青年せいねんどうしんえいしゃ、1936ねん7がつ20日はつかNDLJP:1228632 
  • こい山彦やまびこしんえいしゃ、1936ねん8がつ 
  • づちひゃくしん小説しょうせつしゃ、1936ねん9がつ25にちNDLJP:1257233 
  • 新編しんぺん忠臣蔵ちゅうしんぐらぜん2かん(1936ねん12月、新潮社しんちょうしゃ
    1. 新編しんぺん忠臣蔵ちゅうしんぐら上巻じょうかん新潮社しんちょうしゃ、1936ねん12月。 
    2. 新編しんぺん忠臣蔵ちゅうしんぐら下巻げかん新潮社しんちょうしゃ、1936ねん12月12にちNDLJP:1025741 
  • 窓辺まどべ雑草ざっそう育生いくせいしゃ、1938ねん7がつ5にちNDLJP:1256169 
  • 親鸞しんらんぜん2かん(1938ねん7がつ - 11月、だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ
    1. 親鸞しんらんてんまきだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1938ねん7がつ25にちNDLJP:1255753 
    2. 親鸞しんらんまきだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1938ねん11月。 
  • 無明むみょうゆうあきら興亜こうあ書房しょぼう、1939ねん3がつ 
  • 悲願ひがんさんだいとうだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1939ねん6がつ 
  • 随筆ずいひつ宮本みやもと武蔵むさし朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1939ねん7がつ 
  • 『かんかんむしうたふ』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1939ねん8がつ6にちNDLJP:1108216 
  • 江戸えど長恨ちょうこんこい易者えきしゃ非凡ひぼんかく、1939ねん10がつ16にちNDLJP:1023469 
  • 柳生やぎゅう月影つきかげしょう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1939ねん11月。 
  • 茶漬ちゃづけさんりゃく朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1939ねん12月。 
  • 三国志さんごくしぜん14かん(1940ねん5がつ - 1946ねん9がつだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ
    中国ちゅうごくこうかんすえからさんこく時代じだい歴史れきし物語ものがたりを『三国志さんごくし演義えんぎ』にもとづき、悪役あくやくあつかいだった曹操そうそう魅力みりょくてきえがくなど人物じんぶつ描写びょうしゃあらたなる解釈かいしゃくくわえたり、戦闘せんとう場面ばめん簡略かんりゃくさせるなどしてえがいてゆく。作品さくひん全体ぜんたい日本人にっぽんじんこのみにアレンジされ、江戸えど湖南こなんあやさん通俗つうぞく三国志さんごくし』にわって日本にっぽん三国志さんごくしぶつのスタンダードともいうべき地位ちいた。
  • てんへい童子どうじぜん2かん(1940ねん6がつ - 8がつだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ
    1. てんへい童子どうじ上巻じょうかんだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1940ねん6がつ 
    2. てんへい童子どうじ下巻げかんだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1940ねん8がつ20日はつかNDLJP:1717174 
  • みなもと頼朝よりともぜん2かん(1940ねん12月 - 1941ねん3がつ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
    1. みなもと頼朝よりとも上巻じょうかん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1940ねん12月。 
    2. みなもと頼朝よりとも下巻げかん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1941ねん3がつ20日はつかNDLJP:1136021 
  • 新書しんしょ太閤たいこうぜん9かん(1941ねん4がつ - 1945ねん2がつ新潮社しんちょうしゃ)、ぜん11かん(1950ねん - 1951ねん六興ろっこう出版しゅっぱん
  • 梅里うめざと先生せんせい行状ぎょうじょうぜん2かん(1941ねん9がつ - 11月、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
    徳川とくがわ光圀みつくにえがく。
  • 虚無僧こむそう系図けいずぶん林道りんどうそうぎょぼう、1941ねん11月。 
  • うめ颸のつえ春陽しゅんようどう書店しょてん、1941ねん12月。 
    よりゆき山陽さんようえがく。うめ颸とは山陽さんようははよりゆきうめ
  • 日本にっぽんめいでん全国ぜんこく書房しょぼう、1942ねん1がつ20日はつかNDLJP:1136020 
  • 上杉うえすぎ謙信けんしん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1942ねん9がつ 
    謙信けんしん領土りょうどよくたない義戦ぎせんつらぬいた武将ぶしょうとしてえがいている。えいろく4ねん川中島かわなかじまたたかがクライマックス。近年きんねん調査ちょうさによってあらたに判明はんめいした史実しじつ反映はんえいされていないため、歴史れきしてきにはけっしてただしいとはいえないものの、作品さくひん評価ひょうかたかく、現在げんざいでもはんかさつづけている。
  • 南方みなかた紀行のりゆき全国ぜんこく書房しょぼう、1943ねん1がつ 
  • けん四君子しくんし全国ぜんこく書房しょぼう、1943ねん4がつ 
  • 黒田くろだ如水じょすい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1943ねん11月。 
  • 高山たかやま右近うこんぜん2かん(1949ねん6がつ読売新聞社よみうりしんぶんしゃ
  • 大岡おおおか越前えちぜん同志社どうししゃ、1950ねん1がつ 
  • しん平家ひらか物語ものがたりぜん24かん(1951ねん6がつ - 1957ねん5がつ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
  • たいら将門まさかど六興ろっこう出版しゅっぱん、1952ねん12月。 
  • 折々おりおり六興ろっこう出版しゅっぱん、1953ねん12月。 
  • わすのこりの文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1957ねん7がつ 
  • わたしほん太平たいへいぜん13かん(1959ねん3がつ - 1962ねん3がつ毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ
  • しんみず滸伝』ぜん6かん(1960ねん11月 - 1963ねん2がつ講談社こうだんしゃ
    しょ作品さくひんで、不動ふどう地位ちい吉川よしかわ生涯しょうがい最期さいごに、『三国志さんごくし』とならひろまれた演義えんぎ小説しょうせつひとつ『みず滸伝』を、自己流じこりゅう解釈かいしゃくした意欲いよくさく円熟えんじゅくした筆致ひっち軽妙けいみょう洒脱しゃだつ物語ものがたり展開てんかいは、吉川よしかわ文学ぶんがく完成かんせいされた姿すがたをみせているが、未完みかん絶筆ぜっぴつとなった。とはいえ、梁山泊りょうざんぱくひゃくはちほしたかった直後ちょくご原作げんさくの120かいの73かいあたり(事実じじつじょう70かいほんでの完結かんけつ)での終了しゅうりょうで、物語ものがたり展開てんかいでは区切くぎりにいたっておりじゅうふんませる作品さくひんである。

映像えいぞう作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

  • あつらえ治郎じろうよし格子こうし (1928ねん
  • 牢獄ろうごく花嫁はなよめ まえへん (1931ねん
  • 牢獄ろうごく花嫁はなよめ 解決かいけつへん (1931ねん
  • あつらえ次郎吉じろきち格子こうし (1931ねん
  • 春秋しゅんじゅう編笠あみがさぶし (1932ねん
  • 神変しんぺん麝香猫じゃこうねこ 悲願ひがん復讐ふくしゅうへん (1932ねん
  • 神変しんぺん麝香猫じゃこうねこ 大江戸おおえど戦慄せんりつへん (1932ねん
  • 神変しんぺん麝香猫じゃこうねこ 火焔かえん解決かいけつへん (1932ねん
  • 江戸城えどじょう心中しんちゅうの まえへん (1933ねん
  • 江戸城えどじょう心中しんちゅうの へん (1933ねん
  • える富士ふじ 東海とうかい散華さんげまき (1933ねん
  • える富士ふじ 王道おうどうせんはなまき (1933ねん
  • える富士ふじ 修羅しゅら暁闇あかつきやみまき (1933ねん
  • 雲霞うんか閻魔えんまちょう まえへん 春秋しゅんじゅう緑林りょくりんへん (1934ねん
  • 雲霞うんか閻魔えんまちょう へん 流星りゅうせい (1934ねん
  • 野火のび兄弟きょうだい (1934ねん
  • こい山彦やまびこ 風雲ふううんまき (1937ねん
  • こい山彦やまびこ 怒濤どとうまき (1937ねん
  • 牢獄ろうごく花嫁はなよめ まえへん (1939ねん
  • 牢獄ろうごく花嫁はなよめ 解決かいけつへん (1939ねん
  • てんへい童子どうじ だいいち おさな英雄えいゆう (1941ねん
  • てんへい童子どうじ だい 日本にっぽん (1941ねん
  • 柳生やぎゅう月影つきかげしょう (1941ねん
  • てんへい童子どうじ だいさん (1941ねん
  • てんへい童子どうじ だいよん よみがえちから (1941ねん
  • 梅里うめざと先生せんせい行状ぎょうじょう りゅう神剣しんけん (1942ねん
  • 千両せんりょうはだ (1950ねん
  • 悲恋ひれんはな (1950ねん
  • 阿修羅あしゅら判官ほうがん (1951ねん
  • まんはな地獄じごく (1951ねん
  • 平安へいあん群盗ぐんとうでん はかまだれ輔 (1951ねん
  • 剣難けんなん女難じょなん 女心おんなごころでんしんまき (1951ねん
  • 剣難けんなん女難じょなん けんこう流星りゅうせいまき (1951ねん
  • あつらえ 治郎じろうよし格子こうし (1952ねん
  • 柳生やぎゅう兄弟きょうだい (1952ねん
  • ひよどり草紙ぞうし (1952ねん
  • ひよどり草紙ぞうし (1954ねん
  • 竜虎りゅうこはち天狗てんぐ だい一部いちぶ みずとらまき (1954ねん
  • 竜虎りゅうこはち天狗てんぐ だい りゅうまき (1954ねん
  • 竜虎りゅうこはち天狗てんぐ だいさん 鳳凰ほうおうまき (1954ねん
  • 竜虎りゅうこはち天狗てんぐ 完結かんけつへん 追撃ついげきまき (1954ねん
  • つきふえふえ だいいちへん 月下げっか若武者わかむしゃ (1955ねん
  • つきふえふえ だいへん 白馬はくばそらぶ (1955ねん
  • つきふえふえ だいさんへん 千丈せんじょうばらげき (1955ねん
  • 麝香じゃこう屋敷やしき (1955ねん
  • 浪人ろうにん吹雪ふぶき (1955ねん
  • てんへい童子どうじ だいいちへん 濤の若武者わかむしゃ (1955ねん
  • 虚無僧こむそう系図けいず (1955ねん
  • てんへい童子どうじ だいへん だか松城まつしろ密使みっし (1955ねん
  • てんへい童子どうじ 完結かんけつへん まる初陣ういじん (1955ねん
  • 牢獄ろうごく花嫁はなよめ (1955ねん
  • かんかんむしうたう (1955ねん
  • 隠密おんみつななせい けんくも碓氷峠うすいとうげらんじん (1956ねん
  • ぞく隠密おんみつななせい 龍攘虎搏りゅうじょうこはく決戦けっせん (1956ねん
  • 江戸えど三国志さんごくし (1956ねん
  • 江戸えど三国志さんごくし 疾風しっぷうへん (1956ねん
  • 江戸えど三国志さんごくし 完結かんけつ迅雷じんらいへん (1956ねん
  • 勤王きんのう?佐幕さばく?女人にょにん曼陀羅まんだら (1956ねん
  • ぞく勤王きんのう?佐幕さばく?女人にょにん曼陀羅まんだら (1956ねん
  • 修羅しゅら時鳥ほととぎす (1957ねん
  • さけぶ雷鳥らいちょう (1957ねん
  • さけぶ雷鳥らいちょう だい (1957ねん
  • さけぶ雷鳥らいちょう 解決かいけつへん (1957ねん
  • 黄金おうごん伏魔殿ふくまでん (1957ねん
  • 神変しんぺん麝香猫じゃこうねこ (1958ねん
  • 隠密おんみつななせい (1958ねん
  • こい山彦やまびこ (1959ねん
  • 親鸞しんらん (1960ねん
  • ぞく 親鸞しんらん (1960ねん
  • さばかれる越前えちぜんまもる (1962ねん
  • くもきり獄門ごくもんじょう (1963ねん

テレビドラマ[編集へんしゅう]

長男ちょうなん英明えいめいいだ文子ふみこ次男じなんえいいだ英治えいじ
昭和しょうわ16ねん

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

  • つま やす、文子ふみこ
    • 長男ちょうなん 英明えいめい
    • 二男じなん えい
    • 長女ちょうじょ あけぼの
    • 二女じじょ
    • 養女ようじょ 園子そのこ - 東京とうきょうだい空襲くうしゅう戦災せんさい

系譜けいふ[編集へんしゅう]

吉川よしかわ江戸えど時代じだい小田原おだわらはん下級かきゅう武士ぶしであり祖父そふぎん兵衛ひょうえ徒士かちなみせきにん扶持ふち根府川ねぶかわ番所ばんしょにつとめた。元々もともとは「きっかわ」とよんだと吉川よしかわ英治えいじかたっている(『わすのこりの』)。

ぎんみぎ衛門えもんぎんみぎ衛門えもんぎんみぎ衛門えもん・・・いさむじょぎん兵衛ひょうえちょくこう━┳えい━┳英明えいめい
                           ┣くに ┣えい
                           ┣きの ┣あけぼの
                           ┣かゑ ┣
                           ┣もとじょ ┗園子そのこ
                           ┣はま
                           ┣きく
                           ┣ちよ
                           ┣すえ
                           ┗すすむ

エピソード[編集へんしゅう]

馬主ばしゅ[編集へんしゅう]

1956ねん昭和しょうわ31ねん)までは競走きょうそう馬主ばしゅとしても有名ゆうめいだった。馬主ばしゅとなったのは1939ねん昭和しょうわ14ねん)で、親友しんゆうでやはり馬主ばしゅだった菊池きくちひろしすすめられて馬主ばしゅとなったものであるが、とく戦後せんごには数々かずかず有力ゆうりょく所有しょゆうしていたことで名高なだかい。なかでもケゴンは1955ねん昭和しょうわ30ねん)のだい15かい皐月さつきしょう優勝ゆうしょうしている。ほかにもケゴンのぜんあねスプリングステークスなどじゅうしょう5しょう牝馬ひんばチエリオなどがいる。

しかし、1956ねん昭和しょうわ31ねん)のだい23かい東京とうきょうゆう駿しゅん日本にほんダービー)で、出走しゅっそうした愛馬あいばエンメイが1コーナーで発生はっせいした混乱こんらんまれて落馬らくば転倒てんとうする事故じこき、エンメイはあし骨折こっせつのために不良ふりょう診断しんだんされころせ処分しょぶんとなり、くらじょうだった阿部あべ正太郎しょうたろう騎手きしゅ騎手きしゅ生命せいめいたれる瀕死ひんし重傷じゅうしょうった。当日とうじつ吉川よしかわ仕事しごとのために大阪おおさかにおり、競馬けいばじょう直接ちょくせつ事故じこ目撃もくげきしたわけではなく、事故じこたいして勿論もちろん吉川よしかわ一切いっさいかったのだが、このいちけんおおきなショックをけ、ほどなく競馬けいば世界せかいからすっぱりといてしまい、二度にどもどることはかった。

その吉川よしかわは、当時とうじ体調たいちょうすぐれなかったこともあり医師いしすすめでゴルフはじめ、これが競馬けいばわる晩年ばんねん趣味しゅみとなったという。

軽井沢かるいざわ[編集へんしゅう]

おおくの文士ぶんし同様どうよう長野ながのけん軽井沢かるいざわまち別荘べっそう所有しょゆうしていた。文士ぶんし仲間なかまとのゴルフにもきょうじた。近所きんじょ三笠みかさみやたかしじん親王しんのう別荘べっそうまねかれたこともあった[8]。また吉川よしかわなつだけでなくあきまで滞在たいざいしていたようで、「じんがいなくなってから、高原こうげんはほんとうに高原こうげんのよさをせてくる」などと随筆ずいひつしるしている[8]

軽井沢かるいざわでの交友こうゆう関係かんけい以下いかとおり。

あきというと、近所きんじょとなりも、みな空家あきやばかりだが、なつ軽井沢かるいざわは、人間にんげんばなれどころではない。ジャーナリズムあみられているので、雑魚ざこのぼくらまで御難ごなんにかかる。放送ほうそう座談ざだんかい対談たいだん口述こうじゅつ写真しゃしん訪問ほうもんなど、いやおうなく、現地げんち徴用ちょうようにひっかかる。また友人ゆうじんたちにもしきりにった。池島いけじま信平しんぺい獅子しし文六ぶんろく立野たての信之のぶゆき舟橋ふなばし聖一せいいち服部はっとり之総しそう松本まつもと新八しんぱちろう野村のむら胡堂こどう石坂いしざか洋次郎ようじろう佐佐木ささき茂索もさく川口かわぐち松太郎まつたろう村山むらやま知義ともよし。かぞえきれない。とくに珍客ちんきゃくは、嘉治よしはる隆一りゅういちが、おりふし夏季かき講座こうざていたハアヴアド大学だいがく文学ぶんがく専攻せんこうのミラア教授きょうじゅ夫妻ふさい案内あんないされたことだった。短期間たんきかんだったが、ミラア教授きょうじゅとのはなしは非常ひじょうにおもしろかった。嘉治よしはるがそのときの印象いんしょうじゅういちがつごう小説しょうせつ公園こうえんいている。りゅう信太郎しんたろう浦松うらまつ佐美太郎さみたろうなどがみえたときは、土地とち正宗まさむね白鳥しらとりだの、梅原うめはら龍三郎りゅうさぶろう画伯がはく横山よこやま美智子みちこ川口かわぐち野村のむら石坂いしざか夫人ふじん、ぼく夫婦ふうふなどを、一夕いっせき招宴しょうえんしてくれた。室生むろう犀星さいせいほろしょうえなかったが、当夜とうやかい愉快ゆかいだった。去年きょねんは、やはりこういうかおぶれに志賀しが直哉なおやくわえて、改造かいぞうしゃ山本やまもと実彦さねひこがきもいりのかいをしてくれたが、その山本やまもと今年ことしはもう他界たかいひとだった。そういえば、その山本やまもと実彦さねひこ未亡人みぼうじん子息しそくが、ことし山荘さんそうたずねてくだすったは、軽井沢かるいざわ特有とくゆうきり小雨こさめで、実彦さねひこ生前せいぜんばなしがるたびに、未亡人みぼうじんまぶたがあからむのにむねきずついたむおもいをどもにした。」(吉川よしかわ英治えいじ随筆ずいひつ しん平家へいけ』, 1958ねん[8]

吉川よしかわ死後しごには、軽井沢かるいざわ野間のま省一しょういちやしきにて吉川よしかわ英治えいじいち周忌しゅうき軽井沢かるいざわ仲間なかまないおこなわれている[9]あつまった人物じんぶつは、円地えんち文子ふみこなまさわあきらなまさわとおるちち)、石坂いしざか洋次郎ようじろう丹羽にわ文雄ふみお川端かわばた康成やすなり川口かわぐち松太郎まつたろう源氏げんじ鶏太けいた井上いのうえやすし壺井つぼいさかえしば好子よしこ白川しらかわ水上みずかみつとむ阿川あがわ弘之ひろゆき井上いのうえ友一郎ともいちろう柴田しばた錬三郎れんざぶろう石川いしかわ達三たつぞう富田とみた常雄つねお[9]

2011ねんには、軽井沢かるいざわ蕎麦そばみせ経営けいえいしていた吉川よしかわ英治えいじまご大麻たいま所持しょじ容疑ようぎ逮捕たいほされている[10]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉川よしかわ英治えいじ明治めいじ横浜よこはま : 自伝じでん小説しょうせつわすのこりの』を解剖かいぼうする」(横浜よこはま近代きんだい文学ぶんがく研究けんきゅうかいへん)は、山元やまもとまち商店しょうてんがいの「うめ」という銭湯せんとうあたりとする。現在げんざいではマンション「ランドシティ横濱よこはま

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 文壇ぶんだん詩壇しだん歌壇かだんさんひゃくじゅうにん参加さんか東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ12ねん1がつ19にち)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p705 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  2. ^ 回想かいそう日本にっぽん海軍かいぐん』(はら書房しょぼう所収しょしゅうの、「吉川よしかわ英治えいじ先生せんせい海軍かいぐん
  3. ^ 吉川よしかわ英治えいじが250まんえん筆頭ひっとう 芸能人げいのうじん所得しょとく番付ばんづけ」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん昭和しょうわ24ねん4がつ12にち2めん
  4. ^ 菊池きくちしょう受賞じゅしょうしゃ一覧いちらん”. 日本文学振興会にほんぶんがくしんこうかい. 2021ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  5. ^ 吉川よしかわ英治えいじ記念きねんかん 入館にゅうかんしゃげん閉館へいかん 20日はつか最終さいしゅう毎日新聞まいにちしんぶん2019ねん3がつ17にち
  6. ^ 吉川よしかわ英治えいじ記念きねんかん、あすオープン 青梅おうめ施設しせつとしてさい出発しゅっぱつあらたなファン開拓かいたくしたい」:東京とうきょう新聞しんぶん TOKYO Web”. 東京とうきょう新聞しんぶん TOKYO Web. 2021ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  7. ^ 文化財ぶんかざいニュース 2003, p. だい3ごう.
  8. ^ a b c 吉川よしかわ英治えいじ随筆ずいひつ しん平家へいけ』(1958ねん青空あおぞら文庫ぶんこリンク : 随筆ずいひつ しん平家へいけ
  9. ^ a b 石坂いしざか洋次郎ようじろう』(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, 1973ねん)176ぺーじ
  10. ^ 吉川よしかわ英治えいじまご大麻たいま所持しょじ容疑ようぎ逮捕たいほ 神奈川かながわ県警けんけい 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん(2011ねん2がつ10日とおか

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

伝記でんき[編集へんしゅう]

出演しゅつえん番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]