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もと (王朝おうちょう)

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大元おおもと
大元おおもと (中国ちゅうごく)
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1271ねん - 1368ねん
元の位置
もと版図はんと疆域1372まん平方ひらかた公里くり(1294ねん
公用こうよう 官話かんわパスパ文字もじかれる)、モンゴル公文書こうぶんしょ
ウイグルおんなしんちぎりなど
首都しゅと だい
皇帝こうていだいハーン
1260ねん - 1294ねん セチェン・ハーン
1333ねん - 1370ねんめぐみそう ウカアト・ハーン
宰相さいしょう
1264ねん - 1282ねんアフマド
1340ねん - 1355ねんトクト
面積めんせき
1310ねん11,000,000km²
1330ねん13,720,000km²
人口じんこう
1290ねん58,834,711にん
1293ねん79,816,000にん
1330ねん73,873,000にん
1350ねん87,147,000にん
変遷へんせん
クビライ・ハーンが「大元おおもと」の称号しょうごう発表はっぴょう 1271ねん12月18にち
みなみそうほろぼし、中国ちゅうごく統一とういつ1279ねん3がつ19にち
ぶんながやく弘安ひろやすやく1274ねん・1281ねん
もとはる戦争せんそう1277ねん - 1287ねん
白藤しらふじこうたたか1288ねん
べにはばらん勃発ぼっぱつ1351ねん
あきらによって中国ちゅうごく領土りょうど喪失そうしつ1368ねん
通貨つうか交鈔など
現在げんざいモンゴルの旗 モンゴル
中華人民共和国の旗 中国ちゅうごく
ロシアの旗 ロシア
大韓民国の旗 韓国かんこく
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮きたちょうせん
ミャンマーの旗 ミャンマー
先代せんだい次代じだい
モンゴル帝国 モンゴル帝国ていこく
南宋 みなみそう
大理国 だいこく
パガン王朝 パガン王朝おうちょう
高麗 こううらら
北元きたもと 北元
あきら 明
かんりん 韓林児
なつ (もとまつ) 夏 (元末)
パクモドゥパ政権せいけん パクモドゥパ政権
こううらら 高麗

きたはし北元きたもとのクビライ皇統こうとうは1388ねんまで存続そんぞく。モンゴル・ハンこくは1635ねんまで存続そんぞくした。

もと(げん)は中東ちゅうとうアジアからひがしヨーロッパまで広大こうだい領域りょういきにまたがったモンゴル帝国ていこく後裔こうえいいちこくであり、そのうち中国ちゅうごく本土ほんどモンゴル高原こうげん中心ちゅうしん領域りょういきとしたモンゴル民族みんぞくによる征服せいふく王朝おうちょうモンゴル帝国ていこく皇帝こうてい直轄ちょっかつとして1271ねんから1368ねんまでひがしアジアきたアジア支配しはいした。

正式せいしき国号こくごうは、大元おおもと(だいげん)で、それまでの中華ちゅうか王朝おうちょうのような封土ほうど名称めいしょうにちなんだ国号こくごうとはことなり、えきけいの「だい哉乾もと(おおいなるかないぬいはじめ)」からとった抽象ちゅうしょうてき名称めいしょうである。 元朝がんちょう(げんちょう)、もとくに(げんこく)、だいもと帝国ていこく(だいげんていこく)、もと王朝おうちょう(げんおうちょう)、だいモンゴルこく(だいもんごるこく)ともぶ。

建国けんこくしたモンゴルじん氏族しぞくキヤトボルジギン)から、くにせいは「渥温」である。

定義ていぎ名称めいしょう

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伝統でんとうてきに「中国ちゅうごく征服せいふくしたモンゴル帝国ていこく南北なんぼく分裂ぶんれつした内紛ないふんて、正統せいとう中華ちゅうか帝国ていこくになったくに」とされていたが、「もと中国ちゅうごくではく、だいもとウルスばれるモンゴル遊牧民ゆうぼくみんくに」とするものなど様々さまざま意見いけんがある[注釈ちゅうしゃく 1]

中国ちゅうごく王朝おうちょうとしてのもととう崩壊ほうかい907ねん以来いらい中国ちゅうごく統一とういつ王朝おうちょうであり、だい現在げんざい北京ぺきん)から中国ちゅうごくとそのさつふうこくやモンゴル帝国ていこく全体ぜんたい支配しはいしたが、あきら1368ねん - 1644ねん)にわれて北元きたもとになってからはモンゴル高原こうげんまで支配しはい領域りょういき縮小しゅくしょうした。

中国ちゅうごく歴史れきしには複数ふくすう征服せいふく王朝おうちょうりょうきむきよしなど)があったが、もと政治せいじ制度せいど民族みんぞく運営うんえいにおいて中国ちゅうごく漢人かんど伝統でんとう体制たいせい同化どうかされず、モンゴル帝国ていこくからがれた遊牧ゆうぼく国家こっか特徴とくちょうたもったまま統治とうちつづけたのが特徴とくちょうてきであった。一方いっぽう後述こうじゅつするように行政ぎょうせい制度せいど経済けいざい運営うんえいではみなみそう仕組しくみをほぼそのまま継承けいしょうした。

概要がいよう

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もとは、1260ねんチンギス・ハンまごでモンゴル帝国ていこくだい5だい皇帝こうてい即位そくいしたクビライ(フビライ)が1271ねんにモンゴル帝国ていこく国号こくごう大元おおもとあらためたことにより成立せいりつし、モンゴルではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (マ字まじ表記ひょうきDai-ön Yeke Mongγがんまol Ulus) すなわち「大元おおもとだいモンゴルこく」としょうした[1]。これは、従来じゅうらいのモンゴル帝国ていこく国号こくごう「イェケ・モンゴル・ウルス」(直訳ちょくやくすれば「だいモンゴルこく」)を改称かいしょうしたものとほぐせるから、もととはすなわちクビライ以降いこうのモンゴル帝国ていこく皇帝こうてい政権せいけんのことである。国号こくごうである「大元おおもと」はこの一体いったい名称めいしょうであるとかんがえられているが[注釈ちゅうしゃく 2][5]中国ちゅうごく王朝おうちょうにおいてとうそうなど王朝おうちょう正式せいしきごういち原則げんそくならい、このクビライ王朝おうちょうたんに「もと」と略称りゃくしょうされるのが慣例かんれいである。中国ちゅうごく観念かんねんでは「元朝がんちょう」とはクビライからさかのぼって改称かいしょう以前いぜんのチンギス・カンにはじまる王朝おうちょうであるとされ、「もと」とはモンゴル帝国ていこく中国ちゅうごく王朝おうちょうとしての名称めいしょうととらえられることもおお[5]

王朝おうちょうてきにみると、クビライは兄弟きょうだいアリクブケ帝位ていいあらそって帝国ていこく南北なんぼくかれて内戦ないせんおちいったあと、これを武力ぶりょくによって打倒だとうして単独たんどく帝位ていい獲得かくとくした。  それまでクリルタイによる全会ぜんかい一致いっちをもって選出せんしゅつされていたモンゴル皇帝こうてい継承けいしょう慣例かんれいやぶられ、モンゴル帝国ていこく内部ないぶ不和ふわ対立たいりつが、たがいに武力ぶりょくうったえるかたち顕在けんざいすることになった[6]とく中央ちゅうおうアジアでは、大元おおもと国号こくごう採用さいようされた前後ぜんごオゴデイカイドゥがクビライの宗主そうしゅけんみとめず、チャガタイ一部いちぶなどのモンゴル王族おうぞくたちを味方みかたにつけてイリからアムダリヤがわ方面ほうめんまでを接収せっしゅうし、『しゅう』をはじめペルシア歴史れきししょなどでは当時とうじ「カイドゥの王国おうこく」(mamlakat-i Qāīdū'ī)とばれたような自立じりつした勢力せいりょくした[7]。この勢力せいりょく鎮圧ちんあつするため、クビライは大軍たいぐんいく派遣はけんしたが、派遣はけんぐん自体じたい離叛りはんする事件じけんがしばしばきた。この混乱こんらん西方せいほうジョチ・ウルスフレグいえイルハンあさといった帝国ていこくないしょ王家おうけ政権せいけんみ、クビライの死後しご1301ねんにカイドゥが戦死せんしするまでつづいた。こうしてモンゴル皇帝こうていのモンゴル帝国ていこく全体ぜんたいたいする統率とうそつりょく減退げんたいし、これ以降いこうのモンゴル帝国ていこくは、各地かくち分立ぶんりつした諸王しょおう政権せいけんがモンゴル皇帝こうてい宗主そうしゅけんあおぎながらゆるやかな連合体れんごうたいかたち変質へんしつした。  こうして大元おおもとは、連合体れんごうたいとしてのモンゴル帝国ていこくのうち、モンゴル皇帝こうてい軍事ぐんじてき基盤きばんであるモンゴル高原こうげん本国ほんごく経済けいざいてき基盤きばんである中国ちゅうごくむすびつけた領域りょういきしゅとして支配しはいする、皇帝こうていたるクビライ世襲せしゅうりょう(ウルス)となった[8]

一方いっぽう中国ちゅうごくてきにみると、きたそう以来いらいすうひゃくねんりに南北なんぼく統一とういつする巨大きょだい政権せいけん成立せいりつしたため、りょうちぎり)やきむ統治とうちけたきた中国ちゅうごくと、みなみそう統治とうちけてきた南中なんちゅうこく統合とうごうされた。チンギス・カン時代じだいかね征服せいふくして華北かほく領土りょうどとして以来いらい各地かくち農耕のうこう鉱山こうざんなどを接収せっしゅうたいかねせんしょうじた荒廃こうはいした広大こうだい荒蕪こうぶでは捕獲ほかくした奴隷どれい使つかって屯田とんでんおこなった。まただいもと時代じだいはい前後ぜんご獲得かくとくされた雲南うんなんでは、農耕のうこう鉱山こうざん開発かいはつおこなわれている。首都しゅとへの物資ぶっし回漕かいそう海運かいうんもちはじめたことは、みんおも負担ふたん軽減けいげんした良法りょうほうとして評価ひょうかされる。

 様々さまざま宗教しゅうきょう流入りゅうにゅう政権せいけん有力ゆうりょくしゃとのむすびつきもふかまった。もともとモンゴル帝国ていこくは、傘下さんか天山あまやまウイグル王国おうこくケレイト王国おうこく、オングト王国おうこくなどのテュルクけいホラーサーンマー・ワラー・アンナフルなどのイランけいムスリムたちを吸収きゅうしゅうしながら形成けいせいされていった政権せいけんであるため、これらの政権せいけん内外ないがい活躍かつやくしていた人々ひとびとは、モンゴル帝国ていこくまれた中国ちゅうごくしょ地域ちいき流入りゅうにゅうし、西方せいほうからウイグルけいチベットけい仏教ぶっきょう文化ぶんかケレイト部族ぶぞくやオングト部族ぶぞくなどが信仰しんこうしていたネストリウスなどのキリスト教きりすときょう、イランけいイスラーム文化ぶんかなどもまた、首都しゅとだい泉州せんしゅうなど各地かくち形成けいせいされたそれぞれのコミュニティーを中核ちゅうかく大量たいりょう流入りゅうにゅうした[9]。モンゴル政権せいけんでは、モンゴル王侯おうこうみずか信奉しんぽうする宗教しゅうきょうしょ勢力せいりょくへの多大ただい寄進きしんおこなっており、仏教ぶっきょう道教どうきょう孔子こうしびょうなどの儒教じゅきょうなど中国ちゅうごく各地かくち宗教しゅうきょう施設しせつ建立こんりゅう、また寄進きしんなどにかかわる碑文ひぶん建碑けんぴおこなわれた。モンゴル王侯おうこう特権とっけん依拠いきょする商売しょうばい巨利きょり政商せいしょうは、各地かくち宗教しゅうきょう施設しせつ多大ただい寄進きしんおこない、経典きょうてん編集へんしゅう再版さいはんこくなど文化ぶんか事業じぎょう資金しきん投入とうにゅうした。だい元朝がんちょう時代じだい金代かなだいそうだい形成けいせいされた経典きょうてんがく研究けんきゅう継続けいぞくし、それらにもとづいた類書るいしょなどが大量たいりょう出版しゅっぱんされた[10]みなみそう末期まっきからだい元朝がんちょう初期しょきの『ことはやしひろ』やだい元朝がんちょう末期まっき南村なんそん輟耕ろく』などがこれにあたる。朱子学しゅしがく研究けんきゅう集成しゅうせいされ、当時とうじの「漢人かんど」とばれた漢字かんじ文化ぶんか母体ぼたいとする人々ひとびとは、金代かなだいなどからの伝統でんとうとして道教どうきょう仏教ぶっきょう儒教じゅきょうさんみち通暁つうぎょうすることが必須ひっすとされるようになった。鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきだい元朝がんちょうからくに使として日本にっぽん派遣はけんされたふつそういち山一やまいちやすしもこれらのがくみつるぞくする[11]。14世紀せいきまつ農民のうみん反乱はんらんによって中国ちゅうごくには明朝みょうちょう成立せいりつし、だい元朝がんちょうのモンゴル勢力せいりょくゴビ砂漠ごびさばく以南いなん放棄ほうきして北方ほっぽうわれた(北元きたもと)が、明朝みょうちょう始祖しそひろしたけみかどしゅもとあきら)やべにはばらんこした白蓮びゃくれんきょうだんがモンゴル王族おうぞくなどの後援こうえんする仏教ぶっきょう教団きょうだん母体ぼたいとしているなど影響えいきょうけていたことが近年きんねん指摘してきされている[11]

歴史れきし

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クビライとう以前いぜんについてはモンゴル帝国ていこく参照さんしょう

モンゴル帝国ていこく再編さいへん

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中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

まんしゅう歴史れきし
朝鮮ちょうせん ひがしえびす 濊貊
沃沮
粛慎
つばめ りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
はた りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
前漢ぜんかん りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん まもる朝鮮ちょうせん 匈奴きょうど
かんよんぐん おっとあまり
こうかん りょう西郡にしごおり がらす 鮮卑 挹婁
遼東りゃおとんぐん 高句麗こうくり
げんうさぎぐん
たかし あきらはじむぐん 公孫こうそん
遼東りゃおとんぐん
げんうさぎぐん
西にしすすむ たいらしゅう
慕容 宇文うぶん
ぜんつばめ たいらしゅう
ぜんはた たいらしゅう
こうつばめ たいらしゅう
きたつばめ
きたたかし 営州 ちぎり くら莫奚 しつ
あずまたかし 営州 勿吉
きたひとし 営州
きたあまね 営州
ずい 柳城やなしろぐん 靺鞨
つばめぐん
りょう西郡にしごおり
とう 営州 まつばくとく にょうらくとく しつ韋都とく 安東あんどうみやこまもる 渤海こく 黒水くろみずとく 靺鞨
だいじゅうこく 営州 ちぎり 渤海こく 靺鞨
りょう 上京じょうきょうどう   ひがし おんなしん
中京ちゅうきょうどう じょうやす
東京とうきょうどう
きむ 東京とうきょう
上京じょうきょう
あずまりょう だいしんこく
もと りょうぎょうしょう
あきら 遼東りゃおとん やつ指揮しき使
けんしゅうおんなしん うみ西にしおんなしん 野人やじんおんなしん
きよし まんしゅう
 

ひがしさんしょう
ロマノフあさ
沿海州えんかいしゅう/みどりウクライナ/江東こうとうろくじゅうよんたむろ
中華民国ちゅうかみんこく
ひがしさんしょう
極東きょくとう共和きょうわこく
ソ連それん
極東きょくとう
まんしゅうこく
ソ連それん占領せんりょうまんしゅう
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国ちゅうごく東北とうほく
ロシア連邦れんぽう
極東きょくとう連邦れんぽう管区かんく/極東きょくとうロシア
北朝鮮きたちょうせん
たきぎとうぐん
中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん関係かんけい
Portal:中国ちゅうごく
大元おおもとせいせいこくあさ典章てんしょう』にしるされたクビライ・ハーンの即位そくい詔勅しょうちょく(1260ねん

1259ねんだい4だい皇帝こうていモンケみなみそう遠征えんせいちゅう病死びょうししたとき、モンゴル高原こうげんにある当時とうじ首都しゅとカラコルム留守るすあずかっていた末弟ばっていアリクブケは、モンケ王族おうぞくあつめてクリルタイひらき、西部せいぶチャガタイ諸王しょおう支持しじけて皇帝こうていそくこうとしていた。これにたいし、モンケとともみなみそう遠征えんせいおこなっていたおとうとクビライは、うるう11がつぐんげてうちモンゴルにはいり、東方とうほうさん王家おうけ(チンギスのおとうと家系かけい)などの東部とうぶ諸王しょおう支持しじて、翌年よくねんの3がつ自身じしん本拠地ほんきょちであるうちモンゴルの開平かいへい(のちのうえ)でクリルタイをひらき、皇帝こうていいた。アリクブケは1かげつおくれて皇帝こうていとなり、モンゴル帝国ていこくには南北なんぼく2人ふたり皇帝こうてい並存へいそんし、帝国ていこく史上しじょうはじめて皇帝こうてい武力ぶりょく争奪そうだつする事態じたいとなった。この時点じてんでは、モンケの葬儀そうぎ仕切しきり、帝都ていとカラコルムで即位そくいしたアリクブケが正当せいとう皇帝こうていであった。カラコルムにももどらず、帝国ていこく全土ぜんど王侯おうこう貴族きぞく支持しじもなく、勝手かって皇帝こうていしょうしたクビライは、この時点じてんではクーデター政権せいけんであった。

クビライとアリクブケのりょうぐんなんとなく激突げきとつするが、カラコルムは中国ちゅうごくからの物資ぶっし依存いぞんしていたために、中国ちゅうごくおさえたクビライたいしてアリクブケ圧倒的あっとうてき補給ほきゅう能力のうりょくをつけられ、劣勢れっせい余儀よぎなくされた。緒戦しょせん1261ねんシムトノールの会戦かいせんではクビライが勝利しょうりするが、アリクブケは北西ほくせいモンゴルのオイラト支援しえんけて抵抗ていこうつづけた。しかし、最終さいしゅうてきにはアリクブケの劣勢れっせい混迷こんめいをみてチャガタイなどの西部せいぶ諸王しょおうがアリクブケから離反りはんし、1264ねん、アリクブケはクビライに降伏ごうぶくした。この一連いちれん争乱そうらんを、勝利しょうりしゃクビライを正統せいとうとする立場たちばから、「アリクブケのらん」という。

アリクブケの降伏ごうぶくによりモンゴル皇帝こうていくらいふたた統合とうごうされたが、西にし中央ちゅうおうアジア方面ほうめんでは、アリクブケのらんがもたらした混乱こんらん皇帝こうてい権威けんい決定的けっていてき打撃だげきあたえていた。1265ねん、クビライは西方せいほうしょ王家おうけ当主とうしゅたちにけて統一とういつクリルタイを開催かいさい計画けいかくしたが、ほどなく西方せいほう遠征えんせいぐん司令しれいでイルハンあさ始祖しそとなったおとうとフレグジョチ・ウルス当主とうしゅベルケ、クビライを支持しじしていたチャガタイ当主とうしゅアルグ次々つぎつぎ死去しきょし、この統一とういつクリルタイによって自身じしんぜんモンゴル帝国ていこく規模きぼ正式せいしきなモンゴル皇帝こうてい承認しょうにん目論もくろんでいたクビライの計画けいかくは、おおきく頓挫とんざした。

1266ねん、クビライはアルグのによるかけおぎないチャガタイ中央ちゅうおうアジアの動向どうこう掌握しょうあくするため、チャガタイ傍流ぼうりゅうバラクをチャガタイ本領ほんりょうであるイリ方面ほうめん派遣はけんした。しかし、バラクはクビライから共同きょうどう統治とうち指示しじされていたにもかかわらず、クビライのいのちしょうしてチャガタイしん当主とうしゅムバーラク・シャーから権力けんりょくうばり、みずかしん当主とうしゅ宣言せんげんしてクビライに叛乱はんらんこした。バラクはカイドゥの領土りょうど侵犯しんぱんマー・ワラー・アンナフル侵攻しんこうするかまえをせ、カイドゥはこれに対抗たいこうするためジョチ・ウルスへ救援きゅうえんもとめた。これにこたえてジョチ・ウルス東方とうほう総帥そうすいであるオルダ当主とうしゅコニチは5まん軍勢ぐんぜいひきいて加勢かせいし、バラクは敗走はいそうしたが、バラクは中央ちゅうおうアジアの権益けんえきについての合議ごうぎをカイドゥ、ジョチ・ウルスしん当主とうしゅモンケ・テムルもうれた。1269ねん中央ちゅうおうアジアを支配しはいするチャガタイのバラクとオゴデイのカイドゥ、そしてジョチ当主とうしゅモンケ・テムルの名代なだい(ベルケの同母どうぼおとうとベルケチェル)の諸王しょおうタラスかわほとりかいめいし(タラスかいめい)、中央ちゅうおうアジアのモンゴル皇帝こうていりょう争奪そうだつめ、このうち、マー・ワラー・アンナフルの3ぶんの2をバラクに、のこり3ぶんの1をジョチとカイドゥで折半せっぱんすることがまった。

1270ねん、バラクはイルハンあさアバカとの会戦かいせん大敗たいはいしてブハラ客死かくしし、アバカとのマーワーアンナフル争奪そうだつやぶれカイドゥとの紛争ふんそうにもやぶれたチャガタイ王族おうぞくたちは、ムバーラク・シャーはアバカのもとへ帰順きじゅんしてアフガニスタンのガズニー所領しょりょうとして分与ぶんよされ、バラクのドゥアはカイドゥにおうじて中央ちゅうおうアジアのチャガタイ当主とうしゅとなり、アルグの遺児いじチュベイらの一門いちもん東方とうほうおもむいてクビライに帰順きじゅんした。クビライはみなみそうバヤン降服こうふくした1267ねんだい4皇子おうじノムガン主将しゅしょうとするカイドゥ討伐とうばつぐん中央ちゅうおうアジアへ派遣はけんし、同時どうじにアバカにも正式せいしきふうさつによって「カアンの代官だいかんダルガ)」の称号しょうごうあたえてカイドゥを挟撃きょうげきする作戦さくせんた。ところが、ノムガンの遠征えんせいぐんは、アルマリク遠征えんせいぐん参加さんかしていたモンケのシリギらに叛乱はんらんこされ、ノムガンは副将ふくしょうアントンおなじくだい9皇子おうじココチュらともども捕縛ほばくされてしまった。シリギら叛乱はんらん王族おうぞくたちはカイドゥやモンケ・テムルにとも決起けっきするようけたノムガンとココチュ兄弟きょうだいをモンケ・テムルヘアントンをカイドゥへ人質ひとじちとしておくったが、両者りょうしゃはノムガンらを保護ほごしたものの決起けっきにはまったくにおうじなかった。クビライはみなみそう戦線せんせんからバヤンカラコルム転戦てんせんさせると、反乱はんらんぐんすみやかに鎮圧ちんあつされてしまった。反乱はんらんぐんくわわっていたアリク・ブケのヨブクルやメリク・テムルはクビライからの処罰しょばつおそれてカイドゥのもとにのがれた。こうしてシリギの叛乱はんらん収束しゅうそくしたが、クビライによる中央ちゅうおうアジア直接ちょくせつ支配しはい計画けいかくは2にわたり頓挫とんざし、わりに、カイドゥはみずからの所領しょりょうくわえ、ドゥアの西部せいぶのチャガタイりょう、アルタイ方面ほうめんにあったアリクブケの3つのウルス勢力せいりょくおさめることができた(シリギのらん)。

そのあいだ、クビライは政治せいじ機関きかんとして中書ちゅうしょしょう設置せっちしカラコルムにかわる新都しんととして中国ちゅうごく北部ほくぶだい現在げんざい北京ぺきん)を造営ぞうえい地方ちほうではモンゴル帝国ていこくきむ攻略こうりゃく過程かてい自立じりつしてモンゴルにし、華北かほく各地かくち在地ざいち支配しはいおこなってきたかん人世じんせいこうばれる在地ざいち軍閥ぐんばつ中央ちゅうおう政府せいふ、モンゴル貴族きぞく錯綜さくそうした支配しはい関係かんけい整理せいりしてかくみちそうかんくなど、中国ちゅうごく支配しはい適合てきごうしたしん国家こっか体制たいせい建設けんせつ着々ちゃくちゃく邁進まいしんし、1271ねん国号こくごう大元おおもととした。モンゴル帝国ていこく西部せいぶたいするモンゴル皇帝こうてい直轄ちょっかつ支配しはい消滅しょうめつと、中国ちゅうごくじくあしいたあたらしいモンゴル皇帝こうてい政権せいけん大元おおもと成立せいりつをもってモンゴル帝国ていこくゆるやかな連合れんごうへの再編さいへんがさらにすすんだ。

中国ちゅうごく統一とういつ支配しはい

[編集へんしゅう]
もと版図はんと(1330ねん

大元おおもとてた当初とうしょのクビライは、かねほろぼして領有りょうゆうした華北かほく保有ほゆうするだけで、中国ちゅうごく全体ぜんたい支配しはいはいまだ不完全ふかんぜんであり、みなみそう治下ちか発展はってんした江南こうなん長江ながえしも流域りゅういき南岸なんがん)のとみは、クビライのしん国家こっか建設けんせつにはかせざるものであった。かくて、クビライは即位そくい以来いらいみなみそう攻略こうりゃくさい優先ゆうせん政策せいさくとしてすすめ、1268ねんかんすい要衝ようしょうじょう攻囲こういせん開始かいしする。

クビライは、皇后こうごうチャブイつかえる用人ようにんであった中央ちゅうおうアジア出身しゅっしん商人しょうにんアフマド財務ざいむ長官ちょうかん抜擢ばってきして増収ぞうしゅうをはかり、みなみそう攻略こうりゃく準備じゅんびすすめる一方いっぽうで、すで服属ふくぞくしていたこううららつうじ、みなみそう通商つうしょうしていた日本にっぽんにもモンゴルへの服属ふくぞくもとめた。しかし、日本にっぽん鎌倉かまくら幕府ばくふはこれを拒否きょひしたため、クビライはみなみそう日本にっぽん連合れんごうしてもとかうをのふせぐため、1274ねんにモンゴル(もと)と高麗こうらい連合れんごうぐん編成へんせいして日本にっぽんおくるが、対馬つしま壱岐島いきしま九州きゅうしゅう大宰府だざいふ周辺しゅうへん席巻せっけんしただけにわった(ぶんながやく)。日本にっぽん遠征えんせい失敗しっぱいわったが、その準備じゅんびつうじて遠征えんせい準備じゅんびのためにもうけた出先でさき機関きかんせいひがしぎょうしょう高麗こうらい政府せいふ一体化いったいかし、しんふく属国ぞっこくであった高麗こうらいもと朝廷ちょうてい緊密きんみつ関係かんけいむすぶことになる。

1273ねんになると、じょう守備しゅびぐん降伏ごうぶくによりみなみそう防衛ぼうえいシステムは崩壊ほうかいする。もと兵士へいしかく城市じょうし略奪りゃくだつ暴行ぼうこうはたらくのをきびしく禁止きんしするとともに、降伏ごうぶくしたてき将軍しょうぐん厚遇こうぐうするなどしてみなみそうくだぐん自軍じぐんんでいったため、各地かくち都市とし次々つぎつぎとモンゴルにった。1274ねんきゅうみなみそうくだぐんふくめただい兵力へいりょく攻勢こうせいると、防衛ぼうえいシステムの崩壊ほうかいしたみなみそうはもはや抵抗ていこうらしい抵抗ていこう出来できず、1276ねん首都しゅと臨安(杭州こうしゅう)が無血むけつ開城かいじょうする。きょうみかどをはじめとしたみなみそう皇族こうぞくきた連行れんこうされたが、丁重ていちょうあつかわれた。その海上かいじょう逃亡とうぼうしたみなみそう残党ざんとう1279ねん崖山がけやまたたかほろぼし、きたそう崩壊ほうかい以来いらい150ねんぶりとなる中国ちゅうごく統一とういつたした。クビライはゆたかなきゅうみなみそうりょうとみだい集積しゅうせきし、その利潤りじゅん国家こっかげることのできるよう、後述こうじゅつする経済けいざい制度せいど整備せいびした。

しかし、その軍事ぐんじ遠征えんせいとくにみるべき成果せいかなくわった。1281ねんにはふたた日本にっぽんたいしてぐんおくるが今度こんど失敗しっぱいわり(弘安ひろやすやく)、1285ねん1288ねんにはベトナム侵攻しんこうしたぐんひねあさ相次あいついでやぶれた(白藤しらふじこうたたか)。1284ねんから1286ねんにかけての樺太からふと遠征えんせいアイヌ樺太からふとから排除はいじょし、ビルマへの遠征えんせいでは1287ねん首都しゅとパガン占領せんりょう成功せいこうしたが、現地げんちのシャンじん根強ねづよ抵抗ていこう恒久こうきゅうてき支配しはいることはできなかった。さかのぼって1276ねんには、中央ちゅうおうアジアでカイドゥらと対峙たいじしていたもとぐんなかで、モンケのシリギ反乱はんらんこし、カイドゥの勢力せいりょく拡大かくだいゆるしていた。それでも、クビライは3度目どめ日本にっぽん遠征えんせい計画けいかくするなど、積極せっきょくてき外征がいせいすすめたが、1287ねんには、即位そくい支持しじ母体ぼたいであった東方とうほうさん王家おうけナヤン指導しどうしゃとして叛き、また中国ちゅうごくないでも反乱はんらん頻発ひんぱつしたために晩年ばんねんのクビライはその対応たいおうわれ、日本にっぽん遠征えんせい放棄ほうきされた。また、1292ねんジャワ遠征えんせいおこなっているが、これも失敗しっぱいわっている。もっとも、東南とうなんアジアへの遠征えんせい商業しょうぎょうルートの開拓かいたく意味合いみあいがつよく、最終さいしゅうてきには海上かいじょうルートの安全あんぜん確保かくほされたため、結果けっかてきには成功せいこうしたとえる。

クビライの死後しご1294ねんまごテムルぐがその治世ちせい1301ねんにカイドゥがに、1304ねんながあいだ抗争こうそうしていた西方せいほう諸王しょおうとの和睦わぼくおこなわれた。この東西とうざいウルスの融和ゆうわにより、モンゴル帝国ていこく皇帝こうてい頂点ちょうてんとするゆるやかな連合れんごうとしてふたたむすびつき、いわゆるシルクロード交易こうえきとうだい以来いらい活況かっきょうていした。この状況じょうきょうして「パクス・モンゴリカ」(モンゴルの平和へいわ)とぶことがある。

もと首都しゅとだいぜんモンゴル帝国ていこく政治せいじ経済けいざいのセンターとなり、マルコ・ポーロなどすうおおくの西方せいほう旅行りょこうしゃおとずれ、その繁栄はんえいヨーロッパにまでつたえられた。江南こうなん港湾こうわんしょ都市とし海上かいじょう貿易ぼうえきそうだいよりは衰退すいたいしたものの繁栄はんえいしており、ぶんひさし弘安ひろやすやく以来いらい公的こうてき国交こっこう途絶とぜつしていた日本にっぽんとも、かん貿易ぼうえきみつ貿易ぼうえきせんはある程度ていど往来おうらい確認かくにんされる。

衰退すいたいへのみち

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1345ねん当時とうじ世界せかい
朝鮮歷史
朝鮮ちょうせん歴史れきし
考古学こうこがく 朝鮮ちょうせん旧石器時代きゅうせっきじだい
櫛目くしめぶん土器どき時代じだい 8000 BC-1500 BC
無文むもん土器どき時代じだい 1500 BC-300 BC
伝説でんせつ だんくん朝鮮ちょうせん
朝鮮ちょうせん 朝鮮ちょうせん
つばめ
たつこく まもる朝鮮ちょうせん
げんさんこく たつかん わきまえかん かんよんぐん
うまかん おびかたぐん らくなみぐん

さんこく 伽耶かや
42-
562
百済くだら
高句麗こうくり
しん
南北なんぼくこく とうくまとく安東あんどうみやこまもる
統一とういつしん
にわとりりん州都しゅうととく
676-892
安東あんどうみやこまもる
668-756
渤海
698-926
こうさんこく しん
-935
のち
百済くだら

892
-936
こう高句麗こうくり
901-918
りょう おんなしん
統一とういつ
王朝おうちょう
こううらら 918- きむ
もとりょうぎょうしょう
あずまやすしそうしろふけ
元朝がんちょう
こううらら 1356-1392
朝鮮ちょうせん 1392-1897
大韓たいかん帝国ていこく 1897-1910
近代きんだい 日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせん 1910-1945
現代げんだい 朝鮮ちょうせん人民じんみん共和きょうわこく 1945
連合れんごうぐん軍政ぐんせい 1945-1948
アメリカ占領せんりょう ソビエト占領せんりょう
北朝鮮きたちょうせん人民じんみん委員いいんかい
大韓民国だいかんみんこく
1948-
朝鮮ちょうせん民主みんしゅ主義しゅぎ
人民じんみん共和きょうわこく

1948-
Portal:朝鮮ちょうせん

1307ねん、テムルが皇子おうじのこさずにぬとモンゴル帝国ていこくかえされてきた後継こうけいしゃあらそいがたちまち再燃さいねんし、皇帝こうていめぐって母后ぼこう外戚がいせき権臣けんしんら、モンゴル貴族きぞく同士どうしはげしい権力けんりょくあらそいがひろげられた。

まず権力けんりょくあらそいの中心ちゅうしんとなったのは、チンギスのははホエルン皇后こうごうボルテ、クビライの皇后こうごうチャブイ、テムルのははココジンらの出身しゅっしん部族ぶぞくで、クビライ、テムルの2だいにおいても外戚がいせきとして権勢けんせいをふるってきたコンギラト中心ちゅうしん結束けっそくしたもと宮廷きゅうてい貴族きぞくたちであった。テムルの皇后こうごうブルガンはコンギラト出身しゅっしんではなかったため、貴族きぞくちからおさえるためにテムルの従弟じゅうていにあたる安西あんざいおうアナンダ皇帝こうていむかえようとしたが、傍系ぼうけい即位そくいにより既得きとくけんおびやかされることをおそれた重臣じゅうしんたちはクーデターこしてブルガンとアナンダを殺害さつがい、モンゴル高原こうげん防衛ぼうえい担当たんとうしていたテムルのおいカイシャン皇帝こうていむかえた。

カイシャンの死後しごおとうとアユルバルワダ帝位ていいぐが、その治世ちせいには代々だいだいコンギラト出身しゅっしん皇后こうごう相続そうぞくされてきた莫大ばくだい財産ざいさん相続そうぞくしゃであるコンギラト出身しゅっしんのアユルバルワダのははダギ・カトン宮廷きゅうていない権力けんりょく掌握しょうあくし、皇帝こうてい命令めいれいよりも母后ぼこう命令めいれいのほうが権威けんいをもつとわれるほどであった。そのため、比較的ひかくてき安定あんていしたアユルバルワダの治世ちせい1320ねんわり、1322ねんにダギがぬとふたた政争せいそう再燃さいねんする。よく1323ねんにアユルバルワダののちいでいたシデバラ殺害さつがいされたのを皮切かわきりに、アユルバルワダがんでから1333ねんトゴン・テムル即位そくいするまで、11ねんあいだに7にん皇帝こうてい次々つぎつぎ交代こうたいする異常いじょう事態じたいへともとおちいった。

ようやく帝位ていい安定あんていしたのは、おおくの皇族こうぞく皇位こういをめぐる抗争こうそうによってたおれたすえ広西ひろせ追放ついほう生活せいかつおくっていたトゴン・テムルの即位そくいによってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力けんりょくにぎっていたキプチャク親衛しんえいぐん司令しれいかんエル・テムルうとまれ、エル・テムルが病死びょうしするまで正式せいしき即位そくいすることができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後しごアスト親衛しんえいぐん司令しれいかんであるバヤンがエル・テムルの遺児いじ殺害さつがいして皇帝こうていしの権力けんりょくにぎり、1340ねんにはバヤンのおいトクト伯父おじをクーデターで殺害さつがいしてその権力けんりょくうばうというように、もと宮廷きゅうていはもはやほとんどが軍閥ぐんばつ内部ないぶ抗争こうそうによってうごかされていた。そのうえ成人せいじんした皇帝こうてい権力けんりょくめぐ対立たいりつくわわり、1347ねんから1349ねんまでトクトが追放ついほうされるなど、中央ちゅうおう政局せいきょく混乱こんらんつづいた。

元朝がんちょう理財りざい色目いろめじん貴族きぞく財政ざいせい運営うんえいまね汚職おしょく重税じゅうぜいによる収奪しゅうだつおもく、また縁故えんこによる官吏かんり採用さいようゆえ横領おうりょう収賄しゅうわいほうのねじげの横行おうこう民衆みんしゅう困窮こんきゅうおとしいれていたが[12]、この政治せいじ混乱こんらんはさらに農村のうそん荒廃こうはいさせた。ただし、この14世紀せいきにはおりしもしょうこおり本格ほんかくによる農業のうぎょう牧畜ぼくちくぎょう破綻はたん活発かっぱつした流通りゅうつう経済けいざい起因きいんするペストパンデミック元朝がんちょう直轄ちょっかつ支配しはいであるモンゴル高原こうげん中国ちゅうごく本土ほんどのみならずぜんユーラシア規模きぼしょうじており、農村のうそん牧民ぼくみん疲弊ひへいかならずしも経済けいざい政策せいさくにのみかえせられるものではない。中央ちゅうおう政府せいふ権力けんりょくあらそいにのみ腐心ふしんする権力けんりょくしゃたちはこれにたいして有効ゆうこう施策しさく十分じゅうぶんおこなわなかったために国内こくない急速きゅうそく荒廃こうはいし、もと差別さべつ政策せいさくしたかれたきゅうみなみそうじん不満ふまん商業しょうぎょう重視じゅうし元朝がんちょう政策せいさくがもたらす経済けいざい搾取さくしゅくるしむ農民のうみん窮乏きゅうぼうなどの要因よういんがあわさって、地方ちほうでは急激きゅうげき不穏ふおん空気くうきたかまっていき、元朝がんちょうは1世紀せいきにもたないきわめて短命たんめい王朝おうちょう[13]としてのまくじた。

もと敗走はいそう

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1348ねん浙江せっこうかたこくめずらし海上かいじょう反乱はんらんこしたのをはじめとし、全国ぜんこく次々つぎつぎ反乱はんらんき、1351ねんには賈魯による黄河こうが改修かいしゅう工事こうじをきっかけに白蓮びゃくれん教徒きょうとべにはばとう蜂起ほうきした。1354ねんには、だい規模きぼ討伐とうばつぐんひきいたトクトが強大きょうだい軍事ぐんじりょくをもったことをおそれたトゴン・テムルによるぎゃくクーデターで更迭こうてつ殺害さつがいされるが、これは皇帝こうてい権力けんりょく回復かいふくえに軍閥ぐんばつささえられていたもと軍事ぐんじりょく大幅おおはばよわめることとなった。やがて、べにはばとうなかからあらわれたしゅもとあきら反乱はんらんしゃたちをことごとくたおして華南かなん統一とういつし、1368ねん南京なんきん皇帝こうてい即位そくいしてあきら建国けんこくした。

しゅもとあきらぐんは、即位そくいするやだい規模きぼきた開始かいししてもとだいせまった。ここにいたってモンゴルじんたちは最早もはや中国ちゅうごく保持ほじ不可能ふかのうであると見切みきりをつけ、1368ねんにトゴン・テムルは、だい放棄ほうきしてきたのモンゴル高原こうげんへと敗走はいそうした。一般いっぱんてき中国ちゅうごく叙述じょじゅつでは、トゴン・テムルの敗走はいそうによって元朝がんちょう終焉しゅうえんしたとなされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝こうてい政権せいけん以後いごもモンゴル高原こうげん存続そんぞくした。したがって、王朝おうちょう連続れんぞくせいをみれば元朝がんちょうは1368ねんをもって滅亡めつぼうとはえないが、これ以降いこう元朝がんちょう北元きたもとんでそれまでのもと区別くべつするのが普通ふつうである。だが、トゴン・テムルの2であるアユルシリダラトグス・テムル相次あいついで皇帝こうてい地位ちいぐ(あきら当然とうぜん、その即位そくいみとめず韃靼だったんという別称べっしょうもちいた)が、1388ねんにトグス・テムルが殺害さつがいされクビライ以来いらい直系ちょっけいおうみつる断絶だんぜつする。

この過程かてい単純たんじゅんかん民族みんぞく勝利しょうり・モンゴル民族みんぞく敗走はいそうという観点かんてんとらえることには問題もんだいがある。まず、華北かほくではさき黄河こうが改修かいしゅうなどによって災害さいがい軽減けいげんはかられたことによって、元朝がんちょう求心力きゅうしんりょくがむしろ一時いちじてきたかまった時期じきがあったことである(しゅもとあきらがまず華南かなん平定へいていちからそそいだのはこうした背景はいけいがある)。また、かん民族みんぞく官吏かんりなかには前述ぜんじゅつの賈魯をはじめとして元朝がんちょう忠義ちゅうぎくしてあかりぐん反乱はんらん勢力せいりょくたたかって戦死せんししたものもおおく、1367ねんあかりぐんらえられた戸部とべ尚書しょうしょちょうあきらしゅもとあきら降伏ごうぶく勧告かんこくたいして「江南こうなんにあっても、しん朔北さくほくおもう」とのこして処刑しょけいじょうかったといわれている。

その北元きたもと

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北元きたもとでは1388ねんにトゴン・テムルの子孫しそんえてクビライ皇帝こうてい世襲せしゅう終焉しゅうえんし、クビライ政権せいけんとしての大元おおもと断絶だんぜつした。しかし、そのもチンギスの子孫しそんがモンゴル高原こうげん優勢ゆうせいとなった遊牧ゆうぼく集団しゅうだんに、大元おおもと皇帝こうていとしてわるわる擁立ようりつされつづけた。クビライ断絶だんぜつはアリクブケ皇帝こうていつづき、一時いちじチンギス裔のオイラト族長ぞくちょう皇帝こうてい簒奪さんだつされた(エセン・ハーン)が、1438ねんにはクビライ末裔まつえいとされる王家おうけ復権ふっけんたし(ただしだい2だいモンゴル皇帝こうてい末裔まつえいのオゴデイである可能かのうせい指摘してきされている)、15世紀せいきすえにはそこからダヤン・ハーンにより、いったんだいもと皇帝こうていのもとでのモンゴル高原こうげん遊牧民ゆうぼくみんさい統合とうごうたされる。大元おおもと皇帝こうてい最終さいしゅうてき終焉しゅうえんむかえたのは、ダヤン・ハーンの末裔まつえいリンダン・ハーンに、モンゴルしょ部族ぶぞくがリンダンのわりに満州まんしゅうじんてた後金あときん皇帝こうていホンタイジをモンゴルのハーンに推戴すいたいした1636ねんであった(詳細しょうさい北元きたもと参照さんしょう)。

政治せいじ

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もと政治せいじ制度せいどはモンゴル帝国ていこく特有とくゆう制度せいどがかなり維持いじされたため、中国ちゅうごくしょ王朝おうちょう歴史れきしじょうでみれば、きわめて特異とくいなものとなっている。

中央ちゅうおう政府せいふ

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もと首都しゅとだい現在げんざい北京ぺきん)であるが、皇帝こうてい遊牧ゆうぼく国家こっか伝統でんとうのっとり、都城みやこのじょう城壁じょうへきないではらさずにふゆであるだいなつであるうえ近郊きんこう草原そうげんあいだぶし移動いどうするとばりまくゲルぐん宮廷きゅうていオルド)となっていた。だいはちょうど遊牧民ゆうぼくみん地域ちいき農耕のうこうみん地域ちいきせっするあたりに位置いちし、もともとモンゴル帝国ていこく本拠地ほんきょちであったうえはそのだい北方ほっぽう275キロの地点ちてんにある。

モンゴル帝国ていこく皇帝こうていのもとには、だいだいオゴデイの時代じだいから時代じだい設置せっちじょうきょうにより、漢語かんごで「中書ちゅうしょしょう」、「尚書しょうしょしょう」など様々さまざま名称めいしょうばれる書記しょき財務ざいむ官僚かんりょう機構きこう存在そんざいした。即位そくい以前いぜんからモンケによって中国ちゅうごく征服せいふく事業じぎょうゆだねられ、手元てもと漢人かんどふく様々さまざま頭脳ずのう集団しゅうだんあつめていたクビライは、即位そくいするとまず漢人かんど側近そっきん中書ちゅうしょしょう組織そしきした。このクビライの中書ちゅうしょしょうは、オゴデイ時代じだい中央ちゅうおう書記しょき官庁かんちょうのとしての中書ちゅうしょしょう性格せいかく継承けいしょうするとともに、から以来いらい中書ちゅうしょしょう伝統でんとういでしたろくき、民政みんせい財政ざいせい軍事ぐんじ一切いっさい統括とうかつした。

1263ねんには中書ちゅうしょしょうから軍政ぐんせい機能きのう分離ぶんりして中央ちゅうおう軍政ぐんせい機関きかんとして枢密院すうみついん設置せっちされ、中書ちゅうしょしょうとあわせてクビライの嫡子ちゃくしチンキム総裁そうさいし、中央ちゅうおう政府せいふ管轄かんかつ地域ちいき庶政しょせいちちにかわって代行だいこうした。しかし、中央ちゅうおう政府せいふぜん機能きのう中書ちゅうしょれいチンキムのしたたばねたわけではなく、1270ねんにはアフマドを長官ちょうかんとする財務ざいむ官庁かんちょう拡大かくだいされ、中書ちゅうしょしょうなら地位ちい尚書しょうしょしょうとなる。さかのぼって1268ねんには中国ちゅうごく王朝おうちょうにならってだい設置せっちし、民政みんせい軍政ぐんせい財政ざいせい監察かんさつのそれぞれにかかわる機関きかんがひととおり整備せいびされた。ただし、中央ちゅうおう官庁かんちょう中書ちゅうしょしょう枢密院すうみついん尚書しょうしょしょうなどの中国ちゅうごくふう名前なまえってはいたが、職掌しょくしょう官吏かんり定数ていすうかんする規定きていはなく、さらに後述こうじゅつするように省庁しょうちょう要職ようしょく宮廷きゅうていつかえる皇帝こうてい側近そっきんたちから任用にんようされ、とく左右さゆう丞相じょうしょうなどの長官ちょうかんクラスをつとめるもの家臣かしん隷属れいぞくみん軍隊ぐんたいなどをみずか保有ほゆうするモンゴル貴族きぞくからなっていた。このため、官庁かんちょうおこな業務ぎょうむ実際じっさいには官庁かんちょうさだめられた官僚かんりょう機構きこうではなく、高官こうかん個性こせい宮廷きゅうていでのちから関係かんけいなどに左右さゆうされた。

なお、もとだい中書ちゅうしょしょうでは総裁そうさいである中書ちゅうしょれいのぞくと、みぎ丞相じょうしょう長官ちょうかんひだり丞相じょうしょう次官じかんであった。中国ちゅうごくふるくからみぎ賤左という観念かんねんがあった。漢書かんしょ·しゅうあきらでん:「左遷させん」、かおちゅう:“ときみぎとうとしかしてひだりいやしみ、ゆえに秩位をへんするを左遷させんす。そう.戴埴《ねずみ璞》:「かんみぎもっみことし、貶秩をいて左遷させんす、つかまつ诸侯は左官さかんり、高位こういみぎしょくる。

もとのモンゴルじんは、ながらく中国ちゅうごく支配しはいしてもさほど中国ちゅうごく文化ぶんかしたしまず、時代じだいてき先行せんこうする征服せいふく王朝おうちょうであるりょうきむ比較ひかくすると民族みんぞく固有こゆう支配しはい体制たいせい維持いじしていたため、もとでは律令りつりょうのような体系たいけいった法令ほうれい編纂へんさんせず、モンゴル時代じだいもとはつほう裁定さいてい紊乱びんらんして民衆みんしゅう困窮こんきゅうまねいた。次第しだい政権せいけん様々さまざま部局ぶきょくからはっせられる命令めいれいかさねを法令ほうれいし、なかでも皇帝こうていをもってされる聖旨せいし(ジャルリグ)や令旨れいしなどとかんやくされる皇族こうぞく王族おうぞくによって発布はっぷされた命令めいれいしょ(ウゲ)がたか権威けんいった。しかし、もとまつまで法体ほうたいけい不備ふび解消かいしょうされず縁故えんこによる汚職おしょくがはびこる温床おんしょうひとつとなった。モンゴルじん文字もじとしてモンゴル文字もじと、クビライがあらたにつくらせたパスパ文字もじをもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字もじかれたモンゴル正文せいぶんとしていた。漢文かんぶん翻訳ほんやくいたが口語こうごてき直訳ちょくやくてき文体ぶんたいもちいられた。なお、げられた法令ほうれいは、『もと典章てんしょう』という漢文かんぶん書物しょもつ編纂へんさんされて現存げんそんしているが、文章ぶんしょう直訳ちょくやくたいくわ当時とうじ官吏かんりもちいた特殊とくしゅ文体ぶんたいであり、伝統でんとうてき漢文かんぶんとはおおいに文体ぶんたいことにしている。もととき比較的ひかくてき体系たいけいった『いたり元新もとしんかく』が、えいむねときいたり3ねん、1332ねん)に体系たいけいてき法令ほうれいである『大元おおもとどおりせい』が編纂へんさんされた。

地方ちほう制度せいど

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くだり中書ちゅうしょしょう配置はいち

もと中書ちゅうしょしょう直接的ちょくせつてき権限けんげんおよぼすのは「はらうら」とばれるうえだい中心ちゅうしんゴビ砂漠ごびさばく以南いなんのモンゴル高原こうげんうちモンゴル)と、河北かわきた山東さんとう山西さんせい華北かほく一帯いったいにおいてのみである。

はらうらのぞいた広大こうだい支配しはい領域りょういきはいくつかのブロックに分割ぶんかつされ、かくブロックには地方ちほうにおける中書ちゅうしょしょう代行だいこう機関きかんとして意味いみをもつ「くだり中書ちゅうしょしょう」(くだりしょう)というをもった官庁かんちょうかれた。各行かくこうしょう中書ちゅうしょしょう同格どうかく皇帝こうてい直属ちょくぞくし、はらうらにおける中書ちゅうしょしょうじゅんじ、管下かんか地域ちいきにおける最高さいこう行政ぎょうせい機関きかんとして、民政みんせい財政ざいせい軍事ぐんじ一切いっさい統括とうかつした。現在げんざい中国ちゅうごく使つかわれている地方ちほう区分くぶんとしてのしょうは、もとだいくだりしょう制度せいど起源きげんとする。

くだりしょうかずは、最多さいた時期じきで11にのぼり、モンゴル帝国ていこくひがし半分はんぶんおおう。裏返うらがえしていえば、首都しゅとけん中書ちゅうしょしょう地方ちほうくだりしょう管轄かんかつするしょ地域ちいき総体そうたいがモンゴル帝国ていこく再編さいへんのクビライのモンゴル皇帝こうてい政権せいけんたるもと支配しはい領域りょういきであった。くだりしょう管下かんかにはみちしゅうけんさん段階だんかい行政ぎょうせい区分くぶんかれ、みちしゅうけん行政ぎょうせい最高さいこう決定けっていけんこうしょう直属ちょくぞくするしゅうけん行政ぎょうせい機関きかんではなく、中央ちゅうおうからみちしゅうけんかく単位たんい派遣はけんされ地方ちほう監督かんとく軍事ぐんじつかさど役人やくにんダルガチった。

また、モンゴルの王族おうぞく貴族きぞく自身じしん遊牧民ゆうぼくみんひきい、皇帝こうていおなじくぶし移動いどうおこな直轄ちょっかつ所領しょりょう(「」「投下とうか」とばれる)をち、個々ここ所領しょりょうはチンギス以来いらい権利けんりによって貴族きぞく所有しょゆうする封土ほうどであり、自治じちゆだねられていた。しかも個々ここ投下とうか中国ちゅうごく内地ないち定住ていじゅう地帯ちたいにモザイクじょうった領民りょうみん領地りょうちっていた。定住ていじゅう地帯ちたいでは、チンギス時代じだい以来いらいすうじゅうねんにわたる征服せいふく過程かてい形成けいせいされた王族おうぞく貴族きぞく投下とうかりょうみだれ、領土りょうど領民りょうみん所有しょゆう関係かんけい複雑ふくざつだった。王族おうぞく貴族きぞくりょう投下とうかりょうみずからダルガチをにんじて、皇帝こうてい直接ちょくせつ支配しはいけんおよばないりょう投下とうかりょうが、封土ほうどふくんで地域ちいき全体ぜんたい統括とうかつするくだりしょう支配しはい権力けんりょく並存へいそんしていた。

もと服属ふくぞくした天山あまやまウイグル王国おうこくは、内政ないせいかんしてはこうあきらおうさづけられ従来じゅうらいからのくにせいたもったまま自治じちみとめられた。その王族おうぞくはキュレゲン(キュレゲンとはチンギス・カンの女婿じょせい、つまりは外戚がいせきである)としてモンゴルの王族おうぞく貴族きぞくじゅんじるあつかいをけ、クビライ皇女おうじょ婚姻こんいんむすんだ。また、もと服属ふくぞくした高麗こうらいは12しょうまれて高麗こうらいしょうとなりおなじく行政ぎょうせいいて自治じちみとめられたが、高官こうかん人事じんじけん政治せいじ軍事ぐんじ所属しょぞくするくだりしょうのモンゴルじんによって支配しはいされた。ちゅうせんおう以降いこう国王こくおう名目めいもくてき存在そんざいとなり、モンゴル皇女おうじょははとし即位そくい以前いぜんもと宮廷きゅうていながらく滞在たいざいして皇帝こうてい側近そっきんつかえるなど、ほとんどモンゴル貴族きぞくのようであった[14]

このようにもと地方ちほう制度せいどは、中国ちゅうごく王朝おうちょう伝統でんとうてき中央ちゅうおう集権しゅうけんてき中書ちゅうしょしょうぎょうしょうみちしゅうけん階層かいそうせいと、きわめて分権ぶんけんてき封建ほうけんてきである皇帝こうてい直轄ちょっかつりょう投下とうかりょう混在こんざい交差こうさしていたが、もと支配しはいにありながらことなる制度せいどかれる例外れいがいとして、チベット吐蕃)があった。チベットは、各地かくち領域りょういき支配しはいおこな土着どちゃく貴族きぞくたちが10以上いじょうまんけられ、として掌握しょうあくされ、チベット仏教ぶっきょうサキャ教主きょうしゅ長官ちょうかんとするもと仏教ぶっきょう教団きょうだん統制とうせい機関きかん宣政のぶまさいんによって統括とうかつされていた。

人材じんざい運用うんよう

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人材じんざい登用とうようめんでも、もと中国ちゅうごく王朝おうちょう通例つうれいおおきくはんする。中央ちゅうおう政府せいふ地方ちほう政府せいふども人材じんざい登用とうようでは能力のうりょくではなく縁者えんじゃ階級かいきゅう重視じゅうしされ高官こうかん子弟してい修養しゅうよう実務じつむまえから権限けんげんのある役職やくしょくいた、またチンギス時代じだいから存在そんざいするだいハーンの親衛隊しんえいたい組織そしきで、守衛しゅえいから食事しょくじ衣装いしょう準備じゅんびまで皇帝こうていまわりのあらゆる事柄ことがら管理かんり運営うんえいする家政かせい機関きかんであるケシクテン重要じゅうよう意味いみをもち、政府せいふ要職ようしょく政治せいじたずさわるものおおくは、皇帝こうていとの個人こじんてき主従しゅうじゅう関係かんけいもとづき登用とうようされたケシクテン所属しょぞくしゃ(ケシク)からの出向しゅっこうであった。しかも、かれらは官庁かんちょう役職やくしょくとはべつにケシクとしての職務しょくむつづけ、実際じっさい政局せいきょく運営うんえい官庁かんちょう職員しょくいん上下じょうげ関係かんけいよりも、むしろケシク組織そしき内部ないぶ人間にんげん関係かんけいによってすすめられており、重要じゅうよう事項じこう決定けってい皇帝こうていとケシクにれっする有力ゆうりょくしゃ合議ごうぎによりおこなわれた。

宰相さいしょうなど最高さいこう官職かんしょくは、ケシクのなかでも皇帝こうてい近侍きんじするものたちがえらばれたが、かれらはおもせんにん隊長たいちょうせん戸長こちょう)などのモンゴル有力ゆうりょくしゃ子弟していからなった。とくに、ケシクの長官ちょうかんはチンギスの4にん功臣こうしんムカリボオルチュチラウンボロクル子孫しそんによって世襲せしゅうされ、中央ちゅうおう官庁かんちょう長官ちょうかんかれ功臣こうしんや、代々だいだい皇族こうぞくむすめ婿むこうま)となってきた姻族いんぞくなどのモンゴル貴族きぞく独占どくせんした。また、有名ゆうめい耶律すわえざいのように、はや時期じきにモンゴルに帰順きじゅんして、ハーンの手足てあしとして行政ぎょうせい軍事ぐんじかかわってきたものたちの子孫しそんは、モンゴルじんではなくてもモンゴルじんじゅんずるものとしてケシクにくわえられて高位こうい役職やくしょくあたえられ、世襲せしゅうすることが約束やくそくされていた。

皇帝こうていとの封建ほうけんてき主従しゅうじゅう関係かんけいもとづく世襲せしゅう社会しゃかい元朝がんちょうでは能力のうりょくもとづく選抜せんばつ採用さいよう必要ひつようがなく、また大量たいりょう増員ぞういんがあった元朝がんちょうによるみなみそう滅亡めつぼうさいしても、投降とうこうしたきゅう官吏かんり大量たいりょう採用さいようしたため[15]科挙かきょによってあらたに官僚かんりょう登用とうようする必要ひつよう存在そんざいせず、中国ちゅうごく伝統でんとうてき官僚かんりょう機構きこう根幹こんかんをなす科挙かきょもほとんどおこなわれなかった(耶律すわえざい実施じっしした科挙かきょによっていち登録とうろくされた4000にんのうち、中央ちゅうおう高官こうかんけんちょう以上いじょう官職かんしょくいた24にんなどのれいもなくはない[16])。かん民族みんぞく官僚かんりょう需要じゅようは、オゴデイ時代じだいの1237ねん儒学じゅがくぎょうとするいえとして選定せんていされ戸籍こせき登録とうろくされた人々ひとびと、「儒戸」によってまかなわれていた(そのも儒戸の追加ついか登録とうろくがなかったわけではない)。

このように人材じんざい運用うんようにおいて、「あし」とばれる、先祖せんぞ功績こうせきにもとづく家柄いえがら皇帝こうていとの姻戚いんせき関係かんけいなどの関係かんけいふかさ、主従しゅうじゅう関係かんけい由緒ゆいしょふるさが重視じゅうしされるモンゴル伝統でんとうふうけん制度せいどもとささえており、そう以来いらい科挙かきょ試験しけんによる中国ちゅうごく人材じんざい運用うんようとはまった異質いしつであった。モンゴル皇室こうしつ由緒ゆいしょ記録きろくした『元朝がんちょう秘史ひし』が、チンギスの功臣こうしんたちやかく部族ぶぞく集団しゅうだんがチンギスの先祖せんぞとチンギス本人ほんにんつかえるようになった経緯けいいとくくわしく記述きじゅつしているのは、個々ここ貴族きぞくあしたかさを説明せつめいするためだったとかんがえられる。その結果けっか元朝がんちょう官吏かんり文官ぶんかんとしての能力のうりょくいちじるしくいた無能むのうしゃおおく、汚職おしょく悪政あくせい搾取さくしゅかえ元凶げんきょうとなった。

貴族きぞく家門かもんぞくさなくとも出世しゅっせできたものもいたが、おもかれらはモンゴル帝国ていこく初期しょきから政商せいしょうとして重用じゅうようされ、元朝がんちょう初期しょき高官こうかんとして財務ざいむになっていた色目いろめじん(モンゴルじん漢人かんどみなみ以外いがいすべての人々ひとびと貴族きぞくだった。オルトクばれる国際こくさい交易こうえきのための共同きょうどう事業じぎょう制度せいどつうじて皇帝こうてい貴族きぞく金銭きんせんつうじたつながりをもったかれらは財務ざいむあかるく重用じゅうようされた。しかし、徴税ちょうぜい専売せんばいぜい請負うけおいなどで度重たびかさなる臨時りんじ増税ぞうぜいして過重かじゅう負担ふたんわせ、汚職おしょくきょくほうきわめて搾取さくしゅおこなったことは「ぜいじん白骨はっこつ」に代表だいひょうされる民衆みんしゅう怨嗟えんさのまととなった[17]先述せんじゅつしたアフマドのような色目いろめじん高官こうかんは、姦臣かんしんとして中国ちゅうごくのこすことになる。

みなみそう出身しゅっしん知識ちしきじん官吏かんりとなるみちは、科挙かきょおこなわれない以上いじょう、まず下級かきゅう事務じむかんである吏員りいんとして出仕しゅっしするしかなかった。科挙かきょはようやく1315ねん復活ふっかつし、中断ちゅうだんふくみつつ合計ごうけい16かいおこなわれたが、漢人かんどかね支配しはいにいた華北かほく人々ひとびとで、かん民族みんぞくかんした渤海じんちぎりじんおんな真人しんじんなどからなる)とみなみみなみそう支配しはいにいた江南こうなん人々ひとびと)の合計ごうけい合格者数ごうかくしゃすうはモンゴルじん色目いろめじん合計ごうけい同数どうすうとされた。しかもぜん合格ごうかくしゃはわずか100めい定員ていいんとしたため元朝がんちょうぜん科挙かきょつうじた合計ごうけい合格者数ごうかくしゃすうは1100めいきょうぎず、そうあかりでは1科挙かきょすうひゃくめい合格ごうかくしていたことと比較ひかくすればきわめてすくない。

もっとも、官吏かんり軍人ぐんじん・儒戸としての出仕しゅっし縁故えんこ推挙すいきょなどによる出仕しゅっし国子くにこかんなどのくに教育きょういく機関きかんつうじた出仕しゅっし科挙かきょ及第きゅうだいによる出仕しゅっし出仕しゅっし経路けいろ多様たようせいをモンゴル帝国ていこく元朝がんちょう人材じんざい登用とうよう特徴とくちょうとしてとらえ、もとだい知識ちしきじんおおくは自分じぶん有利ゆうり方法ほうほうでの仕官しかん目指めざしたのであって、「進士しんし及第きゅうだい」という社会しゃかいてき名誉めいよにこだわらないかぎりは、どの方法ほうほうでもかまわなかった(科挙かきょける必然ひつぜんせいはなかった)とする指摘してきもある[18]

民政みんせい制度せいど

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民間みんかん掌握しょうあくにあたっても、もとでは、個々ここみん皇帝こうていとの個人こじんてき主従しゅうじゅう関係かんけい重視じゅうしされた。もと戸籍こせき作成さくせいするにあたり、各戸かっこを「ぐん」「站戸」「たくみ」「儒戸」「みん」などのすうじゅうしゅある職業しょくぎょうべつ戸籍こせきけ、職業しょくぎょうごとに世襲せしゅうさせた。儒戸はうえですでにれたが、ぐんや站戸は、軍役ぐんえきえき站にたいする責任せきにんわりに免税めんぜいなどの特権とっけん享受きょうじゅし、一般いっぱんみんくらべると広大こうだい土地とち領有りょうゆうする特権とっけん階級かいきゅうとなった。ぐんや站戸はかつてのかん人世じんせいこう配下はいか兵士へいしたちが軍閥ぐんばつ解体かいたい編成へんせいされたものがおもで、モンゴルにたいするきゅうこうにより特権とっけんあたえられたのだと理解りかいされる。地域ちいきてきにも、モンゴルに帰順きじゅんしたのがはや華北かほくかたよっていたといわれている。

出猟しゅつりょう 国立こくりつみや博物はくぶついん

こうした政治せいじ制度せいどがとられた結果けっか、モンゴルは必然ひつぜんとして、モンゴルに帰順きじゅんした順序じゅんじょによって、支配しはい民族みんぞくあつかいに厳格げんかく格差かくさ存在そんざいした。これが有名ゆうめいな、モンゴルじん色目いろめじん漢人かんどみなみよんとう身分みぶん制度せいどである。よんとう身分みぶん制度せいど実施じっしされたため、漢人かんどみなみ高級こうきゅう官吏かんりまんにん無二むにしょうされるよう非常ひじょう小数しょうすうおさえられていた。ただしこの身分みぶん制度せいど支配しはい頂点ちょうてんっていたモンゴルじんでも没落ぼつらくして奴隷どれいになるものもいた。クビライも皇帝こうてい即位そくい以前いぜんからウイグルひとちぎりひと漢人かんどおんな真人しんじんなどからなる多種たしゅぞく混成こんせいのブレイン・実務じつむ集団しゅうだんかかえている。もと王朝おうちょうでは財務ざいむすぐれた色目いろめじんムスリム)たちには財政ざいせい部門ぶもんを、文化ぶんか宗教しゅうきょう関係かんけい部門ぶもんにはチベットひとインドネパールカシミール地方ちほう出身しゅっしんしゃを、そして科学かがく学術がくじゅつ情報じょうほう技術ぎじゅつ分野ぶんやにはあらゆる地域ちいき出身しゅっしん人々ひとびと登用とうようされ、各人かくじん特性とくせい能力のうりょくおうじた職務しょくむ分担ぶんたんした。そしてもとまつにはキプチャク親衛しんえいぐんやアスト親衛しんえいぐんのように元々もともとモンゴルではない出自しゅつじものがモンゴル貴族きぞくなみに政権せいけん左右さゆうし、かん民族みんぞく出身しゅっしんしゃでももと王朝おうちょう忠誠ちゅうせいちかうものがあらわれた。台北たいぺい国立こくりつみや博物はくぶついんおさめられているクビライの狩猟しゅりょう様子ようすえがいた「出猟しゅつりょう」では黒人こくじんおもわれるくろはだをしたうまった人物じんぶつがクビライのちかくにえがかれる[19]

このようにモンゴルの慣習かんしゅう固執こしつし、科挙かきょによらず縁故えんこ主義しゅぎ科挙かきょ実力じつりょくもとづく)により人材じんざい登用とうようし、とくにモンゴルじん中国ちゅうごくへの同化どうかきらったもと政治せいじ制度せいどはきわめて特異とくいであり、その分権ぶんけんてき中世ちゅうせいてき支配しはいは、とうだい以来いらい貴族きぞく階層かいそうおよ農奴のうどせい解体かいたい皇帝こうてい独裁どくさいへとすすんできた中国ちゅうごく歴史れきしおおまかなながれからみればおおいに時代じだい逆行ぎゃっこうてきであった。また、流通りゅうつう貿易ぼうえき振興しんこうはかり、紙幣しへい流通りゅうつうさせるなど経済けいざい商業しょうぎょう政策せいさくみなみそう施行しこういだものの、奴隷どれいせい逆行ぎゃっこうした弊害へいがいおおきく広範こうはん産業さんぎょうとく農業のうぎょう全般ぜんぱん漁業ぎょぎょう鉱業こうぎょう全般ぜんぱん)において停滞ていたいはいり、そうだい水準すいじゅん回復かいふくするのは明代あきよ中期ちゅうきまでこととなる。[20]

経済けいざい

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単位たんい以下いかとおり ; 10しょう=1せき=やく95リットル。1うね=やく565平方へいほうメートル。10ぜに=1りょう=37.3グラム)

もと繁栄はんえいは、人口じんこうおおゆたかな中国ちゅうごくすうひゃくねんぶりに統一とういつしたことで中国ちゅうごくきたみなみ経済けいざいをリンクさせ、モンゴル帝国ていこくゆるやかな統一とういつがもたらした国際こくさい交易こうえき振興しんこうした。また、しお国家こっか専売せんばいによる莫大ばくだい収入しゅうにゅう莫大ばくだい農業のうぎょう生産せいさんりょくによる穀物こくもつ国庫こっこささえた。経済けいざいセンターとして計画けいかく設計せっけいされただい集中しゅうちゅうする国際こくさいてき規模きぼ物流ぶつりゅうからもしょうぜいられた。もとでの経済けいざい政策せいさく担当たんとうしていたものおおくは色目いろめじんであった。

中国ちゅうごく統一とういつ経済けいざい効果こうか

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中国ちゅうごく全土ぜんど見渡みわたすと、もと国土こくど内側うちがわもっと生産せいさんせいんでいたのは、みなみそうほろぼしてれた江南こうなんであった。江南こうなんは、もとよりはるか以前いぜんずいとう時代じだいから中国ちゅうごく全体ぜんたい経済けいざいささえるようになっていたが、華北かほくかねうばわれたみなみそうがこの中心ちゅうしんとして150年間ねんかんつづいたことで開発かいはつさらすすみ、江南こうなん華北かほく経済けいざい格差かくさはますますひろがっており、江南こうなん併合へいごうするまえ1271ねんとしたのち1285ねんでは、その歳入さいにゅうがくが20ばいがったという数字すうじている。[21]

江南こうなん農業のうぎょう収穫しゅうかく国家こっか効率こうりつてきるために効果こうかをあげたのは、国家こっか直営ちょくえい田地でんちで、単位たんい面積めんせきあたりから通常つうじょう税収ぜいしゅうすうばいする収穫しゅうかくられる奴婢ぬひもちいたかんでん経営けいえいであった。かんでんみなみそう末期まっき拡大かくだいすすんでいたが、もとはこれを接収せっしゅうするとみなみそう皇族こうぞく高官こうかん不正ふせいはたらいたものなどから没収ぼっしゅうしたくわえてかんをさらに拡大かくだいし、江南えな莫大ばくだい穀物こくもつ国庫こっこおさめることができた。これにくわえ、クビライは『のうくわ輯要』というかんせんのうしょ刊行かんこうした。これまでにも同様どうよう書籍しょせきはあったが、国家こっか政策せいさくとして同書どうしょ編纂へんさんされたということは、もと内政ないせい商業しょうぎょう一辺倒いっぺんとうであったわけではなく、国家こっかてき規模きぼでのすすむ農政のうせいさく推進すいしんされたことを物語ものがたっている。さらにおそれしゅう代表だいひょうされる農業のうぎょう水利すいり専門せんもん登用とうようされて、江南こうなんから移民いみんつのって戦乱せんらん荒廃こうはいした華北かほく農地のうち再建さいけんはかるなどして、農業のうぎょう生産せいさん充実じゅうじつつとめている。しかし、金代かなだい農地のうち1うねたり1.5せき程度ていどだった華北かほく生産せいさんせいもとだいには1うねたり0.6程度ていどにまで激減げきげんしており、戦乱せんらん奴隷どれいせいによる農業のうぎょう技術ぎじゅつおおきな衰退すいたい確認かくにんされる。

また、クビライはうみめんした現在げんざい天津てんしんからだいまで80kmほどの運河うんが穿うがち、だいなかみなとをつくって江南こうなん穀物こくもつだい運送うんそうするのに手間てまかる運河うんがではなく海運かいうん使用しようするようにしたことできょうくいだい運河うんが完成かんせいした。

さらに、江南こうなんには、もと国家こっか収入しゅうにゅう屋台骨やたいぼねささえるしおちゃさけ明礬みょうばん江南こうなんかたよらない)などのせん売品ばいひん生産せいさん大半たいはん集中しゅうちゅうしており、専売せんばいせい江南こうなんとみ国家こっかげるために重要じゅうよう制度せいどだった。専売せんばいせいによる利益りえき巨大きょだいであり、とくに、しお生活せいかつかせないことから厳重げんじゅう管理かんりされ、後述こうじゅつするようにもと経済けいざい制度せいど根幹こんかんかかわっていた。

この江南こうなん経済けいざいりょくもと繁栄はんえいきずかれたわけだが、これはべついちめんからいえば、江南こうなんからの収入しゅうにゅうければもとかないということであり、南中なんちゅうこく相次あいついだ反乱はんらんによりもと急速きゅうそく衰退すいたいし、また反乱はんらんしゃなかのこったのが江南こうなんうばった群雄ぐんゆうであったのは、必然ひつぜんでもあった。

税制ぜいせい

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政治せいじ状況じょうきょうなどにより税率ぜいりつ様々さまざま変更へんこうされるものである。ここであげる税額ぜいがく1260ねんのクビライ即位そくいとしれいっている。)

もと税制ぜいせいは、かつてのかね領土りょうどかん)と、みなみそう領土りょうど江南こうなん)とでことなっていた。

かん税制ぜいせいは、オゴデイの時代じだいに耶律すわえざいらによって整備せいびされた税制ぜいせいをもとにしたもので、それぞれにぜいかてほうほうばれる2つの税法ぜいほうからなっていた。

ぜいかては、各戸かっこ壮丁そうてい労働ろうどうえうる男性だんせい)ごとにあわ穀物こくもつ)1せき、あるいは土地とち1うねごとにはたけは3しょう灌漑かんがいは5しょう、というように人数にんずうわり田畑たはた面積めんせきわり種類しゅるいのうちどちらかにもとづき、穀物こくもつぜいとしておさめるものである。人数にんずうわり面積めんせきわりのどちらをるかは、たかいほうをるようさだめられていたため、人頭じんとうぜい面積めんせきたいしてかかる一般いっぱんてきぜいりょうてだった歴代れきだい中国ちゅうごく王朝おうちょうとはおもむきことなる。

もう一方いっぽうたいしてせられるぜいで、さらいとりょうつつみぎんとにかれる。いとりょう最高さいこう絹糸けんしを22りょう4ぜに重量じゅうりょう)をおさめ、つつみぎんぎん6りょうおさめた。つつみぎんぜいは、モンゴルの王族おうぞく貴族きぞく国際こくさい商業しょうぎょう投資とうしするために当時とうじ国際こくさい通貨つうかであるぎんあつめる目的もくてきもうけられた。この2つのぜい徴税ちょうぜい事務じむは、かねほろぼし華北かほく進出しんしゅつした当初とうしょ委託いたくされた徴税ちょうぜいじんによっておこなわれていたが、モンケの治世ちせい以降いこう次第しだいにかつてモンゴルへ投降とうこうした在地ざいちかねじん漢人かんどこうによって代替だいたいされるようになり、それにともなって中間ちゅうかんでのりはったものの元朝がんちょう政府せいふ税額ぜいがくを2ばい前後ぜんこうとしたため民衆みんしゅう過重かじゅう負担ふたんわらなかった。

一方いっぽう江南こうなんほうでは、みなみそうからいだりょう税法ぜいほうをそのままもちいていた。りょう税法ぜいほうでは、各戸かっこなつ木綿こわたなどの物産ぶっさんあき穀物こくもつを、それぞれの資産しさんおうじたがくとしに2かい納税のうぜいする。

しかし、これらの農村のうそんからあがる税収ぜいしゅうは、基本きほんてき地方ちほう政府せいふ機関きかん使つかわれ、中央ちゅうおう政府せいふ歳入さいにゅう穀物こくもつよりもぎん重視じゅうしされた。そのため、先述せんじゅつしたように、もと中央ちゅうおう歳入さいにゅう専売せんばいしょうぜいなどの商業しょうぎょう活動かつどうからあがる収入しゅうにゅう依存いぞんする割合わりあい王朝おうちょうよりもたかかった。

もとしょうぜいぎんおさめで、税率ぜいりつをおよそ3.3%にさだめられた。もとしょうぜいは、かねみなみそうおなじく奢侈しゃしひんにち用品ようひんしゅうあいだ移動いどうするときや港湾こうわん商品しょうひん通過つうかするときに関税かんぜいされ、にち用品ようひん最終さいしゅう売却ばいきゃく売却ばいきゃくしょうぜい支払しはらえばよかった。反面はんめん海外かいがいとの交易こうえき厳格げんかく統制とうせいかれたが、国庫こっこはいしょうぜい総額そうがく歳入さいにゅうの1~3わりにのぼった。

しかし、もとにおいて8わりともわれる歳入さいにゅうのもっともおおきな部分ぶぶんめたのは、つぎくわしくれるしお専売せんばいせいである。

金融きんゆう政策せいさくしお専売せんばい制度せいど

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中国ちゅうごくではきたそうだいにはかいばれる紙幣しへい流通りゅうつうしており、モンゴル帝国ていこくも、オゴデイの時代じだいにはすでかねみなみそう使つかわれていた紙幣しへいれ、帝国ていこくない使用しようすること出来でき交鈔(こうしょう、あるいはたんに鈔とも)とばれる紙幣しへい流通りゅうつうさせていた。もとではクビライが即位そくいした1260ねんなかみつるもとたから交鈔(通称つうしょうなかみつる鈔)とう交鈔を発行はっこうした。かいなど旧来きゅうらい紙幣しへい発行はっこうされてから通貨つうかとしての価値かち無効むこうになるまでの期間きかん限定げんていされており、紙幣しへいはあくまで補助ほじょ通貨つうかとしての役割やくわりしかたなかったが、モンゴルははじめて通貨つうかとしての紙幣しへい本格ほんかくてき流通りゅうつうさせた。

交鈔はきむぎんとの兌換だかん交換こうかん)が保障ほしょうされており、つつみぎん支払しはらいも交鈔でおこなうことができるようにして、もと紙幣しへい流通りゅうつうすすめた。しかし、交鈔の増刷ぞうさつ連年れんねんすすめられ、とくみなみそう併合へいごうしたのち江南こうなん流通りゅうつうさせるためにだい増刷ぞうさつするが、これにより紙幣しへい流通りゅうつうたいして金銀きんぎん兌換だかん準備じゅんび不足ふそくし、価値かちがった。

いたりもと通行つうこうたから鈔とその原版げんばん上段じょうだんひだりらんパスパ文字もじで「いたりもとたから鈔(jˇi ’ŭen baw č‘aw)」とかれている。

これにたいして1287ねんなかみつる鈔のばい価値かちたるいたりもと通行つうこうたから鈔(通称つうしょういたりもと鈔)を発行はっこうし、あわせてだぶついた紙幣しへい回収かいしゅうおこない、紙幣しへい価値かち比較的ひかくてき安定あんていかった。それでも、えず紙幣しへい増刷ぞうさつおこなわれたために紙幣しへい価値かち下落げらくけられなかったが、もとではしお専売せんばいせい紙幣しへい価値かち安定あんてい寄与きよさせてこれを解決かいけつした。生活せいかつ必需ひつじゅひんであるしおは、専売せんばいせいによって政府せいふによって独占どくせん販売はんばいされるが、政府せいふ紙幣しへい正貨せいかとしているため、紙幣しへいでなければしお購入こうにゅうすることはできない。しかし、これは視点してんえれば、紙幣しへい政府せいふによってしおとの交換こうかん保障ほしょうされているということである。しかもごくすくない採掘さいくつがくのぞけば絶対ぜったいりょう増加ぞうかがほとんどこらない金銀きんぎんたいし、消費しょうひざいであるしおつね生産せいさんされつづけるから、しお販売はんばいというかたち紙幣しへいしおへの「兌換だかん」をいくらっても政府せいふ兌換だかん準備じゅんびがく減少げんしょうしない。こうして、専売せんばいせいとそれによる政府せいふ莫大ばくだい歳入さいにゅうがく保障ほしょうとして紙幣しへい信用しんようたもたれ、金銀きんぎんへの兌換だかん準備じゅんび不足ふそくしても紙幣しへい価値かち下落げらくすすみにくい構造こうぞうたもたれたのである。

さらにしお専売せんばいせいはそれ自体じたい金融きんゆう政策せいさくとして機能きのうした。もとかぎらず、中国ちゅうごくでは、政府せいふ製塩せいえんしょ生産せいさんされたしお民間みんかん商人しょうにん購入こうにゅうするには、塩引しおびきばれる政府せいふ販売はんばいする引換ひきかえけん必要ひつようとされたが、塩引しおびきしお交換こうかんされることが保障ほしょうされているために、紙幣しへい代用だいよう使つかうことができた。もとはこれを発展はってんさせ、そうではぜに貨によって販売はんばいされていた塩引しおびきを、ぎん・交鈔によって販売はんばいした。こうして塩引しおびき国際こくさい通貨つうかであるぎん交換こうかんされる価値かち獲得かくとくし、しかもいちまい額面がくめんがくたかいために、商業しょうぎょう高額こうがく決済けっさい便利べんり高額こうがく通貨つうかともなった。

歳出さいしゅつ国際こくさい商業しょうぎょう

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こうして、しおとの交換こうかん保障ほしょうされた交鈔・塩引しおびきぎんひとしい通貨つうかとして流通りゅうつうさせることによってぎん絶対ぜったいりょう不足ふそくおぎないつつ、塩引しおびき代金だいきんさきべたしょうぜいぎん単位たんい徴収ちょうしゅうしたことにより、もと中央ちゅうおう政府せいふ、ひいては皇帝こうてい手元てもとには、中国ちゅうごく全土ぜんどから多量たりょうぎんあつめられた。こうしてたくわえられたぎん広大こうだい領土りょうど維持いじ発展はってんさせるための莫大ばくだい軍事ぐんじとして使つかわれるほか、すくなくない部分ぶぶん皇帝こうていから家臣かしんであるモンゴル貴族きぞくたちにたいする下賜かしというかたち使つかわれた。

もとでは功臣こうしんたちには毎年まいとしかなら下賜かしがあり、それ以外いがいにも臨時りんじ下賜かしがあった。この総額そうがく専売せんばいられた利益りえきの2わりにもたっするとられている。王族おうぞくたいする下賜かしは、とお西方せいほう諸王しょおうにまでくだされていたことがしられる。チンギスの時代じだいには戦争せんそうによる略奪りゃくだつをもたらす軍事ぐんじ指導しどうしゃであることをもとめられていた君主くんしゅは、もとにおいてはまずなによりとみあつめ、貴族きぞく王族おうぞくたちにさい分配ぶんぱいする能力のうりょく気前きまえもとめられる存在そんざい変化へんかしていた。皇帝こうていがわかられば、皇帝こうてい独裁どくさい政権せいけんであると同時どうじ東方とうほうさん王家おうけはじめとするモンゴル貴族きぞく連合れんごう政権せいけんでもあるもと統一とういつたもち、もと宗主そうしゅとするモンゴル帝国ていこくゆるやかな連合れんごう関係かんけいたもつためには下賜かし不可欠ふかけつ事業じぎょうであり、そのためにとみ集積しゅうせきできる経済けいざい政策せいさくをとることは必然ひつぜんだった。そして、皇室こうしつ王族おうぞく貴族きぞくはこうしてぎんをオルトクに投資とうしし、国際こくさい交易こうえきながれたぎん中国ちゅうごくへの物流ぶつりゅうとなってだい還流かんりゅうし、そこからあがる利益りえき一部いちぶしょうぜいとなってふたた皇帝こうてい手元てもともど仕組しくみとなっていた。

このように、専売せんばいせいによる歳入さいにゅうもと経済けいざい政策せいさく根幹こんかんかかわったため、密売みつばいきびしく禁止きんしされた。しかし、14世紀せいきはいると、中央ちゅうおう政治せいじ弛緩しかんしお密売みつばい紙幣しへい濫発らんぱつによる信用しんよう喪失そうしつまねき、紙幣しへい価値かち暴落ぼうらくした。この結果けっかもと金融きんゆう政策せいさく破綻はたんし、交鈔は1356ねん廃止はいしされた。

もと権利けんり授与じゅよした政商せいしょう王侯おうこう委託いたくするうみしょう以外いがい海外かいがい交易こうえき厳禁げんきんとし、わたし貿易ぼうえきたいするうみきん政策せいさく外国がいこくからの交易こうえきせん禁止きんししていない)をっていた。金銀きんぎんどうてつ貨や奴婢ぬひ武器ぶき防具ぼうぐきぬ馬匹ばひつ兵糧ひょうろうしが発覚はっかくした場合ばあいは、船主せんしゅ以下いかぼうはたき107かい船舶せんぱく積荷つみに没収ぼっしゅうばっされ、外国がいこくからの交易こうえきせんたいしても徴税ちょうぜい取引とりひきかん規制きせいされた。

船舶せんぱくまった港湾こうわんへの登録とうろく義務付ぎむづけられ、それ以外いがい都市とし停泊ていはくした場合ばあいつみわれた。また乗員じょういん厳格げんかく管理かんりおこなわれ船長せんちょうから水夫すいふいたるまで全員ぜんいん登録とうろく義務ぎむがあり、れがあった場合ばあい関係かんけいしゃ家族かぞく諸共もろともざいわれた。交易こうえきさき厳重げんじゅう管理かんりされ、申告しんこくしたくに以外いがいとの貿易ぼうえきみとめられず、大船おおぶねには官吏かんり取引とりひき内容ないようなどの監視かんしおこなわれた。

もとでは船舶せんぱくぜいとして出国しゅっこく帰国きこくさい積荷つみにの1/30を、交易こうえき許可きょかとしてほそ貨から1/10をほぼ貨から1/15を現物げんぶつ徴収ちょうしゅうした。

文化ぶんか

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宗教しゅうきょう

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元来がんらいシャーマニ信仰しんこうしてきたモンゴルは、チンギスの時代じだいより宗教しゅうきょう共存きょうぞんゆるし、いずれもひとつの天神てんじんテングリ)をまつるものとして保護ほごしてきた。

道教どうきょう仏教ぶっきょう

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中国ちゅうごく宗教しゅうきょうでもっともはじめにモンゴルの保護ほごったのはかね治下ちかまれたちょん真教まさのりはじめとする道教どうきょう教団きょうだんで、教主きょうしゅおか長春ちょうしゅんみずからがサマルカンド滞在たいざいちゅうのチンギスの宮廷きゅうていおもむき、モンゴルによる保護ほご免税めんぜいえにモンゴル皇帝こうていのためにいのることをめいぜられた。これによりちょん真教まさのりだんはチンギスの勅許ちょっきょによって華北かほく一帯いったいをはじめとするモンゴル帝国ていこくかん領土りょうどにおいて宗教しゅうきょうしょ勢力せいりょく統括とうかつする特権とっけんたため、その勢力せいりょく急速きゅうそく拡大かくだいすることになった。かねあさ首都しゅとであったちゅう(のちのだい建設けんせつされる)を拠点きょてんとして、教団きょうだんきむちょう滅亡めつぼう失職しっしょくした官吏かんり保護ほごし、さらにちょん真教まさのり系列けいれつ各地かくちみちかん漢人かんど官僚かんりょう組織そしき育成いくせい機関きかんになうようになって、これらの官吏かんりたちがモンゴル帝国ていこく支配しはいかん領土りょうどにおいて行政ぎょうせい組織そしき運営うんえいたずさわった。しかし、この急激きゅうげき教団きょうだん拡大かくだい浄土じょうどきょうけい禅宗ぜんしゅうなどの華北かほく中国ちゅうごく仏教ぶっきょう教団きょうだんとの深刻しんこく対立たいりつした。とくに、ちょん真教まさのり道士どうしたちやそれにつらなる漢人かんど官吏かんりたちが、既存きそん仏教ぶっきょう寺院じいん不法ふほう接収せっしゅうどうかんつくえたり、寺院じいん付属ふぞく荘園しょうえん没収ぼっしゅうしてわたしりょうするなどの事件じけん多発たはつしたため、仏教ぶっきょう諸派しょははモンゴル宮廷きゅうていにこの事態じたい直訴じきそする事態じたいとなった。モンケ治世ちせいカラコルムなか都合つごう3かいおこなわれたといういわゆる「道仏どうぶつろんそう」は宗教しゅうきょう問答もんどうかたちっていたが実際じっさいはこの問題もんだい詮議せんぎするため、モンケによって開催かいさいされたものであった。(カラコルムでモンケ臨席りんせきのもと開催かいさいされたときは、ルイ9せいから派遣はけんされたウィリアム・ルブルック出席しゅっせきしており、帝国ていこく内外ないがいキリスト教徒きりすときょうとイスラム教徒きょうと知識ちしきじんたちも参加さんかしていた)[22]

きょうちょう現在げんざい西安しーあん)からなかつばめきょう)に派遣はけんされたクビライのもとで開催かいさいされたとき華北かほく仏教ぶっきょう諸派しょは嘆願たんがんんでちょん真教まさのりだんはチンギス以来いらいまかされていた華北かほく宗教しゅうきょうかいにおける政治せいじ権力けんりょく剥奪はくだつされ、わりになかでの宗教しゅうきょう行政ぎょうせいそうかんであったカシュミール出身しゅっしんふつそう国師こくし(ナーモ)の後任こうにんとしてまねかれたチベット仏教ぶっきょうサキャ高僧こうそうサキャ・パンディタ、およびパスパ宗教しゅうきょうかい監督かんとくする権限けんげんあたえた[23]ちょん真教まさのりはこの「道仏どうぶつろんそう」にやぶれて勢力せいりょく一時いちじてき後退こうたいさせた。しかしながら、これは根本こんぽんてき道教どうきょう弾圧だんあつされたわけではなく、またみなみそう併合へいごうすすむと、こうかん五斗米ごとべいどう系譜けいふをひくせいいちきょう江南こうなん道教どうきょう統括とうかつしゃ地位ちいあたえられて、保護ほご拡大かくだいされた。この前後ぜんごからちょん真教まさのりのみならず少林寺しょうりんじげん中寺なかでらなどの浄土宗じょうどしゅう禅宗ぜんしゅう仏教ぶっきょうだい寺院じいんをはじめきょくなどの孔子こうしびょうなどにくわえ、チベット仏教ぶっきょうへも歴代れきだいモンゴル皇帝こうてい王族おうぞく貴族きぞくそうから多大ただい保護ほご寄進きしんける[24]

仏教ぶっきょうは、はじめに保護ほご獲得かくとくしたのは禅宗ぜんしゅうで、耶律すわえざいなど宮廷きゅうていつかえる在家ざいけ信者しんじゃつうじてモンゴルの信任しんにんけた。代表だいひょうてきそう杭州こうしゅうちゅうみねあきらほん1263ねん - 1323ねん)がいる。しかし、やがてチベット仏教ぶっきょう勢力せいりょく拡大かくだいし、モンゴル貴族きぞくあいだにチベット仏教ぶっきょうおおいにひろまる。クビライはサキャ教主きょうしゅパクパ(パスパ)にたいし、1260ねんに「国師こくし」、1269ねんに「みかど」の称号しょうごうさづけ、もと領内りょうないぜん仏教ぶっきょう教団きょうだんたいする統制とうせいけんみとめた。パクパの一族いちぞく叔父おじからおいへと継承けいしょうしたサキャ教主きょうしゅ代々だいだい国師こくしみかどとして重用じゅうようされ、専属せんぞく官庁かんちょうとして宣政のぶまさいんあたえられて、宗教しゅうきょう行政ぎょうせいとチベットの施政しせい統括とうかつした。もとだい後期こうきから末期まっきになると、これに耽溺たんできするモンゴル王侯おうこうえ、ラマ過大かだい特権とっけんあたえたり、宮廷きゅうていもって政治せいじをかえりみなくなったり、宗教しゅうきょう儀礼ぎれいのために過大かだい出費しゅっぴおこなったことはもと衰亡すいぼう要因よういんとしてふるくからよくあげられるてんのひとつである。

イスラム教いすらむきょうおよびキリスト教きりすときょう

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また、国際こくさい交易こうえき隆盛りゅうせいにともなってうみりく両方りょうほうからイスラム教いすらむきょう流入りゅうにゅうし、泉州せんしゅうなどの沿岸えんがん雲南うんなんしょうなどの内陸ないりくだい規模きぼなムスリム共同きょうどうたいがあった。現在げんざい北京ぺきんにある中国ちゅうごくでも最古さいこきゅうモスクであるうしがい清真きよざねてらはこの当時とうじちゅう都城みやこのじょうないにあり、モンゴル帝国ていこく大元おおもとウルス時代じだいおおきく敷地しきち拡大かくだいしたモスクのひとつである[25]。もうひとつのだい宗教しゅうきょうキリスト教きりすときょうで、ケレイト王国おうこくかげやま山脈さんみゃく方面ほうめんのオングト王国おうこくなどモンゴル高原こうげんのいくつかの部族ぶぞく信仰しんこうされていたネストリウスキリスト教きりすときょうもとのもとでも依然いぜんとして信者しんじゃおおく、またローマ教皇きょうこう派遣はけんした宣教師せんきょうしだい常設じょうせつ教会きょうかいひらいて布教ふきょうおこなっていた[26]れいとして、モンテ・コルヴィノは、1307ねんはつだい管区かんく大司教だいしきょうにんじられている。

儒教じゅきょう

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ところで、科挙かきょ中断ちゅうだんなどのてんをあげて、しばしばもと儒教じゅきょう排斥はいせきしたのだとわれるが、かん文化ぶんかにはじめて理解りかいしめしたとされるクビライよりはるか以前いぜんのオゴデイの時代じだいより、モンゴル帝国ていこく孔子こうし孟子もうし子孫しそん保護ほごきょく孔子こうしびょう再建さいけんなどをおこなうなど、宗教しゅうきょうとしての儒教じゅきょうはむしろ保護ほご対象たいしょうとされていたことは注意ちゅういされるべきである[27]儒者じゅしゃ排斥はいせきは、きゅうかねみなみそう知識ちしきじんそうあいだでもおおくのものかざってかえりみず党争とうそうと些末な字句じく解釈かいしゃくかかわこくほろぼした儒教じゅきょう科挙かきょ不信ふしんかんいていたこともおおきい。

なお、復活ふっかつもと科挙かきょでは、従来じゅうらい科挙かきょくらべると詩賦しふよりもけいかれており、しかもけい解釈かいしゃく朱子しゅし解釈かいしゃく正統せいとうとすることがさだめられていたことが画期的かっきてきてんとして注目ちゅうもくされる。これは、実践じっせんおもんじる朱子学しゅしがくもと時代じだいてき風潮ふうちょうなかで、儒教じゅきょう主流しゅりゅう獲得かくとくしていたことをしめしている[28]

科学かがく技術ぎじゅつ

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モンゴル・もとだいには有名ゆうめいマルコ・ポーロイブン=バットゥータのように、西方せいほうからの旅行りょこうしゃ数多かずおお中国ちゅうごくにやってきたことでられるが、それだけ交易こうえきなど様々さまざま理由りゆうもと領土りょうどとどまった無名むめい人々ひとびと非常ひじょうおおく、かれらによりいくつかの西方せいほう情報じょうほう技術ぎじゅつまれた。

たとえば、モンケ時代じだいにモンゴル宮廷きゅうてい招聘しょうへいされたイラン出身しゅっしんジャマールッディーンにより暦法れきほうまれた。1271ねんかいかい天台てんだいばれる天文台てんもんだいつくられたさい天体てんたい観測かんそく機器ききには国内こくない技術ぎじゅつ観測かんそく形態けいたい使用しようされている。クビライの側近そっきんであった中国人ちゅうごくじん学者がくしゃかくまもるけいは、かいかい天台てんだい観測かんそく結果けっかをもとにあたらしいこよみである授時れきつくり1ねんを365.243にちさだめ、このこよみあかり滅亡めつぼうまで使用しようされた。だい元朝がんちょう友好ゆうこう関係かんけいにあったイルハンあさフレグによって創設そうせつされナスィールッディーン・トゥースィーらによって運営うんえいされたマラーゲ天文台てんもんだい天体てんたい観測かんそくデーターの交換こうかん活発かっぱつおこなわれた。

12-13世紀せいき西にしアジア一帯いったい流行りゅうこうしたものどう形態けいたい投石とうせき

かいかい(ふいふい)は、本来ほんらいは「ウイグル」のおとうつしである「かい」に由来ゆらいする単語たんごであるが、「かい回教かいきょう」「回教かいきょう」とおなじくイスラム教いすらむきょう、イスラム教徒きょうとのことであり、元朝がんちょう時代じだいにおいて語源ごげんである「ウイグル」が「かしこ兀児」とおとうつされ、「かいかい」が実際じっさいにはペルシアのことをしていたように、具体ぐたいてきにはマー・ワラー・アンナフルホラーサーンなどひろ西方せいほうのイランけい人々ひとびと由来ゆらいする事物じぶつした。もとみなみそう拠点きょてんであったじょう攻略こうりゃくにあたり、イラン出身しゅっしん技術ぎじゅつしゃ招聘しょうへいし、投擲とうてき距離きょりすうひゃくメートルにたっする可動かどうしきの「マンジャニーク( منجنيق manjanīq)」(トレビュシェット)というペルシャしき投石とうせきをつくった[注釈ちゅうしゃく 3][注釈ちゅうしゃく 4]。このマンジャニークも、中国ちゅうごくではかいかいほうというられた。かね攻略こうりゃくさいしては、初期しょき作戦さくせんおさむかべ攻撃こうげきりょく欠如けつじょにより失敗しっぱいしたが、投石とうせき利用りようにより成功せいこうにいたる。

中国ちゅうごく科学かがく大家たいかであるジョゼフ・ニーダムは、すぐれた実用じつよう技術ぎじゅつ利用りようはんもと明代あきよ中国ちゅうごくにおいて科学かがく技術ぎじゅつ停滞ていたいであり、そうだいからの水準すいじゅん低下ていか天文学てんもんがく暦学れきがく数学すうがくはじめとした科学かがく分野ぶんやられると指摘してきした[29]

服飾ふくしょく

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文学ぶんがく

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もと時代じだい文学ぶんがく特筆とくひつすべきは雑劇ざつげきばれる戯曲ぎきょく作品さくひんである。漢文かんぶん唐詩とうしそうもときょくなどわれるようにこの時代じだいの「きょく」は歴代れきだいでも最高さいこうとされる。

小説しょうせつにも才能さいのうのある作者さくしゃあつまり、西遊せいゆうみず滸伝三国志さんごくし演義えんぎなどはこの時代じだい原型げんけい出来できたとされる。

このようにもとだいきょく小説しょうせつなどの娯楽ごらくせいつよ文学ぶんがく隆盛りゅうせいした理由りゆうは、もとだい科挙かきょ制度せいどによるという。それまでの中国ちゅうごくでは文学ぶんがくとは漢詩かんし歴史れきしであって、フィクションをあつかったものぞくものであり立派りっぱ人物じんぶつめるべきものではないとのかんがかたつよかったが、もとだいはいって科挙かきょ実行じっこうすう激減げきげんしたことによりしょくうしなった知識ちしきじんたちがそれまで見向みむきもしなかったきょくくようになったというわけである。

一方いっぽう漢詩かんし分野ぶんやでも、そう宗室そうしつ一人ひとりであるちょうはじめのぼる)、もとよん大家たいかわれるおそれしゅう楊載范梈掲傒斯などの名前なまえげられ、伝統でんとうてき文学ぶんがく沈滞ちんたいしたわけではない。もと後期こうきにはかん民族みんぞく色目いろめじん)の詩人しじんがあらわれ、ムスリムの進士しんし科挙かきょ合格ごうかくしゃ)である薩都剌もとだい最高さいこう漢詩かんしじん評価ひょうかする意見いけんおおい。

美術びじゅつ

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書画しょが分野ぶんやでは、文学ぶんがくでもをあげたちょうはじめ頫がもっとも有名ゆうめいである。ちょうはじめ頫の書画しょが古典こてんへの復興ふっこう目指めざしたもので、しょもとだい版本はんぽんはみなちょうはじめ頫の書体しょたいもとづくといわれ、絵画かいがきたそう以来いらいいんからだだっしてきょうばれるしん潮流ちょうりゅうひらいた。もとまつには公望きんもち倪瓚おうこうむの「もとすえよん大家たいか」がちょうはじめ頫の画風がふう発展はってんさせ、南宗画なんしゅうがとも区分くぶんされる山水さんすい技法ぎほう確立かくりつしていった。

陶磁器とうじきは、中国ちゅうごく史上しじょう最高さいこうばれるそうのものをいだが、さらにもとだいには染付そめつけなどのあざやかなしん技法ぎほう大盤おおばんなどおおきなうつわがたあらたに登場とうじょうし、そうだいまでの青磁せいじなどの静謐せいひつ簡潔かんけつおもんじる美意識びいしき対照たいしょうをなす。あおはなばれるしみづけ使つかわれているコバルト顔料がんりょう西方せいほうからの輸入ゆにゅうひんかいかいあおばれており、東西とうざい交流こうりゅうすすんだもとだい特性とくせいをよくしめしている。あかり以降いこうあおはな輸入ゆにゅう途絶とだえたために色合いろあいがもとだいとはかわってゆく。

もとだいあおはな中国ちゅうごく各地かくちもとだい遺跡いせき考古学こうこがく調査ちょうさ発掘はっくつされるじょう中国ちゅうごくから海外かいがい輸出ゆしゅつされる国際こくさい商品しょうひんとして使つかわれていたとかんがえられ、とおトルコイスタンブールオスマン帝国ていこく宮廷きゅうていトプカプ宮殿きゅうでんや、イランアルダビールサファヴィーあさ祖廟そびょうサフィーびょうだい規模きぼなコレクションがある。

歴代れきだい皇帝こうてい

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元朝がんちょう系図けいず

モンゴル帝国ていこく以前いぜんのキヤト・ボルジキン当主とうしゅ

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イェスゲイ・バアトルはクビライにより「れつ祖神そしんもと皇帝こうてい」とついおくりなされた。

元朝がんちょう以前いぜんのモンゴル帝国ていこく皇帝こうてい

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  1. ふとしチンギス・カン1206ねん - 1227ねん) イェスゲイの長男ちょうなん
  2. ふとしむねオゴデイ1229ねん - 1241ねん) チンギスの三男さんなん
  3. 定宗さだむねグユク1246ねん - 1248ねん) オゴデイの長男ちょうなん
  4. けんむねモンケ1251ねん - 1259ねん)チンギスのよんなんのトルイの長男ちょうなん
  5. クビライ1260ねん - 1271ねん) トルイのよんなんアリクブケと帝位ていいあらそ

もと皇帝こうてい

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  1. クビライ(1271ねん - 1294ねん
  2. なりむねテムル(1294ねん - 1307ねん) クビライの次男じなんチンキムひろしむね)の三男さんなん
  3. たけはじめカイシャン(1307ねん - 1311ねん) チンキムの次男じなんダルマバラじゅんむね)の。テムルのおい
  4. じんむねアユルバルワダ(1311ねん - 1320ねん) ダルマバラの次男じなんたけはじめカイシャンのおとうと
  5. えいむねシデバラ(1320ねん - 1323ねん) アユルバルワダの長男ちょうなん
  6. やすしていみかどイェスン・テムル(1323ねん - 1328ねん) チンキムのカマラ顕宗けんそう)の長男ちょうなん
  7. てんじゅんみかどアリギバ(1328ねん) イェスン・テムルの長男ちょうなん
  8. ぶんむねトク・テムル(1328ねん - 1329ねん) カイシャンの次男じなん
  9. あかりむねコシラ(1329ねん) カイシャンの長男ちょうなん。トク・テムルのあに
  10. ぶんそうトク・テムル(復位ふくい、1329ねん - 1332ねん
  11. やすしむねリンチンバル(1332ねん) コシラの次男じなん
  12. めぐみむねトゴン・テムル1333ねん - 1368ねん) コシラの長男ちょうなん。リンチンバルのあに

クビライ北元きたもと皇帝こうてい

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  1. めぐみむねトゴン・テムル(1368ねん - 1370ねん
  2. あきらむねアユルシリダラ(1370ねん - 1378ねん) トゴン・テムルの
  3. 天元てんげんみかどトグス・テムル(1378ねん - 1388ねん) アユルシリダラのおとうと

系図けいず

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キヤト・ボルジギン氏系図

もと年号ねんごう

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  1. なかみつる1260ねん - 1264ねん
  2. いたりもと(1264ねん - 1294ねん
  3. げんさだ1295ねん - 1297ねん
  4. 大徳だいとく(1297ねん - 1307ねん
  5. 至大しだい1308ねん - 1311ねん
  6. すめらぎけい1312ねん - 1313ねん
  7. のべゆう1314ねん - 1320ねん
  8. いたり1321ねん - 1323ねん
  9. たいじょう1324ねん - 1328ねん
  10. 致和(1328ねん
  11. てんじゅん(1328ねん
  12. てんれき(1328ねん - 1330ねん
  13. いたりじゅん(1330ねん - 1333ねん
  14. げんみつる(1333ねん - 1335ねん
  15. いたりもと(1335ねん - 1340ねん
  16. いたりただし1341ねん - 1368ねん

北元きたもと年号ねんごう

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  1. いたりただし(1368ねん - 1370ねん
  2. 宣光のぶみつ1371ねん - 1379ねん
  3. 天元てんげん(1379ねん - 1388ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 以下いかにあるように、クビライによって国号こくごうあらためられてから、どう王朝おうちょうでは「大元おおもと」がひとつの固有こゆうのタームとして使用しようされていたことが近年きんねん研究けんきゅうあきらかにされており、とくにモンゴル帝国ていこく時代じだいでは形容詞けいようしの「だい」が国家こっかやモンゴル王室おうしつかかわるキータームであったことが判明はんめいしている(モンゴル帝国ていこくでの「だい」の問題もんだいについては、志茂しもせきさとし『モンゴル帝国ていこく研究けんきゅう序説じょせつ』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱん、1995ねん)などにくわしい)。そのため、近年きんねんでは「もと」などでは呼称こしょうじょうからもモンゴル政権せいけんとしての実態じったいについて不正確ふせいかく認識にんしきむとして、モンゴル帝国ていこく研究けんきゅう杉山すぎやま正明まさあき代表だいひょうされる元朝がんちょう関係かんけい研究けんきゅうしゃあいだで「大元おおもとウルス」という呼称こしょうもちいる頻度ひんどえている。
  2. ^ モンゴル帝国ていこくでは、たとえばモンゴル皇帝こうてい主催しゅさいするクリルタイを「だいクリルタイ」(Yeke Qurilta ;Qūrīltāī-yiBuzurg ;だい集会しゅうかい)とんだり、チンギス・カン以降いこう歴代れきだいモンゴル皇帝こうてい墓所はかしょを「だいきん」(ghurūq-i buzurg)とぶなど、モンゴル王家おうけやモンゴル帝国ていこく国政こくせいかかわる重要じゅうよう事柄ことがらについて、中国ちゅうごくでの行政ぎょうせい用語ようごである漢文かんぶんでは「だい〜」、これと同義どうぎ支配しはい階級かいきゅうもちい、みことのりれいなどでも使用しようされるモンゴルでは "Yeke ~" 、帝国ていこく全体ぜんたい行政ぎょうせい用語ようごとしてひろもちいられたペルシアでは "~ buzurg" という表現ひょうげんし、ひとつながりの固有名詞こゆうめいしとしてもちいていた[2][3][4]
  3. ^ 「マンジャニーク( منجنيق manjanīq < pl. مناجيق manājīq )」という単語たんご自体じたい投石とうせき一般いっぱんすギリシア由来ゆらいのアラビア単語たんごであるが、12世紀せいき後半こうはんシリアにおいて十字軍じゅうじぐん諸侯しょこうとムスリムしょ政権せいけんとの戦争せんそう激化げきかし、おさむしろせんにおいて攻撃こうげきりょくたか投石とうせきトレビュシェット)が開発かいはつされた。
  4. ^ 従来じゅうらい中国ちゅうごくしき投石とうせき人力じんりき投石とうせきするものであったが、おもりのちから利用りようするマンジャニークはその3ばい程度ていど重量じゅうりょうぶつやく1.5ばい射程しゃていまでんだ。

出典しゅってん

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  1. ^ もと本紀ほんぎまきなな いたりもとはちねんじゅういちがつおつ1271ねん12月18にちじょうみことのりに、「建國けんこくごう大元おおもとぶたえきけいいぬいはじめ。」とあり、「えきけいまきいち いぬい に「彖曰、だい哉乾もと萬物ばんぶつ資始すけはる。」とある。また、「ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス」という呼称こしょうどう時代じだいてき例証れいしょうとしては、以下いかの2つのモンゴル碑文ひぶんられている。ひとつは、かつてのねつかわしょうがらすけんげん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく内モンゴル自治うちもんごるじちあかみねオンニュドはたがらす鎮)付近ふきんにあった、いたりもとよんねんがつ(1338ねん5がつ20日はつか- 6月18にち)に魯国大長おおちょう公主こうしゅの媵臣であったというたけゆたかだい(Jigüntei)の功績こうせき顕彰けんしょうするために建立こんりゅうされた"だいもとみことのりたまもの諸色しょしきじんたくみたち魯華あかちくおおやけ神道しんとう碑文ひぶん本文ほんぶん冒頭ぼうとうでは:大元おおもとみことのりたまものちゅうじゅん大夫たいふ諸色しょしきじんたくみそうかんたち魯花あかちくこういしぶみ)"で、そのいしぶみかげのウイグル文字もじモンゴル文面ぶんめんに「大元おおもと(ダイ・オン)とばれるイェケ・モンゴル・ウルス(マ字まじ表記ひょうきDai-Ön kemekü Yeke Mongγがんまol Ulus)」とある。もうひとつは、おなじく同地どうちにあった「いたりせいじゅう三年歳壬寅十月吉日立石」(いたりせい23ねん10がつ1363ねん11月6にち - 12月5にち)というねんがある、西にしやすしおう 忻都(Hindu/Indu)が建立こんりゅうした"だいもとみことのりたまものついふう西にしやすしおう忻都神道しんとう"で、やはりウイグル文字もじモンゴルで「ダイ・オン・イェケ・モンゴル・ウルス(Dai-Ön Yeke Mongγがんまol Ulus)」とある。(F. W. Cleaves "The Sino-Mongolian Inscription of 1338 in Memory of Jigüntei", Journal of Asiatic Studies, vol.14, no.1/2 Jun., 1951, pp. 1-104./F. W. Cleaves "The Sino-Mongolian Inscription of 1362 in Memory of Prince Hindu", Journal of Asiatic Studies, vol.12, no.1/2 Jun., 1949, pp. 1-113./前田まえだただしてん元朝がんちょうぎょうしょう成立せいりつ過程かてい」「元朝がんちょう研究けんきゅう」p.190(初出しょしゅつ:「元朝がんちょうぎょうしょう成立せいりつ過程かてい」『史学しがく雑誌ざっし』56へん6ごう、1945ねん6がつ)) りょう碑文ひぶんについては田村たむらみのるづくりがらすじょう附近ふきんもといしぶみさぐる」(『こうむ古学こがく』1ごう,1937ねん、p.68-82, +2 plate)がくわしい。
  2. ^ 志茂しもせきさとし「モンゴル帝国ていこく国家こっか構造こうぞう だい1しょう amīr-i buzurg」『モンゴル帝国ていこく研究けんきゅう序説じょせつ』 東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、1995ねん p.451-476
  3. ^ 志茂しもせきさとし「モンゴルとペルシア史書ししょ -- 遊牧ゆうぼく国家こっか研究けんきゅうさい検討けんとう -- 」『岩波いわなみ講座こうざ 世界せかい歴史れきし 11 中央ちゅうおうユーラシアの統合とうごう岩波書店いわなみしょてん、1997ねん p.263-268
  4. ^ 杉山すぎやま正明まさあき序章じょしょう 世界せかい時代じだい研究けんきゅう展望てんぼう」『モンゴル帝国ていこく大元おおもとウルス』p.14-16
  5. ^ a b 杉山すぎやま正明まさあき『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼうした世界せかい経営けいえい時代じだい』p. 40-43/
  6. ^ 杉山すぎやま正明まさあきだいモンゴルの世界せかい りくうみきょ大帝たいていこく角川書店かどかわしょてん角川かどかわ選書せんしょ)、1992ねん6がつ p.179-189
  7. ^ 杉山すぎやま正明まさあきだいしょう モンゴル帝国ていこく変容へんよう」『モンゴル帝国ていこく大元おおもとウルス』p.119-120
  8. ^ 杉山すぎやま正明まさあきだいモンゴルの世界せかい りくうみきょ大帝たいていこく角川書店かどかわしょてん角川かどかわ選書せんしょ)、1992ねん6がつ p.219-230
  9. ^ 松田まつだ孝一こういち「モンゴル時代じだい中国ちゅうごくにおけるイスラームの拡大かくだい」『講座こうざイスラーム世界せかい 3 世界せかいひろがるイスラーム』(板垣いたがき雄三ゆうぞう 監修かんしゅう栄光えいこう教育きょういく文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1995ねん1がつ、p.157-192/ こうとおるだい4しょう ひがしアジアのイスラム だい1せつ 元朝がんちょうのイスラム教徒きょうと」『東西とうざい文化ぶんか交流こうりゅう 4 モンゴル帝国ていこく西洋せいよう』(こうとおる へん平凡社へいぼんしゃ、1970ねん p.248-260
  10. ^ みや紀子のりこだい8しょう対策たいさく」の対策たいさく」『モンゴル時代じだい出版しゅっぱん文化ぶんか』p.380-484
  11. ^ a b 野口のぐちよしけいだい2しょう もとあかり仏教ぶっきょう」『しんアジア仏教ぶっきょう 08 中国ちゅうごくIII そう元明もとあきしん 中国ちゅうごく文化ぶんかとしての仏教ぶっきょう佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ 2010ねん9がつ
  12. ^ もとおういわおでん・アフマドでん、『ゆきろうしゅうまきじゅう、『廿にじゅうさつまき33
  13. ^ 1271ねん - 1368ねん
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  15. ^ もとひろしあらわでん
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  18. ^ 飯山いいやまとも金元かねもと時代じだい華北かほく社会しゃかい科挙かきょ制度せいど早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん早稲田大学わせだだいがく学術がくじゅつ叢書そうしょ)、2011ねん3がつ p.290-307
  19. ^ 大半たいはんは『中国ちゅうごく歴史れきし8-疾駆しっくする草原そうげん征服せいふくしゃりょう 西にしなつ きん もと』のp344からp346より引用いんよう
  20. ^ そうだい経済けいざい緒論しょろんうるし
  21. ^ 世界せかい歴史れきし大系たいけい 中国ちゅうごく 3 だいもと』、p494。ただしこれは華北かほく土地とちひろくモンゴル貴族きぞく所領しょりょうとしたためでもある
  22. ^ カルピニ、ルブルク(まもる雅夫まさお やく)『中央ちゅうおうアジア・こうむ旅行りょこう』(東西とうざい交渉こうしょう旅行りょこう全集ぜんしゅう 1)桃源とうげんしゃ、1965ねんp.263-274
  23. ^ 中村なかむらあつし「モンゴル時代じだいの「道仏どうぶつろんそう」の実像じつぞう--クビライの中国ちゅうごく支配しはいへのみち」『東洋とうようがくほう』Vol.75, No.3・4 (1994/03) pp.229〜259.
  24. ^ 野口のぐちよしけいだい2しょう もとあかり仏教ぶっきょう」『しんアジア仏教ぶっきょう 08 中国ちゅうごくIII そう元明もとあきしん 中国ちゅうごく文化ぶんかとしての仏教ぶっきょう佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ 2010ねん9がつ
  25. ^ 松田まつだ孝一こういち「モンゴル時代じだい中国ちゅうごくにおけるイスラームの拡大かくだい」『(講座こうざイスラーム世界せかい 3 )世界せかいひろがるイスラーム』(堀川ほりかわとおる へん栄光えいこう教育きょういく文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1995ねん、p.157-192
  26. ^ 佐伯さえき好郎よしろうもと時代じだいささえ基督教きりすときょうささえ基督教きりすときょう研究けんきゅう だい2かん)』名著めいちょ普及ふきゅうかい、1979ねん初版しょはん春秋しゅんじゅうしゃ松柏しょうはくかん、1943ねん
  27. ^ 高橋たかはし文治ぶんじふとしそうオゴデイ癸巳きしねん皇帝こうてい聖旨せいし訳註やくちゅう」『追手門学院大学おうてもんがくいんだいがく文学部ぶんがくぶ紀要きよう 』25ごう、1991ねん、p.422-405 ;森田もりた憲司けんじきょく地域ちいきもと代石たいしこくぐんをめぐって」『奈良なら史学しがく』19ごう、2001ねん12月 ;みや紀子のりこだい5しょう 大徳だいとくじゅういちねんふう孔子こうしせい』をめぐって」「だい6しょうびょうがく典礼てんれい』箚記」『モンゴル時代じだい出版しゅっぱん文化ぶんか名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2006ねん
  28. ^ みや紀子のりこだい2しょう てい鎮孫と『じきせつどおりりゃく』」「だい8しょう対策たいさく」の対策たいさく」『モンゴル時代じだい出版しゅっぱん文化ぶんか名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2006ねん
  29. ^ 中国ちゅうごく科学かがく文明ぶんめい』4・5・7、ジョゼフ・ニーダム

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 愛宕あたご松男まつお寺田てらだ隆信たかのぶもとあきら講談社こうだんしゃ、1974ねん
  • 岡田おかだ英弘ひでひろ 『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼう筑摩書房ちくましょぼうちくま新書しんしょ〉2001ねん
  • 小松こまつ久男ひさおへん中央ちゅうおうユーラシア山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2000ねん
  • 斯波しば義信よしのぶほかへん世界せかい歴史れきし大系たいけい 中国ちゅうごく 3 だいもと山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき 『クビライの挑戦ちょうせん モンゴル海上かいじょう帝国ていこくへのみち朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日あさひ選書せんしょ〉1995ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき 『モンゴル帝国ていこく歴史れきしぜん2かん講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉1996ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき遊牧民ゆうぼくみんからの世界せかい 民族みんぞく国境こっきょうもこえて』 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1997ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき 『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼううえ軍事ぐんじ拡大かくだい時代じだい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉1996ねん5がつISBN 4-06-149306-X
  • 杉山すぎやま正明まさあき 『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼうした世界せかい経営けいえい時代じだい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉1996ねん6がつISBN 4-06-149307-8
  • 杉山すぎやま正明まさあき 『モンゴル帝国ていこく大元おおもとウルス』 京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2004ねん2がつISBN 4-87698-522-7
  • 杉山すぎやま正明まさあき中国ちゅうごく歴史れきし8-疾駆しっくする草原そうげん征服せいふくしゃりょう 西にしなつ きん もと講談社こうだんしゃ、2005ねん
  • 宮脇みやわき淳子じゅんこ 『モンゴルの歴史れきし 遊牧民ゆうぼくみん誕生たんじょうからモンゴルこくまで』 かたなすい書房しょぼう、2002ねん
  • みや紀子のりこ 『モンゴル時代じだい出版しゅっぱん文化ぶんか名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2006ねん

関連かんれん項目こうもく

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そう
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大元おおもと
モンゴル帝国ていこく
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