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日野ひの

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日野ひの
家紋
鶴丸つるまるつるのまる
本姓ほんせい 藤原ふじわらきた真夏まなつりゅう日野ひのりゅう嫡流ちゃくりゅう
いえ 日野ひのぎょう
種別しゅべつ 公家くげ名家めいか
華族かぞく伯爵はくしゃく
出身しゅっしん 山城やましろこく宇治うじぐん日野ひの
おも根拠地こんきょち 山城やましろこく平安京へいあんきょう
神奈川かながわけん大磯おおいそまち堀之内ほりのうち
著名ちょめい人物じんぶつ 親鸞しんらん
日野ひの俊光としみつ
日野ひのあさ
三宝さんぼういんけんしゅん
日野ひの有光ありみつ
日野ひの勝光かつみつ
日野ひの富子とみこ
日野ひのあきら
日野ひの捷郎はやお(実吉さねよし捷郎はやお)
支流しりゅう分家ぶんけ 広橋ひろはし(名家めいか伯爵はくしゃく)
柳原やなぎはら(名家めいか伯爵はくしゃく)
烏丸からすま(名家めいか伯爵はくしゃく)
外山とやま(名家めいか子爵ししゃく)
豊岡とよおか(名家めいか子爵ししゃく)
竹屋たけや(名家めいか子爵ししゃく)
日野西ひのにし(名家めいか子爵ししゃく)
勘解由小路かげゆこうじ(名家めいか子爵ししゃく)
うらまつ(名家めいか子爵ししゃく)
さんしつ(名家めいか子爵ししゃく)
北小路きたこうじ(名家めいか子爵ししゃく)
大谷おおや(本願寺ほんがんじ門跡もんぜき伯爵はくしゃく)
松波まつなみ(地下ちか士族しぞく)
ぞくいえ(地下ちか士族しぞく)
土御門つちみかど(地下ちか士族しぞく)
日野ひの(武家ぶけ)
六角ろっかく(武家ぶけ士族しぞく)
寺村てらむら(武家ぶけ)
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

日野ひの(ひのけ)は、藤原ふじわらきた真夏まなつりゅう日野ひのりゅう嫡流ちゃくりゅうにあたる公家くげ華族かぞくいえ公家くげとしての家格かかく名家めいか華族かぞくとしての家格かかく伯爵はくしゃくいえ[1]

歴史れきし

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平安へいあん時代じだい

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日野ひの右大臣うだいじん藤原ふじわらない麿まろ長子ちょうしである参議さんぎ藤原ふじわら真夏まなつ子孫しそんにあたる[2][3]真夏まなつまごにあたる参議さんぎ藤原ふじわらむねは、ひろしひとし12ねん(822ねん)に延暦寺えんりゃくじ戒壇かいだんもうけることをゆるした嵯峨天皇さがてんのう勅許ちょっきょじょう最澄さいちょうとどけたさい感謝かんしゃした最澄さいちょうからそうよりかえった薬師如来像やくしにょらいぞうをもらった[4]いえむね山城やましろこく宇治うじぐん日野ひの京都きょうと伏見ふしみ日野西大道ひのにしだいどうまち)に法界寺ほうかいじ建立こんりゅう[3]、この薬師如来像やくしにょらいぞう安置あんちした[4]

いえむねから5せい子孫しそんぎょう11世紀せいきなかばに日野ひの法界寺ほうかいじのうちに薬師堂やくしどう建立こんりゅう[3]薬師如来像やくしにょらいぞうをここにうつした[4]。これをぎょうは「日野ひのさん」を名乗なのるようになり[4]、これ以降いこう日野ひの家名かめいとなった[3]

日野ひの儒学じゅがく文章ぶんしょう家業かぎょうとして代々だいだい朝廷ちょうていつかえ、大学だいがくあたまにんじられることがおおかった[3]。また歌道かどういえでもあったが、日野ひのからはのある歌人かじんていない[5]院政いんせい以降いこうべんかん中納言ちゅうなごん大納言だいなごんいた名家めいか家格かかく確立かくりつ[5][3]後世こうせいには旧家きゅうか内々うちうち家格かかく確立かくりつした[6]

鎌倉かまくら時代ときよ

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平安へいあん時代じだいすえから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき日野ひの兼光かねみつ鎌倉かまくら幕府ばくふみなもと頼朝よりともちか立場たちばをとったおやまく公家くげであり、文治ぶんじ元年がんねん(1185ねん)に頼朝よりともこう白河しらかわ法皇ほうおうせまってそう10にん設置せっちさせたさいにも頼朝よりとも推挙すいきょでその一人ひとりくわえられている[5]

鎌倉かまくら前期ぜんき僧侶そうりょ浄土真宗じょうどしんしゅう開祖かいそ親鸞しんらんは、日野ひの一族いちぞくゆうはんつたわる。親鸞しんらんむすめさとししんあま同族どうぞくこうつなとつがせているが、その子孫しそん代々だいだい門主もんしゅとして本願寺ほんがんじひきいた大谷おおやである。

鎌倉かまくらまつまで日野ひの当主とうしゅ極官きょっかんけん中納言ちゅうなごんであったが、持明院じみょういんみつる公卿くぎょう日野ひの俊光としみつよしみれき元年がんねん(1326ねん)4がつ28にち持明院じみょういんみつるこう伏見ふしみ上皇じょうこうから鎌倉かまくらへの使者ししゃてられたさいけん大納言だいなごんにんじられ、これ以降いこう持明院じみょういんみつるでは日野ひの代々だいだいけん大納言だいなごんとするのがれいとなり、日野ひの極官きょっかんけん大納言だいなごんがった[7]

しかし日野ひの一族いちぞく全員ぜんいん持明院じみょういんみつるだったわけではなく、俊光としみつ次男じなんあさと庶流の日野ひのしゅんもとは、大覚寺だいかくじみつるであり、かれらはげんとおる2ねん1324ねん)に後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく計画けいかく参加さんかしたことで幕府ばくふらえられている(正中せいちゅうへん[8]。さらに元弘もとひろへんのちにはにんとも幕府ばくふ処刑しょけいされている[3]

たてたけし新政しんせい南北なんぼくあさ時代じだい

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鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう後醍醐天皇ごだいごてんのうたてたけし新政しんせいした持明院じみょういんみつる日野ひのめい出家しゅっけ隠棲いんせいしたが、その次男じなん日野ひのこうたてたけし2ねん(1335ねん)に西園寺さいおんじこうむね北条ほうじょう残党ざんとう北条ほうじょうだかおとうとたいこう次男じなんどきぎょう名越なごしけんら)とともに後醍醐天皇ごだいごてんのう暗殺あんさつしてその混乱こんらんじょうじて京都きょうと鎌倉かまくら占領せんりょうする計画けいかくくわだてた。しかしこの陰謀いんぼう事前じぜん露見ろけんして西園寺さいおんじこうむねとともにらえられて処刑しょけいされた[9]

その鎌倉かまくら幕府ばくふ再興さいこうかかげる北条ほうじょう残党ざんとう鎌倉かまくら占領せんりょうしたが、これをった足利尊氏あしかがたかうじ突如とつじょ後醍醐天皇ごだいごてんのうゆみきはじめ、たてたけし3ねん(1336ねん正月しょうがつ京都きょうと占領せんりょうするもよく2がつには楠木くすのき正成まさしげきょうわれた。朝敵ちょうてきになってはつことができないことをおもらされたたかしは、めいおとうと大僧正だいそうじょうけんしゅんねらっていた醍醐寺だいごじ座主ざす地位ちいみとめられなかったけん後醍醐天皇ごだいごてんのううらんでいた)を仲介ちゅうかいやく持明院じみょういんみつるひかりげん上皇じょうこう接近せっきんしてその院宣いんぜん拝受はいじゅ。これにより足利あしかがぐん優勢ゆうせいとなり、京都きょうとさい占領せんりょうして持明院じみょういんみつる光明こうみょう天皇てんのう北朝ほくちょう天皇てんのうとして即位そくいさせるとともにみずからを征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいさせて室町むろまち幕府ばくふおこした[10]

足利あしかが将軍家しょうぐんけとの縁戚えんせき関係かんけい

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めいむすめ日野ひの宣子のぶこ後光ごこうげん天皇てんのう典侍てんじとなって後宮こうきゅう第一人者だいいちにんしゃとなり[11]めい日野ひの宗家そうけいだ日野ひのきょうこう小松こまつ天皇てんのう乳人めのととなり、こう円融えんゆう上皇じょうこういん執権しっけんをつとめるなど朝廷ちょうていにおいても重要じゅうよう地位ちいめるようになった[12]以降いこう日野ひの後光ごこうげん側近そっきんでありつつ室町むろまち将軍家しょうぐんけにもつかえることで、室町むろまち将軍しょうぐん公家くげつよすすめるようになる[12]めいどきこうむすめごうは3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつとつぎ、その没後ぼつごにはどきこう次男じなんうらまつやすしむすめ康子やすこ継室けいしつとなった。康子やすここう小松こまつ天皇てんのうじゅんははとなり、北山きたやまいん女院にょいんごうけた。これ以降いこう室町むろまち時代じだいつうじて日野ひの歴代れきだい足利あしかが将軍しょうぐん婚姻こんいん外戚がいせき関係かんけいをもち権勢けんせいをふるうこととなった[13]

康子やすこいもうと栄子えいこは、4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちとつぎ、5だい将軍しょうぐん足利あしかが義量よしかずもうけた。やすしうら松重まつしげひかりむすめである宗子むねこ重子しげこは、いずれも6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりとついでいる[14]とく重子しげこは7だい将軍しょうぐん足利あしかが義勝よしかつと8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ兄弟きょうだい生母せいぼとなった[15]

しかしきょうであった有光ありみつ義持よしもち義教よしのり対立たいりつして失脚しっきゃくし、あといだおとうといえしゅうえいとおる4ねん(1432ねん)にもうけないままぼっした。このため日野ひの家督かとく日野ひの庶流の広橋ひろはしけんさとはるりゅうまるぐこととなったが[16]、まもなくぼっしたためけんさと日野ひのけんさと名乗なのって日野ひの宗家そうけぐこととなった[17]

えいとおる6ねん(1434ねん)には義教よしのり不興ふきょうったうらまつよし殺害さつがいされた[14]。また、一旦いったん赦免しゃめんされていた有光ありみつふたた所領しょりょう没収ぼっしゅうされている[18]

日野ひの富子とみこ登場とうじょう

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足利あしかが義教よしのり嘉吉よしきちらん殺害さつがいされた嘉吉よしきち元年がんねん(1441ねん)10がつまご勝光かつみつ元服げんぷくして日野ひの宗家そうけ相続そうぞくし、けんさと広橋ひろはしもどった[17]一方いっぽう進退しんたいきわまった有光ありみつは、嘉吉よしきち3ねん(1443ねん)9がつこう南朝なんちょうみこと秀王ひでおとも朝廷ちょうてい襲撃しゅうげきして神璽しんじ宝剣ほうけん奪取だっしゅし、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじもったが、結局けっきょく幕府ばくふぐん延暦寺えんりゃくじ僧徒そうところされ、その日野ひのおやろくじょう河原かわはら斬首ざんしゅされた[18]


康正こうせい元年がんねん(1455ねん)、足利あしかが義政よしまさ生母せいぼ日野ひの重子しげこ協力きょうりょくで、勝光かつみついもうとである日野ひの富子とみこ義政よしまさしつれたことで日野ひの権勢けんせい復活ふっかつさせることに成功せいこうする[14]勝光かつみつ将軍しょうぐん義兄ぎけいとして幕政ばくせい介入かいにゅうして権勢けんせいをふるい、官位かんい日野ひの当主とうしゅとしては異例いれいしたがえいち左大臣さだいじんまでのぼった。その権勢けんせいからおし大臣だいじんしょうされた[19]

富子とみこひろしせい6ねん(1465ねん)に実子じっし足利あしかが義尚よしなおもうけると、それまで義政よしまさ後継こうけいしゃせられていた義政よしまさおとうと足利あしかが義視よしみはらうため山名やまな宗全そうぜん結託けったくし、細川ほそかわ勝元かつもと結託けったくした義視よしみあらそって応仁おうにんらんこした[20]

文明ぶんめい5ねん(1473ねん)に息子むすこ義尚よしなおが9だい将軍しょうぐん就任しゅうにんしたのち富子とみこおっと義政よしまさ政治せいじきらって隠遁いんとん生活せいかつおくったのと対照たいしょうてき政治せいじふか関与かんよするようになり、とくに1476ねん文明ぶんめい8ねん)にあに勝光かつみつ死去しきょしたのちには幕政ばくせいいち掌握しょうあくする立場たちばとなった[20]文明ぶんめい12ねん(1480ねん)に富子とみこあに勝光かつみつむすめさちくもいん息子むすこ義尚よしなお正室せいしつにさせたが、義尚よしなおはこのつまこのまず男子だんしができなかった[21]

権勢けんせいをふるう富子とみこ関所せきしょ設置せっちによるせきぜに徴収ちょうしゅうべい投機とうきてき売買ばいばい高利貸こうりかしなどによって私腹しふくやし、「天下てんか料足りょうそく(おかね)はみな富子とみこのもとにあつまる」としょうされた[20]文明ぶんめい10ねん(1478ねん)には内裏だいり修理しゅうりりょう名目めいもく京都きょうとななくちせき設置せっちしてせきぜに徴収ちょうしゅうするようになり、一時いちじはいされるも文明ぶんめい12ねん(1480ねん)にさい設置せっちさせた。その収益しゅうえきはすべて富子とみこにより着服ちゃくふくされていたため、反発はんぱつひろがり、1480ねん文明ぶんめい12ねん)にはせきちこわしの一揆いっき発生はっせいしている[20][22]

延徳えんとく元年がんねん(1489ねん)に男子だんしのない義尚よしなお死去しきょしたのちには富子とみこ義視よしみ息子むすこざい義稙よしたねを10代将軍しょうぐんけることを余儀よぎなくされ、幕政ばくせい実権じっけん細川ほそかわまさしもと掌握しょうあくするところとなり、富子とみこ権勢けんせいおとろえたが[20]あきらおう2ねん(1493ねん)にはせいもとはかってざい将軍しょうぐんからはらい、堀越ほりこし公方くぼういえ義澄よしずみ後継こうけいの11だい将軍しょうぐん擁立ようりつし、富子とみこおとうと日野ひのえいしゅんむすめおもねをその正室せいしつむかえさせた[23]。しかし実権じっけんせいもとにぎつづ[24]権勢けんせいとしていく富子とみこあかりおう元年がんねん(1496ねん)に死去しきょした[20]

戦国せんごく時代じだい江戸えど時代じだい

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応仁おうにんらんには足利あしかが将軍家しょうぐんけ室町むろまち幕府ばくふ自体じたい衰退すいたい一途いっとをたどり、日野ひの家運かうん衰退すいたいする。勝光かつみつせいあと徳大寺とくだいじ実淳さねあつ次男じなん日野ひの内光うちみつまましいだが、だいなが7ねん(1527ねん)に足利あしかが義晴よしはるかた細川ほそかわだかこく武田たけだもとひかりらと、柳本やなぎもと賢治けんじ三好みよし元長もとなが政長まさながらがかつら川原かわらたたか激突げきとつしたさい敗北はいぼくするこうこくがわ参戦さんせんしたため敗走はいそうちゅう戦死せんしした[25]

内光うちみつ息子むすこけん大納言だいなごん日野ひの晴光はるみつ周防すおうこく守護しゅご大内おおうちたよって周防すおう山口やまぐち下向げこうした[6]

広橋ひろはし国光くにみつはれひかり養子ようしとしてあといだてるせいけん大納言だいなごんまでのぼったが、慶長けいちょう7ねん(1602ねん)に息子むすこしょうとともに出仕しゅっしめられ、慶長けいちょう12ねん(1607ねん)に出家しゅっけして唯心ゆいしんいんごうしたが、徳川とくがわ家康いえやす知遇ちぐうてしばしば駿府すんぷ下向げこうしてはその諮問しもんあずかっていた[26]

江戸えど後期こうき日野ひのあいひら堂上どうじょうとしては最高さいこうしたがえいちじゅん大臣だいじんまでのぼっている[27]

江戸えど時代じだい日野ひのいえろくは、名家めいかとしては破格はかくの1,034せきだった[ちゅう 1]家臣かしんとしてざつてのひら山中さんちゅうつじ吉田よしだがあった[6]

明治めいじ以降いこう

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明治維新めいじいしんどき当主とうしゅむね文化ぶんか12ねん5がつ19にちせい明治めいじ12ねん8がつ25にちぼつ[28]

明治めいじ2ねん(1869ねん)6がつ17にち行政ぎょうせいかんたち公家くげ大名だいみょういえ統合とうごうされて華族かぞく制度せいど誕生たんじょうすると、日野ひのきゅう公家くげとして華族かぞくれつした[29][30]明治めいじ3ねん(1870ねん)12月にむね隠居いんきょし、長男ちょうなんとうと文久ぶんきゅう元年がんねん6がつ10にちせい大正たいしょう10ねん12月11にちぼつ)が家督かとく相続そうぞく[28]

明治めいじ3ねん12がつ10日とおかさだめられたいえろくは、げんべいで618せき5[31][ちゅう 2]明治めいじ9ねん8がつ5にちかねろく公債こうさい証書しょうしょ発行はっこう条例じょうれいもとづきろくえに支給しきゅうされたきむろく公債こうさいがくは2まん1675えん30ぜに4りん華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう215[33]当時とうじとうと住居じゅうきょ京都きょうと愛宕あたごぐんだいよんくみ小山おやまむら[34]当時とうじ家令かれい近藤こんどうしん輔、家扶かふ松田まつだたもつ宮田みやたけん[34]

とうと明治めいじ16ねん10がつ隠居いんきょし、むね次女じじょ甲斐がい結婚けっこんしてとうと養子ようし柳原やなぎはらひかりあい五男いつお)となっていたしゅう文久ぶんきゅう3ねん5がつ19にちせい明治めいじ36ねん11月24にちぼつ)に家督かとくゆずった[28]

明治めいじ17ねん(1884ねん)7がつ7にち華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になると大納言だいなごんせんにんれいおおきゅう堂上どうじょう[ちゅう 3]としてしゅう伯爵はくしゃくさづけられた[1]

初代しょだい伯爵はくしゃくしゅう東宮とうぐう侍従じじゅうつとめた[36]しゅう死後しご伯爵はくしゃくいだけん明治めいじ36ねん11月29にちせい大正たいしょう14ねん2がつ20にちぼつ)がわかくしてんだあと、しゅうむすめ結婚けっこんしていた大正たいしょうから昭和しょうわのドイツ文学ぶんがくしゃ[37]日野ひの捷郎はやお海軍かいぐん軍医ぐんい中将ちゅうじょう実吉さねよしあんじゅん子爵ししゃくろくなん)が3だい伯爵はくしゃくいだが、昭和しょうわ6ねん(1931ねん)につま離婚りこんしたため実吉さねよしせいもどって息子むすこ日野ひのじゅん大正たいしょう15ねん1がつ1にちせい)に伯爵はくしゃくゆずった[36]

じゅんだい昭和しょうわ前期ぜんき日野ひの伯爵はくしゃく邸宅ていたく神奈川かながわけん大磯おおいそまち堀之内ほりのうちにあった[36]平成へいせい前期ぜんき当主とうしゅかれであり、当時とうじ住居じゅうきょ静岡しずおかけん静岡しずおか北安東きたあんどう[28]じゅん長男ちょうなんなり昭和しょうわ29ねん4がつ11にちせい)がある[28]

歴代れきだい当主とうしゅ

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藤原ふじわらきた真夏まなつりゅう

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代数だいすう 肖像しょうぞう 名前なまえ
(なま没年ぼつねん)
続柄つづきがら 位階いかい 備考びこう
1 藤原ふじわら真夏まなつ
(774ねん-830ねん)
藤原ふじわらない麻呂まろ長男ちょうなん したがえさん 参議さんぎ
2 藤原ふじわら濱雄はまお
(826ねん-840ねん)
先代せんだい三男さんなん したがえ
3 藤原ふじわらむね
(817ねん-877ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえさん 参議さんぎ
4 藤原ふじわらひろしかげ
(しょう-904ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえじょう
5 藤原ふじわらしげるとき
(しょう-943ねん)
先代せんだい長男ちょうなん せい
6 藤原ふじわら輔道
(なま没年ぼつねんしょう)
先代せんだい長男ちょうなん せい
7 藤原ふじわらゆうこく
(943ねん-1011ねん)
先代せんだいよんなん したがえ 参議さんぎ

日野ひの

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代数だいすう 肖像しょうぞう 名前なまえ
(なま没年ぼつねん)
続柄つづきがら 位階いかい 備考びこう
8 日野ひのぎょう
(988ねん-1070ねん)
藤原ふじわらゆうこくなななん したがえさん
9 日野ひのみのるつな
(しょう-1082ねん)
先代せんだい次男じなん せいよん
10 日野ひの有信ありのぶ
(1040ねん-1090ねん)
先代せんだい三男さんなん したがえよん
11 日野ひのみのるこう
(1069ねん-1147ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえ けん中納言ちゅうなごん
12 日野ひの資長すけなが
(1119ねん-1195ねん)
先代せんだい次男じなん せい けん中納言ちゅうなごん
13 日野ひの兼光かねみつ
(1145ねん-1196ねん)
先代せんだい次男じなん したがえ けん中納言ちゅうなごん
14 日野ひの
(1162ねん-1223ねん)
先代せんだい次男じなん せい けん中納言ちゅうなごん
15 日野ひの家光いえみつ
(1199ねん-1237ねん)
先代せんだい次男じなん したがえ けん中納言ちゅうなごん
16 日野ひのせん
(1224ねん-1292ねん)
先代せんだい次男じなん せい けん中納言ちゅうなごん
17 日野ひの俊光としみつ
(1260ねん-1326ねん)
先代せんだい せい けん大納言だいなごん
18 日野ひのめい
(1286ねん-1338ねん)
先代せんだい長男ちょうなん せい けん大納言だいなごん
19 日野ひのひかり
(1328ねん-1367ねん)
先代せんだい せいさん けん大納言だいなごん
20 日野ひのきょう
(1356ねん-1428ねん)
先代せんだい したがえいち じゅん大臣だいじん(1425ねん-1428ねん)
21 日野ひの有光ありみつ
(1387ねん-1443ねん)
先代せんだい したがえいち けん大納言だいなごん
いん執権しっけん
こう南朝なんちょう三種さんしゅ神器じんぎ奪取だっしゅ
比叡山ひえいざん戦死せんし
22 日野ひのしゅう
(1401ねん-1432ねん)
先代せんだいおとうと
(20だいきょう)
したがえさん けん大納言だいなごんはつめい秀光ひでみつ
23 日野ひのはるりゅうまる
(1425ねん-1432ねん)
広橋ひろはしけんさと
- 日野ひのけんさと
(1401ねん-1446ねん)
広橋ひろはしけんせんはるりゅうまるちち したがえ けん中納言ちゅうなごん
24 日野ひの勝光かつみつ
(1429ねん-1476ねん)
うらまつよし したがえいち 左大臣さだいじん(1476ねん5がつ-6がつ)
いん執権しっけん
日野ひの富子とみこあに
25 日野ひのまさし
(1469ねん-1495ねん)
先代せんだい せいさん けん中納言ちゅうなごん
26 日野ひの内光うちみつ
(1489ねん-1527ねん)
先代せんだい養子ようし
(徳大寺とくだいじ実淳さねあつ)
せいさん
追贈ついぞうしたがえいち
けん中納言ちゅうなごん追贈ついぞう左大臣さだいじん
かつら川原かわらたたか戦死せんし
27 日野ひの晴光はるみつ
(1518ねん-1555ねん)
先代せんだい せい けん大納言だいなごん
28 日野ひのあきら
(1555ねん-1623ねん)
先代せんだい養子ようし
(広橋ひろはし国光くにみつ)
せい けん大納言だいなごん
29 日野ひのしょう
(1577ねん-1639ねん)
先代せんだい せい けん大納言だいなごん
30 日野ひのひかりけい
(1591ねん-1630ねん)
先代せんだい したがえ けん中納言ちゅうなごん
31 日野ひのひろし
(1617ねん-1687ねん)
先代せんだい せい けん大納言だいなごん
32 日野ひのしげる
(1650ねん-1687ねん)
先代せんだい したがえ けん中納言ちゅうなごん
33 日野ひの輝光てるみつ
(1670ねん-1717ねん)
先代せんだい したがえ けん大納言だいなごん
34 日野ひのひさし
(1694ねん-1712ねん)
先代せんだい せい みぎしょうべん
35 日野ひの
(1690ねん-1742ねん)
先代せんだい養子ようし
(豊岡とよおか弘昌ひろまさ)
したがえいち けん大納言だいなごん
36 日野ひのえだ
(1737ねん-1801ねん)
先代せんだい養子ようし
(烏丸からすま光栄みつえ)
したがえいち けん大納言だいなごん
37 日野ひののり
(1756ねん-1830ねん)
先代せんだい したがえいち けん大納言だいなごん
38 日野ひのあい
(1780ねん-1846ねん)
先代せんだい したがえいち じゅん大臣だいじん(1845ねん-1846ねん)
39 日野ひのむね
(1815ねん-1878ねん)
先代せんだい養子ようし
(広橋ひろはしたねじょう)
せい けん大納言だいなごん
40 日野ひのとうと
(1861ねん-1921ねん)
先代せんだい
41 日野ひのしゅう
(1863ねん-1903ねん)
39だいむね養子ようし
(柳原やなぎはらひかりあい)
せいさん 伯爵はくしゃく
みや内省ないせい官僚かんりょう
貴族きぞくいん議員ぎいん(1900ねん-1903ねん)
42 日野ひのけん
(1903ねん-1925ねん)
先代せんだい 伯爵はくしゃく
43 日野ひの捷郎はやお
(1895ねん-1962ねん)
41だいしゅう婿養子むこようし
(実吉さねよしあんじゅん)
伯爵はくしゃく
ドイツ文学ぶんがくしゃ
つま離縁りえん実吉さねよし復姓ふくせい
44 日野ひのじゅん
(1926ねん-2019ねん)
先代せんだい 伯爵はくしゃく
国語こくご学者がくしゃ

系図けいず

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実線じっせん実子じっし点線てんせんたて)は養子ようし点線てんせんよこ)は婚姻こんいん関係かんけい

分家ぶんけ

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おな藤原ふじわらきた真夏まなつりゅう堂上どうじょうには、広橋ひろはし柳原やなぎはら烏丸からすま竹屋たけや日野西ひのにし勘解由小路かげゆこうじうらまつ外山とやま豊岡とよおかさんしつ北小路きたこうじの12いえがある。また親鸞しんらん末裔まつえいである本願寺ほんがんじ門主もんしゅ大谷おおやは、堂上どうじょうではないが、繁栄はんえいする教団きょうだん政治せいじりょく財力ざいりょく背景はいけいにして堂上どうじょう同格どうかくじゅん門跡もんぜき格式かくしき獲得かくとくした。

江戸前えどまえ旗本はたもと花房はなふさ正栄しょうえい息子むすこで、外祖父がいそふにあたる日野ひのあきら養子ようしはいった日野ひのさかえ日野ひのから分家ぶんけして江戸えど幕府ばくふ高家こうか旗本はたもととなり、1533せきあまり知行ちぎょうした。王政おうせい復古ふっこ慶応けいおう4ねん(1868ねん)3がつには江戸えどはらって上京じょうきょうし、同年どうねん4がつしん政府せいふ勤王きんのう誓詞せいし提出ていしゅつ。これにより本領ほんりょう安堵あんどされて朝臣あそんれつしてきゅうこうとしてちゅう大夫たいふせきれっせられた。明治めいじ2ねん(1869ねん)にちゅう大夫たいふ以下いかしょうはいされると士族しぞく編入へんにゅうされた。華族かぞくれい華族かぞく爵制になったさいさだめられた『叙爵じょしゃく内規ないき』のまえあんである『華族かぞくれいあんや『叙爵じょしゃく規則きそくあん(『爵位しゃくい発行はっこう順序じゅんじょ所収しょしゅう)では元高もとだか男爵だんしゃくふくまれており、きゅう高家こうか日野ひの男爵だんしゃく候補こうほとしてげられていたものの、最終さいしゅうてきな『叙爵じょしゃく内規ないき』では元高もとだか対象たいしょうがいとなったため結局けっきょく同家どうけ士族しぞくのままだった[38]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんの『きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース』によれば幕末ばくまつ日野ひのりょうは、山城やましろこく愛宕あたごぐん田中たなかむらのうち40せき52しょう6ごう山城やましろこく葛野かずらのぐん下津林しもつばやしむらのうち253せき山城やましろこく葛野かずらのぐん東梅とうばいむらのうち219せき37しょう3ごう山城やましろこく葛野かずらのぐん西にし梅津うめづむらのうち78せき72しょう7ごう山城やましろこく紀伊きいぐん吉祥院きっしょういんむらのうち304せき摂津せっつこく島上しまがみぐん大塚おおつかむらのうち12せき13しょう摂津せっつこく島上しまがみぐん磯島いそじまむらのうち243せき21しょう7ごうであり、合計ごうけい7むら、1,150せき97しょう3ごう
  2. ^ 明治めいじ3ねん12がつ10日とおかさだめられた堂上どうじょう華族かぞくいえろく計算けいさん方法ほうほうは、ほんろくまいぶんたまものまいぽうりょうまい救助きゅうじょまい臨時りんじ給与きゅうよ合算がっさんして現高げんだかし、げんべいくさだか比率ひりつであるよんぶつなり計算けいさんしてくさだか算出さんしゅつし、そのわりふんいえろくとするものである[32]
  3. ^ 日野ひの大納言だいなごんちょくにん中納言ちゅうなごんからそのまま大納言だいなごんになることをちょくにんといい、じきまかされるいえ中納言ちゅうなごん一度いちどしてから大納言だいなごんになるいえよりかくじょうなされていた)の回数かいすうは15かいなので叙爵じょしゃく内規ないき伯爵はくしゃく基準きじゅんである「大納言だいなごんまでせんにんれいおおきゅう堂上どうじょう」に該当がいとう[35]
  4. ^ 藤原ふじわらひさしはん養子ようし一説いっせつには藤原ふじわら良仁よしひと7せいまごである斎宮いつき次官じかん藤原ふじわら利永としながとも。
  5. ^ 藤原ふじわらみのるこう末子まっし
  6. ^ 三善さんぜんためきょう
  7. ^ 広橋ひろはしけんさと
  8. ^ 徳大寺とくだいじ実淳さねあつ次男じなんはじめは将軍しょうぐん足利あしかが義高よしたか義澄よしずみへんいみなたまわって高光たかみつきよしこう名乗なのっていた。
  9. ^ 広橋ひろはし国光くにみつ
  10. ^ 旗本はたもと寄合よりあいせき5,000せき花房はなふさ正成まさしげ
  11. ^ 安芸あきこく広島ひろしまはん浅野あさの家老がろう上田うえだ重次しげつぐ
  12. ^ 冷泉れいせんためつな次男じなん
  13. ^ 婿養子むこようし高家こうか旗本はたもと畠山はたけやま義紀よしのり次男じなん
  14. ^ a b 烏丸からすま光栄みつえ
  15. ^ 丹波たんば篠山しのやま藩主はんしゅ青山あおやま忠裕ただみち
  16. ^ 広橋ひろはしたねじょうなななん
  17. ^ 柳原やなぎはらひかりあいなん
  18. ^ 実吉さねよしあんじゅんろくなん

出典しゅってん

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  2. ^ 太田おおた 1934, p. 5031.
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  10. ^ 吉見よしみ 1994, p. 52-54.
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参考さんこう文献ぶんけん

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