出典 しゅってん : フリー百科 ひゃっか 事典 じてん 『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブラフモ・サマージ (Brahmo Samaj 、ベンガル語 ご :ব্রাহ্ম সমাজ Bramho Shômaj 、ブラフモ協会 きょうかい )は、1828年 ねん にラーム・モーハン・ローイ が設立 せつりつ した社会 しゃかい 運動 うんどう 及 およ び宗教 しゅうきょう 運動 うんどう 組織 そしき である。当初 とうしょ の名称 めいしょう はBrahmo Sabha(ブラフモ集会 しゅうかい )で、正式 せいしき な設立 せつりつ は1830年 ねん 。「ブラフモ」はブラフマン い換 いか えれば宇宙 うちゅう の至高 しこう 精神 せいしん を崇拝 すうはい する人 ひと 、「サマージ」は結束 けっそく した人々 ひとびと のコミュニティを意味 いみ する。
ベンガル・ルネッサンス (英語 えいご 版 ばん ) として知 し られている19世紀 せいき インド の近代 きんだい 化 か ・伝統 でんとう 復興 ふっこう のムーブメントの最初 さいしょ に位置 いち し、19世紀 せいき から20世紀 せいき のヒンドゥー教 きょう 改革 かいかく 運動 うんどう (英語 えいご 版 ばん ) の先駆 せんく として、アーリヤ・サマージ などの多 おお くの宗教 しゅうきょう 団体 だんたい に影響 えいきょう を与 あた えた。
イスラム教 いすらむきょう 、キリスト教 きょう 、そしてウパニシャッドの中 なか に真理 しんり があり、イエス自身 じしん に立 た ち戻 もど ることで得 え られる純粋 じゅんすい なキリスト教 きりすときょう とインドの古代 こだい のヒンドゥー教 きょう には一致 いっち があり、そこに普遍 ふへん 性 せい があると考 かんが え、古代 こだい の純粋 じゅんすい なヒンドゥー教 きょう の復興 ふっこう を目指 めざ した。キリスト教 きょう ユニテリアン との関 かか わりも深 ふか く、西洋 せいよう の秘教 ひきょう や心霊 しんれい 主義 しゅぎ の観点 かんてん も取 と り入 い れられている。
ローイは自身 じしん の宗教 しゅうきょう 的 てき 信念 しんねん の啓蒙 けいもう や様々 さまざま な社会 しゃかい 活動 かつどう を行 おこな い、1833年 ねん にイギリスで死去 しきょ した。ローイを財 ざい 成 なり 面 めん で支援 しえん していたデーベンドラナート・ダゴールの長子 ちょうし デヴェンドラナート・タゴール (英語 えいご 版 ばん ) (詩聖 しせい ラビンドラナート・タゴール の父 ちち )がローイの死後 しご 10年 ねん たって入会 にゅうかい し、活動 かつどう を引 ひ き継 つ いだ。彼 かれ はウパニシャッド の尊重 そんちょう という点 てん はローイの思想 しそう を引 ひ き継 つ いでいるが、インドにはヒンドゥー教 きょう だけでよいとしてキリスト教 きりすときょう を排 はい している。祈祷 きとう にはウパニシャッドからとったもの、左 ひだり 道 どう シャクティ派 は のマハーニルヴァーナ・タントラ からとったものを使 つか い、シャンカラ の一元論 いちげんろん を捨 す てて、ウパニシャッドの信念 しんねん を支持 しじ した。またヒマラヤ山中 さんちゅう に1年 ねん 半 はん 入 はい って修行 しゅぎょう し、神 かみ の荘厳 しょうごん の声 こえ を聞 き くようになったという。タゴールはブラフモ・サマージの組織 そしき 化 か に力 ちから を注 そそ ぎ、ブラフマン への礼拝 れいはい ・祈祷 きとう の形式 けいしき を整 ととの え、これによりベンガル人 じん の入会 にゅうかい 者 しゃ は増 ふ え、組織 そしき は隆盛 りゅうせい した。
イギリス式 しき の教育 きょういく を受 う けていた青年 せいねん ケーシャブ・チャンドラ・セーン (英語 えいご 版 ばん ) が入会 にゅうかい し、タゴールは彼 かれ に目 め をかけ、セーンは活動 かつどう に力 ちから を入 い れた。しかし、求道 きゅうどう 的 てき なタゴールに対 たい し、セーンはヒンドゥー社会 しゃかい の改革 かいかく ・社会 しゃかい 活動 かつどう への情熱 じょうねつ が強 つよ く、宗教 しゅうきょう 面 めん でもキリスト教 きりすときょう に徐々 じょじょ に傾斜 けいしゃ し、その方向 ほうこう 性 せい の違 ちが いから、1866年 ねん にセーンはインド・ブラフモ・サマージに分裂 ぶんれつ した。セーンはベンガル地方 ちほう で行 おこな われたチャイタニヤ (英語 えいご 版 ばん ) 運動 うんどう の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けており、ヒンドゥー教 きょう 的 てき に言 い えばバクティ によるヴィシュヌ派 は の信者 しんじゃ であった。セーンの時期 じき にはラルフ・ワルド・エマーソン 、テオドール・パーカー (英語 えいご 版 ばん ) の超越 ちょうえつ 主義 しゅぎ 哲学 てつがく (英語 えいご 版 ばん ) の全 ぜん 著作 ちょさく が回覧 かいらん されていた。1870年 ねん には渡 わたり 英 すぐる してキリスト教徒 きょうと に歓迎 かんげい を受 う け、半年 はんとし 滞在 たいざい した。その後 ご 7年 ねん 社会 しゃかい 活動 かつどう に専念 せんねん し、インド改革 かいかく 協会 きょうかい (1870年 ねん )の設立 せつりつ 、女子 じょし 教育 きょういく のための学校 がっこう の設立 せつりつ 、貧民 ひんみん 救済 きゅうさい 活動 かつどう 、男子 だんし のための工業 こうぎょう 課程 かてい の学校 がっこう を作 つく った。セーンは社会 しゃかい の中 なか のカースト の完全 かんぜん な廃止 はいし を唱 とな え、女性 じょせい を協会 きょうかい のメンバーとして認 みと めた改革 かいかく 者 しゃ だった[7] 。1875年 ねん にラーマクリシュナ に会 あ い、交流 こうりゅう して影響 えいきょう を受 う け、全 すべ ての宗教 しゅうきょう が同一 どういつ のところに帰 き すると考 かんが えてるようになった。精神 せいしん 修養 しゅうよう 道場 どうじょう を建 た てて瞑想 めいそう やヨーガ を行 おこな い、シャクティ派 は に接近 せっきん した。
1878年 ねん にベンガル政府 せいふ はセーンの娘 むすめ とビハール の王子 おうじ の婚約 こんやく を整 ととの えたが、娘 むすめ は14歳 さい と若 わか く、セーンが唱 とな えていた児童 じどう 婚 こん の廃止 はいし に反 はん するものであった。そのため彼 かれ に不信 ふしん 感 かん を抱 いだ く人 ひと が増 ふ え、1878年 ねん にインド・ブラフモ・サマージからサーダーナン・ブラフモ・サマージ(大衆 たいしゅう 的 てき ブラフモ・サマージ)が分 わ かれた。この年 とし セーンは大病 たいびょう を患 わずら ったが回復 かいふく し、晩年 ばんねん の6年間 ねんかん はすべての宗教 しゅうきょう の調和 ちょうわ 理念 りねん を打 う ち出 だ そうとし、神 かみ 智学 ちがく 協会 きょうかい 運動 うんどう の Church of the New Dispensation という別名 べつめい の教会 きょうかい をたてて活動 かつどう した。「ブラフモ・ナショナリズムとヴィシュヌ派 は の情緒 じょうちょ 主義 しゅぎ とキリスト教 きょう の超 ちょう 自然 しぜん 主義 しゅぎ とヴェーダーンタの神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 」がまとめられたものと言 い われる。彼 かれ の死後 しご セーンのインド・ブラフモ・サマージは衰 おとろ え、 Church of the New Dispensation も4つに分裂 ぶんれつ し、タゴールの正統 せいとう ブラフモ・サマージも衰退 すいたい したため、サーダーナン・ブラフモ・サマージがわずかに残 のこ るのみである。カルカッタに大学 だいがく を作 つく ったアーナンダ・モーハン・ボース、ボンベイのプラールタナー・サマージなど、派生 はせい 、分裂 ぶんれつ した組織 そしき はインド各地 かくち で大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
英文 えいぶん
基本 きほん 教義 きょうぎ 宗派 しゅうは 人物 じんぶつ 哲学 てつがく 聖典 せいてん
神 かみ 々・英雄 えいゆう
リシ
修行 しゅぎょう 法 ほう 地域 ちいき 社会 しゃかい ・生活 せいかつ 文化 ぶんか ・芸術 げいじゅつ