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大元 おおもと
大元 おおもと (中国 ちゅうごく 語 ご ) ᠳᠠᠢ ᠦᠨ ᠶᠡᠬᠡ ᠮᠣᠩᠭᠣᠯ ᠤᠯᠤᠰ
元 もと の版図 はんと 疆域1372萬 まん 平方 ひらかた 公里 くり (1294年 ねん )
公用 こうよう 語 ご
古 こ 官話 かんわ (パスパ文字 もじ で書 か かれる)、モンゴル語 ご (公文書 こうぶんしょ )ウイグル語 ご 、女 おんな 真 しん 語 ご 、契 ちぎり 丹 に 語 ご など
首都 しゅと
大 だい 都 と
皇帝 こうてい (大 だい ハーン )
宰相 さいしょう
1264年 ねん - 1282年 ねん アフマド
1340年 ねん - 1355年 ねん トクト
面積 めんせき
1310年 ねん 11,000,000km²
1330年 ねん 13,720,000km²
人口 じんこう
1290年 ねん 58,834,711人 にん
1293年 ねん 79,816,000人 にん
1330年 ねん 73,873,000人 にん
1350年 ねん 87,147,000人 にん
変遷 へんせん
通貨 つうか 交鈔 など
現在 げんざい モンゴル 中国 ちゅうごく ロシア 韓国 かんこく 北朝鮮 きたちょうせん ミャンマー
北 きた 走 はし 後 ご も北元 きたもと のクビライ家 か 皇統 こうとう は1388年 ねん まで存続 そんぞく 。モンゴル・ハン国 こく は1635年 ねん まで存続 そんぞく した。
元 もと (げん)は中東 ちゅうとう アジアから東 ひがし ヨーロッパ まで広大 こうだい な領域 りょういき にまたがったモンゴル帝国 ていこく の後裔 こうえい の一 いち 国 こく であり、そのうち中国 ちゅうごく 本土 ほんど とモンゴル高原 こうげん を中心 ちゅうしん 領域 りょういき としたモンゴル民族 みんぞく による征服 せいふく 王朝 おうちょう 。モンゴル帝国 ていこく 皇帝 こうてい の直轄 ちょっかつ 地 ち として1271年 ねん から1368年 ねん まで東 ひがし アジア と北 きた アジア を支配 しはい した。
正式 せいしき な国号 こくごう は、大元 おおもと (だいげん)で、それまでの中華 ちゅうか 王朝 おうちょう のような封土 ほうど の名称 めいしょう にちなんだ国号 こくごう とは異 こと なり、易 えき 経 けい の「大 だい 哉乾元 もと (大 おお いなるかな乾 いぬい 元 はじめ )」からとった抽象 ちゅうしょう 的 てき な名称 めいしょう である。
元朝 がんちょう (げんちょう)、元 もと 国 くに (げんこく)、大 だい 元 もと 帝国 ていこく (だいげんていこく)、元 もと 王朝 おうちょう (げんおうちょう)、大 だい モンゴル国 こく (だいもんごるこく)とも呼 よ ぶ。
建国 けんこく したモンゴル人 じん の氏族 しぞく (キヤト氏 し ・ボルジギン氏 し )から、国 くに 姓 せい は「奇 き 渥温」である。
伝統 でんとう 的 てき に「中国 ちゅうごく を征服 せいふく したモンゴル帝国 ていこく が南北 なんぼく に分裂 ぶんれつ した内紛 ないふん を経 へ て、正統 せいとう な中華 ちゅうか 帝国 ていこく になった国 くに 」とされていたが、「元 もと は中国 ちゅうごく では無 な く、大 だい 元 もと ウルス と呼 よ ばれるモンゴル遊牧民 ゆうぼくみん の国 くに 」とするものなど様々 さまざま な意見 いけん がある[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。
中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう としての元 もと は唐 とう 崩壊 ほうかい (907年 ねん )以来 いらい の中国 ちゅうごく 統一 とういつ 王朝 おうちょう であり、大 だい 都 と (現在 げんざい の北京 ぺきん )から中国 ちゅうごく とその冊 さつ 封 ふう 国 こく やモンゴル帝国 ていこく 全体 ぜんたい を支配 しはい したが、明 あきら (1368年 ねん - 1644年 ねん )に追 お われて北元 きたもと になってからはモンゴル高原 こうげん まで支配 しはい 領域 りょういき を縮小 しゅくしょう した。
中国 ちゅうごく の歴史 れきし には複数 ふくすう の征服 せいふく 王朝 おうちょう (遼 りょう ・金 きむ ・清 きよし など)があったが、元 もと は政治 せいじ 制度 せいど ・民族 みんぞく 運営 うんえい において中国 ちゅうごく 漢人 かんど の伝統 でんとう 体制 たいせい に同化 どうか されず、モンゴル帝国 ていこく から受 う け継 つ がれた遊牧 ゆうぼく 国家 こっか の特徴 とくちょう を保 たも ったまま統治 とうち し続 つづ けたのが特徴 とくちょう 的 てき であった。一方 いっぽう 、後述 こうじゅつ するように行政 ぎょうせい 制度 せいど や経済 けいざい 運営 うんえい では南 みなみ 宋 そう の仕組 しく みをほぼそのまま継承 けいしょう した。
元 もと は、1260年 ねん 、チンギス・ハン の孫 まご でモンゴル帝国 ていこく の第 だい 5代 だい 皇帝 こうてい に即位 そくい したクビライ (フビライ)が1271年 ねん にモンゴル帝国 ていこく の国号 こくごう を大元 おおもと と改 あらた めたことにより成立 せいりつ し、モンゴル語 ご ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス ( 、ロ ろ ーマ字 まじ 表記 ひょうき :Dai-ön Yeke Mongγ がんま ol Ulus ) すなわち「大元 おおもと 大 だい モンゴル国 こく 」と称 しょう した[ 1] 。これは、従来 じゅうらい のモンゴル帝国 ていこく の国号 こくごう 「イェケ・モンゴル・ウルス」(直訳 ちょくやく すれば「大 だい モンゴル国 こく 」)を改称 かいしょう したものと解 ほぐ せるから、元 もと とはすなわちクビライ以降 いこう のモンゴル帝国 ていこく の皇帝 こうてい 政権 せいけん のことである。国号 こくごう である「大元 おおもと 」はこの二 に 字 じ で一体 いったい の名称 めいしょう であると考 かんが えられているが[ 注釈 ちゅうしゃく 2] [ 5] 、中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう 史 し において唐 とう や宋 そう など王朝 おうちょう の正式 せいしき の号 ごう を一 いち 字 じ で呼 よ ぶ原則 げんそく に倣 なら い、このクビライ家 か の王朝 おうちょう も単 たん に「元 もと 」と略称 りゃくしょう されるのが慣例 かんれい である。中国 ちゅうごく 史 し の観念 かんねん では「元朝 がんちょう 」とはクビライから遡 さかのぼ って改称 かいしょう 以前 いぜん のチンギス・カンに始 はじ まる王朝 おうちょう であるとされ、「元 もと 」とはモンゴル帝国 ていこく の中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう としての名称 めいしょう ととらえられることも多 おお い[ 5] 。
王朝 おうちょう 史 し 的 てき にみると、クビライは兄弟 きょうだい のアリクブケ と帝位 ていい を争 あらそ って帝国 ていこく が南北 なんぼく に分 わ かれて内戦 ないせん に陥 おちい ったあと、これを武力 ぶりょく によって打倒 だとう して単独 たんどく の帝位 ていい を獲得 かくとく した。
それまでクリルタイ による全会 ぜんかい 一致 いっち をもって選出 せんしゅつ されていたモンゴル皇帝 こうてい 位 い 継承 けいしょう の慣例 かんれい が破 やぶ られ、モンゴル帝国 ていこく 内部 ないぶ の不和 ふわ ・対立 たいりつ が、互 たが いに武力 ぶりょく に訴 うった える形 かたち で顕在 けんざい 化 か することになった[ 6] 。特 とく に中央 ちゅうおう アジア では、大元 おおもと の国号 こくごう が採用 さいよう された前後 ぜんご にオゴデイ家 か のカイドゥ がクビライの宗主 そうしゅ 権 けん を認 みと めず、チャガタイ家 か の一部 いちぶ などのモンゴル王族 おうぞく たちを味方 みかた につけてイリ からアムダリヤ川 がわ 方面 ほうめん までを接収 せっしゅう し、『集 しゅう 史 し 』をはじめペルシア語 ご の歴史 れきし 書 しょ などでは当時 とうじ 「カイドゥの王国 おうこく 」(mamlakat-i Qāīdū'ī)と呼 よ ばれたような自立 じりつ した勢力 せいりょく を成 な した[ 7] 。この勢力 せいりょく を鎮圧 ちんあつ するため、クビライは大軍 たいぐん を幾 いく 度 ど か派遣 はけん したが、派遣 はけん 軍 ぐん 自体 じたい が離叛 りはん する事件 じけん がしばしば起 お きた。この混乱 こんらん は西方 せいほう のジョチ・ウルス やフレグ 家 いえ のイルハン朝 あさ といった帝国 ていこく 内 ない の諸 しょ 王家 おうけ の政権 せいけん を巻 ま き込 こ み、クビライの死後 しご 1301年 ねん にカイドゥが戦死 せんし するまで続 つづ いた。こうしてモンゴル皇帝 こうてい のモンゴル帝国 ていこく 全体 ぜんたい に対 たい する統率 とうそつ 力 りょく は減退 げんたい し、これ以降 いこう のモンゴル帝国 ていこく は、各地 かくち に分立 ぶんりつ した諸王 しょおう 家 か の政権 せいけん がモンゴル皇帝 こうてい の宗主 そうしゅ 権 けん を仰 あお ぎながら緩 ゆる やかな連合体 れんごうたい を成 な す形 かたち に変質 へんしつ した。
こうして大元 おおもと は、連合体 れんごうたい としてのモンゴル帝国 ていこく のうち、モンゴル皇帝 こうてい の軍事 ぐんじ 的 てき 基盤 きばん であるモンゴル高原 こうげん 本国 ほんごく と経済 けいざい 的 てき 基盤 きばん である中国 ちゅうごく を結 むす びつけた領域 りょういき を主 しゅ として支配 しはい する、皇帝 こうてい 家 か たるクビライ家 か の世襲 せしゅう 領 りょう (ウルス)となった[ 8] 。
一方 いっぽう 、中国 ちゅうごく 史 し 的 てき にみると、北 きた 宋 そう 以来 いらい 、数 すう 百 ひゃく 年 ねん 振 ふ りに南北 なんぼく を統一 とういつ する巨大 きょだい 政権 せいけん が成立 せいりつ したため、遼 りょう (契 ちぎり 丹 に )や金 きむ の統治 とうち を受 う けた北 きた 中国 ちゅうごく と、南 みなみ 宋 そう の統治 とうち を受 う けてきた南中 なんちゅう 国 こく が統合 とうごう された。チンギス・カン時代 じだい に金 かね を征服 せいふく して華北 かほく を領土 りょうど として以来 いらい 、各地 かくち の農耕 のうこう 地 ち や鉱山 こうざん などを接収 せっしゅう 、対 たい 金 かね 戦 せん で生 しょう じた荒廃 こうはい した広大 こうだい な荒蕪 こうぶ 地 ち では捕獲 ほかく した奴隷 どれい を使 つか って屯田 とんでん を行 おこな った。また大 だい 元 もと 時代 じだい に入 はい る前後 ぜんご に獲得 かくとく された雲南 うんなん では、農耕 のうこう 地 ち や鉱山 こうざん の開発 かいはつ が行 おこな われている。首都 しゅと への物資 ぶっし の回漕 かいそう に海運 かいうん を用 もち い始 はじ めた事 こと は、民 みん の重 おも い負担 ふたん を軽減 けいげん した良法 りょうほう として評価 ひょうか される。
様々 さまざま な宗教 しゅうきょう の流入 りゅうにゅう と政権 せいけん 有力 ゆうりょく 者 しゃ との結 むす びつきも深 ふか まった。もともとモンゴル帝国 ていこく は、傘下 さんか に天山 あまやま ウイグル王国 おうこく やケレイト 王国 おうこく 、オングト王国 おうこく などのテュルク 系 けい やホラーサーン やマー・ワラー・アンナフル などのイラン系 けい のムスリム たちを吸収 きゅうしゅう しながら形成 けいせい されていった政権 せいけん であるため、これらの政権 せいけん 内外 ないがい で活躍 かつやく していた人々 ひとびと は、モンゴル帝国 ていこく に組 く み込 こ まれた中国 ちゅうごく の諸 しょ 地域 ちいき に流入 りゅうにゅう し、西方 せいほう からウイグル 系 けい やチベット 系 けい の仏教 ぶっきょう 文化 ぶんか やケレイト 部族 ぶぞく やオングト部族 ぶぞく などが信仰 しんこう していたネストリウス派 は などのキリスト教 きりすときょう 、イラン系 けい のイスラーム の文化 ぶんか などもまた、首都 しゅと の大 だい 都 と や泉州 せんしゅう など各地 かくち に形成 けいせい されたそれぞれのコミュニティーを中核 ちゅうかく に大量 たいりょう に流入 りゅうにゅう した[ 9] 。モンゴル政権 せいけん では、モンゴル王侯 おうこう が自 みずか ら信奉 しんぽう する宗教 しゅうきょう 諸 しょ 勢力 せいりょく への多大 ただい な寄進 きしん を行 おこな っており、仏教 ぶっきょう や道教 どうきょう 、孔子 こうし 廟 びょう などの儒教 じゅきょう など中国 ちゅうごく 各地 かくち の宗教 しゅうきょう 施設 しせつ の建立 こんりゅう 、また寄進 きしん などに関 かか わる碑文 ひぶん の建碑 けんぴ が行 おこな われた。モンゴル王侯 おうこう や特権 とっけん に依拠 いきょ する商売 しょうばい で巨利 きょり を得 え た政商 せいしょう は、各地 かくち の宗教 しゅうきょう 施設 しせつ に多大 ただい な寄進 きしん を行 おこな い、経典 きょうてん の編集 へんしゅう や再版 さいはん 刻 こく など文化 ぶんか 事業 じぎょう に資金 しきん を投入 とうにゅう した。大 だい 元朝 がんちょう 時代 じだい も金代 かなだい や宋 そう 代 だい に形成 けいせい された経典 きょうてん 学 がく 研究 けんきゅう が継続 けいぞく し、それらに基 もと づいた類書 るいしょ などが大量 たいりょう に出版 しゅっぱん された[ 10] 。南 みなみ 宋 そう 末期 まっき から大 だい 元朝 がんちょう 初期 しょき の『事 こと 林 はやし 広 ひろ 記 き 』や大 だい 元朝 がんちょう 末期 まっき 『南村 なんそん 輟耕録 ろく 』などがこれにあたる。朱子学 しゅしがく の研究 けんきゅう も集成 しゅうせい され、当時 とうじ の「漢人 かんど 」と呼 よ ばれた漢字 かんじ 文化 ぶんか を母体 ぼたい とする人々 ひとびと は、金代 かなだい などからの伝統 でんとう として道教 どうきょう ・仏教 ぶっきょう ・儒教 じゅきょう の三 さん 道 みち に通暁 つうぎょう することが必須 ひっす とされるようになった。鎌倉 かまくら 時代 ときよ 後期 こうき に大 だい 元朝 がんちょう から国 くに 使 し として日本 にっぽん へ派遣 はけん された仏 ふつ 僧 そう 一 いち 山一 やまいち 寧 やすし もこれらの学 がく 統 みつる に属 ぞく する[ 11] 。14世紀 せいき 末 まつ の農民 のうみん 反乱 はんらん によって中国 ちゅうごく には明朝 みょうちょう が成立 せいりつ し、大 だい 元朝 がんちょう のモンゴル勢力 せいりょく はゴビ砂漠 ごびさばく 以南 いなん を放棄 ほうき して北方 ほっぽう へ追 お われた(北元 きたもと )が、明朝 みょうちょう の始祖 しそ 洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど (朱 しゅ 元 もと 璋 あきら )や紅 べに 巾 はば の乱 らん を引 ひ き起 お こした白蓮 びゃくれん 教 きょう 団 だん がモンゴル王族 おうぞく などの後援 こうえん する仏教 ぶっきょう 教団 きょうだん を母体 ぼたい としているなど影響 えいきょう を受 う けていたことが近年 きんねん 指摘 してき されている[ 11] 。
クビライ登 とう 位 い 以前 いぜん についてはモンゴル帝国 ていこく を参照 さんしょう 。
『大元 おおもと 聖 せい 政 せい 国 こく 朝 あさ 典章 てんしょう 』に記 しる されたクビライ・ハーンの即位 そくい の詔勅 しょうちょく (1260年 ねん )
1259年 ねん 、第 だい 4代 だい 皇帝 こうてい モンケ が南 みなみ 宋 そう 遠征 えんせい 中 ちゅう に病死 びょうし したとき、モンゴル高原 こうげん にある当時 とうじ の首都 しゅと カラコルム の留守 るす を預 あず かっていた末弟 ばってい アリクブケ は、モンケ派 は の王族 おうぞく を集 あつ めてクリルタイ を開 ひら き、西部 せいぶ のチャガタイ家 か ら諸王 しょおう の支持 しじ を取 と り付 つ けて皇帝 こうてい 位 い に即 そく こうとしていた。これに対 たい し、モンケと共 とも に南 みなみ 宋 そう へ遠征 えんせい を行 おこな っていた次 じ 弟 おとうと クビライは、閏 うるう 11月 がつ に軍 ぐん を引 ひ き上 あ げて内 うち モンゴルに入 はい り、東方 とうほう 三 さん 王家 おうけ (チンギスの弟 おとうと の家系 かけい )などの東部 とうぶ 諸王 しょおう の支持 しじ を得 え て、翌年 よくねん の3月 がつ に自身 じしん の本拠地 ほんきょち である内 うち モンゴルの開平 かいへい 府 ふ (のちの上 うえ 都 と )でクリルタイを開 ひら き、皇帝 こうてい 位 い に就 つ いた。アリクブケは1か月 げつ 遅 おく れて皇帝 こうてい となり、モンゴル帝国 ていこく には南北 なんぼく に2人 ふたり の皇帝 こうてい が並存 へいそん し、帝国 ていこく 史上 しじょう 初 はじ めて皇帝 こうてい 位 い を武力 ぶりょく 争奪 そうだつ する事態 じたい となった。この時点 じてん では、モンケの葬儀 そうぎ を取 と り仕切 しき り、帝都 ていと カラコルムで即位 そくい したアリクブケが正当 せいとう な皇帝 こうてい であった。カラコルムにも戻 もど らず、帝国 ていこく 全土 ぜんど の王侯 おうこう 貴族 きぞく の支持 しじ もなく、勝手 かって に皇帝 こうてい を称 しょう したクビライは、この時点 じてん ではクーデター 政権 せいけん であった。
クビライとアリクブケの両 りょう 軍 ぐん は何 なん 度 ど となく激突 げきとつ するが、カラコルムは中国 ちゅうごく からの物資 ぶっし に依存 いぞん していたために、中国 ちゅうごく を抑 おさ えたクビライ派 は に対 たい してアリクブケ派 は は圧倒的 あっとうてき な補給 ほきゅう 能力 のうりょく の差 さ をつけられ、劣勢 れっせい を余儀 よぎ なくされた。緒戦 しょせん の1261年 ねん のシムトノールの会戦 かいせん ではクビライが勝利 しょうり するが、アリクブケは北西 ほくせい モンゴルのオイラト の支援 しえん を受 う けて抵抗 ていこう を続 つづ けた。しかし、最終 さいしゅう 的 てき にはアリクブケの劣勢 れっせい と混迷 こんめい をみてチャガタイ家 か などの西部 せいぶ 諸王 しょおう がアリクブケから離反 りはん し、1264年 ねん 、アリクブケはクビライに降伏 ごうぶく した。この一連 いちれん の争乱 そうらん を、勝利 しょうり 者 しゃ クビライを正統 せいとう とする立場 たちば から、「アリクブケの乱 らん 」という。
アリクブケの降伏 ごうぶく によりモンゴル皇帝 こうてい の位 くらい は再 ふたた び統合 とうごう されたが、西 にし の中央 ちゅうおう アジア方面 ほうめん では、アリクブケの乱 らん がもたらした混乱 こんらん が皇帝 こうてい の権威 けんい に決定的 けっていてき な打撃 だげき を与 あた えていた。1265年 ねん 、クビライは西方 せいほう の諸 しょ 王家 おうけ の当主 とうしゅ たちに呼 よ び掛 か けて統一 とういつ クリルタイを開催 かいさい を計画 けいかく したが、ほどなく西方 せいほう 遠征 えんせい 軍 ぐん の司令 しれい でイルハン朝 あさ の始祖 しそ となった次 じ 弟 おとうと フレグ 、ジョチ・ウルス 当主 とうしゅ ベルケ 、クビライを支持 しじ していたチャガタイ家 か の当主 とうしゅ アルグ が次々 つぎつぎ と死去 しきょ し、この統一 とういつ クリルタイによって自身 じしん の全 ぜん モンゴル帝国 ていこく 規模 きぼ の正式 せいしき なモンゴル皇帝 こうてい 位 い の承認 しょうにん を目論 もくろ んでいたクビライの計画 けいかく は、大 おお きく頓挫 とんざ した。
1266年 ねん 、クビライはアルグの死 し による欠 かけ を補 おぎな いチャガタイ家 か と中央 ちゅうおう アジアの動向 どうこう を掌握 しょうあく するため、チャガタイ家 か の傍流 ぼうりゅう バラク をチャガタイ家 か の本領 ほんりょう であるイリ 方面 ほうめん へ派遣 はけん した。しかし、バラクはクビライから共同 きょうどう 統治 とうち を指示 しじ されていたにもかかわらず、クビライの命 いのち と称 しょう してチャガタイ家 か 新 しん 当主 とうしゅ ムバーラク・シャーから権力 けんりょく を奪 うば い取 と り、自 みずか ら新 しん 当主 とうしゅ を宣言 せんげん してクビライに叛乱 はんらん を起 お こした。バラクはカイドゥの領土 りょうど を侵犯 しんぱん しマー・ワラー・アンナフル へ侵攻 しんこう する構 かま えを見 み せ、カイドゥはこれに対抗 たいこう するためジョチ・ウルスへ救援 きゅうえん を求 もと めた。これに応 こた えてジョチ・ウルス東方 とうほう の総帥 そうすい であるオルダ家 か の当主 とうしゅ コニチは5万 まん の軍勢 ぐんぜい を率 ひき いて加勢 かせい し、バラクは敗走 はいそう したが、バラクは中央 ちゅうおう アジアの権益 けんえき についての合議 ごうぎ をカイドゥ、ジョチ・ウルス新 しん 当主 とうしゅ モンケ・テムル へ申 もう し入 い れた。1269年 ねん 、中央 ちゅうおう アジアを支配 しはい するチャガタイ家 か のバラクとオゴデイ家 か のカイドゥ、そしてジョチ家 か 当主 とうしゅ モンケ・テムルの名代 なだい (ベルケの同母 どうぼ 弟 おとうと ベルケチェル)の諸王 しょおう がタラス河 かわ 畔 ほとり で会 かい 盟 めい し(タラス会 かい 盟 めい )、中央 ちゅうおう アジアのモンゴル皇帝 こうてい 領 りょう の争奪 そうだつ を止 と め、このうち、マー・ワラー・アンナフルの3分 ぶん の2をバラクに、残 のこ り3分 ぶん の1をジョチ家 か とカイドゥで折半 せっぱん することが決 き まった。
1270年 ねん 、バラクはイルハン朝 あさ のアバカ との会戦 かいせん に大敗 たいはい してブハラ で客死 かくし し、アバカとのマーワーアンナフル争奪 そうだつ に敗 やぶ れカイドゥとの紛争 ふんそう にも敗 やぶ れたチャガタイ家 か の王族 おうぞく たちは、ムバーラク・シャーはアバカのもとへ帰順 きじゅん してアフガニスタンのガズニー を所領 しょりょう として分与 ぶんよ され、バラクの子 こ ドゥア はカイドゥに応 おう じて中央 ちゅうおう アジアのチャガタイ家 か 当主 とうしゅ となり、アルグの遺児 いじ チュベイ らの一門 いちもん は東方 とうほう へ赴 おもむ いてクビライに帰順 きじゅん した。クビライは南 みなみ 宋 そう がバヤン に降服 こうふく した1267年 ねん 、第 だい 4皇子 おうじ ノムガン を主将 しゅしょう とするカイドゥ討伐 とうばつ 軍 ぐん を中央 ちゅうおう アジアへ派遣 はけん し、同時 どうじ にアバカにも正式 せいしき な封 ふう 冊 さつ によって「カアンの代官 だいかん (ダルガ )」の称号 しょうごう を与 あた えてカイドゥを挟撃 きょうげき する作戦 さくせん に出 で た。ところが、ノムガンの遠征 えんせい 軍 ぐん は、アルマリク で遠征 えんせい 軍 ぐん に参加 さんか していたモンケの子 こ シリギ らに叛乱 はんらん を起 お こされ、ノムガンは副将 ふくしょう アントン や同 おな じく第 だい 9皇子 おうじ ココチュらともども捕縛 ほばく されてしまった。シリギら叛乱 はんらん 王族 おうぞく たちはカイドゥやモンケ・テムルに共 とも に決起 けっき するよう呼 よ び掛 か けたノムガンとココチュ兄弟 きょうだい をモンケ・テムルヘアントンをカイドゥへ人質 ひとじち として送 おく ったが、両者 りょうしゃ はノムガンらを保護 ほご したものの決起 けっき には全 まった くに応 おう じなかった。クビライは南 みなみ 宋 そう 戦線 せんせん からバヤン をカラコルム へ転戦 てんせん させると、反乱 はんらん 軍 ぐん は速 すみ やかに鎮圧 ちんあつ されてしまった。反乱 はんらん 軍 ぐん に加 くわ わっていたアリク・ブケ家 か のヨブクルやメリク・テムルはクビライからの処罰 しょばつ を恐 おそ れてカイドゥのもとに逃 のが れた。こうしてシリギの叛乱 はんらん は収束 しゅうそく したが、クビライによる中央 ちゅうおう アジア直接 ちょくせつ 支配 しはい の計画 けいかく は2度 ど にわたり頓挫 とんざ し、代 か わりに、カイドゥは自 みずか らの所領 しょりょう に加 くわ え、ドゥアの西部 せいぶ のチャガタイ家 か 領 りょう 、アルタイ方面 ほうめん にあったアリクブケ家 か の3つのウルス を勢力 せいりょく 下 か に収 おさ めることができた(シリギの乱 らん )。
その間 あいだ 、クビライは政治 せいじ 機関 きかん として中書 ちゅうしょ 省 しょう を設置 せっち しカラコルムにかわる新都 しんと として中国 ちゅうごく 北部 ほくぶ に大 だい 都 と (現在 げんざい の北京 ぺきん )を造営 ぞうえい 、地方 ちほう ではモンゴル帝国 ていこく の金 きむ 攻略 こうりゃく の過程 かてい で自立 じりつ してモンゴルに帰 き 附 ふ し、華北 かほく の各地 かくち で在地 ざいち 支配 しはい を行 おこな ってきた漢 かん 人世 じんせい 侯 こう と呼 よ ばれる在地 ざいち 軍閥 ぐんばつ と中央 ちゅうおう 政府 せいふ 、モンゴル貴族 きぞく の錯綜 さくそう した支配 しはい 関係 かんけい を整理 せいり して各 かく 路 みち に総 そう 管 かん 府 ふ を置 お くなど、中国 ちゅうごく 支配 しはい に適合 てきごう した新 しん 国家 こっか 体制 たいせい の建設 けんせつ に着々 ちゃくちゃく と邁進 まいしん し、1271年 ねん に国号 こくごう を大元 おおもと とした。モンゴル帝国 ていこく 西部 せいぶ に対 たい するモンゴル皇帝 こうてい 直轄 ちょっかつ 支配 しはい の消滅 しょうめつ と、中国 ちゅうごく に軸 じく 足 あし を置 お いた新 あたら しいモンゴル皇帝 こうてい 政権 せいけん 、大元 おおもと の成立 せいりつ をもってモンゴル帝国 ていこく の緩 ゆる やかな連合 れんごう への再編 さいへん がさらに進 すす んだ。
元 もと の版図 はんと (1330年 ねん )
大元 おおもと を建 た てた当初 とうしょ のクビライは、金 かね を滅 ほろ ぼして領有 りょうゆう した華北 かほく を保有 ほゆう するだけで、中国 ちゅうごく 全体 ぜんたい の支配 しはい はいまだ不完全 ふかんぜん であり、南 みなみ 宋 そう の治下 ちか で発展 はってん した江南 こうなん (長江 ながえ 下 しも 流域 りゅういき 南岸 なんがん )の富 とみ は、クビライの新 しん 国家 こっか 建設 けんせつ には欠 か かせざるものであった。かくて、クビライは即位 そくい 以来 いらい 、南 みなみ 宋 そう の攻略 こうりゃく を最 さい 優先 ゆうせん の政策 せいさく として押 お し進 すす め、1268年 ねん 漢 かん 水 すい の要衝 ようしょう 襄 じょう 陽 ひ の攻囲 こうい 戦 せん を開始 かいし する。
クビライは、皇后 こうごう チャブイ に仕 つか える用人 ようにん であった中央 ちゅうおう アジア出身 しゅっしん の商人 しょうにん アフマド を財務 ざいむ 長官 ちょうかん に抜擢 ばってき して増収 ぞうしゅう をはかり、南 みなみ 宋 そう 攻略 こうりゃく の準備 じゅんび を進 すす める一方 いっぽう で、既 すで に服属 ふくぞく していた高 こう 麗 うらら を通 つう じ、南 みなみ 宋 そう と通商 つうしょう していた日本 にっぽん にもモンゴルへの服属 ふくぞく を求 もと めた。しかし、日本 にっぽん の鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ はこれを拒否 きょひ したため、クビライは南 みなみ 宋 そう と日本 にっぽん が連合 れんごう して元 もと に立 た ち向 む かうをの防 ふせ ぐため、1274年 ねん にモンゴル(元 もと )と高麗 こうらい の連合 れんごう 軍 ぐん を編成 へんせい して日本 にっぽん へ送 おく るが、対馬 つしま ・壱岐島 いきしま 、九州 きゅうしゅう の大宰府 だざいふ 周辺 しゅうへん を席巻 せっけん しただけに終 お わった(文 ぶん 永 なが の役 やく )。日本 にっぽん 遠征 えんせい は失敗 しっぱい に終 お わったが、その準備 じゅんび を通 つう じて遠征 えんせい 準備 じゅんび のために設 もう けた出先 でさき 機関 きかん の征 せい 東 ひがし 行 ぎょう 省 しょう と高麗 こうらい 政府 せいふ が一体化 いったいか し、新 しん 服 ふく の属国 ぞっこく であった高麗 こうらい は元 もと の朝廷 ちょうてい と緊密 きんみつ な関係 かんけい を結 むす ぶことになる。
1273年 ねん になると、襄 じょう 陽 ひ 守備 しゅび 軍 ぐん の降伏 ごうぶく により南 みなみ 宋 そう の防衛 ぼうえい システムは崩壊 ほうかい する。元 もと は兵士 へいし が各 かく 城市 じょうし で略奪 りゃくだつ 、暴行 ぼうこう を働 はたら くのを厳 きび しく禁止 きんし するとともに、降伏 ごうぶく した敵 てき の将軍 しょうぐん を厚遇 こうぐう するなどして南 みなみ 宋 そう の降 くだ 軍 ぐん を自軍 じぐん に組 く み込 こ んでいったため、各地 かくち の都市 とし は次々 つぎつぎ とモンゴルに降 ふ った。1274年 ねん 、旧 きゅう 南 みなみ 宋 そう の降 くだ 軍 ぐん を含 ふく めた大 だい 兵力 へいりょく で攻勢 こうせい に出 で ると、防衛 ぼうえい システムの崩壊 ほうかい した南 みなみ 宋 そう はもはや抵抗 ていこう らしい抵抗 ていこう も出来 でき ず、1276年 ねん に首都 しゅと 臨安(杭州 こうしゅう )が無血 むけつ 開城 かいじょう する。恭 きょう 帝 みかど をはじめとした南 みなみ 宋 そう の皇族 こうぞく は北 きた に連行 れんこう されたが、丁重 ていちょう に扱 あつか われた。その後 ご 、海上 かいじょう へ逃亡 とうぼう した南 みなみ 宋 そう の残党 ざんとう を1279年 ねん の崖山 がけやま の戦 たたか い で滅 ほろ ぼし、北 きた 宋 そう 崩壊 ほうかい 以来 いらい 150年 ねん ぶりとなる中国 ちゅうごく 統一 とういつ を果 は たした。クビライは豊 ゆた かな旧 きゅう 南 みなみ 宋 そう 領 りょう の富 とみ を大 だい 都 と に集積 しゅうせき し、その利潤 りじゅん を国家 こっか に吸 す い上 あ げることのできるよう、後述 こうじゅつ する経済 けいざい 制度 せいど を整備 せいび した。
しかし、その後 ご の軍事 ぐんじ 遠征 えんせい は特 とく にみるべき成果 せいか なく終 お わった。1281年 ねん には再 ふたた び日本 にっぽん に対 たい して軍 ぐん を送 おく るが今度 こんど も失敗 しっぱい に終 お わり(弘安 ひろやす の役 やく )、1285年 ねん と1288年 ねん にはベトナム に侵攻 しんこう した軍 ぐん が陳 ひね 朝 あさ に相次 あいつ いで敗 やぶ れた(白藤 しらふじ 江 こう の戦 たたか い )。1284年 ねん から1286年 ねん にかけての樺太 からふと 遠征 えんせい でアイヌ を樺太 からふと から排除 はいじょ し、ビルマへの遠征 えんせい では1287年 ねん に首都 しゅと パガン の占領 せんりょう に成功 せいこう したが、現地 げんち のシャン人 じん の根強 ねづよ い抵抗 ていこう に遭 あ い恒久 こうきゅう 的 てき な支配 しはい を得 え ることはできなかった。さかのぼって1276年 ねん には、中央 ちゅうおう アジアでカイドゥらと対峙 たいじ していた元 もと 軍 ぐん の中 なか で、モンケの子 こ シリギ が反乱 はんらん を起 お こし、カイドゥの勢力 せいりょく 拡大 かくだい を許 ゆる していた。それでも、クビライは3度目 どめ の日本 にっぽん 遠征 えんせい を計画 けいかく するなど、積極 せっきょく 的 てき に外征 がいせい を進 すす めたが、1287年 ねん には、即位 そくい 時 じ の支持 しじ 母体 ぼたい であった東方 とうほう 三 さん 王家 おうけ がナヤン を指導 しどう 者 しゃ として叛き、また中国 ちゅうごく 内 ない でも反乱 はんらん が頻発 ひんぱつ したために晩年 ばんねん のクビライはその対応 たいおう に追 お われ、日本 にっぽん 遠征 えんせい も放棄 ほうき された。また、1292年 ねん にジャワ遠征 えんせい を行 おこな っているが、これも失敗 しっぱい に終 お わっている。もっとも、東南 とうなん アジアへの遠征 えんせい は商業 しょうぎょう ルートの開拓 かいたく の意味合 いみあ いが強 つよ く、最終 さいしゅう 的 てき には海上 かいじょう ルートの安全 あんぜん が確保 かくほ されたため、結果 けっか 的 てき には成功 せいこう したと言 い える。
クビライの死後 しご 、1294年 ねん に孫 まご のテムル が継 つ ぐがその治世 ちせい 期 き の1301年 ねん にカイドゥが死 し に、1304年 ねん に長 なが い間 あいだ 抗争 こうそう していた西方 せいほう 諸王 しょおう との和睦 わぼく が行 おこな われた。この東西 とうざい ウルスの融和 ゆうわ により、モンゴル帝国 ていこく は皇帝 こうてい を頂点 ちょうてん とする緩 ゆる やかな連合 れんごう として再 ふたた び結 むす びつき、いわゆるシルクロード 交易 こうえき は唐 とう 代 だい 以来 いらい の活況 かっきょう を呈 てい した。この状況 じょうきょう を指 さ して「パクス・モンゴリカ 」(モンゴルの平和 へいわ )と呼 よ ぶことがある。
元 もと の首都 しゅと 、大 だい 都 と は全 ぜん モンゴル帝国 ていこく の政治 せいじ ・経済 けいざい のセンターとなり、マルコ・ポーロ など数 すう 多 おお くの西方 せいほう の旅行 りょこう 者 しゃ が訪 おとず れ、その繁栄 はんえい はヨーロッパ にまで伝 つた えられた。江南 こうなん の港湾 こうわん 諸 しょ 都市 とし の海上 かいじょう 貿易 ぼうえき も宋 そう 代 だい よりは衰退 すいたい したものの繁栄 はんえい しており、文 ぶん 永 ひさし ・弘安 ひろやす の役 やく 以来 いらい 公的 こうてき な国交 こっこう が途絶 とぜつ していた日本 にっぽん とも、官 かん 貿易 ぼうえき や密 みつ 貿易 ぼうえき 船 せん はある程度 ていど の往来 おうらい が確認 かくにん される。
1345年 ねん 当時 とうじ の世界 せかい
1307年 ねん 、テムルが皇子 おうじ を残 のこ さずに死 し ぬとモンゴル帝国 ていこく で繰 く り返 かえ されてきた後継 こうけい 者 しゃ 争 あらそ いがたちまち再燃 さいねん し、皇帝 こうてい の座 ざ を巡 めぐ って母后 ぼこう 、外戚 がいせき 、権臣 けんしん ら、モンゴル貴族 きぞく 同士 どうし の激 はげ しい権力 けんりょく 争 あらそ いが繰 く り広 ひろ げられた。
まず権力 けんりょく 争 あらそ いの中心 ちゅうしん となったのは、チンギスの母 はは ホエルン と皇后 こうごう ボルテ 、クビライの皇后 こうごう チャブイ、テムルの母 はは ココジン らの出身 しゅっしん 部族 ぶぞく で、クビライ、テムルの2代 だい においても外戚 がいせき として権勢 けんせい をふるってきたコンギラト 部 ぶ を中心 ちゅうしん に結束 けっそく した元 もと の宮廷 きゅうてい 貴族 きぞく たちであった。テムルの皇后 こうごう ブルガン はコンギラト部 ぶ の出身 しゅっしん ではなかったため、貴族 きぞく の力 ちから を抑 おさ えるためにテムルの従弟 じゅうてい にあたる安西 あんざい 王 おう アナンダ を皇帝 こうてい に迎 むか えようとしたが、傍系 ぼうけい の即位 そくい により既得 きとく 権 けん を脅 おびや かされることを恐 おそ れた重臣 じゅうしん たちはクーデター を起 お こしてブルガンとアナンダを殺害 さつがい 、モンゴル高原 こうげん の防衛 ぼうえい を担当 たんとう していたテムルの甥 おい カイシャン を皇帝 こうてい に迎 むか えた。
カイシャンの死後 しご は弟 おとうと アユルバルワダ が帝位 ていい を継 つ ぐが、その治世 ちせい 期 き には代々 だいだい コンギラト氏 し 出身 しゅっしん の皇后 こうごう に相続 そうぞく されてきた莫大 ばくだい な財産 ざいさん の相続 そうぞく 者 しゃ であるコンギラト部 ぶ 出身 しゅっしん のアユルバルワダの母 はは ダギ・カトン が宮廷 きゅうてい 内 ない の権力 けんりょく を掌握 しょうあく し、皇帝 こうてい の命令 めいれい よりも母后 ぼこう の命令 めいれい のほうが権威 けんい をもつと言 い われるほどであった。そのため、比較的 ひかくてき 安定 あんてい したアユルバルワダの治世 ちせい が1320年 ねん に終 お わり、1322年 ねん にダギが死 し ぬと再 ふたた び政争 せいそう が再燃 さいねん する。翌 よく 1323年 ねん にアユルバルワダの後 のち を継 つ いでいたシデバラ が殺害 さつがい されたのを皮切 かわき りに、アユルバルワダが死 し んでから1333年 ねん にトゴン・テムル が即位 そくい するまで、11年 ねん の間 あいだ に7人 にん の皇帝 こうてい が次々 つぎつぎ に交代 こうたい する異常 いじょう 事態 じたい へと元 もと は陥 おちい った。
ようやく帝位 ていい が安定 あんてい したのは、多 おお くの皇族 こうぞく が皇位 こうい をめぐる抗争 こうそう によって倒 たお れた末 すえ に広西 ひろせ で追放 ついほう 生活 せいかつ を送 おく っていたトゴン・テムルの即位 そくい によってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力 けんりょく を握 にぎ っていたキプチャク 親衛 しんえい 軍 ぐん の司令 しれい 官 かん エル・テムル に疎 うと まれ、エル・テムルが病死 びょうし するまで正式 せいしき に即位 そくい することができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後 しご はアスト 親衛 しんえい 軍 ぐん の司令 しれい 官 かん であるバヤン がエル・テムルの遺児 いじ を殺害 さつがい して皇帝 こうてい を凌 しの ぐ権力 けんりょく を握 にぎ り、1340年 ねん にはバヤンの甥 おい トクト が伯父 おじ をクーデターで殺害 さつがい してその権力 けんりょく を奪 うば うというように、元 もと の宮廷 きゅうてい はもはやほとんどが軍閥 ぐんばつ の内部 ないぶ 抗争 こうそう によって動 うご かされていた。そのうえ成人 せいじん した皇帝 こうてい も権力 けんりょく を巡 めぐ る対立 たいりつ に加 くわ わり、1347年 ねん から1349年 ねん までトクトが追放 ついほう されるなど、中央 ちゅうおう 政局 せいきょく の混乱 こんらん は続 つづ いた。
元朝 がんちょう は理財 りざい 派 は 色目 いろめ 人 じん 貴族 きぞく の財政 ざいせい 運営 うんえい が招 まね く汚職 おしょく と重税 じゅうぜい による収奪 しゅうだつ が重 おも く、また縁故 えんこ による官吏 かんり 採用 さいよう 故 ゆえ の横領 おうりょう 、収賄 しゅうわい 、法 ほう のねじ曲 ま げの横行 おうこう が民衆 みんしゅう を困窮 こんきゅう に陥 おとしい れていたが[ 12] 、この政治 せいじ 混乱 こんらん はさらに農村 のうそん を荒廃 こうはい させた。ただし、この14世紀 せいき には折 おり しも小 しょう 氷 こおり 期 き の本格 ほんかく 化 か による農業 のうぎょう や牧畜 ぼくちく 業 ぎょう の破綻 はたん や活発 かっぱつ 化 か した流通 りゅうつう 経済 けいざい に起因 きいん するペスト のパンデミック が元朝 がんちょう の直轄 ちょっかつ 支配 しはい 地 ち であるモンゴル高原 こうげん や中国 ちゅうごく 本土 ほんど のみならず全 ぜん ユーラシア規模 きぼ で生 しょう じており、農村 のうそん や牧民 ぼくみん の疲弊 ひへい は必 かなら ずしも経済 けいざい 政策 せいさく にのみ帰 かえ せられるものではない。中央 ちゅうおう 政府 せいふ の権力 けんりょく 争 あらそ いにのみ腐心 ふしん する権力 けんりょく 者 しゃ たちはこれに対 たい して有効 ゆうこう な施策 しさく を十分 じゅうぶん に行 おこな わなかったために国内 こくない は急速 きゅうそく に荒廃 こうはい し、元 もと の差別 さべつ 政策 せいさく の下 した に置 お かれた旧 きゅう 南 みなみ 宋 そう 人 じん の不満 ふまん 、商業 しょうぎょう 重視 じゅうし の元朝 がんちょう の政策 せいさく がもたらす経済 けいざい 搾取 さくしゅ に苦 くる しむ農民 のうみん の窮乏 きゅうぼう などの要因 よういん があわさって、地方 ちほう では急激 きゅうげき に不穏 ふおん な空気 くうき が高 たか まっていき、元朝 がんちょう は1世紀 せいき にも満 み たない極 きわ めて短命 たんめい な王朝 おうちょう [ 13] としての幕 まく を閉 と じた。
1348年 ねん 、浙江 せっこう の方 かた 国 こく 珍 めずらし が海上 かいじょう で反乱 はんらん を起 お こしたのを初 はじ めとし、全国 ぜんこく に次々 つぎつぎ と反乱 はんらん が起 お き、1351年 ねん には賈魯 による黄河 こうが の改修 かいしゅう 工事 こうじ をきっかけに白蓮 びゃくれん 教徒 きょうと の紅 べに 巾 はば 党 とう が蜂起 ほうき した。1354年 ねん には、大 だい 規模 きぼ な討伐 とうばつ 軍 ぐん を率 ひき いたトクトが強大 きょうだい な軍事 ぐんじ 力 りょく をもったことを恐 おそ れたトゴン・テムルによる逆 ぎゃく クーデターで更迭 こうてつ 、殺害 さつがい されるが、これは皇帝 こうてい の権力 けんりょく 回復 かいふく と引 ひ き換 か えに軍閥 ぐんばつ に支 ささ えられていた元 もと の軍事 ぐんじ 力 りょく を大幅 おおはば に弱 よわ めることとなった。やがて、紅 べに 巾 はば 党 とう の中 なか から現 あらわ れた朱 しゅ 元 もと 璋 あきら が他 た の反乱 はんらん 者 しゃ たちをことごとく倒 たお して華南 かなん を統一 とういつ し、1368年 ねん に南京 なんきん で皇帝 こうてい に即位 そくい して明 あきら を建国 けんこく した。
朱 しゅ 元 もと 璋 あきら の軍 ぐん は、即位 そくい するや大 だい 規模 きぼ な北 きた 伐 き を開始 かいし して元 もと の都 と ・大 だい 都 と に迫 せま った。ここに至 いた ってモンゴル人 じん たちは最早 もはや 中国 ちゅうごく の保持 ほじ は不可能 ふかのう であると見切 みき りをつけ、1368年 ねん にトゴン・テムルは、大 だい 都 と を放棄 ほうき して北 きた のモンゴル高原 こうげん へと敗走 はいそう した。一般 いっぱん 的 てき な中国 ちゅうごく 史 し の叙述 じょじゅつ では、トゴン・テムルの敗走 はいそう によって元朝 がんちょう は終焉 しゅうえん したと見 み なされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝 こうてい 政権 せいけん は以後 いご もモンゴル高原 こうげん で存続 そんぞく した。したがって、王朝 おうちょう の連続 れんぞく 性 せい をみれば元朝 がんちょう は1368年 ねん をもって滅亡 めつぼう とは言 い えないが、これ以降 いこう の元朝 がんちょう は北元 きたもと と呼 よ んでそれまでの元 もと と区別 くべつ するのが普通 ふつう である。だが、トゴン・テムルの2子 し であるアユルシリダラ とトグス・テムル が相次 あいつ いで皇帝 こうてい の地位 ちい を継 つ ぐ(明 あきら は当然 とうぜん 、その即位 そくい を認 みと めず韃靼 だったん という別称 べっしょう を用 もち いた)が、1388年 ねん にトグス・テムルが殺害 さつがい されクビライ以来 いらい の直系 ちょっけい の王 おう 統 みつる は断絶 だんぜつ する。
この過程 かてい を単純 たんじゅん に漢 かん 民族 みんぞく の勝利 しょうり ・モンゴル民族 みんぞく の敗走 はいそう という観点 かんてん で捉 とら えることには問題 もんだい がある。まず、華北 かほく では先 さき の黄河 こうが の改修 かいしゅう などによって災害 さいがい の軽減 けいげん が図 はか られたことによって、元朝 がんちょう の求心力 きゅうしんりょく がむしろ一時 いちじ 的 てき に高 たか まった時期 じき があったことである(朱 しゅ 元 もと 璋 あきら がまず華南 かなん 平定 へいてい に力 ちから を注 そそ いだのはこうした背景 はいけい がある)。また、漢 かん 民族 みんぞく の官吏 かんり の中 なか には前述 ぜんじゅつ の賈魯をはじめとして元朝 がんちょう に忠義 ちゅうぎ を尽 つ くして明 あかり 軍 ぐん ら反乱 はんらん 勢力 せいりょく と戦 たたか って戦死 せんし したものも多 おお く、1367年 ねん に明 あかり 軍 ぐん に捕 と らえられた戸部 とべ 尚書 しょうしょ の張 ちょう 昶 あきら は朱 しゅ 元 もと 璋 あきら の降伏 ごうぶく 勧告 かんこく に対 たい して「身 み は江南 こうなん にあっても、心 しん は朔北 さくほく に思 おも う」と書 か き残 のこ して処刑 しょけい 場 じょう に向 む かったといわれている。
北元 きたもと では1388年 ねん にトゴン・テムルの子孫 しそん が絶 た えてクビライ家 か の皇帝 こうてい 世襲 せしゅう が終焉 しゅうえん し、クビライ家 か 政権 せいけん としての大元 おおもと は断絶 だんぜつ した。しかし、その後 ご もチンギスの子孫 しそん がモンゴル高原 こうげん で優勢 ゆうせい となった遊牧 ゆうぼく 集団 しゅうだん に、大元 おおもと の皇帝 こうてい として代 か わる代 か わる擁立 ようりつ されつづけた。クビライ家 か の断絶 だんぜつ 後 ご はアリクブケ家 か の皇帝 こうてい が続 つづ き、一時 いちじ は非 ひ チンギス裔のオイラト 族長 ぞくちょう に皇帝 こうてい 位 い を簒奪 さんだつ された(エセン・ハーン )が、1438年 ねん にはクビライ家 か の末裔 まつえい とされる王家 おうけ が復権 ふっけん を果 は たし(ただし第 だい 2代 だい モンゴル皇帝 こうてい の末裔 まつえい のオゴデイ家 か である可能 かのう 性 せい も指摘 してき されている)、15世紀 せいき 末 すえ にはそこから出 で たダヤン・ハーン により、いったん大 だい 元 もと 皇帝 こうてい のもとでのモンゴル高原 こうげん の遊牧民 ゆうぼくみん の再 さい 統合 とうごう が果 は たされる。大元 おおもと 皇帝 こうてい 位 い が最終 さいしゅう 的 てき に終焉 しゅうえん を迎 むか えたのは、ダヤン・ハーンの末裔 まつえい のリンダン・ハーン が死 し に、モンゴル 諸 しょ 部族 ぶぞく がリンダンの代 か わりに満州 まんしゅう 人 じん の建 た てた後金 あときん 皇帝 こうてい ホンタイジ をモンゴルのハーンに推戴 すいたい した1636年 ねん であった(詳細 しょうさい は北元 きたもと を参照 さんしょう )。
元 もと の政治 せいじ 制度 せいど はモンゴル帝国 ていこく 特有 とくゆう の制度 せいど がかなり維持 いじ されたため、中国 ちゅうごく の諸 しょ 王朝 おうちょう の歴史 れきし 上 じょう でみれば、きわめて特異 とくい なものとなっている。
元 もと の首都 しゅと は大 だい 都 と (現在 げんざい の北京 ぺきん )であるが、皇帝 こうてい は遊牧 ゆうぼく 国家 こっか の伝統 でんとう に則 のっと り、都城 みやこのじょう の城壁 じょうへき 内 ない では暮 く らさずに冬 ふゆ の都 と である大 だい 都 と と夏 なつ の都 と である上 うえ 都 と の近郊 きんこう の草原 そうげん の間 あいだ を季 き 節 ぶし 移動 いどう する帳 とばり 幕 まく (ゲル )群 ぐん が宮廷 きゅうてい (オルド )となっていた。大 だい 都 と はちょうど遊牧民 ゆうぼくみん の地域 ちいき と農耕 のうこう 民 みん の地域 ちいき が接 せっ するあたりに位置 いち し、もともとモンゴル帝国 ていこく の本拠地 ほんきょち であった上 うえ 都 と はその大 だい 都 と の北方 ほっぽう 275キロの地点 ちてん にある。
モンゴル帝国 ていこく の皇帝 こうてい のもとには、第 だい 二 に 代 だい オゴデイの時代 じだい から時代 じだい と設置 せっち 状 じょう 況 きょう により、漢語 かんご で「中書 ちゅうしょ 省 しょう 」、「尚書 しょうしょ 省 しょう 」など様々 さまざま な名称 めいしょう で呼 よ ばれる書記 しょき ・財務 ざいむ 官僚 かんりょう 機構 きこう が存在 そんざい した。即位 そくい 以前 いぜん からモンケによって中国 ちゅうごく の征服 せいふく 事業 じぎょう を委 ゆだ ねられ、手元 てもと に漢人 かんど を含 ふく む様々 さまざま な頭脳 ずのう 集団 しゅうだん を集 あつ めていたクビライは、即位 そくい するとまず漢人 かんど の側近 そっきん を中書 ちゅうしょ 省 しょう に組織 そしき した。このクビライの中書 ちゅうしょ 省 しょう は、オゴデイ時代 じだい の中央 ちゅうおう 書記 しょき 官庁 かんちょう のとしての中書 ちゅうしょ 省 しょう の性格 せいかく を継承 けいしょう するとともに、唐 から 以来 いらい の中書 ちゅうしょ 省 しょう の伝統 でんとう を引 ひ き継 つ いで下 した に六 ろく 部 ぶ を置 お き、民政 みんせい ・財政 ざいせい ・軍事 ぐんじ の一切 いっさい を統括 とうかつ した。
1263年 ねん には中書 ちゅうしょ 省 しょう から軍政 ぐんせい 機能 きのう を分離 ぶんり して中央 ちゅうおう 軍政 ぐんせい 機関 きかん として枢密院 すうみついん が設置 せっち され、中書 ちゅうしょ 省 しょう とあわせてクビライの嫡子 ちゃくし チンキム が総裁 そうさい し、中央 ちゅうおう 政府 せいふ 管轄 かんかつ 地域 ちいき の庶政 しょせい を父 ちち にかわって代行 だいこう した。しかし、中央 ちゅうおう 政府 せいふ の全 ぜん 機能 きのう を中書 ちゅうしょ 令 れい チンキムの下 した に束 たば ねたわけではなく、1270年 ねん にはアフマドを長官 ちょうかん とする財務 ざいむ 官庁 かんちょう が拡大 かくだい され、中書 ちゅうしょ 省 しょう と並 なら ぶ地位 ちい の尚書 しょうしょ 省 しょう となる。遡 さかのぼ って1268年 ねん には中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう にならって御 ご 史 し 台 だい を設置 せっち し、民政 みんせい ・軍政 ぐんせい ・財政 ざいせい ・監察 かんさつ のそれぞれに関 かか わる機関 きかん がひととおり整備 せいび された。ただし、中央 ちゅうおう 官庁 かんちょう は中書 ちゅうしょ 省 しょう ・枢密院 すうみついん ・尚書 しょうしょ 省 しょう などの中国 ちゅうごく 風 ふう の名前 なまえ を持 も ってはいたが、職掌 しょくしょう や官吏 かんり の定数 ていすう に関 かん する規定 きてい はなく、さらに後述 こうじゅつ するように省庁 しょうちょう の要職 ようしょく は宮廷 きゅうてい に仕 つか える皇帝 こうてい の側近 そっきん たちから任用 にんよう され、特 とく に左右 さゆう 丞相 じょうしょう などの長官 ちょうかん クラスを務 つと める者 もの は家臣 かしん 、隷属 れいぞく 民 みん 、軍隊 ぐんたい などを自 みずか ら保有 ほゆう するモンゴル貴族 きぞく からなっていた。このため、官庁 かんちょう の行 おこな う業務 ぎょうむ は実際 じっさい には官庁 かんちょう に定 さだ められた官僚 かんりょう 機構 きこう ではなく、高官 こうかん の個性 こせい や宮廷 きゅうてい での力 ちから 関係 かんけい などに左右 さゆう された。
なお、元 もと 代 だい の中書 ちゅうしょ 省 しょう では総裁 そうさい である中書 ちゅうしょ 令 れい を除 のぞ くと、右 みぎ 丞相 じょうしょう が長官 ちょうかん 、左 ひだり 丞相 じょうしょう が次官 じかん であった。中国 ちゅうごく は古 ふる くから貴 き 右 みぎ 賤左という観念 かんねん があった。漢書 かんしょ ·周 しゅう 昌 あきら 傳 でん :「左遷 させん 」、顔 かお 師 し 古 こ 注 ちゅう :“是 ぜ の時 とき 、右 みぎ を尊 とうと い而 しか して左 ひだり を卑 いや しみ、故 ゆえ に秩位を貶 へん するを謂 ゆ い左遷 させん と為 な す。宋 そう .戴埴《鼠 ねずみ 璞》:「漢 かん は右 みぎ を以 もっ て尊 みこと と為 な し、貶秩を謂 ゆ いて左遷 させん と為 な す、仕 つかまつ 诸侯は左官 さかん と為 な り、高位 こうい に居 お り右 みぎ 職 しょく と為 な る。
元 もと のモンゴル人 じん は、長 なが らく中国 ちゅうごく を支配 しはい してもさほど中国 ちゅうごく 文化 ぶんか に親 した しまず、時代 じだい 的 てき に先行 せんこう する征服 せいふく 王朝 おうちょう である遼 りょう や金 きむ と比較 ひかく すると民族 みんぞく 固有 こゆう の支配 しはい 体制 たいせい を維持 いじ していたため、元 もと では律令 りつりょう のような体系 たいけい 立 た った法令 ほうれい を編纂 へんさん せず、モンゴル時代 じだい や元 もと 初 はつ は法 ほう や裁定 さいてい が紊乱 びんらん して民衆 みんしゅう の困窮 こんきゅう を招 まね いた。次第 しだい に政権 せいけん の様々 さまざま な部局 ぶきょく から発 はっ せられる命令 めいれい の積 つ み重 かさ ねを法令 ほうれい と成 な し、中 なか でも皇帝 こうてい の名 な をもって出 だ される聖旨 せいし (ジャルリグ)や令旨 れいし などと漢 かん 訳 やく される皇族 こうぞく ・王族 おうぞく の名 な によって発布 はっぷ された命令 めいれい 書 しょ (ウゲ)が高 たか い権威 けんい を持 も った。しかし、元 もと 末 まつ まで法体 ほうたい 系 けい の不備 ふび は解消 かいしょう されず縁故 えんこ による汚職 おしょく がはびこる温床 おんしょう の一 ひと つとなった。モンゴル人 じん は文字 もじ としてモンゴル文字 もじ と、クビライが新 あら たに作 つく らせたパスパ文字 もじ をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字 もじ で書 か かれたモンゴル語 ご を正文 せいぶん としていた。漢文 かんぶん の翻訳 ほんやく も付 つ いたが口語 こうご 的 てき ・直訳 ちょくやく 的 てき な文体 ぶんたい が用 もち いられた。なお、積 つ み上 あ げられた法令 ほうれい は、『元 もと 典章 てんしょう 』という漢文 かんぶん の書物 しょもつ に編纂 へんさん されて現存 げんそん しているが、文章 ぶんしょう は直訳 ちょくやく 体 たい に加 くわ え当時 とうじ の官吏 かんり が用 もち いた特殊 とくしゅ な文体 ぶんたい であり、伝統 でんとう 的 てき な漢文 かんぶん とは大 おお いに文体 ぶんたい を異 こと にしている。元 もと の世 よ 祖 そ の時 とき に比較的 ひかくてき 体系 たいけい 立 た った『至 いたり 元新 もとしん 格 かく 』が、英 えい 宗 むね の時 とき (至 いたり 治 ち 3年 ねん 、1332年 ねん )に体系 たいけい 的 てき な法令 ほうれい である『大元 おおもと 通 どおり 制 せい 』が編纂 へんさん された。
行 くだり 中書 ちゅうしょ 省 しょう の配置 はいち
元 もと の中書 ちゅうしょ 省 しょう が直接的 ちょくせつてき な権限 けんげん を及 およ ぼすのは「腹 はら 裏 うら 」と呼 よ ばれる上 うえ 都 と ・大 だい 都 と を中心 ちゅうしん にゴビ砂漠 ごびさばく 以南 いなん のモンゴル高原 こうげん (内 うち モンゴル)と、河北 かわきた ・山東 さんとう ・山西 さんせい の華北 かほく 一帯 いったい においてのみである。
腹 はら 裏 うら を除 のぞ いた広大 こうだい な支配 しはい 領域 りょういき はいくつかのブロックに分割 ぶんかつ され、各 かく ブロックには地方 ちほう における中書 ちゅうしょ 省 しょう の代行 だいこう 機関 きかん として意味 いみ をもつ「行 くだり 中書 ちゅうしょ 省 しょう 」(行 くだり 省 しょう )という名 な をもった官庁 かんちょう が置 お かれた。各行 かくこう 省 しょう は中書 ちゅうしょ 省 しょう と同格 どうかく に皇帝 こうてい に直属 ちょくぞく し、腹 はら 裏 うら における中書 ちゅうしょ 省 しょう に準 じゅん じ、管下 かんか の地域 ちいき における最高 さいこう 行政 ぎょうせい 機関 きかん として、民政 みんせい ・財政 ざいせい ・軍事 ぐんじ の一切 いっさい を統括 とうかつ した。現在 げんざい も中国 ちゅうごく で使 つか われている地方 ちほう 区分 くぶん としての省 しょう は、元 もと 代 だい の行 くだり 省 しょう 制度 せいど を起源 きげん とする。
行 くだり 省 しょう の数 かず は、最多 さいた の時期 じき で11にのぼり、モンゴル帝国 ていこく の東 ひがし 半分 はんぶん を覆 おお う。裏返 うらがえ していえば、首都 しゅと 圏 けん の中書 ちゅうしょ 省 しょう と地方 ちほう の行 くだり 省 しょう が管轄 かんかつ する諸 しょ 地域 ちいき の総体 そうたい がモンゴル帝国 ていこく 再編 さいへん 後 ご のクビライ家 か のモンゴル皇帝 こうてい 政権 せいけん たる元 もと の支配 しはい 領域 りょういき であった。行 くだり 省 しょう の管下 かんか には路 みち ・州 しゅう ・県 けん の三 さん 段階 だんかい の行政 ぎょうせい 区分 くぶん が置 お かれ、路 みち 州 しゅう 県 けん の行政 ぎょうせい の最高 さいこう 決定 けってい 権 けん は行 こう 省 しょう に直属 ちょくぞく する州 しゅう 県 けん の行政 ぎょうせい 機関 きかん ではなく、中央 ちゅうおう から路 みち ・州 しゅう ・県 けん の各 かく 単位 たんい に派遣 はけん され地方 ちほう の監督 かんとく と軍事 ぐんじ を司 つかさど る役人 やくにん 、ダルガチ が負 お った。
また、モンゴルの王族 おうぞく や貴族 きぞく は自身 じしん の遊牧民 ゆうぼくみん を率 ひき い、皇帝 こうてい と同 おな じく季 き 節 ぶし 移動 いどう を行 おこな う直轄 ちょっかつ 所領 しょりょう (「位 い 下 か 」「投下 とうか 」と呼 よ ばれる)を持 も ち、個々 ここ の所領 しょりょう はチンギス以来 いらい の権利 けんり によって貴族 きぞく が所有 しょゆう する封土 ほうど であり、自治 じち に委 ゆだ ねられていた。しかも個々 ここ の位 い 下 か ・投下 とうか は中国 ちゅうごく 内地 ないち の定住 ていじゅう 地帯 ちたい にモザイク状 じょう に散 ち った領民 りょうみん ・領地 りょうち を持 も っていた。定住 ていじゅう 地帯 ちたい では、チンギス時代 じだい 以来 いらい 数 すう 十 じゅう 年 ねん にわたる征服 せいふく の過程 かてい で形成 けいせい された王族 おうぞく ・貴族 きぞく の投下 とうか 領 りょう が入 い り乱 みだ れ、領土 りょうど ・領民 りょうみん の所有 しょゆう 関係 かんけい は複雑 ふくざつ だった。王族 おうぞく ・貴族 きぞく は位 い 下 か 領 りょう ・投下 とうか 領 りょう に自 みずか らダルガチを任 にん じて、皇帝 こうてい の直接 ちょくせつ の支配 しはい 権 けん が及 およ ばない位 い 下 か 領 りょう ・投下 とうか 領 りょう が、封土 ほうど を含 ふく んで地域 ちいき 全体 ぜんたい を統括 とうかつ する行 くだり 省 しょう の支配 しはい 権力 けんりょく と並存 へいそん していた。
元 もと に服属 ふくぞく した天山 あまやま ウイグル王国 おうこく は、内政 ないせい に関 かん しては高 こう 昌 あきら 王 おう を授 さづ けられ従来 じゅうらい からの国 くに 制 せい を保 たも ったまま自治 じち を認 みと められた。その王族 おうぞく はキュレゲン(キュレゲンとはチンギス・カンの女婿 じょせい 、つまりは外戚 がいせき である)としてモンゴルの王族 おうぞく ・貴族 きぞく に準 じゅん じる扱 あつか いを受 う け、クビライ家 か の皇女 おうじょ と婚姻 こんいん を結 むす んだ。また、元 もと に服属 ふくぞく した高麗 こうらい は12省 しょう に組 く み込 こ まれて高麗 こうらい 省 しょう となり同 おな じく行政 ぎょうせい に就 つ いて自治 じち を認 みと められたが、高官 こうかん の人事 じんじ 権 けん や政治 せいじ ・軍事 ぐんじ は所属 しょぞく する行 くだり 省 しょう のモンゴル人 じん によって支配 しはい された。忠 ちゅう 宣 せん 王 おう 以降 いこう の国王 こくおう は名目 めいもく 的 てき な存在 そんざい となり、モンゴル皇女 おうじょ を母 はは とし即位 そくい 以前 いぜん は元 もと の宮廷 きゅうてい に長 なが らく滞在 たいざい して皇帝 こうてい の側近 そっきん に仕 つか えるなど、ほとんどモンゴル貴族 きぞく のようであった[ 14] 。
このように元 もと の地方 ちほう 制度 せいど は、中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう に伝統 でんとう 的 てき な中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき な中書 ちゅうしょ 省 しょう ・行 ぎょう 省 しょう と路 みち ・州 しゅう ・県 けん の階層 かいそう 制 せい と、きわめて分権 ぶんけん 的 てき 、封建 ほうけん 的 てき である皇帝 こうてい 直轄 ちょっかつ 領 りょう ・投下 とうか 領 りょう の混在 こんざい が交差 こうさ していたが、元 もと の支配 しはい 下 か にありながら異 こと なる制度 せいど に置 お かれる例外 れいがい として、チベット (吐蕃 )があった。チベットは、各地 かくち で領域 りょういき 支配 しはい を行 おこな う土着 どちゃく の貴族 きぞく たちが10以上 いじょう の万 まん 戸 こ 府 ふ に分 わ けられ、土 ど 司 し として掌握 しょうあく され、チベット仏教 ぶっきょう のサキャ派 は の教主 きょうしゅ を長官 ちょうかん とする元 もと の仏教 ぶっきょう 教団 きょうだん 統制 とうせい 機関 きかん 、宣政 のぶまさ 院 いん によって統括 とうかつ されていた。
人材 じんざい 登用 とうよう の面 めん でも、元 もと は中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう の通例 つうれい に大 おお きく反 はん する。中央 ちゅうおう 政府 せいふ 、地方 ちほう 政府 せいふ 共 ども に人材 じんざい 登用 とうよう では能力 のうりょく ではなく縁者 えんじゃ の階級 かいきゅう が重視 じゅうし され高官 こうかん の子弟 してい は修養 しゅうよう や実務 じつむ を積 つ む前 まえ から権限 けんげん のある役職 やくしょく に就 つ いた、またチンギス時代 じだい から存在 そんざい する大 だい ハーンの親衛隊 しんえいたい 組織 そしき で、守衛 しゅえい から食事 しょくじ ・衣装 いしょう の準備 じゅんび まで皇帝 こうてい の身 み の回 まわ りのあらゆる事柄 ことがら を管理 かんり 運営 うんえい する家政 かせい 機関 きかん であるケシクテン が重要 じゅうよう な意味 いみ をもち、政府 せいふ の要職 ようしょく に就 つ き政治 せいじ に携 たずさ わる者 もの の多 おお くは、皇帝 こうてい との個人 こじん 的 てき 主従 しゅうじゅう 関係 かんけい に基 もと づき登用 とうよう されたケシクテン所属 しょぞく 者 しゃ (ケシク)からの出向 しゅっこう であった。しかも、彼 かれ らは官庁 かんちょう の役職 やくしょく とは別 べつ にケシクとしての職務 しょくむ を続 つづ け、実際 じっさい の政局 せいきょく 運営 うんえい は官庁 かんちょう の職員 しょくいん の上下 じょうげ 関係 かんけい よりも、むしろケシク組織 そしき 内部 ないぶ の人間 にんげん 関係 かんけい によって進 すす められており、重要 じゅうよう 事項 じこう の決定 けってい は皇帝 こうてい とケシクに列 れっ する有力 ゆうりょく 者 しゃ の合議 ごうぎ により行 おこな われた。
宰相 さいしょう など最高 さいこう 位 い の官職 かんしょく は、ケシクの中 なか でも皇帝 こうてい に近侍 きんじ する者 もの たちが選 えら ばれたが、彼 かれ らは主 おも に千 せん 人 にん 隊長 たいちょう (千 せん 戸長 こちょう )などのモンゴル有力 ゆうりょく 者 しゃ の子弟 してい からなった。特 とく に、ケシクの長官 ちょうかん はチンギスの4人 にん の功臣 こうしん ムカリ 、ボオルチュ 、チラウン 、ボロクル の子孫 しそん によって世襲 せしゅう され、中央 ちゅうおう 官庁 かんちょう の長官 ちょうかん は彼 かれ ら功臣 こうしん や、代々 だいだい 皇族 こうぞく の娘 むすめ 婿 むこ (駙 馬 うま )となってきた姻族 いんぞく などのモンゴル貴族 きぞく が独占 どくせん した。また、有名 ゆうめい な耶律楚 すわえ 材 ざい のように、早 はや い時期 じき にモンゴルに帰順 きじゅん して、ハーンの手足 てあし として行政 ぎょうせい や軍事 ぐんじ に関 かか わってきた者 もの たちの子孫 しそん は、モンゴル人 じん ではなくてもモンゴル人 じん に準 じゅん ずるものとしてケシクに加 くわ えられて高位 こうい の役職 やくしょく を与 あた えられ、世襲 せしゅう することが約束 やくそく されていた。
皇帝 こうてい 家 か との封建 ほうけん 的 てき 主従 しゅうじゅう 関係 かんけい に基 もと づく世襲 せしゅう 社会 しゃかい の元朝 がんちょう では能力 のうりょく に基 もと づく選抜 せんばつ 採用 さいよう は必要 ひつよう がなく、また大量 たいりょう の増員 ぞういん があった元朝 がんちょう による南 みなみ 宋 そう 滅亡 めつぼう に際 さい しても、投降 とうこう した旧 きゅう 官吏 かんり を大量 たいりょう 採用 さいよう したため[ 15] 、科挙 かきょ によって新 あら たに官僚 かんりょう を登用 とうよう する必要 ひつよう が存在 そんざい せず、中国 ちゅうごく の伝統 でんとう 的 てき な官僚 かんりょう 機構 きこう の根幹 こんかん をなす科挙 かきょ もほとんど行 おこな われなかった(耶律楚 すわえ 材 ざい の実施 じっし した科挙 かきょ によって一 いち 次 じ 登録 とうろく された4000人 にん のうち、中央 ちゅうおう 高官 こうかん や県 けん 長 ちょう 以上 いじょう の官職 かんしょく に就 つ いた24人 にん などの例 れい もなくはない[ 16] )。漢 かん 民族 みんぞく 官僚 かんりょう の需要 じゅよう は、オゴデイ時代 じだい の1237年 ねん に儒学 じゅがく を世 よ 業 ぎょう とする家 いえ として選定 せんてい され戸籍 こせき に登録 とうろく された人々 ひとびと 、「儒戸」によって賄 まかな われていた(その後 ご も儒戸の追加 ついか 登録 とうろく がなかったわけではない)。
このように人材 じんざい 運用 うんよう において、「根 ね 脚 あし 」と呼 よ ばれる、先祖 せんぞ の功績 こうせき にもとづく家柄 いえがら 、皇帝 こうてい 家 か との姻戚 いんせき 関係 かんけい などの関係 かんけい の深 ふか さ、主従 しゅうじゅう 関係 かんけい の由緒 ゆいしょ の古 ふる さが重視 じゅうし されるモンゴル伝統 でんとう の封 ふう 権 けん 制度 せいど が元 もと を支 ささ えており、宋 そう 以来 いらい の科挙 かきょ 試験 しけん による中国 ちゅうごく の人材 じんざい 運用 うんよう とは全 まった く異質 いしつ であった。モンゴル皇室 こうしつ の由緒 ゆいしょ を記録 きろく した『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』が、チンギスの功臣 こうしん たちや各 かく 部族 ぶぞく 集団 しゅうだん がチンギスの先祖 せんぞ とチンギス本人 ほんにん に仕 つか えるようになった経緯 けいい を特 とく に詳 くわ しく記述 きじゅつ しているのは、個々 ここ の貴族 きぞく の根 ね 脚 あし の高 たか さを説明 せつめい するためだったと考 かんが えられる。その結果 けっか 、元朝 がんちょう の官吏 かんり は文官 ぶんかん としての能力 のうりょく を著 いちじる しく欠 か いた無能 むのう 者 しゃ が多 おお く、汚職 おしょく や悪政 あくせい と搾取 さくしゅ を繰 く り返 かえ す元凶 げんきょう となった。
貴族 きぞく の家門 かもん に属 ぞく さなくとも出世 しゅっせ できた者 もの もいたが、主 おも に彼 かれ らはモンゴル帝国 ていこく の初期 しょき から政商 せいしょう として重用 じゅうよう され、元朝 がんちょう 初期 しょき に高官 こうかん として財務 ざいむ を担 にな っていた色目 いろめ 人 じん (モンゴル人 じん 、漢人 かんど 、南 みなみ 家 か 以外 いがい の総 すべ ての人々 ひとびと )貴族 きぞく だった。オルトク と呼 よ ばれる国際 こくさい 交易 こうえき のための共同 きょうどう 事業 じぎょう 制度 せいど を通 つう じて皇帝 こうてい や貴族 きぞく と金銭 きんせん を通 つう じたつながりをもった彼 かれ らは財務 ざいむ に明 あか るく重用 じゅうよう された。しかし、徴税 ちょうぜい や専売 せんばい 税 ぜい の請負 うけお いなどで度重 たびかさ なる臨時 りんじ 増税 ぞうぜい を課 か して過重 かじゅう な負担 ふたん を負 お わせ、汚職 おしょく と曲 きょく 法 ほう を極 きわ めて搾取 さくしゅ を行 おこな ったことは「税 ぜい 人 じん 白骨 はっこつ 」に代表 だいひょう される民衆 みんしゅう の怨嗟 えんさ のまととなった[ 17] 。先述 せんじゅつ したアフマドのような色目 いろめ 人 じん 高官 こうかん は、姦臣 かんしん として中国 ちゅうごく 史 し に名 な を残 のこ すことになる。
南 みなみ 宋 そう 出身 しゅっしん の知識 ちしき 人 じん が官吏 かんり となる道 みち は、科挙 かきょ が行 おこな われない以上 いじょう 、まず下級 かきゅう の事務 じむ 官 かん である吏員 りいん として出仕 しゅっし するしかなかった。科挙 かきょ はようやく1315年 ねん に復活 ふっかつ し、中断 ちゅうだん を含 ふく みつつ合計 ごうけい 16回 かい 行 おこな われたが、漢人 かんど (金 かね の支配 しはい 下 か にいた華北 かほく の人々 ひとびと で、漢 かん 民族 みんぞく と漢 かん 化 か した渤海人 じん 、契 ちぎり 丹 に 人 じん 、女 おんな 真人 しんじん などからなる)と南 みなみ 家 か (南 みなみ 宋 そう の支配 しはい 下 か にいた江南 こうなん の人々 ひとびと )の合計 ごうけい 合格者数 ごうかくしゃすう はモンゴル人 じん と色目 いろめ 人 じん の合計 ごうけい と同数 どうすう とされた。しかも全 ぜん 合格 ごうかく 者 しゃ はわずか100名 めい を定員 ていいん としたため元朝 がんちょう の全 ぜん 科挙 かきょ を通 つう じた合計 ごうけい 合格者数 ごうかくしゃすう は1100名 めい 強 きょう に過 す ぎず、宋 そう や明 あかり では1度 ど の科挙 かきょ で数 すう 百 ひゃく 名 めい が合格 ごうかく していたことと比較 ひかく すればきわめて少 すく ない。
もっとも、官吏 かんり ・軍人 ぐんじん ・儒戸としての出仕 しゅっし 、縁故 えんこ ・推挙 すいきょ などによる出仕 しゅっし 、国子 くにこ 監 かん などの国 くに の教育 きょういく 機関 きかん を通 つう じた出仕 しゅっし 、科挙 かきょ 及第 きゅうだい による出仕 しゅっし と出仕 しゅっし 経路 けいろ の多様 たよう 性 せい をモンゴル帝国 ていこく ・元朝 がんちょう の人材 じんざい 登用 とうよう の特徴 とくちょう として捉 とら え、元 もと 代 だい の知識 ちしき 人 じん の多 おお くは自分 じぶん に有利 ゆうり な方法 ほうほう での仕官 しかん を目指 めざ したのであって、「進士 しんし 及第 きゅうだい 」という社会 しゃかい 的 てき 名誉 めいよ にこだわらない限 かぎ りは、どの方法 ほうほう でも構 かま わなかった(科挙 かきょ を受 う ける必然 ひつぜん 性 せい はなかった)とする指摘 してき もある[ 18] 。
民間 みんかん の掌握 しょうあく にあたっても、元 もと では、個々 ここ の民 みん と皇帝 こうてい との個人 こじん 的 てき 主従 しゅうじゅう 関係 かんけい が重視 じゅうし された。元 もと は戸籍 こせき を作成 さくせい するにあたり、各戸 かっこ を「軍 ぐん 戸 ど 」「站戸」「匠 たくみ 戸 ど 」「儒戸」「民 みん 戸 ど 」などの数 すう 十 じゅう 種 しゅ ある職業 しょくぎょう 別 べつ の戸籍 こせき に分 わ け、職業 しょくぎょう 戸 ど は戸 と ごとに世襲 せしゅう させた。儒戸は上 うえ ですでに触 ふ れたが、軍 ぐん 戸 ど や站戸は、軍役 ぐんえき や駅 えき 站に対 たい する責任 せきにん を負 お う代 か わりに免税 めんぜい などの特権 とっけん を享受 きょうじゅ し、一般 いっぱん の民 みん 戸 ど に比 くら べると広大 こうだい な土地 とち を領有 りょうゆう する特権 とっけん 階級 かいきゅう となった。軍 ぐん 戸 ど や站戸はかつての漢 かん 人世 じんせい 侯 こう の配下 はいか の兵士 へいし たちが軍閥 ぐんばつ 解体 かいたい 後 ご に編成 へんせい されたものが主 おも で、モンゴルに対 たい する旧 きゅう 功 こう により特権 とっけん を与 あた えられたのだと理解 りかい される。地域 ちいき 的 てき にも、モンゴルに帰順 きじゅん したのが早 はや い華北 かほく に偏 かたよ っていたといわれている。
世 よ 祖 そ 出猟 しゅつりょう 図 ず 国立 こくりつ 故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん
こうした政治 せいじ 制度 せいど がとられた結果 けっか 、モンゴルは必然 ひつぜん として、モンゴルに帰順 きじゅん した順序 じゅんじょ によって、支配 しはい 下 か の民族 みんぞく の扱 あつか いに厳格 げんかく な格差 かくさ が存在 そんざい した。これが有名 ゆうめい な、モンゴル人 じん ・色目 いろめ 人 じん ・漢人 かんど ・南 みなみ 家 か の四 よん 等 とう 身分 みぶん 制度 せいど である。四 よん 等 とう 身分 みぶん 制度 せいど が実施 じっし されたため、漢人 かんど 南 みなみ 家 か の高級 こうきゅう 官吏 かんり は万 まん 人 にん 無二 むに と称 しょう される様 よう に非常 ひじょう な小数 しょうすう に抑 おさ えられていた。但 ただ しこの身分 みぶん 制度 せいど で支配 しはい の頂点 ちょうてん に立 た っていたモンゴル人 じん でも没落 ぼつらく して奴隷 どれい になる者 もの もいた。クビライも皇帝 こうてい 即位 そくい 以前 いぜん からウイグル 人 ひと ・契 ちぎり 丹 に 人 ひと ・漢人 かんど ・女 おんな 真人 しんじん などからなる多種 たしゅ 族 ぞく 混成 こんせい のブレイン・実務 じつむ 集団 しゅうだん を抱 かか えている。元 もと 王朝 おうちょう では財務 ざいむ に優 すぐ れた色目 いろめ 人 じん (ムスリム )たちには財政 ざいせい 部門 ぶもん を、文化 ぶんか ・宗教 しゅうきょう 関係 かんけい 部門 ぶもん にはチベット 人 ひと やインド 、ネパール 、カシミール 地方 ちほう の出身 しゅっしん 者 しゃ を、そして科学 かがく ・学術 がくじゅつ ・情報 じょうほう ・技術 ぎじゅつ 分野 ぶんや にはあらゆる地域 ちいき 出身 しゅっしん の人々 ひとびと が登用 とうよう され、各人 かくじん の特性 とくせい や能力 のうりょく に応 おう じた職務 しょくむ を分担 ぶんたん した。そして元 もと 末 まつ にはキプチャク親衛 しんえい 軍 ぐん やアスト親衛 しんえい 軍 ぐん のように元々 もともと モンゴルではない出自 しゅつじ の者 もの がモンゴル貴族 きぞく なみに政権 せいけん を左右 さゆう し、漢 かん 民族 みんぞく 出身 しゅっしん 者 しゃ でも元 もと 王朝 おうちょう に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか うものが現 あらわ れた。台北 たいぺい 市 し の国立 こくりつ 故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん に収 おさ められているクビライの狩猟 しゅりょう の様子 ようす を描 えが いた「世 よ 祖 そ 出猟 しゅつりょう 図 ず 」では黒人 こくじん と思 おも われる黒 くろ い肌 はだ をした馬 うま に乗 の った人物 じんぶつ がクビライの近 ちか くに描 えが かれる[ 19] 。
このようにモンゴルの慣習 かんしゅう に固執 こしつ し、科挙 かきょ によらず縁故 えんこ 主義 しゅぎ (科挙 かきょ は実力 じつりょく に基 もと づく)により人材 じんざい を登用 とうよう し、特 とく にモンゴル人 じん の中国 ちゅうごく への同化 どうか を嫌 きら った元 もと の政治 せいじ 制度 せいど はきわめて特異 とくい であり、その分権 ぶんけん 的 てき で中世 ちゅうせい 的 てき な支配 しはい は、唐 とう 代 だい 以来 いらい 貴族 きぞく 階層 かいそう 及 およ び農奴 のうど 制 せい の解体 かいたい と皇帝 こうてい 独裁 どくさい へと進 すす んできた中国 ちゅうごく の歴史 れきし の大 おお まかな流 なが れからみれば大 おお いに時代 じだい 逆行 ぎゃっこう 的 てき であった。また、流通 りゅうつう や貿易 ぼうえき の振興 しんこう を図 はか り、紙幣 しへい を流通 りゅうつう させるなど経済 けいざい ・商業 しょうぎょう 政策 せいさく は南 みなみ 宋 そう の施行 しこう を引 ひ き継 つ いだものの、奴隷 どれい 制 せい へ逆行 ぎゃっこう した弊害 へいがい は大 おお きく広範 こうはん な産業 さんぎょう (特 とく に農業 のうぎょう 全般 ぜんぱん 、漁業 ぎょぎょう 、鉱業 こうぎょう 全般 ぜんぱん )において停滞 ていたい 期 き に入 はい り、宋 そう 代 だい の水準 すいじゅん へ回復 かいふく するのは明代 あきよ 中期 ちゅうき まで待 ま つ事 こと となる。[ 20]
(単位 たんい は以下 いか の通 とお り ; 10升 しょう =1石 せき =約 やく 95リットル。1畝 うね =約 やく 565平方 へいほう メートル。10銭 ぜに =1両 りょう =37.3グラム)
元 もと の繁栄 はんえい は、人口 じんこう の多 おお く豊 ゆた かな中国 ちゅうごく を数 すう 百 ひゃく 年 ねん ぶりに統一 とういつ したことで中国 ちゅうごく の北 きた と南 みなみ の経済 けいざい をリンクさせ、モンゴル帝国 ていこく の緩 ゆる やかな統一 とういつ がもたらした国際 こくさい 交易 こうえき を振興 しんこう した。また、塩 しお の国家 こっか 専売 せんばい による莫大 ばくだい な収入 しゅうにゅう と莫大 ばくだい な農業 のうぎょう 生産 せいさん 力 りょく による穀物 こくもつ が国庫 こっこ を支 ささ えた。経済 けいざい センターとして計画 けいかく 設計 せっけい された都 と 、大 だい 都 と に集中 しゅうちゅう する国際 こくさい 的 てき な規模 きぼ の物流 ぶつりゅう からも商 しょう 税 ぜい が得 え られた。元 もと での経済 けいざい 政策 せいさく を担当 たんとう していた者 もの の多 おお くは色目 いろめ 人 じん であった。
中国 ちゅうごく の全土 ぜんど を見渡 みわた すと、元 もと の国土 こくど の内側 うちがわ で最 もっと も生産 せいさん 性 せい に富 と んでいたのは、南 みなみ 宋 そう を滅 ほろ ぼして手 て に入 い れた江南 こうなん であった。江南 こうなん は、元 もと よりはるか以前 いぜん の隋 ずい 唐 とう 時代 じだい から中国 ちゅうごく 全体 ぜんたい の経済 けいざい を支 ささ えるようになっていたが、華北 かほく を金 かね に奪 うば われた南 みなみ 宋 そう がこの地 ち を中心 ちゅうしん として150年間 ねんかん 続 つづ いたことで開発 かいはつ は更 さら に進 すす み、江南 こうなん と華北 かほく の経済 けいざい 格差 かくさ はますます広 ひろ がっており、江南 こうなん を併合 へいごう する前 まえ の1271年 ねん とした後 のち の1285年 ねん では、その歳入 さいにゅう の額 がく が20倍 ばい に跳 は ね上 あ がったという数字 すうじ が出 で ている。[ 21]
江南 こうなん の農業 のうぎょう 収穫 しゅうかく を国家 こっか が効率 こうりつ 的 てき に得 え るために効果 こうか をあげたのは、国家 こっか 直営 ちょくえい の田地 でんち で、単位 たんい 面積 めんせき あたりから通常 つうじょう の税収 ぜいしゅう に数 すう 倍 ばい する収穫 しゅうかく が得 え られる奴婢 ぬひ を用 もち いた官 かん 田 でん の経営 けいえい であった。官 かん 田 でん は南 みなみ 宋 そう の末期 まっき に拡大 かくだい が進 すす んでいたが、元 もと はこれを接収 せっしゅう すると南 みなみ 宋 そう の皇族 こうぞく や高官 こうかん 、不正 ふせい を働 はたら いた者 もの などから没収 ぼっしゅう した田 た を加 くわ えて官 かん 田 た をさらに拡大 かくだい し、江南 えな で莫大 ばくだい な穀物 こくもつ を国庫 こっこ に収 おさ めることができた。これに加 くわ え、クビライは『農 のう 桑 くわ 輯要 』という官 かん 撰 せん の農 のう 書 しょ を刊行 かんこう した。これまでにも同様 どうよう の書籍 しょせき はあったが、国家 こっか の政策 せいさく として同書 どうしょ が編纂 へんさん されたということは、元 もと の内政 ないせい が商業 しょうぎょう 一辺倒 いっぺんとう であったわけではなく、国家 こっか 的 てき 規模 きぼ での勧 すすむ 農政 のうせい 策 さく が推進 すいしん されたことを物語 ものがた っている。さらに虞 おそれ 集 しゅう に代表 だいひょう される農業 のうぎょう 水利 すいり の専門 せんもん 家 か が登用 とうよう されて、江南 こうなん から移民 いみん を募 つの って戦乱 せんらん で荒廃 こうはい した華北 かほく の農地 のうち の再建 さいけん を図 はか るなどして、農業 のうぎょう 生産 せいさん の充実 じゅうじつ に努 つと めている。しかし、金代 かなだい に農地 のうち 1畝 うね 当 あ たり1.5石 せき 程度 ていど だった華北 かほく の生産 せいさん 性 せい が元 もと 代 だい には1畝 うね 当 あ たり0.6程度 ていど にまで激減 げきげん しており、戦乱 せんらん や奴隷 どれい 制 せい による農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ の大 おお きな衰退 すいたい が確認 かくにん される。
また、クビライは海 うみ に面 めん した現在 げんざい の天津 てんしん から大 だい 都 と まで80kmほどの運河 うんが を穿 うが ち、大 だい 都 と の中 なか に港 みなと をつくって江南 こうなん の穀物 こくもつ を大 だい 都 と へ運送 うんそう するのに手間 てま の掛 か かる運河 うんが ではなく海運 かいうん を使用 しよう するようにしたことで京 きょう 杭 くい 大 だい 運河 うんが は完成 かんせい した。
さらに、江南 こうなん には、元 もと の国家 こっか 収入 しゅうにゅう の屋台骨 やたいぼね を支 ささ える塩 しお ・茶 ちゃ (酒 さけ ・明礬 みょうばん は江南 こうなん に偏 かたよ らない)などの専 せん 売品 ばいひん の生産 せいさん の大半 たいはん が集中 しゅうちゅう しており、専売 せんばい 制 せい は江南 こうなん の富 とみ を国家 こっか が吸 す い上 あ げるために重要 じゅうよう な制度 せいど だった。専売 せんばい 制 せい による利益 りえき は巨大 きょだい であり、特 とく に、塩 しお は生活 せいかつ に欠 か かせないことから厳重 げんじゅう に管理 かんり され、後述 こうじゅつ するように元 もと の経済 けいざい 制度 せいど の根幹 こんかん に関 かか わっていた。
この江南 こうなん の経済 けいざい 力 りょく を元 もと に繁栄 はんえい が築 きず かれたわけだが、これは別 べつ の一 いち 面 めん からいえば、江南 こうなん からの収入 しゅうにゅう が無 な ければ元 もと は立 た ち行 ゆ かないということであり、南中 なんちゅう 国 こく で相次 あいつ いだ反乱 はんらん により元 もと が急速 きゅうそく に衰退 すいたい し、また反乱 はんらん 者 しゃ の中 なか で勝 か ち残 のこ ったのが江南 こうなん を奪 うば った群雄 ぐんゆう であったのは、必然 ひつぜん でもあった。
(政治 せいじ の状況 じょうきょう などにより税率 ぜいりつ は様々 さまざま に変更 へんこう されるものである。ここであげる税額 ぜいがく は1260年 ねん のクビライ即位 そくい の年 とし の例 れい に拠 よ っている。)
元 もと の税制 ぜいせい は、かつての金 かね の領土 りょうど (漢 かん 地 ち )と、南 みなみ 宋 そう の領土 りょうど (江南 こうなん )とで異 こと なっていた。
漢 かん 地 ち の税制 ぜいせい は、オゴデイの時代 じだい に耶律楚 すわえ 材 ざい らによって整備 せいび された税制 ぜいせい をもとにしたもので、それぞれに税 ぜい 糧 かて の法 ほう 、科 か 差 さ の法 ほう と呼 よ ばれる2つの税法 ぜいほう からなっていた。
税 ぜい 糧 かて は、各戸 かっこ の壮丁 そうてい (労働 ろうどう に耐 た えうる男性 だんせい )ごとに粟 あわ (穀物 こくもつ )1石 せき 、あるいは土地 とち 1畝 うね ごとに畑 はたけ は3升 しょう 、灌漑 かんがい 地 ち は5升 しょう 、というように人数 にんずう 割 わり と田畑 たはた の面積 めんせき 割 わり の二 に 種類 しゅるい のうちどちらかにもとづき、穀物 こくもつ を税 ぜい として収 おさ めるものである。人数 にんずう 割 わり と面積 めんせき 割 わり のどちらを取 と るかは、高 たか いほうを取 と るよう定 さだ められていたため、人頭 じんとう 税 ぜい と面積 めんせき に対 たい してかかる一般 いっぱん 的 てき な田 た 税 ぜい の両 りょう 建 だ てだった歴代 れきだい 中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう とは趣 おもむき が異 こと なる。
もう一方 いっぽう の科 か 差 さ は戸 と に対 たい して課 か せられる税 ぜい で、更 さら に糸 いと 料 りょう と包 つつみ 銀 ぎん とに分 わ かれる。糸 いと 料 りょう は最高 さいこう で絹糸 けんし を22両 りょう 4銭 ぜに (重量 じゅうりょう )を収 おさ め、包 つつみ 銀 ぎん は銀 ぎん 6両 りょう を収 おさ めた。包 つつみ 銀 ぎん 税 ぜい は、モンゴルの王族 おうぞく ・貴族 きぞく が国際 こくさい 商業 しょうぎょう に投資 とうし するために当時 とうじ の国際 こくさい 通貨 つうか である銀 ぎん を集 あつ める目的 もくてき で設 もう けられた。この2つの税 ぜい の徴税 ちょうぜい 事務 じむ は、金 かね を滅 ほろ ぼし華北 かほく へ進出 しんしゅつ した当初 とうしょ は委託 いたく された徴税 ちょうぜい 人 じん によって行 おこな われていたが、モンケの治世 ちせい 期 き 以降 いこう は次第 しだい にかつてモンゴルへ投降 とうこう した在地 ざいち の金 かね 人 じん ・漢人 かんど の世 よ 候 こう によって代替 だいたい されるようになり、それに伴 ともな って中間 ちゅうかん での抜 ぬ き取 と りは減 へ ったものの元朝 がんちょう 政府 せいふ は税額 ぜいがく を2倍 ばい 前後 ぜんこう としたため民衆 みんしゅう の過重 かじゅう な負担 ふたん は変 か わらなかった。
一方 いっぽう 、江南 こうなん の方 ほう では、南 みなみ 宋 そう から引 ひ き継 つ いだ両 りょう 税法 ぜいほう をそのまま用 もち いていた。両 りょう 税法 ぜいほう では、各戸 かっこ が夏 なつ に木綿 こわた などの物産 ぶっさん 、秋 あき に穀物 こくもつ を、それぞれの資産 しさん に応 おう じた額 がく で年 とし に2回 かい 納税 のうぜい する。
しかし、これらの農村 のうそん からあがる税収 ぜいしゅう は、基本 きほん 的 てき に地方 ちほう の政府 せいふ 機関 きかん で使 つか われ、中央 ちゅうおう 政府 せいふ の歳入 さいにゅう は穀物 こくもつ よりも銀 ぎん が重視 じゅうし された。そのため、先述 せんじゅつ したように、元 もと は中央 ちゅうおう の歳入 さいにゅう は専売 せんばい や商 しょう 税 ぜい などの商業 しょうぎょう 活動 かつどう からあがる収入 しゅうにゅう に依存 いぞん する割合 わりあい が他 た の王朝 おうちょう よりも高 たか かった。
元 もと の商 しょう 税 ぜい は銀 ぎん 納 おさめ で、税率 ぜいりつ をおよそ3.3%に定 さだ められた。元 もと の商 しょう 税 ぜい は、金 かね や南 みなみ 宋 そう と同 おな じく奢侈 しゃし 品 ひん や非 ひ 日 にち 用品 ようひん が州 しゅう 府 ふ 間 あいだ を移動 いどう するときや港湾 こうわん を商品 しょうひん が通過 つうか するときに関税 かんぜい を課 か され、日 にち 用品 ようひん は最終 さいしゅう 売却 ばいきゃく 地 ち で売却 ばいきゃく 時 じ に商 しょう 税 ぜい を支払 しはら えばよかった。反面 はんめん 、海外 かいがい との交易 こうえき は厳格 げんかく に統制 とうせい が敷 し かれたが、国庫 こっこ に入 はい る商 しょう 税 ぜい の総額 そうがく は歳入 さいにゅう の1~3割 わり にのぼった。
しかし、元 もと において8割 わり とも言 い われる歳入 さいにゅう のもっとも大 おお きな部分 ぶぶん を占 し めたのは、次 つぎ に詳 くわ しく触 ふ れる塩 しお の専売 せんばい 制 せい である。
金融 きんゆう 政策 せいさく と塩 しお 専売 せんばい 制度 せいど [ 編集 へんしゅう ]
中国 ちゅうごく では北 きた 宋 そう 代 だい には会 かい 子 こ と呼 よ ばれる紙幣 しへい が流通 りゅうつう しており、モンゴル帝国 ていこく も、オゴデイの時代 じだい には既 すで に金 かね や南 みなみ 宋 そう で使 つか われていた紙幣 しへい を取 と り入 い れ、帝国 ていこく 内 ない で使用 しよう する事 こと が出来 でき る交鈔 (こうしょう、あるいは単 たん に鈔とも)と呼 よ ばれる紙幣 しへい を流通 りゅうつう させていた。元 もと ではクビライが即位 そくい した1260年 ねん に中 なか 統 みつる 元 もと 宝 たから 交鈔(通称 つうしょう ・中 なか 統 みつる 鈔)と言 い う交鈔を発行 はっこう した。会 かい 子 こ など旧来 きゅうらい の紙幣 しへい は発行 はっこう されてから通貨 つうか としての価値 かち が無効 むこう になるまでの期間 きかん が限定 げんてい されており、紙幣 しへい はあくまで補助 ほじょ 通貨 つうか としての役割 やくわり しか持 も たなかったが、モンゴルは初 はじ めて通貨 つうか としての紙幣 しへい を本格 ほんかく 的 てき に流通 りゅうつう させた。
交鈔は金 きむ 銀 ぎん との兌換 だかん (交換 こうかん )が保障 ほしょう されており、包 つつみ 銀 ぎん の支払 しはら いも交鈔で行 おこな うことができるようにして、元 もと は紙幣 しへい の流通 りゅうつう を押 お し進 すす めた。しかし、交鈔の増刷 ぞうさつ は連年 れんねん 進 すす められ、特 とく に南 みなみ 宋 そう を併合 へいごう した後 のち に江南 こうなん に流通 りゅうつう させるために大 だい 増刷 ぞうさつ するが、これにより紙幣 しへい の流通 りゅうつう に対 たい して金銀 きんぎん の兌換 だかん 準備 じゅんび が不足 ふそく し、価値 かち が下 さ がった。
至 いたり 元 もと 通行 つうこう 寳 たから 鈔とその原版 げんばん 。上段 じょうだん 左 ひだり の欄 らん にパスパ文字 もじ で「至 いたり 元 もと 寳 たから 鈔(jˇi ’ŭen baw č‘aw)」と書 か かれている。
これに対 たい して1287年 ねん に中 なか 統 みつる 鈔の五 ご 倍 ばい の価値 かち に当 あ たる至 いたり 元 もと 通行 つうこう 宝 たから 鈔(通称 つうしょう ・至 いたり 元 もと 鈔)を発行 はっこう し、併 あわ せてだぶついた紙幣 しへい の回収 かいしゅう も行 おこな い、紙幣 しへい 価値 かち は比較的 ひかくてき 安定 あんてい に向 む かった。それでも、絶 た えず紙幣 しへい の増刷 ぞうさつ が行 おこな われたために紙幣 しへい 価値 かち の下落 げらく は避 さ けられなかったが、元 もと では塩 しお の専売 せんばい 制 せい を紙幣 しへい 価値 かち の安定 あんてい に寄与 きよ させてこれを解決 かいけつ した。生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん である塩 しお は、専売 せんばい 制 せい によって政府 せいふ によって独占 どくせん 販売 はんばい されるが、政府 せいふ は紙幣 しへい を正貨 せいか としているため、紙幣 しへい でなければ塩 しお を購入 こうにゅう することはできない。しかし、これは視点 してん を変 か えれば、紙幣 しへい は政府 せいふ によって塩 しお との交換 こうかん が保障 ほしょう されているということである。しかもごく少 すく ない採掘 さいくつ 額 がく を除 のぞ けば絶対 ぜったい 量 りょう の増加 ぞうか がほとんど起 お こらない金銀 きんぎん に対 たい し、消費 しょうひ 財 ざい である塩 しお は常 つね に生産 せいさん されつづけるから、塩 しお の販売 はんばい という形 かたち で紙幣 しへい の塩 しお への「兌換 だかん 」をいくら行 い っても政府 せいふ の兌換 だかん 準備 じゅんび 額 がく は減少 げんしょう しない。こうして、専売 せんばい 制 せい とそれによる政府 せいふ の莫大 ばくだい な歳入 さいにゅう 額 がく を保障 ほしょう として紙幣 しへい の信用 しんよう は保 たも たれ、金銀 きんぎん への兌換 だかん 準備 じゅんび が不足 ふそく しても紙幣 しへい 価値 かち の下落 げらく は進 すす みにくい構造 こうぞう が保 たも たれたのである。
さらに塩 しお の専売 せんばい 制 せい はそれ自体 じたい が金融 きんゆう 政策 せいさく として機能 きのう した。元 もと に限 かぎ らず、中国 ちゅうごく では、政府 せいふ の製塩 せいえん 所 しょ で生産 せいさん された塩 しお を民間 みんかん の商人 しょうにん が購入 こうにゅう するには、塩引 しおびき と呼 よ ばれる政府 せいふ の販売 はんばい する引換 ひきかえ 券 けん が必要 ひつよう とされたが、塩引 しおびき は塩 しお と交換 こうかん されることが保障 ほしょう されているために、紙幣 しへい の代用 だいよう に使 つか うことができた。元 もと はこれを発展 はってん させ、宋 そう では銭 ぜに 貨によって販売 はんばい されていた塩引 しおびき を、銀 ぎん ・交鈔によって販売 はんばい した。こうして塩引 しおびき は国際 こくさい 通貨 つうか である銀 ぎん と交換 こうかん される価値 かち を獲得 かくとく し、しかも一 いち 枚 まい の額面 がくめん 額 がく が高 たか いために、商業 しょうぎょう の高額 こうがく 決済 けっさい に便利 べんり な高額 こうがく 通貨 つうか ともなった。
こうして、塩 しお との交換 こうかん で保障 ほしょう された交鈔・塩引 しおびき を銀 ぎん に等 ひと しい通貨 つうか として流通 りゅうつう させることによって銀 ぎん の絶対 ぜったい 量 りょう の不足 ふそく を補 おぎな いつつ、塩引 しおびき の代金 だいきん と先 さき に述 の べた商 しょう 税 ぜい を銀 ぎん 単位 たんい で徴収 ちょうしゅう したことにより、元 もと の中央 ちゅうおう 政府 せいふ 、ひいては皇帝 こうてい の手元 てもと には、中国 ちゅうごく 全土 ぜんど から多量 たりょう の銀 ぎん が集 あつ められた。こうして蓄 たくわ えられた銀 ぎん は広大 こうだい な領土 りょうど を維持 いじ 、発展 はってん させるための莫大 ばくだい な軍事 ぐんじ 費 ひ として使 つか われるほか、少 すく なくない部分 ぶぶん が皇帝 こうてい から家臣 かしん であるモンゴル貴族 きぞく たちに対 たい する下賜 かし という形 かたち で使 つか われた。
元 もと では功臣 こうしん 達 たち には毎年 まいとし 必 かなら ず下賜 かし があり、それ以外 いがい にも臨時 りんじ の下賜 かし があった。この総額 そうがく が専売 せんばい で得 え られた利益 りえき の2割 わり にも達 たっ すると見 み られている。王族 おうぞく に対 たい する下賜 かし は、遠 とお く西方 せいほう の諸王 しょおう にまで下 くだ されていたことがしられる。チンギスの時代 じだい には戦争 せんそう による略奪 りゃくだつ をもたらす軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ であることを求 もと められていた君主 くんしゅ は、元 もと においてはまずなにより富 とみ を集 あつ め、貴族 きぞく ・王族 おうぞく たちに再 さい 分配 ぶんぱい する能力 のうりょく と気前 きまえ が求 もと められる存在 そんざい に変化 へんか していた。皇帝 こうてい の側 がわ から見 み れば、皇帝 こうてい の独裁 どくさい 政権 せいけん であると同時 どうじ に東方 とうほう 三 さん 王家 おうけ を始 はじ めとするモンゴル貴族 きぞく の連合 れんごう 政権 せいけん でもある元 もと の統一 とういつ を保 たも ち、元 もと を宗主 そうしゅ とするモンゴル帝国 ていこく の緩 ゆる やかな連合 れんごう 関係 かんけい を保 たも つためには下賜 かし は不可欠 ふかけつ な事業 じぎょう であり、そのために富 とみ を集積 しゅうせき できる経済 けいざい 政策 せいさく をとることは必然 ひつぜん だった。そして、皇室 こうしつ ・王族 おうぞく ・貴族 きぞく はこうして得 え た銀 ぎん をオルトクに投資 とうし し、国際 こくさい 交易 こうえき に流 なが れた銀 ぎん は中国 ちゅうごく への物流 ぶつりゅう となって大 だい 都 と に還流 かんりゅう し、そこからあがる利益 りえき の一部 いちぶ が商 しょう 税 ぜい となって再 ふたた び皇帝 こうてい の手元 てもと に戻 もど る仕組 しく みとなっていた。
このように、専売 せんばい 制 せい による歳入 さいにゅう は元 もと の経済 けいざい 政策 せいさく の根幹 こんかん に関 かか わったため、密売 みつばい は厳 きび しく禁止 きんし された。しかし、14世紀 せいき に入 はい ると、中央 ちゅうおう 政治 せいじ の弛緩 しかん は塩 しお の密売 みつばい や紙幣 しへい の濫発 らんぱつ による信用 しんよう の喪失 そうしつ を招 まね き、紙幣 しへい の価値 かち が暴落 ぼうらく した。この結果 けっか 、元 もと の金融 きんゆう 政策 せいさく は破綻 はたん し、交鈔は1356年 ねん に廃止 はいし された。
元 もと は権利 けんり を授与 じゅよ した政商 せいしょう や王侯 おうこう が委託 いたく する海 うみ 商 しょう 以外 いがい の海外 かいがい 交易 こうえき を厳禁 げんきん とし、私 わたし 貿易 ぼうえき に対 たい する海 うみ 禁 きん 政策 せいさく (外国 がいこく からの交易 こうえき 船 せん は禁止 きんし していない)を執 と っていた。金銀 きんぎん 銅 どう 鉄 てつ 貨や奴婢 ぬひ ・武器 ぶき 防具 ぼうぐ ・絹 きぬ ・馬匹 ばひつ ・兵糧 ひょうろう を持 も ち出 だ しが発覚 はっかく した場合 ばあい は、船主 せんしゅ 以下 いか 棒 ぼう 叩 はた き107回 かい ・船舶 せんぱく 積荷 つみに 没収 ぼっしゅう の罰 ばっ が課 か され、外国 がいこく からの交易 こうえき 船 せん に対 たい しても徴税 ちょうぜい と取引 とりひき の監 かん 視 し と規制 きせい が為 な された。
船舶 せんぱく は決 き まった港湾 こうわん への登録 とうろく が義務付 ぎむづ けられ、それ以外 いがい の都市 とし に停泊 ていはく した場合 ばあい は罪 つみ に問 と われた。また乗員 じょういん も厳格 げんかく な管理 かんり が行 おこな われ船長 せんちょう から水夫 すいふ に至 いた るまで全員 ぜんいん に登録 とうろく の義務 ぎむ があり、漏 も れがあった場合 ばあい は関係 かんけい 者 しゃ の家族 かぞく 諸共 もろとも 罪 ざい に問 と われた。交易 こうえき 先 さき も厳重 げんじゅう に管理 かんり され、申告 しんこく した国 くに 以外 いがい との貿易 ぼうえき は認 みと められず、大船 おおぶね には官吏 かんり が乗 の り込 こ み取引 とりひき 内容 ないよう などの監視 かんし が行 おこな われた。
元 もと では船舶 せんぱく 税 ぜい として出国 しゅっこく と帰国 きこく の際 さい に積荷 つみに の1/30を、交易 こうえき 許可 きょか として細 ほそ 貨から1/10を粗 ほぼ 貨から1/15を現物 げんぶつ で徴収 ちょうしゅう した。
元来 がんらい シャーマニ を信仰 しんこう してきたモンゴルは、チンギスの時代 じだい より多 た 宗教 しゅうきょう の共存 きょうぞん を許 ゆる し、いずれもひとつの天神 てんじん (テングリ )を祀 まつ るものとして保護 ほご してきた。
中国 ちゅうごく の宗教 しゅうきょう でもっともはじめにモンゴルの保護 ほご を勝 か ち取 と ったのは金 かね の治下 ちか で生 う まれた全 ちょん 真教 まさのり を始 はじ めとする道教 どうきょう 教団 きょうだん で、教主 きょうしゅ 丘 おか 長春 ちょうしゅん 自 みずか らがサマルカンド 滞在 たいざい 中 ちゅう のチンギスの宮廷 きゅうてい に赴 おもむ き、モンゴルによる保護 ほご 、免税 めんぜい と引 ひ き換 か えにモンゴル皇帝 こうてい のために祈 いの ることを命 めい ぜられた。これにより全 ちょん 真教 まさのり 団 だん はチンギスの勅許 ちょっきょ によって華北 かほく 一帯 いったい をはじめとするモンゴル帝国 ていこく の漢 かん 地 ち 領土 りょうど において宗教 しゅうきょう 諸 しょ 勢力 せいりょく を統括 とうかつ する特権 とっけん を得 え たため、その勢力 せいりょく は急速 きゅうそく に拡大 かくだい する事 こと になった。金 かね 朝 あさ の首都 しゅと であった中 ちゅう 都 と (のちの大 だい 都 と が建設 けんせつ される)を拠点 きょてん として、教団 きょうだん は金 きむ 朝 ちょう 滅亡 めつぼう 後 ご に失職 しっしょく した官吏 かんり を保護 ほご し、さらに全 ちょん 真教 まさのり 系列 けいれつ の各地 かくち の道 みち 観 かん は漢人 かんど 官僚 かんりょう 組織 そしき の育成 いくせい 機関 きかん も担 にな うようになって、これらの官吏 かんり たちがモンゴル帝国 ていこく 支配 しはい 下 か の漢 かん 地 ち 領土 りょうど において行政 ぎょうせい 組織 そしき の運営 うんえい に携 たずさ わった。しかし、この急激 きゅうげき な教団 きょうだん の拡大 かくだい は浄土 じょうど 教 きょう 系 けい や禅宗 ぜんしゅう などの華北 かほく の中国 ちゅうごく 仏教 ぶっきょう 教団 きょうだん との深刻 しんこく な対立 たいりつ を生 う み出 だ した。特 とく に、全 ちょん 真教 まさのり の道士 どうし たちやそれに連 つら なる漢人 かんど 官吏 かんり たちが、既存 きそん の仏教 ぶっきょう 寺院 じいん を不法 ふほう に接収 せっしゅう し道 どう 観 かん に作 つく り替 か えたり、寺院 じいん 付属 ふぞく の荘園 しょうえん を没収 ぼっしゅう して私 わたし 領 りょう するなどの事件 じけん が多発 たはつ したため、仏教 ぶっきょう 諸派 しょは はモンゴル宮廷 きゅうてい にこの事態 じたい を直訴 じきそ する事態 じたい となった。モンケ の治世 ちせい にカラコルム と中 なか 都 と で都合 つごう 3回 かい 行 おこな われたといういわゆる「道仏 どうぶつ 論 ろん 争 そう 」は宗教 しゅうきょう 問答 もんどう の形 かたち を取 と っていたが実際 じっさい はこの問題 もんだい を詮議 せんぎ するため、モンケによって開催 かいさい されたものであった。(カラコルムでモンケ臨席 りんせき のもと開催 かいさい された時 とき は、ルイ9世 せい から派遣 はけん されたウィリアム・ルブルック も出席 しゅっせき しており、帝国 ていこく 内外 ないがい のキリスト教徒 きりすときょうと やイスラム教徒 きょうと の知識 ちしき 人 じん たちも参加 さんか していた)[ 22]
京 きょう 兆 ちょう 府 ふ (現在 げんざい の西安 しーあん )から中 なか 都 と (燕 つばめ 京 きょう )に派遣 はけん されたクビライ のもとで開催 かいさい された時 とき 、華北 かほく 仏教 ぶっきょう 諸派 しょは の嘆願 たんがん を汲 く んで全 ちょん 真教 まさのり 団 だん はチンギス以来 いらい 任 まか されていた華北 かほく 宗教 しゅうきょう 界 かい における政治 せいじ 権力 けんりょく を剥奪 はくだつ され、代 か わりに中 なか 都 と での宗教 しゅうきょう 行政 ぎょうせい の総 そう 監 かん であったカシュミール 出身 しゅっしん の仏 ふつ 僧 そう 「国師 こくし 」那 な 摩 ま (ナーモ)の後任 こうにん として招 まね かれたチベット仏教 ぶっきょう サキャ派 は の高僧 こうそう サキャ・パンディタ 、およびパスパ に宗教 しゅうきょう 界 かい を監督 かんとく する権限 けんげん を与 あた えた[ 23] 。全 ちょん 真教 まさのり はこの「道仏 どうぶつ 論 ろん 争 そう 」に敗 やぶ れて勢力 せいりょく を一時 いちじ 的 てき に後退 こうたい させた。しかしながら、これは根本 こんぽん 的 てき に道教 どうきょう が弾圧 だんあつ されたわけではなく、また南 みなみ 宋 そう の併合 へいごう が進 すす むと、後 こう 漢 かん の五斗米 ごとべい 道 どう の系譜 けいふ をひく正 せい 一 いち 教 きょう が江南 こうなん 道教 どうきょう の統括 とうかつ 者 しゃ の地位 ちい を与 あた えられて、保護 ほご が拡大 かくだい された。この前後 ぜんご から全 ちょん 真教 まさのり のみならず少林寺 しょうりんじ 、玄 げん 中寺 なかでら などの浄土宗 じょうどしゅう 、禅宗 ぜんしゅう の仏教 ぶっきょう 大 だい 寺院 じいん をはじめ曲 きょく 阜 などの孔子 こうし 廟 びょう などに加 くわ え、チベット仏教 ぶっきょう へも歴代 れきだい モンゴル皇帝 こうてい や王族 おうぞく 、貴族 きぞく 層 そう から多大 ただい な保護 ほご と寄進 きしん を受 う ける[ 24] 。
仏教 ぶっきょう は、はじめに保護 ほご を獲得 かくとく したのは禅宗 ぜんしゅう で、耶律楚 すわえ 材 ざい など宮廷 きゅうてい に仕 つか える在家 ざいけ 信者 しんじゃ を通 つう じてモンゴルの信任 しんにん を受 う けた。代表 だいひょう 的 てき な僧 そう に杭州 こうしゅう の中 ちゅう 峰 みね 明 あきら 本 ほん (1263年 ねん - 1323年 ねん )がいる。しかし、やがてチベット仏教 ぶっきょう が勢力 せいりょく を拡大 かくだい し、モンゴル貴族 きぞく の間 あいだ にチベット仏教 ぶっきょう が大 おお いに広 ひろ まる。クビライはサキャ派 は の教主 きょうしゅ パクパ(パスパ)に対 たい し、1260年 ねん に「国師 こくし 」、1269年 ねん に「帝 みかど 師 し 」の称号 しょうごう を授 さづ け、元 もと 領内 りょうない の全 ぜん 仏教 ぶっきょう 教団 きょうだん に対 たい する統制 とうせい 権 けん を認 みと めた。パクパの一族 いちぞく が叔父 おじ から甥 おい へと継承 けいしょう したサキャ派 は の教主 きょうしゅ は代々 だいだい 国師 こくし ・帝 みかど 師 し として重用 じゅうよう され、専属 せんぞく の官庁 かんちょう として宣政 のぶまさ 院 いん を与 あた えられて、宗教 しゅうきょう 行政 ぎょうせい とチベットの施政 しせい を統括 とうかつ した。元 もと 代 だい 後期 こうき から末期 まっき になると、これに耽溺 たんでき するモンゴル王侯 おうこう が増 ふ え、ラマ に過大 かだい な特権 とっけん を与 あた えたり、宮廷 きゅうてい に篭 こ もって政治 せいじ をかえりみなくなったり、宗教 しゅうきょう 儀礼 ぎれい のために過大 かだい な出費 しゅっぴ を行 おこな ったことは元 もと の衰亡 すいぼう の要因 よういん として古 ふる くからよくあげられる点 てん のひとつである。
イスラム教 いすらむきょう およびキリスト教 きりすときょう [ 編集 へんしゅう ]
また、国際 こくさい 交易 こうえき の隆盛 りゅうせい にともなって海 うみ と陸 りく の両方 りょうほう からイスラム教 いすらむきょう が流入 りゅうにゅう し、泉州 せんしゅう などの沿岸 えんがん 部 ぶ や雲南 うんなん 省 しょう などの内陸 ないりく に大 だい 規模 きぼ なムスリム共同 きょうどう 体 たい があった。現在 げんざい の北京 ぺきん にある中国 ちゅうごく でも最古 さいこ 級 きゅう のモスク である牛 うし 街 がい 清真 きよざね 寺 てら はこの当時 とうじ 、中 ちゅう 都城 みやこのじょう 内 ない にあり、モンゴル帝国 ていこく 、大元 おおもと ウルス時代 じだい に大 おお きく敷地 しきち を拡大 かくだい したモスクのひとつである[ 25] 。もうひとつの大 だい 宗教 しゅうきょう はキリスト教 きりすときょう で、ケレイト王国 おうこく や陰 かげ 山 やま 山脈 さんみゃく 方面 ほうめん のオングト王国 おうこく などモンゴル高原 こうげん のいくつかの部族 ぶぞく で信仰 しんこう されていたネストリウス派 は のキリスト教 きりすときょう は元 もと のもとでも依然 いぜん として信者 しんじゃ が多 おお く、またローマ教皇 きょうこう の派遣 はけん した宣教師 せんきょうし が大 だい 都 と に常設 じょうせつ の教会 きょうかい を開 ひら いて布教 ふきょう を行 おこな っていた[ 26] 。例 れい として、モンテ・コルヴィノ は、1307年 ねん に初 はつ の大 だい 都 と 管区 かんく 大司教 だいしきょう に任 にん じられている。
ところで、科挙 かきょ の中断 ちゅうだん などの点 てん をあげて、しばしば元 もと は儒教 じゅきょう を排斥 はいせき したのだと言 い われるが、漢 かん 文化 ぶんか にはじめて理解 りかい を示 しめ したとされるクビライよりはるか以前 いぜん のオゴデイの時代 じだい より、モンゴル帝国 ていこく は孔子 こうし や孟子 もうし の子孫 しそん の保護 ほご 、曲 きょく 阜 の孔子 こうし 廟 びょう の再建 さいけん などを行 おこな うなど、宗教 しゅうきょう としての儒教 じゅきょう はむしろ保護 ほご の対象 たいしょう とされていたことは注意 ちゅうい されるべきである[ 27] 。儒者 じゅしゃ の排斥 はいせき は、旧 きゅう 金 かね ・南 みなみ 宋 そう の知識 ちしき 人 じん 層 そう の間 あいだ でも多 おお くの者 もの が名 な を飾 かざ って実 み を顧 かえり みず党争 とうそう と些末な字句 じく 解釈 かいしゃく に拘 かかわ り国 こく を滅 ほろ ぼした儒教 じゅきょう ・科挙 かきょ に不信 ふしん 感 かん を抱 だ いていたことも大 おお きい。
なお、復活 ふっかつ 後 ご の元 もと の科挙 かきょ では、従来 じゅうらい の科挙 かきょ と比 くら べると詩賦 しふ よりも経 けい 義 ぎ に置 お かれており、しかも経 けい の解釈 かいしゃく で朱子 しゅし の解釈 かいしゃく を正統 せいとう とすることが定 さだ められていたことが画期的 かっきてき な点 てん として注目 ちゅうもく される。これは、実践 じっせん を重 おも んじる朱子学 しゅしがく が元 もと の時代 じだい 的 てき 風潮 ふうちょう の中 なか で、儒教 じゅきょう の主流 しゅりゅう の座 ざ を獲得 かくとく していたことを示 しめ している[ 28] 。
モンゴル・元 もと 代 だい には有名 ゆうめい なマルコ・ポーロ 、イブン=バットゥータ のように、西方 せいほう からの旅行 りょこう 者 しゃ が数多 かずおお く中国 ちゅうごく にやってきたことで知 し られるが、それだけ交易 こうえき など様々 さまざま な理由 りゆう で元 もと の領土 りょうど に留 とど まった無名 むめい の人々 ひとびと も非常 ひじょう に多 おお く、彼 かれ らにより幾 いく つかの西方 せいほう の情報 じょうほう と技術 ぎじゅつ が持 も ち込 こ まれた。
例 たと えば、モンケ の時代 じだい にモンゴル宮廷 きゅうてい に招聘 しょうへい されたイラン 出身 しゅっしん のジャマールッディーン により暦法 れきほう が持 も ち込 こ まれた。1271年 ねん に回 かい 回 かい 司 し 天台 てんだい と呼 よ ばれる天文台 てんもんだい が作 つく られた際 さい の天体 てんたい 観測 かんそく 機器 きき には国内 こくない の技術 ぎじゅつ と観測 かんそく 形態 けいたい が使用 しよう されている。クビライの側近 そっきん であった中国人 ちゅうごくじん 学者 がくしゃ 郭 かく 守 まもる 敬 けい は、回 かい 回 かい 司 し 天台 てんだい の観測 かんそく 結果 けっか をもとに新 あたら しい暦 こよみ である授時暦 れき を作 つく り1年 ねん を365.243日 にち と定 さだ め、この暦 こよみ は明 あかり の滅亡 めつぼう まで使用 しよう された。大 だい 元朝 がんちょう と友好 ゆうこう 関係 かんけい にあったイルハン朝 あさ のフレグ によって創設 そうせつ されナスィールッディーン・トゥースィー らによって運営 うんえい されたマラーゲ の天文台 てんもんだい と天体 てんたい 観測 かんそく データーの交換 こうかん が活発 かっぱつ に行 おこな われた。
12-13世紀 せいき に西 にし アジア一帯 いったい で流行 りゅうこう した物 もの と同 どう 形態 けいたい の投石 とうせき 機 き
回 かい 回 かい (ふいふい)は、本来 ほんらい は「ウイグル 」の音 おと 写 うつし である「回 かい 鶻 」に由来 ゆらい する単語 たんご であるが、「回 かい 回教 かいきょう 」「回教 かいきょう 」と同 おな じくイスラム教 いすらむきょう 、イスラム教徒 きょうと のことであり、元朝 がんちょう 時代 じだい において語源 ごげん である「ウイグル」が「畏 かしこ 兀児」と音 おと 写 うつ され、「回 かい 回 かい 語 ご 」が実際 じっさい にはペルシア語 ご のことを指 さ していたように、具体 ぐたい 的 てき にはマー・ワラー・アンナフル やホラーサーン など広 ひろ く西方 せいほう のイラン系 けい の人々 ひとびと に由来 ゆらい する事物 じぶつ を指 さ した。元 もと は南 みなみ 宋 そう の拠点 きょてん であった襄 じょう 陽 ひ の攻略 こうりゃく にあたり、イラン出身 しゅっしん の技術 ぎじゅつ 者 しゃ を招聘 しょうへい し、投擲 とうてき 距離 きょり が数 すう 百 ひゃく メートルに達 たっ する可動 かどう 式 しき の「マンジャニーク( منجنيق manjanīq)」(トレビュシェット )というペルシャ式 しき の投石 とうせき 機 き をつくった[ 注釈 ちゅうしゃく 3] [ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。このマンジャニークも、中国 ちゅうごく では回 かい 回 かい 砲 ほう という名 な で知 し られた。金 かね 攻略 こうりゃく に際 さい しては、初期 しょき の作戦 さくせん は攻 おさむ 壁 かべ 攻撃 こうげき 力 りょく の欠如 けつじょ により失敗 しっぱい したが、投石 とうせき 器 き の利用 りよう により成功 せいこう にいたる。
中国 ちゅうごく 科学 かがく 史 し の大家 たいか であるジョゼフ・ニーダム は、優 すぐ れた実用 じつよう 技術 ぎじゅつ の利用 りよう に反 はん し元 もと ・明代 あきよ は中国 ちゅうごく において科学 かがく 技術 ぎじゅつ の停滞 ていたい 期 き であり、宋 そう 代 だい からの水準 すいじゅん 低下 ていか は天文学 てんもんがく ・暦学 れきがく や数学 すうがく を始 はじ めとした科学 かがく 分野 ぶんや に見 み られると指摘 してき した[ 29] 。
元 もと の時代 じだい の文学 ぶんがく で特筆 とくひつ すべきは雑劇 ざつげき と呼 よ ばれる戯曲 ぎきょく の作品 さくひん である。漢文 かんぶん 、唐詩 とうし 、宋 そう 詞 し 、元 もと 曲 きょく など言 い われるようにこの時代 じだい の「曲 きょく 」は歴代 れきだい でも最高 さいこう とされる。
小説 しょうせつ にも才能 さいのう のある作者 さくしゃ が集 あつ まり、西遊 せいゆう 記 き 、水 みず 滸伝 や三国志 さんごくし 演義 えんぎ などはこの時代 じだい に原型 げんけい が出来 でき たとされる。
このように元 もと 代 だい に曲 きょく や小説 しょうせつ などの娯楽 ごらく 性 せい の強 つよ い文学 ぶんがく が隆盛 りゅうせい した理由 りゆう は、元 もと 代 だい の科挙 かきょ 制度 せいど によるという。それまでの中国 ちゅうごく では文学 ぶんがく とは漢詩 かんし と歴史 れきし であって、フィクションを取 と り扱 あつか った物 もの は俗 ぞく な物 もの であり立派 りっぱ な人物 じんぶつ が手 て を染 そ めるべき物 もの ではないとの考 かんが え方 かた が強 つよ かったが、元 もと 代 だい に入 はい って科挙 かきょ の実行 じっこう 数 すう が激減 げきげん した事 こと により職 しょく を失 うしな った知識 ちしき 人 じん 達 たち がそれまで見向 みむ きもしなかった曲 きょく を書 か くようになったというわけである。
一方 いっぽう 、漢詩 かんし の分野 ぶんや でも、宋 そう の宗室 そうしつ の一人 ひとり である趙 ちょう 孟 はじめ 頫 (子 こ 昂 のぼる )、元 もと の四 よん 大家 たいか と言 い われる虞 おそれ 集 しゅう ・楊載 ・范梈 ・掲傒斯 などの名前 なまえ が挙 あ げられ、伝統 でんとう 的 てき な文学 ぶんがく が沈滞 ちんたい したわけではない。元 もと の後期 こうき には非 ひ 漢 かん 民族 みんぞく (色目 いろめ 人 じん )の詩人 しじん があらわれ、ムスリムの進士 しんし (科挙 かきょ 合格 ごうかく 者 しゃ )である薩都剌 を元 もと 代 だい 最高 さいこう の漢詩 かんし 人 じん と評価 ひょうか する意見 いけん も多 おお い。
書画 しょが の分野 ぶんや では、文学 ぶんがく でも名 な をあげた趙 ちょう 孟 はじめ 頫がもっとも有名 ゆうめい である。趙 ちょう 孟 はじめ 頫の書画 しょが は古典 こてん への復興 ふっこう を目指 めざ したもので、書 しょ は元 もと 代 だい の版本 はんぽん はみな趙 ちょう 孟 はじめ 頫の書体 しょたい に基 もと づくといわれ、絵画 かいが は北 きた 宋 そう 以来 いらい の院 いん 体 からだ 画 が を脱 だっ して呉 ご 興 きょう 派 は と呼 よ ばれる新 しん 潮流 ちょうりゅう を開 ひら いた。元 もと 末 まつ には黄 き 公望 きんもち 、倪瓚 、呉 ご 鎮 、王 おう 蒙 こうむ の「元 もと 末 すえ 四 よん 大家 たいか 」が趙 ちょう 孟 はじめ 頫の画風 がふう を発展 はってん させ、南宗画 なんしゅうが とも後 ご に区分 くぶん される山水 さんすい 画 が の技法 ぎほう を確立 かくりつ していった。
陶磁器 とうじき は、中国 ちゅうごく 史上 しじょう 最高 さいこう と呼 よ ばれる宋 そう のものを受 う け継 つ いだが、さらに元 もと 代 だい には染付 そめつけ などの鮮 あざ やかな新 しん 技法 ぎほう と大盤 おおばん など大 おお きな器 うつわ 形 がた が新 あら たに登場 とうじょう し、宋 そう 代 だい までの青磁 せいじ などの静謐 せいひつ と簡潔 かんけつ を重 おも んじる美意識 びいしき と対照 たいしょう をなす。青 あお 花 はな と呼 よ ばれる染 しみ 付 づけ に使 つか われているコバルト 顔料 がんりょう は西方 せいほう からの輸入 ゆにゅう 品 ひん で回 かい 回 かい 青 あお と呼 よ ばれており、東西 とうざい 交流 こうりゅう の進 すす んだ元 もと 代 だい の特性 とくせい をよく示 しめ している。明 あかり 以降 いこう の青 あお 花 はな は輸入 ゆにゅう が途絶 とだ えたために色合 いろあ いが元 もと 代 だい とは変 かわ ってゆく。
元 もと 代 だい の青 あお 花 はな は中国 ちゅうごく 各地 かくち の元 もと 代 だい 遺跡 いせき の考古学 こうこがく 調査 ちょうさ で発掘 はっくつ される上 じょう 、中国 ちゅうごく から海外 かいがい に輸出 ゆしゅつ される国際 こくさい 商品 しょうひん として使 つか われていたと考 かんが えられ、遠 とお くトルコ 、イスタンブール のオスマン帝国 ていこく の宮廷 きゅうてい トプカプ宮殿 きゅうでん や、イラン 、アルダビール のサファヴィー朝 あさ の祖廟 そびょう サフィー廟 びょう に大 だい 規模 きぼ なコレクションがある。
元朝 がんちょう 系図 けいず
モンゴル帝国 ていこく 以前 いぜん のキヤト・ボルジキン氏 し 当主 とうしゅ [ 編集 へんしゅう ]
イェスゲイ・バアトル はクビライにより「烈 れつ 祖神 そしん 元 もと 皇帝 こうてい 」と追 つい 諡 おくりな された。
元朝 がんちょう 以前 いぜん のモンゴル帝国 ていこく 皇帝 こうてい [ 編集 へんしゅう ]
太 ふとし 祖 そ チンギス・カン (1206年 ねん - 1227年 ねん ) イェスゲイの長男 ちょうなん 。
太 ふとし 宗 むね オゴデイ (1229年 ねん - 1241年 ねん ) チンギスの三男 さんなん 。
定宗 さだむね グユク (1246年 ねん - 1248年 ねん ) オゴデイの長男 ちょうなん 。
憲 けん 宗 むね モンケ (1251年 ねん - 1259年 ねん )チンギスの四 よん 男 なん のトルイの長男 ちょうなん 。
世 よ 祖 そ クビライ (1260年 ねん - 1271年 ねん ) トルイの四 よん 男 なん 。アリクブケと帝位 ていい を争 あらそ う 。
世 よ 祖 そ クビライ (1271年 ねん - 1294年 ねん )
成 なり 宗 むね テムル (1294年 ねん - 1307年 ねん ) クビライの次男 じなん のチンキム (裕 ひろし 宗 むね )の三男 さんなん 。
武 たけ 宗 はじめ カイシャン (1307年 ねん - 1311年 ねん ) チンキムの次男 じなん のダルマバラ (順 じゅん 宗 むね )の子 こ 。テムルの甥 おい 。
仁 じん 宗 むね アユルバルワダ (1311年 ねん - 1320年 ねん ) ダルマバラの次男 じなん 。武 たけ 宗 はじめ カイシャンの弟 おとうと 。
英 えい 宗 むね シデバラ (1320年 ねん - 1323年 ねん ) アユルバルワダの長男 ちょうなん 。
泰 やすし 定 てい 帝 みかど イェスン・テムル (1323年 ねん - 1328年 ねん ) チンキムの子 こ のカマラ (顕宗 けんそう )の長男 ちょうなん 。
天 てん 順 じゅん 帝 みかど アリギバ (1328年 ねん ) イェスン・テムルの長男 ちょうなん 。
文 ぶん 宗 むね トク・テムル (1328年 ねん - 1329年 ねん ) カイシャンの次男 じなん 。
明 あかり 宗 むね コシラ (1329年 ねん ) カイシャンの長男 ちょうなん 。トク・テムルの兄 あに 。
文 ぶん 宗 そう トク・テムル(復位 ふくい 、1329年 ねん - 1332年 ねん )
寧 やすし 宗 むね リンチンバル (1332年 ねん ) コシラの次男 じなん 。
恵 めぐみ 宗 むね トゴン・テムル (1333年 ねん - 1368年 ねん ) コシラの長男 ちょうなん 。リンチンバルの兄 あに 。
恵 めぐみ 宗 むね トゴン・テムル (1368年 ねん - 1370年 ねん )
昭 あきら 宗 むね アユルシリダラ (1370年 ねん - 1378年 ねん ) トゴン・テムルの子 こ 。
天元 てんげん 帝 みかど トグス・テムル (1378年 ねん - 1388年 ねん ) アユルシリダラの弟 おとうと 。
中 なか 統 みつる (1260年 ねん - 1264年 ねん )
至 いたり 元 もと (1264年 ねん - 1294年 ねん )
元 げん 貞 さだ (1295年 ねん - 1297年 ねん )
大徳 だいとく (1297年 ねん - 1307年 ねん )
至大 しだい (1308年 ねん - 1311年 ねん )
皇 すめらぎ 慶 けい (1312年 ねん - 1313年 ねん )
延 のべ 祐 ゆう (1314年 ねん - 1320年 ねん )
至 いたり 治 ち (1321年 ねん - 1323年 ねん )
泰 たい 定 じょう (1324年 ねん - 1328年 ねん )
致和 (1328年 ねん )
天 てん 順 じゅん (1328年 ねん )
天 てん 暦 れき (1328年 ねん - 1330年 ねん )
至 いたり 順 じゅん (1330年 ねん - 1333年 ねん )
元 げん 統 みつる (1333年 ねん - 1335年 ねん )
至 いたり 元 もと (1335年 ねん - 1340年 ねん )
至 いたり 正 ただし (1341年 ねん - 1368年 ねん )
至 いたり 正 ただし (1368年 ねん - 1370年 ねん )
宣光 のぶみつ (1371年 ねん - 1379年 ねん )
天元 てんげん (1379年 ねん - 1388年 ねん )
^ 以下 いか にあるように、クビライによって国号 こくごう が改 あらた められてから、同 どう 王朝 おうちょう では「大元 おおもと 」がひとつの固有 こゆう のタームとして使用 しよう されていたことが近年 きんねん の研究 けんきゅう で明 あき らかにされており、特 とく にモンゴル帝国 ていこく 時代 じだい では形容詞 けいようし の「大 だい 」が国家 こっか やモンゴル王室 おうしつ に関 かか わるキータームであったことが判明 はんめい している(モンゴル帝国 ていこく での「大 だい 」の問題 もんだい については、志茂 しも 碩 せき 敏 さとし 『モンゴル帝国 ていこく 史 し 研究 けんきゅう 序説 じょせつ 』(東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 、1995年 ねん )などに詳 くわ しい)。そのため、近年 きんねん では「元 もと 」などでは呼称 こしょう 上 じょう からもモンゴル政権 せいけん としての実態 じったい について不正確 ふせいかく な認識 にんしき を生 う むとして、モンゴル帝国 ていこく 史 し 研究 けんきゅう の杉山 すぎやま 正明 まさあき に代表 だいひょう される元朝 がんちょう 関係 かんけい の研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ で「大元 おおもと ウルス」という呼称 こしょう を用 もち いる頻度 ひんど が増 ふ えている。
^ モンゴル帝国 ていこく では、例 たと えばモンゴル皇帝 こうてい が主催 しゅさい するクリルタイ を「大 だい クリルタイ」(Yeke Qurilta ;Qūrīltāī-yiBuzurg ;大 だい 集会 しゅうかい )と呼 よ んだり、チンギス・カン以降 いこう の歴代 れきだい モンゴル皇帝 こうてい の墓所 はかしょ を「大 だい 禁 きん 地 ち 」(ghurūq-i buzurg)と呼 よ ぶなど、モンゴル王家 おうけ やモンゴル帝国 ていこく の国政 こくせい に関 かか わる重要 じゅうよう な事柄 ことがら について、中国 ちゅうごく での行政 ぎょうせい 用語 ようご である漢文 かんぶん では「大 だい 〜」、これと同義 どうぎ で支配 しはい 階級 かいきゅう が用 もち い、勅 みことのり 令 れい などでも使用 しよう されるモンゴル語 ご では "Yeke ~" 、帝国 ていこく 全体 ぜんたい で行政 ぎょうせい 用語 ようご として広 ひろ く用 もち いられたペルシア語 ご では "~ buzurg" という表現 ひょうげん を附 ふ し、ひとつながりの固有名詞 こゆうめいし として用 もち いていた[ 2] [ 3] [ 4] 。
^ 「マンジャニーク( منجنيق manjanīq < pl. مناجيق manājīq )」という単語 たんご 自体 じたい は投石 とうせき 機 き 一般 いっぱん を指 さ すギリシア語 ご 由来 ゆらい のアラビア語 ご の単語 たんご であるが、12世紀 せいき 後半 こうはん にシリア において十字軍 じゅうじぐん 諸侯 しょこう とムスリム諸 しょ 政権 せいけん との戦争 せんそう が激化 げきか し、攻 おさむ 城 しろ 戦 せん において攻撃 こうげき 力 りょく の高 たか い投石 とうせき 機 き (トレビュシェット )が開発 かいはつ された。
^ 従来 じゅうらい の中国 ちゅうごく 式 しき の投石 とうせき 機 き は人力 じんりき で投石 とうせき するものであったが、おもりの力 ちから を利用 りよう するマンジャニークはその3倍 ばい 程度 ていど の重量 じゅうりょう 物 ぶつ を約 やく 1.5倍 ばい の射程 しゃてい まで撃 う ち込 こ んだ。
^ 「元 もと 史 し 」世 よ 祖 そ 本紀 ほんぎ 巻 まき 七 なな 至 いたり 元 もと 八 はち 年 ねん 十 じゅう 一 いち 月 がつ 乙 おつ 亥 い (1271年 ねん 12月18日 にち )条 じょう の詔 みことのり に、「可 か 建國 けんこく 號 ごう 曰大元 おおもと 、蓋 ぶた 取 と 易 えき 經 けい 「乾 いぬい 元 はじめ 」之 の 義 ぎ 。」とあり、「易 えき 経 けい 」巻 まき 一 いち 乾 いぬい に「彖曰、大 だい 哉乾元 もと 、萬物 ばんぶつ 資始 すけはる 。」とある。また、「ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス」という呼称 こしょう の同 どう 時代 じだい 的 てき 例証 れいしょう としては、以下 いか の2つのモンゴル語 ご 碑文 ひぶん が知 し られている。ひとつは、かつての熱 ねつ 河 かわ 省 しょう 烏 がらす 丹 に 県 けん (現 げん 中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 内モンゴル自治 うちもんごるじち 区 く 赤 あか 峰 みね 市 し オンニュド旗 はた 烏 がらす 丹 に 鎮)付近 ふきん にあった、至 いたり 元 もと 四 よん 年 ねん 五 ご 月 がつ (1338年 ねん 5月 がつ 20日 はつか - 6月18日 にち )に魯国大長 おおちょう 公主 こうしゅ の媵臣であったという竹 たけ 温 ゆたか 台 だい (Jigüntei)の功績 こうせき を顕彰 けんしょう するために建立 こんりゅう された"大 だい 元 もと 勅 みことのり 賜 たまもの 故 こ 諸色 しょしき 人 じん 匠 たくみ 府 ふ 達 たち 魯華赤 あか 竹 ちく 公 おおやけ 神道 しんとう 碑 ひ (碑文 ひぶん 本文 ほんぶん 冒頭 ぼうとう では:大元 おおもと 勅 みことのり 賜 たまもの 故 こ 中 ちゅう 順 じゅん 大夫 たいふ 諸色 しょしき 人 じん 匠 たくみ 都 と 總 そう 管 かん 府 ふ 達 たち 魯花赤 あか 竹 ちく 公 こう 之 の 碑 いしぶみ )"で、その碑 いしぶみ 陰 かげ のウイグル文字 もじ モンゴル語 ご 文面 ぶんめん に「大元 おおもと (ダイ・オン)と呼 よ ばれるイェケ・モンゴル・ウルス( 、ロ ろ ーマ字 まじ 表記 ひょうき :Dai-Ön kemekü Yeke Mongγ がんま ol Ulus )」とある。もうひとつは、同 おな じく同地 どうち にあった「至 いたり 正 せい 二 に 十 じゅう 三年歳壬寅十月吉日立石」(至 いたり 正 せい 23年 ねん 10月 がつ =1363年 ねん 11月6日 にち - 12月5日 にち )という記 き 年 ねん がある、西 にし 寧 やすし 王 おう 忻都(Hindu/Indu)が建立 こんりゅう した"大 だい 元 もと 勅 みことのり 賜 たまもの 追 つい 封 ふう 西 にし 寧 やすし 王 おう 忻都神道 しんとう 碑 ひ "で、やはりウイグル文字 もじ モンゴル語 ご で「ダイ・オン・イェケ・モンゴル・ウルス(Dai-Ön Yeke Mongγ がんま ol Ulus)」とある。(F. W. Cleaves "The Sino-Mongolian Inscription of 1338 in Memory of Jigüntei", Journal of Asiatic Studies , vol.14, no.1/2 Jun., 1951, pp. 1-104./F. W. Cleaves "The Sino-Mongolian Inscription of 1362 in Memory of Prince Hindu", Journal of Asiatic Studies , vol.12, no.1/2 Jun., 1949, pp. 1-113./前田 まえだ 直 ただし 典 てん 「元朝 がんちょう 行 ぎょう 省 しょう の成立 せいりつ 過程 かてい 」「元朝 がんちょう 史 し の研究 けんきゅう 」p.190(初出 しょしゅつ :「元朝 がんちょう 行 ぎょう 省 しょう の成立 せいりつ 過程 かてい 」『史学 しがく 雑誌 ざっし 』56編 へん 6号 ごう 、1945年 ねん 6月 がつ )) 両 りょう 碑文 ひぶん については田村 たむら 実 みのる 造 づくり 「烏 がらす 丹 に 城 じょう 附近 ふきん に元 もと 碑 いしぶみ を探 さぐ る」(『蒙 こうむ 古学 こがく 』1号 ごう ,1937年 ねん 、p.68-82, +2 plate)が詳 くわ しい。
^ 志茂 しも 碩 せき 敏 さとし 「モンゴル帝国 ていこく の国家 こっか 構造 こうぞう 第 だい 1章 しょう amīr-i buzurg」『モンゴル帝国 ていこく 史 し 研究 けんきゅう 序説 じょせつ 』 東京 とうきょう 大学 だいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 、1995年 ねん p.451-476
^ 志茂 しも 碩 せき 敏 さとし 「モンゴルとペルシア語 ご 史書 ししょ -- 遊牧 ゆうぼく 国家 こっか 史 し 研究 けんきゅう の再 さい 検討 けんとう -- 」『岩波 いわなみ 講座 こうざ 世界 せかい 歴史 れきし 11 中央 ちゅうおう ユーラシアの統合 とうごう 』岩波書店 いわなみしょてん 、1997年 ねん p.263-268
^ 杉山 すぎやま 正明 まさあき 「序章 じょしょう 世界 せかい 史 し の時代 じだい と研究 けんきゅう の展望 てんぼう 」『モンゴル帝国 ていこく と大元 おおもと ウルス』p.14-16
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^ 杉山 すぎやま 正明 まさあき 『大 だい モンゴルの世界 せかい 陸 りく と海 うみ の巨 きょ 大帝 たいてい 国 こく 』角川書店 かどかわしょてん (角川 かどかわ 選書 せんしょ )、1992年 ねん 6月 がつ p.179-189
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^ 杉山 すぎやま 正明 まさあき 『大 だい モンゴルの世界 せかい 陸 りく と海 うみ の巨 きょ 大帝 たいてい 国 こく 』角川書店 かどかわしょてん (角川 かどかわ 選書 せんしょ )、1992年 ねん 6月 がつ p.219-230
^ 松田 まつだ 孝一 こういち 「モンゴル時代 じだい 中国 ちゅうごく におけるイスラームの拡大 かくだい 」『講座 こうざ イスラーム世界 せかい 3 世界 せかい に広 ひろ がるイスラーム』(板垣 いたがき 雄三 ゆうぞう 監修 かんしゅう )栄光 えいこう 教育 きょういく 文化 ぶんか 研究所 けんきゅうじょ 、1995年 ねん 1月 がつ 、p.157-192/ 佐 さ 口 こう 透 とおる 「第 だい 4章 しょう 東 ひがし アジアのイスラム 第 だい 1節 せつ 元朝 がんちょう のイスラム教徒 きょうと 」『東西 とうざい 文化 ぶんか の交流 こうりゅう 4 モンゴル帝国 ていこく と西洋 せいよう 』(佐 さ 口 こう 透 とおる 編 へん )平凡社 へいぼんしゃ 、1970年 ねん p.248-260
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^ 『世界 せかい 歴史 れきし 大系 たいけい 中国 ちゅうごく 史 し 3 五 ご 代 だい 〜元 もと 』、p494。ただしこれは華北 かほく の土地 とち を広 ひろ くモンゴル貴族 きぞく の所領 しょりょう としたためでもある
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^ 宮 みや 紀子 のりこ 「第 だい 2章 しょう 鄭 てい 鎮孫と『直 じき 説 せつ 通 どおり 略 りゃく 』」「第 だい 8章 しょう 「対策 たいさく 」の対策 たいさく 」『モンゴル時代 じだい の出版 しゅっぱん 文化 ぶんか 』名古屋大学出版会 なごやだいがくしゅっぱんかい 、2006年 ねん
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